譚綸
四十四年冬、故官に起用され、陝西を巡撫す。未だ赴任せずして大足の民乱を起こし、七城を陥す。詔して綸を四川に改め、至る時には既に破滅せり。雲南の叛酋鳳継祖は会理に遁入す。綸は師を会してこれを討平す。兵部右侍郎兼右僉都御史に進み、両広軍務を総督し広西巡撫を兼ねる。嶺崗の賊江月照らを招降す。
薊・昌の卒は十万に満たず、而して老弱半ばを占め、諸将に分属し、二千里の間に散ず。敵は聚いて攻め、我は分かれて守る。衆寡強弱相侔わず、故に言者は亟に練兵を請う。然れども四難去らざれば、兵は終に練るべからず。
夫れ敵の長技は騎に在り、三万人を召募し車戦を勤めて習わしむるに非ざれば、以て敵を制するに足らず。三万人の月餉を計れば、歳に五十四万、これ一難なり。燕・趙の士は鋭気防辺に尽き、呉・越の習戦の卒一万二千人を募りて雑えてこれを教うるに非ざれば、事必ず成ること無からん。臣と継光がこれを召せば立ち至るべし。議者は以て不可と為す。信任専らならず、これ二難なり。軍事は厳を尚ぶ。而して燕・趙の士は素より驕り、驟に軍法を見れば必ず大いに震駭す。且つ京師に近く、流言生じ易く、徒らに忠智の士をして掣肘せしめ功を廃し、更に他患を醸さん。これ三難なり。我が兵は素より敵に当たらず、戦いてこれに勝てば、彼は心服せず。能く再び破らば、乃ち終身の創となり、而して忌嫉生じ易し。再挙せんと欲すれば、禍已に先ず至る。これ四難なり。
詔して悉く請う所の如くし、仍って綸・継光に議して三営を分立する事宜をせしむ。綸因りて言う、「薊鎮の練兵は十年を踰ゆ、然れども竟に効あらざるは、これを任ずる専らならず、而行う実ならざるなり。今宜しく臣綸・継光を責め、専断を得せしめ、巡按・巡関の御史をしてその間に参与せしむるなからん」。兵事起こりてより、辺臣は議論に牽制され、為す有ること能わず。故に綸疏してこれを言う。而して巡撫劉応節果たして異議を唱え、巡按御史劉某・巡関御史孫代はまた綸の自専を劾す。穆宗は張居正の言を用い、悉く兵事を綸に委ね、而して応節らに撓ぐること無からんことを諭す。
綸は辺隘の沖緩、道里の遠近を相度し、薊鎮を十二路に分け、路ごとに一小将を置き、総じて三営を立てる。東は建昌に駐し燕河以東に備え、中は三屯に駐し馬蘭・松・太に備え、西は石匣に駐し曹墻・古石に備う。諸将は時に従い訓練し、互いに掎角と為し、節制詳明なり。是の歳の秋、薊・昌に警無し。異時に陝西・河間・正定の兵を調べて防秋せしめしも、是に至りて悉く罷む。綸初めて至り、塞上を行巡り、将佐に謂いて曰く、「馬に秣し兵を厲し、勝負を呼吸に角するは、南に宜しく、壁を堅くし野を清くし、侵軛を坐して制するは、北に宜し」と。遂に継光と図りて方略を上り、敵台三千を築き、居庸より山海に至り、要害を控守す。綸は召し入れて右都御史兼兵部左侍郎と為し、戎政を協理す。会うに台工成り、益々浙兵九千余を募りてこれを守らしむ。辺備大いに飭い、敵敢えて入犯せず。功を以て兵部尚書兼右都御史に進み、協理は故の如し。其の冬、告げを与えられて帰る。
神宗即位し、兵部尚書に起用す。万暦初め、太子少保を加えらる。給事中雒遵は綸の職に称せざるを劾す。綸三たび疏を上りて罷免を乞う。優詔してこれを留む。五年、官にて卒す。太子太保を贈られ、諡して襄敏と曰う。
綸は終始兵事に垂れること三十年、積もる首功二万一千五百。嘗て戦酣なるや、刃の血腕に漬き、累次沃いで乃ち脱す。継光と共に事を為し斉しく名を称し、「譚・戚」と称せらる。
徐甫宰
字は允平、浙江山陰の人。嘉靖年間に順天郷試に挙げられ、武平知県に任じられた。武平は閩と粤の境に当たり、賊が多く、甫宰は城を築き堡を立てること三度に及んだ。上官は程郷の賊が盗賊の巣窟であるとして、彼をそこへ転任させた。朝曦を平定した後、超擢して潮州兵備僉事となり、添註で寇を剿討し、一子に千戸の官を授けられた。やがて程郷の賊温鑒・梁輝らが上杭の賊と合流して江西を窺う。平遠知県王化が檀嶺で遮撃し、賊は敗れて瑞金へ奔り、副使李佑が三戦三勝した。賊は間道から程郷へ帰還したが、甫宰が討伐してこれを捕らえ、残党は悉く平定された。銀幣を賜った。後に潮州分巡僉事を補し、兵備事を兼ねて管轄した。東莞の水兵徐永太らが乱を起こし、俸給を停めて賊を討った。甫宰はすでに病が重く、帰郷を乞うた。間もなく卒した。
王化
字は汝賛、広西馬平の人。父は尚学、職方郎中。化は郷試に合格した。嘉靖四十年、新たに平遠県が設置され、化は知県に任じられた。賊を檀嶺で撃ったことにより、兵事に通じているとの名声を得た。田坑の賊梁国相は降伏した後再び叛き、三図の賊葛鼎栄らと約して江西・福建を分かって寇掠した。化は妻子を会昌に預け、自ら郷兵を率いて出撃した。賊は連敗し、そこで反間を用いて会昌に化の死を伝え、化の妻計氏は慟哭して自刎した。化は怒り、賊を追撃すること一層急とし、石子嶺で国相を捕らえた。潮州府同知に遷り、なお県事を署理した。計氏は表彰され、官が祠を立てた。化は卓異として挙げられ、超擢して広東副使となった。南贛巡撫呉百朋が貪黷を理由に弾劾し、官籍を削られた。巡按御史趙淳がその兵事に通じていることを推薦したため、僉事として恵州・潮州の兵備を整えることを命じられた。久しくして、考察により罷免された。
