明史

列傳第九十二 陳九疇 翟鵬 孫繼魯 曾銑 丁汝夔 楊守謙 商大節 王忬 楊選

列傳第九十二 陳九疇 翟鵬 孫繼魯 曾銑 丁汝夔 楊守謙 商大節 王忬 楊選

原文列傳第九十二 陳九疇 翟鵬 孫繼魯 曾銑 丁汝夔 楊守謙 商大節 王忬 楊選

○陳九疇、翟鵬(張漢)、孫繼魯、曾銑、丁汝夔、楊守謙、商大節、王忬、楊選

原文○陳九疇翟鵬(張漢)孫繼魯曾銑丁汝夔楊守謙商大節王抒楊選

陳九疇

原文陳九疇

陳九疇、字あざなは禹學、曹州の人である。倜儻にして権略多し。諸生たる時より、すでに武事を習う。弘治十五年進士となる。刑部主事に任ぜられる。重囚が獄を越えたとき、人々は敢えて近づかず、九疇は槊を挺ててこれを追い捕らえ、ここに武健の名を得た。正徳初め、南畿に囚を録し、劉瑾に忤い、陽山知県に謫せられる。瑾敗れて、故官に復す。郎中を歴任し、粛州兵備副使に遷る。総督彭澤が土魯番に賂を贈るに当たり、ハミ都督の写亦虎仙を遣わした。九疇は奮って曰く、「彭公は天子の命を受け、辺疆を制す。身をもって利害に当たることができず、ただ模棱たるを為すのみとは何ぞや」と。ここに卒伍を練り、営壘を繕い、常に大敵に臨むが如くす。写亦虎仙は果たして賊に通ず。番酋の速檀満速児が嘉峪関を犯し、遊撃の芮寧敗死す。まもなくまた斬巴思らを遣わし、駱駝や馬を以て和を乞うが、密かに書を虎仙及びその姻党の阿剌思罕児、失拜煙答らに遺し、内応せしむ。九疇は賊の計を知り、阿剌思罕児及び斬巴思を捕らえて獄に付す。通事の毛鑑らにこれを守らしむ。鑑らはもとよりこれと通じ、逃がさんと欲し、諸番は皆隙を窺って変を為さんとす。九疇これを覚り、鑑らを誅す。賊は内応を失い、ここに帳を抜いて走る。兵部尚書の王瓊は澤を憎み、九疇を併せて失事の罪に坐し、法司の獄に逮系す。失拜煙答が獄中で死したことを罪として、その名を除く。

原文陳九疇,字禹學,曹州人。倜儻多權略。自為諸生,即習武事。弘治十五年進士。除刑部主事。有重囚越獄,人莫敢攖,九疇挺槊逐得之,遂以武健名。正德初,錄囚南畿,忤劉瑾,謫陽山知縣。瑾敗,復故官。歷郎中,遷肅州兵備副使。總督彭澤之賂土魯番也,遣哈密都督寫亦虎仙往。九疇奮曰:「彭公受天子命,制邊疆,不能身當利害,何但模棱為!」乃練卒伍,繕營壘,常若臨大敵。寫亦虎仙果通賊。番酋速檀滿速兒犯嘉峪關,遊擊芮寧敗死。尋復遣斬巴思等以駝馬乞和,而陰遺書虎仙及其姻黨阿剌思罕兒、失拜煙答等俾內應。九疇知賊計,執阿剌思罕兒及斬巴思付獄。通事毛鑒等守之。鑒等故與通,欲縱去,眾番皆伺隙為變。九疇覺之,僇鑒等。賊失內應,遂拔帳走。兵部尚書王瓊惡澤,並坐九疇失事罪,逮系法司獄。以失拜煙答系死為罪,除其名。

世宗即位し、故官に起用される。まもなく陝西按察使に進む。数ヶ月を経て、甘粛総兵官の李隆が部卒を嗾かせて巡撫の許銘を毆殺し、その屍を焼く。ここに九疇を右僉都御史に擢て、甘粛を巡撫せしめ、銘の事を按験し、隆及び乱卒の首謀者を誅す。九疇が鎮に着くと、額軍七万余、存する者は半に及ばず、かつ多くは老弱なりと上言し、召募を許すよう請う。詔して可とす。

原文世宗即位,起故官。俄進陜西按察使。居數月,甘肅總兵官李隆嗾部卒毆殺巡撫許銘,焚其屍。乃擢九疇右僉都御史,巡撫甘肅,按驗銘事,誅隆及亂卒首事者。九疇抵鎮,言額軍七萬餘,存者不及半,且多老弱,請令召募。詔可。

嘉靖三年、速檀満速児がまた二万余騎を以て粛州を囲む。九疇は甘州より昼夜馳せて城に入り、賊を射て、賊多く死す。やがて、また兵を出してこれを撃退す。その甘州を分掠する者も、また総兵官の姜奭に敗られる。功を論じ、副都御史に進み、金幣を賜わる。九疇上言す、「番賊が敢えて入犯するは、我がその朝貢を納れ、商販を縱え、実虚を悉くせしむるが故なり。写亦虎仙の逆謀はすでに露れ、貨を権門に輸し、転じて寵幸を蒙り、辺を犯すの寇を以て、来享の賓と為す。辺臣は利害に怵れ、拱手して命を聴き、内属の番人をして勾連接引せしめ、今に至る。今すなわち漢武の大宛に興すの師の如くならずとも、光武の西域を絶つの計に效うべし。先後入貢して未だ帰らざる者二百人、宜しく両粤に安置し、その謀逆に跡ある者には刑戮を加うべし。然らば則ち賊は内に恃む所なく、必ずや復た侵軼あること無からん。もし更に包含隠忍せば、恐らくは河西十五衛所、永に息肩の期無からん」と。事下り、総制の楊一清は頗るその議を採る。四年春、致仕して帰る。

原文嘉靖三年,速檀滿速兒復以二萬餘騎圍肅州。九疇自甘州晝夜馳入城,射賊,賊多死。已,又出兵擊走之。其分掠甘州者,亦為總兵官姜奭所敗。論功,進副都御史,賚金幣。九疇上言:「番賊敢入犯者,以我納其朝貢,縱商販,使得稔虛實也。寫亦虎仙逆謀已露,輸貨權門,轉蒙寵幸,以犯邊之寇,為來享之賓。邊臣怵利害,拱手聽命,致內屬番人勾連接引,以至於今。今即不能如漢武興大宛之師,亦當效光武絕西域之計。先後入貢未歸者二百人,宜安置兩粵,其謀逆有跡者加之刑僇,則賊內無所恃,必不復有侵軼。倘更包含隱忍,恐河西十五衛所,永無息肩之期也。」事下,總制楊一清頗采其議。四年春致仕歸。

初め、土魯番敗れて遁ぐるとき、都指揮の王輔が速檀満速児及び牙木蘭ともに砲にて死せりと言い、九疇これを聞上す。後、二人が表を上って通貢を求め、帝は怪しみ且つ疑う。而して京師に在る番人の蜚語を為すに、粛州の囲みは九疇の激する所に由ると言い、帝ますます信ず。時に百戸の王邦奇が楊廷和、彭澤を訐で、その詞九疇に連なる。吏部尚書の桂萼らは九疇を縁りて澤を傾けんと欲し、ここに通貢を許し、而して九疇の激変の状を追治せんことを請う。大学士の一清は事すでに前に決せりと上言す。帝聴かず、詔獄に逮下す。刑部尚書の胡世寧が朝に言うこと、「世寧、刑を司りて忠臣を殺さば、寧ろ世寧を殺せ」と。ここに疏を上って冤を訟ぎて曰く、「番人変詐にして、妄りに謗讟を騰せ、我が謀臣を害せんと欲するのみ。その謀を蓄えて内寇するは、日すでに久し。一旦兵を擁して深入し、諸番内応を約す。九疇が機先を制して奮って誅戮し、且つ近くは属夷を遣わしてその営帳を卻け、遠くは瓦剌に交わりてその窟巣を擾わし、彼をして内顧して返らしめざれば、則ち粛州の孤城豈に復た保つべけんや。臣以為らく、文臣にして勇あり兵を知り身を忘れて国に殉ずる者は、九疇に如くは無し。宜なるかな、番人の深く忌みて殺さんと欲する所以なり。ただ部下の卒の妄報を聴き、満速児らを以てすでに死せりと為したるは、則ちその罪免れざる有り」と。やがて、法司が獄を具するもまた世寧の言の如し。帝ついに萼らの言に中り、極辺に謫戍す。十年を居て、赦されて還る。

原文初,土魯番敗遁,都指揮王輔言速檀滿速兒及牙木蘭俱死於炮,九疇以聞。後二人上表求通貢,帝怪且疑。而番人先在京師者為蜚語,言肅州之圍,由九疇激之,帝益信。會百戶王邦奇訐楊廷和、彭澤,詞連九疇。吏部尚書桂萼等欲緣九疇以傾澤,因請許通貢,而追治九疇激變狀。大學士一清言事已前決。帝不聽,逮下詔獄。刑部尚書胡世寧言於朝曰:「世寧司刑而殺忠臣,寧殺世寧。」乃上疏為訟冤曰:「番人變詐,妄騰謗讟,欲害我謀臣耳。夫其畜謀內寇,為日已久。一旦擁兵深入,諸番約內應,非九疇先幾奮僇,且近遣屬夷卻其營帳,遠交瓦刺擾其窟巢,使彼內顧而返,則肅州孤城豈復能保?臣以為文臣之有勇知兵忘身殉國者,無如九疇,宜番人深忌而欲殺也。惟聽部下卒妄報,以滿速兒等為已死,則其罪有不免耳。」已,法司具獄亦如世寧言。帝卒中萼等言,謫戍極邊。居十年,赦還。

翟鵬

原文翟鵬

翟鵬、字は誌南、撫寧衛の人。正徳三年進士となる。戸部主事に任ぜられる。員外郎、郎中を歴任し、出でて衛輝知府となり、開封に調ぜられる。陝西副使に擢てられ、按察使に進む。性剛介にして、歴官清操を以て聞こゆ。嘉靖七年、右僉都御史に擢てられ、寧夏を巡撫す。時に辺政久しく弛み、壮卒は率ね工匠を占めて中官の家に私役し、辺を守る者は併せて羸老にして兵に任ぜず。また番休期無く、甚だしきは夫は墩を守り、妻は鋪に坐す。鵬至りて、占役を尽く清め、送り更えせしむ。野鶏台二十余墩は孤懸して塞外に在り、久しく棄てて守らず、鵬これを尽く復す。歳大いに侵し、朝に請うて以て振恤す。寇の入りに坐して俸を停められる。また総兵官の趙瑛の失事を劾したるに坐し、その訐る所となり、職を奪われて帰る。

原文翟鵬,字誌南,撫寧衛人。正德三年進士。除戶部主事。歷員外郎中,出為衛輝知府,調開封。擢陜西副使,進按察使。性剛介,歷官以清操聞。嘉靖七年,擢右僉都御史,巡撫寧夏。時邊政久馳,壯卒率占工匠私役中官家,守邊者並羸老不任兵。又番休無期,甚者夫守墩,妻坐鋪。鵬至,盡清占役,使得叠更。野雞臺二十餘墩孤懸塞外,久棄不守,鵬盡復之。歲大侵,請於朝以振。坐寇入停俸。復坐劾總兵官趙瑛失事,為所訐,奪職歸。

二十年八月、俺答が山西の内地に入る。兵部は大臣を遣わして軍儲を督せんことを請い、ここに鵬を薦む。ここに故官に起用し、畿輔、山西、河南の軍務を整飭し兼ねて餉を督せしむ。鵬馳せ至るも、俺答はすでに飽きて去り、而して吉囊の軍また汾州、石州ら諸州を寇す。鵬は往来馳駆するも、挫くところ有ること能わず。寇退きて、ここに召還さる。明年三月、宣大総督の樊継祖罷められ、鵬を兵部右侍郎に除してこれに代わる。上疏して言う、「将吏、掠われたる人に遇い牧畜近塞に在れば、宜しく多方に招徠すべし。降を殺して功を邀う者は、罪すべし。寇入り、官軍敵を遏ぐるは功無くとも、竟にこれに頼りて安んずる者は、当に録すべし。もし賊衆我寡にして、奮身戦い、傷折有りとも、未だ生民を残害せざる者は、罪は当に原うべし。法に於いては、俘馘は功を論じ、損挫は罪を論ず。乃ち摧鋒陷陣して斬首に暇あらず、而して後に在って掩取する者は反って積級して功を受け、逡巡観望して幸いに苟全し、而して力戦当先する者は反って損軍を以て罪を治せらる。戎律の平たるに非ず」と。帝皆その議に従う。時に降人の寇まさに大いに入らんとすと言う有り、鵬連ねて兵餉を乞う。帝怒り、職を革して閑住せしめ、ここに総督官を罷めて設けず。鵬事を受くること僅かに百日にして去る。

