明史

列傳第八十九 陶琰 王縝 李充嗣 吳廷舉 方良永 王爌 王軏 徐問 張邦奇 韓邦奇 周金 吳嶽

列傳第八十九 陶琰 王縝 李充嗣 吳廷舉 方良永 王爌 王軏 徐問 張邦奇 韓邦奇 周金 吳嶽

原文列傳第八十九 陶琰 王縝 李充嗣 吳廷舉 方良永 王爌 王軏 徐問 張邦奇 韓邦奇 周金 吳嶽

○陶琰(子の滋) 王縝 李充嗣 吳廷舉(弟の廷弼) 方良永(弟の良節 子の重傑) 王爌 王軏 徐問 張邦奇(族父の時徹) 韓邦奇(弟の邦靖) 周金 吳嶽(譚大初)

原文○陶琰(子滋)王縝李充嗣吳廷舉(弟廷弼)方良永(弟良節子重傑)王爌王軏徐問張邦奇(族父時徹)韓邦奇(弟邦靖)周金吳嶽(譚大初)

陶琰は、字あざなを廷信といい、絳州の人である。父の銓は進士となり、陜西右参議となった。琰は成化七年の郷試で第一となり、十七年に進士となって、刑部主事に任じられた。

原文陶琰,字廷信,絳州人。父銓,進士,陜西右參議。琰舉成化七年鄉試第一,十七年成進士,授刑部主事。

弘治初め、員外郎に進んだ。固原兵備副使を歴任した。士卒を訓練し、芻粟を広く備蓄した。九年を経て、部内は平穏であった。福建按察使に遷り、浙江左布政使となった。正徳初め、右副都御史として河南を巡撫し、刑部右侍郎に遷った。陜西遊撃の徐謙が御史の李高を告発した。謙はもと劉瑾の党で、多額の賄賂を用い、李高を危険な法に陥れようとした。琰がこれを審理に向かい、李高を正しいとした。劉瑾は怒り、他の事を口実に琰を詔獄に下し、その職を剥奪し、さらに米四百石を辺境に輸送するよう罰した。劉瑾が誅殺されると、左副都御史に起用され、漕運を総督し、兼ねて淮・揚諸府を巡撫した。

原文弘治初,進員外郎。歷固原兵備副使。練士卒,廣芻粟。歷九年,部內晏如。遷福建按察使,浙江左布政使。正德初,以右副都御史巡撫河南,遷刑部右侍郎。陜西遊擊徐謙訐御史李高。謙故劉瑾黨,行厚賂,欲中高危法。琰往按,直高。瑾怒,假他事下琰詔獄,褫其職,又罰米四百石輸邊。瑾誅,起左副都御史,總督漕運兼巡撫準、揚諸府。

六年、南京刑部侍郎に転じた。翌年、賊の劉七らが江南を犯そうとし、王浩八がまた衢州に入った。琰は右都御史に進み、浙江を巡視した。到着すると劉七らはすでに滅び、王浩八は帰順を聞き入れた。折しも寧波・紹興の沿海地で颶風が大いに起こり、住民が流死した者は万を数えた。琰は官庫の金を出して救済し、また大いに蕭山から会稽に至る堤防五万余丈を築いた。兵備道を設置して要害を守らせ、王浩八の党の出没を防ぎ、将を派遣してその首魁を撃ち斬るよう上奏した。そこで開化・常山・遂安・蘭溪に城を築き、境内は平穏となった。再び漕運総督を命じられ、七度上疏して帰郷を乞うた。世宗が位を嗣ぐと、元の官に起用された。合わせて三度漕運を総督し、軍民はその政に慣れ、厳しくしなくても整然とした。

原文六年,轉南京刑部侍郎。明年,賊劉七等將犯江南,王浩八又入衢州。進琰右都御史,巡視浙江。至則七等已滅,浩八聽撫。會寧、紹瀕海地颶風大作,居民漂沒萬數。琰出帑金振救,而大築蕭山至會稽堤五萬餘丈。奏設兵備道守要害,防浩八黨出沒,遣將擊斬其渠魁。遂城開化、常山、遂安、蘭溪,境內以靖。復命總督漕運,七疏乞歸。世宗嗣位,起故官。凡三督漕,軍民習其政,不嚴而肅。

琰の性質は清廉倹約で、食事は一菜のみであった。官に着くたびおよび罷免されるたび、行李はただ三つの竹笥のみであった。まもなく戸部尚書を加えられた。嘉靖元年、召されて工部尚書に拝された。その冬、南京兵部に改められ、太子少保を加えられた。一年も経たないうちに、たびたび老齢を理由に致仕を乞うた。太子太保を加えられ、駅伝で帰郷し、役人が毎年時節に訪問した。さらに九年して卒し、年八十四であった。少保を追贈され、諡は恭介といった。

原文琰性清儉,飯惟一疏。每到官及罷去,行李止三竹笥。尋加戶部尚書。嘉靖元年召拜工部尚書。其冬,改南京兵部,加太子少保。未浹歲,屢引年乞體。加太子太保,乘傳歸,有司歲時存問。又九年卒,年八十有四。贈少保,謚恭介。

子の滋は、進士となり行人に任じられた。武宗の南巡を諫め、宮門の下で杖罰を受け、国子学正に左遷された。嘉靖初め、兵部郎中を歴任した。同官を率いて宮門に伏して「大礼」を争い、再び杖罰を受け、榆林に流戍された。兵部尚書の王時中らが言うには、琰は老病で呻吟し、父子一度相見えることを望んでいる、近衛に改調するよう乞う、と。許されなかった。十五年、赦されて還り、卒した。

原文子滋,以進士授行人。諫武宗南巡,杖闕下,謫國子學正。嘉靖初,歷兵部郎中。率同官伏闕爭「大禮」,再受杖,謫戍榆林。兵部尚書王時中等言,琰老病呻吟,冀父子一相見,乞改調近衛。不許。十五年赦還,卒。

王縝は、字を文哲といい、東莞の人である。父の恪は、宝慶知府であった。縝は弘治六年の進士に登り、庶吉士に選ばれ、兵科給事中に任じられた。三辺総制の王越が汪直・李広に附いたことを弾劾し、再び節鉞を汚すべきでないと論じた。出て南畿の屯田を管理した。役人が松江の白絺六千匹を徴収しようとしたが、縝は絺は正規の貢納品ではないと言った。また上清宮の工事を停止するよう請うた。詔してすべてこれを罷めた。累進して工科都給事中となった。武宗が初めて即位すると、内府の工匠が営造の功で恩賞を受けた。縝は同官を率いて言った。「陛下が大宝に登られた初めに、工匠の末技ですでに微労で進用される者がいるのは、まことに後世に示すべきではありません。先朝の諸画士を散遣し、工匠に授けた官を革すべきです。」帝は用いなかった。宦官の張永が通州新城を改築するよう請うたが、縝は泰陵の工事がまさに興っているのに、無益な役を再び興すべきでないと言った。帝はやめた。正徳元年、山西右参政として出た。福建布政使を歴任し、右副都御史に遷り、蘇州・松江諸府を巡撫した。江西の賊王浩八の平定に協力した。乾清宮が災害にあうと、上疏して宗室の子を宮中で養い、根本を定めること、南京の新増の宦官を去り、建言して罷黜された諸臣を召還するよう請うた。返答がなかった。やがて、鄖陽巡撫に転じ、南京刑部右侍郎に遷った。世宗が即位すると、正本十事を陳べた。嘉靖二年、そのまま戸部尚書に抜擢された。官のまま卒した。

原文王縝,字文哲,東莞人。父恪,寶慶知府。縝登弘治六年進士,選庶吉士,授兵科給事中。劾三邊總制王越附汪直、李廣,不可復玷節鉞。出理南畿屯田。有司征松江白絺六千匹,縝言絺非正供。且請停上清宮役。詔皆罷之。累遷工科都給事中。武宗初立,內府工匠以營造加恩。縝率同官言:「陛下初登大寶,工匠末技已有以微勞進者,誠不可示後世。宜散遣先朝諸畫士,革工匠所授官。」帝不能用。中官張永請改築通州新城,縝言泰陵工作方興,不當復興無益之役。帝乃止。正德元年出為山西右參政。歷福建布政使,遷右副都御史,巡撫蘇、松諸府。協平江西賊王浩八。乾清宮災,疏請養宗室子宮中,定根本;去南京新增內官,召還建言被黜諸臣。不報。已,調鄖陽巡撫,遷南京刑部右侍郎。世宗即位,陳正本十事。嘉靖二年就擢戶部尚書。卒官。

