明史

列傳第一百〇三 王治、歐陽一敬、周弘祖、詹仰庇、駱問禮、鄭履淳、陳吾德、汪文輝、劉奮庸

○王治、歐陽一敬(胡應嘉)、周弘祖(岑用賓、鄧洪震)、詹仰庇、駱問禮(楊松、張應治)、鄭履淳、陳吾德(李已、胡涍)、汪文輝、劉奮庸(曹大埜)

王治

王治は、字を本道といい、忻州の人である。嘉靖三十二年の進士。行人に任ぜられ、吏科給事中に遷る。賊がしばしば辺境を侵すと、辺境の臣は多くこれを隠して奏上せず、小勝するや、文臣はしばしば軍功を冒した。王治は、臨陣の斬獲については、ただ将士の功績のみを記録し、文臣および鎮帥で親しく搏戦しなかった者は、賞賜のみに止めるよう請うた。これに従い、再び礼科左給事中に遷る。

隆慶元年、御史王好問とともに内府諸監局の歳費を審査した。中官の崔敏がこれを停止するよう請うたが、給事中張憲臣に弾劾された。詔旨を得て、「詔書に記載されたものは、嘉靖四十一年より始め、王治らに詳細に審査させよ。記載されていないものは、これを止めよ」という。王治らは力爭したが、許されなかった。事が竣ると、中官趙廷玉・馬尹の幹没の罪を弾劾し、詔して司礼監に按問させた。まもなく上疏して四事を陳べた。「一、宗廟の礼を定めて聖孝を隆くすべし。献皇は貴くして天子の父たりといえども、未だ南面して天下に臨んだことはなく、親しく武宗の叔たりといえども、かつて北面して武宗に事えた。今、祖宗の諸帝と並列し、位を武宗の右に設けるは、諸古典に揆うるに、終に未だ協わず。臣は、献皇を太廟に祔するは、免れず遞遷すべしと以為う。もし世廟を専祀すれば、則ち億世改めず。廷臣に博議を乞い敕し、務めて至当を求めしめよ。一、燕居の礼を謹んで化源を澄ますべし。人主深く禁掖に居れば、左右の便佞、窺伺百出し、或いは燕飲声楽を以てし、或いは遊戲騎射を以てす。近くは則ち精神を損敝し、疾病の生ずる所となり、久しくは則ち政事を妨累し、危乱の起こる所となる。比者、人言籍籍として、陛下の燕閑の挙動に、諒闇の宜しくすべきに非ざる者有りと謂う。臣窃かに陛下の為にこれを慮る」と。その二は、朝講を勤め、輔弼に親しむことを請うた。疏が入り、聞くに報ず。

吏科都給事中に進む。薊遼総督都御史劉燾・南京督儲都御史曾於拱の不職を弾劾し、曾於拱は遂に罷免された。山西及び薊鎮ともに賊の中にあり、王治は兵部尚書郭乾・侍郎遅鳳翔の罪を以てし、同官の歐陽一敬らとともにこれを弾劾した。詔して郭乾を罷め、遅鳳翔を三秩貶して視事させた。部議して光祿少卿馬従謙を恤う。帝は許さず、王治は疏を争う。帝は馬従謙の犯したところを、子が父を罵る律に比し、終に允さず。王治はまた何瑭の追謚を請い、夏言の罪を雪ぎ、かつ大理卿朱廷立・刑部侍郎詹瀚が共に夏言・曾銑の獄を鍛え成したことを言い、その官を追奪すべきとす。皆、報可される。明年、左右に南海子の勝れたるを言う者有り、帝は往幸せんとす。王治は同官を率いて諫め、大学士徐階・尚書楊博・御史郝傑ら並びに阻止す。皆聴かず。至れば則ち荒莽沮湿にして、帝は甚だこれを悔いた。王治はまもなく太僕少卿に擢げられ、大理に改め、太僕卿に進む。憂いにより帰り、卒す。

歐陽一敬

歐陽一敬は、字を司直といい、彭澤の人である。嘉靖三十八年の進士。蕭山知県に任ぜられ、征召されて刑科給事中を授かる。太常少卿晉應槐が文選郎であった時の劣った状を弾劾し、また南京侍郎傅頤・寧夏巡撫王崇古・湖広参政孫弘軾は晉應槐によって進められたもので、皆罷免すべきとす。吏部は晉應槐らのために弁じ、ただ傅頤の官を罷むるのみ。未だ幾ばくもなく、礼部尚書董份を劾して罷む。三たび遷り兵科給事中となる。広西総兵は都督ととくを用うべく、勛臣を用うべからずと言う。よって恭順侯吳繼爵を劾し、これを罷め、俞大猷を以て代えしむ。賊大いに陜西に入り、総督陳其學・巡撫戴才を劾し、皆官を奪わる。また軍政を以て英國公張溶、山西・浙江総兵官董一奎・劉顯、錦衣衛都督を掌る李隆ら九人の不職を弾劾す。張溶は留められ、余は皆貶黜される。

