○袁洪愈(子一鶚、譚希思)王廷瞻、郭應聘(吳文華)耿定向(弟定理、定力)王樵(子肯堂)魏時亮(陳瓚)郝傑(胡克儉)趙參魯、張孟男(衛承芳)李禎、丁賓
袁洪愈
萬曆中、故官に起され、南京工部右侍郎に遷り、右都御史に進み、南院事を掌り、就いて禮部尚書に改まる。南京御史譚希思、中官・外戚を疏論し、且つ旧制に循い、内閣に絲綸簿を設け、宮門に鐵牌を置くを請う。詔して南京都察院に下し勘訊せしめ、将に誣罔を以て坐せんとす。洪愈は既に官を改め、代者は未だ至らず、乃ち具に希思の陳ぶる所は、王可大の『國憲家猷』・薛應旂の『憲章錄』二書に載するを言う。帝、拠る所は頒行の制書に非ざるを以て、希思を雑職に謫す。洪愈尋いで疏を上し幹謁を禁ずるを請い、又屯田の廢壞の害を極諫し、商人に中鹽せしめ、内地の飛挽を免ずるを乞う。皆議行せらる。
萬曆十五年、就いて吏部に改まる。其の冬、年を引きて休を乞う。帝其の清德を重んじ、太子少保を加えて致仕せしむ。洪愈通籍四十餘年、居る所一椽を増さず、出入徒步す。卒す、年七十四。巡撫周孔教、金を捐てて之を葬る。太子太保を贈り、謚して安節と曰う。
子一鶚、蔭を以て、官は治中。饘粥継がずして死す。希思は茶陵の人。右副都御史を歴任し、四川を巡撫す。
王廷瞻
入りて南京大理卿となる。兩京戶部左・右侍郎を歴任し、右都御史を以て出で漕運を督し鳳陽諸府を兼ねて巡撫す。寶應氾光湖の堤は水を蓄えて運を濟し、平江伯陳瑄の築く所なり。下流泄する所無く、決して八浅となり、匯りて巨潭と成り、諸鹽場皆没す。淮流復た奔入し、勢益々洶湧す。前巡撫李世達等、越河を開き其の險を避けんと議す。廷瞻之を承く。渠千七百七十六丈を鑿ち、石閘三、減水閘二、石堤三千三十六丈、子堤五千三百九十丈と為し、公帑二十餘萬を費やし、八月に竣事す。詔旨褒嘉し、河の名を弘濟と賜う。廷瞻を戸部尚書に進め、巡撫は元の如し。尋いで南京刑部尚書に改まる。未だ上せず、帰を乞う。久しくして卒す。太子少保を贈る。兄廷陳は『文苑傳』に見ゆ。
郭應聘
郭應聘、字は君賓、莆田の人。嘉靖二十九年の進士。戶部主事に授けられる。郎中を歴任し、出でて南寧知府となる。威茂兵備副使に遷り、廣東參政に転ず。提督吳桂芳に従い李亞元を平げ、別に賊首張韶南・黃仕良等を撃つ。廣西按察使に遷り、左・右布政使を歴任す。隆慶四年、大いに古田賊を破り、斬獲七千有奇。已にして、巡撫殷正茂に従い古田を平げ、再び秩を進む。
正茂總督に遷り、遂に應聘を擢て右副都御史とし之に代わらしむ。府江の瑤反す。府江は上は陽朔に起り、下は昭平に達し、三百餘里に亙る。諸瑤江を夾みて居り、險を怙りて剽劫す。成化・正德の間、都御史韓雍・陳金之を討平す。是に至りて荔浦・永安を攻圍し、知州楊惟執・指揮胡翰を劫う。事聞こえ、大学士張居正便宜を假するを奏し、應聘に書を寓せて曰く「炎荒瘴癘の區、數萬の衆を役し、淹留すべからず。速やかに其の巢を破らば、則ち余賊膽を破らん」と。應聘土・漢兵六萬を集め、總兵官李錫に令し進討せしむ。未だ行かずして、懷遠の瑤も亦た知縣馬希武を殺し反す。應聘と正茂、先ず府江を征するを議し、三箇月を閲て悉く定まり、乃ち錫に檄し懷遠を討たしむ。天大雨雪、功無くして還る。懷遠は古の牂牁、地は湖・貴靖・黎の諸州に界し、郭を環る皆瑤、編氓其の外に処る。嘉靖中、之を征して克たず、知縣府城に寄居し、遙かに羈縻を示すのみ。古田既に復し、瑤兵威に懾し、服属を願う。