張四維
高拱が吏部を掌ると、翰林学士に超擢した。わずか二か月で、吏部右侍郎に拝された。俺答の封貢の議が起こり、朝廷内で決まらなかった。四維は高拱の間を交渉し、和議の事は遂に成就した。高拱はますます四維を有能とし、四維もまた進取を求めやまず、朝士の中には彼を憎む者も少なくなかった。御史の郜永春が河東の塩を視察し、塩法の破綻は権勢のある者が横行し、大商人が専売するためと述べ、四維と崇古を権勢者と指摘し、四維の父と崇古の弟を大商人とした。四維は上奏して弁明し、よって去職を請うた。高拱は力を尽くして彼を庇護し、温かい詔で慰留した。
初め、趙貞吉が去職すると、高拱は四維を引き入れて内閣に入れようとしたが、殷士儋が縁故でこれを得たため、諸人は互いに争うようになった。御史の趙応龍が士儋を弾劾した時、士儋はまだ去っておらず、言路はまた四維を弾劾する者がいた。四維はすでに左侍郎に進んでいたが、やむを得ず引退し、まもなく士儋も去った。東宮が出閣すると、四維を召して侍班官に充てた。給事中の曹大埜が、四維が高拱に賄賂を贈って召還されたと上言し、四維は急ぎ上疏して弁明し、罷免を求めた。帝は許さず、入朝を促した。到着しないうちに穆宗が崩御し、高拱が政務を罷め、張居正が国政を執ると、また病気を理由に帰郷した。
初め、四維は居正にへつらい事えたが、次第に耐えられなくなり、詔旨の草案を居正の意のままにせず、居正も次第に彼を憎むようになった。政権を得てから、内外が居正に苦しめられていたことを知り、人心を大いに収めようとした。折しも皇子が生まれ、詔を天下に頒布するにあたり、上疏して言う、「今、法紀は整い、海内は安寧で、治平と称するに足る。しかし文武の諸臣は、朝廷が励精する本意を理解せず、せっかちで煩瑣なことに努め、徴収に節度がなく、政令が矛盾し、内外が騒然として、生を楽しむ心を失っている。誠にこの大慶に乗じて、煩わしい苛政を洗い流し、広く恵沢を施し、四海の民をして、皆帝徳を戴かしめるべきである。これはまさに人心を培い国脈を養う要術である」と。帝はこれを嘉納した。これより、朝政は少し変わり、言路もまた発展し、居正の時代の事を誹謗した。
そこで居正の党派は大いに恐れた。王篆・曾省吾らは、厚く申時行と結んで助けとした。一方、馮保は両宮の徽号に因んで自らを伯に封じようとしたが、四維がこれを支持しないのを憎んだ。王篆・曾省吾はこれを知り、馮保に厚く賄賂を贈り、しばしば四維の短所を言い、また親しい御史の曹一夔に命じて吏部尚書の王国光が四維に媚び、その従弟の王謙を吏部主事に抜擢したと弾劾させた。申時行はそこで詔旨を草案して国光を罷免し、王謙もまた左遷した。四維は帝が慰留したため、また出仕した。命令が下ったばかりの時、御史の張問達がまた四維を弾劾した。四維は窮し、馮保の腹心の徐爵・張大受に賄賂を贈って馮保に取りなしを求め、馮保の意は少し和らいだ。申時行はそこで張問達を外任に左遷し、四維を安心させた。四維は申時行が計画に関与したと思い、ついに彼を恨んだ。やがて宦官の張誠が馮保を讒言し、馮保の寵愛は大きく衰え、四維はそこで門下の李植らに命じて馮保の奸状を暴かせた。馮保および王篆・曾省吾は皆追放され、朝事は一大変革を見た。
そこで四維は少しずつ、海内の正人で居正によって抑圧されていた者を引き立てた。すぐにすべて登用したわけではないが、前の事を力強く改め、時の声望はかなり彼に属した。雲南の貢金が期限に遅れ、帝が現地の長官を罪にしようとし、また詔で雲南の旧蔵の鉱銀二十万両を取ることを命じたが、いずれも四維の上言によって止んだ。まもなく父の喪で帰郷した。喪服を脱ごうとする頃に卒去した。太師を追贈され、諡は文毅。
張泰徴、張甲徴