嚴嵩が敗れて以来、言官は争って発憤して事を論じ、歐陽一敬は特に敢えて言う。隆慶元年正月、吏部尚書楊博が京察を掌り、給事中鄭欽・御史胡維新を黜し、しかるに山西人に下考なる者無し。吏科給事中胡應嘉は楊博が私憤を挟み郷里を庇うと弾劾す。胡應嘉は先に高拱を劾したことがあり、高拱は郤を修め、将にこれを重く罪せんとす。徐階らは重ねて高拱の意に違い、かつ胡応嘉が実に察を佐け、初めは言わず、今同官と党して妄りに奏するを以てし、旨を擬して民に斥かんとす。言路大いに嘩く。歐陽一敬は胡応嘉のために訟い、楊博及び高拱を斥く。高拱を奸険横悪、蔡京に異ならずと詆り、かつ言う、「胡応嘉の前の疏は臣も聞くところ、胡応嘉を黜するは臣を黜するに如かず」と。時に給事中辛自修・御史陳聯芳が疏を争うに会い、徐階は乃ち胡応嘉を建寧推官に調ず。歐陽一敬はまもなく高拱が朝紳を威制し、専柄して国を擅にするを劾し、亟に罷むべしとす。聴かれず。一月を逾え、御史齊康が徐階を劾す。諸給事御史は齊康が高拱の指を受けしを以てし、群れ集まって闕下に詈りてこれに唾す。歐陽一敬はまず齊康を劾し、齊康もまた歐陽一敬を劾す。時に齊康は高拱を主とし、歐陽一敬は徐階を主とし、互いに党と指す。言官多く齊康を論じ、齊康は竟に坐して謫せらる。

已にして、兵政八事を陳べ、部は皆議して行う。南京振武営の兵はこれにより罷まる。湖広巡按陳省が太和山守備中官呂祥を劾し、詔して呂祥を征還し、守備官を罷む。未だ幾ばくもなく、また監丞劉進を遣わして往き代わらしむ。歐陽一敬言う、「劉進は故に名を俊といい、顯陵を守りて状無し。肅皇帝これを獄に下し、孝陵衛の凈軍に充つ。今用うべからず」と。これに従う。中官呂用らが京営を典す。歐陽一敬力諫し、事は寝す。黔國公沐朝弼は殘恣にして、屡詔旨に抗す。歐陽一敬はその罪を治むるを請い、報可される。俄かに太常少卿に擢げらる。高拱再び起きて政を柄とす。歐陽一敬懼れ、即日告帰し、半道にて憂いにより死す。時に胡応嘉は已に屡遷して参議となり、憂いにより帰る。高拱の再び相たるを聞き、また驚怖して卒す。

附 胡應嘉

胡應嘉は、沐陽の人である。宜春知県より擢げられて吏科給事中となる。三たび遷り都給事中となる。侍郎黄養蒙・李登雲及び布政使李磐・侯一元の不職を論じ、皆罷去せしむ。李登雲は、大学士高拱の姻なり。胡応嘉は高拱必ずや己を害せんと策し、遂に高拱を併せて劾し、言う、「高拱が輔政の初め、直廬を以て隘しと為し、家を西安門外に移し、夤夜潜かに帰る。陛下近く稍違和す。高拱は即ち直廬の器物を私に運びて外に出す。臣、高拱が何の心なるかを知らず」と。疏入り、高拱大いに懼れ、亟に奏して弁ず。時に帝崩ずるに会い、竟わずして済む。高拱はこれにより胡応嘉を銜む。穆宗嗣位す。胡応嘉は帝が文華殿に御し輔臣と面議して大政とし、諸卿を召訪して顧問侍従とし、科臣に事に随い駁議せしむるを請う。帝これを納る。胡応嘉は諫職に居り、敢えて言うと号す。然れども悻悻として搏撃を好み、議者は頗る傾危を以てこれを目す。

周弘祖

周弘祖は麻城の人である。嘉靖三十八年の進士。吉安推官に任ぜられた。召されて御史となり、出て屯田・馬政を監督した。隆慶元年、司礼監の宦官および藩邸の近侍が錦衣指揮以下二十余人を蔭官させようとした。弘祖は急ぎ上疏して金幣の賜与を止め、あるいは世襲を停めるよう請い、かつ言うには、「高皇帝が制度を定められ、宦官は奔走掃除を給するのみで、政事に関わらせなかった。孝宗は大臣を召して対せられるとき、宦官は必ず百余歩退去させ、ただ預からせぬのみならず、聞かせもしなかった。願わくは陛下には彼らと謀議をせず、嚬笑を仮さず、そうすれば彼らに乱政の階梯なく、聖徳は太祖・孝宗に比肩しよう。臣はまた聞く、先帝の初年、太監張欽の義子を錦衣に蔭官させようとしたとき、兵部尚書彭沢が再三執奏した。今、趙炳然が彭沢の位に居ながら、彭沢の忠を効すことができず、罪を逃れることはできない」と。奏聞に報ず。やがて、内府監局・錦衣衛・光禄寺・文思院の冗員を淘汰し、嘉靖初年の旧に復するよう請い、また古の社倉制を行なうよう請うた。詔して皆これに従う。

