明史

列傳第八十四 張璁 桂萼 方獻夫 夏言

列傳第八十四 張璁 桂萼 方獻夫 夏言

原文列傳第八十四 張璁 桂萼 方獻夫 夏言

○張璁(胡鐸)桂萼 方獻夫 夏言

原文○張璁(胡鐸)桂萼方獻夫夏言

張璁

原文張璁

張璁、字あざなは秉用、永嘉の人である。郷試に合格したが、七度会試に落第した。選抜を受けるため出仕しようとしたとき、御史の蕭鳴鳳は星術に長けており、彼に告げて言うには、「ここから三年で進士となり、さらに三年で急に貴くなるであろう」と。璁はそこで帰郷した。正徳十六年に進士に及第したが、年は四十七歳であった。

原文張璁,字秉用,永嘉人。舉於鄉,七試不第。將謁選,御史蕭鳴鳳善星術,語之曰:「從此三載成進士,又三載當驟貴。」璁乃歸。正德十六年登第,年四十七矣。

世宗が初めて即位したとき、実父の興献王を追尊する議論が起こった。廷臣はこれに反対し、三度上奏して三度退けられた。璁は当時、礼部で政務を見習っており、その年の七月朔日に上疏して言うには、「孝子の至りは、親を尊ぶことに過ぎるものはなく、親を尊ぶことの至りは、天下をもって養うことに過ぎるものはない。陛下が大位を継がれたならば、ただちに聖考(実父)を追尊してその号を正し、聖母(実母)を奉迎してその養いを致すことを議すべきであり、誠に大孝である。廷議は漢の定陶王、宋の濮王の故事を執り、人後に為る者はその子となるべきで、私親を顧みることはできないと主張する。天下に父母なき国があろうか。『礼記』に言う、『礼は天より降らず、地より出ず、人情のみである』と。漢の哀帝、宋の英宗は確かに定陶王、濮王の子であったが、成帝、仁宗はいずれも予め嗣子として立て、宮中で養育したのであり、その人後に為るという義は甚だ明らかであった。故に師丹、司馬光の論が当時の彼らに対して行われたのはよろしい。今、武宗には嗣子がなく、大臣は祖訓に従い、陛下が倫序において立つべきであるとして迎え立てたのである。遺詔にはただ『興献王の長子』とあるだけで、人後に為るという義を明記してはいない。ならば陛下の即位は、実に祖宗の統を承けるためであり、予め嗣子として立て宮中で養育された場合と、明らかに異なる。議者は孝廟(孝宗)の徳沢が人々に及んでいるので、後を絶つべきでないと言う。仮に聖考が今も存命で、今日、帝位を継がれたとしても、弟が兄の後を継ぐ義はないであろう。また聖母を迎えて養うのは、母としての親によるものである。皇叔母と称するならば、君臣の礼をもって会うべきであり、子が母を臣下として遇する義はないであろう。『礼』に『長子は人後に為るべからず』とある。聖考には陛下ただお一人しかおられない。天下の利のために人後に為ることは、子が自らその父母を絶つ義はないであろう。故に陛下においては、祖の後を継いで入り、その尊親を廃さずに済むと言うのはよろしいが、人後に為ることで自らその親を絶つと言うのはよろしくない。統と嗣は同じではなく、必ずしも父が死んで子が立つとは限らない。漢の文帝は恵帝の後を承けたが、それは弟として継いだのであり、宣帝は昭帝の後を承けたが、それは兄の孫として継いだのである。もし必ずやこの父子の親を奪い、あの父子の号を立てて、初めて継統と言うのならば、古には高伯祖、皇伯考と称した例もあり、それらは皆、統とは言えないのであろうか。臣は窃かに思うに、今日の礼は、京師に別に聖考の廟を立て、尊親の孝を隆くすることを得させ、かつ母は子によって貴くなることを以て、尊ぶことは父と同じとすべきである。そうすれば聖考は父たることを失わず、聖母は母たることを失わないであろう」と。帝はちょうど廷議に手詰まりを感じていたところ、璁の上疏を得て大いに喜び、言うには、「この論が出て、我が父子は全うされるであろう」と。急いで廷臣に議させた。廷臣は大いに怪しみ驚き、次々に立ち上がってこれを攻撃した。礼官の毛澄らは当初の主張を固執した。ちょうど献王妃が通州に到着したが、尊称の礼が定まっていないと聞き、留まって入京しようとしなかった。帝はこれを聞いて泣き、位を避けて藩国に帰ろうとした。璁はそこで『大礼或問』を著してこれを上奏した。帝はそこで礼官の上疏を連続して退けた。廷臣はやむなく、孝宗を「皇考」と尊称し、興献王を「本生父興献帝」と尊称することを合議した。璁もまた南京刑部主事に任じられて去り、追尊の議論は一旦止んだ。

原文世宗初踐阼,議追崇所生父興獻王。廷臣持之,議三上三卻。璁時在部觀政,以是年七月朔上疏曰:「孝子之至,莫大乎尊親。尊親之至,莫大乎以天下養。陛下嗣登大寶,即議追尊聖考以正其號,奉迎聖母以致其養,誠大孝也。廷議執漢定陶、宋濮王故事,謂為人後者為之子,不得顧私親。夫天下豈有無父母之國哉?《記》曰:『禮非天降,非地出,人情而已。』漢哀帝、宋英宗固定陶、濮王子,然成帝、仁宗皆預立為嗣,養之宮中,其為人後之義甚明。故師丹、司馬光之論行於彼一時則可。今武宗無嗣,大臣遵祖訓,以陛下倫序當立而迎立之。遺詔直曰『興獻王長子』,未嘗著為人後之義。則陛下之興,實所以承祖宗之統,與預立為嗣養之宮中者較然不同。議者謂孝廟德澤在人,不可無後。假令聖考尚存,嗣位今日,恐弟亦無後兄之義。且迎養聖母,以母之親也。稱皇叔母,則當以君臣禮見,恐子無臣母之義。《禮》『長子不得為人後』,聖考止生陛下一人,利天下而為人後,恐子無自絕其父母之義。故在陛下謂入繼祖後,而得不廢其尊親則可;謂為人後,以自絕其親則不可。夫統與嗣不同,非必父死子立也。漢文承惠帝後,則以弟繼;宣帝承昭帝後,則以兄孫繼。若必奪此父子之親,建彼父子之號,然後謂之繼統,則古有稱高伯祖、皇伯考者,皆不得謂之統乎?臣竊謂今日之禮,宜別立聖考廟於京師,使得隆尊親之孝,且使母以子貴,尊與父同,則聖考不失其為父,聖母不失其為母矣。」帝方扼廷議,得璁疏大喜,曰:「此論出,吾父子獲全矣。」亟下廷臣議。廷臣大怪駭,交起擊之。禮官毛澄等執如初。會獻王妃至通州,聞尊稱禮未定,止不肯入。帝聞而泣,欲避位歸藩。璁乃著《大禮或問》上之,帝於是連駁禮官疏。廷臣不得已,合議尊孝宗曰「皇考」,興獻王曰「本生父興獻帝」,璁亦除南京刑部主事以去,追崇議且寢。

嘉靖三年正月に至り、帝は桂萼の上疏を得て心が動き、再び廷議に下した。汪俊が毛澄に代わって礼部を務め、澄と同じく固執した。璁はそこで再び上疏して言うには、「陛下は兄終弟及の訓に従い、倫序において立つべきである。礼官は陛下が実に大統を継いだ君主であることを考えず、強いて人後に為る例に比べ、献帝の天性の恩を絶ち、武宗の相伝の統を蔑ろにし、陛下の父子、伯侄、兄弟の名と実をともに乱している。天子に背くことを厭わず、権臣に逆らうことを敢えてしない。これは何たる心か。伏して聖諭を拝見するに、『興献王はただ朕一人を生み、既に統緒を承けることができず、また徽称も得られない。尽きることなき恩をどうして報いることができようか』とある。執政は上心を窺い測り、推尊することの重大さを認識しているので、今日は一つの帝の字を争い、明日は一つの皇の字を争う。そして陛下の心もまた、日に日に帝とも皇ともされないことを不満としている。既に帝と加称されたならば、陛下の心は既に慰められたと言い、故に一つの皇の字を残して陛下の将来の未だ尽くされざる心を窺い、遂に敢えて孝宗を皇考と称し、興献帝を本生父と称するに至った。父子の名が既に変わり、推崇の義はどこにあるのか。乃ち急いで詔を以て天下に告げ、陛下が気づかぬうちに、不孝の罪に陥れるのである。『礼』に言う、『君子は人の親を奪わず、また親を奪われてもならない』と。陛下は万乗として尊ばれるが、父子の親を、人が奪うことができ、また人の奪うことを容認することができようか。故に今日の礼は皇か否かにあるのではなく、ただ考か否かにあるのである。もし徒らに一つの皇の字を争うのみならば、執政は必ずや暫くこれをもって今日の議論を塞ぎ、陛下もまた暫くこれをもって今日の心を満たすであろう。臣は恐れるに、天下の礼を知る者は、必ずややむことなく非笑するであろう」と。桂萼の第二の上疏とともに上奏した。帝はますます大いに喜び、直ちに両人を召して京に赴かせた。命令が届かないうちに、両人及び黄宗明、黄綰が再び合疏して力説した。献帝が「本生皇考」と改称されると、閣臣は尊称が既に定まったとして、召還命令の中止を請うた。帝はやむなくこれに従った。二人は既に道中にあり、再び急ぎ上疏して言うには、「礼官は臣らが面と向かって質すことを恐れ、故に先んじてこの術を行い、その私を遂げようとしている。もし本生の称を急いで除かなければ、天下後世は終に陛下を孝宗の子とし、礼官の欺瞞の中に陥るであろう」と。帝はますます心が動き、二人を召すことを急がせた。

原文至嘉靖三年正月,帝得桂萼疏心動,復下廷議。汪俊代毛澄為禮部,執如澄。璁乃復上疏曰:「陛下遵兄終弟及之訓,倫序當立。禮官不思陛下實入繼大統之君,而強比與為人後之例,絕獻帝天性之恩,蔑武宗相傳之統,致陛下父子、伯侄、兄弟名實俱紊。寧負天子,不敢忤權臣,此何心也?伏睹聖諭云:『興獻王獨生朕一人,既不得承緒,又不得徽稱,罔極之恩何由得報?』執政窺測上心,有見於推尊之重,故今日爭一帝字,明日爭一皇字。而陛下之心,亦日以不帝不皇為歉。既而加稱為帝,謂陛下心既慰矣,故留一皇字以覘陛下將來未盡之心,遂敢稱孝宗為皇考,稱興獻帝為本生父。父子之名既更,推崇之義安在?乃遽詔告天下,乘陛下不覺,陷以不孝。《禮》曰:『君子不奪人之親,亦不可奪親也。』陛下尊為萬乘,父子之親,人可得而奪之,又可容人之奪之乎?故今日之禮不在皇與不皇,惟在考與不考。若徒爭一皇字,則執政必姑以是塞今日之議,陛下亦姑以是滿今日之心,臣恐天下知禮者,必將非笑無已也。」與桂萼第二疏同上。帝益大喜,立召兩人赴京。命未達,兩人及黃宗明、黃綰復合疏力爭。及獻帝改稱「本生皇考」,閣臣以尊稱既定,請停召命,帝不得已從之。二人已在道,復馳疏曰:「禮官懼臣等面質,故先為此術,求遂其私。若不亟去本生之稱,天下後世終以陛下為孝宗之子,墮禮官欺蔽中矣。」帝益心動,趣召二人。

五月に都に着くと、再び七事を条上した。衆は騒然として、彼らを撲殺しようとした。萼は恐れて出ようとしなかった。璁は数日経って初めて朝参した。給事中・御史の張翀、鄭本公らが連章して力攻した。帝はますます不悦とし、特に二人を翰林学士に任じた。二人は固辞し、かつ廷臣の非を面と向かって論破することを請うた。給事中・御史の李学曾、吉棠らが言うには、「璁、萼は曲学して世に阿り、聖世において必ず誅すべき者である。伝奉をもって学士とすることは、聖徳を累わすこと少なからず」と。御史の段續、陳相がまた特に上疏して論じ、席書にも及んだ。帝は学曾らに供述を求め、段續、陳相を詔獄に下した。刑部尚書の趙鑒もまた璁、萼を法に置くことを請い、人に語って言うには、「勅許を得たら、直ちに捶ち殺すであろう」と。帝は朋党をなして奸をなすと責め、これにも供述を命じた。璁、萼はそこで再び欺瞔十三事を列挙し、廷臣を力説して屈服させた。廷臣が宮門に伏して泣き争うと、ことごとく詔獄に繋がれ杖罰を受けた。杖下に死する者十余人、貶謫や流罪が相次いだ。ここにおいて璁らの勢いは大いに張った。その年九月、ついに彼らの議を用いて尊称を定めた。帝はますます璁、萼を眷顧し倚頼した。璁、萼はますます寵を恃んで廷臣を仇敵視し、朝廷の士大夫は皆この数人を切歯した。

原文五月抵都,復條上七事。眾洶洶,欲撲殺之。萼懼,不敢出。璁閱數日始朝。給事御史張翀、鄭本公等連章力攻,帝益不悅,特授二人翰林學士。二人力辭,且請面折廷臣之非。給事御史李學曾、吉棠等言:「璁、萼曲學阿世,聖世所必誅。以傳奉為學士,累聖德不少。」御史段續、陳相又特疏論,並及席書。帝責學曾等對狀,下續、相詔獄。刑部尚書趙鑒亦請置璁、萼於理,語人曰:「得俞旨,便捶殺之。」帝責以朋奸,亦令對狀。璁、萼乃復列欺罔十三事,力折廷臣。及廷臣伏闕哭爭,盡系詔獄予杖。死杖下者十餘人,貶竄相繼。由是璁等勢大張。其年九月卒用其議定尊稱。帝益眷倚璁、萼,璁、萼益恃寵仇廷臣,舉朝士大夫鹹切齒此數人矣。

四年の冬、『大礼集議』が完成し、詹事兼翰林学士に進んだ。後に世廟の神道・廟楽・武舞及び太后の廟謁を議するに当たり、帝は常に璁の言に依って決した。璁は経文を潤色し、委曲を尽くして帝の意に当たり、帝はますます彼を重んじた。璁は急いで権力を握ろうと図ったが、大学士費宏に抑えられたため、遂に萼と連名で上疏して宏を攻撃した。帝もその事情を知っていたが、宏を留任させて直ちに罷免しなかった。五年七月、璁は墓参りを理由に休暇を請うた。朝廷に辞して出発した後、帝は再び彼を兵部右侍郎に任用し、兼官は元の通りとした。給事中杜桐・楊言・趙廷瑞が相次いで上疏して強く非難し、併せて吏部尚書廖紀が邪人を登用したことを弾劾した。帝は怒り、彼らを厳しく責めた。両京の給事御史解一貫・張録・方紀達・戴継先らが再び相次いで上疏して論じ止まなかったが、帝はいずれも聞き入れなかった。まもなく璁を左侍郎に進め、再び萼と共に費宏を攻撃した。翌年二月に王邦奇の獄を起こし、楊廷和らを陥れ、宏及び石缶は同日に罷免された。

