明史

列傳第一百二十六 李成梁 麻貴

李成梁

李成梁、字は汝契。高祖こうその英は朝鮮より内附し、世襲の鉄嶺衛指揮僉事を授かり、ここに家を定めた。成梁は英毅にしてぎょう健、大将の才あり。家貧しく、職を襲ぐことができず、年四十にしてなお諸生たり。巡按御史これを器とし、資金を与えて京に入らしめ、ここに襲職を得た。功を積みて遼東険山参将となる。隆慶元年、土蛮が大挙して永平に入る。成梁は赴援して功あり、副総兵に進み、なお険山を守る。まもなく遼陽を協守す。三年四月、張擺失らが塞下に屯す。成梁は迎撃してこれを斬り、その卒百六十余を殲滅す。余衆は遠くに移り、ここにその地は空し。功を録し、秩一等を進む。四年九月、辛愛が大挙して遼東に入る。総兵官王治道戦死す。成梁を擢ちて都督ととく僉事を署し、これに代わる。この時、俺答は塞に款(和)すといえども、插漢部長の土蛮とその従父の黒石炭、弟の委正・大委正、従弟の暖兔・拱兔、子の卜言台周、従子の黄台吉は勢い方に強し。泰寧部長の速把亥・炒花、朵顔部長の董狐狸・長昂これに佐く。東には王杲・王兀堂・清佳砮・楊吉砮の類あり、また時に塞下を窺う。十年の間に、殷尚質・楊照・王治道の三大将みな戦死す。成梁ここに大いに戎備を修め、将校を甄抜し、四方の健児を収召し、厚い餼(給与)を与えて、選鋒として用う。軍声ここに始めて振るう。

明年五月、敵が盤山駅を犯す。指揮の蘇成勳これを撃ち走らす。まもなく、土蛮が大挙して入る。成梁は卓山においてこれに遇い、副将趙完らを麾して挟撃し、その首尾を断つ。勝に乗じてその巣に抵り、部長二人をくびきり、首級五百八十余を斬る。都督同知を署し、世襲で千戸をおかす。また明年十月、土蛮六百騎が旧遼陽北河に営し、辺境より二百余里を去り、衆の集まりて大挙するを俟つ。成梁これを撃ち走らす。万暦元年、またこれを前屯において撃ち走らす。すでにして、またこれを鉄嶺鎮西の諸堡において破り走らす。秩二等を増す。朵顔の兀露絲罕が四千騎を以て牆(塁壁)を毀ちて入る。成梁これを防ぎ退ける。

建州都指揮の王杲はもと撫順と馬市を通ず。ここに及び、備禦の裴承祖を誘い殺す。成梁これを討たんと謀る。明年十月、杲また大挙して入る。成梁は副将楊騰・遊撃王惟屏に檄して要害に分屯せしめ、参将曹簠をして挑戦せしむ。諸軍四面より起こり、敵大いに奔り、ことごとく杲の寨に聚まる。寨の地高く、杲は深溝堅壘を以て自ら固む。成梁は火器を用いてこれを攻め、数柵を破り、矢石雨のごとく下る。把総の于志文・秦得倚先登し、諸将これに継ぐ。杲は高台に走り、志文を射殺す。ちょうど大風起こり、火を放ちてこれを焚く。先後して斬馘千一百余級、その営壘を毀ちて還る。左都督に進み、世襲で都指揮同知を廕す。杲は大いに創を受け、軍をなすこと能わず、走りて阿哈納寨に匿る。曹簠は精騎を勒して往き、杲は南関に走る。都督の王台これを執えて献じ、斬る。

三年春、土蛮が長勇堡を犯す。これを撃ち敗る。その冬、炒花が大いに黒石炭・黄台吉・卜言台周・以児鄧・暖兔・拱兔・堵剌児ら二万余騎を会し、平虜堡より南に掠る。副将曹簠馳せ撃ち、ここに瀋陽を転掠す。城外に列営するを見て、ここに西北の高墩を拠る。成梁は邀え戦い、火器を発す。敵大いに潰え、輜重を棄てて走る。河溝に追い至り、勝に乗じて河を渡り、撃ち斬ること千を以て数う。太子太保を加えられ、世襲で錦衣千戸を廕す。明年、黒石炭・大委正が大清堡の辺外に営し、錦州・義州を謀る。成梁は選鋒を率いて二百里を馳せ、その営に逼り、これを攻め破る。部長四人を殺し、首級六十余を獲る。五年五月、土蛮また入り、河東に営を聯ね、零騎を遣わして西に掠る。成梁はその巣を掩い、利を得て還る。明年正月、速把亥が土蛮を糾い大挙して入り、劈山に営す。成梁は丁字泊に馳せ至る。敵方に騎を分かちて牆を繞りて入らんとす。成梁は夜に塞を出て二百里、劈山営を搗き破り、首級四百三十を獲、その長五人を馘る。太保を加えられ、世襲で本衛指揮使を廕す。三月、遊撃の陶承嚳が敵を長定堡に撃ち、馘四百七十余を献ず。帝すでに郊廟に告謝し、大いに賞賚を行い、成梁に世襲の指揮僉事を廕す。言うところあり、殺したるは土蛮の部曲にして、牛羊を盗み事覚え、罪を懼れて来帰するを、承嚳が掩い殺せりと。給事中の光懋ここに承嚳の降を殺す罪を治めんことを請う。御史これを勘し、懋の言のごとし。兵部尚書の方逢時、督撫の梁夢龍・周詠は先に承嚳とともに功を叙せられ、力を尽くして解く。ついに御史の奏のごとく、諸臣の恩命を尽く奪う。六月、敵が鎮静堡を犯す。またこれを撃退す。十二月、速把亥・炒花・暖兔・拱兔が土蛮の黄台吉、大・小委正、卜児亥、慌忽太ら三万余騎と会し、遼河に壁し、東昌堡を攻め、深く耀州に入る。成梁は諸将を遣わして要害に分屯せしめてこれを遏え、みずから鋭卒を提げ、塞を出て二百余里、直ちに圜山を搗く。首級八百四十、およびその長九人を斬り、馬千二百匹を獲る。敵これを聞き、みな倉皇として塞に出て走る。功を論じ、甯遠伯に封ぜられ、歳禄八百石。この時、土蛮数たび貢市を求むるも、関吏許さず、大いに恨む。七年十月、また四万騎を以て前屯の錦川営より深入す。成梁は諸将に堅壁を命じ、みずから参将楊粟らを督してその衝を遏う。ちょうど戚継光もまた来援し、敵ここに退く。俄にしてまた速把亥と合して紅土城に壁し、海州に入らんと声言し、兵を分かちて錦州・義州に入る。成梁は塞を逾えて二百余里、直ちに紅土城に抵り、これを撃ち敗り、首功四百七十余を獲る。