翌年春、言うには、「近ごろ四方地震し、土裂けて渠となり、旗竿数たび火を発し、天鼓再び鳴り、隕星旋風し、天黒豆を雨ふらす、これ皆陰盛の徴である。陛下即位二年、未だ嘗て大臣に接見し、治道を諮訪せられず。辺患甚だ急にして、備禦の方なし。事内庭に渉れば、輒ち撓沮を見る、例えば馬を閲し、庫を核するも、詔出でて復た停まる。皇莊は則ち親しく子粒を収め、太和は則ち香銭を専売し、織造の使累ねて遣わし、糾劾の疏は中に留まる。内臣の爵賞謝辞、温旨遠く六卿の上に出ず、特に祖宗朝に絶えて無き者である」と。疏入るも、報ぜず。その冬、珍宝を買い入れる詔があり、魏時亮らが争うも、聴かず。弘祖また切に諫める。まもなく福建提学副使に遷る。大学士高拱が吏部を掌り、言官を考察し、弘祖および岑用賓らを憎み、弘祖を安順判官に、用賓を宜川県丞に貶す。

附 岑用賓

用賓は広東順徳の人である。官は南京給事中、多く論劾した。また嘗て高拱が剛愎であると論じ、この故に高拱はこれを恨み、紹興知府に出した。既に察典に中てられ、遂に貶所に卒す。そして弘祖は貶されてまもなく、高拱罷免され、量移して広平推官となり、万暦年間、累遷して南京光禄卿となる。朱衣で陵を謁して免ぜられる。

附 鄧洪震

隆慶初め、地震を以て事を言う者に、また鄧洪震あり、宣化の人。時に兵部郎中、上疏して曰く、「夏に入りて以来、淫雨弥月。また京師は去冬地震し、今春風霾大いに作し、白日光無し。近ごろ大同また雨雹物を傷め、地震声有りと報ず。陛下臨御甫かに半年、災異重ねて見ゆ。伝聞するに後宮遊幸時に無く、嬪禦相随い、後車充斥す。左右近習、濫りに賜予す。政令屡々易わり、前後背馳し、邪正混淆し、用舎猶す。万一奸宄潜かに生じ、寇戎軼犯せば、何を以てかこれに待たん」と。帝その言を納れ、礼官に下して修省を議せしむ。洪震まもなく疾を以て帰る。万暦元年、督撫交章して論薦すも、竟に起たず。

詹仰庇

詹仰庇、字は汝欽、安渓の人。嘉靖四十四年の進士。南海知県より召されて御史となる。隆慶初め、穆宗詔して戸部に宝珠を購わせる。尚書馬森執奏し、給事中魏時亮・御史賀一桂ら継いで争うも、皆聴かず。仰庇疏を上して言う、「頃に言官宝珠購入を諫め、反って詰責せらる。昔、仲虺は湯を戒めて声色に邇まず、貨利を殖やさずとし、召公は武王を戒めて人を玩すれば徳を喪い、物を玩すれば志を喪うとす。湯・武は二臣の戒めを受け、玩好を絶ち去りたる故に、聖徳千載に光る。若し侈心一生すれば、復た遏むべからず、情を恣にし欲を縦にすれば、財耗え民窮す。陛下玩好の端漸く啓き、弼違の諫を聞くを悪む。群小隙に乗じ、百方誘惑し、害言うに勝えざる者有らん。況んや宝石珠璣は多く中貴の家に蔵し、これを求むる愈急なれば、直を邀う愈多し、何ぞ有用の財を以て、無用の物にこれを耗さん。今両広餉を需む、疏請再三すれども、猶予するに靳みて与えず、何ぞ軽重倒置することや」と。報ぜず。三年正月、宦官煙火を製し、延焼して禁中の廬舎に及ぶ。仰庇按治を請う。左右近習多く切歯する者あり。

帝頗る声色に耽り、陳皇后微かに諫むるも、帝怒り、これを別宮に出だす。外廷皆これを憂うるも、敢えて言う者なし。仰庇朝に入り、医が禁中より出づるに遇う。これを詢ね、后寝疾危篤なるを知り、即ち上疏して言う、「先帝慎んで賢淑を択び、陛下に配し、宗廟社稷の内主と為す。陛下宜しく先帝の命に遵い、宮闈の好を篤くすべし。近く聞く、皇后別宮に移居し、已に一載に近く、抑郁して疾を成し、陛下略く省視せず。万一不諱あらば、聖徳を如何にせん。臣下憂惶せざる莫きも、徒らに事宮禁に渉るを以て、敢えて頌言せず。臣謂う、人臣の義、知りて言わざれば当に死すべく、言いて諱に触るるも亦た当に死すべし。臣今日固より死を惜しまず、願わくは陛下臣の言を采聴し、立って皇后を中宮に復し、時に慰問を加えよ。臣死すと雖も生に賢れり」と。帝手批して答えて曰く、「后子無く多く病み、別宮に移居するは聊か自ら適し、以て疾を却えんことを冀う。爾何ぞ内庭の事を知りて、顧みて妄言せん」と。仰庇自ら重譴を得んと分ち、同列も亦たこれを危ぶむ。及び旨下り、中外驚喜過望し、仰庇益々感奮す。

