明史

列傳第一百〇九 袁洪愈、王廷瞻、郭應聘、耿定向、王樵、魏時亮、郝杰、趙參魯、張孟男、李禎、丁賓

列傳第一百〇九 袁洪愈、王廷瞻、郭應聘、耿定向、王樵、魏時亮、郝杰、趙參魯、張孟男、李禎、丁賓

原文列傳第一百〇九 袁洪愈 王廷瞻 郭應聘 耿定向 王樵 魏時亮 郝杰 趙參魯 張孟男 李禎 丁賓

○袁洪愈(子一鶚、譚希思)王廷瞻、郭應聘(吳文華)耿定向(弟定理、定力)王樵(子肯堂)魏時亮(陳瓚)郝傑(胡克儉)趙參魯、張孟男(衛承芳)李禎、丁賓

原文○袁洪愈(子一鶚譚希思)王廷瞻郭應聘(吳文華)耿定向(弟定理定力)王樵(子肯堂)魏時亮(陳瓚)郝傑(胡克儉)趙參魯張孟男(衛承芳)李禎丁賓

袁洪愈

原文袁洪愈

袁洪愈、字あざなは抑之、吳縣の人なり。嘉靖二十五年の郷試に第一で挙げられ、明年進士となり、中書舎人に授けられる。礼科給事中に抜擢ぬきされる。梁紹儒(檢討)が権要に阿附し、白璧(文選郎中)が権を招き官を鬻ぎ、萬鏜(尚書)・葛守禮(侍郎)が下を檢せざるを弾劾す。詔して鏜・守禮を切責し、璧を詔獄に下し、紹儒を外に斥く。紹儒は大学士嚴嵩の私人なり。已にして、邊務數事を陳べ、詔して俱に之に従う。嵩、吏部尚書吳鵬に属し、福建僉事として出さる。河南參議・山東提學副使・湖廣參政を歴へ任し、所在清節を著わす。嵩敗れて後、召されて南京太僕少卿となり、就いて太常に遷る。隆慶五年、疾を以て帰る。

原文袁洪愈,字抑之,吳縣人。舉嘉靖二十五年鄉試第一。明年成進士,授中書舍人。擢禮科給事中。劾檢討梁紹儒阿附權要,文選郎中白璧招權鬻官,尚書萬鏜、侍郎葛守禮不檢下。詔切責鏜、守禮,下璧詔獄,斥紹儒於外。紹儒,大學士嚴嵩私人也。已,陳邊務數事,詔俱從之。嵩屬吏部尚書吳鵬,出為福建僉事。歷河南參議、山東提學副使、湖廣參政,所在以清節著。嵩敗,召為南京太僕少卿,就遷太常。隆慶五年,以疾歸。

萬曆中、故官に起され、南京工部右侍郎に遷り、右都御史に進み、南院事を掌り、就いて禮部尚書に改まる。南京御史譚希思、中官・外戚を疏論し、且つ旧制に循い、内閣に絲綸簿を設け、宮門に鐵牌を置くを請う。詔して南京都察院に下し勘訊せしめ、将に誣し罔を以て坐せんとす。洪愈は既に官を改め、代者は未だ至らず、乃ち具に希思の陳ぶる所は、王可大の『國憲家猷』・薛應旂の『憲章錄』二書に載するを言う。帝、拠る所は頒行の制書に非ざるを以て、希思を雑まじ職に謫す。洪愈尋いで疏を上し幹謁を禁ずるを請い、又屯田の廢壞の害を極諫し、商人に中鹽せしめ、内地の飛挽を免ずるを乞う。皆議行せらる。

原文萬曆中,起故官,遷南京工部右侍郎,進右都御史,掌南院事,就改禮部尚書。南京御史譚希思疏論中官、外戚,且請循舊制,內閣設絲綸簿,宮門置鐵牌。詔下南京都察院勘訊,將坐以誣罔。洪愈已改官,代者未至,乃具言希思所陳,載王可大《國憲家猷》、薛應旂《憲章錄》二書。帝以所據非頒行制書,謫希思雜職。洪愈尋上疏請禁幹謁,又極諫屯田廢壞之害,乞令商人中鹽,免內地飛挽。皆議行。

萬曆十五年、就いて吏部に改まる。其の冬、年を引きて休を乞う。帝其の清德を重んじ、太子少保を加えて致仕せしむ。洪愈通籍四十餘年、居る所一椽を増さず、出入徒步す。卒す、年七十四。巡撫周孔教、金を捐てて之を葬る。太子太保を贈り、謚して安節と曰う。

原文萬曆十五年,就改吏部。其冬引年乞休。帝重其清德,加太子少保致仕。洪愈通籍四十餘年,所居不增一椽,出入徒步。卒,年七十四。巡撫周孔教捐金葬之。贈太子太保,謚安節。

子一鶚、蔭を以て、官は治中。饘粥継がずして死す。希思は茶陵の人。右副都御史を歴任し、四川を巡撫す。

原文子一鶚,以蔭,官治中。饘粥不繼以死。希思,茶陵人。歷右副都御史,巡撫四川。

王廷瞻

原文王廷瞻

王廷瞻、字は稚表、黃岡の人。父濟は參政。廷瞻、嘉靖三十八年の進士に挙げられ、淮安推官に授けられる。入りて御史となり、畿輔の屯政を督む。穆宗裕邸に在り、莊田を易えんと欲す。廷瞻不可とす。隆慶元年、所部久雨。三宮以下及び裕府の莊田、乾清宮に改入せらるる者の租を悉く蠲すを請う。詔して十の五を減ず。已にして、勛戚の莊田太だ濫るを言い、初めに給する時の田数を裁量はかし、其の世次を限り、爵絶すれば官に帰すを請う。制可す。高拱再び政を輔く。廷瞻常に拱を論じ、遂に疾を引きて帰る。神宗立ち、故官に起される。太僕卿を歴任す。萬曆五年、右僉都御史を以て四川を巡撫す。番屢屢松潘を犯す。廷瞻、副使楊一桂・總兵官劉顯に令し之を剿り、其の魁を殲し、群蠻款を納む。風村・白草の諸番、久しく二十八砦に居り、率いる男婦八千餘人來降す。復た總兵顯に命じ建昌・傀廈・洗馬・姑宰・鐵口の諸叛番を討たしめ、皆首悪を献げ出降す。俸一級を増し、右副都御史に進み、南・贛を撫す。

原文王廷瞻,字稚表,黃岡人。父濟,參政。廷瞻舉嘉靖三十八年進士,授淮安推官。入為御史,督畿輔屯政。穆宗在裕邸,欲易莊田,廷瞻不可。隆慶元年,所部久雨。請自三宮以下及裕府莊田改入乾清宮者,悉蠲其租。詔減十之五。已,言勛戚莊田太濫,請於初給時裁量田數,限其世次,爵絕歸官。制可。高拱再輔政,廷瞻常論拱,遂引疾歸。神宗立,起故官。歷太僕卿。萬曆五年,以右僉都御史巡撫四川。番屢犯松潘。廷瞻令副使楊一桂、總兵官劉顯剿之,殲其魁,群蠻納款。風村、白草諸番,久居二十八砦,率男婦八千餘人來降。復命總兵顯討建昌、傀廈、洗馬、姑宰、鐵口諸叛番,皆獻首惡出降。增俸一級,進右副都御史,撫南、贛。

入りて南京大理卿となる。兩京戶部左・右侍郎を歴任し、右都御史を以て出で漕運を督し鳳陽諸府を兼ねて巡撫す。寶應氾光湖の堤は水を蓄えて運を濟し、平江伯陳瑄の築く所なり。下流泄する所無く、決して八浅となり、匯りて巨潭と成り、諸鹽場皆没す。淮流復た奔入し、勢益々洶湧す。前巡撫李世達等、越河を開き其の險を避けんと議す。廷瞻之を承く。渠千七百七十六丈を鑿ち、石閘三、減水閘二、石堤三千三十六丈、子堤五千三百九十丈と為し、公帑二十餘萬を費やし、八月に竣事す。詔旨褒嘉し、河の名を弘濟と賜う。廷瞻を戸部尚書に進め、巡撫は元の如し。尋いで南京刑部尚書に改まる。未だ上せず、帰を乞う。久しくして卒す。太子少保を贈る。兄廷陳は『文苑傳』に見ゆ。

原文入為南京大理卿。歷兩京戶部左、右侍郎,以右都御史出督漕運兼巡撫鳳陽諸府。寶應氾光湖堤蓄水濟運,平江伯陳瑄所築也。下流無所泄,決為八淺,匯成巨潭,諸鹽場皆沒。淮流復奔入,勢益洶湧前巡撫李世達等議開越河避其險,廷瞻承之。鑿渠千七百七十六丈,為石閘三,減水閘二,石堤三千三十六丈,子堤五千三百九十丈,費公帑二十餘萬,八月竣事。詔旨褒嘉,賜河名弘濟。進廷瞻戶部尚書,巡撫如故。尋改南京刑部尚書。未上,乞歸。久之卒。贈太子少保。兄廷陳,見《文苑傳》。

郭應聘

原文郭應聘

郭應聘、字は君賓、莆田の人。嘉靖二十九年の進士。戶部主事に授けられる。郎中を歴任し、出でて南寧知府となる。威茂兵備副使に遷り、廣東參政に転ず。提督吳桂芳に従い李亞元を平げ、別に賊首張韶南・黃仕良等を撃つ。廣西按察使に遷り、左・右布政使を歴任す。隆慶四年、大いに古田賊を破り、斬獲七千有奇。已にして、巡撫殷正茂に従い古田を平げ、再び秩を進む。

