葉向高
葉向高、字は進卿、福清の人である。父は朝榮、養利知州であった。向高がまだ母の胎内にあった時、母は倭寇の難を避け、道端の壊れた厠の中で生んだ。幾度も死に瀕したが、その度に神が助けた。萬曆十一年の進士に挙げられ、庶吉士に授けられ、編修に進んだ。南京國子司業に遷り、左中允に改められ、なお司業の職務を管掌した。二十六年、召されて左庶子となり、皇長子の侍班官を充てた。鉱税が横行したので、向高は上疏し、東漢の西邸で銭を集めた故事を引き合いに出して鑑戒としたが、回答がなかった。まもなく南京禮部右侍郎に抜擢された。久しくして、吏部に改められた。再び鉱税の害を陳述し、また遼東の税監高淮を罷免するよう請うたが、言葉はいずれも切実であった。妖書の獄が起こると、沈一貫に手紙を送って強く諫めた。一貫は喜ばず、このため南京に九年間滞留した。後に一貫が罷免され、沈鯉も去り、朱賡が単独で国政を執った。帝は閣臣を増員するよう命じた。三十五年五月、向高を礼部尚書兼東閣大学士に抜擢し、王錫爵、于慎行、李廷機とともに任命された。十一月、向高が入朝した時、慎行はすでに先に死去し、錫爵は固辞して出仕しなかった。翌年、首輔の賡も死去し、次輔の廷機は人言のために長く門を閉ざしていたので、向高は遂に単独で宰相となった。
この時、帝は在位日久しく、政務に倦み、朝政は多く廃れ弛み、高官の役所が空になることもあり、士大夫の推挙選抜や転任の命令はしばしば下されず、上下の隔たりが甚だしかった。廷臣の党派の勢力は次第に形成され、宦官が税を徴収し、鉱山を開くことは、大いに民の害となった。帝はまた鄭貴妃を寵愛し、福王は封国に行こうとしなかった。向高は宿望をもって相位にあり、国を憂え公に奉じ、何事にも執って争い忠誠を尽くした。帝は心の中で向高を重んじ、礼遇は厚かったが、その言うところは大抵用いられず、救い正したのは十二三に過ぎなかった。東宮の講義が止んで五年になり、廷臣がたびたび請うても命が下されなかった。三十七年二月、向高が吉日を選んで請うたが、これも回答がなかった。この後、毎年春秋に必ず懇請したが、帝はいずれも聞き入れなかった。貴妃王氏は太子の生母であったが、薨去して四日経っても喪を発しなかった。向高が言上したので、ようやく喪を発した。しかし礼官がその儀式の手順を上奏すると、五日間滞留して行われなかった。向高が再び争ったので、上疏がようやく下された。福王の邸宅が完成すると、工部が封国行きを請うたので、向高が詔書の草案を擬して上奏した。帝は発布せず、来春に改めるといった。期日が迫ると、向高が先に儀仗や車船を整備するよう請うたが、帝は聞き入れなかった。四十一年春、廷臣が相次いで上章して請うたので、また来春に改めるよう諭した。その後、突然詔旨が伝わり、荘田が四万頃なければ封国に行かせないといい、廷臣は大いに驚いた。向高はこれに乗じて進言した。「田四万頃は必ずや満たすことができず、封国行きは期日がなくなり、明の詔旨はまた天下に信を失うでしょう。かつ王の上疏は祖制を引き合いに出していますが、祖制にこのような事はありません。かつて世宗の時に景王がこれを有しただけです。景王は長く封国に行かず、皇考(神宗の父、穆宗)が裕邸におられた時、危険で疑わしく不安でした。これをどうして模倣できましょうか。」帝は答えて言った。「荘田には成例がある。かつ今、大義名分はすでに定まっている。何を猜疑するのか。」向高はこれにより上疏して謝罪し、言った。「皇考の時、名位はまだ正されていませんでしたが、しかし講読は絶えず、情意は通じていました。今、東宮の講義は八年も止み、かつ天顔を拝すること久しくありません。しかし福王は一日に二度もお目にかかっています。この故に疑いを抱かざるを得ないのです。ひたすら来春の期日を堅守し、荘田を口実にしないならば、天下の疑いは自然に解けるでしょう。」帝は、福王が一日に二度お目にかかったことはないと答えた。
向高には裁断力があり、大事を処理するのに長けていた。錦衣百戸の王曰乾という者は、京師の奸人で、孔学、趙宗舜、趙思聖らと互いに告訴し合った。刑官が審理を終えないうちに、曰乾は皇城に入って砲を放ち上疏した。刑官は大いに驚き、曰乾を死罪に擬しようとした。曰乾はそこで鄭妃の内侍姜厳山が孔学らおよび妖人王三詔とともに厭勝の術を用いて皇太后、皇太子を呪い殺し、福王を擁立しようとしていると告発した。帝は震怒し、殿中を半日歩き回り、「これは大変な事だ。宰相はなぜ何も言わないのか」と言った。内侍がすぐに跪いて向高の上奏文を捧げた。上奏文にはこうあった。「この事は往年の妖書の類いに似ています。しかし妖書は匿名で詰問し難いものでした。今は原告・被告双方が揃っており、一度訊問すればすぐに実情が得られます。陛下は静かにこれを処理されるべきです。少しでも慌てふためけば、朝廷内外は大いに騒ぎます。