○蔡時鼎、萬國欽(王教)、饒伸(兄位、劉元震、元霖)、湯顯祖(李琯)、逯中立(盧明諏)、楊恂(冀體、朱爵)、姜士昌(宋燾)、馬孟禎、汪若霖
十八年冬、再び疏を奉って申時行を弾劾し、おおよそ次のように述べた。「近年天災民困し、紀綱は紊斁し、吏治は混淆している。陛下は深く宮闕に居り、臣民の呼籲を聞くことがない。しかし群工が進言しても、なお寛大に許されている。ところが輔臣申時行は則ち黨を樹てて自ら堅くし、言を忌むことますます甚だしい。必ずしもその過失を明指しなくとも、意向が少し左れば、すなわち中傷する。あるいは当時に顕に斥けられ、あるいは後日に徐々に退けられる。天下に諛佞が風となり、正気は消沮するに至った。まさに内には雅量を託し、外には清明を託している。これが聖賢が似たるものを防ぐことを重んじ、徳を乱す戒めを厳しくする所以である。営私の念が重ければ、奉公の意は必ず衰える。巧詐の機が熟すれば、忠誠の節は必ず退く。張居正が物故し、張四維が憂い去って以来、申時行が即ち首輔となった。前の専擅を懲らしめ、謙退を以て矯め、昔の厳苛を鑑み、寛平を以て矯めている。休休の量を示し、和平の福を養わんと欲しないわけではないが、患得患失の心が勝ち、不可ならば則ち止むの義が微かなるに如かない。貌は退讓にして心は貪競、外は包容にして中は忮刻である。私偽が萌生し、蓋いようとすればますます著しい。張居正の禍は私に徇って公を滅ぼすにあったが、しかしその法を執り事に任ずることは、なお国に補うに足りた。今はその美を改革して、その私を紹述し、その天下を維える心を尽く去って、ますますその天下を欺く術を巧みにしている。ただ一身の福を邀えんと思い、国禍を顧みない。このような者が、なお天下の相たらしめえようか」と。ここに因ってその十の失を歴数し、省みて改めるよう勧めた。疏は中留された。まもなく進んで南京禮部郎中となった。官で卒した。貧しくて含殮を具えず、士大夫が賻してその喪を治めた。
萬國欽は、字を二愚といい、新建の人である。萬歷十一年の進士。婺源知縣に授けられた。召されて御史に任ぜられた。事を言うに慷慨として、権貴を避けなかった。十八年、吏部尚書楊巍を弾劾し、詰責された。郷里に居る尚書董份は、大学士申時行・王錫爵の座主であるが、浙江巡按御史に奏請して存問させるよう嘱託した。國欽は、董份が厳嵩に諂事し、また尚書呉鵬の既に字した子女を娶り、郷に居て無状であるから、隆礼を加うるに宜しくないと言い、事は遂に止んだ。
初め、吏部員外郎趙南星・戸部主事姜士昌が疏を奉って政府の私人を排斥した。給事中李春開が出位を以て趙南星・姜士昌を糾弾し、その黨の陳與郊がこれを助けた。刑部主事呉正誌が上疏し、李春開・陳與郊が政府に媚び、清議を幹し、かつ御史林祖述が大臣を保留するのは非であると論じた。ここにおいて御史赫瀛が諸御史を朝堂に集め、合疏して呉正誌を糾弾することを議し、臺體を以て言い訳とした。國欽と周孔教のみが署名しなかった。赫瀛は大いに恚り、盛気で國欽を責めた。國欽は言った「豸冠を戴き、豸服を服する者が、日に大臣を保留して善類を傾けることを事とするなど、私は苟も同ずることができない」。赫瀛は気を奪われ、疏は果たして上されず、呉正誌はついに宜君典史に貶謫された。奄人袁進らが平民を毆殺したので、國欽は再び疏を奉ってこれを弾劾した。
