○馬録(顏頤壽 聶賢 湯沐 劉琦 盧瓊 沈漢 王科)程啟充 張逵 鄭一鵬 唐樞 杜鸞 葉應驄(藍田 黃綰)解一貫(鄭洛書 張録)陸粲(劉希簡 王準)邵經邦 劉世揚(趙漢)魏良弼(秦鰲 張寅 葉洪)
馬録
五年、出でて山西を按ず。而して妖賊李福達の獄起こる。福達は崞の人。初め妖賊王良・李鉞の党に坐し、山丹衛に戍す。逃げ還り、名を午と更め、清軍御史に勾され、再び山海衛に戍す。復た逃れて洛川に居り、弥勒教を以て愚民邵進禄等を誘いて乱を為す。事覚え、進禄誅せらる。福達先に家に還り、免る。姓名を更めて張寅と曰い、徐溝の間を往来し、粟を輸して太原衛指揮使を得。子の大仁・大義・大礼、皆京師の匠籍を冒す。黄白術を以て武定侯郭勛に干し、勛大いに信幸す。其の仇薛良、録に訟う。按問して実を得。洛川の父老を檄して雑にこれを弁せしむ。益々信ず。勛、録に遺書して免れんことを祈る。録従わず、巡撫江潮と偕に獄を具えて以て聞かしめ、且つ勛の奸を庇い法を乱すを劾す。章下る都察院。都御史聶賢等、録の奏の如く覆し、力めて勛の逆に党する罪を言う。詔して福達父子を死に論じ、妻女を奴と為し、其の産を没し、勛に対状を責む。勛懼れ、恩を乞う。因って福達に代わりて弁ず。帝置いて問わず。時に給事中王科・鄭一鵬・程輅・常泰・劉琦・鄭自璧・趙廷瑞・沈漢・秦祐・張逵・陳臯謨、御史程啟充・盧瓊・邵豳・高世魁・任淳、南京御史姚鳴鳳・潘壯・戚雄・王献、評事杜鸞、刑部郎中劉仕、主事唐樞、章を交えて勛を劾し、罪連坐に当たると謂う。勛も累ね自ら訴え、且つ議礼にて衆怒に触るるを以て言と為す。帝心動く。勛復た張璁・桂萼を乞いて援と為す。璁・萼、素より廷臣の己を攻むるを悪み、亦た是を借りて宿憤を舒がんと欲し、乃ち諸臣内外交結し、端を借りて勛を陥れ、将に漸く及び諸の議礼者に及ばんとすと謂う。帝深く其の言に入り、而して外廷知らず、勛を攻むること益々急なり。帝益々疑い、福達等を取って京に至らしめ三法司に下して訊わしむるを命じ、既に又た文武大臣を会して更にこれを訊わしむるを命ず。皆異詞無し。帝怒り、将に親しく訊わんとす。楊一清の言に以て止み、仍て廷に下して鞫う。尚書顔頤寿等自ら堅くする敢えず、妖言律に改擬して斬とす。帝猶怒り、法司俱に罪を戴きて事を弁ずるを命じ、官を遣わして往きて録・潮及び前問官布政使李璋・按察使李玨・僉事章綸・都指揮馬豕等を械す。時に璋・玨已に都御史に遷り、璋は寧夏を巡撫し、玨は甘肅を巡撫す。皆下獄して廷訊す。乃ち前の獄を反し、良を抵して誣告の罪とす。
帝、罪の録に及ばざるを以て、怒り甚だし。璁・萼・方献夫を命じて三法司の事を分署せしめ、尽く尚書頤寿、侍郎劉玉・王啟、左都御史賢、副都御史劉文莊、僉都御史張潤、大理卿湯沐、少卿徐文華・顧佖、寺丞汪淵を獄に下す。厳刑推問し、遂に録の篋を搜りて、大学士賈詠・都御史張仲賢・工部侍郎閔楷・御史張英及び寺丞淵の私書を得。詠、罪を引きて致仕して去る。仲賢等も下獄す。萼等上言す、「給事中琦・泰、郎中仕、声勢相倚り、私を挟みて事を弾じ、録を佐けて人を殺す。給事中科・一鵬・祐・漢・輅、評事鸞、御史鳴鳳・壮・雄、同を扶けて妄に奏し、奸悪を助成す。給事中逵、御史世魁、方に寅の死に就くを幸い、勛の謀逆を誣うるを得、率いて同に連名し、声を同うして禍を駕す。郎中司馬相、妄りに事例を引き、故意に増減し、上を誣りて私を行う。邇者言官党を締めて勝を求め、内に則ち公卿を奴隷し、外に則ち司属を草芥し、情に任せて恣横す。殆ど一日に非ず。請う大いに乾断を奮い、国法を彰かならしめん」。帝其の言を納れ、並びに諸人を獄に下し、南京刑部に収系す。是に先立ち、廷臣会訊す。太僕卿汪元錫・光禄少卿余才、偶語して曰く、「此の獄已に情を得たり。何ぞ再び鞫わん」。偵する者萼に告ぐ。以て聞かしむ。亦た逮問す。
萼等遂に肆に搒掠す。録、刑に勝えず、自ら誣りて故に人を罪に入る。萼等乃ち爰書を定め、寅は福達に非ず、録等勛を恨み、冤獄を構成すと言い、因って諸臣の罪名を列す。帝悉く其の言に従う。極辺に謫戍し、赦に遇うも宥さざる者五人:璋・玨・綸・豕及び前山西副使遷大理少卿文華。辺衛に謫戍する者七人:琦・逵・泰・瓊・啟充・仕及び知州胡偉。民と為す者十一人:賢・科・一鵬・祐・漢・輅・世魁・淳・鳴鳳・相・鸞。職を革め閑住する者十七人:頤寿・玉・啟・潮・文莊・沐・佖・淵・元錫・才・楷・仲賢・潤・英・壮・雄及び前大理丞遷僉都御史毛伯温。其他巡按に下して逮問し職を革むる者、副使周宣等復た五人。良は死に抵り、衆証は皆戍し、寅は職に還る。録は故に人を死に入るるも未だ決せず、徒に当たる。帝以て軽しと為し、奸党律に坐して斬せんと欲す。萼等、張寅未だ死せずして、而して録之に代わりて死すは、恐らくは天下服さずと謂い、宜しく永く煙瘴の地に戍し、令して子孫に及ぼすべしとす。乃ち広西南丹衛に戍す。赦に遇うも宥さず。帝意猶未だ慊かず、楊一清等に語して曰く、「其れ後世に佼わるに与にすは、若くは誅を其の身に止むるにしかず。『舜典』の『罰は嗣に及ばず』の意に従わん」。一清曰く、「祖宗制律、成法を具す。録の罪は死律に中らず。若し法外に刑を用いば、吏将に縁りて奸を作し、人の手足を措く所無からん」。帝已むを得ず、之に従う。萼等の平反有功を以て、文華殿に労諭し、二品服俸・金帯・銀幣を賜い、三代の誥命を給す。遂に『欽明大獄録』を編して天下に頒示す。時に嘉靖六年九月壬午なり。十六年に至り、皇子生る。赦を肆う。諸の謫戍する者俱に釈め還る。惟だ録は赦さず、竟に戍所に卒す。
顔頤寿は巴陵の人であり、官に在って清廉な声望があった。
聶賢は長寿の人である。御史として清廉であった。官を奪われて五年、推薦により起用されて工部尚書となり、刑部尚書に改めた。致仕し、卒した。諡は栄襄。
劉琦は字を廷珍といい、洛川の人である。正徳九年の進士。嘉靖初年、行人より兵科給事中に授けられた。当時、京軍への冬衣の布や綿の支給が常に期限を過ぎていたが、劉琦の請いにより、ただちに劉琦に立って支給させた。李福達が洛川に逃れた時、劉琦はそのことを詳しく知っていた。事が発覚すると、劉琦は顛末を疏で陳べ、郭勛が逆賊に与したことを弾劾し、また御史張問行とともに郭勛が草場の租銀を侵盗したことを弾劾した。やがて馬録の獄が決着し、劉琦は人を殺すのを助けた罪に坐せられ、獄に下され、瀋陽に流戍した。十年を経て赦されて帰郷し、卒した。
