明史

列傳第九十六 張芹 汪應軫 蕭鳴鳳 齊之鸞 袁宗儒 許相卿 顧濟 章僑 余珊 韋商臣 黎貫 彭汝實 鄭自璧 戚賢 劉繪 錢薇 洪垣 周思兼 顏鯨

○張芹 汪應軫 蕭鳴鳳(高公韶) 齊之鸞 袁宗儒 許相卿 顧濟(子章誌) 章僑 余珊(汪珊) 韋商臣 黎貫(王汝梅) 彭汝實 鄭自璧 戚賢 劉繪(子黃裳) 錢薇 洪垣(方瓘)(呂懷) 周思兼 顏鯨

張芹、字は文林、峽江の人。弘治十五年進士。福州推官に任じられる。正徳年間、召されて南京御史となる。寧夏が平定された後、大学士李東陽も官を進め子を蔭官された。張芹は抗疏して言う、「東陽は謹厚にして余りあるが、正直は足りず、儒雅は重んずるに足るが、節義は聞こえず。逆賊劉瑾が政を乱した時、東陽は顧命の大臣でありながら、始めにこれを抑えることができず、悪跡が既に明らかになった後も、力を尽くしてこれに抗することができなかった。へつらい従順し、ただその指図に従ったのみ。今、叛賊は平定されたが、東陽に何の力があろうか。功を冒して賞を受けるのは、どうして人心を服させられようか。乞う、直ちに罷斥を賜わり、その加恩を奪い、大臣にして君に事えて忠ならざる者の戒めとせられよ」。上疏が出ると、李東陽は涙を流して弁明できなかった。帝は張芹が名を売るものと責め、供述を命じた。張芹は罪を請い、俸給を三月間停止された。

給事中竇明が事を言って獄に下されると、張芹は上疏してこれを救った。帝が馬を馳せて怪我をした時、編修王思が切に諫め、遠方への戍りに坐せられた。張芹は言う、「彼は諫官ではないのに尚おこのようにする。我々は坐視していてよいのか」。遂に上疏して言う、「孟子は言う、『獣に従いて厭うことなきを荒という』と。老聃は言う、『馳騁田猟は、人の心を発狂せしむ』と。心狂い志荒らば、何事か忘れざらん。皆、甚だしく無益にして有害であることを言うのである。今、万乗の尊を軽んじ、危険を冒す。万一、避けがたいことがあれば、皇嗣未だ誕せず、宗廟社稷をどうするのか」。帝は省みなかった。

間もなく出て徽州知府となる。寧王宸濠が反乱を起こすと、言事者が張芹の家が江西にあることを理由に、賊がその親族を脅かすことを慮り、道を取って徽州を出た。そこで杭州知府に改められる。後に、再び徽州に戻る。嘉靖初年、浙江海道副使に遷る。右参政、右布政使を歴任する。海道の時に倭人が争貢して誤って住民を傷つけたことで坐し、罷免されて帰郷した。

張芹は継母に孝事し、身を保つに倹素であり、麻の袍と粗末な食事でその身を終えた。

汪應軫、字は子宿、浙江山陰の人。若くして志操有り。正徳十二年進士となり、庶吉士に選ばれる。十四年、詔して南巡せんとす。汪應軫は抗言する、「詔が下されて以来、臣民は傍徨し、固き志を持つ者なし。臨清より南は、業を棄て市を罷め、山谷に逃げ竄る。もし直ちに成命を収めなければ、不測の変が生ずる恐れあり。昔、谷永が漢の成帝を諫めて言う、『陛下は高美の尊号を厭い、匹夫の卑字を好む。数たび深宮を離れ、身を挺して晨夜し、群小と相逐う。門戸を典め宿衛を奉ずる者は、幹戈を執りて空宮を守る』と。その言は今に切中する。夫れ谷永は諧諛の臣、成帝は庸暗の主なり。永の言を成帝は容れた。どうして陛下の聖明をもって、直諫を俯して納れることができぬことがあろうか」。上疏が入るも、留中される。続いてまた修撰舒芬らと連章して請う。闕門に跪き、杖を受けてほとんど死に至る。

教習が終わり、給事中に擬して授けられようとした。旨有りて外官に補され、遂に出て泗州知州となる。土地は瘠せ民は惰り、農桑を知らない。汪應軫はこれに耕すことを勧め、桑を買って植える。江南の女工を募り、蚕の繅糸と織作を教える。これにより民は衣食足る。帝が南征する時、中使が道路で騒擾する。汪応軫は壮夫百余りを率いて水辺に列し、舟が至れば、即ちこれを引いて境外に出した。車駕が南京に駐蹕し、州に美婦で歌吹に善き者数十人を進めるよう命じた。汪応軫は言う、「州の子女は荒陋にして、勅旨に応えるものなし。臣が以前に募った桑婦がおります。請う、これを宮中に納れ、蚕事を伝授させられよ」。事は遂に止む。

世宗が践祚すると、召されて戸科給事中となる。山東で鉱山の盗賊が起こり、東昌・兗州を掠め、畿輔・河南の境に流入した。汪応軫は奏言する、「盗賊を鎮めるのは外寇を防ぐのと異なる。外寇を防ぐ法は、これを境外に駆り出すのみである。もし盗賊を鎮めながらこれを境外に放逐すれば、これは隣国に禍を嫁ぐものである。凡そ一方に警報有りて、これを撲滅せず、他境に蔓延せしめた者は、皆重く論ずべきである」。報じて可とされる。科に在ること歳余、上ったもの凡そ三十余疏、皆時弊に切るもの。便養のため、南官に改まることを乞い、遂に南京戸科に調ぜられる。張璁・桂萼が南京に在り、方に献皇帝を追尊することを議す。元より汪応軫の名を知り、これに依って自らを助けんと欲す。汪応軫は議に合わず、即ち奏請して礼経に遵い、正統を崇くし、以て人心を安んずることを請う。報いず。

嘉靖三年春、出て江西僉事となる。二年居り、疏を具して疾を引き、命を待たずして帰り、巡按に劾せられる。詔して所司に逮問せしむ。汪応軫は自ら陳べて親老で兄弟少なく、休んで侍養することを乞う。吏部がこのために請うて、乃ち逮問を免れる。久しくして、廷臣交々に推薦し、故官を起して江西学政を視る。父の喪に服して帰り、病没す。

蕭鳴鳳、字は子雝、浙江山陰の人。若くして王守仁に従い遊学し、郷試で第一となる。正徳九年進士となり、御史に授けられる。副使胡世寧が獄に下されると、抗章してこれを救う。同官内江の高公韶が王瓊が辺計を誤ったことを劾し、言う、「松潘副将呉坤が成都に総兵を増設することを請うと、王瓊は即ち呉坤を以てこれに任じた。花当は本来我が属衛であるが、日に憑陵す。本兵の人に非ざるによりて、小醜をして中国を軽んぜしむ」。王瓊は怒り、奏して公韶を訐る。中旨して公韶を責め、外蕃と陰に結び、間諜と交通したとし、実を首白せしむ。蕭鳴鳳は上疏して言う、「公韶が王瓊を劾するは、論ずる所は天下の事である。王瓊は憤りを逞しくして恣に弁じ、以て諫官の口を箝すべからず」。中旨して蕭鳴鳳を責め、党庇とし、公韶を富民典史に謫す。蕭鳴鳳はまた江彬が寵を恃んで恣肆し、蔓って図り難からんことを劾す。士論これに壮とす。間もなく山海諸関を巡視す。武宗が塞を出て虎を捕らえんとすると、蕭鳴鳳は疏して諫め、因って官司の掊克、軍民の疾苦の状を具陳す。報いず。疾を引きて帰る。

