明史

列傳第一百 俞大猷、戚繼光、劉顯、李錫、張元勳

俞大猷

俞大猷、字は志輔、晉江の人。若くして読書を好む。王宣・林福に『易』を学び、蔡清の伝を受ける。また趙本学が『易』をもって兵家の奇正虚実の権を推衍することを聞き、さらにその業を学ぶ。嘗て兵法の数は五より起こると言い、一人の身に五体あるが如く、百万の兵を将とすとも、合して一人と為すべしと。後にまた李良欽に剣を学ぶ。家貧しく屡々空しきも、意は常に豁如たり。父没し、諸生を棄て、世職の百戸を嗣ぐ。

嘉靖十四年の武会試に挙げられる。千戸に除せられ、金門を守御す。軍民囂訟して治め難し。大猷礼譲をもって導き、訟衰止す。海寇頻発す。監司に上書して其事を論ず。監司怒りて曰く、「小校安んぞ上書すべきや」と。杖ちて其の職を奪う。尚書毛伯温安南を征す。また上書して方略を陳べ、軍に従わんことを請う。伯温之を奇とす。会に兵罷み、果たして用いられず。

二十一年、俺答大いに山西に入る。詔して天下に武勇士を挙げしむ。大猷巡按御史に詣り自薦す。御史其の名を兵部に上る。会に伯温尚書と為り、之を宣大総督翟鵬の所に送る。召見して兵事を論ず。大猷屡々鵬を折す。鵬謝して曰く、「吾子を武人を以て待つべからず」と。堂を下りて之を礼し、一軍を驚かす。然れども亦用いる能わず。大猷辞して帰る。伯温用いて汀漳守備と為す。武平に蒞り、読易軒を作り、諸生と文会を為し、日に武士に撃剣を教う。海賊康老を連破し、俘斬三百余人。署都指揮僉事に擢げられ、広東都司に僉書す。新興・恩平の峒賊譚元清等屡叛す。総督歐陽必進以て大猷に属す。乃ち良民をして自ら守らしめ、親しく数人を率いて遍く賊峒に詣り、禍福を以て曉し、且つ之に撃剣を教う。賊駭服す。蘇青蛇と云う者有り、力猛虎を格す。大猷紿して之を斬る。賊益驚く。乃ち何老猫の峒に詣り、民の侵した田を帰せしめ、渠魁数輩を招降す。二邑以て寧し。

二十八年、硃紈福建を巡視し、備倭都指揮に薦む。会に安南寇す。必進奏して之を留む。是に先立ち、安南都統使莫福海卒す。子宏瀷幼し。其の大臣阮敬其の婿莫敬典を立てんと謀り、范子儀其の党莫正中を立てんと謀り、互いに讎殺す。正中敗れ、百余りを挈いて来帰す。子儀残卒を収め海東に遁る。是に至り妄りに宏瀷死せりと言い、正中を迎えて帰り立たしむ。欽・廉等州を剽掠し、嶺海騒動す。必進檄を大猷に下して之を討たしむ。馳せて廉州に至る。賊城を攻むること方に急なり。大猷舟師未だ集まらざるを以て、数騎を遣わして降を諭し、且つ声言して大兵至るとす。賊測る能わず、果たして解き去る。間も無く、舟師至る。冠頭嶺に伏を設く。賊欽州を犯す。大猷遮りて其の舟を奪う。追戦数日、子儀の弟子流を生擒し、首級千二百を斬る。窮追して海東雲屯に至り、宏瀷に檄して子儀を殺し首を函めて来献せしむ。事平ぐ。厳嵩其の功を抑えて叙せず、但だ銀五十両を賚うのみ。

是年、瓊州五指山の黎那燕、感恩・昌化の諸黎を構えて共に反す。必進復檄を大猷に下して討たしむ。而して朝議崖州に参将を設け、即ち大猷を以て之に任ず。乃ち広西副将沈希儀諸軍と会し、賊五千三百余を擒斬し、降を招く者三千七百。大猷必進に言う、「黎も亦人なり。数年に一度反し一度征するは、豈に上天人を生ずるの意ならんや。宜しく城を建て市を設け、漢法を以て雑治すべし」と。必進其の言を納る。大猷乃ち単騎峒に入り、黎と要約を定む。海南遂に安し。

三十一年、倭賊大いに浙東を擾す。詔して大猷を寧・台諸郡参将に移す。会に賊寧波昌国衛を破る。大猷撃ちて之を却く。復た紹興臨山衛を攻め陥し、転掠して松陽に至る。知県羅拱辰力賊を御し、而して大猷諸海に邀え、斬獲多し。竟に失事に坐して俸を停めらる。未だ幾ばくもせず、賊を海中に逐い、其の船五十余を焚く。俸を予ふること故の如し。二年を越え、賊寧波普陀に拠る。大猷将士を率いて之を攻む。半ば登る。賊突出し、武挙火斌等三百人を殺す。戴罪して賊を弁ずるに坐す。俄に賊呉淞所に敗る。詔して前罪を除き、仍銀幣を賚う。賊健跳所より入り掠む。大猷運戦して之を破る。旋って湯克寬に代わり蘇松副総兵と為る。将うる所の卒三百人に満たず。諸道の兵を徴するも未だ集まらず。賊金山を犯す。大猷戦いて利あらず。時に倭松江枯林に屯する者二万に盈つ。総督張経之を戦わしむるを趣す。大猷固より不可とす。永順・保靖の兵稍く至るに及び、乃ち経に従い王江涇に於いて大いに賊を破る。功趙文華・胡宗憲に攘われ、叙せられず。金山に於ける失律に坐し、事官に謫充せらる。

柘林の倭敗るれども、新たなる倭三十余艘青村所に突き、南沙・小烏口・浪港の諸賊と合し、蘇州陸涇壩を犯し、直ちに婁門に抵り、南京都督ととく周於德の兵を敗る。賊復た二に分かれ、北は滸墅を掠め、南は横塘を掠め、常熟・江陰・無錫の境に延蔓し、太湖に出入す。大猷副使任環と偕に賊を陸涇壩に大破し、舟三十を焚く。又其の三丈浦より出海する者を遮撃し、七艘を沈め、賊乃ち退き三板沙に泊す。頃くの内に、他の倭呉江を犯す。大猷及び環又鶯脰湖に邀え破り、賊嘉興に走る。

三板沙の賊民舟を掠めて将に遁らんとす。大猷馬跡山に於いて追撃し、其の魁を擒う。金涇・許浦・白茅港の賊俱に海に出づ。大猷茶山に於いて追撃し、五舟を焚く。賊走りて馬跡山・三板沙を保つ。将士復た追い及び、其の三舟を壊す。江陰蔡港の倭亦去る。官兵分ちて馬跡・馬図・宝山に於いて撃つ。値うるに颶風起こり、賊舟多く覆る。柘林の倭亦官兵の為に撃たれ二十余舟を沈め、余賊退き陸に登る。已にして復た舟を泛して海に出づ。大猷及び僉事董邦政分ちて撃ち、九舟を獲る。而して賊又風に遭い三舟を壊し、余三百人岸に登り、走りて華亭陶宅鎮に拠る。屡趙文華等の大軍を敗る。夜周浦永定寺に屯す。官兵四集し進みて之を囲む。而して柘林にて風を失いし賊九舟川沙窪に巣くい、糾合して四十余艘に至り、勢猶未だ已まず。巡撫曹邦輔大猷の賊を縱すを劾す。帝怒り、其の世廕を奪い、死罪の招を責め取り、功を立てて自ら贖わしむ。時に周浦の賊囲み急なり。夜を乗じて東北に奔り、游撃曹克新に邀えられ、首級百三十を斬られ、遂に川沙窪の賊と合す。諸軍日夜海を撃つ。大猷副使王崇古と偕に洋に入りて之を追い、老鸛觜に及び、巨艦八を焚き、斬獲算無し。余賊上海浦東に奔る。

