明史

列伝第九十九 馬永 梁震 王效 周尚文 馬芳 何卿 沈希儀 石邦憲

○馬永梁震(祝雄)王效(劉文)周尚文(趙國忠)馬芳(子林孫炯爌飈)何卿沈希儀石邦憲

馬永

馬永、字は天錫、遷安の人。生まれつき魁偉で、勇猛果敢にして謀略あり。兵法を学び、『左氏春秋』を好んだ。世職を嗣ぎ金吾左衛指揮使となる。正徳年間、陸完に従い賊を撃ち功あり、都指揮同知に進む。江彬が西内で練兵するや、永は彬に隷属すべきところ、病と称してこれを避けた。遵化を守備し、寇が馬蘭峪に入ると、参将陳乾が弾劾され、永が抜擢されて代わる。柏崖・白羊峪で戦い、いずれも功あり。

十三年、都督ととく僉事に進み、総兵官を充任し薊州を鎮守す。諸営の老弱をことごとく淘汰し、農商に従事せしめ、その備直を取って健卒に給し、これにより永の将ぶる軍は諸鎮の中でひときわ雄壮となった。武宗が喜峰口に至り、塞外に出んとしたとき、永は馬前で叩頭して諫めた。帝はしばらく彼を見つめ、笑ってやめた。中路擦崖は敵の衝に当たり、城堡なく、耕牧する者はしばしば掠奪された。永は人に一月の糧を持たせ、崖の外に営し、その内側で版築を行わせた。城廨は期日通りに立ち、そこで軍を移して守らせた。功を録され、署都督同知に進む。

嘉靖元年、金山の鉱山の盗賊が乱を起こす。指揮康雄を遣わしてこれを討ち平らげ、その鉱を塞ぐ。朵顔の把児孫が諸部と結び賞を求めて得ず、辺境を盗む。永は洪山口で迎撃し、伏兵をもってその退路を断ち、斬獲は過当に及び、右都督に進む。やがて、またそのぎょう将を馘り、把児孫は再び辺境を擾わすことを敢えなかった。大同で兵変が起こり、巡撫張文錦を殺す。桂勇を総兵官に任じて鎮撫に赴かせ、一方でこれを撫することを議す。永は言う、「逆賊は紀を干し、朝廷はその脅従を赦す、恩は至って厚い。しかるになお命に抗す。今これを剿かず、春和すれば北寇南牧し、叛卒と勾連して禍い大いにならん。急ぎ隣鎮の兵を調べ、期日を定めて城を攻め、利害を明らかに譬え、破格の賞を懸け、賊に自ら相斬りて功とせしめれば、元兇殄滅すること難からん」と。そこで永に命じて諸軍を督し侍郎胡瓚とともに往かしむ。乱が平定されたので、鎮に還る。

永は上書して陸完のために恤典を請い、かつ議礼により罪を得た諸臣の宥免を乞う。帝は大いに怒り、永の官を奪い、禄を南京後府に寄せる。巡按御史丘養浩が言う、「永は仁をもって軍を恤い、廉をもって己を律し、辺防を固め、強敵を退け、軍民安堵し、彼を長城と資す。永の去るを聞き、道を遮って留まることを乞い、かつ子女を携えて遂に逃移せんとす。陸完は久しく炎瘴の地に死し、権勢を託すべきものなし。永はただ国士の知遇に感じ、区区の報いを救わんと欲するのみ。知己に負かず、寧ろ国家に負かんや。曲げて優容を賜い、鎮に還らしめられんことを祈る」と。順天巡撫劉澤および給事中・御史が相次いで上書してこれを救うが、いずれも譴責を受く。永はついに廃されて用いられず。永は門を杜みて書を読み、清約なること寒士の如し。久しくして、推薦により南京前府僉書に用いられる。大同の軍が再び乱すや、廷臣が相次いで推薦す。召し出されるが、すでに撫せられたので、また南京に還る。

十四年、遼東で兵変起こる。総兵官劉淮を罷め、永をもって代えしむ。大清堡守将徐顥が泰寧衛の九人を誘い殺す。部長把当孩怒り、辺境を寇す。永はこれを撃ち斬る。その族属把孫が朵顔の兵を借りて仇を報いんとし、また永に退けられる。やがて、また入寇す。宦官王永が戦いに敗れ、永は罪を戴くこととなる。

遼東は軍変の後、首悪は誅せられたれど、網を漏れる者衆し。悍卒憚る所なく、党を結び叫呼し、動もすれば不逞を懐く。広寧の卒佟伏・張鑒らが旱魃と飢饉に乗じ、衆を倡えて乱を為し、諸営の軍は永を憚り応ずる者なし。伏らは譙楼に登り、鼓を鳴らして大いに騒ぐ。永は家衆を率いて仰ぎ攻む。千戸張斌殺され、永はますます奮戦し、ことごとくこれを殲滅す。事聞こえ、左都督に進む。

永は百余りの士を養い、皆西北の健児で、驍勇にして敢戦す。遼東の変、初めて定まるや、帝は李時に将を問う。時は永を推薦し、かつ言う、「その家衆用いるに足る」と。帝曰く、「将は文武兼備を須い、寧ろ専ら勇に恃むべきか」と。時曰く、「遼土新たに定まる、威力ある者を以てこれを鎮むるを須う」と。ここに至り、ついにその力を得たり。都御史王廷相言う、「永は兵を用いるに善く、かつ廉潔なり、宜しく仍お薊鎮に用い、京師の藩屏となすべし」と。未だ調せざるに、卒す。遼人は市を罷む。喪が蘇州を過ぎるや、州人もまた泣き濡れる。両鎮並びに祠を立てる。

永が将たるや、間諜を厚く撫で、敵の情偽を得たる故、戦えばすなわち勝つ。よく人を知り、抜擢した卒校は、後多く大帥に至る。尚書鄭曉は永と梁震を称して古の良将の風有りとす。

梁震

梁震、新野の人。榆林衛指揮使を襲ぐ。嘉靖七年、署都指揮僉事に進み、寧夏興武営を協守す。まもなく延綏遊撃將軍を充任す。廉潔にして勇猛、兵書を読むを好み、士を訓えるに善く、強弓を力挽き命中せしめ、数たび先登す。延綏副総兵に擢げらる。総兵官王效とともに敵を鎮遠関に退け、都督僉事に進む。

吉嚢・俺答が延綏を犯す。震はこれを黄甫川に破る。まもなく響水・波羅を犯すや、参将任傑がこれを大いに破る。吉嚢また十万騎を以て入寇す。震はこれを幹溝に大破し、首功百余を獲る。先後褒賞を受く。やがて、俸一等を増す。幹溝は凡そ三十里、敵の衝に当たる。震はこれを浚って深広ならしめ、その上に土墻を築く。寇は再び軽々に犯さず。

十四年、都督同知に進み、陝西総兵官を充任した。まもなく黄甫川の功績により論じられ、右都督に進んだ。翌年、大同に移鎮した。大同の乱兵は相次いで巡撫張文錦・総兵官李瑾を殺害した。李瑾の後任の魯綱は威勢が振るわず、兵士はますます驕り、文武の大官も拘束することができなかった。朝廷の議論はこれを憂慮し、梁震を移して任じた。梁震は平素から健児五百人を養っており、到着するとただちに軍中に命令を下し、規律を申し渡した。鎮兵はもともと梁震を恐れており、これにより従順になった。敵寇が侵入してくると、梁震は牛心山でこれを破り、百級余りを斬首した。敵寇は憤り、近辺に駐屯して隙をうかがった。時に皇帝が山陵を祀るため行幸し、梁震は諸路に将兵を伏せた。敵寇は果たして侵入し、宣寧湾でこれを大破し、さらに紅崖児で破り、斬獲は甚だ多かった。左都督に進み、一子に百戸の蔭官を授けられた。梁震の父梁棟は以前に陣没していた。梁震は子への蔭官を辞退し、父の祭葬を乞うた。帝は喜んでこれを許した。毛伯温が督師となり、梁震とともに鎮辺の諸堡を修築し、数ヶ月で完工した。卒去すると、太子太保を追贈され、家に銀幣を賜り、さらに太保を加贈され、武壮と諡された。

