明史

列傳第八十四 張璁 桂萼 方獻夫 夏言

○張璁(胡鐸)桂萼 方獻夫 夏言

張璁

張璁、字は秉用、永嘉の人である。郷試に合格したが、七度会試に落第した。選抜を受けるため出仕しようとしたとき、御史の蕭鳴鳳は星術に長けており、彼に告げて言うには、「ここから三年で進士となり、さらに三年で急に貴くなるであろう」と。璁はそこで帰郷した。正徳十六年に進士に及第したが、年は四十七歳であった。

世宗が初めて即位したとき、実父の興献王を追尊する議論が起こった。廷臣はこれに反対し、三度上奏して三度退けられた。璁は当時、礼部で政務を見習っており、その年の七月朔日に上疏して言うには、「孝子の至りは、親を尊ぶことに過ぎるものはなく、親を尊ぶことの至りは、天下をもって養うことに過ぎるものはない。陛下が大位を継がれたならば、ただちに聖考(実父)を追尊してその号を正し、聖母(実母)を奉迎してその養いを致すことを議すべきであり、誠に大孝である。廷議は漢の定陶王、宋の濮王の故事を執り、人後に為る者はその子となるべきで、私親を顧みることはできないと主張する。天下に父母なき国があろうか。『礼記』に言う、『礼は天より降らず、地より出ず、人情のみである』と。漢の哀帝、宋の英宗は確かに定陶王、濮王の子であったが、成帝、仁宗はいずれも予め嗣子として立て、宮中で養育したのであり、その人後に為るという義は甚だ明らかであった。故に師丹、司馬光の論が当時の彼らに対して行われたのはよろしい。今、武宗には嗣子がなく、大臣は祖訓に従い、陛下が倫序において立つべきであるとして迎え立てたのである。遺詔にはただ『興献王の長子』とあるだけで、人後に為るという義を明記してはいない。ならば陛下の即位は、実に祖宗の統を承けるためであり、予め嗣子として立て宮中で養育された場合と、明らかに異なる。議者は孝廟(孝宗)の徳沢が人々に及んでいるので、後を絶つべきでないと言う。仮に聖考が今も存命で、今日、帝位を継がれたとしても、弟が兄の後を継ぐ義はないであろう。また聖母を迎えて養うのは、母としての親によるものである。皇叔母と称するならば、君臣の礼をもって会うべきであり、子が母を臣下として遇する義はないであろう。『礼』に『長子は人後に為るべからず』とある。聖考には陛下ただお一人しかおられない。天下の利のために人後に為ることは、子が自らその父母を絶つ義はないであろう。故に陛下においては、祖の後を継いで入り、その尊親を廃さずに済むと言うのはよろしいが、人後に為ることで自らその親を絶つと言うのはよろしくない。統と嗣は同じではなく、必ずしも父が死んで子が立つとは限らない。漢の文帝は恵帝の後を承けたが、それは弟として継いだのであり、宣帝は昭帝の後を承けたが、それは兄の孫として継いだのである。もし必ずやこの父子の親を奪い、あの父子の号を立てて、初めて継統と言うのならば、古には高伯祖、皇伯考と称した例もあり、それらは皆、統とは言えないのであろうか。臣は窃かに思うに、今日の礼は、京師に別に聖考の廟を立て、尊親の孝を隆くすることを得させ、かつ母は子によって貴くなることを以て、尊ぶことは父と同じとすべきである。そうすれば聖考は父たることを失わず、聖母は母たることを失わないであろう」と。帝はちょうど廷議に手詰まりを感じていたところ、璁の上疏を得て大いに喜び、言うには、「この論が出て、我が父子は全うされるであろう」と。急いで廷臣に議させた。廷臣は大いに怪しみ驚き、次々に立ち上がってこれを攻撃した。礼官の毛澄らは当初の主張を固執した。ちょうど献王妃が通州に到着したが、尊称の礼が定まっていないと聞き、留まって入京しようとしなかった。帝はこれを聞いて泣き、位を避けて藩国に帰ろうとした。璁はそこで『大礼或問』を著してこれを上奏した。帝はそこで礼官の上疏を連続して退けた。廷臣はやむなく、孝宗を「皇考」と尊称し、興献王を「本生父興献帝」と尊称することを合議した。璁もまた南京刑部主事に任じられて去り、追尊の議論は一旦止んだ。

嘉靖三年正月に至り、帝は桂萼の上疏を得て心が動き、再び廷議に下した。汪俊が毛澄に代わって礼部を務め、澄と同じく固執した。璁はそこで再び上疏して言うには、「陛下は兄終弟及の訓に従い、倫序において立つべきである。礼官は陛下が実に大統を継いだ君主であることを考えず、強いて人後に為る例に比べ、献帝の天性の恩を絶ち、武宗の相伝の統を蔑ろにし、陛下の父子、伯侄、兄弟の名と実をともに乱している。天子に背くことを厭わず、権臣に逆らうことを敢えてしない。これは何たる心か。伏して聖諭を拝見するに、『興献王はただ朕一人を生み、既に統緒を承けることができず、また徽称も得られない。尽きることなき恩をどうして報いることができようか』とある。執政は上心を窺い測り、推尊することの重大さを認識しているので、今日は一つの帝の字を争い、明日は一つの皇の字を争う。そして陛下の心もまた、日に日に帝とも皇ともされないことを不満としている。既に帝と加称されたならば、陛下の心は既に慰められたと言い、故に一つの皇の字を残して陛下の将来の未だ尽くされざる心を窺い、遂に敢えて孝宗を皇考と称し、興献帝を本生父と称するに至った。父子の名が既に変わり、推崇の義はどこにあるのか。乃ち急いで詔を以て天下に告げ、陛下が気づかぬうちに、不孝の罪に陥れるのである。『礼』に言う、『君子は人の親を奪わず、また親を奪われてもならない』と。陛下は万乗として尊ばれるが、父子の親を、人が奪うことができ、また人の奪うことを容認することができようか。故に今日の礼は皇か否かにあるのではなく、ただ考か否かにあるのである。もし徒らに一つの皇の字を争うのみならば、執政は必ずや暫くこれをもって今日の議論を塞ぎ、陛下もまた暫くこれをもって今日の心を満たすであろう。臣は恐れるに、天下の礼を知る者は、必ずややむことなく非笑するであろう」と。桂萼の第二の上疏とともに上奏した。帝はますます大いに喜び、直ちに両人を召して京に赴かせた。命令が届かないうちに、両人及び黄宗明、黄綰が再び合疏して力説した。献帝が「本生皇考」と改称されると、閣臣は尊称が既に定まったとして、召還命令の中止を請うた。帝はやむなくこれに従った。二人は既に道中にあり、再び急ぎ上疏して言うには、「礼官は臣らが面と向かって質すことを恐れ、故に先んじてこの術を行い、その私を遂げようとしている。もし本生の称を急いで除かなければ、天下後世は終に陛下を孝宗の子とし、礼官の欺瞞の中に陥るであろう」と。帝はますます心が動き、二人を召すことを急がせた。

五月に都に着くと、再び七事を条上した。衆は騒然として、彼らを撲殺しようとした。萼は恐れて出ようとしなかった。璁は数日経って初めて朝参した。給事中・御史の張翀、鄭本公らが連章して力攻した。帝はますます不悦とし、特に二人を翰林学士に任じた。二人は固辞し、かつ廷臣の非を面と向かって論破することを請うた。給事中・御史の李学曾、吉棠らが言うには、「璁、萼は曲学して世に阿り、聖世において必ず誅すべき者である。伝奉をもって学士とすることは、聖徳を累わすこと少なからず」と。御史の段續、陳相がまた特に上疏して論じ、席書にも及んだ。帝は学曾らに供述を求め、段續、陳相を詔獄に下した。刑部尚書の趙鑒もまた璁、萼を法に置くことを請い、人に語って言うには、「勅許を得たら、直ちに捶ち殺すであろう」と。帝は朋党をなして奸をなすと責め、これにも供述を命じた。璁、萼はそこで再び欺瞔十三事を列挙し、廷臣を力説して屈服させた。廷臣が宮門に伏して泣き争うと、ことごとく詔獄に繋がれ杖罰を受けた。杖下に死する者十余人、貶謫や流罪が相次いだ。ここにおいて璁らの勢いは大いに張った。その年九月、ついに彼らの議を用いて尊称を定めた。帝はますます璁、萼を眷顧し倚頼した。璁、萼はますます寵を恃んで廷臣を仇敵視し、朝廷の士大夫は皆この数人を切歯した。

四年の冬、『大礼集議』が完成し、詹事兼翰林学士に進んだ。後に世廟の神道・廟楽・武舞及び太后の廟謁を議するに当たり、帝は常に璁の言に依って決した。璁は経文を潤色し、委曲を尽くして帝の意に当たり、帝はますます彼を重んじた。璁は急いで権力を握ろうと図ったが、大学士費宏に抑えられたため、遂に萼と連名で上疏して宏を攻撃した。帝もその事情を知っていたが、宏を留任させて直ちに罷免しなかった。五年七月、璁は墓参りを理由に休暇を請うた。朝廷に辞して出発した後、帝は再び彼を兵部右侍郎に任用し、兼官は元の通りとした。給事中杜桐・楊言・趙廷瑞が相次いで上疏して強く非難し、併せて吏部尚書廖紀が邪人を登用したことを弾劾した。帝は怒り、彼らを厳しく責めた。両京の給事御史解一貫・張録・方紀達・戴継先らが再び相次いで上疏して論じ止まなかったが、帝はいずれも聞き入れなかった。まもなく璁を左侍郎に進め、再び萼と共に費宏を攻撃した。翌年二月に王邦奇の獄を起こし、楊廷和らを陥れ、宏及び石缶は同日に罷免された。

