海瑞
海瑞、字は汝賢、瓊山の人である。郷試に挙げられた。都に入ると、ただちに闕下に伏して『平黎策』を上奏し、道を開き県を置いて郷土を安んじようと請うた。識者はその志の雄壮さを認めた。南平教諭を代行した。御史が学宮に至ると、属吏は皆伏して謁したが、瑞のみ長揖して言うには、「台謁は属礼をもってすべきである。この堂は師長が士を教える地であり、屈すべきではない」と。淳安知県に遷る。布の袍に精白しない粟を食し、老僕に野菜を作らせて自給した。総督胡宗憲は嘗て人に語って言うには、「昨聞く、海令が母の寿のために肉を二斤買ったと」と。宗憲の子が淳安を過ぎ、駅吏を怒って逆さ吊りにした。瑞は言うには、「昔、胡公が部内を巡察した際、過ぐる所に供張するなと命じられた。今その行装が盛んなのは、必ずや胡公子ではない」と。庫の金数千を開け、それを官庫に納め、急ぎ宗憲に告げたので、宗憲は罪にすることができなかった。都御史鄢懋卿が部内巡行で通過した際、供応の具は甚だ粗末で、邑が小さく車馬を容れるに足らぬと抗弁した。懋卿は甚だ憤った。しかし平素より瑞の名を聞いていたので、威を収めて去り、代わりに巡塩御史袁淳に命じて瑞及び慈谿知県霍與瑕を弾劾させた。與瑕は尚書霍韜の子で、これまた抗直にして懋卿に諂わぬ者であった。時に瑞は既に嘉興通判に抜擢されていたが、罪に坐せられて興国州判官に貶謫された。久しくして、陸光祖が文選郎中となると、瑞を戸部主事に抜擢した。
時に世宗は国を享有すること日久しく、朝に親しまず、深く西苑に居り、専ら斎醮に意を用いた。督撫の大吏は争って符瑞を上奏し、礼官は直ちに表を奉って賀した。廷臣は楊最・楊爵が罪を得て以来、時政を言う者無かった。四十五年二月、瑞ひとり上疏して言うには、
臣は聞く、君は天下の臣民万物の主であり、その任は至って重い。その任に称えんと欲すれば、ただ臣下に責を寄せて、言を尽くさせればよい。臣は肝胆を披瀝し、陛下のためにこれを陳べんと請う。昔、漢の文帝は賢主であったが、賈誼なお痛哭流涕して言った。苛責したのではなく、文帝の性質が仁にして柔に近く、民に及ぼす美政があっても、怠り廃れることを免れないであろうと、これが誼の大いに慮ったところである。陛下の天資は英断にして、漢の文帝を遠く過ぎている。しかし文帝はその仁恕の性質を充たし、用を節して人を愛し、天下に銭の貫が朽ち粟が陳ぶるまでにし、ほとんど刑措に至らしめた。陛下は則ち鋭精すること久しからず、妄念に牽かれて去り、剛明の質を反って誤って用いた。遂には遐挙を得られると謂い、一意に修真に努め、民の脂膏を竭くし、濫りに土木を興し、二十余年朝を視ず、法紀は弛んだ。数年事例を推広し、名器は濫った。二王相見えず、人は父子の情薄しと為す。猜疑誹謗をもって臣下を戮辱し、人は君臣の義薄しと為す。西苑を楽しんで返らず、人は夫婦の道薄しと為す。吏は貪り官は横暴で、民は聊生せず、水旱時に無く、盗賊は滋え熾んである。陛下は試みに今日の天下が如何なるかを思し召されたい。近ごろ厳嵩が宰相を罷められ、世蕃は極刑に処せられ、一時人心を快くした。しかし嵩が罷めて後も、なお嵩が相となる前と同じであり、世は甚だ清明ではなく、漢の文帝には遠く及ばない。蓋し天下の人が陛下を正しからずとするは久しい。古より人君に過ちあれば、臣下の匡弼に頼った。今は斎を修め醮を建て、相率いて香を進め、仙桃天薬を、同じく辞を以て表賀する。宮を建て室を築けば、則ち将作監は力を竭くして経営し、香を購い宝を市すれば、則ち度支は人を差し求めて四方に出づ。陛下は誤って挙げられ、諸臣は誤って順い、一人として陛下のために正言を為す者無く、諛うこと甚だしい。しかし心に愧じ気に餒けて、退いて後言あり、君を欺く罪は如何なるものか。天下は陛下の家である。人はその家を顧みざる者無し。内外の臣下は皆、陛下の家を奠め磐石たらしめる者である。一意に修真するは、陛下の心が惑っているのである。苛断に過ぎるは、陛下の情が偏っているのである。それでいて陛下がその家を顧みないと言えば、人情であろうか。諸臣は私に殉じて公を廃し、一官を得ても多くは欺きによって敗れ、多くは事に事とせずして敗れ、実に陛下の意に当たるに足らざる者がある。そうでない者は、君心と臣心が偶々相値わなかったのであり、それで遂に陛下が臣下を厭い薄しとすると言い、これをもって諫めを拒むのである。一二の不適当なことを執って、千百の皆然りと疑い、陛下を過挙に陥れながら、恬として怪しまず、諸臣の罪は大きい。『記』に曰く「上人疑うれば則ち百姓惑い、下知り難ければ則ち君長労す」と、これがその謂いである。且つ陛下の誤りは多いが、その大端は斎醮にある。斎醮は長生を求める所以である。古より聖賢の垂訓は、身を修め命を立つるには「正を受くるに順う」と言い、所謂長生の説を聞いたことは無い。堯・舜・禹・湯・文・武は聖の盛んなる者であるが、久しく世に在ること能わず、その下を見ても、方外の士で漢・唐・宋より今に存する者を見ない。陛下は陶仲文より術を受け、師と称してこれを称した。仲文は則ち既に死んだ。彼は長生せず、陛下は何ぞ独りこれを求めるのか。仙桃天薬に至っては、怪妄ことさらに甚だしい。