○陳九疇、翟鵬(張漢)、孫繼魯、曾銑、丁汝夔、楊守謙、商大節、王忬、楊選
陳九疇
陳九疇、字は禹學、曹州の人である。倜儻にして権略多し。諸生たる時より、すでに武事を習う。弘治十五年進士となる。刑部主事に任ぜられる。重囚が獄を越えたとき、人々は敢えて近づかず、九疇は槊を挺ててこれを追い捕らえ、ここに武健の名を得た。正徳初め、南畿に囚を録し、劉瑾に忤い、陽山知県に謫せられる。瑾敗れて、故官に復す。郎中を歴任し、粛州兵備副使に遷る。総督彭澤が土魯番に賂を贈るに当たり、ハミ都督の写亦虎仙を遣わした。九疇は奮って曰く、「彭公は天子の命を受け、辺疆を制す。身をもって利害に当たることができず、ただ模棱たるを為すのみとは何ぞや」と。ここに卒伍を練り、営壘を繕い、常に大敵に臨むが如くす。写亦虎仙は果たして賊に通ず。番酋の速檀満速児が嘉峪関を犯し、遊撃の芮寧敗死す。まもなくまた斬巴思らを遣わし、駱駝や馬を以て和を乞うが、密かに書を虎仙及びその姻党の阿剌思罕児、失拜煙答らに遺し、内応せしむ。九疇は賊の計を知り、阿剌思罕児及び斬巴思を捕らえて獄に付す。通事の毛鑑らにこれを守らしむ。鑑らはもとよりこれと通じ、逃がさんと欲し、諸番は皆隙を窺って変を為さんとす。九疇これを覚り、鑑らを誅す。賊は内応を失い、ここに帳を抜いて走る。兵部尚書の王瓊は澤を憎み、九疇を併せて失事の罪に坐し、法司の獄に逮系す。失拜煙答が獄中で死したことを罪として、その名を除く。
世宗即位し、故官に起用される。まもなく陝西按察使に進む。数ヶ月を経て、甘粛総兵官の李隆が部卒を嗾かせて巡撫の許銘を毆殺し、その屍を焼く。ここに九疇を右僉都御史に擢て、甘粛を巡撫せしめ、銘の事を按験し、隆及び乱卒の首謀者を誅す。九疇が鎮に着くと、額軍七万余、存する者は半に及ばず、かつ多くは老弱なりと上言し、召募を許すよう請う。詔して可とす。
初め、土魯番敗れて遁ぐるとき、都指揮の王輔が速檀満速児及び牙木蘭ともに砲にて死せりと言い、九疇これを聞上す。後、二人が表を上って通貢を求め、帝は怪しみ且つ疑う。而して京師に在る番人の蜚語を為すに、粛州の囲みは九疇の激する所に由ると言い、帝ますます信ず。時に百戸の王邦奇が楊廷和、彭澤を訐で、その詞九疇に連なる。吏部尚書の桂萼らは九疇を縁りて澤を傾けんと欲し、ここに通貢を許し、而して九疇の激変の状を追治せんことを請う。大学士の一清は事すでに前に決せりと上言す。帝聴かず、詔獄に逮下す。刑部尚書の胡世寧が朝に言うこと、「世寧、刑を司りて忠臣を殺さば、寧ろ世寧を殺せ」と。ここに疏を上って冤を訟ぎて曰く、「番人変詐にして、妄りに謗讟を騰せ、我が謀臣を害せんと欲するのみ。その謀を蓄えて内寇するは、日すでに久し。一旦兵を擁して深入し、諸番内応を約す。九疇が機先を制して奮って誅戮し、且つ近くは属夷を遣わしてその営帳を卻け、遠くは瓦剌に交わりてその窟巣を擾わし、彼をして内顧して返らしめざれば、則ち粛州の孤城豈に復た保つべけんや。臣以為らく、文臣にして勇あり兵を知り身を忘れて国に殉ずる者は、九疇に如くは無し。宜なるかな、番人の深く忌みて殺さんと欲する所以なり。ただ部下の卒の妄報を聴き、満速児らを以てすでに死せりと為したるは、則ちその罪免れざる有り」と。やがて、法司が獄を具するもまた世寧の言の如し。帝ついに萼らの言に中り、極辺に謫戍す。十年を居て、赦されて還る。
翟鵬
二十年八月、俺答が山西の内地に入る。兵部は大臣を遣わして軍儲を督せんことを請い、ここに鵬を薦む。ここに故官に起用し、畿輔、山西、河南の軍務を整飭し兼ねて餉を督せしむ。鵬馳せ至るも、俺答はすでに飽きて去り、而して吉囊の軍また汾州、石州ら諸州を寇す。鵬は往来馳駆するも、挫くところ有ること能わず。寇退きて、ここに召還さる。明年三月、宣大総督の樊継祖罷められ、鵬を兵部右侍郎に除してこれに代わる。上疏して言う、「将吏、掠われたる人に遇い牧畜近塞に在れば、宜しく多方に招徠すべし。降を殺して功を邀う者は、罪すべし。寇入り、官軍敵を遏ぐるは功無くとも、竟にこれに頼りて安んずる者は、当に録すべし。もし賊衆我寡にして、奮身戦い、傷折有りとも、未だ生民を残害せざる者は、罪は当に原うべし。法に於いては、俘馘は功を論じ、損挫は罪を論ず。乃ち摧鋒陷陣して斬首に暇あらず、而して後に在って掩取する者は反って積級して功を受け、逡巡観望して幸いに苟全し、而して力戦当先する者は反って損軍を以て罪を治せらる。戎律の平たるに非ず」と。帝皆その議に従う。時に降人の寇まさに大いに入らんとすと言う有り、鵬連ねて兵餉を乞う。帝怒り、職を革して閑住せしめ、ここに総督官を罷めて設けず。鵬事を受くること僅かに百日にして去る。
