明史

列傳第九十 廖紀 王時中 周期雍 唐龍 王杲 周用 聞淵 劉訒 孫應奎 聶豹 李默 周延 賈應春 張永明 胡松 趙炳然

列傳第九十 廖紀 王時中 周期雍 唐龍 王杲 周用 聞淵 劉訒 孫應奎 聶豹 李默 周延 賈應春 張永明 胡松 趙炳然

原文列傳第九十 廖紀 王時中 周期雍 唐龍 王杲 周用 聞淵 劉訒 孫應奎 聶豹 李默 周延 賈應春 張永明 胡松 趙炳然

○廖紀、王時中、周期雍、唐龍(子汝楫)、王杲(王暐)、周用(宋景、屠僑)、聞淵、劉讱(胡纘宗)、孫應奎(余姚孫應奎、方鈍)、聶豹、李默(萬鏜)、周延(潘恩)、賈應春、張永明、胡松(績溪胡松)、趙炳然

原文○廖紀王時中周期雍唐龍(子汝楫)王杲(王暐)周用(宋景屠僑)聞淵劉讱(胡纘宗)孫應奎(余姚孫應奎方鈍)聶豹李默(萬鏜)周延(潘恩)賈應春張永明胡松(績溪胡松)趙炳然

廖紀は、字あざなを時陳といい、東光の人である。弘治三年の進士となり、考功主事に任じられ、累進して文選郎中となった。正徳年間に、工部右侍郎を歴任した。易州山廠を提督し、余剰の金銭を私せず、吏部左・右侍郎に転じた。世宗が即位すると、南京吏部尚書に拝され、兵部に転じて機務に参賛したが、弾劾されて解任された。

原文廖紀,字時陳,東光人。弘治三年進士。授考功主事,屢遷文選郎中。正德中,歷工部右侍郎。提督易州山廠,羨金無所私。遷吏部左、右侍郎。世宗立,拜南京吏部尚書。調兵部,參贊機務。被論解職。

嘉靖三年、「大礼」の議が定まると、吏部尚書楊旦が召還に赴く途中、張璁と桂萼を弾劾した。張璁・桂萼の党与である陳洸は、楊旦を弾劾して廖紀を推薦した。帝は楊旦を罷免し、廖紀を代わりに任じた。廖紀は上疏して辞退し、「臣はすでに七十歳で、精力は喬宇に及ばず、聡明さは楊旦に及ばない」と言った。当時、喬宇と楊旦はちょうど帝に憎まれていたため、許されなかった。光禄署丞何淵が世室を建てて興献帝を祀るよう請うたが、廷議に下された。廖紀らは反対を主張したが、帝は従わなかった。廖紀は力説して、「何淵の言うことは、君臣の分を犯し、昭穆の倫を乱し、祖宗の制を蔑ろにします。臣は謹んで死を冒してお願いします。議論をやめてください」と言ったが、受け入れられなかった。廷臣に反対する者が多かったため、結局この議は中止された。その後、三つの事柄を条奏した。その最後に人材を惜しむべきだと述べ、「正徳の末、宗社は危うく傾きました。議する者はただ逆藩を平定した功績を知るだけで、京師を保護した功績を知りません。陛下が統を継がれて以来、老成の臣は次々と去り、新進の者が連なって登用され、出過ぎたことを好む者を賢とし、分を越えて礼を犯す者を貴しとしています。伏して願わくは、陛下には往年致仕した大臣に対し、その保護の勲を思い、召し用いることをご考慮ください。その他、降職・除名・遣戍された者にも、才能をもって自ら効力する機会を与えてください」と言った。帝はただ、士風を正し守令を重んじる二事だけを採用した。三辺総督楊一清が内閣に召還されると、張璁らは王瓊を起用しようとしたが、廖紀は彭沢と王守仁を推挙し、帝は許さなかった。さらに鄧廷璋と王憲の名を上奏し、結局王憲が用いられた。

原文嘉靖三年,「大禮」議既定,吏部尚書楊旦赴召,道劾張璁、桂萼。璁、萼之黨陳洸遂劾旦而薦紀。帝罷旦,以紀代之。紀疏辭,言:「臣年已七十,精力不如喬宇,聰明不如楊旦。」時宇、旦方為帝所惡,不許。光祿署丞何淵請建世室,祀興獻帝,下廷議。紀等執不可,帝弗從。紀力爭曰:「淵所言,幹君臣之分,亂昭穆之倫,蔑祖宗之制,臣謹昧死請罷勿議。」不納。會廷臣多諍者,議竟寢。已,條奏三事。其末言人材當惜,謂:「正德之季,宗社幾危。議者但知平定逆藩之功,而不知保護京師之力。自陛下繼統,老成接踵去,新進連茹登,以出位喜事為賢,以淩分犯禮為貴。伏望陛下於昔年致仕大臣,念其保護之勛,量行召用。其他降職、除名、遣戍者,使得以才自效。」帝但納其正士風、重守令二事而已。三邊總督楊一清召還內閣,璁等欲起王瓊,紀推彭澤、王守仁,帝不允。復以鄧廷璋、王憲名上,竟用憲。

五年正月、御史張袞・喻茂堅・朱実昌が世廟の礼が成就したことを理由に、議礼で罪を得た諸臣の赦免を請い、張璁・桂萼もまた請うた。上奏文はともに吏部に下された。廖紀らは四十七人の名を列挙して上奏したが、結局取り上げられなかった。御史魏有本が郭勛を弾劾し馬永を救ったことで貶官され、給事中沈漢らが論救したが、帝は聞き入れなかった。廖紀が穏やかに進言し、さらに馬永と楊鋭を推薦した。帝はこれを受け入れ、魏有本は貶謫を免れた。廖紀は南京において、議論を張璁と合わせたため、これにより弾劾されて罷免された。張璁らは自分を助ける者を引き入れようとし、廖紀を六卿の筆頭に据えた。しかし廖紀はかえってしばしば彼らと対立し、張璁らもまた廖紀を喜ばなかった。年老いて病と称して帰郷を乞うと、許されて去った。初め、『献皇実録』が完成すると、太子太保を加えられた。この時、少保に進み、勅を賜り駅伝を利用し、人夫と食糧は旧例より多く与えられた。死去すると、太傅を追贈され、僖靖と諡された。

原文五年正月,御史張袞、喻茂堅、朱實昌以世廟禮成,請宥議禮得罪諸臣,璁、萼亦以為請,章俱下吏部。紀等列上四十七人,卒報罷。御史魏有本以劾郭勛、救馬永謫官,給事中沈漢等論救,帝不聽。紀從容為言,且薦永及楊銳。帝納之,有本得無謫。紀在南都,持議與璁合,坐是劾罷。璁輩欲引助己,遂首六卿。而紀顧數與抵牾,璁輩亦不喜。年老稱病乞歸,許之去。初,《獻皇實錄》成,加太子太保。至是進少保,賜敕乘傳,夫廩視故事有加。卒,贈太傅,謚僖靖。

王時中は、字を道夫といい、黄県の人である。弘治三年の進士となり、鄢陵知県に任じられた。かつて郊外に出たとき、旋風が馬の首を囲んだ。王時中は「冤気である」と言い、跡をたどって枯井に死体を発見した。それは妻とその情夫が殺したもので、二人は罪に伏した。召されて御史に拝され、畿輔の馬政を督察した。

原文王時中,字道夫,黃縣人。弘治三年進士。授鄢陵知縣。嘗出郊,旋風擁馬首。時中曰:「冤氣也。」跡得屍眢井,乃婦與所私者殺之,遂伏辜。召拜御史,督察畿輔馬政。

正徳初年、近畿の皇荘の廃止を請うたが、回答がなかった。吏部尚書馬文升が致仕すると、時の声望は劉大夏と閔珪に属していた。王時中は閔珪を和媚と誹謗し、劉大夏を昏耄とした。二人はそれぞれ退任を求め、焦芳がその地位を得たため、人々はみな王時中を咎めた。宣府・大同を巡察に出て、武職で貪汙した者百余人を逮捕拘束したが、東廠太監邱聚に奏劾された。劉瑾は王時中を捕らえて詔獄に下し、重枷をはめて都察院の門前に置いた。王時中の病が重くなると、その妻が見舞いに行き、都御史劉宇に会って泣きながら罵った。劉宇はやむなく劉瑾に言い、釈放して鉄嶺衛に戍謫とした。劉瑾が誅殺されると、四川副使として起用され、湖広按察使に転じた。十二年、右僉都御史として寧夏を巡撫した。

原文正德初,請革近畿皇莊,不報。吏部尚書馬文升致仕,時望屬劉大夏、閔珪。時中詆珪和媚,大夏昏耄。兩人各求退,焦芳遂得之,眾鹹咎時中。出按宣、大,逮系武職貪汙者百餘,為東廠太監邱聚所奏。劉瑾捕時中下詔獄,荷重枷於都察院門。時中病甚,其妻往省,遇都御史劉宇,哭且詬。宇不得已言於瑾,釋之,謫戍鐵嶺衛。瑾誅,起四川副使,遷湖廣按察使。十二年以右僉都御史巡撫寧夏。

世宗が即位すると、右副都御史に召された。父の喪が終わり、元の官に起用された。章聖太后の尊号を上る際、王時中は「本生」の二字を除くべきでないと述べた。冊宝を上る際、百官の陪列に至らなかった者が九人おり、王時中もその一人であった。帝は事情説明を責めたが、後に許した。兵部左侍郎を歴任し、李鉞に代わって尚書となった。宦官黄英らが多くの陳請をしたが、王時中はみな認めなかった。薊州の盗賊平定の功績を叙する際、濫りに通州守備鄢祐にまで及び、言官李鳴鶴らに弾劾された。王時中は休職を乞い、かつ言官を誹謗した。給事中劉世揚らが王時中が憤りを逞しくして言官を箝制すべきでないと述べると、帝は王時中を厳しく責め、帰郷して審理を受けるよう命じた。嘉靖十年四月、兵部尚書として復職した。御史郭希愈が兵部侍郎の選任を重んじ、辺境の臣で有才の者二人に辺方と内地の軍務を分掌させるよう請うた。吏部はこれに従うことを議した。王時中はこれは祖宗が臨時に将を遣わす意に非ないと述べ、帝は結局その議に従った。帝が王憲を兵部に用いようとしたため、王時中を刑部尚書に転任させた。御史馮恩の獄について論じたことで罪を得、落職して閑住した。初め、馮恩が上疏して王時中を誹謗したが、この時は馮恩を寛大に扱ったことで罪を得、当時は長者と称された。久しくして赦令に遇い、官を復して致仕した。

原文世宗立,召為右副都御史。父喪除,起故官。會上章聖太后尊號,時中言本生二字不當去。及上冊寶,百官陪列不至者九人,時中與焉。帝責對狀,已而貰之。歷兵部左侍郎,代李鉞為尚書。中官黃英等多所陳請,時中皆執不可。敘薊州平盜功,濫及通州守備鄢祐,為言官李鳴鶴等所劾。時中乞休,且詆言者。給事中劉世揚等言時中不當逞忿箝言官,帝乃切責時中,令歸聽勘。嘉靖十年四月起復為兵部尚書。御史郭希愈請重兵部侍郎之選,以邊臣有才者兩人分掌邊方、內地軍務。吏部議從之。時中言非祖宗臨時遣將意,帝遂從其議。帝欲用王憲於兵部,乃調時中刑部尚書。坐論御史馮恩獄,落職閑住。始,恩疏詆時中,及是以寬恩得罪,時稱為長者。久之,遇赦,復官致仕。

周期雍は、字を汝和といい、江西寧州の人である。正徳三年の進士となり、南京御史に任じられた。劉瑾が誅殺された後、劉瑾に排斥された者はみな起用されたが、給事中李光翰・任恵・徐蕃・牧相・徐暹・趙士賢、御史貢安甫・史良佐・曹閔・王弘・葛浩・姚学礼・張鳴鳳・王良臣・徐鈺・趙佑・楊璋・朱廷声・劉玉、部郎李夢陽・王綸・孫磐らは、宦官たちを併せて弾劾したためまだ登用されていなかった。周期雍は同官の王佩とともに力を尽くして請願し、みな召し用いられた。兵部尚書王敞は劉瑾に附いて進んだため、周期雍はその排斥を請うた。焦芳・劉宇がまだ列に在り、劉大夏・韓文・楊守随・林瀚・張敷華が雪冤されていないことを、周期雍はことごとく極論した。陳金が江西の賊を討伐した際、苗兵を放任して殺掠させたので、周期雍はその状況を明らかにした。まもなく広東で清軍を行い、鎮守武定侯郭勛を弾劾し、陳金と郭勛はともに責められた。福建僉事として出向した。宸濠が反乱すると、精鋭の兵卒を選んで討伐に赴いた。賊が平定されたので帰還した。嘉靖初年、浙江参議となり、温州・処州の鉱山の盗賊を討平し、一子に官職が与えられた。再び転じて湖広按察使となった。九年、右僉都御史に抜擢され、順天を巡撫した。薊州・密雲の関堡数十か所は、寇警を避けて内陸に移され、関外はますます備えがなくなっていたが、周期雍はことごとく修復した。便宜を図る事柄を数多く上奏した。入朝して大理卿となり、刑部左・右侍郎、右都御史を歴任し、刑部尚書に拝された。京官の大計の際、言官が周期雍が賄賂を受け取ったと弾劾した。吏部がその誣告であると申し立て、帝は言官を戒める詔を下した。十九年、郭勛が以前のわだかまりを晴らそうとし、風霾を理由に帝に大臣の罷免を勧めたため、周期雍は遂に去職した。家に居ること十年で卒去した。

