明史

列伝第一百二十七 張臣 董一元 杜桐 蕭如薰 達雲 官秉忠 柴國柱 李懷信

○ 張臣 (子:承廕 孫:應昌 全昌 德昌) 董一元 (王保) 杜桐 (弟:松 子:文煥 孫:弘域) 蕭如薰 達雲 (尤継先) 官秉忠 柴國柱 李懷信

張臣

張臣は、榆林衛の人である。行伍より起り、隊長となった。軽捷にして精悍、搏戦は堅陣を陥すことを好んだ。千総劉朋に従い黄甫川を守る。朋が賊に遇い馬を喪い包囲された時、臣は単騎で馳せ救い、その首魁を射中て、馬を奪い朋を載せて帰り、これより名を知られる。やがて朋の職を代わり、跨馬梁・李家溝・高家堡・田家梁・西紅山に屡々戦い、共に功有り、宣府膳房堡守備に遷る。寇嘗て大いに侵入し、堡を環攻し、臣を生け捕りにせんと欲す。臣は麾下を召し水を酌みて酒と為し、歓呼歌飲す。寇は其の為す所を測り知れず、敢えて登らず。臣は夜に囲みを決して出で、他道を取って以て帰る。上官其の壮挙を認め、延綏入衛遊撃将軍に擢ぐ。

隆慶元年九月、土蛮大いに昌黎・撫寧・楽亭・盧龍に侵入し、遊騎は灤河に至る。諸将戦うを敢えず、臣独り兵を勒して之に赴く。遼帥王治道曰く、「敵衆我寡、往けば必ず利無からん」と。臣顧みず、率いる所の部千人に甲を擐ぎて直ちに馳せ、呼声山谷を震わす。寇数騎を以て嘗め、奮って前に進み之を斬る。棒槌崖に追い至り、首級百余を斬り、崖に墜ちて死傷する者算うるに遑あらず。事寧ぎ、薊鎮諸将悉く罪を獲るも、臣は功を以て秩二級を増す。間も無く、寇潜かに場子嶺に入り、参将呉昂殺され、命有りて臣を以て之に代わる。尋いで副総兵に進み、総督標下の事を領し、薊鎮西協を守るに改む。

万暦初め、秋防の功を録し、署都督ととく僉事に進む。炒蛮潜かに古北口に入る。参将范宗儒十八盤山に追い至り、戦歿し、余衆囲まれる。臣急ぎ遊撃高廷礼等と馳せ救い、寇始めて去る。坐して一秩を鐫られる。五年春、総兵官として寧夏を鎮守す。順義王俺答瓦剌に怨みを報い、賀蘭を取って道とせんと欲す。臣許さず、俺答恚り、語遜らず。臣夜に漢・唐二渠の水を決し、道通ぜず、復た兵を赤水口に陳す。俺答乃ち山後より去る。三歳互市し、敢えて譁ぐ者無し。辺を閲する給事中苛礼を以て責望し、劾して罷む。

十一年、小阿卜戸黒峪関を犯す。守将陳文治以下俱に逮繫せらる。詔して臣を起し副総兵と為し、馬蘭峪に駐守せしむ。会う朶顔長昂屡々辺を擾し、薊鎮総兵官楊四畏禦ぐ能わず。乃ち四畏を保定に調し、而して臣を徙えて之に代わらしむ。長昂雅に臣を憚り、其の従母土阿・妻東桂をして関に款きて降を乞わしむ。乃ち撫賞初めの如し。猛可真は、俺答の弟老把都の棄妾なり。坐して小阿卜戸と共に黒峪関を犯し、歳賞を罷む。既に款を納むるも、復た猖獗し、謾詞を以て辺臣に報い、而して大嬖只をして代わりて謝罪せしむ。大嬖只は、順義王乞慶哈の棄妾なり。臣等其の詐を測り、将士をして塞を出で二十三人を捕え、之を獄に繫ぎ、我が掠められたる人を還せしむ。猛可真は愛する者五人が俘虜の中に在るを以て、掠められたる者を献還するを許し、親しく関を叩きて故の賞を索む。臣等へいせて大嬖只を演武場に召し入れ、譙責甚だ厲し。両婦叩頭して死を請う。乃ち之を貸す。先後八十余人を献還す。中に拘せられて数十年なる者有り。臣は功を以て記録優叙せらる。尋いで署都督同知に進み、召されて左府事を僉書す。出でて陝西総兵官と為り、固原を鎮守す。

十八年春、甘肅に移鎮す。火落赤洮・河を犯す。卜失兔将に往きて之を助けんとす。其の母泣きて沮むも従わず、遂に妻女を携えて行き、永昌宋家莊より牆を穴ぐって入る。臣水泉三道溝に逆戦し、手ずから数人を格殺し、其の坐纛を奪う。卜失兔及び其の党炒胡儿并びに流矢に中りて走り、臣も亦た創を受く。将士級を斬ること百数を以てし、其の愛女及び牛馬羊一万八百余を生け獲る。卜失兔仰いで天を大いに慟して曰く、「傷し哉我が女、母の言を用いざるを悔ゆ、以て此に至る」と。是より敢えて巣に帰らず、宰僧と共に西海に匿る。已にして、宰僧に属して謝罪し、其の母及び順義王も亦た代わりて言う。乃ち其の女を還し、而して套に帰らしむ。臣は功を以て秩を進められ真となる。

時に諸部長桀驁甚だし。経略鄭洛専ら款を主とす。臣は以て恃むに足らずと為し、上書して八難・五要を陳ず。其の大略に云く、辺薄く兵寡く、餉絀え寇驕り、諸部順逆明らかなら難し。宜しく額兵を復し、勾卒を厳にし、糧餉を足し、敵勢を分かち、賞罰を明らかにすべし、と。且つ創重きを以て帰るを乞うも、帝許さず。後二年、病を謝して去る。臣四鎮を更歴し、名塞垣に著わり、一時の良将たり。

子:承廕

子承廕は、父の廕により功を積みて延綏副総兵に至る。勇にして謀有り、尤も騎射に精しく、数たび鏖戦して未だ嘗て挫衂せず。万暦三十七年、王威に代わりて延綏総兵官と為る。沙計及び猛克什力数たび辺を犯す。是の年冬、復た波羅・神木を犯す。承廕邀え撃ちて之を却け、追い斬ること八十余人。沙計貢を修めんと欲すも、守臣其の反覆を悪み、之を拒む。益々辺に近く徙り、数千騎を以て双山堡を犯す。承廕撃ちて之を走らせ、俘斬百二十余。四十年、沙計復た塞に入る。承廕嚮水に遮撃し、首級百七十余を斬る。前功を積み、署都督同知に進み、世廕本衛副千戸。是の歳、遼東総兵官麻貴罷めらる。勅して承廕を馳せて之に代わらしむ。蟒金諸部寧前に近く、守将祖天寿間を出でて獵し、曹莊に囲まれ、将士死者二百三十人、掠められたる者六百余人、天寿は数騎を以て免る。事聞こえ、死を論ぜらる。承廕初めて任に抵るも、免る。敖克等中後所を犯す。拒みて其二長を斬り、余は塞を走り出づ。時に虎墩兔・炒花・煖兔・宰賽遼境に逼処し、歳として辺を犯さざる無し。承廕未だ至らざる時、虎墩兔三万騎を以て穆家堡を犯す。参将郎名忠等遏え斬ること其の四十余騎。再び挙ぐるに及び、守将梁汝貴其の営を襲い破る。已にして乃蛮諸部連ねて中後所・連山駅を犯す。副総兵李継功等力戦し、其の魁を殪し、徐に引き去る。是より虎墩兔の所属貴英哈等三十余部悉く約束を奉じ、遼西少しく安んずるを得。承廕旋って病を以て去る。甫く歳余り、起ちて薊鎮を守る。未だ至らざるに、復た改めて遼東を鎮す。

