明史

列傳第一百〇六 申時行 王錫爵 沈一貫 方從哲 沈㴶

申時行

申時行、字は汝默、長洲の人。嘉靖四十一年の進士第一。修撰を授かる。左庶子を歴任し、翰林院事を掌る。萬曆五年、礼部右侍郎より吏部に改まる。時行は文筆をもって張居正に知られ、蘊藉として崖岸を立てず、居正これを安んず。六年三月、居正父の葬儀に帰らんとし、閣臣の増員を請う。ここにおいて左侍郎兼東閣大学士として機務に参与す。既にして礼部尚書兼文淵閣に進み、累進して少傅兼太子太傅・吏部尚書・建極殿となる。張居正権を攬くこと久しく、群下を操ること束湿の如く、異己の者は率いてこれを逐い去る。居正の卒するに及び、張四維・時行相継いで政を柄とし、寛大を務む。順次に老成を召し収め、諸官位に布列す。朝論多くこれを称す。然れども是の時内閣の権積もって重く、六卿は大抵閣臣の指に徇う。諸大臣は四維・時行より起り、その寛なるを楽しみ、多くこれと厚く善し。四維憂いて帰り、時行首輔となる。余有丁・許國・王錫爵・王家屏先後政府に同居し、嫌猜無し。而して言路は居正に遏せられ、ここに至りて方に発舒す。居正が平素時行に昵きをもって、諷刺無きを得ず。時行外には博大にして人を容るるを示すも、心は故に善しとせず。帝は言者の居正の短を訐つを楽しむと雖も、頗る人の時事を論ずるを悪み、言事の者間々官を謫せらる。衆ここをもって時行を望み、口語相詆諆す。諸大臣又皆時行を右にして言者の口を拄つ。言者益々憤り、時行ここをもって物望を損ず。

十二年三月、御史張文熙嘗て前閣臣の専恣せる四事を言い、帝に永くこれを禁革せんことを請う。時行疏を上りて争いて曰く、「文熙は部院百執事考成簿を置くべからず、閣に送りて察考すべからずと言う。吏・兵二部の除授、一一取裁すべからず。督撫巡按の行事、密揭を以て教えを請うべからず。閣中の票擬、同官をして知らしむべしと。夫れ閣臣職に任ぜざれば罷黜すべし。若し其の執掌を尽く削らば、是れ噎むを因りて食を廃するなり。票擬に至りては、同官と議せざるは無し」と。帝深く然りと為し、文熙の議を絀けて用いず。御史丁此呂、侍郎高啓愚が試題を以て居正に勧進せしと言う。帝手疏を時行に示す。時行曰く、「此呂曖昧を以て人を大辟に陷れんとす。恐らくは讒言踵を接ぎて至らん。清明の朝の宜しく有るべからざるなり」と。尚書楊巍因りて此呂を外に出すを請う。帝巍の言に従う。而して給事御史王士性・李植等交章して巍が時行の意に阿り、言路を蔽塞すと劾す。帝尋いでまたこれを悔い、啓愚を罷め、此呂を留むるを命ず。時行・巍去らんことを求む。有丁・國言う、「大臣は国体の繫る所なり。今群言を以て此呂を留むれば、恐らくは以て時行・巍の心を安んずる無からん」と。國特に憤りに勝えず、専疏を以て去らんことを求め、諸言路を詆す。副都御史石星・侍郎陸光祖もまた以て言う。帝乃ち巍に聴き、此呂を外に出し、時行・國を慰留す。而して言路群起して國を攻む。時行言者の量罰を請う。言者益々心に憾む。既にして李植・江東之、大峪山寿宮の事を以て時行を撼がすも勝たず、貶し去らる。閣臣と言路日々水火の如し。

初め、御史魏允貞・郎中李三才科場の事を論じて時行の子用懋に及ぶ。官を貶せらる。給事中鄒元標、時行の姻戚徐学謨を劾して罷めしむ。時行他の疏を仮りてこれを逐い去る。已にして物情を占い、稍稍三人の官を擢ぐ。三人廃せられず。世ここをもって時行を長者と称す。時行人心を収めんと欲し、居正の時に行わるる所の考成法を罷む。一切簡易を為し、また数え献納有り。嘗て災異に因り、力めて催科の急迫、征派の加増、刑獄の繁多、用度の侈靡の害を言う。また嘗て撫按官の助工贓罰銀を止め、織造の数を減じ、諸司の章奏を発するを趣るるを請う。尚宝卿徐貞明の議に縁り、畿内の水田を開くを請う。鄧子龍・劉綎を用いて隴川を平げ、鄭洛を経略と為すを薦め、順義王の東帰を趣る。葉夢熊の奏を寝かせて楊応龍の変を弭ぐ。然れども是の時天下承平、上下恬熙、法紀漸く振わず。時行務めて帝の指を承け、大いに建立する能わず。帝毎に講期に遇えば、多く伝免す。時行講を免ずるも、仍って講章を進むるを請う。自ら後これ故事と為り、講筵遂に永く罷まる。評事雒於仁『酒色財気四箴』を進む。帝大いに怒り、時行等を召して条分し析る。将に重く譴せんとす。時行其の章を下す毋からんことを請い、而して於仁を諷して自ら引き去らしむ。於仁これに頼りて免る。然れども章奏留中はここより始まる。

十四年正月、光宗年五歳、而して鄭貴妃寵有り、皇三子常洵を生む。頗る嫡を奪わんとする意を萌す。時行同列を率いて再び儲を建つるを請う。聴かず。廷臣貴妃の故を以て、多く宮闈を指斥し、帝の怒に触れ、厳譴せらる。帝嘗て直言を求むるを詔す。郎官劉復初・李懋檜等顕かに貴妃を侵す。時行帝に詔を下し、諸曹の建言をして止むる所は其の司の職掌に及び、其の長の択ぶに聴きてこれを献ぜしめ、専達するを得ざらしむるを請う。帝甚だ悦ぶ。衆多く時行を咎む。時行連ねて儲を建つるを請う。十八年、帝皇長子・皇三子を召し、時行をして毓徳宮に入見せしむ。時行拝賀し、大計を亟に定むるを請う。帝猶すること久しく、詔して曰く、「朕は激聒を喜ばず。近く諸臣の章奏概ね留中す。其の朕父子を離間するを悪む。若し明歳廷臣復た瀆擾せずば、当に後年冊立すべし。然らずば皇長子十五歳を俟って舉行すべし」と。時行因りて廷臣に激擾毋からんことを戒む。明年八月、工部主事張有德冊立の儀註を具うるを請う。帝怒り、期を一年展ばすを命ず。而して内閣中にもまた疏入る。時行方に告に在り、次輔國首に時行の名を列す。時行密かに封事を上り、言う、「臣方に告に在り、初め預かり知らず。冊立の事、聖意已に定まる。有徳大計に諳わず。惟だ宸断親裁を請い、小臣に因りて大典を妨げざらんことを」と。ここにおいて給事中羅大纮時行を劾し、陽には群臣の議に附して立つるを請い、陰には其の事を緩めて内交すと謂う。中書黄正賓復た時行の同官を排陷し、巧みに首事の罪を避くると論ず。二人皆黜責せらる。御史鄒徳泳疏復た上る。時行力を尽くして罷まんことを求む。詔して驛を馳せて帰らしむ。帰ること三年、光宗始めて出閣して講学し、十年にして始めて皇太子と立つ。

