明史

列傳第一百十三 張瀚 王國光 梁夢龍 楊巍 李戴 趙煥 鄭繼之

列傳第一百十三 張瀚 王國光 梁夢龍 楊巍 李戴 趙煥 鄭繼之

原文列傳第一百十三 張瀚 王國光 梁夢龍 楊巍 李戴 趙煥 鄭繼之

○張瀚 王國光 梁夢龍 楊巍 李戴 趙煥 鄭繼之

原文○張瀚王國光梁夢龍楊巍李戴趙煥鄭繼之

張瀚、字あざなは子文、仁和の人である。嘉靖十四年の進士。南京工部主事に任ぜられる。廬州知府を歴任し、大名に改める。俺答が京師を包囲したとき、詔により兵部郎中が畿輔の民兵を徴発して入衛させた。張瀚は直ちに戸籍を調べ、三十丁につき一人を選抜し、二十九人でその兵糧を供給させ、八百人を得た。真定に馳せ至り、使者に兵を閲させたところ、使者はその才能を称えた。累進して陝西左布政使となり、右副都御史に抜擢され、その地を巡撫した。半年ほどで、召されて大理卿となる。刑部右侍郎に進み、まもなく兵部に改め、漕運を総督した。

原文張瀚,字子文,仁和人。嘉靖十四年進士。授南京工部主事。歷廬州知府,改大名。俺答圍京師,詔遣兵部郎中征畿輔民兵入衛。瀚立閱戶籍,三十丁簡一人,而以二十九人供其餉,得八百人。馳至真定,請使者閱兵,使者稱其才。累遷陜西左布政使,擢右副都御史,巡撫其地。甫半歲,入為大理卿。進刑部右侍郎,俄改兵部,總督漕運。

隆慶元年、両広軍務を督するよう改められる。当時両広はそれぞれ巡撫官を設け、事は督府に関わらなかった。張瀚は三辺の例のごとくすべきを請い、これによりすべて節制に従うこととなった。大盗の曾一本が広州を寇掠したため、詔は張瀚を厳しく責め、総兵官の俞大猷・郭成の俸給を停めた。やがて、曾一本が海を渡って福建を犯すと、官軍が迎撃して大破し、銀幣を賜った。やがて、再び広東を犯し、碣石衛を陥落させ、叛将の周雲翔らが雷瓊参将の耿宗元を殺し、賊と合流した。廷議は張瀚の官階一級を削って別の職に任用しようとした。やがて郭成が賊を大破し、周雲翔を捕らえた。詔は張瀚の官階を戻し、そのまま家で召喚を待たせた。再び陝西を巡撫し、南京右都御史に遷り、そのまま工部尚書に改められた。

原文隆慶元年,改督兩廣軍務,時兩廣各設巡撫官,事不關督府。瀚請如三邊例,乃悉聽節制。大盜曾一本寇掠廣州,詔切責瀚,停總兵官俞大猷、郭成俸。已,一本浮海犯福建,官軍迎擊,大破之,賚銀幣。已,復犯廣東,陷碣石衛,叛將周雲翔等殺雷瓊參將耿宗元,與賊合。廷議鐫瀚一秩調用。已而成大破賊,獲雲翔。詔還瀚秩,即家俟召。再撫陜西。遷南京右都御史,就改工部尚書。

萬歷元年、吏部尚書の楊博が罷免され、張瀚が召されて代わった。任期が満ちると、太子少保を加えられた。当時、廷推で吏部尚書を推挙し、筆頭は左都御史の葛守礼、次は工部尚書の朱衡、次が張瀚であった。張居正は葛守礼の愚直さを嫌い、朱衡の傲慢さを厭ったので、特に張瀚を抜擢したのである。張瀚は資望が浅く、突然抜擢されたので、朝廷はますます張居正に趨事し、張瀚も大臣の進退はおおむね張居正の意向に奉じた。たとえ自分の意見を出しても、輿論とは多く合わなかった。このため御史の鄭準・王希元に弾劾された。張居正が彼を厚く顧みたので、聞き入れられなかった。御史の劉臺が張居正を弾劾し、ついでに張瀚が陝西を巡撫した時の狼藉ぶりと、張居正に唯々諾々と従う様子を論じた。

原文萬歷元年,吏部尚書楊博罷,召瀚代之。秩滿,加太子少保。時廷推吏部尚書,首左都御史葛守禮,次工部尚書朱衡,次瀚。居正惡守禮戇,厭衡驕,故特拔瀚。瀚資望淺,忽見擢,舉朝益趨事居正,而瀚進退大臣率奉居正指。即出己意,輿論多不協。以是為御史鄭準、王希元所劾。居正顧之厚,不納也。御史劉臺劾居正,因論瀚撫陜狼籍,又唯諾居正狀。

張居正が喪に遭ったとき、奪情を謀ると、張瀚は内心これに反対した。中旨により張瀚に命じて張居正を留めるよう諭させたが、張居正はまた自ら文書を作り、張瀚に属吏を通じて、覆旨を請うようそそのかした。張瀚はわざと理解しないふりをして、「政府(宰相)が奔喪するのは、殊典を与えるべきであり、礼部の事である。何が吏部に関わろうか」と言った。張居正はまた客を遣わして説得させたが、動かず、そこで旨を伝えて張瀚が久しく詔を奉じず、人臣の礼がないと責めた。廷臣は恐れおののき、こぞって上書して張居正を留めようとしたが、張瀚だけは加わらず、胸を撫でて嘆息して言った、「三綱が廃れるぞ」。張居正は怒り、給事中の王道成・御史の謝思啓にそそのかして他の事を拾って張瀚を弾劾させ、致仕に追い込んで帰らせた。張居正が没すると、帝は張瀚をかなり思い、詔で有司に月廩を与えさせ、八十歳に達したとき、特に見舞いを賜った。卒す。太子少保を贈られ、諡は恭懿。

原文比居正遭喪,謀奪情,瀚心非之。中旨令瀚諭留居正,居正又自為牘,風瀚屬吏,以覆旨請。瀚佯不喻,謂「政府奔喪,宜予殊典,禮部事也,何關吏部。」居正復令客說之,不為動,乃傳旨責瀚久不奉詔,無人臣禮。廷臣惴恐,交章留居正,瀚獨不與,撫膺太息曰:「三綱淪矣!」居正怒,嗾給事中王道成、御史謝思啟摭他事劾之,勒致仕歸。居正歿,帝頗念瀚。詔有司給月廩,年及八十,特賜存問。卒,贈太子少保,謚恭懿。

王國光、字は汝観、陽城の人である。嘉靖二十三年の進士。呉江知県に任ぜられる。隣県の疑わしい獄事が質しに来ると、訊問してすぐに実情を得た。儀封に転じ、兵部主事に抜擢される。吏部に改め、文選郎中を歴任した。累進して戸部右侍郎となり、倉場を総督した。病を理由に辞去する。隆慶四年、起用されて刑部左侍郎となり、南京刑部尚書に任ぜられる。着任前に、戸部に改められ、再び倉場を総督した。神宗が即位すると、部の事務を処理するために戻った。当時、簿牒が煩雑で冗長であり、州県から部に至るまで、繕書・輸解・交納などの諸費用があり、公私ともに苦しんでいた。國光は上疏して裁併を請い、煩雑な文書の十三四を削り去り、当時簡便と称された。戸部十三司は、弘治以来、公署が狭いため、郎中一人だけが事務を処理し、員外郎・主事は除官の日に一度赴くのみであった。郎中の力が及ばないと、吏胥に委ね、弊害がますます増えた。國光はすべて署に入るよう命じ、職務が修め挙げられるようになった。辺境の兵糧が欠乏を告げたが、諸辺の歳出および屯田・塩課は調査できなかった。國光は辺臣に命じて実数を核めさせ、かつ長久の策を図って報告するよう請うた。甘粛巡撫の廖逢節らがそれぞれその数を条上し、消耗と腐敗が減った。