迤東都督の王兀堂はもと寛奠において市を通ず。後、参将徐国輔の弟の国臣が市価を強いて抑える。兀堂ここに趙鎖羅骨と数たび零騎を遣わして辺境を侵す。明年三月、六百騎を以て靉陽及び黄岡嶺を犯し、指揮の王宗義戦死す。また千余騎を以て永奠より入る。成梁これを撃ち走らす。塞を出て二百里を追う。敵は騎卒を以て拒み、歩卒は山に登り鼓噪す。成梁これを大いに敗り、首級七百五十を斬り、その営壘を尽く毀つ。捷報聞こえ、紅土城の功とともに録し、成梁に世襲を予う。その秋、兀堂また寛奠を犯す。副将の姚大節これを撃ち破る。兀堂ここより振るわず。

土蠻はたびたび辺境を侵し志を得ず、憤慨して甚だしく、ますます諸部の兵を徴発し分かれて錦州・義州及び右屯・大淩河を犯す。城砦が堅固で陥落できず、李成梁及び薊鎮の兵も集結したため、ついに引き揚げた。まもなく、また二万余騎を率いて大鎮堡から侵入し錦州を攻撃した。参将熊朝臣は堅く守り、部将周之望・王応栄を派遣して出戦させ、かなりの斬獲を得た。矢が尽き、皆戦死した。敵は分かれて小淩河・松山・杏山を掠奪した。成梁が馳せて救援し、ようやく国境を出た。九年正月、土蠻はまた黒石炭・大委正・小委正・卜言台周・脳毛大・黄台吉・以児鄧・暖兎・拱兎・炒戸児とともに塞下に兵を集め、広寧への侵入を謀った。成梁は軽騎を率いて大寧堡から出撃した。塞を去ること四百余里、襖郎兎に至って大戦した。辰の刻から未の刻まで、敵は支えきれず敗走した。官軍が帰還しようとすると、敵が追撃してきた。成梁は逆撃し、戦いながら進んだ。先後して三百四十の首級を斬り、その長八人を討った。功績を記録し、歳禄を百石増やし、世襲の官位を一等加増した。四月、黒石炭・以児鄧・小歹青・卜言兎が遼陽に侵入した。副将曹簠が長安ちょうあん堡まで追撃し、伏兵に遭い、千総陳鵬以下三百十七人を失い、馬四百六十匹が死に、大いに人畜を掠奪して去った。曹簠らは官吏に下され、成梁は問わなかった。十月、土蠻はまた速把亥らと連合し十余万騎で広寧を包囲攻撃したが陥落せず、転じて団山堡・盤山駅及び十三山駅を掠奪し、義州を攻撃した。成梁が防ぎ退けた。十年三月、速把亥は弟炒花・子卜言兎を率いて義州を侵犯した。成梁は鎮夷堡でこれを防ぎ、伏兵を設けて待った。速把亥が侵入し、参将李平胡がその脇腹を射て、馬から墜ちたところを、下僕の李有名が前に進み斬った。賊寇は大いに奔り、百余人を追撃して斬った。炒花らは慟哭して去った。速把亥は遼左の患い二十年、ここに至って死んだ。帝は大いに喜び、詔して京師に邸宅を賜い、世襲の錦衣指揮使を授けた。

初め、王杲が死に、その子阿台は王台の長子虎児罕のもとに走り寄った。王台がその父を献上したため、報復しようと常に思っていた。王台が死に、虎児罕の勢力が衰えると、阿台はついに北関に附き虎児罕を挟撃した。またたびたび孤山・汛河を侵犯した。成梁が塞外に出撃し、曹子穀で遭遇し、一千余りの首級を斬り、五百の馬を獲た。阿台はまた阿海と連合して兵を糾合し侵入し、瀋陽城南の渾河に至り、大いに掠奪して去った。成梁は撫順から塞外へ百余里出撃し、古勒塞を火攻めし、阿台を射殺した。続いて阿海の寨を破り、これを撃殺し、二千三百の敵の左耳を献上した。王杲の部はついに滅んだ。功績を記録し、歳禄を百石増やし、世襲の指揮僉事を授けた。

北関の清佳砮・楊吉砮はもとより南関と仇敵であった。王台が没すると、たびたび王台の末子猛骨孛羅を侵し、かつ土蠻・暖兎・慌忽太の兵を借りて辺境を侵犯した。その年の十二月、巡撫李松が備禦霍九皋を使者として貢市を許した。清佳砮・楊吉砮は二千余騎を率いて鎮北関に詣でて謁見した。李松・霍九皋はその兵が盛んなのを見て、譴責すると、三百騎で入った。李松はあらかじめ傍らに甲兵を伏せ、二人が撫慰を受け入れなければ砲を挙げて甲兵を起こすと約束した。しばらくして、二人が関に至り、鞍に据わって遜らず、李松が叱ると、霍九皋が手招きして下ろさせようとすると、その徒党が急に刀を抜いて霍九皋を撃ち、併せて侍卒十余人を殺した。ここにおいて軍中で砲が鳴り、伏兵がことごとく起こり、二人とその従騎を撃ち斬り、清佳砮の子兀孫孛羅・楊吉砮の子哈児哈麻をことごとく殲滅した。成梁が砲声を聞き、急いで塞外に出撃し、その残留騎兵を撃ち、一千五百余りの首級を斬った。残りの衆は白馬を犠牲にし、刀を集めて誓い、永遠に約束を受けると誓い、ようやく軍を返した。功績を記録し、歳禄を二百石増やし、以前の世襲指揮僉事を錦衣衛指揮使に改めた。成梁が塞外に出撃したとき、炒花らは数万騎で蒲河及び大寧堡に侵入した。将士は六日間防御し、ようやく塞外に出た。