梁震は機略を持ち、号令は明確で厳格であった。前後百十回の戦いで、少しも挫けたことがなかった。時に健児を率いて塞外に出て敵営を襲撃し、これを挑発行為と非議する者もあった。梁震は言った、「およそ挑発行為とは、敵寇が辺境を侵さないのに、我が方から横槍を入れて功を求めることを言う。今や敵はたびたび深く侵入している。それでもなお、一度もこれを挫こうとしないのか」。梁震が没すると、健児たちは帰属する所がなくなった。守臣がこれを上聞し、彼らを兵籍に編入した。辺将はなお彼らの力をかなり得ることができた。

附 祝雄

梁震の後任は遼東の祝雄で、世襲の蔭官から出仕した。都督僉事を歴任した。山西副総兵から大同に移鎮した。弾劾を受けて解職されたが、再び起用されて薊州に鎮した。士卒をよく慰撫し、軍を厳しく統率した。敵寇が塞内に入ると、子弟を率いて士卒の先頭に立った。子が少しでも退却すれば、法を執行して容赦しなかった。世宗はその名を御屏風に書いた。将軍として三十年、布の袍に氈の笠、士卒と変わらなかった。没した後、残された財産は葬儀の費用に僅かに足りるのみであった。薊の人々は祠を建てて彼を祀った。

王效

王效は延綏の人である。書を読み文辞に通じ、韜略に熟達していた。騎射は人に抜きん出て、武会試に合格した。嘉靖年間、累官して都指揮僉事となり、延綏右参将を充任した。神木塞から出撃し、敵寇を双乃山に攻め、斬獲は多かった。まもなく延綏副総兵に抜擢された。十一年冬、署都督僉事に進み、総兵官を充任し、周尚文に代わって寧夏を鎮守した。吉囊が鎮遠関を侵犯すると、王效は梁震とともに柳門でこれを破った。蜂窩山まで敗走を追撃し、河に追い詰めて溺死させ、百四十余級を斬首した。詔書で賞賛と褒美を与えられた。

吉囊の十万騎が再び花馬池を窺うと、王效と梁震はこれを防いで侵入させず、敵は転じて幹溝を侵犯した。梁震が分兵して撃つと、敵は固原に向かった。総兵官劉文が力戦し、敵寇は青山峴に向かい、安定・会寧を大いに掠奪した。王效はちょうど別働隊を鼠湖で破り、沙湖まで追撃したが、急ぎ軍を移動させて救援に向かい、安定でこれを破り、さらに霊州で破り、前後百五十余級を斬首した。三辺総制尚書唐龍が大捷を上奏したが、巡按御史は諸将の失態の罪を奏上した。給事中戚賢が調査に赴き、奏上した、「安定・会寧の二県は殺戮掠奪が多く、劉文は罪に当たる。しかしその麾下の兵は僅か八千で、険路を倍道で進み、勢い盛んな八九万の敵寇に立ち向かい、必死に戦った。功をもって罪を償うべきである。梁震の幹溝の戦い、王效の鼠湖・沙湖・安定・霊州の戦いは、孤軍八百で万余の敵寇に当たり、功績はともに記録に足る。唐龍もまた調度に優れていた」。詔により劉文は官職を剥奪され、梁震・王效には銀幣が下賜され、唐龍の一子は国子監に入った。この戦役は功績が多いのに、執政がこれを阻んだため、賞は薄かった。御史周鈇がこれを言上すると、唐龍・王效・梁震はそれぞれ一級を加えられ、王効は都督同知に進んだ。まもなく清水営の功績により、右都督に進んだ。敵寇が軽騎で寧夏を侵犯すると、王効は打鎧口に伏兵を置き、その半数が侵入するのを待って横撃し、これを破った。また防河の兵卒が戦艦でその逃げ渡る者を邀撃して斬った。捷報が聞こえると、左都督に進んだ。敵寇は憤り、伏兵を設けて誘い出して敗ったため、右都督に降格された。十六年、宣府に移鎮した。一年余りして卒去し、武襄と諡された。

王効は言行が謹厳で、用兵は謀略と勇気を兼ね備え、威名は西陲に轟いた。馬永・梁震・周尚文とともに名将と並び称された。

附 劉文

劉文は陽和衛の人である。指揮同知を世襲した。累進して署都督僉事、涼州右副総兵となった。嘉靖八年、総兵官として陝西を鎮守した。洮州・岷州の叛番たる若籠・板爾の諸族を大破し、三百六十余級を斬首した。十一年、敵寇が西へ掠奪して帰還し、寧夏河東を侵犯しようとしたのを、劉文は撃破した。前功を積み重ね、都督同知に進んだ。後に官職を失ったが、再び起用されて延綏を鎮守し、甘肅に改任された。卒去し、やはり武襄と諡された。

周尚文

周尚文、字は彦章、西安後衛の人である。幼くして書を読み、大義を粗く理解した。謀略に富み、騎射に精通していた。十六歳で指揮同知を世襲した。たびたび塞外に出て功績があり、指揮使に進んだ。寘鐇が反乱を起こすと、黄河の渡し場を抑え、叛賊丁広らを捕らえ、衛事を掌ることを推挙された。関内で回賊が四方で蜂起し、南山に拠ったが、周尚文は順次これを平定した。御史劉天和が宦官廖堂を弾劾して詔獄に繋ぐと、事件は周尚文に連座した。拷問して劉天和を引き合いに出すよう強要したが、終に承服せず、長い時を経てようやく釈放された。後に階州を守備した。謀略をもって叛番を生け捕りにし、署都指揮僉事に進み、甘肅遊撃将軍を充任した。嘉靖元年、寧夏参将に改任された。まもなく都指揮同知に進み、涼州副総兵となった。御史が部を按察して荘浪に至った時、突然敵寇に遭遇した。周尚文は急いで軍を分けて御史を護衛させ、自らは麾下を率いてこれを射たので、敵寇は逃げ去った。かつて敵寇を追撃して塞外に出ると、敵寇はますます多勢で来襲した。周尚文の軍は半数しか到着しておらず、麾下は皆恐れた。そこで落ち着いて馬から下り、鞍を解いて崖を背にして力戦し、殺傷は互角であった。部将丁杲が救援に来ると、敵寇はようやく退いた。周尚文は傷が甚だ重く、帰郷を願い出た。まもなく元の官に起用された。吉囊がたびたび氷を踏んで侵入した。周尚文は百二十里の墻を築き、水をかけて氷を滑らかにし、登れないようにした。氷が解けると力士に長竿と鉄鉤を持たせ、渡河する者を鉤で殺させた。九年、署都督僉事に抜擢され、寧夏総兵官を充任した。王瓊が辺墻を築く時、周尚文はその工事を監督した。また渠を浚い屯田を開き、軍民はその利益を得た。敵寇が西海を掠奪し、寧夏を通り過ぎようとした時、巡撫楊志学は兵を発して邀撃することを議した。周尚文は従わず、弾劾されて解職された。長い時を経て、山西副総兵に起用された。敵寇が偏頭関から岢嵐に向かうと、周尚文は三百里を転戦してこれを破り、子の周君佐とともに負傷し、銀幣を賜った。まもなく総兵官として延綏を鎮守した。敵寇が紅山墩を侵犯すると、力戦してこれを破り、褒美を受けた。吉囊が再び清平堡を大掠したため、俸給を剥奪された。