起用されて南畿学政を督む。諸生は以前の御史陳選に比し、「陳は泰山、蕭は北斗」と言う。嘉靖初年、河南副使に遷り、仍って学政を督む。考察の拾遺に坐して劾せられる。吏部はその学行を惜しみ、湖広兵備副使に調ず。明年また改めて広東学政を督む。蕭鳴鳳は三たび学政を督み、廉にして私無し。然れども性剛狠にして、憤りに肇慶知府鄭璋を撻つ。鄭璋は慚恚し、劾を投じて去る。これにより物論大いに嘩く。八年の考察に、両京の言官交々に章を論じ、坐して降調される。後に、鄭璋と相詰み訐る。皆して巡按御史に下り逮治せしめられる。蕭鳴鳳は遂に出ず。

高公韶は、正徳年間に御史となり、嘗て総兵官郭勛の罪を劾す。朵顔の花当が入寇すると、また総兵官遂安伯陳鏸・中官王欣・巡撫王倬を劾し、陳鏸は坐して職を解かれる。世宗が立つと、謫籍より起用される。右副都御史を歴任し、江西を巡撫す。終に戸部右侍郎となる。

齊之鸞は、字を瑞卿といい、桐城の人である。正徳六年に進士となり、庶吉士に改められ、刑科給事中に授けられた。十一年の冬、帝は京城の西の辺りに店舗を設けようとした。之鸞は上奏して言うには、「近ごろ花酒鋪を設けると聞き、あるいは車駕が臨幸なさるという説もあり、あるいは朝廷がその利を収めるという説もある。陛下は貴きこと天子、富めること四海に及ぶも、ついに錐刀の利を競い、倡優の館舎のごときをなさるのか」と。応州より捷報が奏上されると、帝は勅を下して、「総督軍務威武大将軍総兵官朱寿は寇を剿討して功あり、宜しく特に公爵を加うべし」とした。制が下ると、朝廷中が大いに驚いた。之鸞は諸給事中とともに上奏して言うには、「古より天子にも親しく戦陣に臨み禍乱を勘定する者ありしも、成功の後は、南面して賀を受け、これを金石に勒し、歌頌に播すのみにして、爵を加えて労を酬いること、今日のごとく顛倒するものはなかった。陛下が何の義を取られて、この不祥の挙に出で、天下の耳目を駴し、百世の譏笑を貽すのか知らない」と。

まもなく、編修王思、給事中張原・陳鼎、御史周広・高公韶・李熙・徐文華・李穏・施儒・劉寓生、僉事韓邦奇、評事羅僑を召還するよう請うたが、いずれも聞き入れられなかった。帝が辺境を巡ろうとし、再び自ら威武大将軍と称した。御史袁宗儒が疏を奉って諫め、大学士楊廷和・蒋冕・毛紀は去就をかけて争った。之鸞は同官とともに言うには、「三臣は師保の重きに居り、身は安危に係る。近ごろ先後を争って疾を称す。今、六飛が辺境に臨むこと一月を逾え、宗廟社稷百官万姓は空城の中に寄せられている。人心危疑し、幾務叢積するに、また門を杜って決然として去らんことを求む。万一事が倉卒に起こり、ついに僨敗に至らば、三臣は何の辞をもって天下に謝せんとするか。乞う、陛下は社稷を重しとし、急ぎ宸居に返り、大臣とともに治理を図られよ」と。やがて御史李潤らがまた争ったが、ついに省みられなかった。

之鸞は再び遷って兵科左給事中となった。中官馬永成が死ぬと、詔してその家の九十余人に官を授けようとした。之鸞は言うには、「永成は貴顕にして、事を用いること十余年、兄弟子侄は皆高爵美官なり。しかるにその輩がまた陳乞し、百人に及ばんとす。永成に何の功あって、恩このように濫んなる。恐らくは天下これを聞いて解体せん」と。帝が南巡しようとすると、之鸞は同官および御史楊秉中らとともに章を交えて力諫した。章が入って二日、報いがなかった。之鸞らはどうしてよいかわからず、闕に伏して命を待ち、辰の刻から申の刻までいた。帝は中官に命じて伝諭させ、ようやく退いた。明日、疾を托して朝を免じ、之鸞らの罪にしようとした。たまたま諸曹郎黄鞏らが章を聯ねて力諫したので、やめて行われなかった。しかし黄鞏らは獄に下され杖譴を受け、之鸞の輩も敢えて救うことができなかった。宸濠が反すると、張忠・許泰らが南征し、之鸞に命じて左給事中祝続とともに軍に従い功を紀させた。到着しないうちに、賊はすでに滅びた。群小は王守仁を忌み、百方に譖毀したが、之鸞は力めてその誣を白らかにした。張忠・許泰は広く逆党を捜索し、無辜を株引したが、之鸞は多くこれを開釈した。かつ田租を蠲め、力役を停め、逋負を寛めるよう請い、帝は多くこれを採り入れた。初め徐姓を冒していたが、この時至ってようやく復した。

世宗が践祚すると、まず上疏して言うには、「祖宗の法制は、悉く群小によって紛更された。補救の道は、先ず聖志を定め、次に言路を広むにあり。先朝の元兇は去りたれども、根據盤互し、連蔓滋多にして、なお巧みに相営結し、或いは定策の賞を邀え、或いは迎扈の労を仮りて、憐を取らんとし寵を固めんとするを恐れる。天下の事、豈に輩の更に壞すに堪えんや。言者は久しく権奸に遏えられ、忠鯁懣憤の気を吐かんと欲すれば、必ず忌諱を顧みず、ついに耳に逆らうに至る者あらん。嘉納して優容するに在り。若し稍々抑裁すれば、則ち小人またこれに乗じて忠直を讎とす。言路一たび塞がれば、復た開くべからず、大いに新政の累と為らん。陛下誠に近年の乱政を挙げ、尽くその初めに返さば、中興の烈は立って睹るべし」と。帝はこれを嘉納した。また許泰および兵部尚書王憲を劾し、二人はついに譴責を受けた。

その秋、京官の大計があり、中傷されて崇徳丞に謫された。たびたび遷って寧夏僉事となった。饑民が蓬の実を採って食としていたので、之鸞は二封を取って、一つは帝に進め、一つは閣臣に贈った。かつ時事の憂うべき者三、惜しむべき者四を言い、言葉は極めて切直であった。帝はこれを所司に付した。時に大いに辺墻を修築しており、之鸞は役を監督した。巡撫胡東臯はその能を称え、自ら代わる者として挙げた。河南・山東副使を歴任し、順天府丞に召された。赴任せず、盗賊が起こり、留まって鎮撫した。まもなく河南按察使に擢げられ、官に卒した。

袁宗儒は、字を醇夫といい、雄県の人である。正徳三年に進士となり、御史に授けられた。十二年冬、帝は大同におり、郊祀のために回鑾しようとしたが、やがてまた止めた。宗儒は同官を率いて力諫した。明年の夏、孝貞純皇后が葬られようとし、帝は京に還った。宗儒らはまた災異を引き、力めて皇店を罷め、辺兵を遣わすよう請い、さらにまた帝の辺境巡幸を諫めた。言葉は極めて危切であった。いずれも報いられなかった。大理寺丞に擢げられた。嘉靖三年に「大礼」を争い、廷杖を受けた。右僉都御史を歴任し、貴州を巡撫した。吏部尚書桂萼が宗儒の改調を議し、ついに職を解かれて帰った。まもなく鄖陽に起用され、山東に改められた。属吏が饑饉を救う術なく、これを覚察できなかったことに坐し、罷免された。推薦により左副都御史に起用され、蹕に扈従して承天に至り、京に還って卒した。

許相卿は、字を伯臺といい、海寧の人である。正徳十二年に進士となった。世宗が立つと、兵科給事中に授けられた。宦官張鋭・張忠が罪ありて死を論ぜられたが、帝はまたこれを寛めた。給事中顧済が疏を奉って争うと、帝は所司に議を下し、ついにその死を寛めようとした。相卿は言うには、「天下は陛下を孝皇たらんことを望む。陛下奈何ぞ自ら正徳を以て処せられん」と。帝が興献帝に皇号を加えようと議すると、相卿はまたこれを争った。