李充嗣は、字を士修といい、内江の人である。給事中の蕃の孫である。成化二十三年の進士に登り、庶吉士に改められた。弘治初め、戸部主事に任じられた。従父の臨安が郎中であったため、刑部に改められた。連座して罪を得、岳州通判に左遷された。久しくして、随州知州に移り、陜西僉事に抜擢され、雲南按察使を歴任した。正徳九年、治行卓異として推挙され、累進して右副都御史となり、河南を巡撫した。年に大凶作があった。官庫の金を発し粟を移して救済するよう請うたが、足りず、富室に貸し付けを勧めた。当時流民が多く開封に集まったので、粥を煮てこれを養った。一月余りして、資金を与えて郷里に帰した。初め、鎮守宦官の廖堂は劉瑾に党し、進貢の名を借りて百方に要求し、後継者もこれを常とした。充嗣は言った。「近ごろ宦官の進貢に、古銅器・窯変盆・黄鷹・角鷹・錦鶏・走狗などの諸物があり、皆名を借りて徴収しています。外にまた拝見銀・須知銀および駅伝の快手の月銭・河夫の歇役の分を侵奪するなど、慮るに十余事、苛酷な徴発は動いて数十万に及びます。その左右の用事する者は、また境内で私的に雑物を安く買い付け、商賈の貨利を勝手に専売します。厳しく行って禁絶するよう乞います。」詔してただ下人の科取を禁じたのみであった。

原文李充嗣,字士修,內江人。給事中蕃孫也。登成化二十三年進士,改庶吉士。弘治初,授戶部主事。以從父臨安為郎中,改刑部。坐累,謫岳州通判。久之,移隨州知州,擢陜西僉事,歷雲南按察使。正德九年,舉治行卓異,累遷右副都御史,巡撫河南。歲大祲。請發帑金移粟振之,不足,則勸貸富室。時流民多聚開封,煮糜哺之。逾月,資遣還鄉。初,鎮守中官廖堂黨於劉瑾,假進貢名,要求百端,繼者以為常。充嗣言:「近中官進貢,有古銅器、窯變盆、黃鷹、角鷹、錦雞、走狗諸物,皆借名科斂。外又有拜見銀、須知銀及侵扣驛傳快手月錢、河夫歇役之屬,無慮十餘事,苛派動數十萬。其左右用事者,又私於境內抑買雜物,擅榷商賈貨利。乞嚴行禁絕。」詔但禁下人科取而已。

十二年、応天諸府の巡撫に移った。寧王宸濠が反乱すると、充嗣は尚書の喬宇に言った。「都城の守禦は公に属し、畿輔は充嗣が任じます。」そこで自ら精兵一万を率い、西に采石に駐屯した。使者を安慶城中に入れ、指揮の楊鋭らに堅守するよう命じた。部内に檄を伝え、京辺の兵十万が旦夕に到ると声言し、糧秣の供給を急がせて、賊を欺いた。賊は果たして疑い恐れた。事が定まると、兵部および巡按御史の胡潔がその功を言上した。時にすでに戸部右侍郎に進んでいたが、そこで詔書を賜って嘉労した。蘇州・松江の水利を修める建議があり、充嗣を工部尚書に進め水利事を兼ねさせた。まもなく、世宗が位を嗣ぐと、工部郎の林文霈・顔如翙を派遣してこれを補佐させた。白茅港を開削し、呉淞江を疏濬し、六ヶ月で完工した。詳細は『河渠志』にある。

原文十二年移撫應天諸府。寧王宸濠反,充嗣謂尚書喬宇曰:「都城守禦屬於公,畿輔則充嗣任之。」乃自將精兵萬人,西屯采石。遣使入安慶城中,令指揮楊銳等堅守。傳檄部內,聲言京邊兵十萬旦夕至,趣供餉,以紿賊。賊果疑懼。事定,兵部及巡按御史胡潔言其功。時已就進戶部右侍郎,乃賜敕嘉勞。有建議修蘇、松水利者,進充嗣工部尚書兼領水利事。未幾,世宗嗣位,遣工部郎林文霈、顏如翙佐之。開白茅港,疏吳淞江,六閱月而訖工。語詳《河渠志》。

嘉靖元年、宸濠平定の功を論じ、太子少保を加えられた。蘇州・松江の白糧を内府に輸送した。正徳の時に急に内使が五千人増え、糧も十三万石加えられていた。帝は充嗣の言を用い、旧額に減らした。また常賦の外に歳辦の浮額をすべて免除し、内府の徴収は科道官に監視させ、内臣の苛酷な要求を放任しないよう請うた。帝はともに従った。まもなく南京兵部尚書に改めた。七年に致仕し、卒した。久しくして、詔して太子太保を追贈し、諡は康和といった。

原文嘉靖元年論平宸濠功,加太子少保。蘇、松白糧輸內府。正德時驟增內使五千人,糧亦加十三萬石。帝用充嗣言,減從故額。又請常賦外盡蠲歲辦之浮額者,內府征收,監以科道官,毋縱內臣苛索。帝俱從之。尋改南京兵部尚書。七年致仕,卒。久之,詔贈太子太保,謚康和。

呉廷挙は、字を献臣といい、その先祖は嘉魚の人であるが、祖父が梧州に戍ったため、そこで家を構えた。成化二十三年に進士に登り、順徳知県に任じられた。上官が中貴人の先祠を修めるよう命じたが、廷挙は承知しなかった。市舶中官が葛を買い求め、廷挙は二本の葛を与えて、「産地ではない」と言った。中官は大いに怒った。御史の汪宗器も廷挙を憎み、「彼は専ら上官に抗い、名声を売るだけだ」と言った。折しも廷挙が淫祠二百五十所を破壊し、その材を撤して堤防を作り、学宮・書院を修復した。宗器は何か侵盗があったと言い、捕らえて獄に下した。審理しても隙が見つからず、恥じてやめた。県令として十年、やや遷って成都同知となった。憂いで帰郷し、松江に補された。

原文吳廷舉,字獻臣,其先嘉魚人,祖戍梧州,遂家焉。成化二十三年登進士,除順德知縣。上官屬修中貴人先祠,廷舉不可。市舶中官市葛,以二葛與之,曰:「非產也。」中官大怒。御史汪宗器亦惡廷舉,曰:「彼專抗上官,市名耳。」會廷舉毀淫祠二百五十所,撤其材作堤,葺學宮、書院。宗器謂有所侵盜,執下獄。按之不得間,慚而止。為縣十年,稍遷成都同知。憂歸,補松江。

尚書馬文升・劉大夏の推薦により、広東僉事に抜擢された。総督潘蕃に従い、南海・清遠の諸盗賊を討伐平定した。正徳初年、副使を歴任した。総鎮中官潘忠の二十の罪状を摘発した。潘忠もまた廷挙の他の事柄を告発し、詔獄に逮捕拘禁された。劉瑾が詔を偽り、十数日枷をはめ、ほとんど死にかけた。雁門に流刑となったが、まもなく赦免された。楊一清がその才能を推薦し、江西右参政に抜擢された。連河において華林賊を撃破した。陳金に従い姚源賊を大破した。その残党が裴源に逃げると、再び俞諫に従いこれを撃破した。賊首胡浩三は既に帰順したが再び反逆し、廷挙が説得に赴いたところ、捕らえられた。三か月滞在し、その要点をすべて把握し、離反を誘った。帰還した後、胡浩三は果たしてその兄浩二を殺害し、内乱が起こった。官兵がこれに乗じ、ついに浩三を生け捕りにした。副使李夢陽と不和となり、夢陽が職権を侵害したと上奏し、これにより休職を願い出た。命令を待たずに去ったため、一年分の俸給停止の処分を受けた。広東右布政使に起用され、再び陳金を補佐して府江賊を平定した。右副都御史に抜擢され、湖広の飢饉を救済した。その後、再び湖南に出向き、諸夷の境界地を確定した。寧王宸濠に謀反の企てがあったため、江西の軍政に関する六事を上疏し、予防策を講じた。

