明史

列傳第一百二十一 姜應麟 陳登雲 羅大紘 李獻可 孟養浩 朱維京 王如堅 王學曾 張貞觀 樊玉衡 謝廷讚 楊天民 何選

○姜應麟(從子思睿)陳登雲羅大紘(黃正賓)李獻可(舒弘緒陳尚象丁懋遜吳之佳葉初春楊其休董嗣成賈名儒張棟)孟養浩朱維京王如堅王學曾(涂傑)張貞觀樊玉衡(子鼎遇維城孫自一)謝廷讚(兄廷諒)楊天民何選(馮生虞任彥蘗)

姜應麟、字は泰符、慈谿の人。父は國華、嘉靖年間の進士。陝西參議を歴任し、廉潔の名があった。應麟は萬暦十一年に進士に挙げられ、庶吉士に改められ、戸科給事中に授けられた。貴妃鄭氏は殊寵を受け、子の常洵を生み、詔して皇貴妃に進封された。しかし王恭妃が皇長子を育てて既に五歳になるも、何ら加封されなかった。朝廷内外で噂が立ち、帝が寵愛する子を立てようとしているのではないかと疑われた。十四年二月、應麟が真っ先に抗疏して言うには、「礼は嫌疑を別つことを貴び、事は始めを慎むべきである。貴妃の生んだ陛下の第三子がなお中宮に次ぐ位にあり、恭妃が元嗣を生み育てたのに却って下位に置かれる。これを倫理に照らせば順ならず、人心に質せば安からず、天下万世に伝えれば正しからず、儲貳を重んじ、衆志を定める所以ではない。伏して輿情を察し、成命を収還せられたい。もしや情に已むを得ざるものあらば、まず恭妃を皇貴妃に封じ、その後鄭妃に及ぶことを請う。そうすれば礼も既に違わず、情もまた廃されない。しかし臣の議するは末であり、その本には及ばない。陛下が誠に名を正し分を定め、嫌疑を別ち微を明らかにせんと欲せば、閣臣の請いに俯従し、元嗣を冊立して東宮となし、以て天下の本を定めるに如くはない。そうすれば臣民の望みは慰められ、宗社の慶びは長く続くであろう」。疏が入ると、帝は震怒し、地に投げつけ、大璫をことごとく召して諭して言うには、「貴妃を冊封するのは、初めから東宮のためではなかった。科臣はどうして朕を誹謗するのか」。手で机を二度打った。諸璫が環跪して叩頭し、怒りはやや解けた。そこで旨を降して言うには、「貴妃は敬んで勤労に奉じたので、特に殊封を加える。立儲は自ら長幼の序がある。姜應麟は君を疑い直を売る。極辺の雑職に降とせよ」。こうして大同広昌典史となった。吏部員外郎の沈璟、刑部主事の孫如法が続いてこれを言い、ともに罪を得た。両京から救済を申し立てる者が数十上疏したが、皆省みられなかった。以後、言う者が蜂起し、皆「立儲は自ら長幼の序がある」との旨を執り、以て帝に信を責めた。帝は厭い苦しんだが、ついに奪うことができなかった。

應麟は広昌に四年居て、量移されて余幹知県となった。父の憂いに遭い帰郷した。服喪が終わり、京に至ると、吏部がたびたび建言諸臣を推挙して重譴を得たので、應麟は遂に補職されなかった。家に居ること二十年。光宗が立つと、太僕少卿に起用された。給事中薛鳳翔が應麟が老病で儀を失うと弾劾したので、遂に疾を引いて去った。崇禎三年に卒し、太常卿を贈られた。

從子の思睿、字は顓愚。幼くして孤となり、母に仕えて孝であった。天啓二年に進士に挙げられ、行人に授けられた。崇禎三年に御史に抜擢された。翌年春、天下の五大弊を陳べた。曰く、加派が民を病む、郵伝が過剰に削られる、搜剔がますます精しくなり頭緒がますます乱れる、懲毖がますます甚だしくなり頽廃がますます多くなる、督責がますます急になり蒙蔽がますます深くなる。旨に忤い、切責された。その冬、宦官を遣わして辺務を監視させると、抗疏して切諫した。その後、首輔周延儒が家人の周文郁を副将とし、弟の素儒を錦衣とし、叔父の人瑞を中書とし、賄を受け私を行ったと弾劾し、罷斥を請うた。その後、給事中魏呈潤、御史李曰輔、王績燦を論救した。雲南を巡按した。陛辞に際し、諸弊政を歴指し、言うには、「挙朝の焚を拯い溺を救う精神を、専ら細微を摘抉するのに用い、吏を察し戎を詰め予奪の大柄を僅か二三の閹寺に付す。火を厝いて自ら安んじ、変計を知らず、天下はどうして太平を望めようか」。旨に忤い、切責された。還朝し、帝が二部総理諸鎮監視の内臣を撤還した時であった。思睿は併せて京営・関・寧を監視する者も撤すよう請うた。そこで向来の秉政大臣が阿承将順した罪を詆り、その意は温體仁を指していた。體仁の二子の儼と伉がたびたび提学僉事の黎元寬に請囑した。ちょうど元寬が文体が険怪であるとして論黜されたので、遂にその二子の私書を発した。思睿は體仁が子を放って奸を行わせたと弾劾し、元寬の掲を根拠とした。體仁は掲は元寬の手に出ず、思睿らが群謀して排陥したと言った。元寬が上疏して証明し、思睿は再び體仁を弾劾し、「群謀」の二字で人を陥れる阱とし、ただ子を知るのみで君を知らないとした。帝は怒り、俸を五ヶ月奪った。出て河東塩政を視察した。安邑に故都御史曹於汴の講学書院があり、思睿は田を置き学舎を構え、公務の余りに親しく臨んで講授した。代わって還り、乞仮して郷里に帰った。まもなく卒した。

