○王治、歐陽一敬(胡應嘉)、周弘祖(岑用賓、鄧洪震)、詹仰庇、駱問禮(楊松、張應治)、鄭履淳、陳吾德(李已、胡涍)、汪文輝、劉奮庸(曹大埜)
王治
吏科都給事中に進む。薊遼総督都御史劉燾・南京督儲都御史曾於拱の不職を弾劾し、曾於拱は遂に罷免された。山西及び薊鎮ともに賊の中にあり、王治は兵部尚書郭乾・侍郎遅鳳翔の罪を以てし、同官の歐陽一敬らとともにこれを弾劾した。詔して郭乾を罷め、遅鳳翔を三秩貶して視事させた。部議して光祿少卿馬従謙を恤う。帝は許さず、王治は疏を争う。帝は馬従謙の犯したところを、子が父を罵る律に比し、終に允さず。王治はまた何瑭の追謚を請い、夏言の罪を雪ぎ、かつ大理卿朱廷立・刑部侍郎詹瀚が共に夏言・曾銑の獄を鍛え成したことを言い、その官を追奪すべきとす。皆、報可される。明年、左右に南海子の勝れたるを言う者有り、帝は往幸せんとす。王治は同官を率いて諫め、大学士徐階・尚書楊博・御史郝傑ら並びに阻止す。皆聴かず。至れば則ち荒莽沮湿にして、帝は甚だこれを悔いた。王治はまもなく太僕少卿に擢げられ、大理に改め、太僕卿に進む。憂いにより帰り、卒す。
歐陽一敬
歐陽一敬は、字を司直といい、彭澤の人である。嘉靖三十八年の進士。蕭山知県に任ぜられ、征召されて刑科給事中を授かる。太常少卿晉應槐が文選郎であった時の劣った状を弾劾し、また南京侍郎傅頤・寧夏巡撫王崇古・湖広参政孫弘軾は晉應槐によって進められたもので、皆罷免すべきとす。吏部は晉應槐らのために弁じ、ただ傅頤の官を罷むるのみ。未だ幾ばくもなく、礼部尚書董份を劾して罷む。三たび遷り兵科給事中となる。広西総兵は都督を用うべく、勛臣を用うべからずと言う。よって恭順侯吳繼爵を劾し、これを罷め、俞大猷を以て代えしむ。賊大いに陜西に入り、総督陳其學・巡撫戴才を劾し、皆官を奪わる。また軍政を以て英國公張溶、山西・浙江総兵官董一奎・劉顯、錦衣衛都督を掌る李隆ら九人の不職を弾劾す。張溶は留められ、余は皆貶黜される。
已にして、兵政八事を陳べ、部は皆議して行う。南京振武営の兵はこれにより罷まる。湖広巡按陳省が太和山守備中官呂祥を劾し、詔して呂祥を征還し、守備官を罷む。未だ幾ばくもなく、また監丞劉進を遣わして往き代わらしむ。歐陽一敬言う、「劉進は故に名を俊といい、顯陵を守りて状無し。肅皇帝これを獄に下し、孝陵衛の凈軍に充つ。今用うべからず」と。これに従う。中官呂用らが京営を典す。歐陽一敬力諫し、事は寝す。黔國公沐朝弼は殘恣にして、屡詔旨に抗す。歐陽一敬はその罪を治むるを請い、報可される。俄かに太常少卿に擢げらる。高拱再び起きて政を柄とす。歐陽一敬懼れ、即日告帰し、半道にて憂いにより死す。時に胡応嘉は已に屡遷して参議となり、憂いにより帰る。高拱の再び相たるを聞き、また驚怖して卒す。
附 胡應嘉
胡應嘉は、沐陽の人である。宜春知県より擢げられて吏科給事中となる。三たび遷り都給事中となる。侍郎黄養蒙・李登雲及び布政使李磐・侯一元の不職を論じ、皆罷去せしむ。李登雲は、大学士高拱の姻なり。胡応嘉は高拱必ずや己を害せんと策し、遂に高拱を併せて劾し、言う、「高拱が輔政の初め、直廬を以て隘しと為し、家を西安門外に移し、夤夜潜かに帰る。陛下近く稍違和す。高拱は即ち直廬の器物を私に運びて外に出す。臣、高拱が何の心なるかを知らず」と。疏入り、高拱大いに懼れ、亟に奏して弁ず。時に帝崩ずるに会い、竟わずして済む。高拱はこれにより胡応嘉を銜む。穆宗嗣位す。胡応嘉は帝が文華殿に御し輔臣と面議して大政とし、諸卿を召訪して顧問侍従とし、科臣に事に随い駁議せしむるを請う。帝これを納る。胡応嘉は諫職に居り、敢えて言うと号す。然れども悻悻として搏撃を好み、議者は頗る傾危を以てこれを目す。
