明史

列傳第一百〇二 楊博 馬森 劉體乾 王廷 葛守禮 靳學顏

○楊博(子俊民) 馬森 劉體乾 王廷(毛愷) 葛守禮 靳學顏(弟學曾)

楊博

楊博、字は惟約、蒲州の人。父の瞻は御史となり、終に四川僉事に至った。博は嘉靖八年の進士に登第し、盩啡知縣に除され、長安ちょうあんに転じた。兵部武庫主事として召され、職方郎中を歴任した。大学士翟鑾が九辺を巡視するに当たり、博を従者とした。過ぎ行く山川の形勢、土俗の好悪、士卒の多寡強弱を、皆疏記した。肅州に至ると、属番数百が道を遮り賞を求めた。鑾は来る者が益々増えて与えきれぬことを憂慮した。博は鑾に盛んな儀衛を整えさせ、諸番を轅門外に集め、天子の宰相が来たのに、皆で遠く出迎えなかったことを責め、縛って役人に引き渡そうとした。諸番は羅拜して罪を請うたので、先に来た者に少しばかり賜物を与えると、残りの者は恐れて再び来なくなった。鑾が還ると、博は大事を任せられると推薦した。吉囊・俺答が毎年辺境を侵すと、尚書張瓚は全てを博に任せて処理させた。帝が夜中に手詔を下すことがあっても、博は事に応じて条答し、全て旨に適った。毛伯温が瓚に代わると、博は転任すべきところを、特に奏上して留任させた。その後、山東提学副使に遷り、督糧參政に転じた。

二十五年、右僉都御史に超拜され、甘肅を巡撫した。屯田の利を大いに興し、民を募って田を墾かせ、永久に租を徴収しないよう請うた。また暇を見て肅州の榆樹泉及び甘州平川境外の大蘆泉等の処の墩臺を修築し、龍首等の渠を鑿った。初め、罕東の属番が土魯番の乱を避けて肅州の境上に遷り、時に居民と殺し合った。監生李時旸がこれを言上し、事は守臣に下された。博は金塔・白城の七堡を築き、その長を召し、率いて属を徙居させるよう命じた。諸番は七百余帳を徙らせ、州境はこれによって肅清された。総兵官王繼祖が永昌で寇を退け、鎮羌參将蔡勛等が鎮番・山丹で戦い、三たび捷を告げ、百四十余級を斬首した。博は右副都御史に進んだ。母の喪に服して帰郷した。仇鸞が甘肅を鎮守した時、総督曾銑がこれを弾劾し、詔して逮治させた。博もまたその貪婪虚偽三十事を発覚させた。鸞が大将軍に拝されると、しばしば博を誹謗したが、帝は聞き入れなかった。喪が明けて、鸞が既に誅された後、召されて兵部右侍郎に拝された。左侍郎に転じ、薊州・保定を経略した。

初め、俺答が都城に迫り、潮河川から侵入した時、議者は争って備えを請うた。水勢が急で城を築くことができなかった。博は水勢に沿って石墩を建て、戍守を置き、還って京城九門を督した。時に寇警のため、毎年七月に兵を分けて城壁を守らせていた。博は言った、「寇が至れば鎮静を要する。どうして事前に自ら騒ぎ立てるのか」と。その令を罷めた。間もなく薊・遼・保定軍務総督に遷った。博は薊が京師に近く、畿甸の陵寢を護ることが大事であるとして、諸将を分布させ、地を画して防がせた。三十三年秋、把都兒及び打来孫の十余万騎が薊鎮を犯し、墻を攻めた。帝は甚だ憂い、しばしば騎兵を遣わして博を偵察させた。博は甲を擐い古北口の城上に宿し、総兵官周益昌等を督して力戦させた。帝は大いに喜び、早馬で緋の豸衣を賜い、軍を犒うに万金を与えた。寇は四晝夜攻撃したが侵入できず、そこで孤山口を併せ攻め、墻に登った。官軍が一人の手首を斬り落とすと、退いて虎頭山に屯した。博は死士を募り、夜に火を以てその営を驚かせると、寇は擾乱し、夜明けまでに悉く去った。右都御史に進み、子に錦衣千戸の蔭官を与えた。明年、打来孫が再び益昌に入ったが、撃退した。そこで博を兵部尚書に擢で、防秋の功を録し、太子少保を加えた。

厳嵩父子が権利を招き寄せると、諸司はその妨げを受けたが、博は一切これを阻んで行わせなかった。嵩は博を恨み、丁父憂で去るに及んだ。兵部尚書許論が罷免されると、帝は博を召して代えようとした。博は喪が終わっていなかったが、疏を上って辞した。しかし帝は大同右衛の包囲が切迫しているため、博を改めて宣・大・山西軍務総督とした。博は墨縗のまま関を馳せ出た。未だ到らぬうちに、侍郎江東等が大軍を進めたため、寇は引き去った。時に右衛は六月にわたり包囲され、守将王德は戦死し、城中の芻粟は将に尽きんとしていたが、士卒は二心なく死守した。博は厚く撫恤し、善後十事を奏上して行わせた。給事中張學顏の言により、博を留めて鎮撫させた。寇に侵された租を免ずるよう奏上し、そこでその丁壮を義勇に僉し、諸将に分属させた。博は辺境の人は車戦に慣れず、寇が侵入すると支えられないとして、箱車百輛を造るよう請い、警報があれば右衛の車は東に、左衛の車は西に進め、互いに声援させるようにした。また大同の墻が崩壊しているため、その修繕を急務とし、次いで銀釵・驛馬諸嶺を塞いで紫荊路を窺うことを絶ち、居庸南山を備えて陵寝畿甸路を窺うことを絶ち、陽神地諸墻塹を修復して山西路に入ることを絶った。そこで大同の牛心山諸処に堡九、墩臺九十二を築き、左衛の高山駅に接続させて鎮城に達するようにした。大濠二本を浚い、各十八里、小濠六十四本とした。五十日で完工し、勅を賜って賞賚した。

