明史

列傳第九十八 桑喬 謝瑜 何維柏 徐學詩 厲汝進 王宗茂 周冕 趙錦 吳時來 張翀 董傳策 鄒應龍 林潤

○桑喬(胡汝霖)謝瑜(王曄伊敏生童漢臣等)何維柏徐學詩(葉經陳紹)厲汝進(查秉彜等)王宗茂周冕趙錦吳時來張翀董傳策鄒應龍(張槚)林潤

桑喬

桑喬、字は子木、江都の人。嘉靖十一年の進士。十四年冬、主事より御史に改められ、出て山西を按ずる。管轄区域は頻繁に賊寇の蹂躙を受け、喬は徭賦を尽く蠲免し、死者の家を厚く恤するよう奏請した。参将葉宗らが一万人を率いて荊家莊に至り、賊の伏兵の中に陥り、大いに潰え、賊は遂に深く侵入した。天城・陽和が両月の間に五度寇に遭う。巡撫樊継祖・総兵官魯綱以下、皆喬に劾せられ、副将李懋及び宗ら六人並びに逮治せられた。

十六年夏、雷謹身殿を震い、詔を下して言を求む。喬は同官とともに三事を陳べ、大略に両宮山陵の営造は多く侵冒あり、吉囊恣横にして、辺備積もり弛緩すと述べ、末に言う、「陛下災に遇いて懼れ、詔を下して修省す。修省は人事の外にあらず、人事は官を択ぶに過ぎず。尚書厳嵩及び林庭〓昂・張瓚・張雲は皆上は国恩に負い、下は輿望に乖き、災変の来るは彼らに由る」と。疏が奏上され、四人皆罷免を乞う。詔して庭〓昂・雲を致仕せしめ、嵩・瓚は留めて旧の如し。嵩再び疏を上べて弁じ、且つ言者を詆毀す。給事中胡汝霖言う、「大臣論ぜられ、罪を引き退くを求むるのみ。嵩穢行を負い、物議を召し、辞を逞しくして奏辨し、陰に言官を擠み、大臣の体無し」と。帝詔を下して戒飭す、汝霖の指す所の如し。時に嵩尚書に拝せられて甫めて半歳、方に交遊を養い、声譽を揚げ、進取の地と為し、挙朝猶未だ其の奸を知らず、喬独り首めて之を発す。

喬尋いで畿輔を巡按し、疾を引きて退く。都御史王廷相規避を以て之を劾し、嵩因り其の罪を構う。詔獄に逮下し、廷杖し、九江に戍す。戍所に居ること二十六年にして卒す。隆慶初、制の如く贈恤す。

胡汝霖

胡汝霖、綿州の人。庶吉士より除かれて戸科給事中となる。二十年四月、九廟災あり。同官聶靜・御史李乗雲とともに文武大臣の救火緩慢なる者二十六人を劾し、嵩も其の中にあり。帝劾すること尽くさざるを怒り、詔獄に下して訊治し、俱に鐫級して外に調ず。汝霖は太平府經歷を得る。既に官を謫せられると、則ち嵩に解を請い、反って之に附して進む。累遷して右僉都御史に至り、甘肅を巡撫す。嵩の敗るるに及び、嵩党を以て官を奪わる。

謝瑜

謝瑜、字は如卿、上虞の人。嘉靖十一年の進士。南京御史より改めて北す。十九年正月、礼部尚書厳嵩屡々弾劾せられて去らんことを求め、帝慰留す。瑜言う、「嵩矯飾浮詞を以て君上を欺罔し、言官を箝制す。且つ明堂大礼・南巡の盛事を援いて解と為し、而して諸臣の中陛下の為に事を任する者無しと謂い、以て聖怒を激さんと欲す。奸状然り」と。帝疏を留めて下さず。嵩奏して弁じ、且つ言う、「瑜臣を撃つこと已まず、朝廷と勝を争わんと欲す」と。帝是に於て瑜を切責し、而して嵩を慰諭すること甚だ至れり。二歳を居て、竟に嵩を用いて相と為す。

甫めて月を踰え、瑜疏して言う、「武廟盤遊佚楽すれども、辺防は宜しく壊るべくして未だ甚だしく壊れず。今聖明上に在り、辺防は宜しく固くすべくして反って大いに壊るるは、大臣国に謀る忠ならず、而して陛下任用を失うなり。張瓚中樞と為りてより、兵を掌りて天下兵無く、将を択びて天下将無し。説者瓚の形貌魁梧なるを謂い、足りて福将と称すべしと。夫れ誠に辺塵聳がず、海宇晏然たれば、之を福と謂う可し。今瓚功無くして恩蔭屡々加えられ、罪有りて褫奪及ばず、此の其の福は乃ち一身の福にして、軍国の福に非ざるなり。昔舜四兇を誅し、万世聖と称せらる。今瓚と郭勛・厳嵩・胡守中は聖世の四兇なり。陛下旬月の間已に其の二を誅す、天下翕然として聖と称す、何ぞ此の二兇を並べて、之を放ち之を流し、以て帝舜の功を全うせざるや?大学士翟鑾廃棄の中より起り、巡辺の寄を授けらるるに、乃ち優遊曼衍し、供億を靡費す。盛んに苞苴を苞むる者を才と為し、淫楽を献ずる者を敬と為し、遂に辺軍をして益々瘠せしめ、辺備をして更に弛ましむ。辺を行くこと此の如く、将に焉にか之を用いん!故に政本を清めざれば、天下必ず治まらず。本兵を易えざれば、武功必ず競わず」と。

疏入り、留めて下さず。嵩復た疏を上べて辯し、帝更に慰諭し、瑜復た譙譲せらる。然れども是の時帝嵩に響けりと雖も、猶未だ言者を深く罪せず、嵩も亦初めて政を得て、未だ敢えて顯かに擠陷せず、故に瑜職に居ることを得て旧の如し。未幾、他事を仮りて其の官を貶す。又三載、大計あり、嵩密かに主者に諷して之を黜かしむ。疏上るに比し、貪酷の例の如く除名せよと令し、瑜遂に廃棄せられ、家に終わる。

初め瑜の御史と為るや、武定侯郭勛時政を陳べ、大小諸臣の任に足らざるを極めて詆し、復た内侍を遣わして出鎮守せしむることを請う。詔之に従う。瑜抗章して奏して曰く、「勛の論ずる諸事は影響恍惚たり、而して鎮守を復設するは則ち其の本意の註する所なり。勛内侍と交通し、之に代わって營求し、他日の重賄を利す。其の言う、『官吏の貪濁は、陛下に心腹耳目の人の四方に在らざるに由る』と。又曰く、『文武奸を懐き事を避くるは、内臣に劾奏を許せば、則ち奸貪自ずから息む』と。果して勛の言う如くならば、則ち内臣の用事するは正徳の時に如くは莫く、其れ太平の極治たるや?陛下鎮守内臣を革むるは、誠に聖明の善政なり、而るに勛偏私を以て詆す。朝に在る百官、孰れか天子の耳目に非ざらん?而るに勛足らざるを以て詆す。陛下をして天下の士大夫を尽く疑わしめ、独り宦官を倚りて腹心耳目と為さんと欲す、臣勛の陛下を何の如き主と視るやを知らず」と。会うに給事中朱隆禧も亦以て言うと為す、勛の奏始めて寢す。瑜、隆慶初官に復し太僕少卿を贈らる。