盧瓊は字を献卿といい、浮梁の人である。正徳六年の進士。固始知県より入朝して御史となった。嘉靖に改元すると、上言した。「景皇帝には撥乱の大功があるのに、実録ではなお郕戾王と称している。敬皇帝には深仁厚沢があるのに、実録は焦芳の手によって成り、是非が顛倒している。儒臣に改撰を詔することを乞う。」帝はただ史官に『孝宗実録』の不適当な部分を正すことを命じたが、しかしまた正すところはなかった。出て畿輔を按察した。桂萼は台諫が己を排斥するのを憎み、京官の考察が完了した後、科道官に互いに糾弾させた。吏科都給事中の王俊民らが争い、盧瓊も同官の劉隅らとともに、互いに批難しあい報復することは盛世の事ではないと言った。帝は俊民と劉隅を厳しく責め、その俸給を五月分奪い、盧瓊らは皆三月分とし、部院に考課させた。盧瓊はついに郭勛を弾劾したことで辺境に流戍させられた。赦されて還り、卒した。
方に諸臣が罪を得た時、挙朝皆その冤罪を知っていたが、敢えて白状する者はいなかった。一月余り過ぎて、南京御史呉彦が独り抗章してこれを寛大にするよう請うた。上は怒り、外任に斥けた。已にして御史張祿もまたこのことを言上した。旨に逆らい、厳しく譲責された。ここより敢えて言う者はいなくなった。十一年、桂萼は既に死に、張璁もまた相を免じられ、聶賢と毛伯温がようやく起用された。張潤、汪元錫、李玨、閔楷もまた相次いで登用された。ただ台諫と曹郎には、ついに一人も召し復される者はなかった。隆慶初年、諸人は皆復職し官を贈られた。馬録はまず太僕少卿を贈られ、劉琦と盧瓊はともに光禄少卿、沈漢と王科はともに太常少卿を贈られた。
桂萼らが福達の獄を覆した時、挙朝桂萼らを正しからずとした。しかし薛寅と李福達の姓名が錯綜していたため、あるいは疑う者もいた。四十五年正月に至り、四川の大盗蔡伯貫が捕らえられた。自ら山西の李同に妖術を学んだと言った。所管の官が山西に檄を飛ばし、李同を捕らえて獄に下した。李同は李午の孫、李大礼の子であると供述し、代々白蓮教を習い、唐の子孫と偽称して衆を惑わし乱を倡え、大獄の記録の姓名と異なることがなく、李同はついに誅殺された。穆宗が即位すると、御史龐尚鵬が言った。「李同の獄に拠れば、福達の罪は益々明らかであり、当時縉紳に流毒した者は四十余人に及んだ。衣冠の禍は、惨烈と言うべし。郭勛は世々国恩を受けたのに、巨盗に与し、朝紳を陥れた。枢要の職にある者はその頤指に承け、鍛錬周内した。万一陰に異謀を蓄え、人人がその命令を聴いたならば、禍は言い尽くせない。郭勛らの官爵を追奪し、馬録ら諸人を優しく恤い、忠良の気を振るい起こすことを乞う。」ここにより、福達の獄は初めて明らかとなった。
程啓充
十一年正月元旦、群臣が待漏院に入り朝賀を待つも、日が暮れて礼が始めて成る。散朝する頃には既に夜となり、衆は奔走して出で、転倒し互いに踏み躙る。将軍趙朗という者は、禁門にて死す。啓充はその状況を詳細に奏上し、帝が明け方に臨朝して、明らかな治績を図るよう請うた。都督馬昂が身ごもった妹を進上すると、啓充らは強く諫争した。さらにまた、冗官・冗兵・冗費の弊害を極言し、一通りこれを廃止するよう乞うた。帝はいずれも省みなかった。騰驤四衛の軍が各衛に改編された者は、詔により撤回されたが、各衛の残された名籍はなお糧食を支給され、倉庫の蓄え八十七万余石を浪費した。啓充が強くこれを言上し、不正な支給の弊害は絶えた。憂いにより帰郷した。
まもなく出て江西を按察する。宸濠が蕭敬・張鋭・陸完らと通じた私書を得る。そこには孫燧を急ぎ除くべきこと、代わりは湯沐・梁宸が可、次いで王守仁も可とあった。これにより蕭敬・張鋭らの罪を論じ、併せて王守仁が逆党であるとし、追奪すべきと述べた。給事中汪応軫が王守仁の功を弁護し言う、「逆濠の私書は、詔により焼却された。啓充は軽信して罷免された知県章立梅の摘発の言葉を信じ、またこの上奏をした。功ある者を勧める道ではない」と。主事陸澄もまた王守仁のために弁明を奏上した。御史向信はこれにより汪応軫と陸澄を弾劾した。帝は言う、「王守仁は宸濠の変を聞くや、義に仗り兵を興し、大難を平定した。特に封爵を加え、大功に酬いる。更に議する必要はない」と。帝は太監梁棟の請いに従い、中官を派遣して南京の織造を監督させた。啓充は同官及び科臣張嵩らと共に極諫したが、聞き入れられなかった。
啓充は元来直言敢諫の士であり、張璁・桂萼はこれを憎んだ。折しも郭勛が李福達の獄を庇護したことを、啓充が弾劾した。張璁・桂萼はこれにより啓充が私怨を抱いていると指弾し、辺境の衛所に戍卒として流罪に処した。十六年に赦されて帰還する。言官が次々と推薦したが、再び用いられることはなく、そのまま卒去した。隆慶初年、光禄少卿を追贈された。
張逵
四年十一月、上疏して曰く、「近頃廷臣の上す封事に対し、陛下の批答には必ず『既に旨ありて処置す』とあり、これは既に行われたことは言うべからざるものなり。『尚ほ議処未だ定まらず』とあり、これは未だ行われざることは言うべからざるものなり。この二つを言わざれば、則ち終に言うべきこと無きに至る。且つ今日言う者は、既に陛下の初政の時とは比ぶべからず。初年には、事の大なるものは、既に会疏して公に言い、また各疏して独り言う。一つ行われざれば、則ち相聚い環視し、その言を得ざるを愧じとす。近頃は然らず、会疏すれば忌諱を削り除き以て禍を避け、独疏すれば微細を毛挙し以て責めを塞ぐ。一つ譴責を受けざれば、則ち交相慶賀し、苟も免かるるを幸いとす。讜直の気を消し、循黙の風を長ずるは、甚だ朝廷の福ならず」と。章は所司に下る。
まもなく右給事中に進む。王科・陳察が郭勛を弾劾すると、帝は慰留した。張逵は同官の鄭自璧・趙廷瑞と共に言う、「郭勛は奸に依りて横暴を成し、酷をもって貪を助け、貨財を籠絡し、営伍を漁獵し、妖賊李福達のために請託し、逆党陸完のために冤罪を雪ぐ。温旨を以て留任を諭すは、これ彼を表彰して放縦させるものなり」と。既にしてまた言う、「福達は愚民を誑惑し、兵を称して順に逆らう。郭勛は叛逆に与する党、その罪は誅するに容れず」と。聞き入れられず。