四十二年、時行年八十、帝行人を遣わして存問す。詔書門に至りて卒す。先に雲南の嶽鳳平ぐるを以て、少師兼太子太師・中極殿大学士を加えらる。詔して太師を贈り、文定と謚す。

子 用懋 用嘉

子用懋・用嘉。用懋、字は敬中、進士に挙がる。累官して兵部職方郎中。神宗太僕少卿に擢げ、仍って職方事を視る。再遷して右僉都御史、順天を巡撫す。崇禎初、兵部左・右侍郎を歴任し、尚書に拝され、致仕して帰る。卒し、太子太保を贈らる。用嘉、挙人。広西参政に歴官す。

孫 紹芳

孫紹芳、進士、戸部左侍郎。

王錫爵

王錫爵、字は元馭、太倉の人である。嘉靖四十一年、会試に第一、廷試に第二で及第し、編修に任ぜられた。累進して祭酒に至った。万暦五年、詹事として翰林院を掌った。張居正が喪中に職務に留まることとなり、呉中行・趙用賢らを廷杖に処そうとした。錫爵は同館の十余人を率いて居正のもとに赴き、取りなしを求めたが、居正は受け入れなかった。錫爵はただ一人で喪中の居所を訪れ、切に諫言したが、居正はまっすぐに入室して顧みなかった。中行らが杖罰を受けた後、錫爵は彼らを抱えて大いに慟哭した。翌年、礼部右侍郎に進んだ。居正が帰郷して喪に服すると、九卿は急ぎ召還を請うたが、錫爵だけは署名しなかった。まもなく帰省を請うて去った。居正は錫爵が自分の欠点を表に出したと思い、ますます恨みを抱き、錫爵は遂に出仕しなかった。十二年冬、家にあって礼部尚書兼文淵閣大学士に任ぜられ、機務に参与した。朝廷に戻ると、諂諛を禁じ、奔競を抑え、虚浮を戒め、侈靡を節し、横議を退け、工作を簡略にするよう請うた。帝はすべて褒めて受け入れた。

初め、李植・江東之が大臣の申時行・楊巍らと対立し、錫爵が時の声望を負い、かつ居正と意見を異にしていたので、力を合わせて推挙した。錫爵が着任すると、時行と合流し、かえって上疏して李植らを力強く排斥したため、李植らは去った。当時、時行が首輔、許国が次輔であり、三人はいずれも南畿の出身で、錫爵と時行は同じ会試に及第し、かつ同郡であり、政府内で互いに気が合った。しかし時行は柔和であったが、錫爵は剛直で意地っ張りであった。十六年、子の衡が順天の郷試で第一となったが、郎官の高桂・饒伸がこれを論難した。錫爵は連続して上章して弁明・反論し、言葉が過度に憤激したため、饒伸は詔獄に下されて除名、高桂は辺境に左遷された。御史の喬璧星は帝に錫爵を戒め諭し、その度量を広げて、寛容な臣たるよう務めるよう請うたが、錫爵は上疏して弁明した。このため次第に朝廷の議論と対立するようになった。

当時、群臣の多くが皇太子冊立を請うたが、帝はすべて聞き入れなかった。十八年、錫爵は上疏して元子(皇長子)の早期教育を請い、言官の姜応麟らを登用し、また故巡撫の李材を赦すよう求めたが、返答がなかった。旱魃の災害に際し、自ら陳謝して罷免を請うたことがある。帝は優詔を下して留任させた。火落赤・真相が西辺を侵犯すると、議者は争って出兵を請うたが、錫爵は和議を主張し、時行と意見を合せた。まもなく、同僚とともに冊立を争って果たせず、門を閉ざして帰郷を請うた。ほどなく母が年老いたことを理由に、連続して帰省を請うた。そこで道中費用を賜り、役人を付けて送らせた。帰郷して二年、時行・許国および王家屏が相次いで去職し、詔があって錫爵を急ぎ召還した。二十一年正月、朝廷に戻り、首輔となった。

先に、この春に冊立の大典を挙行する旨の詔勅があり、廷臣にむやみに陳奏しないよう戒めていた。廷臣は張有德の件を鑑み、皆沈黙していた。この時、錫爵は密かに帝に大計を決するよう請うた。帝は内侍を遣わして手詔を錫爵に示し、嫡子を待ちたいので、元子と二人の弟を暫く並べて王に封じたいと伝えた。錫爵は上意に背くことを恐れ、直ちに詔に従って諭旨を起草した。しかし外では公論を気にかけ、ついて「漢の明帝の馬后、唐の明皇の王后、宋の真宗の劉后はいずれも諸妃の子を養子とした。皇后に元子を撫育させれば、元子は嫡子となり、生母に位号を高めて皇貴妃を圧する必要はない」と述べ、これも諭旨を起草して進呈した。同僚の趙誌臯・張位はいずれも事前に知らされなかった。帝は結局、前の諭旨を礼官に下し、直ちに儀式を整えるよう命じた。ここに至って朝廷は大いに騒然となった。給事中史孟麟・礼部尚書羅万化らが群れをなして錫爵の邸宅を訪れ、強く争った。廷臣で諫言する者の上奏文は日に数件に上った。錫爵は誌臯・位とともに前の詔勅を取り戻すよう強く請うたが、帝は従わなかった。やがて諫言する者がますます増え、嶽元聲・顧允成・張納陛・陳泰來・於孔兼・李啟美・曾鳳儀・鐘化民・項德禎らが朝房で錫爵を遮り、面と向かって争った。李騰芳も錫爵に上書した。錫爵は廷議に下すよう請うたが、許されなかった。面会を請うたが、返答がなかった。そこで自ら三つの過誤を弾劾し、罷免を請うた。帝も公議に迫られ、前の命令を取りやめ、二三年待ってから議するよう命じた。錫爵はまもなく速やかな決断を請い、かつ言った。「かつて元子が生まれた時、すでに詔を頒布し赦しを行い、詔書には『宗社を祗承す』と称し、明らかに皇太子として遇していました。今また何を疑って決断しないのでしょうか。」返答がなかった。