原文郭應聘,字君賓,莆田人。嘉靖二十九年進士。授戶部主事。歷郎中,出為南寧知府。遷威茂兵備副使,轉廣東參政。從提督吳桂芳平李亞元,別擊賊首張韶南、黃仕良等。遷廣西按察使,歷左、右布政使。隆慶四年大破古田賊,斬獲七千有奇。已,從巡撫殷正茂平古田,再進秩。

正茂總督に遷り、遂に應聘を擢て右副都御史とし之に代わらしむ。府江の瑤反す。府江は上は陽朔に起り、下は昭平に達し、三百餘里に亙る。諸瑤江を夾みて居り、險を怙りて剽劫す。成化・正德の間、都御史韓雍・陳金之を討平す。是に至りて荔浦・永安を攻圍し、知州楊惟執・指揮胡翰を劫う。事聞こえ、大学士張居正便宜を假するを奏し、應聘に書を寓おくせて曰く「炎荒瘴癘の區、數萬の衆を役し、淹留すべからず。速やかに其の巢を破らば、則ち余賊膽を破らん」と。應聘土・漢兵六萬を集め、總兵官李錫に令し進討せしむ。未だ行かずして、懷遠の瑤も亦た知縣馬希武を殺し反す。應聘と正茂、先ず府江を征するを議し、三箇月を閲て悉く定まり、乃ち錫に檄し懷遠を討たしむ。天大雨雪、功無くして還る。懷遠は古の牂牁、地は湖・貴靖・黎の諸州に界し、郭を環る皆瑤、編氓其の外に処る。嘉靖中、之を征して克たず、知縣府城に寄居し、遙かに羈縻を示すのみ。古田既に復し、瑤兵威に懾し、服属を願う。希武始めて其の地に入る。城を築くを議し、作を董ること峻しきに過ぎ、瑤遂に亂し、希武殺さる。是に及び、師出でて功無し。應聘益々諸路の兵を調え、白杲・黃土・大梅・青淇の侗・僮を鎮撫し、以て賊の勢を孤にし、而して錫と諸将賊を連破し、其の魁を斬り、懷遠乃ち下る。事は皆錫傳に具す。初め行師を議し、錫は陽朔金寶嶺の賊近しとし、先ず之を滅さんと欲す。應聘曰く「君第往け、吾自ら処有り」と。錫行くこと數日、應聘と按察使吳一介、意表に出でて其の魁を襲殺す。懷遠克復するに比し、陽朔も亦た定まり、乃ち諸将門崇文・楊照・亦孔昭等を分遣し洛容・上油・邊山を討たしむ。五叛の瑤悉く平ぐ。神宗大いに悦び、兵部右侍郎兼右副都御史に進め、巡撫は元の如し。

原文正茂遷總督,遂擢應聘右副都御史代之。府江瑤反。府江上起陽朔,下達昭平,亙三百餘里。諸瑤夾江居,怙險剽劫。成化、正德間,都御史韓雍、陳金討平之,至是攻圍荔浦、永安,劫知州楊惟執、指揮胡翰。事聞,大學士張居正奏假便宜,寓書應聘曰:「炎荒瘴癘區,役數萬眾,不宜淹留,速破其巢,則余賊破膽。」應聘集土、漢兵六萬,令總兵官李錫進討。未行,而懷遠瑤亦殺知縣馬希武反。應聘與正茂議先征府江,三閱月悉定,乃檄錫討懷遠。天大雨雪,無功而還。懷遠,古牂牁,地界湖、貴靖、黎諸州,環郭皆瑤,編氓處其外。嘉靖中,征之不克,知縣寄居府城,遙示羈縻而已。古田既復,瑤懾兵威,願服屬,希武始入其地。議築城,董作過峻,瑤遂亂,希武見殺。及是,師出無功。應聘益調諸路兵,鎮撫白杲、黃土、大梅、青淇侗、僮,以孤賊勢,而錫與諸將連破賊,斬其魁,懷遠乃下。事皆具錫傳。初議行師,錫以陽朔金寶嶺賊近,欲先滅之。應聘曰:「君第往,吾自有處。」錫行數日,應聘與按察使吳一介出不意襲殺其魁。比懷遠克復,陽朔亦定,乃分遣諸將門崇文、楊照、亦孔昭等討洛容、上油、邊山。五叛瑤悉平。神宗大悅,進兵部右侍郎兼右副都御史,巡撫如故。

萬曆二年、召されて戸部右侍郎と為り、尋いで憂いにより帰る。八年に起用され、兵部に改め、右僉都御史を兼ね、仍なお広西を巡撫す。時に十寨初めて下り、応聘は総督劉堯誨と共に奏して三鎮を設け、賓州に隷せしめ、土巡検を以て之を守らしめ、而して思恩参将に統せしむ。十寨遂に安んず。右都御史兼兵部右侍郎に進み、両広軍務を総督す。前総督多く将吏の金を受く、応聘悉く謝絶す。年を踰えて、召されて南京都察院を掌り、呉文華を以て代わる。頃之、就いて兵部尚書を拝し、機務に参賛す。久しきの後、疾いを引いて帰る。応聘広西に在り、陳献章・王守仁の祠を復するを奏す。劉臺潯州に謫戍せられ、為に居を僦やとい廩を供し、歿して復た賻斂して其の喪を帰し、像を祀る。官南京に在り、海瑞と共に儉素を敦つとめ、士大夫敢えて侈汰せず。帰ること七月にして卒す。太子少保を贈られ、謚して襄靖と曰う。

原文萬曆二年,召為戶部右侍郎,尋以憂歸。八年起,改兵部,兼右僉都御史,仍撫廣西。時十寨初下,應聘與總督劉堯誨奏設三鎮,隸賓州,以土巡檢守之,而統於思恩參將,十寨遂安。進右都御史兼兵部右侍郎,總督兩廣軍務。前總督多受將吏金,應聘悉謝絕。逾年,召掌南京都察院,以吳文華代。頃之,就拜兵部尚書,參贊機務。久之,引疾歸。應聘在廣西,奏復陳獻章、王守仁祠。劉臺謫戍潯州,為僦居供廩,歿復賻斂歸其喪,像祀之。官南京,與海瑞敦儉素,士大夫不敢侈汰。歸七月卒。贈太子少保,謚襄靖。

呉文華、字は子彬、連江の人。父世澤、府江兵備副使、威名有り。文華嘉靖三十五年の進士に挙げられ、南京兵部主事を授かる。四川右参政を歴任し、土官鳳継祖を平ぐるに与あずかる。四遷して河南左布政使と為る。萬曆三年、右副都御史を以て広西を巡撫す。南郷・陸平・周塘・板寨の瑤及び昭平の黎福荘父子を討平す。総督淩雲翼と偕ともに河池・咘咳・北三の瑤を征す。三瑤未だ逆を為さず、雲翼事を喜び、殺戮甚だ惨く、蔭襲を得、文華も亦賞を受く。戸部右侍郎に遷り、終養を請うて帰る。兵部右侍郎兼右僉都御史として起用され、仍広西を巡撫す。両広軍務を総督し、広東を巡撫するに遷る。右都御史に進む。時に巡撫呉善・総兵呼良朋と会し、厳秀珠を討平す。岑崗の賊李珍・江月照命に拒み久しく、文華購ねだって月照を擒とらえ、珍を平ぐ。尋いで入りて南京工部尚書と為り、就いて兵部に改む。疾いを引いて去る。仍南京工部に起用さるるも、力辞し、虚位三年を以て待つ。卒す、年七十八。太子少保を贈られ、謚して襄恵と曰う。

原文吳文華,字子彬,連江人。父世澤,府江兵備副使,有威名。文華舉嘉靖三十五年進士,授南京兵部主事。歷四川右參政,與平土官鳳繼祖。四遷河南左布政使。萬曆三年,以右副都御史巡撫廣西。討平南鄉、陸平、周塘、板寨瑤及昭平黎福莊父子。偕總督淩雲翼征河池、咘咳、北三瑤。三瑤未為逆,雲翼喜事,殺戮甚慘,得蔭襲,文華亦受賞。遷戶部右侍郎,請終養歸。起兵部右侍郎兼右僉都御史,仍撫廣西。遷總督兩廣軍務,巡撫廣東。進右都御史。會巡撫吳善、總兵呼良朋討平嚴秀珠。岑崗賊李珍、江月照拒命久,文華購擒月照,平珍。尋入為南京工部尚書,就改兵部。引疾去。仍起南京工部,力辭,虛位三年以待。卒,年七十八。贈太子少保,謚襄惠。