李佑
字は吉甫、貴州清平衛の人。嘉靖二十六年の進士。江西副使を歴任し、賊を瑞金で邀撃して功があった。まもなく広東の賊呉志高・江西下歴の賊頼清規らを破り、いずれも銀幣を賜った。江西右参政に進んだ。総兵官俞大猷とともに、大いに劇賊李亜元を破った。僉都御史に擢られ、広東を巡撫した。海寇林道乾・山寇張韶南らをしばしば破った。隆慶年間、弾劾を受けて罷免され帰郷した。
王崇古
字は学甫、蒲州の人。嘉靖二十年の進士。刑部主事に任じられた。郎中から安慶・汝寧二府の知府を歴任した。常鎮兵備副使に遷り、倭寇を夏港で撃ち、靖江で追撃して殲滅した。巡撫曹邦輔に従って滸墅で戦った。後に俞大猷とともに倭寇を追って海上に出た。累進して陝西按察使、河南右布政使となった。
吉囊の子吉能が河套を占拠して西陲諸部の長となり、別部の賓兔が大・小松山に駐牧し、南は河・湟の番族を擾乱し、四鎮を取り巻いて皆寇となった。総督陳其学に威略がなく、総兵官郭江・黄演らは皆敗死し、陝西巡撫戴才もまた連座して免官された。その冬、崇古を兵部右侍郎兼右僉都御史に進め、陝西・延綏・寧夏・甘肅の軍務を総督させた。崇古は四鎮に旗牌を与えるよう奏上し、巡撫が軍法をもって督戦できるようにし、また地図を指画して、諸大将趙岢・雷龍らに分授した。しばしば功があった。著力兔が河東で放牧していたところ、雷龍が密かに興武から出撃してその営を襲い破り、多くを斬獲したため、崇古に右都御史を加えた。吉能が辺境を侵犯したが、防秋兵に阻まれ、白城子に営を移した。雷龍らが花馬池・長城関から出て戦い、大いにこれを破った。崇古は陝西に七年在任し、先後するに首功を多く獲た。
河套以東の宣府・大同の辺外より、吉囊の弟俺答・昆都力の駐牧地である。さらに東の薊州・昌平以北は、吉囊・俺答が主となり土蛮が居住し、皆強盛であった。俺答はまた叛人趙全らを受け入れ、古豊州の地を占拠し、亡命の徒数万を招き、家屋に住まわせ耕作させ、板升と号した。趙全らは俺答を帝と尊び、城郭宮殿を造営した。また自らも邸宅を造り、制度は王者の如く、その門に開化府と署した。また日夜俺答に兵法を教えた。東は薊州・昌平に入り、西は忻州・代州を掠め、遊騎は平陽・霊石に迫り、潞安以北に至った。嘉靖辛丑年以来、辺境を擾乱すること三十年、辺臣が失事の罪に坐せられた者は甚だ多く、その禍患は陝西四鎮よりも一層甚だしかった。朝廷は趙全を捕らえた者に都指揮使の官と千金の賞を与えることを募ったが、ついに得ることができなかった。辺将兵士は概ね寇に賄賂を贈って和を請うか、あるいは反って寇に利用された。寇に陥り自ら脱して帰った者は、しばしば殺して功賞を偽った。敵情を得ることができず、かえって軍中の動静は敵に知られていた。四年正月、詔して崇古に宣府・大同・山西の軍務を総督させた。崇古は辺卒の無断外出を禁じ、かえって平素より寇と通じていた者を深く入らせて間諜とした。また檄を発して番・漢の寇に陥った軍民を労い、衆を率いて降る者及び自ら脱する者は、悉く存撫した。帰順する者が続いた。西番・瓦剌・黄毛諸種族は一年のうちに降る者が二千人を超えた。
俺答はちょうど西番を掠めていたが、変事を聞いて急ぎ帰還し、辛愛の兵を調達して分かれて侵入し、把漢を強く要求した。辛愛は偽って兵を発し、ひそかに有利な機会を選んだので、俺答は志を得ることができなかった。一克哈屯はその孫を思い、朝夕に泣き、俺答はこれを憂えた。巡撫の逢時が百戸の鮑崇徳をその陣営に遣わすと、俺答は威勢を張ってこれに対し、「我が兵を用いて以来、鎮将は多く死んだ」と言った。崇徳は言った、「鎮将とあなたの孫とではどちらが大切か。今朝廷はあなたの孫を厚く遇している。兵を挙げることは彼の死を早めることだ」。俺答は把漢がすでに死んだのではないかと疑っていたが、この言葉を聞いて心が動き、使者を遣わして探らせた。崇古は把漢に緋袍金帯を着せて使者に会わせたので、俺答は望外の喜びを示し、崇徳はそこで説いて言った、「趙全らが朝に至れば、把漢は夕に帰る」。俺答は大いに喜び、人を退けて語った、「私は乱を起こすつもりはない。乱は全らによるものだ。今わが孫が漢に降ったのは、天がこれを合わせしめたのだ。天子が幸いにも私を王に封じてくれれば、永遠に北方を統治し、諸部の誰が患いをなそうか。たとえ不幸にして死んでも、わが孫が襲封すべきであり、彼は朝廷の厚恩を受けて、どうして背くことがあろうか」。そこで使者を崇徳とともに遣わし、また辛愛のために官を求め、並びに互市を請うた。崇古がこれを上奏すると、帝はすべて許可した。俺答はそこで全ら十余人を縛って献上し、崇古もまた使者を遣わして把漢を帰した。帝は叛人を得たことを以て、郊廟に祭告し、全らを市で磔にした。崇古を太子少保・兵部尚書に加え、総督はもとのままとした。
