○吳山陸樹聲(子彥章)瞿景淳(子汝稷汝說)田一俊(沈懋學懋學從孫壽民)黃鳳翔(韓世能)余繼登馮琦(從祖惟訥從父子咸)王圖(劉曰寧)翁正春劉應秋(子同升)唐文獻(楊道賓陶望齡)李勝芳蔡毅中公鼐羅喻義姚希孟許士柔顧錫疇
吳山、字は曰靜、高安の人。嘉靖十四年に進士及第し、編修に任ぜられる。累進して礼部左侍郎となる。三十五年、吏部に改める。まもなく王用賓に代わって礼部尚書となる。翌年、太子太保を加えられる。吳山は嚴嵩と同郷であった。嵩の子世蕃が大学士李本を介して吳山に酒を勧め、婚姻関係を結ぼうとした。吳山は承知せず、世蕃は不愉快に思いやめた。帝は吳山を内閣に用いようとしたが、嵩は密かにこれを阻んだ。府丞朱隆禧という者は、考察で罷官した後、方術を献じて礼部侍郎を加えられた。その死後に恩恤を請うたが、吳山はこれを認めなかった。裕邸と景邸が並び建てられ、皇太子が定まっていなかった。三十九年冬、帝は突然礼部に諭し、景王の藩国赴任の儀礼を整えるよう命じた。嵩は帝が郭希顏の上疏に刺激され、人心を探ろうとしていることを知り、吳山に王を留めるようほのめかした。吳山は「朝廷内外がこれを望んで久しい」と言い、直ちに儀礼を整えて上奏し、王はついに藩国へ赴いた。司礼監の黄錦がかつて密かに吳山に言った。「公は他日に平民となるのが幸いであろう。王の藩国赴任は、帝の本意ではない」。
翌年二月朔日、日食が予定されていたが、わずかに曇っていた。暦官が言うには、「日食が見えなければ、食がなかったのと同じである」。嵩は天の加護であると考え、礼部に急いで祝賀を上奏するよう促し、侍郎の袁煒もそのように言った。吳山は顔を上げて言った。「太陽がまさに欠けようとしているのに、誰を欺くというのか」。それでも通常の儀礼通りに救護を行った。帝は大いに怒り、吳山は罪を認めた。帝は吳山が礼を守って罪はないとし、礼科に事情説明を求めた。給事中李東華らは震え上がり、吳山を弾劾し、自分も同罪に処してほしいと請うた。帝はそこで吳山が正直を売り名を求めたと責め、李東華の俸給を停止した。嵩は罪は部臣にあると言った。帝はそこで李東華らを許し、ひとまず吳山の罪を記録にとどめるよう命じた。吏科の梁夢龍らは帝が吳山を非常に怒っているのを見て、また吳山だけを弾劾するのを嫌い、吏部尚書の吳鵬を合わせて弾劾した。詔により吳鵬は致仕し、吳山は官服のまま閑住となった。当時、皆吳山を惜しみ、吳鵬の去りを大いに喜んだ。穆宗が即位すると、南京礼部尚書として召されたが、固辞して赴かず、死去した。少保を追贈され、文端と諡された。
初め、樹聲はたびたび朝廷の任命を辞退し、朝廷内外でその風節を高く評価された。要職に空きがあると、必ずまず樹聲を推挙し、彼が来ないことを恐れた。張居正が国政を執ると、樹聲を得ることを重んじ、後進の礼をもって先に彼を訪ねた。樹聲は対して静かにし、あまり受け入れないような態度で、居正は失望して去った。ある日、公事で政府を訪れた。席が少し偏っているのを見て、じっと見つめて座らず、居正が急いで正しい席に直した。そのようにこだわりを持っていたのである。北部が歳幣の増額を要求し、兵部がこれに応じようとしたが、樹聲は強く争った。年末、四方の災異を上奏し、帝に旧章に従い、上奏文を減らし、賞賜を慎み、閉塞を防ぎ、直言を受け入れ、倹約の徳を尊び、権柄を掌握し、忠邪を区別するよう請うた。詔はすべて嘉納した。
萬歷に改元すると、宦官は樹聲を快く思わず、たびたび会極門に宣旨を受けに行くよう命じ、しきりに彼を急がせた。急いで行ってみると、曹司の日常的な事務に過ぎなかった。樹聲はその意を知り、連続して上疏して休職を願い出た。居正はその弟の樹徳に言った。「朝廷は平泉を宰相にしようとしている」。平泉とは、樹聲の別号である。樹聲はこれを聞いて言った。「一史官が、国を去ること二十年、どうしてまた宰相の座を望もうか。しかも名ばかりの拘束が何の益があろう」。その冬、ますます強く請うたので、ついに伝車で帰るよう命じられた。朝廷に別れを告げる際、時政について十事を上奏し、言葉は多く痛切に核心を突いていたが、報告を受けただけであった。居正が宿舎に来て別れを告げ、誰が代わりを務められるかと尋ねた。萬士和と林燫を推挙した。都門を出る時、士大夫がこぞって追い送ったが、すべて謝絶して会わなかった。
