明史

列傳第九十三 朱紈、張経、胡宗憲、曹邦輔、李遂、唐順之

朱紈

朱紈、字は子純、長洲の人。正徳十六年の進士。景州知州に任じられ、開州に転じる。嘉靖初め、南京刑部員外郎に遷る。四川兵備副使を歴任。副総兵何卿と共に深溝諸砦の番を平定す。五遷して広東左布政使に至る。二十五年、右副都御史に抜擢され、南・贛を巡撫す。明年七月、倭寇起こり、提督浙・閩海防軍務に改められ、浙江を巡撫す。

初め、明の太祖は定制を立て、片板も海に入るを許さず。承平久しく、奸民は闌出し入り、倭人及び佛郎機諸国を勾引して互市に入らしむ。閩の人李光頭、歙の人許棟は寧波の双嶼に拠りてその主となり、その質契を司る。勢家これを護持し、漳・泉に多し、或いは婚姻を通ず。済渡を仮りて名と為し、双檣の大船を造り、違禁物を運載す。将吏敢えて詰むる者なし。或いはその直を負う、棟等すなわちこれを誘いて攻剽せしむ。直を負う者は将吏を脅してこれを捕逐せしめ、師期を泄らして去らしめ、他日に償うを期す。他日に至りて、負うこと初めの如し。倭大いに怨恨し、益々棟等と合す。而して浙・閩の海防久しく隳ち、戦船・哨船十に一二を存するのみ。漳・泉巡検司の弓兵旧額二千五百余、僅かに千人を存す。剽掠して輒ち志を得、益々忌憚する所なく、来る者踵を接す。

紈は海道を巡り、僉事項高及び士民の言を采り、渡船を革せざれば海道清まるべからず、保甲を厳にせざれば海防復たすべからずと謂い、上疏して具にその状を列す。ここにおいて渡船を革し、保甲を厳にし、奸民を搜捕す。閩人は衣食を海に資す。驟かに重利を失い、士大夫の家と雖も便とせず、これを沮壞せんと欲す。紈は覆鼎山の賊を討平す。明年、将に双嶼を進攻せんとし、副使柯喬・都指揮黎秀をして漳・泉・福寧に分駐せしめ、賊の奔逸を遏し、都司盧鏜をして福清の兵を将いて海門より進ましむ。而して日本の貢使周良は旧約に違ひ、六百人を以て先期して至る。紈は詔を奉じて便宜処分す。却くべからざるを度り、乃ち良を要して自ら請わしめ、後は例と為さず。その船を録し、良を延いて寧波の賓館に入る。奸民は書を投じて変を激せんとす。紈は防範密にして、計行わるること得ず。夏四月、鏜は賊に九山洋に遇い、日本人稽天を俘え、許棟も亦就擒す。棟の党汪直等は余衆を収めて遁れ、鏜は双嶼に塞を築きて還る。番舶後至の者は入るを得ず、南麂・礁門・青山・下八諸島に分泊す。

勢家既に利を失うと、則ち宣言して被擒の者は皆良民にして賊党に非ずとし、以て人心を揺惑す。又た有司を挟制し、以て脅従被擄を軽比し、重き者は強盗拒捕の律を引く。紈上疏して曰く、「今海禁分明なり。何に由りて被擄し、何に由りて協従するかを知らず。若し番に入りて寇を導くを強盗と為し、海洋に対敵するを拒捕と為さば、臣の愚暗、実に未だ解せず」と。遂に便宜を以て行戮す。

紈は執法既に堅く、勢家皆懼る。貢使周良の安插已に定まる。閩人林懋和は主客司を主と為し、宣言して宜しくその使を発回すべしとす。紈は中国の諸番を制馭するは、宜しく大信を守るべしとし、疏を以て強く争う。且つ曰く、「外国の盗を去るは易く、中国の盗を去るは難し。中国瀕海の盗を去るは猶易く、中国衣冠の盗を去るは尤も難し」と。閩・浙の人益々これを恨み、竟に周良を勒して還り海嶼に泊まらしめ、以て貢期を俟たしむ。吏部は御史閩人周亮及び給事中葉鏜の言を用い、紈を巡視に改むるを奏し、以てその権を殺ぐ。紈憤り、又明年春上疏して言う、「臣海防を整頓し、稍々次第あり。亮は臣の権を侵削せんと欲し、属吏をして肯て命を用いざらしむ」と。既にして又た国是を明らかにし、憲体を正し、紀綱を定め、要害を扼し、禍本を除き、断決を重んずる六事を陳ぶ。語多く憤激す。中朝の士大夫は先ず浙・閩人の言に入り、亦た紈を悦ばざる者あり。

紈は前に温・盤・南麂諸賊を討ち、三月に連戦し、大いにこれを破り、還りて処州の鉱盗を平ぐ。その年三月、佛郎機国人行劫して詔安に至る。紈はこれを撃ちてその渠李光頭等九十六人を擒え、復た便宜を以てこれを戮す。状を具えて聞かしめ、語復た諸勢家を侵す。御史陳九徳遂に紈の擅殺を劾す。紈の職を落とし、兵科都給事杜汝禎をして按問せしむ。紈これを聞き、慷慨流涕して曰く、「吾貧しく且つ病み、又た気を負い、対簿に任えず。縦え天子我を死なせんと欲せずとも、閩・浙の人必ず我を殺さん。吾死す、自らこれを決す、人を須いず」と。壙誌を制し、俟命の詞を作り、薬を仰いで死す。二十九年、給事汝禎・巡按御史陳宗夔還り、奸民鬻販して拒捕すと称し、僭号流劫の事なしとし、紈を坐して擅殺と為す。詔して紈を逮えしむ。紈は已に前に死す。柯喬・盧鏜等並びに重辟を論ぜらる。

紈は清強峭直にして、事に任ずるに勇みあり。国家の為に乱源を杜たんと欲し、乃ち勢家の構陷に為り、朝野太息す。紈の死するより、巡視大臣を罷めて設けず、中外手を揺りて敢えて海禁の事を言わず。浙中の衛所四十一、戦船四百三十九、尺籍尽く耗す。紈は福清の捕盗船四十余を招き、海道に分布し、台州海門衛に在る者十有四、黄巖の外障と為る。副使丁湛尽くこれを散遣し、備を撤き禁を弛む。未だ幾ばくもせず、海寇大いに起こり、東南を毒すること十余年。