四十六年四月、我が太祖高皇帝兵を起し、撫順を抜く。巡撫李維翰承廕を趣して赴援せしむ。承廕急ぎ副将頗廷相・参将蒲世芳・遊撃梁汝貴等諸営を率い并せ発ち、撫順に次ぐ。承廕山険に拠り、軍を三つに分かち、営を立て濠を浚い、火器を布列す。甫く交鋒す、大清兵之を蹴り、大いに潰る。承廕・世芳皆戦死す。廷相・汝貴已に囲みを潰して出づるも、主将を失えるを見、亦た陣に陷りて死す。将士死者万人、生還する者十に一二無し。挙朝震駭す。既にして撫安・三岔児・白家衝三堡連ねて失う。詔して維翰を逮え、承廕に少保・左都督を贈り、祠を立てて精忠と曰い、世廕指揮僉事。廷相以下、贈廕差有り。

孫:應昌 全昌 德昌

承廕の子は応昌・全昌・徳昌。応昌は祖父の臣の職を嗣ぎ、指揮僉事となるべきであった。父が陣没したため、三階級を増して都司僉書となり、経略楊鎬に用いられて左翼遊撃となった。四路出師の際、李如柏に従わせた。天啓元年、大同井坪参将に遷り、延綏に転じた。二年秋、河套が入寇したが防げず、免職されて帰った。督師孫承宗が召して麾下に置き、錦州に駐屯させた。承宗が去ると、高第が松山・錦州の守備具をことごとく撤去したので、応昌も帰還した。

崇禎二年、総督楊鶴が応昌に檄を飛ばし定辺鎮将の事務を代行させた。河套が入寇すると、百二十余級を撃斬し、昌平副総兵に抜擢され、楊鶴はついに応昌を副将として定辺を鎮守させるよう推挙した。四年春、神一元が保安を陥落させると、応昌は左光先とともに一元を破って斬った。その弟一魁がその衆を代わって率い、慶陽を包囲した。応昌と杜文煥が急行して戦い、包囲はようやく解けた。不沾泥が米脂を包囲すると、応昌は王承恩とともにこれを撃退した。楊鶴が一魁を懐柔し、寧塞に置いたが、その党の茹成名を殺した。賊党の張孟金・黄友才は恐れ、一魁を挟んで叛いた。延綏巡撫張福臻が応昌と馬科にこれを討たせ、千七百余級を斬首した。友才は逃走し、一魁は守って降らなかった。その冬、洪承疇が楊鶴に代わり、参政戴君恩・総兵曹文詔に応昌とともにこれを討たせた。数度賊を破り、賊は城を棄てて逃走した。文詔は応昌とともに駙馬溝でこれを撃破した。翌年春、応昌は友才を捕らえた。混天猴が宜君・鄜州を陥落させ、靖辺を襲撃すると、応昌は追撃してこれを破り、賊将白広恩を射傷した。八月、山西総兵官馬士麟が病で免職となり、応昌を都督僉事に抜擢して代わらせた。言官が寧武の兵卒は逃亡しやすいので、応昌に所部三千人を率いて従軍させるべきだと述べると、許可された。王之臣が臨県を陥落させた。その地は黄雲山に倚り、榆林河水がそこから出て黄河に注ぐ。城は三面が絶壁で、西は水に阻まれる。巡撫許鼎臣・総督張宗衡が兵を督して攻撃した。賊は土寇の田福・田科らと互いに依拠し、長く陥とせなかった。ちょうど王自用が遼州を陥落させ、省城に迫った。鼎臣は帰還し、専ら回復を応昌に責めた。六年春、賊は田福と約して官軍を襲撃しようとしたが、撫標中軍陳国威が偽って王之臣と称して迎えに行き、田福の首を斬って城下に掲げ、急撃したため、賊はようやく降った。

応昌は関中において、威名が大いに著しかった。しかしこの時は臆病で逡巡し、努めて賊と避け合おうとした。総督宗衡が五度檄を飛ばしても赴かず、朝廷に奏上し、応昌と文詔に三月のうちに賊を平定するよう期限を設けた。応昌は賊を避けて撃たず、良民を殺して功績を偽り、巡按御史李嵩・兵科祝世美に弾劾された。帝は近侍を応昌の内中軍として派遣した。七月、部卒が鳴謙駅で潰走した。監視中官劉允中がその賊回避を弾劾したが、帝はなおこれを許し、畿南の賊を会剿するよう命じた。しばらくして、賊を平山で撃ち、虚偽の首功を報告し、連続して允中と巡按御史馮明玠・真定巡撫周堪賡に弾劾され、帝は功績を挙げて自ら罪を贖うよう命じた。七年春、賊を霊宝で追撃し、やや功績があった。その後、賊を均州五嶺山で撃ったが、敗北した。身に一本の矢を受け、河南に退還した。その弟全昌は宣府総兵官であった。宣府に警報があり、応昌に救援を命じたが、また功績なく、解職して審問を待つよう命じた。

八年、洪承疇が河南に出師し、私的な士馬を率いて従軍するよう命じた。三月に信陽に到着した。ちょうど賊が大挙して秦に入ったため、承疇は応昌と鄧玘・尤翟文に漢江南北を防がせた。鄧玘が死ぬと、承疇は賊が必ず鳳県の桟道から直ちに略陽に入ると考え、応昌・翟文に鄖陽から転じて興安・漢中に赴き、左光先・趙光遠らの諸軍と合流するよう改めて命じた。六月になるまでに、艾万年・曹文詔が相次いで戦死し、賊はことごとく西安に向かったため、承疇は急ぎ応昌と光先に檄を飛ばして救援させた。八月、李自成が咸陽を陥落させた。二日後、応昌・光先の兵が到着し、四百四十余級を撃斬し、軍師一人を捕らえた。全昌の兵が敗れて賊に捕らえられると、その潰走兵が関中に帰り、沿河の州県を掠奪した。山西巡撫呉甡が応昌に麾下に収容するよう請うたが、応昌はすでに病を得て、軍を率いることができなかった。まもなく卒去した。