十八年夏、火落赤諸部が頻りに臨洮・鞏昌を侵犯す。七月、帝は皇極門において時行等を召見し、方略を諮り、辺備の廃弛、督撫の調度に乏しきを言ひ、大いに振飭せんと欲す。時行は款貢の恃むに足るを以て言と為す。帝曰く、「款貢も亦恃むに足らざるなり。若し専ら敵に媚びるを務め、其の心を驕らせ意を大ならしむれば、豈に饜足する時有らんや」と。時行等は諭を奉じて退く。未だ幾もならず、警報狎きに至る。乃ち鄭洛を推して経略尚書と為し辺を行はしむ。実に款議を主とせんと用ふるなり。国欽は疏を抗して時行を劾し、曰く、「陛下は西事孔棘を以て、特に輔臣を召して戦守を議せしむるに、輔臣は召対の時に於て乃ち詞を飾りて欺罔す。陛下は賊の侵軛を怒るも、則ち攻抄熟番と為す。臨・鞏果たして番地なるか。陛下は督撫の機を失するを責るも、則ち咎は武臣に在りと為す。封疆事を僨ふるに、督撫果たして与からざるか。陛下は款貢の恃み難きを言ふも、則ち貢を通ずること二十年、生霊百万を活かすと云ふ。西寧の敗、粛州の掠は、独り生霊に非ずや。是れ陛下の意は戦に在るに、時行は必ず戦を欲せず。陛下の意は和を絶つに在るに、時行は必ず和と与せんと欲す。蓋し九辺の将帥、歳に金銭を饋り、漫として成画無きに由る。寇已に城堡を残し、吏民を殺すも、猶ほ計を得たりと謂ふ。三辺総督梅友松は意専ら敵に媚びる。前の奏には順義謝恩して西去せりとす、何ぞ又た我が臨・鞏を囲む。後の疏には戦績を盛に誇る、何ぞ景古城に全軍皆覆せしや。甘粛巡撫李廷儀は賊を関に延き入るるも、奏報を聞かず、反つて贖罪を請ふを代ふ。計るに馬牛布帛三十金に及ばず、而して殺掠何ぞ万計に止まらん。仍て市を通ぜんと欲す、臣は国法に於て如何なるかを知らず。此の三人は皆時行の私党なり、故に敢て奸を朋として国を誤る乃ち爾るなり」と。因りて時行の賄を納るる数事を上す。帝は其の国事を淆乱し、大臣を誣汙すと謂ひ、剣州判官に謫す。初め、国欽の疏上るや、座主許国之を責めて曰く、「若し此の挙、名節の為めか、国家の為めか」と。国欽曰く、「何ぞ敢て名節の為めん、惟だ国事の為めのみ。即ち言当らずと雖も、死生利害之に聴く」と。国は以て難ふる無し。
二十年、吏部尚書陸光祖は量りに国欽を建寧推官に移し、饒伸を刑部主事と為さんと擬す。帝は二人皆特貶なるを以て、遷すに宜しからずとし、光祖を切責し、而して文選郎中王教・員外郎葉隆光・主事唐世堯・陳遴瑋等を尽く罷む。大学士趙誌臯疏を上げて救ふも、亦譙責せらる。国欽後ち南京刑部郎中を歴て、卒す。
王教は淄川の人なり。光祖を佐けて吏治を澄明す。給事中胡汝寧権要の旨を承けて之を劾す。事旋ちに白し。竟に国欽・伸を推挙せるに坐し、民と為さんと斥けらる。
疏既に入る、錫爵・時行並びに門を杜して去らんことを求む。而して許国は会試を典として場に入る。閣中遂に一人も無し。中官章奏を時行の私第に送るも、時行仍封じて還す。帝驚きて曰く、「閣中竟に人無きか」と。乃ち時行等を慰留し、而して伸を詔獄に下す。給事中胡汝寧・御史林祖述等復た伸及び桂を劾し、以て執政に媚ぶ。御史毛在又た孔兼を侵し、桂の疏は其の使ふ所なりと謂ふ。孔兼奏を上げて弁じ罷を求む。於是詔して諸司に厳に所属を約し、位を出でて名を沽ぐこと無からしめ、而して伸の籍を削り、桂を三秩貶し辺方に調し、孔兼は免るるを得。伸既に斥けらる、朝士多錫爵を咎む。錫爵自ら安からず、屡ひ叙用を請ふ。伸を起して南京工部主事と為し、南京吏部に改む。疾を引いて帰り、遂に復た出でず。熹宗即位し、南京光禄寺少卿を起す。天啓四年累官して刑部左侍郎に至る。魏忠賢政を乱す、告を請ひて帰る。輯むる所の『学海』六百余巻、時に其の浩博を称す。
兄位。累官して工部右侍郎に至る。母年百歳、伸と先後して侍養を以て帰る。
先づ是れ、任丘の劉元震・元霖兄弟倶に九列に官し、母年近百歳なるを以て、先後して親を養はんことを乞ひて帰る。伸兄弟と相類す。一時皆以て栄と為す。元震、字は元東、隆慶五年進士。庶吉士より万暦中に歴官して吏部侍郎に至る。天啓中、礼部尚書を贈られ、謚して文莊と曰ふ。元霖、万暦八年進士。歴官して工部尚書に至る。福王洛陽に邸を開き、営建する所有り。元霖執奏して、之を罷む。卒し、太子太保を贈らる。