七月、彗星が現れ、詔があって反省を促した。錫爵はこれに乗じて大臣との対面を請うた。また言った。「彗星が次第に紫微に近づいています。起居の節を慎み、左右の刑罰を寛大にし、嗜欲を減らして疾病を防ぎ、蓄積を散じて恩恵を広げるべきです。」一か月余り後、また言った。「彗星はすでに紫微に入りました。取るに足らない人事や行政では消し去れず、ただ儲君冊立の一事でこれを攘うことができます。そもそも天王の象は帝星、太子の象は前星と言います。今、前星は既に輝いているのに早く定めないので、この災いを招いたのです。誠に速やかに冊立を行えば、天変は自ずから治まります。」帝はいずれも聞いたと返答したが、依然として来春を期すという説を堅持した。錫爵は返奏して再び強く説き、また連続して上章して懇請した。十一月、皇太后の誕生日に、帝は門に出て賀を受け終えると、錫爵だけを暖閣に召し、労って言った。「卿は母を扶けて京に来た。誠に忠孝両全である。」錫爵は叩頭して謝し、ついて早く国本を定めるよう強く請うた。帝は言った。「中宮(皇后)に子が生まれたらどうするか。」答えて言った。「この説は十年前ならまだしも、今や元子は十三歳です。まだ何を待つのでしょうか。況や古より今に至るまで、子弟が十三歳になってもまだ読書しないことがありましょうか。」帝はかなり感動した。錫爵はついて頻繁に対面を召されるよう請い、聖躬を保養するよう求めた。退出後、また上疏して強く請い、かつ言った。「外廷は寵愛を固める陰謀を皇貴妃に帰しています。鄭氏一族が安泰でいられなくなる恐れがあります。どうか陛下深くご省察ください。」帝は上疏を得て、心をますます動かし、手詔を下して錫爵に諭した。「卿は毎度の上奏に必ず皇貴妃に及ぶ。なぜか。彼女はしばしば朕を諫めるが、朕は祖訓で后妃は外事に関与してはならないとしている。どうして軽々しく従えようか。」錫爵は上言した。「今、皇長子と並び立つ者は、皇貴妃の子だけです。天下が皇貴妃を疑わずして誰を疑うでしょうか。皇貴妃が自らの責務とせずして誰が責務とするでしょうか。祖訓で外事に関与しないというのは、外廷の人事や行政の事柄に関与しないということです。冊立は陛下の家事であり、皇三子はまた皇貴妃の実子です。陛下は皇貴妃と謀らずにいられましょうか。況や皇貴妃は久しく聖躬に侍り、至って親しくかつ賢明です。外廷がごたごたと、怨みを帰さない者はなく、臣の聞くに忍びません。臣は六十の老人、力いっぱい天下の口を防ぎ、功績を皇貴妃に帰しているのに、陛下はまだ疑っておられます。それでは、必ずや群少年のように盛んに気勢を上げて皇貴妃を攻撃し、陛下がかえって心快く思われるということでしょうか。」上疏が入ると、帝はうなずいた。誌臯・位も強く請うた。数日後、遂に出閣(皇子の教育開始)の命令があった。しかし帝は広く珠玉珍宝を買い求め、出閣の儀式の器物に供させ、その費用は三十余万に達した。戸部尚書楊俊民らが先例を引いて争い、給事中王徳完らもまた強く諫言した。帝は遂に手詔を下して錫爵に諭し、期日を変更したいと言った。錫爵が婉曲に請うたので、結局変更は実現しなかった。翌年二月、出閣の礼が成り、すべて東宮の儀礼に倣い、朝廷内外は安堵した。

錫爵が内閣に在った時、江南の織造を罷め、江西の陶器を停め、雲南の貢金を減らし、内帑を出して河南の饑饉を賑うよう請うたことがあり、帝はいずれも逆らわず、寵遇礼遇は前後の諸輔臣を超えていた。李沂を救うにあたり、廷杖を用いるべからざることを力爭したことは、特に世に称せられた。ただ並封の件で阿ったことを指摘されて物議を被った。やがて郎中趙南星が斥けられ、侍郎趙用賢が放逐されると、論救する者皆譴責貶謫に遭い、人々は錫爵がこれを為したと指弾した。たとえ連章して自ら弁明し、かつ救済を申し立てても、人々はついに諒とすることができなかった。錫爵は遂にたびたび上疏して病を引き合いに休暇を乞うた。帝はその去ることを欲せず、内帑の銭を出して醮を建て、平癒を祈らせた。錫爵は力辞し、八度上疏してようやく許された。先に累次太子太保を加えられ、この時に至り吏部尚書に改めることを命じ、建極殿に進め、道里費を賜り、駅伝に乗り、行人に護送されて帰郷した。帰郷して七年、東宮が建てられると、官を遣わして勅を賜り、慰問し、銀幣羊酒を賜った。

三十五年、廷臣が閣臣を推挙した。帝は既に于慎行・葉向高・李廷機を用いたが、なお錫爵を思い、特に少保を加え、官を遣わして召し出した。三度辞退したが、許されなかった。当時言官はまさに鋒気を奮っており、錫爵は密揭を進めて力強く誹謗し、中に「上は章奏を一概に留中し、特にこれを禽鳥の音の如く卑しむ」などの語があった。言官これを聞いて大いに憤った。給事中段然がまずこれを弾劾し、その同官胡嘉棟らが論じ止まなかった。錫爵もまた自ら門を閉ざして重きを養い、ついに辞して赴かなかった。また三年、家で卒し、年七十七。太保を贈られ、文肅と諡された。

子に衡あり。

子の衡、字は辰玉、若くして文名があった。挙首の才と為り、自ら称するところでは論議を被ったため、遂に会試に再び参加しなかった。二十九年に至り、錫爵が罷相して久しく、ようやく会試で第二人に挙げられ、廷試もまた第二であった。編修に授けられ、父に先立って卒した。

弟に鼎爵あり。

錫爵の弟鼎爵は進士。累官して河南提学副使に至った。

沈一貫

沈一貫、字は肩吾、鄞の人。隆慶二年の進士。庶吉士に選ばれ、検討に授けられ、日講官を充てた。進講して高宗の諒陰に及ぶと、拱手して言った、「孤を託し命を寄せるには、必ず忠貞にして二心なき臣でなければ、百官をして己に総べて聴かしめることができよう。もしその人にあらざれば、躬自ら聴覧するが孝であるに如かぬ」。張居正は己を刺したものと以為い、一貫を頗る怨んだ。居正が卒して、初めて左中允に遷った。歴官して吏部左侍郎兼侍読学士に至り、太子賓客を加えられた。仮帰した。

