明史

列傳第一百十六 魏學曾 李化龍

○魏學曾(葉夢熊梅國楨)李化龍(江鐸)

魏學曾

魏學曾、字は惟貫、涇陽の人。嘉靖三十二年の進士。戸部主事に任じられ、郎中に遷る。中官が商人のために芻糧銀巨万の支給を請うたが、學曾はこれを許さず、やむなく止んだ。まもなく光祿少卿に抜擢され、右僉都御史に進み、遼東を巡撫した。隆慶初め、土蠻が大挙して永平に入る。學曾は入って山海に駐屯し、諸将の王治道らに檄を飛ばして義院口まで追撃させ、大勝した。右副都御史に進む。學曾は将吏を入れ替え、降伏者を招き入れ、屯田二千余頃を整備し、たびたび敵を破り、賞賜を受けた。病により去職。兵部右侍郎として起用され、神樞営を提督した。まもなく吏部に改められ、左侍郎に転じた。

穆宗が崩御すると、大学士高拱は馮保を除こうとし、言官に論劾させた。學曾は大学士張居正に書を送り、「外間では皆、公が保と謀り、遺詔もまた公の手によるものと言っている。今日の事態は、再びこの宦官を庇うべきではない」と言った。居正は怒った。やがて高拱が追放されると、朝廷は皆顔色を失ったが、學曾ひとり大声で言った。「上は践祚したばかりなのに、早くも顧命大臣を追放する。しかも詔は誰が出したのか、百官にはっきり示さねばならぬ」。諸大臣を促して居正の邸宅に赴き抗議しようとした。諸大臣の多くは行かず、居正もまた病気を理由に辞退した。これよりますます居正に逆らうこととなった。南京右都御史として出される。着任せず、給事中宗弘暹が居正の意を迎えてこれを弾劾した。詔により旧官のまま待機とされ、學曾は帰郷した。居正の没後一年余りして、南京戸部右侍郎として起用される。召されて右都御史となり、倉場を督した。まもなく南京戸部尚書として致仕した。

萬歷十八年、順義王撦撦力克が西へ青海に向かい、火落赤・真相が洮河を侵犯し、副総兵李奎・李聯芳が相次いで殺された。朝廷は尚書鄭洛に命じて七鎮を経略させ、兼ねて総督を領させたが、洛は固く総督を辞した。翌年春、閣臣王錫爵が學曾を推薦した。兵部尚書として起用され、陝西・延綏・寧夏・甘肅の軍務を総督した。当時、鄭洛は専ら和議を主とし、學曾が到着すると、議論が合わず、陝西巡撫葉夢熊が學曾を助けた。初め、順義王の封が行われる時、夢熊は諫めて阻止したため罪に坐し、學曾もまた高拱に不便を説いた。この時、撦撦力克が叛徒を助け、學曾・夢熊はついにこれを討伐しようとし、鄭洛が賊を侮っていると誹謗した。ちょうど撦撦力克が東帰し、火落赤ら諸部もまた去ったので、學曾は奏上して、撦撦力克は帰ったが、密かに精兵二万を嘉峪に留め、火落赤・真相を助けようとしている、と言った。その説はもともと道中の噂を採ったものであったが、朝士は争ってこれに附和した。錫爵は後悔し、疏を具して状況を述べ、また書を送って夢熊を責めた。一方、兵部尚書石星は、順義王が既に東帰したので、宣府・大同の事態が急であるとして、鄭洛を召還して撫議を定めさせ、學曾の上疏は問わなかった。まもなく、河套部長の土昧明安が互市を終え、賞賜の増加を要求した。學曾は総兵官杜桐・神木参将張剛・孤山遊撃李紹祖に命じ、不意を突いて明安を撃ち斬らせ、四百八十余級を斬り捕らえ、馬畜器械を奪うことこれに相当した。學曾は功により太子少保を加えられた。しかし明安の子擺言太が復讐を声高に言い、諸部を呼び集めた。

