明史

列伝第一百二十二 盧洪春 李懋檜 李沂 雒于仁 馬経綸 劉綱 戴士衡 曹学程 翁憲祥 徐大相

○盧洪春(範俊・董基・王就学等) 李懋檜 李沂(周弘禴・潘士藻) 雒於仁 馬経綸(林熙春・林培) 劉綱 戴士衡 曹学程(子・正儒・郭実) 翁憲祥 徐大相

盧洪春は、字を思仁といい、東陽の人である。父の仲佃は、広西布政使であった。洪春は万暦五年の進士に挙げられ、旌徳知県に任じられ、礼部祠祭主事に抜擢された。十四年十月、帝が久しく朝政を視聴しないので、洪春は上疏して言った。「陛下は九月の望(十五日)の後より、連日朝参を免じ、先日また詔して、頭が眩暈し体が虚ろであるため、暫く朝講を罷めるとされた。太廟の時享には、官を遣わして恭しく代行させ、かつ『敢えて安逸を貪っているのではなく、礼を成し得ないことを恐れるためである』と述べられた。臣の愚かさをもってこれを捧げ読み、驚き慌てて涙せんとした。礼は祭祀より重いものはなく、病は虚ろより甚だしいものはない。陛下は春秋に富み盛んであり、諸々の症状は皆、有るべきものではない。有るべきでないものが有ることは、上は聖母の心を傷つけ、下は臣民の聞くところを驚かせ、しかもそれによって祖宗の大典を廃することになる。臣は陛下がどうして自ら安んじ得るのか知らない。また臣の聞くところによれば、さらに異なることがある。先月二十六日に伝旨して朝参を免じたが、すぐに人言が喧しいのを聞いた。陛下が馬を試乗して額を傷つけられたので、病気を引き合いに出して自ら隠しているのだという。もし人言の通りであるならば、一時の馳騁の楽しみのために、身を守る防備を疎かにしたのであり、その患いはまだ浅い。もし聖諭の通りであるならば、目前の衽席(寝所)の娯楽のために、身を保つ術を忘れたのであり、その患いは更に深い。もし聖徳の累いとなる点では、則ち均しく同じである。かつ陛下は、身が九重の奥深くに居られれば、外廷は知る由もないと思ってはならない。天子の起居が、寂然として人に知られないことがあろうか。しかし敢えて直言して陛下を導く者がいないのは、順従する意が多く、愛敬の心が薄いからである。陛下は平素、頌諛おべっかに遇えば必ず多く喜び、諫諍に遇えば必ず多く怒り、一事宮闈(後宮)に及べば厳しい譴責が直ちに至る。誰が肯って忌諱に触れ、測り知れぬ禍いに陥ろうとするだろうか。群臣がこのようであるのは、主上の福ではない。願わくは陛下は宗社を重んじ、偽り託すことに努めて疑いを増やすことなきように。この心を力強く制し、慎んで防ぎ検べを加えられよ。深宮の燕閑(安らぎ)において恣りに縦になることなく、左右の近習に仮借(甘やかし)をすることなく、躬を飭め行いを践み、明らかに天下に示して、律度をあきらかにせよ。そうすれば天下万世は、義を慕って窮まりないであろう。数(術策)を挟み術を用い、過ちを繕い非を飾り、ほとんど天下の耳目を聾瞽ろうこせんとする者と較べれば、どれほど隔たっていることか。」疏が入ると、帝は激怒した。内閣に百余言の諭を伝え、謹んで病気を理由に官を遣わした事情を極めて明らかにした。洪春が悖妄であるとして、旨を擬して罪を治めるよう命じた。閣臣は官を奪うことを擬したが、なお救いを論じた。帝は従わず、廷杖六十を加え、民に斥けた。諸給事中が救いを申し立てたが、旨に忤い、厳しく譲られた。諸御史の疏がこれに続くと、帝は怒り、俸給を奪うこと差等があった。洪春は遂に家に廃され、久しくして卒した。光宗が嗣位すると、太僕少卿を追贈された。

御史の範俊はかつて時政を陳じた。帝はちょうど病気で、俊の疏中の「人欲を防ぐ」という語句を見て、これを斥けた。主事の董基は内操を諫めて官を謫された。その後、員外郎の王就学は、帝が病気を託して梓宮を送らないことを諫め、まもなく罷め去った。皆、洪春の疏と類似している。

範俊は、字を国士といい、高安の人である。万暦五年の進士。義烏知県となり、召し出されて御史に任じられた。十二年正月、時政十事を陳じ、言葉は皆痛切で核心を突いており、その中で「人欲は防ぐべきであり、力をもって靡曼ぜいたくと麹蘗(酒)を戒めとすべきだ」と述べた。先に、慈寧宮が災害に遭い、給事中の鄒元標が六事を疏陳して、帝の意に忤った。そして帝が微かな病気にかかった時、大臣が方々安否を問うている最中に、俊の疏がちょうど入った。帝は憤って言った。「以前に元標を罪しなかったので、俊がまたこのようになったのだ。重く懲らしめるべきである。」申時行らは秩を削ることを擬した。帝はなお怒り、各々に杖刑を加えようとした。その夜は大雷雨があり、翌日、朝門外の水は三尺余りになった。帝の怒りが少し晴れたので、時行らもまた力強く救い、ようやく民に斥けた。翌年、給事中の張維新が譴謫された諸臣の推用を請うた。詔して量移を許したが、ただ俊だけは叙用しなかった。給事中の孫世禎、御史の方万山らが俊だけを遺漏すべきでないと言い、坐して俸給を奪われた。この後、たびたび推薦されたが起用されず、郷里に居ること数十年で卒した。天啓初年、官を復し、光禄少卿を追贈された。

董基は、字を巣雄といい、掖県の人である。万暦八年の進士。刑部主事に任じられた。十二年、帝は内豎(宦官)三千人を集め、戈甲を授け、内廷で操練させた。尚書の張学顔が諫めたが、受け入れられなかった。基は抗疏して言った。「内廷は清厳な地であり、故なくして三千の衆を聚め、軽々しく兇器を試みさせるのは、窃かに陛下の危うきを危ぶむ。陛下は行幸して山陵に至る際、この三千人あれば恐れることはないとお考えか。これらは皆実用に当たらないことを知らない。もし健卒勁騎に遇えば、たちまち披靡し、車駕は軽々しく出るより恃むべきものではない。この三千人は安居して美食し、筋力は柔靡である。一旦、鋭きを執り堅きを衣せしめ、寒さに蒙り暑さに犯させれば、臣は聞くところによれば、近ごろ終日演練し、中暍して死に瀕した者が数人いるという。彼らは怨みない者はない。三千の怨みを蓄えた者を肘腋に聚めることほど危険なことはない。かつ内操が始まって以来、賞賚はすでに二万金に及ぶ。このまま長く続けて止まなければ、どうして尽き果てることがあろうか。有用の財を、無用の地についやすのは、誠に惜しむべきである。」疏が入り、旨に忤い、二秩を貶し、辺方に調するよう命じられた。九卿、給事、御史が交章して救いを論じ、かつ基の言を納れるよう請うたが、聞き入れられなかった。ついに基を万全都司都事に謫した。翌年、兵科給事中の王致祥が言った。「祖宗の法では、宿衛の士でなければ寸兵も持たせない。今、群不逞の徒に利器を授け、禁門を出入りさせるのは、禍い小さからず。」大学士の申時行もまた司礼監に語って言った。「この事は禁廷に関わる。諸人が甲をつらぬき戈を執り、未明(夜明け前)に入る。もし奸人がその中に紛れ込んだら、一旦緩急あれば、外廷は聞くことができず、宿衛は備えるに及ばない。これは公等の剝膚はくふの患いである。」中官は悚然とし、隙に乗じて力説した。帝はようやく致祥の疏を留め、即日にこれを罷めた。ちょうど謫降官が皆量移され、基もまた南京礼部主事に遷り、終に南京大理卿となった。致祥は、忻州の人。隆慶五年の進士。歴官して右僉都御史、順天巡撫となった。