原文用尚書馬文升、劉大夏薦,擢廣東僉事。從總督潘蕃討平南海、清遠諸盜。正德初,歷副使。發總鎮中官潘忠二十罪。忠亦訐廷舉他事,逮系詔獄。劉瑾矯詔,枷之十餘日,幾死。戍雁門,旋赦免。楊一清薦其才,擢江西右參政。敗華林賊於連河。從陳金大破姚源賊。其黨走裴源,復從俞諫破之。賊首胡浩三既撫復叛,廷舉往諭,為所執。居三月,盡得其要領,誘使攜。及得還,浩三果殺其兄浩二,內亂。官兵乘之,遂擒浩三。與副使李夢陽不協,奏夢陽侵官,因乞休。不俟命竟去,坐停一歲俸。起廣東右布政使,復佐陳金平府江賊。擢右副都御史,振湖廣饑。已,復出湖南定諸夷疆地。寧王宸濠有逆謀,疏陳江西軍政六事,為豫防計。

世宗が即位すると、工部右侍郎に召されたが、まもなく兵部に改められた。上疏して陸完・王瓊・梁儲および少傅蔣冕を誹謗し、自分はかつて憲職にありながら一言もなかったと自認し、罷免を請うて幸進の位を戒めとした。当時、陸完は既に罪を得ており、王瓊と梁儲は既に罷免されていたため、廷挙はこれを用いて蔣冕を陥れようとした。蔣冕はこれにより罷免を求めた。帝は廷挙をあまり正しいと認めず、南京工部に転任させ、蔣冕を慰諭した。蔣冕は固く廷挙を留任するよう請願したが、聞き入れられなかった。

原文世宗立,召為工部右侍郎,旋改兵部。上疏詆陸完、王瓊、梁儲及少傅蔣冕,而自以為己昔居憲職無一言,乞罷黜以儆幸位。時完早得罪,瓊及儲已罷去,廷舉借以傾冕。冕遂求罷。帝頗不直廷舉,調南京工部,而慰諭冕。冕固請留之,不聽。

嘉靖元年、廷挙は休職を願い出た。まもなく災異により自らを弾劾して罷免を求め、帝に徳を修めて天に応えるよう勧め、併せてその部署における興革十二事を上奏して実行させた。まもなく戸部に改任され、右都御史に昇進し、応天諸府を巡撫した。長洲知県郭波が事により織造中官張誌聰を挫いた。張誌聰は郭波の外出を待ち伏せ、車の後ろに引きずり倒した。典史蕭景腆が教場で兵を指揮していたが、急いで兵を率いて救助した。民衆が屋根に登り、瓦を飛ばして張誌聰を撃った。張誌聰は郭波・蕭景腆を逮捕するよう上奏したが、廷挙は張誌聰の貪婪汚職の状況を詳細に報告した。帝は郭波を五階級降格させ、蕭景腆を遠方に転任させ、張誌聰も召還した。

原文嘉靖元年,廷舉乞休。尋以災異復自劾求罷,勸帝修德應天,因奏行其部興革十二事。尋就改戶部,遷右都御史,巡撫應天諸府。長洲知縣郭波以事挫織造中官張誌聰。誌聰伺波出,倒曳之車後。典史蕭景腆操兵教場,急率兵救。百姓登屋,飛瓦擊誌聰。誌聰奏逮波、景腆,廷舉具白誌聰貪黷狀。帝乃降波五級,調景腆遠方,誌聰亦召還。

三年、「大礼」の議論が未定であったため、洪武年間に『孝慈録』を編纂した故事に倣い、両京の部・寺・臺・省および天下の督撫に各々所見を条陳させ、併せて在野の老臣に諮問し、採用して実行し、一書にまとめて後世に示すよう請願した。当時、既に本生考と称することが定まっていたが、廷挙は帝の意に満足していないことを窺い、故意にこの上奏をした。給事中張原・劉祺が相次いで弾劾したが、回答はなかった。まもなく南京工部尚书に改任されたが、辞退して拝命せず、病気と称して休職を願い出た。帝は慰留した。その後、再び辞退し、かつ白居易・張詠の詩を引用し、言葉は多く諧謔に富み、中にまた嗚呼の字を用いた。帝は怒り、廷挙が怨望を抱き人臣の礼を欠いているとして、強制的に致仕させた。

原文三年,以「大禮」議未定,請如洪武中修《孝慈錄》故事,令兩京部、寺、臺、省及天下督、撫各條所見,並詢家居老臣,采而行之,匯為一書,以詔後世。時已定稱本生考,廷舉窺帝意不慊,故為此奏。給事中張原、劉祺交劾之,不報。尋改南京工部尚書,辭不拜,稱疾乞休。帝慰留。已,復辭,且引白居易、張詠詩,語多詼諧,中復用嗚呼字。帝怒,以廷舉怨望無人臣禮,勒致仕。

廷挙の顔は瓜を削ったようであった。衣服は破れ帯は穴が開き、飾り立てることをしなかった。言行は必ず自ら信じるところにより、他人が変えることはできなかった。太学にいた時、兄として羅玘に仕えた。羅玘が痢疾にかかり、下僕が死んだため、自ら薬を煮て飲ませた。背負って便所に行かせ、一昼夜に数十回往復した。羅玘はかつて人に言った、「献臣(廷挙)は私を生かしてくれた」。廷挙は薛瑄・胡居仁の学問を好み、陳献章を尊んで仕えた。住まいは低湿で狭く、城外に田畑はなかったが、一万巻の書物を持っていた。死去すると、総督姚鏌がその葬儀を執り行った。隆慶年間、清惠と追謚された。

原文廷舉面如削瓜。衣敝帶穿,不事藻飾。言行必自信,人莫能奪。其在太學時,兄事羅玘。玘病痢,仆死,自煮藥飲之。負以如廁,一晝夜數十反。玘嘗語人曰:「獻臣生我。」廷舉好薛瑄、胡居仁學,尊事陳獻章。居湫隘,亡郭外田,有書萬卷。及卒,總督姚鏌庀其喪。隆慶中,追謚清惠。

弟の廷弼は郷試に合格した。廷挙が吏部門前に枷をはめられた時、廷弼はその枷の下に臥した。刑部主事宿進が張糸采に上書し、ようやく釈放された。

原文弟廷弼,舉於鄉。廷舉枷吏部前,廷弼臥其械下。刑部主事宿進為奏記張糸采,乃得釋。

方良永、字は寿卿、莆田の人。弘治三年の進士。両広で未納租税の督励に当たり、贈り物を厳しく拒絶し、布政使劉大夏に器重された。帰還して刑部主事に任じられた。員外郎に進み、広東僉事に抜擢された。瓊州の賊符南蛇が乱を起こすと、劉大夏が当時総督であり、海南兵備を兼務するよう檄を飛ばし、合流して討伐平定した。御史が良永の失策を罪に問おうとした。劉大夏は既に兵部尚書として朝廷に入っており、朝廷に弁明して、銀貨を賜った。

原文方良永,字壽卿,莆田人。弘治三年進士。督逋兩廣,峻卻饋遺,為布政使劉大夏所器。還授刑部主事。進員外郎,擢廣東僉事。瓊州賊符南蛇為亂,大夏時為總督,檄攝海南兵備,會師討平之。御史坐良永失利。大夏已入為本兵,為白於朝,賚銀幣。

正徳初年、父の喪が明け、闕下で官職の任命を待った。地方官は朝見を終えると、必ず劉瑾に謁見しなければならなかった。鴻臚寺が良永を左順門に導き叩頭を終えると、東に向かって劉瑾に揖をさせようとしたが、良永はついに退出した。ある者が劉瑾の家を訪れるよう勧めたが、良永は承知しなかった。吏部が良永を河南撫民僉事に任命すると、中旨により強制的に致仕させられた。去った後も、劉瑾の怒りは収まらず、海南の殺人事件を口実にして陥れようとした。刑部郎中周敏が強く主張したため、罪に問われることはなかった。劉瑾が誅殺されると、湖広副使に起用された。まもなく広西按察使に抜擢された。巡按御史朱誌榮の罪状を摘発して流刑に至らしめた。山東右布政使に転任した。間もなく浙江に転任し、左布政使に改められた。