希武始めて其の地に入る。城を築くを議し、作を董ること峻しきに過ぎ、瑤遂に亂し、希武殺さる。是に及び、師出でて功無し。應聘益々諸路の兵を調え、白杲・黃土・大梅・青淇の侗・僮を鎮撫し、以て賊の勢を孤にし、而して錫と諸将賊を連破し、其の魁を斬り、懷遠乃ち下る。事は皆錫傳に具す。初め行師を議し、錫は陽朔金寶嶺の賊近しとし、先ず之を滅さんと欲す。應聘曰く「君第往け、吾自ら処有り」と。錫行くこと數日、應聘と按察使吳一介、意表に出でて其の魁を襲殺す。懷遠克復するに比し、陽朔も亦た定まり、乃ち諸将門崇文・楊照・亦孔昭等を分遣し洛容・上油・邊山を討たしむ。五叛の瑤悉く平ぐ。神宗大いに悦び、兵部右侍郎兼右副都御史に進め、巡撫は元の如し。
耿定向
耿定向、字は在倫、黄安の人。嘉靖三十五年の進士。行人を除き、御史に擢てる。厳嵩父子政を窃み、吏部尚書呉鵬之に附く。定向鵬の六罪を疏し、因りて言う、鵬の婿学士董份会試を総裁し、鵬の子紹に私す、宜しく並びに斥くべしと。嵩為に営護し、事竟に寢む。出でて甘粛を按じ、挙劾私する所無し。任を去り、行笥一肩。石経を以て饋る者有り、境上に留めて去る。還りて南京学政を督す。隆慶初め、大理右寺丞に擢る。高拱政を執り、定向嘗て其の褊浅にして大臣の度無きを譏り、拱之を嗛む。及び拱吏部を掌り、考察を以て定向を横州判官に謫す。拱罷めらる、量りて衡州推官に移す。萬曆中、累官して右副都御史と為る。吏部侍郎陸光祖、御史周之翰に劾せられ、光祖已に留まる、定向復た光祖の賢を頌し、之翰を詆る。給事中李以謙、定向言官を擠すと言い、定向去るを求む、帝問わず。刑部左・右侍郎を歴任し、南京右都御史に擢る。御史王藩臣応天巡撫周継を劾し、疏発すること逾月にして以て定向に白せず。定向怒り、故事を守りて力争い、自ら劾して罷むるを求め、且つ藩臣の論劾失当なるを詆す。因りて言う、故江西巡撫陳有年・四川巡撫徐元泰皆賢なり、御史方萬山・王麟趾に劾せられて罷む、今宜しく召用すべく、而して量りて藩臣を罰すべしと。藩臣坐して俸を停むること二月。ここに於いて給事中許弘綱・観政進士薛敷教・南京御史黄仁栄及び麟趾連章して定向を劾す。麟趾言う、「南臺京師を去ること遠く、章疏先ず伝わり、人計りを為すを得。御史孫鳴治魏国公徐邦瑞を論じ、陳揚善主事劉以煥を論ずるが如き、皆奏辞に因りて豫め聞く、一は則ち夤縁して幸いに免れ、一は則ち捃摭して誣われ被る。故に邇来投揭浹月を遅らする者有り、事理宜しく然るべく、藩臣より始まるに非ず」と。語並びに大学士許国・左都御史呉時来・副都御史詹仰庇を侵す。執政方に言者を悪み、敷教を勒って還籍して過ちを省みしめ、麟趾・仁栄も亦俸を停む。時に已に定向を戸部尚書督倉場に除す、定向因りて力辞して退くを求む。章屢上り、乃ち許す。卒す、年七十三。太子少保を贈られ、謚して恭簡と曰う。
定向初め朝に立ちて時望有り。後徐階・張居正・申時行・王錫爵の四輔を歴るも、皆能く齟齬無し。居正の奪情に至り、友人に書を寓りて之を伊尹と誉めて言者を貶す、時議之を訾る。其の学本王守仁に拠る。嘗て晋江の李贄を黄安に招く、後漸く之を悪み、贄も亦屢定向を短る。士大夫禅を好む者往々贄に従いて遊ぶ。贄小に才有り、機辨、定向勝つ能わず。贄姚安知府と為り、一旦自ら其の髪を去り、冠服して堂皇に坐す、上官勒令して解任せしむ。黄安に居り、日々士人を引いて講学し、婦女を雑え、専ら釈氏を崇め、孔・孟を卑侮す。後北遊して通州に至り、給事中張問達に劾せられ、逮われて獄中に死す。