原文四年冬,《大禮集議》成,進詹事兼翰林學士。後議世廟神道、廟樂、武舞及太后謁廟,帝率倚璁言而決。璁緣飾經文,委曲當帝意,帝益器之。璁急圖柄用,為大學士費宏所抑,遂與萼連章攻宏。帝亦知其情,留宏不即放。五年七月,璁以省墓請。既辭朝,帝復用為兵部右侍郎,兼官如故。給事中杜桐、楊言、趙廷瑞交章力詆,並劾吏部尚書廖紀引用邪人。帝怒,切責之。兩京給事御史解一貫、張錄、方紀達、戴繼先等復交章論不已,皆不聽。尋進璁左侍郎,復與萼攻費宏。明年二月興王邦奇獄,構陷楊廷和等,宏及石缶同日罷。

吏部郎中彭澤が軽率であることを理由に排斥されると、璁は言上した、「かつて礼議の時、彭澤は臣に『大礼或問』を進めるよう勧め、それによって衆人の忌諱いみなを招きました。今、諸臣が彼を去らせようとするのは、次第に臣らをも去らせようとするものです」。これにより彭澤は留任できた。三日後、再び言上した、「臣は挙朝と四、五年にわたって対抗し、挙朝は臣を攻撃する上疏を百十通に及んでいます。今、『大礼全書』を編修するに当たり、元凶は心を寒からしめ、群奸は側目しています。故に要略がようやく進呈されると、讒言と誹謗が盛んに起こります。もし『全書』が完成すれば、誣陷はますます甚だしくなるでしょう」。そこで病気を理由に退任を求めて帝を牽制し、帝は優れた詔で慰留した。吏部に尚書が欠員となり、前尚書の喬宇・楊旦が推挙された。礼部尚書も欠員で、侍郎の劉龍・温仁和が推挙された。仁和は在職年数の深さを理由に争った。璁は、喬宇・楊旦は楊廷和の党であり、仁和も自ら推薦すべきではないと上言した。帝は、大臣で休致した者は詔を奉じない限り推挙できないと命じ、喬宇らは遂に任用されなかった。

原文吏部郎中彭澤以浮躁被斥,璁言:「昔議禮時,澤勸臣進《大禮或問》,致招眾忌。今諸臣去之,將以次去臣等。」澤乃得留。居三日,復言:「臣與舉朝抗四五年,舉朝攻臣至百十疏。今修《大禮全書》,元惡寒心,群奸側目。故要略方進,讒謗繁興。使《全書》告成,將誣陷益甚。」因引疾求退以要帝,帝優詔慰留。吏部闕尚書,推前尚書喬宇、楊旦;禮部尚書亦缺,推侍郎劉龍、溫仁和。仁和以俸深爭。璁言宇、旦乃楊廷和黨,而仁和亦不宜自薦。帝命大臣休致者,非奉詔不得推舉,宇等遂廢。

璁は廷臣に対する積年の怒りを抱き、日々報復を謀った。折しも山西巡按馬録が反賊李福達の獄を処理し、供述が武定侯郭勛に連座した。法司は馬録の擬定通りに審議した。璁は帝に讒言して、廷臣が議礼の故に郭勛を陥れようとしていると言った。帝は果たして諸臣が徒党を組んでいると疑い、璁に都察院を管掌させ、桂萼に刑部を、方献夫に大理寺を管掌させて再審させ、その判決をことごとく覆し、異なる意見を持つ者たちを排斥した。大臣の顔頤寿・聶賢以下は皆、拷問を受け、馬録らは罪に坐せられ遠方に流された。帝はますます彼らの能力を認め、便殿で労をねぎらい、二品の服と三代に対する封誥を賜った。京察及び言官の相互糾弾により、既に御史十三人が罷免されていたが、璁が都察院を掌ると、再び考察を請い十二人を排斥した。また憲綱七条を施行するよう上奏し、巡按御史を締め付けた。その年の冬、遂に礼部尚書兼文淵閣大学士に任じられて機務に参与し、官に就いてからわずか六年であった。

原文璁積怒廷臣,日謀報復。會山西巡按馬錄治反賊李福達獄,詞連武定侯郭勛,法司讞如錄擬。璁讒於帝,謂廷臣以議禮故陷勛。帝果疑諸臣朋比,乃命璁署都察院,桂萼署刑部,方獻夫署大理,覆讞,盡反其獄,傾諸異己者。大臣顏頤壽、聶賢以下鹹被搒掠,錄等坐罪遠竄。帝益以為能,獎勞之便殿,賚二品服,三代封誥。京察及言官互糾,已黜御史十三人,璁掌憲,復請考察斥十二人。又奏行憲綱七條,鉗束巡按御史。其年冬,遂拜禮部尚書兼文淵閣大學士入參機務,去釋褐六年耳。

楊一清が首輔となり、翟鑾も内閣にいたが、帝が彼らを遇するのは璁のようではなかった。帝はかつて璁に諭した、「朕には密諭があるが、漏らしてはならない。朕と卿との間の書簡は全て朕が親書する」。璁はそこで仁宗が楊士奇らに銀章を賜った故事を引き合いに出し、帝は璁に二つの印章を賜い、文は「忠良貞一」と「繩愆弼違」とし、併せて一清らにも及ぼした。璁が初めて学士に任じられた時、諸翰林はこれを恥じて、彼と並び立とうとしなかった。璁は深く恨んだ。侍読汪佃が『洪範』を講じて帝の意にかなわず、帝が地方官に補するよう命じると、璁は講読以下の官を才能に応じて地方に補するよう請い、改官及び罷黜された者は二十二人に及び、諸庶吉士は皆、部属や知県に任じられ、これによって翰林院は空となった。七年正月、帝が朝議に臨み、璁と萼が兵部尚書李承勲の下位に列しているのを見て、不満に思った。一清がそこで散官を加えるよう請うと、帝は手詔で二人に太子太保を加えた。璁は、皇太子が立てられていないのに官を設けるのは不当であると辞退し、さらに少保兼太子太保に加えられた。『明倫大典』が完成すると、さらに少傅兼太子太傅・吏部尚書・謹身殿大学士に進んだ。一清が再び宰相となったのは、かなり璁と萼の力によるものであり、一清は心から二人に下った。しかし璁は終に一清に押さえつけられ、思い通りにならず、遂に互いに反目した。指揮の聶能遷が璁を弾劾すると、璁は彼を死罪に置こうとした。一清が擬旨をやや軽くしたため、璁はますます恨み、一清を奸人で卑しい者と罵った。一清は再び上疏して退任を求め、かつ璁の隠れた事情を諷刺した。帝は手詔で慰留し、併せて璁が自らその才能を誇り、寵愛を恃んで譲らないのは誠に嘆かわしいと極言した。璁は帝が突然自分の短所を暴露したのを見て、大いに恥じ落胆した。

原文楊一清為首輔,翟鑾亦在閣,帝侍之不如璁。嘗諭璁:「朕有密諭毋泄,朕與卿帖悉親書。」璁因引仁宗賜楊士奇等銀章事,帝賜璁二章,文曰「忠良貞一」,曰「繩愆弼違」,因並及一清等。璁初拜學士,諸翰林恥之,不與並列。璁深恨。及侍讀汪佃講《洪範》不稱旨,帝令補外。璁乃請自講讀以下量才外補,改官及罷黜者二十二人,諸庶吉士皆除部屬及知縣,由是翰苑為空。七年正月,帝視朝,見璁、萼班兵部尚書李承勛下,意嗛之。一清因請加散官,乃手敕加二人太子太保。璁辭以未建青宮,官不當設,乃更加少保兼太子太保。《明倫大典》成,復進少傅兼太子太傅、吏部尚書、謹身殿大學士。一清再相,頗由璁、萼力,傾心下二人。而璁終以壓於一清,不獲盡如意,遂相齟齬。指揮聶能遷劾璁,璁欲置之死。一清擬旨稍輕,璁益恨,斥一清為奸人鄙夫。一清再疏引退,且刺璁隱情。帝手敕慰留,因極言璁自伐其能,恃寵不讓,良可嘆息。璁見帝忽暴其短,頗愧沮。

八年の秋、給事中孫応奎が一清と萼を弾劾し、併せて璁にも及んだ。その同官の王準がさらに璁が参将陳璠に私的に与したことを弾劾し、排斥すべきだと上奏した。璁は再三にわたって休暇を乞い、その言葉には一清を陰に誹謗する内容が多かった。帝は璁を褒め諭した。しかし給事中陸粲が再び彼が威福を擅にし、恩讐に報いることを弾劾した。帝は大いに悟り、直ちに璁を罷免した。間もなく、その党の霍韜が一清を激しく攻撃し、わずかに璁のために弁明した。璁が天津に到着した時、帝は行人に命じて手詔を持たせて召還した。一清は遂に罷免され去り、璁が首輔となった。

原文八年秋,給事中孫應奎劾一清、萼並及璁,其同官王準復劾璁私參將陳璠,宜斥。璁乞休者再,詞多陰詆一清,帝乃褒諭璁。而給事中陸粲復劾其擅作威福,報復恩怨。帝大感悟,立罷璁。頃之,其黨霍韜力攻一清,微為璁白。璁行抵天津,帝命行人賫手敕召還。一清遂罷去,璁為首輔。

帝は自ら廷議を排して「大礼」を定めて以来、礼楽の制作を自ら任じた。そして夏言がようやく権力を握り始めると、皇后の親蚕を議し、勾龍と棄を社稷に配祀することを議し、天地を分祭することを議し、太宗の配祀を廃することを議し、朝日と夕月のために別に東西二郊を建てることを議し、高禖を祀ることを議し、文廟に主を設け諸儒の従祀を改めることを議し、徳祖を祧ぎ太祖を南向きに正すことを議し、祈谷を議し、大禘を議し、帝社帝稷を議し、上奏する度に必ず璁に下して議論させた。しかし帝は独断を取ることを好み、璁の意見も全て採用されたわけではなかった。太宗の配天を廃止するよう諫めたことについては、三、四度往復したが、結局止めることはできなかった。

原文帝自排廷議定「大禮」,遂以制作禮樂自任。而夏言始用事,乃議皇后親蠶,議勾龍、棄配社稷,議分祭天地,議罷太宗配祀,議朝日、夕月別建東、西二郊,議祀高禖,議文廟設主更從祀諸儒,議祧德祖正太祖南向,議祈谷,議大禘,議帝社帝稷,奏必下璁議。顧帝取獨斷,璁言亦不盡入。其諫罷太宗配天,三四往復,卒弗能止也。

十年二月、璁は名が御諱に触れることを嫌って改名を請うた。そこで名を孚敬、字を茂恭と賜り、帝が書いた四大字を賜った。夏言は帝の寵愛を恃み、しばしば事を構えて孚敬を攻撃した。孚敬はこれを恨んだが、機会がなかった。彭澤の言葉を入れて行人司正薛侃を陥れ、薛侃を通じて夏言を害そうとした。朝廷での審問で事が露見し、詔旨はその嫉妬深く欺くことを斥けた。御史の譚纘・端廷赦・唐愈賢が相次いで上疏して彼を弾劾した。帝は法司に命じて致仕させよと諭し、孚敬は大いに恥じて去った。間もなく、行人に命じて詔書を持たせて召還した。翌年三月に朝廷に戻ると、夏言は既に礼部尚書に抜擢され、ますます権力を握っていた。李時・翟鑾が内閣にあり、方献夫が続いて入閣したため、孚敬も以前のように専横を恣にすることはできなくなった。八月、彗星すいせいが東井に現れると、帝は大臣が政権を擅にしているのではないかと疑い、孚敬はそこで罷免を求めた。都給事中魏良弼が孚敬を奸であると誹謗すると、孚敬は言った、「魏良弼は京営官を濫挙したことで俸給を奪われたが、それは臣が擬旨したためであり、私怨で報復しているのです」。給事中秦鰲が孚敬が強弁して奸を飾り、言官が論列するとすぐに罪をでっち上げ、擬旨を密かに行わず、自ら引き受けて、内外に示して、あたかも天子の権力がその掌握の中にあるかのようにしていると弾劾した。帝は秦鰲の言を是とし、孚敬に自ら陳状するよう命じ、致仕を許した。李時が俸給と従者・勅書を与えるよう請うたが、許されなかった。再び請うて、ようやく駅伝で帰ることができた。十二年正月、帝は再び彼を思い、鴻臚寺官に命じて詔書を持たせて召還した。四月に朝廷に戻った。六月、彗星が再び畢昴の間に現れたため、退位を乞うたが、許されなかった。翌年、少師兼太子太師・華蓋殿大学士に進んだ。

原文十年二月,璁以名嫌御諱請更。乃賜名孚敬,字茂恭,御書四大字賜焉。夏言恃帝眷,數以事訐孚敬。孕敬銜之,未有以發。納彭澤言構陷行人司正薛侃,因侃以害言。廷鞫事露,旨斥其忮罔。御史譚纘、端廷赦、唐愈賢交章劾之。帝諭法司令致仕,孚敬乃大慚去。未幾,遣行人賫敕召之。明年三月還朝,言已擢禮部尚書,益用事。李時、翟鑾在閣,方獻夫繼入,孚敬亦不能專恣如曩時矣。八月,彗星見東井,帝心疑大臣擅政,孚敬因求罷。都給事中魏良弼詆孚敬奸,孚敬言:「良弼以濫舉京營官奪俸,由臣擬旨,挾私報復。」給事中秦鰲劾孚敬強辨飾奸,言官論列輒文致其罪,擬旨不密,引以自歸,明示中外,若天子權在其掌握。帝是鰲言,令孚敬自陳狀,許之致仕。李時請給廩隸、敕書,不許。再請,乃得馳傳歸。十二年正月,帝復思之,遣鴻臚賫敕召。四月還朝。六月,彗星復見畢昴間,乞避位,不許。明年進少師兼太子太師、華蓋殿大學士。

初め、潞州の陳卿が乱を起こした時、孚敬は出兵を主張し、賊は遂に滅ぼされた。大同が再び乱れると、やはり出兵を主張し、劉源清を総督に推薦したが、軍は長く功績がなかった。その後乱が平定され、代王が大臣を派遣して安撫するよう請うた。夏言はそこで出兵の誤りを激しく誹謗し、王の言う通りにするよう請い、言葉多く孚敬を侵害した。孚敬は怒り、王の上疏を持ったまま実行しなかった。帝は孚敬に夏言と仲良くするよう諭し、黄綰を大同に派遣して、機を見て事を行わせた。孚敬は自分の意見が用いられないことを理由に、病と称して休暇を乞い、上疏を三度上奏した。やがて子が死に、請いを一層強めた。帝は答えて言った、「卿に疾はない、朕を疑っているのだろう」。孚敬は再び上奏し、自らの過ちを認めず、かつ歴代にわたり礼議を共にした桂萼、方献夫、霍韜、黄綰らを誹謗した。帝が詰問責めすると、ようやく再び出仕して政務を見た。帝は文華殿の後に九五斎、恭黙室を建てて斎戒居住の場所とし、輔臣に詩を賦するよう命じた。孚敬及び費宏はそれぞれ四首以上を献上した。その後、しばしば便殿に召し出され、ゆったりと政事を議した。