全昌は廕叙により、霊州参将を歴任した。崇禎四年、同官の趙大胤とともに中部で点燈子を撃ち、その後、郃陽・韓城で連戦し、首功が多かった。巡撫練国事が二将に副将の官位を加えるよう請うた。大胤は耀州・富平の間に駐屯し、賊の西路を扼し、全昌は韓城・郃陽の間に駐屯し、賊の東路を扼した。五年七月、応昌に代わって定辺副総兵となった。曹文詔が賊を隴州・平涼・鳳翔の境界で追撃すると、全昌と馬科が千人を率いて応じ、ほぼ殲滅した。

翌年五月、都督僉事を代行し、総兵官に充てられ、宣府を鎮守した。応昌はちょうど山西を鎮守しており、兄弟が接境して大帥となった。翌年七月、大清兵が西征して插漢を討ち、軍を返してその境に入った。龍門・新城・赤城を攻囲し、保安州を陥落させ、鎮城に迫ったが、全昌は城を守って固く防いだ。やがて大清兵が西行すると、全昌は応州に進軍した。帝はその孤軍を慮り、呉襄・尤世威に救援に赴かせたが、応じなかった。全昌は渾源に至り、捷報を奏上し、軍を葛峪・羊房口に返した。呉襄らはまた救援しなかった。八月、大清兵が再びその境に入った。閏八月四日に万全右衛を陥落させ、他の城堡も多く陥落した。緊迫が解けた後、兄応昌が罪で解職され、全昌にその軍を併せて率いるよう命じた。兵科常自裕が文臣の張宗衡らは重く論罪されるのに、武臣は軽く許されるのは法に非ずと述べた。そこで全昌と文詔はともに辺境に戍らされた。山西巡撫呉甡の請いにより、全昌・文詔を援剿総兵官とし、猛如虎らとともに高加計を大破した。

八年春、汝寧で洪承疇と会し、汝州の賊を撃破した。まもなく西に関に入り、祖大弼とともに涇陽で賊を破った。間もなく、醴泉で賊を破った。五月、賀人龍とともに秦王嶺で老回回を破った。まもなく鳳翔の包囲を解き、賊を秦州に走らせ、張家川でこれを破った。やがて都司田応龍・張応龍が戦死し、艾万年・曹文詔が相次いで没すると、官軍はますます衰え、賊はことごとく西安に向かった。承疇は急ぎ全昌と曹変蛟に先んじて渭水・華山に赴きその前を遮らせ、自ら軍を督してその後を追い、賊を紅郷溝で退却させると、賊は南の商州・雒南に入った。承疇はまた全昌と趙光遠に兵三千を率いて潼関の大峪口を遮断させたが、部卒が大いに騒ぎ、滎沢に乱入し、倉庫を掠奪し人を殺した。河南巡撫玄默が急ぎ盧氏を救援するよう請うたが、聞き入れなかった。光遠は勝手に関中に帰還し、全昌は迤邐として潁州に至った。九月中、蝎子塊を沈邱の瓦店で追撃したが、戦いに敗れて捕らえられ、賊は彼を挟んで蘄州・黄州を攻撃した。全昌は賊に代わって降伏を求め、総理盧象昇は許さず、全昌が軍を喪い国を辱めたと責め、「賊が真に降伏を望むなら、その党を滅ぼして信を示せ」と言った。賊は命令に従わなかった。しばらくして、全昌は脱出して帰還し、陽和で象昇に謁見した。象昇は山・陝で兵を募るよう命じた。まもなく朝廷に推薦し、軍前に赴いて功績を立てるよう命じたが、帝は許さなかった。十年四月、楊嗣昌の言により逮捕して法司に付し、辺衛に戍らせる罪に処した。

徳昌は、崇禎初年に清水営守備となった。三年夏、王嘉胤を討伐して傷を負い、官を奪われる罪に坐した。しばらくして起用され、保定参将を歴任し、連続して土寇の仁義王を破った。十四年春、総督楊文岳が虎大威に従って五千人を率いて開封を救援するよう命じたが、進もうとしなかった。その冬、保定副総兵に抜擢され、なお文岳に従い、数度功績があった。十六年に卒去した。特進栄禄大夫・左都督を追贈された。

董一元

董一元は宣府前えいの人である。父の暘は嘉靖年間に宣府遊撃將軍となった。俺答が滴水崖を侵犯したとき、力戦して死んだ。官を贈られ廕を賜り、春秋に世祀された。兄の一奎は都督僉事であった。山西、延綏、寧夏の三辺を歴鎮し、勇敢をもって知られた。一元は兄のように勇敢であったが、智略はこれを超えていた。嘉靖の時、薊鎮遊撃將軍を歴任した。土蠻、黒石炭らが万余騎をもって一片石を侵犯したとき、総兵官胡鎮がこれを防ぎ、一元の功績が最も優れ、俸給を三級超えて加増され、石門寨参将に遷った。隆慶初年、敵を棒槌崖で破り、功績が再び最も優れた。さらに二級進み、副総兵に遷り、古北口に駐防した。宣府を守るために移った。

萬暦十一年に都督僉事として昌平総兵官となり、まもなく宣府に移った。十五年、薊州に移った。久しくして、弾劾され罷免された。鄭洛が洮州・河州を経略するとき、一元に西寧で練兵を命じた。火落赤が侵犯すると、一元はこれを西川で撃ち、多くを斬獲した。まもなく副総兵として寧夏を協守し、延綏総兵官に擢られた。哱拜の乱のとき、河套中の諸部長は皆これを助けた。一元は彼らが西掠するのに乗じ、軽騎で土昧の巣を搗き、首功百三十を獲、その畜産を駆り還ったので、寇は内顧して引き去った。都督同知を署理し、進み、中府僉事として中央に入った。

遼東は李成梁の後、楊紹勳が代わったが、一年に三度事を失った。尤継先がその後を継いだが、半年で病み去った。廷議で帥を選び、ついに一元に命じた。泰寧の速把亥が官軍に殺され、その次子の把兔児は常に復讐を欲した。従父の炒花および姑婿の花大がこれを助け、勢いはますます強まった。西部の卜言台周は、もと插漢土蠻の子で、部衆十余万を擁し、把兔児と東西相倚り、しばしば辺境を侵犯した。ここに至り卜言は一克灰正、脳毛大諸部と合し、広寧を侵犯すると声勢をあげた。一方、把兔児は炒花、花大、煖兔、伯言児の衆を率いて旧遼陽に営し、鎮武、錦州、義州を掠めんとしようとした。一元は巡撫李化龍と策を立てて言った、「卜言は衆こそ多いが、辺境から遠く、我らが特に患えるは把兔児と炒花のみである。今その衆は万騎に過ぎず、これを破れば西部は戦わずして走るであろう」。そこで副将孫守廉を右屯に馳せて西部を防がせ、自らは大軍を率いて鎮武の外に隠れ、空営を作ってこれを待った。寇騎が馳せ入って営に入り、大笑し、怯懦と以為って、深く侵入した。官軍が忽然と中より起こり、奮呼して陣を陥れ、午より酉に至った。寇は大いに奔り、北に七十余里を逐い、白沙堝に至った。俘斬五百四十余、馬駱駝二千を獲た。伯言児は矢に中って死に、把兔児も傷つき、余衆は終夜馳せ、天明に馬を駐めて環り哭した。その翌日、卜言台周が右屯に入り、五日五夜攻めた。守廉らが固守したので、ついに引き去った。時に二十二年十月である。捷報が聞こえ、帝は大いに喜び、郊廟に祭告し、捷を宣し賞を行い、一元を左都督に進め、太子太保を加え、本衞世指揮使の廕を賜った。兵部尚書石星以下も進秩差等があった。