まもなく言事が旨に逆らい、呉江県丞に左遷される。さらに李福達の獄に連座して逮問され、遼東の辺境衛所に流罪となる。十年居住し、母の死に帰ること得ず、哀痛のうちに卒去した。隆慶初年、光禄少卿を追贈された。
鄭一鵬
鄭一鵬、字は九万、莆田の人。正徳十六年の進士。庶吉士に改められる。嘉靖初年、戸科左給事中に至る。一鵬は性質剛直、諫垣に在って最も敢言した。御史曹嘉が大学士楊廷和を論じ、併せて内閣の権柄が重すぎると言う。一鵬はこれを駁して曰く、「太宗が初めて内閣を立て、解縉らを選び政事を諮議せしめ、漏刻数十刻に下るまで退かず。陛下が即位されて以来、大臣の宣召幾たびかある。張鋭・魏彬の獄、献帝追崇の議、未だ嘗て楊廷和らを召し面論せず。その擬する旨は、内に多く更定あり、専断と謂うべからず」と。
帝は中官崔文の言葉を用い、乾清宮・坤寧宮諸宮、西天・西番・漢経諸廠、五花宮両暖閣・東次閣に斎醮を建て、これ無きところ無し。一鵬は言う、「祷祀が盛んに興るは、必ずや魏彬・張鋭の余党であろう。先帝は既に誤り、陛下は再び誤ることを容れられようか。臣が光禄寺を巡視した時、一つの斎醮の蔬食の費用が、銭一万八千に及ぶのを見た。陛下は民の怨みを集めるを忍び、佞幸の心を傷つけるを忍ばず。況んや今、天災頻りに降り、京師には餓死者の道に相望み、辺境の戍卒は日夜戈を荷い、飽食を得ず。しかるに僧道のために靡費ここに至るは、臣の未だ解せざるところなり」と。報聞に留まる。
東廠理刑千戸陶淳が人を曲げて殺し、流罪に論ぜられる。詔して再審させ、帯俸に改擬する。一鵬は御史李東らと共に執奏し、併せて刑部侍郎孟鳳を弾劾したが、帝は聞き入れなかった。給事中鄧継曾・修撰呂柟・編修鄒守益が言事により罪を得ると、一鵬はいずれも上疏して救った。
宮中の用度日々奢侈となり、天順時の数倍に及ぶ。一鵬は言う、「今年は災害で費用不足し、往々にして太倉を借り支える。しかるに清寧・仁寿・未央諸宮には、毎に余剰の蓄積あり、率ね戚里に饋遺す。いずくんぞ光禄寺の供給に留めて、母后の徳を顕わさざる」と。帝は乾清・坤寧二宮の費用を暫く十分の一減ずることを命じた。魯迷国が獅子・西牛・西狗・西馬及び珠玉諸物を貢ぐ。一鵬は漢が玉門関を閉じて西域を謝絶した故事を引き、辺臣に量りて賞賜を行い、国に遣り返し、京に入れざるよう、朝廷が遠方の物を宝とせざる盛徳を顕わすよう請うた。聞き入れられず。まもなく闕に伏して「大礼」を争い、廷にて杖罰に処せられた。
侍郎胡瓚と都督魯綱が師を督して大同の叛卒を討ち、功績の状況を列挙して上奏し、文武大臣・台諫・部曹および各辺境の巡撫・按察使・鎮守・監軍に遍く賞を頒つことを請うた。一鵬は言う、「桂勇が郭監らを誅したのは、胡瓚が未だ至らぬ先である。徐氈児らを誅したことは、事の起こりは朱振にあり、胡瓚とは関係がない。胡瓚は功を邀え賞を冒さんと欲し、衆口の非議を懼れて、乃ち並びに叙勲することを請うて彼らに媚びたのである。そもそも大同に難が構えて以来、大臣や台諫の誰かが陛下のために一策を画した者があろうか。孤城の窮寇なお多く逃れ去り、各辺境の鎮守・巡撫は数千里を隔てており、どうしてその犄角の勢いをなすことができようか」と。胡瓚らの欺罔の罪を治めることを請い、賞は遂に行われなかった。
時に諸臣の進言多く譴責を受ける中で、一鵬は時に詔旨の許可を得、益々発舒して事を言上した。楊宏が寧夏総兵官に推挙されるのは宜しからぬこと、席書が費宏を攻撃し、その弟の席春を修撰に留めるのは宜しからぬこと、王憲が貴近に縁故を求めて取り入り、鄧璋が甘粛で事を敗ったので、三辺総督に挙げるのは宜しからぬこと、服喪明けの尚書羅欽順・請告の祭酒魯鐸・謫せられた修撰呂柟は召して経筵に置くべきこと、廷臣が省親や養疾を乞うたのに一概に許さぬのは宜しからぬことなどを論じた。諸上疏はいずれも侃侃としていた。時に武定侯郭勛が虎賁左衛の地を得てその邸宅を広げようとし、指揮の王琬らに言わせて、衛の地は狭くて吏士が居住するに足らず、民の郭順なる者が己が宅をもって換えたいと願っていると言わせた。郭順は郭勛の家奴であり、その宅はさらに狭かった。一鵬は同官の張嵩とともに郭勛を弾劾し、「弊宅をもって公署と換えようとし、驕縱して上を欺いている。昔、竇憲が沁水園を改めたが、遂に叛逆の罪で誅された。郭勛が朝廷の武衛を奪おうと謀るその悪は、どうしてただ竇憲に比べるのみであろうか。部臣が勢いに附いて曲げて従ったのは、罪に坐すべきである」と言った。尚書趙璜らはこれにより自らを劾した。詔して換えた地を返還させたので、郭勛は甚だこれを恨んだ。而して一鵬はまた李福達の獄事をもって郭勛を弾劾したので、桂萼と張璁はこれにより妄奏の罪に坐せしめ、拷掠の上除名された。九廟の災いの時、言官が遺賢を会薦し一鵬をも挙げたが、結局再び召されることはなかった。久しくして卒去した。隆慶初年に官を復し、光禄少卿を贈られた。
唐樞
唐樞、字は惟中、帰安の人。嘉靖五年の進士。刑部主事に授けられる。言官が李福達の獄事をもって郭勛を交々弾劾したが、然し獄辞の要領を得なかった。樞は上疏して言う、
李福達の獄事について、陛下は再三にわたり審理を駁して下さり、誠に古の帝王の欽恤の盛んな御心である。然るに諸臣は陛下に背き、欺蔽する者はその讒言をほしいままにし、諂諛する者はその説を混ぜ、威を畏れる者はその言辞を変え、訪緝する者はその真実を淆す。これにより陛下の惑いはますます甚だしく、是非は遂に明らかにならない。臣は窃かに思うに、陛下の疑いには六つある。謀反の罪は重いから、疑わしい者に軽々しく加えるべきではないというのが一つ。天下の人には容貌の似た者がいるというのが二つ。薛良の言は聞くに足らぬというのが三つ。李玨の当初の牒文は明白であるというのが四つ。臣下が党を立てて郭勛を傾けようとしているというのが五つ。崞県・洛川の証人は皆仇敵であるというのが六つ。臣は逐一これを弁明したい。
