明史

列傳第一百二十八 葉向高 劉一燝 韓爌 朱國祚 何宗彥 孫如游

列傳第一百二十八 葉向高 劉一燝 韓爌 朱國祚 何宗彥 孫如游

原文列傳第一百二十八 葉向高 劉一燝 韓爌 朱國祚 何宗彥 孫如游

葉向高

原文葉向高

葉向高、字あざなは進卿、福清の人である。父は朝榮、養利知州であった。向高がまだ母の胎内にあった時、母は倭寇の難を避け、道端の壊れた厠の中で生んだ。幾度も死に瀕したが、その度に神が助けた。萬曆十一年の進士に挙げられ、庶吉士に授けられ、編修に進んだ。南京國子司業に遷り、左中允に改められ、なお司業の職務を管掌した。二十六年、召されて左庶子となり、皇長子の侍班官を充てた。鉱税が横行したので、向高は上疏し、東漢の西邸で銭を集めた故事を引き合いに出して鑑戒としたが、回答がなかった。まもなく南京禮部右侍郎に抜擢された。久しくして、吏部に改められた。再び鉱税の害を陳述し、また遼東の税監高淮を罷免するよう請うたが、言葉はいずれも切実であった。妖書の獄が起こると、沈一貫に手紙を送って強く諫めた。一貫は喜ばず、このため南京に九年間滞留した。後に一貫が罷免され、沈鯉も去り、朱賡が単独で国政を執った。帝は閣臣を増員するよう命じた。三十五年五月、向高を礼部尚書兼東閣大学士に抜擢し、王錫爵、于慎行、李廷機とともに任命された。十一月、向高が入朝した時、慎行はすでに先に死去し、錫爵は固辞して出仕しなかった。翌年、首輔の賡も死去し、次輔の廷機は人言のために長く門を閉ざしていたので、向高は遂に単独で宰相となった。

原文葉向高,字進卿,福清人。父朝榮,養利知州。向高甫妊,母避倭難,生道旁敗廁中。數瀕死,輒有神相之。舉萬曆十一年進士,授庶吉士,進編修。遷南京國子司業,改左中允,仍視司業事。二十六年,召為左庶子,充皇長子侍班官。礦稅橫行,向高上班,引東漢西邸聚錢事為鑒,不報。尋擢南京禮部右侍郎。久之,改吏部。再陳礦稅之害,又請罷遼東稅監高淮,語皆切至。妖書獄興,移書沈一貫力諫。一貫不悅,以故滯南京九年。後一貫罷,沈鯉亦去,朱賡獨當國。帝命增閣臣。三十五年五月,擢向高禮部尚書兼東閣大學士,與王錫爵、于慎行、李廷機並命。十一月,向高入朝,慎行已先卒,錫爵堅辭不出。明年,首輔賡亦卒,次輔廷機以人言久杜門,向高遂獨相。

この時、帝は在位日久しく、政務に倦み、朝政は多く廃れ弛み、高官の役所が空になることもあり、士大夫の推挙選抜や転任の命令はしばしば下されず、上下の隔たりが甚だしかった。廷臣の党派の勢力は次第に形成され、宦官が税を徴収し、鉱山を開くことは、大いに民の害となった。帝はまた鄭貴妃を寵愛し、福王は封国に行こうとしなかった。向高は宿望をもって相位にあり、国を憂え公に奉じ、何事にも執って争い忠誠を尽くした。帝は心の中で向高を重んじ、礼遇は厚かったが、その言うところは大抵用いられず、救い正したのは十二三に過ぎなかった。東宮の講義が止んで五年になり、廷臣がたびたび請うても命が下されなかった。三十七年二月、向高が吉日を選んで請うたが、これも回答がなかった。この後、毎年春秋に必ず懇請したが、帝はいずれも聞き入れなかった。貴妃王氏は太子の生母であったが、薨去して四日経っても喪を発しなかった。向高が言上したので、ようやく喪を発した。しかし礼官がその儀式の手順を上奏すると、五日間滞留して行われなかった。向高が再び争ったので、上疏がようやく下された。福王の邸宅が完成すると、工部が封国行きを請うたので、向高が詔書の草案を擬して上奏した。帝は発布せず、来春に改めるといった。期日が迫ると、向高が先に儀仗や車船を整備するよう請うたが、帝は聞き入れなかった。四十一年春、廷臣が相次いで上章して請うたので、また来春に改めるよう諭した。その後、突然詔旨が伝わり、荘田が四万頃なければ封国に行かせないといい、廷臣は大いに驚いた。向高はこれに乗じて進言した。「田四万頃は必ずや満たすことができず、封国行きは期日がなくなり、明の詔旨はまた天下に信を失うでしょう。かつ王の上疏は祖制を引き合いに出していますが、祖制にこのような事はありません。かつて世宗の時に景王がこれを有しただけです。景王は長く封国に行かず、皇考(神宗の父、穆宗)が裕邸におられた時、危険で疑わしく不安でした。これをどうして模倣できましょうか。」帝は答えて言った。「荘田には成例がある。かつ今、大義名分はすでに定まっている。何を猜疑するのか。」向高はこれにより上疏して謝罪し、言った。「皇考の時、名位はまだ正されていませんでしたが、しかし講読は絶えず、情意は通じていました。今、東宮の講義は八年も止み、かつ天顔を拝すること久しくありません。しかし福王は一日に二度もお目にかかっています。この故に疑いを抱かざるを得ないのです。ひたすら来春の期日を堅守し、荘田を口実にしないならば、天下の疑いは自然に解けるでしょう。」帝は、福王が一日に二度お目にかかったことはないと答えた。

原文當是時,帝在位日久,倦勤,朝事多廢弛,大僚或空署,士大夫推擇遷轉之命往往不下,上下乖隔甚。廷臣部黨勢漸成,而中官榷稅、開礦,大為民害。帝又寵鄭貴妃,福王不肯之國。向高用宿望居相位,憂國奉公,每事執爭效忠藎。帝心重向高,體貌優厚,然其言大抵格不用,所救正十二三而已。東宮輟講者五年,廷臣屢請不得命。三十七年二月,向高擇吉以請,亦不報。自是歲春秋必懇請,帝皆不納。貴妃王氏,太子生母也,薨四日不發喪。向高以為言,乃發喪。而禮官上其儀註,稽五日不行。向高復爭之,疏乃下。福王府第成,工部以之國請,向高擬旨上。帝不發,改明春。及期迫,向高請先飭儀衛舟車,帝不納。四十一年春,廷臣交章請,復諭改明春。已,忽傳旨,莊田非四萬頃不行,廷臣大駭。向高因進曰:「田四萬頃,必不能足,之國且無日,明旨又不信於天下矣。且王疏引祖制,而祖制無有是事。曩惟世宗時景王有之。景王久不之國,皇考在裕邸,危疑不安,此何可效也?」帝報曰:「莊田自有成例,且今大分已定,何猜?」向高因疏謝,言:「皇考時,名位雖未正,然講讀不輟,情意通。今東宮輟講八年,且不奉天顏久,而福王一日兩見,以故不能無疑。惟堅守明春期,而無以莊田藉口,天下疑自釋。」帝報福王無一日兩見事。

向高には裁断力があり、大事を処理するのに長けていた。錦衣百戸の王曰乾という者は、京師の奸人で、孔学、趙宗舜、趙思聖らと互いに告訴し合った。刑官が審理を終えないうちに、曰乾は皇城に入って砲を放ち上疏した。刑官は大いに驚き、曰乾を死罪に擬しようとした。曰乾はそこで鄭妃の内侍姜厳山が孔学らおよび妖人王三詔とともに厭勝の術を用いて皇太后、皇太子を呪い殺し、福王を擁立しようとしていると告発した。帝は震怒し、殿中を半日歩き回り、「これは大変な事だ。宰相はなぜ何も言わないのか」と言った。内侍がすぐに跪いて向高の上奏文を捧げた。上奏文にはこうあった。「この事は往年の妖書の類いに似ています。しかし妖書は匿名で詰問し難いものでした。今は原告・被告双方が揃っており、一度訊問すればすぐに実情が得られます。陛下は静かにこれを処理されるべきです。少しでも慌てふためけば、朝廷内外は大いに騒ぎます。その言葉が貴妃、福王に及んでいることは、特に痛恨に堪えません。臣と九卿の見解は皆同じです。敢えてお聞かせします。」帝は読み終えて嘆息し、「我が父子兄弟は全うされた」と言った。翌日、向高はまた言った。「曰乾の上疏は発布すべきではありません。発布すれば、上は聖母(皇太后)を驚かせ、下は東宮を驚かせ、貴妃、福王も皆不安になります。留中すべきであり、別に法司に諭して諸奸人の罪を治めさせ、かつ来春の封国行きの期日を速やかに定め、群衆の口を鎮めてしまえば、天下は平穏無事となります。」帝はその言葉をすべて用い、太子、福王は互いに安泰でいられた。貴妃は終始福王の封国行きを望まず、来年冬に太后の七十の寿があるから、王は留まって慶賀すべきだと言った。帝は内閣に宣諭させた。向高は上諭を留めて発布せず、今冬に予め慶寿の礼を行い、期日通りに封国に行くよう請うた。帝は中使を向高の私邸に遣わし、必ず以前の諭旨を下すよう求めた。向高は言った。「外廷では、陛下が賀寿の名目を借りて福王を留めようとしていると喧伝し、約千人が宮門に伏して請願しようとしています。今、果たしてこの諭旨があれば、人々の疑いはますます深まり、王曰乾の妖言を信じ、朝廷は必ずや静かではいられません。聖母がこれを聞かれても、必ずや喜ばれません。かつ潞王は聖母の愛子ですが、やはり外藩におられます。どうして福王だけをひたすら思いやる必要がありましょうか。」そこで手諭を封じて返還した。帝は已むなくこれに従い、福王はようやく封国に行った。

原文向高有裁斷,善處大事。錦衣百戶王曰乾者,京師奸人也,與孔學、趙宗舜、趙思聖等相訐告。刑官讞未竟,曰乾乃入皇城放炮上疏。刑官大驚,將擬曰乾死罪。曰乾遂訐奏鄭妃內侍姜嚴山與學等及妖人王三詔用厭勝術詛咒皇太后、皇太子死,擁立福王。帝震怒,繞殿行半日,曰:「此大變事,宰相何無言?」內侍即跪上向高奏。奏言:「此事大類往年妖書,然妖書匿名難詰,今兩造具在,一訊即情得。陛下當靜處之,稍張皇,則中外大擾。至其詞牽引貴妃、福王,尤可痛恨。臣與九卿所見皆同,敢以聞。」帝讀竟太息曰:「吾父子兄弟全矣。」明日,向高又言:「曰乾疏不宜發。發則上驚聖母,下驚東宮,貴妃、福王皆不安。宜留中,而別諭法司治諸奸人罪,且速定明春之國期,以息群喙,則天下帖然無事。」帝盡用其言,太子、福王得相安。貴妃終不欲福王之國,言明年冬太后七十壽,王宜留慶賀。帝令內閣宣諭。向高留上諭弗宣,請今冬預行慶壽禮,如期之國。帝遣中使至向高私邸,必欲下前諭。向高言:「外廷喧傳陛下欲假賀壽名留福王,約千人伏闕請。今果有此諭,人情益疑駴,將信王曰乾妖言,朝端必不靜。聖母聞之,亦必不樂。且潞王聖母愛子,亦居外藩,何惓惓福王為?」因封還手諭。帝不得已從之,福王乃之國。

向高はかつて上疏して言った。「今、天下が必ず乱れ、必ず危うくなる道は、数端ありますが、災害や寇賊、物の怪や人の妖は含みません。第一に、朝廷が空虚なこと。第二に、上下が隔絶していること。第三に、士大夫が勝ちを好み争いを喜ぶこと。第四に、多くを蓄え厚く積めば、必ずや道理に悖った出方の禍いがあること。第五に、風潮や気風が日々下り坂に向かい、挽回できないことです。陛下が奮然として振るい立ち、老成の者を選んで任用し、朝廷の役所に配置し、積年の廃れ弛んだ政事を一挙に新たにされなければ、恐らく宗廟社稷の憂いは、敵国や外患にあるのではなく、まさに朝廷の上にあるでしょう。」その言葉は極めて痛切であった。帝はその忠愛を知っていたが、実行することができなかった。

原文向高嘗上疏言:「今天下必亂必危之道,蓋有數端,而災傷寇盜物怪人妖不與焉。廊廟空虛,一也。上下否隔,二也。士大夫好勝喜爭,三也。多藏厚積,必有悖出之釁,四也。風聲氣習日趨日下,莫可挽回,五也。非陛下奮然振作,簡任老成,布列朝署,取積年廢弛政事一舉新之,恐宗社之憂,不在敵國外患,而即在廟堂之上也。」其言絕痛切。帝知其忠愛,不能行。

