○傅好禮 姜誌禮 包見捷 田大益 馮應京(何棟如 王之翰 卞孔時) 吳宗堯 吳寶秀 華鈺(王正誌)
包見捷、雲南臨安衛の人。萬曆十七年の進士。庶吉士に改め、戸科給事中に授けられ、屡遷して都給事中となる。奸人李本立、広東に珠を采るを請う、帝、中官李敬をして偕に往かしむ。見捷、極めてその害を言う、聴かず。時に小人蜂起して利を言う。千戸李仁、湖口の商舟に税するを請う、帝、中官李道をして往かしむ。主簿田応璧、両淮の没官余塩を売るを請う、税使魯保をして兼ねて理めしむ。見捷等並びに力争す。頃之、道・保に有司を節制せしむ。見捷、又た不便なる者数事を陳ぶ。皆報いず。益都知県の呉宗堯、税使陳増の不法を劾す、見捷、因りて鉱税を尽く罷むるを請う。已む無くば、先ず増を撤して還らしめんと。未だ幾ばくもあらず、天津税使の王朝死す、見捷、代を遣わすこと勿からんことを請う。旨に忤い、切責せらる。馬堂を以て朝に代えしむ。見捷、又た堂・保及び浙江の劉忠を劾す。帝納れず、益々高寀・暨禄・李鳳を遣わして京口・儀真・広東に税を榷せしめ、並びに専勅して事を行わしむ。又た奸人閻大経の言を以て、高淮を命じて遼東に税を征せしむ。見捷等累ねて停罷を請う、是に至りて言う、「遼左は神京の肩臂、他鎮を視るより尤も重し。奸徒敢えて禍首と為す、陛下三尺を以て懲せず、急ぎ開采を罷めざれば、則ち遼事必ず為すべからず、而して国歩且つこれに随わん」と。遼東の撫按及び山海主事の呉鐘英、相継いで争う。皆納れず。時に中外鉱税を争う者百十疏慮い無く、見捷の言尤も数多く、帝心これを銜む。数日居りて、又た司官を率いて極論す、乃ち見捷を貴州布政司都事に謫し、余は俸を停めること一年。大学士沈一貫・給事中趙完璧等先後論救す、完璧等も亦た坐して俸を停めらる。見捷、尋いで疾を引いて去る。三十四年、起して興業知県と為る。累遷して太僕少卿となる。久しくして、右僉都御史を以て江西を巡撫す。光宗即位し、召されて吏部右侍郎に拝す。明年、官に卒す。
田大益、字は博真、四川定遠の人。萬曆十四年の進士。鐘祥知県に授かる。兵科給事中に擢てられ、疏を上して日本の封貢虞るべしを論ず。又た言う、「東征の役、将士に在りては、則ち当に今日の斬馘を据えて功を論ずべく、主帥に在りては、則ち当に後日の成敗を視て議を定むべし」と。時にその言を是とす。母喪除き、起きて戸科を補う。二十八年十月、疏を上して言う、「陛下、命を受くる日久しく、驕泰これに乗ず、豺狼を布列し、善類を殄滅し、民措く所無く、靡くも怨を蓄え憤を含み、一旦事有るを覬う。願わくは陛下惕然として警覚し、天地を敬い、祖宗を厳にし、臣工を軽んぜず、民命を戕けず、閹人を任せず、群小を縦せず、暴刻を務めず、怠荒を甘んぜず、急ぎ敗轍を改め、治規に遵い、用いて祖宗の無疆の業を保たん」と。未だ幾ばくもあらず、極めて鉱税の六害を陳べ、言う、
内臣務めて劫奪を為し、以て上の求に応ず。鉱必ずしも穴せず、而して税必ずしも商せず、民間の丘隴阡陌、皆鉱なり、官吏農工、皆税に入るの人なり。公私騒然、脂膏殫竭す。向い所謂る軍国の正供、反って缺損を致す。即ち有司に刀鋸を以て威すと令すとも、只だ民を駆りてこれを乱に速からしむるに足るのみ。これ所謂る斂巧必ず蹶るるなり。
陛下はかつて鉱税の役を裕国愛民のためとされた。しかし内庫の日々の進納は止まず、少しも軍国の需用を助けたことはない。四海の人は、すでに反唇切歯し、計略と甘言をもって天下の耳目を掩おうと望むが、どうしてできようか。これが名偽必敗というものである。