間もなく、十庫を巡視し、疏を上して言う、「内官監歳入租税甚だ多しと雖も、歳出は籍を置かず。按ずるに京城内外の園廛場地、本監に隷するもの数十計り、歳課皆官銭に属す。而るに内臣上供の名を仮り、恣意に漁獵す。利は私家に填まり、過は朝寧に帰す。乞う、備核し宜しく留むべきか革すべきか、並びに出入の多寡の数を以て、奸欺を杜がん。再び照らすに、人主の奢儉は四方の安危に係る。陛下前に戸部の銀を取られ、緩急に備う。今本監の称する如くんば、則ち尽く以て鰲山を創り、宮苑を修め、鞦韆を製し、龍鳳艦を造り、金櫃玉盆を治む。群小因りて幹没し、聖徳を累ね、国計を虧く。望むらくは陛下深く省み、玩好を以て逢迎する者有らば、悉く屏出してこれを罪せよ」と。宦官益々恨む。故事に、諸司文移往還及び牧民官の教を出すに、「照」字を用う。言官上書にこの体無し。宦官因りて「再照人主」の語を指し、大不敬と為す。帝怒り、詔を下して曰く、「仰庇小臣、敢えて天子に照及び、且つ狂肆屡々悛めず」と。遂に廷杖一百、除名し、並びに科道の庫蔵を巡視する者を罷む。南京給事中駱問礼・御史余嘉詔ら疏を上して救い、且つ巡視官罷むべからずと言う。納れず。仰庇御史と為ること僅かに八月、数たび讜言を進むるも、竟に罪を得る。

神宗が位を継ぐと、先朝の直臣を記録した。仰庇が在京中に商人の仲介をしたことがあったため、内召には及ばず、広東参議に任じられた。まもなく帰郷を請うた。家に十余年居住し、江西で官に起用された。再び南京太僕少卿に転じた。入朝して左僉都御史となり、左副都御史に進んだ。仰庇は初め直節をもって盛名を負っていたが、この時は保身を図り、かなり付和雷同を免れなかった。饒伸が科場の事で大学士王錫爵・左都御史呉時来を弾劾すると、仰庇はただちに饒伸を弾劾した。進士薛敷教が呉時来及び南京右都御史耿定向を弾劾すると、仰庇は疏を読む間もなく、ただちに薛敷教が大臣を排斥陥れると論じ、薛敷教は罪に坐して免職となった。吏部侍郎趙煥・兵部侍郎沈子木が相次いで去ると、仰庇は彼らに代わろうと謀り、その跡が甚だ顕著であった。給事中王継光・主事姜延士昌・員外郎趙南星・南京御史王麟趾らが相次いで上疏して論列した。仰庇は自ら安からず、たびたび去職を求めた。帝は慰留したが、衆議は止まず喧しかった。やや遅れて刑部右侍郎に転じた。病を理由に帰郷し、久しくして卒した。

駱問禮

駱問禮は諸暨の人である。嘉靖末年に進士となった。南京刑科給事中を歴任した。隆慶三年、陳皇后が別宮に移ると、問禮は同官の張応治らとともに上疏して言った、「皇后は中宮の正位にあり、たとえ病があっても、どうして宮を移すべきでしょうか。速やかに坤寧宮に戻され、後世が礼の変更が陛下より始まったと言わないよう願います。」返答はなかった。給事中張斉が徐階を弾劾し、廷臣に排斥されて獄に下され官籍を削られた。問礼はただ一人、張斉の賍物は疑わしく、大臣を糾弾したことをもってその罪を確定すべきではないと述べた。張居正が大閲を請うと、問礼は緊要な務めではないとし、帝が日々万機に親しみ、奏章を詳しく覧られるよう請うた。まもなく、誠意伯劉世延・福建巡撫塗澤民が職務を果たさないことを弾劾したが、帝はともに留任させた。

帝は初め言官の請いを容れ、諸政務をすべて便殿で面奏させることとしようとしたので、問礼は遂に上奏すべき事柄を条陳した。第一に、「陛下が万機を親ら統べられるには、群臣の言を斟酌して用い、自らの見解に固執せず、可否・予奪がすべて天道に合うようにすべきであり、そうすれば独断の美があり、自らを用いる過ちはない。」第二に、「陛下は日々便殿に居られ、侍従官を常に左右に置き、日が暮れなければ宮闈に入られないようにすべきであり、そうすれば涵養薰陶され、自ずから多くの益がある。」第三に、「内閣は政事の根本であり、諸司の者を参用すべきで、翰林に拘束されることなく、そうすれば義理を講明し、政事に通達する者を皆得ることができる。」第四に、「詔旨は必ず六科を経由し、諸司は初めて奉行できるようにすべきであり、もし不適当なものがあれば、封還して執奏することを許すべきである。もし六科が封駁せず、諸司が検査を失った場合は、御史に糾弾することを許す。」第五に、「近ごろ詔書が二度下り、皆が直言することを許された。しかし採用されたものは、言官と一二の大臣を除き、すべて所司に付されただけである。言路を益々広げ、臣民の章奏について、その人ではなくその言を重んじ、匹夫でも自ら効力を尽くせるようにすべきである。」第六に、「陛下が臨朝して事を決せられる際、給事左右の者、例えば旨を伝え、奏章を受け取る類いは、文武の侍従を用い、中官に参与させないようにすべきであり、そうすれば窺い窃む兆しは自ら生じない。」第七に、「士風が傾き危うく、少しでも異同があれば、すぐに排斥陥れることを加える。今後国事を議するにあたっては、ただ是非を論じ、好悪に従わないようにすべきである。衆人の言が必ずしも正しくなく、一人の言が必ずしも誤りではないとすれば、公論は日々明らかになり、士気は振るうことができる。」第八に、「政令の発出は、必ず実行されるべきである。今、所司が題覆し、すでに許可されたものでも修め挙げられたものは見られず、因循苟且で怠惰となり、常習となっている。陛下は上において明らかに振るい起こし、諸臣に下において奮励するよう勅し、頽惰の風潮を挽回すべきである。」第九に、「面奏の儀礼は、繁文を略し、実用を求め、諸臣が入って敷奏し、退いて事を治め、両方が妨げられることのないようにすべきであり、そうすれば上下の交わりは長く続く。」第十に、「修撰・編検らの諸臣は、順番に入直させ、乗輿に近侍させ、一切の言動を、簡を持ち書を侍して記録させる。耳目の及ばないことについては、諸司が月報または季報で報告し、随時事を纂輯して、勧戒を垂れるようにすべきである。」

