明史

列傳第八十七 李鉞 王憲 胡世寧 李承勛 王以旂 范鏓 王邦瑞 鄭曉

○李鉞(子惠) 王憲 胡世寧(子純)(繼) 李承勛 王以旂 范鏓掞 王邦瑞(子正國) 鄭曉

李鉞

李鉞、字は虔甫、祥符の人。弘治九年の進士。御史に任ぜられる。中城を巡視し、河東の塩政を管理し、歴任して名声と実績があった。正徳に改元し、天鳴り星変ず。同官とともに数事を陳べ、中官李興・寧謹・苗逵・高鳳等の罪を論じ、尚書李孟抃・都督ととく神英を斥けることを請うた。武宗は用いなかった。喪により帰郷す。劉瑾は鉞がその党を弾劾したことを憎み、他事を仮りて米五百石を罰して辺境に輸送させた。瑾敗れて、故官に起用され、出て鞏昌知府となり、まもなく四川副使に遷る。巡撫林俊は鉞に副使何珊とともに流賊方四等を討伐することを委ね、金を賜い俸を加えられた。陜西按察使に遷り、右僉都御史に擢て山西を巡撫す。寇が白羊口に入る。鉞は宣府・大同に備え有りと推し、必ずや岢嵐・五臺の間を窺うべしと、すみやかに戦守の策を画す。寇は果たして岢嵐を犯す。鉞は延綏の援将安国・杭雄とともにこれを破る。俸一級を加えられる。まもなく内寇武廷章等を討平す。召されて院事を理む。

世宗即位し、兵部左・右侍郎を歴任し、出て陜西三辺の軍務を総制す。鉞は軍旅に長け、敵を料ること多く中る。初めて固原に至り、寇が侵入し、援兵未だ集まらず。鉞は諸営門を大いに開き、昼夜閉ざさずと下令す。寇は備え有りと疑い、敢えて逼ることをせず。乃ち砲撃す。寇は引き去る。その間に墩堡を増築し、烽堠を謹み、儲蓄を広め、壮勇を選び備えとす。未だ幾ばくもせず、寇また深く平涼・邠州に入る。鉞は遊撃時陳・周尚文等に命じ、要害に分かれて伏せその帰路を遏ち、斬獲多くす。鉞は寇が利を失えば必ず東に延綏を犯すべく策し、諸将に檄して伏兵を設け待たしむ。寇果たして至り、また敗れ去る。已にして言官が邠州の失事の罪を論じ、総兵官劉淮・巡撫王珝等を罷免することを請い、併せて鉞に及ぶ。詔して淮の職を奪い、鉞に後効を図ることを責む。鉞は自ら劾して休むことを乞う。許されず。盗賊楊錦等が延綏を剽掠し、指揮翟相を殺す。鉞はこれを討ち擒らう。嘉靖二年、塞上に警無きを以て召還さる。給事中劉世揚は鉞を陜西に留め、諸辺の巡撫を久任することを請う。帝ついに鉞を召し、右都御史に進め、漕運を総督し、鳳陽諸府を巡撫せしめ、入って都察院事を掌る。

四年、金献民に代わり兵部尚書となり団営を兼ねて督す。中官刁永等多く陳乞す。帝は皆これを許す。また司礼扶安の家の八人を録して錦衣の官とす。南京守備は已に三人なれど、また卜春を添註して以て往かしむ。禦馬監閻洪、軍政に因りて、自ら騰驤四衛及び牧馬所の官を考課することを請う。鉞累疏して力争す。帝は皆納れず、遂に抗旨を以て責め、状に対せしむ。鉞は罪を引きて乃ち罷む。武定侯郭勛、会武宴に尚書の下に列せられたるを以て、疏を争う。鉞言う、「中府官に会武宴有るは、礼部に恩栄宴有るが如し。恩栄は礼部を主とし、会武は中府を主とす。故に皆諸尚書の次に列す。宴図徴すべく、団営の故事を引くべからず」と。帝竟に勛の言に従う。錦衣革職百戸李全、復任を乞うて奏す。鉞はその違旨の罪を治むることを請う。帝は問わず。ここにおいて官旗鄭彪等皆全の例に援いて以て請う。鉞は初めの如く執奏す。而して疏に「猿攀狐媚」の語有り。帝これを悪み、また状に対することを責め、俸一箇月を奪う。

鉞は既に屡諫して用いられず、上意を失い、且つ近幸に嫉まれるを知る。会いて病む。すなわち再び疏を上して休むことを乞う。馳驛を許される。未だ行かずして卒す。太子少保を贈られ、官を遣わして喪を護り帰葬せしむ。久しくして、謚を賜いて恭簡と曰う。

子惠、正徳十二年の進士、官は行人。武宗の南巡を諫め、廷杖に死す。監察御史を贈られる。

王憲

王憲、字は維綱、東平の人。弘治三年の進士。阜平・滑の二県の知県を歴任す。召されて御史に拝せらる。正徳初め、大理寺丞に擢てられる。右僉都御史に遷る。甘肅の屯田を清理す。右副都御史に進み、遼東を巡撫す。鄖陽・大同を歴任す。応州にて寇を禦いだ功により、錦衣を蔭し、世襲百戸とす。戸部右侍郎に遷り、改めて陜西を撫し、入って兵部右侍郎となる。近畿に盗賊起こる。太監張忠・都督朱泰とともにこれを捕らえ、また功により錦衣を蔭す。武宗南征し、戸・兵・工三部の郎中各一人を率いて軍儲を督理することを命ぜらる。駕旋りし、中旨を以て王瓊に代わり兵部尚書となる。世宗即位し、給事中史道に劾せられて罷む。