翌年、哱拜が反逆し、ついに諸部を扇動して乱を起こした。拜は西部の人である。嘉靖年間、その部長に罪を得て、父兄は皆殺され、拜は逃れて降り、ぎょう勇でたびたび戦功を立てた。前の督撫王崇古・石茂華が相次いで副総兵に加えるよう奏上し、ついに多くの亡命者を養った。子の承恩は、拜が妖物が妻の施の脇に入って生まれた夢を見、狼の形で梟が啼くようで、性質は狠戾であった。拜が老い、承恩が父の爵を襲った。十九年、洮州・河州が警報を告げると、御史周弘禴が承恩及び指揮土文秀・拜の義子哱雲らを推挙した。巡撫黨馨は文秀に檄を飛ばして西へ援軍させ、拜は経略鄭洛に謁し、子の承恩とともに従軍することを願った。馨はその自薦を嫌い、これを抑え損じたので、拜はこのため心に怨みを抱いた。金城に至り、諸鎮の兵が皆自分より劣るのを見た。賊が退くにつれ、塞外を取って還ると、寇の騎兵がこれに出会っても皆退散したので、ついに内外を軽んじる心を抱いた。馨はたびたび拜を制し、かつ承恩の罪を按じてこれを二十回鞭打ち、雲・文秀もまた他のことで馨を怨んだ。ちょうど戍卒が衣糧を請うて久しく給されず、拜はついに軍鋒の劉東旸・許朝を唆して乱を起こさせた。二十年三月、馨及び副使石継芳を殺し、総兵官張維忠を脅して縊死させた。雲・文秀は遊撃梁琦・守備馬承光を殺し、東旸は総兵を称し、拜を奉じて謀主とし、承恩・朝を左・右副総兵とし、雲・文秀を左・右参将とした。承恩はついに玉泉営・中衛・広武を陥とし、河西は風の知らせに靡いた。ただ文秀が平虜を攻めたが、参将蕭如薰が堅守して落とさなかった。賊は既に河西四十七堡を取ると、かつ黄河を渡り、また河套の著力兔・宰僧を誘って平虜・花馬池を侵犯させた。全陜は皆震動した。

學曾は副総兵李句に檄を飛ばし、遊撃吳顯を率いて霊州へ急行させ、別に遊撃趙武を遣わして鳴沙州へ向かわせ、黄河沿いに賊の南渡を扼させ、自らは花馬池に駐屯して賊の正面に当たった。句らが黄河を渡ると、賊の将の多くは逃げ去り、四十七堡は皆回復したが、ただ寧夏鎮城だけがまだ賊の占拠するところであった。著力兔らは内外呼応し、拜・文秀は玉泉で趙武を攻めた。雲は著力兔を引き連れて平虜を攻めたが、如薰が伏兵を設けて雲を射殺した。句が趙武を救い、包囲もまた解けた。四月、句は兵を率いて元総兵牛秉忠とともに鎮城下に到着した。帝は既に董一奎を総兵に抜擢し、李蕡をその副将としたが、やがてまた如薰を抜擢して一奎に代え、麻貴をもって蕡に代えた。着任せぬうちに、句らが城を攻めた。賊は東西二門からそれぞれ驍騎三千を出して戦い、歩卒は火車を並べて陣営とした。官軍がこれを撃ち、その車百両を奪い、追って湖に奔り入らせ、賊は溺死すること数知れず。副総兵王通は戦いことに力があった。家丁の高益らが勝に乗じて北門に入ったが、後続の兵が続かず殺され、通もまた負傷し、榆林遊撃俞尚德は戦死した。翌日、朝・文秀は慶王を脅して東城に上らせ、一時的に兵を罷めるよう乞い、詭りて首悪を献じたいと言った。ちょうど官軍の糧食が尽きたので、引き退き、近くの堡で休んだ。