伯言児は最も慓悍で、諸部はこれに倚って強さとした。かつて慶雲守備王鳳翔を誘い殺し、歳賞を革される罪に坐した。ここに至って殲滅され、諸部は気を奪われ、その部下は遂に款を納めた。把兔児、炒花および卜言台周、瓜兔児、歹青が再び辺境に臨んで駐牧し、来年正月に遼東・瀋陽の東西を略することを期した。一元は歳晩で備えがなく、寇に乗ぜられることを慮り、先ず西巡してその鋒を遏えようとした。化龍もまた弱卒を広寧に留め、しばしば西発して寇を疑わせた。一元は健卒を提げ、氷を踏んで河を渡り、監軍楊鎬がこれとともにした。墨山を度ると、天は大雪となり、将士の気はますます奮った。四百里を行き、三日三夜にしてその巣に抵った。首級百二十を斬り、牛馬甲仗を数えきれぬほど獲て、全師して還った。把兔児は鎮武での創傷が重く、嘆いて言った、「我はついに父の讐を報いることを得ないのか」。まもなく死に、その衆は散乱し、諸部は悉く遠く遁れた。一元は功により世廕を二秩進められた。久しくして、病により帰り、王保に代わることを命じた。

朝鮮に再び兵を用いることとなり、詔して一元を総督邢玠の麾下に隷させ、軍事を参賛させた。まもなく李如梅に代わって禦倭総兵官となった。時に兵は四路に分かれた。一元は中路より、石曼子を泗州で防ぎ、先ず晉州を抜き、望晉を下し、勝に乗じて江を渡り、連ねて永春、昆陽の二寨を毀った。賊は泗州の老営に退き保ったが、これを攻め下し、遊撃盧得功が陣歿した。前に進んで新寨に逼った。寨は三面江に臨み、一面陸に通じ、海を引いて濠とし、海艘が寨下に泊まること千計、金海、固城を築いて左右の翼とした。一元は馬歩を分けて挟攻した。歩兵遊撃彭信古が大棓を用いて寨を撃ち、その数箇所を砕いた。諸軍が進んで賊の濠に逼り、その柵を毀った。忽然として営中で砲が裂け、煙焰が天に漲った。賊は勢いに乗じて衝撃し、固城の援賊もまた至った。騎兵の諸将は先に奔り、一元もまた晉州に還った。事が聞こえ、詔して遊撃馬呈文、郝三聘を斬り、信古らの職を落として事官に充て、一元もまた宮保を奪い、秩を三等貶した。ちょうど関白が死に、倭は遁走した。石曼子は陳璘に殲滅され、一元は故の秩を得、銀幣を賜った。久しくして卒した。一元は衝辺を歴鎮し、ともに労績を著した。麻貴、張臣、杜桐、達雲とともに辺将の選と云われた。

王保

王保は榆林衞の人である。ぎょう勇絶倫で、行伍より起り、功を積んで延綏参将となった。萬暦十六年、延綏・定辺副総兵に遷った。十九年冬、都督僉事を署理し、昌平総兵官に充てられ、まもなく山西に改めた。薊鎮総兵官張邦奇が弾劾され、保と易任することを命じた。嘉靖庚戌の後より、薊鎮は他鎮より重んぜられた。穆宗に詔があり、大小の部長を獲たる者は破格に酬い、他鎮は比べるべからずとされた。迨うに俺答が塞に款すると、宣府、大同、山西の三鎮は烽煙寂然たり。陝西四鎮は火落赤が盟に敗れたため、始めて再び兵を用いたが、寇は弱く禦し易かった。ただ泰寧、插漢諸部が時に時に遼東を侵犯した。而して薊門は王畿に密邇し、遼帥とともに慎選された。保に威望あるをもって、これを用いた。朶顔の長昂は張臣が薊を鎮めるとき款を納めた。五六年居り、再び連ねて石門路、木馬峪、花埸谷を寇し、遂にその市賞を罷めた。後、銀燈とともに山海関を寇した。已にして、また喜峰口に馳せて賞を要求した。邦奇は偽り増市を許し、その通事二十五人を誘い殺した。長昂はますます怒り、大青山を侵犯した。頃にして、その党の小郎児らを遣わして喜峰口に潜伏させ、偵卒を射殺した。ちょうど保が既に至り、遂にこれを擒らえた。長昂は常に小郎児に籌策を資け、懼れて謝罪し、掠められた人畜を献還したので、保は乃ち小郎児を釈放して還した。長昂は五貢を補い、辺吏は始めて二賞を補い、互市は初めの如くになった。御史陳遇文が穆宗の詔を援いて請うたので、保を署都督同知に進め、副将張守愚以下は皆進秩した。

薊三協南営の兵は、戚継光が募ったものであり、朝鮮攻めに調され、撤還して石門を過ぎるとき、鼓譟し、月餉の増加を挟んだ。保はこれらを演武場に赴かせるよう誘い、これを撃ち、数百人を殺し、反逆と上聞した。給事中戴士衡、御史汪以時が南兵は未だ反逆せず、保が意のままに撃殺したと言い、官を遣わして按問するよう請うた。巡関御史馬文卿は保を庇い、南兵に大逆十ありと言い、尚書石星がこれに附会したので、遂に変を定める功をもって保の秩を真のものと進め、子に廕を賜った。督撫の孫鑛、李頤らもまた官を進め賜を受けたが、時論はこれを尤めた。