原文周期雍,字汝和,江西寧州人。正德三年進士。授南京御史。劉瑾既誅,為瑾斥者悉起,而給事中李光翰、任惠、徐蕃、牧相、徐暹、趙士賢,御史貢安甫、史良佐、曹閔、王弘、葛浩、姚學禮、張鳴鳳、王良臣、徐鈺、趙佑、楊璋、朱廷聲、劉玉,部郎李夢陽、王綸、孫磐等,以兼劾群閹未得錄。期雍偕同官王佩力請,皆召用。兵部尚書王敞附瑾進,期雍請斥之。焦芳、劉宇猶在列,而劉大夏、韓文、楊守隨、林瀚、張敷華未雪,期雍皆極論。陳金討江西賊,縱苗殺掠,期雍發其狀。尋清軍廣東,劾鎮守武定侯郭勛,金與勛皆被責。出為福建僉事。宸濠反,簡銳卒赴討。會賊平乃還。嘉靖初,為浙江參議。討平溫、處礦盜,予一子官。再遷湖廣按察使。九年擢右僉都御史,巡撫順天。薊州、密雲關堡數十,以避寇警移入內地,關外益無備,期雍悉修復之。數列上便宜。入為大理卿,歷刑部左、右侍郎,右都御史,拜刑部尚書。大計京官,言官劾期雍納賄。吏部白其誣,詔為飭言者。十九年,郭勛修前郤,因風霾勸帝罷免大臣,期雍遂去位。家居十年卒。

唐龍は、字を虞佐といい、蘭渓の人である。同県の章懋に師事し、正徳三年に進士に及第した。郯城知県に任ぜられた。大盗劉六を防ぎ、幾度もこれを破り、俸給を二等加増された。父の喪に服し、喪が明けると、御史に召されて任じられ、雲南を巡察した。銭寧の義父である参将盧和が罪に坐して死に当たるが、寧が上奏して弁明し、鎮撫司に下して再審させた。ちょうど官が派遣されて囚人を記録する際、寧の嘱託を受けて和を出そうとしたが、龍に抑えられ、ついにその罪を正した。土官の鳳朝明が罪に坐して死に当たり、世襲の職を剥奪された。寧は滇の人に保挙させ、偽りの詔勅を下してこれを許した。龍は抗疏して争い、その事を止めさせた。再び江西を巡察し、張忠・許泰に軍を返すよう上疏して促した。宸濠の反乱に従った三司の官がなおも職に居るのを、龍は召して責めて言った、「脅従は罪を問わぬとは、凡民のことをいうのである。お前たちは書を読み禄を食む者であり、何の面目があってかくの如くであるか」と。直ちにその印綬を収めた。陝西提学副使に抜擢され、山西按察使に転じ、太僕卿に召された。嘉靖七年に右僉都御史に改め、漕運を総督し鳳陽諸府を巡撫した。淮西の官馬種牛を廃止し、寿州正陽関の関税を廃止し、通州・泰州二州の虚田の租税と漕卒の船料を免除するよう奏上し、民は大いにその徳を慕った。左副都御史に召されて任じられ、吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。

原文唐龍,字虞佐,蘭溪人。受業於同縣章懋,登正德三年進士。除郯城知縣。禦大盜劉六,數敗之,加俸二等。父喪,服除,征授御史,出按雲南。錢寧義父參將盧和坐罪當死,寧為奏辯,下鎮撫覆勘。會遣官錄囚,受寧屬欲出和,為龍所持,卒正其罪。土官鳳朝明坐罪死,革世職。寧令滇人為保舉,而矯旨許之。龍抗疏爭,寢其事。再按江西,疏趣張忠、許泰班師。三司官從宸濠叛者猶居位,龍召數之曰:「脅從罔治,謂凡民耳。若輩讀書食祿,何顏乃爾。」立收其印綬。擢陜西提學副使,遷山西按察使,召為太僕卿。嘉靖七年改右僉都御史,總督漕運兼巡撫鳳陽諸府。奏罷淮西官馬種牛,罷壽州正陽關榷稅,通、泰二州虛田租及漕卒船料,民甚德之。召拜左副都御史,歷吏部左、右侍郎。

十一年、陝西が大飢饉となった。吉囊が衆を擁して辺境に臨み、延綏が警報を告げた。詔して龍を兵部尚書に進め、三辺の軍務を総制し救済を兼ねて管轄させ、国庫の金三十万を携えて赴かせた。龍は救荒十四事を施行するよう奏上した。当時、吉囊は河套の中に居り、西は賀蘭山に至り、黄河に阻まれて渡れず、十枚の皮で渾脱(革袋の筏)を作り、渡って山の後ろに入った。俺答もまた豊州から河套に入って害をなした。龍は総兵官の王効・梁震を用い、幾度も敵を破り、たびたび褒賞を受けた。刑部尚書に召された。大悪党の劉東山が建昌侯張延齢を陥れ、大獄を起こした。延齢は、昭聖皇太后の母方の弟で、帝の憎むところであった。獄に坐した官吏で徹底的に追及せずに去った者が数十人いたが、龍のみが東山の罪を正しく執り行った。「大礼」の大獄および諸々の建言により罪を得た者について、廷臣はたびたび寛大な処置を請うたが、得られなかった。ちょうど九廟が完成し、恩赦が広く施された時、龍は充軍のうち赦されるべき者百四十人を記録して上奏し、多くが宥され、赦されなかったのは豊熙・楊慎・王元正・馬録・呂経・馮恩・劉済・邵経邦のみであった。尚書としての考課が六年で満ち、太子少保を加えられた。母が老齢のため帰郷して侍養を乞うた。久しくして、推薦により南京刑部尚書として起用され、そのまま吏部尚書に改められた。兵部尚書戴金が罷免されると、龍を召して代わらせた。太廟が完成し、太子太保を加えられた。まもなく熊浹に代わって吏部尚書となった。龍は才があり、官に在っては顕著な功績を挙げた。吏部尚書となってからは、何事も僚佐に諮問した。年老いて病が多く、しばしば欺かれた。御史陳九徳が前の選郎高簡が上を欺き私を営むことを弾劾し、併せて龍が衰え老いたことを論じた。そこで簡を詔獄に下した。龍は病を理由に辞任を請うたが、返答がなかった。吏科の楊上林・徐良輔が再び簡を論じた。詔して簡を六十回杖打ちして戍辺に遣わした。上林・良輔は早く言わなかったことを理由に罷職され、龍は免職されて民とされた。龍は既に病を患っており、輿に乗って都門を出て死去した。数年後、子の修撰唐汝楫が上疏して弁明した。詔して官を復し、少保を追贈し、文襄と諡した。龍はもとより厳嵩と親しかった。龍の罷免は、実は夏言が主導したものである。汝楫は平素より嵩に附き、第一人者(状元)として及第した。官は左諭徳に至った。後に嵩の党として坐し官を奪われた。

原文十一年,陜西大饑。吉囊擁眾臨邊,延綏告警。詔進龍兵部尚書,總制三邊軍務兼理振濟,賫帑金三十萬以行。龍奏行救荒十四事。時吉囊居套中,西抵賀蘭山,限以黃河不得渡,用十皮為渾脫,渡入山後。俺答亦自豐州入套為患。龍用總兵官王效、梁震,數敗敵,屢被獎賚。召為刑部尚書。大猾劉東山構陷建昌侯張延齡,興大獄。延齡,昭聖皇太后母弟,帝所惡也。吏坐獄不窮竟去者數十人,龍獨執正東山罪。「大禮」大獄及諸建言獲罪者,廷臣屢請寬,不能得。會九廟成,覃恩,龍錄上充軍應赦者百四十人,率得宥,所不原惟豐熙、楊慎、王元正、馬錄、呂經、馮恩、劉濟、邵經邦而已。考尚書六年滿,加太子少保。以母老乞歸侍養。久之,用薦起南京刑部尚書,就改吏部。兵部尚書戴金罷,召龍代之。太廟成,加太子太保。尋代熊浹為吏部尚書。龍有才,居官著勞績。及為吏部,每事咨僚佐。年老多疾,輒為所欺。御史陳九德劾前選郎高簡罔上行私,並論龍衰暮,乃下簡詔獄。龍引疾,未報。吏科楊上林、徐良輔復論簡。詔杖簡六十遣戍。上林、良輔以不早言罷職,龍黜為民。龍已有疾,輿出國門卒。後數年,子修撰汝楫疏辯。詔復官,贈少保,謚文襄。龍故與嚴嵩善。龍之罷,實夏言主之。而汝楫素附嵩,得第一人及第。官至左諭德。後坐嵩黨奪官。

王杲は、字を景初といい、汶上の人である。正徳九年の進士。臨汾知県に任ぜられた。御史に抜擢され、陝西の茶馬を巡視した。帝が宦官を派遣して蘭州・靖虜に分守させようとした。杲は辺境の貧窮と飢饉の年に、官を設けて民を煩わせるべきでないと上言したが、聞き入れられなかった。嘉靖三年、帝が宦官を派遣して蘇州・杭州で織造を監督させようとした。杲は上疏して諫めたが、採用されなかった。久しくして、太僕少卿に抜擢され、大理寺に改められ、さらに左副都御史に昇進し、戸部右侍郎に進んだ。河南が大飢饉となったため、杲を派遣して救済させた。杲は急ぎ国庫の金を発するよう請い、詔して臨清倉の銀五万両を携えて赴かせた。到着後、さらに十五万両を発するよう請うた。全く救われた者は数え切れなかった。事が完了すると、銀幣を賜った。まもなく右都御史として漕運を総督した。旧例では、運送船を修繕する費用は、軍が三分、民が七分であった。総兵官顧寰が軍民が困窮しているとして、両淮の余塩銀七十万両を発するよう請うたが、戸部尚書李如圭が認めなかった。杲は二年間の漕運の十分の三を銀納に改め、その省いた輸送費で運送船を修繕し、軍民を重ねて困窮させないよう請うた。許可された。一年余りして、召されて戸部尚書となった。皇后の父である安平侯方鋭が張家荘の馬房の地を請うた。杲はこの地は二千余頃あり、正規の租税の出所であるから許すべきでなく、大慈恩寺の没官地二十頃を与えるのがよいと上言した。帝はその議に従った。当時、国庫の蓄えが乏しくなり、諸辺境が月ごとに増餉を請い、四方で水害旱害が多く、給事中李文進が蓄えを広くすることを議するよう請うた。杲は九事を列挙して献上し、後にまた財用を制する十事を上奏し、帝はすべてこれを採用した。旧制では、毎年四百万石を漕運した。杲は粟は余っているが用が足りず、災害に遭うと概ね銀納に改めて民の便を図った。ある日、帝が銀納に改めたものが過半であるのを見て大いに驚き、戸部に詰問した。杲らは罪を認めた。今後は必ず祖制に遵い、軽々しく変えないよう勅命した。杲は国家の財政を掌り、事は全て滞りなく処理し、帝は深くこれを頼りにした。後に龍涎香を買うよう詔があったが、長く進上されず、帝はこれで不満を抱いた。給事中馬錫が杲および巡倉御史艾樸が賄賂を受けたと弾劾し、給事中厲汝進が倉場尚書王暐も同様であると上言し、ともに獄に下された。杲・樸は戍辺に遣わされ、暐は免職されて民とされた。杲はついに雷州の戍所で死去した。隆慶初年、給事中辛自修らが杲の冤罪を訴えた。詔して官を復し、祭葬を賜い、太子太保を追贈した。