周弘祖
附 岑用賓
用賓は広東順徳の人である。官は南京給事中、多く論劾した。また嘗て高拱が剛愎であると論じ、この故に高拱はこれを恨み、紹興知府に出した。既に察典に中てられ、遂に貶所に卒す。そして弘祖は貶されてまもなく、高拱罷免され、量移して広平推官となり、万暦年間、累遷して南京光禄卿となる。朱衣で陵を謁して免ぜられる。
附 鄧洪震
詹仰庇
帝頗る声色に耽り、陳皇后微かに諫むるも、帝怒り、これを別宮に出だす。外廷皆これを憂うるも、敢えて言う者なし。仰庇朝に入り、医が禁中より出づるに遇う。これを詢ね、后寝疾危篤なるを知り、即ち上疏して言う、「先帝慎んで賢淑を択び、陛下に配し、宗廟社稷の内主と為す。陛下宜しく先帝の命に遵い、宮闈の好を篤くすべし。近く聞く、皇后別宮に移居し、已に一載に近く、抑郁して疾を成し、陛下略く省視せず。万一不諱あらば、聖徳を如何にせん。臣下憂惶せざる莫きも、徒らに事宮禁に渉るを以て、敢えて頌言せず。臣謂う、人臣の義、知りて言わざれば当に死すべく、言いて諱に触るるも亦た当に死すべし。臣今日固より死を惜しまず、願わくは陛下臣の言を采聴し、立って皇后を中宮に復し、時に慰問を加えよ。臣死すと雖も生に賢れり」と。帝手批して答えて曰く、「后子無く多く病み、別宮に移居するは聊か自ら適し、以て疾を却えんことを冀う。爾何ぞ内庭の事を知りて、顧みて妄言せん」と。仰庇自ら重譴を得んと分ち、同列も亦たこれを危ぶむ。及び旨下り、中外驚喜過望し、仰庇益々感奮す。
間もなく、十庫を巡視し、疏を上して言う、「内官監歳入租税甚だ多しと雖も、歳出は籍を置かず。按ずるに京城内外の園廛場地、本監に隷するもの数十計り、歳課皆官銭に属す。而るに内臣上供の名を仮り、恣意に漁獵す。利は私家に填まり、過は朝寧に帰す。乞う、備核し宜しく留むべきか革すべきか、並びに出入の多寡の数を以て、奸欺を杜がん。再び照らすに、人主の奢儉は四方の安危に係る。陛下前に戸部の銀を取られ、緩急に備う。今本監の称する如くんば、則ち尽く以て鰲山を創り、宮苑を修め、鞦韆を製し、龍鳳艦を造り、金櫃玉盆を治む。群小因りて幹没し、聖徳を累ね、国計を虧く。望むらくは陛下深く省み、玩好を以て逢迎する者有らば、悉く屏出してこれを罪せよ」と。宦官益々恨む。故事に、諸司文移往還及び牧民官の教を出すに、「照」字を用う。言官上書にこの体無し。宦官因りて「再照人主」の語を指し、大不敬と為す。帝怒り、詔を下して曰く、「仰庇小臣、敢えて天子に照及び、且つ狂肆屡々悛めず」と。遂に廷杖一百、除名し、並びに科道の庫蔵を巡視する者を罷む。南京給事中駱問礼・御史余嘉詔ら疏を上して救い、且つ巡視官罷むべからずと言う。納れず。仰庇御史と為ること僅かに八月、数たび讜言を進むるも、竟に罪を得る。
神宗が位を継ぐと、先朝の直臣を記録した。仰庇が在京中に商人の仲介をしたことがあったため、内召には及ばず、広東参議に任じられた。まもなく帰郷を請うた。家に十余年居住し、江西で官に起用された。再び南京太僕少卿に転じた。入朝して左僉都御史となり、左副都御史に進んだ。仰庇は初め直節をもって盛名を負っていたが、この時は保身を図り、かなり付和雷同を免れなかった。饒伸が科場の事で大学士王錫爵・左都御史呉時来を弾劾すると、仰庇はただちに饒伸を弾劾した。