昔、宋の真宗が乾祐山で天書を得た時、孫奭が言うには、「天何ぞ言わんや、豈に書あらんや」と。桃は必ず採って後得られ、薬は必ず製して後成る。今故無くしてこの二物を得るとは、足有りて行くのか。天の賜うと言うは、手有りて執りてこれを付すのか。これは左右の奸人が妄誕を造って陛下を欺き、陛下は誤ってこれを信じ、実然りと為す、過ちである。陛下は刑賞を懸けて臣下を督責すれば、分理する者あり、天下治まらざる無しと謂い、修真は害無しと為すのか。太甲に曰く、「言汝の心に逆らう有らば、必ず諸れを道に求めよ。言汝の志に遜る有らば、必ず諸れを非道に求めよ」と。人を用いて必ずその唯言違う莫からんことを欲するは、陛下の計の左なるものである。既に厳嵩を見よ。陛下に順わざる者一つでもあったか。昔は同心であり、今は戮首である。梁材は道を守り官を守り、陛下は逆と為す者であるが、歴任して声有り、戸部の官にある者は今に至るまで首としてこれを称える。しかし諸臣は嵩の順を為すを寧ろし、材の逆を為さず、陛下の微を窺う有って、潜かに趨避を為すに非ずや。即ち陛下もまた何の利かこれに在る。陛下が誠に斎醮の益無きを知り、一旦翻然として悔悟し、日に正朝に御し、宰相・侍従・言官と天下の利害を講求し、数十年の積誤を洗い、身を堯・舜・禹・湯・文・武の間に置き、諸臣をもってまた自ら数十年君に阿る恥を洗わせ、その身を皋・夔・伊・傅の列に置かしめれば、天下何ぞ治まらざるを憂え、万事何ぞ理まらざるを憂えん。これは陛下一人の振作する間に在るのみである。これを釈して為さず、切々として軽挙度世に心を寄せ、精を敝え神を労して、これを系風捕影・茫然として知るべからざる域に求めれば、臣は終身労苦して、終に成す所無きを見る。今、大臣は禄を保持して諛うことを好み、小臣は罪を畏れて舌を結ぶ。臣は憤恨に勝えず。ここをもって死を冒し、願わくば区区を尽くさん。惟うに陛下垂聴あらんことを。
帝は上疏を得て、大いに怒り、地に投げつけ、左右を顧みて言った、「急いでこれを捕らえよ、遁走させてはならぬ」。宦官の黄錦が側にいて言った、「この人は元来癡名がある。上疏する時、自ら死を覚悟し、棺を買い、妻子に別れを告げ、朝廷に待罪し、僮僕も散り散りに逃げ去って留まる者もない。これは遁走しない者である」。帝は黙然とした。しばらくして再び取り上げて読み、日に再三、感動してため息をつき、数ヶ月間留中した。かつて言った、「この人は比干に比すべきであるが、ただ朕は紂ではない」。ちょうど帝が病に罹り、煩悶して楽しまず、閣臣の徐階を召して内禅を議し、ついでに言った、「海瑞の言うことはすべて正しい。朕は今病が長く、どうして政務を見ることができようか」。また言った、「朕が自ら謹んで惜しまなかったので、この病苦に至った。もし朕が便殿に出て政務を執ることができれば、どうしてこの人の罵詈を受けることがあろうか」。そこで瑞を詔獄に下し、主使者を究めた。まもなく刑部に移し、死罪を論じた。獄案が上ると、依然として留中した。戸部司務の何以尚という者は、帝に瑞を殺す意がないと推測し、上疏して釈放を請うた。帝は怒り、錦衣衛に命じて百回杖打ち、詔獄に錮し、昼夜にわたって拷問した。二月を経て、帝が崩じ、穆宗が立つと、二人はともに釈放された。
帝が崩じた当初、外廷では多く知らなかった。提牢主事が状況を聞き、瑞がまさに任用されようとしていると考え、酒食を設けてもてなした。瑞は自ら西市に赴くべきものと疑い、思うままに飲食し、顧みなかった。主事は耳に寄せて言った、「宮車がちょうど晏駕しました。先生は今すぐに大用されるでしょう」。瑞は言った、「本当か」。即ち大いに慟哭し、飲食したものをすべて吐き出し、地に倒れて気絶し、終夜泣き声が絶えなかった。釈放されると、元の官に復した。まもなく兵部に改めた。尚宝丞に抜擢し、大理寺に転じた。
帝はたびたび瑞を召し用いようとしたが、執政が陰に阻み、南京右都御史とした。諸司は元来怠惰であったが、瑞は自らを以てこれを矯めた。ある御史がたまたま戯楽を陳べたので、太祖の法に従って杖刑を与えようとした。百官はおののき恐れ、多くこれを苦しみ患った。提学御史の房寰は糾弾されることを恐れ、先手を打とうとし、給事中の鐘宇淳がまた慫慂し、寰は再び上疏して醜く誹謗した。瑞もまたたびたび上疏して休職を乞い、慰留されて許されなかった。十五年、官のまま卒した。
瑞に子はなかった。卒した時、僉都御史の王用汲が訪ねて見ると、葛の帷と破れた籝があり、寒士でさえ耐えられないような有様であった。そこで涙を流し、金を醵して葬儀を行った。小民は市を罷めた。喪が江上に出ると、白衣冠の送る者が両岸に立ち並び、酒を奠して哭する者が百里にわたって絶えなかった。太子太保を贈られ、諡して忠介といった。
瑞の生平の学問は、剛を主とし、自ら剛峰と号したので、天下は剛峰先生と称した。かつて言った、「天下を治安させたいならば、必ず井田を行わねばならない。やむを得ず限田し、またやむを得ず均税すれば、なお古人の遺意を保つことができる」。故に県令から巡撫に至るまで、赴くところで清丈を力行し、一条鞭法を頒布した。意は民を利することを主としたが、行うことは偏りがないとは言えなかった。
何以尚