二十二年、南京礼部尚書として起用され、また召されて正史副総裁と為り、詹事府を協理したが、未だ上京せず。王錫爵・趙誌臯・張位が内閣に同居し、また閣臣を推挙せよとの旨があった。吏部は旧輔王家屏及び一貫ら七人の名を挙げて上奏した。しかし帝はまさに家屏を怒り、尚書陳有年を譙責した。有年は病を引き合い去った。一貫は家に居ること久しく、故に清望があり、閣臣もまた力を込めて推薦した。そこで尚書兼東閣大学士として詔し、陳於陛とともに内閣に入り機務に預からせ、行人に命じて即座に家から起用させた。時に朝議は日本の封貢を許そうとしていた。一貫は貢道が寧波に出ることを慮り、郷郡の患いとなると、極力その害を陳べ、貢議は遂に止んだ。未幾、錫爵が去り、於陛は位第三で、常に独り己の意を行った。一貫は柔和で深く中にあり、誌臯らに事えるには謹みのみであった。その後於陛が官で卒し、誌臯は病痹で久しく在告し、位は楊鎬を推薦したこと及び『憂危竑議』の事で罪を得て去り、一貫と位はかつて私かに鎬に書を致し、それが賛画主事丁応泰に弾劾された。位は上疏して弁明し、上を激怒させて罷免された。一貫はただ咎を引き受け、帝はそこで慰留した。

当時国本未だ定まらず、廷臣の争いは十数年決せず。皇長子は十八歳、冊立冠婚を請う者は益々切迫した。帝は戸部に銀二千四百万を進めるよう責め、冊立・分封諸典礼の費用としてこれを困らせた。一貫は再び上疏して争ったが、聴かれなかった。二十八年、慈慶宮を営んで皇長子を居らせるよう命じた。工事竣り、一貫に勅を草して礼官に伝示させ、冊立・冠婚及び諸王分封の儀を上奏させた。勅は既に上ったが、帝はまた留めて下さなかった。一貫が上疏して促すと、則ち言った、「朕は小臣謝廷讃が機に乗じて功を邀うるが故に、中輟した。皇長子が移居した後に行うのを待つ」。既に行われなかった。翌年、貴妃の弟鄭国泰が群議に迫られ、冊立・冠婚を並行して行うよう請うた。一貫はそこで再び勅を草し、礼官に儀を具えさせるよう請うたが、返答がなかった。廷議には先に冠婚後に冊立せんとする者もあったが、一貫は不可として言った、「名を正さずして苟くも事を成すは、これ儲君を降して諸王と為すなり」。時に帝の意もまた頗る悟るところがあり、即日挙行を命じた。九月十八日、漏下二鼓、詔が下った。既に帝はまた後悔し、期日を改めさせた。一貫は詔書を封還し、「万死しても詔を奉ずるに敢えず」と言い、帝は遂に止めた。十月十五日、冊立の礼が成り、時論はこれを頗る称えた。時に誌臯が九月に卒し、一貫は遂に国政を執った。初め、誌臯が病み久しく、一貫は屡々閣臣を増やすよう請うた。この時に至り沈鯉・朱賡を簡抜任用したが、事は皆一貫に取决した。尋いて太子太保・戸部尚書・武英殿大学士に進んだ。

一貫が内閣に入って以来、朝政は既に大いに非なり。数年之間、鉱税使が四方に出て民の害となった。その誣劾して逮系した者は、皆獄中に滞った。吏部は建言により廃黜された諸臣の起用及び科道官の考選を上疏して請うたが、久しく抑えて下さず、中外多くは閣臣に望みをかけた。一貫らは数度諫めたが、省みられなかった。しかも帝は久しく朝を視ず、閣臣が屡々請うても、皆返答がなかった。一貫が初めて輔政として面恩したのは、一度帝に会ったのみであった。東征及び楊応龍平定の時、帝は再び午門楼に御して俘虜を受け取った。一貫は陪侍を請い、面対を賜わるよう請うたが、皆許されなかった。上下の否隔甚だしく、一貫は小さい救正はあっても、大率その間に依違し、物望は次第に減じた。

三十年二月、皇太子の婚礼が終わったばかりの時、帝は突然病に倒れた。急いで諸大臣を仁徳門に召し寄せ、やがてただ沈一貫だけを啓祥宮後殿の暖西閣に入らせた。皇后と貴妃は病のため側におらず、皇太后は南面してやや北に立ち、帝はやや東に、冠服を着けて地に座し、これも南面し、太子と諸王は前に跪いていた。一貫が叩頭して起居を終えると、帝は言った、「先生、前に進みなさい。朕の病は日に日に重くなった。国を治めること久しく、何の遺憾もない。佳き児と佳き婦を先生に託す。ただこれを補佐して賢君となすように。鉱税の件は、朕が宮殿の工事が未完成であったため、一時の便法として採ったものである。今は江南の織造や江西の陶器とともに止めて行わないようにせよ。派遣した内監は皆、京に還らせよ。法司は長く拘禁された罪囚を釈放し、建言のために罪を得た諸臣は皆その官を復し、給事中と御史は即座に請うた通りに補任せよ。朕が先生に会うのはこれで最後だ」。言い終わると臥した。一貫は泣き、太后、太子、諸王も皆泣いた。一貫は再び奏上した、「今、尚書で辞任を求める者が三人おります。去就を定められたい」。帝は戸部の陳渠と兵部の田楽を留め、祖陵が洪水で決壊したことを理由に、工部の楊一魁を除籍した。一貫は再び叩頭し、退出して旨を起草して進呈した。その夜、閣臣と九卿は皆、朝房に宿直した。三更の時、中使が諭旨を捧げて来た。内容は帝が一貫に語った通りであった。諸大臣は皆喜んだ。翌日、帝の病は快方に向かい、後悔した。中使二十人が閣中に来て先の諭旨を取り上げ、鉱税は廃止できず、囚人の釈放と直臣の登用は卿が裁量せよと言った。一貫は渡したくなかったが、中使は額を打ちつけて血が出そうになり、一貫は慌て恐れて諭旨を返納した。当時、吏部尚書の李戴と左都御史の温純は即日実行し、天下に公布することを望んだが、刑部尚書の蕭大亨は刑獄の緩和は再び請う必要があると言った。間もなく、事態は変わった。太僕卿の南企仲が李戴と蕭大亨が即座に帝の諭旨を奉行せず、廃官の起用と囚人の釈放を行わなかったことを弾劾した。帝は怒り、二つの事柄を共に中止して行わせなかった。帝が成命を取り戻そうとした時、司礼太監の田義が強く争った。帝は怒り、自ら刃を向けようとした。田義の言葉はますます激しく、中使はすでに一貫が返納した先の諭旨を持って来ていた。後に田義は一貫に会って唾して言った、「相公が少しでも持ちこたえていれば、鉱税は撤廃されていたのに、なんと臆病なことか」。この時以来、大臣や言官が上疏して請う者が日を追って相次いだが、皆再び聞き入れられなかった。鉱税の害は、ついに神宗の世まで終わらなかった。

