明史

列傳第一百〇一 徐階 高拱 張居正

列傳第一百〇一 徐階 高拱 張居正

原文列傳第一百〇一 徐階 高拱 張居正

徐階

原文徐階

徐階、字あざなは子升、松江府華亭県の人である。生まれて満一歳の時、枯れ井戸に落ち、三日後に蘇生した。五歳の時、父に従って括蒼に行き、高い山嶺から落ちたが、衣服が木に引っかかり死ななかった。人々は皆これを異とした。嘉靖二年の進士で第三位であった。翰林院編修に任じられ、帰郷して娶妻を許された。父の喪に服し、喪が明けると、元の官に補された。階は背が低く色白で、容姿・立ち居振る舞いに優れていた。性質は聡明で機敏、権謀術数に長け、内に重みがあり漏らさなかった。書を読み古文辞を学び、王守仁の門人と交わり、士大夫の間で名声があった。

原文徐階,字子升,松江華亭人。生甫周歲,墮眢井,出三日而蘇。五歲從父道括蒼,墮高嶺,衣掛於樹不死。人咸異之。嘉靖二年進士第三人。授翰林院編修,予歸娶。丁父憂,服除,補故官。階為人短小白皙,善容止。性穎敏,有權略,而陰重不泄。讀書為古文辭,從王守仁門人游,有聲士大夫間。

帝は張孚敬の議を用い、孔子の王号を廃し、像を木主に替え、籩豆礼楽を皆減損抑圧しようとした。儒臣に議させたところ、階のみが反対を主張した。孚敬は階を召し出して怒気を含んで詰問したが、階は抗弁して屈しなかった。孚敬は怒って言った、「お前は私に背いたのか」と。階は厳しい表情で言った、「背くのは付き従うことから生じます。階はかつて貴公に付き従ったことはありません。どうして背いたと言えましょうか」。長揖して出て行った。延平府推官に左遷された。引き続き郡の事務を代行した。獄中の囚人三百人を釈放し、淫祠を破壊し、郷社学を創設し、大盗百二十人を捕らえた。黄州府同知に転じ、浙江按察僉事に抜擢され、さらに江西按察副使に進み、いずれも学政を監督した。

原文帝用張孚敬議,欲去孔子王號,易像為木主,籩豆禮樂皆有所損抑。下儒臣議,階獨持不可。孚敬召階盛氣詰之,階抗辯不屈。孚敬怒曰:「若叛我。」階正色曰:「叛生於附。階未嘗附公,何得言叛?」長揖出。斥為延平府推官。連攝郡事。出繫囚三百,毀淫祠,創鄉社學,捕劇盜百二十人。遷黃州府同知,擢浙江按察僉事,進江西按察副使,俱視學政。

皇太子が出閣すると、召されて司経局洗馬兼翰林院侍講に任じられた。母の喪に服して帰郷した。喪が明けると、国子祭酒に抜擢され、礼部右侍郎に転じ、まもなく吏部に改めた。故事によれば、吏部は概ね門を閉ざし、接見する下級官吏とは数言しか話さなかった。階はへりくだって彼らに接した。会えば必ず深く座を共にし、辺境や内陸の要害、吏治や民の苦しみを諮問した。皆、階の意を得て喜び、用いられんことを願った。尚書の熊浹・唐龍・周用はいずれも階を重んじた。階はしばしば部の事務を代行し、引用した宋景・張岳・王道・欧陽徳・范鏓は皆、徳行の高い者であった。周用が没し、聞淵が代わると、自らを先輩として処し、独断で事を決した。階は面白く思わず、出て避けたいと請うた。兼ねて翰林院学士とされ、庶吉士を教習した。まもなく院事を掌り、礼部尚書に進んだ。

原文皇太子出閣,召拜司經局洗馬兼翰林院侍講。丁母憂歸。服除,擢國子祭酒,遷禮部右侍郎,尋改吏部。故事,吏部率鐍門,所接見庶官不數語。階折節下之。見必深坐,咨邊腹要害,吏治民瘼。皆自喜得階意,願為用。尚書熊浹、唐龍、周用皆重階。階數署部事,所引用宋景、張岳、王道、歐陽德、范鏓皆長者。用卒,聞淵代,自處前輩,取立斷。階意不樂,求出避之。命兼翰林院學士,教習庶吉士。尋掌院事,進禮部尚書。

帝は階の勤勉さを察し、また彼の撰した青詞が特に旨にかなっていたため、無逸殿に直するよう召した。大学士の張治・李本と共に飛魚服及び上方の珍饌・上尊を賜わる日がなかった。廷推で吏部尚書に推されたが、帝は聞き入れず、階を側近から離したくなかったのである。階はそこで皇太子の立太子を請うたが、返答がなかった。重ねて請うたが、皆返答がなかった。後に冠婚の儀があった時、また裕王を先に、景王を後にするよう請うたが、帝は喜ばなかった。まもなく推恩により太子太保を加えられた。

原文帝察階勤,又所撰青詞獨稱旨,召直無逸殿。與大學士張治、李本俱賜飛魚服及上方珍饌、上尊無虛日。廷推吏部尚書,不聽,不欲階去左右也。階遂請立皇太子,不報。復連請之,皆不報。後當冠婚,復請先裕王,後景王,帝不懌。尋以推恩加太子太保。

俺答が京師を侵犯すると、階は周尚文及び戴綸・欧陽安らを釈放して自らの効力を許すよう請い、許可された。後に、帝が大内に還り、群臣を召して兵事を計らうよう請い、従われた。宦官が敵中から帰還し、俺答の求貢の書を進めた。帝は厳嵩と階に示し、便殿で召し対問した。嵩は言った、「飢えた賊に過ぎず、患いとするに足りません」。階は言った、「城に迫って軍を布き、人を殺すこと茅を刈るが如きものを、どうして飢えた賊と言えましょうか」。帝はこれを然りとし、求貢の書はどこにあるかと問うた。嵩は袖から取り出して言った、「礼部の事柄です」。帝はまた階に問うた。階は言った、「寇は深く入っています。許さねば怒りを刺激する恐れがあり、許せば彼らは厚く我に要求してきます。訳者を遣わして緩やかに欺き、我はその間に備えを整える利益を得ましょう。援兵が集まれば、寇はやがて退去します」。帝は二度善しと称えた。嵩と階はそこで帝が出て視朝するよう請うた。寇はまもなく飽きて去り、そこで階の上疏を下し、貢を許さなかった。

原文俺答犯京,階請釋周尚文及戴綸、歐陽安等自效,報可。已,請帝還大內,召群臣計兵事,從之。中官陷寇歸,以俺答求貢書進。帝以示嚴嵩及階,召對便殿。嵩曰:「飢賊耳,不足患。」階曰:「傅城而軍,殺人若刈菅,何謂飢賊?」帝然之,問求貢書安在。嵩出諸袖曰:「禮部事也。」帝復問階。階曰:「寇深矣,不許恐激之怒,許則彼厚要我。請遣譯者紿緩之,我得益為備。援兵集,寇且走。」帝稱善者再。嵩、階因請帝出視朝。寇尋飽去,乃下階疏,弗許貢。

嵩は寵を恃んで権を弄び、同列を猜疑し害した。既に夏言を仇として死に至らしめたが、言はかつて階を推薦しており、嵩はこれを以て階を忌んだ。初め、孝烈皇后が崩じると、帝は彼女を廟に合祀しようと考えたが、先の孝潔皇后に圧されることを思い、また睿宗が廟に入ったのは公議ではなかったため、後世が仁宗を祧(遷座)することを議するのを恐れ、そこで自らの世のうちに予め仁宗を祧し、孝烈を先に廟に合祀して、自らを一世とし、礼部に議させた。階は抗言して、皇后で先に廟に入った者はないとし、奉先殿に祀るよう請うた。礼科都給事中の楊思忠もまた然りとした。上疏が上ると、帝は大いに怒った。階は恐れおののき謝罪し、以前の議論を守ることができなかった。帝はまた階をして邯鄲に往き呂仙祠の落成を行わせようとした。階は行きたくないので、廟合祀の議論を以て弁明し、延期を得た。寇が城に迫るに至り、帝はますます怠り、そこで尚書の顧可学を行わせ、内心階を恨んだ。思忠の元旦賀表の誤りを摘発し、廷杖百を加え、民に斥けて、階を戒めしめた。嵩はそこで階を離間できると言い、あらゆる手段で中傷した。ある日、独り召し対問し、階に言及すると、嵩はゆるやかに言った、「階に欠けているのは才ではなく、ただ二心が多いだけです」。かつて太子を立てるよう請うたことを以てのことであった。階は非常に危うく、争うべきでないと慮り、そこで謹んで嵩に仕え、ますます精を込めて斎詞を治め帝の意を迎え、側近も多く地歩を築く者がいた。帝の怒りは次第に解けた。まもなく少保を加えられ、さらに文淵閣大学士を兼ね、機務に参与した。密疏を以て咸寧侯仇鸞の罪状を発した。嵩は階と鸞がかつて同直したため、鸞を以て階を陥れようとした。鸞の罪が階から発せられたと聞くと、愕然として止め、階を忌むことますます甚だしくなった。

原文嵩怙寵弄權,猜害同列。既仇夏言置之死,而言嘗薦階,嵩以是忌之。初,孝烈皇后崩,帝欲祔之廟,念壓於先孝潔皇后,又睿宗入廟非公議,恐後世議祧,遂欲當己世預祧仁宗,以孝烈先祔廟,自為一世,下禮部議。階抗言女後無先入廟者,請祀之奉先殿。禮科都給事中楊思忠亦以為然。疏上,帝大怒。階皇恐謝罪,不能守前議。帝又使階往邯鄲落成呂仙祠。階不欲行,乃以議祔廟解,得緩期。至寇逼城,帝益懈,乃使尚書顧可學行,而內銜階。摘思忠元旦賀表誤,廷杖之百,斥為民,以怵階。嵩因謂階可間也,中傷之百方。一日獨召對,語及階,嵩徐曰:「階所乏非才,但多二心耳。」蓋以其嘗請立太子也。階危甚,度未可與爭,乃謹事嵩,而益精治齋詞迎帝意,左右亦多為地者。帝怒漸解。未幾,加少保,尋進兼文淵閣大學士,參預機務。密疏發咸寧侯仇鸞罪狀。嵩以階與鸞嘗同直,欲因鸞以傾階。及聞鸞罪發自階,乃愕然止,而忌階益甚。

帝は鸞を誅した後、ますます階を重んじ、しばしば彼と謀って辺境の事を議した。当時、鸞が増やした衛卒を減らす議論があったが、階は言った、「減らすことはできません。また京営が積弱である原因は、兵卒が不足にあるのではなく冗多にあるので、精選して淘汰し、その俸給を取って賞与の費用に充てるべきです」。また提督侍郎の孫禬を罷めるよう請うた。帝は初め嵩に阻まれたが、久しくして皆用いられた。一品官満三載で、勲位を進められ柱国となり、さらに太子太傅・武英殿大学士を兼ねた。満六載で、兼ねて大学士の俸を受け、さらに子を中書舎人に任官し、少傅を加えられた。九載で、吏部尚書を兼ねるよう改めた。礼部に宴を賜わり、璽書を以て褒め諭すこと甚だ厚かった。帝は階を重んじながらも、少し形跡を示した。かつて五色芝を嵩に授けて薬を練らせ、階には政本に関わるからと、及ぼさなかった。階は恐れおののき請うて、ようやく得た。帝もまた次第に階を委任し、嵩に次ぐものとした。

原文帝既誅鸞,益重階,數與謀邊事。時議減鸞所益衛卒,階言:「不可減。又京營積弱之故,卒不在乏而在冗,宜精汰之,取其廩以資賞費。」又請罷提督侍郎孫禬。帝始格於嵩,久而皆用之。一品滿三載,進勛,為柱國,再進兼太子太傅、武英殿大學士。滿六載,兼食大學士俸,再錄子為中書舍人,加少傅。九載,改兼吏部尚書。賜宴禮部,璽書褒諭有加。帝雖重階,稍示形跡。嘗以五色芝授嵩,使練藥,謂階政本所關,不以相及。階皇恐請,乃得之。帝亦漸委任階,亞於嵩。