王就学は、字を所敬といい、武進の人である。万暦十四年の進士。戸部主事に任じられた。三王並封の議が起こり、朝論は大いに沸いた。就学は王錫爵の門人であり、同年生の銭允元と共に彼を諫めに行き、涙を流した。ちょうど庶吉士の李騰芳が錫爵に書を投じ、就学の語るところと類似していた。錫爵は悟り、並封の詔は止むことができた。就学は礼部に改められ、員外郎に進み、まもなく吏部に調された。二十四年、孝安陳太后の梓宮が発引する際、帝の嫡母であるので、門外まで送るべきであったが、病気があるとして、官を遣わして代行させた。吏部侍郎の孫継臯がこれを言うと、帝は怒り、その疏を地に投げつけた。就学は抗疏して言った。「人子たるもの、親に対してはただ死を送ることが大事である。今、一たびの攀送(棺にすがり送ること)を惜しんで、聖孝を終わらせない。ただ古礼に乖くのみならず、聖心もどうして自ら安んじ得ようか。ここにおいてその情を用いないならば、どこでその情を用いるのか。ここにおいて忍び得るならば、どこで忍び得ないことがあろうか。恐らく詔諭に宣べ、簡冊に書き、天下万世に伝え示すことは難しいであろう。」疏が奏上されたが、省みられなかった。二年余り過ぎて、詔して吏部の諸郎を甄別し、就学を民に斥けた。まもなく家で卒した。

継皐は抗疏したが、間もなく、給事中劉道亨が文選員外郎蔡夢麟の銓政紊乱を弾劾し、継皐にも及んだ。罷免を請うたが、回答はなかった。三殿の災害の際、大臣たちが自ら陳謝したが、皆慰留され、ただ継皐のみが致仕して去った。卒し、礼部尚書を追贈された。継皐は字を以徳といい、無錫の人である。万暦二年の進士第一であった。

李懋檜は字を克蒼といい、安渓の人である。万暦八年の進士となった。六安知州に任じられ、後に刑部員外郎として召された。十四年三月、帝が旱魃を憂い、所司に便宜を条上するよう命じた。懋檜と部郎劉復初らが皇貴妃と恭妃の冊封の件を争って言上し、奏章が一日に並べて上った。帝は怒り、重い譴責を加えようとしたが、言上する者はなお止まなかった。閣臣が帝に請い、諸曹の建言は所司の職掌にのみ及び、かつ専達してはならないと詔し、帝の心を慰め解かせようとした。数日後、帝も威を和らげ、諸々の上疏は皆中留された。しかし懋檜の上疏にはさらに、聖躬を保ち、内供を節し、近習を禦ぎ、言路を開き、蠲振を議し、刑罰を慎み、挙刺を重んじ、田制を限る七事があり、これもまた寝せられて行われなかった。

翌年、給事中邵庶が誠意伯劉世延を論ずるに当たり、建言した諸臣を刺した。懋檜が上言して言うには、「邵庶は世延の条奏に因み、言者に波及し、一概に絶とうとしている。『人の口を防ぐは、川を防ぐよりも甚だしい』と、邵庶はこの言葉を聞かないのか。今、天下の民は窮し財は尽き、至る所に饑饉があり、山・陝・河南では、妻子が離散し、倒れ伏す者が道に満ち、疾苦危急の状は、鄭俠でさえ図り得なかったものがあるのに、陛下は聞くことも見ることもできない。近ごろ雷が日壇を撃ち、星が斗の如く墜ち、天変が上に警告を示し、畿輔の間では、子が父をしいし、僕が主を殺し、人情が下に乖離している。邵庶は海内に全く言うべきことが無いと思っているのか。朝廷の臣において、言官である者は十のうちわずか二、三である。言官は必ずしも皆智ではなく、言官でない者は必ずしも皆愚ではない。往事は無論、近年の馮保・張居正の交通乱政において、連章して保留を請い、功を頌え徳を詡いた者、陳三謨・曾士楚の如き者は、皆台垣より出で、剣を請い裾を引き杖謫されて去った者は、庶僚か新進の書生である。もし邵庶の言う通りなら、天下が幸いに無事であればよいが、もし不虞の変があれば、陛下は何によって知るのか。邵庶はまた、堂上官が司属を禁止することを得策としているが、伏して『大明律』を拝見すると、百工技藝の人でも、もし言うべき事があれば、直ちに御前に至り奏聞し、阻遏する者があれば斬るとある。『大明会典』及び皇祖の『臥碑』もまたしばしばこれを言っている。百工技藝の人でさえ、言うことがあれば尚お阻むことを敢えず、まして諸司百執事であろうか。邵庶の言一出で、志士は解体し、善言は日に塞がれ、主上はその過ちを聞くことができず、群下はその忠を献ずる所なく、天下を禍うすること必ず邵庶より始まる。陛下がもし百官の越職の禁を重くせんと欲せば、言官の失職の罰を厳しくするに如かず。言うべき時に言わざれば、君に負い国を誤る罪に坐す。軽ければ記過し、重ければ官を褫う。科道が遷転すべき時は、その章奏の多寡得失を一視して殿最と為せば、言官は直言せざるなく、庶官は言うべき事無く、出位の禁は用いず、太平の効は自ずから致されるであろう」。

帝はその沽名を責め、一階降格を命じた。科道が共に救ったが、許されなかった。邵庶は同列の胡時麟・梅国楼・郭顯忠と共に再び交章して論劾し、ついに再び一階降格され、湖広按察司経歴となった。礼部主事を歴任し、憂いにより帰郷し、たびたび推薦されたが起きなかった。家に居ること二十年、ようやく故官に起用された。南京兵部郎中に進んだ。天啓初年、ついに太僕少卿となった。

