○ 張臣 (子:承廕 孫:應昌 全昌 德昌) 董一元 (王保) 杜桐 (弟:松 子:文煥 孫:弘域) 蕭如薰 達雲 (尤継先) 官秉忠 柴國柱 李懷信
張臣
張臣は、榆林衛の人である。行伍より起り、隊長となった。軽捷にして精悍、搏戦は堅陣を陥すことを好んだ。千総劉朋に従い黄甫川を守る。朋が賊に遇い馬を喪い包囲された時、臣は単騎で馳せ救い、その首魁を射中て、馬を奪い朋を載せて帰り、これより名を知られる。やがて朋の職を代わり、跨馬梁・李家溝・高家堡・田家梁・西紅山に屡々戦い、共に功有り、宣府膳房堡守備に遷る。寇嘗て大いに侵入し、堡を環攻し、臣を生け捕りにせんと欲す。臣は麾下を召し水を酌みて酒と為し、歓呼歌飲す。寇は其の為す所を測り知れず、敢えて登らず。臣は夜に囲みを決して出で、他道を取って以て帰る。上官其の壮挙を認め、延綏入衛遊撃将軍に擢ぐ。
万暦初め、秋防の功を録し、署都督僉事に進む。炒蛮潜かに古北口に入る。参将范宗儒十八盤山に追い至り、戦歿し、余衆囲まれる。臣急ぎ遊撃高廷礼等と馳せ救い、寇始めて去る。坐して一秩を鐫られる。五年春、総兵官として寧夏を鎮守す。順義王俺答瓦剌に怨みを報い、賀蘭を取って道とせんと欲す。臣許さず、俺答恚り、語遜らず。臣夜に漢・唐二渠の水を決し、道通ぜず、復た兵を赤水口に陳す。俺答乃ち山後より去る。三歳互市し、敢えて譁ぐ者無し。辺を閲する給事中苛礼を以て責望し、劾して罷む。
十一年、小阿卜戸黒峪関を犯す。守将陳文治以下俱に逮繫せらる。詔して臣を起し副総兵と為し、馬蘭峪に駐守せしむ。会う朶顔長昂屡々辺を擾し、薊鎮総兵官楊四畏禦ぐ能わず。乃ち四畏を保定に調し、而して臣を徙えて之に代わらしむ。長昂雅に臣を憚り、其の従母土阿・妻東桂をして関に款きて降を乞わしむ。乃ち撫賞初めの如し。猛可真は、俺答の弟老把都の棄妾なり。坐して小阿卜戸と共に黒峪関を犯し、歳賞を罷む。既に款を納むるも、復た猖獗し、謾詞を以て辺臣に報い、而して大嬖只をして代わりて謝罪せしむ。大嬖只は、順義王乞慶哈の棄妾なり。臣等其の詐を測り、将士をして塞を出で二十三人を捕え、之を獄に繫ぎ、我が掠められたる人を還せしむ。猛可真は愛する者五人が俘虜の中に在るを以て、掠められたる者を献還するを許し、親しく関を叩きて故の賞を索む。臣等并せて大嬖只を演武場に召し入れ、譙責甚だ厲し。両婦叩頭して死を請う。乃ち之を貸す。先後八十余人を献還す。中に拘せられて数十年なる者有り。臣は功を以て記録優叙せらる。尋いで署都督同知に進み、召されて左府事を僉書す。出でて陝西総兵官と為り、固原を鎮守す。
十八年春、甘肅に移鎮す。火落赤洮・河を犯す。卜失兔将に往きて之を助けんとす。其の母泣きて沮むも従わず、遂に妻女を携えて行き、永昌宋家莊より牆を穴ぐって入る。臣水泉三道溝に逆戦し、手ずから数人を格殺し、其の坐纛を奪う。卜失兔及び其の党炒胡儿并びに流矢に中りて走り、臣も亦た創を受く。将士級を斬ること百数を以てし、其の愛女及び牛馬羊一万八百余を生け獲る。卜失兔仰いで天を大いに慟して曰く、「傷し哉我が女、母の言を用いざるを悔ゆ、以て此に至る」と。是より敢えて巣に帰らず、宰僧と共に西海に匿る。已にして、宰僧に属して謝罪し、其の母及び順義王も亦た代わりて言う。乃ち其の女を還し、而して套に帰らしむ。臣は功を以て秩を進められ真となる。
子:承廕