楊継盛が嵩の罪を論じ、二王を証拠として、錦衣衛の獄に下された。嵩は陸炳に命じて主使者を究明させようとした。階は炳に戒めて言った、「仮に慎重を欠けば、皇子に一つでも及べば、宗廟社稷はどうなりますか」。また嵩を動かすために危険な言葉を以て言った、「上には二人の皇子しかいらっしゃいません。必ずや貴公に謝するようなことはなさらず、罪にされるのは側近だけでしょう。貴公はどうして公然と宮邸の怨みを結ぶのですか」。嵩は懼れて恐れ、そこでやめた。倭が東南を蹂躙すると、帝はしばしば階に問い、階は力を込めて出兵を主張した。階はまた辺境の兵卒が飢えに苦しむことを思い、畿内の麦数十万石を収め、居庸関から宣府に、紫荊関から大同に輸送するよう請うた。帝は喜び、密かに諭して実行させた。楊継盛が嵩を弾劾した時、嵩は固より階を疑った。趙錦・王宗茂が嵩を弾劾すると、階はまた罰を軽くするよう議した。この時、給事中の呉時来・主事の董伝策・張翀が嵩を弾劾して勝てず、皆獄に下された。伝策は階の同郷の人、時来と翀は階の門生であった。嵩はそこで上疏して弁明し、明らかに階が主使したと述べたが、帝は聞き入れなかった。密かに諮問することがあると、皆嵩を捨てて階に及んだ。まもなく太子太師を加えられた。

原文楊繼盛諭嵩罪,以二王為徵,下錦衣獄。嵩屬陸炳究主使者。階戒炳曰:「即不慎,一及皇子,如宗社何!」又為危語動嵩曰:「上惟二子,必不忍以謝公,所罪左右耳。公奈何顯結宮邸怨也。」嵩𢥠懼,乃寢。倭躪東南,帝數以問階,階力主發兵。階又念邊卒苦飢,請收畿內麥數十萬石,自居庸輸宣府,紫荊輸大同。帝悅,密傳諭行之。楊繼盛之劾嵩也,嵩固疑階。趙錦、王宗茂劾嵩,階又議薄其罰。及是給事中吳時來、主事董傳策、張翀劾嵩不勝,皆下獄。傳策,階裡人;時來、翀,階門生也。嵩遂疏辨,顯謂階主使,帝不聽。有所密詢,皆舍嵩而之階。尋加太子太師。

帝の居所たる永寿宮が火災に遭い、玉熙殿に移り住んだが、非常に狭く、何か営造をしたいと思い、嵩に問うた。嵩は大内に還るよう請うたが、帝は快く思わなかった。階に問うと、階は三殿の余った材木を用い、尚書雷礼にその営造を責めさせれば、月を計って完成できると請うた。帝は喜び、階の議の通りにした。階の子尚宝丞璠を兼工部主事とし、その役を監督させ、百日で工事は完成した。帝は即日にそこに移り住み、万寿宮と命名した。階の忠を以て、少師に進め、尚書の俸を兼ねて支給し、一子に中書舎人を授けた。子の璠も超擢して太常少卿となった。嵩は日に日に屈した。嵩の子世蕃の貪欲で横暴で淫らで放恣な様子も次第に聞こえるようになり、階は御史鄒応龍にこれを弾劾させた。帝は嵩を致仕させ、応龍を通政司参議に抜擢した。階はついに嵩に代わって首輔となった。やがて帝は嵩の供奉の労を思い、これを哀れんだ。また調子が外れ、ふさぎ込んで楽しまず、ついに諭を下し、退いて真を修めかつ嗣を伝えようとし、また階らを責めてどうして官を邪物に与えたのかと言ったが、応龍のことを指していた。階は言った、「退いて嗣を伝えることは、臣らは敢えて命を受けることはできません。応龍の転任は、二部が旨を奉じて行ったものです」。帝はやむを得なかった。

原文帝所居永壽宮災,徙居玉熙殿,隘甚,欲有所營建,以問嵩。嵩請還大內,帝不懌。問階,階請以三殿所余材,責尚書雷禮營之,可計月而就。帝悅,如階議。命階子尚寶丞璠兼工部主事,董其役,十旬而功成。帝即日徙居之,命曰萬壽宮。以階忠,進少師,兼支尚書俸,予一子中書舍人。子璠亦超擢太常少卿。嵩乃日屈。嵩子世蕃貪橫淫縱狀亦漸聞,階乃令御史鄒應龍劾之。帝勒嵩致仕,擢應龍通政司參議。階遂代嵩為首輔。已而帝念嵩供奉勞,憐之。又以調去,忽忽不樂,乃降諭,欲退而修真且傳嗣,復責階等奈何以官與邪物,謂應龍也。階言:「退而傳嗣,臣等不敢奉命。應龍之轉,乃二部奉旨行之。」帝乃已。

帝は嵩が直りに長くいたが、世蕃は外で奸を為すのを顧みたため、階に久しく直らせないよう命じた。階は帝の意を窺い、もし奸を為すなら、外にあっても内にあるのと同じだと述べ、固く直りに入るよう請うた。帝は嵩の直廬を階に賜った。階はその中に三つの言葉を掲げた、「威福を主上に還し、政務を諸司に還し、用捨刑賞を公論に還す」。これにより朝士は侃侃として、その意を行い得た。袁煒はしばしば直りを出たが、階は召して共に旨を擬するよう請うた。ついで言った、「事を衆と同じくすれば公となり、公となれば百の美の基となり、専らにすれば私となり、私となれば百の弊が生じます」。帝はうなずいた。階は張孚敬及び嵩が帝を猜刻に導いたことを以て、力を反し、務めて寛大を以て帝の意を開こうとした。帝は給事中や御史の抨撃が過当なのを憎み、何か行い遣わそうとした。階は委曲を尽くして調剤し、軽い論罪を得た。ちょうど階に知人の難しさを問うた時、階は対して言った、「大奸は忠に似、大詐は信に似ます。ただ広く聴き納れれば、則ち窮凶極悪の者は、人が我のためにこれを攖い、深情隠慝の者は、人が我のためにこれを発します。故に聖帝明王は、言有れば必ず察します。即ち実ならざるも、小なる者はこれを置き、大なる者は薄く責めてこれを容れ、以て来る者を鼓舞します」。帝は善しと称した。言路はますます発舒した。

原文帝以嵩在直久,而世蕃顧為奸於外,因命階無久直。階窺帝意,言苟為奸,在外猶在內,固請入直。帝以嵩直廬賜階。階榜三語其中曰:「以威福還主上,以政務還諸司,以用舍刑賞還公論。」於是朝士侃侃,得行其意。袁煒數出直,階請召與共擬旨。因言:「事同眾則公,公則百美基;專則私,私則百弊生。」帝頷之。階以張孚敬及嵩導帝猜刻,力反之,務以寬大開帝意。帝惡給事御史抨擊過當,欲有所行遣。階委曲調劑,得輕論。會問階知人之難,階對曰:「大奸似忠,大詐似信。惟廣聽納,則窮凶極惡,人為我攖之;深情隱慝,人為我發之。故聖帝明王,有言必察。即不實,小者置之,大則薄責而容之,以鼓來者。」帝稱善。言路益發舒。

寇が牆子嶺から侵入し、直ちに通州に向かった。帝はちょうど祠釐をしており、兵部尚書楊博は奏上することを敢えず、階に謀り、檄を飛ばして宣府総兵官馬芳、宣大総督江東に入援させた。芳の兵が先に到着したので、階は急いでこれを賞するよう請い、また東の権を重んじ、諸道の兵を統率させるよう請うた。寇は通州から香河を掠め、階は急いで順義を備え、奇兵を以て古北口でこれを邀撃するよう請うた。寇は順義に向かったが、入ることができず、古北口に走った。その後軍が参将郭琥の伏兵に遇って敗れ、掠めた人畜輜重しちょうをかなり得た。初め帝は博が早く聞かせず、総督楊選が寇を入れ任せたことを怒り、罪にしようとしたが未だ発しなかった。階は言った、「博は祠釐の禁を以て敢えて聞かせなかったが、二鎮の兵は皆その先に檄を飛ばしたものです。選に至っては、寇を尾行したのではなく、これを送り出しただけです」。帝はついに選を誅し、博を罪としなかった。階を建極殿大学士に進めた。

原文寇由牆子嶺入,直趨通州。帝方祠釐,兵部尚書楊博不敢奏,謀之階,檄宣府總兵官馬芳、宣大總督江東入援。芳兵先至,階請亟賞之,又請重東權,俾統諸道兵。寇從通掠香河,階請亟備順義,而以奇兵邀之古北口。寇趨順義,不得入,乃走古北口。其後軍遇參將郭琥伏而敗,頗得其所掠人畜輜重。始帝怒博不早聞與總督楊選之任寇入也,欲罪之未發。階言:「博雖以祠釐禁不敢聞,而二鎮兵皆其所先檄。若選則非尾寇,乃送之出境耳。」帝竟誅選,不罪博。進階建極殿大學士。

袁煒は病を以て帰り、途中で卒し、階が独り国政を担当した。屡々閣臣を増やすよう請い、かつ骸骨を乞うた。ついに厳訥、李春芳を入閣させ、階を益々厚く遇した。一品十五年の考を以て、恩礼は特に厚く、また玉帯、繡蟒、珍薬を賜った。帝は手書を以て階の病を問い、家人の如く諄懇で、階は益々恭謹であった。帝が或ることを委ねると、一晩中仮寐もせず、応制の文は、未だかつて一刻の期を逾えたことはなかった。帝は日に日に階を愛した。階は輿論の利便なるものを採り、白上してこれを行った。嘉靖中葉、南北で用兵があった。辺鎮の大臣が少しでも帝の意に当たらなければ、すぐに捕らえて獄に下し誅竄し、閣臣もまた顔色を窃み威福を為した。階が国政を担当して後、緹騎は省減され、詔獄は次第に虚となり、任事者もまた功名を以て終えることができた。ここにおいて論者は翕然として階を推して名相とした。

原文袁煒以疾歸,道卒,階獨當國。屢請增閣臣,且乞骸骨。乃命嚴訥、李春芳入閣,而待階益隆。以一品十五載考,恩禮特厚,復賜玉帶、繡蟒、珍藥。帝手書問階疾,諄懇如家人,階益恭謹。帝或有所委,通夕不假寐,應制之文,未嘗逾頃刻期。帝日益愛階。階採輿論利便者,白而行之。嘉靖中葉,南北用兵。邊鎮大臣小不當帝指,輒逮下獄誅竄,閣臣復竊顏色為威福。階當國後,緹騎省減,詔獄漸虛,任事者亦得以功名終。於是論者翕然推階為名相。

厳訥が告帰を請い、郭樸、高拱を入閣させ、春芳と共に政を輔けさせたが、事は依然として階に決した。階は屡々太子を立てるよう請うたが、報いられなかった。やがて景王が藩に就き、病で薨じた。階は奏上して景府が占めた陂田数万頃を奪い民に還し、楚人は大いに喜んだ。帝は雩壇及び興都宮殿を建てようとしたが、階は力を尽くしてこれを止めた。鄢懋卿が急に塩課を四十万金増やしたので、階は御史に風を送って旧額に復するよう請わせた。方士胡大順らが帝に金丹を餌るよう勧めたが、階はその矯誣の状を力陳し、大順らは間もなく法に伏した。帝は餌を服用して病み躁ぎ、戸部主事海瑞が極めて帝の失を陳べたので、帝は甚だ恚り、即座にこれを殺そうとしたが、階が力を尽くして救い、繫獄するにとどまった。帝の病が甚だしく、忽ち興都に行幸しようとしたが、階が力争してやっと止めた。未だ幾ばくもせず、帝は崩じた。階が遺詔を草し、凡そ斎醮、土木、珠寶、織作を悉く罷め、「大礼」の大獄、言事で罪を得た諸臣を悉く牽復した。詔が下ると、朝野号慟感激し、楊廷和の擬した登極詔書に比し、世宗の始終の盛事とされた。

原文嚴訥請告歸,命郭樸、高拱入閣,與春芳同輔政,事仍決於階。階數請立太子,不報。已而景王之籓,病薨,階奏奪景府所占陂田數萬頃還之民,楚人大悅。帝欲建雩壇及興都宮殿,階力止之。鄢懋卿驟增鹽課四十萬金,階風御史請復故額。方士胡大順等勸帝餌金丹,階力陳其矯誣狀,大順等尋伏法。帝服餌病躁,戶部主事海瑞極陳帝失,帝恚甚,欲即殺之,階力救得系。帝病甚,忽欲幸興都,階力爭乃止。未幾,帝崩。階草遺詔,凡齋醮、土木、珠寶、織作悉罷,「大禮」大獄、言事得罪諸臣悉牽復之。詔下,朝野號慟感激,比之楊廷和所擬登極詔書,為世宗始終盛事雲。

同列の高拱、郭樸は階が共に謀らなかったことを以て、快く思わなかった。樸は言った、「徐公は先帝を謗る、斬るべし」。拱は初め穆宗の裕邸に侍り、階がこれを引きいて政を輔けさせたが、しかし階が独り国柄を握ったので、拱の心は平らかでなかった。世宗が不豫の時、給事中胡応嘉が嘗て拱を弾劾したが、拱は階が嗾したと疑った。隆慶元年、応嘉が考察で罷免された者を救って削籍され去ったが、言者は拱が旧郤を修め、階を脅し、応嘉を斥けたと言った。階はまた応嘉の罰を薄くするよう請うと、言者はまた拱を弾劾した。拱は階に杖刑を擬するよう望んだが、階は従容と譬え解き、拱はますます悦ばなかった。御史斉康に階を弾劾させ、その二子が多く干請し、家人が里中で横暴な様子を言わせた。階は疏を上って弁明し、休むことを乞うた。九卿以下が交章して拱を劾し階を誉め、拱はついに疾を引いて帰った。康はついに斥けられ、樸もまた言者に攻められ、身を乞うて去った。