原文初,潞州陳卿亂,孚敬主用兵,賊竟滅。大同再亂,亦主用兵,薦劉源清為總督,師久無功。其後亂定,代王請大臣安輯。夏言遂力詆用兵之謬,請如王言,語多侵孚敬。孚敬怒,持王疏不行。帝諭令與言交好,而遣黃綰之大同,相機行事。孚敬以議不用,稱疾乞休,疏三上。已而子死,請益力。帝報曰:「卿無疾,疑朕耳。」孚敬復上奏,不引咎,且歷詆同議禮之萼、獻夫、韜、綰等。帝詰責之,乃復起視事。帝於文華殿後建九五齋、恭默室為齋居所,命輔臣賦詩。孚敬及時各為四首以上。已,數召見便殿,從容議政。

十四年春、病を得た。帝は宦官を遣わして酒食を賜り、費宏に言って、その頑固さをかなり言及し、かつ人材を惜しまずに怨みを集める様子に言及した。また宦官を遣わして薬を賜り、自筆の勅書で言った、「古には大臣の病を治すために髭を切った者がある。朕は今、自ら服用するものを卿に賜る」。孚敬は温かい勅諭を得たことを幸いとし、遂にたびたび上疏して老骨を休めることを乞うた。帝は行人と御医に護衛させて帰らせ、役所に命じて定めに従って俸禄と従者を給した。翌年五月、帝は再び錦衣衛の官に手勅を持たせて病を見舞わせ、その帰還を促した。金華まで来て、病が大いに発し、そこで帰った。十八年二月、卒去した。帝は承天におり、それを聞いて傷み悼んでやまなかった。

原文十四年春得疾,帝遣中官賜尊牢,而與時言,頗及其執拗,且不惜人才以叢怨狀。又遣中官賜藥餌,手敕言:「古有剪須療大臣疾者,朕今以己所服者賜卿。」孚敬幸得溫諭,遂屢疏乞骸骨。命行人御醫護歸,有司給廩隸如制。明年五月,帝復遣錦衣官賫手敕視疾,趣其還。行至金華,疾大作,乃歸。十八年二月卒。帝在承天,聞之傷悼不已。

孚敬は剛直で明察果断、嫌疑や怨みを避けなかった。主君に遇した後も、時に正論を進言した。帝が張延齢を謀反の罪に坐せ、その一族を誅滅しようとした時、孚敬は諫めて言った、「延齢は守銭奴に過ぎず、どうして謀反できようか」。数度詰問されても、答えは初めの通りであった。秋の末に論罪すべき時が来て、孚敬は上疏して言った、「昭聖皇太后はご高齢であり、突然延齢の死を聞けば、万一食事を取らず、他の事故があれば、どうして敬皇帝の在天の霊を慰められようか」。帝は怒り、孚敬を責めて言った、「古より強臣が主君を操ることは一つや二つではない。今、死囚を愛して主君を操らせようとするのか。廷和が敬皇帝に事えたことに従わなかったことを後悔すべきであろう」。帝はわざと重い言葉で孚敬を脅して止めさせようとしたが、孚敬の考えは変わらなかった。このため、昭聖皇太后の在世中は、延齢は長く獄につながれたままにされた。その他、勲戚の荘田を整理し、天下の鎮守宦官を罷免することは、先後してほぼ全て成し遂げられ、皆その力によるものであった。身を保つこと特に廉潔で、汚職官吏を痛く憎み、一時は贈賄の道が絶えた。しかし性格は残忍で強情、報復が相次ぎ、善類を庇護しなかった。人臣の私党を力づくで打破しようとしたが、自ら先んじて党の首領となった。「大礼」の大獄は、世に非難を集めた。しかし帝は終始寵遇礼遇し、廷臣の中でついに並ぶ者なく、嘗て少師羅山と呼んで名を呼ばなかった。その卒去に際し、礼官が諡を請うた。帝は危身奉上の義を取り、特に文忠と諡し、太師を追贈した。

原文孚敬剛明果敢,不避嫌怨。既遇主,亦時進讜言。帝欲坐張延齡反,族其家。孚敬諍曰:「延齡,守財虜耳,何能反?」數詰問,對如初。及秋盡當論,孚敬上疏謂:「昭聖皇太后春秋高,卒聞延齡死,萬一不食,有他故,何以慰敬皇帝在天之靈?」帝恚,責孚敬:「自古強臣令主非一,若今愛死囚令主矣。當悔不從廷和事敬皇帝耶?」帝故為重語愒止孚敬,而孚敬意不已。以故終昭聖皇太后世,延齡得長繋。他若清勛戚莊田,罷天下鎮守內臣,先後殆盡,皆其力也。持身特廉,痛惡贓吏,一時苞苴路絕。而性狠愎,報復相尋,不護善類。欲力破人臣私黨,而己先為黨魁。「大禮」大獄,叢詬沒世。顧帝始終眷禮,廷臣卒莫與二,嘗稱少師羅山而不名。其卒也,禮官請謚。帝取危身奉上之義,特謚文忠,贈太師。

時に胡鐸という者がいた。字は時振、余姚の人。弘治末の進士。正徳年間、福建提学副使に任官。嘉靖初年、湖広参政に転じ、累官して南京太僕卿となった。鐸は璁と同郷で挙人に合格した。「大礼」の議が起こると、鐸の考えも献王を皇考とすることを主張し、璁と合致した。璁は連署するよう求めたが、鐸は言った、「主上の天性は確かに背くことができないが、天下の人情もまた無視できない。献王を皇考とすることが止まなければ宗とし、宗とすることが止まなければ宗廟に入れ、宗廟に入れれば当然祧廟があるはずだ。藩王の虚号の帝をもって、君臨して世を治めた宗(孝宗)を奪うことは、義として固よりできない。宗廟に入れば位があり、その位を武宗の上とするか、武宗の下とするか。生きてはその臣であり、死して君に並ぶことはできない。しかし魯では嘗て僖公を先の位に並べたことがある(升躋)。恐らく将来、夏父之徒(僖公を先の位に並べさせた魯の大夫)に乏しくないであろう」。璁の議は遂に上奏された。間もなく召還された。鐸は丁度服喪明けで京に赴こうとしていた時、璁がまた共同上疏を求めた。鐸は返書でこれを断り、かつ継統の義について弁明した。「大礼」が既に定まると、鐸はまた書を送って議礼に関わった諸人を召還し、平和の福を養うよう勧めたが、璁は従えなかった。鐸は王守仁と同郷であったが、その学説を宗とせず、璁と同じく献王を皇考とすることを是としたが、共に進もうとはしなかった。しかしその継統についての弁明は、国統が絶えて君主を立てることは立賢の意を含むと言い、これは大いに誤りであるという。

原文時有胡鐸者,字時振,余姚人。弘治末進士。正德中,官福建提學副使。嘉靖初,遷湖廣參政,累官南京太僕卿。鐸與璁同舉於鄉。「大禮」議起,鐸意亦主考獻王,與璁合。璁要之同署,鐸曰:「主上天性固不可違,天下人情亦不可拂。考獻王不已則宗,宗不已則入廟,入廟則當有祧。以藩封虛號之帝,而奪君臨治世之宗,義固不可也。入廟則有位,將位於武宗上乎,武宗下乎?生為之臣,死不得躋於君。然魯嘗躋僖公矣,恐異日不乏夏父之徒也。」璁議遂上。旋被召。鐸方服闋赴京,璁又要同疏,鐸復書謝之,且與辨繼統之義。「大禮」既定,鐸又貽書勸召還議禮諸人,養和平之福,璁不能從。鐸與王守仁同鄉,不宗其學;與璁同以考獻王為是,不與同進。然其辨繼統,謂國統絕而立君寓立賢之意,蓋大謬雲。

桂萼

原文桂萼

桂萼、字は子実、安仁の人。正徳六年の進士。丹徒知県に任じられた。性格は剛直で気性が強く、たびたび上官に逆らい、青田に転任させられたが赴任しなかった。推薦により起用されて武康知県となり、また上官に逆らって官吏に下された。

原文桂萼,字子實,安仁人。正德六年進士。除丹徒知縣。性剛使氣,屢忤上官,調青田不赴。用薦起知武康,復忤上官下吏。

嘉靖初年、成安知県から南京刑部主事に転じた。世宗が実父母を尊崇しようとした時、廷臣は強硬に反対し、既に興献王を帝と称し、妃を興国太后と称し、詔を天下に頒って二年が経っていた。萼は張璁と同官であり、そこで二年十一月に上疏して言った、「臣は聞く、帝王は父に孝事するので、天を明らかに事える。母に孝事するので、地を察らかに事える。父子の倫理を廃して、よく天地を事え百神を主とすることは未だ聞かない。今、礼官は典章を考証せず、陛下の純孝の心を阻み絶ち、陛下を人後に為すという誤りに陥れ、かつ武宗の統を滅ぼし、献帝の宗を奪い、かつ興国太后を慈寿太后の下に圧迫させ、礼を尽くさず、三綱は頓に廃され、非常の変である。張璁、霍韜が献策を献じて以来、論者はこれを出世のためと指弾し、逆に人の口を封じ、礼に通じた者が敢えて反論できないようにしている。切に思うに、陛下が興国太后に侍り、慨いて興献帝が祀られないことを、既に三年になる。胸を打って涙を流すこと、幾度か知れない。願わくは速やかに明詔を発し、孝宗を『皇伯考』と称し、興献帝を『皇考』と称し、別に大内に廟を立て、興国太后の礼を正し、聖母と称することを定め、天を事え地を事える道に協うようにせられたい。朝臣の執着する所は、ただ宋の『濮議』に過ぎない。按ずるに、宋の範純仁が英宗に告げて言うには『陛下は昨仁宗の詔を受け、親しくその子となることを許され、封爵に至るまで悉く皇子の故事を用い、入って継承した主とは異なる』と。則ち宋臣の論も、また自ら区別がある。今、陛下は祖訓を奉じて大統を継がれ、未だ嘗て孝宗の詔を受けてその子となったことはない。則ち陛下は人後に為すのではなく、入って継承した主であることは極めて明らかである。興献帝を皇考とし、興国太后を母とするのに、何の疑いがあろうか。臣は聞く、天子でなければ礼を議せず、天下に道あれば、礼楽は天子より出ずと。臣は久しく請おうとしたが、先頃また席書、方献夫の二つの上疏を得た。伏して望む、奮然として裁断し、臣と二臣の上疏を併せて礼官に付し、臣らに面して質させられたい」。帝は大いに喜び、翌年正月に手批して議を行うようにした。

原文嘉靖初,由成安知縣遷南京刑部主事。世宗欲尊崇所生,廷臣力持,已稱興獻王為帝,妃為興國太后,頒詔天下二歲矣,萼與張璁同官,乃以二年十一月上疏曰:「臣聞帝王事父孝,故事天明;事母孝,故事地察。未聞廢父子之倫,而能事天地主百神者也。今禮官失考典章,遏絕陛下純孝之心,納陛下於與為人後之非,而滅武宗之統,奪獻帝之宗,且使興國太后壓於慈壽太后,禮莫之盡,三綱頓廢,非常之變也。乃自張璁、霍韜獻議,論者指為幹進,逆箝人口,致達禮者不敢駁議。切念陛下侍興國太后,慨興獻帝弗祀,已三年矣,拊心出涕,不知其幾。願速發明詔,稱孝宗曰『皇伯考』,興獻帝『皇考』,別立廟大內,正興國太后之禮,定稱聖母,庶協事天事地之道。至朝臣所執不過宋《濮議》耳。按宋範純仁告英宗曰『陛下昨受仁宗詔,親許為之子,至於封爵,悉用皇子故事,與入繼之主不同』,則宋臣之論,亦自有別。今陛下奉祖訓入繼大統,未嘗受孝宗詔為之子也,則陛下非為人後,而為入繼之主也明甚。考興獻帝,母興國太后,又何疑?臣聞非天子不議禮;天下有道,禮樂自天子出。臣久欲以請,乃者復得席書、方獻夫二疏。伏望奮然裁斷,將臣與二臣疏並付禮官,令臣等面質。」帝大喜,明年正月手批議行。

三月、萼は再び上疏して言った、「古より帝王が相伝するには、統が重く、嗣が軽い。故に高皇帝は前王に倣い、兄終弟及の訓を著した。陛下は祖宗の大統を承け、正に高皇帝の制に遵っている。執政は故なくして己の私を任せ、祖訓に背き、その不道たるや、尚言うことができようか。臣は道行く人の言葉を聞く、執政は陛下の真情を窺い、止まなければ、ただ一つの皇の字を加えるだけだという。陛下が親に孝するのは、皇であるか否かにあるのではなく、ただ考であるか否かにある。献帝を考とする心が奪われるならば、たとえ千百の字の美称を加えても、孝に何の益があろうか。陛下は遂にその身を終えるまで父なき人となるであろう。倫理に逆らい義に背くことこのようであるのに、尚やこれにこの議に関わらせることができようか」。璁の上疏と併せて上奏された。帝はますます大いに喜び、京に召し出した。

原文三月,萼復上疏曰:「自古帝王相傳,統為重,嗣為輕。故高皇帝法前王,著兄終弟及之訓。陛下承祖宗大統,正遵高皇帝制。執政乃無故任己私,背祖訓,其為不道,尚可言哉。臣聞道路人言,執政窺伺陛下至情不已,則加一皇字而已。夫陛下之孝其親,不在於皇不皇,惟在於考不考。使考獻帝之心可奪,雖加千百字徽稱,何益於孝?陛下遂終其身為無父人矣。逆倫悖義如此,猶可使與斯議哉!」與璁疏並上。帝益大喜,召赴京。

初め、議礼の諸臣には執政を力づくで誹謗する者はなかったが、萼に至って遂に不道と斥け、かつ議に関わらせまいとした。その言葉は恣肆で忌憚がなく、朝士は特にこれを憎んだ。召還の命令が下ると、衆はますます驚愕し、群をなして排撃したが、帝は動じなかった。萼はまた璁と共に論じ列ねることを止めず、遂に翰林学士に召され、結局その言を用いた。萼はこれより特に深く知遇を受けた。

原文初,議禮諸臣無力詆執政者,至萼遂斥為不道,且欲不使議。其言恣肆無忌,朝士尤疾之。召命下,眾益駭愕,群起排擊,帝不為動。萼復偕璁論列不已,遂召為翰林學士,卒用其言。萼自是受知特深。