その言葉が貴妃、福王に及んでいることは、特に痛恨に堪えません。臣と九卿の見解は皆同じです。敢えてお聞かせします。」帝は読み終えて嘆息し、「我が父子兄弟は全うされた」と言った。翌日、向高はまた言った。「曰乾の上疏は発布すべきではありません。発布すれば、上は聖母(皇太后)を驚かせ、下は東宮を驚かせ、貴妃、福王も皆不安になります。留中すべきであり、別に法司に諭して諸奸人の罪を治めさせ、かつ来春の封国行きの期日を速やかに定め、群衆の口を鎮めてしまえば、天下は平穏無事となります。」帝はその言葉をすべて用い、太子、福王は互いに安泰でいられた。貴妃は終始福王の封国行きを望まず、来年冬に太后の七十の寿があるから、王は留まって慶賀すべきだと言った。帝は内閣に宣諭させた。向高は上諭を留めて発布せず、今冬に予め慶寿の礼を行い、期日通りに封国に行くよう請うた。帝は中使を向高の私邸に遣わし、必ず以前の諭旨を下すよう求めた。向高は言った。「外廷では、陛下が賀寿の名目を借りて福王を留めようとしていると喧伝し、約千人が宮門に伏して請願しようとしています。今、果たしてこの諭旨があれば、人々の疑いはますます深まり、王曰乾の妖言を信じ、朝廷は必ずや静かではいられません。聖母がこれを聞かれても、必ずや喜ばれません。かつ潞王は聖母の愛子ですが、やはり外藩におられます。どうして福王だけをひたすら思いやる必要がありましょうか。」そこで手諭を封じて返還した。帝は已むなくこれに従い、福王はようやく封国に行った。
初めに、向高が内閣に入った。間もなく、人材登用と財政の策を述べ、欠員の補充と鉱税の廃止を強く請うた。帝が従わないのを見て、上下の乖離の弊を陳述した。二度上疏して罷免を乞うたが、帝は許さなかった。向高は単独の宰相となってから、直ちに閣臣の増員を請うたが、帝は聞き入れなかった。吏部尚書孫丕揚が賢者を推薦しても用いられないことを理由に辞任を求めた時、向高は特に上疏して留任を請うたが、これも返答がなく、そこで病気を理由に辞任した。度々諭され、ようやく出仕して政務を執った。その後、また言うには、「臣は度々辞任を求め、恩詔により留任を蒙ってきた。しかし臣が憂うるは一身の去就ではなく、国家の治乱である。今、天下至る所に災害と死亡があり、畿輔・中州・齊魯では流民が道に満ち、加えて朝廷内外が空虚で、人材も尽きている。罪は他人に在らず、臣はどうして去らぬことができようか。かつ陛下が臣を用いるなら、その言を行わねばならない。今、章奏は発出されず、高官は補充されず、廃官の起用も行われない。臣の微衷が上達できず、留まって何の益があろうか。誠に臣の言を用いるなら、ただ臣の身を繋ぎ止めるだけでなく、臣が露の如く先に消え去っても、余りある幸せである。」帝は省みなかった。京師に大水があり、四方から水害旱魃の奏上が多かった。向高はまた言うには、「閣臣から九卿・臺省に至るまで、官署は皆空であり、南京の九卿もわずか二つを残すのみである。天下の方面の大官は、去秋から今に至るまで、一人も任用されていない。陛下は万事を処理せず、天下が永くこのようであると思っておられるが、臣は禍端が一旦発すれば、収拾がつかぬことを恐れる。」帝もまた省みなかった。四十年春、向高は歴代帝王で在位四十年以上の者は、三代から今に至るまでわずか十君であることを挙げ、帝に新政の励行を勧めた。そこでまた人材登用と行政について請うたが、これも返答がなかった。向高は志が行われぬことを知り、月毎に辞任を求めずといえず、帝は常に優れた詔で慰留した。向高はまた言うには、「臣の進退は問わなくともよいが、百官は必ずしも皆空であってはならず、臺諫は必ずしも皆廃されてはならず、諸方の巡按は必ず交代させねばならない。朝廷内外は離心し、輦轂の肘腋の間に怨嗟の声が満ち、禍の機は測りがたい。しかるに陛下は臣下と隔絶することに務め、帷幄の臣は忠を尽くすことができず、六曹はその職務を挙行できず、天下に一人として信ずべき者なく、自ら神明の妙用と為しておられる。臣は恐れるが、古来の聖帝明王にこのような法はなかった。」
向高が宰相の位にあっては、群情を調和し、異同を融和させることに務めた。しかしその時、党論が既に大いに起こり、御史鄭継芳が給事中王元翰を激しく攻撃し、両者を支持する者が相争った。向高は諸々の上疏を全て下部に回し、部院に曲直を評させ、議論を顛倒させた者一二人を罪して、その余を戒めさせるよう請うたが、帝は返答しなかった。諸臣は得失を見る所なく、ますます党派を立てて相攻撃した。間もなく、また李三才の事を争い、党派の勢力が成った。無錫の顧憲成が家に居て、東林書院で講学し、朝士は争って慕い交遊した。三才が攻撃されると、憲成は向高及び尚書孫丕揚に書を送り、その賢を弁護した。時に辛亥の京察があり、三才を攻撃した劉国縉が他の過失で察典に掛かり、喬応甲も年例により外任に出され、その党は大いに騒いだ。向高が大勢を以てこれを支え、察典が乱されることはなかったが、両党の争いは遂に解けなくなった。後に至り、斉・楚・浙の党人が東林を攻撃して殆ど尽くした。天啓の時に及んで、王紹徽らが所謂『東林点将録』を撰び、魏忠賢に氏名に従って朝士を逐わせた。向高がかつて東林を支持したため、党の首領と目されたのである。