學曾は日夜芻餉を催促し、延綏・莊浪・蘭州・靖虜・榆林の兵を調達した。道は回り遠く、準備した舟もまた未だ整わず、花馬池に駐屯し、軍が到着するのを待って霊州に移った。まもなく、延綏遊撃姜顯謨・都司蕭如蕙、甘州の元総兵張傑及び麻貴の軍が皆到着し、再び鎮城に迫ってこれを攻めた。賊は計略をめぐらし、延綏・榆林の兵が出て内が虚であるのを捉え、黄臺吉の妻を誘い、その子の舍達大・甥の火落赤・土昧鉄雷に命じて旧安辺・磚井堡を掠めさせて我が兵を牽制した。承恩はまた隙に乗じて寇兵と合流し、延漢渠に伏兵を置き、糧車二百を掠めた。學曾は花馬池から霊州に戻り、包囲されたが、救援が到着して解かれた。貴らはたびたび城を攻めたが陥とせず、賊は慶王妃を殺し、その宮人金帛をことごとく掠奪した。牛秉忠は戦って右股を傷つけ、ついにまた退却した。帝は尚書石星の言を用い、學曾に尚方剣を賜って督戦させた。ちょうど寧夏巡撫朱正色・甘肅巡撫葉夢熊・監軍御史梅國楨、諸大将の劉承嗣・董一奎・李如松が相次いで軍中に到着し、六月に再び城を攻め、連戦しても陥とせず。

附 葉夢熊

夢熊、字は男兆、帰善の人。嘉靖四十年の進士。福清知県より入りて戸部主事となり、寧夏に糧餉を転送す。御史に改め、把漢那吉の降を受けるを諫めて、鄖陽丞に貶せらる。累遷して贛州知府となり、黄郷の賊を平らぐ。浙江副使に遷り、永平に改む。万暦十七年冬、山東布政使より右僉都御史に擢げられ、貴州を巡撫す。尋いで陝西に改め、右副都御史に進む。撦力克を討つを請うて、経略の洛の議と相左る。廷議は洛を右とし、その議を用いざるを絀く。会うに撦力克東に帰り、洛もまた宣府・大同に還るに及び、乃ち夢熊を甘粛に移し、学曾と共事せしむ。夢熊は胆決あり、敢えて事を任す。会うに拜反し、上疏して自ら賊を討つを請う、帝之を然りとす。六月に至りて霊州に至り、学曾と合す。

附 梅国楨

国楨、字は克生、麻城の人。少より雄傑自ら喜び、騎射を善くす。万暦十一年の進士に挙げらる。固安知県を除く。中官国楨に詣りて民に責を収むるを請う、国楨偽りに民に妻を鬻ぎて償わしむ。民夫婦哀慟す、中官券を毀つを為す。御史に擢げらる、会うに拜反し、学曾の師久しく功無し。時に寧遠伯李成梁方に論ぜられ、廷議大将として遣わさんと欲すも、未だ敢えて決せず、国楨独り疏を上りて之を保つ。乃ち成梁の子如松を提督として遣わし、遼東・宣府・大同・山西諸鎮の兵を将いて往かしむ。而して国楨その軍を監し、遂に如松と寧夏に至る。

初め、学曾は東旸・朝を招かんと欲し、拜父子を殺して罪を贖わしめ、卒の葉得新を遣わして往かしむ。四人方に同死を約し、得新の脛を折り、之を獄に置く。巡撫朱正色は賊の詭りて降を請うを以てし、而して張傑は嘗て寧夏の兵を総べ、故に拜と善くし、傑を遣わし城に入りて之を招かしむ。朝乃ち得新を舁いで傑に見えしむ、得新大いに賊を罵り、殺され、傑も亦た系して遣わさず。而して学曾は賊の撫を求むるを以て之が為に請う、帝切に責む。是に及び、城中の百戸姚欽・武生張遐齡城外に書を射て、内応を約し、夜半に火を挙ぐ。外兵至らず、賊その党五十人を殺し、欽城を縋り出で、来り奔る。当是の時、賊は外に撫を求めて兵を緩め、而して陰に寇を結びて助けと為すも、然れども糧尽き、勢い且つ困せんとす。七月、学曾は夢熊・国楨と計を定め、黄河の大壩の水を決して之を灌ぎ、水城下に抵る。時に套寇の卜失兔・庄禿頼は三万騎を以て定辺・小塩池を犯し、土昧鉄雷を前鋒と為し、而して別に宰僧を遣わし一万騎を以て花馬池西の沙湃口より入り、拜の声援と為す。麻貴之を右溝に撃ち、寇稍く挫く、分かれて下馬関及び鳴沙洲に趨る。学曾は遊撃の龔子敬に沙湃口を扼せしめ、而して檄を飛ばして延綏総兵官董一元に土昧鉄雷の巣を搗かしめ、首百三十余級を斬り、寇大いに驚きて引き去る。子敬に遇い、之を十重に囲み、子敬死し、寇も亦た去り、賊の援遂に絶ゆ。学曾益々大壩の水を決す。八月、河堤決壊し、復た之を繕治し、城外水深く八九尺、東西の城百余丈崩る。著力兔・宰僧復た李剛堡に入る。如松・貴等之を撃ち破り、賀蘭山に追い奔る。賊益々懼れて款を求め、未だ決せず、会うに学曾罪を得て罷めらる。朝命を以て夢熊に代えしむ、夢熊遂に功を成す。