王曄

王曄は、字を韜孟といい、金壇の人である。嘉靖十四年の進士となり、吉安推官に任ぜられ、召されて南京吏科給事中に任ぜられた。二十年九月、同官とともに上疏して言うには、「外寇が跳梁しているのに、本兵の張瓚および総督尚書の樊継祖、新たに侍郎に昇進した費寀は重責に堪えぬ」。帝はその上疏を所管の官庁に下した。二か月後、また張瓚を弾劾し、それに因んで礼部尚書の厳嵩、総督侍郎の胡守中が、大奸の郭勛と結託していることを論じた。嵩が住む邸宅は、勛の私的な者が代わって造営したものである。一か月余り後、御史の伊敏生、鄭蕓、陳策もまた、嵩の邸宅は勛の私的な者である孫澐の住んでいたものであり、澐が財産没収の刑に処せられたので、嵩の邸宅も没収の対象となるべきであると述べた。帝は怒り、敏生らの俸給を一級削減した。嵩は問わず、守中はついに王曄の上疏によって罪を得た。翌年の秋、嵩は内閣に入った。吏科都給事中の沈良才、御史の喻時らが相次いで上疏して嵩を弾劾した。一か月余り後、山西巡按の童漢臣の上疏が上った。また一か月余り後、王曄は同官の陳塏、御史の陳紹らとともに上疏した。おおむね皆、嵩の奸悪と貪婪を論じ、王曄の上疏は嵩の子の世蕃にも言及し、言葉は特に痛切であったが、帝はいずれも省みなかった。嵩は甚だ恨み、中傷する機会がなかった。長い時を経て、山東僉事となり、任地交代のため都に入る途中、病にかかり期限に遅れたので、嵩はついにその官を奪った。王曄は御史台にいた時、地方長官三十九人を弾劾して罷免させ、直諫の名声が甚だ高かった。帰郷する頃には、家は貧しく、数年後に卒した。

伊敏生

伊敏生は上元の人である。鄭蕓、陳策はともに莆田の人である。敏生は官は山東参政に至った。策は台州知府となった。蕓は御史の任で終わった。

沈良才

沈良才は泰州の人である。庶吉士から出発し、歴任して兵部侍郎に至った。三十六年の大計(官吏考課)で自ら陳述したが、すでに南京に転任していたところ、嵩が南京の科道官による拾遺(欠点指摘)の上疏に付けて批答を下し、その職を落とした。喻時は光山の人である。官は南京兵部侍郎に至った。

童漢臣

童漢臣は銭塘の人である。魏県知県から御史に選抜された。寇が大いに宣府、大同に侵入した時、総督の樊継祖らが敗北を隠し、三度にわたり勝利を奏上した。漢臣らがこれを弾劾し、罪を得た。山西を巡察した時、諸将を督して太原に迫った俺答を撃退したが、ちょうど嵩を弾劾したため、その怒りに触れた。翌年、漢臣は巡撫の李玨とともに継祖らの失態の状況を調査して上奏した。上疏は吏部に下された。漢臣は以前に嵩を弾劾し、同時に吏部尚書の許贊も弾劾していたので、贊もまた漢臣を恨んでいた。そこで漢臣の弾劾が遅延したと言い、ともに論罪すべきであるとした。嵩はついに詔勅を起草して李玨の官階を一階下げて留任とし、漢臣を湖広布政司都事に左遷した。朝廷中みな嵩に中傷されたことを知ったが、救うことができなかった。長い時を経て、泉州知府となった。倭賊が城下に迫った時、城を守る功績があった。官は江西副使で終わった。

陳塏

陳塏は余姚の人である。後に嵩によって排斥され罷免された。

何維柏

何維柏は、字を喬仲といい、南海の人である。嘉靖十四年の進士となり、庶吉士に選ばれ、御史に任ぜられた。雷が謹身殿を震わせた時、維柏は言うには、四海が困窮し、各地に流民がいるのに、所管の官庁が賦税の増加を議し、民が盗賊とならざるを得ないと。そこで沙河行宮、金山功德寺の工事、および安南への問罪の軍を罷めるよう請うた。帝は大いに賞賛して採用した。まもなく病を理由に帰郷した。長い時を経て、起用されて福建巡按となった。二十四年五月、大学士厳嵩の奸悪貪婪の罪を弾劾する上疏をし、李林甫、盧杞に比した。また、嵩が顧可学、盛端明を推挙して方薬を調合させ、邪悪で媚びて寵愛を求めていると述べた。帝は激怒し、官を遣わして逮捕し処罰させた。士民が道を遮って号哭したが、維柏は意気自若としていた。詔獄に下され、廷杖を受け、官籍を削除された。家に居ること二十余年。隆慶に改元すると、召されて官に復し、大理少卿に抜擢された。左僉都御史に転じた。日々便殿に出御し、執政大臣を召して政事を謀り、また才徳ある大臣を選んで講読の儒臣と交代で宮中に侍直させるよう上疏して請うた。宮中の平穏な時には、謹厚な内侍を選んで聖体を調護させ、遊興住居に常道を保ち、寵愛臨幸に節度を持たせるべきである。厳冬の極寒でなければ、朝講を停めるべきではないと。聞き届けられたと返答があった。左副都御史に進んだ。母の喪で帰郷した。万暦初年、朝廷に戻った。吏部左侍郎、右侍郎を歴任し、官爵売買の害を極力論じた。御史の劉臺が大学士張居正を弾劾し、居正が罷免を請うた時、維柏は九卿を率いて留任させた。居正が父の喪に遭い、詔により吏部が留任を諭した時、尚書の張瀚が維柏に意見を求めると、維柏は「天経地義、どうして廃することができようか」と言った。瀚はそれに従って留任を止めた。居正は怒り、詔勅を取って張瀚を罷免し、維柏の俸給を三か月停止させた。まもなく外任として南京礼部尚書となった。官吏考課で自ら陳述したが、居正が内々に働きかけて罷免させた。卒して端恪と諡された。

徐学詩

徐学詩は、字を以言といい、上虞の人である。嘉靖二十三年の進士となり、刑部主事に任ぜられ、郎中を歴任した。二十九年、俺答が京師に迫った。退去した後、詔により廷臣に敵を制する策を陳述させた。諸臣の多くは細事を拾い集めて応じた。学詩は憤然として言うには、「大奸が国政を握っていることが、乱の根本である。乱の根本を除かずして、外患を攘うことができようか」と。ただちに上疏して言うには、

大学士の厳嵩は十年にわたり政を輔佐し、奸悪貪婪が甚だしい。内には権貴と結び、外には群小と結託する。文武官の昇進任免には、常に多額の賄賂を要求し、これらが軍民を搾取して、寇賊の患いを醸成するに至らしめた。国事ここに至るも、なお敢えて佳兵は不祥なりとの説を誤って引き、清らかな上問を欺こうとする。近ごろ都城に警報があったため、密かに財貨を南方に送り返した。大車数十台、楼船十余艘、水陸ともに道を満たし、人の耳目を驚かせた。また罷免された総兵官の李鳳鳴から金二千両を受け取って薊州を鎮守させ、老廃した総兵官の郭琮から金三千両を受け取って漕運を監督させた。このような類いは、数え尽くすことが難しい。朝廷中誰もが嘆き憤るが、一人として敢えて逆らう者がないのは、まさに内外に盤結し、上下に比周して、積もり積もって勢力が形成されたからである。その子の世蕃はまた凶悪狡猾な性を成し、父の権力をほしいままに執る。諸司の奏請はすべて、必ずまずその父子に報告し、その後で敢えて陛下に聞かせる。陛下もどうしてことごとくご存知でありえようか。

嵩の権力は人を利用して石を下ろすに足り、機略は先んじて人を制するに足り、勢利は広く交わり自らを固めるに足り、弁舌は罪を隠し過ちを飾るに足る。そして精悍で機敏、巧みに推測してて、利に趨き害を避けるに足り、欠点を繕い、私的な交わりと密かな恩恵、媚びた顔つきと甘い言葉は、また人の歓心を結び、人の口を封じるに足る。故に前後嵩を論じた者は、嵩が正しく言論する時に顕わに禍を加えることはできなくとも、事をり人に托して陰に中てることを、昇進任免や官吏考課の際に行わなかった者はない。前の給事中の王曄、陳塏、御史の謝瑜、童漢臣らは、当時は寛大な赦しを受けたが、今や皆どこにいるというのか。陛下が誠に嵩父子を罷免し、別に忠良を選んで代えさせれば、外患はおのずからやすらかでないことはないであろう。