吏部郎中彭澤が軽率であることを理由に排斥されると、璁は言上した、「かつて礼議の時、彭澤は臣に『大礼或問』を進めるよう勧め、それによって衆人の忌諱を招きました。今、諸臣が彼を去らせようとするのは、次第に臣らをも去らせようとするものです」。これにより彭澤は留任できた。三日後、再び言上した、「臣は挙朝と四、五年にわたって対抗し、挙朝は臣を攻撃する上疏を百十通に及んでいます。今、『大礼全書』を編修するに当たり、元凶は心を寒からしめ、群奸は側目しています。故に要略がようやく進呈されると、讒言と誹謗が盛んに起こります。もし『全書』が完成すれば、誣陷はますます甚だしくなるでしょう」。そこで病気を理由に退任を求めて帝を牽制し、帝は優れた詔で慰留した。吏部に尚書が欠員となり、前尚書の喬宇・楊旦が推挙された。礼部尚書も欠員で、侍郎の劉龍・温仁和が推挙された。仁和は在職年数の深さを理由に争った。璁は、喬宇・楊旦は楊廷和の党であり、仁和も自ら推薦すべきではないと上言した。帝は、大臣で休致した者は詔を奉じない限り推挙できないと命じ、喬宇らは遂に任用されなかった。

璁は廷臣に対する積年の怒りを抱き、日々報復を謀った。折しも山西巡按馬録が反賊李福達の獄を処理し、供述が武定侯郭勛に連座した。法司は馬録の擬定通りに審議した。璁は帝に讒言して、廷臣が議礼の故に郭勛を陥れようとしていると言った。帝は果たして諸臣が徒党を組んでいると疑い、璁に都察院を管掌させ、桂萼に刑部を、方献夫に大理寺を管掌させて再審させ、その判決をことごとく覆し、異なる意見を持つ者たちを排斥した。大臣の顔頤寿・聶賢以下は皆、拷問を受け、馬録らは罪に坐せられ遠方に流された。帝はますます彼らの能力を認め、便殿で労をねぎらい、二品の服と三代に対する封誥を賜った。京察及び言官の相互糾弾により、既に御史十三人が罷免されていたが、璁が都察院を掌ると、再び考察を請い十二人を排斥した。また憲綱七条を施行するよう上奏し、巡按御史を締め付けた。その年の冬、遂に礼部尚書兼文淵閣大学士に任じられて機務に参与し、官に就いてからわずか六年であった。

楊一清が首輔となり、翟鑾も内閣にいたが、帝が彼らを遇するのは璁のようではなかった。帝はかつて璁に諭した、「朕には密諭があるが、漏らしてはならない。朕と卿との間の書簡は全て朕が親書する」。璁はそこで仁宗が楊士奇らに銀章を賜った故事を引き合いに出し、帝は璁に二つの印章を賜い、文は「忠良貞一」と「繩愆弼違」とし、併せて一清らにも及ぼした。璁が初めて学士に任じられた時、諸翰林はこれを恥じて、彼と並び立とうとしなかった。璁は深く恨んだ。侍読汪佃が『洪範』を講じて帝の意にかなわず、帝が地方官に補するよう命じると、璁は講読以下の官を才能に応じて地方に補するよう請い、改官及び罷黜された者は二十二人に及び、諸庶吉士は皆、部属や知県に任じられ、これによって翰林院は空となった。七年正月、帝が朝議に臨み、璁と萼が兵部尚書李承勲の下位に列しているのを見て、不満に思った。一清がそこで散官を加えるよう請うと、帝は手詔で二人に太子太保を加えた。璁は、皇太子が立てられていないのに官を設けるのは不当であると辞退し、さらに少保兼太子太保に加えられた。『明倫大典』が完成すると、さらに少傅兼太子太傅・吏部尚書・謹身殿大学士に進んだ。一清が再び宰相となったのは、かなり璁と萼の力によるものであり、一清は心から二人に下った。しかし璁は終に一清に押さえつけられ、思い通りにならず、遂に互いに反目した。指揮の聶能遷が璁を弾劾すると、璁は彼を死罪に置こうとした。一清が擬旨をやや軽くしたため、璁はますます恨み、一清を奸人で卑しい者と罵った。一清は再び上疏して退任を求め、かつ璁の隠れた事情を諷刺した。帝は手詔で慰留し、併せて璁が自らその才能を誇り、寵愛を恃んで譲らないのは誠に嘆かわしいと極言した。璁は帝が突然自分の短所を暴露したのを見て、大いに恥じ落胆した。

八年の秋、給事中孫応奎が一清と萼を弾劾し、併せて璁にも及んだ。その同官の王準がさらに璁が参将陳璠に私的に与したことを弾劾し、排斥すべきだと上奏した。璁は再三にわたって休暇を乞い、その言葉には一清を陰に誹謗する内容が多かった。帝は璁を褒め諭した。しかし給事中陸粲が再び彼が威福を擅にし、恩讐に報いることを弾劾した。帝は大いに悟り、直ちに璁を罷免した。間もなく、その党の霍韜が一清を激しく攻撃し、わずかに璁のために弁明した。璁が天津に到着した時、帝は行人に命じて手詔を持たせて召還した。一清は遂に罷免され去り、璁が首輔となった。

帝は自ら廷議を排して「大礼」を定めて以来、礼楽の制作を自ら任じた。そして夏言がようやく権力を握り始めると、皇后の親蚕を議し、勾龍と棄を社稷に配祀することを議し、天地を分祭することを議し、太宗の配祀を廃することを議し、朝日と夕月のために別に東西二郊を建てることを議し、高禖を祀ることを議し、文廟に主を設け諸儒の従祀を改めることを議し、徳祖を祧ぎ太祖を南向きに正すことを議し、祈谷を議し、大禘を議し、帝社帝稷を議し、上奏する度に必ず璁に下して議論させた。しかし帝は独断を取ることを好み、璁の意見も全て採用されたわけではなかった。太宗の配天を廃止するよう諫めたことについては、三、四度往復したが、結局止めることはできなかった。

十年二月、璁は名が御諱に触れることを嫌って改名を請うた。そこで名を孚敬、字を茂恭と賜り、帝が書いた四大字を賜った。夏言は帝の寵愛を恃み、しばしば事を構えて孚敬を攻撃した。孚敬はこれを恨んだが、機会がなかった。彭澤の言葉を入れて行人司正薛侃を陥れ、薛侃を通じて夏言を害そうとした。朝廷での審問で事が露見し、詔旨はその嫉妬深く欺くことを斥けた。御史の譚纘・端廷赦・唐愈賢が相次いで上疏して彼を弾劾した。帝は法司に命じて致仕させよと諭し、孚敬は大いに恥じて去った。間もなく、行人に命じて詔書を持たせて召還した。翌年三月に朝廷に戻ると、夏言は既に礼部尚書に抜擢され、ますます権力を握っていた。李時・翟鑾が内閣にあり、方献夫が続いて入閣したため、孚敬も以前のように専横を恣にすることはできなくなった。八月、彗星が東井に現れると、帝は大臣が政権を擅にしているのではないかと疑い、孚敬はそこで罷免を求めた。都給事中魏良弼が孚敬を奸であると誹謗すると、孚敬は言った、「魏良弼は京営官を濫挙したことで俸給を奪われたが、それは臣が擬旨したためであり、私怨で報復しているのです」。給事中秦鰲が孚敬が強弁して奸を飾り、言官が論列するとすぐに罪をでっち上げ、擬旨を密かに行わず、自ら引き受けて、内外に示して、あたかも天子の権力がその掌握の中にあるかのようにしていると弾劾した。帝は秦鰲の言を是とし、孚敬に自ら陳状するよう命じ、致仕を許した。李時が俸給と従者・勅書を与えるよう請うたが、許されなかった。再び請うて、ようやく駅伝で帰ることができた。十二年正月、帝は再び彼を思い、鴻臚寺官に命じて詔書を持たせて召還した。四月に朝廷に戻った。六月、彗星が再び畢昴の間に現れたため、退位を乞うたが、許されなかった。翌年、少師兼太子太師・華蓋殿大学士に進んだ。