帝はしばしば博を召還しようとしたが、また辺境を憂い、嵩に問うた。嵩は元より博を好まず、江東に部事を署理させ、秋防が終わってから徐々に議するよう請うたので、遂に召還しなかった。秋防が終わると、太子太保を加え、留鎮は元の通りとした。哱素把伶及び叛人丁都記等がしばしば軽騎で辺境を侵したが、博は先後して計略を以てこれを擒えた。またしばしば奇兵を出して寇を襲い、寇は稍々帳を徙らせた。そこで故総督翁萬達の創った辺墻を築くことを議し、内地の民で寇に掠められた者千六百余人を招還した。また宣・大の荒田水利を通じ、その租を軽くするよう請うた。許可された。薊遼総督に改めた。秋防が竣ると、廷議は博を召還しようとしたが、吏部尚書吳鵬は反対した。鄭曉が兵部を署理し、争って言った、「博が薊・遼に在れば薊・遼は安泰であり、本兵(兵部尚書)に在れば九辺共に安泰である」と。そこで召還の通りとし、少保を加えた。

帝は辺境を甚だ憂えたが、博は毎度事前に防備を為し、帝の眷倚は左右の手の如くであった。嘗て閣臣に語って言った、「博が入って以来、朕は毎度辺境を憂えるが、その言葉は博が予め謀るためである」と。博は上言した、「今九辺においては、薊鎮が最も重要である。辺臣に勅して大同の寇を逐い、薊に近づかせぬようにし、宣・大の諸将に独石から情形を偵察させ、黄花・古北諸要害を予め備えさせ、一騎も関に入れさせなければ、即ち首功である」と。帝はこれを是とした。

四十二年十月、寇は衆を擁して薊州を窺い、遼陽を犯すと声言した。総督楊選が師を率いて東に向かうと、博は檄を飛ばして止めた。また手書を三度送ったが、遂に従わなかった。博は机を叩いて言った、「敗れた」と。急ぎ兵を徴して入援させたが、寇は既に墻子嶺を潰し、通州を犯した。帝は嘆いて言った、「庚戌の事が又も現れた」と。諸路の兵が先後して到着した。宣大総督江東に命じて文武大臣を統率させ皇城・京城を分守させ、鎮遠侯顧寰に京営兵を率いさせ城内城外に分布させた。寇は包囲を解いて東に向かい、順義・三河を蹂躙し、飽掠して去った。援兵は一矢も発せず、道中で倒れた者や零騎の傷残者を取って首功として報告した。帝は怏怏とし、博に諭して言った、「賊は又も飽掠して飛び去った。どうして後を懲らしめようか」と。遂に楊選を誅した。博は累が及ぶことを懼れたが、徐階が力を持ってこれを保った。帝は博の前功を思い、罪に問わなかった。久しくして、吏部尚書に改めた。

隆慶元年、遺詔に従い建言した諸臣を記録し、死者は皆贈恤するよう請うた。時に群吏を査定していたが、山西人は一人も罷免されなかった。給事中胡応嘉が楊博が郷人を庇うと弾劾したので、博は連続して上疏して休職を乞うた。帝は共に慰留し、かつ言者を斥けた。一品官として満三考を経て、少傅兼太子太傅に進んだ。帝が南海子に遊幸しようとした時、博は同列を率いて諫めた。御史詹仰庇が直言のために罷免されると、博はこれを争った。屯塩都御史龐尚鵬が弾劾された時、博は留任を議した。帝の意に逆らい、病を理由に帰郷した。尚書劉体乾らが相次いで上章して留任を乞うたが、聞き入れられなかった。大学士高拱が吏部を掌ると、博が本兵に堪えると推薦した。詔により吏部尚書として兵部の事務を管轄した。薊州・昌平の戦守の方略を陳述し、「議者は塁壁を守ることを臆病としているが、その言葉は聞くに値するが、実際には少しの効果もない。塁壁外で邀撃すれば、害七分利三分である。塁壁内で格闘すれば、利一分害九分である。塁壁に拠って守るのは、いわゆる先に戦地を処して敵を待つものである。名は守り、実は戦いである。臣が総督であった時、打来孫の十万の衆を防いだことがあるが、塁壁を守るべきことは疑いない」と言った。そこで明らかに応援を定め、駐守を整え、京営を処置し、属夷を諭し、内治を修める諸事を陳述し、帝は全て従った。