張経

張経、字は廷彜、侯官の人。初め蔡姓を冒し、久しくして乃ち復す。正徳十二年の進士。嘉興知県に任じられる。嘉靖四年、吏科給事中に召され、戸科都給事中を歴任し、数え論劾す。言官これを指して張・桂の党と為す。吏部は経の行い修むと言い、問わず。太僕少卿に抜擢され、右副都御史を歴任し、院事を協理す。十六年、兵部右侍郎に進み、両広軍務を総督す。断藤峡の賊侯公丁は弩灘に拠りて乱を為す。経は御史鄒堯臣等と計を定め、軍事を副使翁萬達に属し、公丁を誘執せしむ。参議田汝成は乗勢進討を請う。命じて副総兵張経に三万千五百人を将いて左軍と為さしめ、萬達これを監し、指揮王良輔等六将に六道に分かれて南寧に会せしむ。都指揮高乾に万千六百人を将いて右軍と為さしめ、副使梁廷振これを監し、指揮馬文傑等四将に四道に分かれて賓州に会せしめ、賊の巣に抵りて夾撃せしむ。賊は林峒に奔りて東す。良輔等これを邀う。賊中に断たれ、復た西に奔る。首級千二百を斬る。その東する者は羅運山に遁れ入る。萬達等は師を移してこれを攻む。右軍に檄して江に沿いて東し、その背に出で繞らしむ。賊は巨木を刊ちて隘口を塞ぎ、蒺藜菇簽を布き、機弩毒鏢を伏せ、石を樹杪に懸く。急なれば則ちその樹を撼かしめ、石皆墜つ。官軍並びに計を以てこれを破る。右軍期に愆る。田州の土酋盧受乃ち賊を縦して去らしむ。その衆四百五十を俘え、降を招く者二千九百有奇。土人言う、祖父羅運に居ること八世、未だ官軍のこの土に渉るを聞かずと。捷聞かれば、経を左侍郎に進め、秩一級を加う。

尋いで毛伯温と計を定め、安南を撫定し、再び右都御史に進む。思恩九土司及び瓊州の黎を平げ、兵部尚書に進む。副使張瑶等は馬平の瑶を討ちて屡敗す。帝は瑶等を罪し、経を宥す。給事中周怡は経を劾す。経は罷むるを乞う。允さず。憂いを以て帰る。服闋し、三辺総督に起つ。給事中劉起宗は経が両広に在りて餉銀を克すと言い、前命を寝す。

三十二年、南京戸部尚書に起用され、そのまま兵部に改めた。翌年五月、朝議は倭寇の猖獗を以て、総督大臣を設置すべしとし、張経に部務を解かせず、江南・江北・浙江・山東・福建・湖広の諸軍を総督させ、便宜行事を許した。張経は両広の狼土兵を徴発して用いることを聴された。その年十一月、兵科の上言により張経を右都御史兼兵部右侍郎と改め、専ら賊討伐を担当させた。倭二万余は柘林川沙窪に拠り、その徒党はなおも続々と到着していた。張経は日々将を選び兵を練り、巣窟を撃つ計画を立てた。江・浙・山東の兵が屡々敗れたため、狼土兵が到着するのを待って用いようとした。翌年三月、田州の瓦氏兵が先着し、速戦を望んだが、張経は許さなかった。東蘭などの兵が続いて到着した。張経は瓦氏兵を総兵官俞大猷に隷属させ、東蘭・那地・南丹の兵を遊撃鄒継芳に隷属させ、帰順及び思恩・東莞の兵を参将湯克寛に隷属させ、それぞれ金山衛・閔港・乍浦に分屯させ、賊を三面から牽制し、永順・保靖の兵の集結を待った。時に侍郎趙文華が海神祭祀のため到来し、浙江巡按胡宗憲と結託し、屡々張経に進兵を促した。張経曰く「賊は狡黠にして衆し、永順・保靖の兵が到着して挟撃するのを待てば、ほぼ万全である」と。文華は再三言上したが、張経は便宜を守って聴かなかった。文華は密かに上疏し、張経が軍費を浪費し民を害し、賊を恐れて機を失い、倭が飽掠して去るのを待ち、残った賊を討って功を報いようとしているとし、速やかに処罰して東南の大禍を緩和すべきだと述べた。帝が厳嵩に問うと、嵩は文華の指摘通りと答え、かつ蘇州・松江の人は張経を怨んでいると述べた。帝は怒り、即座に詔を下して張経を逮捕させた。三十四年五月のことであった。

ちょうど文華が上疏した時、永順・保靖の兵は既に到着しており、その日に早くも石塘湾での勝利があった。五月朔日には、倭が嘉興に突入した。張経は参将盧鏜に保靖兵を督せさせて救援に向かわせ、大猷に永順兵を督せさせて泖湖から平望へ向かわせ、克寛に舟師を率いさせて中路からこれを撃たせ、王江涇で合戦し、賊の首級一千九百余を斬り、焼死溺死させた者は甚だ多かった。軍興以来、戦功第一と称された。給事中李用敬・閻望雲らが言上した。「王師の大捷により、倭は気勢を失い、帥を易えるべきではない」。帝は大いに怒り、「張経は欺瞞不忠であり、文華の弾劾を聞いて初めて一戦したのだ。用敬らは奸に与する者である」と言い、廷で杖刑五十を加え、民に斥けた。やがて帝は疑念を抱き、嵩に問うた。嵩は言った。「徐階・李本は江・浙の人で、皆、張経が賊を養って戦わなかったと言っています。文華・宗憲が合謀して進剿し、張経がそれを功として冒したのです」。そして二人の忠誠を極力説いた。帝はその言葉を深く信じた。張経が到着すると、進兵の経緯を詳しく述べ、かつ「総督を任じられて半年、前後して俘斬五千、どうか寛恕を賜りたい」と請うた。帝は終に容れず、死罪を論じて獄に繋いだ。その年十月、巡撫李天寵と共に斬られた。天下これを冤とした。

天寵は孟津の人である。御史より徐州兵備副使に遷り、通州・如皋で倭を退けた。三十三年六月、右僉都御史に抜擢され、王忬に代わって浙江巡撫となった。倭が紹興を掠めたが、これを殲滅し、銀幣を賜った。間もなく、賊が嘉善を犯し、嘉興を囲み、秀水・帰安を劫略し、副使陳宗夔が戦って利あらず、百戸頼栄華が砲に中たって死に、嘉善知県鄧植は城を棄てて逃走した。賊は城に入って大掠した。賊はまた崇徳を陥とし、徳清を攻め、裨将梁鄂らを殺した。文華は天寵が酒を嗜んで政事を廃したと誹謗し、帝は遂に天寵の官を除き、宗憲を抜擢して代えさせた。未だ幾ばくもせず、御史葉恩が倭が北新関を蹂躙したことを以て天寵を弾劾し、宗憲もまたその賊を放縦したと上言した。帝は怒り、逮捕して獄に下し、遂に張経と同日に死なせた。

張経に代わった者は応城の周珫、衡水の楊宜である。節制は行われず、狼土兵は恣に焚掠をほしいままにした。東南の民は倭に苦しんだ上、さらに兵に苦しんだのである。隆慶初年、張経の官を復し、襄湣と諡した。