熹宗の初政は、群賢が朝廷に満ち、天下は治世を欣び望んだ。しかし帝はそもそも幼年で、忠佞を弁えることができなかった。魏忠賢・客氏が次第に威福を窃み、太監王安を陥れて殺し、順に吏部尚書周嘉謨や言官倪思輝らを追放した。大学士劉一燝もまた強く辞任を求めた。向高は言うには、「客氏が出てまた入り、一燝は顧命の大臣でありながら保姆に比べられず、人をして奥穾の不可知の地で揣摩せしめるに至った。その兆しを防がねばならない。」忠賢は向高の上疏が己を刺したのを見て、甚だ恨んだ。やがて刑部尚書王紀が官籍を削られ、礼部尚書孫慎行・都御史鄒元標が先後に攻撃されて致仕した。向高は争っても得られず、そこで元標と共に罷免されることを請うた。帝は聞き入れず、忠賢はますます向高を恨んだ。
向高は人となり光明正大で忠厚、徳量があり、善類を扶植することを好んだ。再び宰相となり、幼い君主に仕えて、神宗の時の如く謇直ではなかったが、なお数々の匡救を行った。給事中章允儒が上供の袍服を減らすよう請うた。宦官が帝の怒りを煽り、廷杖に処するよう命じた。向高が二度にわたり救済を論じ、ついに俸給を一年分奪うにとどめた。御史帥衆が宮禁を指弾した。宦官が帝に外任させるよう請うたが、向高の救済により免れた。給事中傅櫆が王紀を救い、貶謫されようとしたが、これも向高の言葉により俸給を奪うのみで済んだ。紀が罷免された後、御史呉甡・王祚昌が彼を推薦し、部議は旧官に召還しようとした。忠賢は怒り、文選郎を重く譴責しようとしたが、向高が救って免れた。給事中陳良訓が上疏して権閹を諷刺した。忠賢はその疏中の「国運将終」の語を摘出し、詔獄に下して主使者を窮治するよう命じた。向高が去就をかけて争い、ついに俸給を奪うのみで止んだ。熊廷弼・王化貞が死罪と論ぜられ、言官が帝に速やかな決断を勧めた。向高は法司の覆奏を待つよう請い、帝はこれに従った。天下の布政司・府・州・県の庫蔵をことごとく京師に輸送するよう請う者があった。向高は言った、「郡邑の蔵はすでに尽き、藩庫にわずかに余りがあるのみである。もしこれをことごとく徴発すれば、山東の白蓮教の乱のような事態が突然起こったとき、どうしてこれに対処できようか」と。帝はいずれも採用しなかった。
忠賢はすでにひそかに向高を恨んでいたが、その時朝士で忠賢に抗する者はみな向高を頼りにしていた。忠賢はしばしば些細な過失をあげつらい、向高を責めて困らせた。向高はたびたび去職を求めた。四年四月、給事中傅櫆が左光斗・魏大中が汪文言と交わり、権勢を招き賄賂を受け取ったと弾劾し、文言を詔獄に下すよう命じた。向高は言った、「文言は内閣で事務を執り、実は臣が具題したものである。光斗らが文言と交わる事は曖昧であるが、臣が文言を用いたことは明らかである。陛下にはただ臣を罪せられ、他の者を少し寛大にされ、縉紳の禍を消し去られますよう」と。そこで速やかに罷免されるよう強く求めた。この時、忠賢は大いに意を逞しくしようと欲していたが、衆正が朝廷に満ちているのを憚り、隙をうかがって動こうとしていた。櫆の上疏を得て大いに喜び、これに乗じて東林を羅織しようとしたが、終に旧臣である向高を憚り、光斗らをも罪せず、ただ文言のみを罪した。しかし東林の禍はここから始まった。
六月に至り、楊漣が上疏して忠賢の二十四大罪を弾劾した。向高は事が決裂するであろうと考え、深く非とした。廷臣が相次いで抗議の上疏を数十通も行い、ある者は向高にこの事を下して決勝させよと勧めた。向高は忠賢を除くのは容易でないと考え、閣臣が中から挽回すれば、なお大禍がないことを望んだ。そこで上奏して忠賢の勤労を称え、朝廷の寵待が厚く、盛満は居るに難く、事権を解き、私第に帰るのを聴き、終始を保全すべきであると述べた。忠賢は喜ばず、帝の旨を偽って己の功労を述べ、百余言に及んだ。向高は驚いて言った、「これは宦官のできることではなく、必ず代わって草稿を作る者がいる」と。探ると、それは徐大化であった。忠賢は憤ったが、なお外廷の勢いが盛んなのを憚り、害を加えることを敢えなかった。その党に大獄を起こすよう導く者があり、忠賢の意は遂に決した。ここにおいて工部郎中万燝が忠賢を弾劾して廷杖に処せられ、向高が力強く救ったが従わず、杖の下で死んだ。まもなく、御史林汝翥もまた宦官に逆らって廷杖を命ぜられた。汝翥は恐れ、遵化巡撫の所に逃げ込んだ。ある者が汝翥は向高の甥であると言い、群閹がその邸を囲んで大いに騒いだ。向高は時事が為すべからざるものとし、帰郷を乞うことすでに二十余疏に及び、ここに至ってますます強く請うた。そこで太傅を加えることを命じ、行人を遣わして護送して帰らせ、賜わるものは彝典より増加した。まもなく太傅を辞するのを聴き、有司に月に米五石、輿夫八人を給することを命じた。
