明史

列傳第八十三 王守仁

列傳第八十三 王守仁

原文列傳第八十三 王守仁

王守仁、字あざなは伯安、餘姚の人。

原文王守仁,字伯安,餘姚人。

父の華、字は德輝、成化十七年の進士第一。修撰を授かる。弘治年間、累進して学士・少詹事となる。華は器量があり、講幄に最も長く在り、孝宗は甚だこれを眷顧した。李広が寵幸を得ると、華は大学衍義を講じ、唐の李輔国と張后が表裏して権を握るに至り、指陳甚だ切直であった。帝は中官に命じて食を賜い労った。正徳初め、礼部左侍郎に進む。守仁が劉瑾に逆らったため、出されて南京吏部尚書となり、事に坐して罷免される。まもなく会典の小誤により、右侍郎に降格。瑾が敗れると、元の官に復し、間もなく卒す。華は孝を本性とし、母の岑は百余歳を超えて卒した。華は既に七十余歳であったが、なお苫に寝て蔬食し、士論はこれを称えた。

原文父華,字德輝,成化十七年進士第一。授修撰。弘治中,累官學士、少詹事。華有器度,在講幄最久,孝宗甚眷之。李廣貴幸,華講大學衍義,至唐李輔國與張后表裏用事,指陳甚切。帝命中官賜食勞焉。正德初,進禮部左侍郎。以守仁忤劉瑾,出為南京吏部尚書,坐事罷。旋以會典小誤,降右侍郎。瑾敗,乃復故,無何卒。華性孝,母岑年踰百歲卒。華已年七十餘,猶寢苫蔬食,士論多之。

守仁は懐胎十四月にして生まれる。祖母が夢に神人が雲中より児を送り下すを見、よって雲と名付く。五歳にして言えず、異人が之を撫で、名を守仁と改め、乃ち言う。十五歳の時、客として居庸・山海関に訪れる。時に塞外に出ることを請い、山川の形勝を縦観す。弱冠にして郷試に挙げられ、学大いに進む。顧みて益々兵を言うことを好み、かつ射を善くす。弘治十二年の進士に登第す。前威寧伯王越の葬儀を治めさせ、還って朝議が西北辺を急としている時、守仁は八事を条上す。まもなく刑部主事を授かる。江北にて囚を決し、疾を引いて帰る。起用されて兵部主事を補す。

原文守仁娠十四月而生。祖母夢神人自雲中送兒下,因名雲。五歲不能言,異人拊之,更名守仁,乃言。年十五,訪客居庸、山海關。時闌出塞,縱觀山川形勝。弱冠舉鄉試,學大進。顧益好言兵,且善射。登弘治十二年進士。使治前威寧伯王越葬,還而朝議方急西北邊,守仁條八事上之。尋授刑部主事。決囚江北,引疾歸。起補兵部主事。

正徳元年冬、劉瑾が南京給事中御史戴銑ら二十余人を逮捕す。守仁は抗章して救い、瑾は怒り、廷杖四十、貴州龍場驛丞に謫される。龍場は万山叢薄にして、苗・僚雑居す。守仁は俗に因って化導し、夷人は喜び、相率いて木を伐って屋と為し、以て守仁を棲まわす。瑾が誅せられると、量移して廬陵知県となる。入覲し、南京刑部主事に遷り、吏部尚書楊一清が之を験封に改む。累遷して考功郎中となり、抜擢されて南京太僕少卿、就いて鴻臚卿に遷る。

原文正德元年冬,劉瑾逮南京給事中御史戴銑等二十餘人。守仁抗章救,瑾怒,廷杖四十,謫貴州龍場驛丞。龍場萬山叢薄,苗、僚雜居。守仁因俗化導,夷人喜,相率伐木為屋,以棲守仁。瑾誅,量移廬陵知縣。入覲,遷南京刑部主事,吏部尚書楊一清改之驗封。屢遷考功郎中,擢南京太僕少卿,就遷鴻臚卿。

兵部尚書王瓊は素より守仁の才を奇とす。十一年八月、右僉都御史に擢てられ、南・贛を巡撫す。当時、南中に盗賊蜂起ほうきす。謝志山は横水・左溪・桶岡に拠り、池仲容は浰頭に拠り、皆王を称し、大庾の陳曰能・楽昌の高快馬・郴州の龔福全らと府県を攻掠す。而して福建大帽山の賊詹師富らまた起る。前巡撫文森は疾を託して避け去る。志山は楽昌の賊と合して大庾を掠め、南康・贛州を攻め、贛県主簿吳玭戦死す。守仁至り、左右に賊の耳目多きを知り、乃ち老いたる黠なる隷を呼びて之を詰む。隷は戦慄して隠すこと敢えず、因って其の罪を赦し、賊を詗わしむるを令す。賊の動静、知らざる無し。ここにおいて福建・広東に檄して兵を会し、先ず大帽山の賊を討つ。