詔して廷議に下した。定国公徐文璧・侍郎張四維以下二十二人は許すべきとし、英国公張溶・尚書張守直以下十七人は許すべからずとし、尚書朱衡ら五人は封貢は便利だが互市は便利でないと言い、ただ僉都御史李棠のみが極力許すべき状況を述べた。郭乾は衆議をすべて上奏した。時に帝が経筵に臨み、閣臣が面会して外には羈縻を示し、内には守備を修めるよう請うた。そこで詔して俺答を順義王に封じ、その居城を帰化と名付け、昆都力・辛愛らには皆官を授け、把漢を昭勇将軍に封じ、指揮使はもとのままとした。俺答は諸部を率いて詔を受けること甚だ恭順で、使者を遣わして馬を貢ぎ、趙全の残党を捕らえて献上した。帝はその誠意を嘉し、金幣を賜った。また崇古及び廷臣の議を雑採し、王印を賜い、食用を与え、撫賞を加えたが、ただ貢使の入京は許さなかった。
万暦初め、召されて戎政を掌った。給事中の劉鉉が崇古が賄賂を行って昇進を図ったと弾劾し、詔して鉉の妄言を責めた。まもなく少保を加え、刑部尚書に遷り、兵部に改めた。初め、俺答諸部はかつて甘肅を越えて西番を掠めたことがあった。帰順した後、その従孫の切尽台吉が連年西番を盗み、志を得ず、俺答に西援を求めた。崇古は毎度書を送ってこれを止め、俺答もまた返書して謝した。この年、俺答は三鎮の通事と約誓し、西行して仏を迎えたいと請うた。崇古は上言して、「西行は俺答の本意ではなく、また仏を迎えることを名目としているので、阻止すべきでない。辺鎮に厳しく守備を整えさせ、ひそかにその謀を番族に漏らして恩を示すべきである」と言った。ここにおいて鉉及び同官の彭応時・南京御史の陳堂が相次いで上疏して崇古が防備を弛め敵に従ったと論じた。崇古は上疏して弁明し休職を乞うた。帝は優詔でこれに答え、人言を気にしないよう命じた。給事中の尹瑾・御史の高維崧が再び弾劾したので、崇古は力請して致仕し、帝はようやく帰ることを許した。
崇古は七鎮を歴任し、勲功は辺陲に著しかった。封貢の初め、廷議は紛糾し、危言を以て帝を動かそうとする者もあった。閣臣が力を持ってこれを支え、ようやく成功した。順義が帰順して二十年、崇古はようやく歿した。総督の梅友松が撫馭を失し、西辺が初めて擾乱したが、禍はすでに嘉靖の時に比べて緩和され、宣・大では帰順は明の末まで変わらなかった。
子に謙
万暦五年の進士。工部主事に任官し、杭州で税を徴収した。羅木営の兵変が起こり、巡撫の呉善言を脅迫して拘束した。謙が馳せ往って諭すと、事態は収まった。最終官は太僕少卿。孫の之楨は、蔭官により累進して太子太保・左都督となり、錦衣衛の事務を掌ること凡そ十七年。之采は万暦二十六年の進士、兵部右侍郎・陝西三辺総督に至った。
李棠
長沙の人。吏部郎中より累進して右副都御史となり、南贛を巡撫した。僉事の諸察を督して韶州の山賊を討平する。最終官は南京吏部右侍郎。仕官三十年、清廉潔白をもって称された。天啓初年、追謚して恭懿。
方逢時
字は行之、嘉魚の人。嘉靖二十年の進士。宜興知県に授けられ、さらに寧津・曲周に転じた。戸部主事に抜擢され、工部郎中を経て寧国知府に遷る。広東・江西で賊が起こると、詔により興寧・程郷・安遠・武平の間に伸威鎮を築き、逢時を広東兵備副使に抜擢し、参将の俞大猷とともにこれを鎮めた。やがて程郷の賊が平定され、惠州巡撫に移る。
隆慶初年、宣府口北道に改め、右参政を加えられる。まもなく右僉都御史に抜擢され、遼東を巡撫した。四年正月、大同に移る。俺答が威遠堡を侵犯し、別部の千余騎が靖鹵を攻めたが、伏兵によって撃退した。その冬、俺答の孫の把漢那吉が降って来ると、逢時は総督の王崇古に告げて「機は失うべからず」と言い、中軍の康綸に騎兵五百を率いて受け取りに行かせた。崇古と計略を定め、把漢を手挟みにして叛人趙全らを要求することとした。百戸の鮑崇徳を雲石堡から出して俺答の部下の五奴柱に言わせた、「把漢を返したいなら速やかに帰順せよ、もし兵を以て来るなら、それは彼を死に追いやることだ」と。五奴柱が俺答に報告し、逢時の使者を営中に招き入れ、趙全を捕らえて把漢と交換するよう説いた。俺答は心動き、火力赤を遣わして逢時に書を送った。しかし趙全はちょうど兵を用いるよう勧めており、俺答はまたそれに惑わされ、その子の辛愛に二万騎を率いて弘賜堡に入らせ、兄の子の永邵卜に威遠堡に向かわせ、自らは衆を率いて平虜城を侵犯した。逢時は言った、「これは必ずや趙全の謀略である」と。趙全はかつて逢時に書を投じ、禍を悔いて漢を思い、再び中国に帰りたいと言っていた。逢時はそれを俺答に見せると、俺答は大いに驚き、趙全を捕らえる意向を持った。戦いになってもまた不利であったため、ついに兵を引き退いた。辛愛はまだ知らず、たちまち大同に至った。逢時は人を使わして把漢の矢を持って行かせ、これを見せて言った、「我はすでにお前の父と約束し、お前に報いることとした」と。辛愛は矢を執って泣き、「これは我が弟の鉄背台吉の故物である。我は把漢を求めに来たが、把漢はすでに官を授けられ、また成約があるなら、さらに計らわねばならぬ」と言い、部下の啞都善を遣わして面会させた。逢時は大義を説き、犒労して帰した。辛愛は喜び、そこで幣帛を求めた。逢時は笑って言った、「台吉は豪傑である。