楊博は魁偉で豊満であり、事に臨んで安閑として識量があった。朝廷内外に出入りすること四十余年、終始兵事に著しかった。六年、高拱が罷免されると、博を吏部に改め、少師兼太子太師に進めた。翌年の秋、病気が発し、三度上疏して致仕帰郷を乞うた。一年余り後に卒した。太傅を贈られ、諡は襄毅。

高拱が国政を握っていた時、徐階に危禍を加えようとしたが、楊博が高拱を訪ね、力を尽くして和解させた。高拱も心が動き、事は収まった。その後、張居正が高拱を追放し、その罪を周囲から責めようとしたが、博は毅然として争った。王大臣の獄が起こると、博は都御史葛守礼と共に張居正を訪ね、力を尽くして和解させた。居正は憤って言った、「二公は私が高公を甘んじて受け入れると思っているのか」。博は言った、「敢えてそうではありませんが、しかし公でなければ天意を回らすことはできません」。時に帝が守礼に都督ととく朱希孝と共に会審するよう命じたので、博は密かに策を巡らし、校尉こういに大臣を脅して供述を改めさせた。また高拱の僕を雑踏の中に混ぜさせ、大臣に識別させたが、茫然として弁別できず、事は明白となった。人々はこれをもって博を長者と称えた。

子に俊民あり。

子の俊民、字は伯章、嘉靖四十一年の進士。戸部主事に任じられ、礼部郎中を歴任した。隆慶初年、河南提学副使に遷る。万暦初年、太僕少卿を歴任した。父の博が致仕すると、侍して帰郷した。元の官に起用され、累進して兵部左侍郎となり部事を署理した。時に撦力克の封嗣を議した。俊民は言った、「和議を急に廃止すべきではない。ただ内に守備を修め、外に西部を統制して全て帰還させ、市場の額を定めて濫りに要求させないようにするのみである」。議はこれにより定まった。戸部尚書に進み、倉場を総督した。十九年、部事を管理するために戻った。河南が大飢饉となり、人肉を食う事態となり、銀米各数十万を発給するよう請うた。ある者がその遅滞を議したため、自らを弾劾して罷免を求めた。上疏六度、許されなかった。小人が競って鉱山開発を請うたが、俊民は争って止められず、税使が四方に出た。天下は騒然とし、時に俊民を咎めた。在職中に三考を歴し、累進して太子太保を加えられた。官のまま卒した。少保を贈られた。後に東征の転餉の功を叙し、少傅兼太子太傅を贈られた。

馬森

馬森、字は孔養、懐安の人。父の俊、晩年に子を得たが、家人が抱いて落とし、死なせた。俊は妻を欺いて「私の誤りだ」と言い、罪に問わなかった。一年余りして森を挙げた。嘉靖十四年進士となり、戸部主事に任じられ、太平知府を歴任した。民に兄弟で訴訟する者がいたので、鏡を与えて照らさせて言った、「あなた方二人は老いた、どうして天性を傷つけることを忍びえようか」。皆感泣して謝し去った。再び遷って江西按察使となった。進士が愛妾のために妻を殺した事件があり、巡撫・巡按はその獄を緩めようとしたが、森はついに法に照らして処断した。

左布政使を歴任し、そのまま巡撫右副都御史に抜擢された。入朝して刑部右侍郎となり、戸部に改めた。初め、森は江西で布政使宋淳を推薦した。淳は後に南贛を巡撫したが、贓罪で失脚し、森は連座して大理卿に左遷された。たびたび疑獄を駁正し、刑部尚書鄭曉・都御史周延と共に「三平」と称された。病で帰郷し、南京工部右侍郎に起用された。戸部に改め、倉場を督め、まもなく左侍郎に転じた。右都御史として漕運を総督し、鳳陽巡撫を兼ね、南京戸部尚書に遷った。隆慶初年、北京の戸部尚書に改めた。

この時、登極の詔書で天下の田租を半減した。太倉の歳入は少なく、経費に副わず、京倉・通倉の二倉の積貯は僅かであった。森は精査して剔抉し、十余条の事を条奏して実行した。また銭穀の出入の数を列挙して上奏し、帝に節倹を勧めた。帝は手詔で措置を責めたので、森は奏上した、「祖宗の旧制では、河・淮以南は四百万を以て京師を供給し、河・淮以北は八百万を以て辺境を供給した。一歳の収入は、一歳の費用を供えるに足りた。後、辺陲に事多く、支費漸く繁くなり、一変して客兵の年例が生じ、再変して主兵の年例が生じた。その初めは三五十万に過ぎなかったが、後漸く増加して二百三十余万となった。屯田は十のうち七八を損ない、塩法は十のうち四五を折耗し、民運は十のうち二三が逋欠し、全て年例で補った。辺境では士馬は昔より多くなく、太倉では輸入は前より増えていないのに、費用は数倍である。重ねて詔書による蠲除があり、故に今日の窮乏は往年より甚だしい。臣が前に計画したことは、錙銢まで計算したが、目前の急を緩めるに過ぎず、国の大計、民の元気には深く慮る暇がなかった。広く衆思を集め、廷臣に各々所見を陳述させたい」。また河東・四川・雲南・福建・広東・霊州の塩課に関する事を奏上した。詔は全てその請うところに従った。帝がかつて宦官崔敏に命じて戸部の銀六万両を出させ黄金を買わせようとした。森はこれに反対し、かつ故事では御札は全て内閣から下され、司礼監が直接伝えることはないと言い、事は止んだ。まもなく、また珠玉を購入するよう命じられたが、森もまた力爭し、聞き入れられなかった。三年、母の老齢を理由に終養を乞うた。駅伝を賜って帰郷し、後たびたび推薦されたが起用されなかった。