嘉靖四年、廷推して鄧璋及び憲を三辺総制とす。言官は不可とす。帝竟に憲を用う。部将王宰・史経連ねて寇を破る。璽書を以て褒諭す。吉囊数万騎、河を渡り石臼墩より深入す。憲は総兵官鄭卿・杭雄・趙瑛等を督し、要害に分かれて拠りこれを撃ち、都指揮卜雲その帰路を断つ。寇青羊嶺に至り、大いに敗れて去る。五日に四捷し、首級三百余を斬り、馬駝器仗を獲ること算無し。帝大いに喜び、憲に太子太保を加え、また一子に蔭を与う。ここに至り、凡そ三たび錦衣世百戸を蔭す。中官陜西にて花絨を織らしむ。憲はこれを罷むることを請う。また九廟成るに因り、議礼に得罪せる者を釈放して還すことを請う。頗る士大夫に称せらる。張璁・桂萼、王瓊を用いて総制とせんと欲し、乃ち憲を改めて南京兵部尚書とす。已にして、入って左都御史となる。朔州急を告ぐ。廷推して憲に宣府・大同を総督せしむ。憲は行くことを肯わず、曰く、「我甫に中臺に入る。何ぞ見て駆りて亟きや」と。給事中夏言・趙廷瑞、憲が疾を托して難を避くると劾す。また罷めて帰る。

未だ幾ばくもせず、帝憲を追念し、召して兵部尚書とす。小王子入寇す。平戎及び諸辺の防禦事宜を条上す。また京営分伍操練法を立て、諸将内府に供事するを藉りて、営操を規避することを得ざらしむることを請う。帝皆嘉納す。旧制、軍功論叙に、生擒・斬首・当先・殿後・奇功・頭功諸等有り。その後濫冒日多くす。憲は軍功襲替の格を定め、永楽より正徳に至り、その軽重大小の差を酌み、臚列して上る。詔してこれを『会典』に著し成式とす。まもなく団営を兼ねて督す。西番諸国来貢し、王号を称する者百余人。憲は礼臣夏言等とともに成化・弘治間の例の如く、答敕は国王一人に止め、なお貢期・人数を限ることを請う。議乃ち定まる。

大同に兵変起こる。憲は初め首乱は誅すべく、余は散遣すべしと言う。而して大学士張孚敬と総督劉源清は力を用兵に主とす。憲は乃ち敢えて前議を堅くせず。源清城を攻めて下さず、北寇また内侵す。別に大臣を遣わして北寇を禦がしめ、己は専ら城を攻むることを得んことを請う。憲もまたその奏に従うことを議す。論者多く憲を尤む。会いて帝、大同は重鎮にして破壊すべからざるを悟り、乃ちその事を寝め、乱もまた旋って定まる。源清竟に罪を得て去る。数年居りて、憲は年を引いて帰り、卒す。少保を贈られ、謚して康毅と曰う。子汝孝、副都御史。『丁汝夔伝』に見ゆ。

胡世寧

胡世寧は、字を永清といい、仁和の人である。弘治六年の進士。性質剛直にして、強きを畏れず、かつ兵事を知る。徳安推官に任ぜられる。岐王が初めて藩国に就くに当たり、従官驕慢なりしも、世寧これを裁く。他日また湖田を請うも、持して許さず。南京刑部主事に遷る。詔に応じて辺備十策を陳じ、また上書して時政の闕失を極言す。時に孝宗既に不なりしも、なおこれを頷く。再び郎中に遷る。李承勛・魏校・余祐と善し、時に「南都四君子」と称せらる。

広西太平知府に遷る。太平知州李濬は数たび吏民を殺掠す。世寧は密かに龍英知州趙元瑤に檄してこれを擒えしむ。思明の叛族黄文昌は四世にわたり知府を殺し、三州二十七村を占拠す。副総兵康泰は世寧とともに思明に入り、その兄弟三人を執る。しかるに泰は文昌を畏れて夜遁し、世寧を空城中に委ね、危うきこと甚だし。諸土酋は世寧を徳とし、兵を発して援け、ここに得て還る。文昌は懼れ、侵したる地を帰し、降る。土官の承襲に、長吏は率ね賄を要して時に奏せず、これにより諸酋怨叛す。世寧は令して曰く「子を生むや即ち府に聞け。世及すべき者は、年十歳以上、朔望に府に謁せよ。父兄に故あれば、籍を按じて官を朝に請え」と。土官大いに悦ぶ。

母喪により帰る。服闋して京に赴く。道すがら滄州にて、流寇城を攻むること急なり。世寧は即ち馳せて城に入り、防守の計を画す。賊七昼夜攻むるも抜くこと能わず、引き去る。再び宝慶府を知る。岷王及び鎮守中官王潤は皆厳しくこれを憚る。江西副使に遷る。都御史俞諫と策を画して盗を擒え、王浩八を討平す。暇を以て広昌・南豊・新城を城す。当是の時、寧王宸濠驕横にして異志あり、敢えて言う者なし。世寧憤ること甚だし。正徳九年三月、疏を上りて曰く「江西の盗は、剿撫二説相持す。臣愚、以て決するに難き無しと為す。既に撫せられたる者は誅せず、再叛する者は赦す毋れ、初めて起る者は亟に剿す、是の如きのみ。顧みるに江西の患は盗賊に非ず。寧府の威日々に張り、不逞の徒群聚して以て非法に導き、上下諸司承奉すること過ぎたり。数たび火災を仮りて民の廛地を奪い、采辦旁郡を擾し、蹂籍窮郷に遍し。臣恐らくは良民安んぜず、皆起ちて盗と為らん。臣下は禍を畏れ、多く二心を懐く。礼楽刑政漸く朝廷より出ずるに非ざらん。請う、都御史俞諫・任漢中に於て一人を専ら委ね、或いは別に公忠の大臣を選び鎮撫せしめよ。王に勅して其の国を治むるに止め、有司を撓さしむること毋れ。以て乱の源を靖め、意外の変を銷せん」と。章下る兵部。尚書陸完議して、諫をして賊情を計り撫剿の宜を往かしむ。至る所の言う違制擾民は、偽托に出づるを疑う、宜しく王をしてこれを約束せしむべしと。旨を得て報可す。宸濠聞き、大いに怒る。世寧の罪を列ね、遍く権幸に賂し、必ず世寧を殺さんとす。章下る都察院。右都御史李士実は宸濠の党なり、左都御史石玠等と上言し、世寧狂率治むべしと。命未だ下らざるに、宸濠の奏また至り、世寧を指して妖言と為す。ここに命じて錦衣官校に世寧を逮捕せしむ。世寧は既に福建按察使に遷り、道を取って里に還る。宸濠ここに世寧を誣って逃ぐと為し、馳せて使をして浙江巡按潘鵬に令し、執りて江西に送らしむ。鵬は尽く世寧の家人を系し、急に索む。李承勛は按察使たり、これを保護す。世寧ここに亡命して京師に抵り、自ら錦衣の獄に投ず。獄中三たび上書して宸濠の逆状を言うも、卒に省みられず。歳余を系がる。言官程啓充・徐文華・蕭鳴鳳・邢寰等交章して救い、楊一清また危言を以て錢寧を動かす。ここに瀋陽に謫戍せらる。