最初に瑞を救った者は何以尚、広西興業の人で、郷挙から起家した。獄を出て、光祿丞に抜擢された。また高拱を弾劾して罪に坐し貶謫された。拱が罷免されると、雷州推官として起用され、終に南京鴻臚卿となった。
丘橓
丘橓、字は茂実、諸城の人。嘉靖二十九年の進士。行人から刑科給事中に抜擢された。三十四年七月、倭六七十人が道に迷って流れ劫掠し、太平から直ちに南京に迫った。兵部尚書の張時徹らは城門を閉じて出ようとせず、二日を経て引き去った。給事中御史が時徹及び守備の諸臣の罪を弾劾し、時徹もまたその事を上奏したが、言葉は多く隠し庇っていた。橓はその欺瞞を弾劾し、時徹及び侍郎の陳洙はともに罷免された。帝は久しく朝に出ず、厳嵩が国柄を専らにした。橓は権臣は独任すべきでなく、朝綱は久しく弛むべきでないと言い、厳嵩は深くこれを恨んだ。やがて、嵩の党の寧夏巡撫の謝淮、応天府尹の孟淮の貪黷を弾劾し、謝淮は罪に坐して免職された。この年、嵩が敗れると、橓は嵩によって進められた順天巡撫の徐紳ら五人を弾劾し、帝はそのうち三人を罷免した。兵科都給事中に遷った。南京兵部尚書の李遂、鎮守両広の平江伯陳王謨、錦衣指揮の魏大経が皆賄賂によって進んだことを弾劾し、大経は吏に下され、王謨は任を革められた。やがて、また浙江総兵官の盧鏜を弾劾して罷免させた。寇が通州を犯し、総督の楊選が逮捕された。寇が退くと、橓はその僚とともに善後事宜を陳べ、辺弊を痛切に指摘した。帝は橓が早く選を弾劾しなかったとして、六十回杖打ち、民に斥け、その他は辺方の雑職に貶謫された。橓が帰る時は、ぼろ衣一篋、図書一束だけであった。隆慶初め、礼科に起用されたが、赴任しなかった。まもなく南京太常少卿に抜擢され、大理少卿に進んだ。病で免官された。神宗が立つと、言官がこぞって推薦した。張居正がこれを憎み、召さなかった。
万暦十一年の秋、右通政に起用された。未だ赴任せず、左副都御史に抜擢され、一輛の粗末な車で道に就いた。既に朝廷に入り、吏治の積弊八事を陳述し、言うには、
臣が国を去ること十余年、士風は次第に頽れ、吏治は転じて汚れ、遠近蕭條、日一日と甚だしくなる。これは世運が偶然にそうなったのではなく、風紀が振るわないが故である。例えば京官の考満には、河南道が例として称職と書する。外吏の給由には、撫按官が一概に保留を与える。朝廷の甄別の典を以て、人臣の交市の資と為す。敢えて私に徇って法を尽くすことを敢えず、悪は懲らるる所なく、賢もまた安んじて勧められようか。これ考績の積弊、その一である。
御史が巡方するに、未だ国門を離れずして、密かに嘱する者の姓名、既に私牘に満ちる。甫めて臨む所部に、請事の竿牘、又た行台に満つ。豸冠持斧の威を以てしながら、手を束ね眉を俯せ、人の頤指に聴く。これ請托の積弊、その二である。
撫按が監司の考語を定むるに、必ず有司に托す。有司は則ち是非を顧みず、善考を侈り加え、監司は徳し且つ之を畏る。彼此結納し、上下の分蕩然たり。其の守令を考うるも亦た是の如し。これ訪察の積弊、その三である。
貪墨風を成し、生民塗炭に陥るも、劾罷する所の者は大抵単寒軟弱の流である。百足の虫、翼を傅えたる虎たるや、即ち贓穢狼籍すとも、還た薦剡に登る。小吏を厳しくし大吏を寛くし、去任を詳らかにし見任を略す。これ挙劾の積弊、その四である。
貪を懲らしむるの法は提問にある。乃ち豺狼は遺れられ、狐狸は是れ問われ、徒らに其の名有るのみ。或いは陰に之を縦して去らしめ、或いは累ねて逮うも行わず、或いは批駁して以て相延べ、或いは朦朧として以て倖免す。即ち或いは終竟其事するも、亦た必ず長厚の名を博し、以て法を尽くすを自ら嫌う。苞苴或いは万金を累ぬるも、贓は止だ之を銖黍に坐す。草菅或いは数十命も、罰は其の毫釐を傷らざる。これ提問の積弊、その五である。
薦挙糾劾は、以て有司を勧儆する所以である。今薦するには則ち先ず進士にして挙監、憑藉する者有らざれば与せられず。劾するには則ち先ず挙監にして進士、訾議する者有りと雖も罕に之に及ぶ。晋接差委、専ら出身の途を計る。ここに於て同一の官なりと雖も、敢えて席を接して坐し、肩を比べて行かず。諸人自ら分けて低昂し、吏民観瞻頓に異なる。驕縱の風を助成し、賢豪の気を大いに喪う。これ資格の積弊、その六である。
州県の佐貳は卑しと雖も、亦た民に臨む官なり、必ず礼を以て待ち、然る後に法を以て責むべし。今や役使譴訶、輿隸に異なる無し。独り其の汚黷民を害するを任せ、禁治するを屑せず。礼と法と両ながら之を失う。学校の職は、賢才関わる所、今職業を問わず、而して一に其の為す所に聴く。及んで考課に至れば、則ち曰く「此れ寒官なり」と、一概に上考を与う。若輩は上官我を重んぜざるを知れば、則ち因って自ら棄て、上官必ず我を憐れむを知れば、又た従って日に偷む。これ佐貳教職を処するの積弊、その七である。
科場に士を取る、故に門生・座主の称有り。巡按の如きは、挙劾其の職なり。乃ち劾する者は其の怨を任せず、挙する者は独り恩と為るを冒す。之を挙主として尊び、而して門生を以て自ら居り、筐篚問遺、終身廃せず。明揚の典を仮り、賄賂の門を開く、清白の吏天下に見るに概ねられざるも惑うる無きなり。方今国と民と倶に貧しく、而して官独り富む。既に官を以て富を得、還た富を以て官を市う。これ餽遺の積弊、その八である。