初めに、向高が内閣に入った。間もなく、人材登用と財政の策を述べ、欠員の補充と鉱税の廃止を強く請うた。帝が従わないのを見て、上下の乖離の弊を陳述した。二度上疏して罷免を乞うたが、帝は許さなかった。向高は単独の宰相となってから、直ちに閣臣の増員を請うたが、帝は聞き入れなかった。吏部尚書孫丕揚が賢者を推薦しても用いられないことを理由に辞任を求めた時、向高は特に上疏して留任を請うたが、これも返答がなく、そこで病気を理由に辞任した。度々諭され、ようやく出仕して政務を執った。その後、また言うには、「臣は度々辞任を求め、恩詔により留任を蒙ってきた。しかし臣が憂うるは一身の去就ではなく、国家の治乱である。今、天下至る所に災害と死亡があり、畿輔・中州・齊魯では流民が道に満ち、加えて朝廷内外が空虚で、人材も尽きている。罪は他人に在らず、臣はどうして去らぬことができようか。かつ陛下が臣を用いるなら、その言を行わねばならない。今、章奏は発出されず、高官は補充されず、廃官の起用も行われない。臣の微衷が上達できず、留まって何の益があろうか。誠に臣の言を用いるなら、ただ臣の身を繋ぎ止めるだけでなく、臣が露の如く先に消え去っても、余りある幸せである。」帝は省みなかった。京師に大水があり、四方から水害旱魃の奏上が多かった。向高はまた言うには、「閣臣から九卿・臺省に至るまで、官署は皆空であり、南京の九卿もわずか二つを残すのみである。天下の方面の大官は、去秋から今に至るまで、一人も任用されていない。陛下は万事を処理せず、天下が永くこのようであると思っておられるが、臣は禍端が一旦発すれば、収拾がつかぬことを恐れる。」帝もまた省みなかった。四十年春、向高は歴代帝王で在位四十年以上の者は、三代から今に至るまでわずか十君であることを挙げ、帝に新政の励行を勧めた。そこでまた人材登用と行政について請うたが、これも返答がなかった。向高は志が行われぬことを知り、月毎に辞任を求めずといえず、帝は常に優れた詔で慰留した。向高はまた言うには、「臣の進退は問わなくともよいが、百官は必ずしも皆空であってはならず、臺諫は必ずしも皆廃されてはならず、諸方の巡按は必ず交代させねばならない。朝廷内外は離心し、輦轂の肘腋の間に怨嗟の声が満ち、禍の機は測りがたい。しかるに陛下は臣下と隔絶することに務め、帷幄の臣は忠を尽くすことができず、六曹はその職務を挙行できず、天下に一人として信ずべき者なく、自ら神明の妙用と為しておられる。臣は恐れるが、古来の聖帝明王にこのような法はなかった。」

原文初,向高入閣。未幾,陳用人理財策,力請補缺官,罷礦稅。見帝不能從,乃陳上下乖離之病。兩疏乞罷,帝不允。向高自獨相,即請增閣臣,帝不聽。及吏部尚書孫丕揚以薦賢不用求去,向高特疏請留,亦不報,遂引疾。屢諭,乃出視事。已,又言:「臣屢求去,輒蒙恩諭留。顧臣不在一身去留,而在國家治亂。今天下所在災傷死亡,畿輔、中州、齊魯流移載道,加中外空虛,人才俱盡。罪不在他人,臣何可不去。且陛下用臣,則當行其言。今章奏不發,大僚不補,起廢不行,臣微誠不能上達,留何益?誠用臣言,不徒縻臣身,臣溘先朝露,有餘幸矣。」帝不省。京師大水,四方多奏水旱。向高又言:「自閣臣至九卿臺省,曹署皆空,南都九卿亦止存其二。天下方面大吏,去秋至今,未嘗用一人。陛下萬事不理,以為天下長如此,臣恐禍端一發,不可收也。」帝亦不省。四十年春,向高以歷代帝王享國四十年以上者,自三代迄今止十君,勸帝力行新政。因復以用人行政請,亦不報。向高誌不行,無月不求去,帝輒優旨勉留。向高復言:「臣進退可置不問,而百僚必不可盡空,臺諫必不可盡廢,諸方巡按必不可不代。中外離心,輦轂肘腋間,怨聲憤盈,禍機不測,而陛下務與臣下隔絕。帷幄不得關其忠,六曹不得舉其職,舉天下無一可信之人,而自以為神明之妙用,臣恐自古聖帝明王無此法也。」

先に、向高が病気で、内閣に人がおらず、章奏はその家に送られて旨を擬することが一月に及んだ。この時、向高は堅く臥してますます長く、前のように家で旨を擬した。論者は体を為さぬとしたが、向高もまたその非を自ら言い、強く辞任を乞うた。帝はついに他の宰相を任命せず、鴻臚官を遣わして慰留した。帝の万寿節に至って、ようやく起きて政務を執った。その後、向高が癸丑の会試を主考し、章奏は皆試場に送られたが、これは特に異例のことであった。帝が科道官七十余人を考選したが、命令が長く下らなかった。向高が数十の上疏で懇請し、二年を経てようやく下った。言官が多くなると、攻撃が紛然と起こった。帝はこれを厭い、章奏を悉く留中した。向高は全てを所管の役所に付して、その去留を定めるよう請うた。そこで言うには、「大臣は小臣の綱である。今、六卿は趙煥ただ一人であり、都御史は十年も補充されず、弾圧する者がいない。人心はどうして鎮められようか。」帝はただ言官の妄言を責めるだけで、高官は結局補充されなかった。向高が閣臣の増置を請うた上疏は百余に及び、帝はようやく方従哲・呉道南を用いた。向高は上疏して謝し、ついて退隠を請うたが、優詔で許されなかった。

原文先是,向高疾,閣中無人,章奏就其家擬旨者一月。及是,向高堅臥益久,即家擬旨如前,論者以為非體,向高亦自言其非,堅乞去。帝卒不命他相,遣鴻臚官慰留。至帝萬壽節,始起視事。其後,向高主癸丑會試,章奏皆送闈中,尤異事云。帝考選科道七十餘人,命久不下。向高懇請數十疏,越二年乃下。言官既多,攻擊紛起。帝心厭之,章悉留中。向高請盡付所司,定其去留。因言:「大臣者,小臣之綱。今六卿止趙煥一人,而都御史十年不補,彈壓無人,人心何由戢?」帝但責言官妄言,而大僚迄不補。向高請增置閣臣,章至百餘上,帝始用方從哲、吳道南。向高疏謝,因引退,優詔不允。

四十二年二月、皇太后が崩御した。三月、福王が封国へ赴いた。向高は帰郷をますます頻繁に乞い、上疏は十余に及んだ。八月に至り、その去ることを許された。向高は三年の考績により、太子太保・文淵閣大学士に進み、延綏の戦功を叙して少保兼太子太保を加えられ、戸部尚書・武英殿大学士に改められた。一品官として三年満了し、少傅兼太子太傅を加えられ、吏部尚書・建極殿大学士に改められた。この時、少師兼太子太師を加えることを命じられ、白金百両、彩幣四、表裏大紅坐蟒一襲を賜り、行人に護送されて帰郷した。

原文四十二年二月,皇太后崩。三月,福王之國。向高乞歸益數,章十餘上。至八月,允其去。向高以三載考績,進太子太保、文淵閣大學士;敘延綏戰功,加少保兼太子太保,改戶部尚書、武英殿;一品三載滿,加少傅兼太子太傅,改吏部尚書、建極殿。至是,命加少師兼太子太師,賜白金百,彩幣四,表裏大紅坐蟒一襲,遣行人護歸。

向高が宰相の位にあっては、群情を調和し、異同を融和させることに務めた。しかしその時、党論が既に大いに起こり、御史鄭継芳が給事中王元翰を激しく攻撃し、両者を支持する者が相争った。向高は諸々の上疏を全て下部に回し、部院に曲直を評させ、議論を顛倒させた者一二人を罪して、その余を戒めさせるよう請うたが、帝は返答しなかった。諸臣は得失を見る所なく、ますます党派を立てて相攻撃した。間もなく、また李三才の事を争い、党派の勢力が成った。無錫の顧憲成が家に居て、東林書院で講学し、朝士は争って慕い交遊した。三才が攻撃されると、憲成は向高及び尚書孫丕揚に書を送り、その賢を弁護した。時に辛亥の京察があり、三才を攻撃した劉国縉が他の過失で察典に掛かり、喬応甲も年例により外任に出され、その党は大いに騒いだ。向高が大勢を以てこれを支え、察典が乱されることはなかったが、両党の争いは遂に解けなくなった。後に至り、斉・楚・浙の党人が東林を攻撃して殆ど尽くした。天啓の時に及んで、王紹徽らが所謂『東林点将録』を撰び、魏忠賢に氏名に従って朝士を逐わせた。向高がかつて東林を支持したため、党の首領と目されたのである。

原文向高在相位,務調劑群情,輯和異同。然其時黨論已大起,御史鄭繼芳力攻給事中王元翰,左右兩人者相角。向高請盡下諸疏,敕部院評曲直,罪其論議顛倒者一二人,以警其餘,帝不報。諸臣既無所見得失,益樹黨相攻。未幾,又爭李三才之事,黨勢乃成。無錫顧憲成家居,講學東林書院,朝士爭慕與遊。三才被攻,憲成貽書向高暨尚書孫丕揚,訟其賢。會辛亥京察,攻三才者劉國縉以他過掛察典,喬應甲亦用年例出外,其黨大嘩。向高以大體持之,察典得無撓,而兩黨之爭遂不可解。及後,齊、楚、浙黨人攻東林殆盡。浸尋至天啟時,王紹徽等撰所謂《東林點將錄》,令魏忠賢按氏名逐朝士。以向高嘗右東林,指目為黨魁云。

向高が帰郷して六年、光宗が即位し、特に詔を下して召還した。間もなく、熹宗が即位し、再び勅を賜って催促した。度々辞退したが、命を免れなかった。天啓元年十月に朝廷に戻り、再び首輔となった。言うには、「臣は皇祖(神宗)に八年仕え、章奏は必ず臣に下して擬旨させられた。たとえ上意として行いたいことでも、中使を遣わして伝諭された。事が不可なれば、臣は力争し、皇祖は多く曲げて聞き入れ、中から一旨を出すことを好まれなかった。陛下は虚心恭己で輔臣を信任されるが、時に伝宣があり疑議を生じることがある。綸音を慎重にされ、凡事は臣らに擬上させられるべきである。」帝は優詔で聞き入れた。間もなく向高の請いを容れ、帑金二百万を発して、東西の用兵の需に充てた。

原文向高歸六年,光宗立,特詔召還。未幾,熹宗立,復賜敕趨之。屢辭,不得命。天啟元年十月還朝,復為首輔。言:「臣事皇祖八年,章奏必發臣擬。即上意所欲行,亦遣中使傳諭。事有不可,臣力爭,皇祖多曲聽,不欲中出一旨。陛下虛懷恭己,信任輔臣,然間有宣傳滋疑議。宜慎重綸音,凡事令臣等擬上。」帝優旨報聞。旋納向高請,發帑金二百萬,為東西用兵之需。

熹宗の初政は、群賢が朝廷に満ち、天下は治世を欣び望んだ。しかし帝はそもそも幼年で、忠佞を弁えることができなかった。魏忠賢・客氏が次第に威福を窃み、太監王安を陥れて殺し、順に吏部尚書周嘉謨や言官倪思輝らを追放した。大学士劉一燝もまた強く辞任を求めた。向高は言うには、「客氏が出てまた入り、一燝は顧命の大臣でありながら保姆に比べられず、人をして奥穾の不可知の地で揣摩せしめるに至った。その兆しを防がねばならない。」忠賢は向高の上疏が己を刺したのを見て、甚だ恨んだ。やがて刑部尚書王紀が官籍を削られ、礼部尚書孫慎行・都御史鄒元標が先後に攻撃されて致仕した。向高は争っても得られず、そこで元標と共に罷免されることを請うた。帝は聞き入れず、忠賢はますます向高を恨んだ。

原文熹宗初政,群賢滿朝,天下欣欣望治。然帝本沖年,不能辨忠佞。魏忠賢、客氏漸竊威福,構殺太監王安,以次逐吏部尚書周嘉謨及言官倪思輝等。大學士劉一燝亦力求去。向高言:「客氏出復入,而一燝顧命大臣不得比保姆,致使人揣摩於奧穾不可知之地,其漸當防。」忠賢見向高疏刺己,恨甚。既而刑部尚書王紀削籍,禮部尚書孫慎行、都御史鄒元標先後被攻致仕去。向高爭不得,因請與元標同罷。帝不聽,而忠賢益恨向高。

向高は人となり光明正大で忠厚、徳量があり、善類を扶植することを好んだ。再び宰相となり、幼い君主に仕えて、神宗の時の如く謇直ではなかったが、なお数々の匡救を行った。給事中章允儒が上供の袍服を減らすよう請うた。宦官が帝の怒りを煽り、廷杖に処するよう命じた。向高が二度にわたり救済を論じ、ついに俸給を一年分奪うにとどめた。御史帥衆が宮禁を指弾した。宦官が帝に外任させるよう請うたが、向高の救済により免れた。給事中傅櫆が王紀を救い、貶謫されようとしたが、これも向高の言葉により俸給を奪うのみで済んだ。紀が罷免された後、御史呉甡・王祚昌が彼を推薦し、部議は旧官に召還しようとした。忠賢は怒り、文選郎を重く譴責しようとしたが、向高が救って免れた。給事中陳良訓が上疏して権閹を諷刺した。忠賢はその疏中の「国運将終」の語を摘出し、詔獄に下して主使者を窮治するよう命じた。向高が去就をかけて争い、ついに俸給を奪うのみで止んだ。熊廷弼・王化貞が死罪と論ぜられ、言官が帝に速やかな決断を勧めた。向高は法司の覆奏を待つよう請い、帝はこれに従った。天下の布政司・府・州・県の庫蔵をことごとく京師に輸送するよう請う者があった。向高は言った、「郡邑の蔵はすでに尽き、藩庫にわずかに余りがあるのみである。もしこれをことごとく徴発すれば、山東の白蓮教の乱のような事態が突然起こったとき、どうしてこれに対処できようか」と。帝はいずれも採用しなかった。