耿定向

原文耿定向

耿定向、字は在倫、黄安の人。嘉靖三十五年の進士。行人を除き、御史に擢てる。厳嵩父子政を窃ぬすみ、吏部尚書呉鵬之に附く。定向鵬の六罪を疏し、因りて言う、鵬の婿学士董份会試を総裁し、鵬の子紹に私す、宜しく並びに斥くべしと。嵩為に営護し、事竟に寢やむ。出でて甘粛を按じ、挙劾私する所無し。任を去り、行笥一肩。石経を以て饋おくる者有り、境上に留めて去る。還りて南京学政を督す。隆慶初め、大理右寺丞に擢る。高拱政を執り、定向嘗て其の褊浅にして大臣の度無きを譏り、拱之を嗛うらむ。及び拱吏部を掌り、考察を以て定向を横州判官に謫す。拱罷めらる、量りて衡州推官に移す。萬曆中、累官して右副都御史と為る。吏部侍郎陸光祖、御史周之翰に劾せられ、光祖已に留まる、定向復た光祖の賢を頌し、之翰を詆そしる。給事中李以謙、定向言官を擠おすと言い、定向去るを求む、帝問わず。刑部左・右侍郎を歴任し、南京右都御史に擢る。御史王藩臣応天巡撫周継を劾し、疏発すること逾月にして以て定向に白せず。定向怒り、故事を守りて力争い、自ら劾して罷むるを求め、且つ藩臣の論劾失当なるを詆す。因りて言う、故江西巡撫陳有年・四川巡撫徐元泰皆賢なり、御史方萬山・王麟趾に劾せられて罷む、今宜しく召用すべく、而して量りて藩臣を罰すべしと。藩臣坐して俸を停むること二月。ここに於いて給事中許弘綱・観政進士薛敷教・南京御史黄仁栄及び麟趾連章して定向を劾す。麟趾言う、「南臺京師を去ること遠く、章疏先ず伝わり、人計りを為すを得。御史孫鳴治魏国公徐邦瑞を論じ、陳揚善主事劉以煥を論ずるが如き、皆奏辞に因りて豫あらかじめ聞く、一は則ち夤縁して幸いに免れ、一は則ち捃摭くんしゃくして誣われ被る。故に邇来投揭とうけい浹月を遅らする者有り、事理宜しく然るべく、藩臣より始まるに非ず」と。語並びに大学士許国・左都御史呉時来・副都御史詹仰庇を侵す。執政方に言者を悪み、敷教を勒せまって還籍して過ちを省かえりみしめ、麟趾・仁栄も亦俸を停む。時に已に定向を戸部尚書督倉場に除す、定向因りて力辞して退くを求む。章屢上り、乃ち許す。卒す、年七十三。太子少保を贈られ、謚して恭簡と曰う。

原文耿定向,字在倫,黃安人。嘉靖三十五年進士。除行人,擢御史。嚴嵩父子竊政,吏部尚書吳鵬附之。定向疏鵬六罪,因言鵬婿學士董份總裁會試,私鵬子紹,宜並斥。嵩為營護,事竟寢。出按甘肅,舉劾無所私。去任,行笥一肩。有以石經饋者,留境上而去。還督南京學政。隆慶初,擢大理右寺丞。高拱執政,定向嘗譏其褊淺無大臣度,拱嗛之。及拱掌吏部,以考察謫定向橫州判官。拱罷,量移衡州推官。萬曆中,累官右副都御史。吏部侍郎陸光祖為御史周之翰所劾,光祖已留,定向復頌光祖賢,詆之翰。給事中李以謙言定向擠言官,定向求去,帝不問。歷刑部左、右侍郎,擢南京右都御史。御史王藩臣劾應天巡撫周繼,疏發逾月不以白定向。定向怒,守故事力爭,自劾求罷,且詆藩臣論劾失當。因言故江西巡撫陳有年、四川巡撫徐元泰皆賢,為御史方萬山、王麟趾劾罷,今宜召用,而量罰藩臣。藩臣坐停俸二月。於是給事中許弘綱、觀政進士薛敷教、南京御史黃仁榮及麟趾連章劾定向。麟趾言:「南臺去京師遠,章疏先傳,人得為計。如御史孫鳴治論魏國公徐邦瑞,陳揚善論主事劉以煥,皆因奏辭豫聞,一則夤緣幸免,一則捃摭被誣。故邇來投揭有遲浹月者,事理宜然,非自藩臣始。」語並侵大學士許國、左都御史吳時來、副都御史詹仰庇。執政方惡言者,勒敷教還籍省過,麟趾、仁榮亦停俸。時已除定向戶部尚書督倉場,定向因力辭求退。章屢上,乃許。卒,年七十三。贈太子少保,謚恭簡。

定向初め朝に立ちて時望有り。後徐階・張居正・申時行・王錫爵の四輔を歴るも、皆能く齟齬無し。居正の奪情に至り、友人に書を寓りて之を伊尹と誉めて言者を貶す、時議之を訾そしる。其の学本もと王守仁に拠る。嘗て晋江の李贄を黄安に招く、後漸く之を悪み、贄も亦屢しばしば定向を短そしる。士大夫禅を好む者往々贄に従いて遊ぶ。贄小に才有り、機辨、定向勝つ能わず。贄姚安知府と為り、一旦自ら其の髪を去り、冠服して堂皇に坐す、上官勒令して解任せしむ。黄安に居り、日々士人を引いて講学し、婦女を雑え、専ら釈氏を崇め、孔・孟を卑侮す。後北遊して通州に至り、給事中張問達に劾せられ、逮われて獄中に死す。

原文定向初立朝有時望。後歷徐階、張居正、申時行、王錫爵四輔,皆能無齟齬。至居正奪情,寓書友人譽為伊尹而貶言者,時議訾之。其學本王守仁。嘗招晉江李贄於黃安,後漸惡之,贄亦屢短定向。士大夫好禪者往往從贄遊。贄小有才,機辨,定向不能勝也。贄為姚安知府,一旦自去其發,冠服坐堂皇,上官勒令解任。居黃安,日引士人講學,雜以婦女,專崇釋氏,卑侮孔、孟。後北遊通州,為給事中張問達所劾,逮死獄中。

定向の弟定理・定力。定理終に諸生。定向と俱に講学し、専ら禅機を主とす。定力、隆慶中進士、工部主事を除く。萬曆中、累官して右僉都御史と為り、操江を督し、疏して礦使の患を陳ぶ。再遷して南京兵部右侍郎。卒し、尚書を贈らる。

原文定向弟定理、定力。定理終諸生。與定向俱講學,專主禪機。定力,隆慶中進士,除工部主事。萬曆中,累官右僉都御史,督操江,疏陳礦使之患。再遷南京兵部右侍郎。卒,贈尚書。

王樵

原文王樵

王樵、字は明遠、金壇の人。父臬、兵部主事。武宗の南巡を諫め、杖せらる。終に山東副使。樵嘉靖二十六年の進士に挙げられ、行人を授かる。刑部員外郎を歴任す。『読律私箋』を著し、甚だ精核なり。胡宗憲計りて汪直を降し、直を赦して以て信を示さんと欲す。樵言う、此の叛民は他の降を納るるに異なりと、直遂に誅せらる。山東僉事に遷り、疾いを移して帰る。萬曆初め、張居正国を柄とり、雅つねより樵を知り、起用して浙江僉事を補い、尚宝卿に擢る。劉臺居正を劾し、居正帰るを乞う。諸曹奏して之を留めんとす、樵独り諫臣を全うして以て大臣を安んずるを請い、略言す、「古より明主言路を開かんと欲し、言当らざるも、猶お之を優容す。大臣上徳を広めんと欲し、人己を攻むるも、猶お之を薦拔す。宋の文彦博の唐介に於けるが如き是れなり。今居正留まりて臺罪を得るは、乃ち仁宗の唐介を待つ意に非ざるか」と。居正大いに恚いかり、出して南京鴻臚卿と為す。旋まもなく星変に因りて自ら陳し、之を罷む。家に居ること十余年、起用されて南京太僕少卿と為る、時に年七十余なり。歳中再遷して大理卿と為り、尋いで南京刑部右侍郎を拝す。誠意伯劉世延主使して人を殺す、樵世延を当てて革任せしむ。尋いで就いて右都御史に擢る。給事中盧大中其の衰老を劾し、帝致仕せしむ。

原文王樵,字明遠,金壇人。父臬,兵部主事。諫武宗南巡,被杖。終山東副使。樵舉嘉靖二十六年進士,授行人。歷刑部員外郎。著《讀律私箋》,甚精核。胡宗憲計降汪直,欲赦直以示信。樵言此叛民與他納降異,直遂誅。遷山東僉事,移疾歸。萬曆初,張居正柄國,雅知樵,起補浙江僉事,擢尚寶卿。劉臺劾居正,居正乞歸。諸曹奏留之,樵獨請全諫臣以安大臣,略言:「自古明主欲開言路,言不當,猶優容之;大臣欲廣上德,人攻己,猶薦拔之。如宋文彥博於唐介是也。今居正留而臺得罪,無乃非仁宗待唐介意乎!」居正大恚,出為南京鴻臚卿。旋因星變自陳,罷之。家居十餘年,起南京太僕少卿,時年七十餘矣。歲中再遷大理卿,尋拜南京刑部右侍郎。誠意伯劉世延主使殺人,樵當世延革任。尋就擢右都御史。給事中盧大中劾其衰老,帝令致仕。

樵恬淡誠愨せいかく、温然たる長者。経学に邃ふかく、『易』・『書』・『春秋』皆纂述有り。卒し、太子少保を贈られ、謚して恭簡と曰う。

原文樵恬淡誠愨,溫然長者。邃經學,《易》、《書》、《春秋》皆有纂述。卒,贈太子少保,謚恭簡。

子肯堂、字は宇泰。萬曆十七年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、検討を授かる。倭朝鮮を寇し、疏して十議を陳べ、願わくは御史の銜を仮かりて海上に兵を練らんとす。疏留中し、因りて疾いを引いて帰る。京察にて、降調せらる。家に居ること久しく、吏部侍郎楊時喬薦めて南京行人司副を補す。終に福建参政。肯堂書を読むを好み、尤も医に精しく、著す所の『証治準縄』該博精粋、世競いて之を伝う。