李沂は字を景魯といい、嘉魚の人である。万暦十四年の進士となった。庶吉士に改められた。十六年冬、吏科給事中に任じられた。宦官張鯨が東廠を掌り、横暴に振る舞い憚るところがなかった。御史何出光が張鯨の死罪八箇条を弾劾し、その党の錦衣都督ととく劉守有・序班邢尚智にも及んだ。邢尚智は死罪と論じられ、劉守有は除名され、張鯨は厳しく譴責されたが、職務は元のままだった。御史馬象乾が再び張鯨を弾劾し、執政を激しく誹謗したので、帝は馬象乾を詔獄に下した。大学士申時行らが力強く救い、かつ御批を封還したが、回答はなかった。許国・王錫爵が再びそれぞれ救いを申し立て、ようやく前命は寝せられたが、張鯨は結局罪に問われなかった。外議は張鯨が金宝を帝に献じて免れたという。李沂は官に拝して甫か一月、上疏して言うには、「陛下は往年馮保を罪し、近ごろ宋坤を逐われた。張鯨の悪は馮保の百倍、宋坤の万倍であるのに、どうして独り忍んで去らせないのか。もし多年侍奉したというなら、法を壊したのも多年である。痛く省み改めさせ、なお供事に足ると言うなら、虎狼を馴らして門戸を守らせることができるとは聞かない。流伝するところでは、張鯨が広く金宝を献じ、多方より請乞し、陛下が猶して未だ断決を忍ばれないという。中外の臣民は初め信じず、陛下は四海を富有し、どうして金宝を愛されようか、威は雷霆の如く、どうして請乞に徇われようかと思った。しかし明旨が張鯨に策励して供事することを許すのを見て、外議は囂囂として、遂に真実と謂うに至った。聖徳を虧損すること、浅はかならずや甚だしい。かつ張鯨の奸謀が既に遂げられれば、国家の禍はこれより始まらんとし、臣の大いに懼れるところである」。この日、給事中唐堯欽もまた疏を具えて諫めた。帝は独り李沂の上疏に手を下し、震怒し、李沂が馮保・張居正の仇を報いようとしていると言い、直ちに詔獄に下して厳しく鞫いた。申時行らが宥しを請うたが、従わなかった。讞が上ると、詔して廷杖六十、民に斥かれた。御批が閣に至ると、申時行らは御批を留めようとしたが、中使は許さず、持って去った。帝は特に司礼張誠を遣わして出て杖刑を監させた。申時行らが上疏し、皆会極門に詣って進止を候った。帝は言うには、「李沂は貪吏を置いて言わず、独り朕を貪りと謂い、君父を謗誣する、罪は宥すべからず」。ついにこれを杖った。太常卿李尚智・給事中薛三才らが抗章して論救したが、皆回答がなかった。許国・王錫爵は言が用いられないことを以て、罪を引き帰ることを乞うた。王錫爵は言うには、「廷杖は正刑ではなく、祖宗も間に行ったが、詔獄・廷杖を一人に併せ加えたことはない。故事によれば、資賊大逆にのみ打問の旨があり、今どうして言官に加えることができようか」。帝は優詔して王錫爵を慰留したが、ついにその言を聴かなかった。

初め、馮保が罪を得たのは、実は張鯨が為したことであったので、故に帝はそう言ったのである。或いは張鯨の罪は馮保の如くまで至らないと言う。張誠が司礼を掌り、平素馮保に徳があり、言者に意を授けてこれを発させたが、事は秘で明らかにできなかった。その時、周弘禴・潘士藻は皆張鯨に忤って罪を得たが、李沂の禍が最も烈しかった。家に居ること十八年、召されずして卒した。光宗が嗣位すると、光禄少卿を追贈された。

弘禴は字を元孚といい、麻城の人である。豪放で奇抜な気概を抱き、射猟を好んだ。万暦二年に進士に挙げられ、戸部主事に任じられた。無為州同知に降格され、順天通判に転じた。十三年春、上疏して朝廷の高官を指弾し、「兵部尚書張学顔はたびたび論難されている。陛下は学顔のため、給事中一人、御史三人を追放されたが、これは人心の共に憤るところである。学顔は張鯨と兄弟の契りを結び、言官が学顔を指弾しても鯨に及ぼさぬのは、その勢力を恐れるからである。李植が馮保を論じたのは、一見忠直のようであるが、実は張宏の門客楽新声が謀主となった。彼が順天を巡按した際、娼婦を妾にし、猖狂として法紀を犯したのは、張宏を内援として恃んだからである。鯨と宏はすでに陛下の権力を窃み、植はさらに司礼監の勢力を窃んでいる。これは公論の許さぬところである。『祖訓』には、大小の官は御前に至り事を言うことを許されている。今、吏科都給事中斉世臣は部曹の建言を禁ずるよう請うている。かつて張居正が権力を窃んだ時、台省の群臣はその功徳を称えたが、その奸を最初に発したのは、かえって艾穆と沈思孝であった。部曹が事を言うことが、果たして国に何の負い目があろうか。居正は員外郎管誌道の建議を憎み、御史龔懋賢は老病と誣いた。主事趙世卿の条奏を憎み、尚書王国光は王官に錮した。論者は歯ぎしりするが、それは彼らが権奸に附き直言を棄て、壅蔽の禍いを長くしたからである。今、学顔と植はともに鯨と宏に附き、鯨は敢えて権柄を窃む。世臣はこれを聞かぬはずがない。自ら言えぬのに、どうして反って他人に言わせまいとするのか。以前、吏科を長じた者は周邦傑と秦耀である。居正の時代、耀は甘心して猟犬となり、邦傑は寒蝉と比肩した。今、耀は太常に官し、邦傑は太僕に官している。諫職として補うところなく、座して京卿に昇った。まだ台省が恃むに足ると言えようか。それなのに諸臣の言事を禁じようとする。一人の言を逐うのはその罪小さいが、諸臣の言を禁ずるのはその罪大きい。かつて厳嵩や居正でさえもまだ敢えて明らかにこの禁を立てなかった。どうして世臣は忌憚なくここまで至るのか。学顔と植を帰郷させ、耀と邦傑を外任に出し、張鯨を退けて閑居させ、世臣の諫職を奪い、厳しく司礼監張誠らに命じて内府の礼儀を掌るのみとし、政事に干与せぬようにすれば、天下幸いである」と述べた。帝は怒り、代州判官に左遷し、再び南京兵部主事に転じた。

十七年、帝は初めて政務に倦み、章奏は多く中留めされて下されなかった。弘禴は疏を上て諫め、かつ早く皇儲を立てるよう請うたが、答えなかった。まもなく尚宝丞に召された。翌年冬、監察御史として寧夏の辺務を閲視するよう命じられた。巡撫僉都御史梁問孟と巡茶御史鐘化民が官庫の銀を交際に用いたことを、弘禴は疏を上て発覚させた。詔して問孟の職を褫い、化民を外任に転じた。河東に秦・漢二つの堰があり、弘禴は石で築き、渠を浚って北に鴛鴦などの湖に達し、水利を大いに興すよう請うた。還朝し、将材として哱承恩・土文秀・哱雲を推薦した。翌年、承恩らが反乱を起こし、連座して澄海典史に左遷された。投劾して帰郷し、家で卒した。天啓初年、かつて皇儲立てを請うた功により、太僕少卿を追贈された。

潘士藻は字を去華といい、婺源の人である。万暦十一年に進士となり、温州推官に任じられた。御史に抜擢され、北城を巡視した。慈寧宮の近侍侯進忠と牛承忠が禁城を私出し、婦女と戯れた。巡邏の者がこれを捕らえたが、彼らに殴打され、士藻に訴えた。士藻は私的に司礼監に牒してこれを処罰させた。帝は憤って言った、「東廠は何事をしているのか。外廷から発覚させるとは」。二人の宦官を杖ち、一人を死に至らしめた。張鯨がちょうど東廠を掌っており、怒った。ちょうど火災があり修省が行われた際、士藻は言った、「今、天下の患いは、君臣の意思が通じないことより大きいものはない。祖制および近時の平台・暖閣での召対の故事に倣い、当面、施すべきことと罷すべきことを議すべきである。大工事を撤廃して豊年を待ち、織造・焼造を蠲免して倹徳を顕わし、金花銀の額外徴収を免じて軍食を助けるべきである。かつ時々講読の諸臣を召し、経史を問うべきである。賢人君子と対する時が多ければ、自ずから敬をもって肆に易え、義をもって欲を奪うことができる。修省の実は、これに過ぎるものはない」。鯨は帝の怒りを煽り、広東布政司照磨に左遷した。科道が相次いで上章して救ったが、聞き入れなかった。まもなく南京吏部主事に抜擢された。再び尚宝卿に転じ、官のまま卒した。