初め、倭寇の患いが急であるため、特に都督劉遠を浙江総兵官に任じ、蘇州・松江などの諸郡を兼轄させたが、数ヶ月何も為さなかった。朝廷の臣たちが競って大猷の才を称えた。三十五年三月、遂に劉遠を罷免し、大猷を代わりに任じた。賊が西庵・沈庄及び清水窪を犯す。大猷は邦政と共にこれを撃破し、賊は陶山に逃走し、詔により世襲の特権を回復した。賊は黄浦から遁走して海に出る。大猷はこれを追撃して破った。その年冬、徐海平定の功により、都督僉事を加えられた。徐海が既に平定されると、浙西の倭寇は全て鎮静した。ただ寧波舟山の倭寇が険阻な地に拠り、官兵が包囲して守っても陥とせず。この時、土兵・狼兵は既に全て帰還させられており、四川・貴州から徴発された麻寮・大剌・鎮溪・桑植の兵六千がようやく到着した。大猷は大雪に乗じ、四方からこれを攻めた。賊は死に物狂いで戦い、土官一人を殺した。諸軍はますます奮い立ち、進んでその柵を焼き、賊は多く死に、逃げ出した者もまた討ち取られ、賊は完全に平定された。大猷に署都督同知を加えた。

翌年、胡宗憲がちょうど汪直を謀ろうとし、盧鏜の言葉を用いて彼と交易を行おうとしたが、大猷は強く反対した。汪直が誘い出されて官吏に捕らえられると、その党の毛海峰らは舟山を占拠し、岑港に拠って自ら守った。大猷はこれを包囲攻撃し、時々小勝した。しかし仰攻に苦しみ、先登した将士は多く死に、新たな倭寇がまた大挙して到来した。朝廷は宗憲を非常に急き立て、宗憲は大言壮語を弄して応対した。廷臣は競って宗憲を誹謗し、併せて大猷を弾劾した。そこで大猷及び参将戚継光の官職を剥奪し、一ヶ月以内に賊を平定するよう命じた。大猷らは恐れ、攻撃をますます激しくし、賊はますます死守した。三十七年七月、賊は岑港から柯梅に移り、船を造り終えると、海に出て去った。大猷らはこれを横撃し、その船一隻を沈め、残りの賊は遂に帆を揚げて南へ向かい、福建・広東を流れ劫掠した。大猷は先後して倭寇四五千を殺し、賊はほぼ平定された。しかし官軍が賊を包囲して既に一年、宗憲もまたその去るのを利とし、密かにこれを逃がし、諸将に邀撃を督励しなかった。御史李瑚に弾劾されると、罪を大猷が賊を逃がしたことに転嫁して自らを弁解した。帝は怒り、詔獄に逮捕投獄し、再び世襲の特権を剥奪した。

陸炳は大猷と親しく、密かに自分の財産を厳世蕃に投じて彼の獄を解かせ、辺境で功を立てるよう命じた。大同巡撫李文進はその才能を知り、軍事を共に謀った。そこで独輪車を造って敵の騎馬を防いだ。かつて車百輛、歩兵騎兵三千をもって、安銀堡で敵を大いに打ち破った。文進はその制式を朝廷に上奏し、遂に兵車営を設置した。京営に兵車があるのは、これが始まりである。文進が板升を襲撃しようとし、大猷と謀ると、果たして大いに捕獲し、詔により世襲の特権を回復した。敵が広武を掠奪すると、大猷はこれを防ぎ退けた。先に汪直平定の功を論じ、罪を免除して任用することを許されていた。この時、鎮篁に警報があり、川湖総督黄光升が大猷を推薦し、即座に鎮篁参将に任用した。

広東饒平の賊張璉が数度城邑を陥とし、長年平定できなかった。四十年七月、詔して大猷を南贛に移し、福建・広東の兵と合わせてこれを討伐させた。この時、宗憲が江西を兼轄しており、張璉が遠出したのを知り、大猷に急撃を命じた。大猷は言った。「潜行軍でその巣窟を突くべきであり、必ず救いに来る所を攻めるべきである。どうして数万の衆をもって一人の男の放浪に付き従うことができようか」。そこで疾く一万五千人を率いて柏嵩嶺に登り、賊の巣窟を見下ろした。張璉は果たして帰還して救い、大猷は連続してこれを破り、千二百余級を斬首した。賊は恐れて出て来なかった。間者を用いて張璉を誘い出して戦わせ、陣の後ろからこれを捕らえ、併せて賊の首魁蕭雪峰を捕らえた。広東人がその功を奪ったが、大猷は争わなかった。残党二万を解散させ、一人も殺さなかった。副総兵に抜擢され、南・贛・汀・漳・恵・湖の諸郡を協守した。遂に勝ちに乗じて程郷の盗賊を征伐し、梁寧を敗走させ、徐東洲を擒にした。林朝曦という者は、単独で黄積山と盟約して大挙した。官軍が攻めて積山を斬り、朝曦は逃走し、後には徐甫宰に滅ぼされた。大猷は間もなく福建総兵官に抜擢され、戚継光と共に興化城を回復し、共に海の倭寇を破った。詳細は『継光伝』にある。継光が先登し、上賞を受けたが、大猷はただ銀貨と絹を賜ったのみであった。

四十二年十月、南贛に駐屯地を移した。翌年、広東に改めた。潮州の倭寇二万が大盗賊呉平と相呼応し、諸洞の藍松三・伍端・温七・葉丹楼らが日々恵州・潮州の間を掠奪した。福建では程紹禄が延平で乱を起こし、梁道輝が汀州を擾乱した。大猷は威名をもって群盗を威圧し、単騎で紹禄の営に入り、帰洞するよう督励し、併せて道輝を帰還させ、両人は結局他の将に滅ぼされた。恵州参将謝敕が伍端・温七と戦い、敗北した。「俞家軍」が来ると聞き、恐れて、伍端は諸酋長を駆り立てて帰還した。間もなく、大猷が果たして到着し、温七は捕らえられた。伍端は自ら縛り、倭寇を殺して自らの効力を示すことを乞うた。大猷は彼を先鋒とし、官軍がこれに続き、倭寇を鄒塘に包囲し、一日一夜で三つの巣窟を陥とし、四百余りを焼き斬り、また海豊でこれを大破した。倭寇は全て崎沙・甲子の諸澳に奔り、漁船を奪って海に入った。船は多く風で沈没し、脱出した者二千余人は、海豊金錫都に戻って守った。大猷はこれを二ヶ月包囲し、賊の食糧が尽き、逃走しようとした。副将湯克寛が伏兵を設けて邀撃し、自らその勇将三人を斬った。参将王詔らが続いて到着し、賊は遂に大敗した。そこで軍を潮州に移し、順次藍松三・葉丹楼を降伏させた。遂に呉平を招降させ、梅嶺に住まわせた。呉平は間もなく再び反逆し、戦艦数百を造り、衆一万余を集め、三つの城を築いて守り、沿海の諸郡県を劫掠した。福建総兵官戚継光が呉平を襲撃し、呉平は逃走して南澳に拠った。四十四年秋、福建を侵犯し、把総朱璣らが海中で戦死した。大猷が水兵を率い、継光が陸兵を率い、南澳で呉平を挟撃し、大破した。呉平はただ一身で免れ、饒平鳳凰山に奔って拠った。継光は南澳に留まった。大猷の部将湯克寛・李超らが賊の後を追い、連戦して不利となり、呉平は遂に民船を掠奪して海に出た。福建・広東の巡按御史が相次いで上奏してこれを論じ、大猷は職を剥奪された。呉平は結局克寛に追撃され、遠く逃走して免れ、再び侵犯することはなかった。

河源・翁源の賊李亜元らが猖獗した。総督呉桂芳が大猷を留めてこれを討伐させ、兵十万を徴発し、五つの哨に分けて進軍した。大猷は間者を使って賊の仲間を離反させ、自らその巣窟を突き、李亜元を生け捕りにし、一万四百を捕虜・斬首し、男女八万余人を奪還した。そこで大猷の職を回復し、広西総兵官とした。旧例では、勲臣が両広の兵を総べ、総督と共に梧州に駐屯した。帝は給事中欧陽一敬の建議を用い、両広にそれぞれ大帥を置き、勲臣を罷免し、恭順侯呉継爵を召還して京に帰らせ、大猷を代わりとし、平蛮将軍の印を与えた。そして劉顕を広東に駐屯させた。両広に並んで帥を置くのは、大猷及び劉顕から始まった。伍端が死ぬと、その党の王世橋が再び反逆し、同知郭文通を劫略して捕らえた。大猷は連続してこれを破り、その部下が捕らえて献上した。署都督同知に進んだ。

海賊曾一本は、呉平の党である。既に降伏したが再び反逆し、澄海知県を捕らえ、官軍を破り、守備李茂才が砲に当たって死んだ。詔して大猷に暫く広東兵を督させ協同討伐させた。隆慶二年、曾一本が広州を侵犯し、間もなく福建を侵犯した。大猷は郭成・李錫の軍と合わせてこれを擒に滅ぼした。功績を記録し、右都督に進んだ。