原文子肯堂,字宇泰。舉萬曆十七年進士,選庶吉士,授檢討。倭寇朝鮮,疏陳十議,願假御史銜練兵海上。疏留中,因引疾歸。京察,降調。家居久之,吏部侍郎楊時喬薦補南京行人司副。終福建參政。肯堂好讀書,尤精於醫,所著《證治準繩》該博精粹,世競傳之。

魏時亮

原文魏時亮

魏時亮、字は工甫、南昌の人。嘉靖三十八年の進士。中書舎人を授かり、兵科給事中に抜擢される。隆慶元年正月七日、詔があり朝参を免じ、三日を過ぎて、また伝えて免ずる。時亮は新政において急に怠るべからずとし、上疏して切に諫めた。まもなく左給事中として、検討許国の副使となり朝鮮に使する。故事によれば、王は北面して詔を聴き、使者は西面する。時亮はこれを争い、ついに南面して詔を宣する。還り、戸科給事中に進み、よって遼東の事柄を列挙して上奏する。すでに、起居を慎み、遊宴を罷め、日に便殿に御して章奏を省み、大臣を召して裁決するよう請う。聞き入れられた。興都の荘地八千三百頃、宦官が民田を奪い、また八百頃を増やし、三十六荘を立てる。帝は撫按の奏に従い、有司に属して租を徴収し、兼併した者を民に還す。宦官張堯が請うと、またこれを許す。時亮は極めて諫めるも、採用されず。

原文魏時亮,字工甫,南昌人。嘉靖三十八年進士。授中書舍人,擢兵科給事中。隆慶元年正月七日,有詔免朝,越三日,復傳免。時亮以新政不宜遽怠,上疏切諫。尋以左給事中副檢討許國使朝鮮。故事,王北面聽詔,使者西面。時亮爭之,乃南面宣詔。還,進戶科給事中,因列上遼東事宜。已,請慎起居,罷遊宴,日御便殿省章奏,召大臣裁決。報聞。興都莊地八千三百頃,中官奪民田,復增八百頃,立三十六莊。帝從撫按奏,屬有司征租,還兼並者於民。中官張堯為請,又許之。時亮極諫,不納。

帝が臨朝するも、拱手して黙し未だ一言も発さず。石州が陥落すると、帝に大臣を詰問するよう請う者あり。二日を過ぎ、講義が終わり、帝は果たして石州陥落の状況を問う。宦官王本がすぐに傍らから諸臣を罵り欺き蔽うと。帝は慍り、目でこれを威圧するも、本はなお喋喋と語る。帝は悦ばずして罷める。時亮は本を弾劾し、人臣の礼なく、大不敬であり、かつその不法数事を数え上げる。上疏は行われなかったが、士論はこれを壮とした。十月初め、詔して日講を停む。時亮は同列を率いて言う、天未だ冱寒ならず、急に廃すべからずと。まもなく薛瑄・陳献章・王守仁を文廟に従祀するよう請い、章は所司に下る。また言う、方や春の東作に当たり、宜しく有司に勅して軽い囚人を釈放し、訟獄を停めよと、詔して可とする。

原文帝臨朝,拱默未嘗發一言。及石州陷,有請帝詰問大臣者。越二日,講罷,帝果問石州破狀。中官王本輒從旁詬諸臣欺蔽。帝慍,目懾之,本猶刺刺語。帝不悅而罷。時亮劾本無人臣禮,大不敬,且數其不法數事。疏雖不行,士論壯之。十月初,詔停日講。時亮率同列言天未冱寒,不宜遽輟。俄請以薛瑄、陳獻章、王守仁從祀文廟,章下所司。又言方春東作,宜敕有司釋輕系,停訟獄,詔可。

翌年六月に言う、「今、天下の大患は三つ:藩禄の給せざるなり、辺餉の支えざるなり、公私の交えて困するなり。宗藩には一時の計あり、百世の計あり。急ぎ宗学を立て、これに礼譲を教え、禄一万石の者は歳に五分之一を捐じ、二千石の者は十分之一、千石の者は二十分之一を以て貧宗を贍い、定制として立てよ。これ一時の計なり。各宗が一城に聚居し、貧しき日増しに甚だしければ、宜しく近くに散処させ、閑田を与えて耕させて禄に代えよ;奸生の孽は、重ねて黜削を行え。これ百世の計なり。辺餉は屯塩より要なるは莫く、近く大臣龐尚鵬・鄒応龍・淩儒を選んで經理せしむるも、事権は重しといえども、顧みるに河東に往く者は四川を兼ねて理し、江北に往く者は山東・河南を兼ねて理し、江南に往く者は浙・湖・雲・貴を兼ねて理し、内地を重んじて塞下を軽んずるは、初旨に非ず。かつ一人数道を領すれば、曠遠にして周り難し。請う、内地にある者は専ら巡撫に責め、尚鵬ら三人に塞下の屯事を分任させ、久任して責成し、功あれば不次をもって待てば、則ち利興りて辺儲自ずから裕かならん。今、天下の府庫殫き虚しく、百姓困瘁す。而して建議する者は天下の庫蔵を尽くして内府に輸送し、以て旦夕の用に済さんと欲す。脱せば州郡に変あらば、何を以てこれに待たん。夫れ守令は民を養うを職とし、要は農桑を勧め、徭賦を清め、郷約を重んじ、保甲を厳にすることに在りて、簿書獄訟・催科の巧拙は与りせず」と。疏が上り、多く議して行われる。その冬、また疏を上して言う、「天下の憂うべきは民窮に在り、民の憂いを紓く能う者は知府のみ、宜しくその選を慎重にすべし。治行卓越なれば、即ち京卿若しくは巡撫に擢でば、則ち人自ら激励す。督学は、天下の名教の繫がる所、学行兼ねて懋かなる者を択ぶべく、時を以て限るなかれ。教行望峻なれば、則ち召して祭酒と為し或いは翰林に入れ、以て風励を示せ」と。部に下り議すれど、ついに行われず。

原文明年六月言:「今天下大患三:藩祿不給也,邊餉不支也,公私交困也。宗藩有一時之計,有百世之計。亟立宗學,教之禮讓,祿萬石者歲捐五之一,二千石者十之一,千石者二十之一,以贍貧宗,立為定制。此一時計也。各宗聚居一城,貧日益甚,宜令就近散處,給閑田使耕以代祿;奸生之孽,重行黜削。此百世計也。邊餉莫要於屯鹽,近遴大臣龐尚鵬、鄒應龍、淩儒經理,事權雖重,顧往河東者兼理四川,往江北者兼理山東、河南,往江南者兼理浙、湖、雲、貴,重內地而輕塞下,非初旨也。且一人領數道,曠遠難周。請在內地者專責巡撫,令尚鵬等三人分任塞下屯事,久任責成,有功待以不次,則利興而邊儲自裕。今天下府庫殫虛,百姓困瘁,而建議者欲罄天下庫藏輸內府,以濟旦夕之用。脫州郡有變,何以待之?夫守令以養民為職,要在勸農桑、清徭賦、重鄉約、嚴保甲,而簿書獄訟、催科巧拙不與焉。」疏上,多議行。其冬,復疏言:「天下可憂在民窮,能為民紓憂者,知府而已,宜慎重其選。治行卓越,即擢京卿若巡撫,則人自激勸。督學者,天下名教所系,當擇學行兼懋者,毋限以時。教行望峻,則召為祭酒或入翰林,以示風勵。」下部議,卒不行。

三年、太僕少卿に擢でる。初め、徐階と高拱が互いに構え、時亮は朝臣とともに拱を攻めて去らしむ。已にして拱また入り、言官を考察し、異己なる者を排す;時亮及び陳瓚・張槚は既に京卿に擢でられていたが、皆排斥される。時亮は不謹の罪に坐し、落職する。万暦十二年、丘橓・余懋学らの推薦により、南京大理丞として起用される。累遷して右副都御史となり、京営戎政を摂り、安攘の要務十四事を陳ず。まもなく水利・義倉・生養・賦役・清獄・弭盗・善俗の七条を以て守令を課し、歳末に部院及び科に報じ、計吏の時に修廃を以て殿最を定むるよう請う。また皇長子の出閣講学を請う。刑部左・右侍郎を歴任し、南京刑部尚書に拝される。一年を過ぎて官に卒す。

原文三年,擢太僕少卿。初,徐階、高拱相構,時亮與朝臣攻去拱。已而拱復入,考察言官,排異己者;時亮及陳瓚、張槚已擢京卿,皆被斥。時亮坐不謹,落職。萬曆十二年,用丘橓、余懋學等薦,起南京大理丞。累遷右副都御史,攝京營戎政,陳安攘要務十四事。尋請以水利、義倉、生養、賦役、清獄、弭盜、善俗七條課守令,歲終報部院及科,計吏時以修廢定殿最。又請皇長子出閣講學。歷刑部左、右侍郎,拜南京刑部尚書。逾年卒官。

時亮は初め交遊を好み、意気に負う。嘗て左都御史張永明を劾めて罷めしめ、時論に非とされる。時亮もまたこれを悔いる。中程で挫抑に遭い、心を潜めて性理の学に専念す。天啓中、謚して荘靖とす。