周尚文は将才に優れていたが、気性が強く傲慢で、赴任先では文官と競い合った。文官もまた往々にして彼を挫折させようとしたため、ますます相容れなくなった。巡撫賈啓が周尚文が老いて道理に暗いと弾劾すると、兵部は彼を甘粛に転任させるよう請うた。帝は従わず、それぞれ俸給を剥奪した。巡按張光祖が両人は決して共に処することはできないと上言すると、周尚文の任を解き、賈啓もまた官位を降格させた。吉囊が大挙侵入し、固原に到達した。劉天和はこの時すでに総督となっており、周尚文に功を立てるよう激励した。黒水苑で奮撃し、その子で小十王と号する者を殺し、百三十余の首級を獲得した。そこで都督同知とした。

二十一年、推薦により東官廳聽征總兵官兼僉後府事となる。嚴嵩が禮部尚書となり、その子世蕃は後府都事の官にあったが、驕慢であった。尚文は面と向かって叱責し、弾劾上奏しようとしたので、嵩が謝罪して免れた。世蕃を治中に転任させ、尚文を避けさせたが、嵩は骨髄に徹するほど恨んだ。その秋、總兵官として大同に鎮し、兵糧及び馬の増加を請うた。兵部は尚文の陳請が過当であるとし、詔により厳しく責められたところ、尚文は巡撫趙錦と協調せず、休職を願い出たが、許されず、日々互いに争った。御史王三聘が他の鎮に移すことを請うた。廷議では、大同は敵の要衝であり、尚文はこれを口実に避けようとしているので、その奸計に乗るべきではないとした。そこで錦を甘粛巡撫とした。吉囊が数万騎で前衛を侵犯した。尚文は黒山でこれと戦い、その子満罕歹を殺し、涼城まで追撃した。斬獲多く、右都督に進んだ。まもなく、敵寇は宣府より畿甸に迫り、大同の塞を出て北へ去った。尚文はこれを邀撃し、少しばかりの捕獲を得た。後に敵寇が再び大挙して鵓鴿谷を犯し、南下しようとした。尚文は陽和に備え、騎兵を四方に出して敵寇を邀撃させた。敵寇は逃げ去り、勅書を賜って労をねぎらわれた。

總督翁萬達が辺墻を築くことを議し、宣府西陽和から大同開山口まで、延々二百余里に及び、尚文にこれを担当させた。そこでさらに陽和から西の山西丫角山までを増築し、凡そ四百余里、敵臺千を築いた。屯田四万余頃を開拓し、軍一万三千有余を増員した。帝はその功を嘉し、左都督に進め、太子太保を加え、永く屯税を免除した。叛人充灼が小王子を招いて辺境を侵犯させたが、尚文はその使者を探り出し、太保を加えられ、子に錦衣世千戸の蔭官を賜った。明朝一代を通じて、總兵官で三公を加えられた者は、尚文ただ一人であった。

初め、俺答及び吉囊の諸子が盛んに強勢となり、諸辺は毎年その害を受け、大同は特に甚だしかった。尚文が鎮に臨んでから、總督萬達・巡撫詹榮とともに戦守の規画を立てて辺境を備え、民は数年息をつくことができた。尚文はさらに叛人を招き、敵の勢力を孤立させ、帰順する者が相次いだ。二十七年八月、俺答が五堡の傍らに伏兵を潜ませ、指揮顧相等を誘い出して彌陀山に包囲した。尚文は急ぎ副總兵林椿・參將呂勇・遊撃李梅及び二子の君佐・君仁を督いて塞外に出て救援し、包囲はようやく解けた。相及び指揮周奉、千戸呂愷・郝経等は既に陣没していた。尚文は転戦し、野口に至り、伏兵が突然現れた。必死に戦い、その長一人を斬った。一ヶ月余り相持してようやく引き去った。尚文は伏兵を設け、その殿軍を殺して還った。尚文の三子は皆罪を得て戍邊していたが、この時父の功により釈放された。俺答が数万騎で宣府を侵犯し、萬達が檄を飛ばして尚文に大いにこれを曹家莊で破らせた。功を記録して太子太傅を兼ね、賜賚を加えた。その年に卒去、七十五歳。

尚文は清廉倹約で士卒を愛し、士卒の死力を得た。間諜を用いることに長け、敵中の曲折を知ったので、戦えば必ず功があった。二十年以後、俺答は頻りに辺境を擾乱した。宿将王效・馬永・梁震は皆以前に死に、ただ尚文のみが存命で、威名最も盛んであった。嚴嵩父子が陥れようと謀ったが、功績が高く、帝はまさにこれをもって強敵に対抗させようとしていたので、讒言は入らなかった。その卒去に及び、定められた恤典を与えず、給事中沈束がこれを言上した。嵩が帝の怒りを煽り、束を詔獄に閉じ込めた。穆宗が即位し、初めて太傅を追贈し、武襄と諡した。

附 趙國忠

趙國忠、字は伯進、錦州衛の人、指揮職を嗣ぐ。嘉靖八年武会試に挙げられ、都指揮僉事に進み、叆陽を守備した。錦義右參將に抜擢された。連続して敵を破り、官秩を増し、金幣を賜り、都督僉事を署理し、遼東總兵官となった。敵を防ぎ功があり、百七十余級を斬った。都督同知に進み、賜賚は等を超えた。敵が八百騎で鴉鶻関より侵入した。都指揮康雲が戦死し、裨将三人も死に、詔して國忠に罪を戴いて立功させた。まもなく、事に坐して弾劾され、白衣のまま視事を命じられた。守備張文瀚が敵を防いで死に、國忠は解任に坐した。まもなく西官廳右參將として起用され、都督僉事を授かり、東官廳を提督した。俺答が大挙して宣府を侵犯し、總兵官趙卿が戦いに堪えず、國忠に代わることを命じた。岔道に至ると、敵寇は既に周尚文に敗れ、東へ走っていた。國忠は參將孫勇に命じ精卒を率いて大滹沱で迎撃させ、これを破った。尚文と分道して撃ち、敵寇は尽く逃げ去り、功により賜賚を受けた。再び敵寇の侵入に坐し、俸給を二等降格された。俺答が京師に迫り、國忠は急ぎ入衛し、沙河北に陣を布いた。まもなく諸陵を護衛するよう移された。敵騎が天寿山に至り、國忠が紅門前に陣を布いているのを見て、敢えて侵入しなかった。三十一年、再び遼東を鎮守した。小王子打來孫が数万騎で錦州を侵犯したが、國忠が防いで退けた。翌年獅子口に侵入したが、參將李廣等を督いて塞外に逐い出し、五十人を斬り捕らえた。敵寇はたびたび榆林堡・高臺・蛤利河に侵入した。先後して掩撃し、百五十余級の首功を得、官秩一等を進めた。まもなく論ぜられて罷免された。