原文王國光,字汝觀,陽城人。嘉靖二十三年進士。授吳江知縣。鄰邑有疑獄來質,訊輒得情。調儀封,擢兵部主事。改吏部,歷文選郎中。屢遷戶部右侍郎,總督倉場。謝病去。隆慶四年,起刑部左侍郎,拜南京刑部尚書。未上,改戶部,再督倉場。神宗即位,還理部事。時簿牒繁冗,自州縣達部,有繕書、輸解、交納諸費,公私苦之。國光疏請裁並,去繁文十三四,時稱簡便。戶部十三司,自弘治來,以公署隘,惟郎中一人治事,員外郎、主事止除官日一赴而已。郎中力不給,則委之吏胥,弊益滋。國光盡令入署,職務得修舉。邊餉告匱,而諸邊歲出及屯田、鹽課無可稽。國光請敕邊臣核實,且畫經久策以聞。甘肅巡撫廖逢節等各條上其數,耗蠹為損。

萬歷元年、上奏して言う、「国初、天下の州県の存留する夏税秋糧はおよそ千二百万石であった。当時の議論は寛大を旨とし、歳用のほか、余剰の銀百万余りを計上した。もし有司が毎年徴収して欠けることがなければ、州県の積貯は自然と豊かになり、水害・旱害・盗賊も災患となすことができない。今、ひとたび兵乱や凶作に遭うと、すぐに京の儲蓄を留め、内帑を発する。これは有司が存留をきわめて緩やかに見るためであり、ひたすら徴税に努めれば、民を擾すと言い、弊害がここに至ったのである。天下の撫按官に行わせ、所管の役所に出納・存留・滞納の数を具報させ、臣の部で融通して会計し、その余りをもって辺境を救済するよう請う。有司で徴収に努めない者は、すべて新令によって処置せよ」。制可される。京軍で通州で糧食を受け取る者は、待つことが非常に困難であった。國光は部郎一人を派遣してこれを管轄させ、坐糧庁と名付け、文書を投じて検発すれば三日を過ぎないよう請い、諸軍は便利とした。天下の銭穀は諸司に分散して隷属していたが、國光は帰併して責任を負わせるよう請うた。畿輔の府州県は福建司に、南畿は四川司に、塩課は山東司に、関税は貴州司に、淮・徐・臨・徳の諸倉は雲南司に、禦馬・象房および二十四馬房の芻料は広西司に帰属させた。これにより定制となった。

原文萬歷元年,奏言:「國初,天下州縣存留夏稅秋糧可一千二百萬石。其時議主寬大,歲用外,計贏銀百萬有餘。使有司歲征無缺,則州縣積貯自豐,水旱盜賊不能為災患。今一遘兵荒,輒留京儲,發內帑。由有司視存留甚緩,茍事催科,則謂擾民,弊遂至此。請行天下撫按官,督所司具報出入、存留、逋負之數,臣部得通融會計,以其餘濟邊。有司催征不力者,悉以新令從事。」制可。京軍支糧通州者,候伺甚艱。國光請遣部郎一人司之,名坐糧廳,投牒驗發,無過三日,諸軍便之。天下錢穀散隸諸司,國光請歸並責成:畿輔府州縣歸福建司,南畿歸四川司,鹽課歸山東司,關稅歸貴州司,淮、徐、臨、德諸倉歸雲南司,禦馬、象房及二十四馬房芻料歸廣西司。遂為定制。

三年、京察で拾遺される。國光は南京の給事中・御史に弾劾された。再び上疏して罷免を請うと、帝は特に留任させた。翌年また固く請うと、詔で駅伝に乗って帰ることを許された。出発に際し、編集した条例で『萬歷會計録』と名付けたものを献上した。帝はその国計への心遣いを嘉し、戸部に訂正させた。書が完成すると、詔で褒めて諭した。五年の冬、吏部尚書の張瀚が罷免され、國光が起用されて代わった。実政を採り上げること、繁簡を区別すること、守令に責を負わせること、卑官を恤ること、加納を罷めることなど数事を陳べ、すべて允行された。まもなく考績により、太子太保を加えられた。八年、外吏を考察することになり、期日を設けないよう請うた。詔はこれを許し、かつ過誤のある者は公に弁明雪冤するに任せると命じた。翌年、京朝官を大計したが、張居正の意に従い、呉中行ら五人を察籍に置いた。

原文三年,京察拾遺。國光為南京給事、御史所劾。再疏乞罷,帝特留之。明年復固以請,乃詔乘傳歸。瀕行,以所輯條例名《萬歷會計錄》上之。帝嘉其留心國計,令戶部訂正。及書成,詔褒諭焉。五年冬,吏部尚書張瀚罷,起國光代。陳采實政、別繁簡、責守令、恤卑官、罷加納數事,皆允行。尋以考績,加太子太保。八年,當考察外吏,請毋限日期。詔許之,且命詿誤者聽從公辯雪。明年大計京朝官,徇張居正意,置吳中行等五人於察籍。

國光は才智があった。初めて邦計を掌ったとき、多くの建議があった。しかしこの時は執政に制せられ、名声は初めより損なわれた。給事中の商尚忠が國光が選挙で親しい者を私することを論じ、また給事中の張世則が河南僉事に出され、國光を恨み、官を売り財貨を濫りに取ることを弾劾した。國光は再び上奏して弁明し、帝は再び慰留し、張世則が私心を抱いていると責め、儀真丞に貶した。張居正が卒すると、御史の楊寅秋が國光の六つの罪を弾劾した。帝はついに怒り、落職して閑住させた。やがてその功労を思い、官を復して致仕するよう命じた。

原文國光有才智。初掌邦計,多所建白。及是受制執政,聲名損於初。給事中商尚忠論國光銓選私所親,而給事中張世則出為河南僉事,憾國光,劾其鬻官黷貨。國光再奏辯,帝再慰留,責世則挾私,貶儀真丞。及居正卒,御史楊寅秋劾國光六罪。帝遂怒,落職閑住。已,念其勞,命復官致仕。

梁夢龍、字は乾吉、真定の人である。嘉靖三十二年の進士、庶吉士に改められる。兵科給事中に任ぜられ、まず吏部尚書の李默を弾劾した。帝はちょうど李默を厚く顧みていたので、問わなかった。出向して陝西の軍儲を査核する。故延綏巡撫の王輪・督糧郎中の陳燦らを弾劾し、それぞれ廃斥された。吏科都給事中を歴任した。帝が礼部尚書の呉山を怒ると、夢龍は一人で呉山を弾劾して清議に罪を得るのを嫌い、吏部尚書の呉鵬を併せて弾劾して罷免させた。かつて上疏し、「相臣の賢否は、治道の隆汚に関わる。資格に拘らず、朝廷において公に名徳宿望の臣を挙げさせ、聖治を光らせるよう請う」と言った。帝は諸臣が私的に推挙引き立てているのではないかと疑い、陳状するよう責めた。夢龍は恐れおののいて謝罪し、俸給を奪われた。順天府丞に抜擢される。京察で拾遺され、河南副使に出される。河が沛はい県で決壊すると、尚書の朱衡が徐・邳に新河を開くことを議し、夢龍がその役を監督した。三たび遷って河南右布政使となる。