原文同列高拱、郭樸以階不與共謀,不樂。樸曰:「徐公謗先帝,可斬也。」拱初侍穆宗裕邸,階引之輔政,然階獨柄國,拱心不平。世宗不豫時,給事中胡應嘉嘗劾拱,拱疑階嗾之。隆慶元年,應嘉以救考察被黜者削籍去,言者謂拱修舊郤,脅階,斥應嘉。階復請薄應嘉罰,言者又劾拱。拱欲階擬杖,階從容譬解,拱益不悅。令御史齊康劾階,言其二子多干請及家人橫里中狀。階疏辯,乞休。九卿以下交章劾拱譽階,拱遂引疾歸。康竟斥,樸亦以言者攻之,乞身去。

給事中、御史は多く廃籍から起用され、階を恃んで強く、言は多く過激であった。帝は堪えられず、階らにこれを処するよう諭した。同列は譴責を擬しようとしたが、階は言った、「上が譴責しようとするなら、我らは当に力争すべきで、どうしてこれを導いて譴責させることができようか」。伝諭して省み改めさせるよう請うた。帝もまたこれを罪としなかった。この年、詔して翰林に中秋の宴の致語を撰させたが、階は言った、「先帝の几筵未だ撤かず、宴楽すべからず」。帝は宴を罷めた。帝が中官に分かれて団営を督めさせようとしたが、階は力を尽くして不可を陳べ止めた。南京の振武営の兵が屡々嘩変したので、階はこれを淘汰しようとした。孝陵を拠って攻め難いことを慮り、先ず操江都御史唐継録に江防の兵を督わせ陵の傍に駐屯させ、徐ろに兵部に下して分散させた。事はついに定まった。群小の璫が午門で御史を毆打し、都御史王廷がこれを糾そうとしたが、階は言った、「主名を得ずして、弾劾何の益かあらん。且つ彼が先に我を誣うるを慮る」。乃ち人をして好語を以て大璫を誘い、先ずその主名を録させた。廷の疏が上ると、乃ち分別して逮治すること差等有り。階の持正応変、多くこの類であった。

原文給事、御史多起廢籍,恃階而強,言多過激。帝不能堪,諭階等處之。同列欲擬譴,階曰:「上欲譴,我曹當力爭,乃可導之譴乎。」請傳諭令省改。帝亦勿之罪。是年,詔翰林撰中秋宴致語,階言:「先帝未撤几筵,不可宴樂。」帝為罷宴。帝命中官分督團營,階力陳不可而止。南京振武營兵屢嘩,階欲汰之。慮其據孝陵不可攻也,先令操江都御史唐繼錄督江防兵駐陵傍,而徐下兵部分散之。事遂定。群小璫毆御史於午門,都御史王廷將糾之,階曰:「不得主名,劾何益?且慮彼先誣我。」乃使人以好語誘大璫,先錄其主名。廷疏上,乃分別逮治有差。階之持正應變,多此類也。

階が持論を争うところは、多く宮禁の事柄であり、実行されるものは十のうち八、九に及び、宦官たちは多く側目した。時に帝が南海子に行幸した際、階が諫めたが、聞き入れられなかった。ちょうど休職を願い出ていたところ、給事中張斉が私怨から階を弾劾し、階はこれにより帰郷を請うた。帝の意向も次第に移り、これを許した。駅馬を賜い、春芳の請いにより、人夫と食料を与え、璽書で褒め称え、行人が先導して送り出したのは、旧例の通りであった。辞去の挨拶の際には、白金・宝鈔・彩幣・襲衣を賜った。朝廷の者たちは皆上疏して留任を願ったが、報告が聞き届けられただけだった。後に王廷が張斉の収賄の事実を探り出し、弾劾して辺境に流刑にした。階が去った後、春芳が首輔となったが、間もなくやはり帰郷した。拱が再び出仕すると、階を扼することに余力を惜しまなかった。郡県の役人は拱の意を迎え、争って階を迫害し、その田畑をことごとく奪い、二人の息子を流刑にした。やがて拱がまた居正に陥れられて罷免されると、事態はようやく収まった。万暦十年、階は八十歳となり、詔により行人を派遣して慰問し、璽書と金幣を賜った。翌年に卒去した。太師を追贈され、諡は文貞。階は朝廷にあって宰相の風格を持ち、善類を保全した。嘉靖・隆慶の政治において、多くを匡正救済した。時に従順なふりをすることもあったが、大節を失うことはなかった。

原文階所持諍,多宮禁事,行者十八九,中官多側目。會帝幸南海子,階諫,不從。方乞休,而給事中張齊以私怨劾階,階因請歸。帝意亦漸移,許之。賜馳驛。以春芳請,給夫廩,璽書褒美,行人導行,如故事。陛辭,賜白金、寶鈔、彩幣、襲衣。舉朝皆疏留,報聞而已。王廷後刺得張齊納賄事,劾戍之邊。階既行,春芳為首輔,未幾亦歸。拱再出,扼階不遺餘力。郡邑有司希拱指,爭齮晷階,盡奪其田,戍其二子。會拱復為居正所傾而罷,事乃解。萬曆十年,階年八十,詔遣行人存問,賜璽書、金幣。明年卒。贈太師,諡文貞。階立朝有相度,保全善類。嘉、隆之政,多所匡救。間有委蛇,亦不失大節。

弟 陟、子 璠 等

原文弟 陟 子 璠 等

階の弟の陟は、嘉靖二十六年の進士である。累進して南京刑部侍郎に至った。子の璠は、恩蔭により太常卿の官に就き、琨と瑛は尚宝卿となった。孫の元春は進士で、やはり太常卿に任じられた。元春の孫の本高は錦衣千戸に任じられたが、天啓年間に魏忠賢の祠堂建立に抗して官職を剥奪された。崇禎に改元すると、推薦により起用され、累進して左都督に至った。諸生の念祖は、国変により城が陥落した際、妻の張氏、二人の側室の陸氏・李氏と共に自縊した。

原文階弟陟,嘉靖二十六年進士。累官南京刑部侍郎。子璠,以廕官太常卿;琨、瑛,尚寶卿。孫元春,進士,亦官太常卿。元春孫本高,官錦衣千戶,天啟中拒魏忠賢建祠奪職。崇禎改元,以薦起,累官左都督。諸生念祖,國變城破,與妻張,二妾陸、李,皆自縊。

高拱

原文高拱

高拱、字は肅卿、新鄭の人である。嘉靖二十年の進士。庶吉士に選ばれた。翌年、編修に任じられた。穆宗が裕邸におられた時、出閣して講読を請うと、拱は検討の陳以勤と共に侍講となった。世宗は太子を立てることを忌み嫌い、景王はまだ封国に行っていなかったため、朝廷内外は危惧疑惑していた。拱は裕邸に九年間侍し、王を啓発してますます孝順で慎み深くなるよう導き、道理にかなった切実な説明をした。王は彼を非常に重んじ、自ら「懷賢忠貞」の字を書いて賜った。累進して侍講学士となった。

原文高拱,字肅卿,新鄭人。嘉靖二十年進士。選庶吉士。逾年,授編修。穆宗居裕邸,出閣請讀,拱與檢討陳以勤併為侍講。世宗諱言立太子,而景王未之國,中外危疑。拱侍裕邸九年,啟王益敦孝謹,敷陳剴切。王甚重之,手書「懷賢忠貞」字賜焉。累遷侍講學士。

厳嵩と徐階が相次いで国政を執ったが、拱は将来重職に就くべき人物として、世宗に推薦した。太常卿に任じられ、国子監祭酒の事務を管掌した。四十一年、礼部左侍郎に抜擢された。まもなく吏部に転じ、学士を兼ね、詹事府の事務を管掌した。礼部尚書に進み、直廬に召し入れられた。斎詞を撰し、飛魚服を賜った。四十五年、文淵閣大学士に任じられ、郭樸と共に内閣に入った。拱と樸はともに階が推薦した者であった。

原文嚴嵩、徐階遞當國,以拱他日當得重,薦之世宗。拜太常卿,掌國子監祭酒事。四十一年,擢禮部左侍郎。尋改吏部,兼學士,掌詹事府事。進禮部尚書,召入直廬。撰齋詞,賜飛魚服。四十五年,拜文淵閣大學士,與郭樸同入閣。拱與樸皆階所薦也。

世宗が西苑に住まわれた時、閣臣の直廬は苑中にあった。拱には子がなかったため、家族を直廬の近くに移し、時折密かに外出した。ある日、帝のご病気が重いとの誤った非常事態の噂が流れ、拱は急いで身の回りの品を運び出した。初め階は拱と非常に親しく、直廬に引き入れていた。拱が急に高位に昇ると、気性が強くしばしば階に逆らった。給事中の胡応嘉は階の同郷人で、拱の姻戚を弾劾したことで自らの危険を感じていた。また階がちょうど拱と不和になっているのを窺い、遂に拱が直廬を守らず、器物を外に移したと弾劾した。世宗は病中で、省みられなかった。拱は応嘉が階の指図を受けたと疑い、これを大いに恨んだ。

原文世宗居西苑,閣臣直廬在苑中。拱未有子,移家近直廬,時竊出。一日,帝不豫,誤傳非常,拱遽移具出。始階甚親拱,引入直。拱驟貴,負氣頗忤階。給事中胡應嘉,階鄉人也,以劾拱姻親自危。且瞷階方與拱郤,遂劾拱不守直廬,移器用於外。世宗病,勿省也。拱疑應嘉受階指,大憾之。

穆宗が即位すると、少保兼太子太保に進んだ。階が首輔であったが、拱は自ら帝の旧臣として、しばしば階に対抗し、樸もまたこれを助けたため、階は次第に耐えられなくなった。この時、以勤と張居正がともに内閣に入り、居正もまた裕邸で講義をしていた。階が遺詔を起草した際、独り居正とだけ相談したため、拱の心はますます平らかでなくなった。登極の際の軍への恩賞および大臣の去留を上裁に請う事について会議した時、階はすべて拱の意見に従わず、不和はますます深まった。応嘉は吏科を掌り、部院の官吏考査を補佐し、事がまさに終わろうとしていた時、突然ある者を論じて救おうとした。帝はその矛盾を責め、閣臣に下して処罰を議させた。樸は奮然として言った、「応嘉には人臣の礼が無い。平民に落とすべきである」。階は傍らで拱を睨み、拱がまさに怒っているのを見て、やむなくこれに従った。言路は、拱が私怨で応嘉を追い出したとして、相次いで上疏して弾劾した。給事中の欧陽一敬が特に力を込めて拱を弾劾した。階は拱の弁明の上疏に対し、慰留の旨を擬し、言官をあまり厳しく咎めなかった。拱はますます怒り、互いに憤って内閣中で誹謗し合った。御史の斉康が拱のために階を弾劾し、康は罪に坐して罷免された。ここにおいて言路が拱を論ずる日はなく、南京の科道官に至っては拾遺の上奏でこれに及んだ。拱は自ら安んじることができず、帰郷を請うた。こうして少傅兼太子太傅・尚書・大学士のまま病気療養のため去った。隆慶元年五月のことであった。拱は旧学として眷顧を受けたが、性格が強直で我が儘であり、恩讐にこだわることを好み、ついにその地位に安住できず去った。やがて階もまた帰郷を請うた。

原文穆宗即位,進少保兼太子太保。階雖為首輔,而拱自以帝舊臣,數與之抗,樸復助之,階漸不能堪。而是時以勤與張居正皆入閣,居正亦侍裕邸講。階草遺詔,獨與居正計,拱心彌不平。會議登極賞軍及請上裁去留大臣事,階悉不從拱議,嫌益深。應嘉掌吏科,佐部院考察,事將竣,忽有所論救。帝責其牴牾,下閣臣議罰。樸奮然曰:「應嘉無人臣禮,當編氓。」階旁睨拱,見拱方怒,勉從之。言路謂拱以私怨逐應嘉,交章劾之。給事中歐陽一敬劾拱尤力。階於拱辯疏,擬旨慰留,而不甚譴言者。拱益怒,相與忿詆閣中。御史齊康為拱劾階,康坐黜。於是言路論拱者無虛日,南京科道至拾遺及之。拱不自安,乞歸,遂以少傅兼太子太傅、尚書、大學士養病去。隆慶元年五月也。拱以舊學蒙眷注,性強直自遂,頗快恩怨,卒不安其位去。既而階亦乞歸。