初め、学曾の人を遣わして東旸・朝を招くや、固原に十余日を留まりて之を俟つ、帝その寇を玩ぶを責む。李句河を渡る又稍く遅く、松山・河套の寇先に入り、官軍是を用いて再び利を失う。学曾嘗て上疏して監軍に兵事に関与せしめざるを令す、帝之が為に国楨を飭して其の言の如くせしむ、国楨頗る之を憾む。軍に至るに及び、諸将の観望を劾し、而して頗る寇を玩ぶを以て学曾の罪と為す。給事中許子偉も亦た学曾の招撫に惑い、国事を誤るを劾す。国楨又言う、僉事の随府城上より躍り下り、賊四人を令して下り取りしむ、我が軍咫尺にして敢えて前まらず。又北寇数万我が糧道を断ち、殺戮算無く、匿して以て奏せず、と。帝遂に大怒し、学曾を逮えて京に至らしむ。然れども学曾の逮えらるる未だ一月を逾えず、城壊れて大軍入り、賊竟に以て破滅す。

夢熊既に学曾に代わり、亦た尚方剣を賜う。時に霊州を調度し、独り国楨寧夏に監軍す。賊囲まるること久しく、食尽きて援無く、而して城水に浸され、益々大いに崩る。国楨諸将を挟みて南関に趨る。秉忠先ず登り、国楨大いに呼び、諸将畢く登る。賊退きて大城に拠り、数日攻めて下らず。国楨間をして東旸・朝・承恩を紿かしめ、互いに相殺さしめ、降りて以て其の罪を贖わしむ。三人内に猜疑し、東旸・朝遂に先ず承恩の党の文秀を誘い殺す。承恩も亦た其の党の周国柱と東旸・朝を誘い殺す。尽く東旸・朝・文秀の首を城上に懸け、門を開きて降る。如松兵を率いて拜の家を囲む。拜倉皇として縊死し、闔室自ら焚死す。夢熊霊州より馳せ至り、令を下して尽く拜の党及び降人二千を誅し、宗室士庶を慰問す。寧夏平ぐ。夢熊・正色・国楨各捷奏を上り、而して承恩を俘え京師に献ず。帝門に御して賀を受け、詔して承恩を市に磔し、夢熊・正色・国楨各世官を蔭し、如松の功第一、如薰・貴・秉忠等恩を加うること差有り。学曾初め職を奪われ民と為り、功を叙し、以て原官のまま致仕す。

学曾は事に任じて労勚たり。城を灌ぎ降を招くの策、本より其の建つる所なり。及び捷を宣ぶるに及び、帝大学士趙誌臯・張位を召見し、誌臯・位力を為して学曾を解き、尚書の星以下多く学曾の罪無きを白す。国楨も亦た上疏して言う、「学曾応変稍く緩やかなり、臣諸将を責めて以て士気を振わんことを請う。而して学曾を逮うるの命、臣の疏より発す、窃に自ら悔恨す。学曾早く雪せられずんば、臣将に万世の譏りを受けん」と。如松も亦た言う、「学曾の逮えらるる時、三軍雨の如く泣く」と。夢熊も亦た功を学曾に推す。帝初め聴かず、既にして其の官を復す。家に居ること数年卒す。夢熊は功を以て右都御史に進む。