原文王杲,字景初,汶上人。正德九年進士。授臨汾知縣。擢御史,巡視陜西茶馬。帝遣中官分守蘭、靖。杲言窮邊饑歲,不宜設官累民,不報。嘉靖三年,帝將遣中官督織造於蘇、杭,杲疏諫,不納。久之,擢太僕少卿,改大理,再遷左副都御史,進戶部右侍郎。河南大饑,命杲往振。杲請急發帑金,詔賫臨清倉銀五萬兩以行。既至,復請發十五萬兩。全活不可勝計。事竣,賜銀幣。尋以右都御史總督漕運。故事,繕運艘,軍三民七。總兵官顧寰以軍民困敝,請發兩淮余鹽銀七十萬,戶部尚書李如圭不可。杲請改折兩年漕運十之三,以所省轉輸費治運艘,勿重困軍民,報可。逾年,入為戶部尚書。後父安平侯方銳乞張家莊馬房地。杲言此地二千餘頃,正供所出,不可許,宜以大慈恩寺入官地二十頃予之。帝從其議。時國儲告匱,諸邊請增餉無虛月,四方多水旱,給事中李文進請議廣儲蓄。杲列九事以獻,已又上制財用十事,帝鹹納之。舊制,歲漕四百萬石。杲以粟有餘而用不足,遇災傷率改折以便民。一日,帝見改折者過半,大驚,以詰戶部,杲等引罪。敕自今務遵祖制,毋輕變。杲掌邦計,事無不辦,帝深倚之。後有詔買龍涎香,久不進,帝以此不悅。給事中馬錫劾杲及巡倉御史艾樸受賄,給事中厲汝進言倉場尚書王暐亦然,並下獄。杲、樸遣戍,暐斥為民。杲竟卒於雷州戍所。隆慶初,給事中辛自修等訟杲冤。詔復官,賜祭葬,贈太子太保。

王暐は、句容の人である。進士より吉安推官に任ぜられた。王守仁に従って宸濠を平定し、大理寺副に転じた。「大礼」を争い、獄に下され廷杖を受けた。累進して右副都御史となり、江西を巡撫した。両京の戸部侍郎を歴任し、出て漕運を督し、尚書に進んだ。歴任の官で清廉な節操を顕著にした。

原文王暐,句容人。由進士除吉安推官。從王守仁平宸濠,遷大理寺副。爭「大禮」,下獄廷杖。累遷右副都御史,巡撫江西。歷兩京戶部侍郎,出督漕運,進尚書。歷官著清操。

周用は、字を行之といい、呉江の人である。弘治十五年の進士。行人に任ぜられた。正徳初年、南京兵科給事中に抜擢された。父の喪に服し喪が明けると、留まって礼科を補した。後に、南方を乞うた。南京兵科に改められた。烏斯蔵への仏迎えおよび中旨による尚書・都給事中等の官の昇進・罷免を諫め、かつ江西鎮守宦官黎安の罪を治めるよう請うた。出て広東参議となり、番禺の盗賊平定に参与し、功績があった。浙江・山東副使を歴任した。福建按察使に抜擢され、河南右布政使に改められた。監司に代わって南陽の滞った獄を審理し、獄は空になった。嘉靖八年に右副都御史に抜擢され、南贛を巡撫した。召されて都察院の事務を協理した。吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。廃官の起用が適当でなかったため、尚書汪鋐が僚属に罪を委ねたので、用は南京刑部に転じた。そのまま右都御史に昇進し、工部・刑部の尚書となった。九廟の災害により、自ら陳述して致仕した。用は端正で節概があった。罷免されると、朝廷内外ともに惜しみ、頻繁に推薦があった。久しくして、工部尚書として河道を督するよう起用され、数か月後、漕運に改められた。就任前に、左都御史に召されて任じられた。二品官として九年が満ち、太子少保を加えられた。二十五年に唐龍に代わって吏部尚書となった。翌年、官のまま死去した。太子太保を追贈し、恭肅と諡した。曾孫の周宗建は、独自に伝がある。

原文周用,字行之,吳江人。弘治十五年進士。授行人。正德初,擢南京兵科給事中。父憂服闋,留補禮科。已,乞南。改南京兵科。諫迎佛烏斯藏及以中旨遷黜尚書、都給事中等官,且請治鎮守江西中官黎安罪。出為廣東參議,預平番禺盜,有功。歷浙江、山東副使。擢福建按察使,改河南右布政使。代監司鞫南陽滯獄,獄為之空。嘉靖八年擢右副都御史,巡撫南、贛。召協理院事。歷吏部左、右侍郎。以起廢不當,尚書汪鋐委罪僚屬,乃調用南京刑部。就遷右都御史,工、刑二部尚書。九廟災,自陳致仕。用端亮有節概。既罷,中外皆惜之,頻有推薦。久之,以工部尚書起督河道,數月,改漕運。未上,召拜左都御史。二品九年滿,加太子少保。二十五年代唐龍為吏部尚書。明年卒官。贈太子太保,謚恭肅。曾孫宗建,自有傳。

用が都御史を掌った時は、慎んで自らを保つだけで、何ら献策も廃止もしなかった。その後、宋景・屠僑がこれを継いだが、おおむね皆廉潔で、用と似ていた。景は間もなく死去し、僑は職に八年在った。厳嵩が政権を握っていた時で、風紀は振るわなかった。丁汝夔の獄を議する際、杖打ちを受けても去ることができなかった。

原文用掌憲時,慎自持而已,無所獻替。其後宋景、屠僑繼之,大略皆廉潔,與用相似。景未久卒,而僑居職八年。屬嚴嵩柄政,風紀不振。議丁汝夔獄,受杖不能去。

宋景、字は以賢、奉新の人。弘治十八年の進士。睢州の知州となる。正徳五年、入朝して河南道御史となる。故事によれば、知州が御史に改任されることはなかったが、劉瑾がこれを創始したのである。劉瑾が誅殺されると、宋景は病を理由に辞職した。嘉靖三年、推薦により浙江僉事に補され、進んで山西副使となる。民は飢えて盗賊となり、守備の指揮を殺害した。宋景は旗幟を立て、脅迫された者に赴くよう命じた。賊は皆帰順し、その首魁を捕らえて斬った。四度遷って山西左布政使となり、累官して南京吏部・工部の二尚書に至る。兵部に改められ、機務に参賛した。入朝して左都御史となる。卒し、太子少保・吏部尚書を追贈され、諡は荘靖。

原文宋景,字以賢,奉新人。弘治十八年進士。知睢州。正德五年入為河南道御史。故事,知州無改御史者,劉瑾創之也。瑾誅,景引疾去。嘉靖三年以薦補浙江僉事,進山西副使。民饑為盜,殺守稟指揮。景樹幟,令被脅者赴之。賊鹹歸命,乃擒斬其魁。四遷山西左布政使,累官南京吏、工二部尚書。改兵部,參贊機務。入為左都御史。卒,贈太子少保、吏部尚書,謚莊靖。

屠僑、字は安卿、吏部尚書屠滽の再従子である。正徳六年の進士。御史を授かる。居庸などの関所を巡視した。武宗が宦官の李嵩らを派遣して虎豹を捕らえさせようとしたとき、屠僑は強く諫めて不可と述べた。世宗の時、左都御史を歴任した。卒し、少保を追贈され、諡は簡粛。

原文屠僑,字安卿,吏部尚書滽再從子也。正德六年進士。授御史。巡視居庸諸關。武宗遣中官李嵩等捕虎豹,僑力言不可。世宗時,歷左都御史。卒,贈少保,謚簡肅。

聞淵、字は静中、鄞の人。弘治十八年の進士。初め礼部主事に授かり、後に刑部に改める。楊一清が吏部尚書であった時、聞淵を稽勛員外郎に調任した。考功郎中を歴任し、文選司を掌ることに改められ、南京右通政に遷る。嘉靖初年、応天府尹に抜擢され、順天府尹に改める。累進して南京兵部右侍郎となり、部事を摂る。馬永ら十余人を推薦した。召されて刑部右侍郎となり、左侍郎に遷る。進んで南京刑部尚書となり、そのまま吏部尚書に移る。召されて刑部尚書となる。周用が卒すると、代わって吏部尚書となる。侍郎の徐階は帝の寵愛を得ており、前任の尚書たちは皆彼に推譲した。聞淵は自ら先輩であるとして、事は独断で行った。大学士夏言が政権を握ると、聞淵は老臣として、曲げて従うことができなかった。後に夏言の獄を議する際、聞淵は夏言の事柄はただ任意であり、その行跡は君を要請するに類するとし、帝に自ら裁決を請うた。帝は大いに怒り、聞淵を厳しく責めた。厳嵩が夏言を殺した後、勢いがますます横暴となり、部の権限を侵さないものはなく、しばしば些細な理由で聞淵の俸給を奪った。聞淵は七十歳になっていたので、ついに骸骨を乞うて帰郷した。家に居ること十四年で卒した。先に累進して太子太保に加えられ、卒後少保を追贈され、諡は荘簡。

原文聞淵,字靜中,鄞人。弘治十八年進士。初授禮部主事,已,改刑部。楊一清為吏部,調淵稽勛員外郎。歷考功郎中,改掌文選,遷南京右通政。嘉靖初,擢應天府尹,改尹順天。累遷南京兵部右侍郎,攝部事。薦馬永等十餘人。召為刑部右侍郎,遷左。進南京刑部尚書,就移吏部。召為刑部尚書。周用卒,代為吏部尚書。侍郎徐階得帝眷,前尚書率推讓之。淵自以前輩,事取獨斷。大學士夏言柄政,淵老臣,不能委曲徇。及後議言獄,淵謂言事只任意,跡涉要君,請帝自裁決。帝大怒,切責淵。嚴嵩既殺言,勢益橫,部權無不侵,數以小故奪淵俸。淵年七十矣,遂乞骸骨歸。家居十四年卒。先累加太子太保,卒贈少保,謚莊簡。

聞淵は官に在ること終始一節を貫いた。晩年に権相に扼され、功名はやや損なわれた。南京刑部に在った時、張璁が先に曹属としており、かつて壁に詩を題し、聞淵に後堂に石碑を刻むよう依頼した。聞淵は言った、「これは尚書の堂である。我がどうして相君の故をもって、郎官のために石碑を刻むことができようか」。

原文淵居官始終一節。晚扼權相,功名頗損。在南刑部時,張璁先為曹屬,嘗題詩於壁,屬淵勒石後堂。淵曰:「此尚書堂也,吾敢以相君故,為郎官勒石耶?」

劉訒、鄢陵の人。父は劉璟、刑部尚書。劉訒は正徳十二年の進士に登第し、寧国の推官となり、蕪湖県の事務を摂る。武宗が南巡した時、宦官が賄賂を要求して得られず、劉訒を詔獄に繋いだ。世宗が即位すると、官に復した。まもなく御史に抜擢され、南京通政参議に遷る。南京刑部尚書を歴任し、召されて北京に改める。

原文劉讱,鄢陵人。父璟,刑部尚書。讱登正德十二年進士,為寧國推官,攝蕪湖縣事。武宗南巡,中貴索賄不得,系讱詔獄。世宗立,復官。尋擢御史,遷南京通政參議。歷南京刑部尚書,召改北。

初め、帝が承天に行幸した時、河南巡撫の胡纘宗がかつて事により陽武知県の王聯を笞打った。王聯はまもなく巡按御史の陶欽夔に弾劾され罷免された。王聯はもとより凶暴で狡猾であり、かつてその父の王良を殴打し、死罪と論ぜられた。久しくして、王良の請願により獄を出た。再び殺人の罪に坐し、解決を得られなかった。帝が告発を喜ぶことを知り、胡纘宗の迎駕詩にある「穆王八駿」の語を摘まんで誹謗詛呪とした。胡纘宗が自分に刊行させようとしたが従わず、陶欽夔に嘱して罷免させたと述べ、罪状をでっち上げて大辟の刑にした。冬至の日を待ち、その子に常朝官を詐称させ、宮門に無断で入り込んで冤罪を訴えさせた。自分が快く思わない者、すなわち副都御史の劉隅、給事中の鮑道明、御史の胡植・馮章・張洽、参議の朱鴻漸、知府の項喬・賈応春など百十人を、ことごとく陥れようとした。帝は大いに怒り、直ちに官を遣わして胡纘宗らを捕らえて獄に下し、劉訒に法司と厳しく審問するよう命じた。劉訒らはその誣告のすべてを明らかにし、依然として王聯を死罪に坐せ、その子の朝官詐称の律により斬刑とし、一方で胡纘宗らに宥恕を乞うた。帝は法司の奏上に従って王聯父子を死刑に処したが、心の中で胡纘宗を恨み、多く詰問譴責し、礼部と都察院に参議させた。厳嵩がこれを取りなしたので、胡纘宗の官職を剥奪し、四十回の杖刑に処した。劉訒もまた除名され、法司の正副長官は半年の俸給を停止され、郎官で審問を担当した者は詔獄に下された。厳嵩は詔制に対し平穏に獄を処理した功績により、大学士の俸給を兼ねて支給するよう命じられたが、厳嵩が辞退したので許された。当時、法官は概ね法を曲げて上意に従った。少しでも正義を堅持すると、譴責がすぐに及んだ。劉訒はこの獄において法を堅持することができ、身は罷免されたが、天下は彼を称えた。