三年の冬、帝は拱を大学士として召し出し、吏部の事務を兼掌させた。拱はそこで階の行ったことをことごとく覆し、先朝において罪を得た諸臣で遺詔により任用や追贈・撫恤を受けた者を、すべて取りやめさせた。かつ上疏して極論して言った、「『明倫大典』は頒布されて久しい。今、議事の臣が詔旨に仮託し、議礼で罪を得た者をすべて褒顕しようとしている。これでは献皇帝の廟中の御霊に何をもって饗えようか。先帝の天にある御霊に何をもって心としようか。そして陛下が歳時に廟に入られる時も、何をもって二聖に対面されようか。臣は不可であると考える」。帝は深くこれを正しいとした。法司が方士の王金らを子が父を弑しいする律に照らして罪に処そうとした。拱はさらに上疏して言った、「人君が非命に斃れ、正終を得られないのは、その名は極めて美しくない。先帝は御宇四十五載、六十有余歳を得られた。末年は病を抱え、一年を経て崩御され、長寿を全うして終わり、暴卒など全くなかった。今、先帝が王金に害されたと言い、正終を得られなかったと誣いるのは、天下後世が先帝をどのような主と見るだろうか。法司に下して改議を乞う」。帝はまたも拱の言を正しいとし、流刑を減ずるよう命じた。拱の再出仕は、専ら階との不和を修復するためであり、論ずるところはすべて階を中傷してその罪を重くしようとするものだった。帝が仁柔であったために、ついに徹底させられなかったのである。階の子弟は郷里でかなり横暴であった。拱は以前の知府蔡国熙を監司に任じ、その諸子を帳簿に記録して、すべて流刑に編入させた。階を扼する手段は、至らないところがなかった。拱が去位するに及んで、ようやく解かれた。

原文三年冬,帝召拱以大學士兼掌吏部事。拱乃盡反階所為,凡先朝得罪諸臣以遺詔錄用贈恤者,一切報罷。且上疏極論之曰:「《明倫大典》頒示已久。今議事之臣假托詔旨,凡議禮得罪者悉從褒顯,將使獻皇在廟之靈何以為享?先帝在天之靈何以為心?而陛下歲時入廟,亦何以對越二聖?臣以為未可。」帝深然之。法司坐方士王金等子弒父律。拱覆上疏曰:「人君隕於非命,不得正終,其名至不美。先帝臨御四十五載,得歲六十有餘。末年抱病,經歲上賓,壽考令終,曾無暴遽。今謂先帝為王金所害,誣以不得正終,天下後世視先帝為何如主?乞下法司改議。」帝復然拱言,命減戍。拱之再出,專與階修郤,所論皆欲以中階重其罪。賴帝仁柔,弗之竟也。階子弟頗橫鄉里。拱以前知府蔡國熙為監司,簿錄其諸子,皆編戍。所以扼階者,無不至。逮拱去位,乃得解。

高拱は政体の練習を積み、経済の才を有し、提言したことはすべて実行可能であった。吏部においては、人材を広く識別しようとし、諸司に名簿を与えて、賢否を記録させ、志望地と姓氏を記し、月ごとに集計し年ごとに総括させた。急な登用においても、すべて適材を得た。また当時は辺境の事態を憂慮していたため、兵部侍郎を増員して、総督の人選を蓄えるよう請うた。侍郎から総督へ、総督から本兵(兵部尚書)へと、中央と地方を交互に務めさせれば、辺境の人材は自然と豊かになる。また兵事は専門の学問であり、平素から習熟していなければ急事に対応できない。本兵を養成するには、兵部の司属から始めるべきである。司属を慎重に選び、智謀才力に優れ軍旅に通暁した者を多く得て、長くその職に任じ、他曹へ転任させないようにすべきである。いずれ辺境の兵備・督撫の人選は、すべてここから取るようにする。さらに各辺境の地の者を取って司属に備え、銓司が省ごとに分かれる故事のようにすれば、上奏の審議も齟齬なく、賞罰を重んじて彼らを激励すべきである。辺境の地方官はその責任が重いので、雑流や左遷された者を任ずべきではない。すべて許可され、令として定められた。高拱はまた、科挙と貢挙の出身者を進士と並用し、資格に拘らないよう奏請した。部内での考察では、多くを参酌照合し、文書のみに依拠して昇降せず、また人数の多寡にも拘らず、罷免する者には必ず理由を告げて、衆人を納得させた。古田の瑤賊が乱を起こすと、殷正茂を以て両広総督に任じた。曰く、「彼は貪欲ではあるが、事を成し遂げられる。」貴州巡撫が土司の安国亨が叛こうとしていると奏上すると、阮文中を代わりに巡撫に任命した。出発に際して言った、「国亨は必ず叛かない。赴任しても、変事を煽るな。」果たしてその言う通りとなった。広東の地方官に貪汚が多いため、特に廉潔有能な知府侯必登を表彰して、他の者を励ますよう請うた。また馬政・塩政の官は、卿や使と名乗りながら、実際には閑職と見なされ、人を得ず事を廃し、次第に手に負えなくなる。ただ教官・駅逓などの諸司は、職位が低く俸禄が薄く、遠方への赴任は困難であるので、近地に任用して、その私情を憐れむべきであると述べた。詔はすべてこれに従った。高拱の計画したことは、すべてこの類いであった。

原文拱練習政體,負經濟才,所建白皆可行。其在吏部,欲遍識人才,授諸司以籍,使署賢否,志里姓氏,月要而歲會之。倉卒舉用,皆得其人。又以時方憂邊事,請增置兵部侍郎,以儲總督之選。由侍郎而總督,由總督而本兵,中外更番,邊材自裕。又以兵者專門之學,非素習不可應卒。儲養本兵,當自兵部司屬始。宜慎選司屬,多得智謀才力曉暢軍旅者,久而任之,勿遷他曹。他日邊方兵備督撫之選,皆於是取之。更各取邊地之人以備司屬,如銓司分省故事,則題覆情形可無扞格,並重其賞罰以鼓勵之。凡邊地有司,其責頗重,不宜付雜流及遷謫者。皆報可,著為令。拱又奏請科貢與進士並用,勿循資格。其在部考察,多所參伍,不盡憑文書為黜陟,亦不拘人數多寡,黜者必告以故,使眾咸服。古田瑤賊亂,用殷正茂總督兩廣。曰:「是雖貪,可以集事。」貴州撫臣奏土司安國亨將叛,命阮文中代為巡撫。臨行語之曰:「國亨必不叛,若往,無激變也。」即而如其言。以廣東有司多貪黷,特請旌廉能知府侯必登,以歷其餘。又言馬政、鹽政之官,名為卿、為使,而實以閒局視之,失人廢事,漸不可訓。惟教官驛遞諸司,職卑錄薄,遠道為難,宜銓注近地,以恤其私。詔皆從之。拱所經畫,皆此類也。

アルタン・ハンの孫バガ・アチ(把漢那吉)が降伏して来ると、総督王崇古はこれを受け入れ、朝廷に請うて官職を授けるよう求めた。朝議では多くが不可としたが、高拱と張居正が強く主張した。遂に衆議を排して上奏し、封貢(冊封と朝貢)が成立した。事柄は崇古伝に詳しい。高拱は少師兼太子太師・尚書・大学士に進み、建極殿に改めた。高拱は辺境がやや寧かになったことを以て、将士が怠け遊ぶことを恐れ、さらに辺境の臣に勅を下して時機の暇を見て厳しく整頓させ、時折大臣を派遣して巡視させるよう請うた。帝はすべてこれに従った。遼東から捷報が奏上されると、柱国・中極殿大学士に進んだ。

原文俺答孫把漢那吉來降,總督王崇古受之,請於朝,乞授以官。朝議多以為不可,拱與居正力主之。遂排眾議請於上,而封貢以成。事具崇古傳。進拱少師兼太子太師、尚書、大學士,改建極殿。拱以邊境稍寧,恐將士惰玩,復請敕邊臣及時閒暇,嚴為整頓,仍時遣大臣閱視。帝皆從之。遼東奏捷,進柱國、中極殿大學士。

まもなく科道官を考察するに当たり、高拱は都察院と共同で行うよう請うた。当時大学士趙貞吉が都察院を掌り、意見がやや異同があった。給事中韓楫が貞吉が私的に庇っていると弾劾した。貞吉は高拱が唆したのではないかと疑い、遂に抗疏して高拱を弾劾し、高拱も上疏して弁明した。帝は貞吉を正しいとせず、致仕を命じて去らせた。高拱は貞吉を追放した後、専横がますます顕著になった。尚宝卿劉奮庸が上疏して陰にこれを非難し、給事中曹大埜がその不忠十か条を弾劾する上疏をしたが、ともに外任に左遷された。高拱は初め清廉な操守を保っていたが、後にはその門生や親族が賄賂で有名になり、世間の非議を招いた。帝は終始高拱を寵愛して衰えさせなかった。

原文尋考察科道,拱請與都察院同事。時大學士趙貞吉掌都察院,持議稍異同。給事中韓楫劾貞吉有所私庇。貞吉疑拱嗾之,遂抗章劾拱,拱亦疏辨。帝不直貞吉,令致仕去。拱既逐貞吉,專橫益著。尚寶卿劉奮庸上疏陰斥之,給事中曹大埜疏劾其不忠十事,皆謫外任。拱初持清操,後其門生、親串頗以賄聞,致物議。帝終眷拱不衰也。

初め高拱が祭酒であった時、張居正が司業で、互いに親しくし、高拱はしきりに居正の才能を称えた。この時李春芳・陳以勤がともに去り、高拱が首輔となり、張居正がそれに次いだ。高拱の性格は直情で傲慢であり、同官の殷士儋らは耐えられなかったが、張居正だけは退いて彼の下に立ち、高拱はそれに気づかなかった。馮保は宦官で、性質狡猾であり、次に司礼監を掌る順番であったが、高拱は陳洪と孟沖を推薦し、帝はこれに従ったため、馮保はこれによって高拱を怨んだ。そして張居正は馮保と深く結託した。六年春、帝は病を得て、危篤となり、高拱と張居正・高儀を召して顧命を受け、崩御した。初め、帝の意は専ら閣臣に属していたが、宦官が遺詔を偽って馮保と共に事に当たるよう命じた。

原文始拱為祭酒,居正為司業,相友善,拱亟稱居正才。及是李春芳、陳以勤皆去,拱為首輔,居正肩隨之。拱性直而傲,同官殷士儋輩不能堪,居正獨退然下之,拱不之察也。馮保者,中人,性黠,次當掌司禮監,拱薦陳洪及孟沖,帝從之,保以是怨拱。而居正與保深相結。六年春,帝得疾,大漸,召拱與居正、高儀受顧命而崩。初,帝意專屬閣臣,而中官矯遺詔命與馮保共事。

神宗が即位すると、高拱は主上が幼少であることを以て、宦官の専政を戒め、条奏して司礼監の権力を抑え、内閣に戻すよう請うた。また給事中雒遒・程文に共同上疏して馮保を攻撃させ、自分は内から旨を擬して彼を追放しようとした。高拱は人をやって張居正に報せたが、居正は表面上承諾し、密かに馮保に話した。馮保は太后に訴え、高拱が権力を擅にし、容認できないと述べた。太后はうなずいた。翌日、群臣を召し入れ、両宮と帝の詔を宣した。高拱は必ず馮保を追放するものと思い、急いで入った。詔が宣されるや、高拱の罪を数えて追放した。高拱は地に伏して起き上がれず、張居正が彼を支えて出し、騾車を借りて宣武門を出た。張居正は高儀とともに高拱の留任を請うたが、許されなかった。駅伝利用を請うと、許された。高拱が去った後、馮保の恨みは解けず、さらに王大臣の獄をでっち上げ、高拱に連座させようとしたが、やがて鎮静化した。家に居ること数年、卒去した。張居正はその官職を復し、例に従って祭葬を行うよう請うた。中旨(内廷からの命令)で半葬を与え、祭文にはなお貶す言葉が含まれていたという。久しくして、朝廷で高拱の功績が論じられ、太師を追贈し、諡を文襄とし、嗣子務観を尚宝丞に蔭官させた。

原文神宗即位,拱以主上幼沖,懲中官專政,條奏請詘司禮權,還之內閣。又命給事中雒遒、程文合疏攻保,而己從中擬旨逐之。拱使人報居正,居正陽諾之,而私以語保。保訴於太后,謂拱擅權,不可容。太后頷之。明日,召群臣入,宣兩宮及帝詔。拱意必逐保也,急趨入。比宣詔,則數拱罪而逐之。拱伏地不能起,居正掖之出,僦騾車出宣武門。居正乃與儀請留拱,弗許。請得乘傳,許之。拱既去,保憾未釋。復構王大臣獄,欲連及拱,已而得寢。居家數年,卒。居正請復其官,與祭葬如例。中旨給半葬,祭文仍寓貶詞雲。久之,廷議論拱功,贈太師,諡文襄,廕嗣子務觀為尚寶丞。