子承廕は、父の廕により功を積みて延綏副総兵に至る。勇にして謀有り、尤も騎射に精しく、数たび鏖戦して未だ嘗て挫衂せず。万暦三十七年、王威に代わりて延綏総兵官と為る。沙計及び猛克什力数たび辺を犯す。是の年冬、復た波羅・神木を犯す。承廕邀え撃ちて之を却け、追い斬ること八十余人。沙計貢を修めんと欲すも、守臣其の反覆を悪み、之を拒む。益々辺に近く徙り、数千騎を以て双山堡を犯す。承廕撃ちて之を走らせ、俘斬百二十余。四十年、沙計復た塞に入る。承廕嚮水に遮撃し、首級百七十余を斬る。前功を積み、署都督同知に進み、世廕本衛副千戸。是の歳、遼東総兵官麻貴罷めらる。勅して承廕を馳せて之に代わらしむ。蟒金諸部寧前に近く、守将祖天寿間を出でて獵し、曹莊に囲まれ、将士死者二百三十人、掠められたる者六百余人、天寿は数騎を以て免る。事聞こえ、死を論ぜらる。承廕初めて任に抵るも、免る。敖克等中後所を犯す。拒みて其二長を斬り、余は塞を走り出づ。時に虎墩兔・炒花・煖兔・宰賽遼境に逼処し、歳として辺を犯さざる無し。承廕未だ至らざる時、虎墩兔三万騎を以て穆家堡を犯す。参将郎名忠等遏え斬ること其の四十余騎。再び挙ぐるに及び、守将梁汝貴其の営を襲い破る。已にして乃蛮諸部連ねて中後所・連山駅を犯す。副総兵李継功等力戦し、其の魁を殪し、徐に引き去る。是より虎墩兔の所属貴英哈等三十余部悉く約束を奉じ、遼西少しく安んずるを得。承廕旋って病を以て去る。甫く歳余り、起ちて薊鎮を守る。未だ至らざるに、復た改めて遼東を鎮す。
四十六年四月、我が太祖高皇帝兵を起し、撫順を抜く。巡撫李維翰承廕を趣して赴援せしむ。承廕急ぎ副将頗廷相・参将蒲世芳・遊撃梁汝貴等諸営を率い并せ発ち、撫順に次ぐ。承廕山険に拠り、軍を三つに分かち、営を立て濠を浚い、火器を布列す。甫く交鋒す、大清兵之を蹴り、大いに潰る。承廕・世芳皆戦死す。廷相・汝貴已に囲みを潰して出づるも、主将を失えるを見、亦た陣に陷りて死す。将士死者万人、生還する者十に一二無し。挙朝震駭す。既にして撫安・三岔児・白家衝三堡連ねて失う。詔して維翰を逮え、承廕に少保・左都督を贈り、祠を立てて精忠と曰い、世廕指揮僉事。廷相以下、贈廕差有り。
孫:應昌 全昌 德昌
応昌は関中において、威名が大いに著しかった。しかしこの時は臆病で逡巡し、努めて賊と避け合おうとした。総督宗衡が五度檄を飛ばしても赴かず、朝廷に奏上し、応昌と文詔に三月のうちに賊を平定するよう期限を設けた。応昌は賊を避けて撃たず、良民を殺して功績を偽り、巡按御史李嵩・兵科祝世美に弾劾された。帝は近侍を応昌の内中軍として派遣した。七月、部卒が鳴謙駅で潰走した。監視中官劉允中がその賊回避を弾劾したが、帝はなおこれを許し、畿南の賊を会剿するよう命じた。しばらくして、賊を平山で撃ち、虚偽の首功を報告し、連続して允中と巡按御史馮明玠・真定巡撫周堪賡に弾劾され、帝は功績を挙げて自ら罪を贖うよう命じた。七年春、賊を霊宝で追撃し、やや功績があった。その後、賊を均州五嶺山で撃ったが、敗北した。身に一本の矢を受け、河南に退還した。その弟全昌は宣府総兵官であった。宣府に警報があり、応昌に救援を命じたが、また功績なく、解職して審問を待つよう命じた。
八年、洪承疇が河南に出師し、私的な士馬を率いて従軍するよう命じた。三月に信陽に到着した。ちょうど賊が大挙して秦に入ったため、承疇は応昌と鄧玘・尤翟文に漢江南北を防がせた。鄧玘が死ぬと、承疇は賊が必ず鳳県の桟道から直ちに略陽に入ると考え、応昌・翟文に鄖陽から転じて興安・漢中に赴き、左光先・趙光遠らの諸軍と合流するよう改めて命じた。六月になるまでに、艾万年・曹文詔が相次いで戦死し、賊はことごとく西安に向かったため、承疇は急ぎ応昌と光先に檄を飛ばして救援させた。八月、李自成が咸陽を陥落させた。二日後、応昌・光先の兵が到着し、四百四十余級を撃斬し、軍師一人を捕らえた。全昌の兵が敗れて賊に捕らえられると、その潰走兵が関中に帰り、沿河の州県を掠奪した。山西巡撫呉甡が応昌に麾下に収容するよう請うたが、応昌はすでに病を得て、軍を率いることができなかった。まもなく卒去した。