四年居る。宸濠果たして反す。世寧は戍中より起ちて湖広按察使と為る。尋いで右僉都御史に擢げられ、四川を巡撫す。道すがら世宗即位を聞き、疏を以て司馬光の仁・明・武の三言を進め、因りて魏校・何瑭・邵鋭を講官に、林俊・楊一清・劉忠・林廷玉を輔弼に、知府劉蒞・徐鈺は先に諫官として直声あり、擢用すべしと薦む。時に其の言を韙とす。松潘の所部熟番は、将吏久しく制すること能わず、率ね貨を輸して以て道を仮る。番は官軍を殺すも、憚れて敢えて詰めず。官軍は番を殺せば、輒ち罪に抵る。世寧は方略を陳じ、将を選び兵を益し、賞罰の格を立て、隠匿の禁を厳にし、烽堠を修め、時に巡僥し、以て軍威を振い、道路を通ぜんことを請う。詔して悉くこれを行わしむ。また副総兵張傑・中官趙欽を劾して罷む。甫く両月、召されて吏部右侍郎と為る。未だ上らざるに、父憂に以て帰る。

既に喪を免れて家居す。朝廷方に「大礼」を議す。異議を唱うる者は多く罪を得。世寧は張璁等を是とす。疏をして早く追崇の「大礼」を定めんことを乞う。未だ上らざるに、語京師に聞こゆ。既に顕陵を遷して天寿山に祔せんと議する者有り。世寧極言して不可とす。ここに並び前の疏を上る。帝深く嘉嘆す。間も無く、廷臣闕に伏して争い、杖死する者有ると聞き、馳疏して言う「臣向に仁・明・武の三言を以て進めしも、然れども尤も仁を以て本と為す。仁は生成の徳、明は日月の臨、皆一日も無かるべからず。武は則ち雷霆の威、但だ一震するのみ。今廷臣旨に忤う。陛下赫然として威を示し、箠楚を以て辱しめ、体羸弱なる者は輒ち斃る。天下に伝え、史冊に書し、鞭撲殿陛に行われ、刑辱士夫に及ぶと謂わば、聖徳を光らする所以に非ず。新進一言偶々合うも、後難く保って必ず当たらん。旧徳老成一事偶々忤うも、後必ずしも皆非に非ざらん。望むらくは陛下三無私の心を以て、上に照臨し、先ず適莫を中に存すること無からんことを」と。帝従うこと能わざれども、また忤わず。尋いで召されて兵部左侍郎と為る。条に戍辺の時に見し所の険塞利害二十五事を上る。また善く聖躬を保ち、軽々しく薬物に餌する毋からんことを請う。『大学』「秦誓」の章・『洪範』「惟辟威福」・『系辞』「節」の初爻の講義を献じ、並びに留中を乞う。給事中余経ここに遂に世寧を劾して告密の漸を啓くと為す。世寧罷めんことを乞うも、許さず。「大礼」成り、秩一等を進む。また用人二十事を陳ず。工匠趙奎等五十四人は中官の請いに以て、悉く職を授く。世寧は賞過濫なりと言うも、納れられず。屡疏して疾を引きて辞す。南京吏部に改め、就いて工部尚書に遷る。已にして、また召されて左都御史と為り、太子少保を加う。宮銜を辞す。許す。

世寧は故より方厳なり。及び憲を掌るに及び、務めて大體を持す。条に憲綱十余条を上る。末に言う「近く士習忌刻、一たび讒毀に遭えば、則ち終身廢棄せらる。僉事彭祺は豪強の罪を発し、謗を受けて官を奪わる。諸此の如き者は、宜しく大臣に申理せしむべし」と。帝其の言を采るも、惟だ祺の報は寝す。執政私謁を禁ぜんことを請う。世寧曰く「臣の官は察を以て名と為す。人その貌に接し、その言を聴かざれば、由りて其の才行を悉くす無し」と。帝然りと以為い、遂に禁ぜず。俄かに刑部尚書に改む。毎に重獄あれば、別白して帝にこれを言う。帝輒ち感悟す。中官剛聰は漕卒の禦服を掠むるを誣い、二千人を坐す。世寧其の妄を劾す。已にして、聰の情を得て罪に抵る。帝乃ち益々世寧を信ず。王瓊は郤を修めて陳九疇に及び、将にこれを死に致さんとす。世寧の救いに以て、戍を得しむ。

兵部尚書王時中を罷免し、世寧を代わらせ、太子太保を加えた。再び辞退したが命に従わず、兵政十事を上奏した。曰く、武略を定め、憲職を崇め、将権を重んじ、武備を増し、賞罰を改め、土夷を馭し、辺備を足し、弊源を絶ち、謬誤を正し、人才を惜しむ、と。言うところ多く常格を破り、帝は優れた詔で答えた。土魯番の貢使が哈密城の返還を乞い、降人牙木蘭との交換を求めた。王瓊がこの事を上奏した。世寧は言う、「先朝は大寧・交阯を棄てることを惜しまなかったのに、どうして哈密にこだわるのか。況や初め忠順を封じて我が外藩としたが、罕慎以来三度土魯番に捕らえられ、遂に戎と親しみ、我が中国を疲弊させ、財を消耗し師を老いさせ、戎はこれを持ちて要求する。臣は思うに、これは国初に封じた元の残党和順・寧順・安定の三王などと同じである。安定は哈密の内、甘肅に近く、今存亡知るべからず。我ら一切問わず、独り哈密を重んずるのは何故か。宜しく河西を専守し、哈密を謝絶すべし。牙木蘭は本来曲先衛の人で、反正して帰順したのであり、降人を受け入れるのとは同列でない。彼らがどうしてこれを要求できようか。唐の悉怛謀の事が鑑とすべきである」と。張璁らは皆王瓊の議を支持し、採用されず、ただ牙木蘭を留めて返さなかった。兵部に在ること三月にして去らんと求め、帝は許さず、朝参を免じた。世寧はまた備辺三事を上奏した。固より疾篤を称し、遂に伝車に乗って帰ることを許し、定めに従って廩米と従者を給した。帰って数か月後、再び南京兵部尚書に起用されたが、固辞して拝命しなかった。九年秋に卒した。少保を贈られ、諡は端敏。