森が考官であった時、夏言の女婿がその門下から出たが、紹介して夏言に会おうとしたが、謝絶して行かなかった。厳嵩はこれを聞いて喜んだが、森もまた附かなかった。徐階に重んじられ、遂に引用された。郷里に居て、巡撫龐尚鵬が一条鞭法を行うのを助け、郷人が報功祠を立てた。万暦八年に卒した。太子少保を贈られ、諡は恭敏。

劉体乾

劉体乾、字は子元、東安の人。嘉靖二十三年の進士。行人に任じられ、兵科給事中に改めた。司礼太監鮑忠が卒すると、その党の李慶がその甥の鮑恩ら八人の昇進を乞うた。帝は既に許したが、体乾の言により、三人のみを記録した。左給事中に転じた。

帝は財用の不足を以て、詔して廷臣をして集議せしむ。多くは宿逋を追徴し、賦額を増加することを請う。體乾ひとり上奏して曰く、「蘇軾に言有り、『財を豊かにするの道は、惟だ其の財を害する者を去るに在り』と。今の害最大なるもの二有り、冗吏・冗費是なり。歴代の官制、漢は七千五百員、唐は一万八千員、宋は極めて冗にして三萬四千員に至る。本朝は成化五年より、武職已に八萬を踰ゆ。文職を合わせれば、蓋し十萬餘なり。今邊功の升授・勛貴の傳請・曹局の添設・大臣の恩蔭、これに廠衛・監局・勇士・匠人の類を加うれば、歳増し月益し、悉く挙ぐべからず。一官多ければ、則ち一官の費多し。請うらくは厳しく諸曹に勅し、冗濫を清革し、俸を減ぜば将に貲し難からん。又聞く、光祿庫の金は、嘉靖改元より十五年に至るまで、積みて八十萬に至る。二十一年以後より、供億日増し、余藏頓に尽く。進禦の果蔬は、初め定額無く、只内監の片紙を示し、数の如く供禦す。乾没狼籍し、輒ち転じて市人に鬻ぐ。其他諸曹の侵盗尤だ多し。宜しく令典と為し、歳終に科道の臣をして会計せしめ、以て冗費を清むべし。二冗既に革まば、国計自ら裕かなり。是を捨てて逋を督め、賦を増すは、是れ湯を揚げて沸きを止むるなり」と。ここに於いて部議して各監局の人匠を汰することを請う。之に従う。

累官して通政使に至り、遷って刑部左侍郎と為る。改めて戸部左侍郎と為り、倉場を総督す。隆慶初め、進んで南京戸部尚書と為る。南畿・湖広・江西の銀布絹米の積逋二百六十餘萬、鳳陽園陵九衛の官軍四萬にして、而して倉粟一月の儲無し。體乾再疏して有司に責成することを請い、又六事を条上し、皆報可す。

馬森去り、召して改めて北部と為す。詔して太倉の銀三十萬両を取る。體乾言く、「太倉の銀の存する所三百七十萬のみ。而して九邊の年例二百七十六萬有奇、在京の軍糧商價百有餘萬、薊州・大同諸鎮の例外奏乞は与せず。若し復た之を取って上供せば、経費安くにか弁ぜん」と。帝聴かず。體乾復た奏す、「今国計絀乏、大小臣工の共に知る所なり。即ち庫に存するの数は、乃ち近く御史を遣わして搜括する所にして、明年は則ち策無し。今尽く以て益無き費に供せば、万一変倉卒に起らば、国計を如何にせん」と。ここに於いて給事中李已・楊一魁・龍光、御史劉思問・蘇士潤・賀一桂、傅孟春章を交えて体乾の言の如くすることを乞い、閣臣李春芳等皆上疏して請う。乃ち命じて止めて十萬両を進む。又奏す、太和山の香税は宜しく泰山の例の如くすべく、有司之を董し、内臣に属すべからずと。旨に忤い、俸を奪わること半年。

帝嘗て九邊の軍餉、太倉の歳発及び四方の解納の数を問う。體乾奏す、「祖宗の朝は止だ遼東・大同・宣府・延綏の四鎮、継いて寧夏・甘肅・薊州を以てし、又継いて固原・山西を以てす。今密雲・昌平・永平・易州俱に戍を列ぬ。各鎮の防守に主兵有り。其の後募を増し、客兵を増し、而坐食愈よ衆し。各鎮の芻餉に屯田有り。其の後民糧を加え、塩課を加え、京運を加う。而して横費滋く多し」と。因って隆慶以来の歳発の数を列上す。又奏す、「国家の歳入は以て出ずる所に供するに足らず、而して額外の陳乞者多し。請うらくは内外一切の経費の存革すべき者を以て、書を刊勒して成すべし」と。報可す。