財が積もって用いられなければ、祟りがこれに随う。脱巾が止まず、ついに揭竿に至り、まさに奸雄の睥睨する資となす。この時、たとえ家に給し人に与えても、またこれを蹴り覆すに及ばないであろう。これが賄聚必散というものである。
衆心は傷つけてはならない。今、天下は上は簪纓より下は耕夫販婦に至るまで、苦を茹だし辛を含み、諲を扼し側目し、訴えるところなき者は、すでに久しい。一旦にして土崩の勢い成れば、家は仇となり、人は敵となり、衆心斉しく倡い、海内これによって大いに潰える。これが怨極必乱というものである。
国家の全盛二百三十余年、すでに陽九に属し、東征西討して快意を求めんとする。上は主心を蕩かし、下は国脈を耗す。二豎固くして良医走り、死気索めて大命傾く。これが禍遅必大というものである。
陛下は矜奮自賢し、沈迷して返らず。豪璫奸弁を腹心とし、金銭珠玉を命脈となす。薬石の言は、褎として充耳のごとし。たとえ逢・幹が心を剖き、臯夔が諫を進めても、どうしてその惑いを解くことができようか。これが意迷難救というものである。
この六者は、今の大患である。臣は死を畏れて言わざれば、陛下に負う。陛下は諫を拒んで納れざれば、宗社を危うくする。深く察し力を反すことを願う。
いずれも報いられなかった。翌年、湖広税監陳奉を論じ、僉事馮応京を救う上疏をした。旨に忤い、切責された。時に武昌の民は応京が逮捕されたため、群聚して鼓噪し、奉を殺さんとし、奉は楚府に逃げ匿れて難を免れた。大益はこれにより上言した。「陛下は狼虎を駆り率いて飛び食らい、天下の人に膚を剥ぎ髄を吸わせ、重足累息せしめ、天災地坼、山崩川竭を致した。釁は上より開き、憤は怨より積む。どうして民の耳目を塗り、自ら解釈し、漫りに権宜ということができようか。今、楚人は奉の故に、沈使者は返らず、また巡撫大臣に甘心せんとしている。中朝の使臣は境に入り緩急を偵うることを敢えず、すでに二月を過ぎた。四方の観聴は、ただ楚人にある。臣は陛下が必ずや曠然として慮いを易え、直ちに鉱税を罷めて四方を靖められると考えるが、どうしてなお恋々として自ら割くことができないのか。天下は至貴であり、金玉珠寶は至賤である。金玉珠寶を泰山のごとく積んでも、天下の尺寸の地を市うことはできず、天下を失えば、また何のために金玉珠寶を用いようか。今、四方の万姓は、陛下が楚事に遇って変ずる志なきを見て、禍必ず解けざるを知り、必ずや群起して変をなすであろう。この時、諸璫を尽く戮して天下に謝しても、どうして済むことがあろうか。」帝は怒り、留中した。
また翌年、兵科都給事中に遷った。時に両京に尚書三、侍郎十、科道九十四が欠け、天下に巡撫三、布按監司六十六、知府二十五が欠けていた。大益は力めて簡補を請うたが、これも聴かれなかった。
三十一年、江西税監潘相が勘合符牒を郵伝に経由させぬよう請うた。巡按御史呉達可がこれを駁したが、聴かれなかった。大益はまた故事を守って力争い、ついに相の請うた通りになった。内使王朝がかつて言うには、近京で石炭を採れば年に銀五千を得られると、京営の兵を率いて西山諸処を劫掠した。炭戸は洶洶とし、朝は沮撓と奏聞した。旨があり逮治すると、皆都に入り失業の状を訴えた。沈一貫らは急ぎ朝を罷め、かつ撫按に諭す勅を擬したが、命を得られなかった。大益は言う。「国家の大柄は、兵より重きはない。朝は禁軍を擅に役し、急ぎ誅し、将なき戒めとすべきである。」御史沈正隆、給事中楊応文、白瑜もまた疏諫した。帝はともに納れなかった。まもなく中官陳永寿の奏を用い、朝を召還した。遼東税監高淮が精騎数百を擁して都城に至った。大益は言う。「祖制に、人臣は兵を弄してはならない。淮はもと掃除の役であり、敢えて兵権を盗み、禍心を包み、罪誅に当たる。」帝もまた問わなかった。