雒於仁は字を少涇といい、涇陽の人である。父の遵は吏科都給事中であった。神宗が初めて即位した時、馮保が権力を窃んでいた。帝が殿に御すると、保はいつも側に侍した。遵は言った、「保は一介の侍従の僕であるのに、敢えて天子の宝座の側に立ち、文武の群臣は天子を拝するのか、それとも中官を拝するのか。陛下が幼沖であるのを欺き、無礼ここに至る」。遵は大学士高拱の門生であった。保は遵が拱の指図を受けたと疑い、遂に謀って拱を追放しようとした。遵の上疏は中留めされた。まもなく兵部尚書譚綸を弾劾し、ついで海瑞を推薦した。吏部尚書楊博は綸の才能を称え、瑞を迂遠で停滞していると誹謗したため、上疏は遂に取り上げられなかった。ほどなく、綸が日壇に陪祀した際、咳が止まなかった。御史景嵩と韓必顯が綸の衰病を弾劾した。居正は平素から綸と親しく、馮保はこれによって遵に罪を着せようとし、詔旨を伝えて嵩と必顯に誰を以て綸に代えようとするのか詰問し、遵とともに推挙するよう命じた。遵らは惶恐として承ることができなかった。ともに三階降格され、外任に転じた。遵は浙江布政司照磨を得た。保が失脚すると、たびたび転じて光禄卿となった。右僉都御史に改め、四川を巡撫した。罷免されて帰郷し、卒した。

於仁は万暦十一年に進士に挙げられた。肥郷・清豊二県の知県を歴任し、恵みある政績があった。十七年、入朝して大理寺評事となった。四箴を献じて疏を上て諫めた。その概略は次の通りである。

臣が官に備わって一年余り、わずか三度陛下に朝見したのみである。このほかはただ聖体の違和を聞くばかりで、一切は伝免された。郊祀や廟享は官を遣わして代行し、政事には親しまず、講筵は久しく廃された。臣は陛下の病気が、これに至った由緒のあることを知っている。臣は聞く、酒を嗜めば腸を腐らせ、色に恋すれば性を伐り、財を貪れば志を喪い、気を尚ばば生を戕くと。陛下は八珍を御前にし、杯酌に耽り、昼に卜して足らず、長夜に継ぐ。これが病は酒を嗜むにある。『十俊』を寵して幸門を開き、鄭妃に溺れ、靡いた言葉は聞かれぬものはない。忠謀は擯斥され、儲位は久しく空しい。これが病は色に恋するにある。帑金を伝索し、幣帛を括取する。甚だしきは宦官を掠問し、献上があればそれでよし、なければ譴怒する。李沂の瘡痍まだ平らかでないのに、張鯨の賄賂また入る。これが病は財を貪るにある。今日は宮女を榜ち、明日は中官を抶ち、罪状明らかでないのに、たちまち杖下に斃す。また直臣に対して宿怨を蔵し怒り、範俊・姜応麟・孫如法らの輩は、みな一度貶黜されて申し開かず、環を賜わる日がない。これが病は気を尚ばにある。四つの病は、身心に膠着して離れず、どうして薬石で治せようか。今、陛下は春秋に富んでおられるのに、すでに経年朝せず、これを過ぎて後、さらにどうなさるおつもりか。

孟軻は法家の拂士に取るところがあった。今、鄒元標はその人である。陛下はこれを棄てて置かれた。臣にはその故を得る所以がある。元標が入朝すれば、必ずまず聖躬のことを言い、次に左右に及ぶ。それゆえ、その賢を知りながら、忌んで用いないのである。ただ直臣が陛下に利せず、左右に便ならず、宗社に深く利あることを思わないのか。陛下がこの四者に溺れるのは、生殺の権を操り、人が畏れて敢えて言わぬと言わないか、あるいは邃密の地に居り、人が知らぬゆえに言えぬと言わないか。知らないのである、鼓鐘は宮にあれば、声は外に聞こえ、幽独の中にも、指視の集まるところであることを。かつ禄を保ち躯を全うする士は威権をもって懼れさせることができようが、忠を懐き義を守る者は、鼎鑊や鋸があってもどうして避けようか。臣は今敢えて四箴を献ずる。もし陛下が臣の言を用いられるなら、たちまち臣の身を誅されても、臣は死してもなお生きるがごとくである。どうか陛下、垂れて察せられんことを。

酒の箴に曰く、かの麹蘗に耽り、朝夕絶えず。心志は内に懵く、威儀は外に缺く。神禹は狄を疏けば、夏の治興隆す。薬を陛下に進む、醲醑を崇むること勿れ。

色の箴に曰く、かの妖姫を艶にし、寝興側に在り。寵を啓き侮を納れ、妍を争い国を誤る。成湯は邇かず、遐寿を享有す。薬を陛下に進む、内嬖を厚くすること勿れ。

財の箴に曰く、かの镠鐐を競い、錙銖必ず尽くす。公帑は盈つと称し、私家は懸罄す。武は鹿臺を散じ、八百心に帰す。隋煬は利を剝き、天命諶み難し。薬を陛下に進む、貨賄を侵すこと勿れ。

気の箴に曰く、かの忿怒を逞しうし、恣睢情に任す。法は尚お操切を尚び、政は公平を盩す。虞舜は温恭、和以て祥を致す。秦皇は暴戾、群怨孔彰なり。薬を陛下に進む、旧怨を蔵すること勿れ。

疏が入ると、帝は震怒した。時に歳暮にあたり、その疏を十日間留めた。いわゆる「十俊」とは、十人の小宦官のことである。翌年の正月元旦、毓徳宮において閣臣の申時行らを召見し、于仁の疏を手ずから授けた。帝は自ら甚だ詳しく弁明し、彼を重典に処そうとした。時行らは委曲を尽くして慰め諭したが、帝の意が翻らないのを見て、乃ち言った、「この疏は外に発してはなりません、外の者が真実と信じる恐れがあります。願わくは陛下が曲げて優しくお許しくださり、臣らが即ち寺卿に伝諭し、于仁に去位させればよろしいでしょう。」帝は乃ち頷いた。数日を経て、于仁は疾を理由に辞し、遂に民として斥けられた。久しくして卒した。天啓初年、光禄少卿を贈られた。