四年の春、給事中柯維熊が言うには、「陛下は君子を親しまれるが、君子は容れられない。林俊・孫交・彭澤の去ったのがそれである。小人を遠ざけられるが、小人はなお在る。張璁・桂萼の用いられたのがそれである。しかも今、闕下に伏した諸臣は多く死罪や流刑に処せられ、御史王懋・郭楠はまた貶謫された。ひそかに罰が過重であると思う」と。萼と璁はすなわち去職を求め、優詔をもって慰留された。まもなく詹事兼翰林學士に進んだ。世廟の神道及び太后の廟謁の礼を議し、ふたたび廷議を排して、帝の意向に迎合した。帝はますます賢しと為し、両人の気勢はますます盛んとなった。ところが閣臣がこれを抑え、諸翰林と同等にさせなかった。両人はすなわち連章して費宏と石缶を攻め、齮齕して去らせた。給事中陳洸が重辟に犯すと、萼は尚書趙鑒とともに攘臂して争い、南京給事中に弾劾されたが、問われなかった。かつて時政を陳べ、六年の田租をあらかじめ免除すること、即位の初めの宿弊を改めること、登聞鼓の禁約を緩めること、塞上の開中制を復すること、奸徒が養済院を阻絶するのを懲らしめること、窮民に城垣の陾地を耕させること、外吏の部に赴いて考満するのを停めること、聖敬を申し、聖孝を広めること、凡そ数事を請うた。多く議されて行われた。

原文四年春,給事中柯維熊言:「陛下親君子而君子不容,如林俊、孫交、彭澤之去是也。遠小人而小人尚在,如張璁、桂萼之用是也。且今伏闕諸臣多死徙,而御史王懋、郭楠又謫譴,竊以為罰過重矣。」萼、璁遂求去,優詔慰留。尋進詹事兼翰林學士。議世廟神道及太后謁廟禮,復排廷議,希合帝指。帝益以為賢,兩人氣益盛。而閣臣抑之,不令與諸翰林等。兩人乃連章攻費宏並石缶,齮之去。給事中陳洸犯重辟,萼與尚書趙鑒攘臂爭,為南京給事中所劾,不問。嘗陳時政,請預蠲六年田租,更登極初宿弊,寬登聞鼓禁約,復塞上開中制,懲奸徒阻絕養濟院,聽窮民耕城垣陾地,停外吏赴部考滿,申聖敬,廣聖孝,凡數事。多議行。

六年三月、礼部右侍郎に進み、兼官はもとの如し。時にちょうど京察が行われ、南京の言官が拾遺して萼に及んだ。萼が上疏して言うには、「故輔楊廷和は私党を広く植え、聖聡を蔽うこと六年、今は次第に斥逐されたが、なお遺奸が言路に在る。昔、憲宗の初年、科道に拾遺を命じた後、互いに糾劾させ、言路はすなわち清まった。制の如く挙行を請う」と。章は吏部に下り、侍郎孟春らが言うには、「憲宗にこの詔は無い。萼は論ぜられて報復し、衆心を厭うすべがない」と。萼が言うには、「詔は憲宗の文集に出ている。春は言官に媚びようとし、併せて按問すべきである」と。章は部に下って再議され、春らが言うには、成化中に科道で超擢されて巡撫となり不称な者があり、憲宗が互いに劾させ、去った者が七人いたが、考察の拾遺とは比べられない、と。帝はついに萼の言を是とし、速やかに挙行するよう促した。給事中と御史が争い、ともに俸を奪われた。春らはすなわち御史儲良才ら四人の名を上奏した。帝はただ良才を罷免し、特旨をもって給事中鄭自璧・孟奇を斥けた。かつ部院に再核させ、さらに給事中余経ら四人、南京給事中顧溱ら数人を罷免して、やっと止んだ。

原文六年三月,進禮部右侍郎,兼官如故。時方京察,南京言官拾遺及萼。萼上言:「故輔楊廷和廣植私黨,蔽聖聰者六年,今次第斥逐,然遺奸在言路。昔憲宗初年,命科道拾遺後,互相糾劾,言路遂清,請舉行如制。」章下吏部,侍郎孟春等言:「憲宗無此詔。萼被論報復,無以厭眾心。」萼言:「詔出憲宗文集。春欲媚言官,宜並按問。」章下部再議,春等言成化中科道有超擢巡撫不稱者,憲宗命互劾,去者七人,非考察拾遺比。帝終然萼言,趣令速舉。給事御史爭之,並奪俸。春等乃以御史儲良才等四人名上。帝獨黜良才,而特旨斥給事中鄭自璧、孟奇。且令部院再核,復黜給事中余經等四人、南京給事中顧溱等數人,乃已。

その年の九月、吏部左侍郎に改めた。この月、礼部尚書に拝し、翰林學士を兼ねた。故事によれば、尚書が學士を兼ねることはなく、萼から始まった。ひと月を過ぎず、吏部尚書に遷り、銀章二顆を賜い、「忠誠靜慎」「繩愆匡違」と曰い、密封して事を言うことを輔臣と同等にさせた。七年正月、手敕をもって太子太保を加えた。『明倫大典』が成り、少保兼太子太傅を加えた。

原文其年九月改吏部左侍郎。是月拜禮部尚書,兼翰林學士。故事,尚書無兼學士者,自萼始。甫逾月,遷吏部尚書,賜銀章二,曰「忠誠靜慎」,曰「繩愆匡違」,令密封言事與輔臣埒。七年正月,手敕加太子太保。《明倫大典》成,加少保兼太子太傅。

萼は志を得てから、日に怨みを報いることを事とした。陳九疇・李福達・陳洸の獄において、先後して彭澤・馬録・葉応驄らに株連すること甚だ多く、あるいは陥れられて謫戍に至った。廷臣はその兇威を畏れない者はなかった。ただ疏を上って建言の獄罪の鄧継曾・季本らを推薦し、事によって貶謫された黄国用・劉秉鑒らを挙げ、諸人は量移を得た。世もまた少しこれによって萼を賢しとした。しかし王守仁の起用は、萼が実にこれを推薦した。後に、己に附かないことを恨み、力強く齮齕した。守仁が卒すると、極言して醜く誹謗し、その世封を奪い、諸恤典は皆与えなかった。八年二月、本官をもって武英殿大学士を兼ね、機務に参与することを命じられた。初め、萼と璁が召しに赴く時、廷臣は先朝の馬順の故事に倣い、左順門で捶殺しようとしたが、武定侯郭勛の家に走って免れた。勛はすなわち深く結び、また帝の眷顧を受けて禁兵を典することとなった。久しくして、勛の奸状が大いに露わになり、璁と霍韜が力を尽くして勛を庇った。萼は帝がすでにこれを憎んでいることを知り、ただその兇暴貪狡の数事を疏にして挙げ、勛はすなわち罪を得た。楊一清が首輔として持重であり、萼と璁は好んで紛更し、かつ己を圧するのを憎んだので、遂に相容れなくなった。

原文萼既得誌,日以報怨為事。陳九疇、李福達、陳洸之獄,先後株連彭澤、馬錄、葉應驄等甚眾,或被陷至謫戍。廷臣莫不畏其兇威。獨疏薦建言獄罪鄧繼曾、季本等,因事貶謫黃國用、劉秉鑒等,諸人得量移。世亦稍以此賢萼。然王守仁之起也,萼實薦之。已,銜其不附己,力齮龁。及守仁卒,極言醜詆,奪其世封,諸恤典皆不予。八年二月命以本官兼武英殿大學士入參機務。初,萼、璁赴召,廷臣欲仿先朝馬順故事,於左順門捶殺之,走武定侯郭勛家以免。勛遂與深相結,亦蒙帝眷典禁兵。久之,勛奸狀大露,璁、霍韜力庇勛。萼知帝已惡之,獨疏其兇暴貪狡數事,勛遂獲罪。楊一清為首輔持重,萼、璁好紛更,且惡其壓己,遂不相能。

給事中孫応奎が三臣の賢否を鑑別することを請い、萼を最も力強く誹謗した。帝はすでに萼を疑い、宿愆を洗い流し、君臣終始の義を全うするよう命じた。萼はすなわち大いに懼れ、弁明を疏にし、かつ疾を称して休暇を乞うた。帝は報じて曰く、「卿が事を行うには、公議に勉めて従うべきであり、前日の忠を負かぬようにせよ」と。萼はますます懼れた。給事中王準が因って萼が私人李夢鶴を御医に挙げたことを弾劾した。詔が吏部に下り、夢鶴は考選によるもので私心はないと言った。帝は終に疑いとし、太医院に更に考査させた。言官は帝の意がすでに移ったことを知り、給事中陸粲が極力その罪を論じ、かつ夢鶴が萼の家人呉従周・序班桂林と居間して賄賂を行ったことを言った。奏が入ると、帝は大いに悟り、直ちに萼の官を奪い、尚書として致仕させた。璁もまた政を罷められた。帝はふたたび二人の罪状を列挙して廷臣に詔し、大略に言うには、「その自用自恣、君に負い国に負うこと、為す事端は衆に見えるところであり、而して萼は特に甚だしい。法は刑典に置くべきであるが、特に寛貸する」と。すなわち夢鶴らを法司に下し、皆自白した。まもなく、霍韜が二度疏を上って萼を弁護し、一清と法司が萼の贓罪を構成したと言った。一清はすなわち去位し、刑部尚書周倫は南京に調され、郎中・員外は皆職を奪われ、法司に錦衣鎮撫官と会して再審させた。すなわち夢鶴らが仮托して私を行い、萼とは関わりがないと言った。詔して夢鶴・林の籍を削り、従周を論罪し、萼は散官を復した。この時、璁はすでに召還されていた。史館の儒士蔡圻は帝が必ず萼を復すことを知り、疏を上って萼の功を称え、これを召すことを請うた。帝はすなわち敕を賜い、撫按官に上道を促させた。萼が未だ至らぬうちに、国子生銭潮らがふたたび萼を促すことを請うた。帝は怒って曰く、「大臣の進退に、幺麽たる者が敢えて与聞するのか」と。蔡圻とともに吏に下した。明年四月に還朝し、奪われた官を全て復し、なお機務に参与した。

原文給事中孫應奎請鑒別三臣賢否,詆萼最力。帝已疑萼,令滌宿愆,全君臣終始之義。萼乃大懼,疏辨,且稱疾乞休。帝報曰:「卿行事須勉徇公議,庶不負前日忠。」萼益懼。給事中王準因劾萼舉私人李夢鶴為御醫。詔下吏部,言夢鶴由考選,無私。帝終以為疑,命太醫院更考。言官知帝意已移,給事中陸粲極論其罪,並言夢鶴與萼家人吳從周、序班桂林居間行賄事。奏入,帝大悟,立奪萼官,以尚書致仕。璁亦罷政。帝復列二人罪狀詔廷臣,略言:「其自用自恣,負君負國,所為事端昭然眾見,而萼尤甚。法當置刑典,特寬貸之。」遂下夢鶴等法司,皆首服。無何,霍韜兩疏訟萼,言一清與法司構成萼贓罪。一清遂去位,刑部尚書周倫調南京,郎中、員外皆奪職,命法司會錦衣鎮撫官再讞。乃言夢鶴等假托行私,與萼無與。詔削夢鶴、林籍,從周論罪,萼復散官。是時璁已召還。史館儒士蔡圻知帝必復萼,疏頌萼功,請召之。帝乃賜敕,令撫按官趣上道。萼未至,國子生錢潮等復請趣萼。帝怒曰:「大臣進退,幺麽敢與聞耶?」並圻下吏。明年四月還朝,盡復所奪官,仍參機務。

萼は初め鋭意功名に励み、勇んで事を任じ、物議を恤れみず、驟に摧抑され、気はこれに慑え、敢えて再び放恣しなかった。位に居ること数ヶ月、屡々疾を引き、帝はすなわち優旨をもって慰留した。十年正月、請いを得て帰り、家に卒した。太傅を贈られ、文襄と謚された。

原文萼初銳意功名,勇任事,不恤物議,驟被摧抑,氣為之懾,不敢復放恣。居位數月,屢引疾,帝輒優旨慰留。十年正月得請歸,卒於家。贈太傅,謚文襄。

萼の論奏したところ、『帝王心学論』・『皇極論』・『易・復卦』・『礼・月令』及び進めた『禹貢図』・『輿地図説』は、皆君徳時政に裨益があった。性猜狠にして、異己を排することを好み、以て故に物論に容れられなかった。初め璁と相得て甚だ歓び、ともに政府に居るに及び、遂に相失するに至った。

原文萼所論奏,《帝王心學論》、《皇極論》、《易·復卦》、《禮·月令》及進《禹貢圖》、《輿地圖說》,皆有裨君德時政。性猜狠,好排異己,以故不為物論所容。始與璁相得歡甚,比同居政府,遂至相失。

方献夫

原文方獻夫

方献夫、字は叔賢、南海の人。生まれて孤となった。弱冠にして弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に改まった。帰って母を養うことを乞い、すなわち母の憂に服した。正徳中、礼部主事に授けられ、吏部に調じ、員外郎に進んだ。主事王守仁と学を論じ、これを悦び、すなわち弟子となることを請うた。まもなく病を謝して帰り、西樵山中で書を読むこと十年。

原文方獻夫,字叔賢,南海人。生而孤。弱冠舉弘治十八年進士,改庶吉士。乞歸養母,遂丁母憂。正德中,授禮部主事,調吏部,進員外郎。與主事王守仁論學,悅之,遂請為弟子。尋謝病歸,讀書西樵山中者十年。

嘉靖と改元し、夏に還朝する途中、「大礼」の議が未だ定まらぬと聞き、疏を草して曰く。

原文嘉靖改元,夏還朝,道聞「大禮」議未定,草疏曰:

先王が礼を制定したのは、もとより人情に基づくものである。君子が事を論ずるには、名と実を究めるべきである。窃かに見るに、近頃礼官の議するところは、人情に合わず、名実に当たらないものがある。一つは『礼経』の言葉を守り、一つは宋儒の説に従うものである。臣は独りこれを然りとせず。『礼経・喪服』伝に曰く「如何にして以て人の後と為すべしや?支子可なり」と。また曰く「人の後と為す者は孰れを後とすや?大宗を後とす」と。「大宗とは、尊ぶべき統なり」と。「絶つべからざるなり、故に族人は支子を以て大宗を後とす。適子は大宗を後とすべからず」。この礼を為す者は、蓋し支子有りて後に人の後と為すべく、人の後を絶ちて以て人の後と為す者無きを謂うのである。今、興献帝はただ陛下一人を生み、別に支庶無し。乃ちその後を絶たしめて孝宗を後とせんとは、豈に人情ならんや。且つ人の後と為す者は、父嘗て之を立てて子と為し、子嘗て之に事えて父と為す。故に卒してその服を服するのである。今、孝宗は嘗て武宗有り、未だ嘗て陛下を子と為さず。陛下は孝宗に於いて未だ嘗て三年の服を服せず。これは実に未だ嘗て孝宗を後とせざるなり。而して強いて之を考と称するは、豈に名実ならんや。この議を為す者は、その『礼経』の言葉に合するを見ざるなり。