原文向高為人光明忠厚,有德量,好扶植善類。再入相,事沖主,不能謇直如神宗時,然猶數有匡救。給事中章允儒請減上供袍服。奄人激帝怒,命廷杖。向高論救者再,乃奪俸一年。御史帥眾指斥宮禁,奄人請帝出之外,以向高救免。給事中傅櫆救王紀,將貶謫,亦以向高言僅奪俸。紀既罷去,御史吳甡、王祚昌薦之,部議以故官召。忠賢怒,將重譴文選郎,向高亦救免。給事中陳良訓疏譏權奄,忠賢摘其疏中「國運將終」語,命下詔獄,窮治主使。向高以去就爭,乃奪俸而止。熊廷弼、王化貞論死,言官勸帝速決。向高請俟法司覆奏,帝從之。有請括天下布政司、府、州、縣庫藏盡輸京師者,向高言:「郡邑藏已竭,藩庫稍餘。倘盡括之,猝有如山東白蓮教之亂,何以應之?」帝皆不納。

忠賢はすでにひそかに向高を恨んでいたが、その時朝士で忠賢に抗する者はみな向高を頼りにしていた。忠賢はしばしば些細な過失をあげつらい、向高を責めて困らせた。向高はたびたび去職を求めた。四年四月、給事中傅櫆が左光斗・魏大中が汪文言と交わり、権勢を招き賄賂を受け取ったと弾劾し、文言を詔獄に下すよう命じた。向高は言った、「文言は内閣で事務を執り、実は臣が具題したものである。光斗らが文言と交わる事は曖昧であるが、臣が文言を用いたことは明らかである。陛下にはただ臣を罪せられ、他の者を少し寛大にされ、縉紳の禍を消し去られますよう」と。そこで速やかに罷免されるよう強く求めた。この時、忠賢は大いに意を逞しくしようと欲していたが、衆正が朝廷に満ちているのを憚り、隙をうかがって動こうとしていた。櫆の上疏を得て大いに喜び、これに乗じて東林を羅織しようとしたが、終に旧臣である向高を憚り、光斗らをも罪せず、ただ文言のみを罪した。しかし東林の禍はここから始まった。

原文忠賢既默恨向高,而其時朝士與忠賢抗者率倚向高。忠賢乃時毛舉細故,責向高以困之。向高數求去。四年四月,給事中傅櫆劾左光斗、魏大中交通汪文言,招權納賄,命下文言詔獄。向高言:「文言內閣辦事,實臣具題。光斗等交文言事曖昧,臣用文言顯然。乞陛下止罪臣,而稍寬其他,以消縉紳之禍。」因力求速罷。當是時,忠賢欲大逞,憚眾正盈朝,伺隙動。得櫆疏喜甚,欲藉是羅織東林,終憚向高舊臣,並光斗等不罪,止罪文言。然東林禍自此起。

六月に至り、楊漣が上疏して忠賢の二十四大罪を弾劾した。向高は事が決裂するであろうと考え、深く非とした。廷臣が相次いで抗議の上疏を数十通も行い、ある者は向高にこの事を下して決勝させよと勧めた。向高は忠賢を除くのは容易でないと考え、閣臣が中から挽回すれば、なお大禍がないことを望んだ。そこで上奏して忠賢の勤労を称え、朝廷の寵待が厚く、盛満は居るに難く、事権を解き、私第に帰るのを聴き、終始を保全すべきであると述べた。忠賢は喜ばず、帝の旨を偽って己の功労を述べ、百余言に及んだ。向高は驚いて言った、「これは宦官のできることではなく、必ず代わって草稿を作る者がいる」と。探ると、それは徐大化であった。忠賢は憤ったが、なお外廷の勢いが盛んなのを憚り、害を加えることを敢えなかった。その党に大獄を起こすよう導く者があり、忠賢の意は遂に決した。ここにおいて工部郎中万燝が忠賢を弾劾して廷杖に処せられ、向高が力強く救ったが従わず、杖の下で死んだ。まもなく、御史林汝翥もまた宦官に逆らって廷杖を命ぜられた。汝翥は恐れ、遵化巡撫の所に逃げ込んだ。ある者が汝翥は向高の甥であると言い、群閹がその邸を囲んで大いに騒いだ。向高は時事が為すべからざるものとし、帰郷を乞うことすでに二十余疏に及び、ここに至ってますます強く請うた。そこで太傅を加えることを命じ、行人を遣わして護送して帰らせ、賜わるものは彝典より増加した。まもなく太傅を辞するのを聴き、有司に月に米五石、輿夫八人を給することを命じた。

原文至六月,楊漣上疏劾忠賢二十四大罪。向高謂事且決裂,深以為非。廷臣相繼抗章至數十上,或勸向高下其事,可決勝也。向高念忠賢未易除,閣臣從中挽回,猶冀無大禍。乃具奏稱忠賢勤勞。朝廷寵待厚,盛滿難居,宜解事權,聽歸私第,保全終始。忠賢不悅,矯帝旨敘己功勤,累百餘言。向高駭曰:「此非奄人所能,必有代為草者。」探之,則徐大化也。忠賢雖憤,猶以外廷勢盛,未敢加害。其黨有導以興大獄者,忠賢意遂決。於是工部郎中萬燝以劾忠賢廷杖,向高力救,不從,死杖下。無何,御史林汝翥亦以忤奄命廷杖。汝翥懼,投遵化巡撫所。或言汝翥向高甥也,群奄圍其邸大噪。向高以時事不可為,乞歸已二十餘疏,至是請益力。乃命加太傅,遣行人護歸,所給賜視彜典有加。尋聽辭太傅,有司月給米五石,輿夫八。

向高が罷免されて去ると、韓爌・朱国禎が相次いで首輔となったが、久しくなくして皆罷免された。政府に居る者は皆小人であり、清流は依るべきところがなかった。忠賢はまず楊漣を誣殺し、左光斗らを次々に殺戮辱め、異己の朝士を貶削し、善類は一空となったという。熹宗が崩じ、向高もまたその月に卒し、年六十九であった。崇禎初年、太師を贈られ、文忠と諡された。

原文向高既罷去,韓爌、朱國禎相繼為首輔,未久皆罷。居政府者皆小人,清流無所依倚。忠賢首誣殺漣,光斗等次第戮辱,貶削朝士之異己者,善類為一空云。熹宗崩,向高亦以是月卒,年六十有九。崇禎初,贈太師,謚文忠。

劉一燝

原文劉一燝

劉一燝、字は季晦、南昌の人。父は曰材、嘉靖年間の進士、陝西左布政使。万暦十六年、一燝は兄の一焜・一煜とともに郷試に合格した。七年を経て、また一煜とともに進士に合格した。庶吉士に改められ、検討を授けられた。

原文劉一燝,字季晦,南昌人。父曰材,嘉靖中進士,陜西左布政使。萬曆十六年,一燝與兄一焜、一煜並舉於鄉。越七年,又與一煜並舉進士。改庶吉士,授檢討。

一焜は考功郎となり、京察を掌った。大学士沈一貫はその私人である銭夢臯・鐘兆斗らを庇おうと欲し、一燝に請うよう依頼した。一燝は断ってできぬとし、夢臯らはついに中旨によって留任し、これによって一貫の意に逆らった。まもなく祭酒、詹事を歴任し、翰林院事を掌った。四十五年春、京察が行われ、党人が権力を握り、孫承宗・繆昌期らを追い出そうと謀ったが、一燝が力強く保持して免れた。故事によれば、掌院は満一年を経ずして遷らない者はないが、一燝は四年居て、ようやく礼部右侍郎に遷り、庶吉士を教習した。光宗が即位すると、礼部尚書兼東閣大学士に抜擢され、機務に参与し、何宗彦・韓爌とともに任命された。当時内閣には方従哲ただ一人のみであった。

原文一焜為考功郎,掌京察。大學士沈一貫欲庇其私人錢夢臯、鐘兆鬥等,屬一燝為請。一燝謝不可,夢臯等竟以中旨留,由是忤一貫意。尋歷祭酒,詹事,掌翰林院事。四十五年春,京察,黨人用事,謀逐孫承宗、繆昌期等,一燝力保持得免。故事,掌院無滿歲不遷者,一景居四年,始遷禮部右侍郎,教習庶吉士。光宗即位,擢禮部尚書兼東閣大學士,參預機務,偕何宗彥、韓爌並命。時內閣止方從哲一人。

万暦末年、神宗は史継偕・沈纮を用いようとした。両人はちょうど在籍中であり、帝は召すよう命じた。未だ到らぬうちに、帝はまた宗彦・一燝・爌を命じた。明日、また朱国祚および旧輔の葉向高を命じた。しかし宗彦・国祚・向高もまた皆在籍中であり、ただ一燝・爌のみが入直した。拝命したばかりで、帝はすでに病を得、一燝は諸臣とともに乾清宮に召見された。明日九月朔、帝は崩じた。諸臣が拝哭を終え、一燝が群閹を詰問した、「皇長子は柩前で即位すべきであるのに、今ここにいないのはなぜか」と。群閹は東西に走り、答えなかった。東宮伴読の王安が進み出て言った、「李選侍に匿われているのです」と。一燝は大声で言った、「誰が敢えて新天子を匿おうか」と。安は言った、「落ち着いてください、公らは慎んで退かないでください」と。そこで急いで入って選侍に告げた。選侍はうなずいたが、また中で悔い、皇長子の裾を引き止めた。安が直前に進んで抱擁し、疾走して出た。一燝はこれを見て、急いで前に進み万歳を呼び、皇長子の左手を捧げ、英国公張惟賢が右手を捧げ、輦に昇るのを助けた。門に及んだとき、宮中から厳しい声で呼ぶのがあった、「哥児は戻れ!」と。使者を追わせる者が三度あった。一燝は輦の傍らを疾走し、文華殿に昇るのを助け、まず東宮の位に即かせ、群臣が叩頭して万歳を呼んだ。

原文萬曆末年,神宗欲用史繼偕、沈纮。兩人方在籍,帝命召之。未及至,帝復命宗彥、一燝、爌。明日,復命朱國祚及舊輔葉向高。而宗彥、國祚、向高亦皆在籍,惟一燝、爌入直。甫拜命,帝已得疾,一燝偕諸臣召見乾清宮。明日九月朔,帝崩。諸臣入臨畢,一燝詰群奄:「皇長子當柩前即位,今不在,何也?」群奄東西走,不對。東宮伴讀王安前曰:「為李選侍所匿耳。」一燝大聲言:「誰敢匿新天子者?」安曰:「徐之,公等慎勿退。」遂趨入白選侍。選侍頷之,復中悔,挽皇長子裾。安直前擁抱,疾趨出。一燝見之,急趨前呼萬歲,捧皇長子左手,英國公張惟賢捧右手,掖升輦。及門,宮中厲聲呼:「哥兒卻還!」使使追躡者三輩。一燝傍輦疾行,翼升文華殿,先即東宮位,群臣叩頭呼萬歲。

事がやや定まると、選侍はなお乾清宮に戻ろうとした。当時選侍は乾清宮に居た。一燝は言った、「乾清宮には居られません、殿下は暫く慈慶宮に居られるべきです」と。皇長子は心の中で選侍を恐れたが、これを認めた。一燝は安に言った、「主上は幼年で、母后がいません。外廷に事があれば、私が過ちを受けます。宮中の起居については、公らはその責めを辞することはできません」と。明日、周嘉謨および左光斗が上疏して移宮を請うた。当時首輔の従哲はその間で躊躇し、やがてまた移宮を緩めようとした。一燝は言った、「本朝の故事では、仁聖(嫡母)は慈慶宮に移り、慈聖(生母)は慈寧宮に移りました。今は何の日であり、どうして暫く緩めることができましょうか」と。五日、同官とともに即日詔を降すよう請い、宮門に佇立して待った。選侍は已むなく、噦鸞宮に移り、天子は再び乾清宮に還り、事はようやく大いに定まった。帝が践祚すると、従哲は弾劾されて告暇中であり、一燝はついに国政を担当し、爌と相得て甚だ歓んだ。内廷ではただ王安のみが新天子を力強く衛護しているのを思い、そこで彼を引き入れて共に事に当たらせた。安もまた心を傾けてこれに従った。奏請することは、従わないことはなかった。内帑を発し、近侍を抑え、遺逸を捜し、旧徳宿歯が九列に満ち、中外は欣欣として治世を望んだ。

原文事稍定,選侍猶趨還乾清。時選侍居乾清。一燝曰:「乾清不可居,殿下宜暫居慈慶。」皇長子心憚選侍,然之。一燝語安曰:「主上沖年,無母後。外庭有事,吾受過;宮中起居,公等不得辭責。」明日,周嘉謨及左光斗疏請移宮。時首輔從哲徘徊其間,已,又欲緩移宮。一燝曰:「本朝故事,仁聖,嫡母也,移慈慶;慈聖,生母也,移慈寧。今何日,可姑緩耶?」初五日,偕同官請即日降旨,佇立宮門以俟。選侍不得已,移噦鸞宮,天子復還乾清,事始大定。帝既踐阼,從哲被劾在告,一燝遂當國,與爌相得甚歡。念內廷惟王安力衛新天子,乃引與共事。安亦傾心向之。所奏請,無不從。發內帑,抑近侍,搜遺逸,舊德宿齒布滿九列,中外欣欣望治焉。