二十三年の冬、順義王撦力克の弟趕兔が三軍を率いて白馬関及び東西臺を侵犯したが、守備徐光啓、副将李芳春・戴延春に撃退された。

翌年の秋、再び部長倒布とともに黒谷頂を侵犯したが、敗れて去った。保は彼らが再び来襲することを予測し、開連口及び横河児に分営した。

敵は果たして横河に急襲した。官軍は夜半に疾走して石塘嶺に到着し、その陣営を襲撃した。敵は大いに驚いて潰走し、勢いに乗じて塞外に追い出した。

その冬、再び羅文峪を侵犯したが、敗れて去った。詔により一元に代わって遼東を鎮守する。

朝鮮で再び戦役が起こると、保に海防を命じたが、海州で卒した。左都督を追贈された。

子の学書は宣府総兵官となった。学詩・学礼はともに副総兵となった。学書は郷里に居たが、榆林城を守り、李自成に抗して屈せずに死んだ。

杜桐

杜桐、字は来儀、崑山の人で、延安衛に移住した。万暦初年、世襲の恩蔭により累進して清水営守備となり、智謀と勇気で知られた。

延綏入衛遊撃将軍に転じ、古北口参将に改められた。総督梁夢龍の推薦により、延綏副総兵に抜擢された。十四年、そのまま署都督僉事に任じられ、総兵官を充任した。

松が既に廃された後、当時はその勇を惜しむ者が多かったが、その事を壊すことを憎み、推挙する者はいなかった。四十三年に至り、河套の寇が大いに侵入したので、松に軽騎を率いて火落赤の営を衝かせた。首功二百余りを獲て、再び叙用された。二年を過ぎ、薊遼に事多く、特に総兵官を設けて山海関を鎮め、松を以てこれに任じた。四十六年、張承廕が戦死し、詔して松に遼陽へ馳せ援がせしめた。明年二月、楊鎬が四路より出師することを議した。撫順が最も衝要であるとして、松に六万の兵を以てこれに当たらせ、故総兵趙夢麟・保定総兵王宣を佐けとした。三月二日に二道関に抵り、李如柏等と会して並び進むことを期した。松は勇にして謀なく、剛愎で気を遣った。二十九日の夜、撫順関を出て、日に百余里を馳せ、渾河に抵った。半ば渡るに及び、河流急にして、尽く渡ることができなかった。松は酔ってこれを促し、将士多く河中に溺れた。松は遂に前鋒を進め、連ねて二つの小砦を克ち、松は喜んだ。三月朔、勢いに乗じて撒爾湖の谷口に趨った。時に大清は方に城を界凡山上に築き、役夫一万五千、精騎四百を以てこれを護っていた。松の軍の至るを聞き、精騎は則ち尽く谷口に伏して以て待った。松の軍が半ばを過ぎた時、伏兵が尾よりこれを撃ち、界凡の渡口まで追い、築城の夫と合して山傍の吉林崖に拠った。明日、松は大軍を引きて崖を囲み、別に将を遣わして撒爾湖山上に営した。松の軍が崖を攻め、方に戦う時、大清は千人を益してこれを助け、已にして又二旗の兵を続けて遣わし界凡に趨らせて以て援と為し、而して六旗の兵を遣わして松の別将を撒爾湖山に攻めた。明日、六旗の兵が大戦し、撒爾湖山の軍を破り、死者相枕藉した。吉林崖を助けし所遣わしし者は、山より馳せ下りて松の軍を撃ち、二旗の兵も亦直ち前に進んで夾撃し、松の兵は大いに敗れ、松と夢麟・宣は皆陣に歿した。横屍山野に亘り、流血渠を成した。大清の兵は北に逐うこと二十里、勺琴山に至って還った。時に車営五百は尚ほ渾河に阻まれ、而して松は既に敗れていた。頃にして、馬林・劉綎の両軍も亦敗れ、独り李如柏の一軍のみ遁れて還った。事聞こえ、朝議多く松の軽進を咎めた。天啓初め、少保左都督を贈り、世廕千戸、祠を立て祭を賜う。宣も亦官を贈り、祠を立て、世廕指揮僉事。宣は、榆林の人。夢麟は、父岢の伝に見ゆ。

子:文煥 孫:弘域

桐の子文煥、字は弢武。廕叙より由り、歴て延綏遊撃将軍に至り、累進して参将・副総兵となる。四十三年、署都督僉事・寧夏総兵官に擢でられる。延綏が寇に被るや、文煥は赴き救い、大いにこれを破った。明年、遂に官秉忠に代わりて延綏を鎮む。屡々寇を安辺・保寧・長楽に敗り、斬首三百余り。西路の火落赤・卜言太は懼れ、相率いて降る。沙計は数たび辺を盗み、文煥に敗られ、遂に款を納む。既にして復た吉能・明愛と合し、高家・柏林の辺に駐り、封王・補賞の十事を要す。文煥はその営を襲い、斬首百五十。火落赤諸部落は刀を攅てて立ち誓い、罰の九九を献ず。九九とは、部落中に罰する駝馬牛羊の数なり。已にして、沙計は又た沙溝に伏兵し、都指揮王国安を誘い殺し、猛克什力を糾い双山堡を犯し、復た波羅を犯す。文煥はこれを撃破し、奔るを追うこと二十余里。当の是の時、套寇は十万と号す。然れどもその衆は四十二枝に分かれ、多きは二三千、少なくは千騎に及ばず、屡々志を得ず。沙計は乃ち吉能・明愛・猛克什力と相継いで款を納め、延綏は遂に事少なし。文煥は尋いで疾を以て帰る。

天啓元年、再び延綏を鎮む。詔して文煥に遼を援がしむるや、文煥は乃ち兵を遣わし河套に出で、巣を搗きて以て寇を致す。諸部大いに恨み、深く固原・慶陽に入り、延安を囲み、必ず文煥を縛らんと揚言し、十余日掠めて去る。職を解きて勘を候わしむるを命ず。奢崇明が成都を囲むや、総督張我続は文煥をして赴き救わしむるを請う。至れば則ち囲み既に解け、諸軍と偕に重慶を復す。崇明は永寧に遁れ、文煥は頓して進まず。尋いで総理に擢でられ、尽く川・貴・湖広の軍を統ぶ。賊を制すること能わざるを度り、病を謝して去る。延綏の失事の罪に坐し、辺に戍す。七年、起きて寧夏を鎮む。寧・錦の警を告ぐるや、詔して文煥に馳せ援がしむるも、俄に関わらず分かち寧遠を鎮めしむ。右都督に進み、関門を守るに調す。尋いで疾を引きて去る。

崇禎元年、重慶の功を録し、指揮僉事を廕す。三年、陝西に群盗起こり、五鎮総兵並びに勤王を以て行く。総督楊鶴は文煥をして延鎮の事を署せしめ、兼ねて固原の軍を督せしむるを請う。数たび賊を敗るも、賊も亦日に益々多し。会す、山西総兵王国樑が河曲に於いて王嘉胤を撃ち、大いに敗れ、賊入りてその城を拠る。部議、一大将を設け、兼ねて山・陝の軍を統べて協討せしむ。乃ち文煥を提督と為し、曹文詔と馳せ至り河曲にて、饟道を絶ちて以てこれを困らしむ。神一元が寧塞を陥すや、文煥の家破る。遂に文詔を留め、文煥をして西還せしむ。四年、御史呉甡がその延川の難民を殺して功を冒すを劾し、給事中張承詔復たこれを劾し、獄に下し職を褫う。十五年、総督楊文岳の薦を用い、故官を以て賊を討つ。功無し。復た病を謝して帰る。

