○楊博(子俊民) 馬森 劉體乾 王廷(毛愷) 葛守禮 靳學顏(弟學曾)
楊博
楊博、字は惟約、蒲州の人。父の瞻は御史となり、終に四川僉事に至った。博は嘉靖八年の進士に登第し、盩啡知縣に除され、長安に転じた。兵部武庫主事として召され、職方郎中を歴任した。大学士翟鑾が九辺を巡視するに当たり、博を従者とした。過ぎ行く山川の形勢、土俗の好悪、士卒の多寡強弱を、皆疏記した。肅州に至ると、属番数百が道を遮り賞を求めた。鑾は来る者が益々増えて与えきれぬことを憂慮した。博は鑾に盛んな儀衛を整えさせ、諸番を轅門外に集め、天子の宰相が来たのに、皆で遠く出迎えなかったことを責め、縛って役人に引き渡そうとした。諸番は羅拜して罪を請うたので、先に来た者に少しばかり賜物を与えると、残りの者は恐れて再び来なくなった。鑾が還ると、博は大事を任せられると推薦した。吉囊・俺答が毎年辺境を侵すと、尚書張瓚は全てを博に任せて処理させた。帝が夜中に手詔を下すことがあっても、博は事に応じて条答し、全て旨に適った。毛伯温が瓚に代わると、博は転任すべきところを、特に奏上して留任させた。その後、山東提学副使に遷り、督糧參政に転じた。
二十五年、右僉都御史に超拜され、甘肅を巡撫した。屯田の利を大いに興し、民を募って田を墾かせ、永久に租を徴収しないよう請うた。また暇を見て肅州の榆樹泉及び甘州平川境外の大蘆泉等の処の墩臺を修築し、龍首等の渠を鑿った。初め、罕東の属番が土魯番の乱を避けて肅州の境上に遷り、時に居民と殺し合った。監生李時旸がこれを言上し、事は守臣に下された。博は金塔・白城の七堡を築き、その長を召し、率いて属を徙居させるよう命じた。諸番は七百余帳を徙らせ、州境はこれによって肅清された。総兵官王繼祖が永昌で寇を退け、鎮羌參将蔡勛等が鎮番・山丹で戦い、三たび捷を告げ、百四十余級を斬首した。博は右副都御史に進んだ。母の喪に服して帰郷した。仇鸞が甘肅を鎮守した時、総督曾銑がこれを弾劾し、詔して逮治させた。博もまたその貪婪虚偽三十事を発覚させた。鸞が大将軍に拝されると、しばしば博を誹謗したが、帝は聞き入れなかった。喪が明けて、鸞が既に誅された後、召されて兵部右侍郎に拝された。左侍郎に転じ、薊州・保定を経略した。
厳嵩父子が権利を招き寄せると、諸司はその妨げを受けたが、博は一切これを阻んで行わせなかった。嵩は博を恨み、丁父憂で去るに及んだ。兵部尚書許論が罷免されると、帝は博を召して代えようとした。博は喪が終わっていなかったが、疏を上って辞した。しかし帝は大同右衛の包囲が切迫しているため、博を改めて宣・大・山西軍務総督とした。博は墨縗のまま関を馳せ出た。未だ到らぬうちに、侍郎江東等が大軍を進めたため、寇は引き去った。時に右衛は六月にわたり包囲され、守将王德は戦死し、城中の芻粟は将に尽きんとしていたが、士卒は二心なく死守した。博は厚く撫恤し、善後十事を奏上して行わせた。給事中張學顏の言により、博を留めて鎮撫させた。寇に侵された租を免ずるよう奏上し、そこでその丁壮を義勇に僉し、諸将に分属させた。博は辺境の人は車戦に慣れず、寇が侵入すると支えられないとして、箱車百輛を造るよう請い、警報があれば右衛の車は東に、左衛の車は西に進め、互いに声援させるようにした。また大同の墻が崩壊しているため、その修繕を急務とし、次いで銀釵・驛馬諸嶺を塞いで紫荊路を窺うことを絶ち、居庸南山を備えて陵寝畿甸路を窺うことを絶ち、陽神地諸墻塹を修復して山西路に入ることを絶った。そこで大同の牛心山諸処に堡九、墩臺九十二を築き、左衛の高山駅に接続させて鎮城に達するようにした。大濠二本を浚い、各十八里、小濠六十四本とした。五十日で完工し、勅を賜って賞賚した。