付録 郭朴

原文附 郭樸

郭朴、字は質夫、安陽の人。嘉靖十四年の進士。庶吉士に選ばれた。累進して礼部右侍郎となり、西苑に直した。吏部左・右侍郎兼太子賓客を歴任した。南京礼部に尚書が欠員となり、帝は郭朴が長くその地位にあったことを憐れみ、特に太子少保を加えてこれを任じた。郭朴は辞して言った、「幸いにも撰述に与り、宮闕から遠く離れたくありません。」帝は大いに喜び、命じて即座に太子少保・礼部尚書・詹事府として従前通り侍直させた。まもなく、吏部尚書欧陽必進が罷免されると、即座に郭朴を以てこれに代えた。二年後、父の喪で去った。厳訥が吏部から内閣に入ると、帝は後任を謀った。当時董份が工部尚書として吏部左侍郎の事務を行い、ちょうど帝の寵愛を受けており、しかし人となり貪欲狡猾で品行がなかった。徐階は彼が訥に代わることを憂慮し、急いで帝に言上し、郭朴を旧官に起用した。郭朴は固く喪に服し終えることを請うたが、許されなかった。まもなく考績により、太子太保を加えられた。

原文郭樸,字質夫,安陽人。嘉靖十四年進士。選庶吉士。累官禮部右侍郎,入直西苑。歷吏部左、右侍郎兼太子賓客。南京禮部缺尚書,帝憐樸久次,特加太子少保擢任之。樸辭曰:「幸與撰述,不欲遠離闕下。」帝大喜,命即以太子少保、禮部尚書、詹事府侍直如故。頃之,吏部尚書歐陽必進罷,即以樸代之。越二年,以父喪去。及嚴訥由吏部入閣,帝謀代者。時董份以工部尚書行吏部左侍郎事,方受帝眷,而為人貪狡無行。徐階慮其代訥,急言於帝,起樸故官。樸固請終制,不許。尋以考績,加太子太保。

四十五年、武英殿大学士を兼ね、機務に参与し、高拱とともに任命された。徐階は早くから貴く、権勢が重く、李春芳・厳訥は謹んで彼に仕え、対等の礼を講じることさえ敢えなかった。しかし郭朴と高拱は同郷で気が合い、徐階に仕える態度はやや傲慢で、高拱は特に才能を恃んで勝手気ままであった。世宗が崩御すると、徐階が遺詔を起草し、時政の不便なものをすべて覆した。高拱と郭朴はこれに関与できず、大いに憤り、二人は徐階と不和になった。言路が高拱を弾劾する者は多く郭朴にも及んだ。高拱は病と称して帰郷し、郭朴は不安を感じ、また去職を求めた。帝は固く留めた。当時郭朴はすでに少傅・太子太傅に加えられていた。御史龐尚鵬・凌儒らが攻撃を止めず、遂に三度上疏して帰郷を乞うた。家に居ること二十余年、卒去した。太傅を追贈し、諡は文簡。

原文四十五年,兼武英殿大學士,入預機務,與高拱並命。階早貴,權重,春芳、訥事之謹,至不敢講鈞禮。而樸與拱鄉里相得,事階稍倨,拱尤負才自恣。及世宗崩,階草遺詔,盡反時政之不便者。拱與樸不得與聞,大恚,兩人遂與階有隙。言路劾拱者多及樸。拱謝病歸,樸不自安,亦求去。帝固留之。時樸已加至少傅、太子太傅矣。御史龐尚鵬、凌儒等攻不止,遂三疏乞歸。家居二十餘年卒。贈太傅,諡文簡。

郭朴は人となり長者であり、二度銓衡(官吏登用)を掌り、廉潔で著名であった。輔政二年、過失がなかった。特に高拱のため、朝廷に容れられず、当時は彼を惜しむ者も多かった。

原文樸為人長者,兩典銓衡,以廉著。輔政二年無過。特以拱故,不容於朝,時頗有惜之者。

張居正

原文張居正

張居正、字は叔大、江陵の人。幼少より聡敏で比類なく、十五歳で諸生となった。巡撫顧璘はその文章を奇異とし、「国の器である」と言った。まもなく、居正は郷試に合格し、顧璘は犀帯を解いて贈り、かつ「君は将来玉帯を腰にすべきで、犀帯では君を汚す」と言った。嘉靖二十六年、居正は進士となり、庶吉士に改められた。日々国家の典故を研究した。徐階らは皆彼を器重した。編修に任じられ、急な用事で帰郷を請うたが、間もなく職に戻った。

原文張居正,字叔大,江陵人。少穎敏絕倫。十五為諸生。巡撫顧璘奇其文,曰:「國器也。」未幾,居正舉於鄉,璘解犀帶以贈,且曰:「君異日當腰玉,犀不足溷子。」嘉靖二十六年,居正成進士,改庶吉士。日討求國家典故。徐階輩皆器重之。授編修,請急歸,亡何還職。

張居正の容貌は、面長で眉目秀麗、髭は腹まで長く垂れていた。勇敢にして事を任じ、豪傑を自ら任じた。しかし沈着深遠にして城府があり、誰もその心を測ることができなかった。厳嵩が首輔となると、徐階を忌み、徐階に与する者は皆避けて隠れた。張居正は平然としていたが、厳嵩もまた張居正を器量ある者として遇した。右中允に遷り、国子司業の職務を管轄した。祭酒の高拱と親しく交わり、互いに宰相の業を成すことを期した。まもなく坊事を管理する職に戻り、裕邸の講読官に遷った。裕王(後の穆宗)は大いに彼を賢しとし、邸中の宦官もまた張居正を好まない者はなかった。そして李芳はしばしば書の義を問い、多くは天下の事に及んだ。まもなく右諭徳兼侍読に遷り、侍講学士に進み、翰林院の事務を管轄した。

原文居正為人,頎面秀眉目,須長至腹。勇敢任事,豪傑自許。然沉深有城府,莫能測也。嚴嵩為首輔,忌階,善階者皆避匿。居正自如,嵩亦器居正。遷右中允,領國子司業事。與祭酒高拱善,相期以相業。尋還理坊事,遷侍裕邸講讀。王甚賢之,邸中中官亦無不善居正者。而李芳數從問書義,頗及天下事。尋遷右諭德兼侍讀,進侍講學士,領院事。

徐階が厳嵩に代わって首輔となると、心を傾けて張居正を委任した。世宗が崩御すると、徐階は遺詔を起草し、張居正を引き入れて共に謀った。まもなく礼部右侍郎兼翰林院学士に遷った。一か月余り後、裕邸の元講官であった陳以勤と共に内閣に入り、張居正は吏部左侍郎兼東閣大学士となった。まもなく『世宗実録』の総裁を充てられ、礼部尚書兼武英殿大学士に進み、少保兼太子太保を加えられ、学士の五品から僅か一年余りで昇進した。当時、徐階は宿老として首輔の座にあり、李春芳と共に礼を尽くして士を敬った。張居正は最後に内閣に入ったが、独り宰相の体を引き立て、九卿に対しても傲慢に接し、引き入れて受け入れることはなかった。時折発する一言は的を射ており、人々はこれによって彼を厳しく畏れ、他の宰相よりも重んじた。

原文階代嵩首輔,傾心委居正。世宗崩,階草遺詔,引與共謀。尋遷禮部右侍郎兼翰林院學士。月餘,與裕邸故講官陳以勤俱入閤,而居正為吏部左侍郎兼東閣大學士。尋充《世宗實錄》總裁,進禮部尚書兼武英殿大學士,加少保兼太子太保,去學士五品僅歲余。時徐階以宿老居首輔,與李春芳皆折節禮士。居正最後入,獨引相體,倨見九卿,無所延納。間出一語輒中肯,人以是嚴憚之,重於他相。

高拱は剛愎で躁急であると論ぜられて去り、徐階もまた去り、李春芳が首輔となった。間もなく、趙貞吉が入閣し、張居正を軽んじて見た。張居正は旧知の司礼監掌印太監李芳と謀り、高拱を召し出して用い、吏部を管轄させて趙貞吉を抑え、李春芳の政権を奪おうとした。高拱が到着すると、ますます張居正と親しくなった。李春芳はまもなく辞任し、陳以勤も自ら辞し、趙貞吉と殷士儋は共に張居正らの謀略によって罷免され、独り張居正と高拱のみが残り、二人はますます親密になった。高拱は俺答の封貢を主張し、張居正もまたこれを支持し、王崇古らに方策を授けた。柱国・太子太傅を加えられた。六年が満ちると、少傅・吏部尚書・建極殿大学士を加えられた。遼東の戦功により、太子太師を加えられた。和市(互市)が成立すると、少師を加えられ、その他の官職は元のままとした。

原文高拱以很躁被論去,徐階亦去,春芳為首輔。亡何,趙貞吉入,易視居正。居正與故所善掌司禮者李芳謀,召用拱,俾領吏部,以扼貞吉,而奪春芳政。拱至,益與居正善。春芳尋引去,以勤亦自引,而貞吉、殷士儋皆為所構罷,獨居正與拱在,兩人益相密。拱主封俺答,居正亦贊之,授王崇古等以方略。加柱國、太子太傅。六年滿,加少傅、吏部尚書、建極殿大學士。以遼東戰功,加太子太師。和市成,加少師,余如故。

初め、徐階が去った後、三人の息子に張居正に謹んで仕えるよう命じた。しかし高拱は徐階を深く恨み、言官に唆して絶えず追及させ、徐階の諸子は多く罪に坐した。張居正が高拱に穏やかに話すと、高拱は少し心が動いた。ところが高拱の食客が、張居正が徐階の子から三万金を受け取ったと讒言し、高拱は張居正を詰問した。張居正は色を変え、天を指して誓い、言葉は甚だ苦しげであった。高拱は不審を謝罪したが、二人の交わりはここに離れた。高拱はまた、張居正と親しい宦官の馮保とも不和になった。穆宗が病に伏すと、張居正は馮保と密かに後事の処分を謀り、馮保を内助として引き入れたが、高拱は馮保を除こうとした。神宗が即位すると、馮保は両宮(仁聖皇太后・慈聖皇太后)の詔旨によって高拱を追放した(事柄は高拱伝に詳しい)。張居正は遂に高拱に代わって首輔となった。帝は平台に臨御し、張居正を召して褒め諭し、金幣と繍蟒斗牛服を賜った。これより以後、賜賚のない日はなかった。

原文初,徐階既去,令三子事居正謹。而拱銜階甚,嗾言路追論不已,階諸子多坐罪。居正從容為拱言,拱稍心動。而拱客構居正納階子三萬金,拱以誚居正。居正色變,指天誓,辭甚苦。拱謝不審,兩人交遂離。拱又與居正所善中人馮保郄。穆宗不豫,居正與保密處分後事,引保為內助,而拱欲去保。神宗即位,保以兩宮詔旨逐拱,事具拱傳,居正遂代拱為首輔。帝御平臺,召居正獎諭之,賜金幣及繡蟒斗牛服。自是賜賚無虛日。

帝は虚心に張居正を委任し、張居正もまた慨然として天下を己が任とし、朝廷内外はその風采を慕い望んだ。張居正は帝に祖宗の旧制を遵守し、むやみに変更せず、講学・親賢・愛民・節用こそが急務であると勧めた。帝は善しとした。廷臣の大計(考課)を行い、職にふさわしくない者や高拱に附麗した者を罷斥した。さらに詔を整えて群臣を朝廷に召し厳しく戒め、百官は皆恐れ息をひそめた。帝は両宮を尊崇すべきであった。故事によれば、皇后と天子の生母は共に皇太后と称するが、徽号には区別があった。馮保は帝の生母である李貴妃に媚びようとし、張居正に並尊するようほのめかした。張居正は敢えて違えず、皇后を仁聖皇太后、皇貴妃を慈聖皇太后と尊称することを議し、両宮の区別は無くなった。慈聖皇太后は乾清宮に移り、帝を養育し見守り、内では馮保を任用し、大権は全て張居正に委ねた。

原文帝虛己委居正,居正亦慨然以天下為己任,中外想望丰采。居正勸帝遵守祖宗舊制,不必紛更,至講學、親賢、愛民、節用皆急務。帝稱善。大計廷臣,斥諸不職及附麗拱者。復具詔召群臣廷飭之,百僚皆惕息。帝當尊崇兩宮。故事,皇后與天子生母並稱皇太后,而徽號有別。保欲媚帝生母李貴妃,風居正以並尊。居正不敢違,議尊皇后曰仁聖皇太后,皇貴妃曰慈聖皇太后,兩宮遂無別。慈聖徙乾清宮,撫視帝,內任保,而大柄悉以委居正。