広西古田の僮(チワン族)黄朝猛・韋銀豹らは、嘉靖末年に二度会城の官庫を掠奪し、参政黎民表を殺害した。巡撫殷正茂は十四万の兵を徴発し、大猷に討伐を命じた。七道に分かれて進軍し、数十の巣窟を連破した。賊は潮水に拠り、巣窟は極めて険峻な山頂にあり、十余日攻撃しても陥落しなかった。大猷は偽って兵を分けて馬浪の賊を撃ち、密かに参将王世科に命じて雨の夜に乗じて登山し伏兵を設けさせた。黎明に砲声が上がると、賊は大いに驚いた。諸軍が攀じ登ると、賊はことごとく死んだ。馬浪の諸巣窟も相次いで陥落した。斬獲八千四百余、朝猛・銀豹を生け捕り、百年の積寇をことごとく除いた。世襲の官職を進めて指揮僉事とした。

大猷は将として廉潔で、部下を統御するに恩をもってした。数度大功を立て、威名は南方を震わせた。しかし巡按李良臣がその姦貪を弾劾し、兵部が強くこれを支持したため、詔により郷里に帰り、任用を待つこととなった。南京右府僉書に起用された。着任せず、都督僉事として福建総兵官となった。万暦元年秋、海寇が閭峡澳を急襲し、失策の罪により官職を剥奪された。再び署都督僉事として後府僉書に起用され、車営の訓練を統轄した。三度上疏して帰郷を請い、許された。死去すると、左都督を追贈され、武襄と諡された。

大猷は奇節を抱き、古の賢豪を自らに期した。その用兵は、まず計略を立てて後に戦い、近功を貪らなかった。忠誠を国に尽くし、老いてますます篤く、任地ごとに大いなる勲功があった。武平・崖州・饒平に祠が建てられ祀られた。譚綸がかつて手紙を送り、「節制の精明さは、貴殿は私(綸)に及ばない。信賞必罰は、貴殿は戚(継光)に及ばない。精悍にして馳騁することは、貴殿は劉(顕)に及ばない。しかしこれらは皆、小なる知恵であり、貴殿は大なる器量を受けるに甚だ適っている」と言った。戚とは戚継光、劉とは劉顕を指す。

子の咨皋は、福建総兵官となった。

附 盧鏜

盧鏜は、汝寧衛の人である。嘉靖年間に世襲の官職により福建都指揮僉事に至り、都御史硃紈に任用された。紈が自殺すると、鏜もまた死罪に論じられた。まもなく赦免され、元の官職で福建の倭寇防備に当たった。都指揮に昇進した。嘉興で賊を撃つが敗れ、罪を戴いての任を命じられた。まもなく参将に抜擢され、浙東の沿海諸郡を分守し、副将大猷とともに賊を王江涇で大破した。間もなく保靖の土兵及びしょくの将陳正元の兵を督率して賊張庄を撃ち、その陣営を焼いた。後港まで追撃したが、賊に敗れた。賊が台州の外海に出没すると、都指揮王はいが大陳山でこれを破った。賊は山に登り、官軍はその船を焼いた。鏜が会剿し、その首長林碧川らを生け捕りにし、残る倭寇はことごとく滅ぼした。別の賊が諸県を掠奪し、指揮閔溶らが敗死したため、鏜は官職を剥奪され、罪を戴いての任を命じられた。

まもなく推薦により協守江浙副総兵に抜擢された。賊が仙居を陥落させ台州に向かうと、鏜は彭渓でこれを破った。そこで胡宗憲とともに徐海を滅ぼすことを謀った。宗憲が汪直を招撫すると、鏜もまた日本の使者善妙を説き、直を捕らえさせた。直は日本と仲違いし、ついに誅殺された。倭寇が江北を侵犯すると、鏜は急行して救援しこれを破り、また北洋の倭船二十余隻を破った。賊が三沙に船を集結させ、再び江北を流れ掠奪した。巡撫李遂が鏜が賊を放置したと弾劾したが、鏜はすでに都僉事に昇進し、江南・浙江総兵官となっており、官職を剥奪された上で職務を執ることとなった。通政唐順之の推薦により元の官職に復した。まもなく汪直誅殺の功により、都督同知に進んだ。倭寇が再び浙東を侵犯した。水陸十余戦、斬首千四百余級。総督宗憲が蕩平を上奏し、鏜はさらに俸給と金品を賜った。鏜の抜擢は宗憲によるものであり、宗憲が失脚すると、給事中丘橓が鏜の八つの罪を弾劾した。逮捕して処罰しようとしたが、赦免されて帰郷した。

鏜には将帥の才略があった。倭寇の難が起こり始めた時、諸将はみな風聞に潰走したが、ただ鏜と湯克寛だけが敢えて戦い、その名声は俞(大猷)・戚(継光)に次いだ。

附 湯克寛

克寛は、邳州衛の人である。父の慶は、嘉靖年間に江防総兵官となった。克寛は世襲の官職を受け、都指揮僉事に至り、浙江参将を充任した。倭寇が温州を侵犯すると、克寛はこれを撃破した。別の賊が嘉興の属邑を寇すると、克寛は海塩に至り包囲された。参政潘恩らとともに防ぎ守り、賊は陥落させることができず、焼き掠奪して去った。まもなく乍浦城を陥落させ、奉化・寧海を転掠した。克寛は独山の民家に追い詰めて包囲し、火を放って焼いた。賊の半数は死に、残りは包囲を突破して逃げた。

当時、沿海は多く倭寇の被害を受けており、将士に紀律がなく、賊が来るとすぐに逃亡したため、大将を設置して江・淮を統制することを議した。そこで克寛を副総兵とし、金山衛に駐屯させ、海防諸軍を提督させた。倭寇三百人が崇明の南沙に停泊した。克寛は僉事任環とともにこれを攻撃したが、敗北した。賊は船を宝山に移し、克寛は南家觜でこれを追撃して破った。賊は転じて嘉定・上海の間を寇し、克寛は弾劾されて官職を剥奪され、軍に従事することとなった。倭寇二千余が分かれて蘇・松を掠奪した。克寛は採淘港で迎え撃ち、斬首八百余級。都御史王忬が推薦して浙西参将とした。嘉興・湖州で賊に遭遇し、再び敗北し、詔により白衣(無官)の身で賊討伐に当たることとなった。総督張経が賊の柘林を攻撃することを議し、克寛に広西土兵を率いて乍浦に駐屯させ、副将大猷らと犄角の勢いをなさせた。王江涇で大戦し、斬首二千級。ちょうど趙文華が張経が克寛の言葉に惑わされ倭寇を飽きるほど掠奪させたと弾劾し、ついにともに逮捕審問され、死罪に論じられた。長い時を経て、赦免された。

広東で戦争が起こると、命により軍前に赴き自ら功を立てることを許された。大猷に従い海豊で倭寇を大破し、世襲の官職を回復した。まもなく恵州・潮州参将とされ、再び大猷に従い呉平を破った。平はまもなく再び勢いを盛り返し、克寛はすでに狼山副総兵に抜擢され、命により留まって賊討伐に当たった。まもなく陽江の烏猪洋でこれを破った。平は窮し、安南に奔った。都御史呉桂芳が安南に協同討伐を檄し、克寛に舟師を率いて会合させ、万橋山下で挟撃させた。その船を焼き、四百人を生け捕り斬首し、平は遠くに逃げた。そこで克寛を署都督僉事に進め、広東総兵官とした。曾一本が海豊・恵来の間に急襲すると、克寛はこれを招撫することを提言し、潮陽の下澮の地に居住させた。まもなく、民変を激化させ、一本もまた反逆したため、詔により克寛を逮捕して審問処罰させた。まもなく赦免され、蘇鎮に赴き功を立てることとなった。万暦四年、炒蛮が古北口に侵入掠奪した。克寛は参将苑宗儒とともに塞外に追撃したが、伏兵に遭い、戦死した。

戚継光

戚継光、字は元敬、代々登州衛指揮僉事の家柄である。父の景通は、都指揮に至り、大寧都司を署理し、入朝して神機坐営となり、操行があった。継光は幼少より倜儻として奇気を抱いていた。家は貧しかったが、書を好み、経史の大義を通曉した。嘉靖年間に職を嗣ぎ、推薦により署都指揮僉事に抜擢され、山東の倭寇防備に当たった。浙江都司僉事に改められ、参将を充任し、寧波・紹興・台州の三郡を分轄した。