子弘域、天啓初め歴て延綏副総兵。七年夏、文煥が遼を援ぐるや、即ち総兵官に擢でられ、代わりて寧夏を鎮む。資を積みて右都督に至る。崇禎中、池河・浦口の二営練兵を提督し、賊の南渡を遏え、頗る功有り。十三年、浙江に移鎮す。尋いで病を謝して去る。国変の後、文煥父子は原籍の崑山に帰り、卒す。

蕭如薰

蕭如薰、字は季馨、延安衞の人。万暦中、世廕百戸より由り歴官して寧夏参将となり、平虜城を守る。

二十年春、哱拜・劉東暘が寧夏鎮城に拠りて反し、その党を遣わし四出して地を略す。拜の子承恩は玉泉営を徇い、遊撃傅桓は拒み守るも、その下の者に執せらる。賊は既に中衞及び広武を徇い、参将熊国臣等は城を棄てて奔り、列城皆風靡す。賊党の土文秀は平虜を徇うも、独り如薰堅く守りて下らざる。如薰の妻楊氏は、故尚書兆の女なり、賢にして智有り、夫を賛して死守し、日ごとに牛酒を具し士を犒う。拜の養子雲最も驍勇、河套の著力兔を引きて急攻す。如薰は南関に伏兵し、佯いに敗れ、賊を誘い入れ、雲を射て死なせ、余衆敗れて去る。又た著力兔の営を襲い、人畜多くを獲る。著力兔憤り、復た来り攻むるも、麻貴に却せられ、城全きを得る。初め、帝は如薰の孤城賊に抗するを聞き、大いに喜び、厚く銀幣を賚い、官を副総兵に擢づ。六月、遂に都督僉事を以て寧夏総兵官と為り、尽く延綏・甘粛・固原の諸援軍を統ぶ。その秋、竟に李如松等と共に賊を平げ、再び署都督同知に進み、錦衣世指揮僉事を廕す。妻楊氏も亦旌せらる。

二十二年八月、卜失兔西に定辺を犯し、闌入りて固原塞に入り、副将姜直禦うること能わず、遂に沙梁隤牆より由り入り、直ちに下馬関に抵り、縦横内地に幾一月。如薰は官を免ぜられ、直は吏に下る。尋いで復た総兵官を以て固原を鎮守す。套寇入り犯すも、撃ちてこれを却く。青海の寇は番族を糾い洮・岷を犯すも、如党及び臨洮総兵孫仁これを禦い、禽斬三百四十余り、叛番五千人を撫し、駝馬甲仗算うるに遑あらずを獲る。再び寧夏を鎮む。銀定・歹成数たび入り犯すも、輒ち挫衂して去る。薊州に徙鎮す。久しくして、罷めて帰る。再び故官を起し、延綏を鎮む。

天啓初年、朝廷の議論で京軍が不足しているとして、辺境の将を召して各営を分けて訓練させた。如薰は神機営を統轄した。謁見すると、帝は食事を賜り、賞与と労を加えた。翌年、徐州に出鎮した。まもなく召還されて京に戻り、再び総兵官として保定を鎮守した。五年の夏、魏忠賢の一派が李三才と姻戚関係にあると弾劾し、ついに職を奪われた。崇禎初年に卒去し、制に従って恤典を賜った。

如薰は将として慎重であった。七つの鎮を歴任し、任地ごとに称賛された。隆慶以後、和議と互市が成立し、烽火の警報は少なくなり、朝廷は鎮帥を外府と見なした。山人や雑流の輩が、朝士の書簡を乞うて赴けば、その望みを満たさぬことはなかった。薊鎮の戚継光は詩に能ある名があり、特に文人を招くことを好み、財を傾けて交わりを結び、軍府の財を費やした。如薰もまた詩ができ、士人は競って集まり、賓客の座は常に満ちた。妻の楊氏、後妻の南氏はいずれも名家の娘であったが、客をもてなすために簪や耳飾りを外して供してもなお足りなかった。軍中はこれを苦にしたが、如薰は退けることができなかった。一時の風潮が尚んだところであり、諸辺の物力は消耗し、識者は嘆いた。

如薰の祖父は漢、涼州副総兵、都督僉事。父は文奎、京営副将、都督同知。兄の如蘭は陝西副総兵、都督僉事、前府僉書。如蕙は寧夏総兵官、都督同知。如芷は提督南京教場、都督僉事。

達雲

達雲は涼州衞の人。勇猛で智略に富んだ。万暦年間、世職の指揮僉事を嗣いだ。守備に抜擢され、さらに肅州遊撃将軍に進んだ。炒胡兒が侵入すると、参将楊濬とともにこれを撃破し、西寧参将に遷った。

永邵卜は順義王俺答の従子で、部衆が強盛であった。先に都督同知を授けられ、さらに龍虎将軍に進んでいた。自らは貢市が宣府にあるため、守臣が自分を厚遇し、暴れることができないと考え、俺答に従って西へ活仏を迎えに行き、青海に留まって占拠し、瓦剌の他卜囊とともに毎年西寧の患いとなった。かつて副将李魁を誘い殺した。辺境の臣は報復できず、ますます中国を軽んじる心を持った。二十三年九月九日、将兵が必ず宴会を開くと推し量り、精鋭の騎兵を率いて南川に直入した。配下の番人が偵察して報告すると、雲は要害に兵を配置し、番人に朶爾硤口の外を回り込ませて背後を密かに扼させ、自らは精兵二千を率いて戦った。ちょうど合戦となった時、伏兵が忽然と現れ、敵は首尾相顧みることができず、番人が挟撃して大いにこれを破った。雲は自らその将帥一人を斬り、六百八十余級を斬首した。峽外に逃げた者は、また番人に殲滅された。駱駝・馬・兵器を数え切れぬほど鹵獲した。西陲における戦功の第一とされた。斬った把都爾哈は、以前に李魁を殺した者であり、その地は李魁が陣没した場所であり、時もまた九月であった。先に、副将李聯芳が敵に殺され、総兵尤継先がその仇敵を生け捕りにしていた。辺境の人はこの二つのことを快事とした。