嘉靖二年、詔して中官張欽の義子李賢に錦衣世襲指揮を蔭させようとした。相卿は言うには、「于謙の子冕は錦衣千戸に止まり、王守仁の子正憲は錦衣百戸に止まる。李賢は中官の廝養にして、反ってこれを過ぐ。忠勛大臣の裔は曾て近幸の奴に若かず、殉国勤事の臣誰か解体せざらん。部臣彭沢、科臣許復礼・安磐相継いでこれを言うも、悉く拒んで納れず。内侍を重んじて士大夫を軽んずるに毋からんや」と。

まもなくまた上疏して言う、「天下の政権は一より出づれば治まり、二三より出づれば乱る。公卿大夫参議すれば治まり、匪人僭幹すれば乱る。陛下継統の初め、老成を登用し、忠讜を嘉納し、僥倖を裁抑し、憸邪を竄殛し、明且剛と謂うべし。未だ再期せずして、偏に私昵を聴き、秕政亟に行われ、明少しく蔽われ、剛少しく遜り、操権未だ其の術を得ずして、陰に伺い旁より窃む者、中に居て之を制すを得たり。崔文の如きは左道を以て上を罔くし、師保台諫之を言うも聴かず。羅洪載は職を守りて逮系せられ、廷臣疏七十上するも行わず。近く又崔文の奴を庇い法司の守を奪い、林俊を斥けて以て旨に違うとし、言官の奏擾を怒る。事中人に渉れば、曲く温旨を降し、法を犯しても罪せず、請乞必ず従う。此れ正徳朝と何ぞ異ならんや。俊は国の望なり、其の去るや志決せり。俊去らば、俊に類する者は必ず留まらず。陛下将に二三の近習私人と共に天下を理めんとするか。今日の天下は先朝と異なり。武宗の時、勢已に阽危なりしも、然れども元気猶ほ壮にして、調剤適宜、以て立起すべし。何ぞや。孝宗の沢を承くればなり。今日病稍く蘇るも、而して元気已に竭き、調剤方無く、将に至らざるに至らんとす。何ぞや。武宗の乱を承くればなり。伏して願わくは深く乱機を察し、政柄を収還し、文輩を取りて重典に置き、然る後に学を務め賢に親しみ、讒を去り色を遠ざけ、忠言を延訪し、民隠を深く恤れ。務めて宮府一体、上下同心ならしめ、然る後に天下為すべし」と。同官趙漢等も亦皆文を以て言う。帝終に聴かず。未だ幾ばず、給事中李学曾・章僑・主事林応驄皆事を言いて俸を奪わるるに因り、復た上疏して諫む。帝の気驕り志怠り、過愆を甘んじて蹈むを指す。詞甚だ切なり。

給事中として三年、言う所皆聴かれず、遂に病を謝して帰る。八年、詔して病を養うこと三年以上都に赴かざる者は、悉く職を落として閑住せしむ。相卿遂に廃す。夏言故に同僚と相善し、既に政を秉るや、之を招くも、謝して応ぜず。

顧済、字は舟卿、昆山の人。正徳十二年進士。行人を授けられ、刑科給事中に擢てられる。武宗南都より還り、豹房に臥病し、惟だ江彬等侍るのみ。済言う、「陛下孤寄すること外に在り、両宮隔絶し、骨肉日々に疎し。恃みて以て安んずる所と為す者は、果たして何人ぞや。漢高帝数日臥病し、樊噲闥を排し、趙高の事を以て警む。今群臣中豈に噲の憂い有る者無からんや。願わくは陛下廷臣を慎み択び、更番して入直せしめ、起居動息咸らく之を聞かしめよ。一切淫巧戯劇、生を傷け徳を敗るの事、悉く屏絶を行えば、則ち保養道有り、聖躬自ずから安んぜん」と。報せず。再び月を逾えて帝崩ず。

世宗即位の月、済上疏して曰く、「陛下践阼し、弊を除き諫を納れ、臣民踴躍し、徳化の成るを見んと思えり。然れども立法は難からず、守法は難し。諫を聴くは難からず、諫を楽むは難し。今新政の厘むる所、多く奸豪権悻に便ならず。臣恐らくは盤拠既に深く、玩縦未だ已まず、宮闈に依怙せずんば、必ず左右に請托せん。法を固くせずんば、則ち此の輩将に叢聚して之を壊さん。此れ守法の難きなり。唐太宗貞観初、毎に群臣を導きて言わしむ。晚年に至りて、諫する者乃ち多く旨に忤う。陛下首めて言路を辟き、臣工靡くこと事に因りて忠を納れず。高遠なる者は迂闊に渉るに似、切直なる者は或いは顔を犯すに過ぐ。若し其の顔を犯すを怒らば、其の言必ず入らず。迂闊と視なば、則ち計必ず行わず。此れ諫を楽むの難きなり」と。尋いで復た言う、「内臣張雄・張鋭等、先帝を詿誤し、業已に逮治せられ、又た寛仮を獲たり。願わくは大義を断じて、俾く奸を售す所無からしめよ」と。帝頗る嘉納す。既にして又た司礼蕭敬の鋭等を党庇し、而して三法司会訊依違し、大臣の節無きを劾す。聴かず。帝興献帝に皇号を加えんと欲す。済言う不可なりと。尋いで侍養を請いて帰り、数歳を越えて卒す。

子章誌、嘉靖三十二年進士。累官して南京兵部侍郎に至る。進奉馬快船の額を減ずるを奏し、南都の人之を祀る。

章僑、字は処仁、蘭渓の人。正徳十二年進士。行人を授かる。嘉靖元年礼科給事中に擢てられる。疏して中官蕭敬・芮景賢等を劾す。又た言う、「三代以下正学は朱熹に如くは莫し。近く聰明才智有りて、異学を倡え以て号令し、天下好高務名の者靡然として之を宗とす。陸九淵の簡便を取り、朱熹を支離と詆す。乞う行いて天下に、痛く禁革せしめよ」と。御史梁世驃も亦之を言う。帝為に詔を下して申禁す。

尋いで又た請う、祖宗の故事に依り、早朝班退き、百官を許して以て次に事を啓せしめよ。経筵日講には清問を賜い、密勿大臣は勤めて召対せよ。又た儒臣十数人を簡び、更番して便殿に直らしめ、以て咨訪に備えよと。上其の言を納るも、而も用うる能わず。奸人何淵太廟の東北に世室を立てんことを請う。僑力言して其の不可なるを言う。未だ幾ばず、又た言う、「織造内臣を添設し、貪横殊だ甚だし。行戸至って産を廃し子を鬻ぎて以て償う。惟だ急ぎ停革し、天下と更始せんことを」と。疏入り省みず。又た条列して営務を言い、定国公徐光祚・陽武侯薛倫の職に不たるを劾す。倫遂に任を解く。尋いで張璁・霍韜等を斥けんことを請う。聴かず。

孝陵司香谷大用京に還り疾を治めんことを乞う。僑言う、「大用初め逆瑾に連なり、後寧・彬を引き、『八党』の兇を樹て、十六年の禍を醸し、至って先帝其の終を正するを得ず。若し早く遏絶せざれば、恐らくは間を乗じ隙を伺い、群兇競い起ち、復た天下を乱さずんば止まざらん」と。章下る所の司に。呉廷挙家居の大臣を召して礼を議せんことを請う。僑其の陰に邪説に附するを劾す。孟秋時に太廟を享け、帝京山侯崔元を遣わす。僑言う、「命を奉じて臨時に、倉皇として位に就く、誠敬何くにか存せん」と。帝怒り、其の俸を二月奪う。歴て礼科左給事中。出でて衡州府を知り、終に福建布政使。

余珊、字は徳輝、桐城の人。正徳三年進士。行人を授けられ、御史に擢てられる。庶吉士許成名等教習を罷め、翰林に留まる者十七人。珊以て濫りと為し、疏して之を論ず。語内閣に侵す。納れず。乾清宮災う。疏して弊政を陳べ、極めて義子・西僧の謬を指す。長蘆を巡塩し、中官の奸利事を発す。誣わる所と為り、械して詔獄に系がれ、安陸判官に謫せらる。移りて澧州を知る。