初め、潞州の陳卿が乱を起こした時、孚敬は出兵を主張し、賊は遂に滅ぼされた。大同が再び乱れると、やはり出兵を主張し、劉源清を総督に推薦したが、軍は長く功績がなかった。その後乱が平定され、代王が大臣を派遣して安撫するよう請うた。夏言はそこで出兵の誤りを激しく誹謗し、王の言う通りにするよう請い、言葉多く孚敬を侵害した。孚敬は怒り、王の上疏を持ったまま実行しなかった。帝は孚敬に夏言と仲良くするよう諭し、黄綰を大同に派遣して、機を見て事を行わせた。孚敬は自分の意見が用いられないことを理由に、病と称して休暇を乞い、上疏を三度上奏した。やがて子が死に、請いを一層強めた。帝は答えて言った、「卿に疾はない、朕を疑っているのだろう」。孚敬は再び上奏し、自らの過ちを認めず、かつ歴代にわたり礼議を共にした桂萼、方献夫、霍韜、黄綰らを誹謗した。帝が詰問責めすると、ようやく再び出仕して政務を見た。帝は文華殿の後に九五斎、恭黙室を建てて斎戒居住の場所とし、輔臣に詩を賦するよう命じた。孚敬及び費宏はそれぞれ四首以上を献上した。その後、しばしば便殿に召し出され、ゆったりと政事を議した。

十四年春、病を得た。帝は宦官を遣わして酒食を賜り、費宏に言って、その頑固さをかなり言及し、かつ人材を惜しまずに怨みを集める様子に言及した。また宦官を遣わして薬を賜り、自筆の勅書で言った、「古には大臣の病を治すために髭を切った者がある。朕は今、自ら服用するものを卿に賜る」。孚敬は温かい勅諭を得たことを幸いとし、遂にたびたび上疏して老骨を休めることを乞うた。帝は行人と御医に護衛させて帰らせ、役所に命じて定めに従って俸禄と従者を給した。翌年五月、帝は再び錦衣衛の官に手勅を持たせて病を見舞わせ、その帰還を促した。金華まで来て、病が大いに発し、そこで帰った。十八年二月、卒去した。帝は承天におり、それを聞いて傷み悼んでやまなかった。

孚敬は剛直で明察果断、嫌疑や怨みを避けなかった。主君に遇した後も、時に正論を進言した。帝が張延齢を謀反の罪に坐せ、その一族を誅滅しようとした時、孚敬は諫めて言った、「延齢は守銭奴に過ぎず、どうして謀反できようか」。数度詰問されても、答えは初めの通りであった。秋の末に論罪すべき時が来て、孚敬は上疏して言った、「昭聖皇太后はご高齢であり、突然延齢の死を聞けば、万一食事を取らず、他の事故があれば、どうして敬皇帝の在天の霊を慰められようか」。帝は怒り、孚敬を責めて言った、「古より強臣が主君を操ることは一つや二つではない。今、死囚を愛して主君を操らせようとするのか。廷和が敬皇帝に事えたことに従わなかったことを後悔すべきであろう」。帝はわざと重い言葉で孚敬を脅して止めさせようとしたが、孚敬の考えは変わらなかった。このため、昭聖皇太后の在世中は、延齢は長く獄につながれたままにされた。その他、勲戚の荘田を整理し、天下の鎮守宦官を罷免することは、先後してほぼ全て成し遂げられ、皆その力によるものであった。身を保つこと特に廉潔で、汚職官吏を痛く憎み、一時は贈賄の道が絶えた。しかし性格は残忍で強情、報復が相次ぎ、善類を庇護しなかった。人臣の私党を力づくで打破しようとしたが、自ら先んじて党の首領となった。「大礼」の大獄は、世に非難を集めた。しかし帝は終始寵遇礼遇し、廷臣の中でついに並ぶ者なく、嘗て少師羅山と呼んで名を呼ばなかった。その卒去に際し、礼官が諡を請うた。帝は危身奉上の義を取り、特に文忠と諡し、太師を追贈した。

時に胡鐸という者がいた。字は時振、余姚の人。弘治末の進士。正徳年間、福建提学副使に任官。嘉靖初年、湖広参政に転じ、累官して南京太僕卿となった。鐸は璁と同郷で挙人に合格した。「大礼」の議が起こると、鐸の考えも献王を皇考とすることを主張し、璁と合致した。璁は連署するよう求めたが、鐸は言った、「主上の天性は確かに背くことができないが、天下の人情もまた無視できない。献王を皇考とすることが止まなければ宗とし、宗とすることが止まなければ宗廟に入れ、宗廟に入れれば当然祧廟があるはずだ。藩王の虚号の帝をもって、君臨して世を治めた宗(孝宗)を奪うことは、義として固よりできない。宗廟に入れば位があり、その位を武宗の上とするか、武宗の下とするか。生きてはその臣であり、死して君に並ぶことはできない。しかし魯では嘗て僖公を先の位に並べたことがある(升躋)。恐らく将来、夏父之徒(僖公を先の位に並べさせた魯の大夫)に乏しくないであろう」。璁の議は遂に上奏された。間もなく召還された。鐸は丁度服喪明けで京に赴こうとしていた時、璁がまた共同上疏を求めた。鐸は返書でこれを断り、かつ継統の義について弁明した。「大礼」が既に定まると、鐸はまた書を送って議礼に関わった諸人を召還し、平和の福を養うよう勧めたが、璁は従えなかった。鐸は王守仁と同郷であったが、その学説を宗とせず、璁と同じく献王を皇考とすることを是としたが、共に進もうとはしなかった。しかしその継統についての弁明は、国統が絶えて君主を立てることは立賢の意を含むと言い、これは大いに誤りであるという。

桂萼

桂萼、字は子実、安仁の人。正徳六年の進士。丹徒知県に任じられた。性格は剛直で気性が強く、たびたび上官に逆らい、青田に転任させられたが赴任しなかった。推薦により起用されて武康知県となり、また上官に逆らって官吏に下された。

嘉靖初年、成安知県から南京刑部主事に転じた。世宗が実父母を尊崇しようとした時、廷臣は強硬に反対し、既に興献王を帝と称し、妃を興国太后と称し、詔を天下に頒って二年が経っていた。萼は張璁と同官であり、そこで二年十一月に上疏して言った、「臣は聞く、帝王は父に孝事するので、天を明らかに事える。母に孝事するので、地を察らかに事える。父子の倫理を廃して、よく天地を事え百神を主とすることは未だ聞かない。今、礼官は典章を考証せず、陛下の純孝の心を阻み絶ち、陛下を人後に為すという誤りに陥れ、かつ武宗の統を滅ぼし、献帝の宗を奪い、かつ興国太后を慈寿太后の下に圧迫させ、礼を尽くさず、三綱は頓に廃され、非常の変である。張璁、霍韜が献策を献じて以来、論者はこれを出世のためと指弾し、逆に人の口を封じ、礼に通じた者が敢えて反論できないようにしている。切に思うに、陛下が興国太后に侍り、慨いて興献帝が祀られないことを、既に三年になる。胸を打って涙を流すこと、幾度か知れない。願わくは速やかに明詔を発し、孝宗を『皇伯考』と称し、興献帝を『皇考』と称し、別に大内に廟を立て、興国太后の礼を正し、聖母と称することを定め、天を事え地を事える道に協うようにせられたい。朝臣の執着する所は、ただ宋の『濮議』に過ぎない。按ずるに、宋の範純仁が英宗に告げて言うには『陛下は昨仁宗の詔を受け、親しくその子となることを許され、封爵に至るまで悉く皇子の故事を用い、入って継承した主とは異なる』と。則ち宋臣の論も、また自ら区別がある。今、陛下は祖訓を奉じて大統を継がれ、未だ嘗て孝宗の詔を受けてその子となったことはない。則ち陛下は人後に為すのではなく、入って継承した主であることは極めて明らかである。興献帝を皇考とし、興国太后を母とするのに、何の疑いがあろうか。臣は聞く、天子でなければ礼を議せず、天下に道あれば、礼楽は天子より出ずと。臣は久しく請おうとしたが、先頃また席書、方献夫の二つの上疏を得た。伏して望む、奮然として裁断し、臣と二臣の上疏を併せて礼官に付し、臣らに面して質させられたい」。帝は大いに喜び、翌年正月に手批して議を行うようにした。

三月、萼は再び上疏して言った、「古より帝王が相伝するには、統が重く、嗣が軽い。故に高皇帝は前王に倣い、兄終弟及の訓を著した。陛下は祖宗の大統を承け、正に高皇帝の制に遵っている。執政は故なくして己の私を任せ、祖訓に背き、その不道たるや、尚言うことができようか。臣は道行く人の言葉を聞く、執政は陛下の真情を窺い、止まなければ、ただ一つの皇の字を加えるだけだという。陛下が親に孝するのは、皇であるか否かにあるのではなく、ただ考であるか否かにある。献帝を考とする心が奪われるならば、たとえ千百の字の美称を加えても、孝に何の益があろうか。陛下は遂にその身を終えるまで父なき人となるであろう。倫理に逆らい義に背くことこのようであるのに、尚やこれにこの議に関わらせることができようか」。璁の上疏と併せて上奏された。帝はますます大いに喜び、京に召し出した。

初め、議礼の諸臣には執政を力づくで誹謗する者はなかったが、萼に至って遂に不道と斥け、かつ議に関わらせまいとした。その言葉は恣肆で忌憚がなく、朝士は特にこれを憎んだ。召還の命令が下ると、衆はますます驚愕し、群をなして排撃したが、帝は動じなかった。萼はまた璁と共に論じ列ねることを止めず、遂に翰林学士に召され、結局その言を用いた。萼はこれより特に深く知遇を受けた。