周珫は戸科給事中であったが、世宗の南幸を諫めて罪に坐し、鎮遠典史に貶謫された。累官して右僉都御史となり、蘇州・松江諸府を巡撫した。上疏して倭防禦に十の難と三の策があることを陳べた。張経が禍を得ると、即座に珫を兵部右侍郎に抜擢して代えさせたが、何ら展開はなかった。時に宗憲は既に天寵に代わっており、珫の地位を奪おうとした。文華は遂に珫を弾劾し、宗憲を推薦した。帝はこれにより珫の俸禄を奪い、まもなく勒して民とさせた。珫が在官したのは僅か三十四日であり、楊宜が代わった。

楊宜は河南を巡撫し、大賊師尚詔を平定した。南京戸部右侍郎に遷り、間もなく周珫に代わった。当時、倭の勢いはなお盛んであった。楊宜が総督であったが、文華が軍務を督察し、その威勢は楊宜の上に出た。文武の大吏を更迭するも、その愛憎によるのみであった。楊宜は張経・天寵の禍を戒め、意を曲げて文華に奉じた。文華は彼を蔑ろにした。倭が陶宅に拠り、官軍は久しく功がなかったため、文華は遂に楊宜を弾劾した。楊宜は狼兵はただ掠奪するのみで用いるに足らずとし、江・浙の義勇、山東の箭手を募り、江・浙・福建・湖広の漕卒、河南の毛兵を増調するよう請うた。客兵が大挙して集結すると、楊宜はこれを統御できなかった。川兵と山東兵が私闘し、参将を殺さんとし、酉陽兵は高橋で潰走し、舟を奪って直ちに蘇州に帰った。翌年正月、文華が朝廷に戻り、楊宜を罷免し、宗憲を代えとするよう請うた。時に御史邵惟中が失事の状況を上奏したため、遂に楊宜の官職を奪い閑住させた。楊宜が在職したのは僅か半年余りであり、文華に諂ったため、禍は軽かった。

倭が蘇州・松江を蹂躙したのは、嘉靖三十二年に始まり、三十九年に終わった。その間、巡撫となった者は十人である。安福の彭黯は南京工部尚書に遷ったが、賊を畏れ、後任を待たずして去り、下獄されて除名された。黄岡の方任・上虞の陳洙は皆、着任前に至らなかった。方任は丁憂し、陳洙は才が任に足りずとして別に用いられた。そして鄞県の屠大山を代わりに任じ、軍務を提督させた。蘇州・松江巡撫が軍務を兼督するのは、大山に始まる。半年を経て、病により免じられ、間もなく失事に坐して詔獄に下され、民とされた。次いだ者は周珫である。周珫に次いだ者は曹邦輔である。文華の讒言により、詔獄に下され、戍辺に貶謫された。次は眉州の張景賢で、考察により官職を奪われた。次は盩厔の趙忻で、金山の軍変に坐し、下獄されて官を貶された。次は江陵の陳錠で、数月で罷免されて去った。次は翁大立である。大立の時には、倭患は既に収まっていたが、悪少年が騒ぎ立てて乱を為したことに坐し、竟に罷職された。一人として罪を得ずして去った者はなかった。

胡宗憲

胡宗憲、字は汝貞、績溪の人である。嘉靖十七年の進士。益都・余姚二県の知県を歴任した。御史に抜擢され、宣府・大同を巡按した。詔により大同左衛の軍を陽和・独石に移そうとしたところ、兵卒が集まって騒動を起こした。宗憲は単騎で慰諭し、移さないことを許すと、ようやく鎮定した。

三十三年、出でて浙江を按ず。時に歙の人汪直五島に拠りて諸倭を煽り入寇せしめ、徐海・陳東・麻葉等は柘林・乍浦・川沙窪に巣くい、日々郡邑を擾わす。帝は張経を総督とし、李天寵に浙江を巡撫せしめ、また侍郎趙文華に軍務を督察せしむ。文華は厳嵩の内援を恃み、恣に甚だし。経・天寵は附かず、独り宗憲之に附く。文華大いに悦び、因りて相与に力を合わせて二人を排す。倭嘉興を寇し、宗憲毒酒を中に以てし、数百人死す。経が王江涇を破るに及び、宗憲力有り。文華経の功を尽く掩い宗憲に帰し、経遂に罪を得。尋いで又天寵を陥れ、即ち超擢して宗憲を右僉都御史とし之に代わらしむ。時に柘林の諸倭陶宅に移り屯し、勢稍や殺ぐ。会に蘇・松巡撫曹邦輔倭を滸墅に殲し、文華功を攘わんと欲して得ず、大いに恨み、遂に進みて陶宅の残寇を剿す。宗憲之と共にし、鋭卒四千を将い、磚橋に営し、邦輔に夾撃を約す。倭殊死に戦い、宗憲の兵死者千余。文華副使劉燾をして之を攻めしむ、復た大いに敗る。而して倭浙東の諸州県を犯し、文武の吏を殺すること甚だ衆し。宗憲乃ち文華と招撫の計を定む。文華朝に還り、盛んに総督楊宜を毀り、而して宗憲を薦む、遂に以て兵部右侍郎とし宜に代わらしむ。

初め、宗憲客の蔣洲・陳可願をして日本国王に諭せしむ、五島に於いて汪直の養子滶に遇い、使を邀えて直に見えしむ。直初め倭を誘いて入犯せしめ、倭大いに利を得、各島ここより日々至る。既にして多く殺傷し、全島帰る者無き有り、死者の家直を怨む。直乃ち滶及び葉碧川・王清溪・謝和等と五島に拠りて自保す。島人之を老船主と呼ぶ。宗憲は直と同郷里、之を招致せんと欲し、直の母妻を金華の獄に於いて釈し、資給甚だ厚し。洲等宗憲の旨を諭す。直心動き、又母妻恙無きを知り、大いに喜び曰く、「俞大猷我が帰路を絶つ、故に此に至る。若し罪を貸し市を許さば、吾も亦帰らんと欲するのみ。但だ日本国王既に死し、各島相摂せず、須らく次第に之を諭すべし」と。因りて洲を留め而して滶等を遣わし可願を護り帰らしむ。宗憲厚く滶を遇し、功を立てしむ。滶遂に倭を舟山に破り、再び之を列表に破る。宗憲朝に請い、滶等に金幣を賜い、之を帰らしむ。滶大いに喜び、徐海の入犯するを以て来告す。亡何、海果たして大隅・薩摩二島の倭を引き分かち瓜洲・上海・慈溪を掠め、自ら万余人を引き乍浦を攻め、陳東・麻葉之と俱にす。宗憲塘棲に壁し、巡撫阮鶚と相犄角す。会に海皂林に趨く、鶚遊撃宗礼を遣わし海を崇徳三里橋に撃たしむ、三戦三捷す。既にして敗死し、鶚桐郷に走る。

礼は常熟の人、世千戸より歴署して都督ととく僉事に至る。ぎょう健にして敢戦す。卒三千を練り連ねて倭を破り、是に至り敗歿す。都督同知を贈り、忠壮と謚し、祠を皂林に賜う。