陳登雲、字は従龍、唐山の人。萬暦五年の進士。鄢陵知県に除された。政績が最も優れ、召されて御史に授けられた。出て遼東を按察し、安攘十策を疏陳し、また首功の賞を速やかに行うよう請うた。改めて山西を巡視した。還朝すると、ちょうど廷臣が建儲を争っていた。登雲は議が早く決しないのは、貴妃の家が陰に沮むからだと言った。十六年六月、遂に災異に因って抗疏し、妃の父の鄭承憲を弾劾し、言うには、「承憲は禍を懐き奸を蔵し、儲貳を窺覬す。日に貂璫と往来し、杯酌を綢繆し、かつ広く山人・術士・緇黄の流れを結ぶ。かつて陛下が科場の冒籍を重く懲らした時、承憲の妻はしばしば事は己の発したところによるのだと揚言し、以て勛貴を恐喝し、朝紳を簧鼓した。恵安がその虐焰に遭うのみならず、中宮と太后の家も謹んでその鋒を避けている。陛下が国を享けること久長なのは、自ら敬徳によるのであるが、承憲は毎に対人して言い、東宮を立てない効果だとする。盛典を幹撓し、隠邪の謀を蓄え、他日どこに至らぬことがあろうか。もし乾剛を震奮し、大義を以て断たずんば、日に殿を避け楽を撤き、素服して刑を停めても、恐らく天心は未だ易く格し難く、天変は未だ弭ぎ可からざるであろう」。疏が入ると、貴妃・承憲は皆怒り、同列も登雲の危うさを心配したが、帝は竟に中に留めて下さなかった。

久しくして、吏部尚書陸光祖を論じ、また四川提学副使馮時可の貶謫を論じ、応天巡撫李淶、順天巡撫王致祥の罷免を論じ、また礼部侍郎韓世能、尚書羅萬化、南京太僕卿徐用檢を論じた。朝右は皆これを憚った。時にちょうど科道の考選が行われ、登雲は因って疏を上して言うには、「近年の言官は、壬午以前は威に怵して剛を摧いて柔となし、壬午以後は情に昵して直を化して佞となす。その間に剛直の人無きにあらずや、しかれども齟齬に勝たず、多くはその身を安んずることができない。二十年來、剛直をもって京卿に擢げられた者は、百に一二に止まる。公に背き党を植え、嗜を逐い憐を乞う、いわゆる『七豺』『八狗』の如き者は、言路がその半を占める。臺諫は天下のために是非を持するものであるのに、人をして賤辱ここに至らしめる。どうしてその顔を抗して直に縄し、国家のために大奸を鋤き巨蠹を殲せんことを望めようか。誤用してこれを斥くよりは、始めの進用を慎むに如くはない」。因って数事を条陳して献じた。

出て河南を按察した。歳は大いに饑え、人相食む。副使崔應麟が民が沢中の雁の糞を啖うのを見て、嚢に入れて登雲に示すと、登雲は即座にこれを朝廷に進めた。帝は直ちに寺丞鐘化民を遣わし、帑金を齎してこれを賑済させた。登雲は巡方すること三度、風裁は峻厲であった。久しく在任して京卿に擢げられるべきところ、累ねて寝かせて下さず、遂に疾を移して帰った。まもなく卒した。

羅大纮、字は公廓、吉水の人。万暦十四年の進士。行人に授けられる。十九年八月、礼科給事中に遷る。拝命するや、ただちに『定制書』数千言を上奏する。既にして、また朝見は勤めるべきと述べ、言葉はすべて切直であった。先に二十年春に東宮を冊立する詔があったが、ここに至り工部主事張有德が儀物の準備を請うた。帝は怒り、俸禄を三月奪うことを命じ、さらに冊立の事を延期させた。尚書曾同亨が以前の詔の通りに請うたが、旨に逆らい、厳しく譴責された。大纮がまたこれについて上言すると、詔により張有德と同様に俸禄を奪われた。大学士許国・王家屏が閣臣の名を連署し、新たな命令を撤回し、諸臣の請願を容れるよう乞うたので、帝はますます怒った。首輔申時行がちょうど休暇中であったが、帝の怒りを聞き、密かに上奏して「臣は公の上疏に列名したが、実は知らなかった」と言った。帝は喜び、手詔で褒めて答え、その上奏と詔書をともに礼科に発した。故事では、閣臣の密奏は科に発することはなかった。時行は慚愧し恐れ、急いで礼科都給事中胡汝寧と謀り、使者を遣わして上奏文を取り戻した。当時、ただ大纮だけが科を守っており、使者が欺いて取り上げた。後に索めに行くと、時行は留めて発しなかった。大纮はそこで抗疏して言うには、「臣は職を奉じて功績なく、謹んで稿を敷いて待つばかりである。ただ思うに、時行は国の厚恩を受けながら、内外に二心を抱き、奸を蔵し禍を蓄え、国を誤り友を売り、その罪はどうして言い尽くせようか。時行は身は休暇中であっても、翰林の遷改の奏にはすべて厳然としてその名を首列しているのに、どうして建儲の一事だけをこのように深く避けるのか。たとえ陛下が赫然として震怒し、許国らに不測の威を加えられても、時行もまた過ちを分かち合うべきである。まして陛下はまだ怒っておられないのに、叡聡を沮塞し、国本を揺るがし、ひたすら自ら憐れみを乞う術を献じて、主上の悔悟の芽を遏止するとは、これこそ臣の大いに恨むところである。仮に許国らの請願が容れられ、慶典を行い恩沢が加えられることになれば、時行もそれを辞するだろうか。その私心は陛下に何か牽制されるものがあると妄りに思い込んでいるので、陽には廷臣の立太子を請う議論に附きながら、陰にその事を緩めて、自ら宮掖に交わる謀り事としているのである。請願して得られれば、明らかに羽翼の功に居り、得られなければ、別に集菀の計を立てる。この術を操って一世を愚弄すること久しく、今日になって発露するとは思わなかった。」疏が入ると、帝は震怒し、辺境の雑職に貶すことを命じた。まもなく六科の鐘羽正らが論じて救ったため、民に斥けられ、羽正らは俸禄を奪われた。中書舎人黄正賓がまた抗疏して力を尽くして時行を誹謗した。帝は怒り、獄に下して拷問し、民に斥けた。時行もまた安んぜず、まもなくついに引退した。大纮の志操行いは高く卓抜していた。郷人は彼を先達の羅倫・羅洪先と並べて、「三羅」と称した。天啓年間、光禄少卿を追贈された。