要するに此の八者は、敗壞の源は外に在らず、従って転移するも亦た下に在らざるなり。昔斉の威王一の阿大夫を烹り、一の即墨大夫を封じ、而して斉国大いに治まる。陛下誠に大いに乾剛を奮い起こし、痛く吏弊を懲らしめば、則ち風行きて草偃がず、天下立って治まるべし。
疏奏す、帝善しと称す。所司に勅して撫按に下し奉行せしめ、詔に如かざる者は罪す。
頃くして、言う、「故給事中魏時亮・周世選、御史張檟・李復聘は高拱に忤いて見黜せられ、文選郎胡汝桂は尚書に忤いて傾けらる。宜しく甄録を賜うべし。御史于応昌は劉台を構陷し王宗載と同罪、宗載は戍に遺るも応昌は止だ官を罷むるのみ。労堪は福建を巡撫し、侍郎洪朝選を殺す。御史張一鯤は応天郷試を監し、王篆の子之鼎は夤縁して中式す。錢岱は湖広郷試を監し、先期に居正の少子を請いて還り就試せしめんとし、会して居正卒するに及び果たさず、遂に私に篆の子之衡を中す。曹一夔は身風憲に居り、盛んに馮保を称して顧命大臣と為す。硃璉は則ち馮保を結んで父と為し、游七を兄と為す。此の数人者は、名教に得罪すと雖も、而も亦た止だ官を罷むるのみ。これ綱紀の振わざる所以、人心の服せざる所以なり。臣初めて台に八し、誓って積弊を掃除せんとす。今罪に待つこと三月、而して大吏恣肆し、小吏貪残し、小民怨咨し、四方賂遺旧の如し、臣の職に任ぜざる見るべし。請う罷斥して以て位有る者を儆ますことを。」時に已に刑部右侍郎に遷る。帝優詔を以て之に報う。時亮・世選・檟・復聘・汝桂を召し還し、慶昌・堪・一鯤・一夔・璉の籍を削り、岱を三秩貶す。未だ幾ばくもせず、中官張誠と偕に張居正の家を籍す往く。還りて左侍郎に転じ、俸一秩を増す。尋いで南京吏部尚書を拝し、官に卒す。太子太保を贈られ、諡して簡肅と曰う。
橓は強直にして搏撃を好み、其の清節は時に称せらる。
呂坤
二十五年五月、上疏して天下の安危を陳べ、その要旨は次の通りである。
窃かに見るに、元旦以来、天気は昏黄にして日光は黯淡たり。占う者はこれを乱の徴と為す。今、天下の勢は乱象已に形を成し、而して乱勢未だ動かず。天下の人、乱心已に萌し、而して乱人未だ唱えず。今日の政は、皆乱機を播きて之を動かし、乱人を助けて之を唱えしむる者なり。臣敢えて救時の要務を以て、陛下に陳ぶ。
古より幸乱の民に四つ有り。一に曰く無聊の民。飽温由無く、身家俱に困し、因って逞乱の心を懐き、須臾の死を緩がんことを冀う。二に曰く無行の民。気高く性悍し、法を玩びて生を軽んじ、居常は玉帛子女を愛して得ず、及ぶ変有れば則ち淫掠を図る。三に曰く邪説の民。白蓮結社、遍く四方に及び、教主伝頭、所在聚を成す。倘し招呼の首有らば、此れ其の帰附の人なり。四に曰く不軌の民。釁に乗じ機を蹈み、妄りに雄長を思う。惟だ目前に変有らんことを冀い、天下の太平を楽しまず。陛下己を約し人を愛し、上を損じて下を益せば、則ち四民皆赤子なり、然らずんば悉く寇仇と為らん。
今、天下の蒼生貧困なること知るべし。万暦十年以来、歳災無からず、催科故の如し。臣久しく外吏と為り、陛下の赤子、凍骨兼衣無く、飢腸再食せず、垣舍蔽わず、苫槁未だ完からず、流移日々に衆く、棄地猥りに多きを見る。留むる者は去る者の糧を輸し、生くる者は死する者の役を承く。君門万里、孰か能く仰ぎ訴えん。今、国家の財用耗竭なること知るべし。数年以來、寿宮の費幾百万、織造の費幾百万、寧夏の変幾百万、黄河の潰幾百万、今大工・采木の費、又各幾百万なり。土広く加わらず、民多く加わらず、雨菽湧金有るに非ざれば、安んぞ計を為さん。今、国家の防禦疏略なること知るべし。三大営の兵は以て京師を衛うなり。乃ち馬半ば羸敝し、人半ば老弱なり。九辺の兵は以て外寇を禦ぐなり。皆上を挟むには勇なり、戎に臨むには怯む。外衛の兵は以て徴調に備え守禦を資すなり。伍は役占に缺け、家は需求に累わされ、皮骨僅かに存するも、折冲何に頼らん。設い千騎横行する有らば、兵用に足らず、必ず民丁を選ばん。怨民を以て怨民を闘わしむれば、誰か与に合戦せん。
人心は国家の命脈なり。今日の人心、惟だ陛下の之を収むるを望むのみ。関隴は気寒く土薄く、民生実に艱し。花絨を造るより、比戸困趣逼まる。提花染色、日夜休む無く、千手経年、一匹を成さず。他の若し山西の〓、蘇・松の錦綺、歳額既に盈ち、加造已まず。饒州の磁器、西域の回青に至りては、不急の須、徒らに小民の敲骨を累わす。陛下誠に一切停罷し給わば、而して江南・陝西の人心収まれり。
采木を以て之を言う。丈八の囲は百年の物に非ず。深山窮谷、蛇虎雑居し、毒霧常に多く、人煙絶えて少なく、寒暑飢渴瘴癘に死する者は論うる無論なり。乃ち一木初めて臥すや、千夫難く移す。倘し阻艱に遇わば、必ず傷殞を成さん。蜀民の語に曰く「山に入ること一千、山を出づること五百」。哀しむべきこと知るべし。海木に至りては、官価一株千両と雖も、比来都下に至りて、費や何ぞ万金に止まらん。臣、楚・蜀の人を見るに、采木に談及びて、哽咽せざるは莫し。苟くも其の数を損じ、其の直を増し、其の歳月を多くし、其の尺寸を減ぜば、而して川・貴・湖広の人心収まれり。