鶚既に桐郷に入る、賊勝に乗じて之を囲む。宗憲計りて曰く、「鶚と俱に陥るは益無し」と。遂に杭州に還り、指揮夏正等を遣わし滶の書を把り海を要して降らしむ。海驚きて曰く、「老船主も亦降るか」と。時に海創に病み、意頗る動き、因りて曰く、「兵三路より進む、我一人に由らざるなり」と。正曰く、「陳東已に他に約有り、慮る所独り公のみなり」と。海遂に東を疑う。而して東海の営に宗憲の使者有るを知り、大いに驚き、ここより隙有り。正間に乗じて海を説き下す。海使いを遣わし来謝し、財物を索む、宗憲報いるに其の請の如くす。海乃ち俘二百人を帰し、桐郷の囲みを解く。東は留まりて一日攻め、亦去り、復た乍浦に巣くう。鶚海に当たる能わざるを知り、乃ち東に渡り銭塘して他の賊を禦ぐ。

初め、海入犯し、其の舟を焚き、士卒に還る心無きを示す。是に至り、宗憲人をして海に語らしめて曰く、「若既に内附す、而して呉淞江方に賊有り、何ぞ之を撃ちて以て功を立たざる。且つ其の舸を掠め、緩急の計と為せ」と。海然りと以為い、之を朱涇に逆撃し、三十余級を斬る。宗憲大猷をして潜かに其の舟を焚かしむ。海心怖れ、弟洪を以て来質し、献ずる所の飛魚冠・堅甲・名劍及び他の玩好。宗憲因りて厚く洪を遇し、海に陳東・麻葉を縛るを諭し、世爵を以て許す。海果たして葉を縛り以て献ず。宗憲其の縛を解き、書を以て東に致し海を図らしめ、而して陰に其の書を海に泄らす。海怒る。海の妾宗憲の賂を受け、亦海を説く。ここ於いて海復た計を以て東を縛り来献し、其の衆五百人を帥い乍浦を去り、別に梁荘に営す。官軍乍浦の巣を焚き、首級三百余を斬り、焚溺死する者之に称す。海遂に日を刻み降を請い、先期して猝かに至り、甲士を平湖城外に留め、酋長百余を率い、冑して入る。文華等懼れ、許す勿からんと欲す、宗憲強いて之を許す。海叩頭し罪に伏す、宗憲海の頂を摩し、慰諭す。海自ら沈荘を選び其の衆を屯す。沈荘は東西各一、河を以て塹と為す。宗憲海を東荘に居え、西荘を以て東の党を処す。東をして其の党に書を致さしめて曰く、「督府海に檄し、夕べ若属を擒う」と。東の党懼れ、夜に乗じて将に海を攻めんとす。海両妾を挟み走り、間道に中りて槊さる。明日、官軍之を囲み、海水に投じて死す。会に盧鏜亦辛五郎を擒えて至る。辛五郎は、大隅島主の弟なり。遂に洪・東・葉・五郎及び海の首を俘え京師に献ず。帝大いに悦び、廟に告くる礼を行い、宗憲に右都御史を加え、金幣を賜うこと等を加う。海の余党舟山に奔る。宗憲俞大猷をして雪夜に其の柵を焚かしめ、尽く死せしむ。両浙の倭漸く平ぐ。

三十六年正月、阮鶚改めて福建を撫し、即ち宗憲に命じ浙江巡撫の事を兼ねしむ。蔣洲倭中に在り、山口・豊後二島の主源義長・源義鎮を諭して掠められたる人口を還し、方物を具えて入貢せしむ。宗憲以て聞す。詔して其の使を厚く賚し、遣わし還す。十月に至り、復た夷目善妙等を遣わし汪直に随い来り市し、岑港に至り泊す。浙の人直の倭船を以て至るを聞き、大いに驚く。巡按御史王本固亦言う不便なりと、朝臣宗憲将に東南の大禍を醸さんと謂う。直滶を遣わし宗憲に詣りて曰く、「我等詔を奉じて来り、将に兵を息め境を安んぜんとす。謂う宜しく使者遠く迎え、宴犒交至るべし。今盛んに軍容を陳べ、舟楫の往来を禁ず、公我を紿くか」と。宗憲解諭すること再に至るも、直信ぜず。乃ち其の子をして書を以て之を招かしむ、直曰く、「児何ぞ愚なる。汝が父在りて、汝を厚くす。父来らば、闔門死す」と。因りて一貴官を要して質と為す。宗憲立って夏正を遣わし滶に偕い往かしむ。宗憲嘗て預め直を赦す疏を作り、滶を引き臥内に入れ、陰に之を窺わしむ。滶直に語り、疑稍や解け、乃ち碧川・清溪に偕い入謁す。宗憲慰藉すること甚だ至り、杭に至り本固に見えしむ。本固直等を獄に下す。宗憲疏を上し曲く直の死を貸し、海上に戍らしめ、番夷の心を系がんことを請う。本固之を争うこと強く、而して外議宗憲の賊賂を納るるを疑う。宗憲懼れ、詞を易えて以て聞す。直死を論じ、碧川・清溪辺に戍す。滶と謝和遂に夏正を支解し、舟山に柵し、岑港を阻みて守る。官軍四面之を囲み、賊死闘し、陥歿する者多し。

翌年の春に至り、新たな倭寇がまた大挙して至る。厳しい詔勅で胡宗憲を責めた。宗憲は罪を得ることを恐れ、上疏して戦功を陳べ、賊は指日にして滅ぼし得ると言う。所司がその欺瞞を論じた。帝は怒り、諸将の俞大猷らの官職を悉く奪い、宗憲を厳しく譴責し、期日を定めて賊を平定せしめんとした。時に趙文華は既に罪を得て死し、宗憲は内援を失い、寇患が未だ止まぬを見て、上に媚びんと思い、舟山にて白鹿を得たので、これを献上した。帝は大いに喜び、廟に告げる礼を行い、銀幣を厚く賜う。未だ幾ばくもせず、また白鹿を献ず。帝はますます大いに喜び、玄極宝殿及び太廟に告謝し、百官賀し、宗憲の官秩を加う。既にして岑港の賊は巣を柯梅に移し、官軍は屡攻して克つ能わず。御史の李瑚が宗憲を弾劾し、汪直を誘って釁を啓けりとす。盧本固及び給事中の劉堯誨もまたその師を老いさせて寇を縦すを劾し、功賞を追奪せんことを請う。帝は廷議を命ず。皆、宗憲の功多しと言い、罷むべからずとす。帝はその直を擒えたる功を嘉し、職に居ることを故の如くせしむ。

賊の柯梅に徙るや、巨艦を造りて遁走の計とす。艦成るに及び、宗憲はその去るを利とし、撃たず。賊は帆を揚げて浯嶼に泊し、閩海の州県を掠め放つ。閩人は大いに騒ぎ、宗憲が禍を嫁ぐと謂う。御史の瑚、再び宗憲の三大罪を劾す。瑚と大猷は皆閩人なり。宗憲は大猷が言を漏らせりと疑い、大猷の撃つに力を尽くさざるを劾す。大猷は遂に逮問せらる。