正賓は、歙県の人。財産をもって舎人となり、武英殿に直った。財産によって官に入ることを恥じ、奇節を立てようと思い、ここに至って清議に推されることとなった。後に李三才・顧憲成とともに交遊し、ますます士大夫の間で名声があった。熹宗が立つと、元の官に起用される。再び尚宝少卿に遷り、病を理由に帰郷した。魏忠賢が汪文言を獄に下し、供述が正賓に連座した。千金の贓罪に坐し、大同に遣戍された。荘烈帝が嗣位すると、官に復し、致仕した。崇禎元年六月、魏忠賢の党の徐大化・楊維垣はすでに罷官していたが、なお輦下に潜居し、宦官と交通していた。正賓は都にいて、抗疏してその奸を発した。二人を帰郷させ、都人は快とした。しかし上疏に「潜かに宦寺に通ず」との言葉があり、帝は名を指すよう命じた。正賓は趙倫・於化龍と答えた。帝はその妄りであるとして、原籍に斥け戻した。

李献可、字は堯俞、同安の人。万暦十一年の進士。武昌推官に除される。考課が最上であり、召されて戸科給事中に授けられる。累進して礼科都給事中となる。二十年正月、六科の諸臣とともに上疏して教を請い、言うには、「元子は年十一歳である。豫教の典は初春に及んで挙行すべきである。もし内廷で十分に誦読でき、近侍もまた輔導に堪えるというならば、禁闥の幽閑は外朝の清粛のようにはいかず、内臣の忠敬は師保の尊厳のようにはいかない。」疏が入ると、帝は大怒し、疏中の弘治の年号の誤記を摘まれて、詔旨に違背し君を侮ったと責め、一階級貶して外任とし、その他は半年の俸禄を奪った。大学士王家屏が御批を封還したので、帝はますます不悦となった。吏科都給事中鐘羽正が言うには、「献可の上疏は、臣が実に賛成したものであり、ともに貶謫されることを請う。」吏科給事中舒弘緒もまた「言官は罪に処せられてもよいが、豫教は必ず行われなければならない」と言った。帝はますます怒り、弘緒を南京に出し、羽正と献可はともに雑職として辺境に徙らせた。大学士趙志臯が論じて救ったが、詔旨により譴責された。吏科右給事中陳尚象がまた争ったため、民に斥けられる罪に坐した。戸科左給事中孟養浩、御史鄒徳泳、戸兵刑工四科都給事中丁懋遜・張棟・吳之佳・楊其休、礼科左給事中葉初春がそれぞれ上疏して救った。帝はますます怒り、養浩を廷杖百に処し、その名を除いた。徳泳・懋遜ら六人はともに一階級貶し、外任に出した。献可・羽正・弘緒もまた名を除かれた。

この時、帝は一怒して諫官十一人を斥け、朝士は驚き嘆かない者はなかったが、諫める者は結局やまなかった。礼部員外郎董嗣成・御史賈名儒が特に上疏して争い、御史陳禹謨・吏科左給事中李周策もまたその同僚とともに論諫した。帝の怒りはさらに甚だしく、嗣成の職を奪い、名儒を辺境に貶し、徳泳・懋遜らはすべて官籍を削られ、禹謨らは俸禄を停められたこと等差があった。礼部尚書李長春らもまた上疏して諫めたので、帝はまた詰責した。献可らはついに家に廃された。久しくして、吏部尚書蔡国珍・侍郎楊時喬が先後して叙用を請うたが、すべて取り上げられなかった。

天啓初年、先朝の言事した諸臣を記録した。献可はすでに以前に卒していた。詔して光禄卿を追贈した。

弘緒・名儒はともに献可の同年の進士である。尚象・懋遜・之佳・初春・其休・嗣成はすべて万暦八年の進士である。弘緒は、通山の人。庶吉士より改めて給事中となる。天啓年間、光禄少卿を追贈された。

尚象は、都勻の人。中書舎人より給事中となる。かつて尚書沈鯉を弾劾して罷免させ、士論に非難された。ここに至り直言によって去ったので、国人は初めて称えた。天啓年間、弘緒と同様に官を追贈された。

懋遜は、沾化の人。余姚知県となり、治績があり、召されて吏科給事中となる。官籍を削られた後、郷里に居ること三十年。光宗が立つと、太僕少卿に起用され、累進して工部左侍郎となる。卒し、尚書を追贈された。

之佳は、長洲の人。初め襄陽知県となる。初春は、呉県の人。初め順徳知県となる。ともに治行によって召される。ここに至り張棟とともに斥けられ、「呉中の三諫」と称された。天啓初年、之佳に太僕少卿を、初春に光禄少卿を追贈した。之佳の孫の適もまた兵科給事中である。敢言であった。

其休は、青城の人。蘇州推官より抜擢されて吏科給事中となる。内官張德が人を毆殺した。帝は司礼監に按問させ、その下の者に罪を蔽わせた。其休は張德をも法司に付すよう乞い、ついに許された。帝はたびたび朝見しなかった。十七年正月、其休は万邦が入覲することを理由に、臨禦して諸臣を風励するよう請うた。その他の論奏も多くあった。罷免されて帰郷し、卒し、太常少卿を追贈された。