原文先王制禮,本緣人情。君子論事,當究名實。竊見近日禮官所議,有未合乎人情,未當乎名實者,一則守《禮經》之言,一則循宋儒之說也。臣獨以為不然。按《禮經·喪服》傳曰「何如而可以為人後?支子可也」。又曰「為人後者孰後?後大宗也」。「大宗者,尊之統也」。「不可以絕,故族人以支子後大宗也。適子不得後大宗」。為是禮者,蓋謂有支子而後可以為人後,未有絕人之後以為人後者也。今興獻帝止生陛下一人,別無支庶,乃使絕其後而後孝宗,豈人情哉!且為人後者,父嘗立之為子,子嘗事之為父,故卒而服其服。今孝宗嘗有武宗矣,未嘗以陛下為子。陛下於孝宗未嘗服三年之服,是實未嘗後孝宗也,而強稱之為考,豈名實哉!為是議者,未見其合於《禮經》之言也。

また程頤の『濮議』に按ずるに、「英宗既に仁宗を以て父と為す、当に濮王を以て親と為すべからず」と謂う。これは宋儒の説が善からざるに非ず、実に今日の事が同じからざるなり。蓋し仁宗は嘗て英宗を宮中に育て、これは実に父子と為す。孝宗は未だ嘗て陛下を宮中に育てず。その同じからざる者一。孝宗には武宗有りて子と為す。仁宗は未だ嘗て子有らず。その同じからざる者二。濮王には別に子有りて絶たずとすべし。興献帝には別子無し。その同じからざる者三。豈に濮王の事を以て今日の事に比すべけんや。この議を為す者は、その宋儒の説を善く述べるを見ざるなり。

原文又按程頤《濮議》謂「英宗既以仁宗為父,不當以濮王為親」。此非宋儒之說不善,實今日之事不同。蓋仁宗嘗育英宗於宮中,是實為父子。孝宗未嘗育陛下於宮中,其不同者一。孝宗有武宗為子矣,仁宗未嘗有子也,其不同者二。濮王別有子可以不絕,興獻帝無別子也,其不同者三。豈得以濮王之事比今日之事哉?為是議者,未見其善述宋儒之說也。

若し孝宗は後無くして可からず、故に必ず陛下を子と為さんと欲すと謂わば、これは尤も大道に達せざる者なり。孝宗の心を推すに、所以に必ず後を有さんと欲するは、祖宗の祀を絶たず、天下社稷の重きを失わざるに在るのみ。豈に必ず拘拘として父子の称に拘り、而る後に後有りと為さんや。孝宗には武宗有り、武宗には陛下有り。これは祖宗の祀を絶たず、天下社稷の重きを失わざるなり。これは実に後有りと為すなり。且つ武宗は天下に君たりること十有六年。孝宗の後無きを忍びず、独り武宗の後無きを忍ぶべけんや。これは尤も通ぜざる説なり。夫れ興献帝は当に父とすべくして、父と為すを得ず。孝宗は当に父とすべからずして、強いて父と称す。武宗は当に継ぐべくして、継ぐを得ず。これは一挙にして三失あり。臣はその可なるを見ざるなり。

原文若謂孝宗不可無後,故必欲陛下為子,此尤不達於大道者也。推孝宗之心,所以必欲有後者,在不絕祖宗之祀,不失天下社稷之重而已,豈必拘拘父子之稱,而後為有後哉。孝宗有武宗,武宗有陛下,是不絕祖宗之祀,不失天下社稷之重矣,是實為有後也。且武宗君天下十有六年。不忍孝宗之無後,獨忍武宗之無後乎?此尤不通之說也。夫興獻帝當父也,而不得父。孝宗不當父也,而強稱為父。武宗當繼也,而不得繼。是一舉而三失焉,臣未見其可也。

且つ天下未だ嘗て父無きの国無し。瞽瞍人を殺せば、舜窃かに負いて逃る。今、陛下にその父を捨てて天下を有たしめんとは、陛下何を以て心と為さんや。臣は陛下の純孝の心を知る。寧ろ天下有らずとも、決してその父を父とせざるを忍ばざるべし。説く者また興献帝は当に帝と称すべからずと謂う。これは尤も大道に達せざる者なり。孟子曰く「孝子の至れるは、親を尊ぶより大なるは莫し」。周公は太王・王季を追王し、子思は以て達孝と為す。豈に子天子と為りて、父帝と称するを得ざる者あらんや。今日の事、臣嘗て之が説を為すに曰く、陛下の二宗を継ぐは、当に統を継ぎて嗣を継がず。興献の群廟に異なるは、帝を称して宗を称せざるに在り。夫れ帝王の体は、士庶と相同からず。統を継ぐ者は、天下の公、三王の道なり。嗣を継ぐ者は、一人の私、後世の事なり。興献の帝と称するを得るは、陛下を以て天子と為すによる。宗と称するを得ざるは、実に未だ嘗て位に在らざるによる。伏して朝臣に宣示し、復た孝宗を『皇伯』と称し、興献帝を『皇考』と称し、別に廟を立てて之を祀らんことを乞う。夫れ然る後に人情に合し、名実に当たり、唯だ先王の礼を制するの意を得るのみならず、抑もまた陛下の純孝の心を遂げん。

原文且天下未嘗有無父之國也。瞽瞍殺人,舜竊負而逃。今使陛下舍其父而有天下,陛下何以為心哉!臣知陛下純孝之心,寧不有天下,決不忍不父其父也。說者又謂興獻帝不當稱帝,此尤不達於大道者也。孟子曰「孝子之至,莫大乎尊親」。周公追王太王王季,子思以為達孝。豈有子為天子,父不得稱帝者乎?今日之事,臣嘗為之說曰:陛下之繼二宗,當繼統而不繼嗣。興獻之異群廟,在稱帝而不稱宗。夫帝王之體,與士庶不同。繼統者,天下之公,三王之道也。繼嗣者,一人之私,後世之事也。興獻之得稱帝者,以陛下為天子也。不得稱宗者,以實未嘗在位也。伏乞宣示朝臣,復稱孝宗曰『皇伯』,興獻帝曰『皇考』,別立廟祀之。夫然後合於人情,當乎名實,非唯得先王制禮之意,抑亦遂陛下純孝之心矣。

疏を具えて、廷臣方に異議を抵排するを見、懼れて敢えて上せず。桂萼に見られ、席書の疏と並び表を上ぐ。帝大いに喜び、直ちに廷議に下す。廷臣遂に献夫を奸邪と目し、至って往還せず。献夫乃ち門を杜ちて仮を乞う。既に請うを得ず、則ち『大礼』上下二論を進め、その説益々詳し。時に已に張璁・桂萼を南京より召す。至れば即ち用いて翰林学士と為し、而して献夫を用いて侍講学士と為す。攻むる者四起し、献夫も亦力辞す。帝遂に諸人の議を用いて「大礼」を定む。ここにより帝の眷を受くること璁・萼に埒し。四年冬、少詹事に進む。献夫終に自ら安からず、病を謝して帰る。

原文疏具,見廷臣方抵排異議,懼不敢上,為桂萼所見,與席書疏並表上之。帝大喜,立下廷議。廷臣遂目獻夫為奸邪,至不與往還。獻夫乃杜門乞假,既不得請,則進《大禮》上下二論,其說益詳。時已召張璁、桂萼於南京,至即用為翰林學士,而用獻夫為侍講學士。攻者四起,獻夫亦力辭。帝卒用諸人議定「大禮」,由是荷帝眷與璁、萼埒。四年冬進少詹事。獻夫終不自安,謝病歸。

六年、『明倫大典』を修するを召す。献夫は霍韜と同里にして、礼を議するを以て親善し、又同じく召しに赴く。乃ち合疏して言う、「古より力主として後と為すの議を為す者は、宋には司馬光より甚しき莫く、漢には王莽より甚しき莫し。『濮議』を主る者は、光を首とし、呂誨・範純仁・呂大防之に附く。而して光の説は人を惑わすこと最甚だし。哀帝の議を主る者は、莽を首とし、師丹・甄邯・劉歆之に附く。而して莽の説は流毒最も深し。宋儒は王莽の説を祖述して以て万世を惑わし、後学を誤る。臣等謹んで『漢書』・『魏志』・『宋史』に按じ、略く王莽・師丹・甄邯の奏、及びその事の始末、並びに魏明帝の詔、濮園の議を采り、論正して以て其の後に附す。乞う、纂修官に付し、参互して考訂せしめ、天下の臣子に後と為すの議実に莽に起こり、宋儒の論実に莽に出づるを知らしめ、下は群疑を洗い、上は聖孝を彰わさん」。詔して其の書を史館に下す。朝に還りて未だ幾ばくもあらず、命じて大理寺事を署せしめ、璁・萼と李福達の獄を覆讞す。萼等は馬録に重辟を議す。献夫力争して死を減ずるを得。其の年九月、礼部右侍郎を拝し、仍び学士を兼ね、直経筵日講す。尋いで萼に代わりて吏部左侍郎と為り、復た代わりて礼部尚書と為る。『明倫大典』成り、太子太保を加う。

原文六年召修《明倫大典》。獻夫與霍韜同里,以議禮相親善,又同赴召,乃合疏言:「自古力主為後之議者,宋莫甚於司馬光,漢莫甚於王莽。主《濮議》者,光為首,呂誨、範純仁、呂大防附之,而光之說惑人最甚。主哀帝議者,莽為首,師丹、甄邯、劉歆附之,而莽之說流毒最深。宋儒祖述王莽之說以惑萬世,誤後學。臣等謹按《漢書》、《魏志》、《宋史》,略采王莽、師丹、甄邯之奏,與其事始末,及魏明帝之詔,濮園之議,論正以附其後。乞付纂修官,參互考訂,俾天下臣子知為後之議實起於莽,宋儒之論實出於莽,下洗群疑,上彰聖孝。」詔語下其書於史館。還朝未幾,命署大理寺事,與璁、萼覆讞李福達獄。萼等議馬錄重辟,獻夫力爭得減死。其年九月拜禮部右侍郎,仍兼學士,直經筵日講。尋代萼為吏部左侍郎,復代為禮部尚書。《明倫大典》成,加太子太保。

献夫は璁・萼に比べて性格が寛大平穏であり、事に臨んでも時に自らの主張を持ち、必ずしも全てに迎合しなかった。萼が陳洸の獄を覆し、問官葉応驄らを悉く逮捕・尋問するよう請うた際、献夫の言葉により多くは逮捕を免れた。思恩・田州は毎年のように乱が起こり、献夫は王守仁を専任とし、鎮守中官鄭潤・総兵官朱騏を罷免するよう請うたので、帝は潤・騏を召還した。思・田が平定された後、守仁が城を築き邑を建てることを議すると、萼は痛烈にこれを誹謗した。献夫はその功績の様子を歴陳し、築城は中止されずに済んだ。璁・萼が楊一清と対立すると、献夫は災異に因んで和衷の説を進言し、また謫戍・削籍された余寛・馬明衡らを召還すること、及び進士の数を倍増することを請うた。帝は優詔でこれに答え、寛らは結局用いられなかった。献夫は尼僧・道姑が風俗を害するとし、改嫁を強制するよう請い、帝はこれに従った。また霍韜の言に因り、度牒のない僧道・私創の寺観を悉く淘汰した。帝が陳皇后の喪を殺そうとした時、献夫は礼を引き合いに出して固く争った。まもなく再び萼に代わって吏部尚書となった。萼・璁が政務を罷免されると、詔により吏部が両人の私党を審査することとなった。献夫は言う、「陸粲らが弾劾した百十人は、誣告された者も少なくない。かつて璁・萼を攻撃した者を、党として去らせた。今璁・萼に附く者を、また党として去らせようとする。縉紳の禍はいつ終わるのか」と。そこで黄綰ら二十三人を留任するよう奏し、儲良才ら十二人を罷免した。良才は、初め御史であったが、考察により罷免された。上疏して楊廷和を誹謗し、吏部侍郎孟春らを奸党と指弾したため、萼がその復職を請うたのである。この時斥去され、世論は快とした。安昌伯銭維圻が卒すると、庶兄の維垣が爵位継承を請うた。献夫は外戚の封は世襲すべきでないと述べ、歴代の漢・唐・宋の事例を引いて証とした。帝はその言を善とし、廷議に下したので、外戚の世襲封は永久に絶えた。

原文獻夫視璁、萼性寬平,遇事亦間有執持,不盡與附會。萼反陳洸獄,請盡逮問官葉應驄等,以獻夫言多免逮。思恩、田州比歲亂,獻夫請專任王守仁,而罷鎮守中官鄭潤、總兵官朱騏,帝乃召潤、騏還。思、田既平,守仁議築城建邑,萼痛詆之。獻夫歷陳其功狀,築城得毋止。璁、萼與楊一清構,獻夫因災異進和衷之說,且請收召謫戍削籍余寬、馬明衡輩,而倍取進士之數。帝優詔答之,寬等卒不用。獻夫以尼僧、道姑傷風化,請勒令改嫁,帝從之。又因霍韜言,盡汰僧道無牒、毀寺觀私創者。帝欲殺陳後喪,獻夫引禮固爭。尋復代萼為吏部尚書。萼、璁罷政,詔吏部核兩人私黨。獻夫言:「陸粲等所劾百十人,誣者不少。昔攻璁、萼者,以為黨而去之。今附璁、萼者,又以為黨而去之。縉紳之禍何時已。」乃奏留黃綰等二十三人,而黜儲良才等十二人。良才者,初為御史,以考察黜。上疏詆楊廷和,指吏部侍郎孟春等為奸黨,萼因請復其職。至是斥去,時論快之。安昌伯錢維圻卒,庶兄維垣請嗣爵。獻夫言外戚之封不當世及,歷引漢、唐、宋事為證。帝善其言,下廷議,外戚遂永絕世封。

璁・萼が召還された後、羽林指揮劉永昌が都督桂勇を弾劾し、その言葉は萼及び兵部尚書李承勛に及んだ。また御史廖自顯を弾劾し、自顯は逮捕された。その後、また兵部郎中盧襄らを告発した。献夫は永昌を審問処罰するよう請い、奸人が流言飛語で善類を中傷することを許すなと述べた。帝は従わなかった。献夫はそこで退任を求め、帝もまた許さなかった。給事中孫応奎が献夫が親戚故旧の大理少卿洗光・太常卿彭澤を私したと弾劾した。帝は聞き入れなかった。都給事中夏言もまた献夫が選法を乱し、張璁の嫌う浙江参政黄卿を陝西に転任させ、璁の愛する党以平を代わりに用い、邪曲な彭澤を越等して太常に昇進させたこと、及びその他の私昵した事柄は全て証跡があると弾劾し、献夫が賄賂を交通したのではないかと疑った。上疏が入ると、帝は卿らを元の官に戻すよう命じた。献夫及び璁が上疏して弁明し、引退を申し出た。帝は二人の意に逆らうことを重んじ、再び卿らを前の擬定通りとした。