この時に当たり、江北・福建・広東は皆倭に中る。宗憲は東南数十府を尽く督すと雖も、道遠く、ただ遥かに領するのみにして、遍く経画すること能わず。然れども小勝すれば、輒ち功を論じて賚を受け、虚月無し。即ち敗衄すとも、その罪に与からず。三十八年、賊は大いに温・台を掠め、別部また濱海の諸県を寇す。給事中の羅嘉賓・御史の龐尚鵬、詔を奉じてこれを勘す。宗憲が寇を養うと言い、重典に置くべしとす。帝は問わず。明年、汪直平定の功を論じ、太子太保を加う。

宗憲は権術多く、功名を喜び、文華に因りて厳嵩父子と結び、歳に金帛子女珍奇淫巧を遺ること数無し。文華死し、宗憲は嵩と結ぶこと益々厚く、威権東南を震わす。性、賓客を善くし、東南の士大夫を招致して謀議に預からしめ、名はこれによりて起る。技術雑流に至るまで、豢養すること皆恩有り、その力を得ること能う。然れども編提均徭の法を創め、賦を額外に加え、民困敝す。而して侵す所の官帑・富人財物を斂むるもまた貲すべからず。嘉賓・尚鵬還り、宗憲の帑を侵す状を上す。計ること三万三千、他の冊籍は沈滅す。宗憲自ら弁し、言う「臣、国の為に賊を除くに、間を用い餌を用う。小恵なければ大謀成らず」と。帝は然りと以為い、更にこれを慰諭す。尋いで上疏し、巡撫及び操江都御史を節制するを得んことを請う。三辺の故事の如くせんと。帝は即ち兵部尚書に進め、その請の如くす。また白亀二・五色芝五を献ず。帝は前に如く玄に告げ廟す。宗憲に賚うること加等す。

明年、江西に盗起こる。また江西を兼制す。未だ至らざるに、総兵官の戚継光既に賊を平ぐ。九月に奏言す「賊屡り寧・台・温を犯す。我が師前後俘斬すること一千四百有奇。賊悉く蕩平す」と。帝悦び、少保を加う。両広、巨盗の張璉を平ぐ。また宗憲の功を論ず。時に嵩は既に敗る。大学士の徐階曰く「両広の賊を平ぐるは、浙何ぞ与かるところあらんや」と。僅かに銀幣を賜う。未だ幾ばくもせず、南京給事中の陸鳳儀、その党厳嵩及び奸欺貪淫の十大罪を劾す。旨を得て逮問す。宗憲の至るに及び、帝曰く「宗憲は嵩の党に非ず。朕用いること八九年、人言う者無し。累ね祥瑞を献じてより、群邪に疾まれる。且つ初め直を獲れば五等の封を与えんと議す。今若し罪を加うれば、後誰か我が為に事を任せんとする者あらん。その釈放して閑住せしめよ」と。

久しくして、万寿節に秘術十四を献ず。帝大いに悦び、将に復用せんとす。会に御史の汪汝正、羅龍文の家を籍没し、宗憲の手書を上す。乃ち被劾の時に自ら旨を擬して龍文に授け、以て世蕃に達せしむる者なり。遂に逮えて獄に下す。宗憲自ら平賊の功を叙し、瑞を献じて言官に罪を得、且つ汝正の贓を受くる事を訐る。帝終にこれを憐れみ、並びに汝正を獄に下す。宗憲竟に瘐死す。汝正釈放を得る。万暦初め、官を復し、襄懋と謚す。

阮鶚は、桐城の人、官は浙江提学副使。時に倭杭州に迫る。郷民避難して城に入らんとする者、有司拒みて入るを許さず。鶚手に剣を執り門を開きてこれを納れ、全活すること甚だ衆し。文華・宗憲に附くによりて超擢せられ、右僉都御史となり、宗憲に代わり浙江を巡撫す。また文華の言により、特に福建巡撫を設け、即ち以て鶚を命ず。初め浙に在りては撫を主とせず。桐郷囲まれてより、甚だ懼る。寇福州を犯すに、羅綺・金花及び庫銀数万を以て賂し、また巨艦六艘を遺し、以て載せて走らしむ。一籌を措く能わずして、民財を斂括すること動かずして千万を計り、帷帟盤盂率ね錦綺金銀を以てこれを作る。御史の宋儀望等交章して劾す。逮えて刑部に下す。厳嵩法司に属して、僅かに民に黜く。侵す所の餉数、宗憲に浮ぶ。追還して官に還す。

曹邦輔

曹邦輔、字は子忠、定陶の人。嘉靖十一年の進士。元城・南和を知り歴任し、廉幹を以て称さる。御史に擢で、河東の塩政を巡視す。陝西を巡按し、総督の張珩等の功を冒すを劾し、皆謫戍す。出でて湖広副使となり、河南に補す。

柘城の賊師尚詔反し、帰徳を陥とす。検校の董綸、民兵を率いて巷戦し、手ずから数賊を刃し、その妻賈氏と俱にこれに死す。また柘城を陥とし、挙人の陳聞詩を劫いて帥とせんとす。聴かず。従者を斬りてこれを脅す。聞詩紿いて曰く「必ず我を行かしめんと欲せば、人を殺すこと無く、火を放つこと無かれ」と。賊諾す。擁し馬上す。三日食わず。鹿邑に至りて自縊す。賊太康を囲む。都指揮の尚允紹と戦うこと鄢陵にて、敗績す。允紹また賊を霍山にて撃つ。賊これを囲む。兵進むを敢えてせず。邦輔最後の者を斬る。士卒競い進む。賊大いに潰え、擒斬すること六百余人。尚詔莘県に走り、擒えらる。賊起こること四十余日、府一、県八を破り、殺戮すること十余万。邦輔亟に戦い、これを殲す。詔して銀幣を賚い、山西右参政に擢で、浙江按察使に遷す。