原文兵部尚書王瓊素奇守仁才。十一年八月擢右僉都御史,巡撫南、贛。當是時,南中盜賊蜂起。謝志山據橫水、左溪、桶岡,池仲容據浰頭,皆稱王,與大庾陳曰能、樂昌高快馬、郴州龔福全等攻剽府縣。而福建大帽山賊詹師富等又起。前巡撫文森托疾避去。志山合樂昌賊掠大庾,攻南康、贛州,贛縣主簿吳玭戰死。守仁至,知左右多賊耳目,乃呼老黠隸詰之。隸戰栗不敢隱,因貰其罪,令詗賊,賊動靜無勿知。於是檄福建、廣東會兵,先討大帽山賊。

明年正月、副使楊璋らを督して賊を長富村に破り、之を象湖山に逼る。指揮覃桓・県丞紀鏞戦死す。守仁は親しく鋭卒を率いて上杭に屯す。佯って師を退き、不意に出て之を搗ち、連ねて四十余の寨を破り、俘斬七千余、指揮王鎧ら師富を擒う。疏を以て権軽く、将士を令する無きを言い、旗牌を給し、軍務を提督し、便宜に事を行うことを得るを請う。尚書王瓊奏して其の請に従う。乃ち兵制を改む:二十五人を伍と為し、伍に小甲有り;二伍を隊と為し、隊に総甲有り;四隊を哨と為し、哨に長有り、協哨二之を佐く;二哨を営と為し、営に官有り、参謀二之を佐く;三営を陣と為し、陣に偏将有り;二陣を軍と為し、軍に副将有り。皆臨事に委ね、朝に命ぜず;副将以下、遞いに罰治するを得。

原文明年正月,督副使楊璋等破賊長富村,逼之象湖山,指揮覃桓、縣丞紀鏞戰死。守仁親率銳卒屯上杭。佯退師,出不意搗之,連破四十餘寨,俘斬七千有奇,指揮王鎧等擒師富。疏言權輕,無以令將士,請給旗牌,提督軍務,得便宜從事。尚書王瓊奏從其請。乃更兵制:二十五人為伍,伍有小甲;二伍為隊,隊有總甲;四隊為哨,哨有長,協哨二佐之;二哨為營,營有官,參謀二佐之;三營為陣,陣有偏將;二陣為軍,軍有副將。皆臨事委,不命於朝;副將以下,得遞相罰治。

其の年七月、兵を大庾に進む。志山は間を乗じて急に南安を攻むるも、知府季斅之を撃ち破る。副使楊璋ら亦曰能を生け縛りにして帰す。遂に横水・左溪を討つを議す。十月、都指揮許清・贛州知府邢珣・寧都知県王天与各一軍横水に会し、斅及び守備郟文・汀州知府唐淳・県丞舒富各一軍左溪に会し、吉安知府伍文定・程郷知県張戩其の奔軼を遏す。守仁は自ら南康に駐し、横水より三十里を去り、先ず四百人を遣わして賊の巣の左右に伏せ、進軍して之を逼る。賊方に迎戦せんとす、両山幟を挙ぐ。賊大いに驚き、官軍已に其の巣を尽く犁したるを謂い、遂に潰ゆ。勝に乗じて横水を克ち、志山及び其の党蕭貴模ら皆桶岡に走る。左溪も亦破る。守仁は桶岡険固なるを以て、営を近地に移し、禍福を以て諭す。賊首藍廷鳳ら方に震恐す、使の至るを見て大いに喜び、仲冬の朔に降るを期す。而して珣・文定は已に雨を冒して険を奪い入る。賊は水を阻んで陣し、珣は直前に進んで搏戦し、文定は戩と右より出で、賊倉卒に敗走し、淳の兵に遇いて又敗る。諸軍桶岡を破り、志山・貴模・廷鳳面縛して降る。凡そ巣八十有四を破り、俘斬六千余。時に湖広巡撫秦金も亦福全を破る。其の党千人突如として至るも、諸将之を擒斬す。乃ち横水に崇義県を設け、諸瑤を控う。還って贛州に至り、浰頭の賊を討つを議す。

原文其年七月進兵大庾。志山乘間急攻南安,知府季斅擊敗之。副使楊璋等亦生縶曰能以歸。遂議討橫水、左溪。十月,都指揮許清、贛州知府邢珣、寧都知縣王天與各一軍會橫水,斅及守備郟文、汀州知府唐淳、縣丞舒富各一軍會左溪,吉安知府伍文定、程鄉知縣張戩遏其奔軼。守仁自駐南康,去橫水三十里,先遣四百人伏賊巢左右,進軍逼之。賊方迎戰,兩山舉幟。賊大驚,謂官軍已盡犁其巢,遂潰。乘勝克橫水,志山及其黨蕭貴模等皆走桶岡。左溪亦破。守仁以桶岡險固,移營近地,諭以禍福。賊首藍廷鳳等方震恐,見使至大喜,期仲冬朔降,而珣、文定已冒雨奪險入。賊阻水陣,珣直前搏戰,文定與戩自右出,賊倉卒敗走,遇淳兵又敗。諸軍破桶岡,志山、貴模、廷鳳面縛降。凡破巢八十有四,俘斬六千有奇。時湖廣巡撫秦金亦破福全。其黨千人突至,諸將擒斬之。乃設崇義縣於橫水,控諸瑤。還至贛州,議討浰頭賊。