定向の弟定理・定力。定理終に諸生。定向と俱に講学し、専ら禅機を主とす。定力、隆慶中進士、工部主事を除く。萬曆中、累官して右僉都御史と為り、操江を督し、疏して礦使の患を陳ぶ。再遷して南京兵部右侍郎。卒し、尚書を贈らる。
王樵
王樵、字は明遠、金壇の人。父臬、兵部主事。武宗の南巡を諫め、杖せらる。終に山東副使。樵嘉靖二十六年の進士に挙げられ、行人を授かる。刑部員外郎を歴任す。『読律私箋』を著し、甚だ精核なり。胡宗憲計りて汪直を降し、直を赦して以て信を示さんと欲す。樵言う、此の叛民は他の降を納るるに異なりと、直遂に誅せらる。山東僉事に遷り、疾いを移して帰る。萬曆初め、張居正国を柄り、雅より樵を知り、起用して浙江僉事を補い、尚宝卿に擢る。劉臺居正を劾し、居正帰るを乞う。諸曹奏して之を留めんとす、樵独り諫臣を全うして以て大臣を安んずるを請い、略言す、「古より明主言路を開かんと欲し、言当らざるも、猶お之を優容す。大臣上徳を広めんと欲し、人己を攻むるも、猶お之を薦拔す。宋の文彦博の唐介に於けるが如き是れなり。今居正留まりて臺罪を得るは、乃ち仁宗の唐介を待つ意に非ざるか」と。居正大いに恚り、出して南京鴻臚卿と為す。旋なく星変に因りて自ら陳し、之を罷む。家に居ること十余年、起用されて南京太僕少卿と為る、時に年七十余なり。歳中再遷して大理卿と為り、尋いで南京刑部右侍郎を拝す。誠意伯劉世延主使して人を殺す、樵世延を当てて革任せしむ。尋いで就いて右都御史に擢る。給事中盧大中其の衰老を劾し、帝致仕せしむ。
子肯堂、字は宇泰。萬曆十七年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、検討を授かる。倭朝鮮を寇し、疏して十議を陳べ、願わくは御史の銜を仮りて海上に兵を練らんとす。疏留中し、因りて疾いを引いて帰る。京察にて、降調せらる。家に居ること久しく、吏部侍郎楊時喬薦めて南京行人司副を補す。終に福建参政。肯堂書を読むを好み、尤も医に精しく、著す所の『証治準縄』該博精粋、世競いて之を伝う。
魏時亮
帝が臨朝するも、拱手して黙し未だ一言も発さず。石州が陥落すると、帝に大臣を詰問するよう請う者あり。二日を過ぎ、講義が終わり、帝は果たして石州陥落の状況を問う。宦官王本がすぐに傍らから諸臣を罵り欺き蔽うと。帝は慍り、目でこれを威圧するも、本はなお喋喋と語る。帝は悦ばずして罷める。時亮は本を弾劾し、人臣の礼なく、大不敬であり、かつその不法数事を数え上げる。上疏は行われなかったが、士論はこれを壮とした。十月初め、詔して日講を停む。時亮は同列を率いて言う、天未だ冱寒ならず、急に廃すべからずと。まもなく薛瑄・陳献章・王守仁を文廟に従祀するよう請い、章は所司に下る。また言う、方や春の東作に当たり、宜しく有司に勅して軽い囚人を釈放し、訟獄を停めよと、詔して可とする。