帝はしばしば博を召還しようとしたが、また辺境を憂い、嵩に問うた。嵩は元より博を好まず、江東に部事を署理させ、秋防が終わってから徐々に議するよう請うたので、遂に召還しなかった。秋防が終わると、太子太保を加え、留鎮は元の通りとした。哱素把伶及び叛人丁都記等がしばしば軽騎で辺境を侵したが、博は先後して計略を以てこれを擒えた。またしばしば奇兵を出して寇を襲い、寇は稍々帳を徙らせた。そこで故総督翁萬達の創った辺墻を築くことを議し、内地の民で寇に掠められた者千六百余人を招還した。また宣・大の荒田水利を通じ、その租を軽くするよう請うた。許可された。薊遼総督に改めた。秋防が竣ると、廷議は博を召還しようとしたが、吏部尚書吳鵬は反対した。鄭曉が兵部を署理し、争って言った、「博が薊・遼に在れば薊・遼は安泰であり、本兵(兵部尚書)に在れば九辺共に安泰である」と。そこで召還の通りとし、少保を加えた。
帝は辺境を甚だ憂えたが、博は毎度事前に防備を為し、帝の眷倚は左右の手の如くであった。嘗て閣臣に語って言った、「博が入って以来、朕は毎度辺境を憂えるが、その言葉は博が予め謀るためである」と。博は上言した、「今九辺においては、薊鎮が最も重要である。辺臣に勅して大同の寇を逐い、薊に近づかせぬようにし、宣・大の諸将に独石から情形を偵察させ、黄花・古北諸要害を予め備えさせ、一騎も関に入れさせなければ、即ち首功である」と。帝はこれを是とした。
楊博は魁偉で豊満であり、事に臨んで安閑として識量があった。朝廷内外に出入りすること四十余年、終始兵事に著しかった。六年、高拱が罷免されると、博を吏部に改め、少師兼太子太師に進めた。翌年の秋、病気が発し、三度上疏して致仕帰郷を乞うた。一年余り後に卒した。太傅を贈られ、諡は襄毅。
高拱が国政を握っていた時、徐階に危禍を加えようとしたが、楊博が高拱を訪ね、力を尽くして和解させた。高拱も心が動き、事は収まった。その後、張居正が高拱を追放し、その罪を周囲から責めようとしたが、博は毅然として争った。王大臣の獄が起こると、博は都御史葛守礼と共に張居正を訪ね、力を尽くして和解させた。居正は憤って言った、「二公は私が高公を甘んじて受け入れると思っているのか」。博は言った、「敢えてそうではありませんが、しかし公でなければ天意を回らすことはできません」。時に帝が守礼に都督朱希孝と共に会審するよう命じたので、博は密かに策を巡らし、校尉に大臣を脅して供述を改めさせた。また高拱の僕を雑踏の中に混ぜさせ、大臣に識別させたが、茫然として弁別できず、事は明白となった。人々はこれをもって博を長者と称えた。
子に俊民あり。
子の俊民、字は伯章、嘉靖四十一年の進士。戸部主事に任じられ、礼部郎中を歴任した。隆慶初年、河南提学副使に遷る。万暦初年、太僕少卿を歴任した。父の博が致仕すると、侍して帰郷した。元の官に起用され、累進して兵部左侍郎となり部事を署理した。時に撦力克の封嗣を議した。俊民は言った、「和議を急に廃止すべきではない。ただ内に守備を修め、外に西部を統制して全て帰還させ、市場の額を定めて濫りに要求させないようにするのみである」。議はこれにより定まった。戸部尚書に進み、倉場を総督した。十九年、部事を管理するために戻った。河南が大飢饉となり、人肉を食う事態となり、銀米各数十万を発給するよう請うた。ある者がその遅滞を議したため、自らを弾劾して罷免を求めた。上疏六度、許されなかった。小人が競って鉱山開発を請うたが、俊民は争って止められず、税使が四方に出た。天下は騒然とし、時に俊民を咎めた。在職中に三考を歴し、累進して太子太保を加えられた。官のまま卒した。少保を贈られた。後に東征の転餉の功を叙し、少傅兼太子太傅を贈られた。
馬森