もし帰順するなら、まさに重ねて爵賞を加えるであろう。どうしてこの些細なものを惜しみ、盛名を損なうことがあろうか」と。辛愛は大いに慚じ、再び啞都善を遣わして謝罪させた、「辺境の者は書を知らず、太師の教えに蒙り、幸甚である」と。俺答の使者が旧将の田世威のもとに至ると、世威もまたこれを責めて言った、「汝は和を求めに来たのに、兵は何のためか」と。使者が帰って報告すると、俺答は辛愛を召し還した。辛愛が東行すると、宣府総兵官の趙岢がこれを阻み、再び大同の北から去った。ここにおいて巡按御史の姚継可が逢時を弾劾し、勝手に寇の使者と通じ、人を屏いて語り、彼を東行に導き、禍を隣鎮に嫁したと。大学士の高拱は言った、「撫臣が臨機に策を設けるのは、どうして漏洩できようか。ただ後効を観るべきで、先んじて事ごとに軽々しく変えるべきではない」と。帝はこれを然りとした。俺答はついに使者を遣わして約を定め、夜に趙全らを召して事を計り、即座に帳中でこれを縛って大同に送った。逢時はこれを受け、崇古もまた把漢を送り返した。逢時は功により兵部右侍郎兼右僉都御史に進んだ。拝命したばかりで、喪に服して帰郷した。後に崇古が京営を管理するため入朝すると、神宗が誰が代わり得るかと問うた。大学士の張居正が逢時を以て答えた。
万暦初年、旧官に起用され、宣府・大同・山西の軍務を総督した。初め逢時と崇古は共に大計を決し、貢市の議は崇古が独り成し遂げた。逢時は再び崇古に代わり、約信を明らかにした。両人は首尾共に助け合い、辺境はついに安寧となった。逢時が口北を分巡した時、自ら塞外を行き、龍門盤道墩より東、靖湖堡山梁に至る百余里は、形勢が連絡し合い、嘆じて言った、「この山は天険である。もし修鑿すれば、北は独石に達し、南は南山を援けることができ、まことに陵京の一藩籬となろう」と。陽和に赴くに及び、居庸を経て、関を出て辺務が修め挙げられているのを見、前の計画を併せて遂げようとした。上疏して言った、「独石は宣府の北にあり、三面敵に隣接し、地勢は極めて孤懸している。懐来・永寧と陵寢とは一山を隔てるのみで、その関係は特に重い。その地は本来連なっているが、経行する路はなお塞外にあり、このため声援が不便である。もし盤道の険を設け、迂回を捨てて直徑に就き、龍門黒峪より寧遠に達すれば、経行三十里で、南山・独石とも朝発して夕に至ることができ、百里の地を拓くのみならず、漸く屯牧を資することもでき、戦守の双方に利がある」と。そこで巡撫の呉兌とともに経営修築し、兵を設けて戍守させた。累進して兵部尚書兼右副都御史となり、総督は元のままで、太子少保を加えられた。
五年、召されて戎政を管理した。当時、議者は争って貢市の利害を言い立てた。逢時は闕に赴くに臨み、上疏して言った。
陛下は特恩を以て臣を草土の中より起用し、崇古の任に代わらせられた。陛下の神武に頼り、八年以来、九辺の生歯は日に繁く、守備は日に固く、田野は日に開け、商賈は日に通じ、辺民は初めて生ある楽しみを知った。北部は誠を輸し貢を効し、敢えて約を破る者はなく、歳時の請求には、宜しきに随ってこれを与えれば、一果餅を得るごとに、すなわち稽首して歓笑する。人を掠って賞を求める者、例えば打喇明安兔のような者がいれば、俺答に告げて罰治させると、即座に俯首して命を聴く。しかるに異議を唱える者は、あるいは『敵の使者が充溢して害をなす』と言い、あるいは『日に日に費耗が増し、彼らの欲望は終に満たされない』と言い、あるいは『寇と益々親狎し、隠れた憂いは測り難い』と言う。この言葉は心は忠ではあるが、事の機微はまだ見えていないのである。
そもそも使者の入るのは、多いときで八九人、少ないときは二三人、朝に至り夕に去る。貢を守る使者は、賞を受ければ即座に帰る。どうして充溢することがあろうか。財貨の費用には、市本があり、撫賞がある。三鎮の歳費を計ると二十七万、昔時の戸部の客餉七十余万、太僕の馬価十数万と較べれば、十の二三に過ぎない。そして民間の耕獲の収入、市賈の利益はこれに含まれない。省くところ甚だ多く、どうして耗費があろうか。もし憂うべきことがあるとすれば、それは隠れたものではない。庚午(隆慶四年)以前を考えよ。三軍は骨を暴き、万姓は流離し、城郭は丘墟と化し、芻糧は耗竭し、辺臣の首領は保たれず、朝廷は旰食を為した。七八年来、幸いにこのようなことはなくなった。もし臣らの処置が方に乖き、小費を吝しんで大信を虧き、一旦侵掠を肆に行わせるならば、前日の憂いがたちまち現れるであろう。どうして隠れたものがあろうか。