子の泰徴・甲徴は、いずれも四維が政権を執っていた時に進士に挙げられた。泰徴は累官して湖広参政に至り、甲徴は工部郎中であった。
馬自強
神宗が皇太子として出閣すると、講官に充てられた。講義は明快で要点を得て、よって眷顧を受けた。即位すると、自強はすでに詹事に遷っており、庶吉士を教習していたが、そこで礼部右侍郎に抜擢され、日講官となった。まもなく左侍郎として詹事府を掌り、講義は以前の通りであった。継母の喪に服して帰郷した。喪が明けると、詔により元の官で詹事府を協理することとなった。着任すると吏部左侍郎に遷り、依然として経筵に直った。わずか二か月で、廷推により礼部尚書に推された。帝は使者を遣わして居正に、尚書が講官を兼ねられるかと問わせた。居正は、事務が煩雑で兼ねられないと答えた。そこで尚書に任用され、日講は罷められ、経筵講官に充てられた。
礼官の管掌する所は、宗藩の事が最も多く、先後の条例は自ら矛盾し、狡猾な吏が恣に奸利を為すを得たり。自強は其の当たる者を選びて僚吏に遵守せしめ、諸の用ふべからざる者は悉く之を屏ぐ。毎に藩府の疏至れば、時に応じて裁決し、之を部門に榜示し、行止を明示す、吏の利を牟る所無し。龍虎山の正一真人は、隆慶の時已に提点に降じ、印勅を奪はる。是に至り、張国祥故号の復を求め、自強其の奏を寝す。国祥乃ち重く馮保に賄り固く復を求め、自強力に持して不可とし、卒に中旨を以て之を許す。初め、俺答貢市に通じ、賞に定額有り、後辺臣其の求に徇ひ、額漸く溢る。自強故約を申べ、濫りに乞ふ者は与へざるを請ひ、歳に費を省くこと貲ふべからず。世宗実録成り、太子少保を加ふ。
六年三月、居正将に父を帰葬せんとす。閣臣にして郷里に在る者を念ひ、高拱は己と深き隙有り、殷士儋は多く奥援有り、或は間を乗じて出づる有らん、惟だ徐階老いて易く与すべく、之を擬して自らに代はんと薦めんとす。已に使を遣はして階に報ず、既に階は前輩なるを念ひ、己還れば、当に其の下に位すべく、乃ち閣臣の増置を請ふ。帝即ち居正に推択せしめ、遂に人望を以て自強及び厚くする所の申時行を薦む。詔して自強に太子太保兼文淵閣大学士を加へ、時行と並びに機務に参ぜしむ。自強初めに呉中行・趙用賢を救ひて居正に忤ひ、自ら望まざるを分つ、及制下り、人更に是を以て居正を多とす。時に呂調陽・張四維先づ閣に在り。調陽衰へ、数たび疾に臥して出でず、小事は四維旨を代擬し、大事は則ち江陵に於ける居正に馳報し、其の裁決を聴く。自強正しきを雖も持す、亦た為す有る能はず、位を守るのみ。
已にして、居正朝に還り、調陽政に謝し、自強亦た疾を得て卒す。詔して少保を贈り、文莊と諡し、行人を遣はして喪を護り還らしむ。
馬怡・馬慥
子の怡は挙人、終に参議に至る。慥は進士、尚宝卿。
関中人にして入閣する者は、自強に始まる。其の後薛国観之を継ぐ。明の世を終ふるまで、惟だ二人のみ。
許国
十一年四月、礼部尚書兼東閣大学士を以て入り機務に参ず。国は首輔申時行と善し。丁此呂の事を以て言者と相攻ち、語は呉中行・趙用賢を侵し、是より物議沸然たり。已にして御史陳性学復た前事を摭ひて国を劾す、時行国を右し、性学を薄く罰せんことを請ふ。国再び疏を上して去らんことを求め、力めて言者を攻む。帝鴻臚に宣諭を命じ、始めて視事を起す。南京給事中伍可受復た国を劾す、帝為に可受の官を謫す。国復た三たび疏を上して休を乞ひ、語憤激、帝允さず。性学旋ち出でて広東僉事と為る。是に先立ち、帝寿宮を考卜し、国に太子太保を加へ、文淵閣に改め、雲南の功を以て太子太傅に進む。国は父母未だ葬らざるを以て、帰りて事を襄はんことを乞ふ。帝允さず、其の子に代はらしむ。御史馬象乾中官張鯨を劾して罪を得、国懇に救ふ。帝為に威を霽らして之を受けしむ。