嗣成は、烏程の人。祖父の份は礼部尚書。父の道醇は南京給事中。代々貴顕である。嗣成は気節をもって著しく、士論は多くこれを称えた。名儒は、真定の人。初春と同様に官を追贈された。

棟は字を伯任といい、昆山の人である。万暦五年に進士となり、新建知県に任ぜられた。召されて工科給事中に授けられた。天下の滞納租税をことごとく免除するよう請うたが、阻まれて行われなかった。当時、租税免除の例は、相沿って存留分のみを免除し、起運分には及ばなかった。棟は故事に拘泥しないよう請うたので、帝はこれに従った。再び転じて刑科左給事中となった。呉中の白糧が民の負担となり、民が役を承けるとたちまち家を破るので、棟は資を出して漕運の舟に便乗させるよう請うた。申時行・王錫爵がその議を退けたので、棟は病を理由に移って帰郷した。起用されて兵科都給事中となった。南京戸部尚書張西銘・刑部侍郎詹仰庇を弾劾して去らせた。軍政拾遺において、恭順侯呉継爵・宣城伯衛国本・忻城伯趙泰修・宣府総兵官李迎恩を弾劾した。継爵は留任し、その他は皆罷免された。やがて、辺境の臣下の功績を叙する際に内閣・部・科に及ぶべきでないと上言し、帝もこれに従った。固原の辺備を視察するため派遣された。当時、経略鄭洛がちょうど和議を論じており、棟は撦力克が頑なに帰還せず、卜失兔は相変わらず狡猾であり、火落赤・真相が海上に雄拠しているので、洛に責任を委ねて去らせるべきでないと上言した。ついで兵部尚書王一鶚を論じた。ちょうど一鶚がすでに死去し、洛もまた撦力克が東帰したと報告したので、その上奏は取りやめとなった。棟はさらに言う、「洮州・河州の失策に対し、陛下は激しく怒られた。洛に軍務を視察させたのは、ただ敵に媚びる虚辞をもって、順義王の東帰という一事を成し遂げるためだけではあるまい。今、火落赤・真相は海を根城とし、自由に出没している。将吏の功績を叙すべきではない」。報告は聞き入れられた。母が死去すると、棟はすでに六十歳であったが、憔悴して墓傍に廬を結び、ついに墓所で死去した。天啓年間に太常少卿を追贈された。

德泳は祭酒守益の孫である。養浩・羽正はそれぞれ伝がある。

孟養浩は字を義甫といい、湖広咸寧の人である。万暦十一年に進士となり、行人に授けられた。抜擢されて戸科給事中となり、左給事中に遷った。帝が李献可を厳しく譴責したので、養浩は上疏して諫めて言う、「人臣たる者、たとえ狂悖の極みにあっても、敢えて君を侮る者はない。陛下はまさか本当に彼が侮ったとして罪に処されるのか。献可はようやく礼垣に登ったばかりで、急に重大な典礼を議した。一字の誤りは、本来無心のものであったのに、いきなり顕著な譴責を蒙った。臣の愚見では、五つの不可がある。元子は天下の根本であり、予備教育を請うたのは、実に宗廟社稷のためである。陛下は聞き入れないばかりか、かえって罰せられる。これは座視して元子に学問を失わせ、宗廟社稷を塵芥同然にすることである。不可の一。長幼の順序は定まっており、明旨は厳然としている。天下の臣民はすでに明らかに陛下に他意のないことを理解している。しかし予備教育と冊立とは、本来別事ではない。今日すでに予備教育について逡巡されるなら、来年冊立について動揺されないとどうして言えようか。これは天下の疑念を再び引き起こす。不可の二。父子の恩情は天性に根ざす。予備教育の請いは、元子に有益であることは甚だ明らかである。それなのに陛下がこれを罪せられるのは、慈愛を示す道ではない。不可の三。古に裾を引く・檻を折るの故事があり、中主でもこれを容れることができた。陛下の度量は天地に等しいのに、どうして宗廟社稷の大計に言及すると、かえって震怒してこれを挫かれるのか。天下万世、陛下をどのような君主と言うであろうか。不可の四。献可らが論じたのは、二、三の言官の私言ではなく、実に天下臣民の公言である。今、献可に罪を加えるのは、罪に処する者は一人であっても、実は天下人の心を失うことである。不可の五。どうか陛下には成命をお取り消しになり、速やかに予備教育を行われますよう」。帝は大いに怒り、冊立はすでに来年行うと諭したのに、養浩が君を疑い衆を惑わすのは、まことに憎むべきであると言い、錦衣衛に命じて百回杖打たせ、官籍を削除して民とし、永久に叙用しないとした。内外から推薦があったが、すべて取り上げられなかった。光宗が即位すると、太常少卿に起用された。半年のうちに南京刑部右侍郎にまで遷った。着任しないうちに死去した。

朱維京は字を大可といい、工部尚書衡の子である。万暦五年に進士に挙げられ、大理評事に授けられ、右寺副に進んだ。九年の京察で、汝州同知に左遷され、崇徳知県に改められた。入朝して屯田主事となり、再び遷って光禄丞となった。火落赤が盟約を破ると、経略鄭洛は和議を主張し、督撫魏学曾・葉夢熊は主戦を主張した。維京は洛を召還し、専ら学曾らに委ねて処理させるよう請うた。学曾が寧夏の事で逮捕されると、再び抗疏してこれを救った。