進士薛敷教が呉時来及び南京右都御史耿定向を弾劾すると、仰庇は疏を読む間もなく、ただちに薛敷教が大臣を排斥陥れると論じ、薛敷教は罪に坐して免職となった。吏部侍郎趙煥・兵部侍郎沈子木が相次いで去ると、仰庇は彼らに代わろうと謀り、その跡が甚だ顕著であった。給事中王継光・主事姜延士昌・員外郎趙南星・南京御史王麟趾らが相次いで上疏して論列した。仰庇は自ら安からず、たびたび去職を求めた。帝は慰留したが、衆議は止まず喧しかった。やや遅れて刑部右侍郎に転じた。病を理由に帰郷し、久しくして卒した。
駱問禮
附 楊松
楊松は河南衛の人である。御史を歴任し、皇城を巡視した。尚膳少監黄雄が子銭を徴収して民と争い、兵馬司が捕らえて楊松の所に送った。事が未決のうちに、内監が校尉に命じて黄雄を入直に急がせ、偽って駕帖があると言った。楊松が検問して無いことを確かめ、遂に黄雄が詔旨を詐称したことを弾劾した。帝は兵馬司の官を罷免し、楊松の官位を三階下げ、山西布政司照磨に左遷した。神宗が立つと、廬州推官に抜擢され、ついに山西副使となった。
附 張応治
張応治は秀水の人である。垣中(諫官の職)において直言上疏し、多く称賛に値するものがあった。高拱に憎まれ、九江知府として出された。ついに山東副使となった。
鄭履淳
近年以来、万民は失業し、四方には事変多く、天鳴り地震し、災害が重なって至り、まさに陛下が宵旰憂勤される時である。飢寒が身に迫れば、衣食は容易いが、嗷嗷たる赤子は、聖主が資とする所以である。今、周家の桑土の謀を定め、虞廷の困窮の懼れを切にせずんば、上天が海内を警動する所以は、かえって他人に資するに足りる。今、最も急務なのは賢を用いることに如くはない。陛下が御極して三祀になるが、曾て一大臣を召して問い、一講官と面質し、一諫士を賞納して、共に患いを思い予防の策を画したことがあろうか。高亢にして孤ならず、乾坤は隔たり、忠言は重ねて檻を折る罰を受け、儒臣は虚しく牖を納むる功をなし、宮闈は珥を脱ぐ規に違い、朝陛は同舟の義に拂う。回奏は譴責を受け、補牘は何に従おうか。内批は径ちに出で、封還は何よりせん。紀綱は因循し、風俗は玩愒す。功罪は核せず、文案は徒らに繁し。閽寺は潜かに厲階となり、善類は漸く以て短気す。言宮府に渉れば、肆に撓み多端なり。梗は私門に在り、堅持して破れず。万衆惶惶として、皆、群小が常を侮り、明良疏隔し、開闢以来、かくの如くにして永く安んずるものなしと言う。伏して願わくは、英断を奮って大計を決し、小故に淆されることなく、浚哲を弘めて君子を任じ、嬖昵に惑わされることなく、美色奇珍の玩びを移して瘡痍を保ち、昭陽細務の勤めを分かちて庶政を和し、蛮裔を以て関門の勁敵とし、銭穀を以て黎庶の脂膏とし、陸樹声・石星の流れを抜擢任用し、殷士儋・翁大立らの上疏を嘉納し、経史講筵に日々親しみ倦まず、臣民の章奏を所司と面相して可否し、万機の裁理漸く熟し、人才の邪正自ずから知り、変を察し微を謹み、天を回して泰を開かんことを。計、これに逾るは無し。
疏が入ると、帝は大いに怒り、百回杖ち、数か月間刑部の獄に繋いだ。刑科の舒化らが言上したため、ようやく民として釈放した。神宗が立つと、光禄少卿に起用され、卒した。
陳吾德
附 李已