同年七月、俺答が再び大挙して山西に入り、太原・潞安を掠奪し放った。兵部が総督の復設を請うたので、鵬を旧官に起用し、山東・河南の軍務を兼ねて督させ、巡撫以下はすべてその節制に従うよう命じた。鵬が任命を受けた時には、敵はすでに塞外に出ていた。ただちに朔州へ急行し、陝西・薊・遼の客兵八支隊、および宣府・大同の三関の主兵を調達し、兼ねて土着の兵を募り、驍勇精鋭な者十万を選び、良将に統率させて四つの営を設け、塞上に分布させ、各営が一面を担当するよう求めた。敵が国境に入れば、遊兵がこれを挑発し、追撃を誘い、諸営が挟撃する。もし防ぎきれない場合は、急いで関南に退き、城壁に依拠して守り、疲れて帰還する敵を邀撃する。帝はこれに従った。鵬はそこで壕を浚い垣を築き、辺境の城壁三百九十余里を修復し、新たに墩台二百九十二を増築し、墩台を守る堡塁十四を設け、営舎一千五百間を建て、土地一万四千九百余頃を得て、兵士千五百人を募り、人ごとに五十畝を与え、倉庫の備蓄を数えきれないほど節約した。上疏して、東は平刑から西は偏関まで、土地を区画して分守することを請うた。遊兵三支隊を増やし、雁門・寧武・偏関に分駐させた。敵が城壁を攻めれば、守備兵が防ぎ、遊兵が関を出て挟撃する、これが守の中に戦いありである。東は大同、西は老営堡で、地の利に従って伏兵を設け、敵の向かうところを伺う。また宣府・大同・三関の間に、それぞれ精兵を配置し、別に戦士六千を選び、二つの営に分け、緊急時には総督武臣の張鳳に命じて機に応じて策応させる、これが戦いの中に守りありである。帝はその議に従い、さらに今後敵に遭遇した時、逗留する者は都指揮以下はただちに斬り、総兵官以下はまず死罪の罪状を取って奏請するよう命じた。
先に、鵬が千戸の火力赤に兵三百を率いさせて豊州灘まで偵察に行かせたが、敵を見なかった。さらに精鋭百人を選び、遠く豊州西北まで行かせたところ、百余人の馬を放牧する者に遭遇し、撃って二十三の首級を斬り、その馬を奪って帰還した。塞内に入る前に、敵が大挙して到来し、官軍は飢え疲れ、獲たものをすべて捨てて逃げた。鵬は実状を詳細に陳述した。帝は将兵が敢えて深く入ったことを評価し、やはり昇進と賞賜を行った。旧例では、兵士はすべて鎮城で団結して訓練し、警報を聞けば出戦した。辺境の患いが激しくなってからは、毎年夏秋の間に辺境の堡塁に分駐し、これを暗伏と呼んだ。鵬は秋に入ればすべて塞上に赴かせ、土地を区画して分守させ、これを擺邊と呼び、九月中旬に鎮城に還るよう請うた。これが令として定められた。
初め、鵬が衛輝にいた時、入朝しようとして、行李は寂しいものであった。通判の王江が金を懐にしてこれを贈ろうとした。鵬は言った、「私の平素の行いがまだ人に信じられていないということか」。王江は恥じて退いた。その清廉さはこのようであった。隆慶初年、官職を回復した。
張漢は鐘祥の人である。鵬の代わりに任じられた時、敵はすでに境外に出ていたので、翁萬達に宣府・大同の総督を命じ、張漢には専ら畿輔・河南・山東の諸軍を督させることにした。張漢は選将・練兵・信賞・必罰の四事を条上し、大将が偏裨を専断で殺すことを得させ、総督もまた大将を斬ることを得るように請うた。人は退却や怯懦が必ず死に至ると知れば、自ら争って敵に赴くだろう。帝は臣下に権力を仮すことを欲せず、これを嫌った。兵部が言うには、張漢は辺境の事に老練で、言うところはすべて従うべきである。帝は再議を命じた。部臣はそこで張漢の議はすべて妥当であるが、大将を専殺することは『会典』に合わないと言った。帝はしばらくこれを許可した。ちょうど考察拾遺があり、言官が張漢の剛愎を弾劾した。そこで枷鎖して詔獄に繋ぎ、鎮西衛に謫戍した。数年後、辺境に警報があり、御史の陳九德が張漢を推薦した。帝は怒り、九德を斥けて民とした。張漢は戍所に二十年居住して卒した。隆慶初年、兵部尚書を追贈された。
孫継魯
曾銑