翌年、天啓と改元し、瀋陽が陥落した。朝廷の臣僚は多く熊廷弼の再起用を請うた。一燝もまた言上した、「廷弼が遼東を守った一年間、荒廃した辺境は平穏でありました。何故罷免されたのか分かりません。廷議に下した後も、皆が畏れて、異論を唱えようとしませんでした。今後は軍国大事について、陛下は断固としてご裁断なさり、諸臣に心を洗い慮りを清めて、付和雷同を悉く打破させ、国を憂い公に奉ずるようにすべきです」。帝は優れた詔勅で褒めて答えた。まもなく詔があり、以前に廷弼を排斥した姚宗文らの官をことごとく貶めた。言路(諫官)は多く一燝を怨んだ。一燝はかつて言った、「天下の事を任ずるのは、六官(六部の長官)のみである。言路が勢いを張れば、六官は実政を行えなくなる。天下をよく治める者は、六官に事を任せ、言路にその過ちを正させ、言官が事を陳べれば、政府(内閣)がその是非を裁断するようにすれば、天下は治まる」。これにより一切の条奏は悉く部(六部)に下して議させ、道理に合わないものは、詔で留め置かれた。

原文明年,天啟改元,沈陽失。廷臣多請復用熊廷弼。一燝亦言:「廷弼守遼一載,殘疆宴然,不知何故翦除。及下廷議,又皆畏懼,不敢異同。嗣後軍國大事,陛下當毅然主持,賴諸臣洗心滌慮,悉破雷同附和,其憂國奉公。」帝優旨褒答。尋有詔盡謫前排廷弼者姚宗文等官。言路多怨一燝。一燝嘗言:「任天下事者,惟六官。言路張,則六官無實政。善治天下者,俾六官任事,言路得繩其愆,言官陳事,政府得裁其是,則天下治。」於是一切條奏悉下部議,有不經者,詔格之。

初め、選侍が宮を移そうとした時、その宦官の李進忠・劉朝・田詔らが内府の秘蔵品を盗み、乾清門を通り過ぎて転び、金宝が地面に落ちた。帝は怒り、悉く法司に下し、取り調べを急がせた。宦官たちは恐れ、流言をでっち上げ、帝が先朝の妃嬪を軽んじたため、選侍が移宮した日に、裸足で井戸に飛び込んだと言い、外廷を動揺させようとした。御史の賈継春はそこで選侍を慰める上書をした。刑部尚書の黄克纘・給事中の李春曄・御史の王業浩らがその言葉を誇張し、盗みを働いた宦官の罪を逃れさせようとした。帝は継春の妄言を憎み、かつその徒党を疑い、厳しく譴責しようとした。一燝は、天子が新たに即位したばかりで、すぐに臣下の朋党を疑えば、いずれ奸人が隙に乗じて、士大夫は必ずその禍を受けるだろうと言った。そこで上疏して帝の意を和らげ、継春を弁護し、繰り返し朋党の実体がないことを述べた。継春は官籍削除の処分で去った。御史の張慎言・高弘図が上疏して継春を救おうとしたが、帝は併せて罪にしようとし、これも一燝の言葉で止まった。帝は選侍をひどく恨み、必ず盗みを働いた宦官を誅殺しようとした。王安が司礼監にいたが、彼らを憎んでいた。諸宦官はあらゆる手を尽くして救おうとしたが、ついに果たせなかった。時が経ち帝が次第に前の事を忘れると、王安もまた魏忠賢に排斥されて死に、諸宦官は忠賢に多額の賄賂を贈って地歩を築き、上疏して冤罪を弁明した。帝は果たして劉朝・田詔の死罪を免じ、その上疏を法司に下した。一燝は執奏し、田詔らの誅殺が議決されて久しく、雪ぐべき点はなく、上疏が直接部に下されるのは、以前にこの制度はないと述べた。帝はやむなく、その上疏を内閣に下した。一燝はまた言った、「この上疏は外では通政司を経由せず、内では会極門を経由しておらず、例によって旨を擬すべきではなく、謹んで原疏を封じて返上します」。これにより忠賢らは大いに恨み、劉朝らもついに死罪を免れ、ますます任用された。

原文初,選侍將移宮,其內豎李進忠、劉朝、田詔等盜內府秘藏,過乾清門仆,金寶墮地。帝怒,悉下法司,案治甚急。群奄懼,構蜚語,言帝薄先朝妃嬪,致選侍移宮日,跣足投井,以搖惑外廷。御史賈繼春遂上安選侍書。刑部尚書黃克纘、給事中李春曄、御史王業浩輩張大其辭,欲脫盜奄罪。帝惡繼春妄言,且疑其有黨,將嚴譴之。一燝謂天子新即位,輒疑臣下朋黨,異時奸人乘間,士大夫必受其禍。乃具疏開帝意,為繼春解,而反覆言朋黨無實。繼春得削籍去。御史張慎言、高弘圖疏救繼春,帝欲並罪,亦以一燝言而止。帝憾選侍甚,必欲誅盜奄。王安為司禮,亦惡之。諸奄百方救,卒不得。久而帝漸忘前事,安亦為魏忠賢排死,諸奄乃厚賄忠賢為地,而上疏辨冤。帝果免朝、詔死,下其疏法司。一燝執奏,詔等議誅久,無可雪,疏直下部,前無此制。帝不得已,下其疏於閣。一燝復言:「此疏外不由通政司,內不由會極門,例不當擬旨,謹封還原疏。」由是忠賢輩大恨,朝等亦竟免死,益任用。

定陵の工事が完成し、忠賢はこれを自分の功績にしようとした。一燝は故事を引き合いに出し、内臣で司礼監掌印及び陵工提督でない者は濫りに恩蔭を受けることはできず、恩典三等の加増にとどめるよう擬した。客氏を論じて貶謫された諸言官を、一燝は皆上疏して救い、また客氏を外に出すよう請うた。言官が相次いで上章して沈纮を論劾すると、纮は一燝が主導していると疑い、忠賢・客氏らと結託して、一燝を齮齕した。一燝は大綱を堅持し、言路の意に従わなかった。言路はかなり怨んだ。また密かに魏忠賢・客氏らが次第に権勢を振るい、一燝が孤立しているのを窺い、この年四月、候補御史の劉重慶は遂に力を込めて一燝が任用に堪えないと誹謗した。帝は怒って重慶を貶した。一燝は再び論じて救ったが、聞き入れられなかった。そして職方郎中の余大成・御史の安伸・給事中の韋蕃・霍維華が相次いで上章して一燝を弾劾した。帝は問わなかった。まもなく維華が外転すると、その同官の孫傑は一燝が嘉謨に依頼してそうさせたと疑い、上疏して力を込めて一燝を攻撃した。一燝は上疏して弁明し罷免を求めた。帝はすでに慰留したが、給事中の侯震旸・御史の陳九疇がまた彼を弾劾し、併せて王安と結託していることを諷刺した。ここにおいて一燝は四度上疏して帰郷を乞い、忠賢が内で主導し、詔旨を伝えてその去任を許した。

原文定陵工成,忠賢欲以為功。一燝援故事,內臣非司禮掌印及提督陵工不得濫蔭,止擬加恩三等。諸言官論客氏被謫者,一燝皆疏救,又請出客氏於外。及言官交章論沈纮,纮疑一燝主之,與忠賢、客氏等比,而齮一燝。一燝持大體,不徇言路意。言路頗怨。又密窺魏、客等漸用事,一燝勢孤,是年四月,候補御史劉重慶遂力詆一燝不可用。帝怒謫重慶。一燝再論救,不聽。而職方郎中余大成、御史安伸、給事中韋蕃、霍維華交章劾一燝。帝不問。既而維華外轉,其同官孫傑疑一燝屬嘉謨為之,上疏力攻一燝。一燝疏辨求罷。帝已慰留,給事中侯震旸、御史陳九疇復劾之,並刺其結納王安。於是一燝四疏乞歸,忠賢從中主之,傳旨允其去。

先に、従哲が去り、帝はしばしば一燝を首輔と称したが、一燝は敢えて当たらず、空位にして葉向高を待った。向高が到着すると、讒言が入り、一燝が自分を阻んでいると言われた。この時至って、一燝に他意がないことを知り、力を込めて一燝に翼衛の功があると称し、去らせるべきでないと言った。帝はまた慰留したが、一燝は堅く臥して起きなかった。二年三月、十二度上疏し、ようやく駅伝で帰郷することを命じた。帰郷した後、兵部尚書の張鶴鳴が奸細杜茂・劉一巘の獄を起こし、一巘を一燝の同族と指そうとして、連座させようとした。刑部尚書の王紀が認めず、遂に排斥されて去り、一燝は冤罪が晴れた。鶴鳴は、一燝が以前に推挙した人物であった。やがて忠賢の勢力が大いに盛んになり、詔旨を偽って一燝が廷弼を誤用したことを責め、官を削り、誥命を追奪し、養馬を強制した。崇禎と改元し、詔して官を復し、官を遣わして慰問した。一燝が在位中、累進して少傅・太子太傅・吏部尚書・中極殿大学士となった。八年に卒し、少師を追贈された。福王の時、文端と追謚された。

原文先是,從哲去,帝數稱一燝為首輔,一燝不敢當,虛位俟葉向高。及向高至,入讒言,謂一燝尼己。至是,知其無他,力稱一燝有翼衛功,不可去。帝復慰留,一燝堅臥不起。二年三月,疏十二上,乃令乘傳歸。既歸,兵部尚書張鶴鳴興奸細杜茂、劉一巘獄,欲指一巘為一燝族,株連之。刑部尚書王紀不可,遂被斥去,而一燝得白。鶴鳴,一燝向所推轂者也。已而忠賢大熾,矯旨責一燝誤用廷弼,削官,追奪誥命,勒令養馬。崇禎改元,詔復官,遣官存問。一燝在位,累加少傅、太子太傅、吏部尚書、中極殿大學士。八年卒,贈少師。福王時,追謚文端。

兄に一焜・一煜がいる。

原文兄 一焜 一煜

一焜、字は元丙。万暦二十年の進士。行人に授けられた。考功郎中を歴任し、侍郎の楊時喬を補佐して京察を主管し、執政の私的な者をことごとく排斥した。後に文選に改め、太常少卿に遷り、憂いにより去った。久しくして、元の官から右僉都御史に抜擢され、浙江を巡撫した。帝は宦官の曹奉を遣わし、普陀山に鎮海寺を建立させた。一焜は巡按の李邦華と共に争って不可とし、聞き入れられなかった。織造の宦官劉成が卒すると、一焜はたびたび上疏して後任を派遣しないよう請うた。すでに許可を得たが、ちょうど宦官の呂貴に劉成の遺品を護送させようと命じたところ、奸人が遂に貴を留めて織造を監督させるよう請い、上疏が直接禁中に達した。一焜は邦華と共に極力その罪を論じ、帝はついに貴を後任に命じた。一焜はまた上疏して争ったが、回答がなかった。貴が就任すると、十条の事柄を条陳して施行し、多くは侵擾であった。一焜は上疏して反駁し、かつその手下を取り締まると、貴は威を収めた。一焜は暇を見て龕山の海塘千二百丈を築き、余杭の南湖を浚渫して復旧し、民はその利益を頼った。御史の沈珣がその贓私を誣告して弾劾すると、一焜は自ら引退した。卒し、工部右侍郎を追贈された。

原文一焜,字元丙。萬曆二十年進士。授行人。歷考功郎中,佐侍郎楊時喬典京察,盡斥執政私人。已,改文選,遷太常少卿,以憂去。久之,由故官擢右僉都御史,巡撫浙江。帝遣中官曹奉建鎮海寺於普陀山。一焜偕巡按李邦華爭不可,不聽。織造中官劉成卒,一焜屢疏請勿遣代。已得請,會命中官呂貴護成遺裝,奸人遂請留貴督織造,疏直達禁中。一焜與邦華極論其罪,帝卒命貴代之。一焜復疏爭,不報。貴既任,條行十事,多侵擾。一焜疏駁,且禁治其爪牙,貴為斂威。一焜以暇築龕山海塘千二百丈,浚復餘杭南湖,民賴其利。御史沈珣誣訐其贓私,一焜自引去。卒,贈工部右侍郎。

一煜は、兵部郎中であった。

原文一煜,兵部郎中。

韓爌

原文韓爌

韓爌、字は象雲、蒲州の人。万暦二十年の進士。庶吉士に選ばれた。編修に進み、少詹事を歴任し、東宮講官を充任した。四十五年、礼部右侍郎に抜擢され、詹事府を協理した。久しくして、庶吉士の教習を命じられた。