原文二十年八月,俺答入山西內地。兵部請遣大臣督軍儲,因薦鵬。乃起故官,整飭畿輔、山西、河南軍務兼督餉。鵬馳至,俺答已飽去,而吉囊軍復寇汾、石諸州。鵬往來馳驅,不能有所挫。寇退,乃召還。明年三月,宣大總督樊繼祖罷,除鵬兵部右侍郎代之。上疏言:「將吏遇被掠人牧近塞,宜多方招徠。殺降邀功者,宜罪。寇入,官軍遏敵雖無功,竟賴以安者,當錄。若賊眾我寡,奮身戰,雖有傷折、未至殘生民者,罪當原。於法,俘馘論功,損挫論罪。乃有摧鋒陷陣不暇斬首,而在後掩取者反積級受功,有逡巡觀望幸茍全,而力戰當先者反以損軍治罪,非戎律之平。」帝皆從其議。會有降人言寇且大入,鵬連乞兵餉。帝怒,令革職閑住,因罷總督官不設。鵬受事僅百日而去。

同年七月、俺答が再び大挙して山西に入り、太原・潞安を掠奪し放った。兵部が総督の復設を請うたので、鵬を旧官に起用し、山東・河南の軍務を兼ねて督させ、巡撫以下はすべてその節制に従うよう命じた。鵬が任命を受けた時には、敵はすでに塞外に出ていた。ただちに朔州へ急行し、陝西・薊・遼の客兵八支隊、および宣府・大同の三関の主兵を調達し、兼ねて土着の兵を募り、驍ぎょう勇精鋭な者十万を選び、良将に統率させて四つの営を設け、塞上に分布させ、各営が一面を担当するよう求めた。敵が国境に入れば、遊兵がこれを挑発し、追撃を誘い、諸営が挟撃する。もし防ぎきれない場合は、急いで関南に退き、城壁に依拠して守り、疲れて帰還する敵を邀撃する。帝はこれに従った。鵬はそこで壕を浚い垣を築き、辺境の城壁三百九十余里を修復し、新たに墩台二百九十二を増築し、墩台を守る堡塁十四を設け、営舎一千五百間を建て、土地一万四千九百余頃を得て、兵士千五百人を募り、人ごとに五十畝を与え、倉庫の備蓄を数えきれないほど節約した。上疏して、東は平刑から西は偏関まで、土地を区画して分守することを請うた。遊兵三支隊を増やし、雁門・寧武・偏関に分駐させた。敵が城壁を攻めれば、守備兵が防ぎ、遊兵が関を出て挟撃する、これが守の中に戦いありである。東は大同、西は老営堡で、地の利に従って伏兵を設け、敵の向かうところを伺う。また宣府・大同・三関の間に、それぞれ精兵を配置し、別に戦士六千を選び、二つの営に分け、緊急時には総督武臣の張鳳に命じて機に応じて策応させる、これが戦いの中に守りありである。帝はその議に従い、さらに今後敵に遭遇した時、逗留する者は都指揮以下はただちに斬り、総兵官以下はまず死罪の罪状を取って奏請するよう命じた。

原文其年七月,俺答復大入山西,縱掠太原、潞安。兵部請復設總督,乃起鵬故官,令兼督山東、河南軍務,巡撫以下並聽節制。鵬受命,寇已出塞。即馳赴朔州,請調陜西、薊、遼客兵八支,及宣、大三關主兵,兼募土著,選驍銳者十萬,統以良將,列四營,分布塞上,每營當一面。寇入境,遊兵挑之,誘其追,諸營夾攻。脫不可禦,急趨關南依墻守,邀擊其困歸。帝從之。鵬乃浚壕築垣,修邊墻三百九十餘里,增新墩二百九十二,護墩堡一十四,建營舍一千五百間,得地萬四千九百餘頃,募軍千五百人,人給五十畝,省倉儲無算。疏請東自平刑,西至偏關,畫地分守。增遊兵三支,分駐雁門、寧武、偏關。寇攻墻,戍兵拒,遊兵出關夾攻,此守中有戰。東大同,西老營堡,因地設伏,伺寇所向。又於宣、大、三關間,各設勁兵,而別選戰士六千,分兩營,遇警令總督武臣張鳳隨機策應,此戰中有守。帝從其議,且命自今遇敵,逗遛者都指揮以下即斬,總兵官以下先取死罪狀奏請。

先に、鵬が千戸の火力赤に兵三百を率いさせて豊州灘まで偵察に行かせたが、敵を見なかった。さらに精鋭百人を選び、遠く豊州西北まで行かせたところ、百余人の馬を放牧する者に遭遇し、撃って二十三の首級を斬り、その馬を奪って帰還した。塞内に入る前に、敵が大挙して到来し、官軍は飢え疲れ、獲たものをすべて捨てて逃げた。鵬は実状を詳細に陳述した。帝は将兵が敢えて深く入ったことを評価し、やはり昇進と賞賜を行った。旧例では、兵士はすべて鎮城で団結して訓練し、警報を聞けば出戦した。辺境の患いが激しくなってからは、毎年夏秋の間に辺境の堡塁に分駐し、これを暗伏と呼んだ。鵬は秋に入ればすべて塞上に赴かせ、土地を区画して分守させ、これを擺邊と呼び、九月中旬に鎮城に還るよう請うた。これが令として定められた。

原文先是,鵬遣千戶火力赤率兵三百哨至豐州灘,不見寇。復選精銳百,遠至豐州西北,遇牧馬者百餘人,擊斬二十三級,奪其馬還。未入塞,寇大至,官軍饑憊,盡棄所獲奔。鵬具實陳狀。帝以將士敢深入,仍行遷賞。舊例,兵皆團操鎮城,聞警出戰。自邊患熾,每夏秋間分駐邊堡,謂之暗伏。鵬請入秋悉令赴塞,畫地分守,謂之擺邊,九月中還鎮。遂著為令。

二十三年正月、帝は去歳に敵がなかったことを将帥の力とし、詔勅を下して鵬を賞し、襲衣を賜った。三月になると、俺答が宣府の龍門所を寇し、総兵官の郤永らがこれを退け、五十一の首級を斬った。功績を論じ、兵部尚書に進めた。帝は鵬に敵を殲滅させることを期待し、恩命をたびたび加え、その請うところ多く従ったが、効果を責めることは甚だ急であった。鵬もまた智力を尽くしたが、呼吸の間に応変することはできなかった。御史の曹邦輔がかつて鵬を弾劾し、鵬は罷免を請うたが、許されなかった。この年の九月、薊州巡撫の朱方が諸路の防秋兵を撤収するよう請うたので、兵部尚書の毛伯温はこれに乗じて宣府・大同・三関の客兵も併せて撤収した。俺答はそこで十月初めに膳房堡を寇した。郤永に防がれたので、万全右衛で城壁を破壊して侵入した。順聖川から蔚州を経て、浮屠峪を犯し、まっすぐ完県にまで到達し、京師は戒厳した。帝は大いに怒り、たびたび詔を下して鵬を責めた。鵬は朔州で警報を聞き、夜半に馬邑に至り、兵糧を調達し、さらに渾源へ急行し、諸将を派遣して敵を阻止させた。御史の楊本深が鵬の逗留を弾劾し、賊をして畿輔を震撼させたとし、兵科の戴夢桂がこれに続いた。そこで官を遣わして鵬を枷鎖し、兵部左侍郎の張漢を代わりに任じた。鵬が到着すると、詔獄に下され、永戍に処せられた。河西務まで来た時、民家に困らせられ、鈔関主事に訴えてこれを杖刑に処させた。廠衛がこれを聞き届け、再び京師に逮捕され、獄中で卒した。人々は皆これを惜しんだ。

原文二十三年正月,帝以去歲無寇為將帥力,降敕獎鵬,賜以襲衣。至三月,俺答寇宣府龍門所,總兵官郤永等卻之,斬五十一級。論功,進兵部尚書。帝倚鵬殄寇,錫命屢加,所請多從,而責效甚急。鵬亦竭智力,然不能呼吸應變。御史曹邦輔嘗劾鵬,鵬乞罷,弗允。是年九月,薊州巡撫朱方請撤諸路防秋兵,兵部尚書毛伯溫因並撤宣、大、三關客兵。俺答遂以十月初寇膳房堡。為郤永所拒,乃於萬全右衛毀墻入。由順聖川至蔚州,犯浮屠峪,直抵完縣,京師戒嚴。帝大怒,屢下詔責鵬。鵬在朔州聞警。夜半至馬邑,調兵食,復趨渾源,遣諸將遏敵。御史楊本深劾鵬逗遛,致賊震畿輔。兵科戴夢桂繼之。遂遣官械鵬,而以兵部左侍郎張漢代。鵬至,下詔獄,坐永戍。行至河西務,為民家所窘,告鈔關主事杖之。廠衛以聞,復逮至京,卒於獄。人皆惜之。

初め、鵬が衛輝にいた時、入朝しようとして、行李は寂しいものであった。通判の王江が金を懐にしてこれを贈ろうとした。鵬は言った、「私の平素の行いがまだ人に信じられていないということか」。王江は恥じて退いた。その清廉さはこのようであった。隆慶初年、官職を回復した。

原文初,鵬在衛輝,將入覲,行李蕭然,通判王江懷金遺之。鵬曰:「豈我素履未孚於人耶?」江慚而退,其介如此。隆慶初,復官。

張漢は鐘祥の人である。鵬の代わりに任じられた時、敵はすでに境外に出ていたので、翁萬達に宣府・大同の総督を命じ、張漢には専ら畿輔・河南・山東の諸軍を督させることにした。張漢は選将・練兵・信賞・必罰の四事を条上し、大将が偏裨を専断で殺すことを得させ、総督もまた大将を斬ることを得るように請うた。人は退却や怯懦が必ず死に至ると知れば、自ら争って敵に赴くだろう。帝は臣下に権力を仮すことを欲せず、これを嫌った。兵部が言うには、張漢は辺境の事に老練で、言うところはすべて従うべきである。帝は再議を命じた。部臣はそこで張漢の議はすべて妥当であるが、大将を専殺することは『会典』に合わないと言った。帝はしばらくこれを許可した。ちょうど考察拾遺があり、言官が張漢の剛愎を弾劾した。そこで枷鎖して詔獄に繋ぎ、鎮西衛に謫戍した。数年後、辺境に警報があり、御史の陳九德が張漢を推薦した。帝は怒り、九德を斥けて民とした。張漢は戍所に二十年居住して卒した。隆慶初年、兵部尚書を追贈された。

原文張漢,鐘祥人。代鵬時,寇已出境,乃命翁萬達總督宣、大,而以漢專督畿輔、河南、山東諸軍。漢條上選將、練兵、信賞、必罰四事,請令大將得專殺偏裨,而總督亦得斬大將,人知退怯必死,自爭赴敵。帝不欲假臣下權,惡之。兵部言:漢老邊事,言皆可從。帝令再議。部臣乃言漢議皆當,而專殺大將,與《會典》未合。帝姑報可。會考察拾遺,言官劾漢剛愎。遂械系詔獄,謫戍鎮西衛。後數年邊警,御史陳九德薦漢。帝怒,斥九德為民。漢居戍所二十年卒。隆慶初,贈兵部尚書。