三十六年、倭寇が楽清・瑞安・臨海を侵犯したが、継光の救援は間に合わず、道が塞がれていたため罪に問われなかった。まもなく俞大猷の兵と合流し、岑港で汪直の残党を包囲した。長く陥落させられず、官職を免じられ、罪を戴いて賊討伐に当たることとなった。やがて倭寇は逃げ去り、別の倭寇が再び台州を焼き掠奪した。給事中羅嘉賓らが継光に功績がなく、かつ外国と通じていると弾劾した。ちょうど審問中であったが、まもなく汪直平定の功により官職を回復し、台州・金華・厳州の三郡を守備することとなった。

継光が浙江に至った時、衛所の軍が戦いに慣れていないのを見て、金華・義烏の風俗が慓悍と称されることを知り、三千人を召募し、撃刺法を教え、長短の兵器を交互に用いることを請うた。これにより継光の一軍は特に精鋭となった。また南方には藪沢が多いため、馳逐に不利であるとして、地形に因って陣法を制定し、歩伐の便利を審らかにし、一切の戦艦・火器・兵械を精求して更新した。「戚家軍」の名は天下に聞こえた。

四十年、倭寇が大いに桃渚・圻頭を掠奪した。継光は急ぎ寧海に趨き、桃渚を扼し、龍山でこれを破り、雁門嶺まで追撃した。賊は遁走し、虚に乗じて台州を襲った。継光は自らその魁を殲滅し、余賊を瓜陵江に追い詰めてことごとく死なせた。一方、圻頭の倭寇は再び台州に趨いたので、継光は仙居で邀撃し、道中で脱する者はなかった。先後九戦して皆勝利し、俘虜と首級一千余りを捕え、焼死・溺死した者は数え切れなかった。総兵官盧鏜・参将牛天錫もまた賊を寧波・温州で破った。浙東が平定され、継光は三等進秩した。福建・広東の賊が江西に流入した。総督胡宗憲が継光に檄を飛ばして援軍を要請した。上坊の巣窟を撃破し、賊は建寧に奔った。継光は浙江に還った。

翌年、倭寇が大挙して福建を侵犯した。温州から来た者は、福寧・連江の諸倭と合流して寿寧・政和・寧徳を攻め落とした。広東南澳から来た者は、福清・長楽の諸倭と合流して玄鐘所を攻め落とし、龍厳・松渓・大田・古田・莆田にまで及んだ。この時、寧徳はすでにたびたび陥落していた。城から十里のところに横嶼があり、四面は水路で険阻であり、賊はその中に大営を結んでいた。官軍は敢えて攻撃せず、一年余り対峙していた。新たに来た者は牛田に営を張り、酋長は興化に営を張って、東南で互いに声援し合った。福建は連続して危急を告げ、宗憲は再び継光に檄を飛ばしてこれを剿討させた。まず横嶼の賊を撃った。兵士はそれぞれ草一束を持ち、壕を埋めて進んだ。その巣窟を大破し、二千六百の首級を斬った。勝ちに乗じて福清に至り、牛田の賊を搗き破り、その巣窟を覆滅し、残賊は興化に逃げた。急いでこれを追撃し、夜の四鼓に賊の柵に到達した。連続して六十の営を攻め落とし、千数百級の首級を斬った。夜明けに城に入ると、興化の人々は初めて知り、牛酒を贈って労をねぎらうことが絶えなかった。継光はそこで軍を返した。福清に着くと、倭寇が東営澳から上陸するのに遭遇し、二百人を撃ち斬った。一方、劉顕もたびたび賊を破った。福建の宿寇はほとんど尽きた。ここにおいて継光は福州に至り、飲至の礼を行い、平遠台に石碑を建てた。

継光が浙江に還った後、新たに来た倭寇は日増しに多くなり、興化城を一か月包囲した。ちょうど劉顕が八人の兵卒を遣わして城中に書状を届けさせたが、その衣服には「天兵」の二字が刺繍されていた。賊は彼らを殺してその衣服を着用し、守将を欺いて城に入り、夜に門を斬り開いて賊を引き入れた。副使翁時器・参将畢高は逃れて難を免れたが、通判奚世亮が府事を代行し、害に遇い、焼き掠めて一空にされた。二か月留まり、平海衛を破り、これを占拠した。初め、興化が危急を告げた時、すでに帝は俞大猷を福建総兵官に任じ、継光をその副将としていた。城が陥落すると、劉顕の軍は少なく、城下に壁を築いて敢えて撃たなかった。大猷もまた攻撃を望まず、大軍が合流してこれを困らせるのを待っていた。四十二年四月、継光が浙江兵を率いて到着した。ここにおいて巡撫譚綸は継光に中軍を率いさせ、劉顕を左軍、大猷を右軍とし、平海で賊を合攻させた。継光が先に登り、左右の軍がこれに続き、二千二百の首級を斬り、掠奪されていた三千人を奪還した。綸が功績を上奏すると、継光が首位、劉顕・大猷が次位であった。帝は郊廟に告謝し、大いに叙勲と賞賜を行った。継光は先に横嶼の功績により都督僉事に進み、ここにおいて都督同知に進み、世襲の千戸の恩蔭を受け、ついに大猷に代わって総兵官となった。

翌年二月、倭寇の残党が再び新たな倭寇一万余りを糾合し、仙游を三日間包囲した。継光は城下でこれを撃破し、さらに王倉坪で追撃して破り、数百級の首級を斬り、多くは崖谷に墜死し、生き残った数千人は漳浦の蔡丕嶺を占拠して拠った。継光は五哨に分かれ、自ら短兵を持って崖を登り、数百人を捕斬し、残賊は漁舟を掠めて海に出て去った。しばらくして、倭寇が浙江から福寧を侵犯したので、継光は参将李超らを督してこれを撃破した。勝ちに乗じて永寧の賊を追撃し、三百余りの首級を斬った。まもなく大猷とともに南澳で呉平を撃退し、ついに平定されていなかった呉平の残党を撃った。

継光は将として号令は厳しく、賞罰は信実であり、兵士は敢えて命令に従わない者はなかった。大猷とともに名将とされた。操行は及ばなかったが、果断剛毅においては勝っていた。大猷は老将として慎重を旨としたが、継光は電撃の如く迅速に行動し、たびたび大寇を摧破し、名声はさらに大猷の上に出た。

隆慶初年、給事中呉時来が薊門に警報が多いことを理由に、大猷と継光を召して辺境の兵卒を専門に訓練させることを請うた。部議では継光のみを用いることとし、そこで神機営副将に召された。ちょうど譚綸が遼東・薊州の督師となったので、歩兵三万を集め、浙江兵三千を徴発し、継光に専門に訓練させることを請うた。帝はこれを許可した。二年五月、都督同知として薊州・昌平・保定の三鎮の練兵事を総理することを命じ、総兵官以下はすべてその節制を受けることとした。鎮に至り、上疏して言った。

薊門の兵は、多くともまた少ない。その原因は七つある。営軍が軍事に慣れず、末技を好み、壮健な者は将門に使役され、老弱な者のみが伍に充てられる、これが第一。辺塞は曲折して遠く、駅伝が極めて少なく、使者や客人が絡繹として絶えず、日々送迎に忙しく、参将・遊撃が駅使の役を務め、営塁はすべて伝舍のようである、これが第二。敵が来ると、調遣に法がなく、遠路を期日に赴き、兵卒は斃れ馬は倒れる、これが第三。塞を守る兵卒は規律が明らかでなく、行伍が整わない、これが第四。臨陣において馬軍が馬を用いず、かえって歩兵を用いる、これが第五。家丁が盛んで軍心が離れる、これが第六。障塞を守る兵卒が要衝か緩やかな地かを選ばず、備えが多すぎて力が分散する、これが第七。この七害を除かなければ、辺備をどうして整えられようか。

また、士卒が訓練されていないという欠点が六つあり、訓練していても益のない弊害が四つある。何を訓練されていないというのか。辺境が頼るのは兵のみであり、兵が頼るのは将のみである。今、恩威と号令がその心を服させるに足らず、部隊編制と旗幟がその力を統一させるに足らず、危急の際に使いにくい、これが第一。火器があっても使用できない、これが第二。土着の兵を捨てて訓練しない、これが第三。諸鎮から入衛する兵は、統属関係に疑念を持ち、まったく紀律がない、これが第四。班軍と民兵の数は四万に達するが、人それぞれ心が異なる、これが第五。練兵の要はまず将を練ることにある。今、武科に注意し、多方面から保挙するのはもっともらしいが、これは選将の事であって、練将の道ではない、これが第六。何を訓練していても益がないというのか。今、一営の兵卒のうち、砲手は常に十人である。兵法では五兵を交互に用い、長い武器で短い武器を守り、短い武器で長い武器を救うべきことを知らない、これが第一。三軍の兵士はそれぞれその技芸に専念し、金鼓旗幟を何でも蓄えている。今はすべて用いない、これが第二。弓矢の力が敵よりも強くないのに、これによって勝利を制しようとする、これが第三。教練の方法には正しい門がある。美観であれば実用に適さず、実用的であれば美観でない。今はすべて実質がない、これが第四。