原文韓爌,字象雲,蒲州人。萬曆二十年進士。選庶吉士。進編修,歷少詹事,充東宮講官。四十五年,擢禮部右侍郎,協理詹事府。久之,命教習庶吉士。

泰昌元年八月、光宗が帝位を嗣ぐと、礼部尚書兼東閣大学士に拝され、機務に参与した。まもなく、光宗の病が非常に重くなり、方従哲・劉一燝と共に顧命を受けた。当時、宮中と政府は危険で疑わしく、爌は誠を尽くして翼衛し、内外が頼りとして重んじた。大帥の李如柏・如楨兄弟が罪があり、逮捕して処罰すべきところ、中旨で寛大にした。爌と一燝は執奏し、法律に従って逮捕させた。登極の恩典により、太子太保・戸部尚書・文淵閣大学士を加えられた。従哲が去り、一燝が国政を執ると、爌は心を合わせて補佐した。

原文泰昌元年八月,光宗嗣位,拜禮部尚書兼東閣大學士,入參機務。未幾,光宗疾大漸,與方從哲、劉一燝同受顧命。時宮府危疑,爌竭誠翼衛,中外倚以為重。大帥李如柏、如楨兄弟有罪,當逮治,中旨寬之。爌與一燝執奏,逮如律。以登極恩,加太子太保、戶部尚書、文淵閣大學士。從哲去,一燝當國,爌協心佐理。

天啓元年正月、両人は帝が皇孫であった時、一度も出閣して読書しなかったことを理由に、十二日からすぐに経筵を開き、以後日講を絶やさないよう請い、聞き入れられた。遼陽が陥落し、都城は震驚した。爌と一燝は人情が怠けているとして、御札を擬して百官を戒め励まし、共に実効を図るよう請い、帝はこれを採用した。廷臣は兵糧が大きく不足しているため、言葉を合わせて内帑金の発給を請い、爌と一燝もまたそのように言上し、詔して百万両を発給した。大婚の礼が成就し、少保・吏部尚書・武英殿大学士を加えられ、一子を尚宝司丞に蔭官した。まもなく、貴州の苗平定の功により、少傅・太子太傅・建極殿大学士を加えられた。帝は乳母の客氏を奉聖夫人に封じ、大婚が成就したので、外に出るべきところ、依然として宮中に留めた。御史の畢佐周が痛切に諫め、六科・十三道もまた連署して争ったが、皆聞き入れられなかった。爌と一燝は祖制を引き合いに出して言上し、ようやく梓宮が発引するのを待ち、日を選んで出宮するよう命じた。

原文天啟元年正月,兩人以帝為皇孫時,未嘗出閣讀書,請於十二日即開經筵,自後日講不輟,從之。遼陽失,都城震驚。爌、一燝以人情偷玩,擬御劄戒勵百官,共圖實效,帝納之。廷臣以兵餉大絀,合詞請發帑,爌、一燝亦以為言,詔發百萬兩。大婚禮成,加少保、吏部尚書、武英殿大學士,蔭一子尚寶司丞。未幾,以貴州平苗功,加少傅、太子太傅、建極殿大學士。帝封乳母客氏為奉聖夫人,大婚成,當出外,仍留之宮中。御史畢佐周切諫,六科、十三道復連署爭,皆不納。爌、一燝引祖制為言,乃命俟梓宮發引,擇日出宮。

二年四月、礼部尚書孫慎行が方従哲を弾劾し、李可灼の紅丸薬を用いた罪は弑しい逆に等しいとし、朝廷の議論は紛糾した。一燝は既に去位していたが、爌は特に上疏してこの事を弁明し、言うには、

原文二年四月,禮部尚書孫慎行劾方從哲用李可灼紅丸藥,罪同弒逆,廷議紛然。一燝已去位,爌特疏白其事,曰:

先帝は去年八月朔日に践祚された。臣及び一燝は二十四日に内閣に入った。ちょうど鴻臚寺官李可灼が仙丹があると進上したいと言った。従哲は愕然とし、用意していた問安の掲帖を取り出し、「薬を進めるのは十分に慎むべき」との言葉があった。臣等は深くもっともだと思い、すぐにこれを諭して退かせた。二十七日に群臣を召見され、先帝は自ら薬を用いないこと二十余日と仰せられた。二十九日に二人の内臣に会い、帝の病状がすでに大漸したと聞き、鴻臚寺官李可灼が思善門に来て薬を進めようとしていると言った。従哲及び臣等は皆、彼が仙丹と称するので信じるに堪えないと言った。この日もなお召見があった。諸臣が問安を終えると、先帝はすぐに皇上を顧み、臣等に輔佐して堯・舜のようになるよう命じられた。また寿宮について話され、臣等が先帝の山陵の封について申し上げると、「これが朕の寿宮である」と言われた。そこで鴻臚官が薬を進めるとの話があり、従哲が奏上して「李可灼は自ら仙丹と称しますが、臣等は未だ信じるに足りません」と言った。先帝はすぐに宣伝を命じられた。臣等が出ると、しばらくして可灼が到着し、共に入って診視し、病源と治法について甚だ合致すると言った。先帝は喜び、速やかに進めるよう命じられた。臣等は再び退出し、諸医と相談させた。一燝が臣に言うには、その郷里の二人がこれを用いて、損益半ばであったという。諸臣は互いに顔を見合わせ、実際に宜しいか否かを明言することはできなかった。しばらくして、先帝は薬を調合するよう急がせ、臣等は再び共に入った。可灼が調合して進上すると、先帝は喜んで「忠臣、忠臣」と言われた。臣等が退出すると、しばらくして、中使が伝えるには、聖体は服薬後暖かく潤い舒暢で、飲膳を進めたいと思われ、諸臣は歓躍して退いた。申の末刻頃、可灼が出て来て言うには、「聖上は薬力が続かないのを恐れ、もう一丸進めたいと思われる」と。諸医は急ぐべきでないと言った。しかし伝達が益々急を告げたため、ついに再進上を終えた。臣等が再服後の様子を尋ねると、平善で初めのようだと答えた。これがこの日の情事である。翌日、臣等が朝廷に急いだ時、先帝はすでに卯の刻に上賓されていた。痛ましいことよ。

原文先帝以去年八月朔踐阼。臣及一燝以二十四日入閣。適鴻臚寺官李可灼云有仙丹欲進。從哲愕然,出所具問安揭,有「進藥十分宜慎」語。臣等深以為然,即諭之去。二十七日召見群臣,先帝自言不用藥已二十餘日。至二十九日遇兩內臣,言帝疾已大漸,有鴻臚寺官李可灼來思善門進藥。從哲及臣等皆言彼稱仙丹,便不敢信。是日仍召見。諸臣問安畢,先帝即顧皇上,命臣等輔佐為堯、舜。又語及壽宮,臣等以先帝山陵封,則云:「是朕壽宮。」因問有鴻臚官進藥。從哲奏云:「李可灼自謂仙丹,臣等未敢信。」先帝即命傳宣。臣等出,移時可灼至,同入診視,言病源及治法甚合。先帝喜,命速進。臣等復出,令與諸醫商榷。一燝語臣,其鄉兩人用此,損益參半。諸臣相視,實未敢明言宜否。須臾,先帝趨和藥,臣等復同入。可灼調以進,先帝喜曰:「忠臣,忠臣。」臣等出,少頃,中使傳聖體服藥後暖潤舒暢,思進飲膳,諸臣歡躍而退。比申末,可灼出云:「聖上恐藥力不繼,欲再進一丸。」諸醫言不宜驟。乃傳趨益急,因再進訖。臣等問再服復何狀,答言平善如初。此本日情事也。次日,臣等趨朝,而先帝已於卯刻上賓矣,痛哉!

先帝が群臣を召見された時、袞衣をまとって机により、厳然として顧命された。皇上は焦がれるような顔で側に侍し、臣等は周りに跪いて彷徨し、薬を手に前に進み、天に呼びかけて祈った。臣子がこの際に臨んで、身代わりになれないことを憾んだ。今いわゆる慎むべき、止めるべきというのは、心の中で慮らなかったわけではなく、実際に口に出さなかっただけで、また心に芽生えさせもしなかったのである。先帝の臨御はわずか旬月に止まったが、恩沢は実に九垓に及んだ。臣子たる者はどのように頌揚し、どのように記述すべきか。礼臣の忠憤の激しい談論と、遠近の驚疑の紛糾した議論は、当時どのような情景であったかを知らず、薬を進めた始末は実にただこのようであった。もし実情に基づいて詳しく分析せず、非命の凶称を挙げて、考終の令主に加えるならば、先帝の在天の霊が痛恨怨むことがないとは言えず、皇上の終天の念はどうして懐に抱くことができようか。綸音を発布して、中外に布告し、法を議する者に小疑を以て大疑となさしめず、史を編む者に信史を以て謗史となさしめないよう乞う。

原文方先帝召見群臣時,被袞憑幾,儼然顧命。皇上焦顏侍側,臣等環跪仿徨,操藥而前,籲天以禱。臣子際此,憾不身代。凡今所謂宜慎宜止者,豈不慮於心,實未出於口,抑且不以萌諸心。念先帝臨御雖止旬月,恩膏實被九垓。為臣子者宜何如頌揚,何如紀述。乃禮臣忠憤之激談,與遠邇驚疑之紛議,不知謂當時若何情景,而進藥始末實止如此。若不據實詳剖,直舉非命之兇稱,加諸考終之令主,恐先帝在天之靈不無恫怨,皇上終天之念何以為懷。乞渙發綸音,布告中外,俾議法者勿以小疑成大疑,編摹者勿以信史為謗史。

文震孟が建言して譴責を受けると、論救に甚だ力を尽くした。三年、山東で妖賊を平定した功により、少師・太子太師を加えられた。時に葉向高が国政を執り、爌はその次であった。楊漣が魏忠賢の二十四大罪を弾劾すると、忠賢は甚だ懼れ、爌に援助を求めた。爌は応じず、忠賢は深く恨んだ。向高が罷免されると、爌が首輔となり、何事にも公正を保ち、善類に倚り頼まれた。しかし向高は智術があり、群奄を籠絡したが、爌はただ廉直を以て自らを守り、勢い敵うことができなかった。而同官の魏広微はまた深く忠賢と結び、邪党を遍く引き入れた。その冬、忠賢は会推の事を仮託して趙南星・高攀龍を追放した。爌は急いで朱国禎等を率いて上言した。「陛下は一日に両大臣を去らせ、臣民は失望します。かつ中旨が直接宣され、再び閣に到らず、また攀龍の一疏は臣等が擬上したものを、また更易され、大いに聴聞を駭かせ、国体を傷つけます」。忠賢はますます悦ばず、旨を伝えて厳しく責めた。まもなく、また楊漣・左光斗・陳於廷を追放し、朝政は大いに変わり、忠賢の勢いはますます張った。

原文文震孟建言獲譴,論救甚力。三年,以山東平妖賊功,加少師、太子太師。時葉向高當國,爌次之。及楊漣劾魏忠賢二十四大罪,忠賢頗懼,求援於爌。爌不應,忠賢深銜之。既向高罷,爌為首輔,每事持正,為善類所倚。然向高有智術,籠絡群奄,爌惟廉直自持,勢不能敵。而同官魏廣微又深結忠賢,遍引邪黨。其冬,忠賢假會推事逐趙南星、高攀龍,爌急率朱國禎等上言:「陛下一日去兩大臣,臣民失望。且中旨徑宣,不復到閣,而攀龍一疏,經臣等擬上者,又復更易,大駭聽聞,有傷國體。」忠賢益不悅,傳旨切責。未幾,又逐楊漣、左光斗、陳於廷,朝政大變,忠賢勢益張。

故事により、閣中の秉筆は首輔一人に止まる。広微はその権柄を分かちたいと思い、忠賢に旨を伝えるよう嘱し、爌に同寅協恭を諭し、次輔を責めて伴食するなとさせた。爌は惶懼し、すぐに抗疏して休暇を乞うた。おおよそ言うには、「臣が綸扉に備位し、咎愆は日々積もります。例えば戎を詰めるにはまず営衛を先にすべきなのに、兵を観ること禁掖にあり、宵旰の憂いを紓ぐことができません。忠直な者を尚お召還することが遅れ、朝堂で榜掠し、震霆の怒りを回らすことができません。後先の諸臣の罷斥、諭旨が中より出て紛更されること、先んじて深く慮り調剤の方策を持つことができず、また臨事に執持して封還の戇を為すこともできません。皆、臣の罪の大なるものです。皇上はこれを問わずに放ち、臣に協恭を責め、同官に協賛を責められます。同官は詔を奉じて事に従い、臣は過ちを補う由がありません。急ぎ臣の官を褫奪し、佐理溺職の戒めとなさってください」。旨を得て、「卿は親しく顧命を受け、忠を尽くし職を尽くすべきである。乃ち上に非を帰し、退いて後言あり。今また悻悻として去らんことを求む。馳驛して還籍せしむべし」。諸輔臣は故事の如く、体貌を加えるよう請うたが、答えなかった。爌は疏を奉じて謝し、「左右前後は務めて端良に近づき、綸綍を重んじて仕途を重んじ、紀綱を粛して朝寧を粛す」との言葉があった。忠賢及びその党はますます恨んだ。爌が去ると、朱国禎が首輔となった。李蕃が攻めて去らせ、顧秉謙がその位に代わった。公卿庶僚は皆、忠賢の私人となった。