國忠は戦いに長け、札を貫くほど射撃に優れ、将として威厳があった。両鎮を歴任し、亭障を修繕し、士馬を訓練し、辺防はこれに頼った。

馬芳

馬芳、字は德馨、蔚州の人。十歳の時北寇に掠われ、牧畜をさせられた。芳はひそかに曲木で弓を作り、矢を削って射た。俺答が狩りをしている時、虎がその前に吼えたので、芳は一発でこれを斃した。そこで良弓矢・善馬を与え、側近に侍らせた。芳は表向きこれを用いながら、ひそかに間道から逃げ帰った。周尚文が大同を鎮守し、これを奇とし、隊長に任じた。数度敵寇を防ぎ功があり、官を受けるべきところ、父が貧しいので、賞賜を全て受け取って養った。

嘉靖二十九年秋、敵寇が懐柔・順義を侵犯した。芳は馳せ往ってその将を斬り、陽和衛總旗を授かった。敵寇がかつて威遠に侵入し、精鋭騎兵を塩場に伏せ、二十騎で挑戦したことがあった。芳はその詐りを知り、百騎で伏せの場所に迫り、軍の精鋭を三つに分け、順次にこれを撃った。奮勇して跳蕩し、敵騎は十里も退き、斬首合わせて九十級に及んだ。まもなく、新平でこれを防いだ。敵寇は野馬川に営し、期日を定めて戦おうとした。芳は敵寇が遁走しようとしていると推測し、急ぎこれを乗じ、斬った首級はさらに多かった。衆が祝賀しようとした時、芳は急いで馬を策して言った、「賊が来た。」険要を守らせ、自らは後衛を断った。間もなく、敵寇が果たして群れをなして到着した。芳はますます奮戦し、敵寇はようやく去った。ほどなく、泥河で戦い、再びこれを大破した。累進して指揮僉事となった。功により、都指揮僉事に進み、宣府遊撃將軍を充任した。また功により、都督僉事に超遷し、總督に隷属して參將となった。鎮山墩で戦って利あらず、俸給を奪われた。まもなく、敵寇を襲撃して功があり、官秩二等を進め、右都督となった。まもなく功により左都督に進み、蟒袍を賜った。偏裨の将で左都督を加えられたのは、芳から始まった。

三十六年、薊鎮副總兵に遷り、建昌を分守した。土蠻が十万騎で界嶺口に迫り、芳は總兵官歐陽安とともに数十級を斬り、精鋭騎兵猛克兔等六人を捕獲した。敵寇は芳がいることを知らず、芳が冑を脱いで示すと、驚いて言った、「馬太師だ!」そこで退いた。捷報が聞こえ、世襲總旗の蔭官を賜った。まもなく、辛愛・把都兒が大挙侵入し、遵化・玉田を蹂躙した。芳は追撃して金山寺で戦い功があったが、州県の破壊が甚だ多く、總督王忬以下皆罪を得、芳も都督僉事に貶された。まもなく宣府を守るよう移された。敵寇が大挙山西に侵入し、芳は一日夜五百里を馳せてこれに追いつき、七戦皆勝利した。まもなく、再び左都督となり、そのまま總兵官に抜擢され、功により官秩二等を進めた。敵寇が通州に迫り、芳は入衛し、専ら京師を護衛するよう命じられた。敵寇が退き、再び官秩一等を進めた。まもなく故總兵劉漢とともに北沙灘に出て、敵寇の巣窟を衝いた。まもなく、敵寇の侵入に坐し、罪を戴いて勤めるよう命じられた。

四十五年七月、辛愛は十万騎を率いて西路に入り、馬蓮堡にて芳を迎え撃つ。堡は崩壊し、衆はこれを塞ぐことを請うたが、許さず。台に登ることを請うたが、これも許さず。堡の四門を開き、旗鼓をせて、寂として人のいないが如し。暮れに及んで、野焼き天をてらし、囂呼ごうこは旦に達す。芳は臥し、日中になっても起きず、敵騎の窺う者相属あいつぎ、その為す所を測り難し。明日、芳は蹶然けつぜんとして起き、城に乗り、衆に指し示して曰く、「彼の軍は多く反顧ふりかえり、且つ走らんとす」と。兵をひきいて追撃し、これを大破す。隆慶初、或いは辛愛のために謀り、五万騎を以て蔚州を犯し、芳を誘い出し、以て五万騎を以て宣府城を襲い、志を得べしとす。芳は予め木を伐りて城をめぐらし、寇至るも上ること能わず、遂に解きて去る。頃之しばらくして、参将劉潭等を率いて独石塞外二百里に出で、長水海に於いてその帳を襲う。還って塞に至り、追う者鞍子山に及ぶ。迎え戦い、またこれを大いに破る。子に千戸をおかす。

芳は胆智有り、敵情にあんんじ、至る所に先ず士卒たり。一年に数たび師を出して巣をち、或いはみずから戦を督し、或いは裨将を遣わす。家に健児を蓄え、その死力を得たり。嘗て三十人を命じて塞外四百里に出でしめ、多く斬獲有り、寇大いに震う。芳乃ち師をひきいて大松林に至り、旧興和衛にとどまり、高きに登りて四望し、兵を耀かがやかして還る。

時に大同は寇におかされ、宣府よりも甚だし。総督陳其学は畿輔をみだすを恐れ、総兵官趙岢に紫荊関をふさがしむ。寇乃ちほしいままかすめを懐仁・山陰の間にし、岢は坐して三秩を貶せられ、遂に芳を調して鎮をえしむ。俺答転じて威遠を犯しほとんど破らんとす、たまたま其学が胡鎮等を率いて救い、而して芳の軍も亦至り、相拒むこと十余日、乃ち走る。芳諸将に謂いて曰く、「大同は宣府に比ぶるに非ず、我と一墻をへだてるのみ。寇は時に至らず、大いにこれをやぶらざるべからず」と。乃ち兵をひきいて右衛より出で、威寧海子に戦い、これを破る。その年、俺答撫なだめに就き、塞上遂に事無し。

万暦元年、閲視侍郎呉百朋芳の行賄の事を発し、閑住を勒めしむ。のちに、ちて僉書前軍都督府と為る。順義王賞を要し、ことばに盟をえんとし、復た芳を用いて宣府を鎮めしむ。七年疾を以て帰るを乞う。又二年にして卒す。

芳は行伍より起り、十余年にして大帥と為る。膳房堡・朔州・登鷹巣・鴿子堂・龍門・万全右衛・東嶺・孤山・土木・乾荘・岔道・張家堡・得勝堡・大沙灘に戦い、大小百余度接戦し、身に数十創を被り、少を以て衆を撃ち、未だ嘗て大捷せざること無し。部長数十人をとりこにし、斬馘ざんかく算うるにいとまあらず、威名辺陲に震い、一時の将帥の冠と為る。石州城陥ち、副将田世威・参将劉宝死を論ぜらる。芳は己が子を蔭すことをとどめ、二将の罪をあがなわんことを乞う。御史に劾せられ、勅を以て戒諭す。後世威復た将と為り、芳に遇すること薄く、芳はこれとかんがえず、識者多くこれを称す。

子 林

二子、棟・林有り。棟は官都督に至り、見る所無し。林は父の蔭に由り累官して大同参将と為る。万暦二十年、順義王撦力克史・車の二部長をとらえて献じ、林は敵を制する功を以て、副総兵に進む。二十七年署都督僉事にえらばれ、遼東総兵官と為る。林はつねに文学を好み、詩を能くし、書にたくみ、交遊多く名士、時誉籍甚せきじんしく、自ら許すことも亦甚だ高し。嘗て辺務十策を陳ぶ、語多く文吏に触れ、寝めて行わず。税使高淮横恣す、林力めてこれと抗す。淮劾奏す、坐して職を奪わる。給事中侯先春論じて救い、林を改めて煙瘴にまもらしめ、先春も亦左遷して二官と為る。久しくして、赦に遇い免る。