翌年六月に言う、「今、天下の大患は三つ:藩禄の給せざるなり、辺餉の支えざるなり、公私の交えて困するなり。宗藩には一時の計あり、百世の計あり。急ぎ宗学を立て、これに礼譲を教え、禄一万石の者は歳に五分之一を捐じ、二千石の者は十分之一、千石の者は二十分之一を以て貧宗を贍い、定制として立てよ。これ一時の計なり。各宗が一城に聚居し、貧しき日増しに甚だしければ、宜しく近くに散処させ、閑田を与えて耕させて禄に代えよ;奸生の孽は、重ねて黜削を行え。これ百世の計なり。辺餉は屯塩より要なるは莫く、近く大臣龐尚鵬・鄒応龍・淩儒を選んで經理せしむるも、事権は重しといえども、顧みるに河東に往く者は四川を兼ねて理し、江北に往く者は山東・河南を兼ねて理し、江南に往く者は浙・湖・雲・貴を兼ねて理し、内地を重んじて塞下を軽んずるは、初旨に非ず。かつ一人数道を領すれば、曠遠にして周り難し。請う、内地にある者は専ら巡撫に責め、尚鵬ら三人に塞下の屯事を分任させ、久任して責成し、功あれば不次をもって待てば、則ち利興りて辺儲自ずから裕かならん。今、天下の府庫殫き虚しく、百姓困瘁す。而して建議する者は天下の庫蔵を尽くして内府に輸送し、以て旦夕の用に済さんと欲す。脱せば州郡に変あらば、何を以てこれに待たん。夫れ守令は民を養うを職とし、要は農桑を勧め、徭賦を清め、郷約を重んじ、保甲を厳にすることに在りて、簿書獄訟・催科の巧拙は与りせず」と。疏が上り、多く議して行われる。その冬、また疏を上して言う、「天下の憂うべきは民窮に在り、民の憂いを紓く能う者は知府のみ、宜しくその選を慎重にすべし。治行卓越なれば、即ち京卿若しくは巡撫に擢でば、則ち人自ら激励す。督学は、天下の名教の繫がる所、学行兼ねて懋かなる者を択ぶべく、時を以て限るなかれ。教行望峻なれば、則ち召して祭酒と為し或いは翰林に入れ、以て風励を示せ」と。部に下り議すれど、ついに行われず。
時亮は初め交遊を好み、意気に負う。嘗て左都御史張永明を劾めて罷めしめ、時論に非とされる。時亮もまたこれを悔いる。中程で挫抑に遭い、心を潜めて性理の学に専念す。天啓中、謚して荘靖とす。
郝傑
十七年、右僉都御史に抜擢され、遼東を巡撫した。諸将を督して敵を撃った功により、一子に官を録した。時に李成梁が総兵官であり、威望は甚だ著しかったが、上奏する功績には虚偽が無いとは言えなかった。敵が塞内に入ると、あるいは兵を収めて避け、既に退いた後に、ようやく老弱を尾襲し、あるいは虚に乗じて零部を搗き、塞に附く者を誘殺して首功に充て、習いとして常としていた。督撫諸臣はこれを庇ったが、傑のみはこれと与しなかった。十九年春、成梁は参将郭夢徴の策を用い、副将李寧をして鎮夷堡において板升を襲わせ、老弱二百八十余級を獲た。師が凱旋する際、別部に遮られ、寧は先に走り、将士数千人の大半が失亡したが、成梁は功績を飾って叙勲を求めた。傑は奏草を具し、直言してその故を述べ、総督蹇達と共に上奏するよう求めた。達はその草稿を匿い、自ら奏して功を論じた。巡按御史胡克儉は馳疏して寧を劾し、言葉は成梁に及び、傑をも詆毀した。兵部は寧の罪を置いて議せず。克儉は大いに憤り、成梁・達の隠蔽の状をことごとく発した。先だって、十八年冬、海州が掠奪されて十三日、副将孫守廉は戦わず、成梁もまた救わなかった。克儉は既に守廉を劾し、申時行・許国がこれを庇い、ただ勘問を受けることを命じたのみであった。克儉は乃ち言う、「臣が初め守廉を劾した時、時行は書を以て臣を沮んだ。及び寧を劾するに及び、また国と共に臣にその罪を寛めるよう諭した。私に徇って公に背き、将に辺事を壊さんとす」と。並びに一鶚・達及び兵科給事中張応登の朋奸欺罔を歴詆し、達が傑の会稿した功罪疏を奏上せずに置いたことを挙げ、遂に成梁の前数年にわたる功績詐称の状を追数した。帝は、成梁の前功は皆巡按の勘報によるものであり、克儉の懸度妄議であるとした。結局成梁等を問わずに置き、心に傑を以て欺かざる者とした。