世宗立ち、江西僉事に擢てられ、梅花峒の賊を討平す。遷りて四川副使、威・茂に兵を備う。嘉靖四年二月詔に応じて十漸を陳ぶ。其の略曰く、

陛下には堯・舜・湯・武の資有りて、稷・契・伊・周の佐無く、時事漸く克終えざる者有ること十。

正徳間、逆瑾権を専にし、仮子政を乱し、紀綱の何の物たるを知らず。幸いに陛下起きて之を振う。未だ幾ばずして事楽に因循し、政多く茍簡、名実乖謬し、宮府異同し、紛泄沓たり。朝廷に在りと為すも朝廷に在らず、宮省に在りと為すも宮省に在らずと為し、遂に天子其の心を以て心と為し、百官万民も亦各其の心を以て心と為すに至る。此れ紀綱の頽るる、其の漸一なり。

正徳年間、士大夫は廉恥心に乏しく、権門に趨り附き、幸い陛下が立ち上がってこれを正された。ところが今では、以前に去った者がまた来て、来た者が去らない。かつて浮沈を繰り返した者を抜擢して銓衡を掌らせると、まずは柔弱でへつらう者を取る。富貴を重んじて名誉を軽んじる者を、位に列ねさせ、諂諛が風となり、廉恥の道が薄れる。甚だしいのは、侯伯が糾弾を専断し、罷免された官吏が礼楽を議することである。市門が再び開かれ、商売が依然として行われている。これが風俗の壊れで、その兆しの二である。

正徳年間、国柄が下に移り、王威が振るわず、それ故に安化・南昌の変があり、陛下が立ち上がってこれを整え粛清された。ところが塞上の戍卒は近ごろますます驕り恣にしている。かつて許巡撫を殺しては姑息し、近ごろは遂に張巡撫を殺しては倣う。かつて賈参将を縛っては威を示し、近ごろはまた桂総兵を縛っては怨みに報いる。これにより、榆関の妖賊がこれを倣って主事を殺害し、北辺の庫吏がこれを真似て県官を害するに至った。陛下は鄙陋な儒者の姑息の談に惑わされ、俗吏の権宜の計に引きずられ、遂に廟堂の号令が二三の戍卒の口から出るようになった。これが国勢の衰えで、その兆しの三である。

逆賊劉瑾以来、賄賂で将帥を買い替えたため、辺防はことごとく壊れ、幸い陛下が立ち上がってこれを厳しくされた。しかし積弊は久しく、急には回復できない。今、朵顔が遼海で徘徊し、羌戎が西川で跳梁し、北狄が沙漠を蹂躙している。寇の勢いはまさに盛んで、肉食の徒は早く見通して制御の方策を急いで求めず、かえって鎮静の虚名を借りて、無能の実態を覆い隠す。甚だしくは偽って戦功を飾り、濫りに賞賜を求め、虚しく労績を誇張し、峻しく官階を取るので、塞上の多事は日増しに甚だしい。これが外裔の強さで、その兆しの四である。

逆賊劉瑾以来、天下の脂膏をことごとく権貴の室に送り込んだため、劉・趙・藍・鄢の乱があり、幸い陛下が立ち上がってこれを保護された。ところが近年以来、黄紙(詔書)では免除し、白紙(地方の文書)では徴収を催促する。額外の徴収は、鶏や豚にまで及ぶ。織造の需要は、自ら商賈となる。江・淮では母子が食い合い、兗・では盗賊が横行し、川・陜・湖・貴は供給・兵糧に疲弊する。田野では飢えた声が上がり、生きる楽しみがない。これが国家の根本の揺らぎで、その兆しの五である。

正徳朝、士大夫は禍を蒙り、家国はほとんど空となり、幸い陛下が立ち上がってこれを収録された。ところが間もなく、狂った盲目の言葉が、一たび鳴れば直ちに斥けられる。昔はまだ外任に左遷されたが、今はあるいは辺境に流配される。昔はまだ終身禁錮であったが、今は殿陛で鞭打ち死に至る。呂柟・鄒守益らが去って殿閣が空となり、顧清・汪俊らが去って部寺が空となり、張原・胡瓊らが死んで言路が空となってからである。間には一二の忠直な士がいるが、また権奸に排擠されて遠ざけられ、通じさせないので、陛下の耳は騒がしく目は眩み、知らず知らずのうちに腐った魚の店にいるような状態になっている。これが人材の凋落で、その兆しの六である。

正徳朝、奸邪が次々と進み、忠諫が聞こえず、幸い陛下が立ち上がってこれを開通された。しかし時を経ずして、この風潮がまた現れる。心を降ろしてもその憤りを懲らしめず、耳に逆らうとあるいは顔色を動かす。他人の言葉を断ち切って人を言で折らずとも、即ち憶測で人を詐りと疑う。朝に一封を進めれば、暮には千里に投げられる。甚だしきは三木を首に、九泉に涙を呑む。これが言路の塞がりで、その兆しの七である。

正徳朝、忠賢が排斥され、天下はほとんど危うく、幸い陛下が立ち上がってこれを主持された。どうして一瞬の間に、邪悪な者が隙に乗じて起きることを期しただろうか。六芸を飾って奸言を繕い、『周官』を借りて漢の政を奪う。堅白異同、どちらともつかない。これは大奸は忠に似、大詐は信に似るからである。王莽が下士の日に真情を隠し、王安石が入相の初めに垢面したように。聖哲があっても、誰がこれを弁別できようか。臣は、正が邪に敵せず、群陰が日増しに盛んになることを恐れる。これが邪正の混濁で、その兆しの八である。

正徳の世、大臣は日に疎んぜられ、小人は日に親しまれ、政事が乖乱に至ったが、幸い陛下が統を継がれ、朝廷が再び親密となった。ところが大礼の議が起こって以来、たまたま聖意に合わない者は、譴責し、鞭打ちし、流罪にし、必ず一網打尽にしてやまない。これにより小人が窺い、巧みに発して奇しく中て、主君の好みに投じ、功名を求める。陛下は既に先入観を主とし、それに順えば合わないことがなく、逆らえば怒らないことがない。これにより大臣は顧み望み、小臣は畏れ懼れ、上下が乖戾し、次第に孤立し、天地交泰の風が止む。これが君臣の隔たりで、その兆しの九である。

正徳の世、天鳴り地震し、物の怪や人の妖が、かつて虚しい年がなく、幸い陛下が統を継がれ、災異が始めて除かれた。ところが近年以来、雨雹が禽獣を殺し、雷風が樹木や家屋を抜き、婦人が両頭の子を産み、無極(地名)では昼が暗く夜のようであり、四方で旱魃や洪水があり、奏報が絶えず、どうして正徳の末と異なるところがあろうか。かつ京師の陰霾の気が、上は太陽に迫り、白昼冥々として、輝きが稀であり、特に畏るべきである。これが災異の到来で、その兆しの十である。

この十の兆しは、天子に一つあれば、四海を保つことはできない。陛下は聖明であるのに、どうしてここに至ったのか。もしかすると輔弼の臣が招いたのではなかろうか。窃かに見るに、今日の輔弼第一人者は、ただ奸佞をもって、伴食し恩を恃んでいる。上は天変を激しめ、下は民災を招き、中は物望を失うに至る。臣は逆に知る、彼は天下の第一流ではなく、陛下はかえって任用し信じ、魚が爛れるに至らなければやまない。願わくは急ぎその人を去り、文武兼備の才ある前大学士楊一清の如き、老成で重厚な今大学士石缶の如きを、改めて求め左右に置き、弊政を除き天下を治めることができるように。

臣はまた聞く、献皇帝は賢を好み士に下り、物を容れ人を恕し、天下の共に知るところである。今、礼を議する諸臣は、一言合わなければ、直ちに悖逆の罪を加える。謫配・死刑・流罪で、朝廷は空となる。これは果たして献皇帝の意であろうか。もしその意でなければ、たとえ天下をもって尊んでも、当たらない。陛下はどうして立ち上がってこれを用い、清廟に駆けさせ、献皇帝の在天の霊を慰められないのか。

