明史

列傳第一百十七 劉臺 傅應禎 王用汲 吳中行 趙用賢 艾穆 沈思孝

○劉臺(馮景隆 孫繼先)傅應禎 王用汲 吳中行(子亮元 從子宗達)趙用賢(孫士春)艾穆(喬璧星 葉春及)沈思孝(丁此呂)

劉臺は、字を子畏といい、安福の人である。隆慶五年の進士。刑部主事に任じられた。萬暦初年、御史に改める。遼東を巡按し、誤って捷報を奏した罪に坐し、詔旨により譴責を受けた。四年正月、劉臺は上疏して輔臣張居正を弾劾し、次のように言った。

臣は聞く、進言する者は皆、陛下を堯・舜のごとき君主にしようと望むが、輔臣を臯陶・夔のごとき臣下として責めることは聞かない。なぜか。陛下には諫言を受け入れる明徳があるが、輔臣には言論を容れる度量がないからである。高皇帝(太祖)は前代の過失を鑑み、丞相を設けず、政事を部院に帰し、権勢が互いに牽制され、職務が容易に果たせるようにされた。文皇帝(成祖)が初めて内閣を置き、機務に参与させた。その時は官階がまだ高くなく、専横の兆しはなかった。二百年を経て、たとえ威福を擅にする者が現れても、なお宰相の名を憚って避け、敢えてその地位に居座ろうとはせず、祖宗の法が存在したからである。ところが大学士張居正は、平然と宰相として振る舞い、高拱が追放されて以来、威福を擅にして三四年になる。諫官が事に因って論及すると、必ず「我は祖宗の法を守る」と言う。臣は、祖宗の法をもって彼を正すことを請う。

祖宗は礼をもって大臣を進退された。先帝(隆慶帝)が臨終の際、張居正は病気を口実に高拱を追放し、その後また王大臣の獄をでっち上げて高拱を陥れた。そして正論が沸騰すると、高拱に手紙を送り、驚いて死なないようにと命じた。既に追放して威を示し、また手紙を送って徳を売る。ただ朝廷をして旧臣に対して無礼なことをさせるのみである。祖宗の法はこのようなものか。

祖宗の朝では、開国の元勲でなければ、生きているうちに公爵に封ぜられず、死後も王爵を贈られなかった。成国公朱希忠は、生前に特に奇功があったわけではないのに、張居正は祖訓に背き、王爵を贈った。給事中陳吾德が一言諫言しただけで外任に左遷され、郎中陳有年が一度抗議しただけで斥けられた。臣は恐れる、公侯の家が賄賂を施し、先例に縁って陳情乞請すれば、際限がなくなるであろうと。祖宗の法はこのようなものか。

祖宗の朝では、内閣の冢宰(吏部尚書)を用いるには、必ず廷推によるものであった。今、張居正は私的に張四維・張瀚を推薦して用いた。張四維は翰林に在った時、たびたび弾劾された。最初に去った時は、庶吉士の教習を任されなかったのである。張四維の人物を、張居正はよく知っている。知っていながら敢えて用いるのは、張四維が機権に長け、多くの縁故があるからで、自ら老親がおり、旦夕に不測の事態があれば、二三年の間に復職を謀り、張四維を任じて、その死後のことを託そうとするのであろうか。張瀚は生平に善状がない。陝西巡撫として、贓穢が狼藉を極めた。急に銓衡(吏部尚書)に抜擢されると、簿吏のように唯々諾々とし、官職の欠員は必ず張居正に請命した。彼が指名する者は、楚人(湖北)の親戚知己でなければ、親戚が引き立てた者であり、楚の地で宦官として恩を受けた旧知でなければ、恩故の党与である。張瀚はただ日々四方の小吏を取り上げて、その賄賂の多寡を量るだけで、他のことは虚名を擁するのみである。張居正が南京都御史趙錦に送った手紙で、臺諫が冢宰に議論を及ぼさぬようにと聞く。ならば張居正が朝廷の言官を脅制していることは、また知ることができる。祖宗の法はこのようなものか。

祖宗の朝では、詔令が不便であれば、部臣はなお閣臣の擬議が不審であると非難した。今、厳しい旨を得れば、張居正は「我が力で調剤したからこの程度で済んだ」と言い、温和な旨を得れば、張居正はまた「我が力で請願して後に得たものだ」と言う。これによって、張居正を畏れる者は陛下を畏れるよりも甚だしく、張居正に感じ入る者は陛下に感じ入るよりも甚だしい。威福を己れのものとし、朝廷を眼中に置かない。祖宗の法はこのようなものか。

祖宗の朝では、一切の政事は、臺省が奏陳し、部院が題覆し、撫按が奉行し、閣臣が挙劾することは聞かなかった。張居正が定めた令では、撫按の考成に関する章奏は、毎回二冊を作成し、一冊は内閣に送り、一冊は六科に送る。撫按が延滞すれば、部臣がこれを糾弾する。六部が隠蔽すれば、科臣がこれを糾弾する。六科が隠蔽すれば、内閣がこれを糾弾する。そもそも部院は国事を分掌し、科臣は奏章を封駁し、挙劾はその職務である。閣臣は翰林の列に名を連ね、ただ顧問に備え、従容として論思するのみである。張居正がこの説を作り出したのは、科臣を脅制して、拱手して命令を聴かせようとするためである。祖宗の法はこのようなものか。

按臣が回道考察を受けるに至っては、大敗類でない限り、通常は実施されず、重く挫き抑えることを欲しなかったからである。近ごろ御史俞一貫が指授に従わなかったため、南京に転任させられた。これによって巡方の御史は意気消沈し、敢えて仕事を展開できず、恐れるのは科臣だけとなった。張居正は科臣に対して、転任の速さで餌を与え、また考成の遅れで脅かす。誰がその便利を捨て、彼の齮齕を甘んじて受け、死を尽くして言事しようとするだろうか。往年、趙參魯は諫言のために転任させられたが、まだ外任と言えた。余懋学は諫言のために罷免されたが、まだ禁錮と言えた。今、傅應禎は謫戍に処せられた。また傅應禎の故をもって、徐貞明・喬巌・李禎にまで及んだのである。言官を摧折し、正士を仇視する。祖宗の法はこのようなものか。