十三年二月、把兎児は父速把亥の怨みを報じようとし、伯父炒花・姑の婿花大とともに西部の以児鄧らと連合し数万騎で侵入し瀋陽を掠奪した。退いた後、遼河に駐牧し、開原・鉄嶺を侵犯すると声勢をあげた。成梁と巡撫李松はひそかに浮橋を作って軍を渡し、塞を越えること百五十里、急襲してその陣営を掩った。賊寇はすでに先に察知し、衆を整えて逆襲した。成梁は重ね陣を布き、自ら前陣を督戦して撃ち、李松が後陣をもって継いだ。八百余りの首級を斬った。捷報が聞こえ、歳禄を百石増やし、世襲の錦衣指揮使を都指揮使に改めた。その年の五月、敵が瀋陽を侵犯し、精鋭騎兵を塞下に伏せ、官軍を誘った。遊撃韓元功が追撃したが、敗死した。閏九月、諸部長がまた蒲河を侵犯し、裨将数人を殺し、大いに掠奪し、西部の銀灯もまた遼陽・瀋陽を窺った。成梁は部将李平胡に命じて塞外三百五十里に出撃し、銀灯の営を撃ち破り、百八の首級を斬った。諸部長はこれを聞き、ようやく引き揚げた。十四年二月、士蠻部長の一克灰正が把兎児・炒花・花大ら三万騎を糾合し、土蠻の諸子とともに遼陽に馳せて賞賜を要求しようと約した。成梁がこれを偵知し、副将楊燮、参将李甯・李興・孫守廉を率いて軽騎で鎮辺堡から出撃した。昼は潜伏し夜に行軍すること二百余里、可哥毋林に至った。大風雷雨で、敵は気づかなかった。到着すると、風日晴朗となり、敵は大いに驚き、雨のように矢を放った。将士は死を冒して陣に突入し、九百の首功を獲、その長二十四人を斬った。その年の十月、敵七八万騎が鎮夷諸堡を侵犯し、五日を閲してようやく去った。十五年春、東西部が連合して陣営を構え侵入した。その秋八月、また七八万騎で鎮夷堡を侵犯した。十月、把漢大成が土蠻十万騎を糾合し鎮夷・大清二堡から侵入し、数日を閲してようやく出た。

北関はすでに打撃を受けた後、清佳砮の子卜寨と楊吉砮の子那林孛羅が次第に強盛となり、たびたび南関の虎児罕の子歹商と兵を構えた。成梁は南関の勢力が弱いのを以て、北関を討伐してこれを輔翼しようと謀った。翌年五月、師を率いて直ちにその巣窟を衝いた。卜寨は逃走し、那林孛羅と合流し、城に拠って守った。城は四重で、攻めても陥ちなかった。巨砲を用いて撃ち、その外郭を砕き、ついに二城を抜き、五百余りの敵の左耳を斬った。卜寨らは降伏を請い、二度と叛かないと誓いを立てたため、ようやく軍を返した。

十七年三月、敵が義州を犯し、再び太平堡に入り、把総朱永寿等の一軍はことごとく没した。九月、脳毛大が白洪大・長昂と合流し三万騎で再び平虜堡を犯し、備禦李有年・把総馮文升は皆戦死し、成梁の選鋒も数百人が没した。敵は瀋陽の蒲河・榆林を大いに掠奪し、八日にして去った。翌年二月、卜言台周・黄台吉・大・小委正が西部の叉漢塔塔児と結び五万余騎で再び遼・瀋・海・蓋に深く侵入した。成梁は密かに兵を遣わし塞外に出てこれを襲ったが、伏兵に遇い、死者千人を出した。成梁はかえって首功二百八十を報告し、禄と廕を増やすことを得た。土蛮の族弟士墨台猪が西部の青把都・恰不慎及び長昂・滾兔を借りて十万騎で海州に深く侵入した。成梁は撃つことを敢えず、数日間掠奪を許して去った。十九年閏三月、成梁は給事侯先春の閲視に乗じ、搗巣の功を邀えようと謀り、副将李寧等を遣わし鎮夷堡から出て密かに板升を襲い、二百八十人を殺した。軍が還る途中で敵に遇い、死者数千人を出した。成梁及び総督蹇達はこれを上聞しなかった。巡按御史胡克儉はその先後の欺瞞の状況をことごとく発覚させ、言葉多く政府を侵した。上疏は行われなかったが、成梁はこれにより位に安んじられなくなった。先春が朝に還ると、誹謗は特に激しく、帝の意もやや動いた。成梁は再び上疏して疾を辞し、言者も踵を接して至った。その年十一月、帝はついに御史張鶴鳴の言に従い、成梁の任を解き、寧遠伯として朝請に奉じさせた。翌年、哱拜が寧夏で反し、御史梅国楨が成梁を用いるよう請うたが、給事中王徳完が不可を主張し、やめてしまった。

成梁が遼を鎮守すること二十二年、先後大捷を奏すること十度、帝はたびたび郊廟に祭告し、廷臣の賀を受け、蟒衣金繒の歳賜は稠疊であった。辺帥の武功の盛んなこと、二百年來なかった。その初めは鋭意封拜を志し、師を出すごとに必ず捷ち、威は絶域に振るった。やがて位望ますます隆く、子弟ことごとく崇階に列し、僕隷栄顕ならざる者なし。貴極まって驕り、奢侈度を過ごす。軍資・馬価・塩課・市賞を、歳ごとに幹没すること莫大で、全遼の商民の利をことごとく籠めて己に入れた。これをもって権門に灌輸し、朝士を結納し、中外の要人、その重賄に飽かざる者なく、これが左右となった。一たび捷を奏するごとに、内は閣部より、外は督撫以下、大なる者は官を進め子を廕し、小なる者も俸を増し金を賜う。恩施優渥、当世を震耀した。しかしその戦功は多く塞外にあり、縁飾しやすい。もし敵が内地に入れば、堅壁清野を口実とし、兵を擁して観望し、甚だしきは敗を掩って功とし、良民を殺して級を冒すことさえあった。閣部共に蒙蔽し、督撫・監司が少しでも意に忤えば、たちまち排して去らせ、その法を挙げさせなかった。先後の巡按陳登雲・許守恩がその降を殺し功を冒す状況を廉得し、論奏しようとしたが、巡撫李松・顧養謙に沮止された。やがて物議沸騰し、御史朱応轂・給事中任応徴・僉事李琯が交章して抨撃した。事はかなり跡があったが、ついに奥援に頼り、かえって言者を詰責した。申時行・許国・王錫爵が相継いで政を謝すると、成梁は内主を失い、ついに位を去ることとなった。