福達が出た時、初めに王良・李鉞がこれに従ったが、その意図は何であったか。次いで恵慶・邵進禄らがこれを師とし、その伝えたことは何事であったか。李鉄漢の十月下旬の約束は、その行動は何を求めたか。「我に天分あり」という数語は、その心情は何を謀ったか。「太上玄天、垂文秘書」という言葉は、その文辞は何を指すか。庫を劫き城を攻め、旗を張り爵を拝したことは、邵進禄らによって成ったとはいえ、その根源はどこから来たか。李鉞は前に誅せられ、邵進禄は後に敗露し、反逆の状は甚だ明白である。故に陝西の人々は殺すべしと言い、山西の人々は殺すべしと言い、京畿の中には一人として殺すべからずと言わぬ者はなく、ただ左右の者だけが不可と言うが、それは臣の知らぬところである。これは疑う必要のない一つである。
且つ福達の容貌は最も識別し易く、或いは頭の禿げていることで検証し、或いは郷音で証拠立てて弁別する。例えば李二・李俊・李三はその一族であり、識っている。戚広の妻の口から発せられたのは、その孫が識っているのである。初めに杜文柱に認められたのは、その姻戚が識っているのである。韓良相・李景全に質証されたのは、その友人が識っているのである。一言高尚節・王宗美に言ったのは、鄜州の主人が識っているのである。再び邵継美・宗自成に言ったのは、洛川の主人が識っているのである。三たび石文挙らに言ったのは、山西・陝西の道路の人が皆識っているのである。これは疑う必要のない二つである。
薛良が悪に恃むのは、誠に善人ではない。しかしその言うところの張寅が即ち福達であり、即ち李午であるということは、実に明白な証拠があり、人を以て言を廃すべきではない。況んや福達の蹤跡は譎密で、黠慧人に過ぎ、人皆その術中に堕ちており、薛良が狡猾でなければまた彼の陰私を発くこともできなかった。これまで摘発し告げ口する事柄は、元より敦良樸厚な人から出る必要はない。これは疑うに当たらぬ三つである。
京師には四方から来る者が福達一人に止まらず、既に名を張寅と改め、また衣冠の形貌も似ているので、郭勛がこれに従って信じたのも、理の所有するところである。彼が妖賊の余党であることも、意料の及ばぬところであった。郭勛には自ら居るべき過失があるが、陛下は既に議貴の恩を弘められたのであり、諸臣にたとえ郭勛を傾けようとする心があっても、どうして罪を加えることができようか。これは疑うに用いない五つである。
獄を鞫うる者が誣告と言うならば、必ず何故に誣告したかを言わねばならぬ。仇敵と言うならば、必ず何事を仇としたかを言わねばならぬ。もし薛良が仇敵だと言うならば、一切の証人は仇敵ではない。韓良相・戚広が仇敵だと言うならば、高尚節・屈孔・石文挙は仇敵ではない。魏泰・劉永振が仇敵だと言うならば、今の布政使・按察使・知府・知県の官は仇敵ではない。山西・陝西の人が仇敵だと言うならば、京師の道路の人は仇敵ではない。これは疑うに用いない六つである。
願わくは陛下には六つの疑いを尽く釈き、福達の罪を明らかに正されたい。これにより庶幾くば群奸が跡を屏き、宗社の幸いこれに過ぐるはない。疏が入ると、帝は大いに怒り、民に斥けた。その後『欽明大獄録』は唐樞の上疏を削除して載せなかった。
樞は若くして湛若水に学び、深く造詣し実践した。また経世の略に心を留め、九辺および越・蜀・滇・黔の険阻な要害は、親しく歴訪しなかった所はない。草鞋を履き草を食み、老いても衰えなかった。隆慶初年、官を復した。年老いていることを以て、秩を加えて致仕した。時に高拱が徐階を恨み、徐階が先朝の建言諸臣を恤録したのは、先帝の過ちを顕わすものだと言い、悉く停止することを請うたので、唐樞は遂に録されなかった。
杜鸞
杜鸞、字は羽文、陝西鹹寧の人。正徳末の進士。大理評事に任ぜられる。嘉靖初め、闕に伏して『大礼』を争い、午門外で杖罰を受ける。長沙の盗賊李鑒が父の華と共に村落を劫掠し、華は誅せられ、鑒は逃れた。後に再び劫掠を行い、捕獲される。席書が湖広を巡撫していた時、知府宋卿が故意に鑒を罪に陥れたと弾劾した。帝は大臣を派遣してこれを審理させ、鑒に盗賊の事実ありと報告され、帝は鑒を京師に逮捕するよう命じた。席書が上言して言う、「臣は議礼で朝臣に逆らい、審問官は故意に臣と対立します。法司に命じて官を集め再審させてください」。そこで杜鸞は御史蘇恩と共に再審し、異なる供述はなく、上疏して言う、「席書は宋卿を憎むが故に李鑒のために弁護上奏し、かつ議礼を口実としています。大礼の議は、聖なる孝心より発せられたものです。席書はたまたま一言陛下の意に適い、動もすればこれを援用して陛下を挟み、群僚を圧迫します。政体を壊乱させること、これより甚だしいものはありません」。帝は席書の意に背くことを重んじ、ついに李鑒を死罪を免じて遼東に戍らせた。
既にして、また張寅の獄有り。杜鸞は刑部郎中司馬相、御史高世魁と共にその文書を扱う。杜鸞が上言して言う、「かつての李鑒の獄において、陛下は席書の言に従い、誤って恩を施して法を廃し、権幸たちはついに獄を売ることを常とし、請託は憚るところなくなりました。今また郭勛の謀が成ろうとしています。席書は『議礼によって怨みを招く』と言い、郭勛もまた『議礼によって怨みを招く』と言います。席書は『李鑒を殺して臣に仇をなそうとする』と言い、郭勛もまた『張寅を殺して臣に仇をなそうとする』と言います。聖聴を惑わすこと、まるで一つの口から出るが如し。陛下の尊親の盛典を以て、奸邪が覆い隠す深謀と為し、将に賄賂を公行せしめ、乱賊続発せしめんとす、聖朝の福ではありません」。やがて桂萼らが力を尽くして前の獄を覆し、杜鸞は除名の処分を受けた。