疏が奏上されると、帝は喜ばなかった。宦官侍従がさらに中で讒構したため、楚雄知事に左遷された。翌年、吏部が雑職官で昇進すべき者を挙げたところ、問礼と御史楊松が挙げられた。帝は言った、「この二人はどうして急に昇進できようか、三年後に議するように。」万暦初年、たびたび転じて湖広副使となり、卒した。

附 楊松

楊松は河南衛の人である。御史を歴任し、皇城を巡視した。尚膳少監黄雄が子銭を徴収して民と争い、兵馬司が捕らえて楊松の所に送った。事が未決のうちに、内監が校尉こういに命じて黄雄を入直に急がせ、偽って駕帖があると言った。楊松が検問して無いことを確かめ、遂に黄雄が詔旨を詐称したことを弾劾した。帝は兵馬司の官を罷免し、楊松の官位を三階下げ、山西布政司照磨に左遷した。神宗が立つと、廬州推官に抜擢され、ついに山西副使となった。

附 張応治

張応治は秀水の人である。垣中(諫官の職)において直言上疏し、多く称賛に値するものがあった。高拱に憎まれ、九江知府として出された。ついに山東副使となった。

鄭履淳

鄭履淳は字を叔初といい、刑部尚書鄭暁の子である。嘉靖四十年の進士に挙げられ、刑部主事に任じられ、尚宝丞に遷った。隆慶三年冬、上疏して言った、

近年以来、万民は失業し、四方には事変多く、天鳴り地震し、災害が重なって至り、まさに陛下が宵旰憂勤される時である。飢寒が身に迫れば、衣食は容易いが、嗷嗷たる赤子は、聖主が資とする所以である。今、周家の桑土の謀を定め、虞廷の困窮の懼れを切にせずんば、上天が海内を警動する所以は、かえって他人に資するに足りる。今、最も急務なのは賢を用いることに如くはない。陛下が御極して三祀になるが、曾て一大臣を召して問い、一講官と面質し、一諫士を賞納して、共に患いを思い予防の策を画したことがあろうか。高亢にして孤ならず、乾坤は隔たり、忠言は重ねて檻を折る罰を受け、儒臣は虚しく牖を納むる功をなし、宮闈は珥を脱ぐ規に違い、朝陛は同舟の義に拂う。回奏は譴責を受け、補牘は何に従おうか。内批は径ちに出で、封還は何よりせん。紀綱は因循し、風俗は玩愒す。功罪は核せず、文案は徒らに繁し。閽寺は潜かに厲階となり、善類は漸く以て短気す。言宮府に渉れば、肆に撓み多端なり。梗は私門に在り、堅持して破れず。万衆惶惶として、皆、群小が常を侮り、明良疏隔し、開闢以来、かくの如くにして永く安んずるものなしと言う。伏して願わくは、英断を奮って大計を決し、小故に淆されることなく、浚哲を弘めて君子を任じ、嬖昵に惑わされることなく、美色奇珍の玩びを移して瘡痍を保ち、昭陽細務の勤めを分かちて庶政を和し、蛮裔を以て関門の勁敵とし、銭穀を以て黎庶の脂膏とし、陸樹声・石星の流れを抜擢任用し、殷士儋・翁大立らの上疏を嘉納し、経史講筵に日々親しみ倦まず、臣民の章奏を所司と面相して可否し、万機の裁理漸く熟し、人才の邪正自ずから知り、変を察し微を謹み、天を回して泰を開かんことを。計、これに逾るは無し。