馬森、字は孔養、懐安の人。父の俊、晩年に子を得たが、家人が抱いて落とし、死なせた。俊は妻を欺いて「私の誤りだ」と言い、罪に問わなかった。一年余りして森を挙げた。嘉靖十四年進士となり、戸部主事に任じられ、太平知府を歴任した。民に兄弟で訴訟する者がいたので、鏡を与えて照らさせて言った、「あなた方二人は老いた、どうして天性を傷つけることを忍びえようか」。皆感泣して謝し去った。再び遷って江西按察使となった。進士が愛妾のために妻を殺した事件があり、巡撫・巡按はその獄を緩めようとしたが、森はついに法に照らして処断した。
左布政使を歴任し、そのまま巡撫右副都御史に抜擢された。入朝して刑部右侍郎となり、戸部に改めた。初め、森は江西で布政使宋淳を推薦した。淳は後に南贛を巡撫したが、贓罪で失脚し、森は連座して大理卿に左遷された。たびたび疑獄を駁正し、刑部尚書鄭曉・都御史周延と共に「三平」と称された。病で帰郷し、南京工部右侍郎に起用された。戸部に改め、倉場を督め、まもなく左侍郎に転じた。右都御史として漕運を総督し、鳳陽巡撫を兼ね、南京戸部尚書に遷った。隆慶初年、北京の戸部尚書に改めた。
森が考官であった時、夏言の女婿がその門下から出たが、紹介して夏言に会おうとしたが、謝絶して行かなかった。厳嵩はこれを聞いて喜んだが、森もまた附かなかった。徐階に重んじられ、遂に引用された。郷里に居て、巡撫龐尚鵬が一条鞭法を行うのを助け、郷人が報功祠を立てた。万暦八年に卒した。太子少保を贈られ、諡は恭敏。
劉体乾
帝は財用の不足を以て、詔して廷臣をして集議せしむ。多くは宿逋を追徴し、賦額を増加することを請う。體乾ひとり上奏して曰く、「蘇軾に言有り、『財を豊かにするの道は、惟だ其の財を害する者を去るに在り』と。今の害最大なるもの二有り、冗吏・冗費是なり。歴代の官制、漢は七千五百員、唐は一万八千員、宋は極めて冗にして三萬四千員に至る。本朝は成化五年より、武職已に八萬を踰ゆ。文職を合わせれば、蓋し十萬餘なり。今邊功の升授・勛貴の傳請・曹局の添設・大臣の恩蔭、これに廠衛・監局・勇士・匠人の類を加うれば、歳増し月益し、悉く挙ぐべからず。一官多ければ、則ち一官の費多し。請うらくは厳しく諸曹に勅し、冗濫を清革し、俸を減ぜば将に貲し難からん。又聞く、光祿庫の金は、嘉靖改元より十五年に至るまで、積みて八十萬に至る。二十一年以後より、供億日増し、余藏頓に尽く。進禦の果蔬は、初め定額無く、只内監の片紙を示し、数の如く供禦す。乾没狼籍し、輒ち転じて市人に鬻ぐ。其他諸曹の侵盗尤だ多し。宜しく令典と為し、歳終に科道の臣をして会計せしめ、以て冗費を清むべし。二冗既に革まば、国計自ら裕かなり。是を捨てて逋を督め、賦を増すは、是れ湯を揚げて沸きを止むるなり」と。ここに於いて部議して各監局の人匠を汰することを請う。之に従う。
累官して通政使に至り、遷って刑部左侍郎と為る。改めて戸部左侍郎と為り、倉場を総督す。隆慶初め、進んで南京戸部尚書と為る。南畿・湖広・江西の銀布絹米の積逋二百六十餘萬、鳳陽園陵九衛の官軍四萬にして、而して倉粟一月の儲無し。體乾再疏して有司に責成することを請い、又六事を条上し、皆報可す。
馬森去り、召して改めて北部と為す。詔して太倉の銀三十萬両を取る。體乾言く、「太倉の銀の存する所三百七十萬のみ。而して九邊の年例二百七十六萬有奇、在京の軍糧商價百有餘萬、薊州・大同諸鎮の例外奏乞は与せず。若し復た之を取って上供せば、経費安くにか弁ぜん」と。帝聴かず。體乾復た奏す、「今国計絀乏、大小臣工の共に知る所なり。即ち庫に存するの数は、乃ち近く御史を遣わして搜括する所にして、明年は則ち策無し。今尽く以て益無き費に供せば、万一変倉卒に起らば、国計を如何にせん」と。ここに於いて給事中李已・楊一魁・龍光、御史劉思問・蘇士潤・賀一桂、傅孟春章を交えて体乾の言の如くすることを乞い、閣臣李春芳等皆上疏して請う。乃ち命じて止めて十萬両を進む。又奏す、太和山の香税は宜しく泰山の例の如くすべく、有司之を董し、内臣に属すべからずと。旨に忤い、俸を奪わること半年。