初め、席書が李鑒を寛大にしようとした時、給事中管律が言う、「近頃言事する者は、毎に議礼を借りて口実とす。或いは休職を乞い、或いは罪を引き、或いは人のために弁護訴える、議礼とは本来関わりないのに、動もすれば必ず援引牽附す、何ぞや。蓋し小人が人を中傷せんと欲すれば、これに非ざれば以て陛下の怒りを激しむるに足らず。而して自らの寵を固めんと欲すれば、またこれに非ざれば以て陛下の歓心を得るに足らざるなり。乞う、自今より言事する者に誡め、事に拠り直ちに陳べ、仮借すること無くして、以て聖徳を累わさしむるなかれ」。帝はその言を是とし、都察院に命じて百官に告示させた。二日を過ぎ、御史李儼が世廟の完成に際し、議礼により罪を得た諸臣の恤録を請い、且つ是非を詳らかに察することを請うて言う、「議礼は是にして行いは非なる者は、是を以て非を掩わず。議礼は非にして行いは是なる者は、非を以て是を掩わず。党与を全く消し、時に争い無からしめば、則ち大公の治なり」。間もなく、給事中陳臯謨もまた言う、「献皇帝追崇の礼は、実に陛下の至情より出づ。席書の輩は貪って己の功と為し、互いに党援し、情に恣に喜怒し、福を作り威を作る。李鑒父子の如きは、成案昭然たり。席書は曲げて申し救い、『衆、議礼を以て臣を憾み、因って鑒を死に陥る』と言う。議礼は朝廷の公典、合うと合わざる、何ぞ深く仇とすべき。仮令い席書を仇とすとも、李鑒は席書の子弟・親戚・交遊に非ず、何の故にか之を仇とせん。郭勛に至っては、奸人を党庇し、請託事露るれば、則ちまた奸人のために妄りに訴え、亦た議礼を以て衆怒を激すと言い、濫恩して法を廃するに至らざるは已まず、豈に大いに異ならずや。急ぎ席書・郭勛を斥け、李鑒を重典に置き、郭勛の請託事を窮めて按じ、人心をして然りと暁らしめ、権奸の恃むに足らざる、国法の干すべからざるを知らしめ、然る後に逆節潜かに消え、悻門永く塞がれん」。帝は聴かなかった。
葉応驄
給事中潮陽の陳洸は素より無頼。家居して知県宋元翰と相容れず、其の子の柱に命じて元翰を弾劾させ、謫戍せしむ。元翰は陳洸の罪及び帷薄の事を拾い集めて刊行し、『辨冤録』と名付く。陳洸はこれにより清議に歯せられず、尚書喬宇は之を出して湖広僉事と為す。陳洸は初め嘗て献帝を称皇すべからずと言えり。而して是の時、張璁・桂萼の輩は議礼により驟に顕る。陳洸は乃ち上疏して張璁らの議は是なりとし、急ぎ本生の称を去るべしとし、因って喬宇及び文選郎夏良勝を誹謗し、而して其の党の前給事中於桂・閻閎・史道、前御史曹嘉を称引す。帝は即ち陳洸らの職を還し、夏良勝を外に謫す。陳洸は遂に大学士費宏、尚書金献民・趙鑒、侍郎呉一鵬・朱希周・汪偉、郎中余才・劉天民、員外郎薛蕙、給事中鄭一鵬を悉く邪党として弾劾し、而して廖紀ら十五人を推薦す。俄かにまた吏部尚書楊旦らを弾劾す。帝は益々大いに喜ぶ。直ちに楊旦を罷め、廖紀を抜擢して之に代えしむ。張璁・桂萼の輩は遂に之を引きて異己を撃たしむ。給事中趙漢、御史朱衣ら交えて章を上り陳洸を弾劾し、而して御史張日韜・戴金・藍田は又特に疏を上り之を論ず。藍田は並びに席書を弾劾し、且つ元翰の『辨冤録』を封じて上る。都御史王時中は陳洸を罷めて勘問に聴かんことを請う。陳洸が奏す、「群奸、臣が大礼に抗議するを恨み、将に撫按に令して臣を殺さしめんとす。一錦衣を派遣せられんことを請う」。陳洸の意、錦衣は利で誘えるなり。旨を得て葉応驄及び錦衣千戸李経を派遣す。葉応驄は香を焚き天に誓い、御史熊蘭・塗相らと雑治し、具に陳洸の罪状百七十二条を上る。赦前及び曖昧なる者は論ぜず、当に論ずべきは十三条。罪悪極まり、斬に当たり、妻は離異し、子の柱は絞に当たる。陳洸懼れ、闕に逃げ至り申訴す。帝は葉応驄の奏を下さず。尚書趙鑒、副都御史張潤、給事中解一貫、御史鄭本公ら連章して執奏す。帝已むを得ず、始めて覆核を命ず。郎中黄綰は力を尽くして葉応驄の議を堅持す。席書・桂萼は間に入りて得ること能わず、張璁を要して共に奏し、陳洸は議礼の臣、法官に中せられたりと謂う。帝は其の言を入れ、罪を免じて民と為すことを命ず。大理卿湯沐及び趙鑒・解一貫は更に之を争うも、聴かず。未だ幾ばくもせず、「大礼」の書成り、並びに陳洸の妻子を原ゆ。葉応驄は間もなく吉安知府に遷り、母喪にて帰る。
六年、張璁・桂萼益々用いられる。而して桂萼は方に刑部を掌る。廷臣馬録らが郭勛を弾劾して獄に下る。陳洸はこの故案を乗じて覆すべしと謂い、上書して葉応驄らを訐る。桂萼は因って陳洸の冤を訟う。遂に陳洸・葉応驄・宋元翰・黄綰を逮捕し、而して按察使張祐らに還籍して命を待たしめ、詞四百人に連なる。九卿及び錦衣衛が廷訊す。葉応驄対して曰く、「某の持する所は王章のみ。必ずや陳洸を直さんと欲せば、諸公の命に惟る」。刑部尚書胡世寧らは心に陳洸の罪重きを知るも、前の大獄を懲り、敢えて執らざる。是の日、黄霧四方に塞がり、獄竟わず。次日、また大風木を抜く。詔有りて修省し、刑を用いず。乃ち葉応驄を事を按じて実ならざる律に当て、民と為し、宋元翰・黄綰及び藍田らは貶斥差有り、陳洸は冠帯を授かる。霍韜は再び疏を上り陳洸の為に訟うも得ず、陳洸は益々葉応驄を憾む。数年を過ぎ、更に人に令して奏せしむ、葉応驄が獄を勘ずる時、酷くして無辜二十六人を殺すと。巡按李美に下り覆勘せしむ。李美言す、死者は皆状有り、故殺に非ずと。刑部尚書許贊、葉応驄無罪を白す。帝は特に葉応驄を謫して遼東に戍らしむ。是の獄や、始終八年。凡そ陳洸を攻め、且つ陳洸の獄を治むる者は罪を得ざる無く、逮捕すること百数十人に至る。天下は桂萼の輩の奸横を悪み、益々議礼の臣を言うを羞ず。
応驄は戍所へ赴く途中、蘇州を経由した。知府が酒食を整えて待っていたが、応驄はすぐに船を解き去り、贈り物を受け取らなかった。十六年、赦されて帰郷した。明堂大享の礼が完成すると、冠帯を回復した。応驄は行誼に篤く、書を著すことを好み、幾度か患難に遭っても気概は挫けなかった。
黄綰は息県の人である。刑部主事となり、南巡を諫めて杖罰を受けた。郎中を歴任し、紹興知府として出向し、寛大な政治を行った。召還される時、士民の哭声は野に震い、争って餞別を贈ったが、綰はわずか二銭だけ取った。京に至り、詔獄に下され、獄死した。隆慶初年、太常少卿を追贈された。
藍田は即墨の人である。「大礼」の争いで杖罰を受けた。張璁が都察院を掌ると、その属官を考察し、藍田は落職して帰郷した。
解一貫