まもなく右副都御史に進んだ。日本が朝鮮を陥落させると、達は裨将祖承訓に三千人を率いて往かせたが、皆没した。事が聞こえると、傑もまた弾劾されたが、帝は特にこれを免じた。朝鮮王が避難して遼東に入らんとしたので、傑は境外の善地を選んでこれを処置し、且つその従官・衛士に周給するよう請うた。許可された。まもなく兵部右侍郎に遷り、薊・遼・保定の軍務を総督した。召されて戎政を理し、右都御史に進んだ。日本の封貢の議が起こると、傑は言った、「平秀吉は誅すに勝えざる罪あり、顧みて爵命を加えれば、荒外の者がこれを聞き、中朝に人無しと謂うであろう」と。議が合わず、南京戸部尚書に転じた。病を理由に帰郷した。南京工部尚書として起用された。就任のまま兵部に改められ、機務に参賛した。官のまま卒した。太子少保を贈られた。
胡克儉、字は共之、光山人。万暦十四年の進士。庶吉士より御史に改め、山東を巡按した。遼東はその管轄するところであり、買功・窃級などの諸弊を禁ずることを奏した。既に成梁を弾劾した後、要人の忌むところとなった。時に克儉が左都御史李世達が罪囚を曲庇したことを弾劾し、賊と詆毀するに至ったので、執政は遂に克儉が妄りに執法大臣を排し、言路に居るべからずと言い、蘄水丞に謫された。上官が事を以て帰郷させ、里居すること三十年。光宗が立つと、光禄少卿として起用された。天啓年間、刑部右侍郎を歴任した。五年冬、逆党李恒茂がその衰朽を論じ、落職して帰郷した。崇禎初年、官に復した。卒して尚書を贈られた。克儉は本姓は扶であったが、胡姓を冒し、久しくして始めて故姓に復した。
趙参魯
張孟男
張孟男、字は元嗣、中牟の人。嘉靖四十四年の進士。広平推官に授けられた。稍々遷って漢中同知となった。入って順天治中となり、累進して尚宝丞となった。高拱が内閣として吏部を兼ねたが、その妻は孟男の姑であった。公事の外に私語無し。拱はこれを恨み、四歳遷らせなかった。及んで拱が逐われると、親知は皆引き匿まったが、孟男のみは独り拱の邸に留まり、装いを整えて郊外まで送った。張居正が用いられると、孟男を太僕少卿に抜擢した。孟男はまたも附かず、居正の意に失い、調動しなかった。久しくして、居正が敗れると、始めて累遷して南京工部右侍郎となった。まもなく召されて入り、本官のまま通政司事を掌った。
三十年春、詔があり鉱税を罷めるとした。已にして、果たして行われなかった。孟男は同列を率いて諫めたが、返答がなかった。太子少保を加えられた。五たび章を上って帰郷を乞うたが、許されなかった。時に鉱税の患い日増しに劇しく、孟男は遺疏数千言を草し、極めてその害を陳べ、言った、「臣は地官に備員し、征する所の天下の租税は、皆男を鬻ぎ女を市い、骨を朘ぎ肉を割くの余りなり。臣は催科を職と為す。臣がその職を得れば、而して民病む。財を聚めて以て民を病ましめ、民を虐げて以て国を揺がす。臣此くの如き有りて、安んぞ之を用いん。臣哀鳴に勝えず、陛下の為に杞人の憂いを為すのみ」と。その子に属してこれを上らせ、明日遂に卒した。南京尚書趙参魯等がその清忠を奏し、太子太保を贈られた。
李禎