上疏は反覆一万四千言、最も切実であり、帝はこれを所管の役所に付した。その斥くところの輔弼第一人者は、費宏を指す。

珊は自らを清く厳しく律し、官に在っては威厳と恩恵があった。父の喪で帰郷すると、士民が名宦として祠を建てた。後に副使胡東臯が祠に謁し、独り珊を見て嘆いて言った、「これ我が師なり」と。喪が明けて、元の官で広東に臨んだ。終わりは四川按察使であった。

先に、御史汪珊という者がおり、嘉靖元年七月に十の兆しを陳べる上疏をした。大略に言う、「陛下が初め即位された時、天下は欣然として治を望んだが、近ごろは次第に初めのようでなくなった。初めは毎事独断されたが、今は戚里や左右が、あるいは潜かに移し陰に奪う。初めは毎事大臣に諮問されたが、今は礼遇は厚いが、実意は日に疎んぜられる。初めは諸々の経によらぬ淫祠を罷めたが、今は少しずつ復活を議する。初めは玩好を屏絶されたが、今は教坊諸司が新声や巧伎を進める。初めは日に奏章を覧られたが、今はあるいは置いて省みず、直ちに左右に可否を決めさせる。初めは冗食冗費を厘革されたが、今は騰驤勇士を実査せず、御馬の実数を稽察できない。初めは錦衣衛の濫りを裁革されたが、今は大臣や近侍が迎立の功で世襲の蔭官を受け、旧邸の旗校がことごとく親軍に補される。初めは中官に罪があれば、成法で懲らしめたが、今は犯す者は多く死を赦され、挙朝争っても得られない。初めは中官に過ちがあれば再任用しなかったが、今は鎮守・守備が求め易え、幸いの門が再び開かれる。初めは諫言を流れる如く受け入れたが、今は政事の不便な者について、言官が論奏しても、直ちに『旨あり』と言い、自らを誇って人を拒む」。帝はその説をかなり受け入れた。間もなく、河南副使に出され、歴官して南京戸部右侍郎に至った。珊は、字を徳声といい、貴池の人である。正徳六年の進士。貴州巡撫の時、都勻の叛く苗を討って功があった。

韋商臣、字は希尹、長興の人。嘉靖二年の進士。大理評事を授かる。翌年の冬、商臣は「大礼」が初めて定まり、廷臣で吏に下され貶謫される者が日を空けずにいることを以て、乃ち上疏して言う、「臣の居る官は、獄を平らかにすることを職とする。乃ち任を授かって以来、窃かに見るに、群臣で礼を議して旨に忤うた者は、左遷では吏部侍郎何孟春一人、謫戍では学士豊熙等八人、杖斃では編修王思等十七人、中使に逆らって逮問された者は、副使劉秉鑒、布政馬卿、知府羅玉・査仲道等十人、失儀で就縛した者は、御史葉奇・主事蔡乾等五人、京朝官で所属の者に訐奏されて下獄した者は、少卿楽頀・御史任洛等四人。これらは皆甚だしく不平で、上は天象を干し、下は衆心を駭かす。臣は窃かにこれらは皆宥すべきであると思う。況んや比者、水旱疫癘、星隕地震、山崩泉湧、風雹蝗蝻の害が、殆ど天下に遍く、識有る者は寒心せざるはない。今に及んで庶獄を平反し、戍者の官を復し、死者の後を録し、逮系者の囚を釈し、告訐者の罪を正すことも、亦災を弭ぎ患を禳う一つの道である。」帝は沽名売直を責め、清江丞に謫し、量って徳安推官に移す。

河南僉事に遷る。永寧の巨寇を討平し、功を以て賞を受く。伊王が其の妃を虐殺するや、商臣は律の如く論ず。嘗て裏居の給事中杜桐の殺人罪を治む。桐は之を吏部尚書汪鋐に構う。甫に四川参議に遷るや、遂に考察を以て職を落として帰る。言官の薛宗鎧・戚賢・戴銑の輩、章を交えて救うも、納れられず。家に居ること数十年、卒す。

黎貫、字は一卿、従化の人。正徳十二年の進士。庶吉士に改め、御史を授かる。福建で巻を刷り、鎮守内官尚春の官帑を侵す状を劾し、悉く追還せしむ。世宗が入って継ぐや、貫は起居註の制を復することを請い、詞臣に命じて章奏を編類し纂述に備えしむ、之に従う。登極の詔書は四方の貢献を禁ずるも、後に鎮守の中貴は貢献を旧の如くす。貫上言して言う、「陛下の明詔甫に頒たるに、諸内臣は曲説して私を営み、恩を希い寵を固む。其の朝命を仮りて征取する者を額と謂い、而して自ら挟みて献する者を額外と謂い、百姓を罔虐し、朝廷の沢を壅して流れざらしむ、大信を昭かにし君徳を彰す所以に非ざるなり。」

嘉靖二年、帝は玉田伯蔣輪の請いに従い、承天に興献帝の家廟を立て、輪の子栄を以て祀を奉ぜしむ。貫言う、「陛下は一の諛臣の説を信じ、祀事を外戚に委ぬ。神は類に非ざるを歆まず、献帝は必ず将に之を吐かん。」聴かず。尋で疏を上して言う、「国初、夏秋の二税は、麦四百七十一万、而今損ずること九万。米二千四百七十三万、而今損ずること二百五十万。歳入を以てすれば則ち日減し、歳出を以てすれば則ち日増す。乞うらくは所司に勅し、祖宗以来の賦額及び今日の経費の数を通稽し、籍を列ねて上聞せしめよ。賦入の有限なるを知らば、則ち費用は容れざるを節せざるべからず。」帝嘉納す。

江西に出按し、父喪にて帰る。久しくして、故官を起す。会に帝が張孚敬の議に従い、孔子の王号を去りて先師と改称し、並びに籩豆佾舞の数を損ず。編修徐階は諫めて謫せらる。御製の『改正祀典説』を頒ちて廷臣に示す。而して孚敬復た『祀典或問』を作り、以て帝意に希合す。議已に定まるや、貫は同官を率いて疏を合して之を争う。帝震怒して言う、「貫等は朕が已に皇考を尊びて皇帝と為すと謂う、孔子は豈に反って王と称すべからざるや?奸逆甚だし。其れ悉く法司に下して按治せよ。」是に於いて都御史汪鋐言う、「比者言官の事を論ずるや、毎に衆を挟みて人を淩ぎて曰く『此れ天下の公議なり』と、倡うる者は一人に止まるを知らず。請うらくは倡議の人を究め、明らかに其の罪を正せ。」帝然る。已にして刑部尚書許賛等其の獄を上す、杖を贖って職に還るに当たるも、帝特命して貫を褫して民と為す。久しくして、家に卒す。

方に貫等が疏を上す時、礼科都給事中華陽の王汝梅も亦た同官を率いて抗論し、且つ言う、「陛下は万幾の余り、典礼に留神し、甚だ盛んなる挙なり。但だ事を生むの臣の風を望んで紛然として起るを恐る。今日は一議を献じて某の制は革むべしと謂い、明日は一説を進めて某の制は復すべしと謂い、国家此より事多からん。況んや祖宗の成法は、之を守ること百六十年、縦い少しく古に如かずとも、之に循って行うも、亦た過ちと為さず、何ぞ紛紛として事を更易せん。」帝奏を覧て、其の旨に違うを斥け、『祀典説』を以て之を示す。

汝梅、字は済元、行人より歴て礼科都給事中となる。八年二月、災異を以て言を求む。汝梅言う、「比来の章奏は多に逢迎す、請うらくは忠佞を分別し、諛言を信ずる毋れ。大臣の奏事は、近く多く留中す、請うらくは悉く之を公論に付せよ。人主の学は、詞命は重んずる所に非ず。今一事の行わるるや、動もすれば宸翰を煩わす、亦た少しく褻なり。宜しく祖宗の故事に倣い、時に平臺に御し、宰執を召見し、面して大議を決すべし。既に筆札の労を省き、且つ壅蔽の害を絶たん。」疏入りて、旨に忤う。夏言が天地を分祀するを請うに及び、汝梅復た同官と偕に力争す。尋で出でて浙江参政と為り、官に卒す。