原文梁夢龍,字乾吉,真定人。嘉靖三十二年進士,改庶吉士。授兵科給事中,首劾吏部尚書李默。帝方顧默厚,不問。出核陜西軍儲。劾故延綏巡撫王輪、督糧郎中陳燦等,廢斥有差。歷吏科都給事中。帝怒禮部尚書吳山,夢龍惡獨劾山得罪清議,乃並吏部尚書吳鵬劾罷之。嘗上疏,言:「相臣賢否,關治道汙隆。請毋拘資格,敕在廷公舉名德宿望之臣,以光聖治。」帝疑諸臣私有所推引,責令陳狀。夢龍惶恐謝罪,乃奪俸。擢順天府丞。坐京察拾遺,出為河南副使。河決沛縣,尚書朱衡議開徐、邳新河,夢龍董其役。三遷河南右布政使。

隆慶四年、右僉都御史に抜擢され、山東を巡撫した。この秋、河が宿遷で決壊し、漕運の糧八百艘を覆した。朝廷で海運を通ずる議論があり、夢龍に委ねられた。夢龍は言う、「海道は南は淮安から膠州まで、北は天津から海倉まで、それぞれ商艇がその間を往来している。膠州から海倉までは、島民や商人も時々出入りしている。臣らはこれにより人を遣わし、淮安から粟二千石を、膠州から麦千五百石を転送し、海に入り天津に達させて海道を試みたが、不利なことはなかった。淮安から天津までは、おおよそ二十日で到達できる。毎年五月以前は、風勢が柔順で、帆を揚げるのに特に便利である。況んや船は近海を通り、海中の島嶼は連絡し合い、風に遇えば依拠できる。仮に船が朽ちておらず、占候に従って航行すれば、自ら憂いなからしめ得る。元の殷明略の旧道と較べれば、安便であることは特に甚だしい。丘浚が称する『傍海通運』とは、即ちこれである。河を正運とし、海を備運とすべきことを請う。万一河が容易に通じない時は、海運で補うことができ、また河もまた心を尽くして疏浚し、永続を図ることができる。また海防は極めて重要であり、沿海の衛所は歳月を玩愒すること久しく、修繕整備を加えず、識者は未然の憂いを有している。今、海運を行い兼ねて河防を治めることは、ただ国計を補うに足るのみならず、兼ねて軍事にも補益がある」。上疏は戸部に下され、部議は海運は久しく廃れており、急に全てを復活させるのは難しいとして、漕司に量り撥ねて糧十二万石を、淮から海に入れて天津に達するよう命ずることを請うた。工部は銀を与え、海船の経費とした。許可が下った。後に海運は結局行われず、事は『王宗沐伝』に詳しい。翌年の冬、右副都御史に遷り、移って河南を巡撫した。

原文隆慶四年,擢右僉都御史,巡撫山東。是秋,河決宿遷,覆漕糧八百艘。朝議通海運,以屬夢龍。夢龍言:「海道南自淮安至膠州,北自天津至海倉,各有商艇往來其間。自膠州至海倉,島人及商賈亦時出入。臣等因遣人自淮安轉粟二千石,自膠州轉麥千五百石,入海達天津,以試海道,無不利者。由淮安至天津,大要兩旬可達。歲五月以前,風勢柔順,揚帆尤便。況舟由近洋,洋中島嶼聯絡,遇風可依。茍船非朽敝,按占候以行,自可無虞。較元人殷明略故道,安便尤甚。丘浚所稱『傍海通運』,即此是也。請以河為正運,海為備運。萬一河未易通,則海運可濟,而河亦得悉心疏浚,以圖經久。又海防綦重,沿海衛所玩愒歲久,不加繕飭,識者有未然之憂。今行海運兼治河防,非徒足裨國計,兼於軍事有補。」章下戶部,部議海運久廢,猝難盡復,請令漕司量撥糧十二萬石,自淮入海以達天津。工部給銀,為海艘經費。報可。已而海運卒不行,事具《王宗沐傳》。明年冬,遷右副都御史,移撫河南。

神宗の初め、張居正が国政を執った。夢龍はその門下の士であり、特に愛され、召されて戸部右侍郎となった。まもなく兵部に改められ、出向して遼東の有功の将士を賞賜した。五年、兵部左侍郎から右都御史に進み、薊・遼・保定の軍務を総督した。李成梁が長定堡で土蠻を大破すると、帝は宗廟に告げて捷を宣し、大いに賞賜を行い、夢龍の一子に官を授けた。既にして、給事中光懋が言う、「これは塞内に属する部族であり、遊撃陶承嚳が犒賞こうしょうを仮りて掩襲したものであり、殺降の罪に坐すべきである」。兵部尚書方逢時が曲げて弁解し、夢龍らも恩蔭を辞退した。土蠻三万騎が東昌堡に入ると、成梁がこれを撃破した。寧前に再び警報があり、夢龍は自ら勁卒三千を率いて山海関を出て成梁の声援となり、両参将を分遣して遮撃し、また継光を移して一片石に駐屯させ邀撃させたので、敵は退去した。前後して永奠堡・丁字泊・馬蘭峪・養善木・紅土城・寬奠・広寧右屯・錦・義・大寧堡における諸勝利を奏上し、累次勅を賜って奨励され、就いて兵部尚書を加えられた。黄花鎮・古北口の辺墻を修築した功により、太子少保を加えられ、再び子に蔭官して錦衣世千戸に至らしめた。召されて部務を掌り、軍政四事を上疏して陳べた。まもなく辺防の功を記録し、太子太保を加えられた。

原文神宗初,張居正當國。夢龍其門下士,特愛之,召為戶部右侍郎。尋改兵部,出賚遼東有功將士。五年,以兵部左侍郎進右都御史,總督薊、遼、保定軍務。李成梁大破土蠻於長定堡,帝為告廟宣捷,大行賞賚,官夢龍一子。已,給事中光懋言:「此乃保塞內屬之部,遊擊陶承嚳假犒賚掩襲之,請坐以殺降罪。」兵部尚書方逢時曲為解,夢龍等亦辭免恩蔭。及土蠻三萬騎入東昌堡,成梁擊敗之。寧前復警,夢能親率勁卒三千出山海關為成梁聲援,分遣兩參將遮擊,復移繼光駐一片石邀之,敵引去。前後奏永奠堡、丁字泊、馬蘭峪、養善木、紅土城、寬奠、廣寧右屯、錦、義、大寧堡諸捷,累賜敕獎勵,就加兵部尚書。以修築黃花鎮、古北口邊墻,加太子少保,再蔭子至錦衣世千戶。召入掌部務,疏陳軍政四事。尋錄防邊功,加太子太保。

十年六月、居正が没し、吏部尚書王國光が弾劾されて罷免されると、夢龍がその位を代わった。一月余りして、御史江東之が夢龍が徐爵に賄賂を贈って吏部を得たこと、孫女を保の弟に嫁がせて子の嫁としたことを弾劾し、御史鄧練・趙楷がまたこれを弾劾したので、遂に致仕を命じられた。家に居ること十九年で卒した。天啓年中、趙南星がその辺功を訟え、少保を贈られた。崇禎末、追謚して貞敏とした。