帝嘗て九邊の軍餉、太倉の歳発及び四方の解納の数を問う。體乾奏す、「祖宗の朝は止だ遼東・大同・宣府・延綏の四鎮、継いて寧夏・甘肅・薊州を以てし、又継いて固原・山西を以てす。今密雲・昌平・永平・易州俱に戍を列ぬ。各鎮の防守に主兵有り。其の後募を増し、客兵を増し、而坐食愈よ衆し。各鎮の芻餉に屯田有り。其の後民糧を加え、塩課を加え、京運を加う。而して横費滋く多し」と。因って隆慶以来の歳発の数を列上す。又奏す、「国家の歳入は以て出ずる所に供するに足らず、而して額外の陳乞者多し。請うらくは内外一切の経費の存革すべき者を以て、書を刊勒して成すべし」と。報可す。
詔して綿二萬五千斤を市わしむ。體乾湖州の貢を俟つことを請う。帝従わず、急ぎ之を趣す。給事中李已言く、「三月は綿を用うる時に非ず、宜しく重ねて商戸を擾すべからず」と。體乾も亦た復た争う。乃ち命じて止めて萬斤を進む。年を踰え、詔して金花銀を進むるを趣し、且つ猫睛・祖母緑諸の異宝を購わしむ。已上書して力諫し、體乾已の言に従うことを請う。納れず。内承運庫白劄を以て部帑十萬を索む。體乾執奏し、給事中劉繼文も亦た白劄は体に非ずと言う。帝報いて旨有りと。竟に之を取る。體乾又た承運庫の稅額二十萬を減ずることを乞う。中官崔敏に阻まれ、請うを得ず。是の時内供已に多く、数たび部に下して太倉の銀を取り、又た珍珠黄緑玉諸の物を市うことを趣す。體乾清勁にして執ること有り、毎たび疏を以て争い、積もりて帝の意に忤い、竟に官を奪わる。給事中光懋・御史淩琯等章を交えて留むることを請う。聴かず。
王廷
王廷、字は子正、南充の人。嘉靖十一年進士。戸部主事を授かり、改めて御史と為る。疏を上りて吏部尚書汪鋐を劾し、謫せられて亳州判官と為る。歴て蘇州知府と為り、政声有り。累遷して右副都御史に至り、河道を総理す。三十九年、転じて南京戸部右侍郎と為り、糧儲を総督す。南京の督儲は、成化後より皆都御史を以て之を領す。嘉靖二十六年に至り、始めて戸部侍郎を命じて兼理せしむ。振武営の軍乱に及び、言者旧制を復すことを請い、遂に副都御史章煥を以て専ら領せしめ、而して廷を改めて南京刑部と為す。未だ上らず、復た改めて戸部右侍郎兼左僉都御史と為し、漕運を総督し、鳳陽諸府を巡撫す。
時に倭乱未だ靖まらず、廷建議して江南を鎮守総兵官に属し、専ら吳淞に駐し、江北を分守副総兵に属し、専ら狼山に駐せしむ。遂に定制と為る。淮安大饑し、巡按御史朱綱と共に商税を留めて軍に餉ることを奏し、詔を被りて切に譲る。給事中李邦義因って廷の拘滞を劾す。吏部尚書嚴訥廷の為に弁じ、始めて解く。転じて左侍郎と為り、還りて部事を理む。通州の倭を禦ぐの功を以て、俸二級を加う。遷って南京礼部尚書と為り、召されて左都御史と為る。慎選授・重分巡・謹刑獄・端表率・厳檢束・公舉劾の六事を行うことを奏す。
御史の齊康が高拱のために徐階を弾劾すると、王廷は言上した、「齊康は奸を懐き邪に党し、重く懲らしめなければ国是を定めることはできない」と。帝は齊康を左遷し、徐階を留任させるよう諭した。高拱はそこで病を理由に辞任した。一方、給事中の張齊はかつて辺境を巡視した際、商人から金を受け取っていた。事が少し漏れたので、ひそかに徐階の子の璠に仲介を求めたが、璠は断って会わなかった。張齊は恨み、そこで齊康の上疏の言葉を拾って再び徐階を論難し、徐階もまた病を理由に辞任した。