二十一年、三王並封の詔が下ると、維京は真っ先に上疏して言う、「かつて聖諭を奉り、二十一年に冊立することを許されたので、廷臣は皆首を長くして待ち望んでいた。今、突然改めて分封とされた。これは以前の大号の発布が、ただの戯言であったということになり、どうして天下に示せようか。聖諭に『嗣を立てるには嫡を以てする』とあるのは、その通りである。しかし元子がすでに成長しているのに、冊立を少し遅らせて、中宮の正嫡の生誕を待とうとされるなら、祖宗以来、実にこのような制度はない。英宗の冊立は宣徳三年、憲宗の冊立は正統十四年、孝宗の冊立は成化十一年である。年少の時はわずか一、二歳、多くても五、六歳に過ぎない。当時、中宮は正位にありながら嫡嗣は皆空位であり、祖宗は少しも待たれなかった。すなわち陛下の冊立もまた先帝の二年の春であった。近事は遠くない、どうしてこれを取り上げて証とされないのか。かつ聖人は政治を行うに、必ずまず名を正す。今、分封の典は三王を並べて挙行し、冠服・宮室は混然として区別なく、車馬・儀仗は雑然として規律がなく、府僚・庶寀は入り乱れて弁別がない。名が既に正しからず、弊害は実に多い。また仮に中宮に前星が輝けば、元子は退いて藩服に就くのであり、嫡庶の分は定まっている。何の嫌疑があろうか。今、将来を予測して、成命を座して阻むのは、天下を愚弄しようとするものであり、実は天下を戯れものとすることである。人臣は道をもって君に仕え、不可ならば止むべきである。陛下には並封の御意志があっても、なお急に行われず、必ず手詔をもって大学士王錫爵に諮問された。錫爵はたとえ李沆の燭を引いて焚くようなことはできなくとも、李泌のように膝を造って披陳し、聖心を転移させてからやむべきであった。もしそうでないなら、王家屏の高潔な行跡は自ら在る。陛下は輔臣を優礼され、必ずや韓瑗・来済のような辱めはないはずである。どうして一言も発せず、胥吏が命令を受けて行うように、ただ遅れることを恐れるだけなのか。かの楊素・李勣は千古の罪人であるが、その初心において公論があることを知らなかったわけではない。ただ患得患失の心が勝り、ついに自ら持することができなくなったのである」。帝は震怒し、極辺に謫戍することを命じた。錫爵が力救して、民とされるにとどまった。家に居ることわずか二年で死去した。天啓時に太常少卿を追贈された。

王如堅は字を介石といい、安福の人である。万暦十四年に進士となり、懐慶推官に授けられた。入朝して刑科給事中となり、抗疏して三王並封を争い、その概略は次のようであった。

謹んで按ずるに、十四年正月の聖諭に「元子幼小、冊立の事は二、三年を俟って挙行する」とある。これは長子が元子であることを明言されたものである。また十八年正月の詔旨に「朕に嫡子無く、長幼自ら定序有り」とある。これは倫序の変えられないことを明示されたものである。やがて十九年八月、旨を奉じて「冊立の事は、二十一年に改めて挙行する」とある。これは陛下が群臣の激しい諫言に怒られ、たびたび期日を変更されたが、冊立の事を急に取りやめられたわけではない。ところが今、すでに期日に届いたのに、突然並封して王とし、嫡嗣を待つと伝えられた。臣は初めは疑い、やがて驚愕した。陛下の言葉はまだ耳に残っている、どうして忘れられようか。かつて二、三年で挙行すると言われ、すでに二十年まで遅れ、二十年の挙行もまた二十一年に改められた。今、二十一年が突然並封に改められた。これは陛下の以前の明白な命令すら、ご自身で堅固でなかったということになり、今日の群臣はどこに信を取ればよいのか。

嫡子を立てる条項は、『祖訓』が嫡子を廃する者を戒めたものである。今日、廃すべき嫡子があるであろうか。かつ陛下が正嫡を待たんと欲するは、真に待つ意にあらず。古の王者は後宮に偏愛なく、故に適后多く後嗣あり。後世は愛に専らする所あり、則ち天地の交わり常に泰ならず、後嗣の繁昌を欲するは難し。我が祖宗以来、中宮より誕生する者幾何ぞ。国本は早く定まり、惟だ元子に属す。或いは二三歳にして立て、或いは五六歳にして立つ。即ち陛下が春宮として冊を受けたる時、僅かに六歳なりき。寧ぞ嫡を待つ議と潞王並びに封ずるの詔あらんや。今皇長子は且つ十二歳なり。聞くに皇后は撫育して己が出ずるに間なきと。元子を一日早く定むれば、即ち一日早く中宮の心を慰む。后は素より賢明なり、何ぞ当前の冢嗣を捨てて、幸いを覬う不可知の数をあらんや。宮闈の内、衽席の間、左右近習の輩、形を見て疑いを生じ、必ずしも他意を以て陛下を窺わざるべからず。即ち昨歳の冊立の旨の如き、方に行なうを待つに、而して宗室の中に既に並封の疏あり。安んぞ機事の外泄し、彼の朝廷の浅深を量るを得ざるを知らんや。

夫れ名号を別ち、嫌疑を弁ずるは、礼の善き経なり。元子と衆子、其の間の冠服の制、鹵簿の節、恩寵の数、接見の儀、迥然として斉しからず。一日並びに封じて同号とせば、則ち並び大なるの嫌、長を逼るの患あり。狐疑を執りて来たりて讒賊す、幾微の際、慎まざるべからず。苟も渙命新たに頒つを謂い、遽かに改め難しとせば、則ち数年已に定めたる明旨、尚お移易すべし。今綸言初めて発す、何ぞ中止すべからざらん。