原文正德初,父喪除,待銓闕下。外官朝見畢,必謁劉瑾。鴻臚導良永詣左順門叩頭畢,令東向揖瑾,良永竟出。或勸詣瑾家,良永不可。及吏部除良永河南撫民僉事,中旨勒致仕。既去,瑾怒未已,欲假海南殺人事中之。刑部郎中周敏力持,乃不坐。瑾誅,起湖廣副使。尋擢廣西按察使。發巡按御史朱誌榮罪至謫戍。遷山東右布政使。旋調浙江,改左。

錢寧が紙幣二万を浙江で売り捌こうとした。良永は上疏して言った、「四方の盗賊がようやく鎮まり、傷跡はまだ癒えず、浙江東西で雹が降った。錢寧は賤しい身分の者であり、義子の名を借りて公侯の列に昇った。賜与は数知れず、賄賂を受け取ることも莫大であるのに、なおも民の財を掠め、国家の根本を害そうとする。役人は詔旨よりも急いでこれに従い、胥吏はこれに乗じて奸計を働き、骨の髄まで搾り取り、民は命を保つことができない。鎮守太監王堂・劉璟は錢寧の威を恐れ、その使役を受けている。臣はどうして一死を惜しんで、これを上聞しないことができようか。陛下には錢寧を詔獄に下し、明らかに刑典に照らして正し、併せてその党類を処罰し、もって百姓に謝罪されたい」。錢寧は恐れ、上疏を留中した。校尉を派遣して権勢をかたる偽者を捕らえ、帝に対して自らを飾ろうと謀り、かつ紙幣の代金を民に返還するよう請願し、密かに以前派遣した使者を召還させた。錢寧は初め紙幣を天下に広く行き渡らせようとし、先ず浙江・山東で実施したが、山東は巡撫趙璜に阻まれ、良永が公然とその奸計を暴露したため、錢寧はこれ以降紙幣を売り捌くことができなくなった。錢寧はまさに志を得ており、公卿・台諫も一言も発する者はいなかった。良永が地方官として公然とその誅殺を訴えたため、聞く者は震え恐れた。良永は母が年老いていることを思い、禍が身に及ぶことを恐れ、三度上疏して休職し去った。

原文錢寧以鈔二萬鬻於浙,良永上疏曰:「四方盜甫息,瘡痍未瘳,浙東西雨雹。寧廝養賤流,假義子名,躋公侯之列。賜予無算,納賄不貲,乃敢攫民財,戕邦本。有司奉行急於詔旨,胥吏緣為奸,椎膚剝髓,民不堪命。鎮守太監王堂、劉璟畏寧威,受役使。臣何敢愛一死,不以聞。乞陛下下寧詔獄,明正典刑,並治其黨,以謝百姓。」寧懼,留疏不下。謀遣校尉捕假勢鬻鈔者,以自飾於帝,而請以鈔直還之民,陰召還前所遣使。寧初欲散鈔遍天下,先行之浙江、山東,山東為巡撫趙璜所格,而良永白髮其奸,寧自是不敢鬻鈔矣。寧方得誌,公卿、臺諫無敢出一語。良永以外僚訟言誅之,聞者震悚。良永念母老,恐中禍,三疏乞休去。

世宗が即位すると、朝廷内外から推薦された。右副都御史に任じられ、鄖陽を巡撫治めた。母が年老いているため、再び上疏して終養を願い出た。都御史姚鏌が格別の褒賞寵遇を請願した。尚書喬宇・孫交が言うには、良永の家に余財はなく、侍郎潘礼・御史陳茂烈の故事に倣い、禄米を賜るべきであるとした。詔により月に三石を給することとなった。しばらくして母が死去すると、詔により祭葬を賜った。いずれも異例の扱いであった。喪が明けると、元の官職で応天を巡撫し、自宅に勅書を賜った。衢州に至って病気が発し、連続して上疏して致仕を願い出たが、返答がないうちに急いで帰郷し、死去した。死去後に南京刑部尚書の任命があった。訃報が伝わると、規定に従って恤典を賜り、簡肅と謚された。

原文世宗即位,中外交薦。拜右副都御史,撫治鄖陽。以母老,再疏乞終養。都御史姚鏌請破格褒寵。尚書喬宇、孫交言,良永家無贏貲,宜用侍郎潘禮、御史陳茂烈故事,賜廩米。詔月給三石。久之,母卒,詔賜祭葬。皆異數也。服除,以故官巡撫應天,即家賜敕。至衢州疾作,連疏乞致仕,未報遽歸,卒。卒後有南京刑部尚書之命。暨訃聞,賜恤如制,謚簡肅。

良永は父の病気に侍り、三か月間衣帯を解かなかった。母が病気の時、良永は六十余歳であったが、自ら湯薬を進めて少しも怠ることがなかった。喪に服する間、粗末な小屋に住み哀傷して身を毀したため、純孝と称された。平素王守仁と親しかったが、学問を論ずる点では彼と異なっていた。かつて人に言った、「近世は専ら心学を説き、自ら超悟独到であると称し、その説を推し進めて自ら陸象山に附し、さらに上って孔子に達するという。賢聖の教えの次第を小子の無用の学と見なし、程子・朱子以下はすべて排斥され、その妄説に陥っていることを知らない」。

原文良永侍父疾,衣不解帶者三月。母病,良永年六十餘矣,手進湯藥無少怠。居倚廬哀毀,稱純孝焉。素善王守仁,而論學與之異。嘗語人曰:「近世專言心學,自謂超悟獨到,推其說以自附於象山,而上達於孔子。目賢聖教人次第為小子無用之學,程、朱而下無不受擯,而不知其入於妄。」

弟の良節は、広東左布政使の官にあり、また治績があった。子の重傑は郷試に合格し、孝行で知られた。

原文弟良節,官廣東左布政使,亦有治行。子重傑,舉於鄉,以孝聞。

王爌は、字を存納といい、黄巖の人である。弘治十五年(1502年)に進士となり、太常博士に任じられた。正徳年間(1506-1521年)、累進して刑科都給事中となった。武定侯郭勛が両広を鎮守したが、その行状は道理に背いていた。詔勅により自ら陳述するよう命じられたが、郭勛は強弁し、王爌らがこれを駁した。都察院が覆奏したが、王爌の言は採用されず、王爌は都御史彭澤をも弾劾した。帝は彭澤を責めたが、郭勛については問わなかった。御史林有年が直言して獄に下され、浙江僉事韓邦奇が宦官に逆らって逮捕された際、王爌はいずれも彼らを救った。帝が大同に行幸して久しく帰還しなかったので、王爌は力を尽くして回鑾を請願した。また工科の石天柱とともに彭澤を救おうとして、王瓊に逆らった。中旨により両人は外任に転じ、王爌は惠州推官となった。世宗が即位すると、召されて都給事中に復帰した。まもなく太僕少卿に抜擢され、太常に転じた。嘉靖三年(1524年)、応天府尹に遷った。大凶作の年であったため、その賦税免除を奏上した。四年在任した後、南京刑部右侍郎に遷り、母が老齢のため帰郷して養った。家に居ること十年、元の官職に起用された。まもなく南京右都御史に抜擢された。守備宦官が進表する際、通常は二人の御史が礼を監したが、王爌は「宦官がどうして御史を使役できようか」と言ってこれを止めさせた。賀を挙げて入朝し、内閣の夏言に謁見した。夏言は甚だ傲慢で、大臣たちは多く隅に座らされたが、王爌だけは座席を引いてこれを正した。夏言は不愉快に思い、王爌は病を理由に辞任して帰郷した。