樹聲は端正で恬雅、俗事を超越しており、進み難く退き易かった。官籍に登録して六十余年、官に在ったのは一紀にも満たなかった。徐階とは同郷、高拱とは同年の生まれである。二人が相次いで国政を執ったが、皆病気を理由に出仕しなかった。居正に推挙されたが、ついに附かなかった。後に、定めに従って俸米と従者を給され、太子少保を加えられ、再び見舞いの使者が遣わされた。弟の樹徳は、独自に伝がある。子の彦章は、萬歷十七年の進士である。樹聲は館選に就くことを戒め、その後行人のまま親の終養に従った。詔により月俸を給され、異例のことであった。樹聲は九十七歳で死去した。太子太保を追贈され、文定と諡された。彦章は節概があり、官は南京刑部侍郎に至った。
編修であった時、制誥を司った。錦衣の陸炳は先後四人の妻を持ち、最後の者に封号を与えようとし、景淳に文書の起草を依頼したが、承知しなかった。嚴嵩を介して請うたが、これにも応じなかった。金を袋に入れて投げ与えたが、ついに笑って謝絶した。
子に汝稷・汝説あり。汝稷は字を元立と為す。学を好み、文を属するに巧みにして、蔭により官を補う。三遷して刑部主事と為る。扶溝知県が宗人を抶す。神宗は重比を予うべしと令す。汝稷曰く、「是れ微服して邑庭に至り、官自ら扶溝の民を抶するのみ」と。讞上して、竟に釈を得たり。黄州知府を歴任し、邵武に移り、再び辰州を守る。永順土司の彭元錦、其の弟を助け、保靖土司の象坤と酉陽の冉躍龍と相仇殺す。汝稷、檄を馳せて元錦に兵を解き去らしめ、三土司皆安んず。尋いで長蘆塩運使に遷り、太僕少卿を以て致仕す。尋いで卒す。
汝説は字を星卿と為す。五歳にして孤と為る。文を構えて成れば、輒ち跪きて父の木主の前に薦む。万暦中に進士に挙げられ、官は湖広提学僉事に至る。亦た剛正を以て聞こゆ。子に式耜あり、別に伝有り。
従孫寿民は、字を眉生と為し、諸生として声有り。崇禎九年、保挙法を行い、巡撫張国維、寿民を以て詔に応ず。甫く都に入り、疏を上て兵部尚書楊嗣昌の奪情を劾す。復た総督熊文燦を攻め、言う、「嗣昌は軍旅の権を挈ち、文燦に兵十二万、餉二百八十余万を付す。賊をして面縛輿櫬せしむるも、猶お皇威を宣布し、而して後に不死を以て待つべし。今乃ち盟を講じ約を結び、国と然るが若し。天下に柄を賊に授けて能く賊を制する者有らんや」と。通政張紹先、寝して上せず。寿民、書を以て責む。紹先乃ち上裁を請う。嗣昌皇恐して罪を待つ。帝、疏の式に違うを以て、進むる勿れと命ず。寿民遂に両疏を隠括して之を上す。中に留まる。少詹事黄道周嘆じて曰く、「此れ何等の事ぞ、朝に在る者は言わずして草野の者之を言う。吾輩愧死す」と。後、道周及び何楷等相継いで抗疏す。要は寿民より之を発す。寿民の名天下に動く。未だ幾ばくもせず疾を移して去り、姑山に講学し、従いて遊ぶ者数百人。福王の時、阮大鋮用事し、寿民が嗣昌を劾する疏に「大鋮妄りに条画を陳べ、豊芑を鼓煽す」との語有るを銜み、必ず之を殺さんと欲す。寿民乃ち姓名を変えて之を金華山に避く。国変して乃ち帰り、復た出でず。
尋いで礼部右侍郎に擢げらる。洮・河警を告ぐ。抗疏して言う、「多事の秋、陛下は遊宴を屏け、政事に親しみ、以て安攘を実に図るべし。今の大計と為すは、惟だ用人・理財の二端のみ。宋臣に言有り、『平居に極言敢諫の臣無ければ、則ち臨難に敵愾致命の士無し』と。鄒元標は直声勁節、銓司特に召用を擬す。其他建言遷謫の者、潘士藻・孫如法の如きも亦た量移を擬す。而して疏皆中に寝す。士気日く摧け、言路日く塞がる。平居祿を懐いて交を養うのみ。臨難孰か肯て躯を捐て国家の為に力を尽くさんや。昔、宋の藝祖は縑二百万を積みて遼人の首を易えんと欲し、太宗は内蔵上供の物を移して用兵養士の資と為す。今、戸部歳に二十万を進む。初め旧額に非ず、積んで常供と成る。陛下四海に富む。奈何ぞ自ら私蓄を営まんや。窃かに見るに都城の寺観、丹碧熒煌たり。梵刹の供奉、斎醮の祈禳、何れか一として内帑を糜さざらん。其れ福を冥漠の鬼神に要するに若くは、孰くか孑遺の赤子に広く施さん」と。帝用いる能わず。廷臣儲君を建つるを争い、久しく命を得ず。帝、閣臣に諭して明春挙行すべしとす。大学士王家屏出でて礼部に語る。鳳翔は尚書於慎行・左侍郎李長春と以て冊立の儀を上る。帝怒り、俱に俸を奪い、意復た変ず。鳳翔又た疏を上て争うも、報ぜず。遂に告げて去るを請う。二十年、礼部左侍郎韓世能去り、張一桂未だ任せずして卒す。復た鳳翔を起して之に代わらしむ。尋いで吏部に改め、拝して南京礼部尚書と為す。親を養うを以て帰る。再び故官に起すも、力めて親老を以て辞す。久しくして母卒す。遂に出でず、家に於いて卒す。天啓初、文簡と謚す。