帝、怒り甚だしく、命じて朱維京と皆極辺に戍せしむ。王錫爵、疏を上げて救い、戍を免じて民とす。尋いで卒す。天啓中、光禄少卿を贈られる。

王学曾、字は唯吾、南海の人。万暦五年の進士。醴陵知県に授けられ、崇陽に調ず。抜擢されて南京御史となる。時に吏民罪ある有れば、輒ち官校を遣わして逮捕す。学曾、疏を上げて之を止むるを請う、納れられず。十三年、慈寧宮成る。諸の督工内侍俱に錦衣を蔭す。学曾、其の太だ濫なるを論じ、且つ工部尚書楊兆の宦官に諛諂するを劾す。兆惶恐し、罪を引く。已にして、言う、龍江関は蕪湖に密邇す、蕪湖は已に税を征す、龍江は復た征すべからずと。格して行なわれず。光山の牛、一犢を産むこと麟の若し。有司以て聞かんと欲す。巡撫臧惟一不可とす。帝、礼部に命じて之を征せしむ。尚書沈鯉諫め、惟一も亦疏を上げて論ず、聴かず。学曾抗言す、「麟、牛の腹に生ず、次日即ち斃る。則ち祥なる者は已に不祥なり。不祥の物、所司未だ嘗て上聞せず、陛下何ぞ自ら之を聞く。亦た左右の小人、奇怪を以て聖心を惑わすにあらずや。今四方災旱し、老稚流離し、啼饑号寒の声、陛下聞かず。北敵梟張し、士卒困苦し、呻吟嗟怨の状、陛下聞かず。宗室貧窮し、饔餐給せず、愁困涕洟の態、陛下聞かず。而して独り已に斃れたる麟を聞く。彼の左右たる者、豈に誠に陛下に忠なるや。願わくは成命を収還し、内臣の語邪妄に渉る者は、即ち厳しく之を斥けよ」と。帝、其の名を要し直を沽うを責め、興国判官に降す。時に御史蔡時鼎も亦言を以て罪を得る。南京御史王藩臣・給事中王嗣美等、交章して両人を救う。帝怒り、俸一級を奪う。

学曾累遷して南京刑部主事となり、召されて光禄丞と為る。少卿涂傑と合疏して三王並封を争い、旨に忤い、皆削籍せらる。後数年、吏部尚書蔡国珍、疏を上げて起用を請う、納れられず。家に卒す。傑、新建の人。隆慶五年の進士。龍遊知県より入りて御史と為る。擢官して光禄と為る。熹宗の時、学曾に太僕少卿を、傑に太常少卿を贈る。

張貞観、字は惟誠、はいの人。万暦十一年の進士。益都知県に除され、兵科給事中に擢げらる。出でて山西の辺務を閲す。五台の奸人張守清、亡命三千余人を招き、擅に銀礦を開き、又潞城・新寧の二王と姻を締ぶ。帝、巡按御史の言を納れ、守清に徒党を解散せしめ、二王に姻を絶たしむ。守清、官に課を輸するを乞い、開礦を旧の如くせんとす。貞観力争し、乃ち已む。前巡撫沈子木・李采菲皆貪なり。子木、夤縁して兵部侍郎と為る。貞観並びに追いて之を劾す。子木坐して貶せられ、采菲職を奪わる。還りて、工科右給事中に進む。泗州にて淮水大いに溢れ、幾くんか祖陵を嚙まんとす。貞観往きて視、分黄道淮の策を定む。

再遷して礼科都給事中と為る。三王並封の制下る。貞観、同列を率いて力争す。沈王呈堯、郡王より進封せらる。其の諸弟は止むべく将軍と為るべきに、呈堯の為に営みて郡王を得る。貞観及び礼部尚書羅万化、故事を守りて極諫す。納れられず。時に郊廟の祭享、率ね官を遣わして代行せしむ。貞観力請して帝の親祀せんことを請う。俄かに秋享、復た将に官を遣わさんとす。貞観再び諫め、報いず。明年正月、詔有りて皇長子出閣して講読せしむ。而して兵部は護衛を請い、工部は儀仗を奏し、礼部は儀注を進む。皆留中す。又た止むるに奉先殿に預告し、両宮に朝謁せしむるを令し、他の礼は皆廃す。是に於いて貞観等上言す、「礼官議す、御門にて賀を受け、皇長子群臣に見ゆるの礼、旧儀に載す。即ち諸王の加冠も、亦成礼して賀し、賀畢りて謁見す。元子初めて出づるは、乃ち諸王の一冠に当たらずや。且つ謁謝は両宮に止まり、而して陛下及び中宮母妃の前に缺然たるは、孝を教うる所以に非ず。賀は二皇子に靳み、而して兄弟長幼の間に漠然たるは、別を序する所以に非ず」と。疏入り、旨に忤い、俸一年を奪わる。

工科給事中黎道照上言す、「元子初めて外傅に就く、陛下宜しく之に身教を示すべし。乃ち珠玉珍宝を采辦し、費三十六万有奇に至り、又太僕の銀十万を取って賞に充つ。初めに法を作るの意に非ず。且つ貞観等礼を秉りて直諫するは、職なり。罰治すべからず」と。給事中趙完璧等も亦之を言う。帝怒り、諸臣の俸を奪い、貞観を雑職に謫す。大学士王錫爵等切に救い、乃ち三秩を貶す。頃くのうちに、都給事中許弘綱・御史陳惟芝等連章して申論す。帝竟に貞観の名を除き、言官も亦俸を停む。中外交えて薦ぐ、卒に起たず。天啓中に卒す。太常少卿を贈られる。