全昌は廕叙により、霊州参将を歴任した。崇禎四年、同官の趙大胤とともに中部で点燈子を撃ち、その後、郃陽・韓城で連戦し、首功が多かった。巡撫練国事が二将に副将の官位を加えるよう請うた。大胤は耀州・富平の間に駐屯し、賊の西路を扼し、全昌は韓城・郃陽の間に駐屯し、賊の東路を扼した。五年七月、応昌に代わって定辺副総兵となった。曹文詔が賊を隴州・平涼・鳳翔の境界で追撃すると、全昌と馬科が千人を率いて応じ、ほぼ殲滅した。
翌年五月、都督僉事を代行し、総兵官に充てられ、宣府を鎮守した。応昌はちょうど山西を鎮守しており、兄弟が接境して大帥となった。翌年七月、大清兵が西征して插漢を討ち、軍を返してその境に入った。龍門・新城・赤城を攻囲し、保安州を陥落させ、鎮城に迫ったが、全昌は城を守って固く防いだ。やがて大清兵が西行すると、全昌は応州に進軍した。帝はその孤軍を慮り、呉襄・尤世威に救援に赴かせたが、応じなかった。全昌は渾源に至り、捷報を奏上し、軍を葛峪・羊房口に返した。呉襄らはまた救援しなかった。八月、大清兵が再びその境に入った。閏八月四日に万全右衛を陥落させ、他の城堡も多く陥落した。緊迫が解けた後、兄応昌が罪で解職され、全昌にその軍を併せて率いるよう命じた。兵科常自裕が文臣の張宗衡らは重く論罪されるのに、武臣は軽く許されるのは法に非ずと述べた。そこで全昌と文詔はともに辺境に戍らされた。山西巡撫呉甡の請いにより、全昌・文詔を援剿総兵官とし、猛如虎らとともに高加計を大破した。
八年春、汝寧で洪承疇と会し、汝州の賊を撃破した。まもなく西に関に入り、祖大弼とともに涇陽で賊を破った。間もなく、醴泉で賊を破った。五月、賀人龍とともに秦王嶺で老回回を破った。まもなく鳳翔の包囲を解き、賊を秦州に走らせ、張家川でこれを破った。やがて都司田応龍・張応龍が戦死し、艾万年・曹文詔が相次いで没すると、官軍はますます衰え、賊はことごとく西安に向かった。承疇は急ぎ全昌と曹変蛟に先んじて渭水・華山に赴きその前を遮らせ、自ら軍を督してその後を追い、賊を紅郷溝で退却させると、賊は南の商州・雒南に入った。承疇はまた全昌と趙光遠に兵三千を率いて潼関の大峪口を遮断させたが、部卒が大いに騒ぎ、滎沢に乱入し、倉庫を掠奪し人を殺した。河南巡撫玄默が急ぎ盧氏を救援するよう請うたが、聞き入れなかった。光遠は勝手に関中に帰還し、全昌は迤邐として潁州に至った。九月中、蝎子塊を沈邱の瓦店で追撃したが、戦いに敗れて捕らえられ、賊は彼を挟んで蘄州・黄州を攻撃した。全昌は賊に代わって降伏を求め、総理盧象昇は許さず、全昌が軍を喪い国を辱めたと責め、「賊が真に降伏を望むなら、その党を滅ぼして信を示せ」と言った。賊は命令に従わなかった。しばらくして、全昌は脱出して帰還し、陽和で象昇に謁見した。象昇は山・陝で兵を募るよう命じた。まもなく朝廷に推薦し、軍前に赴いて功績を立てるよう命じたが、帝は許さなかった。十年四月、楊嗣昌の言により逮捕して法司に付し、辺衛に戍らせる罪に処した。
董一元
董一元は宣府前衞の人である。父の暘は嘉靖年間に宣府遊撃將軍となった。俺答が滴水崖を侵犯したとき、力戦して死んだ。官を贈られ廕を賜り、春秋に世祀された。兄の一奎は都督僉事であった。山西、延綏、寧夏の三辺を歴鎮し、勇敢をもって知られた。一元は兄のように勇敢であったが、智略はこれを超えていた。嘉靖の時、薊鎮遊撃將軍を歴任した。土蠻、黒石炭らが万余騎をもって一片石を侵犯したとき、総兵官胡鎮がこれを防ぎ、一元の功績が最も優れ、俸給を三級超えて加増され、石門寨参将に遷った。隆慶初年、敵を棒槌崖で破り、功績が再び最も優れた。さらに二級進み、副総兵に遷り、古北口に駐防した。宣府を守るために移った。