初め、守仁の師富を平らぐるや、龍川の賊盧珂・鄭志高・陳英皆降るを請う。及び横水を征するに及び、浰頭の賊将黄金巢も亦五百人を以て降り、独り仲容未だ下らず。横水破れ、仲容始めて弟仲安を遣わして来帰すも、厳に戦守の備を為す。詭りて珂・志高は讐なり、我を襲わんとす、故に備えを為すと言う。守仁は佯って珂らを杖し繫ぎ、而して陰に珂の弟に兵を集めて待たしめ、遂に兵を散ずるを下令す。歳首大いに灯楽を張り、仲容信じ且つ疑う。守仁は節物を賜い、誘いて謝に入らしむ。仲容は九十三人を率いて教場に営し、而して自ら数人を以て入謁す。守仁之を呵して曰く、「若ら皆吾が民、外に屯すは、我を疑うか」と。悉く祥符宮に引入れ、厚く飲食す。賊は大喜過望し、益々自ら安んず。守仁は仲容を留めて灯楽を観せしむ。正月三日大いに饗し、甲士こうしを門に伏せ、諸賊入るや、以て次第に悉く擒戮す。自ら将して賊の巣に抵り、連ねて上・中・下三浰を破り、斬馘二千余。余賊は九連山に奔る。山は数百里に横亘し、陡絶して攻むべからず。乃ち壮士七百人を簡びて賊の衣を衣せしめ、崖下に奔らしむ。賊之を上を招く。官軍進攻し、内外合撃して、擒斬して遺す無し。乃ち下浰に和平県を立て、戍を置いて帰る。ここより境内大いに定まる。

原文初,守仁之平師富也,龍川賊盧珂、鄭志高、陳英咸請降。及征橫水,浰頭賊將黃金巢亦以五百人降,獨仲容未下。橫水破,仲容始遣弟仲安來歸,而嚴為戰守備。詭言珂、志高,讐也,將襲我,故為備。守仁佯杖繫珂等,而陰使珂弟集兵待,遂下令散兵。歲首大張燈樂,仲容信且疑。守仁賜以節物,誘入謝。仲容率九十三人營教場,而自以數人入謁。守仁呵之曰:「若皆吾民,屯於外,疑我乎?」悉引入祥符宮,厚飲食之。賊大喜過望,益自安。守仁留仲容觀燈樂。正月三日大享,伏甲士於門,諸賊入,以次悉擒戮之。自將抵賊巢,連破上、中、下三浰,斬馘二千有奇。餘賊奔九連山。山橫亙數百里,陡絕不可攻。乃簡壯士七百人衣賊衣,奔崖下,賊招之上。官軍進攻,內外合擊,擒斬無遺。乃於下浰立和平縣,置戍而歸。自是境內大定。

初め、朝議は賊勢強しとし、広東・湖広の兵を発して合剿せんとす。守仁上疏して之を止むるも、及ばず。桶岡既に滅び、湖広の兵始めて至る。及び浰頭を平らぐるに及び、広東は未だ檄を受けず。守仁の将いる所は皆文吏及び偏裨の小校にて、数十年の巨寇を平らげ、遠近驚いて神と為す。右副都御史に進み、世襲の錦衣衞えい百戸を賜い、再び副千戸に進む。

原文初,朝議賊勢強,發廣東、湖廣兵合剿。守仁上疏止之,不及。桶岡既滅,湖廣兵始至。及平浰頭,廣東尚未承檄。守仁所將皆文吏及偏裨小校,平數十年巨寇,遠近驚為神。進右副都御史,予世襲錦衣衞百戶,再進副千戶。

十四年六月、福建の叛軍を調査するよう命ぜられる。豊城に至ったところで寧王宸濠が反乱を起こし、知県顧佖がこれを告げた。守仁は急ぎ吉安に向かい、伍文定とともに兵糧を徴発し、武器や舟船を整え、檄文を飛ばして宸濠の罪を暴き、守令らにそれぞれ吏士を率いて王事に勤めるよう命じた。都御史王懋中、編修鄒守益、副使羅循・羅欽德、郎中曾直、御史張鰲山・周魯、評事羅僑、同知郭祥鵬、進士郭持平、降謫された驛丞王思・李中らが、皆守仁の軍に赴いた。御史謝源・伍希儒が広東から帰還したので、守仁はこれを留めて功績の記録を担当させた。そこで衆議を集めて言うには、「賊がもし長江に出て順流東下すれば、南都は保てない。私は計略をもってこれを撹乱し、十日ばかり遅らせれば憂いはない」。そこで多くの間諜を派遣し、府県に檄文を飛ばして言うには、「都督許泰・郤永が辺境の兵を、都督劉暉・桂勇が京軍を、それぞれ四万ずつ率い、水陸並進する。南贛の王守仁、湖広の秦金、両広の楊旦がそれぞれ配下の兵を率い、合わせて十六万で南昌を直撃する。その通り過ぎる所で供給を欠く役所があれば、軍法をもって論ずる」。また蠟書(密書)を偽宰相の李士実・劉養正に送り、彼らの帰順の誠意を述べ、早く兵を起こして東下するよう勧めさせ、間諜にこれを漏らさせた。宸濠は果たして疑った。士実・養正と謀ると、二人は皆南京に急行して帝位に即くよう勧めたので、宸濠はますます疑った。十数日して内外の兵が来ないと探知し、ようやく守仁が自分を欺いたと悟った。七月壬辰朔(一日)、宜春王拱樤を留めて守らせ、その衆六万人を脅し従えて九江・南康を襲撃して陥落させ、長江に出て安慶に迫った。