四年の春、給事中柯維熊が言うには、「陛下は君子を親しまれるが、君子は容れられない。林俊・孫交・彭澤の去ったのがそれである。小人を遠ざけられるが、小人はなお在る。張璁・桂萼の用いられたのがそれである。しかも今、闕下に伏した諸臣は多く死罪や流刑に処せられ、御史王懋・郭楠はまた貶謫された。ひそかに罰が過重であると思う」と。萼と璁はすなわち去職を求め、優詔をもって慰留された。まもなく詹事兼翰林學士に進んだ。世廟の神道及び太后の廟謁の礼を議し、ふたたび廷議を排して、帝の意向に迎合した。帝はますます賢しと為し、両人の気勢はますます盛んとなった。ところが閣臣がこれを抑え、諸翰林と同等にさせなかった。両人はすなわち連章して費宏と石缶を攻め、齮齕して去らせた。給事中陳洸が重辟に犯すと、萼は尚書趙鑒とともに攘臂して争い、南京給事中に弾劾されたが、問われなかった。かつて時政を陳べ、六年の田租をあらかじめ免除すること、即位の初めの宿弊を改めること、登聞鼓の禁約を緩めること、塞上の開中制を復すること、奸徒が養済院を阻絶するのを懲らしめること、窮民に城垣の陾地を耕させること、外吏の部に赴いて考満するのを停めること、聖敬を申し、聖孝を広めること、凡そ数事を請うた。多く議されて行われた。

六年三月、礼部右侍郎に進み、兼官はもとの如し。時にちょうど京察が行われ、南京の言官が拾遺して萼に及んだ。萼が上疏して言うには、「故輔楊廷和は私党を広く植え、聖聡を蔽うこと六年、今は次第に斥逐されたが、なお遺奸が言路に在る。昔、憲宗の初年、科道に拾遺を命じた後、互いに糾劾させ、言路はすなわち清まった。制の如く挙行を請う」と。章は吏部に下り、侍郎孟春らが言うには、「憲宗にこの詔は無い。萼は論ぜられて報復し、衆心を厭うすべがない」と。萼が言うには、「詔は憲宗の文集に出ている。春は言官に媚びようとし、併せて按問すべきである」と。章は部に下って再議され、春らが言うには、成化中に科道で超擢されて巡撫となり不称な者があり、憲宗が互いに劾させ、去った者が七人いたが、考察の拾遺とは比べられない、と。帝はついに萼の言を是とし、速やかに挙行するよう促した。給事中と御史が争い、ともに俸を奪われた。春らはすなわち御史儲良才ら四人の名を上奏した。帝はただ良才を罷免し、特旨をもって給事中鄭自璧・孟奇を斥けた。かつ部院に再核させ、さらに給事中余経ら四人、南京給事中顧溱ら数人を罷免して、やっと止んだ。

その年の九月、吏部左侍郎に改めた。この月、礼部尚書に拝し、翰林學士を兼ねた。故事によれば、尚書が學士を兼ねることはなく、萼から始まった。ひと月を過ぎず、吏部尚書に遷り、銀章二顆を賜い、「忠誠靜慎」「繩愆匡違」と曰い、密封して事を言うことを輔臣と同等にさせた。七年正月、手敕をもって太子太保を加えた。『明倫大典』が成り、少保兼太子太傅を加えた。

萼は志を得てから、日に怨みを報いることを事とした。陳九疇・李福達・陳洸の獄において、先後して彭澤・馬録・葉応驄らに株連すること甚だ多く、あるいは陥れられて謫戍に至った。廷臣はその兇威を畏れない者はなかった。ただ疏を上って建言の獄罪の鄧継曾・季本らを推薦し、事によって貶謫された黄国用・劉秉鑒らを挙げ、諸人は量移を得た。世もまた少しこれによって萼を賢しとした。しかし王守仁の起用は、萼が実にこれを推薦した。後に、己に附かないことを恨み、力強く齮齕した。守仁が卒すると、極言して醜く誹謗し、その世封を奪い、諸恤典は皆与えなかった。八年二月、本官をもって武英殿大学士を兼ね、機務に参与することを命じられた。初め、萼と璁が召しに赴く時、廷臣は先朝の馬順の故事に倣い、左順門で捶殺しようとしたが、武定侯郭勛の家に走って免れた。勛はすなわち深く結び、また帝の眷顧を受けて禁兵を典することとなった。久しくして、勛の奸状が大いに露わになり、璁と霍韜が力を尽くして勛を庇った。萼は帝がすでにこれを憎んでいることを知り、ただその兇暴貪狡の数事を疏にして挙げ、勛はすなわち罪を得た。楊一清が首輔として持重であり、萼と璁は好んで紛更し、かつ己を圧するのを憎んだので、遂に相容れなくなった。

給事中孫応奎が三臣の賢否を鑑別することを請い、萼を最も力強く誹謗した。帝はすでに萼を疑い、宿愆を洗い流し、君臣終始の義を全うするよう命じた。萼はすなわち大いに懼れ、弁明を疏にし、かつ疾を称して休暇を乞うた。帝は報じて曰く、「卿が事を行うには、公議に勉めて従うべきであり、前日の忠を負かぬようにせよ」と。萼はますます懼れた。給事中王準が因って萼が私人李夢鶴を御医に挙げたことを弾劾した。詔が吏部に下り、夢鶴は考選によるもので私心はないと言った。帝は終に疑いとし、太医院に更に考査させた。言官は帝の意がすでに移ったことを知り、給事中陸粲が極力その罪を論じ、かつ夢鶴が萼の家人呉従周・序班桂林と居間して賄賂を行ったことを言った。奏が入ると、帝は大いに悟り、直ちに萼の官を奪い、尚書として致仕させた。璁もまた政を罷められた。帝はふたたび二人の罪状を列挙して廷臣に詔し、大略に言うには、「その自用自恣、君に負い国に負うこと、為す事端は衆に見えるところであり、而して萼は特に甚だしい。法は刑典に置くべきであるが、特に寛貸する」と。すなわち夢鶴らを法司に下し、皆自白した。まもなく、霍韜が二度疏を上って萼を弁護し、一清と法司が萼の贓罪を構成したと言った。一清はすなわち去位し、刑部尚書周倫は南京に調され、郎中・員外は皆職を奪われ、法司に錦衣鎮撫官と会して再審させた。すなわち夢鶴らが仮托して私を行い、萼とは関わりがないと言った。詔して夢鶴・林の籍を削り、従周を論罪し、萼は散官を復した。この時、璁はすでに召還されていた。史館の儒士蔡圻は帝が必ず萼を復すことを知り、疏を上って萼の功を称え、これを召すことを請うた。帝はすなわち敕を賜い、撫按官に上道を促させた。萼が未だ至らぬうちに、国子生銭潮らがふたたび萼を促すことを請うた。帝は怒って曰く、「大臣の進退に、幺麽たる者が敢えて与聞するのか」と。蔡圻とともに吏に下した。明年四月に還朝し、奪われた官を全て復し、なお機務に参与した。

萼は初め鋭意功名に励み、勇んで事を任じ、物議を恤れみず、驟に摧抑され、気はこれに慑え、敢えて再び放恣しなかった。位に居ること数ヶ月、屡々疾を引き、帝はすなわち優旨をもって慰留した。十年正月、請いを得て帰り、家に卒した。太傅を贈られ、文襄と謚された。

萼の論奏したところ、『帝王心学論』・『皇極論』・『易・復卦』・『礼・月令』及び進めた『禹貢図』・『輿地図説』は、皆君徳時政に裨益があった。性猜狠にして、異己を排することを好み、以て故に物論に容れられなかった。初め璁と相得て甚だ歓び、ともに政府に居るに及び、遂に相失するに至った。

方献夫

方献夫、字は叔賢、南海の人。生まれて孤となった。弱冠にして弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に改まった。帰って母を養うことを乞い、すなわち母の憂に服した。正徳中、礼部主事に授けられ、吏部に調じ、員外郎に進んだ。主事王守仁と学を論じ、これを悦び、すなわち弟子となることを請うた。まもなく病を謝して帰り、西樵山中で書を読むこと十年。

嘉靖と改元し、夏に還朝する途中、「大礼」の議が未だ定まらぬと聞き、疏を草して曰く。

先王が礼を制定したのは、もとより人情に基づくものである。君子が事を論ずるには、名と実を究めるべきである。窃かに見るに、近頃礼官の議するところは、人情に合わず、名実に当たらないものがある。一つは『礼経』の言葉を守り、一つは宋儒の説に従うものである。臣は独りこれを然りとせず。『礼経・喪服』伝に曰く「如何にして以て人の後と為すべしや?支子可なり」と。また曰く「人の後と為す者は孰れを後とすや?大宗を後とす」と。「大宗とは、尊ぶべき統なり」と。「絶つべからざるなり、故に族人は支子を以て大宗を後とす。適子は大宗を後とすべからず」。この礼を為す者は、蓋し支子有りて後に人の後と為すべく、人の後を絶ちて以て人の後と為す者無きを謂うのである。今、興献帝はただ陛下一人を生み、別に支庶無し。乃ちその後を絶たしめて孝宗を後とせんとは、豈に人情ならんや。且つ人の後と為す者は、父嘗て之を立てて子と為し、子嘗て之に事えて父と為す。故に卒してその服を服するのである。今、孝宗は嘗て武宗有り、未だ嘗て陛下を子と為さず。陛下は孝宗に於いて未だ嘗て三年の服を服せず。これは実に未だ嘗て孝宗を後とせざるなり。而して強いて之を考と称するは、豈に名実ならんや。この議を為す者は、その『礼経』の言葉に合するを見ざるなり。