詔して綿二萬五千斤を市わしむ。體乾湖州の貢を俟つことを請う。帝従わず、急ぎ之を趣す。給事中李已言く、「三月は綿を用うる時に非ず、宜しく重ねて商戸を擾すべからず」と。體乾も亦た復た争う。乃ち命じて止めて萬斤を進む。年を踰え、詔して金花銀を進むるを趣し、且つ猫睛・祖母緑諸の異宝を購わしむ。已上書して力諫し、體乾已の言に従うことを請う。納れず。内承運庫白劄を以て部帑十萬を索む。體乾執奏し、給事中劉繼文も亦た白劄は体に非ずと言う。帝報いて旨有りと。竟に之を取る。體乾又た承運庫の稅額二十萬を減ずることを乞う。中官崔敏に阻まれ、請うを得ず。是の時内供已に多く、数たび部に下して太倉の銀を取り、又た珍珠黄緑玉諸の物を市うことを趣す。體乾清勁にして執ること有り、毎たび疏を以て争い、積もりて帝の意に忤い、竟に官を奪わる。給事中光懋・御史淩琯等章を交えて留むることを請う。聴かず。

神宗即位し、起して南京兵部尚書と為す。奏言す、「留都は根本の重地、故の額軍九萬、馬五千餘匹。今軍は止だ二萬二千、馬僅かに半に及ぶ。単弱慮るに足る。宜しく諸衛の余丁を選び、伍に随って操練し、貯庫の草場銀を発して馬を買うべし」と。又た防守四事を条上す。並びに之に従う。萬歷二年致仕し、卒す。太子少保を贈る。

王廷

王廷、字は子正、南充の人。嘉靖十一年進士。戸部主事を授かり、改めて御史と為る。疏を上りて吏部尚書汪鋐を劾し、謫せられて亳州判官と為る。歴て蘇州知府と為り、政声有り。累遷して右副都御史に至り、河道を総理す。三十九年、転じて南京戸部右侍郎と為り、糧儲を総督す。南京の督儲は、成化後より皆都御史を以て之を領す。嘉靖二十六年に至り、始めて戸部侍郎を命じて兼理せしむ。振武営の軍乱に及び、言者旧制を復すことを請い、遂に副都御史章煥を以て専ら領せしめ、而して廷を改めて南京刑部と為す。未だ上らず、復た改めて戸部右侍郎兼左僉都御史と為し、漕運を総督し、鳳陽諸府を巡撫す。

時に倭乱未だ靖まらず、廷建議して江南を鎮守総兵官に属し、専ら吳淞に駐し、江北を分守副総兵に属し、専ら狼山に駐せしむ。遂に定制と為る。淮安大饑し、巡按御史朱綱と共に商税を留めて軍に餉ることを奏し、詔を被りて切に譲る。給事中李邦義因って廷の拘滞を劾す。吏部尚書嚴訥廷の為に弁じ、始めて解く。転じて左侍郎と為り、還りて部事を理む。通州の倭を禦ぐの功を以て、俸二級を加う。遷って南京礼部尚書と為り、召されて左都御史と為る。慎選授・重分巡・謹刑獄・端表率・厳檢束・公舉劾の六事を行うことを奏す。

隆慶元年六月、京師雨潦して廬舍を壞す。命じて廷に御史を督し分行して振恤せしむ。朝覲の天下の官に会し、廷饋遺を厳禁し、道里費を酌み、以て官邪を儆し、民力を蘇うすことを請う。帝諸陵に謁し、詔して廷に英国公張溶と同しく居守せしむ。中官許義刃を挟み人を脅して財を求め、巡城御史李学道の笞する所と為る。群珰学道の早朝を伺い、之を邀撃して左掖門外に於いてす。廷其の状を上り、戍を論ずること差有り。

御史の齊康が高拱のために徐階を弾劾すると、王廷は言上した、「齊康は奸を懐き邪に党し、重く懲らしめなければ国是を定めることはできない」と。帝は齊康を左遷し、徐階を留任させるよう諭した。高拱はそこで病を理由に辞任した。一方、給事中の張齊はかつて辺境を巡視した際、商人から金を受け取っていた。事が少し漏れたので、ひそかに徐階の子の璠に仲介を求めたが、璠は断って会わなかった。張齊は恨み、そこで齊康の上疏の言葉を拾って再び徐階を論難し、徐階もまた病を理由に辞任した。王廷はそこで張齊の奸利の事を暴き、言上した、「張齊は以前、宣府・大同の軍を賞賜する命を受け、塩商の楊四和から数千両を受け取り、辺境の商人を恤れむことや余塩の廃止など数事を建言したが、大学士の徐階に阻まれた。楊四和が張齊に賄賂を取り立てようとしたところ、その跡形がかなり露見した。張齊は罪を得ることを恐れ、そこで徐階を攻撃して自らを掩おうとしたのである」と。そこで張齊は詔獄に下された。刑部尚書の毛愷は張齊を流刑に処すべきとしたが、詔により釈放されて民とされた。高拱が再び起用されて宰相となると、王廷は彼が恨みを晴らすことを恐れ、また毛愷も徐階に推挙された者であったので、先を争って休職を請うてこれを避けた。給事中の周蕓、御史の李純樸が張齊の件を弁護し、王廷と毛愷が徐階の意に阿り、無辜の者を羅織したと主張した。刑部尚書の劉自強が覆奏して、「張齊の坐した罪は事実無根であり、王廷と毛愷は法を曲げ私情に従った」と言った。詔により毛愷の官職を剥奪し、王廷は斥けられて民とされ、張齊は赦されて通州判官に補任された。