帝は病が癒えて以後、政務はますます廃れ弛んだ。税監の王朝、梁永、高淮らが至る所で横暴を極め、奸人が乗じて民を虐げる者がますます多くなった。一貫は沈鯉と朱賡と共に論を著して風刺し、また事に因りしばしば諫争し、かつ人事や行政に関する諸事を掲げて陳述した。帝は省みなかった。しかし一貫への待遇は厚く、特に勅を賜って褒めたことがあった。一貫はもともと沈鯉を妬んでおり、沈鯉もまた自ら講筵で主君の寵愛を受けたので、一貫の推薦によるものではなく、下に立たず、二人は次第に相容れなくなった。礼部侍郎の郭正域は文章と気節で知られ、沈鯉は彼を非常に重んじた。都御史の温純と吏部侍郎の楊時喬は皆清廉厳格を自ら守り互いに標榜していたが、一貫はこれを良しとしなかった。折しも郭正域が呂本の諡号を奪うことを議し、一貫と朱賡は呂本と同郷であったため、その議を止めた。これによってますます郭正域を憎み、同時に沈鯉と温純、楊時喬らを憎み、党論が次第に盛んになった。浙人が公論に逆らうのは、一貫に始まる。

三十一年、楚府の鎮国将軍朱華勣が楚王朱華奎を偽王であると告発した。一貫は楚王から多額の賄賂を受け取り、通政司にその上疏を一月余り留め置かせ、先に朱華奎が朱華勣を欺罔の四罪で弾劾する上疏を出させた。郭正域は楚の人で、偽王の件に確かな証拠があると聞き、実地調査して虚実を確かめ罪案を定めるよう請うた。一貫はこれを抑えた。郭正域が楚王からの贈り物の書状を上呈すると、帝は省みなかった。巡撫・巡按の臣が会同調査し、廷臣が集議した上疏が入ると、一貫は強く楚王を支持し、給事中の銭夢臯と楊応文を唆して郭正域を弾劾させ、帰郷させて調査を待たせ、朱華勣らは皆罪を得た。郭正域が船に乗ったばかりで、まだ出発しないうちに、「妖書」の事件が起こった。一貫はちょうど郭正域と沈鯉を恨んでおり、その党の康丕揚、銭夢臯らは僧達観や医師沈令誉らを捕らえて獄に下し、徹底的に取り調べた。一貫は内からこれを主導し、錦衣衛指揮の王之禎に康丕揚と共に沈鯉の私邸を三日間大捜索させ、兵卒を発して郭正域の船を包囲し、その婢僕や乳母を捕らえて拷問したが、何も得られなかった。そこで皦生光を獄に下して決着させた。この二つの事件は郭正域伝及び楚王伝に交錯して見える。

初め、都御史の温純が御史の於永清と給事中の姚文蔚を弾劾し、言葉が少し一貫に及んだ。給事中の鐘兆鬥が一貫のために温純を論難し、御史の湯兆京が再び鐘兆鬥を弾劾して温純を支持した。温純は十七度上疏して辞任を求めたが、一貫は偽って上疏して温純を留任させようとした。乙巳の年、京朝官の大計(考査)が行われた。温純と楊時喬がこれを主催し、銭夢臯と鐘兆鬥は皆罷免の対象となった。一貫は怒り、帝に言って、京察の上疏を留中させた。久しくして、ようやく考査で罷免された給事中と御史を全て留任させ、かつ温純に致仕することを許した。そこで主事の劉元珍、龐時雍、南京御史の朱吾弼が強く争い、二百余年来、考査の規定で特別に留任させた例はないと言った。当時、南京での考査の上疏も留中され、後に衆議に迫られてようやく下された。一貫はこれ以来、公論から支持されなくなり、弾劾が日増しに多くなったため、病と称して出仕しなくなった。三十四年七月、給事中の陳嘉訓と御史の孫居相が再び相次いで上章してその奸悪を弾劾した。一貫は憤慨し、ますます辞任を求めた。帝は陳嘉訓を罷免し、孫居相の俸給を奪い、一貫の帰郷を許し、沈鯉も同時に罷免された。しかし一貫だけは温かい旨を得て、朱賡が支持したとはいえ、論者はますます彼に内廷の後ろ盾があると非難した。

一貫が内閣に入ったのは、王錫爵と趙志臯の推薦によるものであった。輔政すること十三年、国政を執ること四年。清議を支え、同を好み異を憎む点は、前後の諸臣と同じである。しかし楚宗、妖書、京察の三つの事件において、ただ一人衆人の非難を犯し、論者は彼を醜く言い、その党といえども弁解して免れることはできなかった。一貫が帰郷すると、言官が追って弾劾するのを止めず、その郷人も多く世の誹謗を受けたという。一貫が在位中、累進して少傅兼太子太傅、吏部尚書、建極殿大学士に加えられた。家に居ること十年で卒した。太傅を追贈され、文恭と諡された。

方従哲

方従哲、字は中涵、その先祖は徳清の人である。錦衣衛に籍を置き、京師に家があった。従哲は万暦十一年の進士に及第し、庶吉士に授けられ、累進して国子祭酒となった。休暇を請いて家に居り、久しく出仕せず、当時その恬雅さを称えられた。大学士の葉向高が礼部右侍郎に任用するよう請うたが、返答がなかった。中旨により吏部左侍郎に起用された。給事中の李成名に弾劾され、罷免を求めたが、許されなかった。

四十一年、礼部尚書兼東閣大学士に任じられ、呉道南とともに任命された。当時、呉道南は在郷中で、葉向高が首輔であり、政事は多く葉向高が決めた。葉向高が国を去ると、従哲は遂に単独で宰相となった。旧輔の沈鯉を召還するよう請うたが、許されなかった。御史の銭春が彼が容悦することを弾劾し、従哲は罷免を乞うた。帝は優れた旨で慰留した。間もなく、呉道南が到着した。折しも張差の梃撃事件が起こり、刑部は狂癲として獄を隠蔽した。王之寀がその内情を探り出し、龐保、劉成らの跡が初めて露わになった。従哲は呉道南とともに王之寀の言葉は謬妄であると排斥し、帝はこれを受け入れた。呉道南は言路から誹謗され、一年にわたり辞任を求め、母の喪で帰郷した。従哲は再び単独で宰相となり、即座に上疏して閣臣を推挙補充するよう請うた。以後、毎月必ず請うた。帝は一人で十分に務まるとし、結局増員しなかった。