馬経綸、字は主一、順天通州の人。万暦十七年の進士。肥城知県に任じられ、入って御史となった。二十三年冬、兵部が軍政を考選した。帝はその中に副千戸の者がおり、勝手に四品の職を署するのは宜しくないと言った。部臣が私に徇ったことを責め、兵科が糾発しなかった。武選郎の韓範、都給事中の呉文梓を雑職に降格した。員外郎の曾偉芳、主事の江中信、程僖、陳楚産、給事中の劉仕瞻を三秩削り、極辺に調任した。御史の区大倫、俞价、強思、給事中の張同德が事を言うのに常に旨に忤ったとして、また三秩を削った。そして五城御史の夏之臣、朱鳳翔、塗喬遷、時偕行、楊述中が宦官客用の家を籍没したが、旨に称わず、ともに辺遠の典史に貶した。また客用の資財が崇信伯費甲金の家に匿われていたが、刑部が拷訊しても実証がなく、郎中徐維濂を外に貶した。一時厳旨が頻りに下り、しかも千戸の主名が得られず、挙朝震駭した。時に東廠太監の張誠は帝の意を失っていた。誠の家奴で錦衣副千戸の霍文炳が指揮僉事に遷るべきところ、部臣は先に既に奏請していたが、帝は言官に罪を着せる端緒を求めようとし、遂にこれを以て罪とした。間もなく怒りを両京の科道に移し、黙しているとして、掌印者にことごとく三秩削ることを命じた。ここにおいて給事中の耿随龍、鄒廷彦、黎道昭、孫羽侯、黄運泰、毛一公、御史の李宗延、顧際明、袁可立、綦才、呉礼嘉、王有功、李固本、南京給事中の伍文煥、費必興、盧大中、御史の柳佐、聶応科、李文熙ら十九人ともに外に調任され、留まった者もともに俸を一年停められた。また吏部に職名を列上させ、さらに御史の馮従吾、薛継茂、王慎徳、姚三譲の四人を罷免させた。大学士の趙志臯、陳於陛、沈一貫及び九卿が各々疏を上って争い、尚書の石星は職を罷めて諸臣を寛げるよう請うたが、皆納れられなかった。於陛がまた特に疏を上って救った。帝は怒り、諸人を雑職に降格し、悉く辺方に調任するよう命じた。尚書の孫丕揚らは詔旨が転じて厳しくなったことを以て、再び疏を上って宥しを乞うた。帝はますます怒り、職を悉く奪って民とした。経綸は甚だ憤り、抗疏して曰く、

近頃屡々厳旨を奉り、南北の言官を斥逐なさる。臣は幸いに恩を蒙り、罰俸して職に供しているが、今日こそ臣が諫諍すべき日である。陛下は数年このかた、深く居を静かに摂り、君臣の道否み、中外ともに隠憂を抱いている。頼みとする所は言路の諸臣が、明目張胆として国家のために邪正を裁き弁じ、奸雄を指斥することである。廟堂の処分が必ずしも輿論に尽く協うとは限らないが、縉紳の公議は頗る世風を維持するに足りる。これは高廟の神霊が実にこれを鑒み佑け給うところである。台省の耳目として資する所は大なるもの、陛下何ぞ一旦自らその耳目を塗るや。

そもそも兵部の考察の故を以て、兵科を罪とするは已むを得ぬ。乃ちここにおいて蔓りて他の給事に及び、また波連して諸御史に及ぶ。去る者には明らかにその応得の罪を署さず、留まる者には明らかにその姑く恕す由を署さない。聖意は淵微にして未だ窺測し易からざるも、道路の伝説は嘖々として煩言有り。陛下は年来言官を厭い苦しみ、動もすれば瀆擾を以て罪とするが、今忽ち変じて箝口を以てこれを罪とする。無言を以て言官を罪するならば、言官何の辞かあらん。臣窃かに陛下が言官を罪せられる所を観るに、猶お浅く言官を罪せられるに過ぎない。乃ち言官が今日箝口して言わざる所には、五つの大罪がある。陛下は郊天せずして数年になるが、曾て故典を援き闥を排して諍うことができず、これは陛下を不敬天に陥れる者である。罪その一。陛下は祖を享けずして数年になるが、曾て至誠を開き裾を牽いて諍うことができず、これは陛下を不敬祖に陥れる者である。罪その二。陛下は朝を輟めて御せず、講を停めて挙げず、言官はこれを言うも遂にこれを復することができず、これは陛下が祖宗の如く勤政できぬことに陥れる。罪その三。陛下は邪を去るに決せず、賢を任するに篤からず、言官はこれを言うも強いてこれを得ることができず、これは陛下が祖宗の如く人を用いられぬことに陥れる。罪その四。陛下は貨を好むこと癖となり、恩を御すること少なく、肘腋の間に怨を叢らし変を蓄え、言官は皆これを慮るも、遂に鱗を批り諫めて止めることができず、これは陛下が初政を甘んじて棄て、終わりを克くするに猶お及ばぬことに陥れる。罪その五。言官はこの大罪を負う、陛下奮然として励精し五罪を以てこれを罪せられば、豈に当たらざらんや!奈何ぞ箝口して言わざる者を責めるに、ここにおいてせずして彼においてするや。

先日廷臣が交章して論救したが、職を還すことを肯んぜざるのみか、しかも落職して民とした。そもそも諸臣は本より草莽より出で、今初服に還るも、また何の憾みかあらん。ただ朝廷の過挙は遂げるべからず、大臣の忠懇は拂うべからざるを念う。陛下は閣疏の救いを聴かず、降級を改めて雑職となされば、輔臣何の顔かあらん。これは自らその腹心を離れるなり。部疏の救いを聴かず、雑職を改めて編氓となされば、九卿何の顔かあらん。これは自らその股肱を戕くすなり。そもそも君臣は一体、元首は明らかなりと雖も、亦た股肱腹心耳目の用に頼る。今乃ち自らその耳目を塞ぎ、自らその腹心を離れ、自らその股肱を戕くす、陛下は誰とともに天下の事を治められんとするや。

そもそも人君は天より命を受く、人臣が君より命を受くること一なり。言官は本より大罪無く、一旦震怒し、失職を以て罪とするも、一人として敢えて命に抗する者無し。既に大いに人心を失い、必ず上って天意に拂う。万一上天震怒し、陛下の郊せず帝せず、朝せず講ぜず、才を惜しまず、貨を賤しまざるを以て、人君の職を失うを咎め、赫然として非常の災を降らせば、陛下爾の時に天命に抗し得るや否や知らざるなり。臣は君に抗し得ず、君は天に抗し得ず、この理は甚だ明らかなり、陛下独り自ら社稷の為に計らざるや。

帝は大怒し、彼もまた三秩を貶し、外に出した。

経綸が譴責を受けると、工科都給事中の海陽人林熙春らが上疏して言った。「陛下は言官が黙していることを怒り、三十余人を斥逐なさいました。臣らは恐れおののかずにはいられません。今、御史の経綸が慷慨として意見を述べました。ひそかに思うに、必ず温かな詔勅で褒め称えられるものと期待しておりましたが、かえって貶斥に従うこととなりました。これは意見を述べたことを罪とするのでしょうか、それとも意見を述べないことを罪とするのでしょうか。臣らには理解できません。以前に罪を科された者は、意見を述べないが故であり、今罪を科された者は、敢えて意見を述べたが故です。臣らはどこに従えばよいのでしょうか。陛下がもしも意見を述べないことを職務怠慢とお考えならば、臣らは憂慮危惧の苦言を進めるのは難しくありません。もしも直言が上意に背くとお考えならば、臣らは暗黙を守る習わしに従うのは難しくありません。ただ恐れるのは、廟堂の上で、みな諂佞して取り入るばかりとなり、君主の福とはならないことです。臣らの富貴栄辱の念が人と異なるわけではありませんが、それでもなお、あれではなくこれを選ぶのは、二百余年にわたる養士の恩恵に浴しているからであり、君父に背かず、またこの一生を無駄にしないためです。陛下はどうしてこれほどまでに深く怒り痛恨し、辱め折檻なさるのでしょうか。」帝はますます怒り、熙春を茶塩判官に左遷し、経綸をさらに貶して典史とした。熙春はそこで病気を理由に辞職して去った。この日、御史の定興人鹿久徴らも上疏し、諸臣と同罪に処するよう請い、澤州判官に貶された。二つの上疏に列名した者は合わせて数十人に及び、皆、俸給を奪われた。