成梁の諸戦功は多く健児に藉った。その後、健児の李平胡・李寧・李興・秦得倚・孫守廉らは皆富貴となり、専城を擁した。暮気振るい難く、また転相掊克し、士馬は蕭耗した。成梁が遼を去るに及んで、十年の間に八帥を更易し、辺備ますます弛んだ。

二十九年八月、馬林が罪を得た。大学士沈一貫が成梁は老いてもなお兵を将するに堪えると言った。そこで再び遼東を鎮守することを命じ、年すでに七十六であった。この時、土蛮・長昂及び把兎児はすでに死に、寇鈔は次第に稀になった。そして開原・広寧の前にまた馬・木の二市を開いた。諸部は市賞の利に耽り、争って款に就いた。この故に成梁が再鎮すること八年、遼左は事少なかった。閲視の労を叙して、太傅に加えられた。

万暦初元の時、兵部侍郎汪道昆が辺境を閲し、成梁は孤山堡を張其哈剌佃に、険山堡を寛佃に、沿江新安四堡を長佃・長嶺諸所に移建することを献議し、なお孤山・険山の二参将にこれを戍らせれば、地を七八百里拓き、耕牧の利をますます収められるとした。道昆は朝廷に上奏し、許可の報せがあった。ここより生聚日ごとに繁く、六万四千余戸に至った。三十四年に及んで、成梁は地が孤懸して守り難いとして、督撫の蹇達・趙楫と棄てることを建議し、住民をことごとく内地に徙した。住民が家室を恋しむと、大軍をもってこれを駆迫し、死者狼籍であった。成梁らはかえって逃人を招復した功により、秩を増し賞を受けた。兵科給事中宋一韓は力を尽くして地を棄つるは策に非ざると言った。巡按御史熊廷弼が勘奏して一韓の言の如く、一韓はまた連章して極論した。帝は平素成梁を眷顧していたので、ことごとく中に留めて下さず。久しくして卒し、年九十。

弟の成材は参将。

子の如松・如柏・如楨・如樟・如梅は皆総兵官。如梓・如梧・如桂・如楠もまた参将に至った。

子 如松

如松、字は子茂、成梁の長子。父の廕により都指揮同知となり、寧遠伯勲衛を充てた。驍果にして敢戦、少より父に従い兵機に諳んじた。再遷して署都督僉事となり、神機営右副将となった。万暦十一年、出て山西総兵官となった。給事中黄道瞻らが数度、如松父子並びに重鎮に居るべからずと言い、大学士申時行がこれを保全するよう請うたので、かえって右府僉書に召した。まもなく京城巡捕を提督した。給事中邵庶がかつて如松及びその弟の副総兵如柏の不法を劾し、かつ稍々抑えて全終始すべきことを請うたが、納れられなかった。十五年、再び総兵官として宣府を鎮守した。巡撫許守謙が閲操するに、如松は座を引いてこれと並んだ。参政王学書がこれを退け、言葉相下らず、ほとんど臂を攘がんとした。巡按御史王之棟がよって如松の驕横を劾し、併せて学書を詆り、帝は両者の俸を奪った。やがてまた論ぜられ、給事中葉初春が改調を請うたので、かえって山西の李迎恩と更鎮することを命じた。その後、軍政拾遺、給事中の閲視で、数度論劾に遭った。帝は終始これを眷顧し、動かず、中府僉書に召した。

二十年、哱拜が寧夏で反乱を起こすと、御史の梅国楨は李如松を大将の才と推薦し、その弟の如梅・如樟もまた年少にして英傑であるから、賊を討伐させるべきであると上奏した。そこで如松を提督陝西討逆軍務総兵官に任命し、直ちに国楨を監軍とした。武臣に提督が置かれたのは、李如松から始まるのである。やがて遼東・宣府・大同・山西の諸道の援軍をすべて統率するよう命じられた。六月に寧夏に到着した。如松は権限と任務が既に重いことを理由に、総督の統制を受けず、事あるごとに専断した。兵科の許弘綱らはこれは制度に反すると考え、尚書の石星もまた如松の勅書には督臣の節度を受けるとあり、自ら専断すべきではないと上言したので、帝は詔を下して戒めた。先に、諸将の董一奎・麻貴らは幾度も城を攻めたが落とせなかった。如松が到着すると、攻撃はますます激しくなった。布の袋三万を用い、土を詰めてそれを踏みしめながら登ったが、砲石によって撃退された。如樟が夜に雲梯を攀じて登ったが、成功しなかった。遊撃の龔子敬が苗兵を率いて南関を攻撃し、如松がその勢いに乗じて登ろうとしたが、これも成功せず、そこで水攻めにすることを決断した。哱拜は窮し、養子の克力蓋を遣わしてオルドス(套)の寇と結託させようとしたが、如松は部将の李寧に命じて追撃し斬らせた。やがて、オルドスの寇が一万余騎で張亮堡に至った。如松は力戦し、自ら士卒で畏縮する者を斬り、寇はついに敗走した。水が北関を浸し、城壁が崩れた。如松と蕭如薰らは北関を攻撃するふりをして賊を誘い、密かに精鋭部隊で南関を襲撃し、雲梯を攀じて登った。哱拜とその子の承恩は自ら叛党の劉東暘・許朝を斬り、死罪を免じてくれるよう乞うた。ここにおいて如松が先に登城し、如薰と麻貴・劉承嗣らがこれに続き、哱拜一族をことごとく滅ぼした。功績を記録し、都督に進み、世襲の錦衣指揮同知の官位を賜った。

折しも朝鮮で倭寇の禍患が切迫し、詔により如松は薊州・遼東・保定・山東の諸軍を提督し、期日を定めて東征することとなった。弟の如柏・如梅もともに師を率いて援剿に赴いた。如松は新たに功を立てたばかりで、気性はますます驕慢となり、経略の宋応昌と対等に振る舞った。故事によれば、大帥が初めて督師に謁見する際は、甲冑を着けて庭で拝謁し、退出して冠帯に改めてから、改めて礼遇されるものであった。如松は監司が督撫に謁見する儀礼を用い、平服で傍らに座っただけであった。十二月、如松が軍中に到着すると、沈惟敬が倭から帰還し、倭の酋長の小西行長が冊封を望み、平壤以西を退去し、大同江を境界としたいと申し出ていると報告した。如松は惟敬を邪悪であると叱責し、斬ろうとした。参謀の李応試が「惟敬を利用して倭を冊封で欺き、密かに襲撃するのは奇計です」と言った。如松はこれをよしとし、そこで惟敬を営中に置き、師を誓って江を渡った。