原文璁、萼既召還,羽林指揮劉永昌劾都督桂勇,語侵萼及兵部尚書李承勛。又劾御史廖自顯,自顯坐逮。已,又訐兵部郎中盧襄等。獻夫請按治永昌,毋令奸人以蜚語中善類。帝不從。獻夫遂求退,帝亦不允。給事中孫應奎劾獻夫私其親故大理少卿洗光、太常卿彭澤。帝不聽。都給事中夏言亦劾獻夫壞選法,徙張璁所惡浙江參政黃卿於陜西,而用璁所愛黨以平代,邪回之彭澤逾等躐遷太常,及他所私昵,皆有跡,疑獻夫交通賄賂。疏入,帝令卿等還故官。獻夫及璁疏辨,因引退。帝重違二人意,復令卿等如前擬。

まもなく、給事中薛甲が言う、「劉永昌は武夫をもって冢宰を弾劾し、張瀾は軍余をもって勲臣を弾劾し、下が上を凌ぎ上は廃れ、どこで止まるか分からない。廉遠堂高の義を存し、小人が攻撃・告発をほしいままにできないように願う」と。上奏文は吏部に下された。献夫らは甲の言に従い、都察院に吏民が虚言を弄して政を乱すことを厳禁するよう勅し、併せて両京の給事御史及び天下の巡撫・按察官に論事は大綱を先とし細かい欠点を責めないよう戒めることを請うた。当時、帝はまさに耳目を広げて百僚の真偽を周知しようとしており、献夫の議を得て快く思わず、取り上げなかった。そこで給事中饒秀が甲が阿附していると弾劾し、「劉永昌以後、言官が大臣を議したと聞かない。ただ夏言・孫応奎・趙漢が璁・献夫に及んで議しただけである。漢は既に詰問譴責を受け、言・応奎の上奏したことは皆用人行政の過失であり、甲はこれを細事を挙げるものと指弾し、ひたすら大臣を称揚する。郭勛のように貪欲放縦な者も、人に言われたくないのであろう。必ずや大臣が横行し、群臣が口を閉ざすことになろう。万一逆人がその間に混じったら、どうするのか」と。奏上されると、帝は内心その言を善とした。吏部に再議を下した。甲は詳細な上疏で自らを弁明したが、帝は部の奏上を待たなかったことを嫌い、二官を削って外任とするよう命じた。部は甲は既に処分されたとして、再び議しなかった。帝は対置するよう責め、献夫の俸給を一月停止し、郎官はそれを倍にした。献夫は自ら満足せず、二度上疏して病を理由に引退を願い出た。帝はすぐに許可したが、なお空位を以て待った。

原文頃之,給事中薛甲言:「劉永昌以武夫劾冢宰,張瀾以軍余劾勛臣,下淩上替,不知所止,願存廉遠堂高之義,俾小人不得肆攻訐。」章下吏部。獻夫等請從甲言,敕都察院嚴禁吏民,毋得譸張亂政,並飭兩京給事御史及天下撫按官論事,先大體毋責小疵。當是時,帝方欲廣耳目,周知百僚情偽,得獻夫議不懌,報罷。於是給事中饒秀劾甲阿附:「自劉永昌後,言官未聞議大臣,獨夏言、孫應奎、趙漢議及璁、獻夫耳。漢已蒙詰譴,言、應奎所奏皆用人行政之失,甲乃指為毛舉細故,而頌大臣不已。貪縱如郭勛,亦不欲人言。必使大臣橫行,群臣緘口。萬一有逆人廁其間,奈何!」奏入,帝心善其言。下吏部再議。甲具疏自明,帝惡其不俟部奏,命削二官出之外。部謂甲已處分,不復更議。帝責令置對,停獻夫俸一月,郎官倍之。獻夫不自得,兩疏引疾。帝即報允,然猶虛位以俟。

十年秋、詔を下して召還した。献夫は上疏して辞退し、梁材・汪鋐・王廷相を自らの代わりに推挙した。帝は手詔で褒めて答え、行人蔡叆を遣わして催促した。叆が門に及ぶと、献夫は西樵に潜り、病を理由に辞退した。その後、使いが再び至り、別に用いるというので、ようやく道についた。翌年五月に京に至り、元の官のまま武英殿大学士を兼ねて内閣に入り政務を補佐するよう命じられた。初め、献夫に「忠誠直諒」の銀章を賜り、事あれば密封して奏聞するよう命じていた。献夫が帰郷した際、朝廷に返上していたが、この時また以前のように賜った。吏部尚書王瓊が卒すると、献夫にこれを掌らせた。献夫は家に居る時、身分を引き立てて自ら尊大にし、監司が謁見すると、しばしば病と称して応じなかった。家人姻党が郡中で横行し、郷人が屡々告発したが、僉事龔大稔がこれを受理した。献夫が朝廷に戻ると、大稔に依頼した。ちょうど大稔が事に坐して落職し、献夫がしたのではないかと疑い、遂に上疏してその不法な事数件を列挙し、言葉は霍韜に及んだ。献夫が上疏して弁明すると、帝は献夫を眷顧していたので、大稔は遂に逮捕され官籍を削られた。十月、彗星が東井に現れた。御史馮恩が献夫を兇奸で巧みに弁舌を弄し、威福を播弄して将に国家に不利ならんとするものと誹謗し、故に献夫が吏部を掌ると彗星が現れたのだと言った。帝は怒り、彼を獄に下した。献夫もまた病を理由に休暇を乞い、優詔で許さなかった。

原文十年秋有詔召還。獻夫疏辭,舉梁材、汪鋐、王廷相自代。帝手詔褒答,遣行人蔡叆趣之。叆及門,獻夫潛入西樵,以疾辭。既而使命再至,雲將別用,乃就道。明年五月至京,命以故官兼武英殿大學士入閣輔政。初,賜獻夫銀章曰「忠誠直諒」,令有事密封奏聞。獻夫歸,上之朝,至是復賜如故。吏部尚書王瓊卒,命獻夫掌之。獻夫家居,引體自尊,監司謁見,輒稱疾不報。家人姻黨橫於郡中,鄉人屢訐告,僉事龔大稔聽之。獻夫還朝,囑大稔。會大稔坐事落職,疑獻夫為之,遂上疏列其不法數事,詞連霍韜。獻夫疏辨,帝方眷獻夫,大稔遂被逮削籍。十月彗見東井。御史馮恩詆獻夫兇奸肆巧辨,播弄威福,將不利於國家,故獻夫掌吏部而彗見。帝怒,下之獄。獻夫亦引疾乞休,優詔不允。

献夫は恬退の名を飾り、連続して弾劾され、内心恥じた。大政を執りながらも、気力は萎えて振るわなかった。ただ帝が張延齢を殺そうとした時は、常に力強く争った。その時、桂萼は既に以前に卒していた。張璁が最も寵愛され、罷相すること屡々であった。霍韜・黄宗明が事を言って少しでも不適当だと、すぐに吏部に下された。献夫は帝の恩威が測り難いのを見て、職に居ること二年、三度上疏して病を理由に引退を願い出た。帝は優詔でこれを許し、駅伝車を利用させ、道中の費用を与えた。家に居ること十年で卒した。先に既に柱国・少保を加えられていたが、ここに太保を贈り、文襄と諡した。

原文獻夫飾恬退名,連被劾,中恧。雖執大政,氣厭厭不振。獨帝欲殺張延齡,常力爭。而其時桂萼已前卒。張璁最寵,罷相者屢矣。霍韜、黃宗明言事一不當,輒下之吏。獻夫見帝恩威不測,居職二歲,三疏引疾。帝優詔許之,令乘傳,予道里費。家居十年卒。先已加柱國、少保,乃贈太保,謚文襄。

献夫は議礼に縁って急に貴くなった。璁・萼と共に事に当たり、持論は頗る公平で寛大であったので、人は甚だしく彼を憎まなかった。

原文獻夫緣議禮驟貴。與璁、萼共事,持論頗平恕,故人不甚惡之。

夏言

原文夏言

夏言、字は公謹、貴溪の人。父は鼎、臨清知州。言は正徳十二年の進士に挙げられ、行人に授けられ、兵科給事中に抜擢された。性質は機敏で、文章をよくした。言路に居ると、謇諤として自らを任じた。世宗が嗣位すると、上疏して言う、「正徳以来、壅蔽は極まっている。今陛下は諸政を維新される。日々朝見の後、文華殿に御して章疏を閲覧し、閣臣を召して面決せられたい。或いは事が大利害に関わるならば、廷臣を下して集議させられたい。褻近の者に謀り、径に中旨を発するべきではない。聖意が予奪されるときも、必ず内閣に下して議した後に行い、壅蔽矯詐の弊を絶たれたい」と。帝は嘉納した。詔を奉じて御史鄭本公・主事汪文盛とともに親軍及び京衛の冗員を審査し、三千二百人を淘汰し、また九事を条陳して上奏した。輦下は粛清された。

原文夏言,字公謹,貴溪人。父鼎,臨清知州。言舉正德十二年進士,授行人,擢兵科給事中。性警敏,善屬文。及居言路,謇諤自負。世宗嗣位,疏言:「正德以來,壅蔽已極。今陛下維新庶政,請日視朝後,御文華殿閱章疏,召閣臣面決。或事關大利害,則下廷臣集議。不宜謀及褻近,徑發中旨。聖意所予奪,亦必下內閣議而後行,絕壅蔽矯詐之弊。」帝嘉納之。奉詔偕御史鄭本公、主事汪文盛核親軍及京衛冗員,汰三千二百人,復條九事以上。輦下為肅清。

嘉靖初年、夏言は御史樊継祖らとともに出向して荘田を巡察し、ことごとく奪還して民産に帰した。中官趙霦・建昌侯張延齢を弾劾し、上疏は合わせて七度に及んだ。後宮の城郭に近い荘田を親蚕廠・公桑園に改めること、一切の外戚からの求めや、河南・山東の奸人が民田を王府に献上することを禁ずることを請うた。逮捕された永平知府郭九皋を救った。荘奉夫人の弟邢福海・粛奉夫人の弟顧福が、旨を伝えて錦衣衛の世襲千戸に任じられようとしたが、夏言は力争して不可とした。諸々の上疏は概ね直言であり、人々に伝誦された。たびたび昇進して兵科都給事中となった。青羊山の賊平定の功罪を査定し、論奏はすべて妥当であった。副使牛鸞が賊中の連絡名簿を入手したが、夏言はこれを焼却して衆心を安んずるよう請うた。孝宗朝には、吏部・兵部の二部に毎季、両京の大臣および在外の文武方面官の履歴を具えて進上させたが、正徳以後は次第に廃れていたので、夏言の請いによってこれを復活させた。

原文嘉靖初,偕御史樊繼祖等出按莊田,悉奪還民產。劾中官趙霦、建昌侯張延齡,疏凡七上。請改後宮負郭莊田為親蠶廠、公桑園,一切禁戚裏求請及河南、山東奸人獻民田王府者。救被逮永平知府郭九臯。莊奉夫人弟邢福海、肅奉夫人弟顧福,傳旨授錦衣世千戶,言力爭不可。諸疏率諤諤,為人傳誦。屢遷兵科都給事中。勘青羊山平賊功罪,論奉悉當。副使牛鸞獲賊中交通名籍,言請毀之以安眾心。孝宗朝,令吏、兵二部每季具兩京大臣及在外文武方面官履歷進御,正德後漸廢,以言請復之。

嘉靖七年、吏科に転じた。当時、帝は礼文の事に鋭意であった。天地合祀は礼に合わないとして、二郊を分けて建て、日月を合わせて四郊としようとした。大学士張孚敬は決断できず、帝が太祖に占わせても吉と出ず、議論は一旦中止となった。ちょうど夏言が上疏して、帝が南郊で親耕し、后が北郊で親蚕して天下に率先すべきことを請うた。帝は南北郊の説が二郊分建と合致すると考え、張孚敬に旨を諭させた。夏言はそこで天地を分祀することを請うた。廷臣は反対を主張し、張孚敬も難色を示し、詹事霍韜が特に激しく誹謗した。帝は大いに怒り、霍韜を獄に下した。璽書を降して夏言を褒賞し、四品の服と俸禄を賜い、ついにその請いを容れた。また二郊の配享の議を賛成し、その言葉は『礼志』に詳しい。夏言はこれより大いに帝の眷顧を受けるようになった。郊壇の工事が始まると、ただちに夏言に監理させた。延綏が飢饉となると、夏言は僉都御史李如圭を推薦して巡撫とした。吏部が李如圭の後任を推挙したが、帝は用いず、再び推挙が夏言に及んだ。御史熊爵は、夏言が李如圭を出して自分の地位を確保したとし、張糸采にまで比した。帝は熊爵を厳しく責め、夏言に弁明させなかった。しかし夏言は不服で、熊爵を告発し、かつ新たな任命を辞そうとしたので、帝はやめさせた。

原文七年,調吏科。當是時,帝銳意禮文事。以天地合祀非禮,欲分建二郊,並日月而四。大學士張孚敬不敢決,帝卜之太祖亦不吉,議且寢。會言上疏請帝親耕南郊,後親蠶北郊,為天下倡。帝以南北郊之說,與分建二郊合,令孚敬諭旨,言乃請分祀天地。廷臣持不可,孚敬亦難之,詹事霍韜詆尤力。帝大怒,下韜獄。降璽書獎言,賜四品服俸,卒從其請。又贊成二郊配饗議,語詳《禮志》。言自是大蒙帝眷。郊壇工興,即命言監之。延綏饑,言薦僉都御史李如圭為巡撫。吏部推代如圭者,帝不用,再推及言。御史熊爵謂言出如圭為己地,至比之張糸采。帝切責爵,令言毋辨。而言不平,訐爵且辭新命,帝乃止。

張孚敬は百官を意のままに指図し、敢えて抗う者はいなかった。夏言は帝に知遇を受けたことを自負し、ただ一人でその下風に立たなかった。張孚敬はそこで大いに夏言の寵を害し、夏言もまた張孚敬が急に彭沢を太常卿に登用して自分を支持しなかったことを怨み、両人は遂に隙を生じた。夏言は上疏して張孚敬および吏部尚書方献夫を弾劾した。張孚敬・方献夫はともに上疏して弁明し、去職を求めた。帝は諸人を厚く遇していたので、両方を和解させた。夏言が顕要となってからは、張孚敬・方献夫・霍韜と対立し、ますます強直をもって深く自らを結びつけた。帝が郊礼をまとめて成書にしようとすると、夏言を侍読学士に抜擢し、纂修官を充て、経筵日講を直し、なお吏科都給事中を兼ねさせた。夏言はまた帝が文廟の祀典および大禘礼を更定することを賛成し、帝はますます喜んだ。十年三月、ついに少詹事に抜擢し、翰林学士を兼ね、院事を掌り、講官としての直講はもとどおりとした。夏言は眉目が朗らかで、美しい鬚髯があり、声は雄大で流暢、郷音を交えなかった。進講のたびに、帝は必ず目を注ぎ、大いに用いようとした。張孚敬の忌みはますます甚だしく、ついに彭沢とともに薛侃の獄をでっち上げ、夏言を法司に下した。やがて、帝が張孚敬の不正に気づき、張孚敬を罷免して夏言を釈放した。八月、四郊の工事が完成し、夏言を礼部左侍郎に進め、なお院事を掌らせた。一ヶ月余りして、李時に代わって本部尚書となった。諫官を去って一年も経たぬうちに六卿に登ったのは、これ以前にはなかったことである。