孫継魯

原文孫繼魯

孫継魯、字は道甫、雲南右衛の人。嘉靖二年の進士。澧州知州に任ぜられる。事に坐し、国子助教に改める。戸部郎中を歴任し、通州倉を監す。衛輝・淮安二府の知府を歴任す。織造中官が淮を過ぎるや、継魯これと忤る。誣えられて京師に逮至す。大学士夏言これを救い免ぜしむ。継魯謝せず、言悦ばず。黎平に改補す。湖広提学副使に擢てられ、山西参政に進む。数え宗藩を縄す。按察使に遷るや、宗藩百余り人馬を擁してその装を発くも、敞衣の外に長物なく、乃ち酒を載せて謝過す。陝西右布政使に遷る。二十六年、右副都御史に擢てられ、楊守謙に代わり山西を巡撫す。継魯耿介にして、至る所清節を以て聞こゆ。然れども剛を好み気を使う。総督都御史翁萬達、山西内辺の兵を撤し、力を併せて大同外辺を守らんと議す。帝報可す。継魯抗章して争い、言う、「紫荊・居庸・山海諸関は東に溟渤を枕し、雁門・寧武・偏頭諸関は西に黄河を拠る。天の重険を設け、以て国家を藩衛するもの、豈に師を曠野に聚め、重門を洞開して敵を延ばすべけんや。夫れ紫荊諸関の京師を拱護するは、雁門諸関の全晉を屏蔽するに一なり。今議者は紫荊を撤して宣府を併せ守らしめず、豈に独り雁門を撤して大同を併せ守らしむべけんや。況んや偏頭・寧武・雁門より東に平刑関に抵るまでを山西の長辺と為し、右衛双溝墩より東陽河・鎮口臺に至るまでを大同の長辺と為し、丫角山より双溝に至る百四十里を大同の緊辺と為し、丫角山より老牛灣に至る百四十里を山西の緊辺と為す。長辺を論ずれば則ち大同急にして、山西は稍緩く、緊辺を論ずれば則ち均しく最急と為す。此れ皆河套に密邇し、譬えば門闔の如し。山西は左を守り、大同は右を守る。山西力を併せて左を守るも尚お支え難く、又安んぞ力を分かちて大同の右を守らんや。近年寇敢えて山西内郡を犯さざるは、三関の備え厳しき故なり。三関の将士をして堡戍を遠く離れしめば、其の侵犯せざらんことを欲するは難し。全師外に在りて強寇内に侵せば、即ち紫荊・倒馬諸関徒らに守るに将ならずや」と。萬達これを聞きて悦ばず、上疏して言う、「兵を増して辺に擺するは、近歳に始まり、額設の守辺者と相同じからず。継魯乃ち危言を以て相恐れ、復た臣に書を遺し、往年雲中の議を建つるや、宰執幾ば免れず、近年各路の兵を撤すや、督撫業に罪を蒙ると言う。其の詆排此の如し。今防秋已に逼る、別に継魯を調うるを乞う。然らずば早く臣を罷め、辺事を誤らしむるなかれ」と。兵部は継魯の言に是とす。帝従わず、廷議に下す。廷臣萬達の言の如くせんことを請う。帝方に萬達に倚り、継魯の私書を騰せ、往事を引きて君上を議するを怒る。而して夏言も亦た継魯を悪み、地を為さず。遂に逮して詔獄に下す。疽項に発し、瘐死す。継魯巡撫と為ること僅かに四月。山西人は其の前政に習い、冀らく施設有らんことをし、遽に非罪を以て死す。咸く痛惜と為す。宗藩に上書して其の冤を訟する者有り、即ち前に其の装を奪い視し者なり。穆宗即位し、兵部左侍郎を贈り、祭葬を賜い、一子を蔭し、謚して清湣と曰う。

原文孫繼魯,字道甫,雲南右衛人。嘉靖二年進士。授澧州知州。坐事,改國子助教。歷戶部郎中,監通州倉。歷知衛輝、淮安二府。織造中官過淮,繼魯與之忤。誣逮至京,大學士夏言救免。繼魯不謝,言不悅。改補黎平。擢湖廣提學副使,進山西參政。數繩宗藩。暨遷按察使,宗藩百餘人擁馬發其裝,敞衣外無長物,乃載酒謝過。遷陜西右布政使。二十六年擢右副都御史,代楊守謙巡撫山西。繼魯耿介,所至以清節聞,然好剛使氣。總督都御史翁萬達議撤山西內邊兵,並力守大同外邊,帝報可。繼魯抗章爭,言:「紫荊、居庸、山海諸關,東枕溟渤;雁門、寧武、偏頭諸關,西據黃河。天設重險,以藩衛國家,豈可聚師曠野,洞開重門以延敵?夫紫荊諸關之拱護京師,與雁門諸關之屏蔽全晉,一也。今議者不撤紫荊以並守宣府,豈可獨撤雁門以並守大同耶?況自偏頭、寧武、雁門東抵平刑關為山西長邊,自右衛雙溝墩至東陽河、鎮口臺為大同長邊,自丫角山至雙溝百四十里為大同緊邊,自丫角山至老牛灣百四十里為山西緊邊,論長邊則大同為急,山西差緩,論緊邊則均為最急。此皆密邇河套,譬之門闔。山西守左,大同守右。山西並力守左尚不能支,又安能分力以守大同之右?近年寇不敢犯山西內郡者,以三關備嚴故也。使三關將士遠離堡戍,欲其不侵犯難矣。全師在外,強寇內侵,即紫荊、倒馬諸關不將徒守哉!」萬達聞之不悅,上疏言:「增兵擺邊,始於近歲,與額設守邊者不同。繼魯乃以危言相恐,復遺臣書,言往歲建雲中議,宰執幾不免;近年撤各路兵,督撫業蒙罪。其詆排如此。今防秋已逼,乞別調繼魯,否則早罷臣,無誤邊事。」兵部是繼魯言。帝不從,下廷議。廷臣請如萬達言。帝方倚萬達,怒繼魯騰私書,引往事議君上。而夏言亦惡繼魯,不為地,遂逮下詔獄。疽發於項,瘐死。繼魯為巡撫僅四月。山西人習其前政,冀有所設施,遽以非罪死,鹹為痛惜。宗藩有上書訟其冤者,即前奪視其裝者也。穆宗即位,贈兵部左侍郎,賜祭葬,蔭一子,謚清湣。

曾銑

原文曾銑

曾銑、字は子重、江都の人。諸生たるより、才を以て自ら豪とす。嘉靖八年進士に成り、長楽知県に授ぜらる。征せられて御史と為り、遼東を巡按す。遼陽兵変し、都御史呂経を執り辱しむ。銑時に金・復を按じ、急に檄を飛ばし副総兵李監に経の苛急なる事を罷めしめ、乱軍の赦を乞わしむ。経罷められ、広寧に趨く。悍卒於蛮児等復た経を執り辱しむ。其の月、撫順の卒も亦た指揮劉雄父子を縛る。会う朝廷侍郎林庭〓昂を遣わして往き勘せしむ。乱卒懼る。遼陽の首を倡うる者趙劓児潜かに広寧に詣り蛮児と合謀し、鎮城の官表を拝するを俟ち、衆を集めて乱らんと欲す。総兵官劉淮に覚えられ、計行わず。復た死囚を結び、庭〓昂の至るを俟ち、城門を閉じて変を為さんと欲す。而して銑已に二城及び撫順の悪を為す者の姓名を刺得し、密かに諸将に授く。劓児等数十人同日に捕獲さる。銑上言す、「往者甘粛・大同の軍変、之を処するに過ぎて軽し。群小命臣を辱しめ、主帥を殺すも、罪此れに過ぎずと謂い、遂い相率いて乱を為す。今首悪宜しく急に誅すべし」と。乃ち庭〓昂を召還し、命じて銑に勘実せしめ、諸の首悪を悉く斬り、首を辺城に懸く。全遼大いに定まる。銑を大理寺丞に擢て、右僉都御史に遷し、山東を巡撫す。俺答数え内地に入る。銑臨清外城を築かんことを請う。工畢り、副都御史に進む。三年居り、山西を撫するに改む。歳を経て寇辺を犯さず。朝廷功と為し、兵部侍郎に進み、巡撫は故の如し。

原文曾銑,字子重,江都人。自為諸生,以才自豪。嘉靖八年成進士,授長樂知縣。征為御史,巡按遼東。遼陽兵變,執辱都御史呂經。銑時按金、復,急檄副總兵李監罷經苛急事,為亂軍乞赦。經罷,趨廣寧,悍卒於蠻兒等復執辱經。其月,撫順卒亦縛指揮劉雄父子。會朝廷遣侍郎林庭〓昂往勘,亂卒懼。遼陽倡首者趙劓兒潛詣廣寧與蠻兒合謀,欲俟鎮城官拜表,集眾亂,為總兵官劉淮所覺,計不行。復結死囚,欲俟庭〓昂至,閉城門為變。而銑已刺得二城及撫順為惡者姓名,密授諸將,劓兒等數十人同日捕獲。銑上言:「往者甘肅、大同軍變,處之過輕。群小謂辱命臣,殺主帥,罪不過此,遂相率為亂。今首惡宜急誅。」乃召還庭〓昂,命銑勘實,悉斬諸首惡,懸首邊城,全遼大定。擢銑大理寺丞,遷右僉都御史,巡撫山東。俺答數入內地,銑請築臨清外城。工畢,進副都御史。居三年,改撫山西。經歲寇不犯邊,朝廷以為功,進兵部侍郎,巡撫如故。

二十五年夏、原官を以て陝西三辺軍務を総督す。寇十余万騎寧塞営より入り、大いに延安・慶陽の境を掠む。銑兵数千を率い塞門に駐し、而して前参将李珍を遣わし寇の巣を馬梁山陰に搗き、首百余級を斬る。寇これを聞き、始めて遁く。捷奏し、銀幣を賚う。既にして寇屡く入り、遊撃高極死す。副総兵蕭漢敗績す。銑諸将の罪を疏し、律の如く治む。時に套寇塞に近く牧し、零騎往来し、居民敢えて樵采せず。銑方に塞を築き、擾らさるるを慮り、乃ち鋭卒を選びて之を撃つ。寇稍く北し、間を以て軽騎を入れ掠む。銑復た諸軍を率い之を駆り遠く徙さしむ。参将李珍及び韓欽功多し。詔して銑の俸一級を増し、銀幣を賜うこと有加なり。

原文二十五年夏,以原官總督陜西三邊軍務。寇十萬餘騎由寧塞營入,大掠延安、慶陽境。銑率兵數千駐塞門,而遣前參將李珍搗寇巢於馬梁山陰,斬首百餘級。寇聞之,始遁。捷奏,賚銀幣。既而寇屢入,遊擊高極死焉,副總兵蕭漢敗績。銑疏諸將罪,治如律。時套寇牧近塞,零騎往來,居民不敢樵采。銑方築塞,慮為所擾,乃選銳卒擊之。寇稍北,間以輕騎入掠,銑復率諸軍驅之遠徙。參將李珍及韓欽功為多,詔增銑俸一級,賜銀幣有加。

曾銑は元来功名を好み、また帝の知遇に感じ、ますます報いようと図った。賊が河套に居座り、久しく中国の患いとなっていることを思い、上疏して言うには、「賊は河套を占拠し、辺境を侵擾することほぼ百年になる。孝宗は回復を欲したができず、武宗は征伐を欲したが果たさず、吉囊にこれを占拠させて巣窟とさせた。套を出れば宣府・大同・三関を寇し、以て畿輔を震駭させ、套に入れば延綏・寧夏・甘粛・固原を寇し、以て関中を擾乱する。深山大川、その勢は敵にありて我に在らず。封疆の臣に曾て回復を以て陛下に言う者無きは、蓋し軍興の重務なるが故なり。小しく挫失あれば、媒孽踵き至り、鼎鑊刀鋸、面背森然たり。臣は兵兇戦危なるを知らざるに非ざれども、枕戈汗馬、切歯痛心すること日に久し。窃かに嘗てこれを計るに、秋高く馬肥え、弓矢勁利なれば、彼は聚まりて攻め、我は散じて守れば、則ち彼勝つ。冬深く水枯れ、馬に宿槁無く、春寒く陰雨し、壤に燥土無ければ、彼の勢漸く弱く、我その弊に乗ずれば、則ち中国勝つ。臣は鋭卒六万を以て、益すに山東の鎗手二千を加え、毎に春夏の交わりに当たり、五十日の餉を携え、水陸交えて進み、直ちにその巣を搗くことを請う。材官騶発し、砲火雷激すれば、則ち寇は支える能わざるべし。これ一労永逸の策、万世の社稷の頼る所なり」と。遂に八議を条して以て進む。是の時、曾銑は延綏・寧夏の撫臣と共に、西は定辺営より東は黄甫川に至る一千五百里に、辺墻を築きて寇を防ぎ、帑金数十万を請い、三年を期して功を畢げんとす。疏は並びに兵部に下る。部臣はこれを難じ、諸鎮の文武将吏に協議せしむるを請う。詔を報じて曰く、「賊の套を占拠して中国の患いとなること久し。朕は宵旰これを念う。辺臣に主憂を分つ者無し。今曾銑恢復の議を倡うること甚だ壮なり。其れ曾銑と諸鎮臣に令して方略を上るに悉心せしめよ。辺を修するの費二十万を与う」と。曾銑は乃ち益々鋭気を増す。而して諸巡撫延綏の張問行・陝西の謝蘭・寧夏の王邦瑞及び巡按御史の盛唐は以て難しと為し、久しく会奏せず。曾銑は怒り、疏を以て帝に請う。帝は為に諸巡撫を責め譲る。会うに問行は已に罷められ、楊守謙これに代わり、意は曾銑と同じ。曾銑は遂に諸臣を合わせて方略十八事を条して上る。已にして、又営陣八図を献ず。並びに優旨を以て廷議に下す。