張居正の政治は、主権を尊び、吏職を考課し、賞罰を信実にし、号令を統一することを主とした。万里の遠方であっても、朝に命が下れば夕には奉行された。黔国公沐朝弼はたびたび法を犯し、逮捕されるべきであったが、朝議はこれを難事とした。張居正はその子を抜擢任用し、使いを走らせて沐朝弼を縛らせると、動くことができなかった。到着後、その死罪を赦すよう請い、南京に幽閉した。漕河が通じると、張居正は歳賦の輸送が春を過ぎると、水が氾濫し、決壊するか干上がるかであるとして、漕運の臣の議を採用し、漕船の卒に孟冬の月に兌運(輸送)するよう督し、年初までに発送を終えさせ、水害に遭うことを少なくした。この方法を長く行うと、太倉の粟は充満し、十年分を支えることができた。互市で馬が豊かになったので、太僕寺の種馬を減らし、民に代価を納めさせると、太僕寺の金も四百余万積み上がった。また、考成法を定めて吏治を督責した。初め、部院が覆奏して巡撫・巡按に調査させる案件は、しばしば滞留して報告されなかった。張居正は大小緩急によって期限を定め、誤った者は罪に当てるよう命じた。これより以後、一切虚偽を飾ることができなくなり、政体は粛然とした。南京の小宦官が酔って給事中を辱めたが、言官は究治を請うた。張居正は最も激しい趙参魯を外に左遷して馮保を喜ばせ、徐々に馮保を説いてその党を抑制させ、六部の政事に関与させないようにした。馮保の使者には、しばしば緹騎(錦衣衛)に密かに探らせた。馮保の党はこれによって張居正を怨んだが、心から馮保に附くこともなかった。

原文居正為政,以尊主權、課吏職、信賞罰、一號令為主。雖萬里外,朝下而夕奉行。黔國公沐朝弼數犯法,當逮,朝議難之。居正擢用其子,馳使縛之,不敢動。既至,請貸其死,錮之南京。漕河通,居正以歲賦逾春,發水橫溢,非決則涸,乃採漕臣議,督艘卒以孟冬月兌運,及歲初畢發,少罹水患。行之久,太倉粟充盈,可支十年。互市饒馬,乃減太僕種馬,而令民以價納,太僕金亦積四百餘萬。又為考成法以責吏治。初,部院覆奏行撫按勘者,嘗稽不報。居正令以大小緩急為限,誤者抵罪。自是,一切不敢飾非,政體為肅。南京小奄醉辱給事中,言者請究治。居正謫其尤激者趙參魯於外以悅保,而徐說保裁抑其黨,毋與六部事。其奉使者,時令緹騎陰詗之。其黨以是怨居正,而心不附保。

張居正は、御史が地方に出ると、しばしば巡撫の臣を凌ぐのを、痛くこれを挫こうとした。一事でも少しでも合わないと、罵責がすぐに下り、またその長官に命じて考察を加えさせた。給事中余懋学が寛大の政を行うよう請うたが、張居正は自分を諷刺したとしてその職を削った。御史傅応禎が続いて言上し、特に切直であった。詔獄に下し、杖罰の上で辺境に戍らせた。給事中徐貞明らが群をなして獄中に入り、衣食の具を見舞ったが、これも逮捕され左遷された。御史劉台が遼東を巡按し、誤って捷報を奏上した。張居正がちょうど故事を引いて督責しようとすると、劉台は上疏して張居正が専横で法に背くことを論じ、張居正は大いに怒った。帝は劉台を詔獄に下し、百回の杖罰と遠方への戍を命じた。張居正は表向き上疏して救い、僅かにその職を奪うのみとした。後に、結局劉台を戍らせた。これによって諸給事中・御史はますます張居正を畏れたが、心中では不平であった。

原文居正以御史在外,往往凌撫臣,痛欲折之。一事小不合,詬責隨下,又敕其長加考察。給事中余懋學請行寬大之政,居正以為風己,削其職。御史傅應禎繼言之,尤切。下詔獄,杖戍。給事中徐貞明等群擁入獄,視具橐饘,亦逮謫外。御史劉台按遼東,誤奏捷。居正方引故事繩督之,台抗章論居正專恣不法,居正怒甚。帝為下臺詔獄,命杖百,遠戍。居正陽具疏救之,僅奪其職。已,卒戍台。由是諸給事御史益畏居正,而心不平。

この時、太后は帝が幼少であるため、張居正を非常に尊礼し、同列の呂調陽は敢えて異同を唱えなかった。そして吏部左侍郎張四維が入閣すると、恭順して属吏のようであり、僚友として振る舞おうとはしなかった。

原文當是時,太后以帝沖年,尊禮居正甚至,同列呂調陽莫敢異同。及吏部左侍郎張四維入,恂恂若屬吏,不敢以僚自處。

張居正は事を建てることを好み、智術をもって下を統御することができ、人々は多く喜んでそのために尽力した。俺答が塞ぎで和を請い、長く害をなさなかった。ただ小王子の部衆十余万は、東北は遼左に直し、互市を通じることができないため、たびたび寇掠した。張居正は李成梁を起用して遼東を鎮守させ、戚継光を薊門に鎮守させた。李成梁は力戦して敵を退け、功績多く伯に封ぜられ、戚継光は守備を厳重に整えた。張居正は二人を重用し、辺境は平穏であった。両広の督撫殷正茂・凌雲翼らもまたたびたび賊を破り功績があった。浙江の兵民が再び乱を起こしたが、張佳胤を用いて鎮撫に向かわせると即座に平定した。故に世間は張居正が人を知ると称した。しかし法を厳格に持した。駅伝を査核し、冗官を省き、学校を清め、多くを淘汰した。公卿群吏は駅伝の馬車に乗ることができず、商人旅人と区別がなかった。郎署は員数が少なく、待機する者は補われることがなかった。大邑の士子の定員は狭く、進取が困難であった。これらを怨む者も多かった。

原文居正喜建豎,能以智數馭下,人多樂為之盡。俺答款塞,久不為害。獨小王子部眾十餘萬,東北直遼左,以不獲通互市,數入寇。居正用李成梁鎮遼,戚繼光鎮薊門。成梁力戰卻敵,功多至封伯,而繼光守備甚設。居正皆右之,邊境晏然。兩廣督撫殷正茂、凌雲翼等亦數破賊有功。浙江兵民再作亂,用張佳胤往撫即定,故世稱居正知人。然持法嚴。核驛遞,省冗官,清庠序,多所澄汰。公卿群吏不得乘傳,與商旅無別。郎署以缺少,需次者輒不得補。大邑士子額隘,艱於進取。亦多怨之者。

当時は太平の世が長く続き、群盗が蝟のごとく起こり、都市に入り府庫を劫掠するに至ったが、有司は常にこれを隠し、張居正はその禁令を厳しくした。隠して挙げない者は、たとえ循吏であっても必ず罷免した。盗賊を捕らえれば即座に斬決し、有司は敢えて情実を飾ることがなかった。辺境や海上で銭米を盗み数が満ちると、例えは皆斬罪であったが、しばしば長く拘禁するか獄死させた。張居正は独り直ちに斬り、その家族を追捕した。盗賊は衰え止んだ。しかしこの方策の実行が不便な者は、相次いで怨言を言ったが、張居正は顧みなかった。

原文時承平久,群盜蝟起,至入城市劫府庫,有司恆諱之,居正嚴其禁。匿弗舉者,雖循吏必黜。得盜即斬決,有司莫敢飾情。盜邊海錢米盈數,例皆斬,然往往長繋或瘐死。居正獨亟斬之,而追捕其家屬。盜賊為衰止。而奉行不便者,相率為怨言,居正不恤也。

慈聖太后が慈寧宮に還御せんとするに当たり、居正に諭して謂う、「私は皇帝の朝夕を見守ることができず、以前のように学問に励み政務に勤しむことができず、先帝の付託に累を及ぼすことを恐れる。先生には師保の責があり、諸臣とは異なる。我がために朝夕諫言を納め、皇帝の徳を輔け、先帝の御遺命を終わらせよ」と。ここに坐蟒・白金・彩幣を賜う。未だ幾ばくもせず、父の喪に遭う。帝は司礼監の宦官を遣わして慰問し、粥や薬を見届け、哭泣を止めさせ、道中に使者が相次ぎ、三宮より贈賻甚だ厚し。

原文慈聖太后將還慈寧宮,諭居正謂:「我不能視皇帝朝夕,恐不若前者之向學、勤政,有累先帝付托。先生有師保之責,與諸臣異。其為我朝夕納誨,以輔台德,用終先帝憑幾之誼。」因賜坐蟒、白金、彩幣。未幾,丁父憂。帝遣司禮中官慰問,視粥藥,止哭,絡繹道路,三宮膊贈甚厚。

戸部侍郎李幼孜は居正に媚びんとして奪情の議を唱え、居正はこれに惑わされる。馮保もまた固く居正を留めんとする。諸翰林の王錫爵・張位・趙志皋・吳中行・趙用賢・習孔教・沈懋學らは皆これを不可とすれども、聴かず。吏部尚書張瀚は慰留の旨を奉持することを以て、逐われ去る。御史曾士楚・給事中陳三謨らは遂に相次いで上疏して留任を請う。中行・用賢及び員外郎艾穆・主事沈思孝・進士鄒元標が相継いでこれに争う。皆、廷杖に坐し、差等をもって謫降・斥免される。時に彗星すいせいが東南方より起こり、天を長く横たわる。人情洶洶として、居正を指弾し、ついには誹謗の書を大路に掲げるに至る。帝は群臣に詔諭し、再び及ぶ者は誅して赦さずとし、誹謗はやむ。ここにおいて居正の子で編修の嗣修と司礼監太監魏朝を馳伝させて代わって喪を司らせしむ。礼部主事曹誥は祭事を治め、工部主事徐應聘は喪事を治む。居正は朝参せず、青衣・素服・角帯を以て内閣に入り政務を治め、経筵の講読に侍し、また歳俸を辞することを請う。帝はこれを許す。帝が大婚礼を挙行するに及んで、居正は吉服を着してこれに従事す。給事中李淶がその非礼を言上するも、居正は怒り、これを僉事に出す。時に帝は居正を顧みること益々重く、常に居正に手札を賜い、「元輔張少師先生」と称し、師礼を以て遇す。

原文戶部侍郎李幼孜欲媚居正,倡奪情議,居正惑之。馮保亦固留居正。諸翰林王錫爵、張位、趙志皋、吳中行、趙用賢、習孔教、沈懋學輩皆以為不可,弗聽。吏部尚書張瀚以持慰留旨,被逐去。御史曾士楚、給事中陳三謨等遂交章請留。中行、用賢及員外郎艾穆、主事沈思孝、進士鄒元標相繼爭之。皆坐廷杖,謫斥有差。時彗星從東南方起,長亙天。人情洶洶,指目居正,至懸謗書通衢。帝詔諭群臣,再及者誅無赦,謗乃已。於是使居正子編修嗣修與司禮太監魏朝馳傳往代司喪。禮部主事曹誥治祭,工部主事徐應聘治喪。居正請無造朝,以青衣、素服、角帶入閣治政,侍經筵講讀,又請辭歲俸。帝許之。及帝舉大婚禮,居正吉服從事。給事中李淶言其非禮,居正怒,出為僉事。時帝顧居正益重,常賜居正札,稱「元輔張少師先生」,待以師禮。

居正は帰郷して父を葬ることを乞う。帝は尚宝少卿鄭欽・錦衣指揮史継書をして護送して帰らしめ、三月を期し、葬り畢えて即ち上道せしむ。なお撫按諸臣に命じて先んじて馳せて璽書を賜い敦諭せしむ。『帝賚忠良』の銀印を範としてこれを賜い、楊士奇・張孚敬の例のごとく、密封して事を言上することを得しむ。次輔の呂調陽らに戒めて「大事あるも専決することなく、駅伝を馳せて江陵に至り、張先生の処分を聴け」とす。居正は内閣の員数を広げることを請う。詔して即時に居正に推挙せしむ。居正はここに因って礼部尚書馬自強・吏部右侍郎申時行を推挙して内閣に入らしむ。自強は平素居正に逆らい、自らこれを得んとは意えず、頗る居正に徳とし、時に時行と四維は皆自ら居正に昵びたれば、居正は安んじて去る。帝及び両宮は賜賚慰諭すること礼を加え、司礼監太監張宏を遣わして郊外に供張餞別せしめ、百官は班列して送る。過ぐる所の地にては、有司は厨伝を節し、道路を治む。遼東より大捷を奏す。帝はまた功を居正に帰し、使者を馳せて諭し、爵賞を定めしむ。居正は条列を為して以て聞かしむ。調陽は益々内に慚じ、堅く臥し、累疏して休みを乞うて出でず。