王廷はそこで張齊の奸利の事を暴き、言上した、「張齊は以前、宣府・大同の軍を賞賜する命を受け、塩商の楊四和から数千両を受け取り、辺境の商人を恤れむことや余塩の廃止など数事を建言したが、大学士の徐階に阻まれた。楊四和が張齊に賄賂を取り立てようとしたところ、その跡形がかなり露見した。張齊は罪を得ることを恐れ、そこで徐階を攻撃して自らを掩おうとしたのである」と。そこで張齊は詔獄に下された。刑部尚書の毛愷は張齊を流刑に処すべきとしたが、詔により釈放されて民とされた。高拱が再び起用されて宰相となると、王廷は彼が恨みを晴らすことを恐れ、また毛愷も徐階に推挙された者であったので、先を争って休職を請うてこれを避けた。給事中の周蕓、御史の李純樸が張齊の件を弁護し、王廷と毛愷が徐階の意に阿り、無辜の者を羅織したと主張した。刑部尚書の劉自強が覆奏して、「張齊の坐した罪は事実無根であり、王廷と毛愷は法を曲げ私情に従った」と言った。詔により毛愷の官職を剥奪し、王廷は斥けられて民とされ、張齊は赦されて通州判官に補任された。
萬歷の初め、張齊は不謹慎により罷免され、毛愷はすでに以前に死去していた。浙江巡按御史の謝廷傑が毛愷は狷介で清廉で古人の風があり、張齊を弾劾したことで官を奪われたが、今や張齊はすでに罷免されたので、毛愷が正を守ったことが十分にわかると弁護した。詔により毛愷の官職を回復させた。そこで四川巡撫都御史の曾省吾が言上した、「王廷が蘇州を守った時、人々は彼を趙清献に比べた。直節と勁気は、終始変わることがなかった。毛愷の例のように官職を回復させるべきである」と。詔により元の官職で致仕させた。十六年、規定通りに夫役と禄米を給し、なお高齢を理由に特に慰問を賜った。翌年に死去し、謚は恭節。
(附)毛愷
毛愷、字は達和、江山の人。嘉靖十四年の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。洗馬の鄒守益を散地に投ずるのは不当であると論じたことで、執政に憎まれ、寧国推官に左遷された。刑部尚書を歴任した。太監の李芳が突然諫めて穆宗に逆らい、刑部に重刑を処すよう命じた。毛愷は上奏して、「李芳の罪状は明らかでなく、天下に公を示すことにはならない」と言った。李芳はなおも死罪を免れた。毛愷は太子少保を追贈され、謚は端簡。
葛守礼
大学士の高拱と徐階は仲が悪く、朝廷全体で高拱を攻撃した。侍郎の徐養正、劉自強は高拱と親しく、守礼のもとを訪れて言った。守礼は同意せず、徐養正らはそこで高拱を弾劾した。守礼はまもなく母を養うため帰郷を請うた。高拱が再び宰相となると、守礼に深く恩義を感じ、刑部尚書として起用した。初め、徐階が方士の王金らの獄を定め、妄りに薬物を進めた罪で、子が父を殺す律に比して死罪とした。詔が下り法司が会訊した。守礼らは、王金が妄りに薬を進めた事実はなく、ただ故・陶仲文の術を習い、左道で衆を惑わしただけであり、従犯の律に坐して辺境に編入すべきであると議した。給事中の趙奮が言った、「法司は天下のために公平であるべきだ。かつては一貫して入罪を主とし、先帝の立場を考えず、今は一貫して出罪を主とし、後世の議論を顧みない。罪にはまず首謀者がいて後に従犯がある。王金らが従犯なら、誰が首謀者か。陶仲文を首謀者とするなら、仲文はすでに久しく死んでいる。このような法では、陛下は何を頼りにされようか」と。上疏が入り、聞き届けられた。
靳学顔弟 学曾