帝は奏疏を閲覧し、頗る感動した。方士の陶仲文が密かに言うには、厳嵩は孤立して忠を尽くしており、徐学詩は特に私怨を晴らそうとしているだけだと。帝はそこで怒りを発し、彼を詔獄に下した。嵩は自ら安からず、去職を求めたが、帝は優詔をもって慰諭した。嵩は上疏して謝し、偽って厳世蕃のために帰郷を乞うたが、帝もまた許さなかった。学詩はついに官籍を削られた。先に嵩を弾劾した葉経・謝瑜・陳紹と学詩は皆同郷であり、時に「上虞四諫」と称された。隆慶初め、学詩を起用して南京通政参議とした。未だ官に就かずして卒した。大理少卿を追贈された。

初め、学詩の族兄の徐応豊は書法に優れて中書舎人に抜擢され、無逸殿に供事し、嵩の所為を悉く知っていた。嵩は学詩の上疏が応豊の指図によるものと疑い、考察の際に吏部に属して彼を排斥させようとした。応豊が迎和門に赴いて辞職しようとしたところ、特旨をもって留任させられたので、嵩の恨みは一層深くなった。数年後、科書を誤って書いたことを嵩が帝に讒言し、遂に杖殺させた。

葉経 陳紹

葉経は、字を叔明という。嘉靖十一年の進士。常州推官に任じられ、御史に抜擢された。嵩が礼部にいた時、交城王府の輔国将軍朱表柙が郡王の爵位を襲おうと謀り、秦府の永寿王の庶子朱惟燱が嫡孫の朱懐墡と襲爵を争い、共に嵩に多額の賄賂を贈り、嵩はこれを承諾した。二十年八月、経はその事を指摘して嵩を弾劾した。嵩は大いに恐れ、力を尽くして事を繕い、かつ上疏して弁明した。帝は襲爵の事を廷議に委ね、嵩については問わなかった。嵩はこれによって経を恨んだ。また二年後、経は山東を巡按して郷試を監臨した。試録が上呈されると、嵩は策問の語が誹謗であると指摘し、帝の怒りを煽った。経は廷杖八十を受け、民に落とされた。傷が重く、卒した。提調の布政使陳儒及び参政張臬、副使談愷・潘恩は皆、辺境の典史に左遷された。これは嵩の報復によるものである。穆宗が即位すると、経に光禄少卿を追贈し、一子に官職を与えた。

陳紹は韶州知府で終わった。

厲汝進

厲汝進は、字を子修といい、灤州の人である。嘉靖十一年の進士。池州推官に任じられ、召されて吏科給事中に任じられた。湖広巡撫の陸傑が顕陵の工事完成により、工部侍郎に召された。汝進は言上して、傑は平素より清議に触れており、司空しくう(工部尚書)を補佐すべきでないとし、併せて尚書の甘為霖・樊継祖の不職を弾劾した。採用されなかった。三度転じて戸科都給事中に至った。戸部尚書の王杲が獄に下された時、汝進は同官の海寧の査秉彜・馬平の徐養正・巴県の劉起宗・章丘の劉祿と共に上疏して言った。「両淮副使の張祿が使者を都に入れ、広く結託し賄賂を贈っている。太常少卿の厳世蕃・府丞の胡奎などは、皆賄賂を受け依嘱された証拠がある。世蕃は父の権力を窃弄し、賄賂を貪り気焰を張っている。」言葉は倉場尚書の王暐にまで及んだ。嵩は上疏して自らを弁明し、かつ宦官に求援して帝の怒りを煽った。帝は彼らが王杲の弁解を代わってしていると責め、汝進に廷杖八十、その他に六十を命じ、皆雲南・広西の典史に左遷した。翌年、嵩はまた考察を口実に、汝進の官職を剥奪した。隆慶初め、元の官職に起用された。未だ京に至らずして卒した。

査秉彜 徐養正

秉彜は黄州推官から戸科左給事中を歴任した。時事について数度建議した。順天府尹で終わった。養正は庶吉士から戸科右給事中を歴任した。隆慶年間、官は南京工部尚書に至った。

劉起宗 劉祿

起宗は初め衢州推官に任じられた。召されて戸科給事中となった。延綏が飢饉に陥った時、国庫の金を請うて救済した。遼東苑馬寺卿で終わった。祿は行人司から抜擢されて戸科給事中となった。左遷された後、自ら免職して帰郷した。

王宗茂

王宗茂は、字を時育といい、京山の人である。父の王橋は広東布政使。従父の王格は太僕卿。宗茂は嘉靖二十六年の進士に及第し、行人に任じられた。三十一年に南京御史に抜擢された。当時、先後に厳嵩を弾劾した者は皆禍を得て、沈煉に至っては保安に流されて耕作させられた。朝廷内外はその威に慴り、ますます口を閉ざした。宗茂は積もる不平があり、官に拝されて三か月目に、上疏して言った。

嵩は元より邪諂の徒であり、廉恥心に乏しい。久しく国柄を握り、福を作り威を作る。四海内外、怨み恨まない者はない。例えば吏部・兵部の二部は毎回選任の際、二十人に請託させ、一人につき数百金の賄賂を要求し、良い任地を自由に選ばせている。これにより文武の将吏は尽くその門下に出る。これが嵩が国に背いた罪の一つである。

私腹の万寀を考功郎に任用した。凡そ外官の昇進は、その行いと能力を察せず、その資歴を計らず、ただ賄賂の有無を問うのみである。これにより端方の士は国家のために用いられない。これが嵩が国に背いた罪の二つである。

往年、人に弾劾されると、ひそかに家財を南方へ送り返し、車に珍宝を満載して、数え切れぬほどであった。金銀の人形は、多くが高さ二、三尺に及ぶ。下は便器に至るまで、これも金銀で作られていた。陛下の宮中にもこのような器があるかどうか、知らない。これが厳嵩が国に背いた罪の三である。

良田を広く買い占め、江西の数郡に遍く及んでいる。また、邸宅の後ろに石を積んで大きな穴を作り、金銀珍玩を満たして、子孫の百代の計としている。一方で国計や民の苦しみには、少しも心を配らない。これが厳嵩が国に背いた罪の四である。

家奴を五百余人も養い、京師の邸宅を往来させている。行く先々で駅伝を騒がせ、住民を虐害し、地方長官は皆怨み怒っているが、敢えて言えない。これが厳嵩が国に背いた罪の五である。

陛下が召し上がる大官の御馳走は数品に過ぎないのに、厳嵩は珍味を極め尽くしている。遠方の異国の産物も、ことごとく集めている。これは九州万国が厳嵩をもてなすことが、陛下よりも甚だしいということである。これが厳嵩が国に背いた罪の六である。

往年、賊が京畿に迫った時は、まさに上下が憂い恐れた日であったが、厳嵩の貪欲でほしいままな行いはますます甚だしかった。そのため民間の歌謡が京師に遍く流れ、沙漠にまで達した。海内の百姓は、天に祈って彼の早い滅亡を願わない者はいないのに、厳嵩はなお平然として止むことを知らない。これが厳嵩が国に背いた罪の七である。

朝士を募って養子・義子とした者が三十余人に及ぶ。尹耕や梁紹儒などは、すでに敗露している。この連中はまさに衣冠をまとった盗賊であり、皆が厳嵩の爪牙となり、その虐げの勢いを助け、朝廷の恩威が陛下から出ないようにしている。これが厳嵩が国に背いた罪の八である。