さらに寵愛を固める計略としては、白蓮・白燕を献上し、詔旨による責譲を受け、四方に笑いを伝えた。利益のために田宅を規制するには、遼王に重罪を誣いてその府地を奪い、今また武岡王が罪を得た。子弟のために郷試の合格を謀るには、御史舒鰲に京堂を、布政使施堯臣に巡撫を約束した。江陵に大邸宅を建て、費用は十万に及び、その規格は宮禁に擬し、錦衣官校を派遣して監理させ、郷郡の脂膏を尽くした。黄州の生儒がその子弟の幸運な合格を議論するのを憎み、県令に他の事を口実に窮治させて遺漏なく処罰した。編修李維楨がたまたまその豪富について話すと、踵を返す間もなく外任に左遷された。およそ張居正の貪婪は、文吏にはなく武臣にあり、内地にはなく辺鄙にある。そうでなければ、輔政して間もなく、全楚で富は第一となったが、どうしてこれを致せようか。宮室・輿馬・姬妾は、王者と同じ奉禦であるが、またどうしてこれを致せようか。

朝廷の臣工は、憤慨嘆息しない者はないが、敢えて陛下に明言する者がないのは、積年の威圧に脅かされているからである。臣が進士に挙げられた時、張居正は総裁であった。臣が部曹に任じられた時、張居正は推薦して御史に改めた。臣が張居正から受けた恩も厚い。それでも今敢えて公然と彼を攻撃するのは、君臣の義が重ければ、私恩は顧みるを得ないからである。願わくは陛下、臣の愚かな誠意を察し、相権を抑損して、事を覆し国を誤らせぬようにされたい。臣は死んでも不朽である。

上疏が上ると、居正は大いに怒り、朝廷で弁論し、言うには、「法令によれば、巡按は軍功を報告してはならない。去年の遼東の大捷は、御史臺が制度に違反して妄りに奏上したもので、法に照らせば降格・左遷すべきである。臣はただ詔旨をもって戒め諭すことを請うただけで、劉臺はすでに憤りに耐えられなかった。その後、傅応禎が獄に下され、その党与を究明した。初めは劉臺と傅応禎が同郷で親しく交わっていたことを知らず、実に主導者がいたのである。そこで妄りに自ら驚き疑い、ついに顧みることもなく、臣に対して憤りを発した。しかも劉臺は臣が取り立てた士であり、二百年の間、門生が師長を弾劾した例はなく、ただ一歩退いて謝するほかない」と。そこで政務を辞し、地に伏して泣き、起きようとしなかった。帝は御座を降りて自ら手を貸して引き起こし、再三慰留した。居正は強いて承諾したが、なお出仕して政務を執らず、帝は司礼太監孫隆に手詔を携えさせて宣諭させ、ようやく起きた。そこで劉臺を捕らえて京師に至らせ、詔獄に下し、廷杖百回を命じ、遠方に戍らせた。居正は表向き上疏して救い、ついに官籍を削り庶民としたが、居正の恨みは止まなかった。劉臺が遼東を巡按した時、巡撫張学顔と仲が良くなかった。この時、学顔が戸部にいたが、劉臺が私的に贖罪金を取ったと誣告し、居正は御史於応昌に命じて遼東を巡按させてこれを査察させ、また王宗載に命じて江西を巡撫させ、劉臺の郷里の事を廉察させた。応昌・宗載らは居正の意を迎え、事実であると報告したので、ついに劉臺を広西に戍らせた。劉臺の父震龍・弟国は、ともに連座して罪に問われた。劉臺は潯州に到着して間もなく、戍主の所で酒を飲み、帰って急死した。この日、居正もまた死去した。

翌年、御史江東之が劉臺の冤罪を訴え、宗載・応昌を弾劾した。詔して劉臺の官職を回復させ、宗載・応昌を罷免し、所管の役所に廉察させた。南京給事中馮景隆はこれに乗じて言うには、遼東巡撫周詠が応昌と共に劉臺を陥れたとし、応昌はすでに罷免されたが、周詠はなお薊遼総督であり、これもまた罷免すべきであると。南京御史孫継先もまた学顔が劉臺を陥れた罪を明らかにした。帝はちょうど学顔を信任していた。景隆の上疏の中で李成梁をも弾劾したため、学顔は成梁のために弁護した。継先はまた学顔・成梁をともに弾劾した。そこで景隆を薊州判官に左遷し、継先を臨清州判官に左遷し、学顔は問わなかった。その後、江西巡撫曹大埜・遼東巡撫李松が、宗載・応昌らが徒党を組んで傾軋陥れたことを調査報告し、いずれも事実であるとした。刑部は故に入罪したとして論じ、宗載らを戍辺・除名・降格左遷など差等をつけて処分するよう上奏した。劉臺に光禄少卿を追贈し、一子に蔭官を与えた。天啓初年、追謚して毅思とした。

馮景隆は、浙江山陰の人である。万暦五年の進士。かつて趙世卿の冤罪を訴え、また張位・習孔教を召還するよう請い、御史魏允貞を救済したが、この度左遷された。後に量移して南陽推官となった。

孫継先は、字を胤甫といい、盂の人である。隆慶五年の進士。居正が失脚した後、継先は呉中行・趙用賢・艾穆・沈思孝・鄒元標を召還するよう請い、さらに余懋学・趙応元・傅応禎・朱鴻謨・孟一脈・王用汲をも加えた。また魏学曾・宋纁・張嶽・毛綱・胡執礼・王錫爵・賈三近・温純・曹科・陳有年・朱光宇・趙参魯ら諸人を推薦した。左遷の罪に坐した後、終官は南京吏部主事であった。