臣はまた聞く、兵の形は水の如しと。水は地に因って流れを制し、兵は地に因って勝利を制すと。薊州の地形には三種類ある。平原広陌は、内地方百里以南の地形である。半険半易は、辺境近くの地形である。山谷仄隘で林薄が蓊翳と茂るのは、辺境外の地形である。敵が平原に入れば、車戦が有利である。近辺では、馬戦が有利である。辺外では、歩戦が有利である。この三者を交互に用いて、初めて勝利を制することができる。今、辺兵はただ馬戦に慣れているだけで、山戦・林戦・谷戦の道に熟達しておらず、ただ浙江兵がこれを能くする。願わくばさらに臣に浙江東の殺手・砲手をそれぞれ三千人ずつ与え、さらに西北の壮士を募り、馬軍五枝、歩軍十枝を充足させ、専ら臣の訓練に任せ、軍中に必要なものは適宜に取って給することを許されば、臣はこれに勝る願いはない。

また言った。「臣の官は新設されたものであり、諸将はこれを余計なものと見なしている。臣はどうして計画を展開できようか。」

章を兵部に下し、薊鎮には既に総兵がいるのに、また総理を設ければ事権が分かれ、諸将は多く傍観するばかりであるから、総兵郭琥を召還し、専ら継光を任用すべきであると上言した。そこで継光を総兵官に命じ、薊州・永平・山海などの諸処を鎮守させ、浙兵は止めて調発しなかった。呉平を破った功績を記録し、右都督に進めた。敵が青山口に入寇したが、撃退した。

嘉靖以来、辺牆は修築されたが、墩台は未だ建てられていなかった。継光が塞上を巡行し、敵台を建てることを議した。おおよそ次のように言った。「薊鎮の辺垣は、延び広がること二千里、一箇所に瑕があれば百の堅固な所も皆瑕となる。近年は毎年修築しても毎年崩壊し、徒らに費用を費やすだけで益がない。請う、牆を跨いで台を築き、四方を見渡せるようにせん。台の高さは五丈、中を空けて三層とし、一台に百人を宿営させ、鎧甲・兵器・干し糧を備えさせる。戍卒に地割りして工事を受け持たせ、先ず千二百座を建てる。しかし辺卒は頑なで、軍法で律すれば耐えられないであろう。請う、浙人を募って一軍とし、勇敢を導くのに用いよ。」督撫がその議を上奏し、許された。浙兵三千人が到着し、郊外に陣を布いた。天は大雨、朝から日が西に傾くまで、棒立ちで微動だにしなかった。辺軍は大いに驚き、これより初めて軍令を知った。五年の秋、敵台の工事が完成した。精巧で堅固、雄大で壮麗、二千里の間、威勢が連なり通じた。詔して世襲の官職(世廕)を与え、銀貨・絹織物を賜った。

継光はさらに車営を設けることを議した。車一輛に四人を用いて推し挽きさせ、戦闘時には方陣を結び、その中に馬軍・歩軍を置いた。また拒馬器を制し、軽量で便利であり、敵騎兵の突撃を防いだ。敵が来ると、まず火器を発し、やや近づけば歩軍が拒馬器を持って排列して進み、間に長槍・筤筅を交えた。敵が敗走すれば、騎軍が追撃した。また輜重営を置いてその後ろに従わせ、南兵を選鋒とし、入衛兵は策応を主とし、本鎮兵は専ら戍守に当たらせた。節制は精妙で、器械は鋭利であり、薊門の軍容は遂に諸辺の首位となった。

当時、俺答は既に朝貢を通じ、宣府・大同以西は、烽火の気配も静かであった。ただ小王子の後裔である土蛮が插漢の地に移り住み、弓を引く者十余万を擁し、常に薊門の憂いとなっていた。そして朵顔の董狐狸とその兄の子の長昂は土蛮と通じ、時に叛き時に服した。万暦元年の春、二寇は侵入を謀った。喜峰口に馳せて賞賜を要求したが得られず、則ち殺掠をほしいままにし、塞の傍らで狩りをして、官軍を誘い出そうとした。継光が不意に撃ち、董狐狸を捕らえんとした。その夏、再び桃林を侵犯したが、志を得ず去った。長昂もまた界嶺を侵犯した。官軍は多くを斬り捕らえ、辺吏が降伏をほのめかすと、董狐狸は関門に和を請い朝貢を願い出た。朝廷の議論で毎年の賞賜を与えることとした。翌年の春、長昂が再び諸口を窺ったが入れず、則ち董狐狸と共に長禿を脅迫して入寇させた。継光が追撃してこれを捕らえ帰還した。長禿とは、董狐狸の弟、長昂の叔父である。ここにおいて二寇は部族長・親族三百人を率い、関門を叩いて死罪を請い、董狐狸は白い衣を着て叩頭し、長禿の赦免を乞うた。継光及び総督劉応節等が議し、副将の史宸・羅端を喜峰口に遣わしてその降伏を受けさせた。皆、羅列して拝礼し、掠奪した辺境の民を献上して返還し、刀を集めて誓いを立てた。そこで長禿を釈放し、以前のように朝貢を通ずることを許した。継光が鎮に在る終わりまで、二寇は薊門を侵犯しようとしなかった。

間もなく辺境守備の労により、左都督に進んだ。後に、敵台を増築し、配下の十二区を三協に分け、各協に副将一人を置き、兵士・馬匹を分けて訓練した。炒蛮が入寇し、湯克寛が戦死したが、継光は弾劾されたが、罪に問われなかった。久しくして、炒蛮が妻の大嬖只と共に辺卒を襲撃掠奪したが、官軍が追撃してこれを破った。土蛮が遼東を侵犯したので、継光は急ぎ赴き、遼東軍と共にこれを撃退した。継光は既に太子太保を加えられており、功績を記録して少保を加えられた。

順義王(俺答)が封を受けて以来、朝廷は八つの事柄で辺境の臣下を考課した。曰く、銭穀を蓄積すること、険阻な要害を修繕すること、兵馬を訓練すること、器械を整備すること、屯田を開くこと、塩法を整えること、塞外の馬を収めること、叛党を離散させること。三年ごとに大臣を派遣して巡視させ、優劣を定めた。継光はこれによって頻繁に世襲の官職(世廕)と恩賞を受けた。南北の名将、馬芳・俞大猷は先に死去し、ただ継光と遼東の李成梁だけが健在であった。しかし薊門の守りは甚だ固く、敵は侵入する由もなく、全て転じて遼東に向かったので、成梁が戦功を独占した。

嘉靖庚戌年(二十九年)に俺答が京師を侵犯して以来、辺防は特に薊を重視した。兵を増やし餉を加え、天下を騒がせた。また昌平鎮を置き、大将を設け、薊と唇歯の関係とした。それでもなお時には内地を蹂躙し、総督の王忬・楊選は共に軍律を失った罪で誅殺された。十七年の間に、大将を十人も交替させ、多くは罪によって去った。継光が鎮に在ること十六年、辺備は整い、薊門は平穏であった。後を継ぐ者は、その完成した法を踏襲し、数十年間事なきを得た。また、国政を執る大臣の徐階・高拱・張居正が先後して彼を信任したことにもよる。居正は特に事ごとに彼と相談し、継光を難じようとする者があれば、直ちに転任させた。諸督撫大臣の譚綸・劉応節・梁夢龍らは皆彼と親しくし、行動に掣肘されることがなかったので、継光はますます意のままに振る舞うことができた。

張居正が没して半年後、給事中の張鼎思が継光は北方に適さないと上言し、国政を執る者が急いで彼を広東に改任させた。継光は鬱々として志を得ず、無理に一度赴任したが、一年余りで病を理由に辞任した。給事中の張希皋らがまた彼を弾劾し、遂に免職されて帰郷した。三年後、御史の傅光宅が上疏して推薦したが、却って俸給を削られた。継光もまたそのまま卒去した。