原文初,帝幸承天,河南巡撫胡纘宗嘗以事笞陽武知縣王聯。聯尋為巡按御史陶欽夔劾罷。聯素兇狡,嘗歐其父良,論死。久之,以良請出獄。復坐殺人,求解不得。知帝喜告訐,乃摭纘宗迎駕詩「穆王八駿」語為謗詛。言纘宗命己刊布,不從,屬欽夔論黜,羅織成大辟。候長至日,令其子詐為常朝官,闌入闕門訟冤。凡所不悅,若副都御史劉隅,給事中鮑道明,御史胡植、馮章、張洽,參議朱鴻漸,知府項喬、賈應春等百十人,悉構入之。帝大怒,立遣官捕纘宗等下獄,命讱會法司嚴訊。讱等盡得其誣罔,仍坐聯死,當其子詐冒朝官律斬,而為纘宗等乞宥。帝既從法司奏坐聯父子辟,然心嗛纘宗,頗多詰讓,下禮部都察院參議。嚴嵩為之解,乃革纘宗職,杖四十。讱亦除名,法司正貳停半歲俸,郎官承問者下詔獄。嵩以對制平獄有功,令兼支大學士俸,嵩辭乃允。時法官率骫法徇上意。稍執正,譴責隨至。讱於是獄能持法,身雖黜,而天下稱之。

胡纘宗、陝西秦安の人。正徳三年の進士。検討から出て嘉定判官となる。山東巡撫を歴任し、河南に改める。

原文胡纘宗,陜西秦安人。正德三年進士。由檢討出為嘉定判官。歷山東巡撫,改河南。

孫応奎、字は文宿、洛陽の人。正徳十六年の進士。章丘知県に授かる。嘉靖四年、入朝して兵科給事中となり、上疏して言う、「輔臣の任は、必ず忠厚で鯁亮、純白で堅定なる者でなければ足ることはできない。今、大学士楊一清は国体に練達しているが、その雅性は尚お通達を重んじ、独任には難しい。張璁は学識博く性偏り、自恃によって傷つき、なお功名を飾り励ますので、その過ちを抑えて用いるべきである。桂萼に至っては、梟雄桀驁の資質をもって、威福をなし、財賄を受け、気節を阻抑し、私的に党与を結び、その勢いは六官を侵し、その気は言路を制し、天下怨憤せざるはない。三臣の賢否を鑑別し、以て用捨を定められたい」。その意は特に張璁を支持するものであった。帝はその奏上により、楊一清を慰留し、張璁と桂萼を戒諭した。まもなく同官の王準・陸粲が張璁・桂萼を弾劾して罷相させたが、王準・陸粲もまた吏に下されて遠方に謫され、孫応奎は最初に抗章したが罪に問われなかった。間もなく、吏部尚書の方献夫を弾劾し、帝はその言をかなり採用した。方献夫は汪鋐を援けとして助けとし、ついに孫応奎の議を退けた。再び遷って戸科左給事中となる。行人の薛侃が建言して旨に逆らい、廷訊に下され、その言葉が張璁に連座した。孫応奎は同官の曹汴とともに張璁に揖して避け、かつ上疏して状況を述べた。帝は怒り、彼らを詔獄に下したが、まもなく釈放して職に戻した。十一年、天下の庶官を大計した時、王準が富民典史に謫された。孫応奎は、汪鋐が張璁・桂萼のために怨みを晴らし、不謹慎と誣いて罷免したと述べた。王準の官を復し、汪鋐を責め、党比の戒めとすべきことを乞うた。吏部尚書の王瓊もまた王準は罷免されるべきと述べたので、孫応奎は高平県丞に謫された。たびたび遷って湖広副使となり、大木の採伐を監督したが、累が坐して再び逮捕され獄に繋がれた。まもなく釈放されて帰った。右副都御史を歴任し、順天を巡撫した。召されて院事を理め、戸部侍郎に遷り、進んで尚書となる。

原文孫應奎,字文宿,洛陽人。正德十六年進士。授章丘知縣。嘉靖四年入為兵科給事中,上疏言:「輔臣之任,必忠厚鯁亮、純白堅定者乃足當之。今大學士楊一清雖練達國體,而雅性尚通,難以獨任。張璁學博性偏,傷於自恃,猶飭厲功名,當抑其過而用之。至於桂萼以梟雄桀驁之資,作威福,納財賄,阻抑氣節,私比黨與,勢侵六官,氣制言路,天下莫不怨憤。乞鑒別三臣賢否,以定用舍。」其意特右璁。而帝因其奏,慰留一清,戒諭璁、萼。既而同官王準、陸粲劾璁、萼罷相,準、粲亦下吏遠謫,以應奎首抗章不罪。未幾,劾吏部尚書方獻夫,帝頗納其言。獻夫援汪鋐為助,遂詘應奎議。再遷戶科左給事中。行人孽侃建言忤旨,下廷訊,詞連張璁。應奎與同官曹汴揖璁避,且上疏言狀。帝怒,下之詔獄,尋釋還職。十一年大計天下庶官,王準謫富民典史。應奎言汪鋐為璁、萼修郤,誣以不謹而黜之。乞復準官,責鋐,為黨比戒。吏部尚書王瓊亦言準當黜,乃謫應奎高平縣丞。屢遷湖廣副使,督采大木,坐累復逮系。尋釋還。歷右副都御史,巡撫順天。召理院事,遷戶部侍郎,進尚書。

俺答が京師を侵犯した後、軍書が頻繁に往来し、兵と糧秣を徴発した。応奎は加派を建議した。北方諸府及び広西・貴州を除き、その他の地は土地の貧富を量り、急に銀一百十五万両余を増加させ、蘇州一府だけで八万五千両であった。御史郭仁は呉の人であり、応奎を訪れて減額を請うたが、従わなかった。郭仁は遂に弾劾上奏し、応奎は上疏して弁明した。帝は郭仁が私的に請託すべきでないとして、外任に転じた。既に国用はなお不足し、応奎は言う、「今年の歳入は二百万両であるが、諸辺境の費用は六百余万両であり、一切の財源を求める方法は既に尽くされている。諸曹に隷属する官吏・儒士・厨役・校卒に、その冗員を悉く去らしむることを請う。而して臣の部の出入増減の数も、その大綱を総括し、簿籍を列ねて進御し、百司庶府をして皆、国のために財を惜しむことを知らしめん」と。許可された。三十一年正月、応奎に命じて京辺備用の芻糧の数を条上させた。応奎は言う、「臣が都に入って以来今日まで、正税・加賦・余塩五百余万両の外、その他の搜括また四百余万両を計上する。而して支出は諸辺の年例二百八十万両の外、新増二百四十五万両余、辺境修築・救済諸役また八百余万両である」と。帝は費耗が多いとして、侵食横領の疑いありとし、科道官を分遣して諸辺に赴き実情を核実させた。給事中徐公遴が応奎を粗疏で独断専行であると弾劾し、遂に南京工部尚書に改め、方鈍を以て代わらせた。諸辺の餉銀は益々増加した。鈍は計算の出所なく、諸臣に命じて理財策を条上させることを請うた。二十九事を議行し、益々細微に過ぎて大體を損なった。応奎は就いて戸部に移り、致仕して帰り、卒した。

原文俺答犯京師後,羽書旁午征兵餉。應奎乃建議加派。自北方諸府暨廣西、貴州外,其他量地貧富,驟增銀一百十五萬有奇,而蘇州一府乃八萬五千。御史郭仁,吳人也,詣應奎請減,不從。仁遂劾奏,應奎疏辨。帝以仁不當私屬,調之外。既而國用猶不足,應奎言:「今歲入二百萬,而諸邊費六百餘萬,一切取財法行之已盡。請令諸曹所隸官吏、儒士、廚役、校卒,悉去其冗者。而臣部出入贏縮之數,亦綜其大綱,列籍進禦,使百司庶府鹹知為國惜財。」報可。三十一年正月命應奎條上京邊備用芻糧之數。應奎言:「自臣入都至今,計正稅、加賦、余鹽五百餘萬外,他所搜括又四百餘萬。而所出自諸邊年例二百八十萬外,新增二百四十五萬有奇,修邊振濟諸役又八百餘萬。」帝以耗費多,疑有侵冒,分遣科道官往諸邊核實。給事中徐公遴劾應奎粗疏自用,遂改南京工部尚書,以方鈍代。諸邊餉銀益增。鈍計無所出,請令諸臣條上理財策。議行二十九事,益纖屑傷大體。應奎就移戶部,致仕歸,卒。

応奎は諫官として、屡々権貴に抵触し、風節を以て自らを励ました。晩年に計曹の官に就き、一切を苟且の計と為し、功名は以前に大いに損なわれた。

原文應奎為諫官,屢犯權貴,以風節自厲。晚官計曹,一切為茍且計,功名大損於前。

応奎と同姓名の者あり、余姚の人、字は文卿。進士より行人に授かり、礼科給事中に擢てられた。上疏して汪鋐の奸を弾劾し、旨に忤い詔獄に下された。已にして復た闕下で杖罰を受け、華亭県丞に謫された。汪鋐もまた罷免されて去った。両孫給諫の名は、並びに朝廷に震動した。累官して右副都御史となり、河道を総理した。一年余りして罷免され帰った。山東布政使の時、膠萊河を開削する議を創める者あり、応奎は力言して不可とした。入覲の際、吏部尚書と官属の賢否を争い、時にその直を称された。

原文有與應奎同姓名者,余姚人,字文卿。由進士授行人,擢禮科給事中。疏劾汪鋐奸,忤旨下詔獄。已復杖闕下,謫華亭縣丞。鋐亦罷去。兩孫給諫之名,並震於朝廷。累官右副都御史,總理河道。逾年罷歸。為山東布政時,有創開膠萊河議者,應奎力言不可。入覲,與吏部尚書爭官屬賢否,時稱其直。

方鈍は巴陵の人。戸部を掌ること七年、廉潔慎重で過失無し。厳嵩が中傷し、詔して南京に改めさせ、遂に骸骨を乞うて帰った。

原文方鈍,巴陵人。掌戶部七年,廉慎無過。嚴嵩中之,詔改南京,遂乞骸骨歸。

聶豹、字は文蔚、吉安永豊の人。正徳十二年進士。華亭知県に除された。陂塘を浚渫し、民で復業する者三千余戸。嘉靖四年、召されて御史に拝され、福建を巡按した。出て蘇州知府となる。憂いにより帰り、補われて平陽知府となる。山西は頻りに寇に中り、民は寧居無し。豹は富民に銭を出させ、罪疑わしき者は贖罪させ、一万余金を得て、郭家溝・冷泉・霊石諸関隘を修築し、郷勇六千を練ってこれを守らせた。寇は退き、廷議は豹を兵を知ると為した。給事中劉繪・大学士厳嵩皆これを推薦した。陜西副使に擢てられ、潼関に備兵した。大計の拾遺に、言官が豹が平陽で乾没したと論じ、大学士夏言もまた豹を憎み、逮えて詔獄に下し、落職して帰った。

原文聶豹,字文蔚,吉安永豐人。正德十二年進士。除華亭知縣。浚陂塘,民復業者三千餘戶。嘉靖四年召拜御史,巡按福建。出為蘇州知府。憂歸,補平陽知府。山西頻中寇,民無寧居。豹令富民出錢,罪疑者贖,得萬餘金,修郭家溝、冷泉、靈石諸關隘,練鄉勇六千守之。寇卻,廷議以豹為知兵。給事中劉繪、大學士嚴嵩皆薦之。擢陜西副使,備兵潼關。大計拾遺,言官論豹在平陽乾沒,大學士夏言亦惡豹,逮下詔獄,落職歸。

二十九年秋、都城が寇に侵された。礼部尚書徐階は、豹が華亭を知った時に取った士であり、豹の冤罪を訟え、その才は大用に堪えると言った。直ちに召して右僉都御史に拝し、順天を巡撫させた。未だ赴かず、兵部右侍郎に擢てられ、尋いで左に転じた。仇鸞が宣府・大同の兵を調発して入衛することを請うと、豹は四つの慮りを陳べ、宣府・大同を固守すべきであり、宣府・大同が安ければ則ち京師も安しと謂った。仇鸞は怒った。豹の過失を伺ったが得る所無く、乃ち已んだ。三十一年、翁萬達を召して兵部尚書と為したが、未だ至らずに卒し、豹を以てこれに代えた。防秋の事宜を奏上し、また京師外城の増築を請うたが、皆許可された。是の年秋、寇大いに山西に入り、総兵官李淶の軍を覆し、大いに掠奪すること二十日にして去った。総督蘇祐は反って大捷と為して上聞し、巡按御史毛鵬に発覚され、章疏は兵部に下された。豹は言う、「寇は掠奪する所有りと雖も、而して我が師の斬獲は過当にして、実に上玄の垂祐、陛下の威霊の致す所なり。宜しく吉日を択び祭告し、功を論じて賞を行ふべし」と。帝は喜んだ。進秩し任子する者数十人、豹もまた太子少保を加えられ、錦衣世千戸を蔭された。京師外城が完成し、太子少傅に進んだ。南北屡々捷を奏し、及び諸辺の功を類奏するに及んで、豹は率いて功を玄祐に帰し、祭告行賞は初めの如くであった。豹もまた太子太保に進んだ。