傅応禎は、字を公善といい、安福の人である。隆慶五年の進士。零陵知県に任じられた。洞庭の大賊を殲滅し、祁陽の大悪党を論罪して処刑し、民はこれによって安堵した。溧水知県に転任した。万暦三年、召されて御史に任じられた。張居正が国政を執っていたが、応禎はその門生であり、感憤するところがあり、君主の徳を重んじ、民の困窮を救い、言路を開くという三事を上疏して陳述した。その言うところは、

近ごろ雷が端門の獣吻を震わせ、京師及び四方で地震が相次いで報告されたが、いまだ詔を発して反省したと聞かない。はたして天変は畏れるに足らないと真に考えているのか。真定の抽分中使は、本来旧典ではなく、正統年間に一時的に行われたことがあり、先帝は李芳の言を容れて、すでに派遣を停止する詔を下した。しかし陛下はかえって失徳の事を行おうとしている。はたして祖宗は法とすべきでないと真に考えているのか。給事中朱東光が保治を奏陳したが、初めから檻を折り衣を解くような者とは異なるのに、ついに留中して返答しなかった。はたして人の言は顧みるに足らないと真に考えているのか。この三不足は、王安石がこれをもって宋を誤らせたものであり、深く戒めねばならない。

陛下が即位された初め、隆慶改元以前の未納租税をすべて免除され、四年以前のものは三割を免じ七割を徴収するとされた。恩恵は極めて厚い。しかし上は軫恤の念が至っているのに、下は延引怠慢して自らのままである。かつて担いで続く者がいなかったのは、なぜか。小民の一年の収入は、一年を支えるに足るだけで、負債を返済する余力はない。近ごろは定額に達しない輸納があると、按撫は糾弾を受け、郡県は転任させられることになった。諸臣は譴責を恐れ、督促が倍厳しくなった。そのため流離する者が続き、怨み嘆く声が天にまで届いている。これは太平の象であろうか、陛下が喜んで聞かれることだろうか。明詔を下し、官吏が横領したものでない限り、すべて寛大に免除されたい。民の困窮が救われれば、災害は自然に止むであろう。

陛下が即位された初め、直臣の石星・李已を召し用いられ、臣下はみな慶幸した。近ごろは趙参魯が宦官を糾弾して典史に左遷され、余懋学が時政を陳述して終身閉門を命じられた。その他、胡執礼・裴応章・侯於趙・趙煥らの封事が累次上ったが、すべてこれを放置した。初政に比べてどうか。臣は参魯を京職に抜擢し、懋学を元の官職に戻され、人臣が進言することを勧められたし。

上疏が奏上されると、居正は上疏中の王安石の言葉が自分を侵害したとして、大いに怒り、詔旨を調えて厳しく責めた。その文詞が懋学に及んだため、捕らえて詔獄に下し、党与を徹底的に追及した。応禎は死に瀕しても何も認めず、ついに定海に戍らせることに左遷された。給事中厳用和・御史劉天衢らが上疏して救ったが、聞き入れられなかった。応禎が獄に下された時、給事中徐貞明が御史李禎・喬巖とともに見舞いに入った。錦衣衛の長官余蔭がこれを報告したため、三人もまた左遷の罪に坐した。

十一年、御史孫継先の言を用いて、召し出して官職を回復させた。帝が昌平に行幸して寿宮を閲しようとした時、薊鎮が警報を告げたので、応禎は帝に行幸を止めさせ、また辺境の備えを詳細に陳述した。優詔をもって答えた。まもなく南京大理寺丞に抜擢された。出発に際し、海内の知名の士三十七人を推薦するよう上奏した。間もなく病気を理由に帰郷し、三年後に死去した。本寺の右少卿を追贈された。応禎は同郷の劉臺と同年に進士に挙げられ、御史となり、ともに居正に逆らい禍を得たので、郷人はともに祠を建てて祀った。

王用汲は、字を明受といい、晉江の人である。諸生であった時、郡が倭寇に襲われ、客兵が市中で横暴を働いた。ちょうど御史が巡察に来たので、用汲は状況を訴えた。知府が言うには、「これは諸生の何事かかわることか」と。用汲は言うには、「範希文が秀才の時、天下を己が任とし、まして郷里の禍が諸生に関わらないことがあろうか」と。隆慶二年に進士に挙げられ、淮安推官に任じられた。やがて常徳同知に昇進し、入朝して戸部員外郎となった。

万暦六年、首輔張居正が帰郷して親の葬儀を行った時、湖広の諸官庁はすべて参列した。巡按御史趙応元だけが行かず、居正はこれを恨んだ。応元が任務を終えて交代する時、病気を理由に辞任を請うた。僉都御史王篆という者は、居正の客であり、もともと応元を恨んでおり、また居正の意に迎合して、都御史陳炌に応元が職務を回避したと弾劾させ、ついに除名した。用汲は憤りに耐えかね、そこで上疏して言うには、