採礦を以て之を言う。南陽諸府、比歳饑荒たり。生氣方に蘇り、菜色未だ変ぜず。自ら殷戸に責めて報ぜしむるより、半ば已に驚逃す。自ら礦夫の工食・官兵の口糧を供応するより、多く累死に至る。自ら都御史李盛春の厳旨切責より、撫按は罪を畏れて敢えて言わず。今、礦沙利無く、民に銀を納むるを責む。而して奸人仲春復た攘奪侵漁の計を為す。朝廷一金を得るに、郡縣千倍を費やす。誠に使者を敕戒し、砂を散じて銀を責めず、小民を侵奪する仲春の若き者有らば、誅して赦さず、而して四方の人心収まれり。
宮店の租銀収解は、趙承勳四千の説を造るより、而して皇店開く。朝廷内官の遣わし有るより、而して事権重し。夫れ市井の地は、貧民升合絲毫を求めて身家を活かす所なり。陛下万方の富を享け、何ぞ彼に頼らん。且つ馮保八店、屋幾何ぞ、而して歳に四千金の課有り。課既に四千、徴収何ぞ数倍に止まらん。市民を奪わずんば、将に安く之を取らん。今、豪家僕を遣わして肆を設け、居民尚お其の殃を受く。況んや特に中貴を遣わし、之に敕書を賜い、卵を圧するの威を以て、沢を竭くすの計を行わば、民困豈に顧問せんや。陛下内臣を撤還し、有司に課を輸するを責め給わば、而して畿甸の人心収まれり。
天下の宗室は皆九廟の子孫なり。王守仁・王錦襲は蓋世の神奸、数千里を隔て藉り、而して王弼の子孫を冒認し、事三百年を隔て、而して受寄の財産を妄称す。中間に絲綸を偽造し、詔旨を仮伝し、明らかに聖主を欺き、暗く親王を陥る。楚王の恨みを銜んで自殺する有ること有るが如きは、陛下何の辞を以て高皇帝の霊に謝せん。此の両賊は、罪応に誅殛すべし。乃ち止むるに回籍を令するのみ。臣万姓の驚疑を恐る。誠に急ぎ二賊を斬りて楚王に謝し給わば、而して天下宗籓の心収まれり。
崇信伯費甲金の貧、十廂珠寶の誣は、皆通国の知る所なり。始め科道の風聞に誤り、厳追猶お過ちと為さず。今真に其の枉を知り、又た禁錮を加う。実に無辜を害す。請う、甲金の革去せられたる禄を還し、五城廠衛の降斥せられたる官を復し給わば、而して勳戚の人心収まれり。
古より聖明の君、豈に誹謗の語を楽しまん。然れども務めて言を求めて諫者を賞するは、天下の存亡言路の通塞に係るを知るなり。比来駆逐既に多く、選補皆罷む。天閽邃密、法座崇厳、若し四聰を広く達せずんば、何に由りて明らかに万里を照らさん。今、陛下の聞く所は、皆衆人の敢えて言う所なり。其の敢えて言わざる所は、陛下聞くを得ず。一人孤立して万乗の上に在り、挙朝顔を犯し耳に逆らう人無し。快きは一時に在り、憂いは他日に貽す。陛下誠に曹学程の繫を釈し、呉文梓等の官を還し、凡そ建言して罪を得たる者、悉く分別して召用し給わば、而して士大夫の心収まれり。
朝鮮は東の辺境に密接し、我が肘腋に近く、平壌は西に鴨緑江に隣接し、晋州はまさに登州・萊州と対峙する。もし倭夷がこれを奪い取って、その衆を兵とし、その地で食糧を調達すれば、進んでは我が漕運を断ち、退いては我が遼東を窺う。一年も経たぬうちに、京城は坐して困窮し、これは国家の大いなる憂いである。しかるに彼らは兵を請うてはその説を二転三転させ、兵を許してはその期日を延ばし緩める。力尽き勢い屈し、倭に折れて入らぬことは止まない。陛下が誠に早く大計を決し、力を合わせて東征すれば、属国の人心は収まるであろう。
財産没収の法が厳しくなって以来、連座する者が多い。転送寄託の罪に坐せれば、家財をことごとく没収する。多額の賄賂と誣告すれば、親族知人を互いに連座させる。邸宅を一封じれば鶏や豚の大半が餓死し、人が捕らわれ出れば親戚も敢えて匿わない。これに官吏の法が厳しく、兵士の捜索が過酷で、若い婦女子にも衣服を脱がせる。臣はかつてこれを見て、目を覆い鼻を酸ませた。これは果たして全て正犯の家、重罪の人であろうか。一字が引っかかれば、百口も弁解が難しい。奸人はまた機に乗じて恐喝し、財産を脅し取って、満足するまで止まない。半年の内に、京師中をかき乱す。陛下はこれをご存知か。財産没収の挙を慎み、無辜の者の拘束を解き、都下の人心を収められたい。
歴代の先帝が御在位の時、宦官や宮妾が少なかったわけではないが、鞭打ちで死んだ者は多く聞かない。陛下は数年この方、疑い深く怒りが盛んである。広い宮廷の中では、血肉が散乱し、宮禁の内では、悲しみ嘆く声がする。険悪な気と冤魂が、福祥の地に集まっている。今、門を囲み戸を守る者たちは皆、心を傷め横目で見る人々である。外見は忠勤を装い、内には邪悪な毒を秘める。朝夕自らの保身もできないなら、九死の中、どうして一身を惜しもうか。陛下の臥榻の傍らに、心を同じくする者は幾人いるか。夜の闇の中、患いを防ぐ者は幾人いるか。臣はひそかに憂える。どうか少し威厳を和らげ、鞭打ちを慎んで用い、側近の人心を収められたい。
祖宗以来、一日に三度朝議する時もあり、一日に一度朝議する時もあった。陛下が長く朝議を視られないので、人心は弛緩の極みに達し、奸邪の者が深く窺いを付け、守衛の官軍はただ故事をなぞるだけである。今、乾清宮を修造しており、御前の近くに迫り、軍夫が往来するが、誰がその面貌を識別できようか。万一不測の事があれば、どう対応するのか。臣は、宮門の鍵を明け方に開け、軍夫を日暮れに解放することを望む。軍国の急務でない限り、くれぐれも夜間に伝宣しないように。上奏文に返答がないのは、先朝にはなかった。今日に至っては、大半が留中されている。もし国家の大事があり、実封を遮って、外に向かって『留中になった』と言いふらしたら、人はそれを知るだろうか。どうか今後、批答に及ばない上奏文は、毎日御前で一枚ずつ発し、会極門に下して、諸司に交付して照査させ、君臣が面談しなくとも、上下に欺瞞が無いようにされたい。