疏が入ると、帝は大いに怒り、百回杖ち、数か月間刑部の獄に繋いだ。刑科の舒化らが言上したため、ようやく民として釈放した。神宗が立つと、光禄少卿に起用され、卒した。

陳吾德

陳吾德、字は懋修、帰善の人。嘉靖四十四年の進士。行人に任ぜられる。隆慶三年、工科給事中に抜擢される。両広は賊多く、将吏は概ね虚文をもって上を欺く。吾德は便宜八事を列挙し、皆施行を許される。明年正月朔、日食あり、已にして月また食う。吾德言う、「歳首に日月並びに食うは、天の大災なり、陛下は一切の玩好を屏斥し、実をもって天に応ずべし」。詔して中官を遣わし織造を監督せしむるに、吾德は同官の厳用和とともに切諫し、聞くに報ず。帝、中官崔敏の言に従い、珍宝を買い求めよと命ず。戸部尚書劉体乾・戸科都給事中李已が執奏するも従わず。吾徳はまた李已とともに上疏して曰く、「伏して登極の詔書を拝見するに、采辦を罷め、加派を蠲免し、かつ云う『各監局は缺乏を名として、移文して苛く取り、及び所司の阿附して奉行する者は、言官即時に論奏し、重典を以て治すべし』と。海内これを聞き、歓び更生の若し。比来左右の近習、幹請紛紜し、玉を買い珠を市い、伝帖数下す。人情惶駭し、咸に詔書信ならず、適従すべき所なしと謂う。邇時府庫久しく虚しく、民生困瘁し、度支を司る者は日夕憂危す。陛下奈何ぞ玩好の故を以て、数十万の資を費やすや。敏等は諂を献げ私を営み、罪は宥すべからず。乞う、亟に譴斥し、以て詔書の大信を全うせん」。帝震怒し、李已を百たび杖ち、刑部の獄に錮し、吾徳を斥けて民とす。

神宗嗣位し、吾徳を起して兵科に就かしむ。万暦元年、右給事中に進む。張居正国を柄とし、諫官言事するには必ず先ず請う。吾徳独り往かず。礼部主事宋儒と兵部主事熊敦樸と相能わず、敦樸が居正を劾せんと欲すと誣い、尚書譚綸に属してこれを劾罷せしむ。既にして誣い漸く白く、吾徳遂に宋儒を劾し、また外に謫す。居正、吾徳が己に白状せざるを以て、これを嗛む。未幾、成国公朱希忠の贈定襄王爵を争い、益々居正に忤う。慈寧宮後室の災に及び、吾徳力争し、出でて饒州知府と為る。建昌王の印章を盗む者あり、遁れて南京に至り見獲さる。居正の客たる操江都御史王篆、吾徳の部下の盗を失うに坐し、馬邑典史に謫す。御史またその饒州に蒞る時、制に違いて講学し、庫金を用いて学田を市うたことを劾し、遂に除名して民と為す。居正死し、薦めて起し思州推官と為し、移して宝慶同知と為すも、皆親老を以て赴かず。後湖広僉事に終わる。

附 李已

李已、字は子復、磁州の人。嘉靖四十四年の進士。太常博士に除され、礼科給事中に抜擢される。隆慶中、頻りに詔して戸部に征索すべき所あり。尚書劉体乾は輒ち執奏し、李已は毎之を助け、以て積もりて帝意を失う。珍宝の事を争うに及び、遂に禍を得る。未幾、刑科給事中舒化等、李已を釈放せんことを請う。刑部尚書葛守礼等因りて言う、「朝審の時、重囚にして情に矜疑すべき者は、咸に末減を得。李已及び内犯張恩等十人、讞未だ定まらず、朝審の中に列せず。苟くも犴狴に瘐死せば、将に深仁を累わさん」。帝乃ち李已を釈し、張恩等は系ぐこと旧の如し。法司、張恩等に内援あるを以て、借りて以て李已を脱せんと欲す。李已独り釈さるるに及び、衆翕然として帝の仁明を称す。

神宗立ち、薦めて起し兵科都給事中と為す。奏して言う、「陛下初基、弊端尽く去り、伝奉一事、豈に尚故常を踵ぐべけんや。内臣即ち勤労あらば、当に金帛を以て優すべく、名器の在る所、濫設を容れず」。帝嘉納す。御史胡涍建言して罪を得るに、李已首めて論救す。尋いで兵部尚書譚綸の辺将を去取するの不当なるを劾す。平江伯陳王謨罪ありて廃せられ、復夤縁して出でて湖広を鎮むるに、李已力争して止むを得しむ。順天府丞に擢げられ、大理右少卿に遷る。父母の誥命を改めんことを疏請し、日既に暮れ、禁門に逼り守る者に投じて入らしむ。帝怒り、常州同知に謫す。

初め、李已は吾徳と並び敢えて言い、李已は尤も直を以て著わる。両たび摧抑に遭い、頗る営進に事う。後南京考功郎中と為る。九年の京察、張居正の指を希い、尚書何寛とともに司業張位・長史趙世卿を察典に置き、遂に擢げられて南京尚宝卿と為る。三たび遷りて右僉都御史、保定六府を巡撫す。年を踰えて罷め帰り、卒す。