従哲の性質は柔弱で、大事を任せられぬ。当時、東宮の講義は久しく廃絶し、瑞王の婚礼は期限を過ぎ、惠王・桂王は配偶を選ばず、福府の莊田には中使を遣わして賦を督め、また塩の売却を議し、中旨をもって呂貴に織造を督めさせ、駙馬王昺は劉光復を救ったことで冠帯を褫奪され、山東に盗賊が起こり、災異が頻発し、言官の翟鳳翀・郭尚賓は直言して貶せられ、帝は中使を遣わして工部侍郎林如楚に咸安営の修繕を命じ、宣府は数ヶ月兵糧を欠き、従哲は皆上疏して力説したが、帝は多く聴かなかった。しかるに従哲には内援があり、名目上争うだけで、実は帝の意に順い、匡正することはなかった。

向高が政を執った時、党論は沸騰した。言路は銓部と結託し、清流を東林と指して、ほぼ尽く追放した。従哲が政を執るに及んで、言路には正人無く、党論は次第に止んだ。丁巳の京察では、東林をことごとく排斥し、かつ在野の者にまで及んだ。斉・楚・浙の三党が鼎立し、清流を撃つことに努めた。斉人の亓詩教は従哲の門生で、勢い特に盛んだった。従哲は群小に昵し、帝の怠惰もますます甚だしかった。畿輔・山東・山西・河南・江西及び大江南北が相次いで災害を報じたが、上疏は皆発されなかった。旧制では、給事中五十余員、御史百余員であった。この時には六科はわずか四人で、五科の印は所属なく、十三道はわずか五人で、一人が数職を兼ねた。地方の巡按は概して交代が叶わなかった。六部の堂上官は僅か四五人、都御史は数年空署で、督撫監司も屡欠員のまま補われなかった。文武の大選・急選官及び四方の教職は、数千人積もり、吏・兵二科に掌印が欠けて画憑せず、久しく都下に滞在し、時に執政の車にすがって哀訴した。詔獄の囚人は理刑の官が無くて決遣されず、家族が長安ちょうあん門に集まって号泣した。職務はことごとく弛み、上下解体した。

四十六年四月、大清兵が撫順を陥とし、朝野震驚した。帝は初め頗る憂懼し、章奏を時々下したが、数ヶ月もせず弛緩して元の如くになった。従哲の子世鴻が人を殺し、巡城御史がこれを弾劾した。従哲は罷免を乞うたが、許されなかった。長星が東南に現れ、長さ二丈、幅尺余、十九日にして消えた。この日、京師が地震した。従哲は言う、「妖象怪徵が層出疊見し、臣が職を奉ずること無状なるを除き痛く自ら修省する外、陛下が大いに乾綱を奮い起こし、天下と更始せられんことを望む」と。朝士は雑然とこれを笑った。帝も省みなかった。御史熊化は時事多艱にして輔佐の効果無きを以て従哲を弾劾し、災異を以て策免するよう乞うた。従哲は懇ろに罷免を求め、四十余日堅く臥し、閣中は空しく人無しとなった。帝は再三慰留し、ようやく起きて政務を視た。明年二月、楊鎬が四路より出師し、兵科給事中趙興邦が紅旗を用いて督戦し、軍は大敗した。礼部主事夏嘉遇は遼事の失敗は、興邦及び従哲が李維翰を庇ったことに起因するとし、二度上疏して弾劾した。衆哲は罷免を求め、敢えて閣に入らず、朝房で政務を視た。帝は優詔を以て懇ろに留め、ようやく元に戻ったが、かえって興邦を太常少卿に抜擢した。間もなく、大清兵が相次いで開原・鐵嶺を陥とした。廷臣は文華門で疏を拝し、直ちに批発を請い、また思善門で旨を待ったが、皆報いられなかった。従哲は仁徳門で叩頭し跪いて俞旨を待ったが、帝は終に報いなかった。やがて帝が文華殿に出御し、群臣を召見して戦守の方略を面議するよう請うたが、これも報いられなかった。閣臣を補う上疏を十度上し、情極めて哀切で、ようやく廷推を命じた。推挙が上ると、また用いなかった。従哲が重ねて請うたので、ようやく史継偕・沈纮を選抜任用したが、疏はなお中に留め置かれ、帝の世が終わるまで下されなかった。御史張新詔は従哲の諸上疏・掲帖が、罪を君父に委ね、誑言して人を欺き、祖宗二百年の金甌を従哲の手で壊したと弾劾した。御史蕭毅中・劉蔚・周方鑒・楊春茂・王尊德・左光鬥、山西參政徐如翰も相次いで上章してこれを撃った。従哲は連疏して自らを弁明し、かつ罷免を乞うた。帝は皆問わなかった。劉光復が獄に繋がれて以来、従哲は数十疏を論じて救った。帝は特に釈放して民と為したが、用人行政の諸章奏は終に発されなかった。帝は数ヶ月病に臥した。会に皇后が崩じ、従哲が哭臨を終え、御榻の前まで行って起居を請うた。弘徳殿に召見され、跪いて語ること久しく、ついで閣臣を補い、大僚を用い、臺諫の命を下すよう請うた。帝はこれを許し、ようやく叩頭して退出した。帝は元来言官を嫌い、以前考選で除授された者は、概ね二三年待命し、この時には八年待った。従哲は数十疏に至るまで請うたが、遂に下されなかった。帝は自ら海内が太平であるとし、官は必ずしも備えず、意図的に減らした。遼左で軍興すると、また前の過ちを矯正することを欲せず、旧の如く行った。従哲が独り国政を執り、遂に匡救するところ無かった。また姚宗文を用いて遼東を閲させ、経略熊廷弼を齮齕して去らせ、遼陽は遂に失われた。論ずる者は、明の亡びは神宗が実にその基をなし、従哲はその罪の首であるという。