彭汝実、字は子充、嘉定州の人。正徳十六年の進士。南京吏科給事中を授かる。嘉靖三年疏を上して言う、「九江の盗起こり、官軍を殺傷す。操江の伍文定は即ち剿を議せず、応城伯の孫鉞は兵を擁して出でず、俱に宜しく切責すべし。」帝並びに之に従う。呂柟・鄒守益が下獄するや、汝実は章を抗して救う。又た災異に因りて上言す、「邇者、黄風黒霧、春早冬雷、地震泉竭、沙を揚ぎ土を雨う。之に群小の盛長し、盗賊の公行し、万民の失業するを加う。木異草妖、時に時に見告す。天は上に変じ、地は下に変じ、人物は中に変ず。而して修省の詔は具文に過ぎず。廷陛の間、忠邪未だ辨ぜず、逢迎を以て礼に合すと為し、守正を以て直を沽うと為す。長鯨巨鮞は決綱して自ら如く、腴田甲第は横賜して已むこと無し。陛下の春秋は已に誌学を逾ゆるも、経筵の進講は略く問難無く、黄閣の票擬は常に依って批答す。燕閑を女寵に棄て、腹心を貂璫に委ぬ。二廖諸張は尚然として死を緩め、李隆・蘇晋は竟に他無きを得たり。此くの如くにして天意の回り、人心の感ずるを望むは、得べからざるなり。」

大学士費宏は子が事に坐して論ぜられ出でず、礼部侍郎温仁和は慶王臺浤の事を以て勘を聴く。汝実言う、宜しく二臣の位を避くるを聴き、以て進退の義を明らかにすべし。因りて石缶・羅欽順・顧清・蔣冕を薦めて宏に代うべく、李廷相・崔銑・湛若水・何瑭・許誥を薦めて仁和に代うべしとす。章を下して所司に付す。

奸人王邦奇が楊廷和・彭澤を誣告した際、汝實は言う、「邦奇は前後二通の上疏を呈し、初めは人心を惑わす言辞、終わりには卑猥な言葉を交えている。その中で引用した事柄は多くが事実を顛倒し混乱させており、費宏・石缶が夜に楊一清の門に入ったなどとまで言う。今、一清を召して問うことも聞かず、一清もまた久しく自らを弁明しないのは、何故か。陛下が即位された当初、廷和は数万の冗員を削減したが、これによって怨みを集めて罷免された。今、その長子の楊慎は狂愚の罪で流罪に処せられたが、これで十分であろう。しかるに群小は積年の恨みを抱き、延々とやまず、次子と婿までもまた獄に下す。誣告の律は、誣告した罪の軽重に応じて反坐させる、これが国法である。願わくは主使した者を追究し、告発者と同罪とし、苟も免れることを許さず、外蕃に笑いを残さぬように」と。聞き入れられなかった。

汝實はしばしば時政の欠失を言上し、またかつて「大礼の議」を力強く争い、張璁・桂萼らの憎むところとなった。親が老齢であることを理由に再び上疏して近地の教職への転任を請い、挙人高任説・王表を自らの代わりに推挙した。上疏が下されると、吏部は張璁・桂萼の意を受けて言う、「汝實は言論を唱えて衆を煽り、大礼を撹乱し、かつ御史方鳳・程啓充と朋党を結び賄賂を通じた。考察に容れられぬことを自ら知り、尊き地位を辞して卑しい職に就かんとし、その僥倖による免罪を聴くべきではない」と。そこで職を奪われ閑住させられた。程啓充及び徐文華・安磐と皆同郷であり、時に「嘉定四諫」と称された。

鄭自璧、字は采東、祥符の人、京師に籍を置く。正徳十二年の進士。庶吉士に改められ、工科給事中に任じられた。

世宗が即位すると、朝廷内外で時政を競って論じた。自璧は教化に関わるものを採録し、類別して書にまとめ、観覧に備えるよう請い、従われた。初め、正徳年間に宦官が多く民業を奪って荘田としたが、この時、民の訴えにより使者を派遣して調査させた。自璧はさらにその弊害を詳しく述べ、帝は調査する者に厳しく処置させ、民の患いはやや除かれた。嘉靖二年、皇后の父陳萬言が黄華坊に賜わった邸宅を辞し、西安門外の新宅を請うた。詔してこれを与えた。自璧は、請われた宅は既に民に売却されており、奪うべきではないとして、安磐と共に強く争った。聞き入れられなかった。翌年、「大礼の議」を争って杖罰を受けた。

三度転じて兵科都給事中に至った。宦官李能が墩堡修築を口実に、山海関の税額を定めることを請うた。宦官張忠・尚書金獻民らが甘肅の功を論じ、子に錦衣衛の世襲職を授け、その下の参随も皆位階を進めた。江西鎮守宦官黎鑒の参随が定員を超えた。宦官武忠の甥の武英が功を詐称し、副千戸に抜擢された。錦衣衛の官で削減された者の多くが縁故により復職し、司礼監が淘汰された諸工匠約五百人を再び採用するよう奏請した。孝陵の浄軍於喜が勝手に京に赴き上奏して弁明した。安辺伯許泰が流刑地で死に、その子が祖父の官職の世襲を請うた。宦官扶安・黄英が相次いで死に、その親族に官職が与えられた。自璧は皆これらに抗疏して争ったが、帝は多く聞き入れなかった。かつて同官とともに郭勛の奸貪を弾劾した。李福達の事件が起こると、また勛が妖人と交結したことを弾劾した。帝は郭勛のため、自璧を責める旨を下した。六年三月、宣府で失態があった。再び総兵傅鐸を弾劾し、併せて鎮守宦官王玳・巡撫周金・副将時陳らの罪に及んだ。傅鐸は逮捕審問され、時陳は官位を剥奪されたが、王玳・周金は功を立てて罪を償うよう責められた。礼部侍郎桂萼が辺境で王瓊を起用するよう請うた。自璧は同官を率い、御史譚纘らとともに王瓊の罪は追及して処罰すべきであり、桂萼は奸邪を引き入れているとして、併せて論ずるよう請うた。採用されなかった。

自璧は最も敢言であり、言上したことは皆権力者や寵臣に関わり、直諫の名声は朝野に響き渡った。これを疎ましく思う者たちが共に流言を飛ばし、上聞に達した。吏部が年功により太僕少卿に推挙したが、用いられなかった。この時、科道官が共に弾劾し、中旨により二階降格、外任に転じさせられ、ついに江陰県丞に左遷された。命令が下ると、大臣はその去ることを喜び、救う者はいなかった。後に廷臣がしばしば推薦を論じたが、ついに召還されなかった。

戚賢、字は秀夫、全椒の人。嘉靖五年の進士。帰安知県に任じられた。県に蕭総管廟があり、報賽(神への報謝の祭り)のない日はなかった。ちょうど長く旱魃が続き、賢が祈禱しても効果がなく、木偶を河に沈めた。数日後、舟がその地を通りかかると、木偶が舟の中に躍り込んできて、舟中の者は皆驚いた。賢はゆっくりと笑って言った、「これはただ焼かれなかっただけだ」と。急いで焼かせた。密かに健壮な隷を岸傍の社に潜り込ませ、戒めて言った、「水中から人が出てきたら、枷をかけて連れて来い」と。やがて、果たして数人を捕らえた。これは奸民が泳ぎの巧みな者を雇ってやらせたことであった。

知府萬雲鵬は部下を操るのに厳しく、賢はしばしばこれに逆らった。上計(官吏考課)に当たり、萬雲鵬を誹謗する者がいて、罷免されようとしていた。賢は吏部に走ってその冤罪を訴え、雲鵬はついに免れることができた。しかし尚書桂萼だけはひそかに賢を異才と認め、喪に服した後、唐県知事として起用された。吏科給事中に召された。