原文十四年六月命勘福建叛軍。行至豐城而寧王宸濠反,知縣顧佖以告。守仁急趨吉安,與伍文定徵調兵食,治器械舟楫,傳檄暴宸濠罪,俾守令各率吏士勤王。都御史王懋中,編修鄒守益,副使羅循、羅欽德,郎中曾直,御史張鰲山、周魯,評事羅僑,同知郭祥鵬,進士郭持平,降謫驛丞王思、李中,咸赴守仁軍。御史謝源、伍希儒自廣東還,守仁留之紀功。因集眾議曰:「賊若出長江順流東下,則南都不可保。吾欲以計撓之,少遲旬日無患矣。」乃多遣間諜,檄府縣言:「都督許泰、郤永將邊兵,都督劉暉、桂勇將京兵,各四萬,水陸並進。南贛王守仁、湖廣秦金、兩廣楊旦各率所部合十六萬,直擣南昌,所至有司缺供者,以軍法論。」又為蠟書遺偽相李士實、劉養正,敍其歸國之誠,令從臾早發兵東下,而縱諜洩之。宸濠果疑。與士實、養正謀,則皆勸之疾趨南京即大位,宸濠益大疑。十餘日詗知中外兵不至,乃悟守仁紿之。七月壬辰朔留宜春王拱樤居守,而劫其眾六萬人,襲下九江、南康,出大江,薄安慶。

守仁は南昌の兵が少ないと聞いて大いに喜び、樟樹鎮に向かった。知府の臨江戴德孺・袁州徐璉・贛州邢珣、都指揮余恩、通判の瑞州胡堯元・童琦、撫州鄒琥、安吉談儲、推官王暐・徐文英、知県の新淦李美・泰和李楫・万安王冕・寧都王天与が、それぞれ兵を率いて来て合流し、合わせて八万人、号して三十万とした。ある者が安慶を救援するよう請うたが、守仁は言った、「そうではない。今、九江・南康は既に賊の守るところとなっている。我々が南昌を越えて長江上でこれと対峙すれば、二郡の兵が我が背後を断つ。これは腹背に敵を受けることだ。直ちに南昌を衝くのがよい。賊の精鋭は全て出払っており、守備は手薄だ。我が軍は新たに集まり気鋭であるから、攻めれば必ず破れる。賊は南昌が陥落したと聞けば、必ず包囲を解いて自救するだろう。湖中でこれを迎え撃てば、勝たないことはない」。皆が「善し」と言った。己酉(十八日)、豊城に駐屯し、文定を前鋒とし、先に奉新知県劉守緒を遣わして伏兵を襲撃させた。庚戌(十九日)夜半、文定の兵が広潤門に到達すると、守兵は驚いて散った。辛亥(二十日)黎明、諸軍が梯子や縄で登城し、拱樤らを縛り、宮人の多くは焼死した。軍士がかなり殺掠を行ったので、守仁は軍令を犯した者十余人を誅し、脅従者は許し、士民を安んじ、宗室を慰諭したので、人心はようやく喜んだ。

原文守仁聞南昌兵少則大喜,趨樟樹鎮。知府臨江戴德孺、袁州徐璉、贛州邢珣,都指揮余恩,通判瑞州胡堯元童琦、撫州鄒琥、安吉談儲,推官王暐、徐文英,知縣新淦李美、泰和李楫、萬安王冕、寧都王天與,各以兵來會,合八萬人,號三十萬。或請救安慶,守仁曰:「不然。今九江、南康已為賊守,我越南昌與相持江上,二郡兵絕我後,是腹背受敵也。不如直搗南昌。賊精銳悉出,守備虛。我軍新集氣銳,攻必破。賊聞南昌破,必解圍自救。逆擊之湖中,蔑不勝矣。」眾曰「善」。己酉次豐城,以文定為前鋒,先遣奉新知縣劉守緒襲其伏兵。庚戌夜半,文定兵抵廣潤門,守兵駭散。辛亥黎明,諸軍梯絙登,縛拱樤等,宮人多焚死。軍士頗殺掠,守仁戮犯令者十餘人,宥脅從,安士民,慰諭宗室,人心乃悅。