萬歷の初め、張齊は不謹慎により罷免され、毛愷はすでに以前に死去していた。浙江巡按御史の謝廷傑が毛愷は狷介で清廉で古人の風があり、張齊を弾劾したことで官を奪われたが、今や張齊はすでに罷免されたので、毛愷が正を守ったことが十分にわかると弁護した。詔により毛愷の官職を回復させた。そこで四川巡撫都御史の曾省吾が言上した、「王廷が蘇州を守った時、人々は彼を趙清献に比べた。直節と勁気は、終始変わることがなかった。毛愷の例のように官職を回復させるべきである」と。詔により元の官職で致仕させた。十六年、規定通りに夫役と禄米を給し、なお高齢を理由に特に慰問を賜った。翌年に死去し、謚は恭節。

(附)毛愷

毛愷、字は達和、江山の人。嘉靖十四年の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。洗馬の鄒守益を散地に投ずるのは不当であると論じたことで、執政に憎まれ、寧国推官に左遷された。刑部尚書を歴任した。太監の李芳が突然諫めて穆宗に逆らい、刑部に重刑を処すよう命じた。毛愷は上奏して、「李芳の罪状は明らかでなく、天下に公を示すことにはならない」と言った。李芳はなおも死罪を免れた。毛愷は太子少保を追贈され、謚は端簡。

葛守礼

葛守礼、字は與立、德平の人。嘉靖七年、郷試で第一を挙げた。翌年進士となり、彰徳推官に任じられた。大盗が富家を誣告し、株連する者が数百に及んだが、守礼は彼らをことごとく釈放した。主獄の者が御史に讒言した。たまたま藩府の獄が長く決せず、守礼に委ねられると、一度訊問しただけで真相を得たので、大いに驚き感服した。冬至に、趙王が百官に朝服で祝賀するよう命じたが、守礼だけは認めなかった。兵部主事に転じた。父の喪に服し喪が明けると、礼部に補任された。寧府の宗人はことごとく高墻に幽閉されていたが、後になって少しずつ脱することができ、そこで封を請うた。礼部尚書の夏言が中尉数人を酌量して復帰させることを議した。まだ上奏しないうちに、夏言が内閣に入り、厳嵩が代わった。守礼はちょうど儀制郎中に転じ、反駁して実行させなかった。故事では、郡王が絶えると、近親の支族が本来の爵位で府事を処理できるが、継封はできない。交城、懐仁、襄垣の近親支族が絶え、継封を請うたが、守礼は強硬に反対した。たまたま病気で休暇中であった時、三邸の者が隙に乗じて賄賂を行い、遂に許可を得た。旗校がその事を探って上聞した。籍没して記録された賄賂は十数万に及んだが、守礼の名だけはなかった。帝はこれによって守礼の廉潔を知った。河南提学副使に転じ、さらに山西按察使に転じ、陝西布政使に進み、右副都御史に抜擢されて河南を巡撫した。入朝して戸部侍郎となり、宣府・大同の糧餉を督した。吏部に改めた。左侍郎から南京礼部尚書に転じた。李本が吏部の事務を代行し、厳嵩の意を迎えて廷臣を考察し、守礼を下考とし、致仕を強制した。後に帝が守礼の所在を問うと、左右の者が老病と偽って答えた。帝は長く嘆惜した。

隆慶元年、戸部尚書として起用された。上奏して言った、「畿輔・山東では流民が日増しに多く、役人が法を変えて常を乱し、起科が重すぎ、徴派が均等でないためである。また河南・河北、山東・山西は土地が瘠せており、正供すらまだ給することができないのに、さらに重い徭役が課せられている。工匠や富商大賈は皆、田が無いことを理由に免役されているのに、農夫だけがその困窮を受ける。これはいわゆる矛盾である。どうか田賦の規程を正し、科差の法を廃止されたい。また国初に糧を徴収した時は、戸部が倉庫の名目と石数・価値を定め、関係する役所に通達し、小民に分派して、倉ごとに納入させ、完納・未納の数が明らかに確認できた。近ごろは一条鞭法と定め、畝ごとに銀を徴収する。倉口を問わず、石数を問わない。吏書が縁故を頼って奸を行い、増減や洒派を行い、弊害が百出する。収解に至っては、また一串鈴法に変わり、これを夥收分解という。収める者は解送せず、解送する者は収めない。収める者は積余の資を獲得し、解送する者は賠補の累を負う。銭穀は必ず分数が明らかでなければ稽核が厳密になる。今混然として一つにするのは、これは那移する者のための地盤である。どうか関係する役所に命じ、旧規を斟酌して復活させられたい」と。詔によりすべて施行させた。そこで国計簿の様式を奏定し、天下に頒布した。嘉靖三十六年以後の、完納・未納、起解、追徴の数および貧民が輸納できない者を、ことごとく簿中に記録した。府・州・県から布政司に至り、戸部に送って稽考させ、隠漏・那移・侵欺の弊を清めた。また戸部は専ら財賦を管理するので、必ず天下の倉庫の盈虚を周知し、その後で節縮・調剤できると考えた。祖宗の時は天下に毎年文冊を部に報告させたので、御史の譚啓、馬明謨、張問明、趙巖を派遣して天下を分行させその事を監督させ、併せて勅を奉じて行かせるよう請うた。恩赦の例でかつて辺軍に施しがあったが、ある者が兵士に虚偽の名籍があると言い、給賞の際にこれを淘汰すべきだと主張した。守礼は言った、「これは朝廷の曠典であるのに、怨みを買うためか」と。その議はそこで止んだ。