また程頤の『濮議』に按ずるに、「英宗既に仁宗を以て父と為す、当に濮王を以て親と為すべからず」と謂う。これは宋儒の説が善からざるに非ず、実に今日の事が同じからざるなり。蓋し仁宗は嘗て英宗を宮中に育て、これは実に父子と為す。孝宗は未だ嘗て陛下を宮中に育てず。その同じからざる者一。孝宗には武宗有りて子と為す。仁宗は未だ嘗て子有らず。その同じからざる者二。濮王には別に子有りて絶たずとすべし。興献帝には別子無し。その同じからざる者三。豈に濮王の事を以て今日の事に比すべけんや。この議を為す者は、その宋儒の説を善く述べるを見ざるなり。

若し孝宗は後無くして可からず、故に必ず陛下を子と為さんと欲すと謂わば、これは尤も大道に達せざる者なり。孝宗の心を推すに、所以に必ず後を有さんと欲するは、祖宗の祀を絶たず、天下社稷の重きを失わざるに在るのみ。豈に必ず拘拘として父子の称に拘り、而る後に後有りと為さんや。孝宗には武宗有り、武宗には陛下有り。これは祖宗の祀を絶たず、天下社稷の重きを失わざるなり。これは実に後有りと為すなり。且つ武宗は天下に君たりること十有六年。孝宗の後無きを忍びず、独り武宗の後無きを忍ぶべけんや。これは尤も通ぜざる説なり。夫れ興献帝は当に父とすべくして、父と為すを得ず。孝宗は当に父とすべからずして、強いて父と称す。武宗は当に継ぐべくして、継ぐを得ず。これは一挙にして三失あり。臣はその可なるを見ざるなり。

且つ天下未だ嘗て父無きの国無し。瞽瞍人を殺せば、舜窃かに負いて逃る。今、陛下にその父を捨てて天下を有たしめんとは、陛下何を以て心と為さんや。臣は陛下の純孝の心を知る。寧ろ天下有らずとも、決してその父を父とせざるを忍ばざるべし。説く者また興献帝は当に帝と称すべからずと謂う。これは尤も大道に達せざる者なり。孟子曰く「孝子の至れるは、親を尊ぶより大なるは莫し」。周公は太王・王季を追王し、子思は以て達孝と為す。豈に子天子と為りて、父帝と称するを得ざる者あらんや。今日の事、臣嘗て之が説を為すに曰く、陛下の二宗を継ぐは、当に統を継ぎて嗣を継がず。興献の群廟に異なるは、帝を称して宗を称せざるに在り。夫れ帝王の体は、士庶と相同からず。統を継ぐ者は、天下の公、三王の道なり。嗣を継ぐ者は、一人の私、後世の事なり。興献の帝と称するを得るは、陛下を以て天子と為すによる。宗と称するを得ざるは、実に未だ嘗て位に在らざるによる。伏して朝臣に宣示し、復た孝宗を『皇伯』と称し、興献帝を『皇考』と称し、別に廟を立てて之を祀らんことを乞う。夫れ然る後に人情に合し、名実に当たり、唯だ先王の礼を制するの意を得るのみならず、抑もまた陛下の純孝の心を遂げん。

疏を具えて、廷臣方に異議を抵排するを見、懼れて敢えて上せず。桂萼に見られ、席書の疏と並び表を上ぐ。帝大いに喜び、直ちに廷議に下す。廷臣遂に献夫を奸邪と目し、至って往還せず。献夫乃ち門を杜ちて仮を乞う。既に請うを得ず、則ち『大礼』上下二論を進め、その説益々詳し。時に已に張璁・桂萼を南京より召す。至れば即ち用いて翰林学士と為し、而して献夫を用いて侍講学士と為す。攻むる者四起し、献夫も亦力辞す。帝遂に諸人の議を用いて「大礼」を定む。ここにより帝の眷を受くること璁・萼に埒し。四年冬、少詹事に進む。献夫終に自ら安からず、病を謝して帰る。

六年、『明倫大典』を修するを召す。献夫は霍韜と同里にして、礼を議するを以て親善し、又同じく召しに赴く。乃ち合疏して言う、「古より力主として後と為すの議を為す者は、宋には司馬光より甚しき莫く、漢には王莽より甚しき莫し。『濮議』を主る者は、光を首とし、呂誨・範純仁・呂大防之に附く。而して光の説は人を惑わすこと最甚だし。哀帝の議を主る者は、莽を首とし、師丹・甄邯・劉歆之に附く。而して莽の説は流毒最も深し。宋儒は王莽の説を祖述して以て万世を惑わし、後学を誤る。臣等謹んで『漢書かんじょ』・『魏志』・『宋史』に按じ、略く王莽・師丹・甄邯の奏、及びその事の始末、並びに魏明帝の詔、濮園の議を采り、論正して以て其の後に附す。乞う、纂修官に付し、参互して考訂せしめ、天下の臣子に後と為すの議実に莽に起こり、宋儒の論実に莽に出づるを知らしめ、下は群疑を洗い、上は聖孝を彰わさん」。詔して其の書を史館に下す。朝に還りて未だ幾ばくもあらず、命じて大理寺事を署せしめ、璁・萼と李福達の獄を覆讞す。萼等は馬録に重辟を議す。献夫力争して死を減ずるを得。其の年九月、礼部右侍郎を拝し、仍び学士を兼ね、直経筵日講す。尋いで萼に代わりて吏部左侍郎と為り、復た代わりて礼部尚書と為る。『明倫大典』成り、太子太保を加う。

献夫は璁・萼に比べて性格が寛大平穏であり、事に臨んでも時に自らの主張を持ち、必ずしも全てに迎合しなかった。萼が陳洸の獄を覆し、問官葉応驄らを悉く逮捕・尋問するよう請うた際、献夫の言葉により多くは逮捕を免れた。思恩・田州は毎年のように乱が起こり、献夫は王守仁を専任とし、鎮守中官鄭潤・総兵官朱騏を罷免するよう請うたので、帝は潤・騏を召還した。思・田が平定された後、守仁が城を築き邑を建てることを議すると、萼は痛烈にこれを誹謗した。献夫はその功績の様子を歴陳し、築城は中止されずに済んだ。璁・萼が楊一清と対立すると、献夫は災異に因んで和衷の説を進言し、また謫戍・削籍された余寛・馬明衡らを召還すること、及び進士の数を倍増することを請うた。帝は優詔でこれに答え、寛らは結局用いられなかった。献夫は尼僧・道姑が風俗を害するとし、改嫁を強制するよう請い、帝はこれに従った。また霍韜の言に因り、度牒のない僧道・私創の寺観を悉く淘汰した。帝が陳皇后の喪を殺そうとした時、献夫は礼を引き合いに出して固く争った。まもなく再び萼に代わって吏部尚書となった。萼・璁が政務を罷免されると、詔により吏部が両人の私党を審査することとなった。献夫は言う、「陸粲らが弾劾した百十人は、誣告された者も少なくない。かつて璁・萼を攻撃した者を、党として去らせた。今璁・萼に附く者を、また党として去らせようとする。縉紳の禍はいつ終わるのか」と。そこで黄綰ら二十三人を留任するよう奏し、儲良才ら十二人を罷免した。良才は、初め御史であったが、考察により罷免された。上疏して楊廷和を誹謗し、吏部侍郎孟春らを奸党と指弾したため、萼がその復職を請うたのである。この時斥去され、世論は快とした。安昌伯銭維圻が卒すると、庶兄の維垣が爵位継承を請うた。献夫は外戚の封は世襲すべきでないと述べ、歴代の漢・唐・宋の事例を引いて証とした。帝はその言を善とし、廷議に下したので、外戚の世襲封は永久に絶えた。

璁・萼が召還された後、羽林指揮劉永昌が都督ととく桂勇を弾劾し、その言葉は萼及び兵部尚書李承勛に及んだ。また御史廖自顯を弾劾し、自顯は逮捕された。その後、また兵部郎中盧襄らを告発した。献夫は永昌を審問処罰するよう請い、奸人が流言飛語で善類を中傷することを許すなと述べた。帝は従わなかった。献夫はそこで退任を求め、帝もまた許さなかった。給事中孫応奎が献夫が親戚故旧の大理少卿洗光・太常卿彭澤を私したと弾劾した。帝は聞き入れなかった。都給事中夏言もまた献夫が選法を乱し、張璁の嫌う浙江参政黄卿を陝西に転任させ、璁の愛する党以平を代わりに用い、邪曲な彭澤を越等して太常に昇進させたこと、及びその他の私昵した事柄は全て証跡があると弾劾し、献夫が賄賂を交通したのではないかと疑った。上疏が入ると、帝は卿らを元の官に戻すよう命じた。献夫及び璁が上疏して弁明し、引退を申し出た。帝は二人の意に逆らうことを重んじ、再び卿らを前の擬定通りとした。