四十八年七月丙子朔(初一日)、帝(万暦帝)が病に伏し、十七日にして危篤に陥った。外廷は憂慮危惧し、従哲は九卿・台諫を率いて思善門に至り安否を問うた。二日後、帝は従哲及び尚書周嘉謨・李汝華・黄嘉善・黄克纘らを召して顧命を受けた。さらに二日後、崩御した。八月丙午朔(初一日)、光宗が帝位を嗣いだ。鄭貴妃は以前の福王(朱常洵)の件で、帝が自分を恨んでいることを恐れ、珠玉と侍姫八人を進めて帝を誘った。選侍李氏が最も帝の寵愛を得ており、貴妃はそこで選侍を皇后に立てるよう請い、選侍もまた貴妃のために太后に封じるよう求めた。帝はすでに乙卯の日に病を得、丁巳の日に病躯を押して御門に出て、従哲に命じて貴妃を皇太后に封じさせた。従哲は直ちに礼部に命を下した。侍郎孫如遊が強く争ったため、事は止んだ。辛酉、帝は朝に出ず、従哲は廷臣とともに宮門に至り安否を問うた。当時、都下では中官崔文升が泄薬(下剤)を進めたため、帝がこれにより衰弱したと噂され、帝の伝諭に「頭目眩暈し、身体軟弱にして、動履すること能わず」との言葉があったため、群情はますます疑い驚いた。給事中楊漣が文升を弾劾し、従哲にも及んだ。刑部主事孫朝肅・徐儀世、御史鄭宗周がともに従哲に上書し、聖体を保護し、速やかに儲貳(皇太子)を立てるよう請うた。従哲が安否を伺い、ついで薬を進めるのは慎重にすべきと述べた。帝は褒めて答えた。戊辰、新閣臣劉一燝・韓爌が入直したが、帝の病はすでに危篤であった。辛未、帝は従哲・一燝・爌、英国公張惟賢、吏部尚書周嘉謨、戸部尚書李汝華、礼部侍郎で部事を署する孫如遊、刑部尚書黄克纘、左都御史張問達、給事中範済世・楊漣、御史顧慥らを乾清宮に召した。帝は東暖閣に出て机によりかかり、皇長子・皇五子らが皆侍った。帝は諸臣を前に呼び寄せ、従哲らはついで医薬を慎重にすべきと請うた。帝は「十余日も薬を進めていない」と言い、ついで選侍を皇貴妃に冊封するよう諭した。甲戌、再び諸臣を召し、冊封の事を諭した。従哲らは速やかに儲貯を立てるよう請うた。帝は皇長子を顧みて言った。「卿らはこれを補佐して堯・舜のようになれ。」また寿宮(陵墓)について言及すると、従哲らは先帝の山陵(陵墓)で答えた。帝は自らを指して言った。「朕の寿宮である。」諸臣は皆泣いた。帝はまた問うた。「鴻臚官で薬を進めた者がいるが、どこにいるか。」従哲は言った。「鴻臚寺丞李可灼が自ら仙方と称しますが、臣らは未だ敢えて信じません。」帝は可灼を宣するよう命じ、急いで薬を調合して進めるよう促した。いわゆる紅丸である。帝が服用し終えると、「忠臣」と二度称えた。諸臣は出て宮門外で待った。しばらくして、中使が伝えて来た。上体は平穏であると。日が晡(申の刻)になって、可灼が出て来て、さらに一丸を進めたと言った。従哲らが様子を尋ねると、「前と同じく平穏である」と言った。翌日九月乙亥朔(初一日)の卯刻、帝は崩御した。中外(朝廷内外)は皆、可灼を非常に恨んだが、従哲は遺旨を擬して可灼に銀幣を賜うとした。当時、李選侍が乾清宮に居り、群臣が入って哭臨しようとしたが、諸閹(宦官たち)が宮門を閉めて入ることを許さなかった。劉一燝・楊漣が力強くこれを支え、礼に従って哭臨することができ、皇長子を擁して出て慈慶宮に居らせた。従哲はただ従順に従うだけであった。初め、鄭貴妃が乾清宮に居て神宗の病に侍り、光宗が即位してもまだ移らなかった。尚書嘉謨が貴妃の従子の養性を責めたため、ようやく慈寧宮に移った。光宗が崩御すると、李選侍が乾清宮に居た。給事中楊漣及び御史左光斗は、選侍がかつて皇后に封じられるよう求めたことを思い、幼い主君を託すのに乾清宮に居らせるべきではないと考えた。そこで移宮(宮殿を移すこと)を議し、数日争って決まらなかった。従哲はゆっくりとさせようとした。即位の前日に至り、一燝・爌が従哲を誘って宮門に立ち請うたため、選侍はようやく噦鸞宮に移った。翌日庚辰、熹宗が即位した。

先に、御史王安舜が従哲を弾劾し、軽率に狂医を推薦し、さらに賞を与えて自らを掩おうとしたと述べた。従哲は太子の令旨を擬し、可灼の俸給を一年罰するとした。御史鄭宗周が文升の罪を弾劾し、法司に下すよう請うたが、従哲は令旨を擬して司礼監に察処させた。御史郭如楚・馮三元・焦源溥、給事中魏応嘉、太常卿曹珖、光禄少卿高攀龍、主事呂維祺が相次いで上疏して言った。「可灼の罪は誅に容れられず、従哲がこれを庇う。国法はどこにあるのか。」そして給事中恵世揚が直ちに従哲の十罪・三可殺を糾弾した。言うには、「従哲が独りで七年宰相を務め、賢者を妨げ国を害した。罪一。驕慢で礼を失い、哭臨を誤った。罪二。梃撃(青宮=皇太子宮殿を棍棒で襲撃した事件)があり、奸党を庇護した。罪三。胸臆のままに恣に行い、詔勅を破壊した。罪四。子の殺人を放任し、法典を蔑視した。罪五。言官を阻み抑え、耳目を蔽い塞いだ。罪六。城を陥とし軍律を失い、撫臣(巡撫)の議を寛大にした。罪七。馬上で戦いを促し、全軍を覆没させた。罪八。私情に従って上を欺き、鼎鉉(宰相の職)に恥を遺した。罪九。代わって榷税(専売税)を営み、国を蝕み民を殃した。罪十。貴妃が皇后に封じられるよう求め、挙朝が力爭したのに、従哲は依違両可であった。誅すべきこと一。李選侍は鄭氏の私人であり、聖母(光宗の生母)に抗ぎ凌ぎ、恨みを飲んで没した。従哲は劉遜・李進忠の盗んだ美珠を受け、選侍を貴妃に封じようとし、またその久しく乾清宮を占拠するのを聴した。誅すべきこと二。崔文升が泄薬を用いて先帝を傷損し、諸臣がこれを論じたのに、従哲は罪を脱せようと擬し、李可灼が劫薬(強烈な薬)を進めたのに、従哲は賞賚を与えようと擬した。誅すべきこと三。」疏が入ると、世揚を軽率に誹謗したと責めた。従哲は累次辞去を求めたが、皆慰留した。やがて張潑・袁化中・王允成らが相次いで弾劾したが、いずれも聴かなかった。その冬、給事中程註が再び弾劾すると、従哲は力を尽くして去ることを求め、疏を六度上奏した。(帝は)中極殿大学士に進め、銀幣・蟒衣を賜い、行人を遣わして護送して帰らせた。