原文十年六月,居正歿,吏部尚書王國光劾罷,夢龍代其位。逾月,御史江東之劾夢龍浼徐爵賄保得吏部,以孫女聘保弟為子婦,御史鄧練、趙楷復劾之,遂令致仕。家居十九年卒。天啟中,趙南星訟其邊功,贈少保。崇禎末,追謚貞敏。

楊巍、字は伯謙、海豊の人。嘉靖二十六年の進士。武進知県に任じられた。兵科給事中に抜擢された。操江僉都御史史褒善は既に大理卿に遷っていたが、巍は言う、「東南の倭患は正に劇しく、参賛・巡撫はともに罪に論ぜられたのに、褒善のみ幸いに免れ、また縁故によって美遷を得た。吏部とともに罰治を請う」。帝は怒り、選司の俸を停め、褒善を故官に還した。巍は既に吏部に逆らったので、遂に出されて山西僉事となった。既にして、参議に遷り、宣府を分守した。寇が侵犯すると、副将馬芳とともにその部長を撃斬し、銀幣を賜った。まもなく陽和兵備副使となった。右僉都御史に抜擢され、宣府を巡撫した。敵の本拠を搗く功を記録し、秩二等を進めた。一年余りして、母を養うため帰った。帰ること二年、召されて起用され陝西を巡撫した。屯戍の軍伍を増補し、藩府に奪われた屯地を清還した。隆慶初、右副都御史に進み、移って山西を巡撫した。管轄下の驛遞銀は毎年五十四万を徴収していたが、巍は四分の一を減ずることを請うた。沿辺の城堡を修築し、檄を飛ばして大盗李九経の党を解散させた。また母を養うため去ることを乞うた。

原文楊巍,字伯謙,海豐人。嘉靖二十六年進士。除武進知縣。擢兵科給事中。操江僉都御史史褒善已遷大理卿,巍言:「東南倭患方劇,參贊、巡撫俱論罪,褒善獨幸免,又夤緣美遷,請並吏部罰治。」帝怒,停選司俸,還褒善故官。巍既忤吏部,遂出為山西僉事。已,遷參議,分守宣府。寇入犯,偕副將馬芳擊斬其部長,賚銀幣。尋為陽和兵備副使。擢右僉都御史,巡撫宣府。錄搗巢功,進秩二級。逾年,以養母歸。歸二年,召起巡撫陜西。增補屯戍軍伍,清還屯地之奪於藩府者。隆慶初,進右副都御史,移撫山西。所部驛遞銀歲征五十四萬,巍請減四之一。修築沿邊城堡,檄散大盜李九經黨。復乞養母去。

神宗が立つと、兵部右侍郎として起用された。万暦二年、吏部に改められ、左侍郎に進み、また母の終養のため帰った。母は百歳を超えて卒した。十年、南京戸部尚書として起用され、まもなく召されて工部尚書となった。行宮を営建する詔があり、功德寺に近かった。巍が争ったので、止んだ。翌年、戸部に改められ、吏部尚書に遷った。明の制度では、六部が分かって天下の事を治め、内閣は侵してはならなかった。厳嵩に至って、初めて陰に部の権力を撓めた。張居正の時に至ると、部権は全て内閣に帰し、逡巡して事を請うことは属吏の如くであり、祖制はここから変わった。この時、申時行が国政を執った。巍は平素清操を励み、時に声望があったが、年老いて骨が曲がり、多くその指揮を聴いた。御史丁此呂が科場の事を論じると、時行及び余有丁・許国らは皆これを憎んだ。巍は此呂を貶謫すべしと論じ、御史江東之・李植らに攻撃され、時行とともに罷免を乞うた。帝は諸大臣の請いに従い、巍らを慰留して言官を戒諭したので、巍は起きて復た視事した。

原文神宗立,起兵部右侍郎。萬歷二年,改吏部,進左,又以終養歸。母年逾百歲卒。十年,起南京戶部尚書,旋召為工部尚書。有詔營建行宮,近功德寺。巍爭之,乃止。明年,改戶部,遷吏部尚書。明制,六部分蒞天下事,內閣不得侵。至嚴嵩,始陰撓部權。迨張居正時,部權盡歸內閣,逡巡請事如屬吏,祖制由此變。至是,申時行當國。巍素厲清操,有時望,然年耄骫骳,多聽其指揮。御史丁此呂論科場事,時行及余有丁、許國輩皆惡之。巍論謫此呂,為御史江東之、李植等所攻,與時行俱乞罷。帝從諸大臣請,慰留巍等而戒諭言者,巍乃起復視事。

居正が初めて敗れた時、言路は甚だしく張り、帝もまた諸大臣が朋比していると心に疑い、言官に摘発させて以て壅蔽を杜ごうとした。諸大臣は攻撃されることを恐れ、政府と銓部は陰に相倚って言路を制した。先だって、九年の京察で、張居正は吏部に命じて異己の者を全て除かせた。十五年、また大計に当たり、都御史辛自修は大いに澄汰しようとしたが、巍は政府の意に従ってこれを支持した。進士出身の者は、貶黜されたのは僅か三十三人で、翰林・吏部・給事・御史には一人もいなかった。賢否混淆し、群情失望した。十七年夏、帝は久しく朝を視ず、中外は帝が張鯨を用いない故に疾を託していると疑った。巍は同列を率いて秋の日に殿に御することを請うた。十月に至り、巍らはまた請うた。帝は悦ばず、沽名を責めた。

原文當居正初敗,言路張甚,帝亦心疑諸大臣朋比,欲言官摘發之以杜壅蔽。諸大臣懼見攻,政府與銓部陰相倚以制言路。先是,九年京察,張居正令吏部盡除異己者。十五年,復當大計,都御史辛自修欲大有所澄汰,巍徇政府指持之。出身進士者,貶黜僅三十三人,而翰林、吏部、給事、御史無一焉。賢否混淆,群情失望。十七年夏,帝久不視朝,中外疑帝以張鯨不用故托疾。巍率同列請以秋日禦殿。至十月,巍等復請。帝不悅,責以沽名。

巍は初め中外を歴任し、甚だ名声があった。及んで銓衡を執ると、平素の声望は大いに損なわれた。しかし清操があり、性質は長厚で、刻核な行いをしなかった。翌年、年齢ほぼ八十に及び、累次上疏して帰ることを乞うた。詔して伝車に乗り、廩隸を与えることは故事の如くとした。帰ること十五年、九十二歳で卒した。少保を贈られた。

原文巍初敭歷中外,甚有聲。及秉銓,素望大損。然有清操,性長厚,不為刻核行。明年,以年幾八十,屢疏乞歸。詔乘傳、給廩隸如故事。歸十五年,年九十二而卒。贈少保。

李戴、字は仁夫、延津の人。隆慶二年の進士。興化知県に任じられ、恵政があった。戸科給事中に抜擢された。広東は軍興の故をもって、民間の税を増やしていた。万暦初年に乱が定まるに至り、戴はこれを正すよう奏上した。累進して礼科都給事中となった。出て陝西右参政となり、按察使に進んだ。張居正は名法を尚び、四方の大吏は風に承って刻核であったが、戴は独り寛をもってこれを行った。山西左布政使から右副都御史に抜擢され、山東を巡撫した。凶年にあたり、累次蠲免と振恤を請うた。入って刑部侍郎となった。累進して南京戸部尚書となり、召されて工部尚書に拝され、継母の喪により去った。