まもなく、給事中薛甲が言う、「劉永昌は武夫をもって冢宰を弾劾し、張瀾は軍余をもって勲臣を弾劾し、下が上を凌ぎ上は廃れ、どこで止まるか分からない。廉遠堂高の義を存し、小人が攻撃・告発をほしいままにできないように願う」と。上奏文は吏部に下された。献夫らは甲の言に従い、都察院に吏民が虚言を弄して政を乱すことを厳禁するよう勅し、併せて両京の給事御史及び天下の巡撫・按察官に論事は大綱を先とし細かい欠点を責めないよう戒めることを請うた。当時、帝はまさに耳目を広げて百僚の真偽を周知しようとしており、献夫の議を得て快く思わず、取り上げなかった。そこで給事中饒秀が甲が阿附していると弾劾し、「劉永昌以後、言官が大臣を議したと聞かない。ただ夏言・孫応奎・趙漢が璁・献夫に及んで議しただけである。漢は既に詰問譴責を受け、言・応奎の上奏したことは皆用人行政の過失であり、甲はこれを細事を挙げるものと指弾し、ひたすら大臣を称揚する。郭勛のように貪欲放縦な者も、人に言われたくないのであろう。必ずや大臣が横行し、群臣が口を閉ざすことになろう。万一逆人がその間に混じったら、どうするのか」と。奏上されると、帝は内心その言を善とした。吏部に再議を下した。甲は詳細な上疏で自らを弁明したが、帝は部の奏上を待たなかったことを嫌い、二官を削って外任とするよう命じた。部は甲は既に処分されたとして、再び議しなかった。帝は対置するよう責め、献夫の俸給を一月停止し、郎官はそれを倍にした。献夫は自ら満足せず、二度上疏して病を理由に引退を願い出た。帝はすぐに許可したが、なお空位を以て待った。

十年秋、詔を下して召還した。献夫は上疏して辞退し、梁材・汪鋐・王廷相を自らの代わりに推挙した。帝は手詔で褒めて答え、行人蔡叆を遣わして催促した。叆が門に及ぶと、献夫は西樵に潜り、病を理由に辞退した。その後、使いが再び至り、別に用いるというので、ようやく道についた。翌年五月に京に至り、元の官のまま武英殿大学士を兼ねて内閣に入り政務を補佐するよう命じられた。初め、献夫に「忠誠直諒」の銀章を賜り、事あれば密封して奏聞するよう命じていた。献夫が帰郷した際、朝廷に返上していたが、この時また以前のように賜った。吏部尚書王瓊が卒すると、献夫にこれを掌らせた。献夫は家に居る時、身分を引き立てて自ら尊大にし、監司が謁見すると、しばしば病と称して応じなかった。家人姻党が郡中で横行し、郷人が屡々告発したが、僉事龔大稔がこれを受理した。献夫が朝廷に戻ると、大稔に依頼した。ちょうど大稔が事に坐して落職し、献夫がしたのではないかと疑い、遂に上疏してその不法な事数件を列挙し、言葉は霍韜に及んだ。献夫が上疏して弁明すると、帝は献夫を眷顧していたので、大稔は遂に逮捕され官籍を削られた。十月、彗星が東井に現れた。御史馮恩が献夫を兇奸で巧みに弁舌を弄し、威福を播弄して将に国家に不利ならんとするものと誹謗し、故に献夫が吏部を掌ると彗星が現れたのだと言った。帝は怒り、彼を獄に下した。献夫もまた病を理由に休暇を乞い、優詔で許さなかった。

献夫は恬退の名を飾り、連続して弾劾され、内心恥じた。大政を執りながらも、気力は萎えて振るわなかった。ただ帝が張延齢を殺そうとした時は、常に力強く争った。その時、桂萼は既に以前に卒していた。張璁が最も寵愛され、罷相すること屡々であった。霍韜・黄宗明が事を言って少しでも不適当だと、すぐに吏部に下された。献夫は帝の恩威が測り難いのを見て、職に居ること二年、三度上疏して病を理由に引退を願い出た。帝は優詔でこれを許し、駅伝車を利用させ、道中の費用を与えた。家に居ること十年で卒した。先に既に柱国・少保を加えられていたが、ここに太保を贈り、文襄と諡した。

献夫は議礼に縁って急に貴くなった。璁・萼と共に事に当たり、持論は頗る公平で寛大であったので、人は甚だしく彼を憎まなかった。

夏言

夏言、字は公謹、貴溪の人。父は鼎、臨清知州。言は正徳十二年の進士に挙げられ、行人に授けられ、兵科給事中に抜擢された。性質は機敏で、文章をよくした。言路に居ると、謇諤として自らを任じた。世宗が嗣位すると、上疏して言う、「正徳以来、壅蔽は極まっている。今陛下は諸政を維新される。日々朝見の後、文華殿に御して章疏を閲覧し、閣臣を召して面決せられたい。或いは事が大利害に関わるならば、廷臣を下して集議させられたい。褻近の者に謀り、径に中旨を発するべきではない。聖意が予奪されるときも、必ず内閣に下して議した後に行い、壅蔽矯詐の弊を絶たれたい」と。帝は嘉納した。詔を奉じて御史鄭本公・主事汪文盛とともに親軍及び京衛の冗員を審査し、三千二百人を淘汰し、また九事を条陳して上奏した。輦下は粛清された。

嘉靖初年、夏言は御史樊継祖らとともに出向して荘田を巡察し、ことごとく奪還して民産に帰した。中官趙霦・建昌侯張延齢を弾劾し、上疏は合わせて七度に及んだ。後宮の城郭に近い荘田を親蚕廠・公桑園に改めること、一切の外戚からの求めや、河南・山東の奸人が民田を王府に献上することを禁ずることを請うた。逮捕された永平知府郭九皋を救った。荘奉夫人の弟邢福海・粛奉夫人の弟顧福が、旨を伝えて錦衣衛の世襲千戸に任じられようとしたが、夏言は力争して不可とした。諸々の上疏は概ね直言であり、人々に伝誦された。たびたび昇進して兵科都給事中となった。青羊山の賊平定の功罪を査定し、論奏はすべて妥当であった。副使牛鸞が賊中の連絡名簿を入手したが、夏言はこれを焼却して衆心を安んずるよう請うた。孝宗朝には、吏部・兵部の二部に毎季、両京の大臣および在外の文武方面官の履歴を具えて進上させたが、正徳以後は次第に廃れていたので、夏言の請いによってこれを復活させた。

嘉靖七年、吏科に転じた。当時、帝は礼文の事に鋭意であった。天地合祀は礼に合わないとして、二郊を分けて建て、日月を合わせて四郊としようとした。大学士張孚敬は決断できず、帝が太祖に占わせても吉と出ず、議論は一旦中止となった。ちょうど夏言が上疏して、帝が南郊で親耕し、后が北郊で親蚕して天下に率先すべきことを請うた。帝は南北郊の説が二郊分建と合致すると考え、張孚敬に旨を諭させた。夏言はそこで天地を分祀することを請うた。廷臣は反対を主張し、張孚敬も難色を示し、詹事霍韜が特に激しく誹謗した。帝は大いに怒り、霍韜を獄に下した。璽書を降して夏言を褒賞し、四品の服と俸禄を賜い、ついにその請いを容れた。また二郊の配享の議を賛成し、その言葉は『礼志』に詳しい。夏言はこれより大いに帝の眷顧を受けるようになった。郊壇の工事が始まると、ただちに夏言に監理させた。延綏が飢饉となると、夏言は僉都御史李如圭を推薦して巡撫とした。吏部が李如圭の後任を推挙したが、帝は用いず、再び推挙が夏言に及んだ。御史熊爵は、夏言が李如圭を出して自分の地位を確保したとし、張糸采にまで比した。帝は熊爵を厳しく責め、夏言に弁明させなかった。しかし夏言は不服で、熊爵を告発し、かつ新たな任命を辞そうとしたので、帝はやめさせた。

張孚敬は百官を意のままに指図し、敢えて抗う者はいなかった。夏言は帝に知遇を受けたことを自負し、ただ一人でその下風に立たなかった。張孚敬はそこで大いに夏言の寵を害し、夏言もまた張孚敬が急に彭沢を太常卿に登用して自分を支持しなかったことを怨み、両人は遂に隙を生じた。夏言は上疏して張孚敬および吏部尚書方献夫を弾劾した。張孚敬・方献夫はともに上疏して弁明し、去職を求めた。帝は諸人を厚く遇していたので、両方を和解させた。夏言が顕要となってからは、張孚敬・方献夫・霍韜と対立し、ますます強直をもって深く自らを結びつけた。帝が郊礼をまとめて成書にしようとすると、夏言を侍読学士に抜擢し、纂修官を充て、経筵日講を直し、なお吏科都給事中を兼ねさせた。夏言はまた帝が文廟の祀典および大禘礼を更定することを賛成し、帝はますます喜んだ。十年三月、ついに少詹事に抜擢し、翰林学士を兼ね、院事を掌り、講官としての直講はもとどおりとした。夏言は眉目が朗らかで、美しい鬚髯があり、声は雄大で流暢、郷音を交えなかった。進講のたびに、帝は必ず目を注ぎ、大いに用いようとした。張孚敬の忌みはますます甚だしく、ついに彭沢とともに薛侃の獄をでっち上げ、夏言を法司に下した。やがて、帝が張孚敬の不正に気づき、張孚敬を罷免して夏言を釈放した。八月、四郊の工事が完成し、夏言を礼部左侍郎に進め、なお院事を掌らせた。一ヶ月余りして、李時に代わって本部尚書となった。諫官を去って一年も経たぬうちに六卿に登ったのは、これ以前にはなかったことである。