三十四年、右僉都御史を拝し、応天を巡撫す。倭柘林に聚まる。その党紹興より竄し、転じて杭・厳・徽・寧・太平を掠め、遂に南京を犯し、溧水を破り、宜興に抵る。官軍に迫られて、滸墅に奔る。副総兵の俞大猷・副使の任環数え撃ち、而して柘林の余賊は既に進みて陶宅に拠る。邦輔、副使の王崇古を督いてこれを囲む。僉事の董邦政・把総の婁宇協剿す。賊太湖に走る。追い及びて、その衆を尽く殲す。副将の何卿師潰ゆ。邦輔これを援く。火器を以て賊舟を破り、前後俘斬すること六百余人。侍郎の趙文華その功を攘まんと欲す。邦輔捷書先に奏す。文華大いに恨む。既にして浙江巡按御史の胡宗憲と会し、邦輔とともに陶宅の賊を攻む。諸営皆潰ゆ。賊退く。邦輔進みてこれを攻む。また敗る。坐して俸を奪わる。文華、邦輔の難を避け易きを撃ち、師をして後期せしむと奏す。総督の楊宜もまた邦輔の故に節制に違うを奏す。給事中の夏栻・孫浚これに争う。罪を得ず。文華京に還り、余賊将に尽きんと奏す。而して巡按御史の周如鬥また失事の状を奏す。帝頗る文華を疑う。文華因りて言う「賊滅し易し。督撫人に非ざるによりて、敗を致す。臣昔邦輔を論ず。栻・浚遂に臣に媒孽す。東南の塗炭何時に解けん」と。乃ち邦輔を逮え繫ぎ、朔州に謫戍す。

隆慶元年、楊博が吏部尚書となると、邦輔を左副都御史に起用し、院事を協理させた。兵部右侍郎に進み、戎政を管轄した。まもなく左侍郎兼右僉都御史となり、薊州・遼東・保定の軍務を総督した。辺境の城壁を修築することは上策ではないと述べ、急ぎ練兵すべきであり、兵が練成されて初めて辺境の防備について議論できると主張した。給事中張鹵の上言により、右都御史に召還されて院事を掌った。帝は京営の事柄が重要であると考え、協理を閲視に改め、兵事に通じた大臣にこれを委ねようとし、そこで左都御史として召還し、その任に当たらせた。その後、恭順侯吳繼爵の上言に従い、再び閲視を提督に改めた。間もなく、南京戸部尚書に転じた。督倉主事張振選が命令に従わないことを上奏した。吏部はこれに因んで言上した。「かつて執政は人に自分を喜ばせることを好み、属吏はこれを後ろ盾として頼りにした。堂上官を陥れ、ついには体を屈めて意を降し、名分を転倒させるに至った。外に在る巡按御史もまた進士出身の推官・知県を曲げて庇い、監司の賢不肖はその口吻によって決せられた。政害はこれより甚だしいものはない。」穆宗はその言を深く是とし、振選を罷免し、内外の諸司を戒めたが、結局改めることはできなかった。邦輔は累次致仕を乞うたが、聞き入れられなかった。萬歷元年、考査のために朝廷に赴いたが、再び病気を理由に辞任を求め、かつ辛愛に窺覦の志があると述べ、慎重に防ぐべきであると言った。そこで致仕して去った。三年後に卒去した。太子少保を追贈された。

邦輔は廉潔で峻厳であった。呉中で逮捕された時、役人がその蓄えていた俸給を上呈したが、これを振り払って去った。四十年にわたって官に在ったが、家に余財はなかった。巡撫・巡按がその状況を奏上すると、詔により右評事劉叔龍を派遣して墳墓を営ませた。

任環、字は応乾、長治の人。嘉靖二十三年の進士。黄平・沙河・滑県の知県を歴任し、いずれも有能の名声があった。蘇州府同知に遷る。倭寇の患いが起こると、長官は軍事に通じていなかった。環は性格が慷慨で、ただ一人身をもってその任に当たった。三十二年閏三月、宝山洋で賊を防ぎ、小校張治が戦死した。環は奮って前に進み賊と戦い、数日間相持したが、賊は逃げ去った。まもなく太倉を侵犯したので、環は馳せ赴いた。かつて賊に遭遇し、短兵相接して身に三ヶ所の傷を受け、危うく死にかけた。料理人が環を守って出て死に、賊もまた引き去った。その後再び来襲したので、傷を包んで海に出てこれを撃った。怒涛が起こり、舟を操る者は顔色を失った。環の意気はますます奮い、ついに賊を破り、百余人を捕斬した。さらに陰沙・宝山・南沙で連戦し、いずれも勝利した。按察僉事に抜擢され、蘇州・松江二府の兵備を整飭した。倭寇は掠奪に飽き、すべて帰還したが、ただ南沙の三百人は舟が壊れて去ることができず、環は総兵官湯克寛とともに兵を並べてこれを守った。数ヶ月後、賊が大挙して到来し、旧来の倭寇と合流して、華亭・上海を掠奪した。環らは弾劾されたが、赦免を得た。翌年、賊が蘇州を侵犯した。城門は閉ざされ、郷民が城を巡って号泣した。環はこれをことごとく受け入れ、数万を全活させた。副将解明道が賊を撃退し、前後の功績を論じ、環を右参政に進めた。賊が常熟を掠奪したので、環は知県王鈇を率いてその巣窟を破り、二十七隻の舟を焼いた。まもなく、賊が陸涇壩を掠奪し、都督周於徳が敗北した。環は総兵官俞大猷とともにこれを撃破し、三十余隻の舟を焼いた。賊が呉江を侵犯すると、環と大猷は鶯脰湖でこれを撃破し、賊は嘉興に奔った。ほどなく、三板沙の賊が民船を奪って出海したので、環と大猷は馬跡山でこれを撃破した。その別部で嘉定に屯していたものは、火を放ってことごとく死んだ。功績を論じ、一子に副千戸の世襲官職を授けた。母の喪に服すため官を辞したが、喪中を奪われた。賊が新場に屯すると、環は都司李経らとともに永順・保靖の兵を率いてこれを攻撃したが、伏兵に遭い、保靖の土舎彭翅らは皆死に、環は俸給を停められて罪を戴いた。賊が平定されると、喪に服し終えることを乞い、許された。二年余り後に卒去した。年四十。給事中徐師曾がその功績を称え、詔により光禄卿を追贈し、さらに一子に副千戸の世襲官職を授け、蘇州に祠堂を建て、春秋に祭祀を行わせた。

環は軍中にあって、士卒と寝食を共にし、賜与を受けたものはすべて分け与えた。軍事が急を要する時は、終夜露宿し、あるいは数日食事を絶った。かつて肢体に姓名を書き記して言った。「戦死は本分である。先祖より受け継いだ身体、いつの日か収葬されるかもしれない。」将士は皆感激し、ゆえに向かうところ功績があった。

時に休寧の呉成器は小吏から会稽典史となった。倭寇三百余が会稽を劫略し、官軍に追われて龕山に登った。成器は遮って撃ち、ことごとく殲滅した。まもなく、また曹娥江で賊を破り、浙江布政司經歷に抜擢された。喪に遭ったが、総督胡宗憲が留任を奏請した。紹興府通判に抜擢された。功績を論じ、官位を二級進めた。成器は賊と大小数十戦して皆勝利した。士卒に先んじ、進退に方略があり、配下の者は秋毫も犯すことがなかった。士民はその戦った場所に祠堂を建てて祭祀した。