二十一年正月四日、軍は粛寧館に駐屯した。行長は冊封の使者が来ると考え、牙将二十人を遣わして迎えさせたが、如松は遊撃の李寧に命じて生け捕りにさせた。倭は突然立ち上がって格闘し、わずか三人を捕らえただけで、残りは逃げ帰った。行長は大いに驚き、再び親信の小西飛を遣わして謁見させたので、如松は慰めて帰らせた。六日、平壤に駐屯した。行長はまだ冊封の使者だと思い、風月楼に立って待ち、群がる倭は花衣を着けて道の両側に並んで迎えた。如松は諸軍を配置し、平壤城に迫ったが、諸将はためらって入らず、形勢がすっかり露見し、倭はすべて城壁に登って守備した。その夜、如柏の営を襲撃したが、撃退した。翌朝、如松は諸軍に首級を取ることを禁じ、包囲の東面を空けるよう命じた。倭がもともと朝鮮軍を軽んじているのを利用し、副将の祖承訓に偽ってその服装をさせ、西南に潜伏させた。遊撃の吳惟忠に命じて北の牡丹峰を攻撃させた。そして如松自ら大軍を率いて直ちに城下に迫り、その東南を攻撃した。倭の砲と矢は雨のごとく、軍は少し後退した。如松は先に退いた者を斬って見せしめとした。死士を募り、鉤梯を援けて直ちに登った。倭がちょうど南面の朝鮮軍を軽んじていたところ、承訓らは装いを脱いで明の甲冑を露わにした。倭は大いに驚き、急いで兵を分けて防ぎ拒んだが、如松はすでに副将の楊元らの軍を督して小西門から先に登城し、如柏らもまた大西門から入った。火器を一斉に発し、煙と炎が空を蔽った。惟忠は砲弾で胸を負傷したが、なお奮って呼び督戦した。如松の馬は砲撃で斃れ、馬を乗り換えて馳せ、塹壕に落ちたが、躍り上がり、兵を指揮してますます進撃した。将兵は一人として百人に当たらない者はなく、ついにこれを陥落させた。斬首の功績は千二百余りを獲得した。倭は風月楼に退いて守った。夜半、行長は大同江を渡り、龍山に逃げ帰った。李寧と参将の査大受は精兵三千を率いて東江の間道に潜伏し、さらに三百六十の首級を斬った。勝ちに乗って敗走する敵を追撃した。十九日、如柏はついに開城を回復した。失われた黄海・平安・京畿・江源の四道もすべて回復した。酋長の加藤清正が咸鏡道を占拠していたが、これも逃げ帰って王京に戻った。

官軍は連勝した後、軽敵の心が生じた。二十七日に再び進軍した。朝鮮人が賊が王京を放棄したと報告した。如松はこれを信じ、軽騎を率いて碧蹄館へ急行した。王京から三十里の地点で、突然倭に遭遇し、数重に包囲された。如松は部下を督して激戦した。一人の金甲の倭が如松に急迫して組み付こうとしたので、指揮の李有聲が必死で救おうとして殺された。如柏・李寧らが奮って前に出て挟撃し、如梅が金甲の倭を射て馬から落とし、楊元の兵も到着し、重囲を斬り開いて入り、倭はようやく退き、官軍の喪失は甚だ多かった。折しも長雨が続き、騎兵は稲田の中に入って思うように動けなかった。倭は嶽山を背にし、漢水に面し、城中に連なって営を結び、飛楼を多く建て、箭と砲が絶えず、官軍はついに退いて開城に駐屯した。二月の満月の後、諜報が倭が二十万の衆で侵攻してくると報告した。如松は楊元に平壤に軍を置かせ、大同江を扼して糧道を接続させ、如柏らに宝山の諸所に軍を置かせて声援とし、査大受に臨津に軍を置かせ、李寧・祖承訓を開城に留めて軍を置かせ、自らは東西を調度した。倭将の平秀嘉が龍山倉を占拠し、数十万の粟を蓄積していると聞き、密かに大受に命じて死士を率いて間道からこれを焼き払わせた。倭はついに食糧に窮した。

初め、官軍が平壤で勝利し、その鋒鋭は甚だしく、もはや冊封と朝貢の事を問わなかった。碧蹄での敗北の後、如松の気勢は大いに衰え、応昌・如松は急ぎ休戦を望み、倭もまた秣と糧食がともに尽き、かつ平壤の敗北を懲りて帰国の意思があり、ここにおいて惟敬の和議が再び行われた。四月十八日、倭は王京を放棄して逃げ、如松と応昌は城に入り、兵を遣わして漢江を渡り倭の後を追わせ、その疲れて帰るのを撃とうとした。倭は一歩ごとに営を為し、交代で休み、官軍は敢えて撃たなかった。倭はついに釜山に営を結び、長く留まる計画を立てた。時に兵部尚書の石星は冊封と朝貢を力主し、撤兵を議し、ただ劉綎だけを留めて守備させた。如松は十二月に班師した。功績を論じ、太子太保を加え、歳禄を百石増やした。言路の者はその和親が国を辱めたと誹謗し、しばしば攻撃した。帝は問わなかった。

二十五年冬、遼東総兵の董一元が罷免されると、廷推が三度行われたが、中旨によって特に如松が任用された。言路は再び上章を交えて力強く争ったが、帝はこれを放置して答えなかった。如松は帝の知遇に感じ、気概はますます奮った。明年四月、土蛮が遼東を侵犯した。如松は軽騎を率いて遠く出撃して巣窟を衝いたが、伏兵に中り力戦して死んだ。帝は痛悼し、衣冠を整えて帰葬するよう命じ、少保・甯遠伯を追贈し、祠を立て、諡して忠烈とした。その弟の如梅を代わりの総兵官とし、長子の世忠に錦衣衛指揮使を授け、南鎮撫司を掌らせ、なお甯遠伯の勲衛を充て、さらに一子に本衛指揮使の世襲の官位を賜った。恤典は優厚で、すべて特別の恩典によるものであった。世忠はまもなく卒し、子がなかった。弟の顕忠は世襲の官位によって遼東副総兵に至ったが、爵位を嗣ぐべきであったが、朝臣はちょうど李氏を憎んでおり、言う者はいなかった。崇禎年間に至り、如松の妻の武氏が朝廷に訴えた。上章は部議に下されたが、ついに取り上げられなかった。後、荘烈帝(崇禎帝)が李成梁の功績を思い、顕忠の子の尊祖が甯遠伯を嗣ぐことを得た。闖賊が京師を陥落させた時、難に遇った。