翌年八月、君徳の缺失を極言し、言う。「陛下は専ら財利に志し、自私蔵の外は、まったく措意せず。中外の群工、これにより泄泄たり。君臣上下、曾て一念も民に及ぼさず。空言相蒙き、人怨天怒し、妖祲変異、畢く集まらざるはない。ついに皇陵は発祥の祖にして災いし、孝陵は創業の祖にして災いし、長陵は奠鼎の祖にしてまた災いした。天は我が国家を蹶かんと欲し、章章として明らかである。臣は十余年来を見るに、乱政亟に行われ、枚挙に遑あらず、その病源はただ貨利の一念にある。今、聖諭は缺官を補い、系囚を釈した。しかし鉱税を撤せず、群小なお恣横し、閭閻なお朘削せば、百工の展布は実に難く、罪罟の羅織は必ず衆し。缺官補うといえども、系囚釈すといえども、何の益かあろう。陛下は中歳以来、聡明の質を掩い、貪愚暴乱の行いに甘んじて蹈む所以は、ただ家計のためである。知らないのは、家の盈つる者は国必ず喪うということである。夏桀は瑤台に隕ち、商紂は宝玉に焚かれ、幽・厲は栄夷に戎を啓き、桓・霊は私鬻に統を絶ち、徳宗は瓊林に難を召し、道君は花石に禍を兆した。覆轍相仍り、昭然として鑑とすべきである。陛下の邇来の乱政は、六代の季に減ぜず。一旦変生ずれば、何をもって天下に身を托さんとするのか。」月余りして、また星変により根本を固め、防禦を設け、鉱税を罷むることを乞うた。帝はともに省みなかった。また翌年、久次により添註太常少卿となり、官に卒した。
大益の性質は骨鯁で、官を守り他に営まなかった。数たび危言を進め、ついに禍を免れた。時に帝は倦勤し、上章する者千万言といえども、大率屏置して閲せざる故である。
馮応京、字は可大、盱眙の人。万暦二十年の進士。戸部主事となる。薊鎮の軍儲を督し、廉幹をもって聞こえた。まもなく兵部に改め、員外郎に進む。二十八年、湖広僉事に擢げられ、武昌・漢陽・黄州の三府を分巡した。貪墨を糺し、奸豪を摧き、風采大いに著しい。税監陳奉は恣横し、巡撫支可大以下は唯諾謹むのみであったが、応京は独り法をもってこれを裁した。奉は万端掊克し、冢を伐り屋を毀ち、孕婦を刳き、嬰児を溺すに至った。その年十二月、諸生の妻が辱められ、上官に訴えた。市民これに従う者万余、哭声地を動かし、蜂のごとく奉の廨舎に湧き入り、諸司馳せ救ってようやく免れた。応京はその爪牙を捕治し、奉は怒り、陽に食を餉いてその中に金を置いた。応京はまたこれを暴き、ますます慚恨した。翌年正月、酒を置いて諸司を邀え、甲士千人をもって自衛し、ついに火箭を挙げて民居を焚いた。民は群れ奉の門を擁した。奉は人を遣わしてこれを撃たせ、多く死に、その屍を砕き、諸途に擲った。可大は噤して声を出さず、応京は独り抗疏してその十大罪を列挙した。奉もまた応京が命を撓み、勅使を陵ぐと誣奏した。帝は怒り、雑職に貶し、辺方に調すことを命じた。給事中田大益、御史李以唐らが交章して奉を劾し、応京を宥すことを乞うた。帝はますます怒り、応京の名を除いた。この時、襄陽通判邸宅、推官何棟如、棗陽県知県王之翰もまた奉に忤い劾された。詔して宅・之翰を民とし、棟如を遣逮した。まもなく都給事中楊応文が論救したため、ついに応京・宅・之翰の三人を並び逮えた。間もなく、奉はまた武昌同知卞孔時が抗拒すると誣劾し、孔時もまた逮えられた。