世能は、字を存良と為し、長洲の人なり。鳳翔の同年進士。庶吉士より編修を授かる。世宗・穆宗の宝実《録》を修むるに与り、経筵日講官を充つ。侍読・祭酒・礼部侍郎・庶吉士教習を歴任す。館閣の文字、是の科最も盛んなり。世能嘗て朝鮮に使いし、贈遺一として受けざる所無し。
余継登は、字を世用といい、交河の人である。万暦五年に進士となり、庶吉士に改められ、検討に任じられた。『会典』の編纂に参与して完成させると、修撰に進み、経筵の直講を務めた。まもなく右中允に進み、日講官を充てられた。当時、講筵は長らく廃されており、侍臣は忠言を献じる機会がなかった。継登は同官の馮琦とともに『通鑑』の講義を進講し、時政の欠失を付言した。少詹事兼侍読学士を歴任し、正史副総裁を充てられた。後に詹事に抜擢され、翰林院を掌った。両宮が火災に遭うと、諸講官とともに『洪範五行伝』を引き合いに出して痛切に諫言した。採用されなかった。礼部右侍郎に進んだ。二十六年、左侍郎として部務を代行した。陝西・山西で地震があり、南都で雷火があり、西寧で鐘が自ら鳴り、紹興で地から血が湧き出た。継登は年末に類奏し、それに因んで一切の誅求や採掘など民を害することを罷めるよう請うた。当時は採用されなかった。雷が太廟の樹木を撃つと、再び皇帝に郊祀と廟享を親ら行い、元子を冊立し、鉱税を停止し、中使を撤収するよう請うた。帝は優詔で聞き届けたと返答しただけであった。
まもなく本部尚書に抜擢された。当時、播州の楊応龍を討伐しようとしていた。継登は四川の鉱税を罷めて兵糧に充てるよう請うた。さらに上疏して言うには、「近頃、星躔が度を失い、水旱の災害が起こり、太白星が昼間に現れるのは、天が和せざるなり。山を穿ち鉱を開き、地を裂いて砂を求めるため、狄道で山崩れ地震が起こるのは、地が和せざるなり。里巷が窮困しているのに、さらに誅求を加え、国庫が空虚なのに、さらに珠玉を責め立て、奸民が蟻のように集まり、中使が鷲のように威張り、内外が隔絶し、上下が通じないのは、人が和せざるなり。戾気が凝って散じず、怨毒が結んで形を成し、陵谷が変遷し、高低が入れ替わるのは、陰が陽に乗じ、邪が正を干し、下が上に叛く象である。臣子が君父を感動させることができず、言うことが多ければ多いほど厭われるので、天が非常の変異をもって陛下を警醒させようとしているのである。なおも恬然として意に介さずにいられようか」と。帝は省みなかった。継登は自ら部務を執り、元子の冊立と冠婚を請うた。上疏を累次重ねたが、聞き届けられず、鬱々として病を得た。そのことに言及するたびに、涙を流して言うには、「大礼が挙行されないなら、我が礼官は死んでも瞑目できぬ」と。病が満三月に及んでも、連章して休暇を乞うたが、許されなかった。俸給の停止を請うたが、これも許されなかった。ついに官のまま卒した。太子少保を追贈され、文恪と諡された。
継登は質朴で正直、慎重で細やかであり、言葉少なく笑わなかった。大事に当たっては、議論は侃侃としていた。家にあっては廉潔で倹約であった。学士の曾朝節がその里を訪れたことがあるが、蓬蒿が径に満ちていた。病が重くなったとき、見舞うと、粗布の衾をかぶり、羊の毛皮で足を覆っているだけであった。幼子が諸生の試験を受けるとき、夫人が一言口添えを請うたが、ついに承知しなかった。
馮琦は、字を用韞といい、臨朐の人である。幼少より聡敏で人に抜きん出ていた。十九歳で万暦五年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修に任じられた。『会典』の編纂に参与して完成させると、侍講に進み、日講官を充てられ、庶子を歴任した。三王並封の議が起こると、王錫爵に書を送って力説した。少詹事に進み、翰林院事を掌った。礼部右侍郎に転じ、吏部に改められた。政務に勤勉で機敏であり、営利競争を強く抑え、尚書の李戴は彼を倚重した。
二十七年九月、太白星と太陰がともに午の刻に現れた。また狄道で山が崩れ、平地に大小五つの山が湧き出た。琦は疏文を草し、尚書の戴とともに上言した。