子に如柏あり。

李如柏、字は子貞、成梁の第二子なり。父の廕により錦衣千戸となる。嘗て客と会飲す、砲声大内に徹し、吏に下り免官せらる。再び廕により指揮僉事となる。数たび父に従い塞に出で功あり、密雲遊撃、黄花嶺参将、薊鎮副総兵を歴任す。万暦十六年、御史任養心言う、「李氏の兵権盛んに過ぎたり。姻親廝養兵柄を分操し、神京を環ること数千里、縦横蟠拠し、動揺すべからず。如柏貪淫にして、跋扈尤も甚だし。早く計らざれば、恐らくは他変を生ぜん」と。帝乃ち如柏の任を解く。ここにおいて成梁上書して罷免を乞い、併せて子弟の官を尽く罷むるを請う。帝慰留して許さず。久しくして、故官を起し、宣府参将を署す。疾を引きて帰る。

如松の倭を朝鮮に禦ぐや、詔して如柏に都督僉事を署せしめ、先ず師を率いて赴援せしむ。既に平壤を抜くや、如柏疾く開城に趨き、これを攻克し、首級百六十余を斬る。師旋り、都督同知に進み、五軍営副将となる。尋いで出でて貴州総兵官となる。二十三年、寧夏を鎮すを改む。著力兔平虜・横城を犯す、如柏これを邀え、大いに獲るところあり、首級二百七十余を斬る。右都督に進む。再び疾を以て帰り、家に居ること二十余年。会す遼東総兵官張承蔭戦歿す、文武大臣英国公張惟賢等疏を合して如柏を薦む。詔して故官を以て遼東を鎮せしむ。蒙古炒花入犯す、諸将を督してこれを撃ち却く。

初め成梁・如松将たりしとき、健児を厚く畜え、故に向かうところ克捷す。ここに至りて、父兄の故部曲已に復た存せず、而して如柏及び諸弟酒色に情を放ち、亦た復た少年の英鋭無し。特だ李氏世将なるを以て、廃籍の中より起る。顧みるに如柏中情怯懦にして、惟だ左次して敵を避くるのみ。我が大清の師河に臨む、如柏故に軍を引きて懿路を防ぐ。楊鎬四路より師を出すに及び、如柏に一軍を以て鴉鶻関より出でしむ。甫く虎攔路に抵るや、鎬杜松・馬林の両軍已に覆えりと聞き、急ぎ檄を飛ばして如柏を還らしむ。大清の哨兵二十人これを見、山に登り螺を鳴らし、大軍追撃の状を作す。如柏の軍大いに驚き、奔走相蹴りて死する者千余人。御史給事中章を交えて論劾す。給事中李奇珍連疏して争うこと尤も力めり。帝終に李氏を念い、詔して還りて勘を候わしむ。既に都に入り、言う者已まず。如柏懼れ、遂に自裁す。

子に如楨あり。

如楨、成梁の第三子なり。父の廕により指揮使となる。屡く加えられて右都督に至り、並びに錦衣に在り。嘗て南・北鎮撫司を掌り、西司房を提督し、環衛に列すること四十年。最後、軍政拾遺に及び、部議職を罷む。章久しく留まりて下らず。如楨将家の子と雖も、然れども未だ行陣を歴せず、兵を知らず。兄如柏の任を革せらるるに及び、遼人は謂う、李氏世に遼東を鎮め、辺人憚れ服す、再び李氏を用いざるべからずと。巡撫周永春以て言う。而して是の時如柏兄弟独り如楨在り、兵部尚書黄嘉善遂に其の請いに徇い、如楨の名を上る。帝即ちこれを可とす。時に万暦四十七年四月なり。

如楨父兄の勢を藉り、又自ら錦衣近臣を以てし、人下に居るを肯ぜず。未だ関を出でざるに、即ち使を遣わし総督汪可受と鈞礼を講ず。朝議譁然たり、嘉善亦た特疏を以てこれを言う。如楨始めて怏怏として去る。既に遼に抵り、経略楊鎬して鉄嶺を守らしむ。鉄嶺故に李氏宗族墳墓の所在なり。当に如柏京に還るや、其の族党部曲高貲の者悉くこれに随いて西し、城中空しとなる。後ち鎬孤城守り難しと以て、如楨をして還りて瀋陽に屯せしめ、僅かに参将丁碧等を以て防守せしむ。力益々弱し。大清兵城に臨む、如楨兵を擁して救わず、城遂に失す。言官章を交えて論列し、経略熊廷弼亦た如楨の十不堪を論ず。乃ち任を罷む。天啓初め、言う者復た力攻し、獄に下り死を論ぜらる。崇禎四年、帝成梁の勲を念い、特に死を免じて軍に充つ。

子に如樟あり。

如樟、亦た父の廕により、都指揮僉事を歴任す。従兄如松に従い寧夏を征し、先登して功あり、累進して都督僉事となる。広西・延綏総兵官を歴任す。

子に如梅あり。

如梅、字は子清。亦た父の廕により、都指揮僉事を歴任す。従兄如松に従い日本を征し、敵を却け先登す。屡く遷りて遼東副総兵となる。二十四年、炒花・卜言兔将に入犯せんとす。如梅謀りて先ずこれを襲わんとす。部将方時新等を督して塞を出でること三百里、直ちに其の廕帳を搗ち、首級百余を斬りて還る。明年、如梅参政楊鎬と謀りて復た鎮西堡より塞を出で、潜かに敵営を襲うも、利あらず、部将十人、士卒百六十人を損ず。如梅血戦して重創を受け、罪を免る。