原文時亮初好交遊,負意氣。嘗劾罷左都御史張永明,為時論所非。時亮亦悔之。中遭挫抑,潛心性理之學。天啟中,謚莊靖。

陳瓚、字は廷稞、常熟の人。嘉靖三十五年の進士。江西永豊知県を授かる。治績最も優れ、刑科給事中に擢でる。厳嵩の党なる祭酒王才・諭徳唐汝楫を劾めて罷めしむ。左給事中に遷る。文選郎南軒を劾め、建言して廃斥された者を録用するよう請う。帝震怒し、六十回杖ち除名する。隆慶元年、吏科として起用され、楊最・楊爵・羅洪先・楊継盛を恤み、而して沈錬を殺した奸党を誅するよう請う。帝これを可とし、楊順・路楷は皆逮治される。その冬、太常少卿に擢でる。高拱は瓚が徐階に引かれたことを憎み、瓚は既に病を移して帰るも、ついに浮躁の罪に坐し洛川丞に謫され、赴かず。万暦中、累官して刑部左侍郎となる。初め、瓚は拱に憎まれ、排斥される。及んで張居正が政を柄にすると、またこれを憎み、召さず。居正死後、初めて推薦により会稽県丞として起用される。その後、侍郎に官す。稽勲郎顧憲成が時弊を論じて疏を上し謫官されると、瓚は大学士王錫爵を責めて曰く、「憲成の疏最も公なり、何を以て譴責を得る」と。錫爵曰く、「彼は書生の言を執り、道傍の口に徇う、安んぞ吾輩の苦心を知らん」と。瓚曰く、「恐らくは書生の言は信ずべく、道傍の口は察すべく、憲成の苦心もまた知らざるべからず」と。錫爵は黙然たり。瓚は前後このように執政に忤う。官に卒し、右都御史を贈られ、謚して荘靖とす。槚は『鄒応龍伝』に見ゆ。

原文陳瓚,字廷稞,常熟人。嘉靖三十五年進士。授江西永豐知縣。治最,擢刑科給事中。劾罷嚴嵩黨祭酒王才、諭德唐汝楫。遷左給事中。劾文選郎南軒,請錄建言廢斥者。帝震怒,杖六十除名。隆慶元年,起官吏科,請恤楊最、楊爵、羅洪先、楊繼盛,而誅奸黨之殺沈煉者。帝可之,楊順、路楷皆逮治。其冬,擢太常少卿。高拱惡瓚為徐階所引,瓚已移疾歸,竟坐浮躁謫洛川丞,不赴。萬曆中,累官刑部左侍郎。初,瓚為拱所惡,被斥,及張居正柄政,亦惡之,不召。居正死,始以薦起會稽縣丞。其後官侍郎。稽勛郎顧憲成疏論時弊謫官,瓚責大學士王錫爵曰:「憲成疏最公,何以得譴?」錫爵曰:「彼執書生之言,徇道旁之口,安知吾輩苦心。」瓚曰:「恐書生之言當信,道旁之口當察,憲成苦心亦不可不知也。」錫爵默然。瓚前後忤執政如此。卒官,贈右都御史,謚莊靖。槚見《鄒應龍傳》。

郝傑

原文郝傑

郝傑、字は彦輔、蔚州の人。父の銘は御史。傑は嘉靖三十五年の進士に挙げられ、行人を授かり、御史に擢でる。隆慶元年、畿輔を巡撫す。冬、寇大いに永平に入り、掠かれた地の徭賦を蠲免するよう疏を請い、かつ言う、「比年、罰は文臣に行われて武弁には及び、主帥に及んで偏裨を略す、法を飭して以て国威を振るわんことを請う」と。俱に報じて可とす。已にして、薊督劉燾・巡撫耿隨卿が観望し、寇退けば則ち死者を断って首功に報い、また遼東将士の棒槌崖の戦績を奪うことを劾め、並びに副使沈応乾、遊撃李信・周冕の罪を論ず。帝は応乾を黜し、信・冕を獄に下し、燾・隨卿に勅して籍に還りて勘を聴かしむ。詔して中官李祐を遣わして蘇・杭の織造を督せしむ。工部は執奏するも従わず。傑言う、「登極の詔書に織造を罷めて甫一年、勅使また遣わされ、画一の政に非ず。且つ内臣は専恣し、有司は下を剝いてこれに奉ず、聖徳を損うこと小ならず」と。帝は終に聴かず。駕幸して南海子し、京営諸軍に命じて尽く従わしむ。徐階・楊博らが諫めるも聴かず、傑またこれを争うも、卒に従わず。刑部侍郎洪朝選は拾遺を以て罷められ、上疏して自ら弁す。傑らはその制に違うことを劾め、遂に職を削る。嘗て高拱は宰輔の器に非ずと論じたため、憎まれる。及んで拱が再び召されると、傑は遂に急を請いて去る。拱が罷めると、故官に起用される。旋って張居正が拱を逐うは是に非ずと私議したため、陜西副使として出される。再遷して山東左布政使となる。劾められ、降って遼東苑馬寺卿兼海道兵備となり、山東按察使を加えられる。

原文郝傑,字彥輔,蔚州人。父銘,御史。傑舉嘉靖三十五年進士,授行人,擢御史。隆慶元年,巡撫畿輔。冬,寇大入永平,疏請蠲被掠地徭賦,且言:「比年罰行於文臣而於武弁,及於主帥而略於偏裨,請飭法以振國威。」俱報可。已,劾薊督劉燾、巡撫耿隨卿觀望,寇退則斷死者報首功,又奪遼東將士棒槌崖戰績,並論副使沈應乾,遊擊李信、周冕罪。帝為黜應乾,下信、冕獄,敕燾、隨卿還籍聽勘。詔遣中官李祐督蘇、杭織造,工部執奏,不從。傑言:「登極詔書罷織造甫一年,敕使復遣,非畫一之政。且內臣專恣,有司剝下奉之,損聖德非小。」帝終不聽。駕幸南海子,命京營諸軍盡從。徐階、楊博等諫,不聽,傑復爭之,卒不從。刑部侍郎洪朝選以拾遺罷,上疏自辨,傑等劾其違制,遂削職。以嘗論高拱非宰輔器,為所嫉。及拱再召,傑遂請急去。拱罷,起故官。旋以私議張居正逐拱非是,出為陜西副使。再遷山東左布政使。被劾,降遼東苑馬寺卿兼海道兵備,加山東按察使。

十七年、右僉都御史に抜擢され、遼東を巡撫した。諸将を督して敵を撃った功により、一子に官を録した。時に李成梁が総兵官であり、威望は甚だ著しかったが、上奏する功績には虚偽が無いとは言えなかった。敵が塞内に入ると、あるいは兵を収めて避け、既に退いた後に、ようやく老弱を尾襲し、あるいは虚に乗じて零部を搗き、塞に附く者を誘殺して首功に充て、習いとして常としていた。督撫諸臣はこれを庇ったが、傑のみはこれと与しなかった。十九年春、成梁は参将郭夢徴の策を用い、副将李寧をして鎮夷堡において板升を襲わせ、老弱二百八十余級を獲た。師が凱旋する際、別部に遮られ、寧は先に走り、将士数千人の大半が失亡したが、成梁は功績を飾って叙勲を求めた。傑は奏草を具し、直言してその故を述べ、総督蹇達と共に上奏するよう求めた。達はその草稿を匿い、自ら奏して功を論じた。巡按御史胡克儉は馳疏して寧を劾し、言葉は成梁に及び、傑をも詆毀した。兵部は寧の罪を置いて議せず。克儉は大いに憤り、成梁・達の隠蔽の状をことごとく発した。先だって、十八年冬、海州が掠奪されて十三日、副将孫守廉は戦わず、成梁もまた救わなかった。克儉は既に守廉を劾し、申時行・許国がこれを庇い、ただ勘問を受けることを命じたのみであった。克儉は乃ち言う、「臣が初め守廉を劾した時、時行は書を以て臣を沮んだ。及び寧を劾するに及び、また国と共に臣にその罪を寛めるよう諭した。私に徇って公に背き、将に辺事を壊さんとす」と。並びに一鶚・達及び兵科給事中張応登の朋奸欺罔を歴詆し、達が傑の会稿した功罪疏を奏上せずに置いたことを挙げ、遂に成梁の前数年にわたる功績詐称の状を追数した。帝は、成梁の前功は皆巡按の勘報によるものであり、克儉の懸度妄議であるとした。結局成梁等を問わずに置き、心に傑を以て欺かざる者とした。

原文十七年,擢右僉都御史,巡撫遼東。以督諸將擊敵,錄一子官。時李成梁為總兵官,威望甚著,然上功不無抵欺。寇入塞,或斂兵避,既退,始尾襲老弱,或乘虛搗零部,誘殺附塞者充首功,習以為常。督撫諸臣庇之,傑獨不與比。十九年春,成梁用參將郭夢徵策,使副將李寧襲板升於鎮夷堡,獲老弱二百八十餘級。師旋,為別部所遮,寧先走,將士數千人失亡大半,成梁飾功邀敘。傑具奏草,直言其故,要總督蹇達共奏。達匿其草,自為奏論功。巡按御史胡克儉馳疏劾寧,詞連成梁,亦詆傑。兵部置寧罪不議。克儉大憤,盡發成梁、達隱蔽狀。先是,十八年冬,海州被掠十三日,副將孫守廉不戰,成梁亦弗救。克儉既劾守謙,申時行、許國庇之,止令聽勘。克儉乃言:「臣初劾守廉,時行以書沮臣;及劾寧,又與國諭臣寬其罪。徇私背公,將壞邊事。」並歷詆一鶚、達及兵科給事中張應登朋奸欺罔,達置傑會稿功罪疏不奏,遂追數成梁前數年冒功狀。帝謂成梁前功皆由巡按勘報,克儉懸度妄議。卒置成梁等不問,而心以傑為不欺。