まもなく吏科都給事中に進んだ。教授王価・録事銭予勛は考察で罷免されたが、議礼に便乗して復職を望んだ。一貫らは言った。「このようにすれば、祖宗の百年の制度を壊すことになろう。」結局この件は立ち消えとなった。張璁・桂萼は日々費宏を攻撃してやまなかった。一貫は同官とともに上言した。「宏の朝廷における行いを、古の大臣の律に照らせば、確かに非難されないわけではない。しかし官に就いて以来、大きな過ちを聞いたことはない。一方、璁・萼は平生奸険であり、ただ議礼の一事がたまたま聖心に合っただけである。超擢されて以来、寵霊を恃み、朝士を凌轢している。宏とは積怨久しく、その地位を奪って自ら居らんとしている。陛下は累次の上疏をすべて所司に下し、最後に『爾等は各々その職を修めるべし』と言われた。これはその奸謀を陰に挫くためであろう。二、三の臣がこの深意を体せず、あるいは専ら宏を攻撃し、あるいは兼ねて璁・萼を攻撃するが、宏を去らせることができても、璁・萼を去らせることはできないことを知らない。君子は進み難く退き易いが、小人はそうではない。宏は人言を気にかけ、廉恥を顧みるから、なお君子と望むことができる。璁・萼は小人の中の特に甚だしいものであり、何を憚ることがあろうか。もしその計略が通れば、奸邪の気勢はますます増し、善類の中傷は止むことなく、天下の事は大いに憂うべきことになろう。」当時、鄭洛書・張録も三人のことを論じたが、一貫の言は特に切実であった。詔して所司に下した。璁・萼らは恨みやまず、ついに一貫を開州判官に左遷し、その地で卒した。
鄭洛書、字は啓範、莆田の人である。弱冠で進士に及第し、上海知県に任じられ、善政があった。嘉靖四年、召されて御史に任じられた。張璁・桂萼が陳九川の事で費宏を攻撃した。洛書は同官鄭氣とともに上言した。「九川の事について、人は璁・萼が共謀したと言い、すでに公論に罪を得ているが、宏の取る所与える所もまた明らかでない。朝廷には紀綱があり、大臣は進退を重んじる。宏・璁・萼はいずれも去らざるを得ない。宏が去らなければ、禄を保ち位に安んずる誚りがあり、璁・萼が去らなければ、また蹊田して牛を奪う嫌疑を冒すことになる。」詔して洛書の妄言を責めた。
帝が尚書趙鑒・席書に詩翰を賜った。洛書は言った。「陛下が大臣を眷礼されるのは、これ虞廷の賡歌の風である。願わくはこの心を推し広めて旧臣を思いやられたい。致仕した大臣劉健・謝遷・林俊・孫交らに対し、特に宸章を降し、時政を諮問されれば、聖徳はますます宏大となろう。またこの心を推し広めて過ちを赦されたい。遷謫された豊熙・劉済・余寛・王元正らに対し、特に仁恩を垂れ、量りをもって牽復されれば、聖度はますます広大となろう。」報告は聞き入れられた。李福達の獄が起こり、帝が自ら審理しようとした。洛書は言った。「陛下が独断の威を執られ、法官をことごとく罪に陥れれば、たとえ張釈之・于定国がいても、人主の前で抗弁することができず、どうして刑罰を中正にすることができましょうか。」帝は怒り、罪に処そうとしたが、楊一清が力説して止めた。まもなく南畿学政を視察に出たが、途中で喪に遭い帰郷した。
張録、字は宗制、城武の人である。正徳六年の進士。太常博士に任じられ、御史に抜擢された。嘉靖初年、闕に伏して「大礼」を争い、獄に下され廷杖を受けた。畿輔を巡按し、宣府の諸将の失事を弾劾し、皆罪に服した。西域の魯迷が獅子・西牛などの方物を貢いだ。貢いだ玉石の費用は二万三千余金に上り、往来に七年を要し、中国の重賞を求めると言った。録は言った。「明王は異物を貴ばない。今、二頭の獅子は一日にそれぞれ羊一頭を飼い、これは一年で七百余頭の羊を用いることになる。牛は芻菽を食うべきであるのに、今は果物や菓子を食べさせている。これは人の食を食うことである。願わくはその献上品を返し、その人を帰し、その賞を薄くして、希望の心を阻まれたい。」帝は用いなかった。
張璁が兵部侍郎に抜擢されると、録は諸御史とともにこれを争ったが、聞き入れられなかった。璁と桂萼はたびたび費宏を攻撃した。録は言った。「今、水害と旱害が相次ぎ、変異が重なって起こっている。まさに臣下が修省すべき時である。諸人は国の股肱たる者でありながら、このように互いに傾軋排撃している。災変を消し止めようとしても、また難しくはないか。乞う、三人をともに罷免し、天譴を挽回されたい。」帝は璁・萼を戒諭した。後に璁が侍郎として都察院を総括すると、以前の恨みを晴らそうとした。録が憲体に通じていないと言い、ついに罷免して帰郷させた。家に居すること二十年、卒した。
陸粲
間もなく御史郗元洪と共に馬房の銭穀を清核した。抗疏して御馬太監閻洪を論破し、積年の弊害を一掃した。同官の劉希簡と共に張福の獄を争った。帝は怒り、共に詔獄に下した。三十回杖ち、釈放して職に還した。事は『熊浹伝』に詳しい。
張璁・桂萼が共に政府に居り、朝事を専擅した。給事中孫応奎・王準がその私を発したが、帝はなお温旨を以て慰諭した。粲は憤りに堪えず、上疏して言う、
璁・萼は兇険の資性、乖僻の学問なり。かつて小臣より大礼を賛し、抜擢して近侍に置かれ、三四年ならずして位は宰弼に至る。恩寵の隆異、振古未聞なり。乃ち敢えて上を罔き私を逞しくし、権を専らにし賄を招き、威福を擅作し、恩仇を報復す。璁は狠愎自用、執拗にして私多し。萼は外は寛迂の若く、中は実に深刻なり。忮忍の毒、心より一発すれば、蝮蛇猛獣の如く、犯す者は必ず死す。臣請う、姑く数端を挙げて之を言わん。
萼は尚書王瓊より巨万の賂遺を受け、連章して力薦し、璁が中より之を主り、遂に起用を得しむ。昌化伯邵傑は本より邵氏の養子なり、萼は重賄を納れ、竟に奴隷小人をして濫りに伯爵を襲わしむ。萼が厚くする医官李夢鶴は進書に仮托し、夤縁して職を受け、居室相隣り、中に便戸を開き往来し、常に萼の家人呉従周等と居間す。又郷人周時望を引いて選郎と為し、交通して爵を鬻ぐ。時望既に去り、胡森之に代わる。森と主事楊麟・王激は又輔臣の郷里親戚なり。