世寧は風格峻厳で整っており、官に在って廉潔であった。悪を憎むこと仇の如く、賢士を推薦するには及ばざるが如しであった。都御史馬昊・陳九疇は連座して廃された。副使施儒・楊必進は考察で罷免された。御史李潤・副使範輅は時に抑圧されていたが、連章してこれらを推薦した。人と語る時は訥々として口に出さなかったが、疏を具するに及んでは古今を援引し、要害を明らかに的中させた。李承勛と親善であったが、議論を堅持して苟くも迎合しなかった。承勛が隴勝に官職を授け、芒部の旧地を回復させようとしたが、世寧は勝は隴氏の子ではなく、芒氏を再び立てるべきでないと言った。初め議礼で張璁・桂萼と合致し、璁・萼はその恩に感じ、自らを助けんと引き入れようとした。世寧は附会することを肯まず、事を論ずるに多く齟齬した。萼が兵を削減しようと議したが、世寧は力を尽くしてこれを論破した。昌化伯が他姓の子を冒して封ぜられたので、廷議に下した。世寧は言う、「我らは厚賂の故をもって朝廷を誣うべからず」と。萼は色を変えた。萼が吏部に在った時、世寧は病を引き合いに出して言う、「天変人窮し、盗賊滋れ起き、その咎は吏・戸・兵の三部に人を得ざるにあり。兵部は特に重し、賢路を避けんことを請う」と。また哈密の議をもって、言葉が璁を侵し、諸大臣は皆これを忌んだ。帝は終始優礼して替えなかった。

子に純・継がいた。純は父の任により肇慶府知府となり、才能と行いがあった。継は幼くして聡明でなく、世寧に知られなかった。世寧が江西で賊を討伐に出た時、部将が継に謁見した。継は陣法を指図し、進退離合を甚だ詳しく説明し、凡そ三日かかった。世寧が帰って検分すると、大いに異とし、その故を知って嘆いて言う、「我に子ありながら自ら識らず、何ぞや」と。これより賊を撃つに、輒ち継を従わせ、方略を策させた。世寧は十に三を失わず、継は十に一を失わなかった。世寧が宸濠を論ずる疏を草していた時、継が請うて言う、「これは且つ重ねて禍を得ん」と。世寧は言う、「我は既に国に許す、遑かにその他を恤れんや」と。世寧が獄に下された時、継はその父を思い、病死した。

李承勛

李承勛、字は立卿、嘉魚の人。父の田は進士、官は右副都御史、順天を巡撫した。操守があり、政は苛からなかった。承勛は弘治六年の進士に挙げられた。太湖知県より南京刑部主事に遷る。工部郎中を歴任し、南昌知府に遷った。

正徳六年、贛州の賊が新淦を犯し、参政趙士賢を捕らえた。靖安の賊が越王嶺瑪瑙岸を占拠し、華林の賊はまた瑞州を陥とした。諸道の兵は進もうとしなかった。承勛は民兵を督いて剿討し、数たび功があった。華林の賊が副使周憲を殺し、憲の軍は大いに潰えた。承勛は単騎で憲の営に入り、衆は乃ち再び集まった。都御史陳金は即ち檄を飛ばして承勛にこれを討たせた。賊党の王奇が帰順を聞き入れ、その懐中の刃を捜し出したが、放って帰らせた。奇は感激して泣き、死をもって報いんと誓った。承勛は奇に密かに寨に入り、その党を説いて降伏させ内応させ、自らは配下を率いて山に登った。奇は夜に柵を抜き、官軍は奮って前進し、降伏した者は内より出で、賊は遂に潰えた。後に、陳金に従って賊の渠魁羅光権・胡雪二を斬り、華林の賊は平定された。鎮守の中貴黎安が承勛が賊首王浩八の獄詞を擅に改めたと誣告し、吏に下された。大理卿燕忠が即ち訊問し、冤罪が晴れた。治行卓異として推挙され、超遷して浙江按察使となった。陜西・河南の左・右布政使を歴任した。右副都御史として遼東を巡撫した。辺備は久しく弛み、開原は特に甚だしかった。士馬は僅か十二分の一、墻堡墩臺は殆ど崩壊していた。将士は城塹に依って自ら守るのみで、城外数百里は悉く諸部の射猟の地となっていた。承勛は修築を上疏して請うた。時に世宗が即位し、国庫の銀四十余万両を発した。承勛は歩将四人に命じ各々一軍を率いて要害を守らせ、自らは畚鍤を負って士卒に先んじた。凡そ城塹を各九万一千四百余丈、墩堡百八十有一を築いた。逃亡者三千二百人を招き、屯田千五百頃を開いた。また城中固・鉄嶺を修築し、陰山・遼河の交わりを断ち、蒲河・撫順に城を築き、要衝を扼した。辺防は甚だ堅固となった。功を録し、秩一等を進めた。また数たび軍民の利害を陳述し、皆聞き入れられた。病により帰郷した。元の官に起用され、南院に蒞った。三たび遷って刑部尚書となり、太子少保を加えられた。