附 胡涍

胡涍、字は原荊、無錫の人。嘉靖末に挙げて進士と為る。歴て永豊・安福二県を知り、御史に擢げられる。神宗即位の六日、馮保に命じて孟沖に代わり司礼監を掌らしめ、南京守備張宏を召用す。胡涍、近習を厳しく馭し、諂諛に惑わされ、聖徳を虧損せざることを請う。馮保大いに怒り、之を傾けんとす。其の冬、妖星見え、慈寧宮後延焼して房を連ぬ。胡涍、遍く掖廷中に先朝寵幸を曾て蒙りし者を察し、体恤優遇し、其の余は老少を論ぜず、一概に放遣せんことを乞う。奏中に「唐高不君、則天為虐」の語あり。帝怒り、輔臣に問う、二語の指す所誰ぞと。張居正対えて曰く、「胡涍の言は狂悖なれども、心に他なし」。帝意未だ釋せず、厳旨を以て譙譲す。胡涍惶恐して罪を請い、斥かれて民と為る。年を踰え、巡按御史李学詩胡涍を薦む。詔して自後薦むる者あらば、並びに逮治して胡涍とせよ。久しきのち、卒す。

汪文輝

汪文輝、字は徳充、婺源の人。嘉靖四十四年の進士。工部主事に授かる。隆慶四年、御史に改む。高拱、内閣を以て吏部を掌り、権勢烜赫たり。其の門生韓楫・宋之韓・程文・塗夢桂等並びに言路に居り、日夜其の門を走り、専ら務めて搏撃す。文輝も亦た高拱の門生なれど、心独り之を非とす。明年二月、四事を疏陳し、専ら言官を責む。其の略曰く、

先帝末年任用せし大臣は、本協恭して務を済し、少も釁嫌無し。始め一二の言官、廟堂の議論稍々殊なるを見て、遂に潜かに低昂を察し、向かう所を窺いて其の忌む所を攻む。致すに是非を顛倒し、聖聴を熒惑し、国家の大體を傷つく。苟くも前弊を踵承し、交煽並構し、正人をして其の位を安んぜしめざらば、恐らくは宋元祐の禍、復た今に見えん、是れ傾陷と為す。

祖宗の立法、至って精密なり、而して卒に行われざる者は、法の敝れるに非ず、其の人を得ざるのみ。今言官条奏するは、率ね鋭意更張す。部臣は言官に重ねて違うを重んじ、祖制を軽んじて変じ、一時に遷就し、苟且に允覆す。法立ち弊起こるに及び、又旧に復せんと議す。政は通変の宜に非ず、民は画一の守無し、是れ紛更と為す。

古、大臣事に坐して退く者は、必ず其の詞を微にす、以て廉恥を養い、国體を存する所以なり。今或いは其の已往を掇い、彼の未形を揣り、景に逐い声に循い、争相い詬病す、市井の喧哄の若し。方面の重臣に至りては、苟くも甚だしき奸慝に非ざれば、亦た短を棄て長を録すべく、人才の為に惜しむべし。今或いは小疵を搜抉し、指して大蠹と為し、極言醜詆し、決して引去せしむ。此を以て人を求めば、国家安んぞ全才を得て之を用いんや。是れ苛刻と為す。

言官は能く人主を規切し、大臣を糾弾す。言官の短に至りては、誰か之を指す者ぞ。今事を言い人を論ずるに或いは当たらずとも、部臣は奏覆せず、即ち憤然として平らかならず。同列と雖も其の非なるを明知すとも、亦た与に弁ぜず、以て體貌当に是の如くすべしと為す。夫れ臣子且つ肯て一言の過を受くること無くんば、何を以て君父に難きを責めんや。是れ求勝と為す。

この四つの弊害は、今日深く戒めるべきものである。しかしその要は、大臣が前の過失を鑑とし、旨を窺って事を起こす者を用いないことにある。旨を窺って事を起こす者が進めば、忠直で誠実な士は遠ざけられ、功績を称え、盛徳を誉める者が日に日に前に至る。大臣が己の専断を任せれば、たとえ欠失があっても、誰がそれを聞き届けようか。そもそも宰相の職は、時勢を救うことで自ら満足すべきではなく、心を正すことを本とすべきである。願わくは陛下が内外に明らかに戒め、徒党を組む私心を消し、淳朴で厚い風俗に戻されんことを。天下幸い甚だし。

上疏が奏上され、所管の役所に下された。高拱はこれが己を刺すものと憎み、わずか三日で、文輝を寧夏僉事として出向させた。文輝は屯政を整え、不当な税を免除し、水門を建設し、流亡の民は次第に帰ってきた。御史の富平人孫丕揚が高拱に逆らい、旨を窺う者によって弾劾された。ちょうど調査を行おうとした時、文輝は強く主張して言った。「些細なことを挙げ、正しい人を傷つけ、権力者の私意を快くするようなことは、私は固より肯んじないし、諸君もすべきではない。」そこでその事を緩めた。間もなく、弾劾した者が先に罪を得て去り、丕揚はついに免れることができた。神宗が位を継ぐと、高拱は政務を罷められ、文輝は尚寶卿に召された。まもなく辞職して帰郷した。久しくして、詔により召し出されて任用されたが、赴任せずに死去した。