李已、字は子復、磁州の人。嘉靖四十四年の進士。太常博士に除され、礼科給事中に抜擢される。隆慶中、頻りに詔して戸部に征索すべき所あり。尚書劉体乾は輒ち執奏し、李已は毎之を助け、以て積もりて帝意を失う。珍宝の事を争うに及び、遂に禍を得る。未幾、刑科給事中舒化等、李已を釈放せんことを請う。刑部尚書葛守礼等因りて言う、「朝審の時、重囚にして情に矜疑すべき者は、咸に末減を得。李已及び内犯張恩等十人、讞未だ定まらず、朝審の中に列せず。苟くも犴狴に瘐死せば、将に深仁を累わさん」。帝乃ち李已を釈し、張恩等は系ぐこと旧の如し。法司、張恩等に内援あるを以て、借りて以て李已を脱せんと欲す。李已独り釈さるるに及び、衆翕然として帝の仁明を称す。
神宗立ち、薦めて起し兵科都給事中と為す。奏して言う、「陛下初基、弊端尽く去り、伝奉一事、豈に尚故常を踵ぐべけんや。内臣即ち勤労あらば、当に金帛を以て優すべく、名器の在る所、濫設を容れず」。帝嘉納す。御史胡涍建言して罪を得るに、李已首めて論救す。尋いで兵部尚書譚綸の辺将を去取するの不当なるを劾す。平江伯陳王謨罪ありて廃せられ、復夤縁して出でて湖広を鎮むるに、李已力争して止むを得しむ。順天府丞に擢げられ、大理右少卿に遷る。父母の誥命を改めんことを疏請し、日既に暮れ、禁門に逼り守る者に投じて入らしむ。帝怒り、常州同知に謫す。
初め、李已は吾徳と並び敢えて言い、李已は尤も直を以て著わる。両たび摧抑に遭い、頗る営進に事う。後南京考功郎中と為る。九年の京察、張居正の指を希い、尚書何寛とともに司業張位・長史趙世卿を察典に置き、遂に擢げられて南京尚宝卿と為る。三たび遷りて右僉都御史、保定六府を巡撫す。年を踰えて罷め帰り、卒す。
附 胡涍
胡涍、字は原荊、無錫の人。嘉靖末に挙げて進士と為る。歴て永豊・安福二県を知り、御史に擢げられる。神宗即位の六日、馮保に命じて孟沖に代わり司礼監を掌らしめ、南京守備張宏を召用す。胡涍、近習を厳しく馭し、諂諛に惑わされ、聖徳を虧損せざることを請う。馮保大いに怒り、之を傾けんとす。其の冬、妖星見え、慈寧宮後延焼して房を連ぬ。胡涍、遍く掖廷中に先朝寵幸を曾て蒙りし者を察し、体恤優遇し、其の余は老少を論ぜず、一概に放遣せんことを乞う。奏中に「唐高不君、則天為虐」の語あり。帝怒り、輔臣に問う、二語の指す所誰ぞと。張居正対えて曰く、「胡涍の言は狂悖なれども、心に他なし」。帝意未だ釋せず、厳旨を以て譙譲す。胡涍惶恐して罪を請い、斥かれて民と為る。年を踰え、巡按御史李学詩胡涍を薦む。詔して自後薦むる者あらば、並びに逮治して胡涍とせよ。久しきのち、卒す。
汪文輝
汪文輝、字は徳充、婺源の人。嘉靖四十四年の進士。工部主事に授かる。隆慶四年、御史に改む。高拱、内閣を以て吏部を掌り、権勢烜赫たり。其の門生韓楫・宋之韓・程文・塗夢桂等並びに言路に居り、日夜其の門を走り、専ら務めて搏撃す。文輝も亦た高拱の門生なれど、心独り之を非とす。明年二月、四事を疏陳し、専ら言官を責む。其の略曰く、
先帝末年任用せし大臣は、本協恭して務を済し、少も釁嫌無し。始め一二の言官、廟堂の議論稍々殊なるを見て、遂に潜かに低昂を察し、向かう所を窺いて其の忌む所を攻む。致すに是非を顛倒し、聖聴を熒惑し、国家の大體を傷つく。苟くも前弊を踵承し、交煽並構し、正人をして其の位を安んぜしめざらば、恐らくは宋元祐の禍、復た今に見えん、是れ傾陷と為す。
祖宗の立法、至って精密なり、而して卒に行われざる者は、法の敝れるに非ず、其の人を得ざるのみ。今言官条奏するは、率ね鋭意更張す。部臣は言官に重ねて違うを重んじ、祖制を軽んじて変じ、一時に遷就し、苟且に允覆す。法立ち弊起こるに及び、又旧に復せんと議す。政は通変の宜に非ず、民は画一の守無し、是れ紛更と為す。