初め、卜失兔都督ととくたり、其の部長の切尽台吉最も事を用う。切尽台吉死し、卜失兔諸部を制すること能わず。経略の鄭洛専ら事として羈縻す。学曾は洮河の変を以て、諸部の逆を為すを悪み、明安を襲い殺す。会うに拜反し、著力兔・宰僧遂に声言して拜と一家を為すとし、而して卜失兔・庄禿頼も亦た兵を引いて之を助く。及び拜誅せらるるに及び、切尽台吉の比吉は著力兔・宰僧・庄禿頼等を率い、花馬池の塞下に頓首し、罪を悔いて款を求む。夢熊之が為に奏請す。帝は夢熊の初め学曾を主とせるを以て、其の前後の異議を責め、諸部に要して叛を縛り罪を贖わしむるを令す。著力兔等款を求むること益々堅く、夢熊乃ち巡撫の田楽と四鎮の款戦の機宜を奏上し、朝議を俟つ。中外相い仗りて敢えて決せず、卜失兔遂に諸部を率いて大いに定辺に入る。総兵官麻貴等之を撃ち却け、夢熊は功を以て太子少保を加う。未だ幾ばくもせず、切尽台吉の従子の青把都児甘粛を犯し、総兵官楊浚・副総兵何崇德之を禦ぎ、首六百余級を斬る。夢熊復た太子太保・兵部尚書を加う。尋いで入りて南京工部尚書と為り、而して都御史の李汶を以て代う。洮河の変後より、寇頗る中国を軽んず。招撫の議既に絶え、諸部数えずして入犯し、四鎮遂に頻歳兵を用うる雲。夢熊功多しと雖も、其の品望は学曾に遠く出でず。官に卒す。

国楨は承恩を降伏させた後、夢熊が功を貪って降伏者を殺したことを以て、その罪を弾劾した。夢熊は上奏して弁明し、「拝が養っていた家人は皆死士であり、一二日遅らせれば、東旸・朝党が再び集まり、必ず再び乱を起こすであろう。臣は寧ろ降伏者殺害の汚名を負っても、禍の根源を断つ」と言った。帝は詔を下して両者を和解させた。功績を論じ、国楨を太僕少卿に抜擢した。一年余りして、右僉都御史に遷り、大同を巡撫した。長くして、兵部右侍郎に遷り、宣府・大同・山西の軍務を総督した。在鎮三年、市賞銀十五万両余りを節減した。父の喪で帰郷し、起用されないうちに卒去した。右都御史を追贈された。

李化龍

李化龍、字は於田、長垣の人。万暦二年の進士。嵩県知県に任じられた。年齢わずか二十歳で、胥吏どもは彼を軽んじた。化龍は密かに彼らの奸計を察知し、悉く召し出して法に照らし処置し、県内は大いに治まった。南京工部主事に遷り、右通政使を歴任した。

二十二年夏、右僉都御史に抜擢され、遼東を巡撫した。初め、総兵官李成梁が泰寧の速把亥を破って殺し、その子の把兔児の弟の炒花が旧遼陽の北に拠り、両河の中間に居住し、ますます土蛮と結んで患いとなった。その年四月、把兔児が遼陽を包囲し、朵顔の小歹青・福余の伯言児が錦州・義州を分かれて侵犯し、清細河を掠奪したため、巡撫韓取善は罪に坐して免職となった。化龍が職務に就いてわずか二ヶ月、把兔児と伯言児らが鎮武を寇し、また土蛮の子の卜言台周と約して右屯を侵犯した。把兔児が先に呉家墳に至った。化龍は総兵官董一元と計略を定め、先に把兔・伯言児を撃ち、伯言児は流れ矢に当たって死に、把兔は傷を負った。卜言台周が到着し、右屯を攻撃したが利あらず、また解いて去った。ここにおいて把兔・小歹青・卜言台周はますます結託し、前の恥を雪ごうと謀った。化龍と一元は厳重に備えた。一元はまた塞外に出て、敵の本拠地を攻撃する功績があり、把兔は傷が重くついに死に、辺塞は畏服した。詳細は一元伝に具わっている。化龍は兵部右侍郎に進んだ。