原文銑素喜功名,又感帝知遇,益圖所報稱。念寇居河套,久為中國患,上疏曰:「賊據河套,侵擾邊鄙將百年。孝宗欲復而不能,武宗欲征而不果,使吉囊據為巢穴。出套則寇宣、大、三關,以震畿輔;入套則寇延、寧、甘、固,以擾關中。深山大川,勢顧在敵而不在我。封疆之臣曾無有以收復為陛下言者,蓋軍興重務也;小有挫失,媒孽踵至,鼎鑊刀鋸,面背森然。臣非不知兵兇戰危,而枕戈汗馬,切齒痛心有日矣。竊嘗計之:秋高馬肥,弓矢勁利,彼聚而攻,我散而守,則彼勝;冬深水枯,馬無宿槁,春寒陰雨,壤無燥土,彼勢漸弱,我乘其弊,則中國勝。臣請以銳卒六萬,益以山東鎗手二千,每當春夏交,攜五十日餉,水陸交進,直搗其巢。材官騶發,炮火雷激,則寇不能支。此一勞永逸之策,萬世社稷所賴也。」遂條八議以進。是時,銑與延、寧撫臣欲西自定邊營,東至黃甫川一千五百里,築邊墻禦寇,請帑金數十萬,期三年畢功。疏並下兵部。部臣難之,請令諸鎮文武將吏協議。詔報曰:「賊據套為中國患久矣,朕宵旰念之,邊臣無分主憂者。今銑倡恢復議甚壯,其令銑與諸鎮臣悉心上方略,予修邊費二十萬。」銑乃益銳。而諸巡撫延綏張問行、陜西謝蘭、寧夏王邦瑞及巡按御史盛唐以為難,久不會奏。銑怒,疏請於帝,帝為責讓諸巡撫。會問行已罷,楊守謙代之,意與銑同。銑遂合諸臣條上方略十八事,已,又獻營陣八圖,並優旨下廷議。

廷臣は上の意向が曾銑に在るを見て、一に曾銑の言う如くにす。帝は忽ち手詔を出して輔臣に諭して曰く、「今套賊を逐わんとす。師果たして名有りや。兵食果たして余り有りや。成功必ず可ならんや。一曾銑何ぞ言うに足らん。先民の荼毒に如何」と。初め、曾銑が建議する時、輔臣夏言はこれに倚りて大功を成さんと欲し、これを主ること甚だ力めり。是に及び、大いに駭き、帝の自ら裁断せんことを請う。帝は手詔を刊して、与議の諸臣に遍く給するを命ず。時に厳嵩は方に夏言と隙有り、これに因りて以て夏言を傾けんと欲し、乃ち極めて套は必ず復すべからざるを言う。陰に夏言を詆り、故に罪を引き罷むるを乞い、以て帝の怒りを激す。旋って復た顕に夏言を攻め、謂う「向に旨を擬して曾銑を褒むるに、臣は皆預り聞かず」と。兵部尚書王以旗は廷臣を会して覆奏す。遂に尽く前説を反し、套は復すべからざるを言う。帝は乃ち官を遣わして曾銑を逮え、王以旗を出してこれに代わらしむ。科道官の言わざるを責め、悉く廷に杖ち、俸を停むること四月。帝は曾銑を怒るも、然れども之を殺すの意無かりき。咸寧侯仇鸞が甘粛に鎮する時、阻撓を以て曾銑に劾せられ、逮問せらる。厳嵩は故に雅く仇鸞に親しむ。曾銑の善くする同邑の蘇綱なる者、夏言の継妻の父なるを知り、蘇綱が曾銑・夏言と嘗て交関し伝語する有り。乃ち仇鸞に代わり獄中に疏を草し、曾銑が敗を掩いて奏せず、軍餉巨万を克し、子の曾淳を遣わして親しむ所の蘇綱に属して当途に賂するを誣う。その言は絶えて左験無し。然るに帝は深くその説に入り、直ちに曾淳・蘇綱を詔獄に下す。給事中斉譽等は帝の曾銑を怒ること甚だしきを見て、早く刑章を正すことを請う。帝は斉譽を奸に党し事を避くると責め、級を鐫じて外任に調ず。曾銑の至るに及び、法司は辺帥の城砦を失陷する者の律に比擬す。帝は必ず正条に依らしめんと欲し、曾銑を近侍に交結する律に当てて斬とし、妻子を二千里に流す。即日行刑す。曾銑既に死し、夏言も亦坐して斬とされ、而して仇鸞は獄を出づ。

原文廷臣見上意向銑,一如銑言。帝忽出手詔諭輔臣曰:「今逐套賊,師果有名否?兵食果有餘?成功可必否?一銑何足言,如先民荼毒何?」初,銑建議時,輔臣夏言欲倚以成大功,主之甚力。及是,大駭,請帝自裁斷。帝命刊手詔,遍給與議諸臣。時嚴嵩方與言有隙,欲因以傾言,乃極言套必不可復。陰詆言,故引罪乞罷,以激帝怒。旋復顯攻言,謂「向擬旨褒銑,臣皆不預聞。」兵部尚書王以旗會廷臣覆奏,遂盡反前說,言套不可復。帝乃遣官逮銑、出以旗代之;責科道官不言,悉杖於廷,停俸四月。帝雖怒銑,然無意殺之也。鹹寧侯仇鸞鎮甘肅時,以阻撓為銑所劾,逮問。嵩故雅親鸞。知銑所善同邑蘇綱者,言繼妻父,綱與銑、言嘗交關傳語,乃代鸞獄中草疏,誣銑掩敗不奏,克軍餉鉅萬,遣子淳屬所親蘇綱賂當途。其言絕無左驗,而帝深入其說,立下淳、綱詔獄。給事中齊譽等見帝怒銑甚,請早正刑章。帝責譽黨奸避事,鐫級調外任。及銑至,法司比擬邊帥失陷城砦者律。帝必欲依正條,當銑交結近侍律斬,妻子流二千里,即日行刑。銑既死,言亦坐斬,而鸞出獄。

曾銑は胆略有り、兵を用いるに長ず。歳除の夜、猝かに諸将に出でるを命ず。時に塞上に警無く、諸将は方に酒を置き、行かんと欲せず、鈴卒に賂して曾銑の妾に緩むるを求む。曾銑は鈴卒を斬りて以て徇す。諸将は已むを得ず、丙夜に甲を被りて行く。果たして寇に遇い、これを撃ち破る。翌日入賀し畢り、前に進みて故を請う。曾銑は笑いて曰く、「烏鵲の時に非ざるに噪くを見て、故にこれを知れるのみ」と。皆大いに服す。曾銑は廉潔なり。既に歿して、家に余貲無し。

原文銑有膽略,長於用兵。歲除夜,猝命諸將出。時塞上無警,諸將方置酒,不欲行,賂鈴卒求緩於銑妾。銑斬鈴卒以徇。諸將不得已,丙夜被甲行。果遇寇,擊敗之。翼日入賀畢,前請故。銑笑曰:「見烏鵲非時噪,故知之耳。」皆大服。銑廉,既歿,家無余貲。

隆慶初め、給事中辛自修・御史王好問、曾銑の志は功を立つるに在りて、身重辟に罹り、識ると識らざるとを問わず、痛悼すること今に至ると訟う。詔して兵部尚書を贈り、諡して襄湣とす。万暦中、御史周磐の請に従い、祠を陝西に建つ。

原文隆慶初,給事中辛自修、御史王好問訟銑誌在立功,身罹重辟,識與不識,痛悼至今。詔贈兵部尚書,謚襄湣。萬歷中,從御史周磐請,建祠陜西。

李珍という者は、故に事に坐して官を失う。曾銑は徒中よりこれを録用し、復た戦功を積みて参将に至る。曾銑既に誣えらるるや、詔して給事中申价等を遣わして往きて核せしむ。因りて並びに李珍と指揮の田世威・郭震とを劾して曾銑の爪牙と為す。これを詔獄に下す。連ねて巡撫の謝蘭・張問行、御史の盛唐、副総兵の李琦等に及び、皆斥罰せらる。曾淳・蘇綱に贓を勒め、陣亡の軍及び居民の難に被る者を恤う。曾銑は嘗て府衛に檄して銀三万両を以て車仗を制せしむ。亦た曾淳に責めて償わしむ。且つ酷刑を以て李珍を拷し、これに実に餉を克し賂を行える事を令す。幾くんか死せんとす。卒して承わず。曾淳は是を用いて免る。李珍は竟に死を論ぜられ、田世威・郭震は戍に謫せらる。その後、俺答は歳々入寇す。帝は卒して悟らず、輒ち曰く、「これ曾銑の辺を開かんと欲するが故に、行って報復するのみ」と。

原文李珍者,故坐事失官。銑從徒中錄用,復積戰功至參將。銑既被誣,詔遣給事中申價等往核,因並劾珍與指揮田世威、郭震為銑爪牙,下之詔獄。連及巡撫謝蘭、張問行,御史盛唐,副總兵李琦等,皆斥罰。勒淳、綱贓,恤陣亡軍及居民被難者。銑嘗檄府衛銀三萬兩制車仗,亦責償於淳。且酷刑拷珍,令其實克餉行賂事,幾死,卒不承。淳用是免,珍竟論死,世威、震謫戍。其後,俺答歲入寇,帝卒不悟,輒曰:「此銑欲開邊,故行報復耳。」

丁汝夔

原文丁汝夔

丁汝夔、字は大章、霑化の人。正徳十六年進士。庶吉士に改む。嘉靖初め、礼部主事を授かる。「大礼」を争い杖せられ、吏部に調ず。累官して山西左布政使に至り、右副都御史に擢てられ、甘粛を巡撫す。歴て保定・応天を撫す。入りて左副都御史と為る。事に坐して湖広参政に調ず。復た故官を以て河南を撫す。歴て吏部左・右侍郎。二十八年十月兵部尚書兼団営督に拝す。辺務十事を条して上る。皆報可す。是の時に当たり、俺答は歳々辺を寇し、羽書疊り至る。天子は方に西内に斎居し、兵事を厭い、而して大学士厳嵩は権を窃み、辺帥は率ね賄を以て進み、疆事大いに壊る。その明年八月甲子、俺答宣府を犯す。諸将これを拒ぎて入るを得ず。丁汝夔は即ち上言す、「寇宣府に志を得ずれば、必ず東に遼・薊に趨かん。請う諸将に勅して厳に備えを為さしめよ。潮河川は乃ち陵京の門戸、宜しく遼東の一軍を調して白馬関に赴かしめ、保定の一軍を古北口に赴かしむべし」と。これに従う。寇は果たして引きて東し、大興州に駐り、古北口を去ること百七十里。大同総兵官仇鸞これを知り、率いる所の部を馳せて居庸の南に至る。順天巡撫王汝孝は薊州に駐り、誤って諜者の謂う寇の西北に向かうを聴く。丁汝夔これを信じ、仇鸞に令して大同に還り東す勿からしむるを請う。詔して後報を俟たしむ。興州の報の至るに及び、仇鸞に命じて居庸に壁し、王汝孝に薊州を守らしむ。未だ幾ばくもなく、寇は潮河川に循り南下して古北口に至り、関城に薄る。総兵官羅希韓・盧鉞は卻く能わず、王汝孝の師大いに潰ゆ。寇は遂に石匣営より密雲に達し、転じて懐柔を掠め、順義城を囲む。保定の兵の城内に駐するを聞き、乃ち解けて南し、通州に至る。白河に阻まれて渡るを得ず、河東の孤山に駐り、分かれて昌平・三河を剽し、諸帝陵を犯し、殺掠算うべからず。