緹騎が武昌に到着すると、民衆は応京が重い譴責を受けたことを知り、相次いで痛哭した。陳奉は大書して応京の名を書き、その罪状を列挙し、大通りに掲示した。士民はますます憤慨し、数万人が集まって陳奉の役所を包囲した。陳奉は窮地に陥り、楚王府に逃げ隠れた。民衆は陳奉の手下六人を捕らえて江に投げ込み、緹騎にも傷を負わせた。また、可大が虐政を助けたと罵り、その府門を焼き、可大は出て来られなかった。陳奉は密かに参随三百人を遣わし、兵を率いて追撃させ、数人を射殺し、傷つけた者は数え切れなかった。日は既に暮れていたが、騒ぎはまだ収まらなかった。応京は囚人服を着て檻車に座り、大義を説いて諭したので、ようやく少しずつ解散した。陳奉は楚府に隠れ、一か月以上出られず、急いで帰京を請うた。大学士沈一貫は陳奉の罪を極言し、速やかに代わりを遣わして召還するよう請うた。言官も争ってこれを請うたが、帝は許さなかった。やがて江西税監李道も陳奉が税を横領・隠匿した状況を奏上したので、ようやく召還し、その事を承天守備杜茂に委ねた。しばらくして、東廠が緹騎に死者が出たと奏上した。帝は大いに怒り、内閣に手詔を下し、主謀者を究明しようとした。一貫は民心を静めるべきであると述べ、速やかに重臣を派遣して可大に代わって民を慰撫するよう請い、侍郎趙可懐を推薦した。帝は可大の官を剥奪し、可懐に急行させた。到着する前に、可大は既に兵を派遣して陳奉の行路を護衛していた。舟車が連なり、数里にわたって絶えなかった。可懐が境に入ると、彼も使者を遣わして護衛した。陳奉はようやく連なって去った。
何棟如は無錫の人である。官に在っては正義を守った。陳奉に陥れられた後、襄陽の人々が宮廷に赴き冤罪を訴えたが、聞き入れられなかった。出獄すると、官籍を削られて帰郷し、十七年間家に居た。天啓初年、ようやく南京兵部主事に起用された。ちょうど遼陽が陥落し、当時は募兵が議論され、棟如は自ら行くことを請うた。そこで国庫の金を携えて浙江に赴き、六千七百人を得た。到着したばかりで広寧がまた陥落し、さらに自ら出関して形勢を視察することを請うた。そこで太僕少卿に進み、軍前賛画を充てられた。棟如は志は鋭いが才は疎かった。初め浙江にいた時、無駄な出費がなかったわけではない。募集した兵は関外に出るのを恐れ、多くが逃亡した。また、二度上疏して熊廷弼、王化貞の功罪を論じたので、給事中蔡思充、朱童蒙、御史陳保泰が相次いで上疏して彼を弾劾した。棟如は上疏して弁明し、時にあらぬ京官の考査を行って朋党を清めるよう請うた。朝貴は大いに恨み、遂に詔獄に下し、鞭打ち拷問をことごとく加えた。五年秋、贓罪に坐して滁陽に流刑となった。崇禎初年、官に復し、致仕して卒去した。
王之翰は絳州の人である。棗陽に官した。開礦を力強く阻止したため、遂に捕らえられ拷問死した。天啓初年、光禄少卿を追贈された。
孔時は長く繋がれたまま、廷臣が救う者が数十回上疏した。帝はいずれも省みなかった。四十一年、万寿節に、葉向高がまたこのことを言上したので、ようやく官籍を削られて放免帰郷となった。熹宗が即位すると、南京刑部員外郎に起用された。
呉宝秀は字を汝珍といい、平陽の人である。万暦十七年の進士。大理評事に任じられた。寺正を歴任し、出て南康知府となった。湖口税監李道が甚だ横暴で、宝秀は彼と通じなかった。漕運の船が南に帰る時、風に乗って帆を揚げて湖口に入った。李道はその貨物に課税しようとし、兵卒を急いで追わせたため、船が転覆し、死者が出た。李道は吏を遣わして漕卒を捕らえようとしたが、宝秀は発遣を拒否した。李道は怒り、宝秀及び星子知県呉一元、青山巡検程資が税務を阻害したと弾劾し、詔によりともに捕らえて治めることとなった。給事中楊応文らが巡撫・巡按に下して公に査勘するよう請うた。大学士沈一貫、吏部尚書李戴、国子祭酒方従哲らが相次いで上疏して言ったが、いずれも返答がなかった。