大学士の高拱と徐階は仲が悪く、朝廷全体で高拱を攻撃した。侍郎の徐養正、劉自強は高拱と親しく、守礼のもとを訪れて言った。守礼は同意せず、徐養正らはそこで高拱を弾劾した。守礼はまもなく母を養うため帰郷を請うた。高拱が再び宰相となると、守礼に深く恩義を感じ、刑部尚書として起用した。初め、徐階が方士の王金らの獄を定め、妄りに薬物を進めた罪で、子が父を殺す律に比して死罪とした。詔が下り法司が会訊した。守礼らは、王金が妄りに薬を進めた事実はなく、ただ故・陶仲文の術を習い、左道で衆を惑わしただけであり、従犯の律に坐して辺境に編入すべきであると議した。給事中の趙奮が言った、「法司は天下のために公平であるべきだ。かつては一貫して入罪を主とし、先帝の立場を考えず、今は一貫して出罪を主とし、後世の議論を顧みない。罪にはまず首謀者がいて後に従犯がある。王金らが従犯なら、誰が首謀者か。陶仲文を首謀者とするなら、仲文はすでに久しく死んでいる。このような法では、陛下は何を頼りにされようか」と。上疏が入り、聞き届けられた。

まもなく守礼を左都御史に改めた。上奏して言った、「畿内の地勢は窪んでおり、河道が埋塞し、水害に遭うと千里が壑となる。どうか古の井田の制にならい、溝洫を浚治し、旱魃・水害に備えさせられたい」と。章は関係する役所に下された。また巡撫の事柄を申明し、官箴・士節に関する六事を条列した。守礼が王金の獄を議したのは高拱と合致したが、しかし高拱に附かなかった。後に張居正が王大臣の事件で高拱を陥れて殺そうとしたが、守礼が力を尽くして弁解し、免れた。徐階、高拱、張居正が代わる代わる権力を握り、互いに軋轢した。守礼はその間を周旋し、正色で独立し、人々は難しいことだと思った。萬歷三年、老齢を理由に休職を請うた。詔により太子少保を加え、駅馬で帰郷させた。六年に死去。太子太保を追贈され、謚は端肅。

靳学顔弟 学曾

靳学顔は、字を子愚といい、済寧の人である。嘉靖十三年に郷試で第一を挙げ、翌年進士に及第し、南陽推官に任ぜられ、廉潔公平と称された。吉安知府を歴任し、治績は高く、累進して左布政使となった。隆慶初年、召されて太僕卿となり、光禄に改め、まもなく右副都御史に任ぜられ、山西を巡撫した。詔に応じて理財を陳述し、およそ一万余言に及んだ。その中で選兵・鋳銭・積穀の三事が最も切実である。その要旨は次の通りである。

宋の初め禁軍は十万、天下諸路を総合しても十万に過ぎなかったが、その後慶暦・治平の間に百数十万に増加した。しかし当時は財用が不足しなかった。我が朝の辺兵は四十万である。その後兵を増やし戍を加えたが、主兵は多く欠員し、宋人の十倍に及ぶほどではない。しかし嘉靖年間からすでに不足を訴えているのは何故か。宋は兵を増やしても天下に養兵の費用がなかった。我が朝は民をもって兵を養い、新軍はまた一切太倉に仰ぐ。旧餉は減らず、新餉は日々増加する。これが第一の浪費である。周の豊鎬、漢の四都は、概ねその名があって実がない。我が朝の留都の設置は、官を建て衛を置き、公帑に坐食する。これが第二の浪費である。唐・宋の宗親は、あるいは仕版に名を通じ、あるいは民間に散在した。我が朝は分封して爵を列ね、農せず仕えず、民の膏髄を吸う。これが第三の浪費である。この三つがあるので、儲蓄が枯渇しないはずがない。その中で特に天下の財を消耗するものは、兵に過ぎない。鋒を陥れ堅を摧き、旗鼓相当するのが、兵の実である。今、辺兵には戦時があるが、腹兵は終世一度も敵に当たらない。盗賊が発するごとに、陰陽・医薬・雑職でなければ、丞貳判簿が将となり、郷民里保でなければ、義勇快壮が兵となる。北では塩丁鉱徒を借り、南では狼土を借りる。これらは皆、腹兵が用に足りない証拠である。輪番守戍の法で制限すべきである。遠くて征発できず、弱くて任に堪えない者は、その耕作商売を許し、その食糧を移して辺に餉とする。班軍を免じて償いを徴し、充発を省いて贖罪を輸送させるのも、変通の一策である。京兵を強くしようとするなら、やはり輪番戍守を責めるべきである。京師から宣府・薊鎮まではわずか数百里、京営九万の兵卒が、毎年一万で二鎮を戍守し、九年で一巡するのは苦ではない。そうすれば怯者は辺兵と同じく勁となる。また畿輔の兵卒をもって京戍の欠員を埋め、その部伍・号令・月糧・犒賞も京卒と同じにすれば、畿輔の兵卒は皆親兵となる。京卒が薊鎮を戍れば、延綏・固原の費用が省ける。宣府を戍れば、宣府・大同の気勢は自ずから張る。寇は宣府・大同の力が背後を制するのを畏れ、京卒の勁が前面に当たるので、仰攻深入の事は少なくなる。