御史の応元は葬儀に参列しなかったことで輔臣に罪を得、都御史の炌に論劾され、病気と偽って欺瞞したとして官籍を削られた。臣はひそかにこれを恨む。疾病は人に時としてあるものである。今、朝廷の大小諸臣の中で、病気を理由に休暇を請うた者は限りない。御史の陸万鐘・劉光国・陳用賓はいずれも巡察の任務を終えて病気を理由に休んだが、応元と異ならない。炌はなぜ彼らを一括して弾劾しなかったのか。そもそも炌は世宗の朝においても、十数年病気療養していた。後に縁故を頼って攀じ登り、急に要職に列した。退くことを以て進むこと、炌に如く者はあるまい。己はそれを実行しながら、かえって人を責めるとは、どうして天下を服させられようか。陛下はただ炌が応元を論劾したのを見て、恣意に避けようとしたとして、罪は罷免・排斥に当たるとお考えである。その意図の由来するところを、陛下はどうしてご存知であろうか。昨年の星変による官吏考察は、災いを消すためであったが、挫き抑えられた者の半分は、宰臣に附かない者であった。例えば翰林の習孔教は、鄒元標の縁故による。礼部の張程は、劉臺の縁故による。刑部の浮躁(評定)が他部より特に多かったのは、艾穆・沈思孝のために矛先を向けたからである。考察後に劣等とされ転任させられた趙誌皋も、また呉中行・趙用賢のために怒りを遷されたのである。およそ輔臣の心を得られるならば、たとえたびたび論列された潘晟でさえ、格別の恩恵を蒙ることができた。もし輔臣の心を失えば、たとえ平素から才名を負う張嶽でも、不及(評定)による転任を免れ難かった。臣は、陛下が災いを省み咎を塞ぐ挙措が、ただ宰臣が恩に報い怨みに報いる私事のためだけにあるとは思わなかった。しかも凡そ宰臣に附く者は、それぞれもってその私事に報いることを藉口としている。嘆息せずにはいられない。

孟子は言う、「君の悪に逢う(助長する)その罪は大なり」と。臣は言う、宰相の悪に逢うその罪は更に大なり、と。陛下は天より授かった聖明さをもって、諫言に従い逆らわない。諸臣はそのことを熟知し、自らを顕わすために、玉を砕き鱗につことを争う。陛下が錦綺を織らせようとすれば、撫臣・按臣がこれを言い、珍異を採ろうとすれば、部臣・科臣がこれを言い、太倉・光禄の金を取ろうとすれば、台臣・科臣がまたこれを言う。陛下はことごとく嘉納して見せ、あるいは遂に停止し、あるいは先例としない。至って輔臣の意の向かうところは、是非を論ぜず、一言以てその非を正す者なく、かつ先んじてその歓心を結び、風向きを見てその勢いを張る者がある。これが臣の言う「逢う」である。今、大臣で宰相の悪に逢わない者はなく、炌はただその比較的著しい者に過ぎない。

臣の観るところ、天下に私ならざる事なく、私ならざる人なし。ただ陛下お一人が公であるのみ。陛下はまた自ら聴断せず、衆人の阿諛追従する大臣に政事を委ねる。大臣はますますその私を成し遂げて顧みることがなく、小臣はますます私的に行うことに苦しんで訴えるところがない。これは天下を駆り立てて私門に奔走させているのである。陛下はなぜ日々に諸政務を取り上げて勤めて習わず、内外の章奏を自ら省み覧て、まず御意をもって可否し、それから輔臣に宣し付けて、彼らに商榷させないのか。読み習うこと既に久しければ、智慮はますます広大になり、幾微隠伏の間も、自ら天鑑を逃れない。そもそも威福は、陛下自ら出すべきものであり、乾綱(天子の大権)は、陛下自ら独り攬むべきものである。これを人に委ねるのは、旁落(権力が傍らに落ちる)と言わなければ、倒持(柄を逆に持たれる)と言う。政柄一度移れば、積み重なって返し難く、これまた臣が日夜深く慮るところであり、ただ応元一事のみではない。

上疏が入ると、居正は大いに怒り、獄に下し廷杖に処そうとした。時に次輔の呂調陽が休暇中で、張四維が用汲の官籍削除を擬し、帝はこれに従った。居正は罪が軽いとして怒りを四維に移し、厳しい顔色で数日間彼に対した。用汲は帰郷し、城外に隠居し、布衣で講義教授し、足を城市に踏み入れなかった。居正が死ぬと、起用されて刑部に補された。まだ着任しないうちに、広東僉事に抜擢された。まもなく召されて尚宝卿となり、進んで大理少卿となった。時に法司が胡槚・龍宗武の呉仕期殺害事件を議し、流罪・戍辺に減じた。用汲は反駁して上奏した。「律を按ずるに、刑部及び大小の官吏が、法律に依らず、上司の主使に聴従し、人罪を出入(軽重を誤る)する者は、その罪これに同じ、とある。これは上文の、罪は斬、妻子は奴と為し、財産は官に没入する、という律を謂うのである。仕期の死について、槚は主使する者ではなかったか。宗武は上司の主使に聴従した者ではなかったか。今ただ謫戍(流罪・戍辺)とするのは、どの律に従ったのか分からない。」上は用汲の言を用いようとしたが、閣臣の申時行らが仕期は自死したので減等すべきだとし、判決はこうして定まった。まもなく順天府尹に遷った。南京刑部尚書を歴任し、致仕した。

用汲は人となり剛直で、事に遇えば敢えて為した。京尹となってから後、累次遷転は皆南方にあり、強直の故であった。卒すと、太子太保を贈られ、諡して恭質といった。

呉中行は、字を子道といい、武進の人である。父は性、兄は可行、ともに進士である。性は尚宝丞、可行は検討となった。中行は冠したばかりで郷試に挙げられたが、性が躁進を戒めたので、会試には赴かなかった。隆慶五年に進士となり、庶吉士に選ばれ、編修を授かった。大学士張居正は、中行の座主である。万暦五年、居正は父の喪に遭い、喪中にも関わらず政務を執った。御史曾士楚・吏科都給事中陳三謨が上疏して留任を奏することを提唱し、朝廷全体がこれに同調したが、中行だけが憤った。時に彗星が西南に出て、天を貫くほど長く、詔して百官に修省させた。中行はまっ先に上疏して言った。「居正父子は異地に分かれ隔たり、音信容貌通じないこと十九年になる。一旦千里の外で永く棄てられるに及び、陛下は彼に地を這って星のごとく駆けつけ、棺に憑って一慟することをさせず、必ずやその心に違え情を抑え、哀しみを銜み痛みを茹でて廟堂の上におり、遠大な謀り事を責め、元を調え業をかがやかすことを求める。これは人情であろうか。居正は常に自ら聖賢の義理、祖宗の法度を謹んで守ると言う。宰我が喪を短くしようとした時、子曰く、『予や其の父母に三年の愛有りや』と。王子が数ヶ月の喪を請うた時、孟子曰く、『一日を加うるも已むに愈れり』と。聖賢の訓はどうであるか。律においては、編氓の小吏でさえ、喪を匿すことは禁じられている。ただ武人だけが墨縗(喪服)のまま従事することができるが、輔弼の臣を処する所以ではない。仮に起復(喪中復職)に故事があると言っても、一日も国門を出ずして、急に視事することはなかった。祖宗の制はどうであるか。事は万古の綱常、四方の視聴に関わる。ただ今日に過ちなき挙措あって、然る後に後世に遺議なし。災変を消す道は、これに過ぎるものはない。」