李禎は字を維卿といい、安化の人である。隆慶五年の進士。高平知縣に任じられ、召されて御史となった。萬曆初年、傅應禎が直言のために詔獄に下されると、禎は同僚の喬厳、給事中徐貞明と共に押し入って見守り、罪に坐して長蘆鹽運司知事に左遷された。帰徳推官、禮部主事に転じ、三度転じて順天府丞となった。十八年、洮州・河州に警報があり、貢市が良策でないことを極言し、ついで歴々と辺境の官吏の四つの失策を誹謗した。帝は、二十年にわたって款を受け入れてきたのに、事の始まりを咎めるべきではないとして、その議論を止めさせた。右僉都御史として湖広巡撫となり、上言した。「知縣梁道凝は循吏であるのに、かえって下考とされている。私情を挟む者を懲らしめて、他の者を励ますべきである。属吏を推薦するのに、高位の者ばかりに及ぶべきではなく、下僚の趙蛟・楊果のような者も、顕彰すべきである」。蛟と果は、萬曆初年に吏員から超擢された者である。詔はすべて聞き入れられた。召されて左僉都御史となり、再び転じて戸部右侍郎となった。趙用賢が縁組を絶ったことで誹謗されると、戸部郎中鄭材がさらに彼を誹謗した。禎は鄭材の上疏を駁し、その言葉は材の父鄭洛を侵害した。材は憤慨し、上疏して禎を誹謗したため、禎は休職を乞うたが、許されなかった。御史宋興祖が、材を他の部に移して禎を避けさせ、大臣の体面を全うすべきと請うたので、材を南京に出した。禎はまもなく兵部に転じ、左侍郎に進んだ。
二十四年、日本への冊封と朝貢の事業が失敗し、首輔趙誌臯、尚書石星ともに弾劾された。廷臣が戦守を議し、上奏文はすべて兵部に下された。禎らは言う。「今議するところは、ただ戦・守・封の三事である。封については、李宗城は召還されたが、楊方亨はなお在る。もし急いで廃止を議すれば、中国の数百人が異域に沈むことは言うまでもなく、我が兵糧も未だ集まらず、勢い遠征は難しい。方亨に静かに関白の来迎を待たせ、来れば封じ、来なければ止めるべきである。我々は戦守を実務とし、機を見てこれに応ずる。かつ朝鮮はもとより礼を守り、王師の駐屯する所では、擾掠を厳禁すべきである」。旨を得て議の通りとした。しかし上疏の中で、誌臯と石星は去るべきだと述べていた。詔が禎を詰問し、ただ戦守の事を議せよと命じたのに、どうして勝手に大臣の去留に及んだのかと問うたが、ひとまず問わなかった。誌臯はこれより禎を快く思わなくなった。翌年、石星が罪を得ると、命じて禎に部の事務を代行させた。禎は、平壌・王京・釜山はいずれも朝鮮の要地であるとして、大城を修築し、屯田を興し鎮を開くことを請い、さらに戦守十五策を列挙して上奏したが、すべて実行を許された。後にもたびたび方略を上奏した。
四川が寇に襲われると、禎は言う。「四川と陝西は境界を接し、松潘に以前寇患がなかったのは、諸番が屏障となっていたからである。俺答が西に牧して以来、隴右は騒然とした。その後、隴右の守備が厳重になり、寇は目的を果たせず、禍はついに四川に移った。今や諸番の大半は西部に折れ入っている。臣が地図を閲するに、北界から西へと続く間道は蜀地に達し、多くは三舎(約三十里)も隔たっていない。幸い層巒疊嶂、屹然たる天険があり、鎮虜堡は漳臘の門戸、虹橋関は松城の咽喉である。関堡の外は、嶺あるいは崖で、いずれも拠って守ることができる。阿玉嶺を守れば、咂際を越えて堡を窺うことはできず、黄勝場を守れば、塞墩を逾えて関を寇することはできない。その他、横山、寡石崖は特に要害であり、いずれも急いで防禦を議し、巡撫・鎮守の臣に計画を上聞させるべきである」。聞き入れられた。