原文李戴,字仁夫,延津人。隆慶二年進士。除興化知縣,有惠政。擢戶科給事中。廣東以軍興故,增民間稅。至萬歷初亂定,戴奏正之。累遷禮科都給事中。出為陜西右參政,進按察使。張居正尚名法,四方大吏承風刻核,戴獨行之以寬。由山西左布政使擢右副都御史,巡撫山東。歲兇,累請蠲振。入為刑部侍郎。累進南京戶部尚書,召拜工部尚書,以繼母憂去。

二十六年、吏部尚書蔡國珍が罷免された。廷臣が推挙した後任者は七人で、楊戴は末席であったが、帝は特に彼を抜擢して任用した。当時、趙誌臯・沈一貫が政務を補佐していたが、吏部の権限を公然と阻害はしなかったものの、高官に欠員が出ると、九卿や科道の掌印官は皆自ら推挙して上裁を仰ぎ、また吏部の諸曹郎も九卿の推挙により、尚書は自らその属官を選ぶことができず、地方の府佐や州県の正官・佐官には全て掣籤法を用いたため、吏部の権限は日に日に軽んじられていた。楊戴は職務に当たり、新令を謹んで守り、罪を免れることを幸いとするのみであった。翌年、京察が行われた。編修劉綱・中書舎人丁元薦・南京評事龍起雷はかつて言事をもって当路に逆らい、皆京察の対象に置かれたため、当時の議論は楊戴を頗る正しからずとした。そしてこの時、皇太子(国本)が未だ定まらず、皇長子の元服と婚礼が長く滞っていたので、楊戴はしばしば廷臣を率いて直諫した。また鉱税の害が甚だしくなると、楊戴は九卿を率いて言上した、「陳増が山東で鉱山を開き、知県呉宗堯が逮捕された。李道が湖口で抽分を行い、知府呉宝秀らがまた逮捕された。天下で増や道のような者は限りなく、有司はどう手足を措いたらよいのか。しかも今、水害旱魃が頻繁に起こり、田畑は荒廃し、さらに東征による増兵と糧餉の増加があり、西方の事態もまた報じられている。民は生活の道がなく、奸宄がまさに密かに発動しようとしているのに、どうして反ってその機を発し、その変を速めるようなことをするのか」。返答はなかった。

原文二十六年,吏部尚書蔡國珍罷。廷推代者七人,戴居末,帝特擢用之。當是時,趙誌臯、沈一貫輔政,雖不敢撓部權,然大僚缺人,九卿及科道掌印者鹹得自舉聽上裁,而吏部諸曹郎亦由九卿推舉,尚書不得自擇其屬,在外府佐及州縣正、佐官則盡用掣簽法,部權日輕。戴視事,謹守新令,幸無罪而已。明年,京察。編修劉綱、中書舍人丁元薦、南京評事龍起雷嘗以言事忤當路,鹹置察中,時議頗不直戴。而是時國本未定,皇長子冠婚久稽,戴每倡廷臣直諫。及礦稅害劇,戴率九卿言:「陳增開礦山東,知縣吳宗堯逮。李道抽分湖口,知府吳寶秀等又逮。天下為增、道者何限,有司安所措手足?且今水旱頻仍,田裏蕭耗,重以東征增兵益餉,而西事又見告矣。民不聊生,奸宄方竊發,奈何反為發其機,速其變哉!」不報。

山西税使張忠が夏県知県韓薰を簡僻に転任させるよう上奏した。楊戴は内官が勝手に官吏の挙薦・指摘をすべきでないとして、上疏して争った。湖広の陳奉がたびたび有司の逮捕を上奏すると、楊戴らはまた極力論じ、かつ言った、「陳奉および遼東の高淮が勝手に精兵を募って民間で横暴を働くことは、特に問わねばならない」。帝もまた聞き入れなかった。その後、また同僚とともに言上した、「昨夏六月から雨が降らず今に至り、路上に餓死者が相望み、巡撫汪応蛟の上奏した飢民は十八万人である。これに頻繁に賊の警報があり、たびたび征討の軍を興し、人丁に応じて徴発を増やし、田畑ごとに租税を加え、賦税の額は二十年前と比べて倍以上である。戦乱の傷跡が癒えぬうちに、採鉱と専売の害がまた生じた。鉱税の有無にかかわらず、一律に民間から取り立てるのは、どういう道理か。天下に富裕な家は幾らもなく、奸人の暴虐は極まりない。その家を指して脅し、『あそこに鉱がある』と言えば、家はたちまち破産する。『あそこは脱税している』と言えば、財産はたちまち空になる。詮索のしようのない言いがかりを用い、何も恐れ顧みない者を使えば、無知な小民はどうして困窮し乱れないでいられようか。湖広での激変はすでに幾度も報じられ、近ごろは武昌が特に甚だしい。この者らは命を惜しまないわけではあるまい。変を起こしても死、変を起こさなくても死、ならば声を呑んで独り死ぬよりは、仇敵と共に滅びる方がましだ。だから一度発動すれば抑えられないのである。陛下はこれを些細な事と見なされるのか」。これも返答がなかった。

原文山西稅使張忠奏調夏縣知縣韓薰簡僻。戴以內官不當擅舉刺,疏爭之。湖廣陳奉屢奏逮有司,戴等又極論,且言:「奉及遼東高淮擅募勁卒橫民間,尤不可不問。」帝亦弗聽。已,復偕同列言:「自去夏六月不雨至今,路堇相望,巡撫汪應蛟所奏饑民十八萬人。加以頻值寇警,屢興征討之師,按丁增調,履畝加租,賦額視二十年前不啻倍之矣。瘡痍未起,而采榷之害又生。不論礦稅有無,概勒取之民間,此何理也。天下富室無幾,奸人肆虐何極。指其屋而恐之曰『彼有礦』,則家立破矣;『彼漏稅』,則橐立罄矣。持無可究詰之說,用無所顧畏之人,蚩蚩小民,安得不窮且亂也。湖廣激變已數告,而近日武昌尤甚。此輩寧不愛性命哉?變亦死,不變亦死,與其吞聲獨死,毋寧與仇家俱糜。故一發不可遏耳。陛下可視為細故耶?」亦不報。

三十年二月、帝が病気になり、詔を下して鉱税を廃止し、囚人を釈放し、建言して譴責・左遷された諸臣を登用するよう命じた。翌日、帝が少し快方に向かうと、鉱税の採掘・専売を従来通り行うよう命じた。楊戴は同官を率いて力諫した。当時、罪人の釈放と廃官の起用の二事については、なお内閣に議行を命じていたが、楊戴はすぐに名簿を上疏して請おうとしたところ、刑部尚書蕭大亨が、罪人釈放は必ず奏聞すべきだと言った。ちょうど上疏を準備していると、太僕卿南企仲が二事が長く滞っていることを理由に、楊戴らが上意に順応できないと弾劾した。帝は怒り、前の詔をともに停止した。楊戴は罪を引いて罷免を求めたが、帝は許さなかった。この後、廃官の起用を二度請い、四度九卿を率いて鉱税停止を乞うたが、いずれも省みられなかった。稽勲郎中趙邦清はもとより剛直で、給事中張鳳翔に弾劾され、その背後に文選郎中鄧光祚・験封郎中侯執躬の意図があると疑い、弁明の上疏で彼らを攻撃した。御史沈正隆・給事中田大益が相次いで上章して趙邦清を弾劾した。趙邦清は憤慨し、鄧光祚・侯執躬の私事をことごとく暴露した。鄧光祚もまた上疏を飛ばして激しく攻撃し、吏部内は大いに騒然となったが、楊戴は裁断・抑制することができなかった。御史左宗郢・李培はついに楊戴が表率としてあるまじき振る舞いをしたと弾劾し、楊戴は病気を理由に辞任を求めた。帝は慰留を諭し、趙邦清を三階降格させ、鄧光祚・侯執躬の帰郷を許したため、騒ぎはようやく収まった。