二日経って、文定・珣・璉・德孺を遣わしてそれぞれ精兵を率い分道進撃させ、堯元らに伏兵を設けさせた。宸濠は果たして安慶から兵を返した。乙卯(二十四日)、黄家渡で遭遇した。文定がその前鋒に当たり、賊は利に趨った。邢珣が賊の背後を回ってその陣を貫き、文定・余恩がこれに乗じ、徐璉・戴德孺が両翼を張って賊の勢力を分け、胡堯元らの伏兵が発すると、賊は大いに潰え、八字脳に退いて守った。宸濠は恐れ、南康・九江の兵を全て出動させた。守仁は知府の撫州陳槐・饒州林城を遣わして九江を奪取させ、建昌曾璵・広信周朝佐を遣わして南康を奪取させた。丙辰(二十五日)、再び戦い、官軍が退却したので、守仁は先に退却した者を斬った。諸軍が決死で戦い、賊はまた大敗し、樵舎に退いて守り、舟を連ねて方陣を組み、金宝を全て出して兵士を犒労した。翌日、宸濠がちょうど朝に群臣を拝謁していると、官軍が急に襲来した。小舟に薪を積み、風に乗って火を放ち、その副舟を焼き、妃婁氏以下は皆水に投じて死んだ。宸濠の舟が浅瀬に乗り上げたので、慌てて舟を替えて逃げようとしたが、王冕の配下の兵が追いかけてこれを捕らえた。士実・養正および賊に降った按察使楊璋らも皆捕らえられた。南康・九江も陥落した。わずか三十五日で賊を平定した。京師では変報を聞き、諸大臣は震え恐れた。王瓊が大言して言った、「王伯安(守仁)は南昌の上流におり、必ず賊を捕らえるだろう」。この時、果たして勝利の報が奏上された。

原文居二日,遣文定、珣、璉、德孺各將精兵分道進,而使堯元等設伏。宸濠果自安慶還兵。乙卯遇於黃家渡。文定當其前鋒,賊趨利。珣繞出賊背貫其中,文定、恩乘之,璉、德孺張兩翼分賊勢,堯元等伏發,賊大潰,退保八字腦。宸濠懼,盡發南康、九江兵。守仁遣知府撫州陳槐、饒州林城取九江,建昌曾璵、廣信周朝佐取南康。丙辰復戰,官軍卻,守仁斬先卻者。諸軍殊死戰,賊復大敗,退保樵舍,聯舟為方陣,盡出金寶犒士。明日,宸濠方晨朝其羣臣,官軍奄至。以小舟載薪,乘風縱火,焚其副舟,妃婁氏以下皆投水死。宸濠舟膠淺,倉卒易舟遁,王冕所部兵追執之。士實、養正及降賊按察使楊璋等皆就擒。南康、九江亦下。凡三十五日而賊平。京師聞變,諸大臣震懼。王瓊大言曰:「王伯安居南昌上游,必擒賊。」至是,果奏捷。

帝(正徳帝)は当時既に親征しており、自ら威武大将軍と称し、京辺の驍ぎょう卒数万を率いて南下していた。安辺伯許泰を副将軍と命じ、提督軍務太監張忠・平賊将軍左都督劉暉とともに京軍数千を率い、長江を遡上して南昌に到着させた。諸寵臣は以前から宸濠と通じており、守仁が最初に宸濠の反乱の上書をした際、ついでに言上した、「覬覦(帝位を窺う)する者は寧王一人だけではない。奸諛の輩を罷免して天下の豪傑の心を引き戻すことを請う」。諸寵臣は皆恨んだ。宸濠が既に平定されると、互いに功績を妬んだ。かつ守仁が天子に拝謁して自分の罪を暴くことを恐れ、競って流言を飛ばし、守仁は最初から内通して謀り、事が成らぬことを慮って、ようやく兵を起こしたと言い、また宸濠を湖中に放ち、帝が自ら捕らえるのを待たせようとした。

原文帝時已親征,自稱威武大將軍,率京邊驍卒數萬南下。命安邊伯許泰為副將軍,偕提督軍務太監張忠、平賊將軍左都督劉暉將京軍數千,泝江而上,抵南昌。諸嬖倖故與宸濠通,守仁初上宸濠反書,因言:「覬覦者非特一寧王,請黜奸諛以回天下豪傑心。」諸嬖倖皆恨。宸濠既平,則相與媢功。且懼守仁見天子發其罪,競為蜚語,謂守仁先與通謀,慮事不成,乃起兵。又欲令縱宸濠湖中,待帝自擒。