臣が拝見するに、陛下は昔は励精して治められたが、今は春秋に富んでおられるのに、かつての夜を日に継いで憂い勤めるお心がなく、ただ孜々として貧しさを患うことばかりに努めておられる。天下の財はこれだけの数しかなく、君が富まんとすれば天下は貧しくなり、天下が貧しくなって君だけがどうして独り富むことができようか。今、民の生活は憔悴の極みにあるのに、採買は日増しに増え、誅求はますます広がり、万姓の怨みを一言に集め、九重の仇を四海に結んでいる。臣はひそかにこれを痛む。もし天下が一家となり、千年の昔のようであれば、たとえ宮中に何も無くとも、誰が陛下を独り貧しくさせようか。今、禁城の内には君がいることを喜ばず、天下の民は生きることを喜ばない。怨み謗り愁え嘆く声は、聞くに堪え難い。陛下がこれを聞けば、必ず食べるに咽を通らず、寝るに安らかでないことがあろう。臣は老いて衰え、再び太平を見ることができない恐れがある。天に呼び地に叩頭し、七日間の斎戒沐浴を経て、憂い危うき誠意を謹んで献上する。どうか陛下には密かに臣の言葉を行い、翻然として聖心の警悟から出たかのようにされれば、人心は自ずから悦び、天意は自ずから戻るであろう。もしそうでなければ、陛下は後日悔やまれても、どうして及ぼうか。
上疏が入ったが、返答がなかった。坤はそこで病気と称して休暇を乞い、中旨によって許された。そこで給事中戴士衡が、坤は機略が深く志が険悪であると弾劾し、石星が東事を大いに誤り、孫鑛が無辜を濫殺したのに、坤は顧みて言わず、曲げて附会し、大臣の節が無いと言った。給事中劉道亨が、往年孫丕揚が張位を弾劾した時、位は上疏が坤の手によるものと疑い、故に士衡に坤を弾劾させたと言った。位が上奏して弁明した。帝は坤が既に罷免されたので、全てを問わないことにした。
初め、坤が山西按察使であった時、『閨範図説』を撰したことがあり、内侍が購入して禁中に入れた。鄭貴妃がそこで十二人を加え、かつ序文を撰して、その伯父の鄭承恩に命じて重刊させた。士衡はそこで、坤が承恩を通じて書を進め、宮掖に結び付き、禍心を包蔵していると弾劾した。坤は上疏を奉じて力強く弁明した。間もなく、妄人が『閨範図説』の跋文を書き、『憂危竑議』と名付け、おおよそ次のように言った。「坤が『閨範』を撰するに、ただ漢の明徳皇后を取ったのは、皇后が貴人から中宮に進んだので、坤が鄭貴妃に媚びたのである。坤が上疏して天下の憂危を陳べるに、事無くして言わないことは無かったが、ただ皇太子冊立には及ばなかった。その意は自ずから見える。」その言葉は極めて狂誕で、坤を害さんとした。帝は罪を士衡らに帰し、その事はやがて立ち消えになった。
坤は剛直で厳格、正学に留意した。在宅の日は、後進と講習した。著述は多く新意を出した。初め、朝廷で吏部尚書孫丕揚と親しかった。後、丕揚が再び吏部尚書となると、たびたび坤を左都御史に推挙したが命が得られず、言った。「臣は八十の老臣をもって坤を保証する。臣が親しく坤が用いられる効果を見ることを願う。効果がなければ、失挙の罪に甘んじて坐し、死しても遺憾は無い。」その後、また天下の三大賢人、沈鯉、郭正域、その一人は即ち坤を推薦した。丕揚は前後して推薦し、上疏は二十回を超えたが、帝は終に採用しなかった。福王が河南に封国されると、荘田四万頃を賜った。坤は郷里におり、上言した。「国初、親王二十四に分封したが、賜田が万頃に至った者は無い。河南には既に周・趙・伊・徽・鄭・唐・崇・潞の八王が封ぜられており、もし皆四万に満たんとすれば、両河の郡県の半分を占めることになる。どうか聖明に裁減されたい。」また執政に書を送ってこれを言った。廷臣もまた力強く争ったため、半分に減らすことができた。死去し、天啓初年、刑部尚書を追贈された。
郭正域
郭正域、字は美命、江夏の人。万暦十一年の進士。庶吉士に選ばれ、編修を授かり、修撰唐文献と共に皇長子の講官となった。皆三度昇進して庶子となり、講帷を離れなかった。毎回講義が終わると、諸内侍が出て互いに揖するが、ただ二人は一言も交わさなかった。
出て南京祭酒となった。諸生が財貨を納めて貢生となることを許していたが、正域は上奏してこれを廃止させた。李成梁の孫が都督として魏国公徐弘基の家に婿入りする際、馬に乗って文廟の門前を通り過ぎた。学録李維極がこれを捕らえて鞭打った。李氏の下僕数十人が邸宅の門を蹴り、弘基もまた到着した。正域は言った。「今、天子でさえ皮弁を戴いて先聖を拝するのに、人臣が廟門の外を走馬するのか。かつ公侯の子弟が学に入って礼を習うのも、国子生に過ぎない。学録が都督を鞭打ったのではない。」互いに謝罪させて事を収めた。