上疏が済むと、副本を持って居正に告げた。居正は愕然として言った。「上疏は進んだのか?」中行は言った。「進めなければお伝えできません。」翌日、趙用賢の上疏が入った。また翌日、艾穆・沈思孝の上疏が入った。居正は怒り、馮保と謀り、廷杖に処そうとした。翰林院侍講の趙誌皋・張位・於慎行・張一桂・田一俊・李長春、修撰の習孔教・沈懋学は皆上疏して救おうとしたが、取り上げられなかった。学士の王錫爵はそこで詞臣数十人を集め、居正に取りなして和解を求めたが、受け入れられなかった。そこで中行ら四人を杖罰した。翌日、進士の鄒元標が上疏して争い、これも廷杖に処せられた。この五人、直諫の名声は天下に震うた。中行・用賢は並んで呉・趙と称された。南京御史の朱鴻謨が五人を救う上疏をしたが、これも斥けられた。中行らが杖罰を受けると、校尉こういが布で引きずって長安ちょうあん門から出し、板戸に乗せて、即日都城から追い出した。中行はすでに気絶していたが、中書舎人の秦柱が医者を連れて来て、薬一匙を投じたので、蘇生した。車で病を乗せて南帰し、腐った肉数十片を削り取り、大きいものは掌いっぱいで、深さは一寸に及び、一肢は遂に空っぽになった。

九年、京官の大計が行われ、五人が察籍に列せられ、錮されて再び叙用されなかった。居正が死ぬと、士楚は蘇州・松江を按ずるべきところ、憮然として言った、「我何の面目あって呉・趙の二公に見えんや」と。そこで病を理由に去った。三謨は既に太常少卿に抜擢されていたが、まもなく士楚とともに弾劾されて削籍された。廷臣が相次いで中行を推薦したので、召されて旧官に復し、右中允に進み、経筵に直った。大学士許国が李植・江東之を攻撃し、中行・用賢をその党と誹謗した。中行が上奏して弁明し、ついで罷免を請うたが、許されなかった。再び右諭徳に転じた。御史蔡系周が李植を弾劾し、また中行を侵害したので、中行は去ることを求め、上章四度に及んだ。詔して白金・文綺を賜い、馳伝して帰らせた。言事者がしばしば推薦したが、執政が抑えて召さなかった。久しくして、侍講学士に起用され、南京翰林院を掌った。同里の僉事徐常吉がかつて中行を訴えたことがあり、事は既に解決していたが、給事中王嘉謨がまた旧事を拾ってこれを弾劾したので、命じて家居して召しを待たせた。まもなく卒した。後に礼部右侍郎を追贈された。

子は亮・元、従子は宗達。亮は御史の官にあり、累に坐して官を貶せられ、ついに大理少卿に終わった。元は江西布政使。宗達は少傅・建極殿大学士。亮は志節を尚び、顧憲成らと善くした。一方、元は東林を深く憎み、編んだ『吾徴録』では、誹毀して力を遺さなかった。兄弟の趣向がこのように異なっていた。

趙用賢、字は汝師、常熟の人。父は承謙、広東参議。用賢は隆慶五年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれた。万暦初年、検討を授かった。張居正が父の喪に奪情されたとき、用賢は抗疏して言った、「臣ひそかに怪しむ、居正が君臣の義をもって数年忠を効する能くするも、父子の情をもって一日に少しく尽くす能わざるを。臣またひそかに怪しむ、居正の勲望が数年を積むも、陛下が忽ちに一朝にこれを敗るを。先朝の楊溥・李賢の故事の如く、その暫く還りて守制するを聴き、期を刻んで闕に赴かしむるに如かず。そうすれば、父子の音容が乖暌阻絶すること十有九年に及ぶ者も、区々としてその痛みを臨穴憑棺の一慟に稍々伸ぶるを得ん。国家が台諫を設けて法紀を司法し、糾繩を任ずるは、乃ち今嘵嘵として輔臣の留まるを請い、公議に背きて私情に徇い、至性を蔑ろにして異論を創る。臣愚かにもひそかに懼る、士気の日に靡え、国是の日に淆れるを」と。疏が入ると、中行とともに杖を受け除名された。用賢は体が元来肥えており、肉が掌の如く潰れ落ちた。その妻がこれを臘して蔵した。用賢には娘がおり、御史呉之彦の子鎮に許嫁されていた。之彦は累が及ぶことを懼れ、深く居正と結び、福建巡撫を得た。里門を過ぎるに、用賢に礼をせず、かつ鎮をその弟の下に坐らせ、「婢子なり」と言って、用賢を刺激した。用賢は怒り、すでにその居正の党王篆の指図を受けたことを察知すると、ついに幣を返して絶交を告げた。之彦は大いに喜んだ。