その知り得ないところは、俺答は老いたので、誠に数年後、この者が死ねば、諸部は統一する所なく、その中の狡猾な者が互いに争い構え、異なる言辞を仮託して、遂に侵擾を行うであろう。これは時勢の変化の或いは然りであって、予め料することはできない。我が方においてこれを処するには、ただ貢を罷め市を絶ち、関を閉ざし壘を固めて待つのみである。なお辺将に軽挙を禁じ、曲は常に彼にあり、直は常に我にあるようにする。機に因って処置し、後人の方略がどうあるかを見るのみである。そもそも封疆の事は、定まった形もなく、また定まった機もない。ただ朝廷が人を得て任用し、処置が適宜であれば、何ぞ必ずしも拘泥して貢市を非とし戦守を是とせんや。臣また聞く、戎を禦ぐに上策なし。征戦は禍なり、和親は辱なり、賂遺は恥なり。今貢と曰うは、則ち和親にあらず。市と曰うは、則ち賂遺にあらず。既に貢し且つ市すれば、則ち征戦なし。臣幸いに威霊を藉り、強梗を制伏し、斧鉞の誅を免れるを得たり。今命を受けて朝に還り、復た閫外の事に関与せず。誠に議者に貢市は計に非ずと謂わんことを恐れ、輒ち敷陳あり、国是が揺らぎ惑う。内には則ち辺臣畏縮し、外には則ち部落携貳し、事機乖迕して、後悔及ぶこと無からん。臣去るを得たりと雖も、犬馬の心実に一日も忘れざるもの有り、謹んで五事を列上す。
京に至り、復た款貢図を奏上す。尋いで崇古に代わり尚書となり、吏部事を署理し、太子太保を加う。両広平定の功により、少保に進む。累疏して致仕し帰り、御書「尽忠」の字を賜わる。二十四年卒す。
逢時の才略は明らかに練達す。辺事を処置すること、皆機宜に協う。その功名は崇古に相亜ぎ、「方・王」と称せらる。
呉兌
時に俺答初めて封貢す。而して昆都力・辛愛は陰に両端を持し、其の主土蛮を助けて患いと為す。兌は智計を以て事とし、操縦して馴伏す。嘗て俺答が営を離れて狩するを偵り、五騎を従えて直ちに其の営に趨る。守る者愕然とし、弦を控う。従騎呵して曰く、「太師来たりて軍を犒うのみ」と。皆拝跪して迎え導き、且つ酪を献ず。兌は遍く廬帳を閲し、暮に抵りて還る。市する者或いは潜かに鬻ぐ所の馬を盗む。兌は人をして棓撃せしめ、曰く、「後復た盗まば、即ち関を閉ざし市を停めん」と。諸部追って奪いし所の馬を究め、並びに其の人を執りて謝す。辛愛復た辺を擾す。俺答曰く「宣・大は我が市場なり」と。戒めて動かすなからしむ。然れども辛愛猶傑驁たり。俺答常に己が馬を以て代わり貢せしむ。賞賜を得たる後、地に抵りて肯て受けず、又兵を遣わして車夷を掠む。車夷とは、其の出づる所を知らず、嘉靖中より徙り至り、史夷と雑居し、皆宣鎮保塞の属なり。辛愛之を掠み、其の長革固を以て去り、其の二比妓来たりて龍門教場に駐る。兌は史・車は唇歯たり、車掠められ、史益孤と為るを以て、奏して堡を築き之を居らしむ。使をして詰責せしめ辛愛に、革固を還せしめ、而して其の比妓をして辺を遠ざからしむ。辛愛は比妓五蘭且沁・威兀慎を誘い、歳々葛峪堡の器甲・牛羊を盗む。兌は皆三娘子に付して罰治せしむ。三娘子は俺答に盛寵有り、辛愛嫉妒し、数之を詛詈す。三娘子入貢し、兌の軍中に宿り、其の事を訴う。兌は之に八宝冠・百鳳雲衣・紅骨朵雲裙を贈る。三娘子は此を以て兌の為に尽力す。辛愛・撦力克相継いで王を襲ぎ、皆三娘子を妻とす。三娘子は貢市を主ること三世なり。昆都力嘗て封王を求め、会いて病死す。其の子青把都兵を擁して塞に至り、多に要挟す。兌は禍福を以て諭し、而して武を耀わして之を震わす。青把都懼れ、貢すること初めの如し。其の女東桂は朵顔都督長昂に嫁ぎ、嘗て父に随い入貢し、其の貧を訴う。兌は其の昆弟に諭し、一馬毎に一繒を分かちて之に畀う。後東桂報う、土蛮別騎三岔河東を掠むと。兌備えを為すを得、功有り。
九年夏、復た本官を以て薊・遼・保定軍務を総督し順天巡撫を兼ぬ。泰寧速把亥は青把都と交通し、陰に宣府に市入し、而して歳々遼東を犯して款を要す。朝廷拒みて許さず、兌は義州城を修めて之に備う。明年春、速把亥来寇す。総兵官李成梁撃ちて之を斬る。其の弟炒花・甥老撒卜兒悉く遁去す。詔して兌を兵部尚書に進め仍り右都御史を兼ぬ。尋いで太子少保に進み、召して兵部尚書に拝す。御史魏允貞、兌を劾す、歴て高拱・張居正に附し、且つ馮保に金千両を饋り、封識具に存すと。給事王継光も亦言う、兌は将吏の饋遺を受けしと。御史林休徵之を助けて攻む。帝乃ち兌の去るを允し、後数年卒す。
孫孟明
錦衣千戸を襲ぎ、許顯純を佐けて北司刑を理む。天啓初、中書汪文言を讞し、頗る之が為に左右す。顯純怒り、孟明を誣いて亡命を蔵匿すと。本司に下して拷訊し、籍を削りて帰る。崇禎初、故官に起き、累遷して都督同知に至り、衛事を掌る。孟明官に居り貪り、東林に附するを以て、頗る時誉を得たり。子邦輔職を襲ぎ、亦北司刑を理む。崇禎末、給事中姜采・行人司副熊開元言事を以て同日詔獄に繋がる。帝之を死に置かんと欲す。邦輔故らに其の獄を緩くす。帝の怒稍解け、令して主使者を厳訊せしむ。邦輔乃ち略訊して即ち獄を具えて上る。詔して杖百を予う。二人是に由りて免るるを得たり。
鄭洛