近く太陰が天を経過し、太白星が昼間に現れるのは、すでに極めて異なる現象である。ましてや山が陥没して谷となり、地が湧き出て山となるのは、天地開闢以来、ただ唐の垂拱年間にあっただけで、今また見られるのである。ひそかに思うに、上天は私なく、ただ民の声を聞かれる。天意を受け継ごうとするなら、民の心に順うべきである。近頃、天下の賦額は、二十年以前に比べて、十のうち四が増えている。しかし民戸で殷富なものは、十のうち五が減っている。東征西討で、荒廃して兵役に苦しんでいる。鉱税使が出てからは、民間の苦しみはさらに甚だしい。これに水旱蝗の災害が加わり、流離の民が道に満ち、畿輔の近地でも盗賊が公然と横行している。これは些細な事ではない。諸中使が命を奉じて出ると、それに従う奸徒は、動かすに千百を数える。陛下は通商を望まれるのに、彼らは専ら商を困窮させ、陛下は民を愛そうとされるのに、彼らは専ら民を害する。およそ近頃の神奸には二種ある。一つは上意を窺うことに巧みで、あらかじめ奏文を用意し、武弁を仮りて上奏させる。一つは小民を剥ぐことに務め、あらかじめ謀略を練り、中官を仮りて実行させる。機略は鬼蜮の如く、財貨は錙銖まで取り尽くす。遠近ともに嘆き、貧富ともに困窮する。貧者は家に蓄えがなく、ただ生業に頼っている。わずか数銭の利を奪うだけで、すでに一日の生計を絶たれる。富民に至っては、さらに毒害を蒙る。漏税や鉱山窃盗の罪に陥れたり、塩の密売や木材の盗伐を誣告したりする。詭計を巡らし、その勢いは赫然としている。そして財を得ると、寂然として何事もない。小民は足を重ね息を潜め、身を置く所がない。利は群奸に帰し、怨は朝廷に集まる。骨に刺さるような窮乏を抱え、心を傷める痛みを抱えて、一呼すれば動きやすく、一動すれば安んじ難い。今日はなお承平であるが、民はすでに騒然としている。もし風塵の警めがあれば、天下の誰を信頼して保つことができようか。哱拜が誅され、関白が死んだのは、いずれも民丁を募って兵とし、民財を用いて餉としたからである。もし一方の窮民が乱を起こし、四面がこれに応ずれば、どこで兵を徴し、どこで餉を取るというのか。陛下、忠実な親信の者を遣わして、都城内外の里巷の歌謡を採訪させ、一つ一つ奏聞させられよ。そうすれば民の怨苦は、明らかに見て取れるであろう。天心は仁愛であり、咎徴を明示されるのは、まさに陛下が翻然と改悟され、禍乱を座して消し止められることを望まれるのである。ところが礼部の修省の章は未だ批答を蒙らず、奸民の搜括の奏はまたもや允行を見ている。例えば納何其賢の妄説を容れて、天下の無礙官銀を遍く解送せよと命じている。四方の銭穀は、いずれも定額があり、無礙というのは、経費の羨余を指す意であろう。近頃征調が頻繁で、正額すら滞っているのに、どこから羨余を得ようか。この令が下れば、督促は厳急を極め、必ずや公帑を分けて献上に充てるであろう。経費が措かれなくなれば、また民間に割り当てる。これは必ずしもできない事である。また仇世亨が徐鼐の墳墓掘りを奏した一件は、理をもって論ずれば、一つの墓に黄金巨万を蔵するものがあろうか。仮にあったとしても、まず撫按に下して審査させ、先に盗墓の罪を正し、その後で墓中の蔵物を没収すべきである。罪状が未だ明らかでないのに、先に財貨を没収するようなことはない。一片の紙が朝に入れば、厳命が夕に伝わり、深き冤罪を抱えていようとも、誰が弁理しようか。ただこの諸族を破滅させるだけでなく、さらに多くの人に禍を及ぼすであろう。株連があるやいなや、たちまち敗滅する。輦轂の下でさえ三覆を要するのに、万里の外では、ただ単詞に拠って、狡猾の徒に生殺の権を握らせる。この風が一たび唱えられれば、誰が倣わないことがあろうか。すでに告緡の令と同じであり、さらに告密の端を開いている。臣らがまさに陳訴しようとしていると、奸人の奏がまたもや旨を得た。五日以内に、天下の公私の金銀を搜取することすでに二百万に及ぶ。奸の中に奸を生み、例の外に例を創る。臣らは以前にはなおその日々に減ずることを望んだが、今はさらにその日々に増すことを憂える。民が困窮し財が尽き、大乱が激発するに至らなければ止まない。伏して願わくは、陛下、穆然と遠くを覧られ、急ぎ廷臣とともに修弭を図られ、海内の赤子に熙朝に怨みを結ばせ、千秋の青史に聖徳を譏られることなきを。
奏聞されなかった。
まもなく左侍郎に転じ、礼部尚書に任じられた。帝が東宮を冊立しようとすると、詔書が下り期日が迫ったが、司設監を掌る中官が費用の供給が足りないと言い訳した。琦は言うには、「今日は礼が重んずべきであり、争うべきではない」と。その弟の戸部主事の馮瑗がたまたま餉銀四万を車に載せて都を出ようとしていたので、琦は直ちに追い返して費用に充て、事はようやく成った。