翌年、小歹青は禍を悔いて塞ぎで和を請い、義州に木市を開くことを請うとともに、朵顔の長昂が辺境を犯そうとしていると告げた。やがて、長昂は果たして錦州・義州を侵犯したが、副総兵李如梅が撃退した。歹青の言葉が信頼できることが分かったので、化龍は遂にその請いを許した。上疏して言った。

遼を囲むは皆敵である。北に連なる土蛮の種類は多く数えきれない。辺境に近い者は、寧前に対するは長昂、錦州・義州に対するは小歹青、広寧・遼陽・瀋陽に対するは把兔・炒花・花大、開原・鉄嶺に対するは伯言・暖兔であり、その東辺海西にいる者は猛骨孛羅・那林孛羅・卜寨で、皆遼地と項背相望する位置にある。塀に沿って狩りをすれば、刁斗の声が互いに聞こえるほどで、まさに肘腋の憂いである。あの卜寨が討伐されて以来、数年は東の辺境に事変がなかった。去年、把兔・伯言が戦死し、炒花・花大は一敗地に塗れた。今、伯言の子の宰賽は罰を受け、広寧で入市し、遼陽・瀋陽・開原・鉄嶺の間では警報が次第に少なくなった。未だに馴伏しない者は、ただ小歹青と長昂のみである。小歹青は元来凶暴狡猾で、諸部の中で雄長していた。西は長昂を助け、東は炒花を助けた。大挙動は数万、小規模な窃盗行為は錦州・義州の間に飛騎で出没した。周之望・柏朝翠が戦死して以来、一矢を加える者もいなかった。淩河の上下方数百里、野には暴骨が多く、民に安寧の住処はない。遠慮ある者はしばしば河西の保全を憂慮した。今、関を叩いて市を求めてきた。臣は将領及びその地の居民に広く尋ねたが、皆、木市を開くことには五つの利があると言う。第一に、河西には木材がなく、皆辺外にある。叛乱以来、河東に仰給していたが、辺境の警報のため時々届かなかった。故に河西では木材は玉よりも貴く、市が通じれば材木は使い切れないほどになる。第二に、歹青を疑う点は、信義がないことだけである。彼らは市を重んじて生路としているから、市が開かれる時は必ず掠奪を行わない。仮に今年は市を開き明年掠奪したとしても、我々は今年掠奪されない利益を得たことになる。第三に、遼東の馬市は成祖が開いたもので、他の賞賜はなく、本来は商民が交易するに任せていた。木市は馬市と同様で、民に利があり、官の費用を要しない。第四に、大挙の害は酷烈だが稀で、零窃の害は軽微だが頻繁である。小歹青が錦州・義州を掠奪しなければ、零窃は少なくなる。また西は長昂を助けず、東は炒花を助けなければ、敵の勢力は次第に分散する。すなわち寧前・広寧の患いも次第に減る。しかも大挙は事前に報せがあるので、また予め備えることができる。第五に、零窃が既に稀になれば、辺境の民はますます守備を整えることができる。

上疏が入り、従うこととなった。化龍はまもなく病気で去り、木市も停止した。その後、総兵官馬林が再び開市を議したが、巡撫李植と意見が合わず、議論は長く決せず、小歹青は遂に再び寇となったという。