帝は京営に弊害が多いことを憂い、これを振興整頓しようとした。そこで承勛に太子太保を加え、兵部尚書兼左都御史に改め、専ら団営を督率させた。まもなく都察院の管掌も兼ねた。病のため、三度上疏して休職を乞い、かつ言上した。「山西潞城の賊を四道の兵で討伐したが、一人に統率されなかったため、功績がなかった。川・貴の芒部の役は措置が方針に反し、二度勝って二度叛いた。伍文定に深く計らわせるべきで、専ら兵を用いるべきではない。豊・はいの河川工事は、二年の間に三度も大臣を代えたが、工事は完成せず、水利に通じる者に各々所見を陳述させ、侍郎潘希曾に可否を審議させるべきである。特に重要なのは、閉塞の患いを断つことである。唐・宋の転対・次対の故事に倣い、時を定めず大臣を召見すべきである。」帝は辞任を許さず、その議論を所管の官庁に下した。この時、秦・晋・楚・しょくが凶作に遭い、詔を下して田賦を免除した。承勛が言上した。「役人は例として十月に賦税の徴収を始める。今は九月である。役人が督促に急ぎ、ひそかに着服を図ることを恐れる。まだ徴収していないうちに、免除された数を告げる使者を急派すべきである。山の隅の僻遠の地でも、戸ごとにことごとく知らしめる。朝廷の徳意を宣揚奉行できない役人は、これを罰する。巡撫・按察使が上奏を怠れば、ともに罪に問う。」帝はこれを褒めて受け入れた。京営の把総湯清の職を奪うことを上奏した。郭勛が復職を求め、言葉が承勛を侵害した。承勛はこれにより退任を求め、給事中王準らが郭勛の恣意を弾劾した。そこで勅を下して郭勛を責め、湯清を法司に下した。兵部尚書胡世寧が致仕し、詔により承勛を兵部に戻してこれを代わらせた。上疏して言った。「朝廷に大政があり、文武の大臣を推挙する時は、必ず廷議に下す。議論する者は概して互いに顔を見合わせて発言せず、拱手して聞くだけである。議論の前に、議論すべき事項を条書きに備え、議論に参加する者に布告し、先にその理由を知らせ、それから平心に相談検討し、各々思いを尽くすべきである。議論がもし合わなければ、別に上奏することを許す。これによって諸臣の見解を尽くすことができ、議論される事柄も公正となる。」帝はその言葉をよしとし、詔を下して戒めた。まもなく団営の督率を兼ねるよう命じた。言官が張璁・桂萼の党を攻撃し、承勛にも及んだ。承勛は連続して上疏して退任を求め、帝はまた温かな言葉で答えた。出鎮した宦官は、概して暴虐横暴であった。承勛は諫官李鳳毛らの言葉により、前後二十七人を削減し、また錦衣衛の官五百人を廃し、監局の名を借りた役人数千人を削った。ただ禦馬監だけは淘汰されなかったが、また給事中田秋の上奏により、多くを削減した。そして騰驤四衛を兵部に属させ、虚偽の名籍を審査することを請い、制可された。宦官が言うには、かつて彰義門で也先を破り、東市で曹賊を剿滅したのは、いずれも四衛の功績であり、宮中に直衛していたため容易に集結できたのであって、兵部に隷属させるのは不便であると。承勛が言った。「彰義門の戦いの禍は王振によるものである。東市で賊となったのは、すなわち曹吉祥である。」帝はついに承勛の議に従い、兵部に帰属させた。賊寇が大同を侵犯し、大臣を派遣して兵を督率することを議論した。衆人は都御史王憲を推挙したが、王憲は行くことを肯わなかった。給事中夏言が承勛に言った。「事態は急を要する。公は自ら請うべきである。」承勛は結局請わなかった。給事中趙廷瑞がこれを弾劾した。ちょうど賊寇が退いたので、事は取りやめとなった。

十年春、大風が吹き昼間も暗くなり、帝は辺境のことを憂慮した。承勛が言上した。「昨年は氷が結び、敵騎はことごとく河套に入った。延綏・寧夏・固原はいずれも警備すべきである。甘粛の軍餉は専ら河東に依存している。蘭州で買い入れ貯蔵し、緩急に備えるべきである。かつて河西は土魯番を患ったが、今また亦卜喇が深く侵入した。両寇が雲のようにかき乱し、孤立危険はいっそう甚だしい。河套の賊寇の出入りは、ともに庄浪を経由する。急いで塞を修繕し険を設け、臂を断ち踵を截ち、互いに合流できないようにすべきである。兀良哈は最も京師に近く、うまく撫育しなければ、即ち門庭の寇となる。雲南の安鳳の叛乱は、軍民が困窮疲弊し、臨安・蒙自の盗賊がまた勢いを盛り返し、長い時を経れば、恐らく大患を醸すであろう。交阯の世子が老撾に流寓している。他日帰順して援軍を請うか、あるいは地を占拠して封を求めるか、いずれも測りがたい。ただ急いで人を用い財を理め、辺境に憂いなからしめるべきである。」帝はこれを嘉納した。

承勛は沈毅にして大略があった。帝が信任した者は、輔臣の外、ただ承勛と胡世寧のみで、大事があるごとに諮問した。二人もまた孜孜として国に奉じ、知ることを言わないことはなかった。世寧が卒して半年後、承勛もまた卒し、帝は深く嘆き悼んだ。少保を追贈し、諡を康恵とした。賜与したものは、常典の外、特に白金・彩幣・米蔬などの諸物を賜った。承勛は官に四十年、家に余財がなかった。その「大礼」に関する議論も、世寧と合致したという。

王以旂

王以旂、字は士招、江寧の人。正徳六年の進士。上高知県に任じられた。華林の賊がちょうど勢い盛んであったが、以旂は郷兵を訓練してこれを防ぎ、賊は侵犯できなかった。御史に徴召され、河南を巡察した。宸濠が反乱を起こすと、鎮守太監劉璟が郷試停止を提唱した。以旂は河南は江西から遠く、試験を停止する名目がないと言った。そこで止んだ。劉璟はまた、帝が親征し、道が汴を出るであろうと言い、供応銀四万両を徴発する文書を出した。巡撫は与えることを議したが、以旂は与えないと主張した。世宗が即位し、興献帝に皇号を加えようとしたが、以旂は抗言して不可とした。後に、災害を消す要務を上奏し、言った。「司礼監が中旨を取って張漢の贓罪科を免じたが、臣は予め聞いていない。これは偽りを始める端である。」帝は聞き入れなかった。累進して兵部右侍郎となった。徐・呂の二洪が枯渇し、漕運の船が動けなくなった。右僉都御史を兼ねて河漕を総理するよう命じられた。一年余りして、渠の水が通じ、官位一等を進められた。まもなく南京右都御史に任じられた。召されて工部尚書となり、左都御史に改め、陳経に代わって兵部尚書兼団営督率となった。