原文居正乞歸葬父,帝使尚寶少卿鄭欽、錦衣指揮史繼書護歸,期三月,葬畢即上道。仍命撫按諸臣先期馳賜璽書敦諭。范「帝賚忠良」銀印以賜之,如楊士奇、張孚敬例,得密封言事。戒次輔呂調陽等「有大事毋得專決,馳驛之江陵,聽張先生處分。」居正請廣內閣員,詔即令居正推。居正因推禮部尚書馬自強、吏部右侍郎申時行入閣。自強素迕居正,不自意得之,頗德居正,而時行與四維皆自昵於居正,居正乃安意去。帝及兩宮賜賚慰諭有加禮,遣司禮太監張宏供張餞郊外,百僚班送。所過地,有司節廚傳,治道路。遼東奏大捷,帝復歸功居正。使使馳諭,俾定爵賞。居正為條列以聞。調陽益內慚,堅臥,累疏乞休不出。

居正は母が老いて炎暑を冒すことができずと言い、涼しくなるを俟って上道することを請う。ここにおいて内閣・両都の部院寺卿・給事・御史ともに上章し、居正を促して亟に還朝せしむることを請う。帝は錦衣指揮翟汝敬を馳伝させて往き迎えしめ、日数を計って俟ち、また宦官に命じて太夫人を護り秋日に水路を行かしむ。居正の過ぐる所、守臣は率い長跪し、撫按の大吏は境界を越えて迎送し、自ら前駆となる。道、襄陽を経るに、襄王は出でて候い、居正を要して宴す。故事によれば、公侯といえども王に謁すれば臣礼を執るも、居正は賓主の礼を具えて出ず。南陽を過ぐるに、唐王もまたこれに如し。郊外に抵るに、詔して司礼監太監何進を遣わして宴労せしめ、両宮もまた各々大璫の李琦・李用を遣わして宣諭し、八宝金釘川扇・御膳・餅果・醪醴を賜い、百官また班列して迎う。朝に入るに、帝は慰労すること懇篤にして、十日を仮し、後に内閣に入らしめ、なお白金・彩幣・宝鈔・羊酒を賜い、ここに因って両宮に引見せしむ。秋に及び、魏朝は居正の母を行かしむるを奉じ、儀従煊赫として、観る者堵の如し。至るに及んで、帝と両宮はまた賜賚すること等を加え、居正母子を慰諭すること、ほとんど家人の礼を用う。

原文居正言母老不能冒炎暑,請俟清涼上道。於是內閣、兩都部院寺卿、給事、御史俱上章,請趣居正亟還朝。帝遣錦衣指揮翟汝敬馳傳往迎,計日以俟;而令中官護太夫人以秋日由水道行。居正所過,守臣率長跪,撫按大吏越界迎送,身為前驅。道經襄陽,襄王出候,要居正宴。故事,雖公侯謁王執臣禮,居正具,賓主而出。過南陽,唐王亦如之。抵郊外,詔遣司禮太監何進宴勞,兩宮亦各遣大璫李琦、李用宣諭,賜八寶金釘川扇、御膳、餅果、醪醴,百僚復班迎。入朝,帝慰勞懇篤,予假十日而後入閣,仍賜白金、彩幣、寶鈔、羊酒,因引見兩宮。及秋,魏朝奉居正母行,儀從煊赫,觀者如堵。比至,帝與兩宮復賜賚加等,慰諭居正母子,幾用家人禮。

時に帝は漸く六宮を備え、太倉の銀銭多く宣進せらる。居正はここに因って戸部の御覧に進むる数目を以てこれを陳べ、毎歳の入額は出ずるに敵わずと謂い、帝に座の傍らに置き時々省覧し、量入為出し、浮費を節して罷むることを請う。疏上るも、中に留む。帝はまた工部に銭を鋳させて用に給することを命ずるも、居正は利が費に勝たずとしてこれを止む。言官は蘇州・松江の織造を停めることを請うも、聴かず。居正が面請するに及び、大半を損ずるを得る。また武英殿の工事の修繕を停め、及び外戚の官を遷す恩数を裁することを請う。帝は多く曲げてこれに従う。帝が文華殿に御するに、居正は侍講読畢えて、給事中の上る災傷の疏を以て聞かしめ、ここに因って振恤を請う。また言う、「上は民を愛すること子の如くせらるるも、外に在る諸司は私を営み公に背き、民を剥ぎ上を罔くす。宜しく法を以て痛く鉗すべし。而して皇上は意を加えて撙節し、宮中の一切の用度・服御・賞賚・布施に於いて、裁省禁止せらるる」と。帝は首肯し、蠲免・貸付することあり。居正は江南の貴豪が勢いに怙り、及び諸の奸猾なる吏民が賦を逋ることを善くするを以て、大吏の精悍なる者を選び厳しく督責を行わしむ。賦は時に輸納し、国蔵日増しに充実す。而して豪猾は率い居正を怨む。

原文時帝漸備六宮,太倉銀錢多所宣進。居正乃因戶部進御覽數目陳之,謂每歲入額不敵所出,請帝置坐隅時省覽,量入為出,罷節浮費。疏上,留中。帝復令工部鑄錢給用,居正以利不勝費止之。言官請停蘇、松織造,不聽。居正為面請,得損大半。復請停修武英殿工,及裁外戚遷官恩數,帝多曲從之。帝御文華殿,居正侍講讀畢,以給事中所上災傷疏聞,因請振。復言:「上愛民如子,而在外諸司營私背公,剝民罔上,宜痛鉗以法。而皇上加意撙節,於宮中一切用度、服御、賞賚、佈施,裁省禁止。」帝首肯之,有所蠲貸。居正以江南貴豪怙勢及諸奸猾吏民善逋賦,選大吏精悍者嚴行督責。賦以時輸,國藏日益充,而豪猾率怨居正。

居正の喪服が将に除かんとするに、帝は吏部を召して期日を問い、白玉帯・大紅坐蟒・盤蟒を賜う。御平台に召して対し、久しく慰諭す。宦官張宏をして慈慶・慈寧の両宮に引見せしめ、皆恩賚あり。而して慈聖皇太后は御膳九品を加えて賜い、張宏をして宴に侍せしむ。

原文居正服將除,帝召吏部問期日,敕賜白玉帶、大紅坐蟒、盤蟒。御平臺召對,慰諭久之。使中官張宏引見慈慶、慈寧兩宮,皆有恩賚,而慈聖皇太后加賜御膳九品,使宏侍宴。

帝の初め即位するや、馮保は朝夕起居を視、擁護提抱すること力あり。小しく捍格するや、即ち慈聖に聞かす。慈聖は帝を訓うること厳しく、毎々切にこれを責め、かつ曰く、「張先生に聞かせたらば、いかんせん」と。ここにおいて帝は甚だ居正を憚る。帝の漸く長ずるに及び、心これを厭う。乾清宮の小璫孫海・客用らが上を導きて遊戯せしめ、皆愛幸せらる。慈聖は馮保をして海・用を捕えしめ、杖してこれを逐う。居正はまたその党の罪悪を条陳し、斥逐を請う。而して司礼監及び諸内侍に自ら陳べさせ、上に裁断して去留せしむ。ここに因って帝に遊宴を戒め起居を重んじ、精神を専らにして聖嗣を広め、賞賚を節して浮費を省め、珍玩を退けて好尚を端にし、万機に親しみて庶政を明らかにし、講学に勤めて治理を資くることを勧む。帝は太后に迫られ、已むを得ず、皆報可す。而して心は頗る馮保・居正を嗛む。

原文帝初即位,馮保朝夕視起居,擁護提抱有力,小捍格,即以聞慈聖。慈聖訓帝嚴,每切責之,且曰:「使張先生聞,奈何!」於是帝甚憚居正。及帝漸長,心厭之。乾清小璫孫海、客用等導上遊戲,皆愛幸。慈聖使保捕海、用,杖而逐之。居正復條其黨罪惡,請斥逐,而令司禮及諸內侍自陳,上裁去留。因勸帝戒游宴以重起居,專精神以廣聖嗣,節賞賚以省浮費,卻珍玩以端好尚,親萬幾以明庶政,勤講學以資治理。帝迫於太后,不得已,皆報可,而心頗嗛保、居正矣。

帝の初政の時、居正はかつて古来の治乱の事跡百余条を編纂し、図を描き、俗語で解説して、帝が容易に理解できるようにした。この時至り、また儒臣に命じて太祖列聖の『宝訓』・『宝録』を分類して書を成し、凡そ四十項目とした。曰く創業艱難、曰く励精図治、曰く勤学、曰く敬天、曰く法祖、曰く保民、曰く謹祭祀、曰く崇孝敬、曰く端好尚、曰く慎起居、曰く戒游佚、曰く正宮闈、曰く教儲貳、曰く睦宗藩、曰く親賢臣、曰く去奸邪、曰く納諫、曰く理財、曰く守法、曰く儆戒、曰く務実、曰く正紀綱、曰く審官、曰く久任、曰く重守令、曰く馭近習、曰く待外戚、曰く重農桑、曰く興教化、曰く明賞罰、曰く信詔令、曰く謹名分、曰く裁貢献、曰く慎賞賚、曰く敦節倹、曰く慎刑獄、曰く褒功徳、曰く屏異端、曰く節武備、曰く御戎狄。その文辞は多く警切であり、経筵の余暇に進講するよう請うた。また起居注を立て、帝の言動と朝廷内外の事を記録し、毎日翰林官四名を入直させ、応制詩文を作り顧問に備えるよう請うた。帝は皆優詔を下して許した。

原文帝初政,居正嘗纂古治亂事百餘條,繪圖,以俗語解之,使帝易曉。至是,復屬儒臣紀太祖列聖《寶訓》、《寶錄》分類成書,凡四十:曰創業艱難,曰勵精圖治,曰勤學,曰敬天,曰法祖,曰保民,曰謹祭祀,曰崇孝敬,曰端好尚,曰慎起居,曰戒游佚,曰正宮闈,曰教儲貳,曰睦宗籓,曰親賢臣,曰去奸邪,曰納諫,曰理財,曰守法,曰儆戒,曰務實,曰正紀綱,曰審官,曰久任,曰重守令,曰馭近習,曰待外戚,曰重農桑,曰興教化,曰明賞罰,曰信詔令,曰謹名分,曰裁貢獻,曰慎賞賚,曰敦節儉,曰慎刑獄,曰褒功德,曰屏異端,曰節武備,曰御戎狄。其辭多警切,請以經筵之暇進講。又請立起居注,紀帝言動與朝內外事,日用翰林官四員入直,應制詩文及備顧問。帝皆優詔報許。

居正は奪情の後より、ますます偏って恣に振る舞った。その罷免・登用は多く愛憎によるものであった。側近で事を執る者は多く賄賂を通じた。馮保の客である徐爵は抜擢されて錦衣衛指揮同知に至り、南鎮撫を署した。居正の三子は皆上第に登った。下僕の游七は財を出して官となり、勲戚文武の臣多くは彼と往来し、姻戚関係を通じた。游七は衣冠を整えて謁見に報い、士大夫の列に並んだ。世間はこれによりますます彼を憎んだ。

原文居正自奪情後,益偏恣。其所黜陟,多由愛憎。左右用事之人多通賄賂。馮保客徐爵擢用至錦衣衛指揮同知,署南鎮撫。居正三子皆登上第。蒼頭游七入貲為官,勛戚文武之臣多與往還,通姻好。七具衣冠報謁,列於士大夫。世以此益惡之。

間もなく、居正は病んだ。帝は頻りに勅諭を頒って病状を問い、多額の金帛を出して医薬の資とした。四ヶ月経っても癒えず、百官は斎醮を共に行って祈祷した。南都・秦・晋・楚・豫の諸大吏は、醮を建てない者はなかった。帝は四維らに内閣の細務を処理させ、大事は即ち居正の家に令して平章させた。居正は初めは自力で行ったが、後には甚だ疲弊して全てに目を通せなくなったが、それでも尚四維らに参画させなかった。病が重くなると、帰郷を乞うた。上はまた優詔を下して慰留し、「太師張太岳先生」と称した。居正は回復せぬと覚り、前礼部尚書潘晟及び尚書梁夢龍・侍郎余有丁・許国・陳経邦を推薦し、後にまた尚書徐学謨・曾省吾・張学顔・侍郎王篆らを大用に堪えると推薦した。帝はこれらを御屏風に貼った。潘晟は馮保が書を授けた者であり、居正に強いて推薦させた。時に居正は既に昏睡状態が甚だしく、自ら決することができなかった。死ぬと、帝は朝を停め、九壇の祭を諭し、国公兼師傅の例に倣った。居正は先に六年満了で特進中極殿大学士を加えられ、九年満了で坐蟒衣を賜り、左柱国に進み、一子を尚宝丞に蔭し、大婚で歳禄百石を加えられ、子を錦衣千戸に録じて指揮僥事とし、十二年満了で太傅を加えられ、遼東大捷で太師に進み、歳禄二百石を増やされ、子は指揮僥事から同知に進んだ。この時至り、上柱国を贈られ、文忠と諡され、四品京卿・錦衣堂上官・司礼太監に命じて喪を護り帰葬させた。ここに於いて四維が初めて政を執り、居正が推薦した王篆・曾省吾らと交悪した。