原文三十年二月,帝有疾,詔罷礦稅、釋系囚、錄建言譴謫諸臣。越日,帝稍愈,命礦稅采榷如故。戴率同官力諫。時釋罪、起廢二事,猶令閣臣議行,戴即欲疏名上請,而刑部尚書蕭大亨謂釋罪必當奏聞。方具疏上,太僕卿南企仲以二事久稽,劾戴等不能將順。帝怒,並停前詔。戴引罪求罷,帝不許。自是請起廢者再,率九卿乞停礦稅者四,皆不省。稽勛郎中趙邦清素剛介,為給事中張鳳翔所劾,疑出文選郎中鄧光祚、驗封郎中侯執躬意,辨疏侵之。御史沈正隆、給事中田大益交章劾邦清。邦清憤,盡發光祚、執躬私事。光祚亦騰疏力攻,部中大哄,戴無所裁抑。御史左宗郢、李培遂劾戴表率無狀,戴引疾乞去。帝諭留,為貶邦清三秩,允光祚執躬歸,群囂乃息。

翌年の冬、妖書事件が起こった。錦衣衛官の王之楨らは同官の周嘉慶と不和であり、妖書は周嘉慶の仕業だと上言し、詔獄に下して徹底的に取り調べさせた。周嘉慶は楊戴の甥であったため、審理が行われる際、楊戴は回避した。帝はこれを聞いて不快に思った。ちょうど王士騏が書簡を私通した事件が発覚し、吏部に審議が下った。王士騏が弁明を上奏した。帝は王士騏が弁明すべきでないとし、楊戴が属官を統制できないことを責めた。楊戴は罪を認めたが、上疏の用紙に誤って印を押したため、またも譴責され、その司属が罪に問われた。楊戴が謝罪の上疏をしたが、やはり印を押した。帝は怒り、致仕を命じ、郎中以下の俸給を没収した。

原文明年冬,妖書事起。錦衣官王之楨等與同官周嘉慶有隙,言妖書嘉慶所為,下詔獄窮治。嘉慶,戴甥也,比會鞫,戴引避。帝聞而惡之。會王士騏通書事發,下部議。士騏奏辨。帝謂士騏不宜辨,責戴不能鉗屬官。戴引罪,而疏紙誤用印,復被譙讓,罪其司屬。戴疏謝,用印如故。帝怒,令致仕,奪郎中以下俸。

楊戴は吏部尚書を六年務め、穏やかな長者であったが、声望は陸光祖らより劣っていた。趙誌臯・沈一貫が政権を握り、楊戴は異を唱えることができず、そのために長くその地位にありながら、吏部の政務はますます頽廃した。没後、少保を追贈された。

原文戴秉銓六年,溫然長者,然聲望出陸光祖諸人下。趙誌臯、沈一貫柄政,戴不敢為異,以是久於其位,而銓政益頹廢矣。卒贈少保。

趙煥、字は文光、掖県の人。嘉靖四十四年の進士。烏程知県に任じられた。中央に入り工部主事となり、御史に転じた。万暦三年、宦官張宏がその手下を真定に派遣して木材を専売させようと請うたが、趙煥と給事中侯於趙が執奏して反対し、聞き入れられなかった。張居正が父の喪に服した時、言官が相次いで留任を請う上章をしたが、趙煥だけは署名しなかった。順天府丞に抜擢され、累進して左僉都御史となった。

原文趙煥,字文光,掖縣人。嘉靖四十四年進士。授烏程知縣。入為工部主事,改御史。萬歷三年,中官張宏請遣其黨榷真定材木,煥及給事中侯於趙執奏,不從。張居正遭父喪,言官交章請留,煥獨不署名。擢順天府丞,累遷左僉都御史。

十四年三月、風霾(黄砂の嵐)の異変があり、直言が求められた。趙煥は聖上の度量を広くし、忠言を受け入れ、表情を慎み、政令を信実にし、時折大臣を召して治理を協議し、順次実政を行い、内府における弊害は一切廃止し、また督撫・有司に戒めて民の苦しみを必ず把握するよう求めた。帝はこれを嘉納した。まもなく工部右侍郎に昇進した。吏部に転じ、左侍郎に進んだ。休暇を乞うて去った。南京右都御史として起用されたが、親が老齢のため辞退した。当時、趙煥の兄で遼東巡撫僉都御史の趙燿もまた帰郷して養老を願い出ていた。吏部は二人の事情は同じだが、趙燿は長男であり、かつ封疆の任に長くあったので、その帰郷を許すべきだと上言した。そこで趙煥に就職を促した。まもなく召されて刑部尚書となった。日本からの朝貢に関する議事で、強く非策であると主張した。男子の諸龍光が李如松が倭と通じていると上奏して弾劾し、吏に下され、その同党の陳仲登も連座して日中に枷をはめられ、期限満了後は瘴癘の地に流されることになった。趙煥は酷暑では必ず死ぬうえ、二人の罪は死に当たらないとして、二度上疏して力説した。帝の意に逆らい、詰責された。また浙江巡按彭応參の獄事を議するに当たり帝の意に沿わず、ついに病気を理由に帰郷した。再び南京右都御史に起用され、さらに吏部尚書に転じたが、いずれも赴任しなかった。在野十六年。召されて刑部尚書に任じられ、まもなく兵部尚書を兼ねて署理した。

原文十四年三月,風霾求言。煥請恢聖度,納忠言,謹嚬笑,信政令,時召大臣商榷治理,次第舉行實政,弊在內府者一切報罷,而飭戒督撫有司務求民瘼。帝嘉納焉。尋遷工部右侍郎。改吏部,進左。乞假去。起南京右都御史,以親老辭。時煥兄遼東巡撫僉都御史燿亦乞歸養。吏部言二人情同,燿為長子,且任封疆久,可聽其歸。乃趣煥就職。尋召為刑部尚書。議日本貢事,力言非策。男子諸龍光訐奏李如松通倭下吏,並及其黨陳仲登枷赤日中,期滿戍瘴鄉。煥以盛暑必斃,而二人罪不當死,兩疏力爭。忤旨,詰責。復以議浙江巡按彭應參獄失帝意,遂引疾歸。再起南京右都御史,就改吏部尚書,皆不赴。家居十六年。召拜刑部尚書,尋兼署兵部。

四十年二月、孫丕揚が去り、吏部尚書を兼ねて署理するよう命じられた。当時、神宗は政事を怠り、官署には欠員が多かった。内閣には葉向高のみがおり、門を閉じて三月が経っていた。六卿では趙煥一人のみが在職し、さらに吏部を兼ねて署理していたため、吏部には堂上官が再びいなくなった。兵部尚書李化龍が死去し、王象乾を召したが未だ到着せず、侍郎も任命されなかった。戸部・礼部・工部の三部はそれぞれ侍郎が一人のみであった。都察院は温純が罷免されて以来、八年間正官が不在であった。旧例では、給事中は五十人、御史は百十人であったが、この時はいずれも十人に満たなかった。趙煥は累次上疏して補充を乞うたが、帝はいずれも返答しなかった。その年八月、ついに趙煥を吏部尚書に任用し、諸部にも侍郎四人を任命した。ほどなく考選の命令が下り、給事中十七人、御史五十人を補充したため、言路は盛んであると称された。