萬暦十一年に都督僉事として昌平総兵官となり、まもなく宣府に移った。十五年、薊州に移った。久しくして、弾劾され罷免された。鄭洛が洮州・河州を経略するとき、一元に西寧で練兵を命じた。火落赤が侵犯すると、一元はこれを西川で撃ち、多くを斬獲した。まもなく副総兵として寧夏を協守し、延綏総兵官に擢られた。哱拜の乱のとき、河套中の諸部長は皆これを助けた。一元は彼らが西掠するのに乗じ、軽騎で土昧の巣を搗き、首功百三十を獲、その畜産を駆り還ったので、寇は内顧して引き去った。都督同知を署理し、進み、中府僉事として中央に入った。
伯言児は最も慓悍で、諸部はこれに倚って強さとした。かつて慶雲守備王鳳翔を誘い殺し、歳賞を革される罪に坐した。ここに至って殲滅され、諸部は気を奪われ、その部下は遂に款を納めた。把兔児、炒花および卜言台周、瓜兔児、歹青が再び辺境に臨んで駐牧し、来年正月に遼東・瀋陽の東西を略することを期した。一元は歳晩で備えがなく、寇に乗ぜられることを慮り、先ず西巡してその鋒を遏えようとした。化龍もまた弱卒を広寧に留め、しばしば西発して寇を疑わせた。一元は健卒を提げ、氷を踏んで河を渡り、監軍楊鎬がこれとともにした。墨山を度ると、天は大雪となり、将士の気はますます奮った。四百里を行き、三日三夜にしてその巣に抵った。首級百二十を斬り、牛馬甲仗を数えきれぬほど獲て、全師して還った。把兔児は鎮武での創傷が重く、嘆いて言った、「我はついに父の讐を報いることを得ないのか」。まもなく死に、その衆は散乱し、諸部は悉く遠く遁れた。一元は功により世廕を二秩進められた。久しくして、病により帰り、王保に代わることを命じた。
朝鮮に再び兵を用いることとなり、詔して一元を総督邢玠の麾下に隷させ、軍事を参賛させた。まもなく李如梅に代わって禦倭総兵官となった。時に兵は四路に分かれた。一元は中路より、石曼子を泗州で防ぎ、先ず晉州を抜き、望晉を下し、勝に乗じて江を渡り、連ねて永春、昆陽の二寨を毀った。賊は泗州の老営に退き保ったが、これを攻め下し、遊撃盧得功が陣歿した。前に進んで新寨に逼った。寨は三面江に臨み、一面陸に通じ、海を引いて濠とし、海艘が寨下に泊まること千計、金海、固城を築いて左右の翼とした。一元は馬歩を分けて挟攻した。歩兵遊撃彭信古が大棓を用いて寨を撃ち、その数箇所を砕いた。諸軍が進んで賊の濠に逼り、その柵を毀った。忽然として営中で砲が裂け、煙焰が天に漲った。賊は勢いに乗じて衝撃し、固城の援賊もまた至った。騎兵の諸将は先に奔り、一元もまた晉州に還った。事が聞こえ、詔して遊撃馬呈文、郝三聘を斬り、信古らの職を落として事官に充て、一元もまた宮保を奪い、秩を三等貶した。ちょうど関白が死に、倭は遁走した。石曼子は陳璘に殲滅され、一元は故の秩を得、銀幣を賜った。久しくして卒した。一元は衝辺を歴鎮し、ともに労績を著した。麻貴、張臣、杜桐、達雲とともに辺将の選と云われた。
王保
王保は榆林衞の人である。驍勇絶倫で、行伍より起り、功を積んで延綏参将となった。萬暦十六年、延綏・定辺副総兵に遷った。十九年冬、都督僉事を署理し、昌平総兵官に充てられ、まもなく山西に改めた。薊鎮総兵官張邦奇が弾劾され、保と易任することを命じた。嘉靖庚戌の後より、薊鎮は他鎮より重んぜられた。穆宗に詔があり、大小の部長を獲たる者は破格に酬い、他鎮は比べるべからずとされた。迨うに俺答が塞に款すると、宣府、大同、山西の三鎮は烽煙寂然たり。陝西四鎮は火落赤が盟に敗れたため、始めて再び兵を用いたが、寇は弱く禦し易かった。ただ泰寧、插漢諸部が時に時に遼東を侵犯した。而して薊門は王畿に密邇し、遼帥とともに慎選された。保に威望あるをもって、これを用いた。朶顔の長昂は張臣が薊を鎮めるとき款を納めた。五六年居り、再び連ねて石門路、木馬峪、花埸谷を寇し、遂にその市賞を罷めた。