銓司の要地、尽く私人を布く。典選僅かに年を踰え、郷故を引用し、悉く数うべからず。致仕尚書劉麟は其の中表の親なり。侍郎厳嵩は其の子の師なり。僉都御史李如圭は按察使より一転して径に内台に入り、南京太僕少卿夏尚樸は知府より期月にして遂に清卿を得、礼部員外張仮は歴律を以て知を結び、御史戴金は風を承けて搏撃し、甘心して鷹犬と為る、皆萼の姻党、相与に朋比して奸を為す者なり。礼部尚書李時は柔和善逢、猾狡多智、南京礼部尚書黄綰は曲学阿世、虚談人を眩わし、諭徳彭沢は夤縁して秩を改め、躐て清華を玷す、皆陰に璁に厚くして陽に萼に附する者なり。
璁等は威権既に盛んにして、党与復多く、天下畏悪し、敢えて訟言する者無し。急ぎ去らざれば、兇人の性移らず、将来必ず社稷の患と為らん。
帝は大いに感悟し、直ちに詔を下して璁・萼の罪状を暴き、其の相を罷む。而して粲を早く発せざりしを以て、之を吏に下す。
既にして詹事霍韜が力を尽くして粲を詆し、楊一清が之を嗾かしと謂う。希簡言う、「璁・萼の去位は聖断に由る。且つ犬をして之を謂うを嗾くと為す、韜は言官を以て之を犬に比し、朝廷を侮る」。而して帝竟に韜の言を納れ、璁を召し還し、一清の官を奪い、希簡を詔獄に下し、釈放して職に還し、粲を貴州都鎮驛丞に謫す。
稍く遷りて永新知県と為る。前後盗数百人を獲、奸猾跡を屏う。久しくして母を念い帰るを乞う。論薦する者三十余疏、皆報罷す。霍韜も亦粲を薦む、粲曰く、「天下の事大いに憸人の手に壊る、尚お余波を以て我を汚さんと欲するか」。母歿し、毀甚だしく、喪未だ終わらざるに卒す。
劉希簡は字を以順といい、漢州の人である。進士。行人を除く。工科給事中と為り、甫めて五月、両度直言にて罪を得、声大いに振う。久しくして県丞に謫せらる。終に鞏昌知府。
王準は字を子推といい、世々秦府儀衛司に籍す。準は進士を以て知県に授かる。礼科給事中と為り、京営を巡視し、郭勛の専恣の罪を劾す。明年、璁・萼が私人を引くを劾す。璁・萼罷む、準も亦吏に下り、富民典史に謫せらる。稍く遷りて知県と為る。都御史汪鋐萘は璁の指を希い、考察を以て之を罷む。
邵経邦
邵経邦は字を仲徳といい、仁和の人である。正徳十六年進士。工部主事に授かる。荊州の税を榷し、甫めて三月、税額満ち、遂に関を啓き商舟の往来を任す。員外郎に進む。嘉靖八年冬十月、日に食有り。経邦時に刑部に官し、上疏して曰く、
茲に正陽の月、日食の異有り。之を『小雅十月』の篇に質すに、変象符を懸く。『詩』を説く者は陰壮の甚だしきは、善人を用いざるに由り、而其の咎専らに皇父に帰すと謂う。然らば今の調和変理する者、皇父其人有ること得て無からんや。邇く陛下陸粲の言を納れ、張璁・桂萼に致仕を命ず。尋いで璁が議礼功有るを以て、復た召して輔政せしむ。人言籍籍、陛下之を恤れず。乃ち天変此の若き、安んぞ畏れざるべけんや。
そもそも礼制を議論することと政務を執ることは異なる。礼制の議論は妥当であることを貴び、政務を執ることは公平であることを貴ぶ。皇考(嘉靖帝の実父)の尊称を正すことは、父子の倫理を明らかにするものであり、礼の妥当なところである。たとえ衆論を排し、独見を任せても、偏りとは見なされない。しかし人を用い政を行なうことについては、忠と邪とを弁別し、才力を審らかに量り、天下の人と共にこれを用いるのが、公平というものである。今、陛下は張璁が礼制の議論に功があったとして、その人を察せず、その才を量らずに大任を加えられたが、これは礼制を議論した臣を私するものに似ている。礼制を議論した臣を私することは、その議論したところを公の礼としないことである。礼はただ至って公平であってこそ、万世不易たりうる。もし私に近ければ、固く守ることもできれば、変えることもできる。陛下は果たして尊親の典を至当として、子孫が代々これを守ることを望まれるか。それならば諸臣の進退を一に至公に委ね、その賞賜を厚くし、その終始を全うして、その礼制議論の功に報い、広く海内の碩徳重望の賢を求めて、正大光明の業を輔弼させるのがよい。そうすれば人心は定まり、天道は順い、万年の後、廟号を世宗とし、子孫百世遷さざるを得る。これこそ偉大ではないか。もし徒に非分の任を加え、彼らを満ち溢れる地位に就かせ、天人の怒りに触れさせれば、これまた張璁らの福とはならない。
帝は大いに怒り、直ちに鎮撫司に下して拷訊させた。獄が上奏されると、法司に送って罪を擬するよう請うた。帝は言った、「これは通常の犯ではない。法司に下す必要はない。」そこで福建鎮海衛に流罪とした。十六年、皇子が生まれ、大赦があった。ただ経邦と豊熙ら八人は赦免の例に含まれなかった。
経邦は流刑地において、戸を閉じて読書に励んだ。豊熙および同じく流刑に処せられた陳九川と、時折議論を交わした。鎮海に三十七年居住して卒した。閩の人々は寓賢祠を立てて三人を祀った。隆慶初年に官を復した。
劉世揚
吏科左給事中を歴任し、都給事中に進んだ。同官の李仁とともに詹事顧鼎臣の汚佞を弾劾し、かつ今日の詹事は他日の輔臣であると述べた。帝は怒り、詹事が輔臣になるというのは、どの典例によるのかと詰問した。世揚らは罪を認めた。帝の怒りは解けず、杖刑に処し、詔獄に下したが、後に釈放された。帝が久しい旱魃のために自ら祈った際、世揚は獄中の囚人および建言して流罪に処せられた諸臣の怨嗟の気が天和を犯していると述べ、ことごとく疏放するよう請うた。帝は用いなかった。張璁・桂萼が弾劾されて罷免されると、帝は諫官が言わなかったことを責めた。世揚らはそこで張璁・桂萼の党与である尚書王瓊以下数十人をことごとく弾劾し、上奏文は吏部に下された。しかし尚書の方献夫もまた張璁・桂萼の党与であり、ただ編修の金璐・御史の敖鉞・太僕丞の姚奎・郎中の劉汝輗・員外郎の張・郭憲・待詔の葉幼学・儲良才の八人を去らせただけだった。まもなく、再び同官の趙漢らとともに修省八事を陳述した。その中で言うには、「大学士の石瑶は貞介であったが、没後に易名されていない。尚書の李鐩は国の盗臣であり、死後に遺金を得て謚を賜った。給事中の鄭一鵬は楊一清を論じて再び杖刑に処され職を削られたが、一清が敗れた今、一鵬は官を復すべきである。」