守仁は張忠・許泰が到着する前に、先に宸濠を捕虜とし、南昌を出発した。張忠・許泰は威武大将軍の檄文を持って広信でこれを迎えようとした。守仁はこれに応じず、間道を通って玉山に向かい、上書して捕虜の献上を請い、帝の南征を止めさせようとした。帝は許さなかった。銭塘で太監張永に出会った。張永は提督賛画機密軍務で、張忠・許泰らの上にあり、以前から楊一清と親しく、劉瑾を除いたことで天下に称えられていた。守仁は夜に張永に会い、その賢を称え、ついで江西の困窮疲弊を極言し、六軍(天子の軍)の騒擾に耐えられないと述べた。張永は深くこれを然りとして言った、「私が来たのは、聖躬(天子)を調護するためで、功績を求めるためではない。公の大勲は私が知っている。ただ事は率直な情のままにはできないだけだ」。守仁はそこで宸濠を張永に託し、自身は京口に至り、行在所に朝見しようとした。江西巡撫に任命されたと聞き、ようやく南昌に戻った。張忠・許泰は既に先に到着しており、宸濠を失ったことを恨んだ。故意に京軍をそそのかして守仁を犯させ、ある者は名を呼んで罵った。守仁は動じず、かえって手厚く慰撫した。病気の者には薬を与え、死んだ者には棺を与え、道で喪に遭えば必ず車を停めて長く慰問してから去った。京軍は「王都堂は我々を愛してくれている」と言い、再び犯す者はなくなった。張忠・許泰が言った、「寧王府の富厚は天下に冠たるものだったが、今その蓄えはどこにあるのか」。守仁は言った、「宸濠は以前、全てを京師の要人に送って内応を約束した。帳簿を調べれば分かる」。張忠・許泰は以前宸濠の賄賂を受け取っていたので、気圧されて再び言うことができなかった。やがて、守仁を文士と軽んじ、無理矢理弓を射させた。(守仁は)ゆっくりと立ち上がり、三発三中した。京軍は皆歓呼し、張忠・許泰はますます意気消沈した。冬至の日に当たり、守仁は住民に巷祭(路傍での祭祀)を行わせ、終わると、墓参りに行って哭した。当時は戦乱の後で、悲しみの号泣が野に震えた。京軍は家を離れて久しく、これを聞いて涙を流し帰郷を思わない者はなかった。張忠・許泰はやむなく軍を返した。帝に拝謁するに及んで、紀功給事中祝続・御史章綸と共に百方に讒毀したが、ただ張永だけが常に守仁を支持した。張忠は帝の前で言い放った、「守仁は必ず反乱を起こす。試しに召してみよ。必ず来ないだろう」。張忠・許泰はたびたび偽の聖旨を出して守仁を召した。守仁は張永の密信を得て、赴かなかった。この時は帝の意によるものと知り、直ちに馳せ参じた。張忠・許泰の計略は挫け、守仁に帝への拝謁を許さなかった。守仁はそこで九華山に入り、毎日僧寺で静坐した。帝はこれを探知して言った、「王守仁は学道の人である。召せばすぐに来た。どうして反逆などと言えようか」。そこで鎮に還るよう遣わし、改めて勝利の報を上奏するよう命じた。守仁はそこで以前の奏上を改め、威武大将軍の方略を奉じて叛乱を討ち平らげたと述べ、諸寵臣の名を全て入れ込んだので、江彬らはようやく何も言わなくなった。

原文守仁乘忠、泰未至,先俘宸濠,發南昌。忠、泰以威武大將軍檄邀之廣信。守仁不與,間道趨玉山,上書請獻俘,止帝南征。帝不許。至錢唐遇太監張永。永提督贊畫機密軍務,在忠、泰輩上,而故與楊一清善,除劉瑾,天下稱之。守仁夜見永,頌其賢,因極言江西困敝,不堪六師擾。永深然之,曰:「永此來,為調護聖躬,非邀功也。公大勛,永知之,但事不可直情耳。」守仁乃以宸濠付永,而身至京口,欲朝行在。聞巡撫江西命,乃還南昌。忠、泰已先至,恨失宸濠。故縱京軍犯守仁,或呼名嫚罵。守仁不為動,撫之愈厚。病予藥,死予棺,遭喪於道,必停車慰問良久始去。京軍謂王都堂愛我,無復犯者。忠、泰言:「寧府富厚甲天下,今所蓄安在?」守仁曰:「宸濠異時盡以輸京師要人,約內應,籍可按也。」忠、泰故嘗納宸濠賄者,氣懾不敢復言。已,輕守仁文士,強之射。徐起,三發三中。京軍皆歡呼,忠、泰益沮。會冬至,守仁命居民巷祭,已,上塚哭。時新喪亂,悲號震野。京軍離家久,聞之無不泣下思歸者。忠、泰不得已班師。比見帝,與紀功給事中祝續、御史章綸讒毀百端,獨永時時左右之。忠揚言帝前曰:「守仁必反,試召之,必不至。」忠、泰屢矯旨召守仁。守仁得永密信,不赴。及是知出帝意,立馳至。忠、泰計沮,不令見帝。守仁乃入九華山,日晏坐僧寺。帝覘知之,曰:「王守仁學道人,聞召即至,何謂反?」乃遣還鎮,令更上捷音。守仁乃易前奏,言奉威武大將軍方略討平叛亂,而盡入諸嬖倖名,江彬等乃無言。

この時、讒言を弄する邪悪な輩が煽り立て、禍変は測り難く、守仁がなければ、東南の事態は危うかったであろう。世宗は深くこれを知っていた。即位するとすぐに、召し出して朝に入り封を受けるよう促した。しかし大学士楊廷和は王瓊と相容れず、守仁が前後に賊を平定した功績は、すべて瓊に帰せられ、廷和は喜ばず、大臣も多くその功績を妬んだ。ちょうど国喪が終わっていないのに、宴を挙げ賞を行うのは適さないという意見があり、それにより守仁を南京兵部尚書に任じた。守仁は赴任せず、帰省を請うた。後に、功績を論じて特進光禄大夫・柱国・新建伯に封じ、世襲とし、歳禄一千石を与えた。しかし鉄券は与えず、歳禄も支給されなかった。ともに功績のあった者たちは、吉安守の伍文定のみが大官に至り、上賞を受けた。他の者は皆、表面上は昇進を示しながら、陰では退けられ、廃棄・排斥されて存する者はなかった。守仁は非常に憤慨した。当時すでに父の喪に服しており、たびたび上疏して爵位を辞し、諸臣の功績を記録するよう乞うたが、すべて聞き入れられなかった。喪が明けても、召されることはなかった。久しくして、親交のあった席書と門人の方献夫・黄綰が議礼で寵を得、張璁・桂萼に言って召し用いようとしたが、費宏は以前から守仁を恨んでおり、またこれを阻んだ。たびたび兵部尚書・三辺総督・提督団営に推挙されたが、いずれも実現しなかった。