十七年、進士薛敷教呉時来を劾し、南京御史王麟趾・黄仁栄疏を上して台規を論じ、辞皆国を侵す。国憤り、連疏して力めて詆り、併せて主事饒伸に及ぶ。伸方に大学士王錫爵を攻む、公議益々国を直とせず。国の性木強にして、事に遇へば輒ち発す。数たび言者と難きを為し、大臣の度無く、是を以て故に士論附かず。
明年秋、火落赤臨洮・鞏昌を犯し、西陲震動す、帝輔臣を暖閣に召して対せしむ。時行は款貢恃むに足ると言ひ、国は盟を渝え順を犯し、桀驁已に極まれりと謂ひ、宜く一大に之を創むべく、復た羈縻すべからずとす。帝心国の言を然りとすれども、時行政を為して奪ふ能はず。間も無く、給事中任让国を庸鄙なりと論ず。国疏を上して弁じ、帝让の俸を奪ふ。国・時行初め嫌ひ無し。而して時行適に国の門生万国欽の論ぜらるる所と為り、让は則ち時行の門生なり、故に其の師の為に報復するなり。福建守臣日本琉球を結びて寇すと報ず、国因りて言ふ、「今四裔交りて犯すに、而して中外の小臣争ひて務めて攻撃し、致して大臣紛紛として去らんことを求め、誰か復た国家の為に事を任せんとする者ぞ。請ふ諸臣に申諭し、各職業を修め、胸臆を恣にす毋からんことを。」帝遂に詔を下して厳禁す。国終始言者を忿疾すること此の如し。
廷臣争ひて冊立を請ひ、旨を得て二十年春に行はる。十九年秋、工部郎張有德儀注を以て請ひ、帝怒りて俸を奪ふ。時行適に告に在り、国と王家屏事中変有らんことを慮り、因りて之に就かんと欲し、前旨を引きて力めて請ふ。帝果して悦ばず、責めて大臣当に小臣と比すべからずとす。国自ら安からず、遂に去らんことを求む。疏五たび上り、乃ち勅を賜ひて馳伝して帰らしむ。一日を踰へ、時行亦た罷む、而して冊立竟に停む。人謂ふ、時行は論劾を以て去り、国は争執を以て去る、二相の優劣と為すと。
国閣に在ること九年、廉慎自ら守り、故に累りて攻撃に遭へども、汚名を被らしむる能はず。卒し、太保を贈り、文穆と諡す。
趙志臯
十九年秋、申時行が政務を辞し、志臯及び張位を自らの後任として推挙した。そこで礼部尚書兼東閣大学士に進み、機務に参与した。翌年春、王家屏が罷免され、王錫爵は召されたが未だ到着せず、志臯が暫く首輔を務めた。折しも寧夏の変乱が起こり、兵事について多く諮問され決裁した。主事岳元声が錫爵を論劾する上疏をし、その中で当事者が変乱を起こし傾危に陥れたと述べたが、主事諸寿賢・給事中許弘綱に駁された。志臯が再度弁明したが、帝はいずれも問わなかった。
二十一年、錫爵が朝廷に戻り、翌年五月に遂に帰郷したので、志臯が初めて国政を執った。遼東で失策があり、詔により巡撫韓取善の官職を剥奪し、副使馮時泰を詔獄に捕らえたが、総兵官楊紹勳は御史の取り調べに下すのみであった。給事中呉文梓らがその不公平を論じ、志臯もまた言上した。「封疆が寇に侵されるのは、武臣の罪である。今、紹勳を寛大にし文吏を深く罪するのは、武臣を益々恣にさせ、文吏を益々意気消沈させる。」帝は従わず、時泰は遂に流罪となった。皇太后の誕辰に、帝が賀を受けた後、輔臣を暖閣に召見し、志臯が御史彭応参の赦免を論じた。言官が織造を減らすよう請うと、志臯らはこれに因み言葉を合わせて請願した。間もなく章奏が留中される弊害を極論し、全てを諸曹に付して議させ実行するよう請うた。帝は宦官張誠が霍文炳と結託するのを憎み、言官が挙発しなかったとして、三十余人を貶黜した。志臯らは連続して上疏して諫めたが、いずれも容れられなかった。累進して少傅に任じられ、太子太傅を加えられ、建極殿大学士に改めた。
時に両宮が災害に遭い、彗星が現れ、日食が九分余りあり、三殿もまた災害に遭い、連年に渡り変異が次々と現れた。志臯は罪己詔を下すよう請い、これに因み累次上疏して時政の欠失を陳述した。その大きなものは国本を定め、鉱税を罷める等の諸事、凡そ十一条であった。優詔で聞いたと返答されたのみである。皇長子が十六歳の時、志臯は冠婚の礼を行うよう請うたことがあった。帝は礼官に儀式を整えさせた。儀式が上奏されたが、遂に行われなかった。二十六年三月、志臯らが再びこのことを言上したが、終に允されなかった。