原文丁汝夔,字大章,霑化人。正德十六年進士。改庶吉士。嘉靖初,授禮部主事。爭「大禮」被杖,調吏部。累官山西左布政使,擢右副都御史,巡撫甘肅。歷撫保定、應天。入為左副都御史。坐事調湖廣參政。復以故官撫河南。歷吏部左、右侍郎。二十八年十月拜兵部尚書兼督團營。條上邊務十事,皆報可。當是時,俺答歲寇邊,羽書疊至。天子方齋居西內,厭兵事,而大學士嚴嵩竊權,邊帥率以賄進,疆事大壞。其明年八月甲子,俺答犯宣府,諸將拒之不得入。汝夔即上言:「寇不得誌於宣府,必東趨遼、薊。請敕諸將嚴為備。潮河川乃陵京門戶,宜調遼東一軍赴白馬關,保定一軍赴古北口。」從之。寇果引而東,駐大興州,去古北口百七十里。大同總兵官仇鸞知之,率所部馳至居庸南。順天巡撫王汝孝駐薊州,誤聽諜者謂寇向西北。汝夔信之,請令鸞還大同勿東,詔俟後報。及興州報至,命鸞壁居庸,汝孝守薊州。未幾,寇循潮河川南下至古北口,薄關城。總兵官羅希韓、盧鉞不能卻,汝孝師大潰。寇遂由石匣營達密雲,轉掠懷柔,圍順義城。聞保定兵駐城內,乃解而南,至通州。阻白河不得渡,駐河東孤山,分剽昌平、三河,犯諸帝陵,殺掠不可勝紀。

京師が戒厳し、各鎮に王事に勤めるよう召し寄せた。文武大臣各九人を分遣し、京城の九門を守らせ、定西侯蔣傳と吏部侍郎王邦瑞がこれを総督し、錦衣都督陸炳と礼部侍郎王用賓、給事中・御史各四人をもって、皇城四門を巡視させた。大小の文臣で兵事を知る者は、許汝夔に委用を許すとの詔があった。汝夔は八事を条上し、正兵四営を城外の四隅に、奇兵九営を九門外の近郊に配置することを請うた。正兵営は各一万、奇兵営は各六千。急ぎ大臣二人を遣わして通州・涿州を経略させ、かつ罪を負って廃された諸将を釈放して功を立て罪を贖わせるよう求めた。帝はすべて従った。しかしこの時、冊籍は皆虚数であった。禁軍はわずか四五万で、老弱がその半数、また半数は内外の提督大臣の家に使役されて帰伍せず、在伍の者も涙を流して進もうとしなかった。武庫に甲仗を求めると、主庫の宦官が常例を強要し、時を定めずに発給した。久しくして軍を整えることができなかった。そこで居民と四方の武挙に応じた諸生を発して城に登らせ、かつ大いに賞格を頒布した。仇鸞は副将徐玨・遊撃張騰らと軍を白河の西に置き、楊守謙は副将朱楫らと軍を東直門外に置き、諸路の援兵もやや集まった。議する者は概ね城内が手薄で、城外に辺兵があって恃むに足るとし、京軍を移して内訌に備えるべきだとし、汝夔もまたそう考えた。そこで禁軍を量り掣いて十王府・厭寿寺前に入営させた。営務を掌る者である成国公朱希忠は兵少なくして譴責を受けることを恐れ、東西に抽掣して掩飾の計を弄した。兵士は疲れて休息を得ず、怨言を発し、誰が調達したのか分からなかったので、争って汝夔を罵った。鸞の兵は紀律なく、民間を掠奪した。帝はちょうど鸞を眷顧していたので、捕らえるなと命じた。汝夔もまた鸞の兵を治めるなと戒めた。民はますます怨怒した。

原文京師戒嚴,召各鎮勤王。分遣文武大臣各九人,守京城九門,定西侯蔣傳、吏部侍郎王邦瑞總督之,而以錦衣都督陸炳,禮部侍郎王用賓,給事御史各四人,巡視皇城四門。詔大小文臣知兵者,許汝夔委用。汝夔條上八事,請列正兵四營於城外四隅,奇兵九營於九門外近郊。正兵營各一萬,奇兵營各六千。急遣大臣二人經略通州、涿州,且釋罪廢諸將使立功贖罪。帝悉從之。然是時冊籍皆虛數。禁軍僅四五萬,老弱半之,又半役內外提督大臣家不歸伍,在伍者亦涕泣不敢前。從武庫索甲仗,主庫奄人勒常例,不時發。久之不能軍。乃發居民及四方應武舉諸生乘城,且大頒賞格。仇鸞與副將徐玨、遊擊張騰等軍白河西,楊守謙與副將朱楫等軍東直門外,諸路援兵亦稍集。議者率謂城內虛,城外有邊兵足恃,宜移京軍備內釁,汝夔亦以為然。遂量掣禁軍入營十王府、厭壽寺前。掌營務者成國公朱希忠恐以兵少獲譴,乃東西抽掣為掩飾計。士疲不得息,出怨言,而莫曉孰為調者,則爭詈汝夔。鸞兵無紀律,掠民間。帝方眷鸞,令勿捕。汝夔亦戒勿治鸞兵。民益怨怒。

寇の遊騎が四方に出没し、都城から三十里のところまで来た。辛巳の日に至り、ついに通州から河を渡って西進し、前鋒七百騎が安定門外の教場に駐屯した。翌日、大営が都城に迫った。西山・黄村・沙河・大小榆河を分掠し、畿甸は大いに震動した。初め、寇が通州に迫った時、部が遣わした偵察の卒は城を出て数里も行かぬうちに、途中で傷ついた者に出会うと、すぐに奔還して妄言を弄して汝夔を欺いた。後にその言が当たらぬと分かっても、汝夔は罪に問わなかった。他の卒を募って偵察させると、また前のようであった。このため寇の衆寡遠近を皆知ることができなかった。

原文寇遊騎四出,去都城三十里。及辛巳,遂自通州渡河而西,前鋒七百騎駐安定門外教場。明日,大營薄都城。分掠西山、黃村、沙河、大小榆河,畿甸大震。初,寇逼通州,部所遣偵卒出城不數里,道遇傷者,輒奔還妄言誑汝夔。既而言不讎,汝夔弗罪也。募他卒偵之復如前。以故寇眾寡遠近皆不能知。

宣府総兵官趙国忠、参将趙臣・孫時謙・袁正、遊撃姚冕、山西遊撃羅恭らが、それぞれ兵を率いて入援し、玉河の諸所に営した。詔して兵部に諸鎮の兵数を核実させ、賞賚を行わせた。王事に勤める兵は先後五六万人に上り、皆変報を聞くや即時に赴いたが、糧秣を携帯していなかった。制を下して師を犒労しようとしたが、牛酒が出所がなかった。二三日過ぎて、援軍はようやく数枚の餅餌を得ただけで、ますます飢え疲れて戦に耐えられなかった。

原文宣府總兵官趙國忠,參將趙臣、孫時謙、袁正,遊擊姚冕,山西遊擊羅恭等,各以兵入援,營玉河諸處。詔兵部核諸鎮兵數,行賞賚。勤王兵先後五六萬人,皆聞變即赴,未賫糗糧。制下犒師,牛酒無所出。越二三日,援軍始得數餅餌,益饑疲不任戰。

帝は久しく朝を視ず、軍事について面と向かって奏上する機会がなかった。廷臣が多く言上したが、帝は許さなかった。礼部尚書徐階がまた固く請うたので、帝はようやく許した。癸未の日、群臣は昧爽に入朝した。日晡に至り、帝はようやく奉天殿に御し、一言も発することなく、ただ階に命じて勅諭を奉じて午門に至り、群臣を集めて厳しく責めただけであった。帝は文武の臣が任事に堪えぬことを怒り、特に汝夔を怒った。吏部はこれに因って楊守礼・劉源清・史道・許論を家から起用することを請うた。汝夔は自ら安からず、諸将を督いて出城して戦うことを請い、侍郎謝蘭に部事を署理させた。帝はその推委を責め、従前の通り居中するよう命じた。寇は内縦横に地を掠めて八日、諸軍は一矢も発しようとしなかった。寇はもとより攻城の意がなく、かつ掠奪が望外に多かったので、輜重しちょうを整え、悠々として白羊口に向かって去った。

原文帝久不視朝,軍事無由面白。廷臣多以為言,帝不許。禮部尚書徐階復固請,帝乃許。癸未,群臣昧爽入。至日晡,帝始禦奉天殿,不發一詞,但命階奉敕諭至午門,集群臣切責之而已。帝怒文武臣不任事,尤怒汝夔。吏部因請起楊守禮、劉源清、史道、許論於家。汝夔不自安,請督諸將出城戰,而以侍郎謝蘭署部事。帝責其推委,命居中如故。寇縱橫內地八日,諸軍不敢發一矢。寇本無意攻城,且所掠過望,乃整輜重,從容趨白羊口而去。

事態が切迫していた時、帝は諸将に戦いを急がせた。汝夔は嵩に諮った。嵩は言った、「塞上での敗戦は或いは掩えることもできようが、輦下で失利すれば、帝は知らぬことがない。誰がその咎を執るのか? 寇は飽くに及んで自ら飏げ去るのみである」。汝夔はこれにより敢えて主戦せず、諸将もまたますます営を閉ざし、寇はこれによって肆に掠奪して忌憚するところがなかった。既に退いた後、汝夔・蘭および戸部・工部尚書李士翺・胡松、侍郎駱颙・孫禬は皆罪を引いた。命じて士翺の職を革め、松の俸を停め、ともに罪を戴いて事を弁じさせ、侍郎は各々俸を五月停め、汝夔を獄に下した。帝は大いに誅戮を行って後を懲らしめようとした。汝夔は窮し、嵩に救いを求めた。嵩は言った、「私がいる以上、必ずや公を死なせはしない」。そして帝の怒りが甚だしいのを見て、ついに敢えて言わなかった。給事中・御史が汝夔を劾奏して寇を防ぐに策なしとした。帝は彼らが早く言わなかったことを責め、俸禄を差等を以って奪った。獄を具えるよう急がせ、法司の奏上が緩やかなのを怒り、都御史屠僑・刑部侍郎彭黯・大理卿沈良才を各々四十杖に処し、俸禄を五等降らせた。刑科の張侃らが故事に循って覆奏したので、各々五十杖に処し、侃を斥けて民とした。汝夔を守備不設の罪に坐し、即日に市で斬り、その首を梟し、妻を三千里に流し、子を鉄嶺に戍らせた。汝夔は臨刑に際し、初めて嵩に売られたことを悔いた。

原文方事棘,帝趣諸將戰甚急。汝夔以咨嵩。嵩曰:「塞上敗或可掩也,失利輦下,帝無不知,誰執其咎?寇飽自飏去耳。」汝夔因不敢主戰,諸將亦益閉營,寇以此肆掠無所忌。既退,汝夔、蘭及戶、工尚書李士翺、胡松,侍郎駱颙、孫禬皆引罪。命革士翺職,停松俸,俱戴罪辦事,侍郎各停俸五月,而下汝夔獄。帝欲大行誅以懲後。汝夔窘,求救於嵩。嵩曰:「我在,必不令公死。」及見帝怒甚,竟不敢言。給事御史劾汝夔禦寇無策。帝責其不早言,奪俸有差。趣具獄,怒法司奏當緩,杖都御史屠僑、刑部侍郎彭黯、大理卿沈良才各四十,降俸五等。刑科張侃等循故事覆奏,各杖五十,斥侃為民。坐汝夔守備不設,即日斬於市,梟其首,妻流三千里,子戍鐵嶺。汝夔臨刑,始悔為嵩所賣。