三十年、召されて詹事に任ぜられ、再び東宮の講官となった。まもなく礼部右侍郎に抜擢され、翰林院を管掌した。三十一年三月、尚書馮琦が卒すると、正域は戻って部事を代行した。夏、宗廟の祭祀に際し、日食が起こった。正域は言う、「『礼』によれば、祭祀の日に日食があれば、犠牲がまだ殺されていないならば廃止すべきである。朔旦(一日の朝)は専ら日食の救護に当たり、翌朝に廟を享るべきである」と。これに従った。方沢(地祇を祭る壇)の陪祀者は多く病気を口実にした。正域は祀事が虔んでいないのは、上(皇帝)が自ら祭祀を行わないことによるのだと言い、詔を下して戒め励ますこと、冬至の大祀には必ず上自ら行うことを請うた。帝はその通りだと思ったが、用いることはできなかった。
初め、正域が館(翰林院)に入った時、沈一貫が教習の師であった。後に服喪が終わって編修に任ぜられたが、弟子の礼を執らなかったので、一貫は不満を抱かざるを得なかった。この時、一貫が首輔となり、沈鯉が次いだ。正域は鯉と親しく、心の中で一貫を軽んじた。ちょうど台官が日食の占いを上奏し、「日が上から食われるのは、君が佞人を知りながら用いるため、その国を亡ぼすという占いである」と言った。一貫は怒って罵ったが、正域は言った、「宰相が盛んな時に危うきを憂え、明らかな時に暗きを戒めるのは、盲人や史官に及ばないのか」と。一貫はこれを聞いて怒った。両淮の税監魯保が関防(官印)の交付と江南・浙江の織造監督の兼任を請うた。鯉は認めないと主張し、一貫は与えようとしたが、正域もまた強く争った。秦王は嫡子が夭折して生まれていないため、その庶長子を世子に封ずることを請い、たびたび詔を下して議論を促した。前尚書馮琦は押し出さず、正域もまた許さないと主張した。王がさらに他の子を郡王に封ずることを請うたが、またも認められなかった。一貫は大璫(宦官の高官)を使って上命と脅したが、正域は門に掲示して言った、「秦王は中尉から進封されたのであり、庶子は依然として中尉であるべきで、郡王となることはできない。妃の年齢は五十に満たず、庶子もまた世子となることはできない」と。一貫は反論できなかった。また、黄光升・許論・呂本の諡号を奪おうと建議した時、一貫と硃賡はともに呂本の同郷であり、「我々がいるのに、誰が奪うことができようか」と言った。正域は筆を取って判じて言った、「黄光升に諡すべきならば、海瑞は殺されるべきであった。許論に諡すべきならば、沈煉は殺されるべきであった。呂本に諡すべきならば、鄢懋卿・趙文華は皆名臣であり、削奪されるべきではなかった」と。議が上ると、朝廷全体が正しいとしたが、結局実行されなかった。
正域はすでに一貫にたびたび逆らい、一貫は深く恨んだ。ちょうど楚王華奎と宗人華勣らが互いに告訴し合い、正域がまた一貫と異なる意見を持ったため、これによって危うく禍を得るところであった。先に、楚恭王は廃疾(不具の病気)を得て、隆慶五年に薨じ、遺腹の宮人胡氏が双子の子華奎・華壁を生んだ。ある者は言う、内官郭綸が王妃の兄王如言の妾尤金梅の子を華奎とし、妃の族人の如糸孛奴王玉の子を華壁としたと。儀賓汪若泉がかつてこれを上奏して告訴したが、事は巡撫・巡按に下された。王妃は非常に強く主張し、事はうやむやになった。万暦八年、華奎が王を嗣ぎ、華壁も宣化王に封ぜられた。宗人華勣は、もともと強暴で王に逆らっていた。華勣の妻は、如言の娘である。この年、華勣は人を遣わして華奎は異姓の子であると告訴し、立つべきではないと言った。一貫は通政使沈子木に命じてその上疏を留め置き、上奏させなかった。一月余りして楚王が華勣を弾劾する上疏が届くと、ようやくこれを上奏した。命じて部に下して議させた。まもなく、華勣が都に入り、通政司が実封(封をした上奏文)を邀截(さえぎり留め)したことと華奎が賄賂を行った状況を訴え、楚の宗室で名を連ねた者は合わせて二十九人であった。子木は恐れ、華勣を召して月日を書き換えさせて上奏させた。旨はともに部に下された。正域は撫按に命じて公に調査するよう請い、これに従った。
初め、一貫は正域に通政司が上疏を隠したことを言わないように頼んだ。華勣の上疏が上ると、正域は調査を行うことを主張した。一貫は親王は調査すべきではなく、ただ内々に訪ねるべきだと言った。正域は言った、「事は宗室に関わるので、台諫もまた言うべきである」と。一貫は微笑んで言った、「台諫は決して言わないだろう」と。帝が調査の議に従うと、楚王は恐れ、百金を奉って正域の長寿を祝い、かつ楚の事を徹底的に追及しないように頼み、万金で報いることを約束したが、正域は厳しく拒絶した。やがて湖広巡撫趙可懷・巡按応朝卿が調査結果を上奏し、詳しく審査したが証拠がなく、王氏(華奎側)が強く主張し、諸郡主・県主は「真偽を知らない」と言い、特に官を遣わして再び問うことを請うた。詔して公卿を西闕門に集めて雑議させ、日が暮れてようやく終わった。議する者は三十七人で、各自一枚の単子に記し、言うところは人それぞれ異なった。李廷機が左侍郎として正域に代わって部事を代行し、正域は諸人の議をすべて記録しようとしたが、廷機は言葉が繁雑すぎるとして、まずその要点を抜き出して上奏した。一貫はそこで給事中楊応文・御史康丕揚をそそのかして礼部が群議を塞ぎ、実情を聞かせないと弾劾させた。正域は上疏して弁明し、かつ子木が上疏を隠したこと、一貫が調査を阻んだこと、楚王が贈り物をした状況を明らかにした。一貫はますます怒り、正域が家人を遣わして華勣を導き上疏させ、楚王に位を避けて調査を受けるよう議し、ひそかに華勣を庇っていると言った。