世揚は張璁・桂萼の党与を発したため、張璁に恨まれ、鄭一鵬もまたかつて張璁・桂萼に逆らっていた。折しも張璁が再び宰相となっており、石瑶には実際に以前謚が賜られていた。張璁はそこで帝の怒りを煽り、給事中の言はすべて虚妄であると述べた。そこで世揚を江西布政司照磨に左遷し、趙漢らの俸給を停め、しかし李鐩の謚もこれによって奪われた。世揚はたびたび転任して河南提学僉事となった。告帰して卒した。
趙漢、字は鴻逵、平湖の人。正徳六年の進士。建昌推官に任じられた。南京戸科給事中に抜擢され、兵科に改められた。嘉靖初年、尚書の林俊が獄囚李鳳陽の上奏を執り行ったことで、詔旨により詰責を受けた。趙漢はこれにより言った、「太監の崔文は政を乱し、巧みに奸欺を逞しくし、ただ一人の李鳳陽を庇うだけではない。工部尚書の趙璜が崔文の家人の罪を発した。崔文はすぐにその偵察者を捕らえ、痛打してほとんど死なせ、『この杖は趙尚書に預ける』と言った。その無状このようなものである。急いで譴責追放し、新政の累いとならぬように願う。」聞き入れられなかった。後に、「大礼」をめぐって泣いて争い、詔獄に繋がれ廷杖に処された。
吏科左給事中を歴任した。病気のため去職した。元の官に起用され、工科都給事中に遷った。上疏して言った、「内閣の桂萼・翟鑾は三月間病気と称し、一度も職務怠慢を懇ろに辞したことがない。張璁は久しく政権を専らにしているが、賢者を引いて共に済わすとも聞かない。翟鑾・桂萼に速やかに去るよう諭し、両京の大臣および家居の耆旧を選び用いて、張璁の任を分かたせることを乞う。」帝はその誤字を摘んで詰問し、張璁に避けるなと諭し、内閣に赴くよう促した。張璁はそこで趙漢が忠謀であると述べ、内閣に堪える者を備えて列挙させるよう言った。帝はすぐに趙漢に用いたい者を挙げるよう命じた。趙漢は恐れおののいて言った、「臣は張璁に賢者を引くことを望んだのであり、私的に主とするものはありません。」帝は怒り、趙漢が実を以て対しないことを責め、名を挙上するよう促した。趙漢はますます恐れ、言った、「輔臣の簡命は朝廷より出るものであり、小臣の敢えて預かるべきことではありません。」帝はそこでこれを許し、俸給一か月を奪った。まもなく陜西右参政として出され、告帰した。久しくして、元の官で山西に起用された。数か月も経たずに再び致仕した。
子の趙伊は広西副使。四十歳で、父を養うために帰郷した。たびたび徴召されたが起きなかった。
魏良弼
張璁・桂萼が初めて宰相を罷免された時、その党与を察するよう詔があった。給事中の劉世揚らの議が魏良弼に及んだ。吏部の言により、留任することができた。まもなく京営を巡視するよう命じられた。提督五軍営の保定伯梁永福・太僕卿の曾直を弾劾して罷免し、武定侯郭勛の家奴を罪に問い、団営の兵政の弊を論じ、また銀米を発して京師の飢えを救済するよう請うた。直声が大いに著しかった。折しも南京御史の馬敭らが吏部尚書の王瓊を弾劾して逮捕されると、良弼はこれを釈放するよう請うた。帝は怒り、ともに詔獄に下した。贖罪を論じて職に還らせ、なお俸給一年を奪った。三度遷って礼科都給事中となった。
十一年八月、彗星が東井に現れ、芒の長さは丈余に及んだ。良弼は占書を引いて言った、「彗星が朝に東方に現れるのは、君臣が明を争う。彗孛が井から出るのは、奸臣が側にいる。大学士の張孚敬(張璁)が専横して威福を窃み、奸星が異を示すに至った。急いで罷黜すべきである。」張孚敬は魏良弼が私心を抱いていると上奏した。帝はすでに張孚敬を疑っており、両方の上疏とも聞き届けられた。給事中の秦鰲の上疏が再び入ると、張孚敬はついに罷免されて去った。一か月余り後、良弼は再び同官とともに吏部尚書の汪鋐を弾劾した。帝はちょうど汪鋐を向かえていたため、良弼の俸給を奪った。汪鋐・張孚敬ともに魏良弼を恨んだ。
翌年の元日、副都御史王応鵬が事に坐して詔獄に下された。良弼は言う、履端の始めに、微過を以て大臣を繫ぐべからずと。帝は怒り、再び詔獄に下す。獄卒は訝いて曰く、「公また来たるか!」と、為に涙を垂れた。尋いで職に復し、俸を奪わる。時に孚敬復た起きて政を柄とし、鋐と前郤を修め、考察後に科道官に互いに糾させることを命じ、又十一人を奏上し、また良弼に及ばず。孚敬益々怒り、旨を擬して切責し、吏部に再考せしむ。鋐乃ち別に二十六人を糾し、而して良弼及び秦鰲・葉洪は皆前に孚敬・鋐を劾した者なり、中外大いに駭く。良弼竟に不謹に坐して籍を削がる。隆慶初め、詔して廃籍を起す。年老いたるを以て即家して太常少卿を拝し、致仕し、卒す。天啓初め、追謚して忠簡と曰う。
秦鰲、字は子元、昆山の人。嘉靖五年の進士。行人を授かる。兵科給事中に擢でる。魏国公徐鵬挙・中官頼義の不法の状を劾し、義罷めて還る。彗星見ゆ、張孚敬の賢を妬み国を病むを劾し、詔旨を擬議して、輒ち引きて自らに帰す。帝遂に孚敬を罷む。已にして、孚敬再び相となる。汪鋐風指を承けて考察を以て鰲を東陽県丞に謫す。屡遷して福建右参議に至る。官に卒す。
又張寅という者あり、太倉の人。嘉靖初めの進士。歴任して南京御史となる。嘗て礼部侍郎黄綰の十罪を劾す。張孚敬の政を罷むるに比し、寅言う、其の憸邪政を蠹するを、悉く数うべからず、賜わりし所の封誥・銀章の属を追うことを請い、明らかに其の辟を正すべしと。併せて左都御史汪鋐の陰賊邪媚を劾す。帝怒り、高唐判官に謫す。屡遷して南京文選郎中に至る。会に宮僚を簡ぶに及び、春坊右司直兼翰林院検討に改む。未だ幾ばくもせず、劾せられて罷む。
賛して曰く、《書》に曰く、「佞を以て獄を折るに非ず、惟だ良を以て獄を折る、中に非ざるは罔し」と。又曰く、「刑書を明らかに啓き、胥に占いて鹹に庶くは中なり」と。正に獄を折るに中を得ざるべからざるを言うなり。張寅・李钅盬、罪状昭然たり。郭勛・席書の説に中り、廷臣罪を獲、而して寅は職に還り、钅盬は死を宥さる。陳洸の罪百七十二条に至るも、竟に死を免れ、而して猶上書して冤を訟ぎ、凡そ洸の悪を攻め洸の獄を治むる者は、逮捕すること百数十人に至る。皆議礼に由りて衆怒に触れ、一言以て深く帝の隠に中るに在り。甚だしいかな、佞人の畏るべきこと。夫れ成案を反するは明に似、死罪を出すは仁に似たり、而して其の端を借りて報復し、刑罰中を失うを知らず。佞良の弁、審にすべからずや!