原文二十九年秋,都城被寇。禮部尚書徐階,豹知華亭時所取士也,為豹訟冤,言其才可大用。立召拜右僉都御史,巡撫順天。未赴,擢兵部右侍郎,尋轉左。仇鸞請調宣、大兵入衛,豹陳四慮,謂宜固守宣、大,宣、大安則京師安。鸞怒。伺豹過無所得,乃已。三十一年召翁萬達為兵部尚書,未至,卒,以豹代之。奏上防秋事宜,又請增築京師外城,皆報可。是年秋,寇大入山西,覆總兵官李淶軍,大掠二十日而去。總督蘇祐反以大捷聞,為巡按御史毛鵬所發,章下兵部。豹言:「寇雖有所掠,而我師斬獲過當,實上玄垂祐,陛下威靈所致。宜擇吉祭告,論功行賞。」帝喜。進秩任子者數十人,豹亦加太子少保,蔭錦衣世千戶。京師外城成,進太子少傅。南北屢奏捷,及類奏諸邊功,豹率歸功玄祐,祭告行賞如初。豹亦進太子太保。

是の時に当たり、西北辺は数え寇に遭い、東南では倭また起こり、軍書は日に数至した。豹は元来応変の才無く、而して大学士嵩は豹と郷里であり、徐階もまた政府に入った故に、豹は甚だ帝に倚られていた。久しくして、寇患日々に棘しく、帝は深く以て憂いと為した。豹は終に謀画する所無く、条奏は皆形式ばかりであり、帝は漸くその短を知った。会うところ侍郎趙文華が七事を陳べて致仕し、侍郎朱隆禧が巡視福建大臣を設置し、海浜互市の禁を開くことを請うと、豹は皆格して行わしめなかった。帝は大怒して切責した。豹は震懼して罪を請い、復た官を増し・市を開くことの非を弁じ、再び詔して譙譲された。豹は愈々惶懼し、便宜五事を条して以て献じた。帝の意は終に懌ばず、俸を二級降とした。頃くして、竟に中旨を以て罷免され、而して楊博を以て代えさせた。帰ること数年にして卒し、年七十七。隆慶初、少保を贈られ、貞襄と諡された。

原文當是時,西北邊數遭寇,東南倭又起,羽書日數至。豹本無應變才,而大學士嵩與豹鄉里,徐階亦入政府,故豹甚為帝所倚。久之,寇患日棘,帝深以為憂。豹卒無所謀畫,條奏皆具文,帝漸知其短。會侍郎趙文華陳七事致仕,侍郎朱隆禧請設巡視福建大臣,開海濱互市禁,豹皆格不行。帝大怒切責。豹震懾請罪,復辨增官、開市之非,再下詔譙讓。豹愈惶懼,條便宜五事以獻。帝意終不懌,降俸二級。頃之,竟以中旨罷,而用楊博代之。歸數年卒,年七十七。隆慶初,贈少保,謚貞襄。

豹は初め王守仁の良知の説を好み、弁難を交わし、心益々服した。後に守仁の歿するを聞き、位を設けて哭し、弟子を以て自ら処した。及び獄に繋がれ、『困辨録』を著し、王守仁の説に頗る異同有りと云う。

原文豹初好王守仁良知之說,與辨難,心益服。後聞守仁歿,為位哭,以弟子自處。及繫獄,著《困辨錄》,於王守仁說頗有異同雲。

李默、字は時言、甌寧の人。正徳十六年進士。庶吉士に選ばれた。嘉靖初、戸部主事に改め、兵部員外郎に進んだ。吏部に調じ、歴て験封郎中となる。真人邵元節は貴幸し、封誥を請うたが、默は執って与えず。十一年、武会試の同考官となる。及び兵部に宴するに及び、默は賓席に据わり、尚書王憲の上に坐らんと欲した。王憲はその不遜を劾し、寧国同知に謫された。屡遷して浙江左布政使となり、入って太常卿と為り、南京国子監事を掌った。博士等の官が科道選に与ることを得たのは、默より発した。歴て吏部左・右侍郎となり、夏邦謨に代わって尚書と為った。正徳初の焦芳・張彩以後、吏部に侍郎より尚書に拝される者無し。默は帝の特簡に出で、蓋し異数なり。

原文李默,字時言,甌寧人。正德十六年進士。選庶吉士。嘉靖初,改戶部主事,進兵部員外郎。調吏部,歷驗封郎中。真人邵元節貴幸,請封誥,默執不予。十一年為武會試同考官。及宴兵部,默據賓席,欲坐尚書王憲上。憲劾其不遜,謫寧國同知。屢遷浙江左布政使,入為太常卿,掌南京國子監事。博士等官得與科道選,自默發之。歷吏部左、右侍郎,代夏邦謨為尚書。自正德初焦芳、張彩後,吏部無侍郎拜尚書者。默出帝特簡,蓋異數也。

厳嵩が政を柄とし、擅に黜陟の権を握った。默は毎に己の意を堅持し、嵩はこれを恨んだ。遼東巡撫を会推するに当たり、布政使張臬・謝存儒を列ねて上った。帝が嵩に問うと、嵩はその任に堪えずと言った。默の職を奪って民と為し、萬鏜を以て代えさせた。默が銓衡を掌ること僅か七月。一年余りして、鏜が罷めると、特旨を以て復た默を用いた。已にして、西内に入直することを命じ、直廬を賜い、苑中で乗馬を許された。尋いで太子少保に進んだ。未だ幾ばくもなく、復た命じて兼ねて翰林学士と為した。給事中梁夢龍が默の私に徇うを劾すると、帝は夢龍を責めたた。会うところ大計して群吏をし、默は門下に戒めて賓客に謝絶し、同直の大臣もまた燕見することを得ず、嵩は甚だ恨んだ。趙文華が視師より還ると、默はその気を折った。総督楊宜が罷めると、嵩・文華は胡宗憲を用いんと欲したが、默は王誥を推して代えさせた。両人の恨みは滋く甚だしくなった。

原文嚴嵩柄政,擅黜陟權。默每持己意,嵩銜之。會推遼東巡撫,列布政使張臬、謝存儒以上。帝問嵩,嵩言其不任。奪默職為民,以萬鏜代。默掌銓僅七月。逾年,鏜罷,特旨復用默。已,命入直西內,賜直廬,許苑中乘馬。尋進太子少保。未幾,復命兼翰林學士。給事中梁夢龍劾默徇私,帝為責夢龍。會大計群吏,默戒門下謝賓客,同直大臣亦不得燕見,嵩甚恨。趙文華視師還,默氣折之。總督楊宜罷,嵩、文華欲用胡宗憲,默推王誥代,兩人恨滋甚。

初めに、趙文華は帝に「残る倭寇は僅かである」と述べたが、巡按御史の周如鬥が敗北の状況を報告した。帝は疑い、数度にわたり厳嵩を詰問した。文華は自らを弁解する策を謀り、帝が告発を好むことを熟知していた。ちょうど李默が選人を試す策問で、「漢の武帝、唐の憲宗は英明聡睿をもって盛業を興したが、晩節は非人を用いて敗れた」と述べたので、文華はこれに乗じて默が誹謗したと上奏した。さらに言うには、「残賊は滅ぼすのが難しくないが、督撫が適任でないため、敗北した。これは默が臣がその同郷の張経を弾劾したことを恨み、報復しようとしているからである。臣が曹邦輔を論じたとき、默は給事中の夏栻、孫浚を唆して臣を誣陷させた。延び延びになって半年、辺境の事態は日々悪化している。先般総督を推挙したが、また胡宗憲を用いずに王誥を用いた。東南の塗炭はいつ解消されようか。陛下の宵旰の憂いはいつ晴れようか」。帝は大いに怒り、礼部及び法司に議させた。上奏では默が偏執で自らを用い、大臣の体を失い、引き合いに出した漢・唐の事柄は言うべきでないとした。帝は礼部尚書の王用賓らが党して庇っていると責め、それぞれ俸給を三か月分奪い、默を詔獄に下した。刑部尚書の何鰲はついに子が父を罵る律を引き合いに出して絞刑を提案した。帝は言った、「律には臣が君を罵る条はない。必ず無いものとしているからだ。今これがある以上、一等を加えて斬刑とせよ」。獄に錮し、默はついに獄死した。時に嘉靖三十五年二月である。

原文初,文華為帝言余倭無幾,而巡按御史周如鬥以敗狀聞。帝疑,數詰嵩。文華謀所以自解,稔帝喜告訐。會默試選人策問,言「漢武、唐憲以英睿興盛業,晚節用匪人而敗」,遂奏默誹謗。且言:「殘寇不難滅,以督撫非人,敗衄。由默恨臣劾其同鄉張經,思為報復。臣論曹邦輔,即嗾給事中夏栻、孫浚媒孽臣。延今半載,疆事日非。昨推總督,又不用宗憲而用誥。東南塗炭何時解?陛下宵旰憂何時釋?」帝大怒,下禮部及法司議。奏默偏執自用,失大臣體;所引漢、唐事,非所宜言。帝責禮部尚書王用賓等黨護,各奪俸三月,而下默詔獄。刑部尚書何鰲遂引子罵父律絞。帝曰:「律不著臣罵君,謂必無也。今有之,其加等斬。」錮於獄,默竟瘐死。時三十五年二月也。

默は博雅で才弁があり、気概をもって自ら誇った。同考官として武試を担当し、陸炳を門生として得た。炳は貴盛となり、力を尽くして推挙した。默は地方官から急に顕職に就き、恃むところがあり、厳嵩に附かなかった。任用について全て争い、可否を論じ、気勢は甚だ壮であった。しかし性は偏狭で浅く、愛憎をもって高低をつけ、同郷の旧知に頗る私し、恩威をもって人心を自らに帰せしめようとしたため、士論も甚だ附くことはなかった。默が罪を得た後、後を継いだのは吳鵬、歐陽必進で、嵩父子の意を窺い、謹んで承順したため、吏部の権力は完全に失われた。隆慶年間に默の官を復し、祭葬を賜う。萬歷年間に、諡して文湣と賜う。

原文默博雅有才辨,以氣自豪。同考武試,得陸炳為門生。炳貴盛,力推轂。默由外吏驟顯,有所恃,不附嵩。凡有銓除,與爭可否,氣甚壯。然性褊淺,用愛憎為軒輊,頗私鄉舊,以恩威自歸,士論亦不甚附之。默既得罪,繼之者吳鵬、歐陽必進,視嵩父子意,承順惟謹,吏部權盡失。隆慶中,復默官,予祭葬。萬歷中,賜謚文湣。

萬鏜、字は仕鳴、進賢の人。父の福は金華知府。鏜は弘治十八年の進士に登第。正徳年間、刑部主事から累進して吏部文選郎中となる。官署が火災に遭い、下獄し、贖罪して職に復した。太常少卿、大理少卿を歴任。世宗が即位すると、鏜がかつて知県の劉源清に書を送り、宸濠の予防を命じたことを以て、金幣を賜う。まもなく順天府尹に遷り、累進して右副都御史となる。兵部侍郎、右都御史を歴任し、いずれも南京である。彗星すいせいが現れ、詔に応じて八事を陳述。中に言う、「人の邪正は懸隔しているが、形跡は混同しやすい。その大略は四つある。人主が下に求めるものは、任怨、任事、恭順、無私である。しかし邪臣の恣強で戾り、紛更を好み、巧みに逢迎し、攻訐をほしいままにする者は、その跡がこれに似る。人主が下に悪むものは、避事、沽名、朋党、矯激である。しかし正臣が成法を守り、公議を恤い、群情を体し、君の過失を規正する者は、その跡がこれに似る。これを精査しなければ、邪正が倒置し、国是が乱れる。これは慎まざるべからざる点である。天下を治めるには実を貴び文を貴ばない。今陛下は礼を議し制度を定め文を考うることは、至って明備であるが、理財・用人・安民・講武の道については、あるいは欠けている。声容の繁飾を止め、太平の美観を略し、専ら実用に従事されんことを願う。これこそ天下を治める道を得るものである。大礼・大獄の事で罪を得た諸臣は、幽錮されて久しい。どうか酌量して寛大に記録を加えられたい」。帝は大いに怒り、民に斥き、吏部に命じて錮して用いないようにさせた。