この時、正域は宗人(華勣側)を支持し、大学士沈鯉は正域を支持し、尚書趙世卿・謝傑・祭酒黄汝良は楚王を支持した。給事中銭夢皋はそこで一貫の意を迎えて正域を論じ、言葉は次輔の鯉にまで及んだ。応文はまた、正域の父郭懋がかつて楚恭王に鞭打たれて辱められたので、正域が事に乗じて陥れたと言った。正域は上疏して弁明したが、留中されて返答がなかった。一貫・鯉は楚の事をめぐってともに去職を求めた。廷機はまた再審を請うた。帝は、王が嗣位して二十余年になるのに、なぜ今になって初めて発覚するのか、また夫が告訴し妻が証言するのは憑むに足りないとして、ついに楚の事を罷めて追及しないことにした。正域は四度上疏して休職を乞い、去った。楚王はすでに安泰を得ると、遂に正域を奏劾し、おおよそ応文の言う通りであり、かつ彼の不法な事数件を暴き、正域の官を剥奪することを請うた。詔して部院に下して集議させた。廷機はわずかに正域を諷刺したが、彼はすでに去ったので、厳しく求めなくてもよいと言った。給事中張問達は、藩王が大臣の進退を図るのは訓戒とすべきでないと言い、ついに正域を罪とせず、巡按御史に命じて王が暴いた事柄を調査して報告させた。
俄かに妖書の事起こる。一貫は鯉と己が地相逼るを以てし、而して正域新たに罷む、是に因りて之を陥れんとす、則ち兩人必ず重禍を得んとし、乃ち帝に言う、臣下に相傾けんと欲する者有りて之を為すと。蓋し微かに其の端を引き、以て帝の意を動かす。亡何、錦衣衛都督王之禎等四人妖書に名有り、其の同官周嘉慶を指して之を為すとす。東廠又妖人皦生光を捕獲す。巡城御史康丕揚生光の為に冤を訟ぎ、妖書・楚事同一の根柢なりと言い、請う其の獄を少しく緩め、賊兄弟闕下に授首す可きと。意正域及び其の兄國子監丞正位を指す。帝怒り、以て反賊を庇うと為し、其の名を除く。一貫力救して始めて免る。丕揚乃ち先後僧人達觀・醫者沈令譽等を捕え、而同知胡化は則ち告ぐ妖書教官阮明卿の手より出づと。未幾、廠衛又可疑なる者一人を捕う、曰く毛尚文。数日の間鋃鐺旁午し、都城人々自ら危ぶむ。嘉慶等皆詔獄に下る。嘉慶旋ち以て治むるに験無く、令して任を革め籍に回らしむ。令譽故に嘗て正域の家に往来し、達觀も亦時々貴人の門に游び、嘗て正域に搒逐せられ、尚文は則ち正域の僕なり。一貫・丕揚等数人の口より自ら正域を引きんと欲し、而して化の訐く所の阮明卿は則ち錢夢皋の婿なり。夢皋大いに恚り、上疏し顕に正域を攻め、言う、「妖書刊播せらるるや、先せず後せず、適に楚王の疏入るの時に在り。蓋し正域は乃ち沈鯉の門徒にして、而して沈令譽は正域の食客、胡化又其の同郷同年、群奸死党を結ぶ。乞う根本を窮治し、正域の乱楚の首悪の罪を定め、鯉を勒して閑住せしめよ」と。帝正域に令し籍に還りて勘を聴かしめ、急に諸の捕うる所の者を厳訊せしむ。達観拷死し、令譽も亦幾くか死す、皆承わず。法司化を迫りて正域及び帰徳を引かしむ。帰徳は鯉の居る県なり。化大いに呼びて曰く、「明卿は我が仇なり、故に之を訐く。正域進士に挙げられて二十年通問せず、何に由りて妖書を同じく作らんや。我も亦た誰か帰徳なる者かを知らず」と。帝化の枉れるを知り、之を釈す。
都督陳汝忠尚文を掠訊し、遂に卒を発して正域の舟を楊村に囲み、媼婢及び傭書する者男女十五人を尽く捕え、生光と雑治す、終に得る所無し。汝忠錦衣の告身を以て尚文を誘いて曰く、「能く賊を告げば、即ち之を得ん」と。令して令誉を引き、且つ乳媼龔氏の十歳の女を以て徴と為す。比に会訊するに及び、東廠太監陳矩女に詰いて曰く、「汝妖書の版幾つ有るを見るや」と。曰く、「屋に盈つ」と。矩笑いて曰く、「妖書僅かに二三紙、版顧みて屋に盈つや」と。尚文に詰めて曰く、「令誉汝に刊書何日と語るや」と。尚文曰く、「十一月十六日」と。戎政尚書王世揚曰く、「妖書初十日に獲る、而して十六日に又刊す、将に両妖書有らんや」と。生光の妻妾及び十歳の児を拷し、針を以て指爪を刺し、必ず正域を引かんと欲す、皆応ぜず。生光仰ぎ夢皋・丕揚を視て、大いに罵りて曰く、「死す則ち死す耳、奈何ぞ我をして相公の指を迎えしめ、妄りに郭侍郎を引かしむるや」と。都御史温純等力之を持し、事漸く解く、然れども猶獄を具うる能わず。
正域載籍に博通し、事に任ずるに勇有り、経済の大略有り、自守介然たり、故に人望之に帰す。権相に扼せられ、遂に復た起たず、家に居ること十年にして卒す。後四年、礼部尚書を贈る。光宗の遺詔、旧学に恩を加え、太子少保を贈り、諡して文毅と曰い、其の子を中書舎人に官す。
賛して曰く、海瑞剛勁の性を秉り、戇直自ら遂ぐ、蓋し漢の汲黯・宋の包拯の風を希う可し。苦節自ら厲し、誠に人の能くする所に難し。丘橓・呂坤、瑞の匹に非ざるも、而して時政を指陳し、炳炳鑿鑿、鯁亮称す可き者足り有り。郭正域楚獄を持し、執政と趣を異にし、険難忽ち発し、慬して後免る、危きかな。妖書の事を以て坤と首尾相し、故に並び著す。