古、大臣事に坐して退く者は、必ず其の詞を微にす、以て廉恥を養い、国體を存する所以なり。今或いは其の已往を掇い、彼の未形を揣り、景に逐い声に循い、争相い詬病す、市井の喧哄の若し。方面の重臣に至りては、苟くも甚だしき奸慝に非ざれば、亦た短を棄て長を録すべく、人才の為に惜しむべし。今或いは小疵を搜抉し、指して大蠹と為し、極言醜詆し、決して引去せしむ。此を以て人を求めば、国家安んぞ全才を得て之を用いんや。是れ苛刻と為す。
言官は能く人主を規切し、大臣を糾弾す。言官の短に至りては、誰か之を指す者ぞ。今事を言い人を論ずるに或いは当たらずとも、部臣は奏覆せず、即ち憤然として平らかならず。同列と雖も其の非なるを明知すとも、亦た与に弁ぜず、以て體貌当に是の如くすべしと為す。夫れ臣子且つ肯て一言の過を受くること無くんば、何を以て君父に難きを責めんや。是れ求勝と為す。
この四つの弊害は、今日深く戒めるべきものである。しかしその要は、大臣が前の過失を鑑とし、旨を窺って事を起こす者を用いないことにある。旨を窺って事を起こす者が進めば、忠直で誠実な士は遠ざけられ、功績を称え、盛徳を誉める者が日に日に前に至る。大臣が己の専断を任せれば、たとえ欠失があっても、誰がそれを聞き届けようか。そもそも宰相の職は、時勢を救うことで自ら満足すべきではなく、心を正すことを本とすべきである。願わくは陛下が内外に明らかに戒め、徒党を組む私心を消し、淳朴で厚い風俗に戻されんことを。天下幸い甚だし。
上疏が奏上され、所管の役所に下された。高拱はこれが己を刺すものと憎み、わずか三日で、文輝を寧夏僉事として出向させた。文輝は屯政を整え、不当な税を免除し、水門を建設し、流亡の民は次第に帰ってきた。御史の富平人孫丕揚が高拱に逆らい、旨を窺う者によって弾劾された。ちょうど調査を行おうとした時、文輝は強く主張して言った。「些細なことを挙げ、正しい人を傷つけ、権力者の私意を快くするようなことは、私は固より肯んじないし、諸君もすべきではない。」そこでその事を緩めた。間もなく、弾劾した者が先に罪を得て去り、丕揚はついに免れることができた。神宗が位を継ぐと、高拱は政務を罷められ、文輝は尚寶卿に召された。まもなく辞職して帰郷した。久しくして、詔により召し出されて任用されたが、赴任せずに死去した。
劉奮庸
劉奮庸は洛陽の人である。嘉靖三十八年の進士。兵部主事に任じられた。まもなく礼部に改められ、兼ねて翰林待詔となった。穆宗が裕王の邸にいた時、侍した。員外郎に進んだ。穆宗が即位すると、旧恩により、尚寶卿に抜擢された。その後、藩邸の旧臣が相次いで権力を握ったが、奮庸だけは長く転任しなかった。大学士の高拱もまた旧臣であったが、再び起用されて政務を任され、甚だ専横であったので、奮庸はこれを憎んだ。隆慶六年三月、上疏して言った。
陛下が即位されて六年、朝綱は整えられたかのようであるが、大権は次第に移りゆく。官途は粛清されたかのようであるが、積年の弊習は依然として旧態である。百官は励精の治めを見ようと首を長くしているのに、陛下の精神と志意は次第に初めに及ばなくなっている。臣は潜邸の旧恩を思い、情誼上黙しているに忍びない。謹んで五事を条陳し、英断を待つ。
一、聖躬を保たれよ。人主の一身は、天地人神の主である。必ず志気清明で、精神が完全に固まってこそ、万機を統御することができる。凝神定志し、性を忍び情を抑え、旦夕の娯楽を逞しくせず、際限なき欲望に従わなければ、限りなき福は長く保たれるであろう。