十八年、洮河に兵を用う。詔して右都御史を兼ね、陝西・延綏・寧夏・甘粛及び宣府・大同・山西の辺務を経略せしむ。松套の賓兔等、屡々甘粛を越えて河州・湟中の諸番を侵擾す。俺答が仏を迎えるに及び、又た青海に寺を建て、奏して仰華と名づけ賜わるを請う。永邵卜の別部把爾戸及び丙兔・火落赤を留めてこれを守らしめ、俱に海上に牧す。他の部往来する者は、率ね甘粛を取って道とす。甘粛の鎮臣は款を通ずるを以て禁ぜず。丙兔死す。其の子真相、進んで莽剌川に拠り、火落赤は捏工川に拠り、益々番族を併呑す。河套の都督卜失兔も亦た使者を遣わして撦力克を邀う。撦力克、洛に書を遺し、仰華に赴くを名とす。洛は塞外を行かしめ、又た忠順夫人に諭して曰く、「彼中の撫賞多く能わず、且つ王家は東に在り、内顧の憂い有らんを恐る」と。撦力克遂に行く。未だ至らざるに、把爾戸の部卒、西寧に闌入す。副総兵李奎方や酔い、単騎これを馳せ往く。卒は鞚を把って自ら白すも、奎の斬る所となり、遂に大いに噪ぎ、奎を射て死なしむ。火落赤・真相、進んで旧洮州を囲み、副総兵李聯芳敗れて歿す。臨洮・河州・渭源に入り、総兵官劉承嗣利あらず、遊撃李芳等皆死す。是の時に当たり、撦力克は已に仰華に至り、火落赤・真相益々これを挟みて重しと為し、関中大いに震う。惟だ把爾戸は逆を助けず。事聞こえ、詔して洛に七鎮を経略せしめ、僉事万世徳・兵部員外郎梁雲龍を随軍して賛画せしめ、而して撦力克の貢市を停む。俄かに総督梅友松を罷め、命じて洛をして兼ねて其の事を領せしむ。洛は洮河の禍、敵を青海に入るるに縦するに由るとし、乃ち馳せて甘粛に至り、令して曰く、「北部青海より帰巣する者は、仮道を聴す。巣より青海に入る者は、即ち兵を勒してこれを拒ぐ」と。未だ幾ばくもせず、卜失兔水泉に至り、青海に趨らんと欲す。総兵官張臣と相持すること月余、洛は伏兵を設けて掩撃し、卜失兔僅かに身を以て免る。庄禿頼後れて至り、これを聞きて亦た退き去る。
明年、洛と雲龍、西寧に入り、青海を控扼す。撦力克これを聞き、西に二百里徙り、洮河に掠めたる人口を還し、忠順夫人と罪を輸して帰るを請う。火落赤・真相も亦た夜去り、両川の余党は莽敕南山に留まる。洛は諸部の約結を慮り、先ず使者を遣わして撦力克を促し北帰せしめ、別に雲龍・世徳を遣わして番族を収め以て其の勢を弱め、而して状を具して奏聞す。言うに、「順義王の南牧するより、途を借りて番を収め、子女牛羊皆これ有り、生死唯だ其の制する所なり。洮河の役、遂に嚮導と為る。番戎の勢分かたざれば、則ち心腹の患い已む無し。臣鼓舞労来し、諸番八万余人を招き回すは、皆陛下の威徳の致す所なり」と。且つ番を収むるに六利有ることを具陳す。是の時、撦力克観望して即ち帰らず。洛はこれと相羈縻し、先ず総兵官尤継先を遣わして莽剌の余寇を撃ち走らしむ。督撫魏学曾・葉夢熊等、決戦を請う。夢熊又た書を都下に騰せしめ、洛は疏を以て不可を堅持す。夢熊は乃ち苗兵三千を調べて選鋒と為し、洛を誹謗して秦檜・賈似道と為す。会うに撦力克北帰して罪を謝し、貢市を復するを乞う。洛は乃ち兵を青海に進め、火落赤・真相を走らしめ、仰華を焚き、戍を西寧・帰徳に置きて還る。尚書石星、宣府・大同の事急なるを以て、速やかに洛を召して款戦の計を究めしむるを請う。洛既に至り、総督蕭大亨・巡撫王世揚・邢玠等と上疏して曰く、「撦力克は罪を火落赤・真相に諉し、桀驁の状已に斂む。且つ其の部落数千里、部長十余輩。巣に在りて疆を保つ者は、宣鎮に則ち青把都兄弟未だ嘗て東に薊・遼を窺わず、而して兀慎・擺腰五路の新平に在る者は、馴服猶故の如し。西に行き牧する者は、不他失未だ嘗て莽・捏を窺わず、而して大成比妓は則ち又た帰巣独り先んず。今一人の罪を以て、諸部を概して絶ち、往日の恩を消し、将来の隙を開くは、臣其れ可なりと未だ見ず。今史二外叛し、屡々辺疆を犯す。若し順義王をして縛り献じて以て信を著わさしめ、然る後に市賞を酌議すれば、我に在りて固より未だ失策と為さざるなり」と。議遂に定まる。尋いで少保を加えられ、仍って召されて戎政を理む。順義王果たして史二を縛り来たりて献じ、復た款は故の如し。
張学顏
遼鎮の辺境の長さは二千余里、城砦は百二十箇所、三方が敵に隣接する。官軍は七万二千、月に米一石を給し、銀二銭五分に折支し、馬は冬春に飼料を給し、月に銀一銭八分に折支する。すなわち豊作の年でも数日分を支えるに足らず。嘉靖戊午の大飢饉以来、兵士と馬匹が逃亡・死亡した者は三分の二に及んだ。前任の巡撫王之誥・魏学曾が相次いで安撫収拾したが、全盛期の半分にも回復していなかった。さらに凶旱が続き、餓死者が道に満ちた。学顔はまず救恤を請い、軍の実員を充実させ、流亡者を招き、武器を整え、戦馬を買い入れ、賞罰を厳明にした。懦弱な将軍数人を罷免し、平陽堡を創設して両河を通じさせ、遊撃を正安堡に移して鎮城を守らせ、戦守の備えはすべて経画に従って整った。大将李成梁は敢然と力戦して深く攻め入ったが、学顔は収容と防衛を万全の策とし、敵が来ても何も失わず、敵が退けば備えは元通り、公私の力は充実し、次第に旧に復した。十一月、成梁とともに土蛮の卓山を破り、右副都御史に進んだ。翌年の春、土蛮が侵入を謀ったが、備えがあると聞いて止めた。