廷訊の時、職方郎王尚学が従坐に当たるはずであった。汝夔は言った、「罪は尚書にあり、郎中は関わりなし」。これにより死罪を減じて辺境に戍らせる論となった。市に赴く時、左右に問うた、「王郎中は免れたか?」。尚学の子の化がちょうど傍らにいて、謝して言った、「公の恩を蒙り、免れました」。汝夔は嘆いて言った、「汝の父は私に速やかに戦うよう勧めたが、私は政府に誤られた。汝の父が免れたなら、私は死んでも恨みなし」。聞く者は涙を流した。隆慶初年に官を復した。

原文方廷訊時,職方郎王尚學當從坐。汝夔曰,「罪在尚書,郎中無預」,得減死論戍。比赴市,問左右:「王郎中免乎?」尚學子化適在旁,謝曰:「荷公恩,免矣。」汝夔嘆曰:「汝父勸我速戰,我為政府誤。汝父免,我死無恨。」聞者為泣下。隆慶初,復官。

汝夔が既に獄に下されると、併せて汝孝・希韓・鉞を逮えた。寇が未だ尽く去っていなかったので、官校は敢えて前に進まず、汝孝らが寇を白羊口に追っていると託言し、遠くて急に至れないと言った。逮えられた時、死罪と論じられた。帝の怒りは漸く解け、汝孝がまた首功として聞こえたので、命じて皆死罪を減じて辺境に戍らせた。

原文汝夔既下獄,並逮汝孝、希韓、鉞。寇未盡去,官校不敢前,托言汝孝等追寇白羊口,遠不可卒至。比逮至,論死。帝怒漸解,而汝孝復以首功聞,命俱減死戍邊。

楊守謙

原文楊守謙

楊守謙、字は允亨、徐州の人。父の志学、字は遜夫、弘治六年の進士。大同・寧夏を巡撫し、辺境の民に愛された。累官して刑部尚書に至り、卒し、諡して康恵といった。

原文楊守謙,字允亨,徐州人。父誌學,字遜夫,弘治六年進士。巡撫大同、寧夏,邊人愛之。累官刑部尚書,卒,謚康惠。

守謙は嘉靖八年の進士に登第し、屯田主事に授けられた。職方に改め、郎中を歴任し、兵計に習熟した。出て陝西副使となり、督学政に改め、名声があり、そのまま参政に拝された。未だ任に就かぬうちに、右僉都御史に擢てられ、山西を巡撫した。偏頭・老営堡の二所に余地千九百余頃あり、営田を興すことを請うて上言した。これに因り副使張鎬を提調に推薦し、牛と種子は本土から給するよう求めた。帝は忠と称し、即時に許可を報じた。まもなく移って延綏を巡撫した。鎬を久任させ、その事を終わらせるよう請うた。その後二年、営田は大いに興った。秋の収穫を計ると、庫銀十万に相当し、辺関の穀価は十五分の一減った。守謙は鎬を大用に堪えると推薦し、かつ延綏・安定の諸辺もこの例に倣えると述べた。戸部はこれを九辺に推行するよう請うた。帝は悦び、急いでこれを行わせ、守謙・鎬の功を記録した。守謙は未だ延綏を去らぬうちに、鎬は既に寧夏を巡撫していた。

原文守謙登嘉靖八年進士,授屯田主事。改職方,歷郎中,練習兵計。出為陜西副使,改督學政,有聲,就拜參政。未任,擢右僉都御史,巡撫山西。上言偏頭、老營堡二所,余地千九百餘頃,請興舉營田。因薦副使張鎬為提調,牛種取給本土。帝稱為忠,即報可。俄移撫延綏。請久任鎬,終其事。其後二年,營田大興。計秋獲可當帑銀十萬,邊關谷價減十五。守謙薦鎬可大用,且言延綏、安定諸邊可如例。戶部請推行之九邊。帝悅,命亟行之,錄守謙、鎬功。守謙未去延綏,而鎬已巡撫寧夏矣。

守謙が延綏に至り、言上した、「軍士を激勵するには重賞にある。今、一首級を斬る者に一級を昇進させ、望まぬ者には白金三十両を与えると定めている。賞は既に薄く、また文書で察勘するため、動輒歳月に及び、このため士心が奮わない。近ごろ宣府・大同で事態が切迫し、やや賞格を加えたが、その数を倍増し、鎮巡官が検明したら即時に給するよう請う。およそ増級・襲蔭は官ある者が利とし、窮卒は賞を覬うのみである」。兵部は然りとし、首級一級を斬る者に五十両を与えると定め、令として著した。以前の山西での辺境修築の功により、俸禄一級を増し、金幣を加えて賜った。新設の遊兵に月餉を給し、倉儲を発して飢えた卒に貸与するよう請うたが、皆許しを報じられた。

原文守謙至延綏,言:「激勸軍士在重賞。令斬一首者升一級,不願者予白金三十兩。賞已薄,又文移察勘,動涉歲時,以故士心不勸。近宣、大事棘稍加賞格,請倍增其數,鎮巡官驗明即給。蓋增級、襲蔭,有官者利之,窮卒覬賞而已。」兵部以為然,定斬首一級者與五十兩,著為令。以前山西修邊功,增俸一級,賜金幣有加。請給新設遊兵月餉,發倉儲貸饑卒,皆報許。

二十九年、副都御史に進み、保定を巡撫し、兼ねて紫荊諸関を督す。鎮を去るの日、城を傾けて号泣し、数百里外まで追送する者あり。未だ幾ばくもせず、俺答が入寇す。守謙は師を率いて倍道して入援す。帝その至るを聞き、甚だ喜び、崇文門外に営せしむ。時に副総兵朱楫、参将祝福・馮登も各々兵を以て至り、人心稍く安んず。寇の遊騎散掠して枯柳諸村に及び、京城を去ること二十里。守謙及び楫等の兵は営を移して東直門外に駐す。詔して仇鸞とともに京城及び各路の援兵を調度し、機に相い戦守せしむ。

原文二十九年進副都御史,巡撫保定兼督紫荊諸關。去鎮之日,傾城號泣,有追送數百里外者。未幾,俺答入寇,守謙率師倍道入援。帝聞其至,甚喜,令營崇文門外。會副總兵朱楫,參將祝福、馮登亦各以兵至,人心稍安。寇遊騎散掠枯柳諸村,去京城二十里。守謙及楫等兵移營東直門外。詔同仇鸞調度京城及各路援兵,相機戰守。

寇都城に薄し、諸将高秉元・徐鏞等これを防ぐも、却くることができず。帝は鸞を大将軍に拝し、守謙を兵部右侍郎に進め、内外諸軍事の提督に協同せしむ。鸞は時に孤山より還り、東直門に至りて観望し、死人六級の首を斬り、功を報ず。守謙は孤軍を以て俺答の営に薄し、而して陣に後継なく、敢えて戦わず。帝聞きて悦ばず。而して尚書丁汝夔は師の喪わるを慮り、軽く戦うことを戒む。諸将は城より遠く、守謙の戦わざるを見て、亦た壁を堅くし、輒ち汝夔及び守謙を引きて言い訳と為す。流言禁中に聞こえ、帝益々怒る。

原文寇薄都城,諸將高秉元、徐鏞等禦之,不能卻。帝拜鸞大將軍,進守謙兵部右侍郎,協同提督內外諸軍事。鸞時自孤山還,至東直門觀望,斬死人首六級,報功。守謙孤軍薄俺答營,而陣無後繼,不敢戰。帝聞不悅。而尚書丁汝夔慮喪師,戒勿輕戰。諸將離城遠,見守謙不戰,亦堅壁,輒引汝夔及守謙為辭。流聞禁中,帝益怒。

初め、寇安定門に抵る。詔して守謙と楫等に合撃せしむも、敢えて前進する者なし。守謙も亦た部檄無きを委ね、第に備えを申し儆ますのみ。寇遂に城外の廬舎を毀つ。城の西北隅火光天を燭し、内臣の園宅其の中に在り、環りて帝の前に泣き、将帥は文臣に制せられ、故に寇此に至るを得たりと称す。帝怒りて曰く、「守謙は衆を擁して自ら全うす。朕親しく旨を降して戦いを促す。何ぞ部檄を以て解することあらんや」と。寇退き、遂に守謙と汝夔を執りて廷に鞫う。坐すに軍機を失誤するに因り、即日市にて戮す。守謙臨刑の時、慨然として曰く、「臣は王事に勤むるを以て却って罪を獲たり。讒賊の口実、聖聡を蔽う。皇天後土、臣が此の心を知る。死すとも何の恨みかあらん」と。辺陲の吏士、守謙の死するを知り、涕を流さざる者なし。

原文初,寇抵安定門,詔守謙與楫等合擊,莫敢前。守謙亦委無部檄,第申儆備。寇遂毀城外廬舍。城西北隅火光燭天,內臣園宅在焉,環泣帝前,稱將帥為文臣制,故寇得至此。帝怒曰:「守謙擁眾自全,朕親降旨趣戰,何得以部檄為解。」寇退,遂執守謙與汝夔廷鞫之。坐失誤軍機,即日戮於市。守謙臨刑時,慨然曰:「臣以勤王反獲罪,讒賊之口實蔽聖聰。皇天後土知臣此心,死何恨。」邊陲吏士知守謙死,無不流涕者。

守謙は坦易にして城府無く、下を馭するに恩意多し。官を守るに廉、位は開府に至るも、蕭然として寒士の若し。然れども性遅重なり。客に之を戦わしむるを勧むる者あり。応えて曰く、「周亜夫は何人ぞや」と。客曰く、「公誤れり。今日何ぞ漢法に比すべけんや」と。守謙納れず、竟に罪を得たり。隆慶初、兵部尚書を贈り、謚して恪湣と曰う。

原文守謙坦易無城府,馭下多恩意。守官廉,位至開府,蕭然若寒士。然性遲重,客有勸之戰者,應曰:「周亞夫何人乎?」客曰:「公誤矣,今日何得比漢法?」守謙不納,竟得罪。隆慶初,贈兵部尚書,謚恪湣。

商大節

原文商大節

商大節、字は孟堅、鐘祥の人。嘉靖二年の進士。豊城知県を授かる。始めて城を築き、境内の盗賊を捕えて幾くも尽くす。兵科給事中に擢てられる。京察竣り、復た命じて科道互いに劾せしむ。謫せられて塩城県丞と為る。三たび遷りて刑部郎中、出でて広東僉事と為る。海南の叛黎の巣を搗ち、秩を増し、金幣を賜う。累官して山東按察使。右僉都御史に擢てられ、保定を巡撫し、兼ねて紫荊諸関を提督す。俺答の内侵を慮り、疏を上して根本を重んじ、神京を護ることを請う。居ること四年、召されて院事を理む。俺答果たして大挙して都城に薄す。詔して城中の居民及び四方より武挙に応ずる者悉く陴に登りて守らしめ、大節を以て五城御史を率いしむ。帑金五千両を発し、命じて便宜に壮士を募らしむ。屡たび軍民の急務を条上す。寇退くに及び、復た命じて兼ねて民兵を管し、京城内外を経略せしむ。訓練鼓舞し、軍容甚だ壮なり。右副都御史に擢てられ、経略は元の如し。募りし民兵既に四千、請うて三等を以て餉を授けんことを。上は月二石、其次は五斗ずつ逓減す。帝亟に之に従う。

原文商大節,字孟堅,鐘祥人。嘉靖二年進士。授豐城知縣。始為築城,捕境內盜幾盡。擢兵科給事中。京察竣,復命科道互相劾,被謫鹽城縣丞。三遷刑部郎中,出為廣東僉事。搗海南叛黎巢,增秩,賜金幣。累官山東按察使。擢右僉都御史,巡撫保定兼提督紫刑諸關。慮俺答內侵,疏請重根本,護神京。居四年,召理院事。俺答果大舉薄都城。詔城中居民及四方入應武舉者悉登陴守,以大節率五城御史統之。發帑金五千兩,命便宜募壯士。屢條上軍民急務。比寇退,復命兼管民兵,經略京城內外。訓練鼓舞,軍容甚壯。擢右副都御史,經略如故。所募民兵已四千,請以三等授餉。上者月二石,其次遞減五鬥。帝亟從之。