継光は南北を歴任し、共に名声を著した。南方では戦功が特に盛んであり、北方では専ら守備を主とした。著した『紀効新書』・『練兵紀実』は、兵事を論ずる者が遵守して用いた。

弟 継美

弟の継美もまた貴州総兵官となった。

附 硃先

硃先という者がいた。嘉興の人。継光の時代に、薊鎮南兵営の参将となり、副総兵に昇進した。後に数度、広東・福建の総兵官となった。

初め武挙で身を起こし、海浜の塩徒を募って一軍とした。胡宗憲が御史から総督に至るまで、皆彼を信任した。硃先は大小数十戦、常に先鋒を務め、多くの倭寇を殺した。功により都司に任じられた。

宗憲が逮捕されると、硃先は官を解いて護送に随行した。宗憲が釈放されて帰還すると、硃先も帰った。御史が福建を巡察した時、巡撫の王詢が軍費を横領したとして、硃先に証言を求める檄を送った。硃先は言った。「私は王公の部将です。府主を誣いることはできません。」御史は怒り、硃先に一万金の罰金を科し、死罪を論じて獄に繋いだ。八年を経てようやく冤罪が晴れた。万暦初年、推薦により起用されて圜山の把総となった。歴任して閫帥(総兵官)に至り、年老いて辞任して帰郷した。再び起用されたが、辞退して赴任しなかった。

先は将として胆智あり、節を砥ぎ公に尽くす。その宗憲・詢の二事を処するや、時の論は以て国士の風有りと為す。

劉顯

劉顯は南昌の人なり。生まれながら膂力絶倫、稍く文義に通ず。家貧しく落魄し、叢祠に之きて自経せんとす、神之を護りて死せず。間行して蜀に入り、童子の師と為る。已にして、籍を冒して武生と為る。嘉靖三十四年、宜賓の苗乱す、巡撫張臬之を討つ。顯軍に従いて陣に陷ち、手ずから格殺すること五十余人、首悪三人を擒う。諸軍進み継ぎ、賊尽く平ず。顯是に由りて名を知らる。官は副千戸、貲を輸して指揮僉事と為る。

南京振武営初めて設けらる、兵部尚書張鏊の薦を用い、召して訓練せしむ。署都指揮僉事に擢で、浙江都司に僉書す。参将に遷り、蘇・松を分守す。倭江北を犯し、泗州に逼る、鏊檄を発し顯に浦口を防がしむ。顯賊の将に遁れんとすと測り、追撃して安東に至る。方に暑く、単衣を披き、四騎を率いて賊を誘い、精甲を岡下に伏す。賊出で、一人を斬る。乗る所の馬矢に中る、下りて其の鏃を抜き、追う者を射殺す。岡下に誘い至り、大いに之を敗り去る。賊俘えたる女子を出だして将士を蠱す。顯悉く有司に送る。明日賊の出づるを伺い、潜かに其の舟を毀つ。賊敗走して舟に至るも、舟已に焚け、死者算無し。顯進み秩三等。尋いで副総兵に遷り、江・浙を協守す。

三沙の倭復た江北を劫い、劉荘庄に囲まる。顯鋭卒数千を以て至り、巡撫李遂江北の軍を尽く護らしむ。顯率いる所の部を以て直ちに入り、諸営之に継ぐ、辰より酉に迄り、賊の巣破れ、北に逐うて白駒場・茅花墩に至り、首級六百余を斬り、賊尽く殄ぶ。而して遂は賊三沙より来るは、実に盧鏜及び顯の罪なりと謂う。顯坐して俸を停めらる。已にして、応天巡撫翁大立顯のぎょう勇を薦め、久任を請う、帝之を可とす。振武営兵変の後、諸将姑息を務め、兵益々驕る。給事中魏元吉顯を薦めて都督僉事を署せしめ、其の軍を節制せしむ。顯蜀卒五百人を挈いて往き、一軍貼然たり。閩賊江西に流入し、石城・臨州・東郷・金渓を大いに掠め、吏民を殺すこと万計。詔し顯に赴きて剿せしむ、陽湖に之を撃ち破り、賊乃ち遁る。

四十一年五月、広東賊大いに起こる。詔し顯に総兵官を充てて鎮守せしむ。会す福建倭患棘しく、顯赴きて援ぐ。参将戚継光と連ねて賊を破り、賊略く尽くす。而して新倭大いに至り、興化城を攻め陷す。顯兵少なきを以て、城に逼りて未だ戦わず、劾せられ、罪を戴く。賊間を以て平海衛を攻め据う。他倭福清を劫い、平海の倭と合わんと謀る。顯及び俞大猷遮浪に合し、之を尽く殲す。平海の倭遁れんと欲す、把総許朝光の邀え撃たれて敗る。乃ち其の舟を尽く焚き、旧屯に退き還る。戚継光も亦至り、顯大猷と共に之を助け撃ち、遂に興化を復す。功を録し、先に廕したる世職二秩を進む。江北の倭未だ平らず、廷議狼山に総兵官を設け、大江南北を統制し、顯を改めて之に任ず。顯部を行きて通州に至り、敕書に知府以下を節制するを許すと以てすれども、同知王汝言礼を為さず、劾奏し、其の秩を鐫る。已にして、浙江に移鎮す。

顯将略あり、官に居りて法度を守らず。巡按御史之を劾し、任を革して勘を候つ。巡撫劉幾の薦を用い、事官を充てるを命じ、鎮守は故の如し。隆慶改元、軍政拾遺を以て劾せられ、秩を貶して事を視る。巡撫谷中虚の薦を用い、故官に還り、貴州に移鎮す。広西儂賊の者念父子王を僭称し、安順を攻剽す。巡撫阮文中檄を発し顯に剿せしめ、俘斬五百余人。四川巡撫会省吾都掌蛮を征せんと議し、顯に其の地に移鎮せしむ。復た劾せられ罷めらる、省吾奏して之を留む。

都掌蛮は、叙州戎県に居り、高・珙・筠連・長寧・江安・納溪の六県の間に介し、古の滬戎なり。成化初め乱を為し、程信之を討平す。正徳中、普法悪復た乱を為し、馬昊之を討平す。是に至り、其の酋阿大・阿二・方三等九絲山に据り、遠近を剽す。其の山修広にして、而して四隅峭仄なり。東北は則ち鶏冠嶺・都都寨・凌霄峰の三岡、峻壁数千仞。阿苟と云う者有り、凌霄峰に居り、賊の耳目と為り、威儀出入王者の如し。省吾之を討せんと議し、軍事を顯に属す。故将郭成・安大朝を起して佐と為し、諸土兵を調し、官軍と合すること凡そ十四万人。万厲改元三月、叙州に畢く集まり、阿苟を誘い執り、凌霄を攻め抜き、進みて都都寨に逼る。三酋其の党阿墨を遣わして固く守らしむ。官軍匝月に頓し、灘を鑿ちて以て漕を通じ、阿墨を撃ち斬り、其の寨を抜く。阿大自ら鶏冠を守る。顯人をして官を以て誘わしめ、而して五哨を分かちて尽く九絲城下に壁す。備無きに乗じ、夜半腰に糹亙きて上り、関を斬りて入る。遅明、諸将畢く至る。阿二・方三走りて牡猪寨に保つ。郭成鶏冠を破り、阿大を獲る。諸軍牡猪を攻め、方三を擒う。阿二走り、追いて貴州大盤山に於いて獲る。寨六十余を克ち、賊魁三十六を獲、俘斬四千六百、地四百余里を拓き、諸葛の銅鼓九十三、銅鉄鍋各一を得る。阿大泣いて曰く、「鼓声宏なる者は上と為し、千牛に易う可く、次は七八百。鼓二三を得れば、便ち号を僭し王と称す可し。鼓山の顛に在れば、群蛮畢く集まる、今已に矣。」鍋の状は鼎の如く、大いには牛を函む可く、刻画文彩有り。相伝う諸葛亮鼓を以て蛮を鎮む。鼓失すれば、則ち蛮の運終わると。功を録し、顯を都督同知に進む。已にして余孽を剿し、復た俘斬千一百余。

都掌蛮既に滅び、顯疾を引いて去らんことを求め、而して有司の阻撓を以て言と為す。詔し顯の節制を聴き、顯益々其の志を行う。西川番の没舌・丟骨・人荒諸砦を撃ち、其の首悪を斬り、余衆を撫して還る。建昌の傀廈・洗馬諸番、咸く首悪を献ず。西陲以て寧し。九年冬官に卒す。子綎、自ら伝有り。