二十五年夏、原官を以て陝西三辺軍務を総督す。寇十余万騎寧塞営より入り、大いに延安・慶陽の境を掠む。銑兵数千を率い塞門に駐し、而して前参将李珍を遣わし寇の巣を馬梁山陰に搗き、首百余級を斬る。寇これを聞き、始めて遁く。捷奏し、銀幣を賚う。既にして寇屡く入り、遊撃高極死す。副総兵蕭漢敗績す。銑諸将の罪を疏し、律の如く治む。時に套寇塞に近く牧し、零騎往来し、居民敢えて樵采せず。銑方に塞を築き、擾らさるるを慮り、乃ち鋭卒を選びて之を撃つ。寇稍く北し、間を以て軽騎を入れ掠む。銑復た諸軍を率い之を駆り遠く徙さしむ。参将李珍及び韓欽功多し。詔して銑の俸一級を増し、銀幣を賜うこと有加なり。
廷臣は上の意向が曾銑に在るを見て、一に曾銑の言う如くにす。帝は忽ち手詔を出して輔臣に諭して曰く、「今套賊を逐わんとす。師果たして名有りや。兵食果たして余り有りや。成功必ず可ならんや。一曾銑何ぞ言うに足らん。先民の荼毒に如何」と。初め、曾銑が建議する時、輔臣夏言はこれに倚りて大功を成さんと欲し、これを主ること甚だ力めり。是に及び、大いに駭き、帝の自ら裁断せんことを請う。帝は手詔を刊して、与議の諸臣に遍く給するを命ず。時に厳嵩は方に夏言と隙有り、これに因りて以て夏言を傾けんと欲し、乃ち極めて套は必ず復すべからざるを言う。陰に夏言を詆り、故に罪を引き罷むるを乞い、以て帝の怒りを激す。旋って復た顕に夏言を攻め、謂う「向に旨を擬して曾銑を褒むるに、臣は皆預り聞かず」と。兵部尚書王以旗は廷臣を会して覆奏す。遂に尽く前説を反し、套は復すべからざるを言う。帝は乃ち官を遣わして曾銑を逮え、王以旗を出してこれに代わらしむ。科道官の言わざるを責め、悉く廷に杖ち、俸を停むること四月。帝は曾銑を怒るも、然れども之を殺すの意無かりき。咸寧侯仇鸞が甘粛に鎮する時、阻撓を以て曾銑に劾せられ、逮問せらる。厳嵩は故に雅く仇鸞に親しむ。曾銑の善くする同邑の蘇綱なる者、夏言の継妻の父なるを知り、蘇綱が曾銑・夏言と嘗て交関し伝語する有り。乃ち仇鸞に代わり獄中に疏を草し、曾銑が敗を掩いて奏せず、軍餉巨万を克し、子の曾淳を遣わして親しむ所の蘇綱に属して当途に賂するを誣う。その言は絶えて左験無し。然るに帝は深くその説に入り、直ちに曾淳・蘇綱を詔獄に下す。給事中斉譽等は帝の曾銑を怒ること甚だしきを見て、早く刑章を正すことを請う。帝は斉譽を奸に党し事を避くると責め、級を鐫じて外任に調ず。曾銑の至るに及び、法司は辺帥の城砦を失陷する者の律に比擬す。帝は必ず正条に依らしめんと欲し、曾銑を近侍に交結する律に当てて斬とし、妻子を二千里に流す。即日行刑す。曾銑既に死し、夏言も亦坐して斬とされ、而して仇鸞は獄を出づ。
曾銑は胆略有り、兵を用いるに長ず。歳除の夜、猝かに諸将に出でるを命ず。時に塞上に警無く、諸将は方に酒を置き、行かんと欲せず、鈴卒に賂して曾銑の妾に緩むるを求む。曾銑は鈴卒を斬りて以て徇す。諸将は已むを得ず、丙夜に甲を被りて行く。果たして寇に遇い、これを撃ち破る。翌日入賀し畢り、前に進みて故を請う。曾銑は笑いて曰く、「烏鵲の時に非ざるに噪くを見て、故にこれを知れるのみ」と。皆大いに服す。曾銑は廉潔なり。既に歿して、家に余貲無し。
隆慶初め、給事中辛自修・御史王好問、曾銑の志は功を立つるに在りて、身重辟に罹り、識ると識らざるとを問わず、痛悼すること今に至ると訟う。詔して兵部尚書を贈り、諡して襄湣とす。万暦中、御史周磐の請に従い、祠を陝西に建つ。
李珍という者は、故に事に坐して官を失う。曾銑は徒中よりこれを録用し、復た戦功を積みて参将に至る。曾銑既に誣えらるるや、詔して給事中申价等を遣わして往きて核せしむ。因りて並びに李珍と指揮の田世威・郭震とを劾して曾銑の爪牙と為す。これを詔獄に下す。連ねて巡撫の謝蘭・張問行、御史の盛唐、副総兵の李琦等に及び、皆斥罰せらる。曾淳・蘇綱に贓を勒め、陣亡の軍及び居民の難に被る者を恤う。曾銑は嘗て府衛に檄して銀三万両を以て車仗を制せしむ。亦た曾淳に責めて償わしむ。且つ酷刑を以て李珍を拷し、これに実に餉を克し賂を行える事を令す。幾くんか死せんとす。卒して承わず。曾淳は是を用いて免る。李珍は竟に死を論ぜられ、田世威・郭震は戍に謫せらる。その後、俺答は歳々入寇す。帝は卒して悟らず、輒ち曰く、「これ曾銑の辺を開かんと欲するが故に、行って報復するのみ」と。
丁汝夔