向高が罷免されて去ると、韓爌・朱国禎が相次いで首輔となったが、久しくなくして皆罷免された。政府に居る者は皆小人であり、清流は依るべきところがなかった。忠賢はまず楊漣を誣殺し、左光斗らを次々に殺戮辱め、異己の朝士を貶削し、善類は一空となったという。熹宗が崩じ、向高もまたその月に卒し、年六十九であった。崇禎初年、太師を贈られ、文忠と諡された。
劉一燝
劉一燝、字は季晦、南昌の人。父は曰材、嘉靖年間の進士、陝西左布政使。万暦十六年、一燝は兄の一焜・一煜とともに郷試に合格した。七年を経て、また一煜とともに進士に合格した。庶吉士に改められ、検討を授けられた。
一焜は考功郎となり、京察を掌った。大学士沈一貫はその私人である銭夢臯・鐘兆斗らを庇おうと欲し、一燝に請うよう依頼した。一燝は断ってできぬとし、夢臯らはついに中旨によって留任し、これによって一貫の意に逆らった。まもなく祭酒、詹事を歴任し、翰林院事を掌った。四十五年春、京察が行われ、党人が権力を握り、孫承宗・繆昌期らを追い出そうと謀ったが、一燝が力強く保持して免れた。故事によれば、掌院は満一年を経ずして遷らない者はないが、一燝は四年居て、ようやく礼部右侍郎に遷り、庶吉士を教習した。光宗が即位すると、礼部尚書兼東閣大学士に抜擢され、機務に参与し、何宗彦・韓爌とともに任命された。当時内閣には方従哲ただ一人のみであった。
万暦末年、神宗は史継偕・沈纮を用いようとした。両人はちょうど在籍中であり、帝は召すよう命じた。未だ到らぬうちに、帝はまた宗彦・一燝・爌を命じた。明日、また朱国祚および旧輔の葉向高を命じた。しかし宗彦・国祚・向高もまた皆在籍中であり、ただ一燝・爌のみが入直した。拝命したばかりで、帝はすでに病を得、一燝は諸臣とともに乾清宮に召見された。明日九月朔、帝は崩じた。諸臣が拝哭を終え、一燝が群閹を詰問した、「皇長子は柩前で即位すべきであるのに、今ここにいないのはなぜか」と。群閹は東西に走り、答えなかった。東宮伴読の王安が進み出て言った、「李選侍に匿われているのです」と。一燝は大声で言った、「誰が敢えて新天子を匿おうか」と。安は言った、「落ち着いてください、公らは慎んで退かないでください」と。そこで急いで入って選侍に告げた。選侍はうなずいたが、また中で悔い、皇長子の裾を引き止めた。安が直前に進んで抱擁し、疾走して出た。一燝はこれを見て、急いで前に進み万歳を呼び、皇長子の左手を捧げ、英国公張惟賢が右手を捧げ、輦に昇るのを助けた。門に及んだとき、宮中から厳しい声で呼ぶのがあった、「哥児は戻れ!」と。使者を追わせる者が三度あった。一燝は輦の傍らを疾走し、文華殿に昇るのを助け、まず東宮の位に即かせ、群臣が叩頭して万歳を呼んだ。
事がやや定まると、選侍はなお乾清宮に戻ろうとした。当時選侍は乾清宮に居た。一燝は言った、「乾清宮には居られません、殿下は暫く慈慶宮に居られるべきです」と。皇長子は心の中で選侍を恐れたが、これを認めた。一燝は安に言った、「主上は幼年で、母后がいません。外廷に事があれば、私が過ちを受けます。宮中の起居については、公らはその責めを辞することはできません」と。明日、周嘉謨および左光斗が上疏して移宮を請うた。当時首輔の従哲はその間で躊躇し、やがてまた移宮を緩めようとした。一燝は言った、「本朝の故事では、仁聖(嫡母)は慈慶宮に移り、慈聖(生母)は慈寧宮に移りました。今は何の日であり、どうして暫く緩めることができましょうか」と。五日、同官とともに即日詔を降すよう請い、宮門に佇立して待った。選侍は已むなく、噦鸞宮に移り、天子は再び乾清宮に還り、事はようやく大いに定まった。帝が践祚すると、従哲は弾劾されて告暇中であり、一燝はついに国政を担当し、爌と相得て甚だ歓んだ。内廷ではただ王安のみが新天子を力強く衛護しているのを思い、そこで彼を引き入れて共に事に当たらせた。安もまた心を傾けてこれに従った。奏請することは、従わないことはなかった。内帑を発し、近侍を抑え、遺逸を捜し、旧徳宿歯が九列に満ち、中外は欣欣として治世を望んだ。