十四年春、外吏の大計(大規模な官吏考課)が行われることとなった。大計で罷免された者は、例として永久に任用されないが、この時、時事を論じた諸臣が権臣の意に逆らい、多くは計典(考課制度)を口実に追放された。賢は事前に、罷免される者の中に不当な者がいるならば、言官の論救を聴くべきであると上言した。帝は善しとし、その請いを容れた。ちょうど参議王存・韋商臣が時事を論じて要人に逆らい、前給事中葉洪が汪鋐を弾劾して左遷されていたが、果たして罷免の名簿の中にあった。賢はちょうど陝西で事実調査中であり、給事中薛宗鎧が賢の上疏を根拠に救済を訴えた。吏部は認めようとせず、帝はついに取りやめを命じた。賢が朝廷に戻ると、汪鋐が恣意に横暴なのは、実は張孚敬が庇っているからだとし、その罪状を列挙して言った、「輔臣張孚敬は腹心を布いて吏部の権を操り、利害を懸けて言官の口を封じている。即ち考察一事を見よ。陛下は臣の言葉を曲げて聴き、その冤罪を雪ぐことを許されたのは、正に大臣が私を行わぬよう防がれたのである。今、言官が葉洪らを弁護救済しようとすれば、孚敬は曲がりなりにも冢臣(吏部尚書)を庇い、巧言をもって阻止する。陛下には堯・舜のような人を知る明があり、輔臣は伯鯀が命令に背いた罪を負っている。放流の刑典は備わっている。ただ陛下の威断に俟つ」と。帝は内心賢の言葉を称賛したが、張孚敬・汪鋐の意に逆らうことを重んじ、葉洪らはついに復職しなかった。

再び喪に服して去った。刑科都給事中に補された。夏言が国政を執ると、ちょうど庶吉士を選ぶこととなり、私情を挟まぬわけにはいかなかった。賢は請託の弊害を上疏して陳べ、帝はその言を容れた。久しくして、郭勛が天下に遍く貪り食らっていることを弾劾した。太廟が火災に遭うと、再び郭勛及び尚書張瓚・樊繼祖らを弾劾し、一方で聞淵・熊浹・劉天和・王畿・程文徳・徐樾・萬鏜・呂柟・魏校・程啓充・馬明衡・魏良弼・葉洪・王臣を任用に堪えると推薦した。夏言はますます不愉快に思い、帝の怒りを煽り、賢は山東布政司都事に左遷された。推薦された者たちは皆俸給を削減された。

賢はまもなく父が老齢であることを理由に自ら免職を請うた。郷里に帰ること十数年、卒した。賢は若くして王守仁の学説を聞き、心に契合した。浙江に官した時、遂に弟子の礼を執った。

劉繪、字は子素、一字は少質、光州の人。祖父の劉進は太僕少卿であった。繪は背が高く髯を長くし、磊落として奇気を負っていた。撃剣を好み、力は六石の弓を引いた。郷試で第一を挙げ、嘉靖十四年の進士に及第し、行人に任じられ、戸科給事中に改められた。

二十年、詔して両京の言官に辺境の人才を会薦させた。給事中邢如默らが毛伯温・劉天和ら二十人を推薦し、故御史段汝礪・副都御史翟瓚・参議王洙もその中にあった。繪は言う、「汝礪は大学士翟鑾の姻戚であり、瓚・洙は夏言が指示し、邢如默が群議を排して推薦した者である。相臣が権力を挟んで言官を抑え、言官が勢力を恐れて公議に背く。上下雷同することは、社稷の福ではない。乞う、翟鑾・夏言を罷免し、邢如默を罪に処し、私に徇い党を植える者の戒めとせられよ」と。帝はその言葉を是とし、邢如默を外任に出した。夏言はちょうど政務を罷めていたが、翟鑾は問わずに置かれた。

翌年、寇が大挙して山西に侵入した。繪は上疏して言う、「俺答は今まさに強盛であり、必ずや腹心の患となるであろう。議者は守るべし戦うべからずと謂い、この故に辺将は多く自らを全うし、あるいは残騎を拾って首功を報ずる。督巡の諸臣もまたただ士馬を列ね要害を守るのみで、名は清野と曰い、実は鋒を避く。名は険を守ると曰い、実は自衛するなり。専ら翟鵬を任じ、便宜の処置を為すを得しめられよ。宣府・大同・山西の士馬を馳せ発し、合わせて十七八万人とすべし。三路並び挙げ、進む有りて退く無し。寇多く雖も、日を計って平らぐべし」と。帝はその言を壮とす。鵬に便宜を仮することを令し、都指揮以下を戮するを得しむ。然れども鵬は竟に塞を出づること能わず。頃くして、山西巡撫劉臬が夏言に結び納まることを劾し、且つ吏部尚書許瓚・宣府巡撫楚書の罷免を請う。臬・書はここによりて職を去る。

繪は二度にわたり言を劾す。言はこれを憾み、重慶知府として出される。土官が地を争い相讎う。檄を以て諭せば、即ち定まる。上官交えて薦む。然るに言が再び政府に入り、言者に属してこれを論じて罷めしむ。家に居ること二十年、卒す。

子の黄裳、兵部員外郎。倭が朝鮮を陥す。侍郎宋応昌の軍務を賛画することを命ぜらる。鴨緑江を渡り、平壌に抵り、大いに賊兵を破る。賊遁ぐ。黄裳はこれを追撃し、又連ねてこれを破る。功を録し、郎中に進む。

錢薇、字は懋垣、海塩の人。嘉靖十一年の進士。湛若水に師事す。行人に官し、泊然として自ら守る。同年の生蔣信らと朝夕学を問う。礼科給事中に擢でらる。将帥の家丁に塞下の田を自ら耕するを得しめ、その賦を徴すること無く、総督大臣に便宜を仮し、閫外を専制せしむることを請う。格して行われず。又疏を上して大学士李時・礼部尚書夏言・工部尚書温仁和・外戚蔣輪を劾す。

右給事中に進む。郭勛が鎮守内官の復活を請い、宿衛の将校を擅に易置す。薇憤り、その不法七事を疏す。帝は勛を眷顧すれど、素よりその横暴を知り、両者を問わず。已にして、星変に因り、主徳の失を極言す。帝深くこれを銜み、未だ発せず。南巡を諫める疏を上し、坐して俸を奪わる。内閣夏言らが選ぶ宮僚は、多く私に徇うを以て劾罷せらる。薇は同官の呂応祥・任萬里と偕に、会推の故事の如く、内閣九卿を集めて公挙することを乞う。帝は特命して並びに斥きて民と為す。累薦すれど、皆報い寝す。

郷里の後進を集めて講学し、足跡公府に及ばず。倭患起こる。巡撫王忬に請い、兵を集めて備えと為す。郷人これを徳とす。卒す、年五十三。隆慶初めに太常少卿を贈らる。

洪垣、字は峻之、婺源の人。嘉靖十一年の進士。礼部侍郎湛若水が京師にて講学す。垣はその門に師事す。永康知県に授けらる。征されて御史に授かる。十八年、世宗南巡し、皇太子を冊立す。閣臣夏言・顧鼎臣に命じて宮僚を選ばしむ。垣再び疏を上し、温仁和・張衍慶・薛僑・胡守中・屠応飐・華察・胡経・史際・白悅・皇甫涍らは皆庸流なり、青宮を輔導せしむべからずと言う。帝も亦た既に他の諫官の言に従い、数人を廃黜す。未だ幾ばくもなく、文選郎中黄禎が先に「選郎楊育秀に賄し、考功と為るを得たり。及び文選に居り、貪婪欺罔す。知州王顯祖らは考察して簡に調ぜられしに、大州を補う。知県何瑚は年六十を過ぐるに、御史に選ばる。皆制に非ず。今まさに京官を大計せんとす。乃ち猥瑣の曹世盛を以て考功郎と為し、国を誤ること甚だし」と劾す。帝はその章を都察院に下し、吏科と会して参核せしむ。乃ち禎を詔獄に下し、及び育秀・顯祖ら、咸く斥きて民と為す。因りて吏部尚書許贊・都御史王廷相を詰責し、十三道御史に令して隠年冒進の何瑚の若き者を公挙せしむ。御史王之臣ら坐して調ぜらるる者四人、世盛も亦た他部に改む。垣の一疏にして、御史・曹郎以下罪を得る者二十余人に至る。