日本封事敗るるや、其の年八月、署都督僉事に進み、禦倭副総兵を充て、朝鮮に赴き援剿す。時に麻貴三路より師を進め、如梅に左軍を将とし、右軍と共に蔚山を攻めしむ。如梅参将楊登山騎兵と偕に先ず進み、海濱に伏せを設け、而して遊撃擺賽に軽騎を以て賊を誘わしむ。首級四百余を斬り、余賊島山に遁れ帰る。副将陳寅矢石を冒し奮呼して上り、柵両重を破る。第三柵に至り、垂んとして抜かんとす。楊鎬総理たり、宿より如梅と昵く、寅の功の其上に出るを欲せず、遽かに金を鳴らして軍を収む。翊日、如梅至りてこれを攻むるも、抜くこと能わず。已にして賊の援至る。如梅の軍先ず奔り、諸軍亦た相継いで潰ゆ。賛画主事丁応泰鎬を劾し、併せて如梅の斬るべき者二、罪すべき者十を劾す。帝納れず。旋ねに用いて禦倭総兵官と為す。会す其の兄如松戦歿す。即ち命じて如梅馳せてこれを代わしむ。年を逾え、兵を擁して敵を畏るるに坐し、劾せられて罷む。久しくして、起きて僉書左府となる。四十年、鎬遼東を巡撫し、力めて如梅を帥と為すを薦む。得ず、至っては死を以て争う。給事中麻僖・御史楊州鶴力持して不可とし、乃ち止む。

成梁諸子、如松最も果敢にして、父の風有り。其次如梅を称す、然れども躁動にして、大将の才に非ず。独り楊鎬深く信ず。後復た其の兄如柏を倚任し、卒に以て敗を致す。

麻貴

麻貴、大同右衛の人。父祿、嘉靖中大同参将となり、鎮帥劉漢に従い板升を襲い、大いに獲るところあり。俺答右衛を囲む、祿副将尚表と共に固守し、間を乗じて其の部長を撃斬す。寇乃ち引き退く。辛愛京東を犯す、祿宣府副総兵を以て入衛し、子遊撃錦と並びに敵を却くる功有り。

貴は舎人より従軍し、功を積みて都指揮僉事に至り、宣府遊撃将軍を充つ。隆慶中、大同新平堡参将に遷る。寇大いに入り、山陰・懐仁・応州を掠む。将吏並びに罪を獲るも、独り貴と兄副将錦拒戦して功有り、賞を受く。万暦初め、再び遷りて大同副総兵となる。十年冬、都督僉事を以て寧夏総兵官を充つ。間も無く、徙りて大同を鎮す。時に諸部款を納うること久しく、撦力克順義王の封を襲ぎ、中国に奉ずること益々虔し。貴頻りに辺を安んずる労を以て賜賚を蒙る。

十九年、閱視少卿曾乾亨の弾劾を受け、辺境に流罪となる。翌年、寧夏で哱拜が反乱を起こす。朝廷の議論では、貴は剛健で兵を知り、かつ多くの家丁を養っているとして、流罪の中から副将に起用し、総兵として賊を討たせた。幾度も城を攻めたが陥落させられなかった。その五月、哱拜が套寇の騎兵五百を率いて平虜堡を包囲すると、貴は精兵三百を選び、間道を急行してこれを撃退した。まもなく総督魏學曾の命により、著力兔、銀定、宰僧を横城で懐柔しようとしたが、重利を餌にしても応じず、貴は引き返して攻城を再開した。寧夏総兵董一奎が南を攻め、固原総兵李昫が西を攻め、元総兵劉承嗣が北を攻め、牛秉忠が東を攻め、貴は遊撃兵を率いて策応を担当した。哱拜が北門から出撃し、套部と連絡しようとしたので、貴はこれを城内に追い込み、別に将の馬孔英、麻承詔らを遣わして套寇の援兵を撃ち、百二十人を捕斬した。哱拜は初め套部と深く結びつき、諸部長は彼を王と称していた。彼は日々著力兔の帳中に座り、計画を主導していたが、この時からは再び出撃できなくなった。まもなく朝廷の命で蕭如薰が董一奎に代わり、諸道の援兵をすべて統率し、貴を副将とした。李如松の軍も到着し、攻撃はますます激しくなった。賊は黄金と繍蟒を卜失兔らに贈り、急いで霊州を攻め、まず下馬関を占拠して糧道を断つよう請うた。卜失兔は莊禿賴と合流して定辺を侵犯し、宰僧は花馬池の西沙湃から侵入した。貴は迎撃し、石溝で宰僧を撃破した。ちょうど董一元が土昧の本拠を攻撃したため、諸部長はみな撤退した。賊は再び著力兔に援軍を求め、大軍を率いて侵入した。如松が精鋭騎兵を率いて張亮堡で迎撃し、卯の刻から巳の刻まで戦ったが、敵は非常に鋭かった。ちょうど貴と李如樟らの兵が到着し、挟撃したため、寇は退却した。敗走する敵を賀蘭山まで追撃し、首級百二十余りを獲得した。これを賊に見せつけると、賊はますます動揺し恐れた。まもなく城は陥落し、賊はすべて平定された。貴は功績により官位を進められ、子に世襲の官職が与えられた。まもなく総兵官に抜擢され、延綏を鎮守した。

二十二年七月、卜失兔が諸部を糾合して深く定辺に侵入し、張春井に陣を構えた。貴は虚を突いて套内のその本営を攻撃し、二百五十余りの首級を斬った。寧塞から帰還する途中、その散在する騎兵を邀撃した。ちょうど寇が内陸に長く留まり、転掠して下馬関に至った。寧夏総兵蕭如薰は防禦できず、総督葉夢熊が急ぎ貴に救援を命じた。副将蕭如蘭らを督して曬馬台、薛家窪で連戦し、二百三十余りの首級を斬り、畜産一万五千を獲得した。帝は宗廟に告げて勝利を宣し、都督同知に進め、世襲の官職を賜った。翌年、卜失兔が再び塞内に侵入し、八日間略奪して帰還した。順義王撦力克が彼に帰順を約束させようとしたが従わず、再び大規模な侵入を企てた。貴は一万五千の兵を率い、遊撃閻逢時らを紅山に出させて中軍とし、参将師以律らを高家堡、神木、孤山に出させて左軍とし、参将孫朝梁らを定辺、安辺、平山に出させて右軍とし、自らは大軍をもって一面を担当した。枚を銜みて疾走し、塞を六十里越えた。寇は防ぐところを知らず、大敗した。四百余りを捕斬し、馬駱牛羊千五百を獲得した。再び官位を進められ、世襲の官職を賜った。まもなく病気で帰郷した。