原文四十年二月,孫丕揚去,改署吏部。時神宗怠於於事,曹署多空。內閣惟葉向高,杜門者已三月。六卿止一煥在,又兼署吏部,吏部無復堂上官。兵部尚書李化龍卒,召王象乾未至,亦不除侍郎。戶、禮、工三部各止一侍郎而已。都察院自溫純罷去,八年無正官。故事,給事中五十人,御史一百十人,至是皆不過十人。煥累疏乞除補。帝皆不報。其年八月,遂用煥為吏部尚書,諸部亦除侍郎四人。既而考選命下,補給事中十七人,御史五十人,言路稱盛。

しかしこの時すでに朋党が形成され、朝廷の議論は対立していた。趙煥はもともと清望を有していたが、突然田舎から起用され、朝廷の臣下に対してはもともと偏りがなく、ただ東林党をひどく嫌っていた。東林党を攻撃する者たちは隙に乗じて彼に入り込んだ。彼の措置はしばしば清議に合わず、先後して御史李若星・給事中孫振基に弾劾された。帝はいずれも詔を下して慰留した。やがて、兵部主事卜履吉が署部事都御史孫瑋に論難された。煥は履吉の罪が軽いとして、俸禄を三月分奪うことを擬した。給事中趙興邦が煥の私情に従ったことを弾劾した。煥は上疏して弁明し、再び罷免を請うた。葉向高が言うには、「今、国事は艱難であり、人材は日に日に少なくなっている。野にある者は賜環の期がなく、朝にある者はまた晨星のようにわずかである。それなのに大小の臣工が日々水火の争いをしているのは、まことに国家の福ではない。臣は願わくば、今後は共に成心を捨て、国事を憂い、議論は言官に任せ、主張は当事者に任せることです。大臣が布展できて言官の掣肘に苦しまず、言官が発舒できて当事者の摧残を患わないようにすれば、天下の事はまだ為すことができます」と。そこで煥を諭して視事に就かせるよう請い、煥はようやく出仕した。

原文然是時朋黨已成,中朝議論角立。煥素有清望,驟起田間,於朝臣本無所左右,顧雅不善東林。諸攻東林者乘間入之。所舉措往往不協清議,先後為御史李若星、給事中孫振基所劾。帝皆優詔慰留之。已,兵部主事卜履吉為署部事都御史孫瑋所論。煥以履吉罪輕,擬奪俸三月。給事中趙興邦劾煥徇私。煥疏辨,再乞罷。向高言:「今國事艱難,人才日寡。在野者既賜環無期,在朝者復晨星無幾,乃大小臣工,日尋水火,甚非國家福也。臣願自今已後共捐成心,憂國事,議論聽之言官,主張聽之當事。使大臣得展布而毋苦言官之掣肘,言官得發舒而毋患當事之摧殘,天下事尚可為也。」因請諭煥起視事,煥乃出。

翌年の春、年例によって孫振基および御史王時熙・魏雲中を外任に出した。三人はかつて湯賓尹・熊廷弼を力攻した者であり、また都察院に諮問しなかった。そこで御史湯兆京が故事を守って争い、かつ煥を誹謗した。煥はたびたび上疏して反論し、門を閉ざして出仕しなかった。詔が下って慰留し起用させた。兆京は争って得られず、弾劾の上書を投じて直接帰った。その同官李邦華・周起元・孫居相、および戸部郎中賀烺が相次いで上疏して煥の権力擅断を弾劾し、振基らを言路に戻すよう請うた。帝は諸臣の俸禄を奪い、烺の官を貶して煥を慰撫した。煥はますます辞任を強く請うた。九月、ついに宮門前で叩頭し、城外に出て命を待った。帝はなおも諭して留めるよう遣わした。給事中李成名がまた煥が異を伐ち同を党することを弾劾し、煥はついに病篤いと称し、堅く起たなかった。一か月余りして、ようやく駅伝に乗って帰ることを許された。

原文明年春,以年例出振基及御史王時熙、魏雲中於外。三人嘗力攻湯賓尹、熊廷弼者,又不移咨都察院,於是御史湯兆京守故事爭,且詆煥。煥屢疏訐辯,杜門不出,詔慰起之。兆京以爭不得,投劾徑歸。其同官李邦華、周起元、孫居相,及戶部郎中賀烺交章劾煥擅權,請還振基等於言路。帝為奪諸臣俸,貶烺官以慰煥。煥請去益力。九月,遂叩首闕前,出城待命。帝猶遣諭留。給事中李成名復劾煥伐異黨同,煥遂稱疾篤,堅不起。逾月,乃許乘傳歸。

四十六年、吏部尚書鄭継之が朝廷を去った。この時、党人の勢力は成り、清流はすでに斥逐し尽くされていた。斉党の亓詩教が特に勢いを張っていた。煥が同郷の老人で制しやすいとして、力を尽くして煥を引き立てて継之の後任とし、年は七十七歳であった。着任すると、すべて詩教の指揮に従い、異同を唱えようとせず、これによってもとの声望はますます損なわれた。帝は終始煥の清操を重んじ、信任した。翌年七月、遼東が警報を告げると、煥は廷臣を率いて文華門に詣で、固く帝の臨朝議政を請うた。日暮れになって、ようやく宦官を遣わして退くよう諭したが、諸軍の機要な事務は相変わらず放置された。煥らはまた上疏を整えて催促し、かつ危険な言葉を用いて言うには、「他日薊門が蹂躙され、敵人が宮門を叩くとき、陛下は高枕して深宮にあり、病と称してこれを謝絶することができましょうか」と。帝はこれによって彼を恨んだ。考満で増秩すべきであったが、取り上げられずに終わった。煥はまもなく卒去し、恤典は及ばなかった。光宗が立つと、ようやく制に従って賜った。熹宗の初め、太子太保を追贈された。

原文四十六年,吏部尚書鄭繼之去國。時黨人勢成,清流斥逐已盡。齊黨亓詩教摯尤張。以煥為鄉人老而易制,力引煥代繼之,年七十有七矣。比至,一聽詩教指揮,不敢異同,由是素望益損。帝終以煥清操,委信之。及明年七月,遼東告警,煥率廷臣詣文華門固請帝臨朝議政。抵暮,始遣中官諭之退,而諸軍機要務廢閣如故。煥等復具疏趣之,且作危語曰:「他日薊門蹂躪,敵人叩閽,陛下能高枕深宮,稱疾謝卻之乎?」帝由是嗛焉。考滿當增秩,寢不報。煥尋卒,恤典不及。光宗立,始賜如制。熹宗初,贈太子太保。

鄭継之、字は伯孝、襄陽の人。嘉靖四十四年の進士。余幹知県に任じられた。戸部主事に遷り、郎中を歴任した。寧国知府に遷り、四川副使に進み、親を養うため帰郷した。喪服を除くと、長く出仕しなかった。万暦十九年、給事中陳尚象の推薦により、江西で起官し、右参政に進んだ。太僕少卿に召され、累進して大理卿となった。東征の軍が罷めると、吏部尚書李戴が戍兵一万五千を留め置き、朝鮮に供給させることを議した。継之は言う、「既に兵を留めるなら、自ら転餉すべきであり、どうして属国を疲弊させようか」と。議者はこれを是とした。大理卿を九年務め、南京戸部尚書に擢られ、そのまま吏部尚書に改めた。