原文王爌,字存納,黃巖人。弘治十五年進士。除太常博士。正德時,屢遷刑科都給事中。武定侯郭勛鎮兩廣,行事乖謬。詔自陳,勛強辨,爌等駁之。都察院覆奏,不錄爌言,爌並劾都御史彭澤。帝責澤,置勛不問。御史林有年直言下獄,浙江僉事韓邦奇忤中官被逮,爌皆救之。帝幸大同久不反,爌力請回鸞。又與工科石天柱救彭澤,忤王瓊。中旨調兩人於外,爌得惠州推官。世宗立,召復都給事中。旋擢太僕少卿,改太常。嘉靖三年遷應天府尹。歲大祲,奏免其賦。居四年,遷南京刑部右侍郎,以母老歸養。家居十年,起故官。尋擢南京右都御史。守備中官進表,率以兩御史監禮。爌曰:「中官安得役御史?」止之。舉賀入朝,謁內閣夏言。言倨甚,大臣多隅坐,爌獨引坐正之。言不悅,爌遂謝病歸。

王爌は御史の潘壯と仲が良くなかった。潘壯が大獄に連座し、詔により王爌が取り調べることとなった。王爌は力を尽くして潘壯の無罪を主張し、ついには帝意に逆らうに至った。人々はこれによって王爌を長者と称えた。死去すると、工部尚書を追贈された。

原文爌與御史潘壯不相能。壯坐大獄,詔爌提問。爌力白壯罪,至忤旨。人以此稱爌長者。卒,贈工部尚書。

王軏は、開平衛の人で、弘治十二年(1499年)の進士である。正徳初年、工部員外郎を歴任し、累進して山東左布政使となった。嘉靖初年、召されて順天府尹となった。房山で地震があり、王軏は災いを招く原因があると上言し、言葉多く指弾した。帝意に逆らい厳しく責められた。まもなく副都御史に遷り、四川を巡撫した。芒部の土官知府隴慰が死去し、庶子の政と嫡子の寿が後継を争い、朝廷の議論では寿を立てることとなった。政は烏撒を頼り、しばしば兵を起こし、人を遣わして寿を誘い殺し、その印を奪った。王軏はこれを討伐するよう請願した。そこで貴州の兵と合流して分道進軍し、水西において政を擒らえ、四十九寨を降伏させた。璽書を賜わり労をねぎらわれた。

原文王軏,開平衛人,弘治十二年進士。正德初,歷工部員外郎,屢遷山東左布政使。嘉靖初,入為順天府尹。房山地震,軏言召災有由,語多指斥。忤旨切責。尋遷副都御史,巡撫四川。芒部土官知府隴慰死,庶子政與嫡子壽爭立,朝議立壽。政倚烏撒,數構兵,使人誘殺壽,奪其印。軏請討之。乃會貴州兵分道進,擒政於水西,招降四十九寨。璽書獎勞。

当時、仁寿宮を営造しようとしており、王軏は工部右侍郎に任じられ、大木の採伐を監督した。工事が終わると召還され、戸部に転じた。九門の苜蓿地を調査し、余剰地を民に返還した。禦馬監の草場を検分し、二万余頃の土地を整理して、民に佃作させた。房山の民が牧馬地を宦官韋恒に献上したが、王軏は整理して官に帰属させた。奸人馮賢らがまた宦官李秀に献上し、李秀が帝に請うたが、王軏は抗疏してこれを弾劾した。帝は李秀を赦免したが、結局馮賢らを法に従って処罰した。出向して勲戚の荘田を調査し、周の制度に倣い、品秩を計算し、親疎を区別して多寡を定め、詔勅による賜与でない隠匿・占拠は全て追及・断罪するよう請願した。戸部尚書梁材がその意見を採用し、兼併された土地は全て官に帰属させた。やがて左侍郎に進んだ。

原文時將營仁壽宮,就拜軏工部右侍郎,督采大木。工罷,召還,改戶部。核九門苜蓿地,以余地歸之民。勘禦馬監草場,厘地二萬餘頃,募民以佃。房山民以牧馬地獻中官韋恒,軏厘歸之官。奸人馮賢等復獻中官李秀,秀為請於帝,軏抗疏劾之。帝雖宥秀,竟治賢等如律。出核勛戚莊田,請如周制,計品秩,別親疏,以定多寡,非詔賜而隱占者俱追斷。戶部尚書梁材采其言,兼並者悉歸官。稍進左侍郎。

初め、王軏が隴政を平定した際、隴氏に後継者がいないことを理由に、流官を設置するよう改めることを請願し、兵部尚書李鉞らもこれを認めた。そこで芒部を鎮雄府と改め、四つの長官司を分置し、隴氏の遠縁の阿済らを長官に任じ、重慶通判程洸を試知府に抜擢した。隴氏の旧部沙保らが攻めて程洸を捕らえ、その印を奪い、再び隴氏の後裔を立てようとした。巡撫王廷相らが沙保を撃破し、程洸は帰還できた。沙保の子普奴がまた烏撒・水西の苗と連合して畢節諸衛を攻撃略奪した。帝は伍文定にこれを図らせた。朝廷の議論が合わなかったため、召還された。御史戴金が言上した。「芒部を流官に改める議論は、諸司が皆反対していた。王軏は程洸の邪説に従い、衆に背いて独断専行し、国境を安寧ならしめなかった。」そこで王軏は官を罷免された。

原文初,軏之平隴政也,以隴氏無後,請改設流官,兵部尚書李鉞等然之。遂改芒部為鎮雄府,分置四長官司,授隴氏疏屬阿濟等為長官,而擢重慶通判程洸為試知府。隴氏舊部沙保等攻執洸,奪其印,欲復立隴氏後。巡撫王廷相等破保,洸得還。保子普奴復連烏撒、水西苗攻剽畢節諸衛。帝命伍文定圖之。以朝議不合,召還。御史戴金因言:「芒部改流之議,諸司鹹執不可。軏徇洸邪說,違眾獨行,致疆場不靖。」遂罷軏官。

兵部尚書李承勛の推薦により、元の官職に起用され、倉場総督となった。再び遷って南京戸部尚書となった。御史龔湜が王軏が老いて道理に暗いと弾劾したが、吏部は王軏が官に在って質素で、士大夫の模範であると述べた。帝は龔湜の妄言を責めた。久しくして、そのまま兵部に転じ、機務に参与した。詔により将材を推挙せよとの命があり、鄭卿・沈希儀ら二十一人を推薦し、皆抜擢任用された。四年在任した後、老齢を理由に罷免を請願した。上疏の中に享年を記したが、帝は君主に対する礼に適わないとして、官籍を削り庶民に落とした。久しくして死去した。

原文以兵部尚書李承勛薦,起故官,總督倉場。再遷南京戶部尚書。御史龔湜劾軏老悖;吏部言軏居官儉素,搢紳儀表。帝乃責湜妄言。久之,就改兵部,參贊機務。詔舉將材,薦鄭卿、沈希儀等二十一人,皆擢用。居四年,以老乞罷。疏中言享年若干,帝以為非告君體,勒為民。久之卒。

徐問は、字を用中といい、武進の人である。弘治十五年(1502年)の進士となり、広平推官に任じられた。刑部主事に遷り、兵部を歴任し、出て登州知府となった。地は海に臨み賊が多かったが、徐問はこれを悉く捕らえた。臨江に転任した。損壊した堤防七十二箇所を修築した。長蘆塩運使に転じた。塩運司は従来利の巣窟であり、自らを潔白とする者は好んで居ようとしなかった。徐問は「私はこの官を清くしたい」と言い、任期終了まで一銭も取らなかった。累進して広東左布政使となった。

原文徐問,字用中,武進人。弘治十五年進士。授廣平推官。遷刑部主事,歷兵部,出為登州知府。地濱海多盜,問盡捕之。調臨江。修築壞堤七十二。轉長蘆鹽運使。運司故利藪,自好者不樂居。問曰:「吾欲清是官也。」終任不取一錢。累遷廣東左布政使。