遼左兵を用うるに、詔して林を以て故官のまま従征せしむ。楊鎬の四路出師するや、林に令して一軍を将いて開原より三岔口に出でしめ、而して遊撃竇永澄を以て北関軍を監し並び進ましむ。林の軍尚間崖に至り営を結び壕をさらい、厳しく斥候して自衛す。いたって杜松の軍敗れたるを聞き、まさに営を移さんとし、而して大清兵已にせまる。乃ち兵を還し、別に営を立て、壕を三周に浚い、火器を壕外に列ね、更に騎兵を火器の外に布き、他の士卒は皆馬を下り、方陣を壕内に結ぶ。又一軍西に飛芬山に営す。杜松の軍既にやぶれ、大清兵鋭に乗じて林の軍にせまる。林の壕内の軍已に壕外と合して陳するを見、精騎を縦にして直前にこれを沖す。林の軍支え難く、遂に大敗す。副将麻巖戦死し、林は僅かに数騎を以て免る。死者山谷に満ち、血流れて尚間崖の下に至り、水これが為に赤と為る。大清遂に兵を移して飛芬山を撃つ。僉事潘宗顔等の一軍も亦覆る。北関兵これを聞き、遂に進むことを敢えず。林既に師を喪い、とがめて事官にて、開原を守らしむ。時に蒙古の宰賽・煖兔林の兵を助けんことを許す、林と結約し、これにたのんで設備せず。その年六月、大清兵忽たちまち城に臨む。林衆を城外に列し、少兵を分けてに登らしむ。大清兵盾梯を設けて進攻し、而して別に精騎を以て林の軍の東門外に営する者を撃破す。軍士門を争いて入り、遂に勢いに乗じて門を奪い、攻城の兵も亦城をえて入る。林の城外の軍望見して尽く奔る。大清兵城に拠り邀撃し、壕を渡るを得ず、悉くこれをせんす。林及び副将於化龍・参将高貞・遊撃於守志・守備何懋官等、皆ここに死す。まもなく都督同知を贈り、世蔭を進めて二秩とす。林は辺鎮を更歴すと雖も、然れども未だ強敵を経ず、大将の才無し。当事虚名を以てこれを用う、故に敗る。

孫 炯 爌 飈

林五子、燃・熠・炯・爌・飈有り。燃・熠は尚間崖に戦死す。炯は天啓中湖広総兵官。貴州の叛賊を討つに協し、王三善に従いて大方に至り、数戦皆捷す。已に、大敗し、三善自殺す。炯潰れて帰る。疾を得て卒す。

爌幼より兵略を習い、天啓中遼東遊撃と為る。督師閣部孫承宗其の父の王事に死するを以て、これを奨めて用い、王楹に代わり中右所を守らしむ。及って巡撫袁崇煥営制を更め、故官を以て前鋒左営を掌らしむ。数たび功有り、屡遷して副総兵に至り、徐州を守る。崇禎八年正月、賊鳳陽を陥し、大いに掠めて去る。爌及び守備駱挙兵を率いて入り、恢復を以て告げ、遂にその地に留まり戍る。八月、賊河南を擾す。総督朱大典命じて潁・毫に移駐せしむ。事定まり、徐州に還る。十年、賊桐城を犯す、爌赴きて救い、羅唱河にこれを破る。尋陵を護る功を以て、秩一級を増す。帰徳・徐州の間に朱家廠と曰う地有り、土寇これに拠り、時に出でて掠む。爌これを剿滅す。賊固始を犯す、大典爌及び遊撃張士儀等に檄して分かって霍兵の西南に戍り、賊の東下を扼がしむ。賊遂に六安に走る。大典又爌等を移して寿州の東に駐し、兼ねて二陵を護らしむ。当是の時、長・淮の南北、専ら陵寢を以て重しと為す。爌馳駆すること数年、幸いに失事無し。

十二年六月、総兵官に抜擢され、天津を鎮守した。しばらくして、甘粛に移鎮した。十五年、三協の副将王世寵・王加春・魯胤昌らを督率して叛番を討ち破り、七百余級を斬首し、三十八族を撫安して還った。その冬、督師孫伝庭が檄を発して召したが応じず、上疏して弾劾された。帝は爌が賊を処理できるかどうか察するよう命じ、罪を戴いたまま功を立てることを許し、できなければ賜剣をもって処断せよとした。爌が軍中に至ると、伝庭はその罪を赦した。その後、また逗留して淫掠したことで弾劾され、帝は依然として罪を戴いて自ら功を立てるよう命じた。明年秋、伝庭が関を出ようとしたとき、賊が内郷から商州・雒南を窺うとの伝聞があり、爌に檄を飛ばして商州に移り、その北犯を扼させた。やがて伝庭の軍は覆滅し、爌は鎮に還った。間もなく、賊は延綏・寧夏を陥落させ、ついに蘭州を陥落させ、河を渡って甘州に至り、引き返してこれを攻撃した。爌は巡撫林日瑞と力を尽くして固守した。賊は雪の夜に乗じて穴を穿って登城した。士卒は寒さが甚だしく、戦うことができず、城はついに陥落した。爌・日瑞および中軍哈維新・姚世儒は皆死んだ。弟の飈は沔陽州同知であったが、城が陥落し、これも死んだ。爌父子兄弟はともに国難に死した。

何卿

何卿は成都衛の人である。志操があり、武事に習熟した。正徳年間、世職を嗣いで指揮僉事となった。才能により、筠連守備に抜擢された。巡撫盛応期に従い、叛賊謝文礼・文義を撃ち斬った。世宗が即位すると、功績により、署都指揮僉事に進み、左参将を充任し、松潘を協守した。

嘉靖初年、芒部の土舎隴政・土婦支禄らが叛いた。卿はこれを討ち、二百余級を斬首し、その数百人を降した。政は烏撒に奔った。卿は土官安寧に檄を飛ばし、これを捕らえて献上させた。寧は偽って承諾したが、政を匿って出さなかった。巡撫湯沐が状況を上奏すると、帝は卿の冠帯を剥奪した。川・貴の兵が合流して討伐し、賊はようやく滅び、卿の冠帯は元通りに戻された。五年春、卿は副総兵に抜擢され、依然として松潘を鎮守した。隴氏はすでに絶え、芒部を鎮雄府と改め、流官を設置した。間もなく、政の残党沙保が再び叛いた。卿は参将魏武・参議姚汝臯らとともに進軍し、沙保ら賊の首魁七人を斬り、残りをことごとく殲滅した。功績を記録すると、武が最も上で、卿がそれに次ぎ、賜賚に差があった。黒虎五砦の番が反逆し、長安ちょうあん諸堡を包囲し、烏都・鵓鴿諸番も続いて叛いた。卿はことごとくこれを撃破平定し、都督僉事に進んだ。威茂の番十余砦が連合して軍餉を奪い、さらに茂州及び長寧諸堡を攻撃し、撫賞を要求した。卿は副使朱紈とともに茂州の外城を築いてこれを包囲した。やがて計略をもってその衆を損ない、戦いに屡々勝利し、ついに深溝を攻撃し、その碉砦を焼いた。諸番は窮し、罪を贖うことを請うた。卿は首悪を献じるよう責めたが、番は応じなかった。再び分かれて浅溝・渾水の二砦を剿滅し、殲滅した。諸番はようやく争って首悪を献じ、血をすすり指耳を断ち、二度と叛かないと誓った。卿はこれと木に刻んで約し、その集団を分けて処置し、境界を画して守らせ、松潘の路は再び通じた。巡撫潘鑒らが二人の功績を上奏すると、詔により銀幣を賜り、署都督同知に進み、鎮守は元の通りとした。長らくして、病気のため致仕した。