三十年、帝は病に罹り、鉱税の停止を命じたが、後にこれを悔いた。李琦は同僚と共に上疏して諫め、さらに郊廟の祭祀を自ら執り行い、殿上で朝賀を受けるよう請うたが、聞き入れられなかった。湖広の税監陳奉は民衆を虐げたため召還されたが、ちょうど陝西で黄河が枯渇した。李琦は、遼東の高淮・山東の陳増・広東の李鳳・陜西の梁永・雲南の楊栄が、陳奉に劣らぬ暴虐を働いていると述べ、これらも全て召還を請うたが、いずれも回答がなかった。南京守備の中官邢隆が別に関防を下賜され徴税を行いたいと請うたが、李琦は認めず、結局は御前の牙関防が与えられた。
当時、士大夫の多くは仏教を尊崇し、士子が文章を作る際にはしばしばその言葉を借用し、経伝の注釈を軽蔑して捨て去っていた。前尚書の余継登が禁令を設けるよう奏請したが、風習は依然として変わらなかった。李琦は改めてその弊害を極力陳述し、帝は詔を下して戒めさせた。
李琦は典故に明るく、学問に確固たる基盤があった。たびたび正論を陳べ、朝廷内外でその風采を慕われ、帝も深く信頼して頼りにしていた。内閣に欠員が生じ、帝は既に朱国祚と李琦を選抜任用していた。しかし沈一貫が密かに上奏し、二人はまだ五十歳に達しておらず、しばらく待ってから、まずは老成の者を用いるべきだと述べた。そこで沈鯉と朱賡に改めて命じた。李琦は元来病弱で、この頃には重篤になった。十六回上疏して休職を願い出たが、許されなかった。官職のまま逝去し、享年はわずか四十六歳であった。遺疏において、政治の刷新、奏章の処理、欠員の補充、誠意をもって臣下に接し、人心を収攬するよう請うた。言葉は極めて懇切で真摯であった。帝は悼み惜しんだ。太子少保を追贈された。天啓初年、文敏と諡された。
李琦の曾祖父の李裕以来、代々進士であった。李裕は字を伯順といい、辺境守備の戸籍により遼東で生まれた。賀欽に師事し、学問と品行があった。雲南副使で終わった。祖父の李惟重は行人であった。父の李子履は河南参政であった。従祖父の李惟健は挙人であった。李惟訥は字を汝言といい、江西左布政使となり、光禄卿を加官されて致仕した。李惟重・李惟健・李惟訥はいずれも文名があり、李惟訥が最も著名であった。
劉曰寧は、字を幼安といい、南昌の人である。万暦十七年の進士。庶吉士に改められ、編修に授けられた。右中允に進み、皇長子の講幄に侍講した。当時、冊立は行われておらず、外部の議論は紛糾していた。劉曰寧は傍らから慰め、婉曲に譬え、仁孝に依拠して説いたため、光宗は心に留めて覚えていた。鉱山使節が四方に出ると、劉曰寧は憤慨して上疏し、六つの疑念と四つの禍患を陳べ、税監の李道・王朝らの不法な様子を極言した。上疏は宮中に留め置かれた。母の病気のため帰郷した。右諭徳に起用され、南京翰林院を掌り、そのまま国子祭酒に転じた。母を連れて帰郷する際、役人が数千両の余剰金を進呈し、「慣例です」と言ったが、劉曰寧は厳しくこれを拒絶した。まもなく少詹事に起用されたが、母の喪のため赴任しなかった。喪が明けると、召されて礼部右侍郎となり、詹事府の協理を務めた。赴任途中で逝去した。礼部尚書を追贈された。天啓初年、文簡と追諡された。
正春は風度が厳粛で整っており、一日中軽薄な言葉はなかった。疲れても体を傾けず、暑くても裸になったりせず、目を流し見することはなかった。見る者はみな厳粛とした気持ちになった。明代一代において、科挙の職官で廷試の首位を占めた者は二人いる。曹鼐は典史から、正春は教諭からであったという。
劉應秋、字は士和、吉水の人。万暦十一年に進士及第し、編修に任じられ、南京司業に遷った。十八年冬、首輔申時行を論じた上疏で言う。「陛下が輔臣を召し出して対面し、辺境の事を諮問されたが、時行は誠を尽くして国を謀ることができず、専ら事を蒙蔽することに努めた。賊が大挙して侵入し、すでに洮州・岷州を掠め、まさに臨洮・鞏昌に迫り、軍を覆し将を殺し、たびたび敗北を喫しているのに、時行はなお『番族を掠めた』『入寇すると言っているだけだ』と言う。はたして洮州・黄河以東はすべて番地なのか。輔臣とは、天子が腹心を託すべき者である。輔臣が先に蒙蔽するならば、どうして諸官を責めることができようか。故に近ごろ敵情には、按臣が上疏したのに督撫が報告しないものがあり、督撫が報告したのに枢臣が上奏しないものがある。彼らは、執政大臣が勝利を喜び敗北を嫌うのを見慣れているので、内外で互いに欺き蒙蔽し、平然として怪しまない。欺瞞蒙蔽の端緒は、輔臣から始まっているのである。士風の高下は、気運に関わる。論者は嘉靖から現在まで、士風が三度変わったという。一度目の変化は厳嵩の汚職賄賂の環境により、士人は貪欲に変じた。二度目の変化は張居正の専横により、士人は険しさを競うようになった。現在に至っては、外見は貪欲汚職の名を逃れながら、頑迷な者や敗軍の将帥は多くその門下にあり、表向きは専横の跡を避けながら、鋭い刃や斧を逆さまに手に持っている。威福の権は、ひそかにその方向を移し、愛憎の的は、明らかにその趨向を示している。天下が靡かないことを望んでも、得られるものではない。」言葉は次輔王錫爵にも及んだ。当時、主事蔡時鼎・南京御史章守誠も時行を論じる上疏をした。いずれも留中された。應秋はまもなく中允に召され、日講官を充てられた。右庶子・祭酒を歴任した。