そもそも天下が安泰であるよりどころとするものは、財と兵である。才能のない文吏が賄賂によって彼の門を出るならば、必ずや民の財を剥ぎ取り、百を去って千を求め、千を去って万を求める。民はどうして困窮しないことがあろうか。才能のない武将が賄賂によって彼の門を出るならば、必ずや軍の兵糧を削り、あるいは欠員を補充せず、あるいは期限を過ぎても支給しない。兵士はどうして疲弊しないことがあろうか。近ごろ四方で地震があったが、その占いは臣下の専権を表す。試みに今日の専権者が、厳嵩の右に出る者があろうか。陛下の国庫は諸辺境の一年の費用を支えるのに不足しているのに、厳嵩の蓄積は数年分の備蓄を賄える。売官鬻爵の令を開いて辺境を助けるよりは、どうしてこの国を蝕み民を害する賊を除き、その家財を没収して憂いを和らげないのか。臣は数年来、厳嵩を論じた者は廷杖で死ななければ、辺塞に役使されるのを見てきた。臣にも身と家がある。どうして惜しまないことがあろうか。それでも敢えて九重の怒りを犯し、権力ある宰相の鋒に触れようとするのは、誠に代々国恩を受けてきたことを思い、賊臣厳嵩の手によって祖宗の天下が滅びるのを見るに忍びないからである。

上疏が届くと、通政司の趙文華は密かにこれを厳嵩に見せ、数日留めてから上奏した。これによって厳嵩は事前に対処する余地を得た。そこで(周冕は)大臣を誣告し誹謗したとして、平陽県丞に左遷された。

周宗茂が上疏した時、自ら必ず死ぬと思っていた。左遷となると、平然として都を出た。任地に着いて半年後、母の喪に服すため帰郷した。厳嵩は恨みを晴らすすべがなく、その父・周橋の官を奪った。周橋はついに憤り憂いのうちに死去した。厳嵩が宰相を罷免された日、周宗茂も死去した。隆慶初年、光禄少卿を追贈された。

周冕

周冕は資県の人である。嘉靖二十年の進士。太常博士に任じられ、貴州道試御史に抜擢された。太廟が再建され、神主を奉安する際、皇帝は官人を遣わして代わりに祭らせようとした。御史の鄢懋卿がそれは不可であると上言した。皇帝は怒り、数百字の手詔を下して廷臣に諭し、さらに君主に迎合して名誉を得ようとする者がいれば、必ず罪を赦さないと言った。朝廷中が恐れ息をひそめ、再び言う者はいなかったが、周冕だけが抗疏して争った。皇帝は激怒し、直ちに周冕を詔獄に下して拷問した。結局、その言が正しいとして釈放され、原職に戻った。この時、太子は生まれて十一年になるが、まだ出閣して講学していなかった。周冕は教諭を急がねばならないと極言し、早く詔勅を下し、侍従を慎重に選ぶよう請うた。皇帝はまた大いに怒り、雲南通海県典史に左遷した。周冕は遠くに流されても、意気慷慨として屈するところがなかった。

数度の転任を経て武選郎中となった。楊継盛が厳嵩および厳効忠の功績詐称を弾劾した時、その言葉は欧陽必進に及んだ。欧陽必進が上奏して弁明し、その上奏文は兵部に下された。周冕は上言した。

臣は詔を奉じて二十七年の通政司の文書を調べたところ、厳効忠は十六歳で、武会試に及第せず、両広軍門に諮問して任用を待っていた。その後、欧陽必進および総兵官の陳圭が黎賊平定を奏上し、厳効忠を遣わして捷報を伝えさせ、錦衣衛試所鎮撫に任じた。一ヶ月も経たないうちに、厳鵠が兄の効忠がかつて七つの首級を斬ったと言い、その功を合わせて賞し、副千戸代理に任じられるべきだと請うた。今、効忠は重い病を抱えており、厳鵠が代わりに職務につくことを請うている。臣はその偽りを疑い、まさに実態を調べて上奏しようとしていた。厳嵩の子・世蕃は自ら一つの草案を作って臣に渡し、臣に曖昧な題奏・回答をするよう依頼した。臣がその草案を見ると、およそ虚妄で矛盾しており、一つ一つ反論させていただきたい。

もし効忠がかつて武挙に合格したのなら、なぜ当初本籍からの送り状がなく、今また民人と言って、武挙のことは言わないのか。もし効忠が果たして厳鵠の兄、世蕃の子であるなら、世蕃の数人の子は皆幼く、効忠という名の者はいない。もし効忠が果たして七つの首級を斬ったのなら、当時の文書では年齢は十六歳とだけ称しており、どうして戦闘に赴けようか。なぜ軍門の諸将は皆、斬獲の功を聞いていないのに、宰相の孫一人だけが三軍の冠たるぎょう勇であったのか。もし効忠が敵と対戦し、脛や腕に傷を受けたというなら、戦陣に臨んだ時と任務を委ねられた時は、一ヶ月も隔たっておらず、どうして万里の軍情を即座に馳せ参じて報告できようか。もし効忠が京に着いて傷が重く病気になったというなら、なぜ厳鵠が代職を請うた日、ただ職務を受けることができないと告げただけなのか。もし効忠の鎮撫の職は代襲されるべきというなら、捷報の功績は本人にのみ及び、代襲の前例はない。もし効忠の功績は合わせて論じられるべきというなら、前例ではまず奏請するものであり、なぜただ通政司の文書を用いて、司官に奉行するよう迫るのか。

臣は心を尽くして尋ね訪ねたが、初めから効忠という名の者が軍門に赴いて任用を待った事実はなく、厳鵠も効忠の実弟ではない。その姓名は偽り設けられたものであり、首級も買い求めたものであって、少しの実績もないのである。欧陽必進はもとより厳嵩の同郷であり、陳圭はまた世蕃の姻戚である。彼らは迎合し結託して、共に欺瞞を行っている。臣が言わなければ、陛下はどうしてその奸計を知ることができようか。かつて累朝以来、宰相の子孫を軍門に送り報効させたことは聞いたことがない。今、厳嵩はただ軍門に諮問して送るだけでなく、偽って姓名を託し、祖宗の制度を破壊している。蒋応奎や唐国相の輩がそれに倣うのも何の不思議があろうか。臣の職務に関わることゆえ、義として隠すことはできず、特にご究明・是正を賜り、天下に朝廷には僥倖によって得られない功績、犯すことのできない法があることを明らかに知らしめたい。臣たとえ罪を得ても、死んでも恨みはない。

上疏が奏上されると、その直言の声は朝廷を震動させた。厳嵩父子は大いに恐れ、力を尽くして事態を繕おうとした。帝は周冕が報復していると責め、詔獄に下して拷問させ、民に斥けた。周冕が罪を得た後、尚書は厳世蕃の意のままに覆奏したのである。隆慶の初め、先朝の直臣を記録し、周冕を起用して太僕少卿とした。母の喪に遭い、未だ任に就かずして卒した。

趙錦

趙錦は字を元樸といい、余姚の人である。嘉靖二十三年の進士。江陰知県に授けられ、召されて南京御史に任じられた。長江に賊の警報があり、鎮江に総兵官を設置する議があった。趙錦は言う、「小賊の掠奪は、重兵を煩わせるに足りません」。帝はこれを取りやめた。後に、上疏して言う、「淮・兗の数百里の間、民は多く流亡し傭作している。租庸を寛め、廷臣を選んで有司を監督させ、慰撫させることを乞う」。許可された。軍事が起こり、民が粟や馬を納めて錦衣の官を得ることに、趙錦は極力その不可を陳べた。まもなく雲南で軍籍を査定した。