二十三年、塞上に警報が多かった。卿を召したが、病気を理由に辞退した。帝は怒り、その都督を奪い、都指揮使として部に赴き調任を待つよう命じた。間もなく、寇が畿輔に迫り、盧溝橋に営するよう命じられた。松潘副総兵李爵が巡撫丘養浩に弾劾されて罷免され、詔により卿を代わりとした。給事中許天倫が、卿が養浩に賄賂を贈って爵を弾劾させ、自分の地位を図ったと上言した。帝は怒り、卿及び養浩の官を褫奪し、巡按冉崇礼に実態を審査させた。当時兵事が差し迫り、翁万達が再び卿を推薦し、その都督僉事の官を戻し、東官庁の軍馬を都すべく命じた。やがて崇礼が詳しく、爵が貪汙であり、「卿が松潘を鎮守すること十七年、しょくの保障となり、軍民はその徳を称え、かつ貧しく、どうして賄賂を得られようか」と上言した。帝の疑念はようやく解けた。四川の白草番が乱を起こし、副総兵高岡鳳が弾劾された。兵部尚書路迎が卿を代わりとするよう上奏した。卿が再び松潘に臨むと、将士は皆喜んだ。そこで巡撫張時徹と会し、渠悪数人を討ち擒え、九百七十余を俘斬し、四十七の営砦を攻克し、四千八百の碉房を破壊し、馬牛器械儲積をそれぞれ万単位で獲得した。署都督同知に進んだ。卿は平素より威望があり、番人に畏れられていた。威茂から松潘・龍安に至るまで、夾道に墻を数百里築き、行旌が往来しても、剽奪の患いはなかった。先後合わせて鎮に臨むこと二十四年、軍民は慈母のようにこれを戴いた。再び病気のため帰郷した。

三十三年、倭寇が海上に出没した。詔により卿と沈希儀はそれぞれ家衆を率いて蘇州・松江の軍門に赴いた。明年、副総兵を充任し、浙江及び蘇州・松江の海防を総理した。卿は蜀中の名将であったが、海道に詳しくなく、年は既に老い、兵と将は馴染まず、ついに何ら為すところがなかった。巡按御史周如斗に弾劾されて罷免され、死去した。

沈希儀

沈希儀は字を唐佐といい、貴県の人である。世職を嗣いで奉議衛指揮使となった。機警で胆勇があり、智計は人に絶していた。正徳十二年、永安征討に派遣された。数百人をもって陳村砦を搗き、馬が泥沼に陥ったが、飛び上がり、三人の酋長を続けざまに馘り、その余衆を破った。署都指揮僉事に進んだ。義寧の賊が臨桂を寇し、巣窟に還ると、希儀はこれを追撃した。巣窟には二つの隘路があり、賊はその一つに伏兵を置き、熟した瑤人に官兵を誘い込ませた。希儀はその詐りを察し、急いで別の隘路から直ちに賊の巣窟に到達した。賊は慌てて還って救援し、大いにこれを破った。荔浦の賊八千が江を渡って東掠し、希儀は五百人を率いて白面砦に駐屯し、その帰還を待った。砦は蛟龍灘・滑石灘の両灘からそれぞれ数里離れていた。希儀は滑石灘が狭く、たとえ衆多くとも接近できるが、蛟龍灘が広く、渡河されると図り難いと考え、滑石に誘い込もうとした。そこで蛟龍灘に百本の旗を立て、疲れた兵卒で守らせ、柴を燃やして疑わせた。賊は果たして滑石に向かった。希儀はあらかじめ小艦に勁卒を載せて葭葦の中に伏せさせた。賊が渡河して半ばになったとき、急流に乗ってこれを沖し、両岸の軍が騒ぎながら前進し、賊の多くは水に墜ちて死に、掠奪したものを収めて還った。副総兵張祐に従い、臨桂・灌陽・古田の賊を連破した。署都指揮同知に進み、都司事を掌った。

嘉靖五年、総督姚鏌が田州の岑猛を討伐しようとした。希儀の計を用い、猛の婦翁である帰順の土酋岑璋を間して、猛を図らせ、五哨に分かれて進軍した。希儀は中哨を将い、工堯に当たった。工堯は賊の要地で、衆を集めて守っていた。希儀は夜に三百人の軍を遣わし、山に沿って登り、その背後を回り出させた。夜明けに合戦すると、遣わした軍は既に山頂に幟を立てており、賊は大いに潰敗した。猛は帰順に逃げ、璋に捕らえられ、田州は平定された。希儀の功績が最も大きかったが、鏌はこれを抑え、ただ賜賚を受けるのみであった。鏌は流官を設置することを議したが、希儀は言った、「思恩は流官の故に、乱が今に至るまで止まない。田州もまたそうなれば、両賊が合従して起こるであろう」。鏌は従わなかった。希儀を右参将とし、思恩・田州を分守させた。希儀は郷里に還って装いを整えることを請うた。参将張経を代わりに守らせた。わずか一月で、田州は再び叛き、鏌は罷免されて帰った。王守仁が代わりとなり、多く希儀の計を用い、思恩・田州は再び平定された。

右江柳慶参将に改め、柳州に駐屯した。象州・武宣・融県の瑶族が反乱を起こしたので、討伐してこれを破った。病気を理由に辞任して帰郷し、しばらくして元の職に復帰した。柳州は万山の中にあり、城外五里にして既に賊の巣窟であり、軍民は耕作する土地すらなく、官軍は平素より疲弊して戦闘に耐えなかった。また賊の間者は官府に遍在し、閨闥の動静を知らぬものはなかった。希儀は、賊を大破するには狼兵でなければならぬと言い、制府に請願した。那地の狼兵二千を調達して来させ、守備兵はやや士気が上がった。そこで瑶族と交易する者数十人を得て、その罪を握りながら手厚く懐柔し、賊を探らせた。賊の動静は、希儀もまた知らぬものはなかった。希儀は出兵するたび、たとえ側近の親しい者にも聞かせなかった。期日に至って号令を鳴らすと、諸軍は皆集結した。一人に旗を持たせて諸軍を導かせ行軍するが、行き先は測り知れない。駐屯して伏兵を設けると、賊は必ず来襲し、伏兵に遭遇すれば直ちに逃走した。官軍がこれを撃つと、意のままに成功した。やがて賊が他を寇掠すると、官軍はまた先回りしていた。遠村僻地の集落で、賊が官軍の及ばぬと推測して寇掠に向かっても、官軍は必ずそこにいたので、賊は驚いて神の如しと思った。希儀が賊の巣窟から婦女子や家畜を捕獲すると、もし隣接する巣窟のものであれば全て返還し、ひそかに賊を助けた者のみを捕らえた。諸瑶はことごとく畏服し、敢えて賊に与する者はいなくなった。