三辺総督曾銑が河套回復を議し、大学士夏言がこれを支持した。数度にわたり優れた詔を下して曾銑を賞し、以旂に廷臣を集めて議論させた。以旂らは力を尽くして曾銑の議を支持した。議が上ると、帝の意向が突然変わり、厳しい詔を下して曾銑を咎め、再議を命じた。以旂らは惶恐し、前の説をことごとく覆した。帝は曾銑を逮捕し、以旂に代わらせた。河套の賊寇が西海から戻り、永昌を恣に掠奪した。鎮羌総兵官王継祖がこれを防ぎ退けた。後に、また来犯し、鎮番・山丹にも及んだ。部将蔡勛・馬宗が救援し、三戦してことごとく勝利した。前後して斬首一百四十余級。功績を論じ、以旂の一子に蔭官を与えた。やがて賊寇数万がまた寧夏の塞外に駐屯し、大挙侵入しようとした。官軍がこれを撃ち、斬首六十余級、賊寇は夜に遁走した。延綏・寧夏で馬市を開き、二鎮で五千匹を市した。その長狼臺吉らは配下を規律し、市が終わるまで騒がなかった。以旂がこれを上聞した。詔を下して二鎮の文武将吏を大いに賞し、以旂にもまた金幣を賜った。延綏の将士の敵を破った功績を記録し、さらに一子に蔭官を与えた。在鎮六年、延綏の城堡四千五百余所を修築し、また蘭州の辺境の城壁を築き、加官して太子太保に至った。卒するに及んで、軍民は市を廃して悼んだ。少保を追贈し、諡を襄敏とし、さらに一子に官を与えた。

范鏓

范鏓、字は平甫、その先祖は江西楽平の人で、瀋陽に移った。鏓は正徳十二年の進士に及第し、工部主事に任じられ、員外郎に昇進した。嘉靖三年、闕に伏して「大礼」を争い、獄に下され廷杖を受けた。戸部郎中から長蘆塩運司同知に改められ、河南知府に昇進した。年に大飢饉があり、巡撫都御史潘塤が諸々の救済を請う文書を却下し、実情を調査してから発給しようとした。鏓は返答を待たず、すぐに倉を開いて救済し、十余万を全活させた。民は争って鏓を称頌し、その言葉は禁中に聞こえた。帝は戸部及び潘塤と巡按御史が災害の状況を隠したことを責めた。潘塤は自らを弁解するために罪を鏓に帰し、弾劾されて罷免され、鏓の名声はこれにより顕著となった。両淮塩運使に昇進し、塩政十か条の要点を条上した。四川参政、湖広按察使、浙江・河南左・右布政使を歴任した。

二十年、右副都御史に抜擢され、寧夏を巡撫した。鏓は人となり重厚で、方略を有していた。重鎮に臨むや、首功を上奏せず、ひたすら歩騎を訓練し、蓄積を広め、関隘亭障を修繕整備したため、寇は遠くに移り、帰順した捕虜は五百人に及んだ。上疏して言うには、「辺将にはそれぞれ常禄があり、田地を与える制度はない。武定侯郭勛が軍余をもって田園を開墾し将領に給することを奏請して以来、奸悪な軍卒を荘頭に任じ、害は甚だ大きい。軍民に返還し、耕作に任せるのが妥当である。」帝はその請いに従った。数年を経て、病を理由に帰郷した。

元の官職に起用され、河南を巡撫した。まもなく召されて兵部右侍郎となり、左侍郎に転じた。尚書王以旂が三辺を督することとなり、鏓が部の事務を代行した。ほどなく詔を奉じて辺関の厄隘を総理した。潮河川・居庸関等諸所の経略に関する事宜を奏上し、古道門外の蜂窩嶺に墩台を一つ増設して外屏とし、濠を浚え橋を設けて衝突を防ぐことを請うた。川の西南、両山が対する所にはそれぞれ敵台を設け、中流を制し、戍兵を分けて番直し要害を守らせた。また薊鎮の五里垛・劃車・開連口・慕田谷等の地には墩台を設けるべきであり、悪谷・紅土谷・香爐石等の地には崖を切り堀を設けるべきである。居庸関外の諸口は、宣府においては内地であるが、居庸においては辺藩であるから、東中路の文武の臣に修築を命ずべきである。潮河川提督を守備に加え、副将を増設して居庸関に駐せしめ、天寿山・黄華鎮を管轄させる。横嶺守備を設け、懐来路を塞ぎ、新軍二千余人を増置して団練の資とすべきである。また紫荊・倒馬・龍泉等の関及び山海関・古北口の経略に関する事宜を議し、紫荊の桑谷、倒馬の中窯関峪、龍泉の陡石嶺等の諸要害において城垣を創築し、敵楼営舎を増設することを請うた。薊州が管轄する燕河・太平・馬蘭・密雲の四路で、修築が未完成のものは、諸司の贖鍰を徴収して完成させる。そして浮図峪・插箭嶺は特に紫荊・倒馬の二関の要衝であるから、参将を移して石門杜家荘に分駐させ、保定総兵をして紫荊に駐せしめる。薊・遼は千里も懸け離れているから、建昌営遊撃を山海関に移す。三屯等の営で軍が不足している者は速やかに募り、馬が足りない者は補給する。常時戍守する兵で甲冑を備えていない者には、量を酌んで鎧仗を与え、番上する者にはすべて行糧を与え、戈を担いで空腹に苦しむことのないようにすべきである。また言うには、「諸路の緩急は、密雲の分守が最も重要である。各関の要害は、密雲の迤西が最も重要である。燕河の冷口、馬蘭の黄崖、太平の榆木嶺・擦崖子などは、いずれも急務である。撫鎮に命じて諸将領に各営の士馬を分け、付近の伏兵を兼ねて、重ねて戦守に当たらせるべきである。」兵部は言うには、「軍は戍守が長く、郷土を慕っている。突然移置すれば、他の変事を恐れる。山海関に能将を一員増置し、軍三千を募って屯駐させ、薊・遼の撫臣の調度に従わせて燕河を援護させるのがよい。」その余は鏓の言う通りとし、守臣に議させた。