後、銀燈とともに山海関を寇した。已にして、また喜峰口に馳せて賞を要求した。邦奇は偽り増市を許し、その通事二十五人を誘い殺した。長昂はますます怒り、大青山を侵犯した。頃にして、その党の小郎児らを遣わして喜峰口に潜伏させ、偵卒を射殺した。ちょうど保が既に至り、遂にこれを擒らえた。長昂は常に小郎児に籌策を資け、懼れて謝罪し、掠められた人畜を献還したので、保は乃ち小郎児を釈放して還した。長昂は五貢を補い、辺吏は始めて二賞を補い、互市は初めの如くになった。御史陳遇文が穆宗の詔を援いて請うたので、保を署都督同知に進め、副将張守愚以下は皆進秩した。
薊三協南営の兵は、戚継光が募ったものであり、朝鮮攻めに調され、撤還して石門を過ぎるとき、鼓譟し、月餉の増加を挟んだ。保はこれらを演武場に赴かせるよう誘い、これを撃ち、数百人を殺し、反逆と上聞した。給事中戴士衡、御史汪以時が南兵は未だ反逆せず、保が意のままに撃殺したと言い、官を遣わして按問するよう請うた。巡関御史馬文卿は保を庇い、南兵に大逆十ありと言い、尚書石星がこれに附会したので、遂に変を定める功をもって保の秩を真のものと進め、子に廕を賜った。督撫の孫鑛、李頤らもまた官を進め賜を受けたが、時論はこれを尤めた。
翌年の秋、再び部長倒布とともに黒谷頂を侵犯したが、敗れて去った。保は彼らが再び来襲することを予測し、開連口及び横河児に分営した。
敵は果たして横河に急襲した。官軍は夜半に疾走して石塘嶺に到着し、その陣営を襲撃した。敵は大いに驚いて潰走し、勢いに乗じて塞外に追い出した。
その冬、再び羅文峪を侵犯したが、敗れて去った。詔により一元に代わって遼東を鎮守する。
朝鮮で再び戦役が起こると、保に海防を命じたが、海州で卒した。左都督を追贈された。
子の学書は宣府総兵官となった。学詩・学礼はともに副総兵となった。学書は郷里に居たが、榆林城を守り、李自成に抗して屈せずに死んだ。
杜桐
杜桐、字は来儀、崑山の人で、延安衛に移住した。万暦初年、世襲の恩蔭により累進して清水営守備となり、智謀と勇気で知られた。
延綏入衛遊撃将軍に転じ、古北口参将に改められた。総督梁夢龍の推薦により、延綏副総兵に抜擢された。十四年、そのまま署都督僉事に任じられ、総兵官を充任した。
子:文煥 孫:弘域
蕭如薰
蕭如薰、字は季馨、延安衞の人。万暦中、世廕百戸より由り歴官して寧夏参将となり、平虜城を守る。
二十年春、哱拜・劉東暘が寧夏鎮城に拠りて反し、その党を遣わし四出して地を略す。拜の子承恩は玉泉営を徇い、遊撃傅桓は拒み守るも、その下の者に執せらる。賊は既に中衞及び広武を徇い、参将熊国臣等は城を棄てて奔り、列城皆風靡す。賊党の土文秀は平虜を徇うも、独り如薰堅く守りて下らざる。如薰の妻楊氏は、故尚書兆の女なり、賢にして智有り、夫を賛して死守し、日ごとに牛酒を具し士を犒う。拜の養子雲最も驍勇、河套の著力兔を引きて急攻す。如薰は南関に伏兵し、佯いに敗れ、賊を誘い入れ、雲を射て死なせ、余衆敗れて去る。又た著力兔の営を襲い、人畜多くを獲る。著力兔憤り、復た来り攻むるも、麻貴に却せられ、城全きを得る。初め、帝は如薰の孤城賊に抗するを聞き、大いに喜び、厚く銀幣を賚い、官を副総兵に擢づ。六月、遂に都督僉事を以て寧夏総兵官と為り、尽く延綏・甘粛・固原の諸援軍を統ぶ。その秋、竟に李如松等と共に賊を平げ、再び署都督同知に進み、錦衣世指揮僉事を廕す。妻楊氏も亦旌せらる。
天啓初年、朝廷の議論で京軍が不足しているとして、辺境の将を召して各営を分けて訓練させた。如薰は神機営を統轄した。謁見すると、帝は食事を賜り、賞与と労を加えた。翌年、徐州に出鎮した。まもなく召還されて京に戻り、再び総兵官として保定を鎮守した。五年の夏、魏忠賢の一派が李三才と姻戚関係にあると弾劾し、ついに職を奪われた。崇禎初年に卒去し、制に従って恤典を賜った。