当時、士大夫はなお張孚敬を憎み、夏言を頼ってこれに抗した。夏言はすでに機敏さをもって帝の知遇を結び、また礼を下して士人に接した。御史喻希礼・石金が「大礼」の大獄で罪を得た諸臣を赦すよう請うた。帝は大いに怒り、夏言に弾劾させた。夏言は喻希礼・石金に悪意はないとし、帝に寛恕を請うた。帝は夏言に回答を求め、二人を詔獄に捕らえ、遠方に流罪とし、夏言が罪を引受けてようやく止んだ。これによって公卿の間で名声を大いに得た。帝が礼楽を制作するのは、多く夏言が尚書の時に議したものであり、閣臣李時・翟鑾はその位を充たすだけだった。帝は詩を作るたびに、しばしば夏言に賜い、夏言はすべて応和して石に刻んで進上し、帝はますます喜んだ。奏対や応制の文は、待たれてすぐに書き上げた。たびたび召見され、政事を諮問されると、よく帝の旨を窺い、それに附会した。銀章一つを賜り、密封して言事させ、その文は「学博才優」であった。先後して繍蟒・飛魚・麒麟の服、玉帯、兼金、上尊、珍饌、時物を賜うこと、月に虚しいことがなかった。張孚敬・方献夫が再び相次いで輔政に入ったが、帝の夏言への眷顧が厚いことを知り、敢えて争わなかった。やがてともに辞職した。議礼の諸人のうちただ霍韜のみが残り、夏言を仇敵としてやめなかった。十五年、順天府尹劉淑相の事をめぐり、霍韜と夏言が互いに攻撃し合った。霍韜はついに勝たず、事は『霍韜伝』に詳しい。夏言はこれによって気性が驕慢となった。郎中張元孝・李遂が少しでも逆らえば、すぐに奏上して左遷した。皇子が生まれると、帝は夏言に甚だ厚く賜った。初め太子太保を加え、少傅兼太子太傅に進めた。閏十二月、ついに武英殿大学士を兼ねて機務に参与した。行幸に扈従して陵を謁し、沙河に戻った時、夏言の厨房から出火し、郭勛・李時の帳幕に延焼し、帝が夏言に付した上疏六通も焼けた。夏言は単独で罪を引受けるべきであったが、郭勛らとともに謝罪し、譴責を受けた。当時李時が首輔であり、政務は多く夏言から出た。顧鼎臣が入閣すると、先輩で年長であることを恃み、かなり可否を言おうとした。夏言は快く思わず、顧鼎臣は遂に敢えて争わなかった。その冬、李時が卒去し、夏言が首輔となった。十八年、皇天上帝に冊表を捧げて薦めた功により、少師・特進光禄大夫・上柱国を加えられた。明代で人臣が上柱国を加えられた者はなく、これは夏言が自ら擬したものである。

武定侯郭勛は寵愛を受け、夏言の寵を害した。また礼部尚書厳嵩も心の中で夏言を妬んだ。夏言と厳嵩が行幸に扈従して承天に至り、帝が顕陵を謁し終わると、厳嵩は再び表賀を請うたが、夏言は還京を待つよう乞うた。帝は取りやめを告げたが、心中大いに不愉快であった。厳嵩は帝の意向を知り、固く請うたので、帝は「礼楽は天子より出ずるも可なり」と言い、表賀させた。帝はこれより夏言を快く思わなくなった。帝が大峪山に行幸した時、夏言が居守の勅書を進めるのがやや遅れたので、帝は責めた。夏言は恐れて罪を請うた。帝は大いに怒って言った。「夏言は卑官から、張孚敬の郊礼の議によって進んだのに、怠慢で恭しみがなく、密疏を進めるのに賜った銀章を用いない。累次降した手勅をすべて返還せよ。」夏言はますます恐れ、上疏して謝罪した。銀章・手勅の追及を免れ、子孫のための百世の栄えとしたいと請い、言葉は甚だ哀切であった。帝の怒りは解けず、夏言が毀損したのではないかと疑い、礼部に追い取らせた。少師の勲階を削り、少保尚書大学士として致仕させた。夏言はそこで手勅四百余通と銀章とを上納した。数日後、怒りが解け、執行を止めさせた。再び少傅・太子太傅として入直させ、夏言は上疏して謝した。帝は喜び、初志を励まし、公を秉し正を保ち、衆怨を免れるよう諭した。夏言は「衆怨」というのが郭勛らのことだと心に知り、再び上疏して謝した。自らの処し方は他人に後れを取らず、ひたすら孤立を志し、衆に忌まれるのだと言った。帝は再び不愉快になり、詰責した。夏言は恐れおののいて謝罪し、ようやく許された。まもなく、雷が奉天殿を震わせた。夏言および顧鼎臣を召したが、時を過ぎても至らなかった。帝は再び詰責し、礼部に弾劾させた。夏言らは罪を請うたが、帝はまた夏言の傲慢を責め、顧鼎臣をも責めた。やがて、追い取られた銀章と御書を返還した。陝西から捷報が奏上されると、少師・太子太師を復し、吏部尚書に進め、華蓋殿大学士とした。江淮の賊が平定されると、璽書で奨励し、金幣を賜い、大学士の俸禄を兼支させた。

鼎臣(夏言)既に歿し、翟鑾再び入閣すれども、恂恂として属吏の如く、敢えて少しも齟齬せず。而して霍韜、詹事府を掌るに入りて数怨を修む。郭勛、言と隙有るを以て、結びて己を助けしめ、三人日相構う。既にして韜死し、言・勛悪を交えること自若たり。九廟災有り、言方に疾を以て告在す。罷むるを乞うも、允さず。昭聖太后崩じ、詔して太子服制を問う。言報疏に訛字有り。帝切に言を責め、言謝罪し且つ家に還り疾を治めんことを乞う。帝益怒り、少保・尚書・大学士を以て致仕せしむ。言始めて帝の己を怒るを聞き、上に辺備十四策を御し、以て解かんことを冀う。帝曰く、「言既に忠謀を蘊むも、何ぞ堅く自愛し、朕の眷倚に負くや。姑く問わず。」初め、言青詞及び他の文を撰す、最も帝意に当たる。言罷むると、独り翟鑾在るも、帝の急とせざる所なり。及んで将に都を出んとし、西苑の斎宮に詣で叩頭謝す。帝聞きて之を憐れみ、特に酒饌を賜い、私第に還り疾を治めしめ、後命を俟たしむ。会に郭勛、言官の重く劾するを以て、亦疾を引き告在す。京山侯崔元新に寵有り、直に内苑し、勛を忌む。帝従容として元に問う、「言・勛皆朕の股肱なり、相い妒むは何ぞや。」元対えず。帝問う、言帰るは何の時ぞ、曰く、「聖誕の後を俟ちて、始めて敢えて請わん。」又問う、勛何の疾ぞ、曰く、「勛疾無し、言帰れば即ち出づるのみ。」帝之に頷く。言官、帝の言を眷み勛を悪むを知り、因りて共に勛を劾す。勛弁語悖謾、帝怒り、勛の同事王廷相の籍を削る。給事中高時なる者は、言の厚くする所なり、尽く勛の貪縦不法十数事を発す。遂に勛を獄に下し、言に少傅・太子太師・礼部尚書・武英殿大学士を復し、疾愈えて入直せしむ。言告在すと雖も、閣事多く其の指授を取る。勛の獄を治むるに、悉く其の指授なり。二十一年春、一品九年満ち、中使を遣わし銀幣・宝鈔・羊酒・内饌を賜う。尽く其の官階を復し、璽書を以て奨美し、礼部に宴を賜う。尚書・侍郎・都御史陪侍す。是の時に当たり、帝言を優礼すと雖も、然れども恩眷初めに及ばず。