丁汝夔、字は大章、霑化の人。正徳十六年進士。庶吉士に改む。嘉靖初め、礼部主事を授かる。「大礼」を争い杖せられ、吏部に調ず。累官して山西左布政使に至り、右副都御史に擢てられ、甘粛を巡撫す。歴て保定・応天を撫す。入りて左副都御史と為る。事に坐して湖広参政に調ず。復た故官を以て河南を撫す。歴て吏部左・右侍郎。二十八年十月兵部尚書兼団営督に拝す。辺務十事を条して上る。皆報可す。是の時に当たり、俺答は歳々辺を寇し、羽書疊り至る。天子は方に西内に斎居し、兵事を厭い、而して大学士厳嵩は権を窃み、辺帥は率ね賄を以て進み、疆事大いに壊る。その明年八月甲子、俺答宣府を犯す。諸将これを拒ぎて入るを得ず。丁汝夔は即ち上言す、「寇宣府に志を得ずれば、必ず東に遼・薊に趨かん。請う諸将に勅して厳に備えを為さしめよ。潮河川は乃ち陵京の門戸、宜しく遼東の一軍を調して白馬関に赴かしめ、保定の一軍を古北口に赴かしむべし」と。これに従う。寇は果たして引きて東し、大興州に駐り、古北口を去ること百七十里。大同総兵官仇鸞これを知り、率いる所の部を馳せて居庸の南に至る。順天巡撫王汝孝は薊州に駐り、誤って諜者の謂う寇の西北に向かうを聴く。丁汝夔これを信じ、仇鸞に令して大同に還り東す勿からしむるを請う。詔して後報を俟たしむ。興州の報の至るに及び、仇鸞に命じて居庸に壁し、王汝孝に薊州を守らしむ。未だ幾ばくもなく、寇は潮河川に循り南下して古北口に至り、関城に薄る。総兵官羅希韓・盧鉞は卻く能わず、王汝孝の師大いに潰ゆ。寇は遂に石匣営より密雲に達し、転じて懐柔を掠め、順義城を囲む。保定の兵の城内に駐するを聞き、乃ち解けて南し、通州に至る。白河に阻まれて渡るを得ず、河東の孤山に駐り、分かれて昌平・三河を剽し、諸帝陵を犯し、殺掠算うべからず。
京師が戒厳し、各鎮に王事に勤めるよう召し寄せた。文武大臣各九人を分遣し、京城の九門を守らせ、定西侯蔣傳と吏部侍郎王邦瑞がこれを総督し、錦衣都督陸炳と礼部侍郎王用賓、給事中・御史各四人をもって、皇城四門を巡視させた。大小の文臣で兵事を知る者は、許汝夔に委用を許すとの詔があった。汝夔は八事を条上し、正兵四営を城外の四隅に、奇兵九営を九門外の近郊に配置することを請うた。正兵営は各一万、奇兵営は各六千。急ぎ大臣二人を遣わして通州・涿州を経略させ、かつ罪を負って廃された諸将を釈放して功を立て罪を贖わせるよう求めた。帝はすべて従った。しかしこの時、冊籍は皆虚数であった。禁軍はわずか四五万で、老弱がその半数、また半数は内外の提督大臣の家に使役されて帰伍せず、在伍の者も涙を流して進もうとしなかった。武庫に甲仗を求めると、主庫の宦官が常例を強要し、時を定めずに発給した。久しくして軍を整えることができなかった。そこで居民と四方の武挙に応じた諸生を発して城に登らせ、かつ大いに賞格を頒布した。仇鸞は副将徐玨・遊撃張騰らと軍を白河の西に置き、楊守謙は副将朱楫らと軍を東直門外に置き、諸路の援兵もやや集まった。議する者は概ね城内が手薄で、城外に辺兵があって恃むに足るとし、京軍を移して内訌に備えるべきだとし、汝夔もまたそう考えた。そこで禁軍を量り掣いて十王府・厭寿寺前に入営させた。営務を掌る者である成国公朱希忠は兵少なくして譴責を受けることを恐れ、東西に抽掣して掩飾の計を弄した。兵士は疲れて休息を得ず、怨言を発し、誰が調達したのか分からなかったので、争って汝夔を罵った。鸞の兵は紀律なく、民間を掠奪した。帝はちょうど鸞を眷顧していたので、捕らえるなと命じた。汝夔もまた鸞の兵を治めるなと戒めた。民はますます怨怒した。
寇の遊騎が四方に出没し、都城から三十里のところまで来た。辛巳の日に至り、ついに通州から河を渡って西進し、前鋒七百騎が安定門外の教場に駐屯した。翌日、大営が都城に迫った。西山・黄村・沙河・大小榆河を分掠し、畿甸は大いに震動した。初め、寇が通州に迫った時、部が遣わした偵察の卒は城を出て数里も行かぬうちに、途中で傷ついた者に出会うと、すぐに奔還して妄言を弄して汝夔を欺いた。後にその言が当たらぬと分かっても、汝夔は罪に問わなかった。他の卒を募って偵察させると、また前のようであった。このため寇の衆寡遠近を皆知ることができなかった。
宣府総兵官趙国忠、参将趙臣・孫時謙・袁正、遊撃姚冕、山西遊撃羅恭らが、それぞれ兵を率いて入援し、玉河の諸所に営した。詔して兵部に諸鎮の兵数を核実させ、賞賚を行わせた。王事に勤める兵は先後五六万人に上り、皆変報を聞くや即時に赴いたが、糧秣を携帯していなかった。制を下して師を犒労しようとしたが、牛酒が出所がなかった。二三日過ぎて、援軍はようやく数枚の餅餌を得ただけで、ますます飢え疲れて戦に耐えられなかった。