原文故事,閣中秉筆止首輔一人。廣微欲分其柄,囑忠賢傳旨,諭爌同寅協恭,而責次輔毋伴食。爌惶懼,即抗疏乞休。略言:「臣備位綸扉,咎愆日積。如詰戎宜先營衛,而觀兵禁掖,無能紓宵旰憂。忠直尚稽召還,而榜掠朝堂,無能回震霆怒。後先諸臣之罷斥,諭旨中出之紛更,不能先時深念,有調劑之方,又不能臨事執持,為封還之戇。皆臣罪之大者。皇上釋此不問,責臣以協恭,責同官以協贊。同官奉詔以從事,臣欲補過無由矣。乞亟褫臣官,為佐理溺職之戒。」得旨:「卿親承顧命,當竭忠盡職。乃歸非於上,退有後言。今復悻悻求去,可馳驛還籍。」諸輔臣請如故事,加以體貌,不報。爌疏謝,有「左右前後務近端良,重綸綍以重仕途,肅紀綱以肅朝寧」語。忠賢及其黨益恨。爌去,朱國禎為首輔。李蕃攻去之,顧秉謙代其位。公卿庶僚,皆忠賢私人矣。

五年七月、逆党の李魯生が爌を弾劾し、削籍除名した。また他の事を仮託して贓二千を坐し、その家人を獄に斃した。爌は田宅を売り、親故から借りて償い、ついに先人の墓の上に棲み止まった。

原文五年七月,逆黨李魯生劾爌,削籍除名。又假他事坐贓二千,斃其家人於獄。爌鬻田宅,貸親故以償,乃棲止先墓上。

莊烈帝が登極すると、故官に復した。崇禎元年、言者が争って召用を請うたが、逆党の楊維垣等に阻まれ、ただ勅を賜って存問し、その一子に官職を与えたのみであった。五月に至り、ようやく行人を遣わして召した。十二月に還朝し、再び首輔となった。帝は文華後殿で章奏を閲し、爌等を召して、旨を擬するには異同を消し、誠を開き衷を和らげ、至当を期すよう諭した。爌等は頓首して謝し、退いて言うには、「上の諭されることは甚だ善いが、密勿の政機については、諸臣が参互に擬議し、必ずしも分合を顕言する必要はありません。臣等が晨夕に入直するについては、勢い賓客に報謝することができません。政事を商う者は、朝房で相見えるべきで、一切私邸での交際は禁ずべきです」。帝はすぐに百僚に遵行するよう諭した。

原文莊烈帝登極,復故官。崇禎元年,言者爭請召用,為逆黨楊維垣等所扼,但賜敕存問,官其一子。至五月,始遣行人召之。十二月還朝,復為首輔。帝御文華後殿閱章奏,召爌等,諭以擬旨務消異同,開誠和衷,期於至當。爌等頓首謝,退言:「上所諭甚善,而密勿政機,諸臣參互擬議,不必顯言分合。至臣等晨夕入直,勢不能報謝賓客。商政事者,宜相見於朝房,而一切禁私邸交際。」帝即諭百僚遵行。

二年正月、大学士劉鴻訓が張慶臻の敕書の事で重譴を受けると、爌は疏を奉じて救ったが、聞き入れられなかった。温体仁が錢謙益を訐り、御史任贊化もまた疏を奉じて体仁を訐った。帝は廷臣を召見し、体仁は力任せに贊化及び御史毛羽健を謙益の死党と誹謗した。帝は怒り、贊化を厳しく責めた。爌は贊化を寛大にして体仁を安んずるよう請うた。帝はそこで言った。「進言する者は国を憂えずして党を植え、自ら東林と名乗り、朝事に何の補いがあろうか」。爌は退き、詳しく掲帖を上言した。「人臣は党を以て君に事えるべからず、人君もまた党を以て臣を疑うべからず。ただその才品の臧否、職業の修廃を論じて、黜陟すべきです。もし戈矛が妄りに朝堂に起り、畛域が横に宮府に分かれるならば、国の福ではありません」。また同官を率いて力任せに贊化を救ったが、納められなかった。皇長子が生まれると、天下の積逋を尽く蠲免するよう請うた。報可された。

原文二年正月,大學士劉鴻訓以張慶臻敕書事被重譴,爌疏救,不聽。溫體仁訐錢謙益,御史任贊化亦疏訐體仁。帝召見廷臣,體仁力詆贊化及御史毛羽健為謙益死黨。帝怒,切責贊化。爌請寬贊化以安體仁。帝因謂:「進言者不憂國而植黨,自名東林,於朝事何補?」爌退,具揭言:「人臣不可以黨事君,人君亦不可以黨疑臣。但當論其才品臧否,職業修廢,而黜陟之。若戈矛妄起於朝堂,畛域橫分於宮府,非國之福也。」又率同官力救贊化,不納。皇長子生,請盡蠲天下積逋,報可。

時に大いに魏忠賢の党を治め、韓爌と李標・錢龍錫がこれを主導した。二百六十二人を列挙して上奏し、罪を六等に分け、「欽定逆案」と名付け、天下に頒行した。言官は争って吏部尚書王永光を攻撃し、南京禮部主事王永吉の言うところが特に激しかった。帝は怒り、彼を罪に処そうとした。韓爌らは、王永吉を赦さなければ王永光は必ず安堵しないと述べ、結局俸給を一年奪うのみで止めた。工部尚書張鳳翔が廠・庫の積弊を奏上した。帝は怒り、廷臣を召し出して対面で詰責した。巡視科道の王都・高賚明の二人が強く弁明したので、帝は錦衣衛の官に命じて彼らを捕らえさせた。韓爌・李標・錢龍錫はともに救い解こうとした。そしてこの日、王永光は毛羽健の上疏による弾劾を受け、帝に主使者を究明するよう請うた。韓爌は退いて、王都らを救うことを申し立て、ついで王永光が言官を究明すべきでないと述べた。帝は聞き入れなかったが、しかし毛羽健は結局免れた。

原文時大治忠賢黨,爌與李標、錢龍錫主之。列上二百六十二人,罪分六等,名曰「欽定逆案」,頒行天下。言者爭擊吏部尚書王永光,南京禮部主事王永吉言之尤力。帝怒,將罪之。爌等言永吉不宥,永光必不安,乃止奪俸一年。工部尚書張鳳翔奏廠、庫積弊。帝怒,召對廷臣詰責。巡視科道王都、高賚明二人力辨,帝命錦衣官執之,爌、標、龍錫並救解。而是日永光以羽健疏劾,請帝究主使者。爌退,申救都等,因言永光不宜請究言官。帝不納,然羽健卒獲免。

初め、熊廷弼が既に死んだ後、その首は九辺に伝示され、屍は帰葬を得られなかった。この時に至り、その子が宮闕に詣でて上疏して請うた。韓爌らはこれにより言上した、「廷弼の死は、逆奄(魏忠賢)が楊漣・魏大中を殺そうとして、行賄を誣い、これにより漣らをことごとく殺し、さらに根拠なく廷弼に贓銀十七万を着せ、刑罰が妻子にまで及び、冤罪の甚だしいものである」と。帝はようやく収葬を許した。

原文初,熊廷弼既死,傳首九邊,屍不得歸葬。至是,其子詣闕疏請。爌等因言:「廷弼之死,由逆奄欲殺楊漣、魏大中,誣以行賄,因盡殺漣等,復懸坐廷弼贓銀十七萬,刑及妻孥,冤之甚者。」帝乃許收葬。

時に遼東の事態が急を告げ、朝議は各鎮の兵を淘汰しようとした。また兵科給事中劉懋の上疏により、駅卒の削減を議した。帝が韓爌に問うと、韓爌は言った、「兵の淘汰は、占冒を清め及び増設された冗兵に止めるべきである。要衝の地の定員兵は淘汰すべきではない。駅伝は疲弊しているので、按臣に責めて核減させ、民の困窮を蘇らせるべきであり、その節省した分は、なお民に還すべきである」と。帝はこれをよしとした。御史高捷・史褷が罪により免官され、王永光が力を入れて彼らを推挙した。都御史曹於汴がこれに反対し、王永光が再び上疏して争った。韓爌は言った、故事によれば都察院の諮問に従って任用すべきであると。帝はちょうど王永光を寵眷していたので、従わなかった。九月、慶典を行おうとしたので、秋の処刑を停止するよう請うたが、これも聞き入れられなかった。

原文時遼事急,朝議汰各鎮兵。又以兵科給事中劉懋疏,議裁驛卒。帝以問爌,爌言:「汰兵止當清占冒及增設冗兵爾。沖地額兵不可汰也。驛傳疲累,當責按臣核減,以蘇民困,其所節省,仍還之民。」帝然之。御史高捷、史褷以罪免,永光力引之。都御史曹於汴持不可,永光再疏爭。爌言,故事當聽都察院咨用。帝方眷永光,不從。九月,以將行慶典,請停秋決,亦不從。

時に逆案は定まったとはいえ、王永光及び袁弘勛・高捷・史褷らは日々翻案を図っていた。十月に至り、大清兵が畿甸に入り、都城は戒厳となった。初め、袁崇煥が入朝した時、かつて錢龍錫と辺境の事を語ったことがあった。錢龍錫は東林党の首魁である。王永光らは袁崇煥を因って大獄を起こし、東林党をことごとく傾け尽くそうと謀り、大清兵の侵入は袁崇煥が毛文龍を殺したことによるのだと主張した。高捷は遂にまず錢龍錫を攻撃し、追放した。明年正月、中書舍人で尚寶卿を加えられた原抱奇は、もとより財を輸じて進んだ者であったが、また韓爌を弾劾し、和議を主として国を誤り、寇を招き君を欺き、郡邑は残破し、宗社は危うく、一つの策も設けず、一人も抜擢せず、成敗を坐視し、人の国を以て僥倖を求めたとして、錢龍錫とともに斥くべきであるとした。その言うところの「主款」とは、韓爌が袁崇煥の座主であったからである。帝は韓爌を去らせるのを重んじ、原抱奇の官位を貶めた。間もなく、左庶子丁進は昇進が期に遅れたことを怨んで韓爌を弾劾し、また工部主事李逢申の弾劾上疏が続いて上った。韓爌は即座に三度上疏して病を理由に引退を請うた。詔により白金・彩幣を賜い、駅馬を馳せて行人に護送させて帰し、すべて彝典の通りであった。丁進・李逢申はともに韓爌が会試で挙げた士であった。韓爌は先後して宰相となり、老成で慎重であった。正人を引き立て、邪党を抑え、天下はその賢を称えたが、ただ嘗て王永光を庇ったと言われる。十七年春、李自成が蒲州を陥落させ、韓爌に出て会うよう迫ったが、従わなかった。賊はその孫を捕らえて脅した。韓爌には孫が一人しかいなかったので、出て会い、賊はその孫を釈放した。韓爌は帰り、憤り鬱して卒した。年八十であった。

原文時逆案雖定,永光及袁弘勛、捷、褷輩日為翻案計。至十月,大清兵入畿甸,都城戒嚴。初,袁崇煥入朝,嘗與錢龍錫語邊事。龍錫,東林黨魁也,永光等謀因崇煥興大獄,可盡傾東林。倡言大清兵之入,由崇煥殺毛文龍所致。捷遂首攻龍錫,逐之。明年正月,中書舍人加尚寶卿原抱奇故由輸貲進,亦劾爌主款誤國,招寇欺君,郡邑殘破,宗社阽危,不能設一策,拔一人,坐視成敗,以人國僥幸,宜與龍錫並斥。其言主款者,以爌,崇煥座主也。帝重去爌,貶抱奇秩。無何,左庶子丁進以遷擢愆期怨爌,亦劾之,而工部主事李逢申劾疏繼上。爌即三疏引疾。詔賜白金彩幣,馳驛遣行人護歸,悉如彜典。進、逢申並爌會試所舉士也。爌先後作相,老成慎重。引正人,抑邪黨,天下稱其賢,獨嘗庇王永光云。十七年春,李自成陷蒲州,迫爌出見,不從。賊執其孫以脅。爌止一孫,乃出見,賊釋其孫。爌歸,憤郁而卒,年八十矣。

朱國祚

原文朱國祚

朱國祚、字は兆隆、秀水の人。萬曆十一年の進士第一。修撰に授けられた。洗馬に進み、皇長子の侍班官となり、まもなく諭徳に進んだ。日本が朝鮮を陥落させると、石星が沈惟敬の言に惑わされ、封貢を力主した。國祚は面と向かって石星を詰問した、「これは我が郷曲の無頼で、縁故を頼りに奸利をなす者に過ぎない。公はただ辱国を考えないのか」と。石星は用いなかった。二十六年、超擢されて禮部右侍郎となった。湖広の税監陳奉が甚だ横暴であった。國祚は巡按御史曹楷に書を送り、その状を発するよう命じた。帝は怒り、曹楷を捕らえんとし、陳奉もまたこれにより撤去された。尚書余繼登が卒すると、國祚が部の事を摂った。

原文朱國祚,字兆隆,秀水人。萬曆十一年進士第一。授修撰。進洗馬,為皇長子侍班官,尋進諭德。日本陷朝鮮,石星惑沈惟敬言,力主封貢。國祚面詰星:「此我鄉曲無賴,因緣為奸利耳,公獨不計辱國乎?」星不能用。二十六年,超擢禮部右侍郎。湖廣稅監陳奉橫甚。國祚貽書巡按御史曹楷,令發其狀。帝怒,幾逮楷,奉亦因此撤去。尚書余繼登卒,國祚攝部事。