二十五年、日本の封事(豊臣秀吉との講和交渉)が失敗し、貴を起用して備倭総兵官とし、朝鮮に赴かせた。まもなく提督を加えられ、南北の諸軍をすべて統率した。貴が急行して王京に到着すると、倭はすでに慶州に入り、閑山島を占拠し、南原を包囲していた。守将楊元は逃亡し、全州守将陳愚衷も逃亡したため、倭は勢いに乗って王京に迫った。貴は別に副将解生を遣わして稷山を守らせ、朝鮮も都體察使李元翼を忠清道に出させて賊の鋒を遮らせた。解生はかなりの捕斬の功績を挙げ、参将彭友德も青山で賊を破った。倭将行長は井邑に退き屯し、清正は慶州に戻った。経略邢玠、經理楊鎬が先後に到着し、兵を三協に分けた。左は李如梅、右は李芳春、解生、中は高策である。貴と楊鎬は左右の協の兵を督して専ら清正を攻撃した。高策は宜寧に駐屯し、東は両協を支援し、西は行長を扼した。諸軍が慶州に到着すると、倭はすべて蔚山に退き屯し、李如梅が誘い出してこれを破った。清正は島山に退き守り、三つの砦を築いて固めた。遊撃茅國器が死士を率いてその砦を陥落させ、六百五十を斬首し、諸軍は進んでその城を包囲した。城は新たに石で築かれており、非常に堅固で、将士が仰ぎ攻めるため多くが死んだ。十日間包囲した後、倭は解生の兵を襲撃して破った。翌年正月二日、行長が援軍に来ると、九将の兵はともに潰走した。賊が江上に旗幟を掲げると、楊鎬は大いに恐れ、あわてて軍を撤退させ、勝利を奏上した。まもなく敗戦の状況が伝わると、帝は楊鎬を罷免し、貴に功績をもって罪を償わせた。劉綎、陳璘、董一元と四路に分かれた。貴は東を担当し、清正に対し、数度戦って功績を挙げた。ちょうど平秀吉が死んだため、官軍はますます力攻めした。十一月、清正が先に逃亡し、貴はついに島山、西浦に入り、諸路合わせて二千二百余りを捕斬した。翌年三月、軍を返した。右都督に進み、世襲の官職を賜った。

三十八年、貴を遼東鎮守に命じた。泰寧の炒花は平素より桀驁で、九人の子がそれぞれ兵を率い、他の部の宰賽、暖兔もこれを助けた。辺将は戦いを恐れ、ただ歳賞を増やすことのみを事としていたため、寇はますます畏れるところがなくなった。翌年、炒花が辺境に臨んで賞を要求したが、将士が不意を突いて撃ち、その陣営を抜いて逃亡させ、額力素に移り住んだ。その地で突然天鳴り地震が起こり、炒花は驚き恐れ、再び移って老河を渡り、辺境からほぼ四百里離れた。その第三子色特はこれを嘲笑し、南に移って可哥毋林に住み、隙をうかがって侵犯した。貴は伏兵でこれを破り、敗走する敵を白雲山まで追撃し、三百四十余りを斬首した。色特は憤慨し、復讐を謀った。宰賽、以兒鄧を糾合したが、いずれも応じなかった。そこで東の卜言顧、伯要兒を糾合し、西の哈剌漢乃蠻を糾合し、合流して清河を侵犯したが、すべて潰走した。以兒鄧らは恐れ、炒花に代わって和議を求め、辺境はようやく寧かになった。翌年、插漢の虎墩兔が三万騎を率いて侵入し穆家堡を略奪した。防禦してこれを破り退去させた。その夏、貴は病を理由に引退を願い出た。詔により駅伝で帰郷した。

貴は果毅で驍捷、兵を用いることに長け、東西ともに功績を顕著にした。先後七度特賜を受け、六度世襲の官職を賜った。死後、祭葬が賜られ、一時の良将と称された。

兄 錦

兄の錦は、幼少より父に従って軍陣にあり、戦功を挙げた。累官して千総となり、大同右衛の協守を務めた。千戸の魏昂という者が、罪に坐して沙漠に逃亡し、寇を引き連れて城下に至り、妻子を人質に取ろうとしたが、錦は伏兵を置いてこれを捕らえた。俺答が城を包囲したが、数度突囲し、城はついに守り抜いた。まもなく人を殺した罪で、父とともに官を奪われて獄に下された。当局は塞上でちょうど兵を用いており、錦父子兄弟はいずれも敢戦であるとして、法を曲げて赦免した。累遷して宣府遊撃将軍となった。勤王の功績により、官位一等を進められ、大同参将に遷った。隆慶初年、本鎮副総兵に進み、趙岢に従って塞外に出て寇兵を破り、弟の貴とともに保境の功績を挙げた。俺答が帰順すると、錦は塞外の叛人を招き、帰順する者が非常に多かった。萬曆五年、山西総兵官に抜擢された。まもなく宣府鎮守に改め、そこで卒した。

錦の子承勳は、遼東副総兵、都督僉事、南京後府僉書となった。甥の承恩は、都督同知、宣府、延綏、大同の総兵官となった。諸鎮を歴任し、勇力をもって知られた。後に起用されて遼東を救援したが、たびたび退避し、獄に下されて死罪に当たった。詔により馬八百匹を納めて罪を免じられ、その家はついに破産した。承詔は、寧夏参将となった。哱拜平定に従い功績を挙げた。後に下僕にしいされた。承訓は、薊鎮副総兵となった。承宣は、洮、岷副総兵となった。承宗は、遼東副総兵となった。天啓初年、沙嶺で戦死した。

麻氏には将才が多い。人はこれを鉄嶺の李氏になぞらえ、「東李西麻」と言った。

賛に曰く、俺答が宣府・大同に款塞してより、薊門に守りを固く設け、而して遼東のみ兵を被る。成梁遂に戦功を擅にし、剖符封を受くるに至り、一時を震耀す、倘らく亦天幸有りしか。麻貴は東西に宣力し、勳閥称す可し。両家の子弟、多く要鎮を歴たり、是を以て時論李・麻を並列す。然れども列戟を擁し麾を擁し、世に将種を伝うるも、而して恇怯退避し、其の家声を隳す。語に曰く「将門に将あり」と、諸人愧なきを得んや。