原文萬鏜,字仕鳴,進賢人。父福,金華知府。鏜登弘治十八年進士。正德中,由刑部主事屢遷吏部文選郎中。司署火,下獄,贖還職。歷太常、大理少卿。世宗嗣位,以鏜嘗貽書知縣劉源清,令預防宸濠,賚金幣。尋遷順天府尹,累遷右副都御史。歷兵部侍郎、右都御史,皆南京。彗星見,應詔陳八事。中言:「人邪正相懸,而形跡易混。其大較有四:人主所取於下者,曰任怨,曰任事,曰恭順,曰無私;而邪臣之恣強戾、好紛更、巧逢迎、肆攻訐者,其跡似之。人主所惡於下者,曰避事,曰沽名,曰朋黨,曰矯激;而正臣之守成法、恤公議、體群情、規君失者,其跡似之。察之不精,則邪正倒置,而國是亂矣,此不可不慎也。治天下貴實不貴文。今陛下議禮制度考文,至明備矣,而於理財用人安民講武之道,或有缺焉。願輟聲容之繁飾,略太平之美觀,而專從事於實用,斯治天下之道得矣。至大禮大獄得罪諸臣,幽錮已久,乞量加寬錄。」帝大怒,斥為民,令吏部錮勿用。

家に居すること十年、屡々推薦されたが、いつも罷免の報せがあった。同年の厳嵩が政権を握り、引き立てた。湖広蠟爾山の蛮が叛くと、鏜を副都御史として起用し、機に応じて剿撫させた。鏜は土指揮の田応朝の策を容れ、その酋長を誘致し、兵を督してこれを破った。善後七事を条上し、帝は全て許可した。鏜を召還した。間もなく、銅平の酋長龍子賢が再び叛くと、御史の繆文龍が鏜の剿撫ともに失策であったと上言した。詔して撫按官に調査覆奏させ、参将の李経に罪を帰したため、事は収まった。鏜は兵部侍郎となることができた。南京刑部尚書、礼部尚書に遷る。召されて刑部を掌る。俄かに李默に代わって吏部尚書となる。

原文家居十年,屢推薦,輒報罷。同年生嚴嵩柄政,援引之。湖廣蠟爾山蠻叛,起鏜副都御史,相機剿撫。鏜納土指揮田應朝策,誘致其酋,督兵破之。條上善後七事,帝鹹報可。召鏜還。未幾,銅平酋龍子賢復叛,御史繆文龍言鏜剿撫皆失。詔下撫按官勘覆,歸罪於參將李經,事乃解。鏜得為兵部侍郎。遷南京刑、禮二部尚書。召掌刑部。俄代李默為吏部尚書。

鏜は嵩に引き立てられた後、何事にも委随し、また饋遺に頗る通じていた。鄖陽都御史の撫治に欠員が生じると、鏜は通政使の趙文華の名を上奏した。ちょうど給事中の朱伯辰が文華を弾劾し、文華が上言した、「納言の職は、例として外に推挙しない。鏜は臣を外に出そうとし、また親しい伯辰を唆して論劾させ、臣を去らせようとした。かつ鏜は侍郎として起用されたのに、朦朧として二品九年満で太子少保を加えることができると奏した。また一品を得られなかったため、面で罵り腹で誹り、大臣の礼が無い」。帝は怒り、ついに伯辰とともに民に黜せられた。久しくして卒去。隆慶初年、官を復し、太子太保を贈られた。

原文鏜既為嵩所引,每事委隨,又頗通饋遺。撫治鄖陽都御史闕,鏜以通政使趙文華名上。會給事中朱伯辰劾文華,文華上言:「納言之職,例不外推。鏜意在出臣,又嗾所親伯辰論劾,欲去臣。且鏜以侍郎起用,乃朦朧奏二品九年滿,得加太子少保。又以不得一品,面謾腹誹,無大臣禮。」帝怒,遂與伯辰並黜為民。久之卒。隆慶初,復官,贈太子太保。

周延、字は南喬、吉水の人。嘉靖二年の進士。潜江知県に任じられ、新会に改められ、兵科給事中に抜擢される。時に新建伯王守仁の罪を議し、その爵を奪おうとした。延は抗疏して弁護し、罪に坐して太倉州判官に貶せられる。南京吏部郎中を歴任し、出て広東参政となる。安南を撫し、黎寇を征討するのに、いずれも参与し、功があった。三転して広東左布政使となる。右副都御史として応天を巡撫する。海寇の林成の乱を靖んずる。兵部右侍郎に進み、両広軍務を提督する。召されて刑部左侍郎となる。南京右都御史、吏部尚書、兵部尚書を歴任。

原文周延,字南喬,吉水人。嘉靖二年進士。除潛江知縣,改新會,擢兵科給事中。時議新建伯王守仁罪,將奪其爵。延抗疏為訟,坐謫太倉州判官。歷南京吏部郎中,出為廣東參政。撫安南,征黎寇,皆預,有功。三遷廣東左布政使。以右副都御史巡撫應天。靖海寇林成亂。進兵部右侍郎,提督兩廣軍務。召為刑部左侍郎。歷南京右都御史,吏、兵二部尚書。

嘉靖三十四年、左都御史に召される。帝は給事中徐浦の議を用い、廷臣及び督撫に各々辺境の人才を挙げるよう命じた。そこで故侍郎の郭宗臯、都御史の曹邦輔、吳嶽、祭酒の鄒守益、修撰の羅洪先、御史の吳悌、方涯、主事の唐樞、参政の周大禮、曹亨、参議の劉誌、知府の黄華が挙げられた。御史の羅廷唯が駁して言う、「浦の上疏は本来辺才を言ったのに、今廷臣は清修、苦節、実学、懿行を以て挙げており、初めの議から遠い。況してまた縁故によって進む者がある。これは明詔を仮りて幸門を開くものである」。帝はその言を容れ、吏部の濫挙を責め、都察院と更に議するよう命じた。延と尚書の吳鵬らは、挙げられた者は皆人望があり、公で私が無いと述べた。帝は終に悦ばず、延らを切責し、挙げられた者は悉く罷免の報せとなった。世宗の時、海内の賢士大夫で斥けられた者は多く、この挙げられたことで、稍々復用を期待したが、廷唯に阻まれ、これより皆再び召されることはなかった。

原文嘉靖三十四年召為左都御史。帝用給事中徐浦議,令廷臣及督撫各舉邊才。於是故侍郎郭宗臯,都御史曹邦輔、吳嶽,祭酒鄒守益,修撰羅洪先,御史吳悌、方涯,主事唐樞,參政周大禮、曹亨,參議劉誌,知府黃華在舉中。御史羅廷唯駁曰:「浦疏本言邊才,而今廷臣乃以清修、苦節、實學、懿行舉,去初議遠矣。況又有夤緣進者。是假明詔開幸門。」帝納其言,責吏部濫舉,命與都察院更議。延與尚書吳鵬等言所舉皆人望,公無私。帝終不悅,切責延等,而舉者悉報罷。世宗時,海內賢士大夫被斥者眾,及是舉上,稍冀復用,而為廷唯所阻,自是皆不復召矣。

延は顔つきが寒峭で、節を砥ぎ公に奉じた。権臣が事を用い、政は賄賂によって成ったが、延は未だ染まったことがなかった。しかし台端に居ること七年、諫諍の名は無かった。官で卒し、太子太保を贈られ、諡して簡肅。延が卒すると、歐陽必進が代わる。一月余りして吏部に遷り、潘恩がその後を継いだ。

原文延顏面寒峭,砥節奉公。權臣用事,政以賄成,延未嘗有染。然居臺端七年,無諫諍名。卒官,贈太子太保,謚簡肅。延卒,歐陽必進代。逾月,遷吏部,乃以潘恩繼之。

恩は字を子仁といい、上海の人である。嘉靖二年に進士となり、祁州知州に任じられ、繁鈞州に転任した。鈞州は徽王の封国であり、宗戚が豪強で横暴であったが、恩はこれを取り締まった。南京刑部員外郎に抜擢され、広西提学僉事に転じ、按察使事を代行した。大悪党が靖江王の邸に隠れていたが、恩が急いで捕らえようとしたため、王はやむなくこれを出した。王は恩を恨み、事をでっち上げて誣告したが、取り調べて事実無根と判明し、恩は免れた。累進して山東副使となった。御史葉経が試録(科挙の答案集)で皇帝の意に逆らったため、恩も連座して詔獄に下され、広東河源典史に左遷された。四度の転任を経て、再び江西副使となり、浙江左参政に進んだ。海塩を巡察中、倭寇が突然到来し、城を数重に包囲した。恩は参将湯克寛・僉事姜頤と力を合わせて防戦し、これを撃退した。まもなく浙江左布政使に転じ、右副都御史として河南巡撫となった。按察使とともに徽王載埨の貪虐を弾劾し、ついにその封国を奪った。伊王典礻英は驕慢で横暴であったが、恩は一切これを抑制した。河南の民はかねてより藩府に苦しめられていたが、恩が二人の暴虐な王を制したことで、その名声は大いに高まった。久しくして、刑部尚書から左都御史に改任された。

原文恩,字子仁,上海人。嘉靖二年進士。授祁州知州,調繁鈞州。鈞,徽王封國也,宗戚豪悍,恩約束之。擢南京刑部員外郎。遷廣西提學僉事,署按察使事。有大猾匿靖江王所,捕之急,王不得已出之。憾恩,誣以事,按無實得免。累遷山東副使。御史葉經以試錄忤旨,並恩下詔獄,謫廣東河源典史。四遷,復為江西副使,進浙江左參政。按部海鹽,倭猝至,圍城數匝。恩與參將湯克寬、僉事姜頤力禦卻之。俄遷浙江左布政使,以右副都御史巡撫河南。偕按臣劾徽王載埨貪虐,遂奪國。伊王典礻英驕橫,恩一切裁之。河南民素苦藩府,恩制兩悍王,名大著。久之,由刑部尚書改左都御史。

子の允端は刑部主事となった。吏部尚書郭樸は恩の門下生であり、允端を礼部に転任させた。給事中張益が允端の奔走・競争を弾劾し、恩が溺愛し、郭樸が私情に従ったと奏上した。帝は郭樸を問わず、允端を南京工部に改任させ、恩に致仕を命じた。万暦初年、慰問を受けた。八十七歳で卒去した。太子少保を追贈され、恭定と諡された。

原文子允端,為刑部主事。吏部尚書郭樸,恩門生也,調之禮部。給事中張益劾允端奔兢,恩溺愛,樸徇私。帝置樸不問,改允端南京工部,令恩致仕。萬歷初,賜存問。卒年八十七。贈太子少保,謚恭定。

賈応春は字を東陽といい、真定の人である。嘉靖二年に進士となり、南陽知県に任じられ、和州知州に転じた。中央に入り刑部郎中となった。潞安・開封二府の知府を歴任し、陝西副使に転じた。赴任しないうちに、河南巡按陳蕙がその貪汙濫権を弾劾したため、山東塩運同知に左遷され、陳蕙もまた罪に坐して貶官された。久しくして、漢陽知府から再び陝西副使に転じ、右参政に進んだ。寧羌で賊が蜂起ほうきすると、兵を集めて討伐平定した。按察使、左・右布政使と進み、いずれも陝西に在任した。その地で右副都御史に任じられ、巡撫となった。三十二年、兵部右侍郎に進み、三辺軍務を総督した。俺答諸部が毎年辺境を侵擾するため、応春は言上した。「諸辺境では間諜が通じておらず、敵寇が侵入するたびにその方向を測り知れず、我が方はあらゆる方面に備えねばならない。兵力が分散して勢いが孤立的となり、しばしば事を誤る。敵寇が内犯しようとするときは、必ず衆を集め武器を整え、臘肉で馬を飼い、矢を伝えて旗を祭るなど、その形跡は先に露呈するものである。また、我が民で掠奪された者も、時には辺境に臨んで伝報し、かなり証拠となるものがある。辺境の臣に厚く官賞を与え、密かに偵察させて待機させるならば、漫然と分散守備する者に比べ、功績は十倍百倍にもなるであろう。」そこで賞格を定めて上奏した。帝は直ちにこれに従った。その秋、敵寇が大挙して延綏に侵入し、五千余人を殺掠した。応春は諸将を督して邀撃し、首級二百四十を獲て、勝利を奏聞した。しかし巡按御史吉澄が敗北の状況を極言した。帝は結局応春の功績を記録し、その一子を官に叙した。翌年、宣府・大同総督蘇祐を罷免し、応春を代わらせた。当時、秋の防備が迫っており、応春の後任の江東が未だ到着しなかったため、応春に旧任に留まるよう命じた。河套の敵寇数万人が寧夏山後に屯営し、先に五百余騎を派遣して掠奪に入らせた。総兵官姜応熊が紅井を守って敵を引きつけ、密かに精兵をその営に迫らせ、首級百四十余を斬ったため、応春を右都御史に進めた。一ヶ月余り後、敵寇の別部が永昌・西寧に入ったが、守将に撃破された。番人が鎮羌に入ったが、総兵官王継祖がこれを撃破し、ともに応春に銀幣を賜った。久しくして、敵寇五千騎が環慶を侵犯したが、都督袁正に撃破され、さらに庄涼を掠奪したが、守将が邀撃して百二十人を斬り、再び応春の一子を官に叙した。在鎮すること数年、辺境の城壁一万一千八百余丈を築き、花馬池の閑田二万頃を軍に与えて屯田開墾させ、辺境の民はこれを頼りとした。召されて南京戸部尚書に任じられた。辺境の城壁の功績により、官位一等を進められた。まもなく召されて刑部尚書となり、戸部尚書に改任された。国用が不足していたため、応春がこれを言上した。そこで、徴税が七分に達しない者は、所管の官は転任・昇進させないこととした。漕運の政務が廃弛し、運搬船が多く負債を負っていたため、応春の言上によりその処罰を重くした。一年余りして、致仕して去った。卒去し、太子太保を追贈された。