居正が死んだ翌年、用賢は旧官に復し、右賛善に進んだ。江東之・李植らが争ってこれに趨き、物望は皆これに属した。しかし用賢は性剛にして、気を負い物に傲り、しばしば大臣の得失を議し、申時行・許国らはこれを忌んだ。ちょうど李植・東之が時行を攻撃したので、許国は力を尽くして李植・東之を誹謗し、陰に用賢・中行を斥けて言った、「昔の専恣は権貴に在りしが、今は乃ち下僚に在り。昔の是非の顛倒は小人に在りしが、今は乃ち君子に在り。意気感激して、偶々一二の事を成し、遂に自ら不世の節を負い、浮薄喜事の人を号召し、党同伐異し、上を罔き私を行い、その風長ずべからず」と。ここにおいて用賢は抗弁して去ることを求め、朋党の説について極言し、小人がこれをもって君子を去らせ人国を空しうすることを述べ、言葉は甚だ激憤していた。帝はその去ることを聴かなかった。党論の興るは、ここより始まった。

まもなく経筵講官を充たした。再び右庶子に転じ、南京祭酒に改めた。挙人王之士・鄧元錫・劉元卿を推薦し、清修積学であるとした。また儲君を立てること、言官李沂の罪を宥すことを請うた。三年居て、南京礼部右侍郎に抜擢された。吏部郎中趙南星の推薦により、北部に改めた。まもなく本官をもって兼ねて庶吉士を教習した。

二十一年、王錫爵が再び内閣に入った。初め、用賢が南に転じ、中行・思孝・植・東之は既に前に貶され、あるいは罷免去っていたので、執政は安んじていた。この時に至り、用賢がまた三王並封を争う言葉で錫爵を侵したため、その恨みを買った。ちょうど吏部左侍郎に改められ、文選郎顧憲成と人材について弁論し、群情がますますこれに附いたので、錫爵は不便に思った。用賢がかつて絶婚した呉之彦は、錫爵の里人で、時に僉事として論ぜられ罷免され、その子鎮に用賢が財を論じて婿を逐い、法を蔑ろにし倫を棄てたと告訴させた。用賢が上疏して弁明し、休暇を乞うた。詔して礼官に平議させた。尚書羅萬化は之彦がその門生であったので、嫌疑を引いて力辞した。錫爵はそこで上議して言った、「用賢は軽く絶ち、之彦は緩やかに発す、均しく失いなり。今趙女は既に嫁し、初盟を問い難し。呉男は未だ婚せず、反坐を容るる無し。その衷を折らんと欲すれば、宜しく用賢の疾を引くを聴き、而して之彦を曲く貸すべし」と。詔してこれに従った。用賢はついに免職されて帰った。戸部郎中楊応宿・鄭材がまた力を尽くして用賢を誹謗し、律に拠って法を行わんことを請うた。都御史李世達・侍郎李禎が上疏して用賢を支持し、両人の讒諂を斥けたので、ついに攻撃された。高攀龍・呉弘済・譚一召・孫継有・安希範らは皆論救して坐し職を褫われた。ここより朋党の論はますます熾んになった。中行・用賢・植・東之が前を創り、元標・南星・憲成・攀龍がこれに継いだ。言事者はますます執政を裁量し、執政は日々これと枝拄し、水火薄射して、明の滅亡に至るまで続いたという。

用賢は身長が高く肩が聳え、議論は風発し、経済の大略があった。蘇・松・嘉・湖諸府は、財賦が天下の半ばに匹敵し、民生は坐して困窮していた。用賢が庶子の官にあった時、進士袁黄と数十昼夜商榷し、十四事を条上した。時行・錫爵は呉人は呉の事を言うべからずとして、調旨して切責し、寝かせて行わなかった。家居すること四年にして卒した。天啓初年、太子少保・礼部尚書を追贈され、諡して文毅といった。

孫の士春・士錦は、崇禎十年に同挙で進士に挙げられた。士春、字は景之。第三人で及第し、編修を授かった。明年、兵部尚書楊嗣昌が奪情して視事し、まもなく内閣に入った。少詹事黄道周がこれを弾劾し、獄に下された。士春が上疏して言った、「嗣昌が墨衰して視事し、既に効無く、陛下が簡んで綸扉に入れらるるも、自ら新命を力辞すべし。乃ちその奏牘を閲すれば、徒に歳月の久近を計るのみで、絶えて哀痛惻怛の念無し、何ぞ奸悖この一に至るや。陛下が格を破って奪情せらるるは、人材足らざる故なりと言う。知らず、人材の振わざる所以は、正に功名を愛し忠孝を薄くするより致すことを。且つ事無きときは儲材を講ぜず、事有るときは軽々に格を破ると言うは、人を用うるに弊無きの道に非ざるなり。臣の祖用賢は、首めて故相の奪情を論じ、幾くばくか杖下に斃れんとし、敗肉を臘して子孫に示せり。臣敢えて家学に背き、明主に負い、坐視して綱常地を掃するを得んや」と。帝は怒り、広東布政司照磨に謫した。祖孫並びに執政の奪情を攻めて斥けられ、士論はこれを重んじた。後に旧官に復し、ついに左中允に終わった。

艾穆は字を和父といい、平江の人である。郷挙にて挙げられ、阜城教諭を署した。隣郡の諸生趙南星・喬璧星らは皆、彼のもとで学んだ。入朝して国子助教となった。張居正は穆の名を知り、誥敕房中書舎人に用いようとしたが、応じなかった。万暦初年、刑部主事に抜擢された。員外郎に進み、陝西で囚徒を録した。当時、居正の法は厳しく、決囚が定額に満たない者は罪とされた。穆は御史と議し、二人のみを処刑することで止めた。御史は不称職を恐れたが、穆は言った、「私は決して人命をもって官位を博すようなことはしない」。還朝すると、居正は盛んな気勢で譙譲した。穆は言った、「主上は幼年、小臣は好生の徳を体し、公平允当な治を公に補佐するのみ、罪あれば甘んじて受ける」。揖して退いた。