三十二年元旦、日食があった。趙錦はこれを権奸が政を乱した応報と考え、急ぎ上疏して厳嵩の罪を弾劾した。その概略は次のようである。

臣が伏して見るに、元旦に日食があり、変異は尋常ではない。また山東・徐・淮では相変わらず毎年大水があり、四方で頻繁に地震があり、災いは虚しく生じるものではない。昔、太祖高皇帝は丞相を罷め、その権を諸司に分散させられた。後世を慮って極めて深遠であった。今の内閣は、宰相の名はなくともその実があり、高皇帝の本意ではない。近ごろ夏言は貪暴の資質をもって、その間でほしいままに振る舞った。今、大学士厳嵩はまた佞奸の雄としてこれに継ぎ、寵を恃んで威を張り、権を窃み欲をほしいままにし、事の大小を問わず、みずから専断しないものはない。人に違忤する者があれば、必ず禍をもって中ち、百官は風を望んで息をひそめる。天下の事は朝廷に聞こえる前に、まず政府に聞こえる。事を白状する官は、その門に列をなして待ち、請託の賄賂は、その室に輻輳する。銓司の黜陟、本兵(兵部尚書)の用捨、みなその意旨を受けないものはない。辺境の臣が事を失えば、概ね軍資を削り取って厳嵩のもとに賄賂を納め、功なくして賞を受け、罪あって誅を免れることができる。宗藩・勛戚の襲封、文武大臣の贈謚に至っては、その遅速・予奪は、すべて賄賂の厚薄を見る。ひいては寵を求め進取を図る徒は、妄りにみずから貶損し、称号は倫を失い、廉恥は地に掃する。臣の忍びずして言うところである。

陛下は天縦の聖神として、乾綱を独り運ばれ、みずから予奪は宸断によるとし、題覆は諸司にあり、閣臣が旨を擬して裁決を取るに過ぎないとお考えである。諸司の奏稿は、みな厳嵩から命を受けており、陛下はどうしてこれを知ることができようか。今、夏言は誅せられ、厳嵩が悪を播くことができるのは、夏言は剛暴で浅はかであり、悪が現れやすく、厳嵩は柔佞で機微が深く、悪が知り難いからである。厳嵩の窺伺逢迎の巧みさは、忠勤のように見え、諂諛側媚の態は、恭順のように見える。私党を引き立て要地に布列し、諸臣の動静を伺って先に発して制するので、敗露する者は少ない。左右の親信の者に厚く賄賂し、陛下の動静意向は、すべて先に得るので、旨に適うことが多い。あるいは聖意の注ぐところを伺い、それによって行ってその私を成し、あるいは事機の会するに乗じ、これに従って鼓してその毒をほしいままにする。陛下がこれを考えれば、その端緒は朝廷に発し、天下がこれを指せば、その事は政府によらないようにする。幸いに聖心によって洞察されれば、諸司が代わって厳嵩の罰を受け、不幸にして後世に伝われば、陛下が代わって厳嵩の過ちを受けることになる。陛下は誠に厳嵩を賢者とお思いか。厳嵩が政を輔けて以来、ただ恩讐を酬い、ただ貨賄を斂めるのみである。群臣は陰に中たれる禍を憚り、忠言を敢えて直陳せず、四方は貪墨の風に習い、閭閻は日に愁困する。

近ごろ庚戌の変以来、外寇が跳梁している。陛下はかつて天下の武勇を募って兵を充足させ、天下の財力を竭くして糧餉を給し、天下の遺逸を搜して将に任じ、順序を超えた賞を行い、測り難い威を施し、内外に示された。しかし封疆の臣はついに陛下の宵旰の憂いを寛げる者がいない。権臣が私を行い、将吏が風靡し、掊克を務めとし、営競を能とするためである。朝廷の上では、用いる者は賢ならず、賢者は用いられず、賞は功に当たらず、罰は罪に当たらない。陛下が太平を致そうとすれば、群臣は左右で徳を承けるに足らず、戎寇を遏えようとすれば、将士は辺疆で侮を禦ぐに足らない。財用はすでに竭き、外患は未だ底寧を見ず、民困はすでに極まり、内変がまた将に作らんと虞れる。陛下は躬から至聖を秉り、万幾を憂勤すること三十二年、今に至る。しかるに天下の勢いその危うきことこの如し。厳嵩の奸邪によらなければ、どうしてここに至ることができようか。

臣は願わくば、陛下に上天の垂れる象を観、祖宗の立法の微を察し、権柄の移すべからざるを念い、紀綱の乱すべからざるを思い、直ちに厳嵩を斥罷して天変に応ぜられんことを。そうすれば朝廷は清明となり、法紀は振飭される。寇戎たとえ横暴なりとも、臣はその平げるに足らざるを知る。

この時、楊継盛は厳嵩を弾劾して重い譴責を受け、帝は言事者を待つに怒りを蓄えていた。周冕が冒功の事を争ってまた獄に下され、趙錦の上疏がちょうど届いた。帝は震怒し、その上に手批して、趙錦が天を欺き君を謗るとし、使者を遣わして逮捕処罰させ、また厳嵩を慰諭すること至れり尽くせりであった。ここにおいて趙錦は万里を経て就征し、たびたび檻車から落ち、死に瀕すること数度に及んだ。到着すると、詔獄に下して拷問し、四十回打ち、民に斥けた。父の趙塤は当時広西参議であったが、また劾を投じて罷免された。

趙錦は家に居すること十五年、穆宗が即位すると、故官に起用された。太常少卿に抜擢され、未だ上京せず、光禄卿に進んだ。江陰が毎年子鱭を万斤進上していたが、その半減を奏した。隆慶元年、右副都御史として貴州を巡撫し、叛苗の龍得鲊らを破り擒えた。宣慰使の安氏は平素桀驁であったが、趙錦を畏れて、命に效した。入朝して大理卿となり、工部左・右侍郎を歴任した。かつて部事を署理し、争って執るところがあった。

万暦二年、南京右都御史に遷り、刑部尚書に改めた。張居正が喪に遭うと、南京の大臣が上疏して留任を議した。趙錦と工部尚書の費三旸が不可として止んだ。礼部に移り、また吏部に移り、いずれも南京であった。趙錦は張居正が操切であるとして、頗るこれを訾議した。言葉が聞こえ、張居正は給事中費尚伊に趙錦が講学談禅し、妄りに朝政を議すると弾劾させ、趙錦は遂に休職を乞いて去った。張居正が死ぬと、給事中・御史が交えて推薦し、故官に起用された。十一年、召されて左都御史に拝された。この時、ちょうど張居正の資産を没収していた。趙錦は言う、「世宗が厳嵩の家を没収した時、禍は江西諸府に及んだ。張居正の私蔵は必ずしも厳氏に及ばないであろう。もし搜索を加えれば、三楚に害を遺す恐れがあり、江西の民の十倍であろう。かつ張居正は確かに権を擅にしたが、異志があったわけではない。沖聖を翊戴し、夙夜勤労し、中外寧謐であった功も、また泯すべからざるものがある。今、その官蔭・贈謚および諸子の官職をことごとく褫革したことは、すでに懲しめを示すに足る。乞う、特に哀矜し、その罰を稍く寛められんことを」。聞き入れられなかった。

二品六年満ち、太子少保を加えられ、まもなく兵部尚書を加えられ、院事を掌ることはもとどおりであった。趙錦は御史の封事で採用すべき数条を摘出し、旨を請うてこれを行わせた。四川巡按の雒遵は趙錦を恨み、条奏にかこつけて趙錦を奸臣と指弾した。御史の周希旦・給事中の陳与郊は雒遵を是とせず、交章して論列し、遂に雒遵を外任に調とした。帝が山陵に幸すると、再び勅を奉じて居守した。その冬、継母の喪により帰郷した。十九年、召されて刑部尚書に拝された。七十六歳であり、再び辞したが、許されなかった。蘇州に次いで卒した。太子太保を贈られ、端肅と謚された。