原文亡何,居正病。帝頻頒敕諭問疾,大出金帛為醫藥資。四閱月不愈,百官並齋醮為祈禱。南都、秦、晉、楚、豫諸大吏,亡不建醮。帝令四維等理閣中細務,大事即家令居正平章。居正始自力,後憊甚不能遍閱,然尚不使四維等參之。及病革,乞歸。上復優詔慰留,稱「太師張太岳先生」。居正度不起,薦前禮部尚書潘晟及尚書梁夢龍、侍郎余有丁、許國、陳經邦,已,復薦尚書徐學謨、曾省吾、張學顏、侍郎王篆等可大用。帝為黏御屏。晟,馮保所受書者也,強居正薦之。時居正已昏甚,不能自主矣。及卒,帝為輟朝,諭祭九壇,視國公兼師傅者。居正先以六載滿,加特進中極殿大學士;以九載滿,加賜坐蟒衣,進左柱國,廕一子尚寶丞;以大婚,加歲祿百石,錄子錦衣千戶為指揮僉事;以十二載滿,加太傅;以遼東大捷,進太師,益歲祿二百石,子由指揮僉事進同知。至是,贈上柱國,諡文忠,命四品京卿、錦衣堂上官、司禮太監護喪歸葬。於是四維始為政,而與居正所薦引王篆、曾省吾等交惡。

初め、帝の寵愛を受けた宦官張誠は馮保に憎まれ、外に斥けられたが、帝は密かに馮保と居正を探らせた。この時至り、張誠が再び入り、両人の交結して恣横な様を悉く奏聞し、且つその宝蔵が天府を超えると述べた。帝の心は動いた。側近も次第に馮保の過悪を言い、四維の門人である御史李植は徐爵と馮保が詐を挟み姦を通じた諸罪を極論した。帝は馮保を禁中に捕らえ、徐爵を詔獄に逮えた。馮保を奉御に貶じて南京に住まわせ、その家の金銀珠宝を悉く没収すると巨万に及んだ。帝は居正も多く蓄えていると疑い、ますます心に羨んだ。言官が王篆・曾省吾を弾劾し、併せて居正を弾劾すると、王篆・曾省吾は共に罪を得た。新進の者はますます居正を攻撃することに務めた。詔して上柱国・太師を奪い、再び諡を奪った。居正が任用した者は、罷免削奪されて殆ど尽きた。中行・用賢らを召還し、官を遷すこと差等あり。劉台に官を贈り、その財産を還した。御史羊可立がまた居正の罪を追及して論じ、居正が遼庶人憲㸅の獄を構えたと指摘した。庶人の妃が上疏して冤罪を弁じ、且つ「庶人の金宝は万を数え、悉く居正に入った」と言った。帝は司礼張誠及び侍郎丘橓に錦衣指揮・給事中を偕えて居正の家を没収させた。張誠らが将に至らんとする時、荊州の守令は予め人口を記録し、その門を閉ざしたため、子女は多く空き家に遁れ避けた。門が開かれる頃には、餓死者が十余人出た。張誠らはその諸子兄弟の隠し持つものを尽く発き、黄金一万両、白金十余万両を得た。その長子礼部主事敬修は刑に耐えられず、自ら三十万金を曾省吾・王篆及び傅作舟らに預けたと誣服し、間もなく自縊死した。事が聞こえると、時行らと六卿大臣が合疏して、少し緩めるよう請うた。刑部尚書潘季馴の上疏は特に激楚であった。詔して空き宅一所・田十頃を留めてその母を養わせた。而して御史丁此呂がまた科場の事を追及して論じ、高啓愚が舜・禹を命題としたのは、居正が禅譲を受ける策を図ったためだと言った。尚書楊巍らがこれと駁し合った。丁此呂は外に出され、高啓愚は官籍を削られた。後、言う者がまた居正を攻撃して止まなかった。詔して居正の官秩を尽く削り、前に賜った璽書・四代の誥命を奪い、罪状を天下に示し、棺を剖き死体を戮すべきところを姑く免じたと謂った。その弟都指揮居易・子編修嗣修は、共に煙瘴の地に発遣された。

原文初,帝所幸中官張誠見惡馮保,斥於外,帝使密詗保及居正。至是,誠復入,悉以兩人交結恣橫狀聞,且謂其寶藏逾天府。帝心動。左右亦浸言保過惡,而四維門人御史李植極論徐爵與保挾詐通姦諸罪。帝執保禁中,逮爵詔獄。謫保奉御居南京,盡籍其家金銀珠寶巨萬計。帝疑居正多蓄,益心艷之。言官劾篆、省吾,並劾居正,篆、省吾俱得罪。新進者益務攻居正。詔奪上柱國、太師,再奪諡。居正諸所引用者,斥削殆盡。召還中行、用賢等,遷官有差。劉台贈官,還其產。御史羊可立復追論居正罪,指居正構遼庶人憲㸅獄。庶人妃因上疏辯冤,且曰:「庶人金寶萬計,悉入居正。」帝命司禮張誠及侍郎丘橓偕錦衣指揮、給事中籍居正家。誠等將至,荊州守令先期錄人口,錮其門,子女多遁避空室中。比門啟,餓死者十餘輩。誠等盡發其諸子兄弟藏,得黃金萬兩,白金十餘萬兩。其長子禮部主事敬修不勝刑,自誣服寄三十萬金於省吾、篆及傅作舟等,尋自縊死。事聞,時行等與六卿大臣合疏,請少緩之;刑部尚書潘季馴疏尤激楚。詔留空宅一所、田十頃,贍其母。而御史丁此呂復追論科場事,謂高啟愚以舜、禹命題,為居正策禪受。尚書楊巍等與相駁。此呂出外,啟愚削籍。後言者復攻居正不已。詔盡削居正官秩,奪前所賜璽書、四代誥命,以罪狀示天下,謂當剖棺戮死而姑免之。其弟都指揮居易、子編修嗣修,俱發戍煙瘴地。

万暦の世が終わるまで、居正のために弁明する者は無かった。熹宗の時、廷臣が少しずつ追述した。而して鄒元標が都御史となって、また居正を称えた。詔して故官を復し、葬祭を与えた。崇禎三年、礼部侍郎羅喻義らが居正の冤罪を訴えた。帝は部に議させ、二つの蔭官及び誥命を復した。十三年、敬修の孫同敞が武蔭を復し、併せて敬修の官を復するよう請うた。帝は同敞を中書舎人に授け、部に下して敬修の事を議させた。尚書李日宣らが言うには、「故輔居正は、遺命を受けて輔政し、皇祖に事えたこと十年、労を肩にし怨みを任せ、廃れたものを挙げ弛んだものを飭し、万暦初年の治を弼成した。その時中外は安んじ、海内は殷阜し、紀綱法度は修明ならざるはなかった。功は社稷にあり、日久しく論定まり、人はますます追思する」と。帝はその奏を可とし、敬修の官を復した。

原文終萬曆世,無敢白居正者。熹宗時,廷臣稍稍追述之。而鄒元標為都御史,亦稱居正。詔復故官,予葬祭。崇禎三年,禮部侍郎羅喻義等訟居正冤。帝令部議,復二廕及誥命。十三年,敬修孫同敞請復武廕,並復敬修官。帝授同敞中書舍人,而下部議敬修事。尚書李日宣等言:「故輔居正,受遺輔政,事皇祖者十年,肩勞任怨,舉廢飭弛,弼成萬曆初年之治。其時中外乂安,海內殷阜,紀綱法度,莫不修明。功在社稷,日久論定,人益追思。」帝可其奏,復敬修官。

曾孫 同敞

原文曾孫 同敞

同敞は志節を抱き、帝の恩を感じて、ますます自ら奮い立った。十五年、勅を奉じて湖広の諸王を慰問し、因って雲南の兵を調べさせた。復命せず、両京が相次いで失われ、福建に走って詣でた。唐王もまた居正の功を思い、その錦衣世蔭を復し、同敞に指揮僥事を授けた。間もなく湖南に使を奉じた。汀州が破れたと聞き、武岡において何騰蛟に依った。永明王は廷臣の推薦を用い、同敞を侍読学士に改めて授けようとした。総兵官劉承胤に憎まれ、翰林・吏部・督学には必ず甲科を用いよと言われ、乃ち同敞を尚宝卿に改めた。大学士瞿式耜の推薦により、兵部右侍郎兼翰林侍読学士に抜擢され、諸路の軍務を総督した。

原文同敞負志節,感帝恩,益自奮。十五年,奉敕慰問湖廣諸王,因令調兵雲南。未覆命,兩京相繼失,走詣福建。唐王亦念居正功,復其錦衣世廕,授同敞指揮僉事。尋奉使湖南。聞汀州破,依何騰蛟於武岡。永明王用廷臣薦,改授同敞侍讀學士。為總兵官劉承胤所惡,言翰林、吏部、督學必用甲科,乃改同敞尚寶卿。以大學士瞿式耜薦,擢兵部右侍郎兼翰林侍讀學士,總督諸路軍務。

同敞は文武の才を有し、意気慷慨であった。出師するごとに、常に躍馬して諸将の先に立った。敗走する時も、同敞は危坐して去らず、諸将が再び還って戦い、時に勝利を得た。軍中これにより同敞に服した。大将王永祚らは永州を久しく包囲したが、大兵が救援に赴き、胡一青が衆を率いて迎え撃ち、戦いに敗れた。同敞は全州に馳せ至り、楊国棟の兵に檄を飛ばして策応させ、ようやく解いて去った。順治七年、大兵が厳関を破り、諸将はことごとく桂林を棄てて走った。城中は虚しく人無く、ただ式耜が府中に端坐していた。ちょうど同敞が霊川より至り、式耜に会った。式耜は言った、「我は留守たり、ここに死すべきなり。汝には城守の責無し、何ぞ去らざるや」と。同敞は正色して言った、「昔人は独り君子たるを恥じたり、公はどうして同敞に共に死するを許さざるや」と。式耜は喜び、酒を取って共に飲み、明燭して朝に達した。侵晨に捕らえられ、降るを諭されたが従わず。僧となるを命じられたが、また従わなかった。そこで民舎に幽閉した。室は異なれども、声息相聞え、両人は日々詩を賦して唱和した。四十余日を閲し、衣冠を整えて刃に就き、顔色変らざりき。既に死して後、同敞の屍は植立し、首の墜ちて躍りて前に進むこと三度、人皆辟易せり。

原文同敞有文武材,意氣慷慨。每出師,輒躍馬為諸將先。或敗奔,同敞危坐不去,諸將復還戰,或取勝。軍中以是服同敞。大將王永祚等久圍永州,大兵赴救,胡一青率眾迎敵,戰敗。同敞馳至全州,檄楊國棟兵策應,乃解去。順治七年,大兵破嚴關,諸將盡棄桂林走。城中虛無人,獨式耜端坐府中。適同敞自靈川至,見式耜。式耜曰:「我為留守,當死此。子無城守責,盍去諸?」同敞正色曰:「昔人恥獨為君子,公顧不許同敞共死乎?」式耜喜,取酒與飲,明燭達旦。侵晨被執,諭之降,不從。令為僧,亦不從。乃幽之民舍。雖異室,聲息相聞,兩人日賦詩倡和。閱四十餘日,整衣冠就刃,顏色不變。既死,同敞屍植立,首墜躍而前者三,人皆辟易。

而して居正の第五子允修、字は建初、尚宝丞を廕す。崇禎十七年正月、張献忠が荊州を掠め、允修は壁に詩を題し、食せずして死せり。

原文而居正第五子允修,字建初,廕尚寶丞。崇禎十七年正月,張獻忠掠荊州,允修題詩於壁,不食而死。

贊

原文贊

贊に曰く、徐階は恭勤を以て主知を結び、器量深沉たり。智数を任ずるも、要は其の正を失わざるに在り。高拱は才略自ら許し、気を負いて人を凌ぐ。馮保に逐わるるに及びては、柴車路に即く。傾輒相尋うこと、自ら来る有り。張居正は時変に通識し、勇んで事を任ず。神宗初政、衰を起し隳を振う、幹済の才に非ずと謂うべからず。而して威柄の操る所、幾くんぞ主を震わすに至り、卒に禍の身後に発するを致す。『書』に曰く「臣、寵利を以て成功に居ること無かれ」と、戒めざるべけんや。

原文贊曰:徐階以恭勤結主知,器量深沉。雖任智數,要為不失其正。高拱才略自許,負氣凌人。及為馮保所逐,柴車即路。傾輒相尋,有自來已。張居正通識時變,勇於任事。神宗初政,起衰振隳,不可謂非幹濟才。而威柄之操,幾於震主,卒致禍發身後。《書》曰「臣罔以寵利居成功」,可弗戒哉!