天啓二年四月、礼部尚書孫慎行が可灼の紅丸進献を追及して論じ、従哲をしいしいぎゃく(君主殺害)と斥けた。詔して廷臣に議させた。都御史鄒元標は慎行の疏を支持した。従哲は疏を上って弁明し、自ら官階の削奪を請い、四裔(辺境)に投げ込まれることを願った。帝は慰諭した。給事中魏大中は九卿の議が長く滞るのを、上るよう促した。廷臣の多くは慎行を支持し、従哲を罪としたが、ただ刑部尚書黄克纘、御史王誌道・徐景濂、給事中汪慶百が従哲を支持し、詹事公鼐は両端を持した。時に大学士韓爌が進薬の始末を述べて、従哲を弁解した。ここにおいて吏部尚書張問達が戸部尚書汪応蛟と合奏して言った。「進薬の始末は、臣らが共に聞き見たところである。輔臣(方従哲)が皇考(光宗)の病を見たのは、急迫倉皇としており、弑逆の二字はどうして忍んで言えようか。しかし可灼は医官ではなく、かつ脈を知り医を知る者でもない。薬をもって試み、先帝の龍馭は即ち上昇(崩御)された。従哲と臣ら九卿は止めることができず、皆罪がある。それなのに反って可灼に賞を与えた。御史安舜の言があると、ただ養病して去らせるのみで、罰は軽すぎる。どうして皇考を慰め、中外を服させられようか。従哲の請う通り、その官階を削ぎ、法のために咎を任ずるのが宜しい。至って可灼の罪は誅し尽くせないが、文升は皇考が哀感傷寒の時に、大黄の涼薬を進め、罪はまた可灼の上にある。法は皆明らかに誅戮すべきで、以て公憤を泄らすべきである。」議が上ると、可灼は戍辺に遣わされ、文升は南京に放逐されたが、従哲は罪に問われなかった。まもなく、慎行は病を理由に去った。五年、魏忠賢が「梃撃」「紅丸」「移宮」の三事を輯めて『三朝要典』とし、正人を傾けようとした。ついに可灼の戍を免じ、文升に漕運を督させた。その党の徐大化が従哲を起用するよう請うたが、従哲は出なかった。しかし一時に従哲を誅すよう請うた者は、貶謫・殺害されほぼ尽きた。崇禎元年二月、従哲は卒した。太傅を贈られ、文端と諡された。三月、文升を獄に下し、南京に戍らせた。

沈㴶

沈㴶、字は銘縝、烏程の人。父は節甫、字は以安。嘉靖三十八年の進士。礼部儀制主事を授かり、祠祭郎中を歴任す。詔して禁内に祠を建て、黄冠に祝釈せしめんとす、節甫は持して不可とす。尚書高拱は甚だ恚り、遂に移疾して帰る。光禄丞に起用さる。会に高拱が吏部を掌るに及び、復た移疾して之を避く。万暦初、累遷して南京刑部右侍郎に至る。召されて工部左侍郎と為り、部事を摂す。御史高挙、節甫は素より難進の節を負う、一年に三遷すべからずと言う。吏部は節甫に物望有りとして、其の議を絀く。節甫は連ねて上疏し浮費を省き、虚冒を核し、興作を止め、江・浙の織造を減じ、江西の瓷器を停むるを請う、帝は織造の数を稍減ず。中官の伝奉に、節甫は持して不可とし、且つ上疏して之を言う。又嘗て治河の策を献じ、語は鑿鑿として用いる可し。父憂にて帰り、卒す。右副都御史を贈らる。天啓初、㴶方に柄用せられ、賜謚を賜わり端清とす。

㴶は弟の演と同登に万暦二年の進士。㴶は庶吉士に改められ、検討を授かる。累官して南京礼部侍郎、部事を掌る。西洋人利瑪竇、入貢し、因って南京に居し、其の徒の王豊粛等と天主教を倡え、士大夫多く之を宗とす。㴶奏す「陪京の都会、宜しく異教をして此れに処せしむべからず」と。識者は其の言を韙とす。然れども㴶は素より時誉に乏し。大学士従哲と同里閈にして、相善し。神宗末、従哲独り国を当にし、閣臣を補うを請い、詔して会推せしむ。亓詩教等、従哲の意に縁り、何宗彦・劉一燝の輩を擯き、独り㴶及び史継偕の名を上す。帝遂に之を用う。或いは曰く、従哲の薦に由ると。疏未だ発せず、明年、神宗崩じ、光宗立ち、乃ち㴶を召して礼部尚書兼東閣大学士と為す。未だ至らず、光宗復た崩ず。天啓元年六月、㴶始めて至る。

故事に、詞臣は内書堂を教習し、教うる所の内豎は弟子の礼を執る。李進忠・劉朝は皆㴶の弟子。李進忠とは、魏忠賢の始めの名なり。㴶既に至り、密かに二人を結び、乃ち奏して言う「遼左に用兵亟なり、臣謹んで東陽・義烏諸邑及び揚州・纮安に材官勇士二百余を募る。勇士を錦衣衛に隷せしめ、而して材官に職を量授せんことを請う」と。進忠・朝は方に内操を挙げ、㴶の奏を得て大喜す。詔して錦衣官に募士を訓練せしめ、材官王応鬥等に遊撃以下の官を授くるに差有り。㴶又た募兵の後至る者復た二百余人を奏し、遼東・四川の軍前に発せんことを請う。詔して之に従う。尋いで太子太保を加え、文淵閣に進み、再び少保兼太子太保・戸部尚書・武英殿大学士に進む。

禁中の内操日を盛んにし、駙馬都尉王昺も亦た詔を奉じて募兵し、帷幄の重臣を得て其の事を主たることを願う。廷臣皆㴶と朝が陰に相結ぶと言い、ここに於いて給事中恵世揚・周朝瑞等、㴶を劾し陽に募兵を托し、陰に内に通ずるを藉るとす。劉朝の内操は、㴶が門客をして之を誘わしむ。王昺の疏は、㴶の教に出づるを疑う。閹人・戚畹・奸輔、内外に兵を弄び、長安の片土、戦場と成る。㴶疏を辨じ、因って疾を請いて罷めんことを求む。帝之を慰留す。世揚等遂に尽く㴶の内に通ずる状を発し、刑部尚書王紀再び疏を上して㴶を劾し、之を蔡京に比す。㴶も亦た紀を劾し熊廷弼・佟卜年・劉一巘等を保護す。詔して両方を解く。未だ幾ばくもせず、紀は卜年の獄を以て籍を削られ、議者益々㴶に側目す。大学士葉向高言う「紀・㴶交わりて攻め、均しく大臣の体を失う。今獄を讞するを以て紀を斥くは、公論を如何せん」と。朱国祚は至って去就を以て争うも、帝皆聴かず。㴶自ら安からず、乃ち力を求めて去らんとす。命じて伝に乗じて帰らしむ。一年を踰えて卒す。太保を贈られ、謚して文字とす。

㴶の弟演、工部主事より歴官して南京刑部尚書に至る。

贊して曰く、神宗の朝、時に於いては豫、象に於いては蠱なり。時行の諸人に鳴豫の兇有りて、幹蠱の略無し。外は清議を畏れ、内は恩寵を固くし、依阿自ら守り、掩飾して名を取り、弼諧聞こえず、循默して事を避く。『書』に曰く「股肱惰なれば哉、万事隳るる哉」と、此れ孔子の為に嘆ずる所の「焉んぞ彼の相を用いん」なり。