帝は鏓を大いに才能ある者と認めた。ちょうど兵部尚書趙廷瑞が罷免されたので、ただちに鏓を召して代わらせようとした。鏓は老齢を理由に辞退し、また事に随って通変するが、将順の宜しきを欠くと述べた。帝は怒り、鏓が恭しくないと責め、その官籍を削除した。当時厳嵩が国政を執っていたが、鏓はもともと徐階の推薦によるものであり、天下は長者と推していたので、その去るを惜しみ、罪とはしなかった。しかし鏓が罷免されると、帝は翁萬達を召したが、到着したばかりで憂いにより去り、丁汝夔が代わった。翌年、諳達が都城に迫り、汝夔はついに誅殺された。そして鏓は帰郷して久しくしてから卒去した。隆慶元年に官を復した。

王邦瑞

王邦瑞、字は惟賢、宜陽の人である。早くから器量と識見があった。諸生の時、山東で盗賊が起こると、知府に剿寇の十四策を上呈した。正徳十二年に進士となり、庶吉士に改められた。王府と縁故があったため、出て広徳知州となった。嘉靖初年、祖父の喪に服し、去職した。滁州に補された。累遷して南京吏部郎中となり、出て陝西提学僉事となった。歳貢で五名以上が中式しなかった罪に坐し、濱州知州に貶された。再び遷って固原兵備副使となった。涇・邠の大盗李孟春が、河東・西を流劫したが、これを剿平した。祖母の喪に服し去職した。服喪が終わり、再び陝西提学となり、参政に転じた。母の喪により解職した。起用されて右僉都御史に抜擢され、寧夏を巡撫した。寇が氷を乗じて侵入し犯したが、伏兵を設けてこれを破った。南京大理卿に改められた。着任せず、召されて兵部右侍郎となった。

吏部に改められ、左侍郎に進んだ。諳達が都城を侵犯した時、邦瑞に九門の総督を命じた。邦瑞は禁軍を郭外に屯させ、巡捕軍をもって東・西長安ちょうあん街を警備し、郭門を大きく開いて四郊の寇を避ける者を納れた。兵部尚書丁汝夔が獄に下され、邦瑞にその事務を代行させ、兼ねて団営を督させた。寇が退くと、諸将の功罪を治め、また九門の濠塹を浚うことを請い、いずれも聞き届けられた。邦瑞は営制が久しく弛緩しているのを見て、その弊を極力陳述した。そこで十二団営を廃し、すべて三大営に帰属させ、鹹寧侯仇鸞にこれを統率させた。邦瑞もまた兵部左侍郎に改められ、専ら営務を督した。さらに興革の六事を条上した。その中で宦官が兵を掌ることは古今の大患であると述べ、提督監槍者をすべて撤去することを請うた。帝はこれに従うと答えた。また前編修趙時春・工部主事申旞が兵事に通じていることを挙げ、ともに兵部に改め、京営の事務を分理させた。まもなく、帝は兵部尚書翁萬達を召したが到着せず、遅延したため、ついに邦瑞に代わらせた。安攘の十二事を条上した。

仇鸞が帝に邦瑞を讒構したため、帝の寵眷は次第に移った。ちょうど鸞が薊州総兵官李鳳鳴・大同総兵官徐玨の任を革めるよう奏し、代わりに京営副将成勛を鳳鳴の代わりに、密雲副将徐仁を玨の代わりに推薦した。旨は中から下された。邦瑞は言うには、「朝廷が将帥を易置するには、必ず公卿に採り、宸衷より断じるものであり、慎んで漸を防ぎ、臣下が敢えて専断しないことを示すのである。しかも京営大将と列鎮の将は互いに統轄せず、どうして京営の縁故で各鎮の黜陟を行うことができようか。今、鸞の請いを曲げて従えば、九辺の将帥がすべて奔走して托附することとなり、国の福ではないと臣は恐れる。」帝は悦ばず、旨を下して譙譲した。鸞はまた辺将を節制し、薊鎮の辺垣の築造を罷めようとした。邦瑞はいずれも不可とした。鸞は大いに恨み、ますます讒構をほしいままにした。ちょうど邦瑞が再び安攘の大計を陳述したため、厳しい旨を下して職を落とし、冠帯のまま事務を執らせた。数日を経て、大計で自らを陳述した。ついに除名され、趙錦が代わった。邦瑞が去ると、鸞はますます横暴になった。翌年誅殺され、錦もまた党比の罪に坐して戍辺に遣られ、そこで帝は次第に彼を思い出した。十年余りを経て、京営に人が欠けた時、帝は「邦瑞でなければならない」と言い、元の官職に起用した。

到着すると、便宜の数事を上疏し、すべて允諾されて施行された。一年余りを経て卒去した。太子少保を追贈され、諡は襄毅、行人が喪を護って帰葬した。

邦瑞は厳毅で識量があった。四十年にわたり官に歴任し、廉節をもって著名であった。子の正国は、南京刑部侍郎となった。

鄭曉

鄭曉、字は窒甫、海塩の人である。嘉靖元年に郷試で第一を挙げた。翌年進士となり、職方主事に授けられた。日ごとに旧牘を披覧し、天下の厄塞・士馬の虚実・強弱の数をことごとく知った。尚書金献民が『九辺図志』の撰述を命じると、人々は争ってこれを書き写した。「大礼」の争いで廷杖に処された。大同で兵変が起こると、上疏して決して赦すべからざることを極言した。張孚敬が政権を握り、彼を器として、翰林や言路に改置しようとしたが、曉はいずれも応じなかった。父の喪に服し帰郷し、久しく起用されなかった。

許讃が吏部尚書となると、鄭曉を吏部に転じ、考功郎中を歴任した。夏言が宰相を罷免されると、帝は言官が糾弾しないことを憎み、考察して去留を決するよう詔を下した。大学士厳嵩はこれに乗じて自分が好まない者を除こうとし、鄭曉が喬佑ら十三人を去らせたが、その多くは厳嵩が厚遇していた者であった。厳嵩は鄭曉を大いに恨み、彼を文選に転任させた。厳嵩が趙文華を考功に任用しようとすると、鄭曉は許讃に言上した、「昔、黄禎が文選であった時、李開先を考功に転じようとしたが、二人とも山東人であったため、詔によって許されませんでした。今、趙文華を転任させるならば、私はただ退くのみです」。許讃はこれを以て厳嵩に謝った。厳嵩が子の世蕃を尚宝丞にしようとすると、鄭曉は言った、「治中から知府に遷るのは定例です。尚宝丞に遷るのは前例がありません」。厳嵩はますます怒った。周鈇ら謫降官を推挙したことを理由に、鄭曉を和州同知に貶した。後に太僕丞に少し昇進し、南京太常卿を歴任した。召されて刑部右侍郎に任じられた。