嘉靖十一年(1532年)、治績が卓異であるとして、右副都御史に任じられ、貴州を巡撫した。独山州の賊蒙鉞が父を弑しいして乱を起こした。徐問は南丹・泗城が逆賊を助けようとしていると聞き、広西の巡撫・巡按に檄を飛ばしてその謀を挫かせた。また蒙鉞の弟釗に檄を飛ばし父の仇を討たせ、事が平定されたら承襲させるとした。蒙鉞は援軍を絶たれた。徐問は大軍を督して分道より進入し、これを誅殺した。捷報が聞こえると、金と綺を賜わり、召されて兵部右侍郎となった。武備に関する八事を上疏して陳述した。また言上した。「両広・雲南・貴州は半分が土司であり、深山密林は、瑶・僮・羅・僰の窟穴である。辺境の将軍は功を喜んで事を起こし、掃穴の挙を好む。王師が入るたびに、大悪人は潜み、誅戮される者は概ね罪なき赤子である。大兵を興し、厚い兵糧を費やして、罪なき命と引き換えにするのは、陛下の好生の御心に適わない。辺境の臣に威信を布き、要害を厳重にし、哨探を謹ませ、それぞれ辺境を安んじて、禍の萌芽を絶つべきである。」帝は深くその言を容れた。まもなく病気を理由に帰郷した。二十一年(1542年)、召されて南京礼部侍郎となった。久しくして、そのまま戸部尚書に遷った。再び病気を理由に辞去し、家で死去した。

原文嘉靖十一年以治行卓異,拜右副都御史,巡撫貴州。獨山州賊蒙鉞弒父為亂。問聞南丹、泗城欲助逆,檄廣西撫按伐其謀。又檄鉞弟釗復父仇,事平得承襲。鉞援絕。問督大兵分道入,誅之。捷聞,賜金綺,召為兵部右侍郎。疏陳武備八事。又言:「兩廣、雲、貴半土司,深山密菁,瑤、僮、羅、僰所窟穴。邊將喜功召釁,好為掃穴之舉。王師每入,巨憝潛蹤,所誅戮率無辜赤子。興大兵,費厚餉,以易無辜命,非陛下好生意。宜敕邊臣布威信,嚴厄塞,謹哨探,使各安邊境,以絕禍萌。」帝深納其言。尋引疾歸。二十一年,召為南京禮部侍郎。久之,就遷戶部尚書。復引疾去,卒於家。

徐問は清廉な節操をもって自らを励ました。官に在ること四十年、粗末な家屋は寂として、田は百畝に満たなかった。学を好んで倦まず、純粋に深く造詣し、士人の模範とされた。隆慶初年(1567年)、諡を荘裕と賜わった。

原文問清節自勵。居官四十年,敝廬蕭然,田不滿百畝。好學不倦,粹然深造,為士類所宗。隆慶初,謚莊裕。

張邦奇は、字を常甫といい、鄞の人である。十五歳の時に『易解』及び『釈国語』を著した。弘治末年(1505年)の進士に及第し、庶吉士に改められ、検討に任じられた。出て湖広提学副使となった。下教して言った。「学が孔子・顔回のようでなく、行が曾子・閔子騫のようでなければ、たとえ文が揚雄・王褒のようであっても、私はこれを斥けよう。」在任三四年、諸生は競って励んだ。当時世宗はまだ興世子であり、献皇(興献王)が就試させようとした。そこで特別に二つの机を設け、自らは北に座り、世子を南に座らせた。文が成ると、入学させた。世宗はこれによって張邦奇を知った。嘉靖初年、四川提学となり、親孝行のため帰郷を請願した。久しくして、桂萼が銓衡を掌り、天下の提学官を去留する際、張邦奇を福建に起用した。まもなく、外僚から選ばれて坊局に入り、右庶子に改められ、南京祭酒に遷った。自らを以て教えとし、学規は整然としていた。そのまま吏部侍郎に遷った。父の喪に服して帰郷した。

原文張邦奇,字常甫,鄞人。年十五作《易解》及《釋國語》。登弘治末年進士,改庶吉士,授檢討。出為湖廣提學副使。下教曰:「學不孔、顏,行不曾、閔,雖文如雄、褒,吾且斥之。」在任三四年,諸生競勸。時世宗方為興世子,獻皇遣就試。乃特設兩案,己居北而使世子居南。文成,送入學。世宗由此知邦奇。嘉靖初,提學四川,以親孝乞歸。久之,桂萼掌銓,去留天下提學官,起邦奇福建。未幾,選外僚入坊局,改右庶子,遷南京祭酒。以身為教,學規整肅。就遷吏部侍郎。丁外艱歸。

帝は嘗て太后を奉じて天寿山の諸陵に謁し、宰相を選ぶことに言及した。太后曰く、「先皇嘗て提学張邦奇の器識を言い、他日宰相と為す可しと、其の人安在ぞ」と。帝は憬然として曰く、「未だ用いざるなり」と。服闋して、即ち召して吏部右侍郎と為し、部事を掌らしむ。善類を推轂し、人以て私を以て干すべからず。銓部の升除は、多く政府の教えを受く、邦奇独り然らず、大学士李時之を銜む。郭勛の家人法を犯し、重賄を舁げて寛恕を請う、邦奇従わず。帝は即ち邦奇に尚書を授けんと欲す、両人の沮止する所と為る。尋いで翰林院事を掌るに改め、日講官を充て、太子賓客を加え、詹事府を掌るに改む。九載考績して、礼部尚書に晋す。母老いて便養を欲するを以て、乃ち南京吏部に改む。復た兵部に改め、機務に参賛す。帝猶お邦奇を念い、時に厳嵩と語りて之に及ぶ。嵩曰く、「邦奇性至孝にして、母老い、北来を楽しまず」と。帝其の言を信じ、遂に召さず。二十三年卒す、年六十一。太子太保を贈り、文定と謚す。

原文帝嘗奉太后謁天壽諸陵,語及擇相。太后曰:「先皇嘗言提學張邦奇器識,他日可為宰相,其人安在?」帝憬然曰:「尚未用也。」服闋,即召為吏部右侍郎,掌部事。推轂善類,人不可幹以私。銓部升除,多受教政府,邦奇獨否,大學士李時銜之。郭勛家人犯法,舁重賄請寬,邦奇不從。帝欲即授邦奇尚書,為兩人沮止。尋改掌翰林院事,充日講官,加太子賓客,改掌詹事府。九載考績,晉禮部尚書。以母老欲便養,乃改南京吏部。復改兵部,參贊機務。帝猶念邦奇,時與嚴嵩語及之。嵩曰:「邦奇性至孝,母老,不樂北來。」帝信其言,遂不召。二十三年卒,年六十一。贈太子太保,謚文定。

邦奇の学は程・朱を宗とす。王守仁と善く友とし、而して語毎に合わず。躬を修め力を践み、跬歩必ず謹む。昼の為す所、夕べ必ず冊に書す。性篤孝にして、親を養うを故とし、屡起して輒ち退く。其の母は邦奇の後に卒し、寿百歳に至る。邦奇寡嫂に事うること母に事うるが如し。著す所の『学庸伝』、『五経説』及び文集、粹然として一に正に出づ。

原文邦奇之學以程、朱為宗。宗王守仁友善,而語每不合。躬修力踐,跬步必謹。晝之所為,夕必書於冊。性篤孝,以養親故,屢起輒退。其母後邦奇卒,壽至百歲。邦奇事寡嫂如事母。所著《學庸傳》、《五經說》及文集,粹然一出於正。

族父時徹、邦奇より二十歳少く、邦奇に業を受く。仕えて南京兵部尚書に至る。文名有り。

原文族父時徹,少邦奇二十歲,受業於邦奇。仕至南京兵部尚書。有文名。

韓邦奇、字は汝節、朝邑の人。父紹宗、福建副使。邦奇は正徳三年の進士に登り、吏部主事に除され、員外郎に進む。六年冬、京師地震す、上疏して時政の闕失を陳ぶ。旨に忤い、報いず。会すに給事中孫禎等、臣僚の職に不なる者を劾し、並びに邦奇に及ぶ。吏部已に留むるを議す、帝竟に前疏の故を以て、黜して平陽通判と為す。浙江僉事に遷り、杭・厳二府を轄す。宸濠、内豎に令して僧に飯するを仮り、千人を杭州天竺寺に聚む、邦奇立ち散遣す。其の儀賓、進貢を托して衢州に仮道す、邦奇之を詰めて曰く、「入貢は当に江に沿いて下るべし、奚ぞ自ら仮道する、帰りて王に語れ、韓僉事は誑すべからざるなり」と。