居正が喪に遭い奪情された時、穆は私宅で嘆息し、主事の沈思孝とともに抗疏して諫めて言った、「居正が奪情されて以来、妖星が突如として現れ、光は中天を逼った。言官の曾士楚・陳三謨は清議を犯すことを厭わず、率先して留任を請い、人心はたちまち死に、挙国は狂せるが如し。今、星変は未だ消えず、火災が続いて起こる。臣は敢えて死を惜しまず、血を洒って一たび陛下のために言わん。陛下が居正を留めるのは、動もすれば社稷のためとおっしゃる。社稷において重んずるは、綱常に如くはない。而して元輔大臣は、綱常の表である。綱常を顧みずして、どうして社稷を安んずることができようか。且つ事、偶々一たび為すものは例であり、万世不易のものは先王の制である。今、先王の制を棄てて近代の例に従うとは、どうしてそれができようか。居正は今、例によって留まり、厚顔をもって列に就いている。異時、国家に大慶賀・大祭祀があれば、元輔たる者は、避けようとすれば君臣の義を害し、出ようとすれば父子の情を傷つける。臣は陛下がどうして居正を処し、居正がどうして自ら処するか知らない。徐庶は母の故をもって昭烈に辞して言った、『臣が方寸乱る』と。居正だけが人の子でなく、方寸乱れないというのか。位は人臣の極みにありながら、かえって匹夫の常節を修めず、どうして天下後世に対することができよう。臣は聞く、古の聖帝明王は人を孝をもって勧めたが、従ってこれを奪ったとは聞かない。人臣たる者は、孝を移して君に事えるが、奪われるとは聞かない。礼義廉恥をもって天下を風化するもなお恐らく足らず、顧みてこれを奪い、天下の人子たる者に皆、三年の愛をその父に忘れさせれば、常紀は墜つ。異時、たとえ法度をもってこれを整斉せんと欲しても、どうして得られようか。陛下が誠に居正を眷顧されるなら、徳をもってこれを愛し、奔喪して終制させ、大節を全うさせるべきである。そうすれば綱常は植えられ朝廷は正しく、朝廷が正しければ百官万民、一として正ならざるはなく、災変もまた弭められないものはない」。

当時、呉中行・趙用賢は居正に奔喪を許し、葬り終えて還朝するよう請うたが、穆と思孝は直ちに終制を許すよう請うたので、居正は特に怒った。中行・用賢は杖六十、穆と思孝はともに八十に加えて梏堣し、詔獄に置かれた。三日を過ぎ、門扉に乗せられて城を出され、穆は涼州に遣戍された。創は重く人事不省となったが、やがて蘇生し、遂に戍所に赴いた。穆は居正の同郷人である。居正は人に言った、「昔、厳分宜の時には同郷の攻撃者はなかった。私は分宜に比べられない」。九年、大計が行われ、再び穆と思孝を察籍に置いた。

居正が死ぬと、言官が交えて推薦し、戸部員外郎として起用された。西川僉事に遷り、累遷して太僕少卿となった。十九年秋、右僉都御史に抜擢され、四川を巡撫した。故崇陽知県の周応中・賓州知州の葉春及は行義人に過ぎ、穆はこれらを挙げて自らの代わりとしたが、報いられなかった。官に就いた後、播州宣慰使の楊応龍が叛いたと告げる者があり、貴州巡撫の葉夢熊が征討を請うた。しょく人の多くは応龍が強く、軽挙すべきでないと言い、穆もまた兵を加えようとせず、夢熊と意見が異なった。朝命により両撫臣が会勘することとなり、応龍は貴州に赴くことを望まず、重慶に逮至され、対簿して斬罪と論じられたが、贖罪を輸して放免され帰された。穆は病で帰り、まもなく卒した。後に応龍が再び叛くと、議者は穆を追咎し、その職を奪った。

喬璧星は臨城の人である。右僉都御史に官し、また四川を巡撫した。

葉春及は帰善の人である。郷挙により福清教諭に授けられた。上書して時政を陳べ、纚纚たること三万字に及んだ。戸部郎中で終わった。

沈思孝は字を純父といい、嘉興の人である。隆慶二年の進士に挙げられた。また三年後、謁選した。高拱が吏部を署し、属曹に留めようとしたが、思孝はこれを辞し、番禺知県に授けられた。殷正茂が両広を総制し、民と番人の互市を許し、かつ海口諸山を開いてその税を徴収しようとしたが、思孝はこれを持して不可とした。

万暦初年、卓異に挙げられ、また刑部主事となった。張居正が父喪で奪情された時、艾穆と合疏して諫めた。廷杖を受け、神電衛に戍された。居正が死ぬと、召されて官に復し、光禄少卿に進んだ。政府は李植・江東之および思孝の輩を憎んだ。思孝は太常少卿に遷ったが、御史の龔仲慶が意を迎えてこれを誹謗したので、思孝は遂に去ることを求めたが、許されなかった。まもなく順天府尹に遷り、冒籍挙人を寛縱した罪に坐し、三秩を貶されて視事した。思孝は三品の服を着け自若としていたが、弾劾され、南京太僕卿に調され、なお三秩を貶された。まもなく、病を謝して帰った。

吏部尚書の陸光祖が起用して南京光禄卿とした。まもなく右僉都御史に進み、陝西を巡撫した。寧夏で哱拜が叛くと、詔して思孝に下馬関に移駐し、総督の魏学曾の声援となることを命じた。思孝は兵が少ないことを理由に、浙江及び宣府・大同の騎卒を各五千募り、内帑を発して軍に供し、また故都御史の李材の罪を宥し、功を立てさせるよう請うた。詔して思孝に近地で召募させ、李材は遣わさないこととした。思孝は学曾と軍事を議して合わず、給事中の侯慶遠が思孝を弾劾し、門戸を捨てて堂奥を守り、邏卒を設けて妻子を衛り、封疆の事に任じられないとした。河南巡撫に改められたが、辞して赴かなかった。