湯顯祖は意気慷慨で、李化龍、李三才、梅國楨と親善であった。後、彼らは皆顕達して功績を建てたが、湯顯祖は失意のまま貧窮して老いた。李三才が淮上で漕運を督した時、書を遣わして迎えたが、辞して行かなかった。
湯顯祖が建言した翌年、福建僉事の李琯が表を奉じて都に入り、申時行の十の罪を列挙し、言葉は王錫爵を侵した。言うには、王錫爵のみが敢えて恣睢を為すが故に、申時行は益々貪婪で暴戾となり、並びに斥けて天下に謝すべきであると。帝は怒り、その籍を削った。僅か二か月で、申時行も罷免された。李琯は豊城の人。萬暦五年の進士。かつて御史を官とした。既に斥けられて帰り、家に居ること三十年で卒した。
湯顯祖の子開遠は、独自に伝がある。
逯中立、字は與權、聊城の人。萬暦十七年の進士。行人より吏科給事中に抜擢された。事に遇って敢えて言った。行人高攀龍、御史吳弘濟、南部郎の譚一召、孫繼有、安希範は皆、趙用賢の罷免を争って斥けられたが、中立が抗疏して曰く、「諸臣は概ね良き修士であり、田野に跧伏させるのは、誠に惜しいことである。陛下は言者を怒って、『朕の独断による』と言い、輔臣王錫爵もまた『至尊の親裁である』と言う。臣が思うに、斥けられた者が正人でなければ、宸衷より断ずるのは、固より陛下の邪を去る明であり、輔臣より擬するのも、大臣の国の為の正である。もし斥けられた者が果たして正人であれば、輔臣の調旨によるものであれば、有心に斥逐する者は賢を妬む者であり、至尊の親裁によるものであれば、匡救できない者は位を窃む者である。大臣が人を以て君に事える道は、このようであるべきか。陛下は輔臣を安んじようとして、言者を罷めるが、言者が罷められれば、輔臣は益々自ら安んじられないことを知らないのか」と。疏が入り、旨に忤い、俸給を一年停止された。
盧明諏は、黄巖の人。萬暦十四年の進士。
楊恂、字は伯純、代の人。萬暦十一年の進士。行人に授けられ、刑科給事中に抜擢された。錦衣の冗官は二千人にまで多くなり、大いに裁汰するよう請うたが、用いられなかった。累遷して戸科都給事中となった。朝鮮に出兵した際、帑金を冒破して数えきれなかった。楊恂は辺臣を厳しく敕するよう請い、而して武庫郎の劉黄裳の侵耗の罪を劾した。劉黄裳は遂に罷免されて去った。尋いて節財の四議を上奏したが、阻まれて行われなかった。
王錫爵が政務を辞し、趙誌臯が首輔に代わった。御史の柳佐・章守誠が彼を弾劾した。誌臯は罷免を請うたが、許されなかった。御史の冀體が誌臯を去らねばならぬと極論した。帝は怒り、弁明を責めた。體は抗弁して屈せず、三階級降格され、外任に出されたが、弁護する者が多かったため、結局、民に落とされた。恂がまた誌臯を論じ、張位にも及んだ。その要旨は、「今、執政を議する者は、皆、擬旨が不当であり、貪欲で無能であると言う。これは確かに憂うべきことだが、それよりも憂うべきことがある。許茂橓は錦衣衛を罷免され閑職にあったが、多額の金玉を贈って悪事を働き、人に捕えられた。もし大臣の清廉な節操が普く信頼されていれば、彼がどうしてこのように軽率に行動できようか。ところが捕えた者は責められ、賄賂を贈った者は問われない。天下を清く澄ませようとして、それが叶うだろうか。憂うべきこと、その一である。楊応龍は地盤に固執して服従せず、執政はその多額の賄賂を貪り、彼と通じている。例えば近ごろ綦江で捕えた奸人は、兵部尚書及び提督巡捕への私信を所持していた。残りの四通の手紙と黄金五百両・白金千両・虎豹の皮数十枚は、誰に宛てたものか言わない。臣が播州の人に細かく尋ねると、ようやく口ごもって『票擬を求めたのだ』と言った。票擬は輔臣の仕事である。それが小人物に利益で動かせようか。憂うべきこと、その二である。推挙昇進は吏部の職務である。