李遂

李遂、字は邦良、豊城の人。弱冠にして欧陽徳に師事した。嘉靖五年の進士に及第し、行人に授けられた。刑部郎中を歴任した。錦衣衛が盗賊十三人を送ってきたが、遂はただ一人を罪に問い、残りは皆弁明して釈放した。東宮が立てられ、天下に赦令が下った。遂は「大礼」の大獄に関わった諸臣を赦令の中に列するよう請うたが、尚書聶賢は恐れて敢えてしなかった。そこで同官の盧蕙とともに都御史王廷相に請うたところ、廷相はこれに従った。事は取り下げられたが、議論する者はこれを称賛した。まもなく礼部に転じ、尚書夏言に逆らった。事に因ってこれを弾劾し、詔獄に下され、湖州府同知に左遷された。三度遷って衢州府知府となり、蘇州・松江兵備副使に抜擢された。累遷して広東按察使となった。囚人八百余人を釈放した。山東右布政使に進んだ。江洋に盗賊が多かったので、遂は右僉都御史に遷り操江を提督した。軍政が明らかで、盗賊は敢えて起こらなかった。俺答が京師を侵犯すると、遂を召して蘇州の軍餉を監督させた。恩に謝する前に、関防符験に新たな官銜を用いるよう請うた。帝は怒り、その官籍を削った。

三十六年、倭が江北を擾す。廷議は督漕都御史が巡撫を兼ねて寇を討つ暇なきを以て、特に巡撫を設くるを請う。乃ち遂を命じて故官を以て鳳陽四府を撫せしむ。時に淮・揚三たび倭に中り、歳また大水有り、且つ日々民を役して大木を免じて京師に輸せしむ。遂は餉を請い兵を増し、民を恤み用を節し、次第に戦守の計を画す。三十八年四月、倭数百艘海門を寇す。遂諸将に語して曰く、「賊如臯に趨かば、其の衆必ず合す。合すれば侵犯の路三有り。泰州より天長・鳳・泗を逼れば、陵寢驚かん。黄橋より瓜・儀を逼りて以て南都を揺がし、運道梗まらん。若し富安より沿海東し廟湾に至らば、則ち絶地なり」と。乃ち副使劉景韶・遊撃丘升をして如臯を扼せしめ、而みずから泰州に馳せて其の衝に当たる。時に賊勢甚だ盛んにして、副将鄧城敗績し、指揮張谷死す。賊如臯に備え有るを知り、将に泰州を犯さんとす。遂急ぎ檄を飛ばし景韶・升に賊を遏せしむ。丁堰・海安・通州に連戦し、皆捷す。賊沿海東し掠め、遂喜びて曰く、「賊能く為す無し」と。景韶・升をして之に尾せしめ、而して賊を廟湾に致す。復た賊の淮安を突くを慮り、乃ち夜半城に馳せ入る。賊尋いで至り、遂参将曹克新等を督して之を姚家蕩に禦ぐ。通政唐順之・副総兵劉顯来援し、賊大いに敗れて走り、余衆を以て廟湾を保つ。景韶も亦た賊を印荘に破り、奔を追いて新河口に至り、焚斬甚だ衆し。廟湾の賊険に拠りて出でず、之を攻むること月余にして克たず。遂景韶に命じて塹を塞ぎ、木を夷ぎて壘陳を圧し、火を以て其の舟を焚かしむ。賊夜雨に乗じて潜かに遁る。官軍其の巣に拠り、奔を追いて蝦子港に至り、江北の倭悉く平ず。帝大いに喜び、璽書を以て奨励す。賊崇明三沙に駐する者、将に揚州を犯さんとす。景韶戦いて連勝し、之を劉荘に囲む。会に劉顯来援し、遂諸軍に檄して尽く顕に属せしむ。其の巣を攻め破り、奔を追いて白駒場に至り、賊尽く殄ぶ。時に遂已に南京兵部侍郎に遷る。功を論じ、一子に官を予う。銀幣を賚う。御史陳誌勘上して遂の平倭の功を上す。前後二十余戦、斬獲三千八百有奇。再び一子に世千戸を予う。俸二級を増す。

南京に蒞ること甫に数月、振武営の軍変す。振武営は、尚書張鏊健児を募りて以て倭を禦ぐ。素より驕悍なり。旧制、南軍妻有る者は、月糧米一石。無き者は、其の四を減ず。春秋二仲月、米一石銀五銭に折す。馬坤南戸部を掌り、折色の一を減ずるを奏す。督儲侍郎黄懋官又た募補する者の妻糧を革するを奏す。諸軍大いに怨む。坤に代わる者蔡克廉方に病み、諸軍歳饑を以て折色の故額を懋官に復するを求む。懋官不可とし、餉を給する又た期を過ぐ。三十九年二月都肄の日、振武の卒鼓噪して懋官の署に至る。懋官急ぎ鏊及び守備太監何綬・魏国公徐鵬挙・臨淮侯李庭竹及び遂を招き至らしむ。諸営の軍已に甲して入る。之に銀を予うれば、争いて之を攫む。懋官勢の洶々たるを見て、垣を越えて吏舎に投ず。乱卒随いて及ぶ。鵬挙・鏊慰解すれども聴かず、竟に懋官を戕し、其の屍を市に裸す。綬・鵬挙吏を遣わし黄紙を持たしめ、賞万金を給するを許す。卒すなわち之を砕く。十萬金を犒うを許すに至りて、乃ち稍く定まる。明日、諸大臣守備廳に集まる。乱卒も亦た集まる。遂大いに言して曰く、「黄侍郎自ら墻を越えて死す。諸軍特だ之を残辱すべからず。吾実を拠りて朝廷に奏し、叛を以て相誣うるに非ざるなり」と。因って衆を麾して退かしめ、妻糧及び故額を復するを許し、人ごとに一金を畀えて折価を補い、始めて散ず。遂乃ち病を托して閣を閉じ、免死券を給して以て之を慰安し、而して密かに営将に諭して首悪二十五人を掩捕せしめ、獄に繫ぐ。詔して懋官及び克廉の職を追褫し、綬・庭竹・鏊を罷め、鵬挙を任すること故の如くす。遂は功を以て議し擢げらる。叛卒三人を誅するに止まり、余は辺衛に戍す。而して三人は已に前に死す。遂嘆じて曰く、「兵此より益々驕る」と。未だ幾ばくもあらざるに、江東鏊に代わりて尚書と為る。江北池河営の卒、千戸吳欽其の幫丁を革するを以て、之を毆ち竿に縛す。幫丁とは、操守の卒に一丁を給し、往来の費を資するなり。遂已に召されて兵部左侍郎に拝せられ、言官の薦に由り擢げられて南京参賛尚書と為り、之を鎮撫す。営卒妖僧繡頭に惑わされ、復た訛言を倡う。遂繡頭を捕斬し、什伍を厳かに申し、其の名籍・年貌を書き、牌を腰間に系し、軍乃ち戢む。既にして又た奏して鎮武軍を調し陵寢を護らしむ。一日に千人を散じ、留都此より患無し。四年を越え、老を以て致仕す。