まもなく右副都御史に進んだ。日本が朝鮮を陥落させると、達は裨将ひしょう祖承訓に三千人を率いて往かせたが、皆没した。事が聞こえると、傑もまた弾劾されたが、帝は特にこれを免じた。朝鮮王が避難して遼東に入らんとしたので、傑は境外の善地を選んでこれを処置し、且つその従官・衛士に周給するよう請うた。許可された。まもなく兵部右侍郎に遷り、薊・遼・保定の軍務を総督した。召されて戎政を理し、右都御史に進んだ。日本の封貢の議が起こると、傑は言った、「平秀吉は誅すに勝えざる罪あり、顧みて爵命を加えれば、荒外の者がこれを聞き、中朝に人無しと謂うであろう」と。議が合わず、南京戸部尚書に転じた。病を理由に帰郷した。南京工部尚書として起用された。就任のまま兵部に改められ、機務に参賛した。官のまま卒した。太子少保を贈られた。

原文旋就進右副都御史。日本陷朝鮮,達遣裨將祖承訓以三千人往,皆沒。事聞,傑亦被劾,帝特免之。朝鮮王避難將入遼,傑請擇境外善地處之,且周給其從官、衛士,報可。尋遷兵部右侍郎,總督薊、遼、保定軍務。召理戎政,進右都御史。日本封貢議起,傑曰:「平秀吉罪不勝誅,顧加以爵命,荒外聞之,謂中朝無人。」議不合,徙南京戶部尚書。移疾歸。起南京工部尚書。就改兵部,參贊機務。卒官。贈太子少保。

胡克儉、字は共之、光山人。万暦十四年の進士。庶吉士より御史に改め、山東を巡按した。遼東はその管轄するところであり、買功・窃級などの諸弊を禁ずることを奏した。既に成梁を弾劾した後、要人の忌むところとなった。時に克儉が左都御史李世達が罪囚を曲庇したことを弾劾し、賊と詆毀するに至ったので、執政は遂に克儉が妄りに執法大臣を排し、言路に居るべからずと言い、蘄水丞に謫された。上官が事を以て帰郷させ、里居すること三十年。光宗が立つと、光禄少卿として起用された。天啓年間、刑部右侍郎を歴任した。五年冬、逆党李恒茂がその衰朽を論じ、落職して帰郷した。崇禎初年、官に復した。卒して尚書を贈られた。克儉は本姓は扶であったが、胡姓を冒し、久しくして始めて故姓に復した。

原文胡克儉,字共之,光山人。萬曆十四年進士。由庶吉士改御史,巡按山東。遼東其所轄也,奏禁買功、竊級諸弊。既劾成梁,為要人所忌。會克儉劾左都御史李世達曲庇罪囚,至詆為賊,執政遂言克儉妄排執法大臣,不可居言路,謫蘄水丞。上官以事遣歸,裏居三十年。光宗立,起光祿少卿。天啟中,歷刑部右侍郎。五年冬,逆黨李恒茂論其衰朽,落職歸。崇禎初,復官。卒贈尚書。克儉本姓扶,冒胡姓,久之始復故。

趙参魯

原文趙參魯

趙参魯、字は宗傳、鄞の人。隆慶五年の進士。庶吉士に選ばれ、戸科給事中に改められた。万暦二年、慈聖太后が涿州に廟を立て、碧霞元君を祀った。部科の臣が執奏したが、聞き入れられなかった。参魯はその不経を斥け、且つ言った、「南北寇に被り、流害生民し、役を興して河を浚い、妻子に及びて鬻ぐ。陛下が帑を発して橋を治め廟を建つること、已に五万有奇。苟も貧民を振救に移せば、植える福は当に更に大ならん」と。これも聞き入れられなかった。南京の中官張進が酔って給事中王頤を辱めた。給事中鄭嶽・楊節が交章して論じたが、返答がなく、参魯は再び上言した、「進は乃ち守備中官申信の党なり、信を並び治めざれば、以て人心を厭う無し」と。時に信は馮保と結んでいたので、朝議は遂に嶽等の俸を奪い、参魯を高安典史に謫した。饒州推官に遷り、福建提学僉事に抜擢されたが、急を告げて帰郷した。喪に遭い、服喪を除くと、仍って福建を督学した。南京太常卿を歴任した。十七年、右副都御史として福建を巡撫した。海禁を厳しく申し、倭に通じる奸商を戮した。大理卿に遷った。召されて刑部左侍郎となり、兵部に改め、まもなく吏部に改められた。日本の封貢の議が起こると、参魯は不可を主張した。総督顧養謙は快く思わず、朝廷で争い、且つ参魯は倭情に熟しているので、任ずべきであると言った。章は廷臣に下され、参魯は再び前説を主張し、因って『東封三議』を著し、利害を甚だ詳しく弁じた。その後、封事は遂に成らなかった。南京刑部尚書に拝された。誠意伯劉世延が妄りに星象を指し、兵を起こして王を勤めんとし、弾劾されて吏に下され、参魯は死をもって当てた。南京工部主事趙学仕が侵牟したことを侍郎周思敬に弾劾され、戍に擬せられた。学仕は罪を家僮に移し、法司は軽い比を予した。御史朱吾弼が再びこれを弾劾し、並びに参魯に及び、学仕は乃ち大学士趙志皋の族父であるから、故に参魯がこれを庇うと言った。参魯は休職を乞うた。吏部尚書孫丕揚等は参魯の履行は素より高く、その去るを聴くべからずと言い、詔してこれを留めた。累進して太子太保を加えられた。致仕し、卒し、諡は端簡。

原文趙參魯,字宗傳,鄞人。隆慶五年進士。選庶吉士,改戶科給事中。萬曆二年,慈聖太后立廟涿州,祀碧霞元君。部科臣執奏,不從。參魯斥其不經,且言:「南北被寇,流害生民,興役浚河,鬻及妻子。陛下發帑治橋建廟,已五萬有奇。茍移振貧民,植福當更大。」亦不聽。南京中官張進醉辱給事中王頤,給事中鄭嶽、楊節交章論,未報,參魯復上言:「進乃守備中官申信黨,不並治信,無以厭人心。」時信方結馮保,朝議遂奪嶽等俸,謫參魯高安典史。遷饒州推官,擢福建提學僉事,請急歸。遭喪,服除,仍督學福建。歷南京太常卿。十七年,以右副都御史巡撫福建。申嚴海禁,戮奸商通倭者。遷大理卿。召為刑部左侍郎,改兵部,旋改吏部。日本封貢議起,參魯持不可。總督顧養謙不懌,爭於朝,且言參魯熟倭情,宜任。章下廷臣,參魯復持前說,因著《東封三議》,辨利害甚悉。其後封事卒不成。拜南京刑部尚書。誠意伯劉世延妄指星象,欲起兵勤王,被劾下吏,參魯當以死。南京工部主事趙學仕以侵牟為侍郎周思敬所劾,擬戍。學仕移罪家僮,法司予輕比。御史朱吾弼復劾之,並及參魯,言學仕乃大學士誌臯族父,故參魯庇之。參魯乞休。吏部尚書孫丕揚等言參魯履行素高,不當聽其去,詔留之。累加太子太保。致仕,卒,謚端簡。

張孟男

原文張孟男

張孟男、字は元嗣、中牟の人。嘉靖四十四年の進士。広平推官に授けられた。稍々遷って漢中同知となった。入って順天治中となり、累進して尚宝丞となった。高拱が内閣として吏部を兼ねたが、その妻は孟男の姑であった。公事の外に私語無し。拱はこれを恨み、四歳遷らせなかった。及んで拱が逐われると、親知は皆引き匿まったが、孟男のみは独り拱の邸に留まり、装いを整えて郊外まで送った。張居正が用いられると、孟男を太僕少卿に抜擢した。孟男はまたも附かず、居正の意に失い、調動しなかった。久しくして、居正が敗れると、始めて累遷して南京工部右侍郎となった。まもなく召されて入り、本官のまま通政司事を掌った。

原文張孟男,字元嗣,中牟人。嘉靖四十四年進士。授廣平推官。稍遷漢中同知。入為順天治中,累進尚寶丞。高拱以內閣兼吏部,其妻,孟男姑也,自公事外無私語。拱憾之,四歲不遷。及拱被逐,親知皆引匿,孟男獨留拱邸,為治裝送之郊。張居正用事,擢孟男太僕少卿。孟男復不附,失居正意,不調。久之,居正敗,始累遷南京工部右侍郎。尋召入,以本官掌通政司事。