奸民が海上に密かに出て、三十六島を占拠した。閲視侍郎汪道昆が緝捕を議したが、学顔は緝捕は適切でないと言った。李成梁に命じて海上に兵を留め、誅伐を加えようとすることを示し、別に使者を遣わして招諭し、差役を免ずることを許した。半年も経たぬうちに、四千四百余りを招き戻し、積年の患いは消滅した。秋、建州都督王杲が降伏者を要求して得られず、撫順を掠め入り、守将賈汝翼がこれを詰責した。杲はますます恨み、諸部を約して寇と為そうとした。副総兵趙完は汝翼が事を起こしたと責めた。学顔は上奏して言った、「汝翼は王杲の贈り物を退け、その違抗を懲らしめ、実に国威を伸ばした。もしこれにより罷免斥退すれば、辺将の進退はすべて敵が決することになる。臣は王杲に諭して捕虜と掠奪品を送還させ、そうでなければ兵を調べて剿殺すべきであり、禍を蓄えるために姑息なことをすべきではないと考える」と。趙完は恐れて、金と貂を贈ったが、学顔はこれを暴露した。詔により趙完を逮捕し、学顔の策の通り王杲に宣諭した。諸部は大軍が出動しようとしていると聞き、悉く山谷に逃げ隠れた。杲は恐れ、十二月に海西の王台と約して捕虜と獲物を送り、和議を求めた。学顔はこれにより彼らを撫慰した。
遼陽鎮の東二百余里に旧く孤山堡があった。巡按御史張鐸が険山五堡を増設したが、遼鎮との声援が繋がらなかった。都御史王之誥が険山参将を設置し、六堡十二城を管轄させ、叆陽を分守させることを奏請した。またその地が不毛であるため、寛佃に移そうとしたが、時勢が逼迫して果たせなかった。万暦初年、李成梁が孤山堡を張其哈佃に移し、険山五堡を寛佃・長佃・双墩・長領散などに移すことを議した。いずれも肥沃な地を占め、要害を扼するものであった。しかし辺境の民は遠役を苦しみ、怨言を発した。工事が始まったばかりの時、王杲が再び辺境を侵犯し、遊撃裴承祖を殺害した。巡按御史は急いで工事中止を請うたが、学顔は認めず、言った、「これでは弱みを見せることになる」と。即日に塞上を巡察し、王兀堂ら諸部を撫定し、その地での貿易を許した。ついに寛佃を築き、二百余里の地を開拓した。ここにおいて撫順以北、清河以南は、皆約束に従った。翌年の冬、兵を発して王杲を誅し、これを大破し、紅力寨まで追撃した。張居正は学顔の功績を総督楊兆の上と評価し、兵部侍郎を加えた。
五年の夏、土蛮が諸部を大いに集めて錦州を侵犯し、封王を要求した。学顔は上奏して言った、「敵がまさに勢いを振るっている時に、これと通じるのは、これを恐れることである。和を制する者が彼らにあるならば、その和は必ず長く続かない。また功のない者と功のある者が同じく封ぜられ、順に逆らう者と順に従う者が同じく賞せられるならば、諸部に軽んぜられるばかりか、俺答にも笑われるであろう。臣らは謹んで正言をもってこれを退けます」と。ちょうど大雨に会い、敵も引き退いた。その冬、戎政侍郎に召され、右都御史を加えられた。交代を受けないうちに、土蛮が泰寧の速把亥と約して遼・瀋・開原を分かれて侵犯した。翌年正月に劈山で敵を破り、その長の阿醜台ら五人を殺し、学顔はついに兵部に戻った。一年余りして、戸部尚書に任ぜられた。
当時張居正が国政を執り、学顔が精細な計算に長けていることから、深く倚任した。学顔は会計録を撰して出納を勾稽した。また清丈条例を奏上して列挙し、両京・山東・陝西の勲戚の荘田を整理し、溢額・脱漏・詭借などの弊害を正した。さらに天下に通行させ、官民の屯牧・湖陂八十余万頃を得た。賠累に苦しむ民は、その賦税をもってこれに充当した。正徳・嘉靖の虚耗の後、万暦十年までの間、最も富庶と称せられたのは、学顔の力によるものであった。しかしこの時、宮廷の費用は奢侈に流れ、多くを徴索した。学顔は事に随って諫言を納め、太倉銀十万両の発給停止、雲南の黄金課一千両の減免を得たが、その他多くは執り争うことができなかった。そして金花銀が毎年二十万両増加し、遂に定額となった。人もまたこのことで学顔を軽んじた。
十一年四月、兵部尚書に改めた。当時まさに内操が行われ、宦官二千人を選び雑役の者と混ぜて訓練し、太僕寺の馬三千頭を与えようとした。学顔は馬を与えず、また内操の停止を請うたが、いずれも聞き入れられなかった。その年の秋、車駕が山陵から還ると、学顔は上疏して言った、「皇上は恭しく聖母を奉じ、輦を扶けて前駆し、陵園を拝祀し、寿域を考卜され、六軍の将士十余万は、部伍整然としていた。ただ内操の随駕軍士のみが、進退自ら恣にした。前に涼水河に至り、喧嘩争って紀律なく、奔逸衝突し、上は天顔を動かされた。今、車駕は既に還られたが、未だ解散していない。謹んで旧制を稽えるに、営軍が随駕して郊祀する時、初めて内庫で甲冑を受け、事が終われば即座に返還する。宮中では長随内侍のみが弓矢を佩くことを許される。また律に、宿衛軍士に属さない者が、寸刃を帯びて宮殿門に入る者は絞刑、皇城門に入る者は辺衛に戍せとある。祖宗の微を防ぎ乱を弭げる意は甚だ深く且つ遠大である。今、皇城内で甲冑を着け馬に乗り鋒刃を執り、科道は糾巡できず、臣の部は検閲できない。また雑役の者や僕隷を招集し、禁苑に出入りさせている。万一邪心を起こし、朋党を謀って乱を倡え、内で騒げば外臣は敢えて入らず、夜に騒げば外兵は知るに及ばず、都城の白昼に騒げば天子の親兵であると言い、これを駆っても散じず、これを捕らえても敢えて逆らわない。正徳年間の西城練兵の事は、まさに鑑とすべきである」と。上疏が上がると、宦官らは皆歯ぎしりし、流言飛語で中傷した。神宗はこれを察知し、主使者を詰責した。学顔は免れることができたが、しかしその言を用いることもできなかった。