張居正が国政を執り、権勢は主上を震わせた。申時行がこれを継ぎ、勢いはなお盛んであった。王錫爵は性質剛直で気概に富み、人もまたこれを畏れた。志臯が首輔となった時、年七十余りで老耄であり、柔和で懦弱であり、朝士に軽んじられ、罵詈雑言が四方から起こった。その初めて首輔となった時、西華門の災害に遭い、御史趙文炳がこれを論じた。間もなく、南京御史柳佐・給事中章守誠が言上し、吏部郎顧憲成らが官署を空にして志臯を追放しようとしたのは、実に帝の怒りを激しくした。已にして給事中張涛・楊洵、御史冀体・況上進、南京評事龍起雷が相次いで誹謗した。そして巡按御史呉崇礼がその子の両淮運副鳳威を弾劾し、鳳威は停俸の処分を受けた。未だ幾ばくもなく、工部郎中岳元声が志臯を放逐すべきと極言し、給事中劉道亨の誹謗は特に激しかった。志臯は憤慨し、言上した。「同じ閣臣であるのに、往日は勢いが重く権力が帰する所があれば、相率いてこれに附して進身の媒介とした。今日は勢いが軽く権力が分かれると、相率いてこれを撃って名声を博そうとする。」これに因み退任を請うこと益々切実になった。帝は慰諭した。
初め、日本の封貢の議が起こり、石星が力を込めて主張した。志臯もまた事なきことを望み、互いに応和した。封事が失敗すると、議する者が蜂の如く起こり、凡そ星を弾劾する者は必ず志臯に及んだ。志臯は言及される度に、常に上疏して弁明し退任を求め、帝は悉く慰留した。先に嘗て言者を譴責してこれに謝したが、後には言者が益々切実となり、多くは寝かせて下さず、志臯を留めること益々固かった。封事が大いに破綻するに及び、星は欺瞞の罪で獄に下され死刑を論じられ、位もまた楊鎬の事により官を剥奪されたが、志臯は終に問われなかった。然し志臯は既に病で政務を見ることができず、休暇を乞う上疏を累次上奏し、御史于永清・給事中桂有根が再び上疏してこれを論じた。志臯は身は床褥に在りながら、鉱税を罷め、皇儲を立てる等の諸大政について、数度病気を押して上疏を草して争い、帝もまた歳時の恩賜は従前の如くであった。
志臯の病は転じて篤くなった。在告すること四年、上疏八十余通。二十九年秋、邸舎で卒した。太傅を追贈され、諡は文懿。
張位
後に呉中行・趙用賢を救ったことで居正の意に逆らった。時に既に侍講に遷っていたが、抑えて南京司業を授けられた。未だ行かず、また京察により、徐州同知に貶謫された。居正が卒した翌年、給事中馮景隆・御史孫維城の推薦により、南京尚宝丞に抜擢された。間もなく左中允に召され、司業事を管し、祭酒に進んだ。六事を上疏して陳述し、多く議されて実行された。礼部右侍郎として、庶吉士を教習したが、病気を理由に帰郷した。詔して元の官に起用し、詹事府を協理させたが、辞して赴任しなかった。久しくして、申時行の推薦により、吏部左侍郎兼東閣大学士に拝され、趙志臯と共に任命された。
王錫爵が朝廷に戻ると、帝は恰も三王を並封する諭旨を降し、嫡子を待つことを口実とした。而して志臯・位は急いで帝に交泰を篤く修め、早く高禖の兆しを得るよう請い、議する者は窃かにこれを嘲笑した。趙南星が考察の事で官を剥奪されると、朝士で錫爵を誹謗する者は多く位に及んだ。錫爵が去り、志臯が首輔となった。位は志臯と親厚で仲が良かった。志臯が衰えると、位は精悍で敢えて任じ、政事について多く裁決した。時に黜陟の権は尽く吏部に還り、政府は侵撓することができなかった。位はこれを深く遺憾とし、事多くその肘を掣かれた。この故に孫鑨・陳有年・孫丕揚・蔡国珍は皆その地位に安んぜず去った。