原文鄭繼之,字伯孝,襄陽人。嘉靖四十四年進士。除余幹知縣。遷戶部主事,歷郎中。遷寧國知府,進四川副使,以養親歸。服除,久之不出。萬歷十九年,用給事中陳尚象薦,起官江西,進右參政。召為太僕少卿,累遷大理卿。東征師罷,吏部尚書李戴議留戍兵萬五千,令朝鮮供億。繼之曰:「既留兵,自當轉餉,柰何疲敝屬國。」議者韙之。為大理九年,擢南京戶部尚書,就改吏部。

四十一年、吏部尚書趙煥が罷免された。この時、帝は倦勤していたが、特に銓部の選任を謹んでおり、長く後任を除かずにいた。継之に清望があるとして、翌年二月、ようやく召して煥の後任とした。継之は長く散地に処し、党援がなかった。しかしこの時、言路が権力を握り、斉・楚・浙の三党が特に横暴で、大僚の進退はただ彼らの喜怒によるものであった。継之はもと楚の出身で、楚人の議論に慣れており、かつ八十余歳で老耄して昏憒していたため、ついに一切党人の意のままに任せた。文選郎中王大智は、継之が倚信した者である。その秋、年例によって御史宋槃・潘之祥、給事中張鍵、南京給事中張篤敬を外任に出したが、皆かつて湯賓尹・熊廷弼を攻撃した者たちであった。当時、定制として、科道官の外遷には必ず都察院・吏科と会するが、継之は関与させなかった。科道官の考選に際しては、中書舎人張光房、知県趙運昌・張廷拱・曠鳴鸞・濮中玉が予定されていたが、その持論が于玉立・李三才をかなり支持していたため、抑えられて部曹に改授された。大智の同官趙国琦がこれを言上した。大智は怒り、継之に讒言してこれを追い出した。これによって御史孫居相・張五典・周起元らが年例の故事を援用して争い、かつ光房ら五人の冤罪を訴え、吏科都給事中李瑾もまた失職として抗疏して大智を弾劾した。御史唐世済は吏部を支持し、居相らを誹謗した。居相・瑾は怒り、相次いで上疏して世済を弾劾した。給事中・御史はまた世済を助けて居相を排撃した。居相は再び上疏して大智を力攻し、大智はついに病と称して去った。継之もまたその非を悟り、弁明しなかった。

原文四十一年,吏部尚書趙煥罷。時帝雖倦勤,特謹銓部選,久不除代。以繼之有清望,明年二月,乃召之代煥。繼之久處散地,無黨援。然是時言路持權,齊、楚、浙三黨尤橫,大僚進退,惟其喜怒。繼之故楚產,習楚人議論,且年八十餘,耄而憒,遂一聽黨人意指。文選郎中王大智者,繼之所倚信。其秋以年例出御史宋、潘之祥,給事中張鍵,南京給事中張篤敬於外,皆嘗攻湯賓尹、熊廷弼者也。時定制,科道外遷必會都察院吏科,繼之不令與聞。比考選科道,中書舍人張光房,知縣趙運昌、張廷拱、曠鳴鸞、濮中玉當預,而持議頗右於玉立、李三才,遂見抑,改授部曹。大智同官趙國琦以為言。大智怒,構於繼之逐之去。由是御史孫居相、張五典、周起元等援年例故事以爭,且為光房等五人稱枉,吏科都給事中李瑾亦以失職抗疏劾大智。御史唐世濟則右吏部,詆居相等。居相、瑾怒,交章劾世濟。給事中、御史復助世濟排擊居相。居相再疏力攻大智,大智乃引疾去。繼之亦覺其非,不為辯。

翌年二月に至り、胡来朝が文選郎中となり、兵科都給事中張国儒・御史馬孟禎・徐良彦を外任に出し、また都察院・吏科に諮問しなかった。国儒はすでに京卿の推挙に陪しており、法として外任に出るべきではなかった。孟禎・良彦はもと党人に逆らっていたため、来朝がこれを抑えたのである。継之はこれを禁じることができなかった。この時、居相らはすでに朝廷を去っており、ただ李瑾だけが再び争い、継之・来朝をひどく誹謗した。来朝らは難くすることができず、その党は衆力で勝とうと考え、そこで諸御史が群れをなして瑾を攻撃した。瑾は強く争い、上疏を三度上奏した。来朝らもまた三度上疏して誹謗し、言葉はかなり窮していた。来朝はついに言う、「年例協賛の旨は、実は国を執る者が両袒を調停したものであり、制とすべきではなく、前の命令を改めて事に従うことを乞う」と。帝は何ら処分しなかった。瑾はちょうど使節として奉じており、自ら引退した。その秋、給事中梅之煥・御史李若星・張五典が年例で外転し、所司はまた予め聞かなかった。吏科韓光裕・御史徐養量が少しこれを言上したが、勢いが孤立的で、ついに争うことができなかった。この時、縉雲の李鋕が刑部尚書として都察院を兼署しており、これも浙党が推挙した者であった。四十五年、京官の大計が行われ、継之と鋕がその事を司り、考功郎中趙士諤・給事中徐紹吉・御史韓浚がこれを補佐した。去留はすべて紹吉らの意のままであり、継之は成案を受けるだけであった。一時、党人と趣を異にする者は、貶黜すること殆んど尽くし、大僚には拾遺を以て中傷し、善類は空となった。

原文至明年二月,胡來朝為文選,出兵科都給事中張國儒、御史馬孟禎、徐良彥於外,復不咨都察院、吏科。國儒已陪推京卿,法不當出外;孟禎、良彥則素忤黨人,故來朝抑之。繼之不能禁。時居相等已去國,獨瑾再爭,詆繼之、來朝甚力。來朝等不能難,其黨思以眾力勝之,於是諸御史群起攻瑾。瑾爭之強,疏三上。來朝等亦三疏詆訐,詞頗窮。來朝乃言:「年例協贊之旨,實秉國者調停兩袒,非可為制,乞改前令從事。」帝一無所處分。瑾方奉使,自引去。其秋,給事中梅之煥、御史李若星、張五典年例外轉,所司復不預聞。吏科韓光裕、御史徐養量稍言之,然勢孤,竟不能爭也。時縉雲李鋕以刑部尚書兼署都察院,亦浙黨所推轂。四十五年,大計京官,繼之與鋕司其事,考功郎中趙士諤、給事中徐紹吉、御史韓浚佐之。所去留悉出紹吉等意,繼之受成而已。一時與黨人異趣者,貶黜殆盡,大僚則中以拾遺,善類為空。

継之は篤老を理由にたびたび上疏して休暇を乞うたが、帝はつねに慰留して許さなかった。翌年の春、宮門前で稽首し、郊外に出て命を待った。帝はこれを聞き、駅伝に乗って帰ることを命じた。さらに数年して卒去し、九十二歳であった。少保を追贈された。

原文繼之以篤老累疏乞休,帝輒慰留不允。明年春,稽首闕下,出郊待命。帝聞,命乘傳歸。又數年卒,年九十二。贈少保。

賛して言う。張瀚・王国光・梁夢龍は皆才弁をもって称され、楊巍・趙煥・鄭継之もまた清望を負っていたが、銓政を執るに及んで、詬議を蒙った。当時、政府は参画し、言路は脅制し、固より積重難返であったが、公を以て私を滅する節操については、諸人は蓋し愧じないわけにはいかなかったであろう。

原文贊曰:張瀚、王國光、梁夢龍皆以才辦稱,楊巍、趙煥、鄭繼之亦負清望,及秉銓政,蒙詬議焉。於時政府參懷,言路脅制,固積重難返,然以公滅私之節,諸人蓋不能無愧雲。