仇鸞大将軍と為り、尽く中外の兵馬を統す。大節の独り一軍を為し、其の節制を受けざるを悪み、之を困らんと欲す。乃ち画地して分守することを請い、京師四郊を大節に委ぬ。大節言う、「臣は京城を経略すと雖も、実に重兵を有し専ら戦守の責を負う者に非ず。京城四郊の利害、鸞は専ら臣を以て当たらんと欲す。臣が節制する者は、止だ巡捕軍のみ。鸞又頻りに調遣し、奸宄猝発すれば、誰か為に捍禦せんや」と。争う所甚だ晰なり。而して帝方に鸞を寵し、人をして其の事を撓がしむるを欲せず、大節を責めて奸を懐き難を避くるとし、直ちに詔獄に下す。法司旨に希い、大節を斬に当つ。厳嵩言う、「大節誠に罪有り。但だ法司の律を引くは是に非ず。幸いに其の死を赦し、極辺に戍せしむべし」と。亦た聴かず。時に三十年四月なり。

原文仇鸞為大將軍,盡統中外兵馬,惡大節獨為一軍,不受其節制,欲困之。乃請畫地分守,以京師四郊委大節。大節言:「臣雖經略京城,實非有重兵專戰守責者也。京城四郊利害,鸞欲專以臣當。臣節制者,止巡捕軍,鸞又頻調遣,奸宄猝發,誰為捍禦哉?」所爭甚晰,而帝方寵鸞,不欲人撓其事,責大節懷奸避難,立下詔獄。法司希旨,當大節斬。嚴嵩言:「大節誠有罪,但法司引律非是。幸赦其死,戍極邊。」亦不聽。時三十年四月也。

明年八月、鸞死す。大節の故部曲ぶきょく石鏜・孫九思等数百人闕に伏して冤を訟ぎ、章再び上る。兵部侍郎張時徹等言う、「大節は逆鸞に制肘せられ、以て法に抵る。群情に順いて之を赦すことを乞う」と。帝怒り、時徹の二秩を鐫る。明年竟に獄に卒す。隆慶初、故官に復し、兵部尚書を贈り、謚して端湣と曰う。

原文明年八月,鸞死,大節故部曲石鏜、孫九思等數百人伏闕訟冤,章再上。兵部侍郎張時徹等言:「大節為逆鸞制肘,以抵於法,乞順群情赦之。」帝怒,鐫時徹二秩。明年竟卒於獄。隆慶初,復故官,贈兵部尚書,謚端湣。

王忬

原文王忬

王忬、字は民応、太倉の人。父倬、南京兵部右侍郎、謹厚きんこうを以て称せらる。忬は嘉靖二十年の進士に登り、行人を授かり、御史に遷る。皇太子出閣す。疏を以て武宗の青宮に居ししことを戒めと為す。又た東廠太監宋興を劾して罷む。出でて河東の塩政を視、疾を以て帰る。已にして起きて湖広を按じ、復た順天を按ず。

原文王忬,字民應,太倉人。父倬,南京兵部右侍郎,以謹厚稱。忬登嘉靖二十年進士,授行人,遷御史。皇太子出閣,疏以武宗居青宮為戒。又劾罷東廠太監宋興。出視河東鹽政,以疾歸。已,起按湖廣,復按順天。

二十九年、俺答大挙して古北口を犯す。忬奏言す、潮河川に径道有り、一日夜にして通州に達すべしと。因りて疾馳して通州に至り、守禦の計を為し、東岸に在る舟楫を尽く徙す。夜半、寇果たして大いに至る。渡ること得ず、遂に河東に壁す。帝密かに中使を遣わして軍を覘わしむ。忬方に士を厲し城に乗するを見る。還りて奏す。帝大いに喜ぶ。副都御史王儀は通州を守る。御史姜廷頤其の職にたらざるを劾す。忬も亦た儀が士卒を縦して大同軍を虐ぐると言う。大同軍とは、仇鸞の兵なり。帝直ちに命じて儀を逮え、而して忬を超擢して右僉都御史と為し、之に代わらしむ。寇退き、忬は難民を振恤し、京師の外郭を築き、通州城を修め、張家湾の大小二堡を築き、沿河に敵臺を置くことを請う。皆報可す。尋いで通州・易州の守禦大臣を罷め、忬を召し還す。

原文二十九年,俺答大舉犯古北口。忬奏言潮河川有徑道,一日夜可達通州。因疾馳至通為守禦計,盡徙舟楫之在東岸者。夜半,寇果大至。不得渡,遂壁於河東。帝密遣中使覘軍,見忬方厲士乘城。還奏,帝大喜。副都御史王儀守通州,御史姜廷頤劾其不職,忬亦言儀縱士卒虐大同軍。大同軍者,仇鸞兵也。帝立命逮儀,而超擢忬右僉都御史代之。寇退,忬請振難民,築京師外郭,修通州城,築張家灣大小二堡,置沿河敵臺。皆報可。尋罷通州、易州守禦大臣,召忬還。

三十一年、出でて山東を撫す。甫く三月、浙江の倭寇急なるを以て、命じて忬に軍務を提督せしめ、浙江及び福・興・漳・泉の四府を巡視せしむ。先後方略十二事を上す。参将俞大猷・湯克寛を任じ、又た奏して参将尹鳳・盧鏜の繋がるるを釈せしむ。賊温州を犯す。克寛之を破る。其の昌国衛に拠る者は、大猷に撃退せらる。而して賊首汪直復た島倭及び漳・泉の群盗を糾い、連ねて巨艦百余りを以て海を蔽いて至る。浜海数千里同じく警を告ぐ。上海及び南匯・呉淞・乍浦・蓁嶼諸所皆陥ち、蘇・松・寧・紹諸衛所州県焚掠せらるる者二十余り。内地に三月留まり、飽いて去る。忬乃ち言う、将士逐い毀ち其の船五十余艘と。是に於て先に奪いし文武将吏の俸、皆復するを得。尋いで給事王国禎の言に因り、巡撫に改む。忬方に師を視る閩中に在り。賊復た大いに至り、浙江を犯す。盧鏜等頻りに利を失う。御史趙炳然其の罪を劾す。帝特だ忬を宥す。忬因りて請う、嘉善・崇徳・桐郷・徳清・慈渓・奉化・象山の城を築き、而して寇に被れる諸府を恤わんことを。

原文三十一年出撫山東。甫三月,以浙江倭寇亟,命忬提督軍務,巡視浙江及福、興、漳、泉四府。先後上方略十二事,任參將俞大猷、湯克寬,又奏釋參將尹鳳、盧鏜系。賊犯溫州,克寬破之。其據昌國衛者,為大猷擊退。而賊首汪直復糾島倭及漳、泉群盜連巨艦百餘蔽海至,濱海數千里同告警。上海及南匯、吳淞、乍浦、蓁嶼諸所皆陷,蘇、松、寧、紹諸衛所州縣被焚掠者二十餘。留內地三月,飽而去。忬乃言將士逐毀其船五十餘艘。於是先所奪文武將吏俸,皆得復。尋以給事王國禎言,改巡撫。忬方視師閩中,賊復大至,犯浙江,盧鏜等頻失利。御史趙炳然劾其罪,帝特宥忬,忬因請築嘉善、崇德、桐鄉、德清、慈溪、奉化、象山城,而恤被寇諸府。

時に既に尚書張経を遣わして諸軍を総督せしむ。大同は丁度寇に遭い、督撫蘇祐・侯鉞ともに逮問され、乃ち王忬を右副都御史に進めて大同を巡撫せしむ。秋防の事竣り、就いて兵部右侍郎を加う。薊遼総督楊博朝に還るや、即ち王忬を移して之に代わらしむ。尋いで右都御史に進む。王忬言う、「騎兵は平地に利あり、歩兵は険阻に利あり。今薊鎮は地を画して守るも、他郡の防秋馬兵八千を去り、之を歩兵に易え、歳に銀五万六千余両を省くを請う」と。之に従う。打来孫十余万騎、広寧諸処に深入し、総兵官殷尚質等戦歿す。王忬俸を停めること三月。未だ幾もせず、打来孫復た十万騎を以て青城に屯し、精騎を分遣して一片石・三道関を犯す。総兵官欧陽安之を拒ぎて却く。事聞こえ、銀幣を賜う。把都児等遷安を犯し、副総兵蒋承勛戦死す。王忬を兵部侍郎に降し、留任せしむ。

原文時已遣尚書張經總督諸軍。大同適中寇,督撫蘇祐、侯鉞俱被逮,乃進忬右副都御史,巡撫大同。秋防事竣,就加兵部右侍郎。薊遼總督楊博還朝,即移忬代之。尋進右都御史。忬言:「騎兵利平地,步兵利險阻。今薊鎮畫地守,請去他郡防秋馬兵八千,易之以步,歲省銀五萬六千餘兩。」從之。打來孫十餘萬騎深入廣寧諸處,總兵官殷尚質等戰歿。忬停俸三月。未幾,打來孫復以十萬騎屯青城,分遣精騎犯一片石、三道關。總兵官歐陽安拒卻之。事聞,賚銀幣。把都兒等犯遷安,副總兵蔣承勛戰死。降忬兵部侍郎,留任。

初め、帝は王忬の才を器とし、甚だ之を眷顧す。及んで其の部屡々事を失うに及び、則ち以て寇を弁ずるに足らずと為し、厳嵩に諭して兵部と計り防守の宜きを議わしむ。嵩奏す、流河口の辺墻に缺あり、故に寇之に乗じて入る、宜しく大いに辺墻を修すべし。且つ王忬をして額兵を選補し、戦守を操練せしめ、専ら他鎮の援兵に恃むべからずと。部六事を条上し、嵩の指す所の如し。帝乃ち詔を下して王忬を責め、其の罪を赦し、主兵を実にし、客兵を減じ、議の如くせしむ。ここに於て練兵の議起る。時に寇の別部瀋陽に入り、郷兵金仲良なる者其の長討頼を擒う。王忬銀幣を賜い、仲良を三級官す。防秋畢り、復た王忬の官を復す。尋いで復た瀋陽にて寇を却けたる功を用い、一子を蔭す。已にして寇復た遼陽に入り、副総兵王重禄敗績す。御史周斯盛以て聞こゆ。帝は王忬を置いて問わず、他の将吏を律に依りて治む。

原文初,帝器忬才,甚眷之。及所部屢失事,則以為不足辦寇,諭嚴嵩與兵部計防守之宜。嵩奏流河口邊墻有缺,故寇乘之入,宜大修邊墻。且令忬選補額兵,操練戰守,不得專恃他鎮援兵。部條六事,如嵩指。帝乃下詔責忬,赦其罪,實主兵,減客兵,如議。於是練兵之議起。時寇別部入沈陽,有鄉兵金仲良者擒其長討賴。忬賚銀幣,官仲良三級。防秋畢,復忬官。尋復用沈陽卻寇功,蔭一子。已而寇復入遼陽,副總兵王重祿敗績。御史周斯盛以聞。帝置忬不問,治他將吏如律。

初め、帝は楊博の言に従い、薊鎮の入衛兵を命じて宣大の調遣を聴かしむ。王忬言う、「古北諸口に険を守る可き無く、独り入衛卒を恃みて陵京を護る、奈何ぞ調発を聴かんや」と。帝怒りて曰く、「曩に薊鎮に練兵を令す、今一卒も練せず、防秋に遇う毎に輒ち他鎮の兵を調す、兵部詳しく議して以て聞こえよ」と。部臣言う、「薊鎮の額兵多く缺く、宜しく察して補うべし」と。乃ち郎中唐順之を遣わして往き核せしむ。還り奏す、額兵九万奇有り、今惟だ五万七千、又皆羸老なりと。王忬と総兵官安・巡撫馬珮及び諸将袁正等、倶に宜しく按治すべしと。乃ち王忬の俸を二級降す。帝因りて嵩に問う、「辺兵の入衛は、旧制なるか」と。嵩曰く、「祖宗の時は辺兵を調して内地に入るる者無し。正徳中劉六猖獗し、始めて許泰・郤永を調して辺兵を領せしめ賊を討たしむ。庚戌の変、仇鸞辺兵十八支を選び陵京を護らしむ、未だ以て薊鎮を守らしめず。何棟に至り始めて二支を借りて防守し、王忬始めて辺兵を尽く調して要害を守り、去年又た全遼の士馬を征して関に入らしめ、寇をして虚に乗じて入犯せしめ、遼左一空と為す。若し年を復た年とし、調発已まずんば、豈に糜餉のみならん、更に他の憂有らん」と。帝是より王忬を悪むこと甚だし。一月を逾え、寇清河を犯し、総兵官楊照之を禦ぎ、首級八百余を斬る。四日を越え、土蛮十万騎界嶺口に薄し、副将馬芳之を拒ぎて却く。明日、敵騎二百奔還し、芳及び安俘斬四十級。王忬猶お賚せらる。