翌年、天啓と改元し、瀋陽が陥落した。朝廷の臣僚は多く熊廷弼の再起用を請うた。一燝もまた言上した、「廷弼が遼東を守った一年間、荒廃した辺境は平穏でありました。何故罷免されたのか分かりません。廷議に下した後も、皆が畏れて、異論を唱えようとしませんでした。今後は軍国大事について、陛下は断固としてご裁断なさり、諸臣に心を洗い慮りを清めて、付和雷同を悉く打破させ、国を憂い公に奉ずるようにすべきです」。帝は優れた詔勅で褒めて答えた。まもなく詔があり、以前に廷弼を排斥した姚宗文らの官をことごとく貶めた。言路(諫官)は多く一燝を怨んだ。一燝はかつて言った、「天下の事を任ずるのは、六官(六部の長官)のみである。言路が勢いを張れば、六官は実政を行えなくなる。天下をよく治める者は、六官に事を任せ、言路にその過ちを正させ、言官が事を陳べれば、政府(内閣)がその是非を裁断するようにすれば、天下は治まる」。これにより一切の条奏は悉く部(六部)に下して議させ、道理に合わないものは、詔で留め置かれた。
初め、選侍が宮を移そうとした時、その宦官の李進忠・劉朝・田詔らが内府の秘蔵品を盗み、乾清門を通り過ぎて転び、金宝が地面に落ちた。帝は怒り、悉く法司に下し、取り調べを急がせた。宦官たちは恐れ、流言をでっち上げ、帝が先朝の妃嬪を軽んじたため、選侍が移宮した日に、裸足で井戸に飛び込んだと言い、外廷を動揺させようとした。御史の賈継春はそこで選侍を慰める上書をした。刑部尚書の黄克纘・給事中の李春曄・御史の王業浩らがその言葉を誇張し、盗みを働いた宦官の罪を逃れさせようとした。帝は継春の妄言を憎み、かつその徒党を疑い、厳しく譴責しようとした。一燝は、天子が新たに即位したばかりで、すぐに臣下の朋党を疑えば、いずれ奸人が隙に乗じて、士大夫は必ずその禍を受けるだろうと言った。そこで上疏して帝の意を和らげ、継春を弁護し、繰り返し朋党の実体がないことを述べた。継春は官籍削除の処分で去った。御史の張慎言・高弘図が上疏して継春を救おうとしたが、帝は併せて罪にしようとし、これも一燝の言葉で止まった。帝は選侍をひどく恨み、必ず盗みを働いた宦官を誅殺しようとした。王安が司礼監にいたが、彼らを憎んでいた。諸宦官はあらゆる手を尽くして救おうとしたが、ついに果たせなかった。時が経ち帝が次第に前の事を忘れると、王安もまた魏忠賢に排斥されて死に、諸宦官は忠賢に多額の賄賂を贈って地歩を築き、上疏して冤罪を弁明した。帝は果たして劉朝・田詔の死罪を免じ、その上疏を法司に下した。一燝は執奏し、田詔らの誅殺が議決されて久しく、雪ぐべき点はなく、上疏が直接部に下されるのは、以前にこの制度はないと述べた。帝はやむなく、その上疏を内閣に下した。一燝はまた言った、「この上疏は外では通政司を経由せず、内では会極門を経由しておらず、例によって旨を擬すべきではなく、謹んで原疏を封じて返上します」。これにより忠賢らは大いに恨み、劉朝らもついに死罪を免れ、ますます任用された。
定陵の工事が完成し、忠賢はこれを自分の功績にしようとした。一燝は故事を引き合いに出し、内臣で司礼監掌印及び陵工提督でない者は濫りに恩蔭を受けることはできず、恩典三等の加増にとどめるよう擬した。客氏を論じて貶謫された諸言官を、一燝は皆上疏して救い、また客氏を外に出すよう請うた。言官が相次いで上章して沈纮を論劾すると、纮は一燝が主導していると疑い、忠賢・客氏らと結託して、一燝を齮齕した。一燝は大綱を堅持し、言路の意に従わなかった。言路はかなり怨んだ。また密かに魏忠賢・客氏らが次第に権勢を振るい、一燝が孤立しているのを窺い、この年四月、候補御史の劉重慶は遂に力を込めて一燝が任用に堪えないと誹謗した。帝は怒って重慶を貶した。一燝は再び論じて救ったが、聞き入れられなかった。そして職方郎中の余大成・御史の安伸・給事中の韋蕃・霍維華が相次いで上章して一燝を弾劾した。帝は問わなかった。まもなく維華が外転すると、その同官の孫傑は一燝が嘉謨に依頼してそうさせたと疑い、上疏して力を込めて一燝を攻撃した。一燝は上疏して弁明し罷免を求めた。帝はすでに慰留したが、給事中の侯震旸・御史の陳九疇がまた彼を弾劾し、併せて王安と結託していることを諷刺した。ここにおいて一燝は四度上疏して帰郷を乞い、忠賢が内で主導し、詔旨を伝えてその去任を許した。
兄に一焜・一煜がいる。
一焜、字は元丙。万暦二十年の進士。行人に授けられた。考功郎中を歴任し、侍郎の楊時喬を補佐して京察を主管し、執政の私的な者をことごとく排斥した。後に文選に改め、太常少卿に遷り、憂いにより去った。久しくして、元の官から右僉都御史に抜擢され、浙江を巡撫した。帝は宦官の曹奉を遣わし、普陀山に鎮海寺を建立させた。一焜は巡按の李邦華と共に争って不可とし、聞き入れられなかった。織造の宦官劉成が卒すると、一焜はたびたび上疏して後任を派遣しないよう請うた。すでに許可を得たが、ちょうど宦官の呂貴に劉成の遺品を護送させようと命じたところ、奸人が遂に貴を留めて織造を監督させるよう請い、上疏が直接禁中に達した。一焜は邦華と共に極力その罪を論じ、帝はついに貴を後任に命じた。一焜はまた上疏して争ったが、回答がなかった。貴が就任すると、十条の事柄を条陳して施行し、多くは侵擾であった。一焜は上疏して反駁し、かつその手下を取り締まると、貴は威を収めた。一焜は暇を見て龕山の海塘千二百丈を築き、余杭の南湖を浚渫して復旧し、民はその利益を頼った。御史の沈珣がその贓私を誣告して弾劾すると、一焜は自ら引退した。卒し、工部右侍郎を追贈された。