原文孚敬頤指百僚,無敢與抗者。言自以受帝知,獨不為下。孚敬乃大害言寵,言亦怨孚敬驟用彭澤為太常卿不右己,兩人遂有隙。言抗疏劾孚敬及吏部尚書方獻夫。孚敬、獻夫皆疏辨求去。帝顧諸人厚,為兩解之。言既顯,與孚敬、獻夫、韜為難,益以強直厚自結。帝欲輯郊禮為成書,擢言侍讀學士,充纂修官,直經筵日講,仍兼吏科都給事中。言又贊帝更定文廟祀典及大禘禮,帝益喜。十年三月遂擢少詹事,兼翰林學士,掌院事,直講如故。言眉目疏朗,美須髯,音吐弘暢,不操鄉音。每進講,帝必目屬,欲大用之。孚敬忌彌甚,遂與彭澤構薛侃獄,下言法司。已,帝覺孚敬曲,乃罷孚敬而釋言。八月,四郊工成,進言禮部左侍郎,仍掌院事。逾月,代李時為本部尚書。去諫官未浹歲拜六卿,前此未有也。

当時、士大夫はなお張孚敬を憎み、夏言を頼ってこれに抗した。夏言はすでに機敏さをもって帝の知遇を結び、また礼を下して士人に接した。御史喻希礼・石金が「大礼」の大獄で罪を得た諸臣を赦すよう請うた。帝は大いに怒り、夏言に弾劾させた。夏言は喻希礼・石金に悪意はないとし、帝に寛恕を請うた。帝は夏言に回答を求め、二人を詔獄に捕らえ、遠方に流罪とし、夏言が罪を引受けてようやく止んだ。これによって公卿の間で名声を大いに得た。帝が礼楽を制作するのは、多く夏言が尚書の時に議したものであり、閣臣李時・翟鑾はその位を充たすだけだった。帝は詩を作るたびに、しばしば夏言に賜い、夏言はすべて応和して石に刻んで進上し、帝はますます喜んだ。奏対や応制の文は、待たれてすぐに書き上げた。たびたび召見され、政事を諮問されると、よく帝の旨を窺い、それに附会した。銀章一つを賜り、密封して言事させ、その文は「学博才優」であった。先後して繍蟒・飛魚・麒麟の服、玉帯、兼金、上尊、珍饌、時物を賜うこと、月に虚しいことがなかった。張孚敬・方献夫が再び相次いで輔政に入ったが、帝の夏言への眷顧が厚いことを知り、敢えて争わなかった。やがてともに辞職した。議礼の諸人のうちただ霍韜のみが残り、夏言を仇敵としてやめなかった。十五年、順天府尹劉淑相の事をめぐり、霍韜と夏言が互いに攻撃し合った。霍韜はついに勝たず、事は『霍韜伝』に詳しい。夏言はこれによって気性が驕慢となった。郎中張元孝・李遂が少しでも逆らえば、すぐに奏上して左遷した。皇子が生まれると、帝は夏言に甚だ厚く賜った。初め太子太保を加え、少傅兼太子太傅に進めた。閏十二月、ついに武英殿大学士を兼ねて機務に参与した。行幸に扈従して陵を謁し、沙河に戻った時、夏言の厨房から出火し、郭勛・李時の帳幕に延焼し、帝が夏言に付した上疏六通も焼けた。夏言は単独で罪を引受けるべきであったが、郭勛らとともに謝罪し、譴責を受けた。当時李時が首輔であり、政務は多く夏言から出た。顧鼎臣が入閣すると、先輩で年長であることを恃み、かなり可否を言おうとした。夏言は快く思わず、顧鼎臣は遂に敢えて争わなかった。その冬、李時が卒去し、夏言が首輔となった。十八年、皇天上帝に冊表を捧げて薦めた功により、少師・特進光禄大夫・上柱国を加えられた。明代で人臣が上柱国を加えられた者はなく、これは夏言が自ら擬したものである。

原文時士大夫猶惡孚敬,恃言抗之。言既以開敏結帝知,又折節下土。御史喻希禮、石金請宥「大禮」大獄得罪諸臣。帝大怒,令言劾。言謂希禮、金無他腸,請帝寬恕。帝責言對狀,逮二人詔獄,遠竄之,言引罪乃已。以是大得公卿間聲。帝制作禮樂,多言為尚書時所議,閣臣李時、翟鑾取充位。帝每作詩,輒賜言,悉酬和勒石以進,帝益喜。奏對應制,倚待立辦。數召見,諮政事,善窺帝旨,有所傅會。賜銀章一,俾密封言事,文曰「學博才優」。先後賜繡蟒飛魚麒麟服、玉帶、兼金、上尊、珍饌、時物無虛月。孚敬、獻夫復相繼入輔。知帝眷言厚,亦不敢與較。已而皆謝事。議禮諸人獨霍韜在,仇言不置。十五年以順天府尹劉淑相事,韜、言相攻訐。韜卒不勝,事詳《韜傳》中。言由是氣遂驕。郎中張元孝、李遂與小忤,即奏謫之。皇子生,帝賜言甚渥。初加太子太保,進少傅兼太子太傅。閏十二月遂兼武英殿大學士入參機務。扈蹕謁陵,還至沙河,言庖中火,延郭勛、李時帳,帝付言疏六亦焚。言當獨引罪,與勛等合謝,被譙責焉。時李時為首輔,政多自言出。顧鼎臣入,恃先達且年長,頗欲有所可否。言意不悅,鼎臣遂不敢與爭。其冬,時卒,言為首輔。十八年,以祗薦皇天上帝冊表,加少師、特進光祿大夫、上柱國。明世人臣無加上柱國者,言所自擬也。

武定侯郭勛は寵愛を受け、夏言の寵を害した。また礼部尚書厳嵩も心の中で夏言を妬んだ。夏言と厳嵩が行幸に扈従して承天に至り、帝が顕陵を謁し終わると、厳嵩は再び表賀を請うたが、夏言は還京を待つよう乞うた。帝は取りやめを告げたが、心中大いに不愉快であった。厳嵩は帝の意向を知り、固く請うたので、帝は「礼楽は天子より出ずるも可なり」と言い、表賀させた。帝はこれより夏言を快く思わなくなった。帝が大峪山に行幸した時、夏言が居守の勅書を進めるのがやや遅れたので、帝は責めた。夏言は恐れて罪を請うた。帝は大いに怒って言った。「夏言は卑官から、張孚敬の郊礼の議によって進んだのに、怠慢で恭しみがなく、密疏を進めるのに賜った銀章を用いない。累次降した手勅をすべて返還せよ。」夏言はますます恐れ、上疏して謝罪した。銀章・手勅の追及を免れ、子孫のための百世の栄えとしたいと請い、言葉は甚だ哀切であった。帝の怒りは解けず、夏言が毀損したのではないかと疑い、礼部に追い取らせた。少師の勲階を削り、少保尚書大学士として致仕させた。夏言はそこで手勅四百余通と銀章とを上納した。数日後、怒りが解け、執行を止めさせた。再び少傅・太子太傅として入直させ、夏言は上疏して謝した。帝は喜び、初志を励まし、公を秉し正を保ち、衆怨を免れるよう諭した。夏言は「衆怨」というのが郭勛らのことだと心に知り、再び上疏して謝した。自らの処し方は他人に後れを取らず、ひたすら孤立を志し、衆に忌まれるのだと言った。帝は再び不愉快になり、詰責した。夏言は恐れおののいて謝罪し、ようやく許された。まもなく、雷が奉天殿を震わせた。夏言および顧鼎臣を召したが、時を過ぎても至らなかった。帝は再び詰責し、礼部に弾劾させた。夏言らは罪を請うたが、帝はまた夏言の傲慢を責め、顧鼎臣をも責めた。やがて、追い取られた銀章と御書を返還した。陝西から捷報が奏上されると、少師・太子太師を復し、吏部尚書に進め、華蓋殿大学士とした。江淮の賊が平定されると、璽書で奨励し、金幣を賜い、大学士の俸禄を兼支させた。

原文武定侯郭勛得幸,害言寵。而禮部尚書嚴嵩亦心妒言。言與嵩扈蹕承天,帝謁顯陵畢,嵩再請表賀,言乞俟還京。帝報罷,意大不懌。嵩知帝指,固以請,帝乃曰:「禮樂自天子出可也。」令表賀,帝自是不悅言。帝幸大峪山,言進居守敕稍遲,帝責讓。言懼請罪。帝大怒曰:「言自卑官,因孚敬議郊禮進,乃怠慢不恭,進密疏不用賜章,其悉還累所降手敕。」言益懼,疏謝。請免追銀章、手敕,為子孫百世榮,詞甚哀。帝怒不解,疑言毀損,令禮部追取。削少師勛階,以少保尚書大學士致仕。言乃以手敕四百餘,並銀章上之。居數日,怒解,命止行。復以少傅、太子太傅入直,言疏謝。帝悅,諭令勵初忠,秉公持正,免眾怨。言心知所雲眾怨者,郭勛輩也,再疏謝。謂自處不敢後他人,一誌孤立,為眾所忌。帝復不悅,詰責之。惶恐謝,乃已。未幾,雷震奉天殿。召言及鼎臣不時至。帝復詰讓,令禮部劾之。言等請罪,帝復讓言傲慢,並責鼎臣。已,乃還所追銀章、御書。陜西奏捷,復少師、太子太師,進吏部尚書,華蓋殿。江淮賊平,璽書獎勵,賜金幣,兼支大學士俸。

鼎臣(夏言)既に歿し、翟鑾再び入閣すれども、恂恂として属吏の如く、敢えて少しも齟齬せず。而して霍韜、詹事府を掌るに入りて数怨を修む。郭勛、言と隙有るを以て、結びて己を助けしめ、三人日相構う。既にして韜死し、言・勛悪を交えること自若たり。九廟災有り、言方に疾を以て告在す。罷むるを乞うも、允さず。昭聖太后崩じ、詔して太子服制を問う。言報疏に訛字有り。帝切に言を責め、言謝罪し且つ家に還り疾を治めんことを乞う。帝益怒り、少保・尚書・大学士を以て致仕せしむ。言始めて帝の己を怒るを聞き、上に辺備十四策を御し、以て解かんことを冀う。帝曰く、「言既に忠謀を蘊むも、何ぞ堅く自愛し、朕の眷倚に負くや。姑く問わず。」初め、言青詞及び他の文を撰す、最も帝意に当たる。言罷むると、独り翟鑾在るも、帝の急とせざる所なり。及んで将に都を出んとし、西苑の斎宮に詣で叩頭謝す。帝聞きて之を憐れみ、特に酒饌を賜い、私第に還り疾を治めしめ、後命を俟たしむ。会に郭勛、言官の重く劾するを以て、亦疾を引き告在す。京山侯崔元新に寵有り、直に内苑し、勛を忌む。帝従容として元に問う、「言・勛皆朕の股肱なり、相い妒むは何ぞや。」元対えず。帝問う、言帰るは何の時ぞ、曰く、「聖誕の後を俟ちて、始めて敢えて請わん。」又問う、勛何の疾ぞ、曰く、「勛疾無し、言帰れば即ち出づるのみ。」帝之に頷く。言官、帝の言を眷み勛を悪むを知り、因りて共に勛を劾す。勛弁語悖謾、帝怒り、勛の同事王廷相の籍を削る。給事中高時なる者は、言の厚くする所なり、尽く勛の貪縦不法十数事を発す。遂に勛を獄に下し、言に少傅・太子太師・礼部尚書・武英殿大学士を復し、疾愈えて入直せしむ。言告在すと雖も、閣事多く其の指授を取る。勛の獄を治むるに、悉く其の指授なり。二十一年春、一品九年満ち、中使を遣わし銀幣・宝鈔・羊酒・内饌を賜う。尽く其の官階を復し、璽書を以て奨美し、礼部に宴を賜う。尚書・侍郎・都御史陪侍す。是の時に当たり、帝言を優礼すと雖も、然れども恩眷初めに及ばず。

原文鼎臣已歿,翟鑾再入,恂恂若屬吏然,不敢少齟齬。而霍韜入掌詹事府數修怨。以郭勛與言有隙,結令助己,三人日相構。既而韜死,言、勛交惡自若。九廟災,言方以疾在告,乞罷,不允。昭聖太后崩,詔問太子服制,言報疏有訛字。帝切責言,言謝罪且乞還家治疾。帝益怒,令以少保、尚書、大學士致仕。言始聞帝怒己,上御邊十四策,冀以解。帝曰:「言既蘊忠謀,何堅自愛,負朕眷倚,姑不問。」初,言撰青詞及他文,最當帝意。言罷,獨翟鑾在,非帝所急也。及將出都,詣西苑齋宮叩首謝。帝聞而憐之,特賜酒饌,俾還私第治疾,俟後命。會郭勛以言官重劾,亦引疾在告。京山侯崔元新有寵,直內苑,忌勛。帝從容問元:「言、勛皆朕股肱,相妒何也?」元不對。帝問言歸何時,曰:「俟聖誕後,始敢請。」又問勛何疾,曰:「勛無疾,言歸即出耳。」帝頷之。言官知帝眷言惡勛,因共劾勛。勛辨語悖謾,帝怒,削勛同事王廷相籍。給事中高時者,言所厚也,盡發勛貪縱不法十數事。遂下勛獄,復言少傅、太子太師、禮部尚書、武英殿大學士,疾愈入直。言雖在告,閣事多取裁。治勛獄,悉其指授。二十一年春,一品九年滿,遣中使賜銀幣、寶鈔、羊酒、內饌。盡復其官階,璽書獎美,賜宴禮部。尚書、侍郎、都御史陪侍。當是時,帝雖優禮言,然恩眷不及初矣。