雲は勝利した後、敵が必ず再び来ると推し量り、厚く兵を集めて待ち受けた。一ヶ月余りして、敵は果たして真相、火落赤ら諸部と連合し、先に番人の剌卜爾寨を囲んで官軍を誘い出そうとした。番人は支えきれず、敵と合流し、敵はついに西川に迫った。雲は諸軍を督して康纏溝に陣し、敵は全軍でこれを包囲し、矢石が雨のごとくであった。雲は左右に衝撃し、辰の刻から申の刻まで、数十合戦った。敵の死傷は数え切れず、ついに長鎗と鈎杆をもって専ら西寧軍を犯そうとした。西寧軍は堅固で破れず、敵はようやく逃げ、数十里を追撃して戻った。勝利の報が聞こえると、帝は大いに喜び、官を遣わして郊廟に告げ、勝利を宣した。大学士趙志臯以下は皆官を進めた。雲は都督同知に抜擢され、本衞の世襲指揮使の蔭位を賜った。敵は毎年諸番を掠奪し、番人が敵わなければ屈服して敵に加わった。敵が敗れて遠くに去ると、雲は急いで番人を招き、旧業に復した者は七千余戸に及んだ。永邵卜が明沙、上谷を連続して侵犯したが、雲はともにこれを撃退した。初め、南川での勝利により、雲はすでに副総兵に進んでいたが、この時、総兵官として延綏を鎮守する命を受けた。まもなく、甘粛を鎮守した。二十六年、永邵卜が再び西寧を侵犯し、参将趙希雲らが陣没し、雲は俸給停止の処分を受けた。

甘粛・寧夏の間に松山があり、賓兔、阿赤兔、宰僧、著力兔らがここに居住し、しばしば両鎮の患いとなった。巡撫田楽が回復の決断を下した。雲は副将の甘州馬応龍、涼州姜河、永昌王鉄塊らと分かれて襲撃した。敵は遠くに逃げ、その巣窟をことごとく抜き、五百里の地を奪回した。雲は功により右都督に進み、世襲指揮僉事の蔭位を賜った。まもなく、青海の敵が衆を糾合して河西を分進侵犯したが、五道すべてに備えがあり、百七十余りの首級を献上した。松山を回復した後、辺境の城壁を築き、屯田を分けて守備を置いた。功績を記録して左都督に進んだ。敵はその旧巣を恋い慕い、官軍が防備を撤収する時に乗じて密かに兵を入れて侵犯したが、雲は険阻な地を占めてこれを邀撃した。敵は大敗し、百六十を斬首した。雲に太子少保を加えた。敵はますますその仲間を糾合して鎮番を侵犯したが、雲と諸将の葛頼らが大いにこれを破り、三百七十余級を斬首した。帝は廟に告げ、賞を行い、雲の世襲の蔭位を二階進めた。敵が再び侵犯したが、雲はこれを破って退けた。

この時、敵は松山を失い、賀蘭山に拠って逃げた。後、青海の諸部と連合して掠奪をやめず、銀定、歹成が特に桀驁であった。三十三年、連営して鎮番を侵犯した。雲は副将柴国柱にこれを撃たせ、敵は大敗して去った。まもなく、青海の敵が再び大挙侵入したが、将兵が分かれて遮撃し、その長である沙頼を生け捕りにし、残りは敗走した。三十五年に功績を叙し、雲は勲功と蔭位を増やされた。この年、松山、青海の二敵が再び連合して涼州を侵犯したが、雲は紅崖で迎え撃ち、大いに勝利し、百三十余級を斬首した。

雲は将として、先頭に立って敵陣に突入し、赴くところで一度も敗北せず、その名は西陲に震い、一時の辺将の筆頭であった。秋の防衛中に軍中で卒去した。太子太保を追贈された。子の奇勲は万暦末年に昌平総兵官となった。

尤継先

尤継先は榆林衞の人。万暦年間、功を積んで大同副総兵となった。十八年、火落赤、真相が洮州、河州を侵犯し、副総兵李聯芳らが戦死した。詔により署都督僉事に進み、総兵官を充て、劉承嗣に代わって固原を鎮守した。敵は莽剌川、捏工川の二川を占拠し、日々番族を蚕食し、さらに西寧を擾乱した。官軍が大集結したと聞き、卜失兔がまた水泉で敗れたので、氷が堅く結んだのに乗じて黄河を渡り北へ逃げ、その党の可卜列、宗塔児ら五百余人を留めて莽剌川の南山で放牧させた。南山はすなわち石門大山口で、烏思蔵への門戸である。配下の番人が来て報告すると、継先は番人に八百人を先導させ、元総兵の承嗣、遊撃の原進学、呉顕らとともに七百里を疾駆し、直ちに南山に到達した。奮撃して大いにこれを破り、百五十余級を斬首し、十二人を生け捕りにした。而して拜巴爾的という者は、可卜列の従子で、以前に聯芳を殺した者であり、この時に捕らえられた。軍が帰還する時、敵が撒川まで尾行してきた。備えがあるのを見て、夜に逃げた。他の敵が鎮羌、西寧、石羊を侵犯したが、いずれも敗れた。火落赤はついに帳を西海に移した。功績を記録し、官位を実授に進め、世襲の蔭位を一階増やした。まもなく病気で帰郷した。中軍府事の僉として起用された。

二十一年の冬、遼東総兵官となる。炒花が二千騎で韓家路に入ると、継先は諸軍を督して奮撃し、寇は去った。再び病を理由に帰郷した。二十四年、薊州鎮守として起用される。戚継光が鎮守して以来十年、諸部は叛服常ならずといえども、辺境の警報は頗る稀であった。寇が一度青山口に入ったが、敗れて去った。最後に、長昂が班・白の二部長を導いて入犯し、石門を経て山海関を窺い、京東の民は悉く通州に逃げ込んだ。継先が関を出た時には、寇は既に寧前を掠めて去っていた。総督蹇達は継先が追撃しなかったことを怒り、継先は降伏した丁壮八百人を収容して用いようとしていた。達は上疏して番情は制御難く、後患を遺す恐れがあると述べ、継先を別鎮に転任させ、降丁を随行させるよう請うた。兵部は延綏の杜松と交代させることを議し、巡撫劉四科がこれに争った。達は再び上疏して言うには、「辺境を守るのは自強にあり、継先は独り降丁に頼るのみと言う。昨年関を出た時、何故竟に降丁の力が得られなかったのか。軍書頻繁に至り、辺隘の虚実は久しく彼らに窺われている。呼吸の間に変生すれば、措く手の安んずる所なし」と。兵科の宋一韓らは達の議を力主し、且つ継先の他の事柄を弾劾した。継先は遂に罷免され、家で卒した。

継先は片目が不自由であったが、兵事に習熟し敢然と戦い、当時「独目将軍」と称された。

官秉忠

官秉忠は、榆林衛の人である。万暦年間に世襲の官蔭により起用され、固原参将を歴任し、寧夏・甘粛副総兵に抜擢された。かつて主将の達雲と共に紅崖で寇を大破し、銀定・歹成を屡々挫いて退けた。薊鎮東協の守備に移り、功を積んで都督同知を署任した。