万暦十七年、帝が朝を視ること八ヶ月に及んだので、孟男は疏を以て諫め、且つ言った、「嶺南人が故都御史李材の功を訟い、蔡人が故令曹世卿の枉を訟う。章は並びに中に留められ、その人は兵馬司に繫がれ、橐饘継がず、その生を必くする莫く、聖徳を虧損す」と。帝は心動き、乃ち間を置いて一たび門を御した。その冬、戸部に改められ、左侍郎に進んだ。まもなく南京工部尚書に拝され、就任のまま戸部に改められた。時に留都の儲峙は耗竭し、孟男が事を受けた時、粟は僅かに二年を支えるのみであったが、再び歳を経ずして遂に七年の蓄えを得た。水衡が倉を修するに、公羨二千金を発してこれを助けた。或る者は如何ぞ人田を耘ぐやと言ったが、孟男は言った、「公家の事、乃ち区畔を画すや」と。南京御史陳所聞が孟男の貪鄙を弾劾した。吏部尚書孫鑨は孟男は忠誠謹恪であり、台臣の論ずる事は郎官に由ると言ったので、帝は乃ちこれを留めた。孟男は去ることを求めたが、許されなかった。再び疏を以て請うと、乃ち帰ることを聴された。久しくして、召されて故官に拝された。

原文萬曆十七年,帝不視朝者八月,孟男疏諫,且言:「嶺南人訟故都御史李材功,蔡人訟故令曹世卿枉,章並留中,其人系兵馬司,橐饘不繼,莫必其生,虧損聖德。」帝心動,乃間一御門。其冬,改戶部,進左侍郎。尋拜南京工部尚書,就改戶部。時留都儲峙耗竭,孟男受事,粟僅支二年,不再歲遂有七年之蓄。水衡修倉,發公羨二千金助之。或謂奈何耘人田,孟男曰:「公家事,乃畫區畔耶?」南京御史陳所聞劾孟男貪鄙,吏部尚書孫鑨言孟男忠誠謹恪,臺臣所論,事由郎官,帝乃留之。孟男求去,不允。再疏請,乃聽歸。久之,召拜故官。

三十年春、詔があり鉱税を罷めるとした。已にして、果たして行われなかった。孟男は同列を率いて諫めたが、返答がなかった。太子少保を加えられた。五たび章を上って帰郷を乞うたが、許されなかった。時に鉱税の患い日増しに劇しく、孟男は遺疏数千言を草し、極めてその害を陳べ、言った、「臣は地官に備員し、征する所の天下の租税は、皆男を鬻ぎ女を市い、骨を朘ぎ肉を割くの余りなり。臣は催科を職と為す。臣がその職を得れば、而して民病む。財を聚めて以て民を病ましめ、民を虐げて以て国を揺がす。臣此くの如き有りて、安んぞ之を用いん。臣哀鳴に勝えず、陛下の為に杞人の憂いを為すのみ」と。その子に属してこれを上らせ、明日遂に卒した。南京尚書趙参魯等がその清忠を奏し、太子太保を贈られた。

原文三十年春,有詔罷礦稅。已,弗果行。孟男率同列諫,不報。加太子少保。五上章乞歸,不許。時礦稅患日劇,孟男草遺疏數千言,極陳其害,言:「臣備員地官,所征天下租稅,皆鬻男市女、朘骨割肉之余也。臣以催科為職,臣得其職,而民病矣。聚財以病民,虐民以搖國,有臣如此,安所用之?臣不勝哀鳴,為陛下杞人憂耳。」屬其子上之,明日遂卒。南京尚書趙參魯等奏其清忠,贈太子太保。

衛承芳は字を君大といい、達州の人である。隆慶二年の進士。萬曆年間に累進して溫州知府となった。公明で廉潔、民をよく撫育した。浙江副使に進んだが、病を理由に辞して帰郷した。推薦されて山東參政に起用され、経歴を重ねて南京鴻臚卿となった。吏部が太常少卿朱敬循を右通政に推挙し、承芳をその次官とした。敬循は大学士朱賡の子である。賡が言うには、「承芳は臣の同年の進士であり、恬淡な操行は世に並ぶ者もなく、臣の子が先んずるべきではない」。帝はこれを許した。まもなく南京光祿卿に転じ、右副都御史に抜擢され、江西巡撫となった。贈り物を厳しく絶ち、配下の官吏は競って自らを戒めた。召されて南京兵部右侍郎となり、そのまま戸部尚書に任じられた。福王が蘆洲を乞い、江都から太平に至る南北千余里を、自ら宦官を派遣して租税を徴収しようとした。承芳は強く上疏して争ったが、ついに聞き入れられなかった。萬曆年間、南京戸部尚書で清名のあった者は、前には張孟男、後には承芳が称えられた。まもなくそのまま吏部尚書に改められた。官のまま没した。太子太保を追贈され、諡は清敏。

原文衛承芳,字君大,達州人。隆慶二年進士。萬曆中,累官溫州知府。公廉善撫字。進浙江副使,謝病歸。薦起山東參政,歷南京鴻臚卿。吏部推太常少卿朱敬循為右通政,以承芳貳之。敬循,大學士賡子也。賡言:「承芳臣同年進士,恬淡之操,世罕能及,臣子不當先。」帝許焉。尋遷南京光祿卿,擢右副都御史,巡撫江西。嚴絕饋遺,屬吏爭自飭。入為南京兵部右侍郎,就拜戶部尚書。福王乞蘆洲,自江都抵太平南北千餘里,自遣內官征課。承芳抗疏爭,卒不從。萬曆間,南京戶部尚書有清名者,前有張孟男,後則稱承芳。尋就改吏部。卒官。贈太子太保,謚清敏。

李禎

原文李禎

李禎は字を維卿といい、安化の人である。隆慶五年の進士。高平知縣に任じられ、召されて御史となった。萬曆初年、傅應禎が直言のために詔獄に下されると、禎は同僚の喬厳、給事中徐貞明と共に押し入って見守り、罪に坐して長蘆鹽運司知事に左遷された。帰徳推官、禮部主事に転じ、三度転じて順天府丞となった。十八年、洮州・河州に警報があり、貢市が良策でないことを極言し、ついで歴々と辺境の官吏の四つの失策を誹謗した。帝は、二十年にわたって款を受け入れてきたのに、事の始まりを咎めるべきではないとして、その議論を止めさせた。右僉都御史として湖広巡撫となり、上言した。「知縣梁道凝は循吏であるのに、かえって下考とされている。私情を挟む者を懲らしめて、他の者を励ますべきである。属吏を推薦するのに、高位の者ばかりに及ぶべきではなく、下僚の趙蛟・楊果のような者も、顕彰すべきである」。蛟と果は、萬曆初年に吏員から超擢された者である。詔はすべて聞き入れられた。召されて左僉都御史となり、再び転じて戸部右侍郎となった。趙用賢が縁組を絶ったことで誹謗されると、戸部郎中鄭材がさらに彼を誹謗した。禎は鄭材の上疏を駁し、その言葉は材の父鄭洛を侵害した。材は憤慨し、上疏して禎を誹謗したため、禎は休職を乞うたが、許されなかった。御史宋興祖が、材を他の部に移して禎を避けさせ、大臣の体面を全うすべきと請うたので、材を南京に出した。禎はまもなく兵部に転じ、左侍郎に進んだ。

原文李禎,字維卿,安化人。隆慶五年進士。除高平知縣,征授御史。萬曆初,傅應禎以直言下詔獄,禎與同官喬嚴、給事中徐貞明擁入護視之,坐謫長蘆鹽運司知事。遷歸德推官、禮部主事,三遷順天府丞。十八年,洮、河有警,極言貢市非策,因歷詆邊吏四失。帝以納款二十年,不當咎始事,遂寢其議。以右僉都御史巡撫湖廣,言:「知縣梁道凝循吏,反註下考,宜懲挾私者以勵其餘。薦舉屬吏,不應專及高秩,下僚如趙蛟、楊果者,亦當顯旌之。」蛟、果,萬曆初以吏員超擢者也。詔皆報可。召為左僉都御史,再遷戶部右侍郎。趙用賢以絕婚事被訐,戶部郎中鄭材復詆之。禎駁材疏,語侵其父洛。材憤,疏詆禎,禎遂乞休,不允。御史宋興祖請改材他部避禎,全大臣體,乃出材南京。禎尋調兵部,進左侍郎。

二十四年、日本への冊封と朝貢の事業が失敗し、首輔趙誌臯、尚書石星ともに弾劾された。廷臣が戦守を議し、上奏文はすべて兵部に下された。禎らは言う。「今議するところは、ただ戦・守・封の三事である。封については、李宗城は召還されたが、楊方亨はなお在る。もし急いで廃止を議すれば、中国の数百人が異域に沈むことは言うまでもなく、我が兵糧も未だ集まらず、勢い遠征は難しい。方亨に静かに関白の来迎を待たせ、来れば封じ、来なければ止めるべきである。我々は戦守を実務とし、機を見てこれに応ずる。かつ朝鮮はもとより礼を守り、王師の駐屯する所では、擾掠を厳禁すべきである」。旨を得て議の通りとした。しかし上疏の中で、誌臯と石星は去るべきだと述べていた。詔が禎を詰問し、ただ戦守の事を議せよと命じたのに、どうして勝手に大臣の去留に及んだのかと問うたが、ひとまず問わなかった。誌臯はこれより禎を快く思わなくなった。翌年、石星が罪を得ると、命じて禎に部の事務を代行させた。禎は、平壌・王京・釜山はいずれも朝鮮の要地であるとして、大城を修築し、屯田を興し鎮を開くことを請い、さらに戦守十五策を列挙して上奏したが、すべて実行を許された。後にもたびたび方略を上奏した。