趙錦は終始清操を励み、王守仁の学を篤く信じ、人を教えるには躬行を本とした。王守仁が孔廟に従祀されたのは、趙錦の力によるものであった。初め厳嵩に忤い、重禍を得た。貴州に赴任する時、厳嵩の郷里を通り、厳嵩が路傍に葬られているのを見て、惻然としてこれを憫み、有司に属して護視させた。後に張居正に忤って罷官し、張居正が資産没収されると、またこれを営救した。人はこれをもって趙錦を長者と称した。

吳時來

吳時來、字は惟修、仙居の人。嘉靖三十二年の進士。松江推官に任じられ、府事を摂行した。倭が境を犯すと、郷民が妻子を携えて城に趨ったが、時來はこれを悉く受け入れた。客兵は獷悍で剽掠を好んだが、時來は恩をもってその長を結び、犯せば即ち法を行い、嘩する者無し。賊が城を攻め、驟雨により城が数丈崩れた。時來は勁騎をもってその衝を扼し、急ぎ版築を興し、三日にして城は再び完うし、賊は乃ち棄て去った。

刑科給事中に擢げられる。兵部尚書許論・宣大総督楊順及び巡按御史路楷を弾劾して罷免させた。皆厳嵩の私人であり、嵩は之を甚だ疾んだ。将に琉球に使を遣わさんとするに会い、遂に時來を以て命じた。三十七年三月、時來は抗章して嵩を劾して曰く、「頃者陛下赫怒し、事を僨せる辺臣を逮治し、人心欣快ならざるは莫し。辺臣が軍実を朘き、執政に饋るは罪なり。執政その饋を受けて、奸を朋び上を罔くす、独り罪無きを得んや。嵩は政を輔くること二十年、文武の遷除、悉く其の手より出づ。潜かに子世蕃をして禁所に出入せしめ、章奏を批答せしむ。世蕃因って権を招き威を示し、公卿を頤指し、将帥を奴視し、筐篚苞苴、輻輳して山積の如く、猶饜足すること無し。親しき者萬寀を用いて文選郎と為し、方祥を職方郎と為し、一事を行う毎、一官を推す毎、必ず先ず世蕃に稟命して後に奏請す。陛下但だ議の部臣より出づるを知るのみ、豈に皆嵩父子の私意なるを知らんや。他の事は具論せず。趙文華・王汝孝・張経・蔡克廉及び楊順・吳嘉會の輩の如き、或いは死を免れんことを祈り、或いは官を遷さんことを祈り、皆民膏を剝ぎて以て私利を営み、官帑を虚しくして以て権門を実にす。陛下已に其の一二を洞見せり。言官、給事中袁洪愈・張墱、御史萬民英の如きも亦嘗て屡之に及べり。顧みるに多くは旁指微諷し、直ちに嵩父子を攻むる者無し。臣窃に謂う、悪を除くは本を務むべし。今辺事振わざるは軍の困に由り、軍の困は官の邪に由り、官の邪は執政の貨を好むに由る。若し嵩父子を去らずんば、陛下宵旰憂労すと雖も、辺事終に為す可からざるなり」と。

時に張翀・董傳策が時來と同日に嵩を劾した。而して翀及び時來は皆徐階の門生、傳策は則ち階の邑子、時來は先に又松江に官した。ここにおいて嵩は階の主使を疑う。密かに三人が同日に構陷するは必ず人之を主る有り、且つ時來は乃ち琉球の行を憚り、端を借りて自ら脱せんとす、と奏す。帝其の言を入れ、遂に三人を詔獄に下し、厳に主謀者を鞫う。三人は死に瀕して承わず、第に「此れ高廟の神靈臣を教えて此の言を為さしむるのみ」と言う。主獄者は乃ち三人相いを主使と為すを以て讞上す。詔して皆煙瘴に戍せしめ、時來は横州を得た。

隆慶初め、召して故官に復す。工科給事中に進む。治河の事宜を条上し、又譚綸・俞大猷・戚繼光を用いて薊鎮に当たらしむべく、専ら辺兵を練り、諸鎮の征調を省くべしと薦む。帝皆之に従う。鄖陽を撫治す。僉都御史劉秉仁劾せられ且つ調用せられんとす。時來、秉仁が太監李芳を薦むるは大臣の節無しと言い、秉仁遂に坐して罷まる。帝喪を免じて既に久しく、臨朝して未だ嘗て発言せず。時來保泰九劄を上る。報聞有り。尋いで順天府丞に擢げられる。

隆慶二年、南京右僉都御史に拝され操江を提督す。移って広東を巡撫す。将に行かんとし、所属の有司を五十九人まで薦む。給事中光懋等其の濫挙を劾す。会に高拱吏部を掌り、雅に時來を喜ばず、雲南副使に貶す。復た拱の門生給事中韓楫に劾せられ、職を落として閑住す。

萬歷十二年、始めて起ち湖広副使と為る。俄に左通政に擢げられ、吏部左侍郎を歴る。十五年左都御史に拝される。誠意伯劉世延悪に怙り、数えて朝令に抗す。時來之を劾し、所司に下して訊治せしむ。時來初め直を以て竄せられ、声朝端に振う。再び折挫に遭い、十余年沈淪す。晚節自ら堅くする能わず、執政の間に委蛇す。饒伸・薛敷教・王麟趾・史孟麟・趙南星・王繼光に連ねて劾せられ、時來も亦連ねて休を乞いて帰らんとす。未だ都を出でずして卒す。太子太保を贈られ、謚して忠恪と曰う。尋いで礼部郎中於孔兼に論ぜられ、謚を奪わる。

張翀

張翀、字は子儀、柳州の人。嘉靖三十二年の進士。刑部主事に授けられる。厳嵩父子の政を乱すを疾み、抗章して之を劾す。其の略は曰く、

窃かに見るに、大学士嵩は貴ぶこと則ち人臣極まり、富むこと則ち天下に甲たり。子は侍郎と為り、孫は錦衣・中書と為り、賓客は朝班に満ち、親姻は尽く朱紫たり。犬馬尚お主に報いるを知る。乃ち嵩は然らず。臣試みに辺防・財賦・人才の三大政を以て之を言わん。

国家の恃むところ屏翰と為す者は、辺鎮なり。嵩の政を輔くるより此れ、文武の将吏率ね賄より進む。其の始め名実を核せず、但だ関節を通ずれば、即ち与に除授す。其の後功次を論ぜず、但だ問遺に勤めれば、即ち超遷せらる。辺を修め堡を建つるに托名し、軍を覆す者は子を蔭し、殺を濫る者は官を転ず。公に詆欺を肆にし、相い販鬻を交わす。而して祖宗二百年防辺の計尽く廃壊せり。

戸部歳に辺餉を発す、本と軍を贍うを以てす。嵩の政を輔くるより此れ、朝に度支の門を出で、暮に奸臣の府に入る。辺に輸する者は四、嵩に饋る者は六。臣長安ちょうあん街を過ぐる毎、嵩の門下辺鎮の使人に非ざるは無きを見る。未だ其の父を見ずして、先ず其の子に饋る。未だ其の子を見ずして、先ず其の家人に饋る。家人厳年は富むこと已に数十万を逾ゆ、嵩家は知るべし。私蔵充溢し、半ば軍儲に属す。辺卒凍餒し、朝夕を保たず。而して祖宗二百年豢養の軍尽く耗弱せり。

辺防既に隳ち、辺儲既に虚し。人才をして陛下の用に足らしむるに使わば、猶お憂うるに足らざるなり。嵩の政を輔くるより此れ、名器を藐蔑し、私に囊橐を営む。世蕃は狙獪の資を以て、父の虎狼の勢に倚り、権を招き利を罔き、獣の攫み烏の鈔するが如し。恥知らざるの徒、絡繹奔走し、靡然として風と成り、狂易有るが如し。而して祖宗二百年培養の人才尽く敗壊せり。