帝は久しく朝を視ず、軍事について面と向かって奏上する機会がなかった。廷臣が多く言上したが、帝は許さなかった。礼部尚書徐階がまた固く請うたので、帝はようやく許した。癸未の日、群臣は昧爽に入朝した。日晡に至り、帝はようやく奉天殿に御し、一言も発することなく、ただ階に命じて勅諭を奉じて午門に至り、群臣を集めて厳しく責めただけであった。帝は文武の臣が任事に堪えぬことを怒り、特に汝夔を怒った。吏部はこれに因って楊守礼・劉源清・史道・許論を家から起用することを請うた。汝夔は自ら安からず、諸将を督いて出城して戦うことを請い、侍郎謝蘭に部事を署理させた。帝はその推委を責め、従前の通り居中するよう命じた。寇は内縦横に地を掠めて八日、諸軍は一矢も発しようとしなかった。寇はもとより攻城の意がなく、かつ掠奪が望外に多かったので、輜重を整え、悠々として白羊口に向かって去った。
事態が切迫していた時、帝は諸将に戦いを急がせた。汝夔は嵩に諮った。嵩は言った、「塞上での敗戦は或いは掩えることもできようが、輦下で失利すれば、帝は知らぬことがない。誰がその咎を執るのか? 寇は飽くに及んで自ら飏げ去るのみである」。汝夔はこれにより敢えて主戦せず、諸将もまたますます営を閉ざし、寇はこれによって肆に掠奪して忌憚するところがなかった。既に退いた後、汝夔・蘭および戸部・工部尚書李士翺・胡松、侍郎駱颙・孫禬は皆罪を引いた。命じて士翺の職を革め、松の俸を停め、ともに罪を戴いて事を弁じさせ、侍郎は各々俸を五月停め、汝夔を獄に下した。帝は大いに誅戮を行って後を懲らしめようとした。汝夔は窮し、嵩に救いを求めた。嵩は言った、「私がいる以上、必ずや公を死なせはしない」。そして帝の怒りが甚だしいのを見て、ついに敢えて言わなかった。給事中・御史が汝夔を劾奏して寇を防ぐに策なしとした。帝は彼らが早く言わなかったことを責め、俸禄を差等を以って奪った。獄を具えるよう急がせ、法司の奏上が緩やかなのを怒り、都御史屠僑・刑部侍郎彭黯・大理卿沈良才を各々四十杖に処し、俸禄を五等降らせた。刑科の張侃らが故事に循って覆奏したので、各々五十杖に処し、侃を斥けて民とした。汝夔を守備不設の罪に坐し、即日に市で斬り、その首を梟し、妻を三千里に流し、子を鉄嶺に戍らせた。汝夔は臨刑に際し、初めて嵩に売られたことを悔いた。
廷訊の時、職方郎王尚学が従坐に当たるはずであった。汝夔は言った、「罪は尚書にあり、郎中は関わりなし」。これにより死罪を減じて辺境に戍らせる論となった。市に赴く時、左右に問うた、「王郎中は免れたか?」。尚学の子の化がちょうど傍らにいて、謝して言った、「公の恩を蒙り、免れました」。汝夔は嘆いて言った、「汝の父は私に速やかに戦うよう勧めたが、私は政府に誤られた。汝の父が免れたなら、私は死んでも恨みなし」。聞く者は涙を流した。隆慶初年に官を復した。
汝夔が既に獄に下されると、併せて汝孝・希韓・鉞を逮えた。寇が未だ尽く去っていなかったので、官校は敢えて前に進まず、汝孝らが寇を白羊口に追っていると託言し、遠くて急に至れないと言った。逮えられた時、死罪と論じられた。帝の怒りは漸く解け、汝孝がまた首功として聞こえたので、命じて皆死罪を減じて辺境に戍らせた。
楊守謙
楊守謙、字は允亨、徐州の人。父の志学、字は遜夫、弘治六年の進士。大同・寧夏を巡撫し、辺境の民に愛された。累官して刑部尚書に至り、卒し、諡して康恵といった。
守謙が延綏に至り、言上した、「軍士を激勵するには重賞にある。今、一首級を斬る者に一級を昇進させ、望まぬ者には白金三十両を与えると定めている。賞は既に薄く、また文書で察勘するため、動輒歳月に及び、このため士心が奮わない。近ごろ宣府・大同で事態が切迫し、やや賞格を加えたが、その数を倍増し、鎮巡官が検明したら即時に給するよう請う。およそ増級・襲蔭は官ある者が利とし、窮卒は賞を覬うのみである」。兵部は然りとし、首級一級を斬る者に五十両を与えると定め、令として著した。以前の山西での辺境修築の功により、俸禄一級を増し、金幣を加えて賜った。新設の遊兵に月餉を給し、倉儲を発して飢えた卒に貸与するよう請うたが、皆許しを報じられた。