原文賈應春,字東陽,真定人。嘉靖二年進士。授南陽知縣,遷和州知州。入為刑部郎中。歷知潞安、開封二府。遷陜西副使。未赴,河南巡按陳蕙劾其貪濫,謫山東鹽運同知,蕙亦坐貶。久之,由漢陽知府復遷陜西副使,進右參政。寧羌賊起,會兵討平之。遷按察使,左、右布政使,皆在陜西。就拜右副都御史,巡撫其地。三十二年進兵部右侍郎,總督三邊軍務。俺答諸部歲擾邊,應春言:「諸邊間諜不通,每寇入莫測其向,我則無所不備。兵分勢孤,往往失事。夫寇將內犯,必聚眾治器,臘肉飼馬,傳箭祭旗,其形先露。而我民被掠者,間亦臨邊傳報,頗有左驗。使邊臣厚以官賞,令密偵候,視漫然散守者,功相十百。」乃定賞格以請。帝立從之。其秋,寇大入延綏,殺掠五千餘人。應春督諸將邀擊,獲首功二百四十,以捷聞。而巡按御史吉澄極言敗狀。帝竟錄應春功,官其一子。明年罷宣、大總督蘇祐,以應春代。時秋防將屆,代應春者江東未至,令仍舊任。套寇數萬人屯寧夏山後,先遣騎五百餘入掠。總兵官姜應熊守紅井以綴敵,而密遣精兵薄其營,斬首百四十餘級,進應春右都御史。逾月,寇別部入永昌、西寧,為守將所破。番人入鎮羌,總兵官王繼祖擊敗之,並賜應春銀幣。久之,寇五千騎犯環慶,為都督袁正所破,掠莊涼,守將邀斬百二十人,再予應春一子官。在鎮數載,築邊垣萬一千八百餘丈,以花馬池閑田二萬頃給軍屯墾,邊人賴之。征拜南京戶部尚書。論邊垣功,進秩一等。旋召為刑部尚書,改戶部。國用不足,應春以為言。因命征不及七分者,所司毋遷官。漕政廢弛,運艘多逋負,亦以應春言重其罰。歲餘,致仕去。卒,贈太子太保。

張永明は字を鐘誠といい、烏程の人である。嘉靖十四年に進士となり、蕪湖知県に任じられた。献皇后の梓宮が南方に合葬される際、通過地では莫大な費用がかかった。永明は江岸の仏舎を白く塗って殿とし、供え物の器を金箔で飾り、財用を大いに節減した。まもなく南京刑科給事中に抜擢された。敵寇が大同に侵入し、山西総督樊継祖、巡撫史道・陳講らが防禦できなかったため、永明は同僚とともにその罪を論じた。その後、また兵部尚書張瓚が財貨を貪り国事を誤ったことを弾劾し、さらに大学士厳嵩とその子世蕃の貪汙の様子を弾劾した。その後、また兵部尚書戴金が御史として塩政を巡察した際、余塩の羨銀(余剰銀)を増やし、辺境の計略を阻害したことを弾劾した。上疏は全て採用されなかったが、朝廷内外は彼を畏れた。

原文張永明,字鐘誠,烏程人。嘉靖十四年進士。除蕪湖知縣。獻皇后梓宮南祔,所過繁費不貲。永明堊江岸佛舍為殿,供器飾箔金,財用大省。尋擢南京刑科給事中。寇入大同,山西總督樊繼祖,巡撫史道、陳講等不能禦,永明偕同官論其罪。已,又劾兵部尚書張瓚黷貨誤國,又劾大學士嚴嵩及子世蕃貪汙狀。已,又劾兵部尚書戴金為御史巡鹽時,增余鹽羨銀,阻壞邊計。疏雖不盡行,中外憚之。

地方に出て江西参議となった。累進して雲南副使、山西左布政使となった。右副都御史として河南巡撫となった。伊王典礻英が放縦で横暴であったため、永明はその悪事を暴き、後についに罪に伏した。四十年、刑部右侍郎に転じた。着任しないうちに、吏部侍郎に改任され、左侍郎に進んだ。まもなく刑部尚書に任じられた。数ヶ月在任し、左都御史に改任された。巡撫・巡按を整える六事を条上した。御史黄廷聘が浙江を巡察して帰る途中、湘潭にて知県陳安を軽んじた。陳安がその荷物を調べると、携帯していた金銀貨幣が見つかった。廷聘は恐れおののいて謝罪し、ようやく返還した。永明はこれを聞き、廷聘を弾劾して罷免させた。浙江参政劉応箕は先に廷聘に論劾されて罷免されていたが、廷聘の失脚を見て、その陰事を摘まみ上げて自己弁明した。永明はこれを憎み、応箕を弾劾し、これもまた罷免させた。

原文出為江西參議。累遷雲南副使,山西左布政使。以右副都御史巡撫河南。伊王典礻英恣橫,永明發其惡,後竟伏辜。四十年遷刑部右侍郎。未上,改吏部,進左。尋拜刑部尚書。居數月,改左都御史。條上飭歷撫按六事。御史黃廷聘按浙歸,道湘潭,慢知縣陳安。安發其裝,得所攜金銀貨幣。廷聘皇恐謝,乃還之。永明聞,劾罷廷聘。浙江參政劉應箕先為廷聘論罷,見廷聘敗,摭其陰事自辨。永明惡之,劾應箕,亦斥。

故事では、京官の考満(考査満了)の際、翰林官を除き全て都察院に届け出て、庭謁の礼を修めることとなっていた。後に吏部郎が権勢を頼み、張濂が届け出を廃し、陸光祖が庭謁を廃した。永明は告示を出して故事に従うよう命じ、儀礼の節度を列記して奏聞し、詔により諸司に遵守させた。郎中羅良が考満に当たり、先に永明の邸を訪れ、届け出と庭謁を免除する約束をしてから都察院に赴こうとした。永明は怒り、上疏して言った。「この礼は百年行われてきたもので、臣が増減できるものではない。羅良は軽薄で無礼であり、罷免すべきである。また、卿貳大臣が考満の際、吏部に赴いて堂上官と会見した後、すぐに四司の門で揖礼を行うが、司官が南面して答礼するのも礼に合わず、改正すべきである。」羅良が上疏して弁明したため、俸禄を奪われた。詔により礼部が礼科と会議し、奏上して言った。「永明の議は正しい。今後、吏部郎は旧制に従うこと。九卿・翰林官が四司に揖礼するのは、廃止すべきである。」詔はこれを許可した。

原文故事,京官考滿,自翰林外皆報名都察院,修庭謁禮。後吏部郎恃權,張濂廢報名,陸光祖廢庭謁。永明榜令遵故事,列儀節奏聞,詔諸司遵守。郎中羅良當考滿,先詣永明邸,約免報名庭謁乃過院。永明怒,疏言:「此禮行百年,非臣所能損益。良輕薄無狀,當罷。又卿貳大臣考滿,詣吏部與堂官相見訖,即詣四司門揖,司官輒南面答揖,亦非禮,當改正。」良疏辨,奪俸。詔禮部會禮科議之,奏言:「永明議是。自今吏部郎其承舊制。九卿翰林官揖四司,當罷。」詔可。

永明はもとより清廉で謹直であった。都御史を務めたのは厳嵩が罷免された後であり、綱紀を整えることを己の任務とした。時に給事中魏時亮に弾劾され、永明は強く辞任を求めたため、詔は駅馬で帰郷することを許した。翌年卒去した。太子少保を追贈され、莊僖と諡された。

原文永明素清謹。掌憲在嚴嵩罷後,以整飭綱維為己任。會給事中魏時亮劾,永明力求去,詔許馳驛歸。明年卒。贈太子少保,謚莊僖。

胡松は字を汝茂といい、滁州の人である。幼い頃から学問を好み、かつて古の名臣の章奏を編集し、慨然として世に用いられんとする志を抱いた。嘉靖八年に進士に及第し、東平州知州となった。方略を設けて盗賊を捕らえ、民はこれにより安堵した。再転して南京礼部郎中となり、山西提学副使を歴任した。

原文胡松,字汝茂,滁人。幼嗜學,嘗輯古名臣章奏,慨然有用世誌。登嘉靖八年進士,知東平州。設方略捕盜,民賴以安。再遷南京禮部郎中,歷山西提學副使。

三十年秋、辺境の事務について十二事を上奏し、次のように述べた。

原文三十年秋,上邊務十二事,謂:

昨秋、俺答が興県・嵐県を掠奪した際、すぐに矢を伝えて兵を徴発し、期日を定めて深く侵入した。守臣は皆これを熟知していた。しかし巡撫史道・総兵官王陛らは普段から備えがなく、敵が国境に迫ってから、ようやく朝貢を求める旨を上奏した。また密かに賄賂を贈り、自分の管轄地を侵さないよう求め、他地域に禍を転嫁しようと図った。今の山西の禍は、実に大同がもたらしたものである。速やかに重い刑罰を加え、諸鎮を戒めるべきである。

原文去秋俺答掠興、嵐,即傳箭征兵,克期深入。守臣皆諗聞之。而巡撫史道、總兵官王陛等備禦無素。待其壓境,始以求貢上聞。又陰致賄遺,令勿侵己分地,冀嫁禍他境。今山西之禍,實大同貽之。宜亟置重典,以厲諸鎮。

大同は兵変以来、壮健な者多くが漠北に逃れて賊に用いられており、今こそ招き帰還させるべきである。家畜や器械を携えて来る者は、その所有を認める。さらに牛や種子の費用を与え、数年は優遇して税を免除する。そうすれば、我々が金十万を投じれば、壮士二万を得られる。これを慰撫して用いれば、皆精鋭の軍勢となる。どうしてこれを棄てて強敵に与えようか。

原文大同自兵變以來,壯士多逃漠北為寇用,今宜招使歸。有攜畜產器械來者,聽其自有。更給牛種費,優復數年。則我捐金十萬,可得壯士二萬。拊而用之,皆勁旅也。孰與棄之以資強敵哉!