原文當是時,讒邪搆煽,禍變叵測,微守仁,東南事幾殆。世宗深知之。甫即位,趣召入朝受封。而大學士楊廷和與王瓊不相能。守仁前後平賊,率歸功瓊,廷和不喜,大臣亦多忌其功。會有言國哀未畢,不宜舉宴行賞者,因拜守仁南京兵部尚書。守仁不赴,請歸省。已,論功封特進光祿大夫、柱國、新建伯,世襲,歲祿一千石。然不予鐵券,歲祿亦不給。諸同事有功者,惟吉安守伍文定至大官,當上賞。其他皆名示遷,而陰絀之,廢斥無存者。守仁憤甚。時已丁父憂,屢疏辭爵,乞錄諸臣功,咸報寢。免喪,亦不召。久之,所善席書及門人方獻夫、黃綰以議禮得幸,言於張璁、桂萼,將召用,而費宏故銜守仁,復沮之。屢推兵部尚書,三邊總督,提督團營,皆弗果用。

嘉靖六年、思恩・田州の土酋盧蘇・王受が反乱した。総督姚鏌が平定できず、詔により守仁を原官のまま左都御史を兼ね、両広総督兼巡撫とした。黄綰は上書して守仁の功績を訴え、鉄券と歳禄を賜り、かつ賊を討った諸臣を叙勲するよう請うた。帝はすべて聞き届けた。守仁は赴任途中、上疏して用兵の非を述べ、かつ言うには、「思恩には流官を設けていなかった時、土酋は毎年兵三千を出し、官の征調に従った。流官を設けた後は、我々がかえって毎年数千の兵を派遣して防戍している。これは流官設置の無益さが知れよう。かつ田州は交阯に隣接し、深山幽谷はすべて瑶・僮が盤踞しており、必ずや土官を設けるべきで、これによりその兵力を借りて屏障とすることができる。もし土官を改めて流官とすれば、辺境の患いは我々自らが引き受けることになり、後悔すること必定である」と。上奏文は兵部に下され、尚書王時中は五つの不適当な点を条陳した。帝は守仁に再議させた。十二月、守仁は潯州に到着し、巡按御史石金と会して計略を定め招撫した。諸軍をすべて解散・帰還させ、永順・保靖の土兵数千を留めて、甲を解き休息させた。蘇・受は初め撫を求めて得られず、守仁が来ると聞いてますます恐れたが、この時には大いに喜んだ。守仁は南寧に赴き、二人は使者を遣わして降伏を乞うた。守仁は軍門に来るよう命じた。二人はひそかに議して言うには、「王公はもともと詐謀が多い。我々を欺く恐れがある」と。兵を陳列して入見した。守仁は二人の罪を数え上げ、杖罰を加えて釈放した。自ら営中に入り、その衆七万を撫慰した。朝廷に奏聞し、用兵の十害、招撫の十善を陳べた。そこで流官を復設し、田州の地を適量割き、別に一州を立て、岑猛の次子邦相を吏目とし、州事を署理させ、功績があれば知州に抜擢することとした。また田州に十九の巡検司を置き、蘇・受らをこれに任じ、すべて流官の知府の制約を受けるようにした。帝はすべて従った。

原文嘉靖六年,思恩、田州土酋盧蘇、王受反。總督姚鏌不能定,乃詔守仁以原官兼左都御史,總督兩廣兼巡撫。綰因上書訟守仁功,請賜鐵券歲祿,並敍討賊諸臣,帝咸報可。守仁在道,疏陳用兵之非,且言:「思恩未設流官,土酋歲出兵三千,聽官征調。既設流官,我反歲遣兵數千防戍。是流官之設,無益可知。且田州隣交阯,深山絕谷,悉瑤、僮盤據,必仍設土官,斯可藉其兵力為屏蔽。若改土為流,則邊鄙之患,我自當之,後必有悔。」章下兵部,尚書王時中條其不合者五,帝令守仁更議。十二月,守仁抵潯州,會巡按御史石金定計招撫。悉散遣諸軍,留永順、保靖土兵數千,解甲休息。蘇、受初求撫不得,聞守仁至益懼,至是則大喜。守仁赴南寧,二人遣使乞降,守仁令詣軍門。二人竊議曰:「王公素多詐,恐紿我。」陳兵入見。守仁數二人罪,杖而釋之。親入營,撫其眾七萬。奏聞於朝,陳用兵十害,招撫十善。因請復設流官,量割田州地,別立一州,以岑猛次子邦相為吏目,署州事,俟有功擢知州。而於田州置十九巡檢司,以蘇、受等任之,並受約束於流官知府。帝皆從之。