宝秀の妻陳氏は慟哭し、同行を請うたが、宝秀は許さなかった。そこで残りの財産と簪珥をかき集めて妾に言った。「夫が行くのだから、路費としなさい。」夜に自縊して死んだ。宝秀が京に至ると、詔獄に下された。大学士趙誌臯が上言した。「近頃臣が臥病していると、内外の人情が騒然としているのを聞きました。皆、鉱税の一事のためです。南康太守呉宝秀が捕らえられた時、その妻がついに縊死し、郡中が号呼し、ほとんど変乱となりかねませんでした。事は民の向背、宗社の安危に関わります。臣は去らんとする身をもって、黙して言わないわけにはまいりません。」星子の民陳英という者は、ちょうど墓廬中で、儒士熊応鳳らと約束して京師に走り、宮門に伏して冤罪を訴え、身代わりとなることを請うた。ここにおいて巡撫・巡按及び南北の諸臣が論救する上疏が十数回に上ったが、帝はいずれも省みなかった。ある日、司礼田義が諸々の上疏をまとめて御前に進めたが、帝は怒って地に投げた。義は従容として拾い上げ、再び進め、叩頭して言った。「閣臣が朝門外に跪いて待っております。処分を奉じなければ退くことができません。」帝の怒りはやや治まり、閣臣の上疏を取って読み、獄を刑部に移すよう命じた。皇太后も陳氏の死を聞き、従容として帝に話した。九月に至り、一元らとともに釈放されて民となった。帰宅し、一年余りして卒去した。
初め、南康の士民が祠を建て、特に陳氏を祀ったが、後に宝秀を合祀した。天啓年間、太僕少卿を追贈され、祭を賜り、一子を録用した。
王正誌は、祥符の人である。万暦二十六年に進士となり、富平知県に任じられた。二十八年、税使梁永・趙欽が暴虐をほしいままにしたので、正誌はその党の李英を捕らえ、杖殺し、ついで二人の不法の罪を極力論じた。欽もまた李英の事で上奏して訴えたので、帝は怒り、逮捕を命じた。給事中陳惟春は、正誌が欽の罪を多く弾劾しているので、取り調べるべきであり、欽が弾劾した正誌の事は撫按に下して核実すべきで、逮捕拘禁を免ずべきだと述べた。御史李時華もまた、近ごろ逮捕された呉応鴻・労養魁・蔡如川・甘学書および正誌らは、いずれも撫按に下して虚実を調査すべき勅命を出し、一人の単独の言葉で良善を枉げて害してはならないと述べた。いずれも報いられなかった。まもなく、梁永もまた正誌を訴えた。帝は、抗違欺隠する者をことごとく名指しで弾劾上奏し、重く処罰するよう命じた。宦官の勢いはますます張り、長吏はみな意気消沈した。正誌は詔獄に繋がれること四年、三十一年夏、獄死した。天啓の時、祭を追贈し、子を蔭すこと、いずれも鈺に準じた。
鉱税が興って以来、中使が四方に出て、有司を踏みにじった。誹謗の書が一度聞こえると、駕帖がただちに下った。二十四年には、遼東参将梁心。二十五年には、山東福山知県韋国賢。二十六年には、山東益都知県呉宗堯。二十七年には、江西南康知府呉宝秀・星子知県呉一元・山東臨清守備王煬。二十八年には、広東新会の在籍通判呉応鴻、挙人労養魁・鐘声朝・梁鬥輝、雲南尋甸知府蔡如川、趙州知州甘学書および正誌。二十九年には、湖広按察僉事馮応京・襄陽通判邸宅・推官何棟如・棗陽知県王之翰・武昌同知卞孔時・江西饒州通判陳奇可。三十年には、鳳陽臨淮知県林錝。三十四年には、陝西咸陽知県宋時際。三十五年には、陝西咸寧知県満朝薦。三十六年には、遼東海防同知王邦才・参将李獲陽。みな詔獄に幽閉拘禁され、長い者は十余年に及んだ。煬・応鴻・獲陽は獄中で死に、その他は削籍・貶官など差があった。士民で幽閉拘禁され死亡した者は、とりわけ数えきれないほどであった。