希儀が着任した当初、熟瑶が城中に出入りすることを許し、何の禁令も設けなかった。そこでその狡猾な者を厚く賞与し、間者として使った。後に次第に瑶族の婦人を妻に面会させ、酒食や絹帛を与えて労った。その夫が常に賊情を報告する者は、ひそかに厚遇した。諸瑶の婦人は賞与を欲し、争ってその夫に賊情を報告するよう勧め、あるいは自ら府に来て報告した。このため、賊はますます身を隠すことができなくなった。希儀は風雨の暗い夜毎に、賊の宿泊場所を探り、人を分遣して銃を持たせ家屋の傍らに潜ませた。夜中に銃声が上がると、賊は大いに驚いて「老沈が来た!」と言い、皆妻子を連れて匍匐して山に逃げた。児は泣き女は叫び、あるいは寒さで崖石にぶつかって死に、争って賊をやめたことを後悔した。夜明けに下山すると、ひっそりとして人気はなかった。他の巣窟も同様で、衆はますます驚いた。ひそかに人を城に遣わして探らせると、希儀は相変わらず城中におり出てこなかった。賊は胆を落とし、多くは顔を変えて熟瑶となった。

韋扶諫という者は、馬平の瑶族の首魁で、累次捕らえられなかった。扶諫が隣接する賊の三層巣に逃げたと報告する者がいたので、希儀はひそかに兵を率いてこれを討伐したが、扶諫はまた三層の賊と共に他所を劫掠しに行っていた。希儀は三層巣の妻子をことごとく捕虜にして帰還したが、希儀は賊の妻子を捕らえると全て狼兵に与えていたが、今回は独り空き家に閉じ込め、飲食を与えた。熟瑶を使わしてその夫に言わせた、「韋扶諫を得れば、返す」と。諸瑶はこれを聞き、皆来て希儀に謁した。室内に入ってこれを見るよう命じると、妻子は確かに無事であった。そこで共に扶諫を誘い出して巣窟から出させ、縛って献上し、妻子と交換して返還させた。希儀は扶諫の目をえぐり、四肢を切断して、城門に懸けた。諸瑶は希儀の威信に服し、ますます盗賊行為を敢えてしなくなった。これより、柳城の四方数百里にわたり、敢えて掠奪する者はいなくなった。

希儀はかつて朝廷に上書し、狼兵もまた瑶・僮であると述べた。瑶・僮は所在で賊となるが、狼兵は死んでも非を為さないのは、狼兵が順で瑶・僮が逆だからではない。狼兵は土官に隷属し、瑶・僮は流官に隷属する。土官は法令が厳しく狼兵を制するに足りるが、流官は勢いが軽く瑶・僮を制することができない。もし瑶・僮を分割して近隣の土官に隷属させれば、土官は代々富貴であり、他に望みを持つことはない。国家の力で土官を制し、土官の力で瑶・僮を制し、皆を狼兵とすれば、両広は代々患いがなくなるであろう、と。時に採用されなかった。十六年に至って思恩の岑金の変乱が起こった。

初め、思恩の土官岑浚が誅殺された後、流官を設置し、その酋長二人の韋貴・徐五を土巡検とし、それぞれ万余の兵を分掌させた。夷民は漢法を好まず、数度にわたり反乱した。鎮安に金という名の男子があり、自ら浚の子であると言った。鎮安の土官はひそかにその旧部の酋長を召し出し、金を出してこれと盟い、「これが若き主君である」と言った。諸酋は羅拜し、金を擁して帰還し、兵五千を集めて城を攻め、故地を回復せんとし、遠近は騒然とした。浚が誅殺された時、その酋長の楊留という者は帰る所がなく、徒党千余人を率いて賓州に至り、応募して打手となった。希儀が賓州にいた時、留が入って言うには、小主人に会いに行きたいと。希儀はもとより金を憂慮していたが、留の言葉を聞いてますます大いに驚いた。そこで好意的に留に言った、「これは岑浚の第九子か? かつて田州を征伐した時に確かに聞いたことがある」と。そこで独り言を言った、「岑氏は再興するのか?」と、留を深く動かそうとした。留は果たして喜んだ。やがて、留を密室に召し、「私に重い賄賂をくれれば、即座に金のために官職を回復させよう」と言った。留が出ようとした時、また呼び入れて言った、「韋貴・徐五は今思恩の兵を分将している。必ずや金を仇敵とするだろう。よく防ぐがよい」と。留はますます大いに信じた。金は遂に五千人を従えて留を通じて面会を求めた。門番が駆け込んで報告し、受け入れるなと請うた。希儀は罵って言った、「金は土官の子であって賊ではない。どうして受け入れぬのか?」と。引き入れて厚く結びつけ、また兵備副使に引見し、計略をもって次第にその五千人を解散させた。遂に金を縛り、留もまた自ら恨んで死に、思恩は再び平穏となった。やがて、総督張経に従って断藤峡・弩灘の賊を大破し、恩賞を受けて帰還した。

希儀が柳・慶を鎮守すること久しく、賊の首魁や古参の狡猾な者は捕縛誅殺し尽くした。先後して巣窟を攻め、斬首した首級は累計五千余に上ったが、全てを功績として奏上することはなく、故に多くは叙勲されなかった。十九年、再び病気を理由に辞任し、柳の人々は彼を山雲祠に祀った。間もなく四川左参将に起用され、叙州・滬州及び貴州迤西の諸所を分守した。その冬、都督僉事を署理することを擢げられ、総兵官に充てられ、貴州を鎮守した。再び病気を理由に帰郷した。塞上に警報多く、天下の名将を京師に召し集めたが、希儀もその召しの中にあった。希儀が柳・慶を鎮守した時、戦うたびに必ず先頭に立ち、身に数度の傷を受け、陰雨の日には痛みが激しくなるため、たびたび病気を理由に辞任したのである。京に至っても、また病気を理由に辞退した。帝はその回避を疑い、都督の官を褫奪し、部に赴いて任用を待つよう命じた。翁萬達がその才能を推薦した。折しも江・淮に盗賊多く、督捕総兵官を設置する議があり、そこで再び希儀を都督僉事に署理させて派遣した。

二十六年、広東副総兵に任じられた。命じて今後川・広・雲・貴より来た将領は、京営及び西北辺境に推挙しないことを令として定めた。総督張嶽に従って賀県の賊倪仲亮らを大破し、実授を与えられ、なお銀幣を賜った。瓊州五指山の熟黎は平素より法を畏れ、徭役賦税を供出していたが、知州邵浚が虐取した。その酋長那燕は遂に崖州・感恩・昌化の諸黎と結んで乱を起こした。総督歐陽必進は万州・陵水の黎も併せて討伐することを議し、兵を五道に分けた。希儀は丁度病気で、最後に到着し、必進に言った、「万州・陵水の黎は未だ悪党に加担した実績がない。どうして併せて誅し、敵を増やすのか? 三道に止めるに如かず」と。必進はこれに従った。希儀は参将武鸞・俞大猷らと共に直ちに五指山下に入り、那燕及びその徒党五千四百余を斬り、捕虜はその五分の一を得、三千七百人を招降した。捷報が聞こえ、都督同知に進み、貴州総兵官に改めた。再び張嶽に従って銅仁の叛苗龍許保・呉黒苗を平定した。また病気を理由に帰郷した。倭寇が海上を寇し、命じて川・広の兵を督し赴いて剿討させた。功績なく、周如鬥に弾劾され罷免された。

希儀の為人は率直で、平素は戯れて笑い、肺腑を見透かすようであった。敵に臨むに及んでは、機変に応じて奇策を出し、人は測り知れなかった。特に士卒を撫でることを善くした。常に危篤の病に罹ると、士卒は多く自らを傷つけて神に祈った。最後の一人は、矢で自らの喉を貫くに至った。かくの如くに士卒の心を得たのである。