慈慶・慈寧両宮宴駕す。勛嘗て其の一を改め太子に居らしめんことを請う。言不可とし、帝意に合う。是に至り帝猝かに太子当に何に居るべきかを問う。言前語を忘れ、興作の費煩を念い、勛の指す如くに対う。帝悦ばず。又言官の勛を劾するは言の意に出づるを疑う。及んで大享殿を建つるに、中官高忠を命じて監視せしめ、言敕稿を進めず。西苑に入直する諸臣、帝皆馬に乗ることを令し、又香葉束髪巾を賜い、皮帛を以て履と為す。言、人臣の法服に非ずと謂い、受けず、又独り腰輿に乗る。帝数憾を積みて言を去らんと欲し、而して厳嵩因りて之に間するを得。嵩と言は同郷にて、先達と称し、言に事うること甚だ謹みたり。言閣に入り嵩を援きて自ら代わらしめ、門客を以て之を畜う。嵩心に甚だ恨む。言既に帝意を失い、嵩日柔佞を以て寵さる。言斥けられんことを懼れ、嵩を呼びて謀る。嵩則ち已に潜かに陶仲文の第に造り、言を齮齕して其の位に代わらんことを謀る。言知りて甚だ慍り、言官を諷して屡り嵩を劾せしむ。帝方に嵩を憐れみ聴かず。両人遂に大いに郤く。六月、嵩燕見し、頓首雨泣し、言の見淩がるる状を訴う。帝して悉く言の罪を陳べしむ。嵩因りて振り其の短を暴く。帝大怒し、手敕を礼部に下し、歴りに言の罪を数え、且つ曰く、「郭勛已に獄に下るとも、猶千羅百織す。言官は朝廷の耳目たり、専ら言の主使を聴く。朕早朝せず、言も亦閣に入らず。軍国の重事、私家に取裁す。王言要密なるも、視ること戯玩に等し。言官一言せず、徒に君上を欺謗し、神鬼を致して怒らしめ、雨甚だしく禾を傷つく。」言大いに懼れ、罪を請う。十余日居りて、献帝の諱辰に、猶召し入れて拝せしめ、西苑に直するを候わしむ。言因りて恩に謝し骸骨を乞う、語極めて哀れなり。疏留まるること八日、会に七月朔日食既す。手詔を下して曰く、「日食過分す、正に下慢上の咎に坐す。其れ言の職を落とし閑住せしめよ。」帝又自ら三失を引き、天下に布告す。御史喬佑・給事中沈良才等皆具に疏を上り言を論じ、且つ罪を請う。帝大怒し、十三人を貶黜す。高時は勛を劾する故を以て、独り遠辺に謫す。是に於いて厳嵩遂に言に代わりて閣に入る。

原文慈慶、慈寧兩宮宴駕,勛嘗請改其一居太子。言不可,合帝意。至是帝猝問太子當何居,言忘前語,念興作費煩,對如勛指。帝不悅。又疑言官劾勛出言意。及建大享殿,命中官高忠監視,言不進敕稿。入直西苑諸臣,帝皆令乘馬,又賜香葉束發巾,用皮帛為履。言謂非人臣法服,不受,又獨乘腰輿。帝積數憾欲去言,而嚴嵩因得間之。嵩與言同鄉,稱先達,事言甚謹。言入閣援嵩自代,以門客畜之,嵩心恨甚。言既失帝意,嵩日以柔佞寵。言懼斥,呼嵩與謀。嵩則已潛造陶仲文第,謀齮言代其位。言知甚慍,諷言官屢劾嵩。帝方憐嵩不聽也,兩人遂大郤。六月,嵩燕見,頓首雨泣,訴言見淩狀。帝使悉陳言罪,嵩因振暴其短。帝大怒,手敕禮部,歷數言罪,且曰:「郭勛已下獄,猶千羅百織。言官為朝廷耳目,專聽言主使。朕不早朝,言亦不入閣。軍國重事,取裁私家。王言要密,視等戲玩。言官不一言,徒欺謗君上,致神鬼怒,雨甚傷禾。」言大懼,請罪。居十餘日,獻帝諱辰,猶召入拜,候直西苑。言因謝恩乞骸骨,語極哀。疏留八日,會七月朔日食既,下手詔曰:「日食過分,正坐下慢上之咎,其落言職閑住。」帝又自引三失,布告天下。御史喬佑、給事中沈良才等皆具疏論言,且請罪。帝大怒,貶黜十三人。高時以劾勛故,獨謫遠邊。於是嚴嵩遂代言入閣。

言久しく貴きを用い事を為し、家富厚にして、服用豪侈、多く問遺を通ず。久しく召されず、監司府県の吏も亦稍く之を慢易し、悒悒として楽しまず。元旦・聖寿に遇えば必ず表を上りて賀し、「草土臣」と称す。帝亦漸く之を憐れみ、尚書・大学士を復す。二十四年に至り、帝微かに嵩の貪恣を覚え、復た言を思い、官を遣わし敕を賫して召し還し、尽く少師諸官階を復し、亦嵩に少師を加え、言と並ぶが若くす。言至りて、直ちに嵩を陵ぎて其の上に出づ。凡そ批答する所、略嵩を顧みず、嵩噤して敢えて一語を吐かず。引用する私人、言之を斥逐すれども、亦敢えて救わず、骨に次ぎて銜む。海内の士大夫方に嵩の貪忮を怨み、言能く嵩を圧して其の命を制すと謂い、深く以て快と為す。而して言は廃棄久しきを以て、務めて権を張る。文選郎高簡の戍、唐龍・許成名・崔桐・王用賓・黄佐の罷、王杲・王暐・孫継魯の獄、皆言之を主る。貴州巡撫王学益・山東巡撫何鰲、言官の論劾する為め、輒ち旨を擬して逮訊す。龍故より嵩と善く、暐の事世蕃に牽れ、其他譴逐する所尽く当らず、朝士仄目す。最後に御史陳其学、塩法の事を以て崔元及び錦衣都督陸炳を劾す。言旨を擬して状を陳べしむるを令す。皆言に造りて死を請う。炳長跪して乃ち解かるるを得。二人嵩と比して言を構う。言未だ之を悟らず。帝数小内豎をして言の所に詣らしむ。言気岸を負い、奴を以て之を視る。嵩必ず延いて坐せしめ、親しく金銭を袖中に納む。以て故に日嵩を誉めて言を短くす。言進むる青詞往々帝旨を失う。嵩聞き益事を精治す。

原文言久貴用事,家富厚,服用豪侈,多通問遺。久之不召,監司府縣吏亦稍慢易之,悒悒不樂。遇元旦、聖壽必上表賀,稱「草土臣」。帝亦漸憐之,復尚書、大學士。至二十四年,帝微覺嵩貪恣,復思言,遣官賫敕召還,盡復少師諸官階,亦加嵩少師,若與言並者。言至,直陵嵩出其上。凡所批答,略不顧嵩,嵩噤不敢吐一語。所引用私人,言斥逐之,亦不敢救,銜次骨。海內士大夫方怨嵩貪忮,謂言能壓嵩制其命,深以為快。而言以廢棄久,務張權。文選郎高簡之戍,唐龍、許成名、崔桐、王用賓、黃佐之罷,王杲、王暐、孫繼魯之獄,皆言主之。貴州巡撫王學益、山東巡撫何鰲為言官論劾,輒擬旨逮訊。龍故與嵩善,暐事牽世蕃,其他所譴逐不盡當,朝士仄目。最後御史陳其學以鹽法事劾崔元及錦衣都督陸炳,言擬旨令陳狀,皆造言請死,炳長跪乃得解。二人與嵩比而構言,言未之悟也。帝數使小內豎詣言所,言負氣岸,奴視之;嵩必延坐,親納金錢袖中。以故日譽嵩而短言。言進青詞往往失帝旨,嵩聞益精治其事。

間もなく河套の議が起こる。夏言は元来慷慨として経世済民を自ら任じ、並びなき功績を立てんと志す。陝西総督曾銑が河套の回復を請うたのに乗じ、これを支持して決断した。厳嵩と崔元、陸炳がその間に讒言をなす。遂にこれによって敗れる。江都の人蘇綱は、夏言の後妻の父であり、平素より曾銑と親しかった。曾銑が河套回復を請うや、蘇綱はしきりに夏言にその才を称えた。夏言は曾銑に任せれば事を成し得ると頼み、密かに上疏して彼を推薦し、群臣の中で曾銑ほど忠なる者はないと述べた。帝は夏言に詔勅の草案を命じ、二度にわたり曾銑を優れて褒め称えた。曾銑は喜び、ますます出師に意気込んだ。帝は突然詔を下して詰責し、言葉は甚だ厳しかった。厳嵩は帝の意を推し量り、力を込めて河套は回復できないと主張し、言葉は夏言を侵害した。夏言は初めて大いに恐れ、謝罪し、かつ「厳嵩はかつて異議を唱えたことはなく、今になって全てを臣に押し付ける」と述べた。帝は夏言を「君主を強いて衆を脅す」と責め、厳嵩はさらに上疏を飛ばして夏言を攻撃し、夏言もまた力強く弁明した。しかし帝はすでに厳嵩の讒言を聞き入れ、怒りは解けなかった。二十七年正月、夏言の官階を全て剥奪し、尚書の身分で致仕させたが、なお殺す意図はなかった。時に禁中に蜚語が聞こえ、夏言が去る時に怨み誹謗したという。厳嵩はさらに仇鸞に代わって上奏文を草し、夏言が曾銑から金を受け取り、互いに結託して不正の利を得たと告発した。事は蘇綱に連座し、曾銑と蘇綱を詔獄に下した。厳嵩は崔元、陸炳と謀り、曾銑に近侍と交結した律を適用して斬刑に処し、蘇綱を辺境に流刑とし、官校を遣わして夏言を逮捕させた。夏言が通州に着くと、曾銑の罪状を聞き、大いに驚いて車から落ち、「ああ、我は死ぬ」と言った。再び上疏して冤罪を訴え、「仇鸞はまさに逮捕されようとしており、陛下が諭を下されて二日と経たぬうちに、仇鸞はどうして陛下の言葉を知り、またどうして厳嵩の上疏を知ってこれほどに附麗したのか。これは厳嵩と崔元らが臣を陥れるために偽ったものである。厳嵩は言葉は静かで行いは背く、共工のようであり、謙恭で士に下る、王莽のようであり、奸巧に権を弄び、父子で政を専らにする、司馬懿のようである。内廷の諸臣はその籠絡を受け、厳嵩の存在を知って陛下の存在を知らず。外廷の諸臣はその箝制を受け、また厳嵩の存在を知って陛下の存在を知らない。臣の生死は厳嵩の掌握に係り、ただ聖慈に帰命し、曲げて保全を賜わることを願う」と述べた。帝は省みなかった。獄が決し、刑部尚書喻茂堅、左都御史屠僑らは夏言を死罪に相当するとし、議貴・議能の条を援用して上奏した。帝は従わず、茂堅らを厳しく責め、その俸給を剥奪し、なお夏言が以前香冠を戴かなかった事に言及した。その年十月、ついに夏言を市で処刑した。妻の蘇氏は広西に流され、従子で主事の克承、従孫で尚宝丞の朝慶は、官籍を削られて庶民となった。夏言の死時、年六十七。

原文未幾,河套議起。言故慷慨以經濟自許,思建立不世功。因陜西總督曾銑請復河套,贊決之。嵩與元、炳媒孽其間,竟以此敗。江都人蘇綱者,言繼妻父也,雅與銑善。銑方請復河套,綱亟稱於言。言倚銑可辦,密疏薦之,謂群臣無如銑忠者。帝令言擬旨,優獎之者再。銑喜,益銳意出師。帝忽降旨詰責,語甚厲。嵩揣知帝意,遂力言河套不可復,語侵言。言始大懼,謝罪,且言「嵩未嘗異議,今乃盡諉於臣」。帝責言「強君脅眾」,嵩復騰疏攻言,言亦力辨。而帝已入嵩譖,怒不可解。二十七年正月盡奪言官階,以尚書致仕,猶無意殺之也。會有蜚語聞禁中,謂言去時怨謗。嵩復代仇鸞草奏訐言納銑金,交關為奸利,事連蘇綱,遂下銑、綱詔獄。嵩與元、炳謀,坐銑交結近侍律斬,綱戍邊,遣官校逮言。言抵通州,聞銑所坐,大驚墮車曰:「噫!吾死矣。」再疏訟冤,言:「鸞方就逮,上降諭不兩日,鸞何以知上語,又何知嵩疏而附麗若此?蓋嵩與崔元輩詐為之以傾臣。嵩靜言庸違似共工,謙恭下士似王莽,奸巧弄權、父子專政似司馬懿。在內諸臣受其牢籠,知有嵩不知有陛下。在外諸臣受其箝制,亦知有嵩不知有陛下。臣生死系嵩掌握,惟歸命聖慈,曲賜保全。」帝不省。獄成,刑部尚書喻茂堅、左都御史屠僑等當言死,援議貴議能條以上。帝不從,切責茂堅等,奪其俸,猶及言前不戴香冠事。其年十月竟棄言市。妻蘇流廣西,從子主事克承、從孫尚寶丞朝慶,削籍為民。言死時年六十有七。

夏言は豪邁で俊才があり、縦横に弁論博学で、人として屈せしめる者はなかった。特別な眷顧を受けるや、帝が臣下の徒党を嫌う意を推し量り、日ごとに諸議礼の貴人たちと対立した。帝は彼が徒党を組まないと思い、遇することますます厚かったが、ついに厳嵩に排斥された。夏言が死ぬと、厳嵩の禍は天下に及び、久しくしてから夏言を惜しむ者が多くなった。そして夏言が推挙した徐階は、後についに厳嵩を除いて名相となった。隆慶初年、その家が上書して冤状を訴えると、詔してその官を回復し、祭葬を賜い、文湣と諡した。夏言には初め子がなかった。妾が身ごもったが、妻が嫉んでこれを嫁がせ、一子を生んだ。夏言の死後、妻がこれを迎え戻したが、容貌は甚だ夏言に似ていた。かつ官を得ようとしたが、突然病没した。夏言はついに後継者がなかった。

原文言豪邁有俊才,縱橫辨博,人莫能屈。既受特眷,揣帝意不欲臣下黨比,遂日與諸議禮貴人抗。帝以為不黨,遇益厚,然卒為嚴嵩所擠。言死,嵩禍及天下,久乃多惜言者。而言所推轂徐階,後卒能去嵩為名相。隆慶初,其家上書白冤狀,詔復其官,賜祭葬,謚文湣。言始無子。妾有身,妻忌而嫁之,生一子。言死,妻逆之歸,貌甚類言。且得官矣,忽病死。言竟無後。

賛に曰く、張璁、桂萼、方献夫が興献帝を尊崇することを議したのは、本来人子の至情によるもので、故にその説は入りやすかった。その初議を推し量れば、未だ情と礼の中に準じていないわけではなく、遂に時に遭い君を得て、動もすれば議礼を引き合いに出して自らを固め、恩讐を快くせんと務めた。ここにおいてその建議の心が、倦むことなき忠愛の実がなく、その君を正道に引き入れんとしたものではないことを知る。夏言が奏上して定めた典礼も、多く採るべきものがあった。しかし志は驕り気は溢れ、ついに厳嵩に排斥された。究めて諸人の立身の本末とその言う是非とを観れば、固より両つながら相い掩うことはないという。

原文贊曰:璁、萼、獻夫議尊興獻帝,本人子至情,故其說易入。原其初議未嘗不準情禮之中,乃至遭時得君,動引議禮自固,務快恩仇。於是知其建議之心,非有惓惓忠愛之實,欲引其君於當道也。言所奏定典禮,亦多可采。而誌驕氣溢,卒為嵩所擠。究觀諸人立身本末與所言是非,固兩不相掩云。