附 郭成

郭成は四川叙南衛の人なり。世職より歴官して蘇松参将に至り、副総兵に進む。倭通州を犯し、守将李錫の敗る所と為り、転じて崇明三沙を掠む。成其の舟を撃ち沈め、首級百三十余を斬る。隆慶元年冬、署都督僉事に擢で、広東総兵官と為る。海を渡りて曾一本を追い、大いに獲、署都督同知に進む。叛将周雲翔等参将耿宗元を殺し、亡びて賊中に入る。平山大安峒に屯し、将に海豊を寇せんとす。成南贛の軍に偕い之を夾撃し、首級千三百余を斬り、掠められたる通判潘槐以下六百余人を獲、雲翔を生け縶す。潮州諸属邑、賊の巣百を以て数う。郭明林樟に据り、胡一化北山洋に据り、陳一義馬湖に据り、剽劫すること二十載。成諸軍を督して明等を撃ち殺し、俘斬千三百余。四川都掌蛮乱を為す、詔し成に移鎮せしむ。尋いで劾せられ、罷め帰る。

万暦元年、劉顕に大征を命じ、詔して成を事官に充て、その副将とした。先に九絲山に登り、阿大を生け捕りにした。初め、成の父が蛮に殺されたので、斬った首級と生け捕りにした諸蛮を父の墓前に置き、心臓をえぐり出して祭りを捧げた。郷人はこれを壮とした。まもなく南京後府の僉書となり、出て貴州総兵官となり、銅仁を鎮守した。成は胆智があった。苗が掠奪に出るたびに、ひそかに壮士をその砦に遣わし、斬首して出た。かつて身を挺して林箐に入り賊を偵察した。苗は一日に数度驚き、「郭将軍が来た」と言った。互いに戒めて敢えて犯す者はなかった。また弾劾され、罷免されて帰った。

四川総兵官に起用された。永寧宣撫の奢効忠が卒し、その妻の奢世統には子がなく、妾の奢世続の子の崇周は幼かった。前総兵の劉顕は世続に宣撫の印を署理させた。世統は怒り、その落紅寨を攻め奪った。世続は永寧に奔った。成は義児の郭天心を指揮の禹嘉績とともに遣わして審問させた。天心は世続の永寧の私邸を占拠し、その資産をことごとく取り上げ、成もまた落紅に入り、奢氏九世の蓄積をことごとく掠奪した。効忠の弟の沙卜は遂に裨将三人を拒んで殺し、天心らを捕らえた。巡撫・按察使が相次いで上疏して成を弾劾し、吏に下し、雲南に遣わして戍らせた。時に松茂の役があり、軍に従うよう推薦された。成は七千人を率い、直ちに黄沙に到着した。賊をしばしば破り、総兵官の李応祥とともに河東西の諸巣をことごとく平定し、功により参将に任じられた。また応祥とともに膩乃の諸賊を大破し、世職を二級増やした。膩乃の党の楊九乍がまた出て乱を起こしたので、成はこれを討ち平らげた。火落赤が西寧を擾乱し、四川巡撫の李尚思は地が松潘に近いため、檄を飛ばして成の軍を鬆林に、游撃の万鏊の軍を漳臘に駐屯させた。寇は敢えて近づかず、西陲は安泰を得た。楊応龍が叛くと、成は進んで討ったが、功がなく、罪を戴いて事務を処理した。まもなく官で卒した。

李錫

李錫は、歙の人である。代々新安衛の千戸であった。倭の警報があり、数度功があり、通州守備となった。たびたび揚州参将、江北副総兵に抜擢された。隆慶元年冬、都督僉事を署理して福建総兵官となった。

海寇の曾一本が閩・広の間で横行し、俞大猷が広西に赴こうとしたとき、総督の劉燾は閩の軍と挟撃するよう命じた。一本が閩に至ると、錫は海に出てこれを迎え撃ち、大猷と賊を柘林澳で遭遇し、三戦して皆勝利した。賊は馬耳澳に逃げ、また戦った。時に広東総兵官の郭成が参将の王詔らを率いて軍を合わせ、菜蕪澳に駐屯し、三哨に分かれて進んだ。一本は大舟を操って力戦したが、諸将は連続してこれを破り、その舟を破壊した。詔は一本とその妻を生け捕りにし、七百余の首を斬り、水火に死んだ者は万を数えた。当時、広の寇の中では一本が最も強く、錫・大猷・成が共にこれを平定し、錫の功が最も大きかった。その後、一本の余党の梁本豪がまた乱を起こし、黄応甲に捕らえられたが、錫の時の力に比べれば容易であった。錫は功を論じられ、都督同知を署理することを加えられた。倭が侵入したので、撃退した。

六年春、征蛮将軍として大猷に代わって広西平楽を鎮守した。府江とは、桂林から梧州に至る駅道である。南北に五百里に亘り、両岸は高山深箐で、賊の巣が盤互していた。嘉靖年間に張岳が破って平定して以来、この時また猖獗した。かつて知州を捕らえて重い賄賂を要求した。道路は梗塞し、城門は昼間も閉じられていた。大猷はこれを討つことを議したが、罷官されて去った。巡撫の郭応聘は錫と計り、六万の兵を徴発し、参将の銭鳳翔・王世科、都指揮の王承恩・董龍に各々一軍を率いさせ、副使の鄭茂・金柱、僉事の夏道南に監軍させ、錫が中央で節制した。賊の巣数十を破り、五千余の斬首を得、僮の酋長の楊銭甫らはことごとく誅殺された。功を記録し、世職を二等進めた。

柳州の懐遠は、瑤・僮・伶・侗が環居し、瑤が特に獷悍であった。県治を侵して占拠すること久しく、吏民は郡城に寓居していた。隆慶時に古田を大征したとき、諸瑤は恐れて命令を聴いた。知県の馬希武が官に就き、城塹を修繕し、役事の期限が過度に厳しかったため、諸瑤は希武と経歴ら五人を殺し、また反した。巡撫の応聘と総督の殷正茂はこれを征討することを議した。万暦元年正月、錫は進んで長安ちょうあん鎮に駐屯した。連日の雨雪に会い、軍を退いた。さらに浙東の鳥銃手・湖広永順の鉤刀手および狼兵十万人を徴発し、参将の鳳翔・世科、都指揮の楊照・戚継美、故参将の亦孔昭・魯国賢に六道併進させ、副使の沈子木に監軍させた。錫は自ら水師を統率し、羅江に駐屯し、独りその衝に当たった。時に賊は板江大洲に屯し、石を積み柵を立て、ひそかに舟で来襲した。錫は伏兵の舟でこれを破り、水陸併進した。鳳翔らもまた到着し、賊はことごとく舟で西に逃げた。追撃し、連続して数巣を破った。賊は楓木大山に拠り、前に堤澗に阻まれ、鼓噪して出た。諸軍は奮撃し、別に奇兵をその背後に回した。賊は大いに奔り、天鵝嶺に保った。錫は水軍で潯江を遮断し、諸将を督して渠魁二人を攻め斬った。勝ちに乗じてまた数巣を破り、直ちに清州の境に至った。賊は大巣に奔り、数里に亘り、崖壁は峭絶で、重柵を設けて官軍を拒み、鏢弩の矢石が雨のように降った。婦人は裸体で箕を揚げ、牛羊犬の首を投げて厭勝とした。諸軍は大呼して直上し、四面から火を挙げ、賊はことごとく殲滅された。先後に巣一百四十を破り、三千五百余の斬首を献じ、俘獲し撫降した者は数え切れなかった。

永福・永寧・柳城がともに賊の報を告げ、洛容の僮がまた典史を殺した。錫は王瑞に永寧を討たせ、楊照に柳城を討たせ、参将の門崇文に永福を討たせ、亦孔昭に洛容を討たせ、自らは舟師を率いて理定江に屯し、諸軍を節制した。わずか二旬で、四道ともに勝利した。四千五百余の首を斬り、洛容の賊首の陶浪金らはことごとく誅殺された。錫は功により秩を二等進めた。巡按御史の唐鍊は、錫が一年内に賊二百十四巣を破り、一万二千余級の首功を得たので、その任を長くすべきであると上言した。帝はこれを許可した。まもなく凌雲翼に従って羅旁の賊を大破し、世廕百戸を授けられた。六年、官で卒した。