近ごろ専擅の説を作り上げて聖聴を惑わし、陛下はその言葉を聞き入れて疑っている。そこで内には上意を託し、外には廷推に責任を転嫁し、正推か陪推か、意のままに選ぶ。もし両方とも適当でなければ、却下して再推挙を命じ、少しでも気に入らなければ、譴責や左遷を加える。もし簡抜が帝心に在ると言うなら、政府が関与していないはずなのに、なぜ登用する者は郷里の姻戚か、さもなくば門下の親密な者ばかりなのか。このようにしておきながら、まだ吏部が専擅していると言えるか。憂うべきこと、その三である。言官は天子の耳目であり、糾弾し意見を献上するのがその職務である。近ごろ朋党の説を進めて聖怒を激しませ、陛下はその讒言を聞き入れて嫌っている。そこで天威を仮託し、胸中を思いのままに振る舞う。上奏の時に公然と排斥しなければ、転任・昇進の時に密かに陥れる。もし宸衷の独断で挽回できないと言うなら、なぜ排斥する者は昔からの積怨か、さもなくば近ごろの深い仇ばかりなのか。このようにしておきながら、まだ言官が結党していると言えるか。憂うべきこと、その四である。首輔の誌臯は日が西山に迫り、もとより責めるに足りない。位は普く人望を負っているのに、その行いはこのようである。しかもその策略は特に深く、邪悪な仲間は日増しに多く、将来の禍いはさらに言い難いものがある。誌臯を罷免し、位を防ぐことを請う。陳於陛・沈一貫を厳しく戒めて、二人の行いを真似させぬようにせよ」と。上疏が入り、旨に逆らった。一階級降格を命じられ、外任に出された。誌臯・位は弁明の上疏をし、かつ恂を許すよう請い、於陛・一貫も弁護した。そこで原官品のまま陝西按察司経歴に転任させられた。病気を理由に帰郷した。しばらくして、吏部尚書の蔡國珍が詔を奉じて廃官を起用した。恂に及んだが、召されぬうちに死去した。
冀體は武安の人である。廃官となり、累次推薦されたが起きず、家で死去した。
その時、誌臯を論じて譴責を受けた者にまた朱爵がおり、開州の人である。茌平知県から召されて吏科給事中となった。かつて時政の欠失を論じ、それにより誌臯・位が奏疏を留め置き塞ぐ罪を上疏したが、回答がなかった。まもなく三王並封を切諫し、かつ朱維京・王如堅らを弁護し、また誌臯・位が同年の羅萬化を吏部に私したことを弾劾した。罪に坐して山西按察司知事に左遷され、家で死去した。天啓年間、太僕少卿を追贈された。
士昌は五歳で書を授かり、「惟善為宝」の句に至り、父の名であるため読むのを止めて拱手して立った。師は大いに奇異に思った。万暦八年の進士に挙げられ、戸部主事に任じられ、員外郎に進んだ。帝に留中を止め、遺直を記録し、召対を行い、節倹を尊ぶよう請うた。まもなく郎中に進んだ。親の見舞いのため去った。朝廷に戻り、吏部侍郎の徐顯卿が張位を陥れ、少詹事の黄洪憲が趙用賢を力づくで排斥したので、罷免して官邪を戒めるべきであると言い、主事の鄒元標・参政の呂坤・副使の李三才は普く直諫で知られているので、抜擢して士人の節操を励ますべきであると言った。また連坐の法を復活させ、巡撫の選任を慎重にし、苦節の士を表彰し、贓吏の処罰を重くするよう請うた。上疏が入ると、給事中の李春開がその職分を越えたと弾劾した。そこで詔を下して諸司に職分を越えて刺挙することを禁じた。その後、風霾のため、早く国本を立てるよう請うた。貴妃の父の鄭承憲が父の墓を改葬するよう請い、詔で五千金を与えた。士昌は言った、「太后の兄の陳昌言には五百金しか与えられていないのに、妃の家にはその十倍を与えるとは、どうして天下に示せようか」と。聞き入れられなかった。やや転じて陝西提学副使、江西参政となった。
三十四年、大学士の沈一貫・沈鯉が相次いで朝廷を去った。翌年の秋、士昌は表文を携えて都に入り、上疏して言った。