時に皇長子の儲位が未だ定まらず、冠婚が期を過ぎていた。國祚はたびたび上疏して諫めた。戚臣の鄭國泰が先に冠婚を行い、後に冊立すべきと請うた。國祚は抗疏して言った、「本朝では外戚は政事に関与できない。冊立の大典は、國泰の言うべきことではない。況んや先に冊立し、後に冠婚すれば、その儀仗・冠服の制、祝醮・敕戒の辞、升降・坐立の位、朝賀拜舞の節は、名に因って分を制し、分に因って礼を制するもので、甚だ厳かで且つ弁えがある。一旦その順序を失えば、名分は大きく乖く。累朝の祖制に違背し、皇上の明綸に背き、天下の清議に犯すは、皆この言によるものである」と。また言った、「冊立の事は、理の上で緩めることはできない。初めは小臣が激しく騒ぐからと遅らせ、後には群臣が言わないからと、嫡子を待つと言い、中宮が久しく出産がなかったからと、皇長子が体弱いから強くなるのを待つと言い、今はまた両宮の落成を待っている。三殿が火災に遭って以来、朝廷の大政令は概ね文華殿で行われている。三礼の行われるのは、殿にあって宮にはない。近年珠寶の調達に奔走し、戸部が進上するものは、陛下の大婚の時の数倍に及ぶ。遠近は陛下が珠寶の未備を借りて、典禮を遅らせていると疑っている。且つ詔旨により珠寶を采辦する額は二千四百万であるが、天下の賦税の額はわずか四百万に過ぎない。たとえ国用に充てず、辺境の需要に給さずとも、なお六年を要して足りる。必ず満ちるのを取って待ってから大礼を行えば、ほとんど時がないであろう」と。既にして、また言った、「太祖・成祖・仁宗は即位の初めに、即ち儲貳を立てた。宣宗・英宗が皇太子に冊立された時は、わずか二歳、憲宗・孝宗は六歳、陛下もまた六歳であった。十九歳になっても冊立しないということは聞いたことがない」と。國祚が尚書を摂ること近く二年、国本を争うこと数十疏に及び、儲位はついに定まった。

原文時皇長子儲位未定,冠婚逾期,國祚屢疏諫。戚臣鄭國泰請先冠婚,後冊立。國祚抗疏言:「本朝外戚不得與政事。冊立大典,非國泰所宜言。況先冊立,後冠婚,其儀仗、冠服之制,祝醮、敕戒之辭,升降、坐立之位,朝賀拜舞之節,因名制分,因分制禮,甚嚴且辨。一失其序,名分大乖。違累朝祖制,背皇上明綸,犯天下清議,皆此言也。」又言:「冊立之事,理不可緩。初謂小臣激聒,故遲之。後群臣勿言,則曰待嫡。及中官久無所出,則曰皇長子體弱,須其強。今又待兩宮落成矣。自三殿災,朝廷大政令率御文華殿。三禮之行,在殿不在宮。頃歲趨辦珠寶,戶部所進,視陛下大婚數倍之。遠近疑陛下借珠寶之未備,以遲典禮。且詔旨采辦珠寶,額二千四百萬,而天下賦稅之額乃止四百萬。即不充國用,不給邊需,猶當六年乃足。必待取盈而後舉大禮,幾無時矣。」已,又言:「太祖、成祖、仁宗,即位初,即建儲貳。宣宗、英宗冊為皇太子時,止二歲,憲宗、孝宗止六歲,陛下亦以六歲。未聞年十九而不冊立者。」國祚攝尚書近二年,爭國本至數十疏,儲位卒定。

陝西狄道で山が崩れ、その南に五つの小山が湧き出た。國祚は修省を請うた。社稷壇の枯樹が煙を生じたので、また人心を安んじ、人望を収め、下情を通じ、濫獄を清めるの四事を陳べた。雲南巡撫陳用賓が土産物を進上したので、國祚はこれを弾劾した。まもなく左侍郎に転じ、吏部に改めた。御史湯兆京がその酒に耽り行いを越えたことを弾劾したが、帝は問わず、國祚は遂に病を理由に帰郷した。

原文陜西狄道山崩,其南湧小山五,國祚請修省。社稷壇枯樹生煙,復陳安人心、收人望、通下情、清濫獄四事。雲南巡撫陳用賓進土物,國祚劾之。尋轉左侍郎,改吏部。御史湯兆京劾其縱酒逾檢,帝不問,國祚遂引疾歸。

光宗が即位すると、國祚が嘗て潜邸に侍したことを以て、特旨をもって禮部尚書兼東閣大学士に拝し、内閣に入り機務に参与した。天啓元年六月に還朝した。まもなく太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。國祚は平素の行いが清く慎み深く、事は大体を堅持し、長者と称された。明年の会試では、故事によれば総裁は内閣一人のみを用いるが、この科では何宗彥及び國祚を用い、中旨により特用されたことを譏る者があった。國祚は事を竣えた後、即ち罷免を求め、優詔で許さなかった。都御史鄒元標が経筵に侍していて躓いた。帝は中使を遣わして様子を問わせた。國祚が進み出て言った、「元標は先朝において直言して杖罰を受け、故に歩行がなお困難なのです」と。帝はこれにより顔色を改めた。刑部尚書王紀が魏忠賢に追放された時、國祚は上疏を合わせて救い、さらに私揭を具して争った。王紀が禮部侍郎であった時、嘗て事に因って國祚に逆らった者であった。

原文光宗即位,以國祚嘗侍潛邸,特旨拜禮部尚書兼東閣大學士,入閣參機務。天啟元年六月還朝。尋加太子太保,進文淵閣。國祚素行清慎,事持大體,稱長者。明年會試,故事,總裁止用內閣一人,是科用何宗彥及國祚,有譏其中旨特用者。國祚既竣事,即求罷,優詔不允。都御史鄒元標侍經筵而躓,帝遣中使問狀。國祚進曰:「元標在先朝直言受杖,故步履猶艱。」帝為之改容。刑部尚書王紀為魏忠賢所逐,國祚合疏救,復具私揭爭之。紀為禮部侍郎時,嘗以事忤國祚者也。

三年、少保・太子太保・戸部尚書に進み、武英殿に改めた。十三度上疏して休職を乞い、詔により少傅兼太子太傅を加えられ、駅馬を乗り継いで帰郷した。明年に卒した。太傅を追贈され、諡は文恪。從子の大啓は、文選郎中となり、ついに刑部左侍郎に至った。

原文三年,進少保、太子太保、戶部尚書,改武英殿。十三疏乞休,詔加少傅兼太子太傅,乘傳歸。明年卒。贈太傅,謚文恪。從子大啟,文選郎中,終刑部左侍郎。

朱國禎

原文朱國禎

同時代の朱國禎は、字を文寧といい、烏程の人である。萬曆十七年に進士となり、累進して祭酒に至ったが、病を理由に辞職して帰郷し、長く出仕しなかった。天啓元年、禮部右侍郎に抜擢されたが、着任しなかった。三年正月、禮部尚書兼東閣大學士に任じられ、顧秉謙・朱延禧・魏廣微とともに任命された。内閣にはすでに葉向高・韓爌・何宗彥・朱國祚・史繼偕がおり、さらに急に四人が増えたため、直房はほとんど座る余地もなかった。六月、國禎が朝廷に戻ると、秉謙と延禧は名簿での順位が後であったため、謙遜して國禎の次席に座った。文淵閣大學士に改められ、累進して少保兼太子太保を加えられた。魏忠賢が国政を窃取すると、國禎は向高を補佐し、多く調停と保護に努めた。四年夏、楊漣が忠賢を弾劾すると、廷臣の多くは向高に上疏を勧め、中には罵る者もいた。向高はひどく憤慨したが、國禎は彼を容れるよう請うた。やがて向高が密奏して忠賢に逆らい、去ることを決意し、國禎に言った。「私が去れば、蒲州(韓爌)はさらに敵ではなくなる。貴公も早く帰るべきだ。」向高が罷免されると、爌が首輔となり、爌が罷免されると、國禎が首輔となった。廣微は忠賢と表裏して悪事を働き、國禎を蔑ろにした。その冬、逆党の李蕃に弾劾され、三度上疏して病を理由に辞職を願い出た。忠賢はその党に言った。「この老人も邪な人物だが、悪事は働かない。うまく去らせてやれ。」そこで少傅を加え、銀幣を賜り、子を中書舍人に任官させ、行人を派遣して帰郷させ、月給と輿夫の供給はすべて定めに従った。崇禎五年に死去した。太傅を追贈され、文肅と諡された。

原文同時朱國禎,字文寧,烏程人。萬曆十七年進士。累官祭酒,謝病歸,久不出。天啟元年,擢禮部右侍郎,未上。三年正月,拜禮部尚書兼東閣大學士,與顧秉謙、朱延禧、魏廣微並命。閣中已有葉向高、韓爌、何宗彥、朱國祚、史繼偕,又驟增四人,直房幾不容坐。六月,國禎還朝,秉謙、延禧以列名在後,謙居其次。改文淵閣大學士,累加少保兼太子太保。魏忠賢竊國柄,國禎佐向高,多所調護。四年夏,楊漣劾忠賢,廷臣多勸向高出疏,至有詬者。向高慍甚,國禎請容之。及向高密奏忤忠賢,決計去,謂國禎曰:「我去,蒲州更非其敵,公亦當早歸。」蒲州謂爌也。向高罷,爌為首輔,爌罷,國禎為首輔。廣微與忠賢表裏為奸,視國禎蔑如。其冬為逆黨李蕃所劾,三疏引疾。忠賢謂其黨曰:「此老亦邪人,但不作惡,可令善去。」乃加少傅,賜銀幣,蔭子中書舍人,遣行人送歸,月廩、輿夫皆如制。崇禎五年卒。贈太傅,謚文肅。

何宗彥

原文何宗彥

何宗彥は、字を君美という。その父は金谿から隨州に客居し、そこで家を構えた。宗彥は萬曆二十三年に進士に及第した。累進して詹事となった。四十二年、禮部右侍郎に転じ、部の事務を代行した。福王が河南に封国するにあたり、際限なく要求を繰り返した。宗彥は上疏し、憂慮すべき点が六つあると述べたが、帝は聞き入れなかった。また、東宮(皇太子)の講学、皇孫の傅(教育係)への就学、および瑞王・惠王・桂王の三王の婚礼をしばしば上疏して請うた。太子の生母である王貴妃が薨去した際、守墳の内官を置かず、また墳戸と贍地(墓守の土地)も設けなかったので、宗彥は強く争った。梃撃事件が起こると、宗彥はこれに乗じて言った。「天下は陛下が長らく太子を軽んじていると疑っています。太子は軽んじられ続ける状況に置かれ、慈慶宮の門の守りが年老いた二人の内侍だけで、中門には人影もありません。どうか直ちに張差を朝廷で取り調べ、青宮(太子宮)に関する諸典礼はすべて臣の部署の施行を認められ、宗廟社稷の幸いとされますように。」返答はなかった。まもなく左侍郎に転じ、従前通り部の事務を代行した。四十四年冬、隆德殿が火災に遭うと、宗彥は下情を通じさせ、廃れた政務を修め、欠員の官職を補うよう請うた。翌年、皇長孫が十三歳になっても傅に就いていなかったので、宗彥は再び上疏して強く主張した。この後も毎年懇請したが、帝はついに聞き入れなかった。四十六年六月、京師で地震があった。修省(反省)に関する三事を上奏した。当時、帝は朝政を見ずにすでに三十年が経ち、朝政は弛緩し、多くの官職が欠員のままだった。翌年秋、遼東の情勢がますます切迫した。宗彥は僚属を率いて上言した。「三路で軍が敗れ、開原・鐵嶺が相次いで陥落し、瀋陽は孤立して危うい状況です。どうか陛下には臨朝され、臣らと共に兵糧の大計を直接ご協議ください。」帝はこれにも返答しなかった。

原文何宗彥,字君美。其父由金谿客隨州,遂家焉。宗彥舉萬曆二十三年進士。累官詹事。四十二年遷禮部右侍郎,署部事。福王之國河南,請求無已。宗彥上疏,言可慮者有六,帝不聽。又屢疏請東宮講學,皇孫就傅,及瑞、惠、桂三王婚禮。太子生母王貴妃薨,不置守墳內官,又不置墳戶贍地,宗彥力爭之。梃擊事起,宗彥因言:「天下疑陛下薄太子久。太子處積輕之勢,致慈慶宮門止守以耄年二內侍,中門則寂無一人。乞亟下張差廷訊,凡青宮諸典禮,悉允臣部施行,宗社幸甚。」不報。尋轉左侍郎,署部如故。四十四年冬,隆德殿災,宗彥請通下情,修廢政,補曠官。明年,皇長孫年十三,未就傅,宗彥再疏力言。自是頻歲懇請,帝終不納。四十六年六月,京師地震。上修省三事。時帝不視朝已三十載,朝政積弛,庶官盡曠。明年秋,遼事益棘。宗彥率僚屬上言:「自三路喪師,開原、鐵嶺相繼沒,沈陽孤危。請陛下臨朝,與臣等面籌兵食大計。」帝亦不報。