禎は質直で方正剛直であり、事務を代行して計画を立てるのは頗る適当であった。すぐに尚書に任用しようとする者もいたが、誌臯は旧怨のため、ひそかにこれを阻んだ。また張位・沈一貫はもとより経略邢玠・經理楊鎬と通じており、禎の行いを便利とも思わず、禎は将材ではなく、ただ蕭大亨のみが任に堪えると言った。帝は聞き入れなかった。その後、玠と鎬はますます功がなく、誌臯らはまた禎の罷免を請い、御史況上進が禎を庸鄙であると弾劾した。帝はいずれも聞き入れなかった。甘肅に巡撫が欠員すると、禎は劉敏寬の名を挙げた。給事中楊応文が、敏寬はちょうど事に坐して取り調べ中であり、推挙すべきではないと上言した。帝が禎を詰問すると、禎は言う。「以前詔を奉じ、敏寬は巡撫の欠員に用いるべきとありましたので、臣は彼を推挙したのです」。帝は禎が罪を引かないことを怒り、南京に転じさせた。後に考査があり、南京の言官が遺漏を拾い上げて禎に及ぶと、ついに致仕を命じた。
久しくして、南京刑部尚書に起用された。一年余りして再び病を理由に、返答を待たずに直ちに帰郷したので、帝は怒った。大学士葉向高が言う。「禎は実際に病であり、深く責めることはできません。十余年来、大臣が休職を乞うて許された者は、百に一二もありません。李廷機・趙世卿はいずれも数年間留め置かれ、上疏は百余りに及びました。今また尚書孫丕揚・李化龍が軍政考査の上疏が下されないことを理由に、相次いで去ろうとしています。もし再び禎の轍を踏むならば、実に国体を傷つけます。諸臣が去ろうとする理由には、およそ数種あります。疾病ならば去るべきであり、言われれば去るべきであり、その職を得られなければ去るべきです。その心情をよく察し、留めるべきならば留め、留められないならば任せるべきです」。帝はついに禎の官職を奪い閑住させた。まもなく没した。
丁賓
丁賓は字を禮原といい、嘉善の人である。隆慶五年の進士。句容知縣に任じられた。召されて御史となった。大学士張居正は、賓の座主であったが、劉臺を贓罪で誣え、賓に命じて遼東に赴きこれを取り調べさせようとした。賓は強く辞退し、居正の意に逆らい、官を去った。萬曆十九年、推薦により元の官に起用されたが、またも憂いで去った。起用されて南京大理丞となった。累進して南京右僉都御史兼操江督催となった。江防は弛緩していることが多かったが、賓は将校を率いて一舟に乗り往来して巡視し、守兵を増やして要害に駐屯させ、管内は平穏であった。南京の衛所の世襲職は、みな京師に赴いて襲職を請うが、滞留して官を得られないので、賓は南京で襲職を審査するよう請うた。妖民劉天緒が左道の事を覚られると、兵部尚書孫鑛は徹底的に処罰しようとしたが、詔が下って法司に訊問させた。賓は刑部大理の事務を兼ねて摂行し、力強く平反し、七人を死罪と論じ、残りはみな釈放された。召されて工部左侍郎に任じられ、まもなく南京工部尚書に抜擢された。上元から丹陽に至る道路を、すべて石に改め、旅人はこれを称えた。たびたび老齢を理由に罷免を乞うたが、光宗が即位して初めて致仕を許した。
賛に曰く。南京の卿長は、体貌は尊いが官守に責はなく、故に声望を養う地であり、資歴深く誉れ重き者が処する。あるいは強直で付き従う所がなく、執政に喜ばれない者は、これによって遠ざける。袁洪愈の類は、清強をもって優閑の地に居り、その用を極めず、またもって自らを全うする。時に干し進みを冒す徒は、以て風とすべきである。