ほどなく兵部に改められ、副都御史を兼ねて漕運総督となった。大江南北は皆倭寇に侵され、漕運の船はほとんど阻まれた。鄭曉は数十万の国庫金を出して戦闘用の船を造り、城塞を築き、兵将を訓練し、糧秣を蓄えるよう請願した。詔はこれに従った。中国の奸民は倭寇からの賄賂を利し、多くは彼らと通じていた。通州人の顧表は特に凶暴で狡猾であり、倭寇の道案内をした。このため賊の営寨は皆要害を占め、官兵の虚実をことごとく知っていた。鄭曉は重賞を懸けて彼を捕らえて誅殺した。塩徒の中の勇猛な者を募って兵とし、泰州海防副使を増設し、瓜洲城を築き、廟湾、麻洋、雲梯などの諸海口には皆兵を増やし、見張り台を設けた。こうして通州で倭寇を破り、続いて如皋、海門でこれを破り、呂泗でその軍を襲い、狼山でこれを包囲し、前後九百余の首級を斬った。賊は潰走した。功績を記録し、再び官位を増やされ、三度銀幣を賜った。当時、賊の多くは中国人であった。鄭曉は言上した、「武勇に優れ才知のある者どもは、行き場がなく困窮し、甘心して賊となるのです。国家が広く人材を網羅し、出世の階梯を与えなければ、孫恩、盧循のような輩がその間に現れ、禍いはさらに大きくなるでしょう。洪武の時、倭寇は近海の州県を侵しました。高皇帝の威霊をもってし、謀臣と宿将を兼ね備え、城を築き兵を練り、数年経略しても、なお安寧には至りませんでした。そこで漁師、島民、塩徒、蜑戸を招き、水軍に編入すること数万人に及び、また使者を遣わして海上に出て威徳を宣布しました。長い時を経て、倭寇はようやく患いとならなくなったのです。今、江北は平定されましたが、賊の船は風に帆を揚げて出没し、千里を瞬く間に移動します。倭寇は中国人を耳目と頼み、中国人は倭寇を爪牙と借ります。詳細に区画しなければ、後患は容易に消えません」。帝はこれをかなり採用した。

まもなく召されて吏部左侍郎となり、南京吏部尚書に昇進した。帝は鄭曉が軍事に通じているとして、右都御史に改めて戎政を協理させた。ほどなく刑部尚書に任じられた。諳達が大同右衛を急に包囲すると、帝は兵部尚書楊博を派遣して大師を督させ、そこで鄭曉に兵部を代行させた。鄭曉は言上した、「今、軍事はまさに切迫しているのに、選抜して徴発に備えさせた京軍三万五千人が、役務や工事に就かせられているのでは、どうして戦守に備えられましょうか。どうか彼らを営伍に帰させてください」。帝は直ちにこれに従った。

ほどなく刑部の事務を視察するために戻った。厳嵩の勢力はますます盛んになった。鄭曉はもともと厳嵩と仲が良くなかった。当時の大獄では、総督王忬が軍律を失った件や、中允郭希顔が時事を論じた件について、鄭曉はいずれも軽い処分を提案したが、厳嵩は重い刑罰を科した。一方、南京の叛兵周山らが侍郎黄懋官を殺害した件や、海寇汪直が倭寇と通じて乱を起こした件では、鄭曉は重い刑罰を科し、厳嵩はわざと寛大に扱った。ただ、巡撫阮鶚、総督楊順、御史路楷については、厳嵩が曲げて庇ったため、鄭曉は法を尽くすことができず、議論する者はその軽すぎる処分を非難したという。故事によれば、在京の軍民の訴訟は、全て通政司に訴状を提出し、法司に送って審理判決させた。諸司で審理すべき者がいる場合も、法司に送って参決させ、自ら判決を下して遣わすことはなかった。後に諸司はこれを遵守しなくなり、獄訟が紛糾した。鄭曉は故事に従うよう上奏し、帝は許可を返答した。そこで刑部は時折、畿内の府から囚人を捕らえた。ところが巡按御史鄭存仁は、訴訟は下から上へと進むべきであるとして、州県に檄を飛ばし、法司が追及・召喚しても、軽々しく応じるなと命じた。鄭曉はこれを聞き、侍郎趙大祐、傅頤を率いて故事を守るよう争い、鄭存仁もまた律に基づいて執奏した。上奏文はいずれも都察院に下され、刑科と合わせて公平に議論することになった。議がまだ上らないうちに、鄭曉が上疏して弁明した。厳嵩が帝の怒りを煽って厳しく譴責させたため、ついに鄭曉は職を解かれ、両侍郎も二階級降格された。

鄭曉は経学に通じ、国家の典故に詳しく、当時の声望は高かった。権貴に抑えられ、志を十分に行うことができなかった。帰郷してからは、角巾に布衣という姿で郷里の父老と交遊し、会う者は彼が貴人であることを知らなかった。没後、子の履淳らが朝廷に鄭曉の倭寇防禦の功績を訴え、詔によって官職を回復した。隆慶初年、太子少保を追贈され、諡は端簡といった。履淳については別に伝がある。

賛して言う。李鉞らは皆、威略と実務能力をもって当時に顕れた。李鉞と王憲、王以旂の軍旅を治めること、李承勛、范鏓の辺境の計略を画すること、その才力はいずれも人に勝るものがあった。胡世寧は身の危険を顧みず、真っ先に奸逆を告発し、直言して顔色を正し、終始一節を貫いた。『易経』に「王臣蹇蹇(忠臣は難事に敢然と取り組む)」と称するが、世寧はこれに近い。王邦瑞は権幸に抵抗し、躓いてまた起き上がり、鄭曉は掌故に詳しく、博識で見聞が広く、文武の資質を兼ね備え、任地において効果を上げ、名臣の名に恥じないものであった。