宗彥は清廉で節操があった。尚書の事務を代行すること六年、事に遇っては侃々と敷奏し、当時の声望は非常に高かった。その年十二月、閣臣の会推(合議による推薦)が行われ、廷臣の多くは宗彥を筆頭に推したが、ただ吏科給事中の張延登だけが署名せず、結局推薦に与れなかった。宗彥はまもなく休暇を請いて去った。御史の薛敷政・蕭毅中・左光斗・李徵儀・倪應春・彭際遇・張新詔らが相次いで上疏してこれを惜しんだが、延登の同官である亓詩教・薛鳳翔はまたたびたび上疏して糾弾した。当時は斉党の勢力が盛んで、同類でない者はことごとく排斥された。宗彥は何にも依附しなかったため、ついにその地位を安泰に保つことができなかった。翌年、神宗が崩御し、光宗が即位すると、その家で禮部尚書兼東閣大學士に任じられた。天啓元年夏に朝廷に戻った。累進して少師兼太子太師・吏部尚書・建極殿大學士を加えられた。四年正月、在官のまま死去した。太傅を追贈され、文毅と諡された。

原文宗彥清修有執。攝尚書事六年,遇事侃侃敷奏,時望甚隆。其年十二月,會推閣臣,廷臣多首宗彥,獨吏科給事中張延登不署名,遂不獲與。宗彥旋乞假去。御史薛敷政、蕭毅中、左光斗、李徵儀、倪應春、彭際遇、張新詔等交章惜之,而延登同官亓詩教、薛鳳翔又屢疏糾駁。其時齊黨勢盛,非同類率排去之。宗彥無所附麗,故終不安其位。明年,神宗崩,光宗立,即家拜禮部尚書兼東閣大學士。天啟元年夏還朝。屢加少師兼太子太師、吏部尚書、建極殿大學士。四年正月卒官,贈太傅,謚文毅。

弟の宗聖は、郷挙により累進して工部主事となった。魏忠賢に附いて、急に本部右侍郎に加えられた。崇禎初年、官籍を削られ、流刑に処せられ、名は逆案に連なった。

原文弟宗聖,由鄉舉歷官工部主事。以附魏忠賢,驟加本部右侍郎。崇禎初,削籍,論配,名麗逆案。

孫如游

原文孫如游

孫如游は、字を景文といい、餘姚の人で、都御史孫燧の曾孫である。萬曆二十三年に進士となった。累進して禮部右侍郎となった。四十七年冬、左侍郎の何宗彥が去り、官印を預かる者がいなくなったので、大学士の方從哲がたびたび如遊を推挙した。翌年三月になってようやく任命された。部の事務は山積みであったが、如遊は滞りなく決裁した。当時、白蓮教・無為教などの邪教が横行し、宗彥が厳禁を上疏して請うたことがあったが、如遊はその説を重ねて申し述べた。帝はこれに従った。七月、帝の病状が非常に重くなり、諸大臣とともに顧命を受けた。

原文孫如遊,字景文,餘姚人,都御史燧曾孫也。萬曆二十三年進士。累官禮部右侍郎。四十七年冬,左侍郎何宗彥去位,署印無人,大學士方從哲屢以如遊請。明年三月始得命。部事叢積,如遊決遣無滯。時白蓮、無為諸邪教橫行,宗彥嘗疏請嚴禁,如遊復申其說。帝從之。七月,帝疾大漸,偕諸大臣受顧命。

帝が崩御すると、鄭貴妃は禍を恐れ、李選侍と深く結び、彼女のために皇后冊封を請うた。選侍は喜び、また貴妃を喜ばせるために太后冊封を請うた。楊漣が如遊に言った。「皇長子は選侍の愛する子ではない。選侍が皇后となれば、嫡母となる。いずれどうなるというのか。急いで執政に申し出て、遺詔により冊立を挙行すべきです。即位して三日後、貴公はすぐに詔を援用して請うのです。」如遊はこれに同意した。八月朔日、光宗が即位した。三日後、如遊が東宮(皇太子)の冊立を請うと、帝はこれを受け入れた。まもなく遺旨に従って閣臣に諭し、貴妃を皇太后に封じようとした。如遊は上奏して言った。「歴朝の典礼を考察しますに、配偶者として后となるのは、対等の礼による正統であり、妃として后となるのは、子に従う義理によるものです。祖宗以来、寵愛を受けた妃はいなかったわけではありませんが、ついに席を去るべき嫌疑を招き、これは礼に記載されていないことです。先帝は貴妃の労を念じられ、名分なき位号にはおかれませんでした。陛下は先帝の志をお体し、分を越えた尊崇にもおかれません。もし義理として許されないのであれば、命令に従うのは孝ではなく、礼に従うのが孝です。臣は曲げて従い、自ら不忠の罪を犯すことはできません。」上疏が入ったが、返答はなかった。

原文帝崩,鄭貴妃懼禍,深結李選侍,為請封後。選侍喜,亦為請封太后以悅之。楊漣語如遊曰:「皇長子非選侍所愛。選侍後,嫡矣,他日將若何?亟白執政,用遺詔舉冊立。登極三日,公即援詔以請。」如遊然之。八月朔,光宗即位。三日,如遊請建東宮,帝納之。俄遵遺旨諭閣臣,封貴妃為皇太后。如遊奏曰:「考累朝典禮,以配而後者,乃敵體之經;以妃而後者,則從子之義。祖宗以來,豈無抱衾之愛,而終引去席之嫌,此禮所不載也。先帝念貴妃勞,不在無名之位號;陛下體先帝誌,亦不在非分之尊崇。若義所不可,則遵命非孝,遵禮為孝。臣不敢曲徇,自蹈不忠之罪。」疏入,未報。

如遊はまもなく本部尚書に進んだ。帝は東宮冊立を命じた後、また皇長子の体質が虚弱であるとして、冊立の時期を少し遅らせようと言った。如遊は強く反対した。二十三日、選侍を皇貴妃に封じるよう命じた。期日はすでに定まっていたが、三日後、帝はまたこれを急がせた。如遊は上奏して言った。「先に孝端皇后・孝靖皇太后の尊諡を上るよう諭旨を奉じ、また郭元妃・王才人を皇后に封じるよう命じられましたが、礼儀はいずれも完了しておりません。貴妃の冊封は後になるべきです。しかし聖諭が諄々と切実であり、かつ聖なる儲君(皇太子)を保護した功績もありますので、先に定めた期日通りとしても差し支えありません。」帝はこれを許した。選侍は貴妃では満足せず、どうしても皇后になろうとした。二十九日、再び廷臣を召し、選侍は皇長子に言わせて迫った。如遊は言った。「陛下が選侍を皇貴妃に封じようとされるなら、ただちに儀式を整えて進めます。」帝はいい加減に「よろしい」と答えた。選侍はこれを聞き、大いに不満であった。翌日、帝が崩御し、朝廷の情勢は大きく変わった。如遊は冊封の期日を改めるよう請うと、許可された。熹宗が皇孫であった時、傅に就いていなかった。即位して七日後、如遊はすぐに講筵(学問の講義)を開くよう請うと、これも許可された。

原文如遊尋進本部尚書。帝既命建東宮,又言皇長子體質清弱,稍緩冊立期。如遊力持不可。二十三日,命封選侍為皇貴妃。期已定矣,越三日,帝又趨之。如遊奏曰:「先奉諭上孝端皇后、孝靖皇太后尊諡,又封郭元妃、王才人為皇后,禮皆未竣,貴妃之封宜在後。既聖諭諄切,且有保護聖儲功,即如先所定期,亦無不可。」帝許之。選侍以貴妃為未足,必欲得皇后。二十九日,再召廷臣,選侍迫皇長子言之。如遊曰:「上欲封選侍為皇貴妃,當即具儀進。」帝漫應曰:「諾。」選侍聞,大不悅。明日,帝崩,朝事大變。如遊請改冊封期,報可。熹宗為皇孫時,未就傅。即位七日,如遊即請開講筵,亦報可。

十月、命じて東閣大学士として機務に参与せしむ。言官はその廷推によらざるを誹謗し、相次いで上疏して論じた。如遊もまたたびたび去職を乞うたが、帝はつねに慰留した。天啓元年二月、上疏して言う、「祖宗が閣臣を任用せしは、多く特簡による。遠きは論ずるに及ばず、世廟(嘉靖帝)の時には張璁・桂萼・方献夫・夏言・徐階・袁煒・厳訥・李春芳あり、穆廟(隆慶帝)の時には陳以勤・張居正・趙貞吉あり、神廟(万暦帝)の時には許国・趙志皐・張位あり。即ち皇考(光宗)の朱国祚を用いしも、また特簡なり。今、陛下は幼沖にして、臣が才品はまた諸臣に比すべからず、至尊の知人の明を累わすことあり。速やかに骸骨を賜い、田里に還らしめ給わんことを乞う」と。帝はなお留め置いた。如遊は十四度上疏して去職を乞い、ついに太子太保・文淵閣大学士を加えられ、官を遣わして護送せしめ、子を蔭し給賜することすべて彝典のごとくせしめた。家居すること四年にして卒す。少保を贈られ、文恭と諡された。

原文十月,命以東閣大學士入參機務。言者詆其不由廷推,交章論列。如遊亦屢乞去,帝輒勉留。天啟元年二月,上疏言:「祖宗任用閣臣,多由特簡。遠者無論,在世廟,則有張璁、桂萼、方獻夫、夏言、徐階、袁煒、嚴訥、李春芳;在穆廟,則有陳以勤、張居正、趙貞吉;在神廟,則有許國、趙誌臯、張位。即皇考之用朱國祚,亦特簡也。今陛下沖齡,臣才品又非諸臣比,有累至尊知人之明。乞速賜骸骨,還田裏。」帝仍留之。如遊十四疏乞去,乃加太子太保、文淵閣大學士,遣官護送,蔭子給賜悉如彜典。家居四年卒。贈少保,謚文恭。

孫嘉績

原文孫嘉績

孫嘉績、字は碩膚。崇禎十年の進士。南京工部主事に授けられ、召されて兵部に改む。大清兵が都城に迫り、営を按じて動かず、衆人その測る所を知らず。嘉績曰く、「これは後至の者を待つなり、すなわち衆を挙げて南下するのみ」と。三日を過ぎて、蒙古兵数万、果たして青山口より入り、即日南下す。ここにおいて尚書楊嗣昌、嘉績の兵を知るを以て、職方員外郎に調ず。郎中に進む。督師中官高起潜、これを譖す。会にその賄賂を納むる事を発する者あり、ついに獄に下す。已にして、黄道周もまた獄に下る。嘉績はみずから飲食湯薬を親しくし、力を尽くしてこれを調護し、よって従って『易』を受く。会に諸生塗仲吉、道周を救う疏を上す。帝ますます怒り、獄を錦衣衛に移して厳しく訊問す。諸生で道周と往来する者多く詭詞を以て自ら脱せんとす。ただ嘉績のみ隠すところなし。雑犯死罪に擬し、継いで煙瘴の地に充軍すべしと擬す。皆允されず。保定総督張福臻、陛見し、嘉績の才を薦め、参謀として用いることを請う。聴かれず。徐石麒が刑部尚書となり、爰書を具えて奏す。ここにおいてこれを釈放す。福王の時、九江兵備僉事に起用さる。未だ赴かず。魯王が紹興に監国す。右僉都御史に擢でられ、累進して東閣大学士となる。王が航海す。嘉績は従って舟山に至る。その年疾いに遭い卒す。

原文孫嘉績,字碩膚。崇禎十年進士。授南京工部主事,召改兵部。大清兵薄都城,按營不動,眾莫測。嘉績曰:「此待後至者,即舉眾南下爾。」越三日,蒙古兵數萬果從青山口入,即日南下。於是尚書楊嗣昌以嘉績知兵,調為職方員外郎。進郎中。督師中官高起潛譖之,會有發其納賄事,遂下獄。已,黃道周亦下獄。嘉績躬親飲食湯藥,力調護之,因從受《易》。會諸生塗仲吉疏救道周,帝益怒,移獄錦衣嚴訊。諸生與道周往來者多詭詞自脫,獨嘉績無所隱。擬雜犯死罪,繼擬煙瘴充軍,皆不允。保定總督張福臻陛見,薦嘉績才,請用為參謀,不聽。徐石麒為刑部尚書,具爰書奏,乃釋之。福王時,起九江兵備僉事,未赴。魯王監國紹興,擢右僉都御史,累進東閣大學士。王航海,嘉績從至舟山。其年遘疾卒。

賛に曰く、熹宗の初め、葉向高は宿望を以て召し起され、海内の正人はこれに倚りて重しと為すも、ついに匡救する所有る能わず。蓋し政柄の内に移るは、一日の積みに非ず、勢い固より如何ともすべからざるなり。劉一燝・韓爌ら諸人は、端揆の地に居るも、宵小比肩し、権璫掣肘し、紛撓杌隉、ほとんど自ら全うせず。朱国祚・何宗彦は党人に絀けられ、孫如遊はまた皆中旨によりて特用せられ、外廷の詬る所と為る。ここにおいて知る、明良相遭うは、誠に千載の一遇なるを。

原文贊曰:熹宗初,葉向高以宿望召起,海內正人倚以為重,卒不能有所匡救。蓋政柄內移,非一日之積,勢固無如何也。劉一燝、韓爌諸人,雖居端揆之地,而宵小比肩,權珰掣肘,紛撓杌隉,幾不自全。朱國祚、何宗彥絀於黨人,孫如遊又皆以中旨特用,為外廷所詬。於是而知明良相遭,誠千載之一遇也夫!