皇上は一貫・鯉が共に去るのを聞き入れられたが、世論は一貫を快く思わず、鯉を惜しまない者はない。一貫は権力を招き利を貪り、士風と吏道を大いに損なった。天下の隠居した貞士が自分と意見が合わぬのを恐れ、一切阻んで将来を絶とうとした。すなわち張居正に罪を得た諸臣で、皇上が普くその忠義を知り、抜擢に留意されている者を皆、排斥して用いず、甚だしければ他の事を借りて処分した。直道のために左遷された諸人で、久しく転任して在宅している者も、一貫は排斥して用いなかった。朝廷で正を守り阿らず、魁偉で老成した俊英も、少しでも意見が違えば、巧みな計略で罷免した。かつ部院を空にして自分の用いたい者を選びやすくし、言路を空にして自分のしたいことを恣に行いやすくし、天下の諸曹を部院・言路などと同じく空にして、人に疑わせないようにした。己の用いたい者・したいことについては、また力を尽くして志を得られないものはなく、欲しない者については、すぐに涙を流して人に「私は皇上からそれを得る力がない」と言った。善は己に帰し、過ちは君に帰す。人は皆、その不忠を知っている。
鯉は身家を肥やさず、利便を選ばず、ただ多くの賢人を君に推挙した。一貫の忠邪と較べてはるかに優れている。一貫が帰郷した後、財貨は山の如く、金玉は積み上げられていた。鯉の家は壁が立つのみで、貧しく余財がなかった。一貫の貪廉と較べてはるかに優れている。一貫は鯉の邪正が対照されるのを憂え、妖書の事件を借りて陥れ害そうとした。皇上の聖明がなければ、ほとんど大誤りに至るところであった。臣は思うに、輔臣で一貫のように異常に邪悪な者は、古今の奸臣である盧杞・章惇と合わせて三人目であろう。しかしついに一人も鯉と一貫の賢奸を皇上に正しく言い分ける者がいなかった。臣はひそかにこれを痛む。
かつ一貫が用いられたのは、王錫爵が推挙したからである。今、一貫が去り、錫爵が首輔に代わる。これは一貫が去っていないのと同じである。錫爵は普く重い名声があり、一貫とは比べものにならない。しかし器量が狭く、善を嫉むこと仇の如しである。高桂・趙南星・薛敷教・張納陛・於孔兼・高攀龍・孫継有・安希範・譚一召・顧憲成・章嘉禎らは一度罷免されて復帰しなかった。近ごろ錫爵が遺佚を記録するよう請う上疏をしたと聞く。その請いに従い、諸臣を召還し、それから赴任を促すべきである。そうでなければ、錫爵が再び出仕する道理がないであろう。一貫を弾劾した諸臣、例えば劉元珍・龐時雍・陳嘉訓・朱吾弼も、急いで召還復帰させ、忠を尽くし奸を暴いた者を奨励すべきである。その他の臣で、触れ逆らって中傷され、意見の相違で罷免された者については、皆、順次に拭い去って用いるよう請う。
論者は、皇上が諸臣に対して、三度明詔を下したとはいえ、その意向は任用に向かっているようで、実は用いるつもりはないのだというが、臣はただそうではないと考える。
その意はひそかに李廷機を諷刺するものであった。廷機は大いに憤り、上疏して弁明し、「人材の起用については、臣らは至尊の権を侵すことはおろか、吏部の職務を侵すことさえどうしてできようか」と言った。
士昌は好学で、名節を励ました。常に時勢を憤り世俗を憎み、自らをもってこれを挽回せんとした。故に閑職にあっても、しばしば論奏し建言したが、ついに齟齬したまま終わった。
宋燾は泰安の人である。万暦二十九年の進士。庶吉士より御史に任ぜられ、気性を任せて好んで攻撃した。応天諸府を巡察に出て、上疏して首輔朱賡を排斥した。
馬孟禎は、字を泰符といい、桐城の人である。万暦二十六年の進士。分宜知県に任ぜられた。内召されようとしたとき、徴賦が四分に達せず、戸部尚書趙世卿に弾劾され、詔により二階降格された。