四十年五月、総兵官に抜擢され、張承廕に代わって延綏を鎮守した。河套の寇が保寧を犯すと、秉忠は参将杜文煥らを督して白土澗でこれを破った。一日に再び勝利し、二百五十を捕斬し、その長十二人を斬首した。間もなく、旗牌の撒勒が長楽を犯すと、秉忠は軽騎を率いて追襲し、大いに獲た。猛克什力が保寧を犯すと、秉忠はまたこれを破った。やがて猛克が賞賜を挟んで得られず、再び保寧及び懐遠を寇すと、秉忠はその向かう所に従って勁騎をもって遮撃し、先後二百二十余を斬首した。猛克及び旗牌がまた千余騎で波羅を犯し、遥かに保寧の軍を見て、遂に塞外に遁走した。

吉能は、卜失兔の子で、河套中の主となり、士馬は諸部に雄であった。卜失兔が順義王を襲封し、五年分の市賞を補給されたのを見て、封王を挟み求め、且つ八年分の市賞の返還を求めた。辺臣が許さないと、大いに怨んだ。たまたま他の部の鉄雷が痘瘡で死んだが、妄りに辺吏が毒殺したと言い、沙計が辺境を盗み、また敗退させられた。吉能は遂に河套中の諸部を合わせ、大挙して入寇した。東道の高家・大柏油・神木・柏林、中道の波羅、西道の磚井・寧塞の諸城堡は悉く蹂躙された。副将孫洪謨が大柏油でこれを防ぎ、伏兵に中り包囲された。遊撃万化孚らは救援せず、士卒の死傷は過半に及び、洪謨は遂に降った。秉忠は寇の侵入を聞き、急ぎ遊撃張榜を遣わしてその営を潜かに襲撃させたが、また敗れ、四百余人が死んだ。時に旧帥杜松・寧夏の帥杜文煥の援軍が至り、共に敵を破り、秉忠の所部も斬獲があり、寇は始めて退いた。然れども尚塞下に駐屯し、時々掠奪した。秉忠も屡々出撃して襲撃し、多く首功を獲たが、結局以前の敗戦の責任を問われて弾劾され官を去った。交代を待つ間に、沙計が双山・建安から入犯を謀ると、秉忠は伏兵を設けてこれを待ち、遂に大いに敗走させ、二百余を斬首した。

四十六年、劉綎・柴国柱らと共に召され、前軍都督府僉書を命じられ、間もなく遼東救援に赴いた。楊鎬の四路出師に際し、秉忠に鎮城の防守を命じた。間もなく、病を理由に辞して帰郷した。久しくして卒した。子の撫民も寧夏総兵官となった。

柴国柱

柴国柱は、西寧衛の人である。万暦年間、世襲の官蔭により西寧守備となる。驍猛で善射であった。参将達雲に従って南川で寇を撃ち、勇気は全軍の冠であった。功を録され、都指揮僉事に進む。寇が辺境を侵すと、常に国柱によって挫かれた。屡々進んで涼州副総兵となった。

松山が回復した後、堡塁を築き斥候を置いたが、寇が数度来て擾乱し、国柱は頻りに撃退した。銀定・歹成が連合して鎮番を寇すと、国柱は馳せて救援し、二百余を斬首し、馬・駱駝・甲冑兵器を数え切れぬほど獲た。青海の寇が鎮羌・黒古城諸堡を大掠し、守備楊国珍が防げなかったので、国柱は急ぎ遊撃王允中らを率いて撃退した。銀定・歹成が再び河西を犯すと、国柱は邀撃し、百二十の首功を獲た。都督僉事を署任し、陝西総兵官に抜擢された。

三十六年春、甘粛鎮守に転ず。銀定・歹成は屡々志を得ず、益々永昌を寇掠した。国柱は馳せて大戦し、これを破り、麻山湖まで追撃し、百六十余を斬首した。その部落が再び入寇し、守備鄭崇雅らが戦死したので、国柱は俸給一年を奪われる罪に坐した。河套・松山の諸部長が合兵して入寇すると、国柱は諸将に檄を飛ばして分道撃ち、また百六十を斬首した。屡々加えて右都督となり、世襲の指揮僉事の官蔭を受けた。久しくして罷官した。

四十六年夏、都督府僉書に召される。間もなく、杜松に代わって山海関を鎮守した。松が敗死すると、虎墩兔が機に乗じて辺境を犯したが、国柱らは力めてこれを抑えた。間もなく瀋陽鎮守に移る。病を理由に辞して帰郷した。天啓初年、辺功を追録され、左都督を加えられた。卒し、制に従って恤典を賜った。

李懐信

李懐信は、大同の人である。世襲の官蔭により都指揮僉事を歴任し、山西都司を掌った。廉潔勤勉で、数度推薦された。万暦年間、延綏中路参将に遷り、定辺副総兵に進む。卜失兔・火落赤・鉄雷・擺言太らが毎年辺境を擾乱した。定辺は延綏の西に位置し、被害は特に甚だしかった。懐信は勇敢で謀略があり、寇が侵入する度に敗走させた。その先後の鎮帥である杜松・王威・張承廕・官秉忠もまた皆一時の選りすぐりであったので、辺患は雖も劇しくとも、士気は衰えなかった。

四十三年、甘粛総兵官に抜擢され、延綏の民は生祠を立てた。松山の寇が蘆溝墩諸処に侵入掠奪すると、懐信は邀撃して大いにこれを破った。三百余を斬首し、駱駝・馬・甲冑兵器を数え切れぬほど獲た。已にして、再び三道に分かれて鎮番諸堡を犯すと、懐信もまた分かれてこれを防いだ。寇は引き返したが、将士はその後を追い、百九十余の首功を獲た。その後は寇の侵入は多く失利して去り、威名は河西に著しかった。先に、陝西は四鎮のみを設置していたが、西寧に多警となってから臨洮総兵官を増設し、遂に五鎮となった。然れども甘粛・延綏のみが最も敵衝に当たり、故に帥を選ぶことに常に慎重であった。而して甘粛は北に松山、南に青海を臨み、諸部落がその外に環居し、特に防禦が難しかった。懐信が鎮守している間、辺人は恃んで恐れなかった。

四十七年、遼東が危急となり、詔して援勦総兵官に充て、遼東に馳せ赴かしむ。時に熊廷弼が経略たり、令して懐信に柴国柱・賀世賢とともに四万人を率いて瀋陽を守らしむ。煖兔・炒花、入犯を謀る。廷弼、急ぎ懐信を移して首山に戍らしむ。寇、敢えて入らず。俄にして泛懿に警あり、檄して懐信にこれを禦却せしむ。遼事ますます急なり。諸老将多く引避す。廷弼また負気して諸将を凌ぐ。懐信堪えず、また堅く臥して疾を引きて去る。天啓二年、起して大同を鎮守せしむ。明年、罷む。已にして、辺功を追録し、左都督に進む。久しくして、家に卒す。

賛に曰く、張臣諸人は、勇略自ら奮い、辺陲に効を著し、均しく一時の良将の選なり。董一元の白沙堝・墨山の捷は、奇偉王越に下らず。至りて承廕と松は、将門の子として躯を捐て国に報い、世の称する所の「東李西麻」なる者を視れば、相去ること何ぞ等しきや。