二十四年、両宮の災害があり、鉱税の議が起こると、位らは阻止できなかった。奸人が石炭に税を請い、臨清に皇店を開くに及んで、位と沈一貫は執奏して不可としたが、返答が無かった。翌年春、一貫と共に朝鮮を経理する事宜を陳述した。開城・平壤に重鎮を建置し、兵を練り田を屯し、商を通じ工を恵み、中国の輸送を省くよう請うた。且つ人を選んで長帥とし、朝鮮八道に分署して、持久の計とすべきであるとした。事は下って朝鮮に議させた。その国の君臣は中国が遂にその土地を併合することを慮り、上疏して便宜でないと陳述したので、乃ち寝かされた。間もなく、日本の封事が破綻し、位は力を込めて参政楊鎬の才能を推薦し、朝鮮の軍務を付託するよう請うた。鎬は父の喪に遭ったが、また奪情して政事を見るよう請い、且つ邢玠を総督に推薦した。帝は皆これに従った。位は既に礼部尚書に進み、文淵閣大学士に改められ、甘肅で賊を破った功績により、太子太保を加えられ、また延鎮の功績により、少保・吏部尚書に進み、武英殿大学士に改められた。
三殿の災害に、志臯は恰も在告中であり、位は同列と共に面会して慰めるよう請うたが、許されなかった。乃ち帝に引咎して赦を頒ち、朝講を勤め、章奏を発し、郊廟に躬り、皇儲を立て、廃棄を録用し、狂直を容れ、細過を宥し、缺官を補い、織造を減らし、鉱使を停め、税監を撤し、繫囚を釈放するよう請うた。帝は優詔でこれに報いたが、尽く実行することはできなかった。位はまた言上した。「臣らが鉱税を停めるよう請うのは、急にこれを停めるのではなく、撫按に責成させ、上は国を損わず、下は民を累さないようにしたいからである。」ここにおいて給事中張正学が位が逢迎して遷就することを弾劾し、斥くべきであるとした。帝もまた省みなかった。
張位は初め翰林に官し、声望は甚だ重く、朝士はその大用を冀った。及んで政府に入ると、権を招き威を示し、平素の声望は次第に衰えた。給事中劉道亨が張位の奸貪数十事を弾劾した。張位は憤り、力強く弁明し、遂に道亨の三官を落とした。呂坤・張養蒙は孫丕揚と交好し、一方で沈思孝・徐作・劉応秋・劉楚先・戴士衡・楊廷蘭は張位と親しく、それぞれ左右に分かれた。丕揚は嘗て張位を弾劾し、道亨をその党と指摘した。道亨はこれを恥じ、自らを解くために張位を弾劾した。已にして、賛画主事丁応泰が楊鎬の喪師を弾劾し、張位が楊鎬と密書を往来し、朋党して欺罔し、楊鎬の抜擢は賄賂によって張位から得たものだと述べた。帝は怒って廷議に下した。張位は惶恐して奏上し弁明したが、帝は猶慰留した。給事中趙完璧・徐観瀾が再び交章して論じた。張位は窮し、急ぎ奏上して「群言交々攻め、孤忠憫むべし。臣の心に繊毫の愧ずる所無く、惟だ上に矜察を乞う」と言った。帝は怒って「楊鎬は卿の密揭によって屡々推薦され、故に哀を奪って任を授けた。今に至って朋党して欺き慝を隠し、国を辱し威を損ないながら、猶愧ずる所無しと言うのか」と言い、遂に職を奪って閑住させた。
間もなく、妖書『憂危竑議』と名付けるものを得た者がおり、御史趙之翰は張位が実は主謀であると言った。帝もまた張位が怨望して他志あることを疑い、詔して名を除き民とし、赦に遇っても宥さなかった。その親故である右都御史徐作・侍郎劉楚先・祭酒劉応秋・給事中楊廷蘭・主事万建崑は皆貶黜され差等があった。
張位は才があり、自用すること果敢で、気任せにし好んで矜った。その敗れるや、廷臣にこれを救う者無し。既に卒して後も、これを湔雪する者無し。天啓年中、官を復し、太保を贈られ、諡して文庄と曰う。
朱賡