考課満了し、太子少保を加えられる。雲南の嶽鳳・罕虔が平定され、太子太保に進む。時に張居正既に没し、朝廷の議論は大きく異なる。初め、御史劉臺が居正を弾劾して罪を得、学顔はまたその贓私を論ず。御史馮景隆が李成梁の功績を飾ることを論ずると、学顔は急ぎ成梁の十大捷は虚妄ならずと称し、景隆は坐して貶斥される。学顔は故より居正に厚遇され、李成梁と共事すること久しく、世論は皆学顔が居正・成梁に党するものとす。御史孫継先・曾乾亨・給事中黄道瞻が相次いで上疏して学顔を論ず。学顔は上疏して弁明し去職を求め、また道瞻を留めることを請うが、聴かれず。翌年、順天府通判周弘禴がまた学顔が太監張鯨と交通することを論ず、神宗は皆これを外に黜す。学顔は八度上疏して休職を乞い、致仕を許されて去る。二十六年、家にて卒す。少保を贈られる。
張佳胤
字は肖甫、銅梁の人。嘉靖二十九年の進士。滑県の知県となる。大盗高章なる者、緹騎と詐り、直ちに官署に入り、佳胤を劫いて帑金を索む。佳胤は色変ぜず、偽って券を書いて金を貸し、悉く遊僥の名を署し、召し入れて直ちに賊を擒え、これにより名を知られる。戸部主事に擢てられ、職方に改め、礼部郎中に遷る。風霾により考察され、陳州同知に謫せられる。歴任して按察使に遷る。
隆慶五年冬、右僉都御史に擢てられ、応天十府を巡撫す。安慶の兵変に坐し、獄辞を勘えて合わず、南京鴻臚卿に調せられ、就いて光禄に遷る。右副都御史に進み、保定を巡撫す。途中喪を聞き帰る。
万暦七年、故官に起用され、陝西を巡撫す。未だ上ならず、宣府に改む。時に青把都既に服し、その弟満五大なお桀驁、その部の八頼が塞外の史・車二部を掠め、総兵官麻錦これを擒う。佳胤は錦に命じて八頼を縛り将に斬らんとし、みずから馳せてこれを赦す。八頼は叩頭して誓いて敢えて辺を犯さず。後に総督鄭洛と計りて満五大を服せしむ。兵部右侍郎として入る。
十年春、浙江巡撫呉善言が詔を奉じて月餉を減ず。東・西二営の兵馬文英・劉廷用ら党を構えて大いに騒ぎ、善言を縛り毆る。張居正は佳胤の才を以て、右僉都御史を兼ねて善言に代わらしむ。甫く境に入りて、杭民は保甲を行ふ故を以て、また乱る。佳胤は告げる者に問いて曰く、「乱兵と乱民と合ふか」と。曰く、「未だせず」と。佳胤喜びて曰く、「速かにこれを駆れば、尚お離れて二つとすべし」と。既に至りて、民の剽掠ますます甚だし。佳胤は数卒を従へ偽りて民の苦しむ所を問ひ、これを除くを下令す。衆ますます張り、夜に巨室を掠め、火光天を燭す。佳胤は遊撃徐景星を召し二営の兵を諭し、乱民を討って自ら贖わしむ。百五十人を擒え、その三分の一を斬る。乃ち偽りて文英・廷用を召し、冠帯を与ふ。而して密かに景星に属して七人を捕へ、文英・廷用と並べて斬る。二乱悉く定まる。帝は優詔を以て褒美す。尋いで左侍郎を以て部に還り、功を録し、右都御史を加ふ。
殷正茂
尋いで遷に代わりて両広の軍務を提督す。是の時に当たり、群盗惠州の藍一清・頼元爵、潮州の林道乾・林鳳・諸良宝、瓊州の李茂、処処に屯結す。広中は日に警を告げ、倭また数たび害を為す。正茂は守巡官に地を画して分守せしめ、而して瀕海の謫戍の民を雲南・川・湖に徙し、倭の向導を絶つ。乃ち総兵官張元勲・参政江一麟らに命じて先後して倭千余を殺し、以て次第に諸盗を尽く平らぐ。広西巡撫郭応聘もまた懐遠・洛容の瑶を平らげたるを奏す。語は元勲及び李錫伝に詳し。正茂は功を以て累ねて兵部尚書兼右副都御史を加ふ。倭また銅鼓・双魚を陥とし、元勲大いにこれを儒峒に破る。電白を犯せば、正茂は千余人を剿殺す。嶺表略く定まる。
正茂の広に在りし時、法を任するに厳しく、道将以下奉行して惟だ謹む。然れども性貪にして、歳に属吏の金万計を受く。初め古田を征するに、大学士高拱曰く、「吾百万金を正茂に捐て与ふ。縦ひ幹没する者半ばと雖も、然れども事は立って辦すべし」と。時に拱を以て人を用いるに善しと為す。
李遷
字は子安、新建の人。嘉靖二十年の進士。隆慶四年に官は南京兵部右侍郎、左侍郎を以て両広を総督す。給事中光懋が言ふ、両広は向は提督を設け、事権画一なり、今両巡撫相牽掣し、便ならず、と。乃ち遷を改めて提督兼ねて広東を巡撫せしめ、而して特命に正茂を広西巡撫と為す。後遂に定制と為る。銀豹を平らぐる功を以て右都御史を加ふ。尋いで惠・潮の山寇を討ち、俘斬千二百余級。刑部尚書として召さる。疾を引いて帰り、卒す。恭介と謚す。遷は中外に出入すること三十年、妄りに一銭を取らず。年近く七十、母終り、墓に廬す。
淩雲翼
雲翼は幹済の才あり。羅旁の役は、正茂の成功を継ぐ。然れども事を喜び殺戮を好み、当時に譏らる。
賛に曰く、
譚綸・王崇古諸人は、巖疆に任を受け、兵備に練達し、余子俊・秦纮と先後比跡すべし。其の時を考うるに、蓋し張居正国に当たり、軍謀辺瑣に心を究む。書疏往復、機要を洞矚し、委任責成して、展布するを得せしむ。是を以て各其の材を尽くし、事克く済む有り。此を観て、居正の功は泯すべからざるなり。