原文韓邦奇,字汝節,朝邑人。父紹宗,福建副使。邦奇登正德三年進士,除吏部主事,進員外郎。六年冬,京師地震,上疏陳時政闕失。忤旨,不報。會給事中孫禎等劾臣僚不職者,並及邦奇。吏部已議留,帝竟以前疏故,黜為平陽通判。遷浙江僉事,轄杭、嚴二府。宸濠令內豎假飯僧,聚千人於杭州天竺寺,邦奇立散遣之。其儀賓托進貢假道衢州,邦奇詰之曰:「入貢當沿江下,奚自假道?歸語王,韓僉事不可誑也。」

時に中官浙に在る者凡そ四人、王堂は鎮守と為り、晁進は織造を督し、崔泬は市舶を主り、張玉は営造を管む。爪牙四出し、民聊生すべからず。邦奇疏を上して禁止を請い、又数たび堂を裁抑す。邦奇中官の富陽の茶魚を采るを閔み、民の害と為るを以て、歌を作りて之を哀む。堂遂に邦奇が上供を沮格し、歌を作りて怨謗すと奏す。帝怒り、京に逮し、詔獄に下す。廷臣論救す、皆聴かず、民に斥く。

原文時中官在浙者凡四人,王堂為鎮守,晁進督織造,崔泬主市舶,張玉管營造。爪牙四出,民不聊生。邦奇疏請禁止,又數裁抑堂。邦奇閔中官采富陽茶魚為民害,作歌哀之。堂遂奏邦奇沮格上供,作歌怨謗。帝怒,逮至京,下詔獄。廷臣論救,皆不聽,斥為民。

嘉靖初、山東参議として起用さる。乞休して去る。尋いで薦を用い、故官を以て山西に蒞る。再び乞休して去る。四川提学副使として起用され、入りて春坊右庶子と為る。七年、同官の方鵬と偕に応天郷試を主り、試録謬誤に坐し、南京太僕丞に謫せらる。復た帰を乞う。山東副使として起用され、大理丞に遷り、少卿に進み、右僉都御史として宣府を巡撫す。入りて院事を佐け、右副都御史に進み、遼東を巡撫す。時に遼陽兵変有り、侍郎黄宗明、邦奇素に威望有りと言い、便宜を仮りて速かに往き乱を定めんことを請う。帝方に姑息を事とし、従わず、山西巡撫任洛と官を換えしむ。山西に至り、政を厳粛に為し、有司の供具悉く納れず、間日に出でて俸米を以て肉一斤を易う。四年居り、疾を引いて帰る。

原文嘉靖初,起山東參議。乞休去。尋用薦,以故官蒞山西。再乞休去。起四川提學副使,入為春坊右庶子。七年偕同官方鵬主應天鄉試,坐試錄謬誤,謫南京太僕丞。復乞歸。起山東副使,遷大理丞,進少卿,以右僉都御史巡撫宣府。入佐院事,進右副都御史,巡撫遼東。時遼陽兵變,侍郎黃宗明言邦奇素有威望,請假以便宜,速往定亂。帝方事姑息,不從,命與山西巡撫任洛換官。至山西,為政嚴肅,有司供具悉不納,間日出俸米易肉一斤。居四年,引疾歸。

中外交えて薦し、故官を以て河道を督し起用さる。刑部右侍郎に遷り、吏部に改む。南京右都御史に拝し、兵部尚書に進み、機務に参賛す。致仕して帰る。三十四年、陝西地大いに震い、邦奇隕す。太子少保を贈り、恭簡と謚す。

原文中外交薦,以故官起督河道。遷刑部右侍郎,改吏部。拜南京右都御史,進兵部尚書,參贊機務。致仕歸。三十四年,陜西地大震,邦奇隕焉。贈太子少保,謚恭簡。

邦奇性学を嗜む。諸経・子・史及び天文・地理・楽律・術数・兵法の書より、通究せざる無し。著述甚だ富めり。撰する所の『誌楽』、尤も世に称せらる。

原文邦奇性嗜學。自諸經、子、史及天文、地理、樂律、術數、兵法之書,無不通究。著述甚富。所撰《誌樂》,尤為世所稱。

弟邦靖、字は汝度。年十四郷に挙げらる。邦奇と同く進士に登り、工部主事に授かる。浙江に木を榷し、額充たず、劾せらる、守官廉なるを以て免る。員外郎に進む。乾清宮災有り、時政を指斥すること甚だ切なり。武宗大いに怒り、之を詔獄に下す。給事中李鐸等以て言う有り、乃ち職を奪いて民と為す。世宗即位し、山西左参議として起用され、大同を分守す。歳饑え、人相食む、帑を発するを奏請す、許さず。復た疏を抗して千余言、報いず。帰を乞い、命を待たずして輒ち行く。軍民道を遮り泣き留む。家に抵り病み卒す、年三十六。未だ幾からず、邦奇亦た参議を以て大同に蒞る。父老邦靖の故に因り、前に迎え、皆泣下す。邦奇亦た泣く。

原文弟邦靖,字汝度。年十四舉於鄉。與邦奇同登進士,授工部主事。榷木浙江,額不充,被劾,以守官廉得免。進員外郎。乾清宮災,指斥時政甚切。武宗大怒,下之詔獄。給事中李鐸等以為言,乃奪職為民。世宗即位,起山西左參議,分守大同。歲饑,人相食,奏請發帑,不許。復抗疏千餘言,不報。乞歸,不待命輒行。軍民遮道泣留。抵家病卒,年三十六。未幾,邦奇亦以參議蒞大同。父老因邦靖故,前迎,皆泣下。邦奇亦泣。

邦奇嘗て廬居し、病み歳余り起つ能わず。邦靖薬必ず分ち嘗め、飲食皆手進す。後邦靖病亟し、邦奇日夜弟を把りて泣き、衣を解かざること三月。及び歿し、衰绖蔬食し、喪を終えるまで懈らず。郷人為に「孝弟碑」を立つ。

原文邦奇嘗廬居,病歲餘不能起。邦靖藥必分嘗,食飲皆手進。後邦靖病亟,邦奇日夜持弟泣,不解衣者三月。及歿,衰绖蔬食,終喪弗懈。鄉人為立「孝弟碑」。

周金、字は子庚、武進の人。正徳三年の進士。工科給事中に授かる。累遷して戸科都給事中と為る。疏を上して言う、「京糧歳に入る三百五万、而して食する者乃ち四百三万、当に痛く澄汰すべし。中官の仏を迎え及び織造を監する者の濫りに引塩を乞う、道路に暴横す、当に罷むべし。都督馬昂妊める女弟を納る、当に昂を誅し而して其の女を還すべし」と。朝議土魯番に用兵し、復た哈密す。金言う、西辺虚憊し、而して土魯番険遠く、且つ青海の寇西寧を窺伺す、哈密を計うるに宜しからずと。已にして、卒に金の議に従う。

原文周金,字子庚,武進人。正德三年進士。授工科給事中。累遷戶科都給事中。疏言:「京糧歲入三百五萬,而食者乃四百三萬,當痛為澄汰。中官迎佛及監織造者濫乞引鹽,暴橫道路,當罷。都督馬昂納有妊女弟,當誅昂而還其女。」朝議用兵土魯番,復哈密。金言西邊虛憊,而土魯番險遠,且青海之寇窺伺西寧,不宜計哈密。已,卒從金議。

嘉靖元年、太僕寺少卿より都察院右僉都御史に遷り、延綏を巡撫す。辺人甚だ貧し。金為に商を招き粟を聚め、広く屯し芻を積み、時に其の食を給す。宣府を撫するに改め、右副都御史に進む。大同の叛卒張文錦を殺し、辺鎮の兵皆驕る。宣府総督侍郎馮清苛刻なり。諸軍糧を請うも従わず、且つ之を鞭たんと欲す、衆轟然として清の府署を囲む。金方に病み、出でて院門に坐し、諸軍官を召して之を数えて曰く、「是れ若輩の剥削の過ちなり」と。痛く之を鞭たんと欲す。軍士気稍平らぎ、擁して前に進み請うて曰く、「総制我を恤わざるのみ」と。金従容として利害を以て諭す、衆乃ち散解して去り、変を得ず。保定を撫するに改む。巡按御史李新芳、広平知県の己を謀るを疑い、之を抶せんと欲す。知府之が為に解く、並びに知府を執せんと欲し、兵二千を発して之を捕う。知府及び佐貳皆走り、一城尽く空し。金其の罪状を発す、而して都御史王廷相新芳を庇い、之と相争う。帝卒に新芳を刑部に下し、官を黜す。金兵部右侍郎に遷る。未だ幾からず、右都御史に進み、漕運を総督し、鳳陽諸府を巡撫す。久しくして、南京刑部尚書に擢げ、就いて戸部に転ず。二十四年致仕して帰り、歳余り卒す。太子太保を贈り、襄敏と謚す。