二十九年、副都御史に進み、保定を巡撫し、兼ねて紫荊諸関を督す。鎮を去るの日、城を傾けて号泣し、数百里外まで追送する者あり。未だ幾ばくもせず、俺答が入寇す。守謙は師を率いて倍道して入援す。帝その至るを聞き、甚だ喜び、崇文門外に営せしむ。時に副総兵朱楫、参将祝福・馮登も各々兵を以て至り、人心稍く安んず。寇の遊騎散掠して枯柳諸村に及び、京城を去ること二十里。守謙及び楫等の兵は営を移して東直門外に駐す。詔して仇鸞とともに京城及び各路の援兵を調度し、機に相い戦守せしむ。
寇都城に薄し、諸将高秉元・徐鏞等これを防ぐも、却くることができず。帝は鸞を大将軍に拝し、守謙を兵部右侍郎に進め、内外諸軍事の提督に協同せしむ。鸞は時に孤山より還り、東直門に至りて観望し、死人六級の首を斬り、功を報ず。守謙は孤軍を以て俺答の営に薄し、而して陣に後継なく、敢えて戦わず。帝聞きて悦ばず。而して尚書丁汝夔は師の喪わるを慮り、軽く戦うことを戒む。諸将は城より遠く、守謙の戦わざるを見て、亦た壁を堅くし、輒ち汝夔及び守謙を引きて言い訳と為す。流言禁中に聞こえ、帝益々怒る。
初め、寇安定門に抵る。詔して守謙と楫等に合撃せしむも、敢えて前進する者なし。守謙も亦た部檄無きを委ね、第に備えを申し儆ますのみ。寇遂に城外の廬舎を毀つ。城の西北隅火光天を燭し、内臣の園宅其の中に在り、環りて帝の前に泣き、将帥は文臣に制せられ、故に寇此に至るを得たりと称す。帝怒りて曰く、「守謙は衆を擁して自ら全うす。朕親しく旨を降して戦いを促す。何ぞ部檄を以て解することあらんや」と。寇退き、遂に守謙と汝夔を執りて廷に鞫う。坐すに軍機を失誤するに因り、即日市にて戮す。守謙臨刑の時、慨然として曰く、「臣は王事に勤むるを以て却って罪を獲たり。讒賊の口実、聖聡を蔽う。皇天後土、臣が此の心を知る。死すとも何の恨みかあらん」と。辺陲の吏士、守謙の死するを知り、涕を流さざる者なし。
守謙は坦易にして城府無く、下を馭するに恩意多し。官を守るに廉、位は開府に至るも、蕭然として寒士の若し。然れども性遅重なり。客に之を戦わしむるを勧むる者あり。応えて曰く、「周亜夫は何人ぞや」と。客曰く、「公誤れり。今日何ぞ漢法に比すべけんや」と。守謙納れず、竟に罪を得たり。隆慶初、兵部尚書を贈り、謚して恪湣と曰う。
商大節
仇鸞大将軍と為り、尽く中外の兵馬を統す。大節の独り一軍を為し、其の節制を受けざるを悪み、之を困らんと欲す。乃ち画地して分守することを請い、京師四郊を大節に委ぬ。大節言う、「臣は京城を経略すと雖も、実に重兵を有し専ら戦守の責を負う者に非ず。京城四郊の利害、鸞は専ら臣を以て当たらんと欲す。臣が節制する者は、止だ巡捕軍のみ。鸞又頻りに調遣し、奸宄猝発すれば、誰か為に捍禦せんや」と。争う所甚だ晰なり。而して帝方に鸞を寵し、人をして其の事を撓がしむるを欲せず、大節を責めて奸を懐き難を避くるとし、直ちに詔獄に下す。法司旨に希い、大節を斬に当つ。厳嵩言う、「大節誠に罪有り。但だ法司の律を引くは是に非ず。幸いに其の死を赦し、極辺に戍せしむべし」と。亦た聴かず。時に三十年四月なり。
明年八月、鸞死す。大節の故部曲石鏜・孫九思等数百人闕に伏して冤を訟ぎ、章再び上る。兵部侍郎張時徹等言う、「大節は逆鸞に制肘せられ、以て法に抵る。群情に順いて之を赦すことを乞う」と。帝怒り、時徹の二秩を鐫る。明年竟に獄に卒す。隆慶初、故官に復し、兵部尚書を贈り、謚して端湣と曰う。
王忬
王忬、字は民応、太倉の人。父倬、南京兵部右侍郎、謹厚を以て称せらる。忬は嘉靖二十年の進士に登り、行人を授かり、御史に遷る。皇太子出閣す。疏を以て武宗の青宮に居ししことを戒めと為す。又た東廠太監宋興を劾して罷む。出でて河東の塩政を視、疾を以て帰る。已にして起きて湖広を按じ、復た順天を按ず。
二十九年、俺答大挙して古北口を犯す。忬奏言す、潮河川に径道有り、一日夜にして通州に達すべしと。因りて疾馳して通州に至り、守禦の計を為し、東岸に在る舟楫を尽く徙す。夜半、寇果たして大いに至る。渡ること得ず、遂に河東に壁す。帝密かに中使を遣わして軍を覘わしむ。忬方に士を厲し城に乗するを見る。還りて奏す。帝大いに喜ぶ。副都御史王儀は通州を守る。御史姜廷頤其の職にたらざるを劾す。忬も亦た儀が士卒を縦して大同軍を虐ぐると言う。大同軍とは、仇鸞の兵なり。帝直ちに命じて儀を逮え、而して忬を超擢して右僉都御史と為し、之に代わらしむ。寇退き、忬は難民を振恤し、京師の外郭を築き、通州城を修め、張家湾の大小二堡を築き、沿河に敵臺を置くことを請う。皆報可す。尋いで通州・易州の守禦大臣を罷め、忬を召し還す。