如薰は将として慎重であった。七つの鎮を歴任し、任地ごとに称賛された。隆慶以後、和議と互市が成立し、烽火の警報は少なくなり、朝廷は鎮帥を外府と見なした。山人や雑流の輩が、朝士の書簡を乞うて赴けば、その望みを満たさぬことはなかった。薊鎮の戚継光は詩に能ある名があり、特に文人を招くことを好み、財を傾けて交わりを結び、軍府の財を費やした。如薰もまた詩ができ、士人は競って集まり、賓客の座は常に満ちた。妻の楊氏、後妻の南氏はいずれも名家の娘であったが、客をもてなすために簪や耳飾りを外して供してもなお足りなかった。軍中はこれを苦にしたが、如薰は退けることができなかった。一時の風潮が尚んだところであり、諸辺の物力は消耗し、識者は嘆いた。
如薰の祖父は漢、涼州副総兵、都督僉事。父は文奎、京営副将、都督同知。兄の如蘭は陝西副総兵、都督僉事、前府僉書。如蕙は寧夏総兵官、都督同知。如芷は提督南京教場、都督僉事。
達雲
達雲は涼州衞の人。勇猛で智略に富んだ。万暦年間、世職の指揮僉事を嗣いだ。守備に抜擢され、さらに肅州遊撃将軍に進んだ。炒胡兒が侵入すると、参将楊濬とともにこれを撃破し、西寧参将に遷った。
雲は勝利した後、敵が必ず再び来ると推し量り、厚く兵を集めて待ち受けた。一ヶ月余りして、敵は果たして真相、火落赤ら諸部と連合し、先に番人の剌卜爾寨を囲んで官軍を誘い出そうとした。番人は支えきれず、敵と合流し、敵はついに西川に迫った。雲は諸軍を督して康纏溝に陣し、敵は全軍でこれを包囲し、矢石が雨のごとくであった。雲は左右に衝撃し、辰の刻から申の刻まで、数十合戦った。敵の死傷は数え切れず、ついに長鎗と鈎杆をもって専ら西寧軍を犯そうとした。西寧軍は堅固で破れず、敵はようやく逃げ、数十里を追撃して戻った。勝利の報が聞こえると、帝は大いに喜び、官を遣わして郊廟に告げ、勝利を宣した。大学士趙志臯以下は皆官を進めた。雲は都督同知に抜擢され、本衞の世襲指揮使の蔭位を賜った。敵は毎年諸番を掠奪し、番人が敵わなければ屈服して敵に加わった。敵が敗れて遠くに去ると、雲は急いで番人を招き、旧業に復した者は七千余戸に及んだ。永邵卜が明沙、上谷を連続して侵犯したが、雲はともにこれを撃退した。初め、南川での勝利により、雲はすでに副総兵に進んでいたが、この時、総兵官として延綏を鎮守する命を受けた。まもなく、甘粛を鎮守した。二十六年、永邵卜が再び西寧を侵犯し、参将趙希雲らが陣没し、雲は俸給停止の処分を受けた。
甘粛・寧夏の間に松山があり、賓兔、阿赤兔、宰僧、著力兔らがここに居住し、しばしば両鎮の患いとなった。巡撫田楽が回復の決断を下した。雲は副将の甘州馬応龍、涼州姜河、永昌王鉄塊らと分かれて襲撃した。敵は遠くに逃げ、その巣窟をことごとく抜き、五百里の地を奪回した。雲は功により右都督に進み、世襲指揮僉事の蔭位を賜った。まもなく、青海の敵が衆を糾合して河西を分進侵犯したが、五道すべてに備えがあり、百七十余りの首級を献上した。松山を回復した後、辺境の城壁を築き、屯田を分けて守備を置いた。功績を記録して左都督に進んだ。敵はその旧巣を恋い慕い、官軍が防備を撤収する時に乗じて密かに兵を入れて侵犯したが、雲は険阻な地を占めてこれを邀撃した。敵は大敗し、百六十を斬首した。雲に太子少保を加えた。敵はますますその仲間を糾合して鎮番を侵犯したが、雲と諸将の葛頼らが大いにこれを破り、三百七十余級を斬首した。帝は廟に告げ、賞を行い、雲の世襲の蔭位を二階進めた。敵が再び侵犯したが、雲はこれを破って退けた。
雲は将として、先頭に立って敵陣に突入し、赴くところで一度も敗北せず、その名は西陲に震い、一時の辺将の筆頭であった。秋の防衛中に軍中で卒去した。太子太保を追贈された。子の奇勲は万暦末年に昌平総兵官となった。