二十七年三月、化龍は元の官に起用され、湖広・四川・貴州の軍務を総督し、兼ねて四川を巡撫し、播州の叛臣楊応龍を討伐した。応龍の先祖は楊鏗といった。明初に内附し、宣慰使を授けられた。応龍の性格は猜疑心が強く残忍で殺戮を好んだ。数度征調に従い、功を恃んで驕慢であった。川兵が脆弱であることを知り、密かにしょくを占拠する志を持ち、時折出没して州県を掠奪した。寵愛する側室の田雌鳳を溺愛し、讒言して正妻の張氏を殺し、その一家を誅戮した。誅罰をもって威を立て、所属する五司七姓はその虐待に耐えられず、貴州に逃げて変事を告げた。巡撫葉夢熊が上疏して大規模な征討を請うた。詔は聞き入れず、重慶の獄に逮捕・拘禁した。応龍は詭計を用いて兵を率いて倭を征伐し自らの効力を示すと言い、脱出して帰還した。再び逮捕を命じられたが、出頭しなかった。四川巡撫王継光が兵を発して討伐したが、白石で敗北し、応龍は罪を諸苗に転嫁した。朝廷は邢玠を総督に命じた。東西で戦争が行われている時で、情勢として徹底的に処罰できず、そこで招撫した。応龍はますます生苗と結び、五司七姓の地を奪い、さらに湖広の四十八屯を合わせて彼らに与え、毎年出て侵掠した。この年二月、飛練堡で官軍を破り、都司の楊国柱・指揮の李廷棟らが皆死んだ。やがて、また綦江の参将房嘉寵・遊撃張良ちょうりょう賢を破って殺し、屍を投じて江を蔽うほどにした。偽軍師の孫時泰は重慶を直ちに取り、成都を衝き、蜀王を人質に奪うことを請うたが、応龍は遷延し、地界を争うと声言し、かつてのように曲って赦されることを期待した。化龍が成都に到着した時、徴兵は未だ到着せず、また偽って友好的な言葉で繋ぎ止めた。

帝は綦江が破られたことを聞き、大いに怒った。前の四川・貴州巡撫の譚希思・江東之の職を追って剥奪し、化龍に剣を賜い、便宜を許して賊を討伐させた。賊は東坡・爛橋を焼き、湖広・貴州への道を塞ぎ、また竜泉を焼き、都司の楊惟忠を敗走させた。化龍は命令に従わない諸大将を弾劾し、沈尚文は逮捕処罰され、童元鎮・劉廷は皆、職を革められて事官に充てられた。諸軍が大いに集結すると、化龍は先に水西の兵三万を檄して貴州を守らせ、苗を招く道を断ち、そこで重慶に移り、文武の官を大いに誓わせた。翌年二月、八道に分かれて進軍した。川師は四路:総兵官劉綎は綦江より、総兵官馬孔英は南川より、総兵官呉広は合江より、副将曹希彬は広の節制を受け、永寧より。黔師は三路:総兵官童元鎮は烏江より、参将朱鶴齢は元鎮の節制を受け、宣慰使安疆臣を統率して沙溪より、総兵官李応祥は興隆より。楚師は一路で両翼に分かれる:総兵官陳璘は偏橋より、副総兵陳良比は璘の節制を受け、竜泉より。各路の兵は三万、うち官兵が三分、土司の兵が七分である。貴州巡撫郭子章は貴陽に駐屯し、湖広巡撫支可大は沅州に移り、化龍は自ら中軍を率いて策応した。帝は楚の地が広大であるため、また江鐸を僉都御史に抜擢し、偏橋・沅州を巡撫させた。湖広に偏沅巡撫が設置されたのは、鐸から始まるのである。

推官高折枝が先に南川の兵を率いて進み、桑木鎮を占拠し、劉綎もまた綦江より入った。楊応龍は精兵二万をその子朝棟に付けて言う、「汝は綦江を破り、南川に馳せ、蓄積をことごとく焼き払え、彼らは為す能わぬであろう」と。諸路の兵に抗するや、皆大敗し、応龍は地を踏み嘆いて言う、「我、時泰の計を用いざりし、今死すべし」と。或いは水西が賊を助けたと伝えると、化龍はこれを疆臣に詰問し、賊の使者を斬り、両氏の交わりは遂に絶えた。烏江の兵は敗績し、元鎮を捕らえて獄に下し、諸将はますます奮い立った。劉綎は先に婁山関に入り、直ちに海龍囤に抵り、陳璘・疆臣の兵もまた至った。賊の勢い急なり、囤上に登って死守し、使者を遣わして詐降す。化龍は諸将に檄を飛ばし、使者を斬り、書を焼かしむ。劉綎が応龍と旧交あるをもって、賊と通ずるなきを諭し、綎はその人を械にかけて自らの潔白を明らかにした。八路の兵皆囤下に会し、長囲を築いてこれを困らせ、交代で重ねて攻撃した。六月、劉綎は土・月の二城を破り、応龍は窮し、二妾とともに縊死した。明くる朝、官軍城に入り、七子皆捕らえられた。詔して応龍の屍と子朝棟を市で磔にす。出師より賊滅するまで、凡そ百十四日。播州は唐の乾符中に楊氏に入り、二十九世、八百余年、応龍に至って絶え、その地に遵義・平越の二府を置き、川・貴に分属させた。