臣はまた、天下の民が皇々として不足を憂えるのは、布帛五穀が足りないのではなく、銀が足りないからであると見る。銀は寒くても衣とできず、飢えても食とできず、ただ交易して衣食の用を通じるに過ぎない。どうして銀を用いて銭を廃するのか。銭がますます廃れれば、銀はますます独行する。独行すれば蔵はますます深く、銀はますます貴くなり、貨物はますます安くなり、折色の調達はますます難しくなる。豪右はその安い時に買い占め、高い時に売り出す。銀が豪右に積まれるほど厚くなり、天下に行き渡るほど少なくなる。さらに数十年を経れば、臣はその行き着く先を知らない。銭は泉であり、一日も無くてはならない。計画者は銭法の難しさを二つという。利が本に及ばず、民が行おうとしない。これらは皆違う。朝廷は山海の産を材とし、億兆の力を工とし、賢士大夫を役とする。何の本の費用があろうか。誠に民に銅炭で罪を贖わせ、匠役は営軍から取れば、指を揮う間に銭は天下に遍く行き渡る。銭を行おうとしないのは、奸豪だけである。請う、今より事例・罰贖・徴税・賜賚・宗祿・官俸・軍餉の類は、悉く銀銭を兼ねて支給せよ。上はこれで徴し、下はこれで納めれば、どうしてその行われないことを憂えようか。
臣はまた聞く。中原は辺鄙の根本である。百姓は中原の根本である。民は終身銀が無くとも、一年衣が無く、一日食が無くてはならない。今、有司が夙夜に暇あらぬのは、銀にあって穀にない。臣はひそかに憂慮する。国家は幽燕に都を建て、北には郡国の衛が無く、恃むところは腹心股肱たる河南・山東・江北及び畿内八府の人心のみである。その人は概ね鷙悍で軽生、動きやすく鎮め難く、遊食で蓄積が少ない。一たび意に不如れば、軽々しく郷を去り、往々にして一夫が難を起こせば、千人が呼応する。前事はすでに屡々験証されている。これを鎮める計は、農を恤みてその家を繋ぎ、食を足してその身を繋ぎ、骨肉を聚めてその心を繋ぐに過ぎない。今、試みに官廩の蔵するものを核すれば、毎府数十万を得れば、司計者は安枕できる。三万を得ても、なお転徙する者の望みを塞ぐに足る。万に満たなければ、どうして寒心せずにいられようか。臣はひそかに万に満たないものが多いと思う。
臣は近ごろ積穀を上疏して請い、すでに允行を蒙った。ただ有司が事に力を尽くさず、明詔を塞ぐに足らぬことを恐れる。敢えて臣の説を申し述べる。
一つは官倉で、官銀を発して糴う。一つは社倉で、民穀を収めて充す。官倉は甚だ豊年でなければ挙行できず、社倉は中歳でも皆行える。唐の義倉の開設は、毎年王公以下皆入れるところがあった。宋は民間の正税の数を準え、二十分の一を取って社とした。誠にこれを倣って推し、土俗に就き、人情に合せ、歳候を占めてその変を通じ、毎年の二倉の入りを計ってその功を験し、令として著し、歳々これを修め、その豊凶に時して斂散する。官倉にあるものは、民に大饑があれば以て振る。民倉にあるものは、官に大役があっても貸すことを聴かない。これによって民に富を蔵するは、即ち国に富を蔵するのである。今、財用を言う者は、穀の不足を憂えず、銀の不足を憂える。銀は実に乱を生み、穀は実に乱を鎮める。銀が不足すれば、泉貨で代える。五穀が不足すれば、誰が代えることができるか。故に明君は金玉を宝とせず、五穀を宝とすという。伏して聖明の垂意を請う。
疏が入り、所司に下して議せしめたが、結局全てを行い尽くすことはできなかった。
まもなく召されて工部右侍郎となり、吏部に改め、左侍郎に進んだ。学顔は内行が修潔で、高拱が首輔として銓衡を掌り、専恣甚だしいのを見て、遂に病を謝して帰り、卒した。弟の学曾は山西副使で、治績もまた聞こえた。
賛
賛に曰く、明の中葉、辺防は堕ち、経費は乏しかった。当時事に任ずる臣で、これに留意する者は少なかった。楊博・馬森・劉体乾・葛守礼・靳学顔の類は、ほぼ経済の略を負う者である。その施設と建白する所に就き、究めてこれを行っても、一時の補苴に過ぎない。況んや言うところが尽く行われず、行うところが久しからざるをや。この時より後、張居正が始めて一たび整飭した。居正が歿すると、一切空言を以て事に従い、以て亡ぶに至った。その壊れるは朝夕の積みではなかった。