慈慶・慈寧両宮宴駕す。勛嘗て其の一を改め太子に居らしめんことを請う。言不可とし、帝意に合う。是に至り帝猝かに太子当に何に居るべきかを問う。言前語を忘れ、興作の費煩を念い、勛の指す如くに対う。帝悦ばず。又言官の勛を劾するは言の意に出づるを疑う。及んで大享殿を建つるに、中官高忠を命じて監視せしめ、言敕稿を進めず。西苑に入直する諸臣、帝皆馬に乗ることを令し、又香葉束髪巾を賜い、皮帛を以て履と為す。言、人臣の法服に非ずと謂い、受けず、又独り腰輿に乗る。帝数憾を積みて言を去らんと欲し、而して厳嵩因りて之に間するを得。嵩と言は同郷にて、先達と称し、言に事うること甚だ謹みたり。言閣に入り嵩を援きて自ら代わらしめ、門客を以て之を畜う。嵩心に甚だ恨む。言既に帝意を失い、嵩日柔佞を以て寵さる。言斥けられんことを懼れ、嵩を呼びて謀る。嵩則ち已に潜かに陶仲文の第に造り、言を齮齕して其の位に代わらんことを謀る。言知りて甚だ慍り、言官を諷して屡り嵩を劾せしむ。帝方に嵩を憐れみ聴かず。両人遂に大いに郤く。六月、嵩燕見し、頓首雨泣し、言の見淩がるる状を訴う。帝して悉く言の罪を陳べしむ。嵩因りて振り其の短を暴く。帝大怒し、手敕を礼部に下し、歴りに言の罪を数え、且つ曰く、「郭勛已に獄に下るとも、猶千羅百織す。言官は朝廷の耳目たり、専ら言の主使を聴く。朕早朝せず、言も亦閣に入らず。軍国の重事、私家に取裁す。王言要密なるも、視ること戯玩に等し。言官一言せず、徒に君上を欺謗し、神鬼を致して怒らしめ、雨甚だしく禾を傷つく。」言大いに懼れ、罪を請う。十余日居りて、献帝の諱辰に、猶召し入れて拝せしめ、西苑に直するを候わしむ。言因りて恩に謝し骸骨を乞う、語極めて哀れなり。疏留まるること八日、会に七月朔日食既す。手詔を下して曰く、「日食過分す、正に下慢上の咎に坐す。其れ言の職を落とし閑住せしめよ。」帝又自ら三失を引き、天下に布告す。御史喬佑・給事中沈良才等皆具に疏を上り言を論じ、且つ罪を請う。帝大怒し、十三人を貶黜す。高時は勛を劾する故を以て、独り遠辺に謫す。是に於いて厳嵩遂に言に代わりて閣に入る。

言久しく貴きを用い事を為し、家富厚にして、服用豪侈、多く問遺を通ず。久しく召されず、監司府県の吏も亦稍く之を慢易し、悒悒として楽しまず。元旦・聖寿に遇えば必ず表を上りて賀し、「草土臣」と称す。帝亦漸く之を憐れみ、尚書・大学士を復す。二十四年に至り、帝微かに嵩の貪恣を覚え、復た言を思い、官を遣わし敕を賫して召し還し、尽く少師諸官階を復し、亦嵩に少師を加え、言と並ぶが若くす。言至りて、直ちに嵩を陵ぎて其の上に出づ。凡そ批答する所、略嵩を顧みず、嵩噤して敢えて一語を吐かず。引用する私人、言之を斥逐すれども、亦敢えて救わず、骨に次ぎて銜む。海内の士大夫方に嵩の貪忮を怨み、言能く嵩を圧して其の命を制すと謂い、深く以て快と為す。而して言は廃棄久しきを以て、務めて権を張る。文選郎高簡の戍、唐龍・許成名・崔桐・王用賓・黄佐の罷、王杲・王暐・孫継魯の獄、皆言之を主る。貴州巡撫王学益・山東巡撫何鰲、言官の論劾する為め、輒ち旨を擬して逮訊す。龍故より嵩と善く、暐の事世蕃に牽れ、其他譴逐する所尽く当らず、朝士仄目す。最後に御史陳其学、塩法の事を以て崔元及び錦衣都督陸炳を劾す。言旨を擬して状を陳べしむるを令す。皆言に造りて死を請う。炳長跪して乃ち解かるるを得。二人嵩と比して言を構う。言未だ之を悟らず。帝数小内豎をして言の所に詣らしむ。言気岸を負い、奴を以て之を視る。嵩必ず延いて坐せしめ、親しく金銭を袖中に納む。以て故に日嵩を誉めて言を短くす。言進むる青詞往々帝旨を失う。嵩聞き益事を精治す。

間もなく河套の議が起こる。夏言は元来慷慨として経世済民を自ら任じ、並びなき功績を立てんと志す。陝西総督曾銑が河套の回復を請うたのに乗じ、これを支持して決断した。厳嵩と崔元、陸炳がその間に讒言をなす。遂にこれによって敗れる。江都の人蘇綱は、夏言の後妻の父であり、平素より曾銑と親しかった。曾銑が河套回復を請うや、蘇綱はしきりに夏言にその才を称えた。夏言は曾銑に任せれば事を成し得ると頼み、密かに上疏して彼を推薦し、群臣の中で曾銑ほど忠なる者はないと述べた。帝は夏言に詔勅の草案を命じ、二度にわたり曾銑を優れて褒め称えた。曾銑は喜び、ますます出師に意気込んだ。帝は突然詔を下して詰責し、言葉は甚だ厳しかった。厳嵩は帝の意を推し量り、力を込めて河套は回復できないと主張し、言葉は夏言を侵害した。夏言は初めて大いに恐れ、謝罪し、かつ「厳嵩はかつて異議を唱えたことはなく、今になって全てを臣に押し付ける」と述べた。帝は夏言を「君主を強いて衆を脅す」と責め、厳嵩はさらに上疏を飛ばして夏言を攻撃し、夏言もまた力強く弁明した。しかし帝はすでに厳嵩の讒言を聞き入れ、怒りは解けなかった。二十七年正月、夏言の官階を全て剥奪し、尚書の身分で致仕させたが、なお殺す意図はなかった。時に禁中に蜚語が聞こえ、夏言が去る時に怨み誹謗したという。厳嵩はさらに仇鸞に代わって上奏文を草し、夏言が曾銑から金を受け取り、互いに結託して不正の利を得たと告発した。事は蘇綱に連座し、曾銑と蘇綱を詔獄に下した。厳嵩は崔元、陸炳と謀り、曾銑に近侍と交結した律を適用して斬刑に処し、蘇綱を辺境に流刑とし、官校を遣わして夏言を逮捕させた。夏言が通州に着くと、曾銑の罪状を聞き、大いに驚いて車から落ち、「ああ、我は死ぬ」と言った。再び上疏して冤罪を訴え、「仇鸞はまさに逮捕されようとしており、陛下が諭を下されて二日と経たぬうちに、仇鸞はどうして陛下の言葉を知り、またどうして厳嵩の上疏を知ってこれほどに附麗したのか。これは厳嵩と崔元らが臣を陥れるために偽ったものである。厳嵩は言葉は静かで行いは背く、共工のようであり、謙恭で士に下る、王莽のようであり、奸巧に権を弄び、父子で政を専らにする、司馬懿のようである。内廷の諸臣はその籠絡を受け、厳嵩の存在を知って陛下の存在を知らず。外廷の諸臣はその箝制を受け、また厳嵩の存在を知って陛下の存在を知らない。臣の生死は厳嵩の掌握に係り、ただ聖慈に帰命し、曲げて保全を賜わることを願う」と述べた。帝は省みなかった。獄が決し、刑部尚書喻茂堅、左都御史屠僑らは夏言を死罪に相当するとし、議貴・議能の条を援用して上奏した。帝は従わず、茂堅らを厳しく責め、その俸給を剥奪し、なお夏言が以前香冠を戴かなかった事に言及した。その年十月、ついに夏言を市で処刑した。妻の蘇氏は広西に流され、従子で主事の克承、従孫で尚宝丞の朝慶は、官籍を削られて庶民となった。夏言の死時、年六十七。

夏言は豪邁で俊才があり、縦横に弁論博学で、人として屈せしめる者はなかった。特別な眷顧を受けるや、帝が臣下の徒党を嫌う意を推し量り、日ごとに諸議礼の貴人たちと対立した。帝は彼が徒党を組まないと思い、遇することますます厚かったが、ついに厳嵩に排斥された。夏言が死ぬと、厳嵩の禍は天下に及び、久しくしてから夏言を惜しむ者が多くなった。そして夏言が推挙した徐階は、後についに厳嵩を除いて名相となった。隆慶初年、その家が上書して冤状を訴えると、詔してその官を回復し、祭葬を賜い、文湣と諡した。夏言には初め子がなかった。妾が身ごもったが、妻が嫉んでこれを嫁がせ、一子を生んだ。夏言の死後、妻がこれを迎え戻したが、容貌は甚だ夏言に似ていた。かつ官を得ようとしたが、突然病没した。夏言はついに後継者がなかった。

賛に曰く、張璁、桂萼、方献夫が興献帝を尊崇することを議したのは、本来人子の至情によるもので、故にその説は入りやすかった。その初議を推し量れば、未だ情と礼の中に準じていないわけではなく、遂に時に遭い君を得て、動もすれば議礼を引き合いに出して自らを固め、恩讐を快くせんと務めた。ここにおいてその建議の心が、倦むことなき忠愛の実がなく、その君を正道に引き入れんとしたものではないことを知る。夏言が奏上して定めた典礼も、多く採るべきものがあった。しかし志は驕り気は溢れ、ついに厳嵩に排斥された。究めて諸人の立身の本末とその言う是非とを観れば、固より両つながら相い掩うことはないという。