まもなく、南京御史の東莞人林培が時政を述べた上疏をした。帝は経綸のことを思い出して怒り、ついに民に落とされた。帰郷後、門を閉ざして掃除もせず、凡そ十年を過ごした。死去すると、門人が私謚して聞道先生とした。

林培は郷挙により新化知県となった。県は僻遠で鄙陋であったため、広く社学を設置して教化した。民で盗賊に殺された者があったが、犯人は捕まらなかった。神に祈ると、蝶の飛んでいく先で盗賊を捕らえることができ、当時は神がかりだと驚かれた。召し出されて南京御史となり、誠意伯劉世延を弾劾して罪に問い、その手下を法に照らして処置した。その後、上書して徐維濂が貶されるべきでないこと、陝西での花絨の織造や回青の購入が民を擾しているので止めるべきこと、湖広では魚鲊の貢納、江南では織造のため、それぞれ巡撫・按察官の俸給が奪われ、蘇州通判は織造のため官位を剥奪されるに至ったが、これらはいずれも手本とすべきでないこと、また沈思孝らについて論及した。帝は怒り、福建塩運知事に左遷した。告帰して死去した。

天啓初年、経綸の官職を回復し、太僕少卿を追贈した。林培には光禄少卿を追贈し、熙春もまた元の官職に戻した。熙春はたびたび昇進して大理卿となったが、年老いて辞任を請うた。当時、李宗延・柳佐らが朝廷に官職についており、彼らの先朝における建言の事績を称えた。詔により戸部右侍郎を加官され、致仕した。

劉綱は邛州の人である。祖父の文恂は孝子であった。父の応辰は郷試に合格したが仕官せず、やはり孝義で知られた。劉綱は万暦二十三年の進士に合格し、庶吉士に改められた。二十五年七月、上疏して言った。

昨年、両宮が災害に遭い、詔を天下に示されたが、禹や湯が己を責めた誠意や、文帝・景帝が租税を免除した恩恵は少しもなく、臣はすでに天心がまだ満足していないことを知りました。近ごろ大工事が始まり、木材を伐採し税を徴収し、石材を採り磁器を運び、遠くは万里、近くも数百里に及びます。小民は膏血を絞っても費用を賄えず、筋骨を絶やしても労役に耐えられず、妻子を売っても借金を返せません。旱魃の災害が加わり、野に青草はなく、人々の心は皆怨み、至る所で仇のようになっています。それなのに天下が禍を悔い改めないため、三殿が再び災害に遭いました。『五行志』に言います。「君が道を思わなければ、その災いは宮殿を焼く。」陛下は自ら省みてください。昼の行い、夜の休息、その思いは道にあるのか、道にないのか。

およそ天を敬い祖法に従い、賢者を親しみ奸佞を遠ざけ、欲を少なくして身を保ち、財貨を軽んじて徳を慎むこと、これらすべてを道と言い、これに反するのは道ではありません。陛下は近年、祭祀を簡略にし、朝講を罷め、股肱の臣を棄て、耳目を塞ぎ、地脈を断ち、天象を軽んじ、君臣の間には数年もの隔たりがあり、堂上と階下は万里も遠く離れたようです。陛下が深く宮中に静養され、天に祈って永命を願われる様子はどのようなものか、外廷が知らないとしても、上天はお見通しではないでしょうか。今日の災害は、それに類した応報です。天は言っているのでしょう。皇極が正しくないならば、誰がこれに帰服するというのか、何のために門があるのか。朝儀が久しく廃れているならば、誰がこれを仰ぎ見るというのか、何のために殿があるのか。元宰が素餐(禄を盗む)し、政務の地を汚しているならば、何のために閣があるのか。天が警告を示し、更新を勧めるのは、極めて深切なのです。なおも因循姑息で時を無駄にし、重ねて上帝を怒らせることができましょうか。

臣は聞きます。五行の性質は、積もることを忌み、暢やかなることを喜ぶと。積もるとは、災いが潜んでいることです。死を冒して積もりの様子を申し上げます。皇長子の元服・婚礼・冊立が久しく行われていない、これを積典と言います。大小の臣僚が職務について請うても、大半は回答がない、これを積牘と言います。外の司や府に官はあっても人がいない、これを積缺と言います。罪を得て斥けられた諸臣を、一概に登用しない、これを積才と言います。境外には帆を揚げる醜賊がおり、中原には竿を掲げる徒党が起こっている、これを積寇と言います。辺境を守り河川を治める諸臣が、虚言をもって上を欺き、恬然として怪しまない、これを積玩と言います。これらの積もりについて、陛下は明断をもって決することができず、元輔の趙誌臯も去就をもって争わないので、天の応報がそれに従い、毫髪も違わないのです。陛下はどうして九卿や臺諫を召し出して面談し得失を議されないのですか。兎を見てから犬を顧みるのも、まだ遅くはありません。もし必ずや趙誌臯を専任し、堂上に安んじて互いに安穏としているならば、小さいことでは政事を壊し士類を辱しめ、大きいことでは民怨を叢生させて天の怒りを増すことになります。天下の大計を、どうしてこのような匪人(道理に外れた者)に担当させることができましょうか。これは関白ら諸酋に聞かせてはなりません。

帝は上疏を得て、非常に憤慨し、罪に処そうとした。ちょうど宮殿の災害に遭ったばかりであったため、宮中に留めて回答しなかった。

その後、編修に任じられた。二年在職した後、京察があった。浮躁の罪に坐し、外任に転じさせられ、そこで帰郷した。翌年死去した。故事では、翰林と政府は声気を通じ合うものであった。劉綱が直ちに趙誌臯の短所を攻撃したため、趙は彼を恨んでやまず、京察の制度を利用して陥れたのである。明代において、庶吉士が専ら上疏して建言した者は、前には鄒智のみ、後には劉之綸と劉綱がおり、いずれも四川人であった。

戴士衡は、字を章尹といい、莆田の人である。万暦十七年の進士。新建知県に任じられ、吏科給事中に抜擢された。薊州総兵官の王保が南兵を濫殺したことについて、士衡はその罪を極論した。その後、言官の補充を急ぐよう請い、石星の誤国という五つの大罪を弾劾した。山東税使の陳増が便宜を許されて将吏を挙刺することを請い、淮・揚の魯保もまた有司を節制することを請うたが、士衡は強く争った。仁聖太后の梓宮が発引する際、帝が自ら送らなかったので、士衡は言った。「母子の至情、死者を送る大事において、どうして内庭の数歩の地で、一足を労するのを惜しむことがありましょうか。今、山陵の事が完了しました。願わくは陛下が杖を支えて出て神主を迎えられ、少しでも聖母の霊を慰め、臣民の望みに答えられますように。」錦衣千戸の鄭一麟が昌平の銀鉱開発を奏上した。士衡はその地が天寿山に近いとして、抗疏して争った。いずれも回答がなかった。