二、大権を総攬されよ。今、政府が擬議し、百官が承行することは、詔旨を奉じないわけではないが、その間の従うか違うかの理由について、陛下はかつて独断されたことがあるか。国事の変更、人材の任用捨ては、必ずしもすべて忠謀から出て、公論に合致しているわけではない。臣は願わくは陛下が自ら大権を攬られ、凡そ諸官府の建議、閣臣の擬旨は、特に清覧に留め、時に独断を出されば、臣下はその機微を測ることができず、政権は傍らに落ちることはないであろう。
三、倹徳を慎まれよ。陛下が即位されて以来、銀を取る旨を伝えたのは数十万に下らず、珍異の宝を求め、鰲山の灯りを作り、衣服・車馬・器物・用具はすべて金を鏤り玉を彫る。財を生むことは甚だ難しく、浪費は規律がない。願わくは内帑の空虚を察し、小民の艱苦を思い、益なきことを作らず、異物を貴ばなければ、国用は充ち溢れ、民はその生を楽しむであろう。
四、章奏を覧られよ。人臣が進言することは、皆が適切であるわけではない。陛下が一切これを覧ずることもなく置けば、忠良が献納する誠意を虚しくするのみならず、権奸が蔽い塞ぐことが、ここから勢いを成すことを恐れる。願わくは陛下が章奏に留意し、曲げて容納を垂れられよ。君徳に言及すれば、己に反して自ら修められよ。朝政に言及すれば、更化して善く治められよ。言を聴く者が既にそれを行事に見、進言する者は益々忠を効することを楽しむであろう。
五、忠直を用いられよ。近年進諫する者は、あるいは勤政を以てし、あるいは節用を以てし、あるいは賢を進め不肖を退けることを以てするが、これらは皆、利することなくして為すものである。風旨を承け望み、攻撃を肆にして他人の憤りを晴らし、権要に迎合し、交わって薦め抜いて淫朋の党を樹てる者とは比べるべくもない。
願わくは狂愚の罪を恕し、鱗に逆らう誠を嘉し、これを位に登らせて士気を振るわしめられよ。そうすれば正しい規諫が日に日に聞こえ、裨益少なからざるであろう。
上疏が入ると、帝はただ聞いたと報じただけで、怒らなかった。しかし高拱に附く者は、奮庸が長く官を移さず、不満をもって風刺したと言い、互いに誹謗した。給事中の塗夢桂は遂に奮庸が国是を動揺させると弾劾した。時に給事中の曹大埜もまた高拱の十罪を弾劾したが、帝はこれを斥けた。給事中の程文はこれにより、高拱が忠を尽くして国に報い、万世永く頼むべきであると奏し、奮庸と大埜が次第に奸謀を構え、元輔を陥れようとした罪は誅するに勝えぬと述べた。上疏は共に吏部に下された。高拱がちょうど部事を掌っており、表面上は二臣のために寛大を祈った。帝は許さず、ついに大埜を乾州判官に、奮庸を興国知州に貶謫した。夢桂と文はともに高拱の門生であった。夢桂は奮庸を極めて誹謗し、文は盛んに高拱を称頌し、また大埜の上奏中の言葉を挙げ尽くして高拱に代わって弁明したので、士論はこれを非とした。奮庸が貶謫されて二か月、神宗が即位すると、遂に山西提学僉事に抜擢された。再び陜西提学副使に転じた。病を理由に帰郷を乞い、死去した。
附 曹大埜
大埜は巴県の人である。その高拱弾劾は、張居正が実はこれをさせたものである。万暦年間中、累進して右副都御史となり、江西を巡撫した。貪婪を弾劾されて免官された。
贊
賛に曰く、世宗の季、門戸漸く開く。言路に居る者は、各々主とするところ有り、故に其の時に其の言わざるを患えず、其の言の冗漫にして当たらず、と其の心の私無からざる能わざるを患う。言愈多くして、国是愈々淆乱す。汪文輝の陳ぶる所の四弊、旨有るかな!明季言路の諸臣を論じて、其の得失を考うるは、当に是に於いて之を観るべし。