遂は博学多智、兵を用うるに長ず。然れども亦た善く逢迎す。帝将に三殿を重建せんとす。遂奏す、五河県泗水中に大杉一湧き出づ。此れ川沢の霊を効し、聖主の鼎新を助くると。帝大いに喜ぶ。又た白兔を進む。帝為に官を遣わし廟に告げしむ。此に由り益々眷遇す。卒す。太子太保を贈られ、襄敏と謚す。

弟逢、字は邦吉。進士より吏科給事中と為る。侍郎劉源清吏に下り、逢之を救う。並びに繫がれ、釈かる。戸科左給事中に進む。同官と偕に南巡を諫め、詔獄に下り、永福典史に謫せらる。終に徳安知府。遂の子材、自ら伝有り。

唐順之

唐順之、字は応徳、武進の人。祖貴、戸科給事中。父宝、永州知府。順之生まれながら異稟有り。稍く長じ、群籍を洽貫す。年二十三、嘉靖八年会試第一に挙げられ、庶吉士に改む。座主張璁翰林を疾み、諸吉士を出して他曹と為す。独り順之を留めんと欲す。固く辞し、乃ち兵部主事に調ず。疾を引いて帰る。久しくして、吏部を除く。十二年秋、詔して朝官を選びて翰林と為す。乃ち順之を編修に改め、累朝実録を校す。事将に竣らんとす。復た疾を以て告ぐ。璁其の疏を持して下さず。順之の璁を遠ざけんと欲すと有るを言う者あり。璁怒りを発し、旨を擬して吏部主事を以て罷め帰らしめ、永く復た叙せず。十八年宮僚を選ぶに至り、乃ち故官を起して春坊右司諫を兼ぬ。羅洪先・趙時春と太子に朝するを請い、復た籍を削がれて帰る。陽羨山中に卜築し、書を読みて十余年。中外論薦すれども、並びに報い寝す。

倭江南北を躙る。趙文華出でて師を視、疏を上りて順之を薦む。南京兵部主事を起す。父憂未だ終わらず、果たして出でず。喪を免れ、職方員外郎として召され、郎中に進む。出でて薊鎮の兵籍を核し、還り奏して缺伍三万有奇、見兵も亦た戦に任せざるを因み、便宜九事を条上す。総督王忬以下俱に貶秩せらる。

まもなく命を受けて南畿・浙江に赴き軍を視察し、胡宗憲と協力して賊を討つことを謀った。順之は賊を防ぐ上策は、海外でこれを遮断すべきであり、もし上陸させれば、内陸はすべて禍を受けると主張した。そこで自ら海を渡り、江陰から蛟門大洋に至り、一昼夜に六七百里を行った。従者は皆驚き嘔吐したが、順之は意気自若としていた。倭寇が崇明三沙に停泊していたので、水軍を率いて海外でこれを邀撃した。斬首百二十、その船十三隻を沈めた。太僕少卿に抜擢された。宗憲が順之の権限が軽いと上言したので、右通政を加官された。順之は賊が江北を侵犯したと聞き、急ぎ総兵官盧鏜に命じて三沙を防がせ、自らは副総兵劉顕を率いて急行して救援し、鳳陽巡撫李遂とともに姚家蕩でこれを大破した。賊は窮して廟湾に退き拠点を構えた。順之がこれに迫ると、殺傷は互角であった。李遂は包囲して賊を困らせようとしたが、順之は良策ではないと考え、兵を指揮してその陣営に迫り、火砲で攻撃したが、陥落させられなかった。三沙からまたたびたび急報が来たので、順之は再び三沙を救援し、盧鏜・劉顕を督励して進撃させたが、またも敗北した。順之は憤慨し、自ら馬を飛ばして陣を布いた。賊は高楼を築いて官軍を偵察し、順之の軍が整然としているのを見て、堅く守りを固めて出撃しなかった。劉顕は退却を請うたが、順之は許さず、刀を執ってまっすぐ前進し、賊の陣営から百余歩のところまで迫った。盧鏜・劉顕は敗北を恐れ、固く要請して順之を帰還させた。時は盛夏で、二か月間軍船に居住したため、病を得て、太倉に戻った。李遂が南京に転任となったので、順之を右僉都御史に抜擢し、李遂に代わって巡撫とした。順之の病は重かったが、軍事が差し迫っているため、辞退できなかった。長江を渡ると、賊はすでに李遂らによって滅ぼされていた。淮・揚はちょうど大飢饉に遭い、海防の善後策九か条を上奏した。三十九年春、汛期が到来した。病をおして海を渡り、焦山を過ぎ、通州に至って卒去した。享年五十四。訃報が伝わると、祭礼と葬儀が賜られた。故事によれば、四品官には祭礼のみを賜うが、順之は功労により葬儀をも賜った。

順之は学問において窺わざる所なく、天文・楽律・地理・兵法・弧矢・勾股・壬奇・禽乙に至るまで、ことごとくその根源を極めた。古今の書籍をすべて取り上げ、分析し補綴し、区分して部類を定め、『左』『右』『文』『武』『儒』『稗』の六編を著して世に伝え、学者はその奥義を測り知ることができなかった。古文を書き、広大で曲折があり大家の風格があった。生涯苦節を励み、戸板を外して寝台とし、敷き布団を飾らなかった。また王畿から良知説を聞き、戸を閉じて端坐し、一か月間寝食を忘れ、多く自得するところがあった。晩年、文華の推薦により、出処を羅洪先に相談した。洪先は言った、「以前すでに官籍に名を連ねた以上、この身は我が有にあらず、どうして処士と同等でありえようか」と。順之は遂に出仕したが、名声はこれによってかなり損なわれた。崇禎年間、襄文と追謚された。

子の鶴徵は、隆慶五年の進士。太常卿を歴任した。また博学で知られた。

賛に曰く、朱紈は海禁を厳しくして、盗賊の根源を絶とうとしたが、その論は甚だ正しい。しかし士大夫を指弾し、彼らが堪えられないようにしたため、ついに彼らによって阻害され、憤慨して死んだ。気質が累となるとは、悲しいことである。寇患が甚だ熾烈な時、撲滅を恐れず、便宜的に誅殺を行うのは、その職責によるものであるのに、それを罪とするのは、法を厳格に運用しすぎた過ちである。張経は功績が賞されず、冤罪で殺され、倭寇の毒を熟させてこれを助攻し、東南は数十年にわたって塗炭の苦しみを味わった。讒言する賊の罪は、誅殺に足りないほどであろうか。宗憲は奢侈と汚職によって汚名を被った。しかし徐海・汪直の徒が死ななければ、残した禍患はさらに予測できなかったであろう。曹邦輔・任環の戦功は記録すべきであり、李遂・唐順之の防衛は適切であった。そして邦輔が師尚詔を平定し、李遂が乱卒を鎮めた功績は特に顕著である。彼らが倭寇の事変に終始関わったので、ここに並べて記した。