一煜は、兵部郎中であった。
韓爌
韓爌、字は象雲、蒲州の人。万暦二十年の進士。庶吉士に選ばれた。編修に進み、少詹事を歴任し、東宮講官を充任した。四十五年、礼部右侍郎に抜擢され、詹事府を協理した。久しくして、庶吉士の教習を命じられた。
先帝は去年八月朔日に践祚された。臣及び一燝は二十四日に内閣に入った。ちょうど鴻臚寺官李可灼が仙丹があると進上したいと言った。従哲は愕然とし、用意していた問安の掲帖を取り出し、「薬を進めるのは十分に慎むべき」との言葉があった。臣等は深くもっともだと思い、すぐにこれを諭して退かせた。二十七日に群臣を召見され、先帝は自ら薬を用いないこと二十余日と仰せられた。二十九日に二人の内臣に会い、帝の病状がすでに大漸したと聞き、鴻臚寺官李可灼が思善門に来て薬を進めようとしていると言った。従哲及び臣等は皆、彼が仙丹と称するので信じるに堪えないと言った。この日もなお召見があった。諸臣が問安を終えると、先帝はすぐに皇上を顧み、臣等に輔佐して堯・舜のようになるよう命じられた。また寿宮について話され、臣等が先帝の山陵の封について申し上げると、「これが朕の寿宮である」と言われた。そこで鴻臚官が薬を進めるとの話があり、従哲が奏上して「李可灼は自ら仙丹と称しますが、臣等は未だ信じるに足りません」と言った。先帝はすぐに宣伝を命じられた。臣等が出ると、しばらくして可灼が到着し、共に入って診視し、病源と治法について甚だ合致すると言った。先帝は喜び、速やかに進めるよう命じられた。臣等は再び退出し、諸医と相談させた。一燝が臣に言うには、その郷里の二人がこれを用いて、損益半ばであったという。諸臣は互いに顔を見合わせ、実際に宜しいか否かを明言することはできなかった。しばらくして、先帝は薬を調合するよう急がせ、臣等は再び共に入った。可灼が調合して進上すると、先帝は喜んで「忠臣、忠臣」と言われた。臣等が退出すると、しばらくして、中使が伝えるには、聖体は服薬後暖かく潤い舒暢で、飲膳を進めたいと思われ、諸臣は歓躍して退いた。申の末刻頃、可灼が出て来て言うには、「聖上は薬力が続かないのを恐れ、もう一丸進めたいと思われる」と。諸医は急ぐべきでないと言った。しかし伝達が益々急を告げたため、ついに再進上を終えた。臣等が再服後の様子を尋ねると、平善で初めのようだと答えた。これがこの日の情事である。翌日、臣等が朝廷に急いだ時、先帝はすでに卯の刻に上賓されていた。痛ましいことよ。
先帝が群臣を召見された時、袞衣をまとって机により、厳然として顧命された。皇上は焦がれるような顔で側に侍し、臣等は周りに跪いて彷徨し、薬を手に前に進み、天に呼びかけて祈った。臣子がこの際に臨んで、身代わりになれないことを憾んだ。今いわゆる慎むべき、止めるべきというのは、心の中で慮らなかったわけではなく、実際に口に出さなかっただけで、また心に芽生えさせもしなかったのである。先帝の臨御はわずか旬月に止まったが、恩沢は実に九垓に及んだ。臣子たる者はどのように頌揚し、どのように記述すべきか。礼臣の忠憤の激しい談論と、遠近の驚疑の紛糾した議論は、当時どのような情景であったかを知らず、薬を進めた始末は実にただこのようであった。もし実情に基づいて詳しく分析せず、非命の凶称を挙げて、考終の令主に加えるならば、先帝の在天の霊が痛恨怨むことがないとは言えず、皇上の終天の念はどうして懐に抱くことができようか。綸音を発布して、中外に布告し、法を議する者に小疑を以て大疑となさしめず、史を編む者に信史を以て謗史となさしめないよう乞う。
故事により、閣中の秉筆は首輔一人に止まる。広微はその権柄を分かちたいと思い、忠賢に旨を伝えるよう嘱し、爌に同寅協恭を諭し、次輔を責めて伴食するなとさせた。爌は惶懼し、すぐに抗疏して休暇を乞うた。おおよそ言うには、「臣が綸扉に備位し、咎愆は日々積もります。例えば戎を詰めるにはまず営衛を先にすべきなのに、兵を観ること禁掖にあり、宵旰の憂いを紓ぐことができません。忠直な者を尚お召還することが遅れ、朝堂で榜掠し、震霆の怒りを回らすことができません。後先の諸臣の罷斥、諭旨が中より出て紛更されること、先んじて深く慮り調剤の方策を持つことができず、また臨事に執持して封還の戇を為すこともできません。皆、臣の罪の大なるものです。皇上はこれを問わずに放ち、臣に協恭を責め、同官に協賛を責められます。同官は詔を奉じて事に従い、臣は過ちを補う由がありません。急ぎ臣の官を褫奪し、佐理溺職の戒めとなさってください」。旨を得て、「卿は親しく顧命を受け、忠を尽くし職を尽くすべきである。乃ち上に非を帰し、退いて後言あり。今また悻悻として去らんことを求む。馳驛して還籍せしむべし」。諸輔臣は故事の如く、体貌を加えるよう請うたが、答えなかった。爌は疏を奉じて謝し、「左右前後は務めて端良に近づき、綸綍を重んじて仕途を重んじ、紀綱を粛して朝寧を粛す」との言葉があった。忠賢及びその党はますます恨んだ。爌が去ると、朱国禎が首輔となった。李蕃が攻めて去らせ、顧秉謙がその位に代わった。公卿庶僚は皆、忠賢の私人となった。