樊玉衡、字は以齊、黃岡の人。萬暦十一年の進士。廣信推官より召されて御史に任ぜられる。京察にて、無為判官に貶せられる。やがて全椒知縣に遷る。二十六年四月、玉衡は冊立が久しく滞るを以て、上疏して言う、「陛下は貴妃を愛せられるが、善く処する所以を図るべし。今、天下、冊立の滞るを以て貴妃に過ちを帰せざるはなく、陛下はまた故に依違して、以てその過ちを成す。陛下、将に何を以て貴妃を天下に托せんとするか。元子より観れば則ち慈ならず、貴妃より観れば則ち智ならず、一つとして可なるものなし。願わくは早く大計を定め、冊立・冠婚諸典を次第に行い、天下に元子の安きを以て貴妃の功となさしめ、豈に並びにその福を受け、令名を享けて窮きなからしめんや」と。疏が奏上されると、帝及び貴妃は甚だ怒る。旨は一日に三四度も擬せられ、禍や不測ならんとす。大学士趙誌臯ら力救し、帝即位以来諫臣を殺したことなしと言う。帝は乃ちその疏を焚き、忍んで発せず。再び一月を過ぎて、『憂危竑議』に連座し、遂に永く雷州に戍す。長子の鼎遇、闕に伏して代わるを請うこと再びあり、許されず。光宗立つや、南京刑部主事に起用されるも、老を以て辞す。親賢・遠奸の十事を疏陳し、優詔を以てこれに答う。尋いで太常少卿を以て致仕せしめられ、家に卒す。

子の維城、萬暦四十七年の進士に挙げられる。海鹽知縣に除され、禮部主事に遷る。天啓七年、事に坐して上林苑典簿に貶せられる。莊烈帝即位す、魏忠賢未だ誅せられず、抗疏して言う、「高皇帝の律を定むるに、人臣、大功あるに非ざれば、朦朧として封爵を奏請する者は、所司及び封を受くるの人俱に斬とす。今、魏良卿・良棟・鵬翼、白丁の乳臭児、並びに封爵を叨り、皆当に律に按じて誅すべし。忠賢の積む財は、半ば内帑を盗み、籍して太府に還せば、九辺数歳の餉を裕かにすべし」と。因りて楊漣・萬璟ら一十四人の褒恤を請い、賀逢聖・文震孟・孫必顯ら三十二人を召還し、急ぎ張體乾・許顯純・楊寰らの罪を正す。その月、また言う、「崔呈秀は死すと雖も、棺を剖き屍を戮すべし。『五虎』・『五彪』の徒は、或いは馳驛を賜わり、或いは僅かに郷に還るを令すのみ、何を以て人心を服し、国典を昭かにせん」と。末に吏科の陳爾翼が東林の遺孽を緝めんことを請うた非を斥け、御史方震孺の罪を釈さんことを乞う。帝は並びにこれを採納す。

崇禎元年、戸部主事に遷り、員外郎に進む。泉州知府・福建副使を歴任す。八年、大計にて罷められて帰る。十六年、黃州城南門、五日夜哭く。衆、禍必ず至るを知り、城を傾けて走り、婦女多く行くに及ばず。三月二十四日、張獻忠、黃岡を破る。知縣孫自一・縣丞吳文燮、これに死す。賊、維城を屈せんと欲すも、抗聲大罵し、刃胸を洞して死す。賊は遂に婦女を駆りて城を堕とし、稍々緩やかなれば、輒ちその腕を断ち、血土石の間に淋漓たり。三日にして城平らぎ、復たこれを殺して以て塹に実す。自一は光山の人。

謝廷讃、字は曰可、金谿の人。父の相、郷挙より東安知縣となる。初め、歳饑え、吏、偽りて戸口を増やし振済を冒す。継ぐ者遂に籍に按じて賦を征し、民甚だ困す。相、請うて、戸千三百を減ずるを得る。奸人四人を殺し、その屍を棄つ。獄三年にして決せず。相、神に禱りて、屍の在る所を得、獄遂に成る。廷贊、萬暦二十六年の進士に挙げられる。未だ官を授けられず、即ち極論して礦稅の害を論ず。旋って刑部主事を授かる。先に、詔して二十八年春に冊立・冠婚の礼を行わんとす。将に期に届かんとするに、都御史溫純・禮科給事中楊天民・御史馮應鳳相継いで言うも、報いず。廷贊上疏して閣員当に補うべく、臺省当に選ぶべく、礦稅当に撤すべく、冠婚・冊立当に速やかにすべく、詔令当に信ずべしと言う。疏を持して文華門に跪き、命を候うこと時を逾ゆ。帝震怒し、中官田義を遣わして詰責せしむ。数日を数え、大学士趙誌臯・沈一貫に命じて敕諭を擬せしめ、禮部に儀を具えしむ。比くに諭を擬して進むも、竟に発せず。誌臯・一貫これを促すと、帝乃ち言う、廷贊の位を出でて功を邀うに因り、以て少しく待つと。諸司に示して静かに俟たしむ。遂に廷贊の職を褫して民と為し、並びに尚書蕭大亨、侍郎邵傑・董裕の俸を一歳奪い、郎中徐如珂・員外郎林耀、主事鐘鳴陛・曹文偉を三秩貶し、極辺に調ず。是の歳、冊立の礼行わず、廷贊帰る。維揚に僑寓し、徒を授けて自ら給す。久しくして卒す。天啓中、尚寶卿を贈られる。

兄の廷諒、字は友可。萬暦二十三年の進士。南京刑部主事を授かる。帝、李廷機をして内閣に入らしめ、又王錫爵を召す。廷諒言う、「廷機は才弱くして暗く、錫爵は気高くして揚がり、均しく用うるに宜しからず」と。又曰く、「儲君の立って王と為るは、錫爵に始まり、挙人の考察あるは、廷機に始まり、巡按の久任は、趙世卿に始まり、章疏の留中は、申時行に始まり、年例の挙げられざる、考察の下らざるは、沈一貫に始まる。これ皆、人の国を乱す者なり」と。疏入り、留中す。終に順慶知府となる。