原文初,帝從楊博言,命薊鎮入衛兵聽宣大調遣。忬言:「古北諸口無險可守,獨恃入衛卒護陵京,奈何聽調發?」帝怒曰:「曩令薊鎮練兵,今一卒不練,遇防秋輒調他鎮兵,兵部詳議以聞。」部臣言:「薊鎮額兵多缺,宜察補」。乃遣郎中唐順之往核。還奏額兵九萬有奇,今惟五萬七千,又皆羸老。忬與總兵官安、巡撫馬珮及諸將袁正等,俱宜按治。乃降忬俸二級。帝因問嵩:「邊兵入衛,舊制乎?」嵩曰:「祖宗時無調邊兵入內地者。正德中劉六猖獗,始調許泰、郤永領邊兵討賊。庚戌之變,仇鸞選邊兵十八支護陵京,未用以守薊鎮。至何棟始借二支防守,忬始盡調邊兵守要害,去歲又征全遼士馬入關,致寇乘虛入犯,遼左一空。若年復一年,調發不已,豈惟糜餉,更有他憂。」帝由是惡忬甚。逾月,寇犯清河,總兵官楊照禦之,斬首八百餘級。越四日,土蠻十萬騎薄界嶺口,副將馬芳拒卻之。明日,敵騎二百奔還,芳及安俘斬四十級。忬猶被賚。

三十八年二月、把都児・辛愛数部会州に屯し、朵顔を挟みて郷導と為し、将に西に入らんとし、声言して東とす。王忬遽かに兵を引きて東す。寇乃ち其の間を以て潘家口より入り、灤河を渡りて西し、大いに遵化・遷安・薊州・玉田を掠め、内地に五日駐まり、京師大いに震う。御史王漸・方輅遂に王忬・安及び巡撫王輪の罪を劾す。帝大怒し、安を斥け、輪を外に貶し、王忬を切責し、俸を停めて自ら効わしむるを令す。五月に至り、輅復た王忬の失策する者三、罪有る者四を劾し、遂に命じて王忬及び中軍遊撃張倫を逮えて詔獄に下す。刑部王忬を論じて辺に戍らしむ。帝手批して曰く、「諸将皆斬る、主軍令者は顧みて軽典に附するを得んや」と。改めて斬を論ず。明年の冬、竟に西市に死す。

原文三十八年二月,把都兒、辛愛數部屯會州,挾朵顏為鄉導,將西入,聲言東。忬遽引兵東。寇乃以其間由潘家口入,渡灤河而西,大掠遵化、遷安、薊州、玉田,駐內地五日,京師大震。御史王漸、方輅遂劾忬、安及巡撫王輪罪。帝大怒,斥安,貶輪於外,切責忬,令停俸自效。至五月,輅復劾忬失策者三,可罪者四,遂命逮忬及中軍遊擊張倫下詔獄。刑部論忬戍邊,帝手批曰:「諸將皆斬,主軍令者顧得附輕典耶?」改論斬。明年冬,竟死西市。

王忬の才は本より通敏なり。其の驟に都御史を拝し、及び屡々督撫を更むるや、皆帝の特簡にして、建請する所従わざる無し。総督として数たび敗を以て聞こゆるに由り、是より漸く寵を失う。既に主兵を練せざるの言有りて、益々大いに恚り、謂う、「王忬事を怠り、我に負く」と。嵩雅より王忬を悦ばず。而して王忬の子世貞復た口語を用いて嵩の子世蕃に積みて歓を失う。厳氏の客又数たび世貞の家の瑣事を以て嵩父子に構う。楊継盛の死、世貞又た其の喪を経紀す、嵩父子大いに恨む。灤河の変聞こえ、遂に其の計を行うを得。穆宗即位し、世貞弟世懋と闕に伏して冤を訟う。故官を復し、恤を予う。

原文忬才本通敏。其驟拜都御史,及屢更督撫也,皆帝特簡,所建請無不從。為總督數以敗聞,由是漸失寵。既有言不練主兵者,益大恚,謂:「忬怠事,負我。」嵩雅不悅忬。而忬子世貞復用口語積失歡於嵩子世蕃。嚴氏客又數以世貞家瑣事構於嵩父子。楊繼盛之死,世貞又經紀其喪,嵩父子大恨。灤河變聞,遂得行其計。穆宗即位,世貞與弟世懋伏闕訟冤。復故官,予恤。

楊選

原文楊選

楊選、字は以公、章丘の人。嘉靖二十三年進士。行人を授かる。御史に擢でられ、易州兵備副使に遷る。俺答大同右衛を囲み、巡撫朱笈逮問され、超えて楊選を右僉都御史に拝して之に代わらしむ。侍郎江東・総兵官張承勛と其の囲みを解く。憂に帰り、再び起き、仍って故職。四十年薊遼副都御史を総督に擢でる。封疆の極弊十五事を条上し、多く其の請に従う。居庸岔道にて敵を却けたる功を以て、兵部右侍郎に進む。

原文楊選,字以公,章丘人。嘉靖二十三年進士。授行人。擢御史,遷易州兵備副使。俺答圍大同右衛,巡撫朱笈被逮,超拜選右僉都御史代之。與侍郎江東、總兵官張承勛解其圍。憂歸,再起,仍故職。四十年擢總督薊遼副都御史。條上封疆極弊十五事,多從其請。以居庸岔道卻敵功,進兵部右侍郎。

明年五月、古北口守将哨卒を遣わして塞を出だすに、朵顔衛其の四人を掠む。部長通漢関を叩き賞を索む、副総兵胡鎮之を執り、並びに其の党十余を縛る。通漢の子懼れ、執る所の哨卒を擁して墻下に至り、其の父を易えんことを請う。通漢は、辛愛の妻の義父なり、楊選辛愛を牽制せんと欲し、其の子を要して質に入らしめ、乃ち父を還し遣わす。是より諸子叠りて質と為り、半歳にして代わる。楊選馳疏して以て聞こえ、方略を自ら詡る。楊選及び巡撫徐紳等倶に賞を受く。

原文明年五月,古北口守將遣哨卒山塞,朵顏衛掠其四人。部長通漢叩關索賞,副總兵胡鎮執之,並縛其黨十餘人。通漢子懼,擁所執哨卒至墻下,請易其父。通漢者,辛愛妻義父也,選欲以牽制辛愛,要其子入質,乃遣還父。自是諸子叠為質,半歲而代。選馳疏以聞,自詡方略。選及巡撫徐紳等俱受賞。

十月丁卯、辛愛と把都児等大挙して墻子嶺・磨刀峪より墻を潰して入犯し、京師戒厳す。帝大いに驚き、閣臣徐階に諭して曰く、「朕東に火光を見る、此の賊京を去ること遠からず、其れ兵部に令して諸軍に諭し併せ力めて剿逐せしめよ」と。明日、楊選寇の東に遁るるを以て聞こえ、将士の為に賞を祈る。帝疑い、以て階に問う。対えて曰く、「寇の営尚だ平谷に在り、楊選等は通州に往けり、追殺すと謂うは、妄なり」と。帝之を銜む。寇稍々東し、三河・順義を大いに掠め、諸将傅津等を鄭官屯に囲む。楊選副将胡鎮を遣わし総兵官孫臏・遊撃趙溱と偕に之を撃たしむ。臏・溱戦歿し、鎮力戦して脱するを得。寇内地に留まること八日退かず。紿事中李瑜遂に楊選・徐紳と副使盧鎰、参将馮詔・胡粲、遊撃厳瞻等を劾し、倶に逮えて詔獄に下す。又た二日、寇始めて北に去り、京師戒厳を解く。

原文十月丁卯,辛愛與把都兒等大舉自墻子嶺、磨刀峪潰墻入犯,京師戒嚴。帝大驚,諭閣臣徐階曰:「朕東見火光,此賊去京不遠,其令兵部諭諸軍並力剿逐。」明日,選以寇東遁聞,為將士祈賞。帝疑,以問階。對曰:「寇營尚在平谷,選等往通州矣,謂追殺者,妄也。」帝銜之。寇稍東,大掠三河、順義,圍諸將傅津等於鄭官屯。選遣副將胡鎮偕總兵官孫臏、遊擊趙溱擊之。臏、溱戰歿,鎮力戰得脫。寇留內地八日不退。紿事中李瑜遂劾選、紳與副使盧鎰,參將馮詔、胡粲,遊擊嚴瞻等,俱逮下詔獄。又二日,寇始北去,京師解嚴。

初め、諜者が言うには、寇が墻子嶺を窺うと、部は檄を飛ばして厳重に待たせたが、三衛で寇の案内をした者が選を騙して潘家口へ赴かせた。寇は既に入り、選と紳は罪を得ることを恐れ、直ちに都城へ向かい、東直門外に屯し、やがて通州へ戻った。鎮らを派遣して防がせたが、また勝たなかった。薊西に家を持つ内侍は、通漢父子が実に寇を招いたと騒ぎ立てた。帝はその言葉を聞き入れ、ますます怒った。法司は選・紳・詔を守備不設の律に坐して斬罪とし、鎰らを流刑に処した。帝は錦衣朱希孝に命じて通漢を放縦して賊を勾引した罪に坐させ、また選を詔獄に下した。選は承服せず、ただ通漢父子を質に取った事のみを認め、かつ事は既に上聞したと述べた。希孝はその言葉を記録して上奏し、刑部は帝の意のままに選を死罪と論じた。即ち市で斬り、その首を梟して辺境に示し、妻子を二千里流した。紳は死罪と論じられ獄に繋がれ、詔及び鎰らは辺境に流された。帝は選を甚だ怒ったが、ただその身を誅するのみを欲したのに、法司はその妻子までも坐罪に処した。隆慶初年、ようやく釈放して還した。

原文初,諜者言寇將窺墻子嶺,部檄嚴待之,而三衛為寇導者紿選赴潘家口。寇已入,選、紳懼得罪,徑趨都城,屯東直門外,旋還通州。及遣鎮等禦,又不勝。內侍家薊西者,嘩言通漢父子實召寇。帝入其言,益怒。法司坐選、紳、詔守備不設律斬,鎰等戍。帝諭錦衣朱希孝坐以縱通漢勾賊罪,復下選詔獄。選不承,止承質通漢父子事,且言事已上聞。希孝錄其語上,刑部如帝指論選死。即戳於市,梟其首示邊,妻子流二千里。紳論死繫獄,詔及鎰等戍邊。帝雖怒選甚,但欲誅其身,法司乃並坐其妻子。隆慶初,始釋還。

賛して曰く、世宗は威柄を自ら操り、重典を用いて臣下を縛り、権を弄ぶ者はこれを借りて私を行った。ここに賜って闒冗職を廃するの徒は事敗れて辜に伏し、力を出して事に任ずるの臣もまた危法に中って戮せられ、辺臣は自ら展布するを得ず、武備は廃れた。陳九疇・翟鵬・孫継魯・曾銑は皆用いるべき才であるのに、或いは謫せられ或いは死し、その罪によるのではない。銑の復套の議は甚だ偉大である。然れども権臣が軸に当たり、敵の勢いは方に強く、たとえ廉頗・李牧であってもどうして為すことがあろうか。丁汝夔の戮は、法に照らせば誠に過ちではない。然れども戎律の弛みには由来があり、汝夔のみがその咎を蒙った。王忬・楊選は辺備に甚だ疎く、免れざるは宜なるかな。

原文贊曰:世宗威柄自操,用重典以繩臣下,而弄權者借以行其私。於是賜阘冗廢職之徒事敗伏辜,而出力任事之臣亦中危法受戮,邊臣不得自展布,而武備綍矣。陳九疇、翟鵬、孫繼魯、曾銑皆可用之才,或謫或死,不以其罪。銑復套之議甚偉。然權臣當軸,而敵勢方強,雖頗、牧烏能有為?丁汝夔之戮,於法誠不為過。然戎律之弛,有由來矣,而汝夔獨蒙其咎。王忬、楊選於邊備甚疏,宜不免雲。