三十一年、出でて山東を撫す。甫く三月、浙江の倭寇急なるを以て、命じて忬に軍務を提督せしめ、浙江及び福・興・漳・泉の四府を巡視せしむ。先後方略十二事を上す。参将俞大猷・湯克寛を任じ、又た奏して参将尹鳳・盧鏜の繋がるるを釈せしむ。賊温州を犯す。克寛之を破る。其の昌国衛に拠る者は、大猷に撃退せらる。而して賊首汪直復た島倭及び漳・泉の群盗を糾い、連ねて巨艦百余りを以て海を蔽いて至る。浜海数千里同じく警を告ぐ。上海及び南匯・呉淞・乍浦・蓁嶼諸所皆陥ち、蘇・松・寧・紹諸衛所州県焚掠せらるる者二十余り。内地に三月留まり、飽いて去る。忬乃ち言う、将士逐い毀ち其の船五十余艘と。是に於て先に奪いし文武将吏の俸、皆復するを得。尋いで給事王国禎の言に因り、巡撫に改む。忬方に師を視る閩中に在り。賊復た大いに至り、浙江を犯す。盧鏜等頻りに利を失う。御史趙炳然其の罪を劾す。帝特だ忬を宥す。忬因りて請う、嘉善・崇徳・桐郷・徳清・慈渓・奉化・象山の城を築き、而して寇に被れる諸府を恤わんことを。
時に既に尚書張経を遣わして諸軍を総督せしむ。大同は丁度寇に遭い、督撫蘇祐・侯鉞ともに逮問され、乃ち王忬を右副都御史に進めて大同を巡撫せしむ。秋防の事竣り、就いて兵部右侍郎を加う。薊遼総督楊博朝に還るや、即ち王忬を移して之に代わらしむ。尋いで右都御史に進む。王忬言う、「騎兵は平地に利あり、歩兵は険阻に利あり。今薊鎮は地を画して守るも、他郡の防秋馬兵八千を去り、之を歩兵に易え、歳に銀五万六千余両を省くを請う」と。之に従う。打来孫十余万騎、広寧諸処に深入し、総兵官殷尚質等戦歿す。王忬俸を停めること三月。未だ幾もせず、打来孫復た十万騎を以て青城に屯し、精騎を分遣して一片石・三道関を犯す。総兵官欧陽安之を拒ぎて却く。事聞こえ、銀幣を賜う。把都児等遷安を犯し、副総兵蒋承勛戦死す。王忬を兵部侍郎に降し、留任せしむ。
初め、帝は王忬の才を器とし、甚だ之を眷顧す。及んで其の部屡々事を失うに及び、則ち以て寇を弁ずるに足らずと為し、厳嵩に諭して兵部と計り防守の宜きを議わしむ。嵩奏す、流河口の辺墻に缺あり、故に寇之に乗じて入る、宜しく大いに辺墻を修すべし。且つ王忬をして額兵を選補し、戦守を操練せしめ、専ら他鎮の援兵に恃むべからずと。部六事を条上し、嵩の指す所の如し。帝乃ち詔を下して王忬を責め、其の罪を赦し、主兵を実にし、客兵を減じ、議の如くせしむ。ここに於て練兵の議起る。時に寇の別部瀋陽に入り、郷兵金仲良なる者其の長討頼を擒う。王忬銀幣を賜い、仲良を三級官す。防秋畢り、復た王忬の官を復す。尋いで復た瀋陽にて寇を却けたる功を用い、一子を蔭す。已にして寇復た遼陽に入り、副総兵王重禄敗績す。御史周斯盛以て聞こゆ。帝は王忬を置いて問わず、他の将吏を律に依りて治む。
初め、帝は楊博の言に従い、薊鎮の入衛兵を命じて宣大の調遣を聴かしむ。王忬言う、「古北諸口に険を守る可き無く、独り入衛卒を恃みて陵京を護る、奈何ぞ調発を聴かんや」と。帝怒りて曰く、「曩に薊鎮に練兵を令す、今一卒も練せず、防秋に遇う毎に輒ち他鎮の兵を調す、兵部詳しく議して以て聞こえよ」と。部臣言う、「薊鎮の額兵多く缺く、宜しく察して補うべし」と。乃ち郎中唐順之を遣わして往き核せしむ。還り奏す、額兵九万奇有り、今惟だ五万七千、又皆羸老なりと。王忬と総兵官安・巡撫馬珮及び諸将袁正等、倶に宜しく按治すべしと。乃ち王忬の俸を二級降す。帝因りて嵩に問う、「辺兵の入衛は、旧制なるか」と。嵩曰く、「祖宗の時は辺兵を調して内地に入るる者無し。正徳中劉六猖獗し、始めて許泰・郤永を調して辺兵を領せしめ賊を討たしむ。庚戌の変、仇鸞辺兵十八支を選び陵京を護らしむ、未だ以て薊鎮を守らしめず。何棟に至り始めて二支を借りて防守し、王忬始めて辺兵を尽く調して要害を守り、去年又た全遼の士馬を征して関に入らしめ、寇をして虚に乗じて入犯せしめ、遼左一空と為す。若し年を復た年とし、調発已まずんば、豈に糜餉のみならん、更に他の憂有らん」と。帝是より王忬を悪むこと甚だし。一月を逾え、寇清河を犯し、総兵官楊照之を禦ぎ、首級八百余を斬る。四日を越え、土蛮十万騎界嶺口に薄し、副将馬芳之を拒ぎて却く。明日、敵騎二百奔還し、芳及び安俘斬四十級。王忬猶お賚せらる。