石邦憲

石邦憲は、字を希尹といい、貴州清平衛の人である。嘉靖七年に世職を嗣ぎ指揮使となった。功を重ね、署都指揮僉事に進み、銅仁参将を充任した。苗の龍許保・呉黒苗が叛くと、総督張嶽はこれを征討することを議し、賊は印江・石阡を陥落させたため、邦憲は連座して捕らえられ尋問を受けた。張嶽は銅仁が賊の巣窟であり、邦憲に謀略と勇気があるとして、上奏して留任させた。邦憲は川・湖の兵とともに貴州に進み、苗の砦十五を破った。山の篠竹に逃げ込んだ者は、捜索してほぼ殲滅した。功績を上申すると、邦憲が第一であった。叙勲されないうちに、許保らが思州に突入し、知府李允簡を捕らえて去った。邦憲は急ぎ邀撃し、奪い返して帰還させた。このことで俸給を停められ、罪を戴いて留任した。賊は思州を破った後、余党を糾合し、湖広蠟爾山の苗と合流して石阡を攻めようとしたが、成功せず、省渓を通り過ぎて帰還した。千戸安大朝らが邀撃し、大半を斬り捕らえ、その輜重をすべて奪ったため、賊は軍を成すことができなかった。邦憲は使者を遣わして老穀・老𤠇らを買収し、許保を捕らえて軍門に送らせたが、黒苗は相変わらず逃亡していた。さらに計略を用いて烏朗の土官田興邦らを買収し黒苗を斬らせ、賊はことごとく平定された。ここに至り署都督僉事に進み、総兵官を充任し、沈希儀に代わって貴州を鎮守した。

臺黎砦の苗関保が乱を起こすと、四川容山・広西洪江の諸苗がこれに応じた。遠近騒然となり、撫慰も征討も決着できなかった。邦憲は湖広兵と分道して討ち破り、十八砦に檄を伝え、首謀者を捕らえ出せば罪を贖うことを許した。諸苗は帰順を聞き入れ、盟を結び約束を受けて帰還した。

播州宣慰使楊烈が長官王黼を殺害すると、王黼の与党李保らが兵を整えて攻撃し合うこと十年近くに及び、総督馮嶽と邦憲がこれを討って平定した。真州の苗盧阿項が乱を起こすと、邦憲は兵七千を率い筏を編んで江を渡り、直ちに磨子崖に到達した。賊が必ず夜襲すると読んで、先んじて備えを設けた。賊が来襲すると、これを撃破した。賊は播州の呉鯤に援軍を求めた。諸将は恐れたが、邦憲は言った。「水西宣慰使安万銓は、播州が恐れる者である。我が水西兵を調発して烏江を攻め、楊烈が呉鯤に逆賊を助ける罪を犯させたと喧伝すれば、楊烈にどうして人を救う暇があろうか」。やがて水西兵が到着した。邦憲はその巣窟に進んで迫り、風に乗じて火を放ち、関門を斬って登ると、賊は大いに潰走し、賊の首領父子を生け捕りにし、四百七十余人を斬り捕らえた。署都督同知に進んだ。

地隆阡の叛苗四砦を破り、また答干諸砦を破り、その渠魁を生け捕りにした。地隆阡の残賊龍老三・龍得奎は龍停の苗老夭・扳凳の苗石章保らと結託して兵を放ち略奪し、石耶洞の土官の妻冉氏を捕らえて帰り、梅平砦を攻撃した。官軍は要路で老三を生け捕りにした。得奎は逃れて免れ、再び老夭らとともに平南営囤を攻め破った。邦憲は冉氏が老夭のところにいると探り、表向きは身代金を協議しながら、密かに撃って老夭を殺した。官軍はここに龍停砦に入り、併せて扳凳砦の苗龍老内を捕らえ、章保を捕らえて差し出すよう命じた。ここにおいて諸苗はことごとく降伏した。白洗・養鵝の諸苗が叛くと、その首魁を討ち捕らえ、百余りの砦を降伏させた。

湖広漵浦の瑤沈亜当らが乱を起こすと、総督石勇が邦憲に檄を飛ばして討伐させ、亜当を生け捕りにし、二百余りを斬り捕らえた。漵浦が平定されたばかりの時、銅仁・都勻の苗が相呼応して叛いた。邦憲は急ぎ馳せ戻り、守備安大朝を率いて進剿した。まず彪山砦の賊を破り、勝ちに乗じて諸砦を平定した。賊首龍老羅・王三等を捕らえ、残党をことごとく平定した。また総督黄光升とともに、湖北の墩台・烽堠百余りを修築し、冷水渓諸洞の苗二十八砦を招降した。

播州容山の副長官土舎韓甸が正長官土舎張問と攻撃し合い、甸がたびたび勝利したため、ついに生苗を糾合して湖広・貴州の境を掠奪すること、ほぼ二十年に及んだ。張問もまた与党を糾合して自らを助けた。邦憲がこれを討伐し、百余人を斬った。張問が密かに出てきたところを捕らえられた。官軍は勝ちに乗じて韓甸の巣窟に入った。日が暮れ、大雨となり、道に迷った。守備葉勲・百戸魏国相らが伏兵の中に陥り、そこで戦死した。邦憲は包囲を突破して出て、鎮遠に軍を返した。再征すると、賊は川沿いに守備を固めていた。邦憲は偽ってこれと争い、別に上流三十里で竹を編んで筏を造り渡河した。水陸並行して進撃し、大いにこれを破った。韓甸を斬り、容山は平定された。右都督に進んだ。

まもなく巡撫呉維嶽とともに平州の叛酋楊珂を招降し、龍里衛の賊阿利らを剿滅平定した。この時、水西宣慰使安国亨は衆を恃んで跋扈し、上官に謁見する際、言葉や態度が良くないと、すぐに衆を煽って騒ぎ立てて退出した。邦憲は呼びつけて責めて言った。「お前は謀反を企てているのか。我はお前を釜中の魚と見ている。お前の兵は雲南・貴州・四川・湖広と比べてどれほど多いというのか。お前の四十八人の酋長に、我が四十八の印を鋳造して与えよう。朝に命令を下せば、夕にはお前を滅ぼすであろう」。国亨は叩頭して謝罪し、行いを慎むようになった。隆慶元年に鎮遠の苗を剿滅平定した。その後、また白泥土官楊賛及び苗酋龍力水らを破り誅殺した。管内は平穏となった。

邦憲は黔の地に生まれ育ち、苗の情勢に詳しかった。兵を用いることに長け、大小数十百戦、ことごとく敵を打ち破らなかったことはなかった。前後四度にわたり官位を進められ、銀貨・絹織物を十三度賜った。得た俸禄と賜物は、すべて士卒に振る舞い、家に余財はなかった。総兵官として十七年間、威は蛮中に鎮まった。四川の何卿・広西の沈希儀と並び称され、一時の名将であった。翌年、在官のまま卒した。左都督を追贈された。

賛に曰く、ああ、明も中葉に至って、どうして辺境の材能がなかったことがあろうか。馬永・梁震・周尚文・沈希儀の徒は、奇を出して勝を制し、士卒の死力を得た。古の名将と比べても、どうしてこれに勝るものがあろうか。しかし功は高く賞は薄く、起用と失脚は常ならず。これには異なる理由はない。その志を高く抱き奮い立つ者は、朝廷で政権を握る重臣に歓心を買うことができない。彼らとそごが合わないのは当然である。馬芳は三代にわたり将となり、父子兄弟先後して国に殉じた。偉大なるかな。