劉奮庸

劉奮庸は洛陽らくようの人である。嘉靖三十八年の進士。兵部主事に任じられた。まもなく礼部に改められ、兼ねて翰林待詔となった。穆宗が裕王の邸にいた時、侍した。員外郎に進んだ。穆宗が即位すると、旧恩により、尚寶卿に抜擢された。その後、藩邸の旧臣が相次いで権力を握ったが、奮庸だけは長く転任しなかった。大学士の高拱もまた旧臣であったが、再び起用されて政務を任され、甚だ専横であったので、奮庸はこれを憎んだ。隆慶六年三月、上疏して言った。

陛下が即位されて六年、朝綱は整えられたかのようであるが、大権は次第に移りゆく。官途は粛清されたかのようであるが、積年の弊習は依然として旧態である。百官は励精の治めを見ようと首を長くしているのに、陛下の精神と志意は次第に初めに及ばなくなっている。臣は潜邸の旧恩を思い、情誼上黙しているに忍びない。謹んで五事を条陳し、英断を待つ。

一、聖躬を保たれよ。人主の一身は、天地人神の主である。必ず志気清明で、精神が完全に固まってこそ、万機を統御することができる。凝神定志し、性を忍び情を抑え、旦夕の娯楽を逞しくせず、際限なき欲望に従わなければ、限りなき福は長く保たれるであろう。

二、大権を総攬されよ。今、政府が擬議し、百官が承行することは、詔旨を奉じないわけではないが、その間の従うか違うかの理由について、陛下はかつて独断されたことがあるか。国事の変更、人材の任用捨ては、必ずしもすべて忠謀から出て、公論に合致しているわけではない。臣は願わくは陛下が自ら大権を攬られ、凡そ諸官府の建議、閣臣の擬旨は、特に清覧に留め、時に独断を出されば、臣下はその機微を測ることができず、政権は傍らに落ちることはないであろう。

三、倹徳を慎まれよ。陛下が即位されて以来、銀を取る旨を伝えたのは数十万に下らず、珍異の宝を求め、鰲山の灯りを作り、衣服・車馬・器物・用具はすべて金を鏤り玉を彫る。財を生むことは甚だ難しく、浪費は規律がない。願わくは内帑の空虚を察し、小民の艱苦を思い、益なきことを作らず、異物を貴ばなければ、国用は充ち溢れ、民はその生を楽しむであろう。

四、章奏を覧られよ。人臣が進言することは、皆が適切であるわけではない。陛下が一切これを覧ずることもなく置けば、忠良が献納する誠意を虚しくするのみならず、権奸が蔽い塞ぐことが、ここから勢いを成すことを恐れる。願わくは陛下が章奏に留意し、曲げて容納を垂れられよ。君徳に言及すれば、己に反して自ら修められよ。朝政に言及すれば、更化して善く治められよ。言を聴く者が既にそれを行事に見、進言する者は益々忠を効することを楽しむであろう。

五、忠直を用いられよ。近年進諫する者は、あるいは勤政を以てし、あるいは節用を以てし、あるいは賢を進め不肖を退けることを以てするが、これらは皆、利することなくして為すものである。風旨を承け望み、攻撃を肆にして他人の憤りを晴らし、権要に迎合し、交わって薦め抜いて淫朋の党を樹てる者とは比べるべくもない。

願わくは狂愚の罪を恕し、鱗に逆らう誠を嘉し、これを位に登らせて士気を振るわしめられよ。そうすれば正しい規諫が日に日に聞こえ、裨益少なからざるであろう。

上疏が入ると、帝はただ聞いたと報じただけで、怒らなかった。しかし高拱に附く者は、奮庸が長く官を移さず、不満をもって風刺したと言い、互いに誹謗した。給事中の塗夢桂は遂に奮庸が国是を動揺させると弾劾した。時に給事中の曹大埜もまた高拱の十罪を弾劾したが、帝はこれを斥けた。給事中の程文はこれにより、高拱が忠を尽くして国に報い、万世永く頼むべきであると奏し、奮庸と大埜が次第に奸謀を構え、元輔を陥れようとした罪は誅するに勝えぬと述べた。上疏は共に吏部に下された。高拱がちょうど部事を掌っており、表面上は二臣のために寛大を祈った。帝は許さず、ついに大埜を乾州判官に、奮庸を興国知州に貶謫した。夢桂と文はともに高拱の門生であった。夢桂は奮庸を極めて誹謗し、文は盛んに高拱を称頌し、また大埜の上奏中の言葉を挙げ尽くして高拱に代わって弁明したので、士論はこれを非とした。奮庸が貶謫されて二か月、神宗が即位すると、遂に山西提学僉事に抜擢された。再び陜西提学副使に転じた。病を理由に帰郷を乞い、死去した。

附 曹大埜

大埜は巴県の人である。その高拱弾劾は、張居正が実はこれをさせたものである。万暦年間中、累進して右副都御史となり、江西を巡撫した。貪婪を弾劾されて免官された。

賛に曰く、世宗の季、門戸漸く開く。言路に居る者は、各々主とするところ有り、故に其の時に其の言わざるを患えず、其の言の冗漫にして当たらず、と其の心の私無からざる能わざるを患う。言愈多くして、国是愈々淆乱す。汪文輝の陳ぶる所の四弊、旨有るかな!明季言路の諸臣を論じて、其の得失を考うるは、当に是に於いて之を観るべし。