出でて広東を按ず。安南が款附するに因り、俸一級を増す。未だ竣わらず、出でて温州知府と為る。歳饑う。糴を閉ざす者有り、饑民これを殺す。垣坐して職を落とし帰る。復た同里の方瓘と往きて若水に従う。若水は二妙楼を建ててこれらを居らしむ。家に食すること四十余年、年九十。

瓘は仕進を絶意す。嘗て広東より還る。同行の友瘴死す。舟中は例として屍を載せず。瓘は秘して以て告げず、同じく寝すること累日、韶州に至りて始めてこれを発つ。

垣の同年の呂懷、広信永豊の人、亦た若水の高弟。庶吉士より兵科給事中に授かり、春坊左司直郎に改め、右中允を歴て、南京翰林院事を掌る。毎に王氏の良知と湛氏の体認天理は同旨なり、その要は気質を変化するに在りと言う。『心統図説』を作りてこれを明らかにす。終に南京太僕少卿。

周思兼、字は督夜、華亭の人。少にして文名有り。嘉靖二十六年の進士。平度知州に除く。躬から郊野を巡り、藍輿の中に坐し、飯一盂を携え、郷民に令して次を以て舁ぎ行かしむ。因りて尽く閭閻の疾苦の状を得、悉くこれを蠲除す。王府の奄人が庄奴を縦して民産を奪う。監司は奴を杖ちて斃す。奄は王を迫って奏聞せしむ。巡撫彭黯は思兼に令してこれを讞せしむ。王は酒を置きて嘱する所有らんとす。竟席言うことを敢えず。思兼は獄詞を閲し曰く、「此れ決杖法の如くせず。罪は杖に当たる。王の故を以て、一等を加う。奄は誣告す。罪は戍に当たる。王の故を以て、末減す」と。監司竟に故秩に復すを得。旁郡の饑民食を掠む。所司これを急に持し、且つ乱を為さんとす。上官は思兼に檄してこれを治めしむ。小木牌数千を作り四郊に散じ、牌を執りて就撫することを令し、悉く銭穀を以て振い、事遂に定まる。入覲し、治行第一を挙げ、遷るに当たる。州人闕下に走りて以て請う。乃ち復た一年留まる。

工部員外郎に擢でらる。臨清の磚廠を督す。士民道を遮り泣いて送る。同年の生、貌思兼に類す。平度を経過せしむ。民競い走り謁す。是に非ざるを見て、各嘆息して去る。河将に決せんとす。思兼は民を募りて堤を築き、身赤日の中立つ。堤成ること三日にして秋漲大いに発す。民災を免る。郎中に進み、出でて湖広僉事と為る。岷府の宗室五人、封爵皆将軍、人を殺し貲財を掠む。監司武岡に入るを避くること二十年。思兼は奸状を廉得し、その党を縛し、悉くこれを獄に系ぐ。五人利刃を蔵して入る。思兼はこれと揖し、その臂を捫りて曰く、「吾れ将軍の百口のために計らん。将軍乃ち此の曹の為に死せんとするか」と。皆沮退す。乃ちその罪を列ねて奏聞し、悉く高墻に錮し、田宅子女を民に還す。内艱に遭い官を去り、復た出でず。久しく居りて、広西提学副使に起さる。命を聞かずして卒す。

顏鯨、字は応雷、慈溪の人。嘉靖三十五年の進士。行人に授かる。御史に擢でらる。出でて倉場を視る。奸人馬漢、定国公の勢を怙り、漕卒に子銭を貸す。償い時ならず、則ちその糧を没入す。怨家の訴うる所と為る。漢は定国の書を持ち至る。鯨立ちどころにこれを論じて殺す。四十一年、畿輔・山東西・河南北大いに饑う。鯨は州県の贓罰銀を京師に輸する毋からしめ、尽く粟に易えて備振と為し、且つこれを発すことを請う。内府の新銭を糴本と為す。帝悉く報可す。已にして、漕政便宜六事を上す。

翌年、河南に出按する。伊王典楧は悪を恃み、久しく掖廷の中官や厳嵩父子と結び、内外で応援し、請う奏は直ちに下り、爪牙は多く鉱盗であった。董鯨はこれを除かんとし、参政耿隨卿と計り、王の承奉王钅盬の罪を捉え、钅盬は日に王の謀る所を告げた。時に嵩は既に敗れており、鯨は乃ち徐階に奏記し、諸大珰を説いてその援を絶ち、又王の偵事飛騎を悉く捕えた。寇を防ぐと托言し、知府に檄して兵を分けて要害の地に屯せしめた。乃ち巡撫胡堯臣と会して典楧を劾し、抗旨・矯敕・僭擬・淫虐の十大罪を挙げた。王の護衛及び諸亡命は幾ばくも万人に及んだが、敢えて発せず。帝は震怒し、王を廃して庶人とし、高墻に錮し、その資を没収し、世封を削った。両河の人は鼓舞して相慶した。景王が国に就くに当たり、越境して民産を奪い庄田と為す。鯨はその爪牙を執って治めた。魏国公が民産を侵し、欽賜の名を仮りて樹碑して界と為す。鯨はその碑を仆ち、その人を戍らせた。錦衣帥は諸侠少の金を受け、名校尉こういを籍中に署し、民の害と為る。列侯が王府に使するに、道路驛騷す。王府の内官が進奉するに、龍舟に駕し、過ぐる所恣横なり。鯨は校尉の欠員は兵部より補い、冊封は文臣に改め、王府の進奉は属吏を遣わすことを請うた。詔して親王及び妃の冊封には列侯を遣わし、余は皆鯨の議の如くせしむ。

畿輔の学政を督するに改む。大興知県高世儒は詔を奉じて逃役を核す。都督ととく朱希孝は勾軍を以てこれを劾し、部に下して議せしむ。鯨は希孝の法を乱すを劾し、言う、「世儒等は籍に按じて行戸を召す、禁軍を勾すに非ず。これは乃ち禁軍の子弟家人が城社に倚り、禁衛の名を冒し、吏をして敢えて問わざらしむるなり。富人は詔に抗し得、而して貧者は溝中の瘠と為る。世儒に罪無く、罪は錦衣に在り」と。帝怒り、鯨を責めて勲臣を誣すとし、安仁典史に貶す。隆慶元年に歴り、湖広提学副使となる。恩貢生を試むるに張居正の指を失い、山東参議に降る。行太僕少卿に改む。都御史海瑞、鯨の異才を薦むるも、報えず。

鯨が河南を按ずる時、新鄭知県を黜す。その人は高拱の庇う所なり。湖広に在りて、王篆その父を郷賢に祀らんと欲すも、執って許さず。ここに至り、拱は吏部を掌り、篆は考功たり。遂に不謹を以て鯨の職を落とす。万歴中、給事中鄒元標・御史饒位、章を交えてこれを薦むるも、報え寝す。御史顧雲程言う、「陛下大いに遺佚を起すも、独り鯨及び管誌道を以て考察して之を格す。夫れ相と冢宰賢なれば、則ち幽を黜すは公典たり、然らずば則ち異己を駆除するのみ。近く又察せられたる呉中行・艾穆・魏時亮・趙世卿を用いるに登るも、独り鯨・誌道を靳くは何ぞや」と。給事中姜応麟・李弘道も亦之を言う。僅かに湖広副使を以て致仕す。中外論薦十余疏すも、果たして用いられず。

賛に曰く、伝に「未だ信ぜられずして諫むれば、則ち以て己を謗るとなす」と称す。然れども誌節の士は、惓惓忠愛す、何ぞ忍びて信ぜられざるを以て自ら其の君を外せんや。張芹等は悃忱を懐抱し、激昂して事を論ず。其の言は尽く用いられざるも、要するに緘黙する者と異なることなり。