原文嘉靖元年由太僕寺少卿遷都察院右僉都御史,巡撫延綏。邊人貧甚。金為招商聚粟,廣屯積芻,以時給其食。改撫宣府,進右副都御史。大同叛卒殺張文錦,邊鎮兵皆驕。宣府總督侍郎馮清苛刻。諸軍請糧不從,且欲鞭之,眾轟然圍清府署。金方病,出坐院門,召諸軍官數之曰:「是若輩剝削之過!」欲痛鞭之。軍士氣稍平,擁而前請曰:「總制不恤我耳!」金從容諭以利害,眾乃散解去,得無變。改撫保定。巡按御史李新芳疑廣平知縣謀己,欲抶之。知府為之解,並欲執知府,發兵二千捕之。知府及佐貳皆走,一城盡空。金發其罪狀,而都御史王廷相庇新芳,與相爭。帝卒下新芳刑部,黜官。金遷兵部右侍郎。未幾,進右都御史,總督漕運,巡撫鳳陽諸府。久之,擢南京刑部尚書,就轉戶部。二十四年致仕歸,歲餘卒。贈太子太保,謚襄敏。

吳嶽、字は汝喬、汶上の人。嘉靖十一年の進士。戸部主事を授かり、郎中を歴任す。宣府にて糧餉を督し、吏が羨金数千を進むるも、これを拒む。出でて廬州府の知府となる。税課は歳に万金、例として府に輸す、嶽は以て郵伝の費に代ふ。西山の薪は故より官爨に供す、嶽は弛めて以て民に利す。憂ひによりて去る。服除き、保定に改め、治むること廬州の如し。山西副使・浙江参政・湖広按察使・山西右布政使を歴任し、並びに清静を以て民を得る。右僉都御史に遷り、保定六府を巡撫す。征発の冗費を裁すこと十六七を奏し、民力遂に寬ぐ。甫く一歳を浹し、疾を引いて去る。久しくして、貴州巡撫を以て征ぜらる。尋いで左副都御史に進み、院事を協理す。隆慶元年、吏部左・右侍郎を歴任す。京察竣り、給事中胡應嘉、申救する所あり。嶽、内閣に詣り抗聲して曰く、「科臣敢へて考察罷黜の官を留む、故事有りや」と。應嘉遂に譴を得る。南京禮部尚書に遷り、就いて吏部に改む。浮薄を抑へ、僥幸を杜ぎ、南都の縉紳之を憚る。疏を上して六事を陳ぶ、帝頗る其の言を納る。尋いで兵部に改め、機務に参贊す。未だ上せず、給由して家を過ぎ、病にて卒す。詔して太子太保を贈り、謚して介肅と曰ふ。

原文吳嶽,字汝喬,汶上人。嘉靖十一年進士。授戶部主事,歷郎中。督餉宣府,吏進羨金數千,拒之。出知廬州府。稅課歲萬金,例輸府,嶽以代郵傳費。西山薪故供官爨,嶽弛以利民。以憂去。服除,改保定,治如廬州。歷山西副使、浙江參政、湖廣按察使、山西右布政使,並以清靜得民。遷右僉都御史,巡撫保定六府。奏裁征發冗費十六七,民力遂寬。甫浹歲,引疾去。久之,以貴州巡撫征。尋進左副都御史,協理院事。隆慶元年,歷吏部左、右侍郎。京察竣,給事中胡應嘉有所申救。嶽詣內閣抗聲曰:「科臣敢留考察罷黜官,有故事乎?」應嘉遂得譴。遷南京禮部尚書,就改吏部。抑浮薄,杜僥幸,南都縉紳憚之。上疏陳六事,帝頗納其言。尋改兵部,參贊機務。未上,給由過家,病卒。詔贈太子太保,謚介肅。

嶽の清望は一時に冠たり、躬を禔ひ嚴整なり。尚書馬森、平生に廉節の士二人を見ると言ふ、嶽と譚大初のみ。嶽、廬州を知る時、王廷、蘇州を守り、公事を以て京口に遇ふ。嶽、召して金山に遊ばしめ、酒一缶、肉一斤、菜數束を携ふ。廷笑ひて曰く、「止むるは是のみか」と。嶽亦笑ひて曰く、「足りて我が兩人の食を供す」と。歡び竟日にして還る。廬を去る日、一蓋を假りて雨を禦ひ、至れば即ち命じて之を還す。

原文嶽清望冠一時,禔躬嚴整。尚書馬森言平生見廉節士二人,嶽與譚大初耳。嶽知廬州時,王廷守蘇州,以公事遇京口。嶽召為金山遊,攜酒一缶,肉一斤,菜數束。廷笑曰:「止是乎?」嶽亦笑曰:「足供我兩人食矣。」歡竟日而還。去廬日,假一蓋禦雨,至即命還之。

譚大初、字は宗元、始興の人。嘉靖十七年の進士。工部主事を授かる。憂ひによりて歸る。起して戸部を補し、戸科給事中に改む。數へて事を論ず。兵科左給事中を歴任し、出でて江西副使となる。軍を清むるに、釋く所多し。御史孫慎、失額を以て疑ふ、大初曰く、「失額の罪は小なり、民を殃す罪は大なり」と。嚴嵩の親黨、民田を奪ふ、之を治むるに少も貸さず。廣西右參政に遷り、劾を投じて歸る。久しくして、故官河南に起す。未だ上せず、南京右通政に擢でらる。俄かに應天府尹に遷る。将に南都に赴かんとす、而して穆宗即位し、參政を以て致仕せんことを乞ふ、許さず。隆慶元年召されて工部右侍郎を拜し、尋いで戶部左侍郎に遷り、倉場を督す。海瑞、僉都御史となる、大初力めて瑞を薦む。已にして屢疏して乞休す、允さず。南京戶部尚書を拜し、疾を引いて去る。家に居る、田百畝に及ばず。卒す年七十五。謚して莊懿と曰ふ。

原文譚大初,字宗元,始興人。嘉靖十七年進士。授工部主事。憂歸。起補戶部,改戶科給事中。數論事。歷兵科左給事中,出為江西副使。清軍,多所釋。御史孫慎以失額為疑,大初曰:「失額罪小,殃民罪大。」嚴嵩親黨奪民田,治之不少貸。遷廣西右參政,投劾歸。久之,起故官河南。未上,擢南京右通政。俄遷應天府尹。將赴南都,而穆宗即位,乞以參政致仕,不許。隆慶元年召拜工部右侍郎,尋遷戶部左侍郎,督倉場。海瑞為僉都御史,大初力薦瑞。已而屢疏乞休,不允。拜南京戶部尚書,引疾去。家居,田不及百畝。卒年七十五。謚莊懿。

贊して曰く、正・嘉の際に當り、士大夫方きを刓りて圓となし、其の素履を貶し、羔羊素絲の節浸くに微し。陶琰諸人清操峻特、卓然として風とす可し。南都の列卿、後先相望み、其れ賢ならずや。琰の漕を督し、充嗣の守禦、良永の錢寧を遏ぎ、周金の亂卒を弭ぐ、立てる所甚だ偉なり。琰の子の直節、廷弼・邦靖の篤行に至りては、尤も其の父兄に忝かざるなり。

原文贊曰:當正、嘉之際,士大夫刓方為圓,貶其素履,羔羊素絲之節浸以微矣。陶琰諸人清操峻特,卓然可風。南都列卿,後先相望,不其賢乎。琰之督漕,充嗣之守禦,良永之遏錢寧,周金之弭亂卒,所豎立甚偉。至琰子之直節,廷弼、邦靖之篤行,尤無忝其父兄雲。