三十八年二月、把都児・辛愛数部会州に屯し、朵顔を挟みて郷導と為し、将に西に入らんとし、声言して東とす。王忬遽かに兵を引きて東す。寇乃ち其の間を以て潘家口より入り、灤河を渡りて西し、大いに遵化・遷安・薊州・玉田を掠め、内地に五日駐まり、京師大いに震う。御史王漸・方輅遂に王忬・安及び巡撫王輪の罪を劾す。帝大怒し、安を斥け、輪を外に貶し、王忬を切責し、俸を停めて自ら効わしむるを令す。五月に至り、輅復た王忬の失策する者三、罪有る者四を劾し、遂に命じて王忬及び中軍遊撃張倫を逮えて詔獄に下す。刑部王忬を論じて辺に戍らしむ。帝手批して曰く、「諸将皆斬る、主軍令者は顧みて軽典に附するを得んや」と。改めて斬を論ず。明年の冬、竟に西市に死す。
王忬の才は本より通敏なり。其の驟に都御史を拝し、及び屡々督撫を更むるや、皆帝の特簡にして、建請する所従わざる無し。総督として数たび敗を以て聞こゆるに由り、是より漸く寵を失う。既に主兵を練せざるの言有りて、益々大いに恚り、謂う、「王忬事を怠り、我に負く」と。嵩雅より王忬を悦ばず。而して王忬の子世貞復た口語を用いて嵩の子世蕃に積みて歓を失う。厳氏の客又数たび世貞の家の瑣事を以て嵩父子に構う。楊継盛の死、世貞又た其の喪を経紀す、嵩父子大いに恨む。灤河の変聞こえ、遂に其の計を行うを得。穆宗即位し、世貞弟世懋と闕に伏して冤を訟う。故官を復し、恤を予う。
楊選
明年五月、古北口守将哨卒を遣わして塞を出だすに、朵顔衛其の四人を掠む。部長通漢関を叩き賞を索む、副総兵胡鎮之を執り、並びに其の党十余を縛る。通漢の子懼れ、執る所の哨卒を擁して墻下に至り、其の父を易えんことを請う。通漢は、辛愛の妻の義父なり、楊選辛愛を牽制せんと欲し、其の子を要して質に入らしめ、乃ち父を還し遣わす。是より諸子叠りて質と為り、半歳にして代わる。楊選馳疏して以て聞こえ、方略を自ら詡る。楊選及び巡撫徐紳等倶に賞を受く。
十月丁卯、辛愛と把都児等大挙して墻子嶺・磨刀峪より墻を潰して入犯し、京師戒厳す。帝大いに驚き、閣臣徐階に諭して曰く、「朕東に火光を見る、此の賊京を去ること遠からず、其れ兵部に令して諸軍に諭し併せ力めて剿逐せしめよ」と。明日、楊選寇の東に遁るるを以て聞こえ、将士の為に賞を祈る。帝疑い、以て階に問う。対えて曰く、「寇の営尚だ平谷に在り、楊選等は通州に往けり、追殺すと謂うは、妄なり」と。帝之を銜む。寇稍々東し、三河・順義を大いに掠め、諸将傅津等を鄭官屯に囲む。楊選副将胡鎮を遣わし総兵官孫臏・遊撃趙溱と偕に之を撃たしむ。臏・溱戦歿し、鎮力戦して脱するを得。寇内地に留まること八日退かず。紿事中李瑜遂に楊選・徐紳と副使盧鎰、参将馮詔・胡粲、遊撃厳瞻等を劾し、倶に逮えて詔獄に下す。又た二日、寇始めて北に去り、京師戒厳を解く。
初め、諜者が言うには、寇が墻子嶺を窺うと、部は檄を飛ばして厳重に待たせたが、三衛で寇の案内をした者が選を騙して潘家口へ赴かせた。寇は既に入り、選と紳は罪を得ることを恐れ、直ちに都城へ向かい、東直門外に屯し、やがて通州へ戻った。鎮らを派遣して防がせたが、また勝たなかった。薊西に家を持つ内侍は、通漢父子が実に寇を招いたと騒ぎ立てた。帝はその言葉を聞き入れ、ますます怒った。法司は選・紳・詔を守備不設の律に坐して斬罪とし、鎰らを流刑に処した。帝は錦衣朱希孝に命じて通漢を放縦して賊を勾引した罪に坐させ、また選を詔獄に下した。選は承服せず、ただ通漢父子を質に取った事のみを認め、かつ事は既に上聞したと述べた。希孝はその言葉を記録して上奏し、刑部は帝の意のままに選を死罪と論じた。即ち市で斬り、その首を梟して辺境に示し、妻子を二千里流した。紳は死罪と論じられ獄に繋がれ、詔及び鎰らは辺境に流された。帝は選を甚だ怒ったが、ただその身を誅するのみを欲したのに、法司はその妻子までも坐罪に処した。隆慶初年、ようやく釈放して還した。
賛して曰く、世宗は威柄を自ら操り、重典を用いて臣下を縛り、権を弄ぶ者はこれを借りて私を行った。ここに賜って闒冗職を廃するの徒は事敗れて辜に伏し、力を出して事に任ずるの臣もまた危法に中って戮せられ、辺臣は自ら展布するを得ず、武備は廃れた。陳九疇・翟鵬・孫継魯・曾銑は皆用いるべき才であるのに、或いは謫せられ或いは死し、その罪によるのではない。銑の復套の議は甚だ偉大である。然れども権臣が軸に当たり、敵の勢いは方に強く、たとえ廉頗・李牧であってもどうして為すことがあろうか。丁汝夔の戮は、法に照らせば誠に過ちではない。然れども戎律の弛みには由来があり、汝夔のみがその咎を蒙った。王忬・楊選は辺備に甚だ疎く、免れざるは宜なるかな。