夫れ嵩は険は以て人を傾け、詐は以て世を惑わし、弁は以て政を乱し、才は以て奸を済すに足る。己に附く者は諸膝に加え、己に異なる者は之を淵に墜す。天下の口を箝して言うを敢えさせず、而して其の悪日以て恣にする。此れ忠義の士、腕を搤み憤激し、深長の憂いを懐く所以なり。陛下誠に斥譴を賜いて以て衆憤を快くせば、則ち辺に沿う将士戦わずして気自ら倍し、百司庶府令せずして政自ら新たならん。

書奏し、逮えて詔獄に下し拷訊し、都勻に戍すことを謫せらる。

穆宗が位を嗣ぐと、召されて吏部主事となり、再び遷って大理少卿となった。隆慶二年春、右僉都御史として南・贛を巡撫した。管轄する万羊山は湖広・福建・広東の境に跨り、古来より賊の巣窟であり、四方の商民がその間に藍を栽培していた。この時、賊が出て掠奪し、翀は守備の董龍を遣わしてこれを討伐させた。董龍は山を捜索すると言い立てたので、諸々の藍作農家は大いに恐れた。賊はこれに乗じて扇動し、千余人を嘯聚させた。兵部は二鎮の撫臣に協議して撫剿の適宜を定めさせ、久しくしてようやく平定した。南雄の大盗黄朝祖が諸県を流れ掠め、転じて湖広を掠奪し、勢いは甚だ熾んじた。翀は討伐してこれを擒らえた。移って湖広を巡撫した。召されて大理卿に拝され、進んで兵部右侍郎となった。侍養のため帰郷した。

万暦初年、旧官に起用され、漕運を督した。召されて刑部右侍郎となったが、拝命せず、連章して休職を乞うた。家で卒した。天啓初年、兵部尚書を贈られ、忠簡と諡された。

董伝策

董伝策、字は原漢、松江華亭の人である。嘉靖二十九年の進士。刑部主事に除された。三十七年、疏を抗して大学士厳嵩を弾劾し、おおよそ次のように述べた。

嵩は悪を諳んじて国を誤る。陛下はその奸を洞燭されないことがあろうか。ただ輔政の故をもって、なお優容し、自ら省みて改めさせようとされている。しかし嵩は恬として戒めを知らず、恩に背くことますます深い。一日その位に居れば、天下は一日の害を受ける。臣はひそかにこれを痛む。

辺疆の督撫将帥が士卒の死力を得ようとすれば、必ず財用を資とする。今、諸辺の軍餉は歳費百万、強半は嵩に賂する。これにより軍士を饑疲させ、寇賊を深入させる。これがその辺防を壊す罪の第一である。

吏部・兵部の二部は選簿を持って嵩のもとに就き、填註させる。文選郎の万寀・職方郎の方祥は甘んじてその指使を聴き、卒隸と異ならない。都門の諺語はついに「文武の管家」と目するに至った。これがその官爵を売る罪の第二である。

侍郎の劉伯躍は木を採るために行部し、擅に民財及び郡県の贓罪を斂め、輦に載せて嵩の家に輸送し、前後絶えることがない。その他の有司が破冒攘敚し、嵩に献入するものは更に数えきれない。嵩の家の私蔵は、公帑より富んでいる。これがその国用を蠹す罪の第三である。

趙文華は罪によって放逐されたが、嵩はその囊橐の巨万を没収し、しかも人をして護送して南還させた。州県を恐喝し、私に民夫を役し、道路の駅騒を致し、公私煩費させた。これがその罪人に党する罪の第四である。

天下の藩臬諸司は、歳時の問遺に、動もすれば千を以て計り、勢い小民を掊克せざるを得ない。民財は日々尽き、嵩の資は日々積む。ここにおいて水陸の舟車に載せてその郷に還し、月として虚日なし。至る所で供億を要索し、勢いは虎狼の如し。これがその駅伝を騒がす罪の第五である。

嵩は久しく重権を握り、手を灸すれば熱し。幹進無恥の徒は、附亶して穢を逐い、麕集してその門に至る。士風を日に偷ませ、官箴を日に喪わしめる。これがその人材を壊す罪の第六である。

嵩は蔽欺を以てその専権を行い、生死予奪は惟だ意の為す所による。しかるに世蕃はまた無頼の子を以て、威を窃み悪を助ける。父子凶を肆にし、中外憤を飲む。かかる臣ありては、国法の容るる所ではない。臣、刑曹に待罪す、宜しく奸慝を詰むべし。陛下誠に厳氏を惜しまずして天下に謝せば、則ち臣亦何ぞ一死を惜しんで権奸に謝さんや。

疏が入ると、詔獄に下された。南寧に謫戍された。

穆宗が立つと、召されて旧官に復した。郎中を歴任した。隆慶五年、累遷して南京大理卿となり、進んで工部右侍郎となった。万暦元年、就いて礼部に改めた。言官が伝策が人の賄を受けたと弾劾し、免職されて帰郷した。下を律するに過急で、ついに家奴に害された。

鄒応龍

鄒応龍、字は雲卿、長安の人である。嘉靖三十五年の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。厳嵩が政権を擅にすること久しく、廷臣で彼を攻撃する者は常に禍を得たので、互いに戒めて敢えて言う者はいなかった。しかし応龍は帝の寵愛が既に密かに移っていることを知り、その子世蕃がますます貪欲で放縦であるので、攻撃して除くことができると考え、上疏して言った。

工部侍郎厳世蕃は父の権力を頼みにし、私利を専らにして飽くことを知らない。私的に爵禄と賞賜を擅にし、広く賄賂を贈り届けさせる。選挙の法を敗壊させ、市場の取引が公然と行われるようにした。群小が競って走り寄り、要求する価格はますます高額となった。刑部主事の項治元は一万三千金で吏部に転じ、挙人の潘鴻業は二千二百金で知州を得た。そもそも司や属官、郡の役人が千万で賄賂を贈るならば、それより大きな公卿や地方長官は、またどうして限度を知ることができようか。

平時に賄賂を取り交わし、その仲介をする者は百十余人を下らず、その中でも子の錦衣厳鵠、中書厳鴻、家人の厳年、幕客で中書の羅龍文が甚だしい。厳年は特に桀黠で、恥知らずの士大夫は彼を鶴山先生と呼ぶに至った。嵩の誕生日に遇うと、厳年は常に万金を献じて寿ぎとした。奴僕がこのように富み贅沢ならば、主人はどうであろうか。

嵩父子は本来袁州の籍であるが、広く良田美宅を南京、揚州に置き、数十所を数え、豪僕の厳冬にこれを主管させた。抑圧し侵奪し、民の怨みは骨髄に徹する。外地でこのように利益を貪るならば、郷里ではまたどうであろうか。

特に異様なのは、世蕃が母に喪に服した時、陛下は嵩が高齢であるため、特に留まって侍養させ、鵠に棺を扶けて南還させたことである。世蕃は却って狎客を集め、艶姫を擁し、常に舞い酣歌し、人倫は滅絶した。鵠の無知に至っては、祖母の喪を奇貨とした。到る所で駅騒ぎを起こし、あらゆる口実で要求し強請した。諸司は承奉し、郡邑は空となった。

今、天下は水害旱魃が頻繁に起こり、南北に多くの警報がある。しかるに世蕃父子は日に掊克を事とし、内外の百官は民の脂膏を搾り尽くして、彼らの欲望の穴を塞ぐ。民はどうして貧しくならないことがあろうか。国はどうして病まないことがあろうか。天と人の災変はどうして重なって到来しないことがあろうか。臣は世蕃の首を斬り市に懸けることを請い、以て人臣の兇横不忠の戒めとします。もし臣の一言が事実に反するならば、甘んじて顕戮を伏します。嵩は悪子を溺愛し、賄賂を招き権力を売るので、また急いで帰田させ、以て政本を清くすべきです。