二十五年正月、天下の大計を極力陳述し、言った。「方今、事勢において知り得ないものが三つある。天意、人心、気運である。大いに慮るべきものが五つある。紀綱の廃弛、戎狄の侵陵、根本の動揺、武備の疏略、府蔵の殫竭である。その切要にして早急に正すべきものが一つある。それは君心である。陛下は九重の高きに拱し、目には師保の顔を見ず、耳には丞弼の議論を聞かず、美しいものが目前にあり、安逸に耽って自ら楽しんでおられる。たとえ聰明を尽くして社稷の安泰を計ろうとしても、その道はありません。誠に時々便殿に臨み、執政大臣を召して教化の道理を講求されるべきです。そうすれば心は清く欲は少なくなり、政事は自ずから修まるでしょう。」これも回答がなかった。

日本封事敗れ、再び星及び沈惟敬・楊方亨を劾し、且つ防倭八事を上列す。多く議行せらる。俄かに南京工部尚書葉夢熊・刑部侍郎呂坤・薊遼総督孫幰及び通政参議李宜春を劾す。時に幰は已に罷免せられ、宜春は自ら引退し、坤も亦直諫を以て去る。給事中劉道亨は坤を右し、力めて士衡を詆し、其の大学士張位の指を受くると謂ふ。士衡も亦道亨を劾し、星と同郷なるを以て、星の為に報復すとす。帝は言官の互いに争ふを以て、皆報寢せしむ。尋ひに文選郎中白所知を劾罷す。帝は吏部郎を悪み、貶黜せらるる者二十二人、因りて吏科の朋比を詰責す。都給事中劉為楫・楊廷蘭・張正學・林応元及び士衡俱に罪を引く。詔して為楫を一秩貶し、廷蘭等と並びに外に調す。士衡は蘄州判官を得。未だ幾ばず、詔して遠方に改むるを以て、乃ち陜西塩課副提挙を授く。未だ赴かず、会に《憂危竑議》起こり、竟に坐して遣戍せらる。

先づ、士衡は再び坤を劾し、潜かに《閨範図説》を進め、宮闈に結納すと謂ひ、因りて冊立・冠婚諸礼を挙行せんことを請ふ。帝悦ばず。此に至りて《閨範》の後に跋する者有り、名づけて《憂危竑議》と曰ひ、坤と貴妃の従父鄭承恩・戸部侍郎張養蒙・山西巡撫魏允貞・吏科給事中程紹・吏部員外郎鄧光祚及び道亨・所知等の同盟結納し、貴妃の子を羽翼すと誣ふ。承恩大いに懼る。坤・道亨・所知の故に士衡と隙有るを以て、而して全椒知県樊玉衡方に上疏して国本を言ひ、貴妃を指斥す。遂に妄りに士衡の実に之を為し、玉衡其の謀に与ると指す。帝震怒し、貴妃復た泣訴已まず、夜半に旨を伝へ詔獄に逮し拷訊す。比明して、命して永く士衡を廉州に、玉衡を雷州に戍らしむ。御史趙之翰復た言ふ、「是の書は一人に出ずるに非ず、主謀する者は張位、奉行する者は士衡、同謀する者は右都御史徐作・礼部侍郎劉楚先・国子祭酒劉応秋・故給事中楊廷蘭・礼部主事万建昆なり。諸臣皆位の心腹爪牙、宜しく並びに斥くべし」と。帝其の言を入れ、之を部院に下す。時に位は已に落職閑住し、署事侍郎裴応章・副都御史郭惟賢力めて作等を解す。聴かず。楚先・作の官を奪ひ、応秋を外に出し、廷蘭・建昆を辺方に謫し、応章等復た論救す。帝悦ばず、位を斥けて民と為す。

士衡等再び赦を経るも、皆原せられず。四十五年、士衡は戍所に卒す。巡按御史田生金其の戍籍を脱し、玉衡を釈して生還せしめんことを請ふ。帝許さず。天啓中、太僕少卿を贈る。

曹学程、字は希明、全州の人。万暦十一年進士。歴て石首・海寧を知る。治行最も優れ、御史に擢る。帝将に朝鮮を援けんと命ず。已にして兵部尚書石星沈惟敬の言を聴き、力めて封貢を請ふ。乃ち李宗城・楊方亨を以て正副使と為し、往きて冊封の礼を行はしむ。未だ日本に至らざるに、而して惟敬の言漸く售らず、宗城先づ逃げ帰る。帝復た星の言に惑ひ、給事中一人を遣はして使を充し、因りて情実を察視せんと欲す。学程疏を抗して言ふ、「邇者封事大いに壊れ、而して方亨の掲は、封事緒有りと謂ふ。星・方亨表裏応和し、倚信に足らず。今日の計と為すは、科臣を遣はして往きて勘するは則ち可なり、往きて封するは則ち不可なり。石星は很々自用し、趙誌臯は碌々依違す。東事の潰裂、元輔・枢臣俱に其の責を辞すべからず」と。初め、朝鮮甫に陥ち、御史郭実経略宋応昌の任に足らざるを論じ、並びに七不可を陳ぶ。帝実の沮撓を以てし、懐仁典史に謫す。後已に刑部主事に遷る。会に封貢の議既に罷まり、而して朝鮮復た之を懇請す。帝乃ち前に議を主とせる者を怒り、実を以て首と為し、斥けて民と為す。並びに石星に勅し、尽く異議者の名を録し、将に大いに譴責せんとす。誌臯等力めて解し乃ち已む。及び使を遣はして要領を得ず、因りて別に遣はさんと欲し、已にして之を罷め、即ち方亨を以て正使と為す。而して学程方に畿輔の屯田を督め、知らず。疏入り、帝大いに怒り、暗に関節を囑する有りと謂ひ、錦衣衛に逮し下し厳しく訊く。榜掠して得る所無く、刑部に移して罪を定む。尚書蕭大亨宥さんことを請ふ。帝許さず、命して逆臣失節の罪に坐して斬らしむ。刑科給事中侯廷佩等其の冤を訟ふ。誌臯及び陳於陛・沈一貫言尤も切なり。皆納れず。是より救ふ者絶えず、多く其の母の年九十余、子を哭きて斃るるを待つと言ふ。帝終に聴かず、数たび赦に遇ふも亦原せず。

其の子正儒、朝夕犴狴を離れず。父の憔悴骨立するを見、血を嘔きて地に仆れ、久しくして乃ち蘇る。因りて血を刺して奏し、父に代はりて死なんことを乞ふ。終に省みず。三十四年九月、始めて朱賡の言を用ひ、湖広寧遠衛に謫戍す。久しくして放帰し、卒す。天啓初、太僕少卿を贈る。崇禎時、正儒を旌して孝子と為す。