三十九年夏、怡神殿が火災に遭った。孟禎は言う、「二十年来、郊廟・朝講・召対・面議はすべて廃され、下情を通ずるものはただ章奏のみである。
吏部侍郎蕭雲挙が京察を補佐し、庇うところがあり、孟禎がまず上疏してこれを攻撃した。論ずる者が日に多くなり、雲挙は引退した。
孟禎は若い頃貧しかった。顕職に通じてからも、家に余財はなかった。ただ趙世卿が己を抑えたことを恨み、御史台に入るとすぐに上疏して世卿を弾劾したので、人はこれを狭量と思った。
礼科右給事中に進む。正月より四月に至るまで雨なく、若霖上疏して曰く、「臣『洪範傳』を稽ふるに、言の従はざるは是れ不晙と謂ひ、其の罰は恒に旸なり。今郊廟は親しくすべく、朝會は舉ぶべく、東宮の講習は開くべし、此れ下累ねて之を言ひ、而上従はざる者なり。又上言して中變する者有り:稅務は有司に歸すべし、權珰猶ほ侵奪す;起廢は明詔有り、啟事猶ほ沈閣す是なり。上屢ひ言ひて久しく決せず、下數へ言ひて上斷ぜざる者有り:中外の大僚の推補、被劾諸臣の進退是なり。凡そ此れ皆言の従はざるの類なり。積郁して災を成すは、天人恒の理なり。陛下安んぞ漠然として已まんや」と。時に南京戶・工二部尚書を缺き、禮部侍郎を缺き、廷推して故尚書徐元泰・貴州巡撫郭子章・故詹事範醇敬を推す。若霖言ふ、「三人は任に足らず、且つ舉する者私無き能はず。請ふ自今廷推して一人を以て主持せしめず、衆皆諾を畫すべからず。宜しく舉主の姓名を籍し、祖宗連坐の法を復すべし」と。詔して申飭すること若霖の言の如くし、所推悉く報寢す。兵部主事張汝霖は、大學士朱賡の婿なり。山東に典試し、取る所の士に篇章具はらざる者有り。若霖疏を上て之を劾し、其の俸を停む。中官楊致中法を枉げて指揮鄭光擢を拷殺す、若霖同官を率ひて其の十罪を列ね、報へず。朱賡獨り相たり、朝事益弛む。若霖言ふ、「陛下獨り一賡を相とし、而して畫接聞こえず、補牘應ふる莫し、此れ最大の患なり。方今紀綱壞れ、政事壅がれ、人才耗し、庶職空しく、民力窮まり、邊方廢れ、宦豎横はり、盜賊繁く、士大夫幾くんぞ廉恥禮義を忘れず、而して小民愁苦冤痛の聲宇内に徹す。輔臣宜しく慨然として天下の重きを任じ、人心を收拾し、以て之を當寧に效すべし。徒に謙讓未遑なるが如く、或は人言を以て、輕く去就を懷かば、則ち陛下何をか賴まん」と。賡乃ち若霖の指に緣り、力めて帝に請ふ急に新政を行はんことを。帝亦省みず。五月朔、大雨雹ふる。若霖謂ふ、人を用ふる廣からず、大臣專權の象なりと、疏を具して切に之を言ふ。已にして京師久しく雨し、田廬を壞す。若霖復た言ふ、大臣比周して相倚り、小臣風に趨ふ、其の流れ益甚だしと;意復た賡及び新輔李廷機の輩を詆するなり。三十六年、庫藏を巡視し、老庫止めて銀八萬なるを見、而して外庫蕭然たり、諸邊の軍餉逋れて百餘萬に至る。疏を上て集議長策を請ふ、亦留中す。
先づ是れ、吏部考選應に科道を授くべき者を列上し、知縣新建の汪元功・進賢の黃汝亨・南昌の黃一騰與る。賡黨の給事中陳治則元功・汝亨を推轂す。若霖二人の囂競を劾し、吏部因り部曹に改擬す。治則怒りて一騰の交構を劾す。帝言官の紛爭を以て、部疏を留す。廷臣屢ひ請ふ有りて乃ち下す、而して若霖を責む首めて煩言を昌ぶるを、並びに元功・汝亨・一騰各一級を貶し、之を外に出だす。廷臣論救す、皆省みず。若霖遂に出でて潁州判官と爲り、卒す。
贊して曰く、明中葉以後に至り、建言者曹を分ちて朋と爲り、率ね閣臣を視て進退と爲す。依阿して寵を取れば則ち之と比し、是に反すれば則ち爭ふ。比する者は清議に容れられず、而して爭ふ者は名高し。故に其の時端揆の地、遂に抨擊の叢と爲り、而して國是淆る。是れ雖も、言ふ所の是非、閣臣の賢否、黑白判然たり、固より私怨惡の得て加ふる所に非ず、亦盡く之を沽直好事に委す可からず、人言の恤ふに足らざるを謂ふ可からず。