帝は世蕃が喪中に淫らで放縦であることをかなり知っており、心の中で憎んでいた。ちょうど方士の藍道行が扶乩によって寵愛を得ており、帝は密かに輔臣の賢否を問うた。道行は乩の言葉を偽り、嵩父子が権力を弄ぶ様子を詳しく述べたので、帝はこれによって嵩を疎んじて徐階を任用した。応龍の上奏が入ると、遂に嵩を致仕させ、世蕃らを詔獄に下し、応龍を通政司参議に抜擢した。しかし帝は嵩を罷免したが、その玄功の修築を賛助したことを思い、気持ちがふさぎ楽しまず、手札で階に諭して言った、「嵩は既に退き、その子は既に罪に伏した。敢えて再び言う者は、応龍と共に斬るべし」。応龍は深く自ら危惧し、敢えて任に就かず、階の調護に頼って初めて視事した。御史の張槚が河東の塩務を巡視し、帝の意図を知らず、上疏して言った、「陛下は既に応龍を顕職に抜擢されましたが、王宗茂、趙錦らが大奸を最初に発したのに召されていません。これは煙突を曲げる者に賞を与えないようなものです」。帝は大いに怒り、直ちに捕らえて来させ、六十回杖打ち、民に斥けた。久しくして、世蕃が誅殺され、応龍はようやく安心した。

隆慶初年、副都御史として江西、江南の塩屯を総理した。工部右侍郎に転じた。雲南を鎮守する黔国公沐朝弼が驕慢で勝手であり、廷議で威望のある大臣を派遣して鎮めさせることとし、応龍を兵部侍郎兼右僉都御史に改めて雲南を巡撫させた。着任すると朝弼の罪を発覚させ、朝弼は遂に逮捕された。万暦に改元すると、鉄索箐の賊が乱を起こしたが、討伐して平定した。その後、番人の栂犭発が反乱し、土兵と漢兵を合わせて進討し、斬首と捕虜はそれぞれ千余人に及んだ。

応龍は才気があり、初め厳嵩を弾劾して名声を得、急に高位に至った。太常となった時、北郊で省牲を行い、東廠太監の馮保が伝呼して至り、導く者が引き入れると、正面で香を焚き、あたかも天子のようであった。応龍は大いに驚き、保の僭越と放恣を弾劾したので、保は深く恨んだ。この時、京察で自ら陳述したが、保がこれを阻み、致仕させた。臨安の土官普崇明、崇新兄弟が争いを構えた。崇明は広南の儂兵を引き入れて助けとし、崇新は交趾の兵を召し寄せた。その後、交趾兵は退いたが、儂兵はまだ留まっていたので、応龍は部将の楊守廉に往って剿討させた。守廉は村落を掠奪し、人を殺した。儂賊はこれに乗じ、再び官軍を破ったので、人々は応龍を咎めた。応龍は罷官を聞くと、後任を待たずに直ちに帰った。後任の王凝は自ら功としたいと思い、力を尽くして応龍を排斥した。給事中の裴応章は遂に応龍が事を敗ったと弾劾した。巡按御史の郭廷梧は元来応龍と仲が悪く、凝の言う通りに査勘した。応龍は遂に官籍を削られ、家で卒した。

十六年、陜西巡撫の王璇が言うには、応龍の没後、残された田は数畝に及ばず、残された屋敷は数楹に過ぎず、恤典が施されず、朝野の恨みとなっていると。帝は応龍の官を復し、祭葬を与えるよう命じた。

張槚

張槚は、江西新城の人である。嘉靖三十八年の進士。御史台に在って、敢えて直言した。穆宗の初年、官に復した。しばしば上疏して宦官に抗し、嘗て大学士高拱を弾劾した。拱が再び内閣に入り吏部を掌ると、槚は既に太僕少卿に転じていたが、不謹慎に坐して罷免され帰郷した。万暦年間、累官して工部右侍郎となった。

林潤

林潤、字は若雨、莆田の人である。嘉靖三十五年の進士。臨川知県に任じられた。事があって南豊に行った時、賊が突然到来したが、策を巡らしてこれを退けた。召されて南京御史に任じられた。厳世蕃が酒宴を設けて潤を招くと、潤は談論が風を生むようで、世蕃は心の中で畏れた。罷めて後、客に頼んで言わせた、「厳侍郎が君に謝する、当世の事を刺すなかれと」。潤は官に着くと、まず祭酒の沈坤が人を擅に殺したことを論じ、法に置いて処断させた。その後、副都御史の鄢懋卿の五つの罪を弾劾したが、厳嵩がこれを庇い、問わなかった。伊王の典楧が道に外れ、数回論列されても悔い改めず、潤は再びこれを糾弾した。典楧は累次上奏して弁明し、潤が私心を抱いていると誹謗した。部と科が交章して王が朝命に抗し、言官を脅したと論じた。世蕃がその賄賂を受け取ったので、詔を下して責めただけだった。潤はそこで宗室が繁殖し、歳禄が続かないことを言い、急いで変通を議するよう請うた。帝はこれによって所司に集議させた。

ちょうど帝が鄒応龍の言を用い、世蕃を雷州に、その党の羅龍文を尋州に流刑にした時であった。世蕃は家に留まって赴かなかった。龍文は一度流刑地に行っただけで、すぐに逃れて徽州に戻り、しばしば江西に往来して、世蕃と事を計った。四十三年の冬、潤が江防を巡視し、その状況を察知すると、馳せて上疏して言った、「臣が上江を巡視し、江洋の群盗を詳しく尋ねたところ、悉く逃亡軍人の羅龍文、厳世蕃の家に逃げ込んでいます。龍文は深山に居を構え、軒車に乗り蟒衣を着て、険阻を負って臣とならざる心があります。しかるに世蕃は日夜龍文と時政を誹謗し、人心を揺るがし惑わせています。近ごろは第宅を治める名目を借り、勇士を招き集めて四千余人に至ります。道路は騒然と恐れ、皆、変事が測り知れないと申しております。どうか早く刑罰を正し、以て禍の根本を絶たれますよう」。帝は大いに怒り、直ちに詔して潤に逮捕して京師に送るよう命じた。世蕃の子の紹庭は錦衣の官にあったが、命令を聞いて急いで世蕃に報せ、流刑地に行かせた。わずか二日で、潤は既に馳せて到着した。世蕃は急いで赴くことができず、械をかけて連行し、龍文もまた梧州から捕らえられて来た。遂に二人の諸々の不法な事を全て取り調べ、二人は遂に誅殺された。

潤はまもなく南京通政司参議に抜擢され、太常寺少卿を歴任した。隆慶元年、右僉都御史として応天諸府を巡撫した。属吏はその威名に慄き、皆震えおののいた。潤が着任すると、寛平を旨とし、多くの善政を施したので、吏民は皆喜んで従った。三年在任し、官にて卒した。年わずか四十であった。

潤の郷里の郡である興化が倭寇に陥落した際、特に上疏して三年間の租税免除と復興を請い、国庫の金を出して救恤した。郷里の人々はその恩徳を感じた。喪が帰郷する際、道を遮って四十里にわたり、位牌を設けて祭り哭すること凡そ三日に及んだ。

贊に曰く、世宗は庸懦の主ではない。嵩が宰相となって二十余年、貪婪の罪は満ち溢れた。諫言する者は踵を接して至り、斥逐され罪に伏して死するも、甘んじて飴の如くし、しかも君心の一悟を得ることができなかった。唐の徳宗が言う、「人、盧杞を奸邪と謂うも、朕は甚だ覚えず」と。各々その臣を賢しとし、一つの轍を踏むが如し、嘆ずるに勝えんや。世蕃の誅罰は、鄒応龍に発し、林潤に成る。二人の忠誠は、楊継盛に過ぎずといえず、その言の切直なるは、沈煉・徐学詩等に過ぎずといえず、しかも大悪人はこれによりて首を授けた。蓋し悪積もりて身を滅ぼし、鄒・林の弾撃は適時に会したるか。