五年七月、逆党の李魯生が爌を弾劾し、削籍除名した。また他の事を仮託して贓二千を坐し、その家人を獄に斃した。爌は田宅を売り、親故から借りて償い、ついに先人の墓の上に棲み止まった。
時に大いに魏忠賢の党を治め、韓爌と李標・錢龍錫がこれを主導した。二百六十二人を列挙して上奏し、罪を六等に分け、「欽定逆案」と名付け、天下に頒行した。言官は争って吏部尚書王永光を攻撃し、南京禮部主事王永吉の言うところが特に激しかった。帝は怒り、彼を罪に処そうとした。韓爌らは、王永吉を赦さなければ王永光は必ず安堵しないと述べ、結局俸給を一年奪うのみで止めた。工部尚書張鳳翔が廠・庫の積弊を奏上した。帝は怒り、廷臣を召し出して対面で詰責した。巡視科道の王都・高賚明の二人が強く弁明したので、帝は錦衣衛の官に命じて彼らを捕らえさせた。韓爌・李標・錢龍錫はともに救い解こうとした。そしてこの日、王永光は毛羽健の上疏による弾劾を受け、帝に主使者を究明するよう請うた。韓爌は退いて、王都らを救うことを申し立て、ついで王永光が言官を究明すべきでないと述べた。帝は聞き入れなかったが、しかし毛羽健は結局免れた。
初め、熊廷弼が既に死んだ後、その首は九辺に伝示され、屍は帰葬を得られなかった。この時に至り、その子が宮闕に詣でて上疏して請うた。韓爌らはこれにより言上した、「廷弼の死は、逆奄(魏忠賢)が楊漣・魏大中を殺そうとして、行賄を誣い、これにより漣らをことごとく殺し、さらに根拠なく廷弼に贓銀十七万を着せ、刑罰が妻子にまで及び、冤罪の甚だしいものである」と。帝はようやく収葬を許した。
時に遼東の事態が急を告げ、朝議は各鎮の兵を淘汰しようとした。また兵科給事中劉懋の上疏により、駅卒の削減を議した。帝が韓爌に問うと、韓爌は言った、「兵の淘汰は、占冒を清め及び増設された冗兵に止めるべきである。要衝の地の定員兵は淘汰すべきではない。駅伝は疲弊しているので、按臣に責めて核減させ、民の困窮を蘇らせるべきであり、その節省した分は、なお民に還すべきである」と。帝はこれをよしとした。御史高捷・史褷が罪により免官され、王永光が力を入れて彼らを推挙した。都御史曹於汴がこれに反対し、王永光が再び上疏して争った。韓爌は言った、故事によれば都察院の諮問に従って任用すべきであると。帝はちょうど王永光を寵眷していたので、従わなかった。九月、慶典を行おうとしたので、秋の処刑を停止するよう請うたが、これも聞き入れられなかった。
時に逆案は定まったとはいえ、王永光及び袁弘勛・高捷・史褷らは日々翻案を図っていた。十月に至り、大清兵が畿甸に入り、都城は戒厳となった。初め、袁崇煥が入朝した時、かつて錢龍錫と辺境の事を語ったことがあった。錢龍錫は東林党の首魁である。王永光らは袁崇煥を因って大獄を起こし、東林党をことごとく傾け尽くそうと謀り、大清兵の侵入は袁崇煥が毛文龍を殺したことによるのだと主張した。高捷は遂にまず錢龍錫を攻撃し、追放した。明年正月、中書舍人で尚寶卿を加えられた原抱奇は、もとより財を輸じて進んだ者であったが、また韓爌を弾劾し、和議を主として国を誤り、寇を招き君を欺き、郡邑は残破し、宗社は危うく、一つの策も設けず、一人も抜擢せず、成敗を坐視し、人の国を以て僥倖を求めたとして、錢龍錫とともに斥くべきであるとした。その言うところの「主款」とは、韓爌が袁崇煥の座主であったからである。帝は韓爌を去らせるのを重んじ、原抱奇の官位を貶めた。間もなく、左庶子丁進は昇進が期に遅れたことを怨んで韓爌を弾劾し、また工部主事李逢申の弾劾上疏が続いて上った。韓爌は即座に三度上疏して病を理由に引退を請うた。詔により白金・彩幣を賜い、駅馬を馳せて行人に護送させて帰し、すべて彝典の通りであった。丁進・李逢申はともに韓爌が会試で挙げた士であった。韓爌は先後して宰相となり、老成で慎重であった。正人を引き立て、邪党を抑え、天下はその賢を称えたが、ただ嘗て王永光を庇ったと言われる。十七年春、李自成が蒲州を陥落させ、韓爌に出て会うよう迫ったが、従わなかった。賊はその孫を捕らえて脅した。韓爌には孫が一人しかいなかったので、出て会い、賊はその孫を釈放した。韓爌は帰り、憤り鬱して卒した。年八十であった。
朱國祚