二十六年、『憂危竑議』を撰した者がおり、御史趙之翰はこれを以て大学士張位を指弾し、應秋にも及んだ。担当官庁は應秋は張位の党ではないから留任すべきと上言した。皇帝は外任に転じるよう命じたので、應秋は病気を理由に辞して帰郷した。初め、御史黄巻が珠商徐性善に賄賂を求めたが、十分に応じられなかったため、上章してその財産を没収した。應秋は黄巻が天子に利を好む端を開いたと罵った。男子諸龍光が李如松を奏上して告発し、ついに大暑の中で枷を付けられるに至った。應秋は一介の妄人が上書しただけなのに、どうして死地に置く必要があるかと言った。当時、詞臣は概して悠々と声望を養っていたが、應秋ひとりは時事を議論批評することを好み、これによって憎まれることを取り、ついに罷免された。帰郷して数年後、卒去した。崇禎時、礼部侍郎を追贈され、文節と諡された。
沈一貫が「妖書」事件を利用して尚書郭正域を陥れようとし、執拗に追及した。文獻は同僚の楊道賓・周如砥・陶望齡とともに一貫を訪ねて言った。「郭公は免れないでしょう。人は公が実は彼を殺そうとしていると言っています。」一貫は恐れおののき、地面に酒を注いで誓いを立てるかのようであった。文獻は言った。「公が彼を殺すつもりはないことも知っています。ただ、台省が風に乗じて石を投げ(攻撃し)、公が早くこの獄を終結させないならば、どうして天下に謝することができましょうか。」一貫は表情を引き締めて謝った。望齢は朱賡が救おうとしないのを見て、また大義を以て厳しく責め、官を棄てて正域とともに死ぬことを願った。これにより獄はやや緩和された。しかし文獻らはこれによって政府(内閣)の意に背いた。久しくして、礼部右侍郎に任じられ、翰林院事を管掌した。初め、文獻は趙用賢の門下に出て、名節を以て互いに誇り合った。同年の給事中李沂が張鯨を弾劾して廷杖に処せられた時、文獻は彼を支えて出し、湯薬の費用を援助した。荊州推官華鈺が税監に逆らって詔獄に捕らえられた時、文獻は力を尽くして周旋し、死罪を免れさせた。翰林院を管掌した時、考察に当たり、執政が一人を庇おうとしたが、固執して許さなかった。官のまま卒去した。礼部尚書を追贈され、文恪と諡された。
李騰芳、字は子実、湘潭の人。万暦二十年進士。庶吉士に改む。学を好み、才名を負う。三王並封の旨下る、騰芳は書を為て朝房に詣り大学士王錫爵に投じ略言す、「公は暫く上意を承け、巧みに封王を借り、転じて冊立と作さんと欲す。然れども恐らくは王封既に定まり、大典愈々遅れん。他日公去りて事壞れば、罪は公の始謀に在り、何を以て解かん。此れ独り宗社の憂いのみに非ず、亦公の子孫の禍なり」と。錫爵読み未だ竟わざるに、遽に衣を牽きて坐を命じ、曰く、「諸人我を詈る、我何を以て自ら明らかにせん。子の言の如く、我教えを受く。但だ我が疏は必ず親書す、子孫の禍と謂うは何ぞや」と。騰芳曰く、「外廷正に公の手書密掲を以て、其の詳を知る由無きに、公乃ち藉りて以て自ら解かんと欲す。異日に能く天子をして公の手書を出だして天下に示さしめんや」と。錫爵憮然として涙下り、明日遂に並封の詔を反す。
屡遷して左諭德に至る。騰芳は〓山の顧天飐と善し。天飐は険诐にして行い無く、世の指名する所と為り、劾せられて去り、騰芳も亦劾を投じて帰る。時に遂に顧党、李党の目有り。詔して朝士擅に去る者の罪を論じ、騰芳を太常博士に貶す。三十九年京察、復た浮躁を以て江西都司理問に謫す。稍く遷り行人司正、歴て太常少卿、司業事を掌る。光宗立ち、擢て少詹事と為り、南京翰林院を署す。旋ちに礼部右侍郎を拝し、庶吉士を教習す。御史王安舜、騰芳の驟遷を劾す。騰芳は位を辞す、熹宗許さず、竟に母を省るを以て帰る。天啓初め、故官を以て詹事府を協理し、尋いで吏部左侍郎に改む。丁内艱、礼部尚書を加えて以て帰る。魏忠賢、騰芳の楊漣と同郷なるを悪む。御史王際逵、因りて騰芳の察せられて驟起し、丁憂して官を進むるは、皆制に非ざるを論ず。遂に削奪す。