臣はまた、天下の民が皇々として不足を憂えるのは、布帛五穀が足りないのではなく、銀が足りないからであると見る。銀は寒くても衣とできず、飢えても食とできず、ただ交易して衣食の用を通じるに過ぎない。どうして銀を用いて銭を廃するのか。銭がますます廃れれば、銀はますます独行する。独行すれば蔵はますます深く、銀はますます貴くなり、貨物はますます安くなり、折色の調達はますます難しくなる。豪右はその安い時に買い占め、高い時に売り出す。銀が豪右に積まれるほど厚くなり、天下に行き渡るほど少なくなる。さらに数十年を経れば、臣はその行き着く先を知らない。銭は泉であり、一日も無くてはならない。計画者は銭法の難しさを二つという。利が本に及ばず、民が行おうとしない。これらは皆違う。朝廷は山海の産を材とし、億兆の力を工とし、賢士大夫を役とする。何の本の費用があろうか。誠に民に銅炭で罪を贖わせ、匠役は営軍から取れば、指を揮う間に銭は天下に遍く行き渡る。銭を行おうとしないのは、奸豪だけである。請う、今より事例・罰贖・徴税・賜賚・宗祿・官俸・軍餉の類は、悉く銀銭を兼ねて支給せよ。上はこれで徴し、下はこれで納めれば、どうしてその行われないことを憂えようか。

臣はまた聞く。中原は辺鄙の根本である。百姓は中原の根本である。民は終身銀が無くとも、一年衣が無く、一日食が無くてはならない。今、有司が夙夜に暇あらぬのは、銀にあって穀にない。臣はひそかに憂慮する。国家は幽燕に都を建て、北には郡国の衛が無く、恃むところは腹心股肱たる河南・山東・江北及び畿内八府の人心のみである。その人は概ね鷙悍で軽生、動きやすく鎮め難く、遊食で蓄積が少ない。一たび意に不如れば、軽々しく郷を去り、往々にして一夫が難を起こせば、千人が呼応する。前事はすでに屡々験証されている。これを鎮める計は、農を恤みてその家を繋ぎ、食を足してその身を繋ぎ、骨肉を聚めてその心を繋ぐに過ぎない。今、試みに官廩の蔵するものを核すれば、毎府数十万を得れば、司計者は安枕できる。三万を得ても、なお転徙する者の望みを塞ぐに足る。万に満たなければ、どうして寒心せずにいられようか。臣はひそかに万に満たないものが多いと思う。

臣は近ごろ積穀を上疏して請い、すでに允行を蒙った。ただ有司が事に力を尽くさず、明詔を塞ぐに足らぬことを恐れる。敢えて臣の説を申し述べる。

一つは官倉で、官銀を発して糴う。一つは社倉で、民穀を収めて充す。官倉は甚だ豊年でなければ挙行できず、社倉は中歳でも皆行える。唐の義倉の開設は、毎年王公以下皆入れるところがあった。宋は民間の正税の数を準え、二十分の一を取って社とした。誠にこれを倣って推し、土俗に就き、人情に合せ、歳候を占めてその変を通じ、毎年の二倉の入りを計ってその功を験し、令として著し、歳々これを修め、その豊凶に時して斂散する。官倉にあるものは、民に大饑があれば以て振る。民倉にあるものは、官に大役があっても貸すことを聴かない。これによって民に富を蔵するは、即ち国に富を蔵するのである。今、財用を言う者は、穀の不足を憂えず、銀の不足を憂える。銀は実に乱を生み、穀は実に乱を鎮める。銀が不足すれば、泉貨で代える。五穀が不足すれば、誰が代えることができるか。故に明君は金玉を宝とせず、五穀を宝とすという。伏して聖明の垂意を請う。

疏が入り、所司に下して議せしめたが、結局全てを行い尽くすことはできなかった。

まもなく召されて工部右侍郎となり、吏部に改め、左侍郎に進んだ。学顔は内行が修潔で、高拱が首輔として銓衡を掌り、専恣甚だしいのを見て、遂に病を謝して帰り、卒した。弟の学曾は山西副使で、治績もまた聞こえた。

賛に曰く、明の中葉、辺防は堕ち、経費は乏しかった。当時事に任ずる臣で、これに留意する者は少なかった。楊博・馬森・劉体乾・葛守礼・靳学顔の類は、ほぼ経済の略を負う者である。その施設と建白する所に就き、究めてこれを行っても、一時の補苴に過ぎない。況んや言うところが尽く行われず、行うところが久しからざるをや。この時より後、張居正が始めて一たび整飭した。居正が歿すると、一切空言を以て事に従い、以て亡ぶに至った。その壊れるは朝夕の積みではなかった。