原文二十四年,日本封貢事僨,首輔趙誌臯、尚書石星俱被劾。廷臣議戰守,章悉下兵部。禎等言:「今所議惟戰守封三事。封則李宗城雖征,楊方亨尚在。若遽議罷,無論中國數百人淪於異域,而我兵食未集,勢難遠征。宜令方亨靜俟關白來迎則封,不迎則止。我以戰守為實務,而相機應之。且朝鮮素守禮,王師所屯,宜嚴禁擾掠。」得旨如議。而疏內言誌臯、星當去。詔詰禎,止令議戰守事,何擅及大臣去留,姑勿問。誌臯自是不悅禎。明年,星得罪,命禎攝部事。禎以平壤、王京、釜山皆朝鮮要地,請修建大城,興屯開鎮,且列上戰守十五策,俱允行。後又數上方略。

四川が寇に襲われると、禎は言う。「四川と陝西は境界を接し、松潘に以前寇患がなかったのは、諸番が屏障となっていたからである。俺答が西に牧して以来、隴右は騒然とした。その後、隴右の守備が厳重になり、寇は目的を果たせず、禍はついに四川に移った。今や諸番の大半は西部に折れ入っている。臣が地図を閲するに、北界から西へと続く間道は蜀地に達し、多くは三舎(約三十里)も隔たっていない。幸い層巒疊嶂、屹然たる天険があり、鎮虜堡は漳臘の門戸、虹橋関は松城の咽喉である。関堡の外は、嶺あるいは崖で、いずれも拠って守ることができる。阿玉嶺を守れば、咂際を越えて堡を窺うことはできず、黄勝場を守れば、塞墩を逾えて関を寇することはできない。その他、横山、寡石崖は特に要害であり、いずれも急いで防禦を議し、巡撫・鎮守の臣に計画を上聞させるべきである」。聞き入れられた。

原文四川被寇,禎言:「川、陜接界,而松潘向無寇患者,以諸番為屏蔽也。自俺答西牧,隴右騷然。其後隴右備嚴,寇不得逞,而禍乃移之川矣。今諸番強半折入於西部。臣閱地圖,從北界迤西間道達蜀地,多不隔三舍。幸層巖疊嶂,屹然天險,如鎮虜堡為漳臘門戶,虹橋關為松城咽喉。關堡之外,或嶺或崖,皆可據守。守阿玉嶺,則不能越咂際而窺堡。守黃勝場,則不敢逾塞墩而寇關。他如橫山、寡石崖尤為要害,皆當亟議防禦,令撫鎮臣計畫以聞。」報可。

禎は質直で方正剛直であり、事務を代行して計画を立てるのは頗る適当であった。すぐに尚書に任用しようとする者もいたが、誌臯は旧怨のため、ひそかにこれを阻んだ。また張位・沈一貫はもとより経略邢玠・經理楊鎬と通じており、禎の行いを便利とも思わず、禎は将材ではなく、ただ蕭大亨のみが任に堪えると言った。帝は聞き入れなかった。その後、玠と鎬はますます功がなく、誌臯らはまた禎の罷免を請い、御史況上進が禎を庸鄙であると弾劾した。帝はいずれも聞き入れなかった。甘肅に巡撫が欠員すると、禎は劉敏寬の名を挙げた。給事中楊応文が、敏寬はちょうど事に坐して取り調べ中であり、推挙すべきではないと上言した。帝が禎を詰問すると、禎は言う。「以前詔を奉じ、敏寬は巡撫の欠員に用いるべきとありましたので、臣は彼を推挙したのです」。帝は禎が罪を引かないことを怒り、南京に転じさせた。後に考査があり、南京の言官が遺漏を拾い上げて禎に及ぶと、ついに致仕を命じた。

原文禎質直方剛,署事規畫頗當。有欲即用為尚書者,誌臯以故憾,陰沮之。而張位、沈一貫雅與經略邢玠、經理楊鎬通,亦不便禎所為,言禎非將材,惟蕭大亨堪任。帝不聽。其後玠、鎬益無功,誌臯等又請罷禎,御史況上進劾禎庸鄙。帝皆不聽。甘肅缺巡撫,禎以劉敏寬名上。給事楊應文言敏寬方坐事勘,不當推舉。帝以詰禎,禎言:「前奉詔,敏寬須巡撫缺用,臣故舉之。」帝怒禎不引罪,調之南京。後考察,南京言官拾遺及禎,遂命致仕。

久しくして、南京刑部尚書に起用された。一年余りして再び病を理由に、返答を待たずに直ちに帰郷したので、帝は怒った。大学士葉向高が言う。「禎は実際に病であり、深く責めることはできません。十余年来、大臣が休職を乞うて許された者は、百に一二もありません。李廷機・趙世卿はいずれも数年間留め置かれ、上疏は百余りに及びました。今また尚書孫丕揚・李化龍が軍政考査の上疏が下されないことを理由に、相次いで去ろうとしています。もし再び禎の轍を踏むならば、実に国体を傷つけます。諸臣が去ろうとする理由には、およそ数種あります。疾病ならば去るべきであり、言われれば去るべきであり、その職を得られなければ去るべきです。その心情をよく察し、留めるべきならば留め、留められないならば任せるべきです」。帝はついに禎の官職を奪い閑住させた。まもなく没した。

原文久之,起南京刑部尚書。逾年復引疾,不俟報徑歸,帝怒。大學士葉向高言:「禎實病,不可深責。十餘年來,大臣乞休得請者,百無一二。李廷機、趙世卿皆羈留數載,疏至百餘上。今尚書孫丕揚、李化龍又以考察軍政疏不下,相率求去。若復踵禎轍,實傷國體。諸臣求去,約有數端。疾病當去,被言當去,不得其職當去。宜曲體其情,可留留之,不可留則聽之。」帝竟奪禎職閑住。未幾卒。

丁賓

原文丁賓

丁賓は字を禮原といい、嘉善の人である。隆慶五年の進士。句容知縣に任じられた。召されて御史となった。大学士張居正は、賓の座主であったが、劉臺を贓罪で誣え、賓に命じて遼東に赴きこれを取り調べさせようとした。賓は強く辞退し、居正の意に逆らい、官を去った。萬曆十九年、推薦により元の官に起用されたが、またも憂いで去った。起用されて南京大理丞となった。累進して南京右僉都御史兼操江督催となった。江防は弛緩していることが多かったが、賓は将校を率いて一舟に乗り往来して巡視し、守兵を増やして要害に駐屯させ、管内は平穏であった。南京の衛所の世襲職は、みな京師に赴いて襲職を請うが、滞留して官を得られないので、賓は南京で襲職を審査するよう請うた。妖民劉天緒が左道の事を覚られると、兵部尚書孫鑛は徹底的に処罰しようとしたが、詔が下って法司に訊問させた。賓は刑部大理の事務を兼ねて摂行し、力強く平反し、七人を死罪と論じ、残りはみな釈放された。召されて工部左侍郎に任じられ、まもなく南京工部尚書に抜擢された。上元から丹陽に至る道路を、すべて石に改め、旅人はこれを称えた。たびたび老齢を理由に罷免を乞うたが、光宗が即位して初めて致仕を許した。

原文丁賓,字禮原,嘉善人。隆慶五年進士。授句容知縣。征授御史。大學士張居正,賓座主也,誣劉臺以贓,屬賓往遼東按之。賓力辭,忤居正意,去官。萬曆十九年,用薦起故官,復以憂去。起南京大理丞。累遷南京右僉都御史兼督操江。江防多懈,賓率將校乘一舟往來周視,增守兵戍要害,部內宴然。南衛世職率赴京師請襲,留滯不得官,賓請就南勘襲。妖民劉天緒左道事覺,兵部尚書孫鑛欲窮治之,詔下法司訊鞫。賓兼攝刑部大理事,力平反,論七人死,餘皆獲釋。召拜工部左侍郎,尋擢南京工部尚書。自上元至丹陽道路,盡易以石,行旅頌之。數引年乞罷,光宗立,始予致仕。

賓は南京の官に三十年おり、旱魃や水害があるたびに、常に賑済貸付を請い、時に家財を出してこれを助けた。初め御史として在宅していた時、および丁憂で帰郷した時、連続三年の大飢饉があり、いずれも資財を捐じて賑済した。天啓五年に至っては、さらに粟三千石を捐じて貧民を賑い、金三千両を以て下戸で賦税を納められない者の代わりとした。巡撫・按察使がその前後の事績を記録して上奏すると、時に既に太子少保を加えられていたが、詔して太子太保に進め、その門を表彰した。高齢のため、三度存問を受けた。崇禎六年に没し、九十一歳。諡は清惠。

原文賓官南都三十年,每遇旱潦,輒請振貸,時出家財佐之。初以御史家居,及丁憂歸,連三年大饑,鹹捐資以振。至天啟五年,復捐粟三千石振貧民,以資三千金代下戶之不能輸賦者。撫按錄上其先後事,時已加太子少保,詔進太子太保,旌其門。以年高,三被存問。崇禎六年卒,年九十一。謚清惠。

賛に曰く。南京の卿長は、体貌は尊いが官守に責はなく、故に声望を養う地であり、資歴深く誉れ重き者が処する。あるいは強直で付き従う所がなく、執政に喜ばれない者は、これによって遠ざける。袁洪愈の類は、清強をもって優閑の地に居り、その用を極めず、またもって自らを全うする。時に干し進みを冒す徒は、以て風とすべきである。

原文贊曰:南京卿長,體貌尊而官守無責,故為養望之地,資地深而譽聞重者處焉。或強直無所附麗,不為執政所喜,則以此遠之。袁洪愈諸人類以清強居優閑之地,不竟其用,亦以自全。幹時冒進之徒,可以風矣。