崇禎初め、再び尚書を以て詹事府を協理す。京師戒厳、条画して守禦し、多く旨に称し、何如寵に代わり部事を掌る。官に卒す。太子太保を贈る。蔡毅中、字は宏甫、光山の人。祖は鳳翹、平陽同知。父は光、臨洮同知。毅中五歳にして『孝経』を通ず。父問う、「書を読むは何を為さんとするか」と。対えて曰く、「聖賢と為らんと欲するのみ」と。万暦二十九年進士に第し、庶吉士に改め、検討を授かる。時に鉱税民を虐げる、毅中は『祖訓』、『会典』諸書の鉱税を禁戒する者を取り、集めて二巻と為し、註釋して上る。大学士沈鯉は毅中に於いて郷先達たり、首輔沈一貫と相能わず。而して温純河南に参政し、諸生の中に毅中を器す。是に至りて都御史と為り、疏して一貫を侵す。一貫は毅中の手に出ずるを疑い、鯉の地と為さんとし、之を銜み、遂に計典を用い、秩を鐫じて去らしむ。麻城丞を起す。旋ちに行人司副を以て召し擢て尚宝丞と為す。疾を移して帰る。四十五年、浮躁を以て秩を鐫ず。天啓初め、大いに廃籍を起し、長蘆塩運判官を補う。屡遷して国子祭酒、擢て礼部右侍郎、仍て祭酒事を領す。楊漣、魏忠賢を劾して厳旨を得る、毅中は其の属を率いて抗疏して言う。
学校は、天下の公議の従いて出づる所なり。臣正に諸生と「為君難」一書を講ぜんとするに、忽ち楊漣の忠賢を劾する疏に接し、監の師生千有餘人、鼓掌称慶せざる無し。乃ち皇上其の奏を九卿に下さず、而して一切の朝政皆親裁し、奸珰を以て忠と為し、之に代わりて過を受く、監の師生心を捫き悉く嘆息せざる無し。臣惟うに三代以後、漢、隋、唐、宋諸君、其の権珰の害を受くると処権珰の法は、『通鑒』に載す。我が朝列聖の権珰の害を受くると処権珰の法は、実録に載す。臣皆必ずしも多言せず。但だ至近至親なる武宗の劉瑾を処する、神宗の馮保を処するの二事を取り、願わくは皇上之に遵わんことを。瑾は武宗の左右に在り、言聴き計従う、一たび諸臣の劾奏を聞くや、夜半自ら起き、擒えて之を殺す。神宗臨禦方に十齢、保は左右扶持し、心を尽くし力を竭す。既にして少しく威福を作す、台省劾奏す、未だ挙朝の公疏を聞かず、神祖遂に声色を動かさずして保を南京に戍す。今忠賢は保の功無く、而して瑾の悪を極む。二十四の罪、一として当に悉く究むべからざるは無し。挙朝の群臣朝罷まんと欲して、跪き以て旨を候わんとす、忠賢遂に皇上を要して宮に入り、群臣を礼せず。今又視学の日に於いて、群臣及び太学の諸生面して叩き陳請せんと欲す、而して皇上漫として経意せず。数日以来、但だ忠賢に及ぶ者有れば、留中して発せず、此くの如く蒙蔽する、其の中寧んぞ測る可けんや。乞うらくは漣の疏を発して九卿科道に従い公に究問せしめ、即ち劉瑾の誅を加えずとも、馮保を処するの法を以て之を懲せば、則ち恩威並び著わり、神祖に媲美せん」と。
疏入る、忠賢戟手して大いに訽る。毅中乃ち再び疏して帰ることを乞う、許さず。已にして、其の党を嗾して之を劾罷せしむ。
毅中は至性有り。四歳の時父病み、天に籲いて代わることを請う。公車の時、母の喪を聞き、一たび慟哭して血数升を嘔し、喪終るまで酒肉を断ち、内寢に入らず。方に母病みし時、盛夏に氷を思う、盂の水忽ち凍る。廬居するに、紫芝、白鳥、千鴉墓に集まるの異有り。卒し、礼部尚書を贈る。
初め、廷議で李三才の起用が決まらなかった時、公鼐は声を揚げて言った、「今、封疆の倚重する者は多く遠道より未だ至らず。三才は猷略素より優れ、家は輦轂に近く、朝に発して夕に至るべし」と。侍郎鄒元標は彼に尽言を促したが、言路が相持して止んだ。後に御史葉有聲が公鼐が三才と姻戚であることを追論し、私に徇って妄りに推薦したとし、遂に落職閑住に処せられた。まもなく卒した。崇禎初め、官を復し恤典を賜り、文介と諡された。
羅喻義は、字を湘中といい、益陽の人である。萬暦四十一年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かった。仮を請うて帰郷した。天啓初めに朝に還り、累官して諭徳となり、経筵に直った。六年に南京国子祭酒に擢られた。諸生が魏忠賢の祠を建てようとしたが、喻義はその首唱者を懲らしめたので、やんだ。忠賢の党が東林党の籍貫を輯めると、湖廣二十人で、喻義を首とした。莊烈帝(崇禎帝)が嗣位すると、召されて礼部右侍郎に拝され、詹事府を協理した。まもなく日講官を充て、庶吉士を教習した。