楊天民、字は正甫、山西太平の人。萬暦十七年の進士。朝城知縣に除される。繁なる諸城に調せられ、異政あり、禮科給事中に擢でられる。時に方に国史を纂修す。御史牛應元と共に建文の年号を復すを請い、これに従う。二十七年、狄道山崩れ、下って池と成り、山南に大小五つの山湧く。天民言う、「平地山と成るは、惟だ唐の垂拱の間これ有り、而して唐遂に周に易わる。今、虎狼の使は吞ぜい窮きなく、狗鼠の徒は攘奪厭い難し。市せずして税を征し、礦なくして銀を輸す。甚だしきは廬を毀ち冢を壞し、人の貲産を籍し、法に非ずして刑を行ふ。大吏より守令に至るまで、毎に譴逐せらる。郡邑の不肖なる者は、反って虐を助け歓を交え、潤いに藉りて私橐とす。嗷嗷の衆は、益々帰命する所なく、禍を楽む心を懐き、土崩の勢有り。天心仁愛、亟に譴告を示す。陛下尚覚悟せず、翻然として天下と更始せんとするか」と。報いず。文選郎中梅守峻貪黷にして、将に太常少卿に擢でんとす。天民これを劾して罷む。延綏総兵官趙夢麟、潜かに師をして寇を襲わしめ、大捷を以て聞こゆ。督撫李汶・王見賓ら咸く進秩して蔭を予う。寇乃ち大いに入り、軍民を殺すこと万計、汶ら又妄りに捷を奏す。天民再び疏を以てこれを論じ、見賓の職を奪い、夢麟を辺に戍らしめ、汶も亦譴責を受く。

天民尋いで右給事中に進む。冊立久しく稽り、再び疏を以て請うも、報いず。間もなく、貴妃の弟鄭国泰、皇長子の先ず冠婚後に冊立すべしと疏請す。天民その非を斥く。国泰懼れ、罪を都指揮李承恩に委ね、その俸を奪う。順天・湖廣の郷試の文多く二氏の語を用う。天民、考官楊道賓・顧天飐らの罪を請う。疏留中す。二十九年五月、天民復た同官と偕に上言し、早く国本を定むるを請う。帝大怒し、天民及び王士昌を雑職に貶し、余は俸を一年奪う。士昌も亦禮科の給事中なればなり。時に御史周盤ら公疏を以て請うも、亦俸を奪わる。天民は貴州永従典史を得る。十月に至り、帝、廷議に迫られ、始めて東宮を立て、而して天民ら卒して召されず。天民幽憤して卒す。天啓中、光祿少卿を贈られる。

初め、天民諸城を去るに当たり、民その為に祠を立つ。その後、長吏職を尽くさず、父老率い聚まって祠の下に哭く。

何選、字は靖卿、宛平の人。万暦十一年の進士。南昌知県に任じられ、召されて御史となる。廷臣が国本を争い多く譴責を受ける中、選は鄭貴妃の弟国泰に語り、朝野の公論と鄭氏の禍福を以て貴妃に懇ろに言上し、妃自ら請願させるよう促した。国泰は躊躇したが、選は厳しい顔色でこれを責めて曰く、「若し今のうちに身家を計らざれば、吾儕が群れをなして撃つ、悔ゆるも及ばざるべし」と。国泰は懼れ、乃ち入って妃に告げ、且つ上疏して早く定めることを請い、危疑を解かんとした。帝の意は快からず。後に、これが選の指図によることを知り、深く之を恨んだ。未だ幾ばくもせず、吏部が驗封員外郎鄒元標を文選に転任させることを擬し、上疏して六日下らず、選がこれを言上した。帝は前事を思い出し、湖広布政司照磨に左遷した。稍々遷って南京通政司經歷となる。刑部に員外郎が欠員し、吏部が選を用いんと擬した。帝の恨み未だ解けず、特降の官は推挙すべからずとし、尚書孫丕揚等を厳しく譴責し、文選郎中馮生虞・員外郎馮養誌等を極辺に左遷し、而して選を斥けて民とした。閣臣の言により、稍々生虞・養誌等の罰を寛めた。南京給事中任彦蘗が抗章して論救し、語が閣臣を侵した。帝また怒り、彦蘗を外に左遷し、生虞は仍って雑職を以て辺方に転じた。直ちに言官が論救したため、併せて彦蘗を斥けて民とした。ここに於いて御史許聞造が上言して曰く、「陛下は近年以来、公忠を比周と為し、論諫を激擾と為す。銓衡の賢とする所を屈し、刑官の執る所を撓す。光祿・太僕の帑蔵は、括り取って幾らか空し。中外大小の官は、欠員を補わず。敲撲は宮闈に遍く、桁楊は道路に接す。忠良を論救すれば、則ち愈々其の罪を甚だしくし、貢献を諫止すれば、則ち愈々其の額を増す。奏牘は沈閣して稽べず、奄寺は縱横にして忌憚無し。今一事を摘げんと欲すれば、則ち陛下の其の事を益々甚だしくするを慮り、一人を摘げ救わんと欲すれば、則ち陛下の其の人を益々罪するを慮る。陛下は此れを執りて以て建言の臣を拒み、諸臣は此れに因りて以て進言の路を塞ぐ。近年以来、諸臣の蹇諤の風、昔に比べて大いに沮ぐ」と。報いず。

生虞は大足の人。彦蘗は任城の人。天啓年中、選に光祿少卿を、生虞に太常少卿を追贈した。

贊に曰く、野史に神宗の金合の誓いを載す。都人子の説は、未だ信ずるや否やを知らざるも、然れども恭妃の位久しく鄭氏の下に居り、固より以て天下の疑いを滋す有り。姜応麟等は章を交えて力を爭い、羽翼の功無しと謂う可からず。究むるに鄭氏は褒・の煽る処に非ず、国泰も亦た駟・鈞の悪戾無く、疑いを積みて謗を召し、悪声を被る。詩に曰く、「時に爭う有ること靡く、王心載せて寧し」と。諸臣何ぞ其れ爭うを好むこと甚だしきや。