しばらくして、大理卿に召された。宦官の郝金が懿旨を詐伝して獄に下され、刑部はその罪を軽くしたが、思孝はこれを駁して誅させた。帝は喜び、工部左侍郎に進めた。陝西で羊絨を織ることが民の患いとなっていたが、思孝の奏により、十の四を減じた。右都御史に進み、戎政を協理した。初め、廷推で李禎を首とし、思孝を次としたが、帝は特に思孝を用いた。或る者は奥援ありと疑い、給事中の楊東明・鄒廷彥が相次いで疏して弾劾した。帝は廷彥が東明の指図を受けたとして、東明を謫し、廷彥の俸を奪った。

二十三年、吏部尚書孫丕揚が外察を掌り、参政丁此呂を罷免した。思孝と東之は平素より此呂と親しかった。時に御史趙文炳が文選郎蔣時馨の収賄を弾劾し、時馨は思孝が唆したのではないかと疑い、遂に思孝が先に此呂を庇い、後に吏部を求めて得られず、この二事で自分を恨み、江東之・劉応秋らと結託して李三才に文炳を属させたと告発した。帝は時馨を憎み、その官を罷免した。思孝らは上疏して弁明し、且つ去職を求めた。丕揚は時馨に罪はなく、此呂は贓物を受け取った事実があり、思孝が庇うのは不当であると述べた。因って此呂の訪単を上呈し、帰郷を乞うた。訪単とは、吏部が考察を行う際、公論を諮って賢否を定め、廷臣がそこで聞いたところを書いて掌察者に投じるものである。事柄は概ね実状を核するが、然し時にこれによって憎む者を中傷することもある。帝は詔を降して丕揚を慰留し、此呂を逮捕し、思孝を詰責譴責した。御史の俞価・強思・馮従吾、給事中の黄運泰・祝世祿は皆、時馨の冤罪を訴え、その言葉は思孝・東之を侵した。給事中の楊天民・馬経綸・馬文卿はまた各々上疏して思孝を弾劾し、大抵は文炳の上疏は思孝によるもので、これによって丕揚を動揺させようとしたのだと述べた。思孝は屡々罷免を乞い、因って丕揚が国に背いたと誹謗した。員外郎の嶽元声は、大臣が互いに攻撃し合うならば両者とも罷免すべきであり、と述べて丕揚と思孝を併せて論じたようであるが、その指弾は特に時馨を攻撃して丕揚に及ぼしたものであった。上疏がまさに上程された時、文炳は突然その説を変え、「元声・東之が思孝の意を述べ、自分に此呂を救い時馨を弾劾するよう迫り、自分の本意ではなかった」と言った。帝は皆これを問わずに放置した。

思孝は平素より直節をもって天下に高名であったが、気性を尚びて勝ちを好み、動けば直ちに多く人に逆らい、此呂の件の故に、頗る世間の議論を被った。然し時馨・此呂は共に端人ではなく、丕揚・思孝も亦各々左右に偏していた。その翌年、御史の林培が忠邪を弁別するよう請い、又力強く思孝・東之を誹謗し、且つ「丕揚は半年間門を閉ざし、辞任の上疏を十度上程し、必ずや許可を得て後やむ意志である。思孝は則ち門を閉ざして未だ幾ばくもなく、近頃従吾・運泰らが罷免されたのを見て、朝廷は言官五六人を去らせて我を安んじるのは難しくないと言う。この人が去らなければ、朝端の害となる」と言った。帝は思孝を厚く遇し、林培を貶官した。乾清宮が災害に遭うと、思孝は皇長子の冠礼を行って天心を回らすよう請うた。又、日本への冊封事業が大いに壊れたことを以て、急ぎ戦守の備えを修めるよう請い、併せて趙誌臯・石星の国を誤ったことを論じた。その秋、丕揚が去位し、思孝も亦病を理由に引退し、詔して駅伝で帰郷させ、朝端の議論はようやく止んだ。久しくして、丕揚が再び起用されて吏部となり、御史の史記しき事が再び思孝が顧天飐と合謀して丕揚を陥れようとしたと誹謗した。顧憲成・高攀龍が力強くその誣告を弁明したが、思孝は既に卒去していた。天啓年間、太子少保を追贈された。

丁此呂、字は右武、新建の人。万暦五年の進士。漳州推官より召されて御史に授けられた。慈寧宮の災害に際し、鰲山の撤去、織造・焼造の停止、建言して譴責貶謫された諸臣の召還、張居正の余党の除去、徐爵・遊七の速やかな誅殺を請うた。聞き届けられた。間もなく礼部侍郎高啓愚が命題で禅譲の意を示したことを弾劾し、潞安推官に左遷された。言葉は『李植伝』に詳しい。間もなく太僕丞に遷り、浙江右参政を歴任した。考察で罷免を論ぜられ、再び官を遣わして逮捕した。大学士趙誌臯らが再び上疏して赦免を乞い、且つ此呂には気節があり、必ずしも貪汙したとは限らないと述べた。丕揚も亦此呂には逮捕審問の条項はないと述べ、詔獄送致を免れるよう乞うた。帝は皆従わず、逮捕して鎮撫司に下し、辺境への戍役に貶謫した。

賛に曰く、劉臺ら諸人は、皆張居正を論じて罪を得た。罰最も重き者は、名亦最も高し。用汲の免れたるは、幸いなるのみ。平心にこれを論ずれば、居正が相となる、国事に対して功無きにし非ず。諸人のこれを論ずる、過当無きにし非ず。然れども謗りを聞いて懼るるを知らず、忿戾怨毒、務めて己が意を快くす。盈ち虧くるは好還す、禍は身後に醸る。伝に曰く、「惟だ善人のみ能く尽言を受く」と。於戲、難きかな。