尤継先
尤継先は榆林衞の人。万暦年間、功を積んで大同副総兵となった。十八年、火落赤、真相が洮州、河州を侵犯し、副総兵李聯芳らが戦死した。詔により署都督僉事に進み、総兵官を充て、劉承嗣に代わって固原を鎮守した。敵は莽剌川、捏工川の二川を占拠し、日々番族を蚕食し、さらに西寧を擾乱した。官軍が大集結したと聞き、卜失兔がまた水泉で敗れたので、氷が堅く結んだのに乗じて黄河を渡り北へ逃げ、その党の可卜列、宗塔児ら五百余人を留めて莽剌川の南山で放牧させた。南山はすなわち石門大山口で、烏思蔵への門戸である。配下の番人が来て報告すると、継先は番人に八百人を先導させ、元総兵の承嗣、遊撃の原進学、呉顕らとともに七百里を疾駆し、直ちに南山に到達した。奮撃して大いにこれを破り、百五十余級を斬首し、十二人を生け捕りにした。而して拜巴爾的という者は、可卜列の従子で、以前に聯芳を殺した者であり、この時に捕らえられた。軍が帰還する時、敵が撒川まで尾行してきた。備えがあるのを見て、夜に逃げた。他の敵が鎮羌、西寧、石羊を侵犯したが、いずれも敗れた。火落赤はついに帳を西海に移した。功績を記録し、官位を実授に進め、世襲の蔭位を一階増やした。まもなく病気で帰郷した。中軍府事の僉として起用された。
二十一年の冬、遼東総兵官となる。炒花が二千騎で韓家路に入ると、継先は諸軍を督して奮撃し、寇は去った。再び病を理由に帰郷した。二十四年、薊州鎮守として起用される。戚継光が鎮守して以来十年、諸部は叛服常ならずといえども、辺境の警報は頗る稀であった。寇が一度青山口に入ったが、敗れて去った。最後に、長昂が班・白の二部長を導いて入犯し、石門を経て山海関を窺い、京東の民は悉く通州に逃げ込んだ。継先が関を出た時には、寇は既に寧前を掠めて去っていた。総督蹇達は継先が追撃しなかったことを怒り、継先は降伏した丁壮八百人を収容して用いようとしていた。達は上疏して番情は制御難く、後患を遺す恐れがあると述べ、継先を別鎮に転任させ、降丁を随行させるよう請うた。兵部は延綏の杜松と交代させることを議し、巡撫劉四科がこれに争った。達は再び上疏して言うには、「辺境を守るのは自強にあり、継先は独り降丁に頼るのみと言う。昨年関を出た時、何故竟に降丁の力が得られなかったのか。軍書頻繁に至り、辺隘の虚実は久しく彼らに窺われている。呼吸の間に変生すれば、措く手の安んずる所なし」と。兵科の宋一韓らは達の議を力主し、且つ継先の他の事柄を弾劾した。継先は遂に罷免され、家で卒した。
継先は片目が不自由であったが、兵事に習熟し敢然と戦い、当時「独目将軍」と称された。
官秉忠
官秉忠は、榆林衛の人である。万暦年間に世襲の官蔭により起用され、固原参将を歴任し、寧夏・甘粛副総兵に抜擢された。かつて主将の達雲と共に紅崖で寇を大破し、銀定・歹成を屡々挫いて退けた。薊鎮東協の守備に移り、功を積んで都督同知を署任した。
四十年五月、総兵官に抜擢され、張承廕に代わって延綏を鎮守した。河套の寇が保寧を犯すと、秉忠は参将杜文煥らを督して白土澗でこれを破った。一日に再び勝利し、二百五十を捕斬し、その長十二人を斬首した。間もなく、旗牌の撒勒が長楽を犯すと、秉忠は軽騎を率いて追襲し、大いに獲た。猛克什力が保寧を犯すと、秉忠はまたこれを破った。やがて猛克が賞賜を挟んで得られず、再び保寧及び懐遠を寇すと、秉忠はその向かう所に従って勁騎をもって遮撃し、先後二百二十余を斬首した。猛克及び旗牌がまた千余騎で波羅を犯し、遥かに保寧の軍を見て、遂に塞外に遁走した。