羅喻義の性質は厳冷で、戸を閉じて書を読み、軽々しく一客をも接しなかった。後に中外多事なるを見て、将吏が兵に習わざるを以て、鋭意武事を講じ、陣図を推演してこれを献じた。帝は褒めて納れた。時方に用兵あるに、督撫大吏が軍府を立てず、財用の資る所なきを以て、言うには、「武に七徳あり、財を豊かにするはその一なり。正餉の外、宜しく別に軍府を立て、朝廷は預かり知るなかれ。士を饗い、功を賞し、敵を購うは、皆これに取給すべし」と。また車戦の利を極めて陳べた。帝は軍府の議を所司に下し、喻義に戦車を自制させた。喻義はまた上言して畝に按じ加派の害を述べ、戦車の営造は職有司にあるとして、詔を奉ぜんとしなかった。帝は悦ばず、疏は遂に行われなかった。
明年九月、『尚書』を進講し、『布昭聖武講義』を撰した。中に時事に及び、「左右する者その人を得ず」の語があり、頗る執政を傷つけ、末に祖宗の大閲の規、京営の制を陳べて、冀くは興革あることを望んだ。稿を政府に呈すと、温体仁は悦ばず、正字官に喻義に語らせて改めさせた。喻義は閣中に至り、扉を隔てて体仁を誚った。体仁は怒り、上言して、「故事に、経筵の進規は正講に多く、日講は則ち正多く規少なし。今喻義は日講を以て経筵の制を用い、及んで刪改を令すれば、反ってその侮りに遭う。惟だ聖明の裁察を請う」と。遂に吏部に議を下した。喻義は奏辨して曰く、「講官は正文の外に旁ら時事に及ぶも、亦た旧制なり。臣展転敷陳して、冀くは少しく裨益あらんことをす。体仁の刪去するに、臣誠に愚忠の上達せざるを恐れ、輔臣に忤うに致らん。今稿草具在す、聖明の省覧を望む」と。吏部は体仁の意を希い、革職閑住を議し、これを可とした。喻義は雅に時望を負い、体仁に傾けられ、士論交々惜しんだ。行に瀕り恩を乞い、伝乗を請うと、帝もまた可と報じた。家に居ること十年、卒した。
体仁はますます不愉快になった。ちょうど体仁が劉孔昭を唆して祭酒の倪元璐を弾劾させ、その際に士柔の族子の重熙が私撰した『五朝註略』を持ち出し、士柔を連座させようとした。士柔は急いで『註略』を進呈し、ようやく免れた。まもなく出されて南京国子祭酒となった。
顧錫疇は字を九疇といい、昆山の人である。十三歳のとき、諸生として南京で試験を受け、魏国公が娘を娶わせた。万暦四十七年に進士に及第し、庶吉士に改められ、検討を授けられた。天啓四年、魏忠賢の勢力が大いに盛んになり、錫疇は給事中の董承業とともに福建の典試を務め、程策に大いに譏刺があった。忠賢の党はこれを東林と指弾し、二人はともに降格・転任させられた。後に、さらに官籍を削られた。
崇禎初年、召されて故官に復した。国子祭酒に累進した。積分法の復活を上疏して請うたが、礼官が阻んで実行されなかった。錫疇は再びこれを申し述べ、かつ監生を選んで州県の長官とすることを請うた。後に、従祀の位次を正し、進士で国子博士の者が考選に参与できるようにすることを請うた。帝はともに実行を許した。省親のため帰郷し、在籍のまま終養を乞うた。母の喪が明け、少詹事に起用され、詹事に進み、礼部左侍郎に任じられ、部の事務を署理した。帝が召し出して対問し、理財と用人について問うた。錫疇は退いて、用人の五つの過失を列挙して陳述した。すなわち、銓叙に法がなく、文網が厳しすぎ、議論が多すぎ、資格に拘りすぎ、鼓舞が至っていない、というものである。まず用人の地においてその源を清めることを請うた。「精心に鑑別し、才に随って器として用いる、これが一つの善である。小過を赦して終に廃棄しない、これが二つの善である。議論を省いて専ら責成に任せる、これが三つの善である。異才を抜擢して常格に拘らない、これが四つの善である。奨励を急ぎ督責を寛大にする、これが五つの善である」。最後に財を消耗する弊害を極力陳述し、依然として用人に帰着させた。帝はその奏上を良しとした。
楊嗣昌が流賊を撫することを上疏して請い、「楽天なる者は天下を保つ」および「善く戦う者は上刑に服す」という語句があった。錫疇は抗言して、これは諸侯が隣国と交わる事柄であり、称引が倫に合わないと言い、嗣昌と大いに反目した。嗣昌が政権を執ると、諸詞臣が多くこれを攻撃したため、嗣昌は錫疇をかなり疑った。ちょうど駙馬都尉の王昺が罪を得たとき、錫疇が軽い刑罰を擬したので、嗣昌がこれを陥れ、遂に官籍を削った。十五年、廷臣が交わって推薦し、召還された。御史の曹溶、給事中の黄雲師がまた用いるべきでないと言ったが、帝は聞き入れず、南京礼部左侍郎に起用した。
賛に曰く、呉山らは館閣に雍容として、臺省を揚歴し、固より所謂詞苑の鴻儒、廟堂の巋望たり。要するにその正を守り自立し、激せず争わず、淳静敦雅、承平の士大夫の風流、概ね想見すべし。