附 黄応甲

黄応甲は、何許の人か知らない。隆慶年間、潯梧左参将として俞大猷に従い韋銀豹を討ち平らげ、秩を二等進めた。万暦五年、たびたび遷って浙江総兵官となった。改めて広東を鎮守した。龍川の鮑時秀は、妻の杜氏が妖術を持っていた。そこで義都の緱嶺を占拠し、二十四方の大総を立て、自ら無敵峒王と号し、降伏した後また反した。応甲はこれを討ち平らげた。醿戸の蘇観陛・周才雄は亡命者数千人を招き、雷・廉の間で掠奪をほしいままにし、断州の千戸田治を殺した。応甲は五軍を率いて併進し、観陛・才雄を生け捕りにし、四百余級の首を斬り、その党は酋長の陳泉を縛って降った。

まもなく、梁本豪が乱を起こした。本豪は、もと曾一本の党で、また醿戸であった。一本が誅殺されると、海中に逃げ、水戦に習熟し、遠く西洋に通じた。かつ倭兵を結んで助けとし、千戸を殺し、通判を掠奪して去った。十年六月、総督の陳瑞は応甲と謀り、水軍を二つに分け、南は老万山に駐屯して倭に備え、東は虎門に駐屯して醿に備え、別に両軍で外海に備え、両軍で要害を扼した。水軍は醿の舟二十を沈め、本豪を生け捕りにした。諸軍は競って進み、石茅洲でこれを大破した。賊はまた潭洲沙湾に奔り、舟二百および倭舟十を集め、相掎角した。諸将は合流して追撃し、先後に千六百余を俘斬し、その舟二百余を沈め、撫降した者は二千五百であった。帝は郊廟に告げ、大いに叙賚を行い、応甲らは差等に秩を進めた。他の倭が瓊崖を寇したので、応甲は二百余の首を斬り、その舟を奪った。再び金を賜った。まもなく左軍府の僉事に入った。罷免されて帰り、卒した。

附 尹鳳

尹鳳、字は徳輝、南京の人である。李錫が福建で総兵となった時の部将であり、世襲で府軍後衛指揮同知を務めた。鳳は早くに孤児となった。書を読み、騎射に熟達した。嘉靖年間に武科に挙げられ、郷試・会試ともに第一となった。署都指揮僉事に抜擢され、福建で倭寇に備えた。浙江都司僉事に転じ、さらに福建参将に進んだ。倭寇が福清・南安を陥落させ、連〓宗らが海上に出た。鳳は邀撃し、その船七隻を撃沈した。外洋まで追撃し、滸嶼・東洛・七礁で連戦し、二百人を生け捕り斬首した。倭寇を梅花洋で撃ち、敗走させ、横山まで追撃し、二百六十人を生け捕り斬首した。大小合わせて十数度の戦いがあり、内地はこれによりやや平穏となった。浙江都司を掌るよう改められたが、病を理由に辞任して帰郷した。隆慶初め、元の官職で福建に赴き、李錫に従って曾一本を平定した。万暦初め、累進して署都督僉事となり、京城巡捕を提督した。間もなく、職を辞して帰郷した。

張元勛

張元勛、字は世臣、浙江太平の人である。世職を嗣ぎ、海門衛新河所の百戸となった。沈毅にして謀略があった。倭寇の警報に際し、戚継光の麾下に属した。功績があり、千戸に進んだ。横嶼の諸賊を破るのに従い、累進して署都指揮僉事となり、福建游撃将軍を充任した。隆慶初め、福安で倭寇を破り、南路参将に改められた。李錫に従って曾一本を破り、副総兵に進んだ。

五年の春、署都督僉事に抜擢され、郭成に代わって総兵官となり、広東を鎮守した。惠州河源の賊唐亜六、広州従化の賊万尚欽、韶州英徳の賊張廷光が郡県を劫掠し、制することができなかった。翌年、元勛は進軍して討伐した。斬首六百余り、亜六らは首を斬られ、残党はことごとく平定された。肇慶恩平の十三村の賊陳金鶯らは、隣県の苔村三巣の賊羅紹清・林翠蘭・譚権伯、藤峒・九逕十寨の賊黄飛鶯・丘勝富・黄高暉・諸可行・黄朝富らと相煽って乱を起こした。旧例では、両広では大征のみが功績に叙され、彫剿は叙されないため、諸将は彫剿を好まなかった。総督殷正茂は元勛と謀り、彫剿でも功績を論ずることを認めさせると、諸軍は奮い争った。正茂はまた密かに副将梁守愚・游撃王瑞らを恩平に駐屯させ、常に戍守するかのように装わせ、不意を襲って翠蘭らを斬り、紹清・権伯を生け捕りにして献上させた。その他の諸路の彫剿では、首功二千四百余りを挙げ、掠われた子女千三百余人を奪還し、金鶯を生け捕りにしたが、高暉らは逃亡した。元勛は敗走する敵を藤峒まで追撃し、さらに勝富・可行・朝富ら八十人を生け捕りにした。部将の鄧子龍らも高暉・飛鶯を捕らえた。三巣・十寨・十三村の諸賊はことごとく平定され、残りはことごとく帰順した。

惠州と潮州は地が接し、山険しく樹木深かった。賊首の藍一清・頼元爵とその党の馬祖昌・黄民太・曾廷鳳・黄鳴時・曾万璋・李仲山・卓子望・葉景清・曾仕龍らはそれぞれ険阻な地に拠って砦を結び、連なる地八百余里、党数万人に及んだ。正茂は大征を議した。ちょうど金鶯らが既に滅ぼされたため、諸賊はかなり恐れた。廷鳳・万璋はともに子を入学させ、祖昌・景清も偽って降伏を乞うた。正茂はその偽りを知り、兵四万を徴発し、参将李誠立・沈思学・王詔、游撃王瑞らに分かれてこれを率いさせ、元勛が中央で節制し、監司の陳奎・唐九徳・顧養謙・呉一介がその軍を監察し、数道併進した。賊は敗れ、険阻な地に拠って自ら守った。官軍は深い藪や奥深い谷間をくまなく捜索した。そして元勛は九徳とともに、逃亡した敵を南嶺まで追撃した。一日夜で養謙の陣所まで馳せ至り、李坑を撃破し、子望らを生け捕りにした。翌年、烏禽嶂を破った。仕龍は高山に拠って守ったが、元勛は偽って酒宴を開き、突然進軍して撃ち捕らえた。先後して大賊首六十一人、次賊首六百余人を捕らえ、大小七百余りの巣窟を破り、生け捕り斬首合わせて一万二千余りに及んだ。帝は勝利を宣し、郊廟に告げ、元勛を署都督同知に進め、世襲の百戸の官を授けた。元勛はさらに残賊千三百余りを討ち斬り、降伏した者を撫定した。巨寇はことごとく平定された。

潮州の賊林道乾の党であった諸良宝は帰順した後再び叛き、官軍を襲撃して殺し、六百人を掠って海上に出た。再び陽江を犯し、敗走した。そこで潮州の旧巣窟に拠り、高山の頂に居て、戦いに出なかった。官軍は泥濘の中に営を張った。副将李誠立が挑戦したが、落馬して足を傷め、二百人が死んだ。賊は出て掠奪したが敗れ、巣窟に走って固守した。元勛は草や土を積み上げて賊の堡塁と同じ高さにし、火攻めを用いて、千百余りの首級を斬った。時は万暦二年三月であった。勝利の報が聞こえ、世襲の官位を一級進められた。残党の魏朝義ら四巣も降伏した。まもなく胡宗仁とともに良宝の党林鳳を平定した。惠州・潮州はついに賊がいなくなった。その冬、倭寇が銅鼓石・双魚城を陥落させた。元勛は儒峒でこれを大破し、八百余りの捕虜と首級を得た。官秩を進めて実職とした。五年、総督凌雲翼に従って羅旁の賊を大征し、一万六千余りの首級を斬った。都督に進み、世襲の官を錦衣衛に改めた。まもなく病気のため致仕し、家で卒した。

元勛は小校から身を起こした。大小百十度の戦い、威名は嶺南に震った。広西の李錫とともに良将と称された。

賛して曰く、世宗朝において、老成の宿将は俞大猷を以て首と称せられしも、而して数奇にして屡々躓けり。内外の諸臣の攘敓を以て、而して其の功を掩遏する者衆きなり。戚継光の兵を用うるや、威名寰宇に震う。然れども張居正・譚綸の国事を任ずる時は則ち成り、其の後張鼎思・張希皋等の言路に居る時は則ち廃せり。将を任ずるの道、亦知るべし。劉顯の蛮を平らげて疾を引き、而して有司の阻撓を以て辞と為す、以て有るかな。李錫・張元勛の首功甚だ盛んなりしも、而して殊賞を蒙らず、武功の競わざる所由なり。