大同は最も敵の要衝に当たり、鎮巡を務める者は諸辺と比べて特に困難である。今は資格に拘らず、人材を精選すべきである。俸禄を豊かに与え、猛士を召し集め、健丁を養わせる。また任期を長くし、十年でなければ交代させない。彼らは容易に昇進できないと知れば、必ずや一時しのぎの策を取らず、辺境は自然と固まる。さらに法網を少し緩め、大いに法を犯すのでなければ、言官は軽々に弾劾せず、その成功を損なわないようにすべきである。

原文大同最敵沖,為鎮巡者較諸邊獨難。今宜不拘資格,精擇其人。豐給祿廩,使得收召猛士,畜豢健丁。又久其期,非十年不得代。彼知不可驟遷,必不為茍且旦夕計,而邊圉自固。又必稍寬文綱,非大幹憲典,言官毋得輕劾,以壞其成功。

間諜を用いる方法は、兵家が重視するところである。今、山西で捕らえられた敵の間諜は既に数十人に上り、他の鎮も同様である。故に我が方の虚実は、彼らに知られないものはない。今は死士を厚く養い、密かに放って遣わすべきである。機会を得ればその名王、部長及び政務を司る貴人を斬る。できなくとも、その強弱虚実を窺い、密かに備えることができる。

原文至用間之道,兵家所貴。今寇諜獲於山西者已數十人,他鎮類是。故我之虛實,彼無不知。今宜厚養死士,潛縱遣之。得間則斬其名王、部長及諸用事貴人。否亦可覘強弱虛實,而陰為備。

また、敵は貪欲で利益を好む。我々が真心をもって金帛を惜しまなければ、東では黄、毛三衛を賄ってその左翼を牽制し、西では亦不剌の残党を収容し、良い土地を与えてその右翼を引き留める。そうすれば首尾引きずられ、自ら狼顧の憂いを抱き、我々はその疲弊に乗じて立ち上がり、安座して全勝を収めることができる。

原文又寇貪而好利,我誠不愛金帛。東賂黃、毛三衛以牽其左,西收亦不剌遺種,予善地,以綴其右,使首尾掣曳,自相狼顧,則我可起承其敝,坐收全勝矣。

その他の条陳も、いずれも辺境の計略に適切であった。帝はその忠誠と懇切さを嘉し、左参政に進級させた。

原文他所條析,鹹切邊計。帝嘉其忠懇,進秩左參政。

胡松の上疏は、当事者にその職権侵犯を憎まれた。昇進すると、さらに忌まれるようになった。兵権を与えず、三関で任用するよう命じ、それによって陥れようとした。敵が大挙侵入し、太原にまで迫った。給事中馮良知は胡松が建言して賞を冒し、寸功もないと弾劾した。紀功科道官張堯年、王珩が総兵官張達らを弾劾し、併せて胡松の空虚な議論は益なく、遂に民に落とされた。家に居ること十余年。たびたび推薦されたが、いつも取り上げられなかった。三十五年、趙文華の言葉により、陝西参政に起用され、平涼を分守した。さらに保甲の厳格化、賦税の均等化、常平倉の設置、剛健な者の選抜など数事を条陳した。三度転じて江西左布政使となり、右副都御史としてその地を巡撫した。管轄地域に賊が多かったため、胡松は南昌、南豐、万安の三営を設置し、将を遣わして討伐捕縛し、順次平定した。兵部右侍郎に進み、巡撫は元の通りとした。広東の大賊張璉の会討及び福建救援での倭寇撃破の功により、二度銀幣を賜った。三年在任し、部務を処理するため召還された。左侍郎に進み、吏部に転じた。南京兵部尚書に遷り、機務に参賛した。郭樸に代わって吏部尚書となった。上奏して言う、「巡撫・巡按の推薦・弾劾は、毎回数十人を挙げ、虚誉と浮詞で、往々にして実態を失う。弾劾する贓罪は、降格・転任のみを擬し、無能で貪婪残酷な者は、教官への転任のみを擬する。賞罰が適切でなければ、人はどうして奮い立たされようか。また、巡撫は年末に例として属吏の善悪を評した冊子を作るが、今は皆廃されている。欺瞞と怠慢を厳しく戒めるよう乞う。」帝は嘉納した。

原文松疏上,當事者已惡其侵官。及遷擢,益忌之。不畀以兵柄,令於三關聽用,欲因以陷之。寇大入,抵太原。給事中馮良知遂劾松建言冒賞,無寸功。紀功科道官張堯年、王珩劾總兵官張達等,並論松虛議無補,遂斥為民。家居十餘年。屢薦,輒報罷。至三十五年,以趙文華言,起陜西參政,分守平涼。復條嚴保甲、均賦稅、置常平、簡伉健數事。三遷江西左布政使,以右副都御史巡撫其地。所部多盜,松奏設南昌、南豐、萬安三營,遣將討捕,以次削平。進兵部右侍郎,巡撫如故。以會討廣東巨寇張璉及援閩破倭功,兩賜銀幣。居三年,召理部事。進左侍郎,改吏部。遷南京兵部尚書,參贊機務。代郭樸為吏部尚書。奏言:「撫按舉劾,每舉數十人,虛譽浮詞,往往失實。所劾犯贓,僅擬降調;罷軟貪殘,僅擬改教。賞罰不當,人何所激勸?且巡撫歲終例有冊,第屬吏賢否,今皆寢閣,乞申飭其欺玩者。」帝嘉納之。

胡松は己を清く保ち修養を好み、経術に富み、盛んな声望があった。晚年に選挙の権柄を握り、埋もれた人材を抜擢することを己の任務とした。わずか七ヶ月で病没した。太子少保を追贈され、恭肅と諡された。

原文松潔己好修,富經術,郁然有聲望。晚主銓柄,以振拔淹滯為己任。甫七月,病卒。贈太子少保,謚恭肅。

当時、また胡松という者がいた。字は茂卿、績溪の人。正徳九年の進士。嘉靖年間に御史となった。桂萼が王瓊を推薦した時、胡松がこれを論じた。旨に逆らい、廉州推官に左遷された。累官して工部尚書となった。伊王が洛陽の邸宅を拡張しようとし、費用十万金を見積もり、そのうち十二を厳嵩に賄賂し、必ず得ようとした。胡松が祖制に基づいて争ったため、中止された。俺答が侵入した時、仇鸞が辺境の兵を率いて京師を守衛し、その全軍を召集して京師を充実させ、武庫の兵器を兵営に移し、便宜を与えて調達させようとした。胡松は、辺兵は外にあるべきものを内に入れ、武庫の兵器は内にあるべきものを外に出すのは、中枢を重んじ、微細な点まで慎んで防ぐことにはならないと言い、固執して許さなかった。まもなく病気を理由に帰郷した。八十三歳で没した。家にあっては孝友をもって称された。

原文時又有胡松者,字茂卿,績溪人。正德九年進士。嘉請時為御史。桂萼薦王瓊,松論之。忤旨,謫廉州推官。累官工部尚書。伊王欲拓其洛陽府第,計直十萬金,以十二賕嚴嵩,期必得。松據祖制爭,乃止。俺答入寇,仇鸞以邊眾入衛,欲悉召其眾實京師,移武庫仗於營,便給調。松言邊兵外也而內之,武庫仗內也而外之,非所以重肘腋,杜微慎防也,執弗許。尋引疾歸。卒年八十三。居家以孝友稱。

趙炳然、字は子晦、劍州の人。嘉靖十四年の進士。新喻知県に任じられた。召されて御史となった。給事中李文進とともに宣府、大同、山西の兵糧を査核した。前後の督撫樊継祖、史道、監司楊鋭、指揮馮世彪ら百七十七人の横領罪を弾劾し、それぞれの罪に応じて処罰された。辺備十二事を条上した。雲南、浙江を歴任して按察した。大理寺丞に抜擢され、少卿に進んだ。まもなく右僉都御史に改め、湖広を巡撫した。左副都御史に進み、院事を協理した。

原文趙炳然,字子晦,劍州人。嘉靖十四年進士。除新喻知縣。征拜御史。與給事中李文進核宣、大、山西兵餉。劾前後督撫樊繼祖、史道,監司楊銳,指揮馮世彪等一百七十七人侵冒罪,坐謫有差。條上備邊十二事。歷按雲南、浙江。擢大理寺丞,進少卿。尋改右僉都御史,巡撫湖廣。進左副都御史,協理院事。

浙江、福建総督胡宗憲が投獄され、総督を廃止して設けないよう詔があった。大学士徐階は浙江の賊がようやく平定されたばかりであることを理由に、巡撫を設けて安定させるよう請い、趙炳然を兵部右侍郎兼右僉都御史に進めてこれに当たらせた。浙江は兵火に罹ることが久しく、また胡宗憲の奢侈汰侈の後であったため、財は乏しく力は尽きていた。炳然は清廉をもって下に範を示し、諸政令で不便なものを全て改め、さらに軍需の半減を奏上した。民は皆これを祀った。

原文浙江、福建總督胡宗憲下獄,詔罷總督毋設。大學士徐階以浙江寇甫平,請設巡撫綏輯,遂進炳然兵部右侍郎兼右僉都御史往任之。浙罹兵燹久,又當宗憲汰侈後,財匱力絀。炳然廉以率下,悉更諸政令不便者,仍奏減軍需之半。民皆屍祝之。

福建巡撫遊震得が浙江兵の賊征討を請うた。詔して義烏の精兵一万を発し、副総兵戚継光に率いさせて赴かせ、さらに炳然に協力討伐を諭した。炳然は言う、「福建が乱に至った原因は、将吏が統御の術がなく、民が兵に変じ、兵が賊に変わったからである。今また浙江兵を駆り立てて福建の急を救おうとするのは、密かに浙江が再び福建のようになることを恐れる。一意に土着の兵を団練させ、人それぞれが用いられ、家それぞれが守り、急な時は兵となり、緩やかな時は農となるようにし、その後、集散いずれにも帰属先があるようにすべきである。やむを得ず募集する場合でも、必ずまず本土、次いで隣接地域とするのがよい。そうすれば禍の根源を醸すことはない。」また防海八事を条上し、その中で言う、「蘇州、松江、浙江の水師は皆総兵に統率され、定海に駐屯する。陸師は皆副総兵に統率され、金山衛に駐屯し、ともに総督の節制を受ける。今、総督府が既に廃止されたので、すでに二鎮に分かれ、互いに牽制し合い、調発できない。地域を画して分轄させ、それぞれ水陸の軍務を兼ねさせるよう請う。」いずれも許可された。その年、継光が賊を破り、沿海の残党が浙江に流入した。官軍が連嶼、陡橋、石坪で迎え撃ち、百余級を斬首した。新たな倭寇が再び石坪を犯したが、将士が勝ちに乗じてこれを殲滅した。炳然は援剿の功により、再び金幣を賜り、右都御史兼兵部右侍郎に進んだ。

原文福建巡撫遊震得請浙兵剿賊。詔發義烏精兵一萬,命副總兵戚繼光將以往,仍諭炳然協剿。炳然言:「福建所以致亂者,由將吏撫馭無術,民變為兵,兵變為盜耳。今又驅浙兵以赴閩急,竊懼浙之復為閩也。請令一意團練士著,使人各為用,家自為守,急則兵,緩則農,然後聚散兩有所歸。即不得已而召募,亦必先本土後鄰壤,庶無釀禍本。」又條上防海八事,中言:「蘇、松、浙江水師皆統於總兵,駐定海;陸師皆統於副總兵,駐金山衛,並受總督節制。今督府既革,則已判為二鎮,彼此牽制,不得調發。請畫地分轄,各兼水陸軍務。」俱報可。其年,繼光破賊,瀕海余寇流入浙江。官軍迎戰於連嶼、陡橋、石坪,斬首百餘級。新倭復犯石坪,將士乘勝殲之。炳然以援剿功,再賜金幣,進右都御史兼兵部右侍郎。

給事中辛自修が戎政都御史李鐩を弾劾して罷免し、平素から兵事を知る者を選んで代えるよう請うた。そこで炳然を兵部尚書に召し、戎政を協理させた。一年余りして、詔により右都御史を兼ね、宣府、大同、山西の軍務を総督した。新平、平遠、保平の三堡は宣府に密接し、旧来は大同に属していた。天城は六十里離れ、塞外に孤懸し、崇山を隔て、敵騎が時々出没した。炳然は参将を添設し、別に一営とするよう奏上し、許可された。まもなく総兵官馬芳らの敵撃退の功により、恩賞を受けた。その後、部に召還され、楊博に代わって尚書となった。考課が満了し、太子少保を加えられた。

原文給事中辛自修劾罷戎政都御史李鐩,請擇素知兵者代之。乃召炳然為兵部尚書,協理戎政。逾年,詔兼右都御史,總督宣、大、山西軍務。新平、平遠、保平三堡密邇宣府,舊屬大同。天城相去六十里,孤懸塞外,隔崇山,寇騎時出沒。炳然奏添設參將,別為一營,報可。尋以總兵官馬芳等卻敵功,被賚。已,召還部,代楊博為尚書。考滿,加太子少保。

炳然は清廉で勤勉、練達であり、赴任先では名声と実績があった。隆慶初年、病気を理由に休職を請い去った。没後、太子太保を追贈され、恭襄と諡された。

原文炳然清勤練達,所至有聲績。隆慶初,以病乞休去。卒,贈太子太保,謚恭襄。

賛して言う。世宗朝、張璁、桂萼、夏言、厳嵩が相次いで権勢を振るい、六卿の長はその職を得られなかった。多くは波に流され茅が靡くが如く、汚れて恥を忍び、迎合した。廖紀以下の諸人は、その優れた者であろうか。王応奎は国家財政を司ったが、制度によって節制することができず、かえって賦税を加えて民を苦しめることに務めた。劉豹は凡庸で、さらに見るべきところがない。

原文贊曰:世宗朝,璁、萼、言、嵩相繼用事,六卿之長不得其職。大都波流茅靡,淟,忍取容。廖紀以下諸人,其矯矯者與!應奎司邦計,不能節以制度,顧務加賦以病民。豹也碌碌,彌無足觀矣。