二十九年秋、趙志臯が卒し、沈一貫が独り国政を担当し、閣臣の増置を請うた。帝は平素より大臣の党を植えることを慮り、林居の者及び久しく廃された者を用いんとした。詔して朱賡を故官のまま東閣大学士を兼ねて機務に参預させ、行人を遣わして召した。再び辞したが、允さなかった。明年四月、闕に詣で、即ち一歳の俸を捐じて殿工を助けた。その秋、極めて鉱税の害を陳べたが、帝は用いられなかった。既にして一貫及び沈鯉と共に守成・遣使・権宜の三論を献じ、大旨は鉱税のために発したもので、朱賡の手筆であった。朱賡は己が邸門で妖書を得たが、書の辞は朱賡が国本を動揺させると誣い、大いに懼れた。直ちに疏をもって聞かせ、位を避くことを乞うた。帝は慰諭して加える所があった。一貫は群小を倡えて窮治して已まず。朱賡は告中にあり、再び書を一貫に貽し、速やかに獄を具えて株連無からしむることを請い、事は乃ち解かれた。
三十四年、一貫・鯉が去位し、朱賡が独り国政を担当し、年七十二であった。朝政は日々弛み、中外解体した。朱賡の疏揭は月に数度上り、十のうち一も下されない。御史宋燾が首めて朱賡を諷切し、給事中汪若霖がこれに継いだ。朱賡は二人の言に縁り、力強く帝に庶政の更新を請い、閣臣を増し・大僚を補い・言路を充すの三事について語ること尤も切であった。帝は優詔で答えたが行わなかった。朱賡は乃ち素服で文華門に詣で懇請したが、終に命を得られなかった。朱賡は老齢を以て、屡々疾を引き、閣中は空しく人無し。帝は閣臣を簡ぶことを諭したが、廷臣は帝が中旨を出すことを往年の趙志臯・張位の故事の如く慮った。朱賡は力疾して廷推に付すことを請い、乃ち于慎行・李廷機・葉向高を用い、而して王錫爵を家より召し、以て首輔となした。給事中王元翰・胡忻は李廷機の用いられることを、朱賡が実はこれを主としたとして、疏をもって廷機を詆び併せて朱賡を侵した。朱賡は疏をもって辞し、帝は言者を切責した。既にして姜士昌及び燾が謫され、言路は朱賡の意に出づると謂い、益々平らかでなかった。礼部主事鄭振先は遂に朱賡の十二大罪を弾劾し、且つ朱賡が一貫・錫爵と過去・見在・未来の三身であると言った。帝は怒り、振先を三秩貶した。俄かに言官の論救により、再び二秩貶した。
先に、科道を考選し、吏部は七十八人を上擬した。命を候つこと年を踰え、下されず、朱賡は連疏してこれを促した。三十六年秋、命が始めて下った。諸人は言路に列し、方や風采を見んと欲したが、給事中汪若霖は先に嘗て朱賡に忤い、及んで今見黜され、恰も朱賡が病より起きて入直する時に当たった。切に朱賡が郤を修むると謂い、攻訐四起し、先後疏論する者五十余人に至った。給事中喻安性なる者は、朱賡の里人で、朱賡のために上疏して「今日の政権は内閣より由らず、尽く司礼に移る」と言った。言者は遂に交章して安性を弾劾し、復た朱賡を侵した。是の時朱賡は既に疾を寢し、休を乞う疏を二十余上した。言者はその復起を慮り、攻めて已まず、而して朱賡は十一月に官において卒した。遺疏は時政を陳べ、語極めて悲切であった。朱賡は先に少保兼太子太保を加えられ、吏部尚書・文華殿大学士に進んだ。及んで卒し、太保を贈られ、諡して文懿と曰う。御史彭端吾が復た疏をもって朱賡を詆び、給事中胡忻がその贈諡を停めることを請うたが、帝は聴かなかった。
朱賡は醇謹にして大過無く、沈一貫と同郷で比し、給事中陳治則・姚文蔚等を暱し、以て故に詬病を蒙ったという。
朱敬循
子の敬循は、礼部郎中に官し、稽勳に改めた。此れ以前に正郎が吏部に改まる者無く、敬循より始まる。終に右通政に至った。
贊曰
贊に曰く、四維等は軸に当たり中に処り、頗る物議を滋した。其の時言路の勢張り、恣に抨撃を為す。是非瞀乱し、賢否混淆し、群相敵仇し、国是を顧みず。詬誶日々積み、又た烏ぞ足らんや定論と為すに。然れども光明磊落として大臣の節有りと謂わば、則ち斯の人も亦た愧辞無からざる能わざるなり。