吉能は、卜失兔の子で、河套中の主となり、士馬は諸部に雄であった。卜失兔が順義王を襲封し、五年分の市賞を補給されたのを見て、封王を挟み求め、且つ八年分の市賞の返還を求めた。辺臣が許さないと、大いに怨んだ。たまたま他の部の鉄雷が痘瘡で死んだが、妄りに辺吏が毒殺したと言い、沙計が辺境を盗み、また敗退させられた。吉能は遂に河套中の諸部を合わせ、大挙して入寇した。東道の高家・大柏油・神木・柏林、中道の波羅、西道の磚井・寧塞の諸城堡は悉く蹂躙された。副将孫洪謨が大柏油でこれを防ぎ、伏兵に中り包囲された。遊撃万化孚らは救援せず、士卒の死傷は過半に及び、洪謨は遂に降った。秉忠は寇の侵入を聞き、急ぎ遊撃張榜を遣わしてその営を潜かに襲撃させたが、また敗れ、四百余人が死んだ。時に旧帥杜松・寧夏の帥杜文煥の援軍が至り、共に敵を破り、秉忠の所部も斬獲があり、寇は始めて退いた。然れども尚塞下に駐屯し、時々掠奪した。秉忠も屡々出撃して襲撃し、多く首功を獲たが、結局以前の敗戦の責任を問われて弾劾され官を去った。交代を待つ間に、沙計が双山・建安から入犯を謀ると、秉忠は伏兵を設けてこれを待ち、遂に大いに敗走させ、二百余を斬首した。
四十六年、劉綎・柴国柱らと共に召され、前軍都督府僉書を命じられ、間もなく遼東救援に赴いた。楊鎬の四路出師に際し、秉忠に鎮城の防守を命じた。間もなく、病を理由に辞して帰郷した。久しくして卒した。子の撫民も寧夏総兵官となった。
柴国柱
柴国柱は、西寧衛の人である。万暦年間、世襲の官蔭により西寧守備となる。驍猛で善射であった。参将達雲に従って南川で寇を撃ち、勇気は全軍の冠であった。功を録され、都指揮僉事に進む。寇が辺境を侵すと、常に国柱によって挫かれた。屡々進んで涼州副総兵となった。
松山が回復した後、堡塁を築き斥候を置いたが、寇が数度来て擾乱し、国柱は頻りに撃退した。銀定・歹成が連合して鎮番を寇すと、国柱は馳せて救援し、二百余を斬首し、馬・駱駝・甲冑兵器を数え切れぬほど獲た。青海の寇が鎮羌・黒古城諸堡を大掠し、守備楊国珍が防げなかったので、国柱は急ぎ遊撃王允中らを率いて撃退した。銀定・歹成が再び河西を犯すと、国柱は邀撃し、百二十の首功を獲た。都督僉事を署任し、陝西総兵官に抜擢された。
三十六年春、甘粛鎮守に転ず。銀定・歹成は屡々志を得ず、益々永昌を寇掠した。国柱は馳せて大戦し、これを破り、麻山湖まで追撃し、百六十余を斬首した。その部落が再び入寇し、守備鄭崇雅らが戦死したので、国柱は俸給一年を奪われる罪に坐した。河套・松山の諸部長が合兵して入寇すると、国柱は諸将に檄を飛ばして分道撃ち、また百六十を斬首した。屡々加えて右都督となり、世襲の指揮僉事の官蔭を受けた。久しくして罷官した。
四十六年夏、都督府僉書に召される。間もなく、杜松に代わって山海関を鎮守した。松が敗死すると、虎墩兔が機に乗じて辺境を犯したが、国柱らは力めてこれを抑えた。間もなく瀋陽鎮守に移る。病を理由に辞して帰郷した。天啓初年、辺功を追録され、左都督を加えられた。卒し、制に従って恤典を賜った。
李懐信
李懐信は、大同の人である。世襲の官蔭により都指揮僉事を歴任し、山西都司を掌った。廉潔勤勉で、数度推薦された。万暦年間、延綏中路参将に遷り、定辺副総兵に進む。卜失兔・火落赤・鉄雷・擺言太らが毎年辺境を擾乱した。定辺は延綏の西に位置し、被害は特に甚だしかった。懐信は勇敢で謀略があり、寇が侵入する度に敗走させた。その先後の鎮帥である杜松・王威・張承廕・官秉忠もまた皆一時の選りすぐりであったので、辺患は雖も劇しくとも、士気は衰えなかった。
賛に曰く、張臣諸人は、勇略自ら奮い、辺陲に効を著し、均しく一時の良将の選なり。董一元の白沙堝・墨山の捷は、奇偉王越に下らず。至りて承廕と松は、将門の子として躯を捐て国に報い、世の称する所の「東李西麻」なる者を視れば、相去ること何ぞ等しきや。