化龍は初め父の喪に服していたが、金革の故を以って起復し、ここに至り帰って喪に終わることを乞うた。三十一年四月、工部右侍郎に起用され、河道を総理し、淮・揚巡撫李三才とともに淤河を開き、直河より泇口に入り夏鎮に抵る二百六十里を開き、黄河呂梁の険を避けた。再び憂いにより去り、代わらず。前の播州平定の功を叙し、兵部尚書に進み、少保を加えられ、一子に世襲の錦衣指揮使を蔭した。

三十五年夏、戎政尚書に起用される。化龍は京営を根本とし、十一の濫・十二の苦・十九の宜を奏陳し、また屯政十二事を上奏したが、皆取り上げられなかった。兵部は二十七年以後、左・右侍郎皆空署であった。未だ幾ばくもせず、尚書蕭大亨もまた致仕し、化龍が部事を掌った。三十七年正月、京師に寇至るとの風説が立ち、民争って避難隠匿し、辺民都門に逃げ入る者も数万、九門昼も閉ざされた。輔臣が兵部尚書はただ一人、どうして急変に応じられようかと言うも、帝もまた答えなかった。遼の戦士二万余は皆老弱で、税監高淮が肆虐し、遼人は歯ぎしりした。化龍は税課を停め、かつ兵を万人増やすことを請い、また兵食款戦の策を条上したが、帝は皆答えなかった。一品の秩満ちて、柱国・少傅兼太子太保を加えられた。官において卒す。年七十。謚して襄毅、少師を贈られ、太師を加贈された。

化龍は文武の才を備えていた。播州の役では、劉綎が驕慢であるのを以って、先ずこれを挫きながらその才を推薦したので、劉綎は尽力した。開河の功は、漕渠の永利となり、詳しくは『河渠志』に見える。

附 江鐸

江鐸、字は士振、仁和の人。高祖こうその比は、景泰時に礼科給事中となった。石亨が寵を恃み上を罔くするを弾劾し、直声あり。官は山東参政に至る。曾祖の瀾は、正徳時に南京礼部尚書。卒して文昭と謚される。祖の曉は、嘉靖中に工部侍郎。父の圻は、万暦初めに広西提学僉事。父母の疾に際し、薬を嘗め糞を舐めた。喪に服して苫に寝ること三年、寝室を経るごとに必ずその首を俯せ、妻も夫の廬を経る時は同じくした。卒し、門人私しく孝端先生と謚す。比より鐸に至るまで五世皆進士。而して曉の弟の暉は、正徳中に庶吉士となり、舒芬らとともに南巡を諫めて杖罰を受けた。世宗の時、編修より出でて河南僉事となる。鐸は万暦二年に登第。刑部主事を授かる。累官して山西按察使となり、偏・沅の巡撫に抜擢される。楊応龍を夾攻して功あり、郭子章とともに一子に世襲の錦衣指揮を蔭す。母の喪に服して去る。奪情され、留まって皮林諸洞の蛮を討つことを命じられ、これを平定した。詳しくは『陳璘伝』に具わる。労疾により帰る。卒し、兵部右侍郎を贈られる。

【贊】

贊して曰く、哱拜は一降人に過ぎず、爵秩を仮せられしとはいえ、憑藉厚からず。倉卒に難を発し、鎮城を占拠し、外寇と連合して、辺鄙これがために騒然たり、武備の弛み、由来あるかな。楊応龍は悪稔りて貫盈し、自ら殄滅を速めたり。然れども盤踞積久、地形険悪、師武臣力に非ざれば、奏績豈に易く言わんや。李化龍の功は韓雍・項忠と相埒し、寧夏の役に較べれば、難易懸絶せり。