郭実、字は伯華、高邑の人。万暦十一年進士。朝邑知県を授かり、選ばれて御史を授く。御史王麟趾湖広巡撫秦耀の政府に結ぶ状を劾し、徐溝丞に謫す。実復た耀を劾し、耀乃ち罷まる。比に任を去り、贓贖銀巨万を侵し、衡州同知沈鈇の発する所と為り、吏に下し辺に戍らしむ。故事、撫按の贓贖は率ひ州県に貯へ公費と為す。耀及び都御史李采菲・御史沈汝梁・祝大舟より咸に自潤を以て敗る。是より率ひ其の籍を預め滅し、稽ふる可き無し。実は朝鮮の事を論じて黜せらる。久しくして封貢成らず、星吏に下る。給事中侯廷佩実の官を還さんことを請ふ。許さず。家に居ること十五年、起ちて南京刑部主事と為り、終に大理右寺丞と為る。

翁憲祥は、字を兆隆といい、常熟の人である。万暦二十年の進士となり、鄞県知県に任じられた。考課が最上となり、召されて礼科給事中となった。憂(父母の喪)により去職し、後に吏科に補され、銓政(官吏任用の政務)について五事を上疏して陳述した。その一つは掣簽法(くじ引き任用)を論じ、「もしすべてを無心(作為なし)に委ねるならば、天官(吏部尚書)の職務は一吏でも代行できる。もしそうでないならば、地本(地元の官職)はあらかじめ擬定されているのであり、どうして大廷(朝廷)の中でごまかしの術を行う必要があろうか。速やかに停止されるよう請う」と言った。当時は採用されなかった。故事(先例)によれば、正郎(尚書・侍郎)は使節として派遣されず、巡撫・按察使は必ず後任を待って交代するものであったが、この頃は多くこれに反していた。江西巡撫の許弘綱は父の喪で直接帰郷し、広西巡撫の楊芳もまた憂(喪)を理由に後任を待たずに免じられることを請うたので、憲祥は極言して制度に非ざるとした。弘綱は官を貶され、芳もまた責めを受けた。上言する者が朱賡・李廷機を誹謗するとすぐに譴責を受けたので、憲祥は上疏して論じた。その後、雲南巡撫の陳用賓・両広総督の戴耀を弾劾したが、いずれも返答がなかった。この時、高官の多くが欠員となっていた。侍郎の楊時喬・楊道賓が十日ほどの間に相次いで死去し、吏部・礼部の尚書・侍郎は遂に一人もいなくなった。兵部には尚書が一人いるのみで、病を養って出仕しなかった。戸部・刑部・工部および都察院の堂上官(長官)は、いずれも人言(批判)のために註籍(出仕停止)していた。通政司・大理寺にも現任の官がいなかった。憲祥は九卿がすべて空位であるのは、国体を甚だしく傷つけると言い、欠員を補い、遺佚(隠れた人材)を起用するなど数事を陳述したが、聞き入れられたのみであった。たびたび転任して刑科都給事中となった。吏部尚書の孫丕揚・副都御史の許弘綱が考察(官吏考査)をめぐって言路(諫言の徒)に攻撃され、辞任を求めた。憲祥は言った、「一時の賢者が、直道を容れられず、相率いて退避する。国事がこのようでは、寒心に堪えない」。やがて軍政拾遺(軍政の欠点指摘)の上疏が、錦衣都督の王之楨に阻まれて長く下されず、罪人の陳用賓らはすでに死刑と決まったが、上疏もまた留中(宮中に留め置き)となった。憲祥はいずれも抗章して論駁した。知県の満朝薦・李嗣善、同知の王邦才が、税使に逆らって獄に繋がれたので、彼らを釈放するよう請うた。冬至に囚人の処刑が停止されるのに合わせ、さらに緩刑の徳意を推し広め、罪臣を赦し、楚の獄(湖広の事件)を哀れむよう請うたが、帝はいずれも返答しなかった。まもなく吏科に転じた。四十一年、輔臣の葉向高に会試を主宰させ、給事中の曾六徳が被察官(考査された官)を論救したことで貶官に坐したが、その旨はいずれも内廷(皇帝側近)から出された。憲祥は力諫した。宦官の黄勛・趙祿・李朝用・胡濱らの不法についても、連続して上疏して弾劾した。長くして太常少卿に抜擢された。数年後に卒した。

徐大相は、字を覚斯といい、江西安義の人である。万暦四十四年の進士となり、東昌推官に任じられた。武学教授に改められ、やがて国子博士に遷った。四十七年九月朔日(一日)、百官が早朝に出仕しようとした時、司礼監の宦官盧受が免除を伝えた。衆人が急いで退出すると、受は後から嘲り侮った。大相は憤慨し、帰って二通の上疏を草した。一つは遼左(遼東)の事を論じ、一つは受の奸邪を論じた。当時、上疏を受け取る者はすなわち盧受であった。彼は遼事の上疏を見て言った、「この小臣が、よくも政事について言うものだ」。帝が第二の上疏を閲覧した時、受を顧みて言った、「これが汝の罪を論じた者である」。受は驚き慌て、叩頭して流血し謝罪し、「奴は死すべきです」と言った。上疏は留中された。この日、南京国子学録の喬拱璧もまた上疏して受を弾劾したが、返答がなかった。翌年、兵部主事に遷った。天啓二年、吏部稽勛主事に転じ、考功司に移った。翌年、験封員外郎に進んだ。進士の薛邦瑞がその祖父の薛蕙のために諡号を請うたので、大相は尚書の張問達と議してその請いの通りにすることを決めた。熹宗はちょうど恤典(追贈・諡号)の冗濫を嫌っており、大相の官位を三階級下げて外任に出そうとした。問達らは罪を認めたが、問責されなかった。大学士の葉向高・都御史の趙南星らが連続して上疏して救ったので、二階級の降格に改められた。大相がまだ命令を待っている時、盧受と徒党を組む数十人の宦官たちが棍棒を持って門前で騒ぎ立てた。大相の袋を探ると、俸給の金七十両しかなかったので、やっと騒然と散っていった。家に居ては門を閉ざして読書し、郷里の人もめったにその面を見ることがなかった。

崇禎元年、元の官に起用された。まもなく考功司に転じ、験封郎中に遷った。考功司・文選司を歴任した。明旨を遵奉すること、滞留を疏通すること、請托を打破すること、官評を粛清すること、選規を正すこと、掌篆(印璽管理)を重んずること、礼譲を尊ぶこと、気節を励ますこと、僥倖を抑えること、吏弊を核実することの十事を奏上して陳述し、帝はすぐにこれを実行するよう命じた。故尚書の孫丕揚ら二十六人が魏忠賢のために官爵を削奪されていたので、大相は彼らの官を復するよう請うたが、帝は許さなかった。やがて廃官の起用について聖旨に逆らい、官位を下げられて職務に当たることとなった。給事中の杜三策が大相は端正廉潔であり、廃官起用は世論に合致するので譴責すべきでないと上言したが、聞き入れられなかった。父の喪で帰郷し、家で卒した。

賛して言う。神宗の中ごろ、徳は荒れ政は廃れた。忠を懐き憤りを発する士は、激昂して抗言して君の過失を匡正するのが当然である。しかし諫言を受け入れるには方法があり、誠意をもって臨むことを務めねばならない。あら探しして上を摩する(なじる)ことは、君子は行わない。それは忠厚の意が薄く、衒沽(売名)の情が勝っているからである。雒於仁・馬経綸の誹謗・譏刺・譙譲(責め咎めること)は、ほとんど同輩でさえ堪えられぬほどであった。聖人は諷諫(遠回しに諫める)を取る。思うに、おそらくこのようではなかったであろう。