陝西狄道で山が崩れ、その南に五つの小山が湧き出た。國祚は修省を請うた。社稷壇の枯樹が煙を生じたので、また人心を安んじ、人望を収め、下情を通じ、濫獄を清めるの四事を陳べた。雲南巡撫陳用賓が土産物を進上したので、國祚はこれを弾劾した。まもなく左侍郎に転じ、吏部に改めた。御史湯兆京がその酒に耽り行いを越えたことを弾劾したが、帝は問わず、國祚は遂に病を理由に帰郷した。
朱國禎
何宗彥
弟の宗聖は、郷挙により累進して工部主事となった。魏忠賢に附いて、急に本部右侍郎に加えられた。崇禎初年、官籍を削られ、流刑に処せられ、名は逆案に連なった。
孫如游
帝が崩御すると、鄭貴妃は禍を恐れ、李選侍と深く結び、彼女のために皇后冊封を請うた。選侍は喜び、また貴妃を喜ばせるために太后冊封を請うた。楊漣が如遊に言った。「皇長子は選侍の愛する子ではない。選侍が皇后となれば、嫡母となる。いずれどうなるというのか。急いで執政に申し出て、遺詔により冊立を挙行すべきです。即位して三日後、貴公はすぐに詔を援用して請うのです。」如遊はこれに同意した。八月朔日、光宗が即位した。三日後、如遊が東宮(皇太子)の冊立を請うと、帝はこれを受け入れた。まもなく遺旨に従って閣臣に諭し、貴妃を皇太后に封じようとした。如遊は上奏して言った。「歴朝の典礼を考察しますに、配偶者として后となるのは、対等の礼による正統であり、妃として后となるのは、子に従う義理によるものです。祖宗以来、寵愛を受けた妃はいなかったわけではありませんが、ついに席を去るべき嫌疑を招き、これは礼に記載されていないことです。先帝は貴妃の労を念じられ、名分なき位号にはおかれませんでした。陛下は先帝の志をお体し、分を越えた尊崇にもおかれません。もし義理として許されないのであれば、命令に従うのは孝ではなく、礼に従うのが孝です。臣は曲げて従い、自ら不忠の罪を犯すことはできません。」上疏が入ったが、返答はなかった。
如遊はまもなく本部尚書に進んだ。帝は東宮冊立を命じた後、また皇長子の体質が虚弱であるとして、冊立の時期を少し遅らせようと言った。如遊は強く反対した。二十三日、選侍を皇貴妃に封じるよう命じた。期日はすでに定まっていたが、三日後、帝はまたこれを急がせた。如遊は上奏して言った。「先に孝端皇后・孝靖皇太后の尊諡を上るよう諭旨を奉じ、また郭元妃・王才人を皇后に封じるよう命じられましたが、礼儀はいずれも完了しておりません。貴妃の冊封は後になるべきです。しかし聖諭が諄々と切実であり、かつ聖なる儲君(皇太子)を保護した功績もありますので、先に定めた期日通りとしても差し支えありません。」帝はこれを許した。選侍は貴妃では満足せず、どうしても皇后になろうとした。二十九日、再び廷臣を召し、選侍は皇長子に言わせて迫った。如遊は言った。「陛下が選侍を皇貴妃に封じようとされるなら、ただちに儀式を整えて進めます。」帝はいい加減に「よろしい」と答えた。選侍はこれを聞き、大いに不満であった。翌日、帝が崩御し、朝廷の情勢は大きく変わった。如遊は冊封の期日を改めるよう請うと、許可された。熹宗が皇孫であった時、傅に就いていなかった。即位して七日後、如遊はすぐに講筵(学問の講義)を開くよう請うと、これも許可された。
孫嘉績
孫嘉績、字は碩膚。崇禎十年の進士。南京工部主事に授けられ、召されて兵部に改む。大清兵が都城に迫り、営を按じて動かず、衆人その測る所を知らず。嘉績曰く、「これは後至の者を待つなり、すなわち衆を挙げて南下するのみ」と。三日を過ぎて、蒙古兵数万、果たして青山口より入り、即日南下す。ここにおいて尚書楊嗣昌、嘉績の兵を知るを以て、職方員外郎に調ず。郎中に進む。督師中官高起潜、これを譖す。会にその賄賂を納むる事を発する者あり、ついに獄に下す。已にして、黄道周もまた獄に下る。嘉績はみずから飲食湯薬を親しくし、力を尽くしてこれを調護し、よって従って『易』を受く。会に諸生塗仲吉、道周を救う疏を上す。帝ますます怒り、獄を錦衣衛に移して厳しく訊問す。諸生で道周と往来する者多く詭詞を以て自ら脱せんとす。ただ嘉績のみ隠すところなし。雑犯死罪に擬し、継いで煙瘴の地に充軍すべしと擬す。皆允されず。保定総督張福臻、陛見し、嘉績の才を薦め、参謀として用いることを請う。聴かれず。徐石麒が刑部尚書となり、爰書を具えて奏す。ここにおいてこれを釈放す。福王の時、九江兵備僉事に起用さる。未だ赴かず。魯王が紹興に監国す。右僉都御史に擢でられ、累進して東閣大学士となる。王が航海す。嘉績は従って舟山に至る。その年疾いに遭い卒す。
賛に曰く、熹宗の初め、葉向高は宿望を以て召し起され、海内の正人はこれに倚りて重しと為すも、ついに匡救する所有る能わず。蓋し政柄の内に移るは、一日の積みに非ず、勢い固より如何ともすべからざるなり。劉一燝・韓爌ら諸人は、端揆の地に居るも、宵小比肩し、権璫掣肘し、紛撓杌隉、ほとんど自ら全うせず。朱国祚・何宗彦は党人に絀けられ、孫如遊はまた皆中旨によりて特用せられ、外廷の詬る所と為る。ここにおいて知る、明良相遭うは、誠に千載の一遇なるを。