断藤峡の瑶賊は、上は八寨に連なり、下は仙台・花相などの諸洞蛮に通じ、三百余里にわたって蟠踞し、郡邑が被害を受けること数十年に及んだ。守仁はこれを討伐しようとし、故意に南寧に留まった。湖広の兵を罷め、再び用いないことを示した。賊の不意を襲い、進軍して牛腸・六寺など十余の寨を破り、峡の賊はすべて平定した。そこで横石江に沿って下り、仙台・花相・白竹・古陶・羅鳳などの諸賊を攻め落とした。布政使林富に命じて蘇・受の兵を率いさせ、八寨に直抵させ、石門を破らせた。副将沈希儀は逃散する賊を邀撃して斬り、八寨をことごとく平定した。

原文斷藤峽瑤賊,上連八寨。下通仙臺、花相諸洞蠻,盤亙三百餘里,郡邑罹害者數十年。守仁欲討之,故留南寧。罷湖廣兵,示不再用。伺賊不備,進破牛腸、六寺等十餘寨,峽賊悉平。遂循橫石江而下,攻克仙臺、花相、白竹、古陶、羅鳳諸賊。令布政使林富率蘇、受兵直抵八寨,破石門,副將沈希儀邀斬軼賊,盡平八寨。

初め、帝は蘇・受の招撫について、行人を遣わして璽書を奉じ賞諭した。そして断藤峡の捷報が奏上されると、手詔をもって閣臣の楊一清らに問い、守仁が自ら誇大に述べ、かつその生平の学術に及んでいると言った。一清らは何と答えてよいか分からなかった。守仁の起用は張璁・桂萼の推薦によるもので、萼はもともと守仁と仲が良くなく、璁が強いて推したのであった。後に萼が吏部尚書となり、璁が内閣に入ると、互いに譲らなくなった。萼は突然の栄達で功名を喜び、守仁に交阯を取るようそそのかしたが、守仁は辞して応じなかった。一清はもともと守仁を知っていたが、黄綰がかつて上疏して守仁を輔弼に入れようとし、一清を誹謗したため、一清もまた恨みを抱かないわけにはいかなかった。萼はついに公然と守仁を誹謗し、征討と招撫の両方を誤り、賞典を行わなかった。献夫と霍韜は不平を抱き、上疏して争い、言うには、「諸瑶の患いは積年であり、初め数十万の兵を用いても、ただ一つの田州を得たのみで、すぐにまた寇を招いた。守仁は片言を馳せて諭し、思恩・田州は稽首した。八寨・断藤峡の賊に至っては、深い岩と絶えた岡に阻まれ、国初以来軽々しく剿討を議する者はなかった。今一挙に蕩平したのは、枯れ朽ちたものを引き倒すようである。議する者が、守仁は思恩・田州を征討する命を受け、八寨を征討する命を受けていないと言う。そもそも大夫が疆を出れば、国家を安んじ、社稷に利するものがあれば、専断してもよいのである。ましてや守仁は固より詔を承けて便宜従事することを得ていた者ではなかったか。守仁が叛藩を討平した時、妬む者は初め賊と謀を同じくしたと誣い、また金帛を車に載せたと誣った。当時の大臣楊廷和・喬宇が事を飾り立て、今日まで明らかになっていない。忠なること守仁の如く、功あること守仁の如き者が、一度は江西で屈し、再びは両広で屈した。臣は恐れる、労臣が心を灰にし、将士が体を解き、この後、疆圉に事ある時、誰が再び陛下のためにこれを任じようか」と。帝は聞いたと返答したのみであった。

原文始,帝以蘇、受之撫,遣行人奉璽書奬諭。及奏斷藤峽捷,則以手詔問閣臣楊一清等,謂守仁自誇大,且及其生平學術。一清等不知所對。守仁之起由璁、萼薦,萼故不善守仁,以璁強之。後萼長吏部,璁入內閣,積不相下。萼暴貴喜功名,風守仁取交阯,守仁辭不應。一清雅知守仁,而黃綰嘗上疏欲令守仁入輔,毀一清,一清亦不能無移憾。萼遂顯詆守仁征撫交失,賞格不行。獻夫及霍韜不平,上疏爭之,言:「諸瑤為患積年,初嘗用兵數十萬,僅得一田州,旋復召寇。守仁片言馳諭,思、田稽首。至八寨、斷藤峽賊,阻深巖絕岡,國初以來未有輕議剿者,今一舉蕩平,若拉枯朽。議者乃言守仁受命征思、田,不受命征八寨。夫大夫出疆,有可以安國家,利社稷,專之可也。況守仁固承詔得便宜從事者乎?守仁討平叛藩,忌者誣以初同賊謀,又誣其輦載金帛。當時大臣楊廷和、喬宇飾成其事,至今未白。夫忠如守仁,有功如守仁,一屈於江西,再屈於兩廣。臣恐勞臣灰心,將士解體,後此疆圉有事,誰復為陛下任之!」帝報聞而已。

守仁はすでに病が重く、骸骨を乞う上疏をし、鄖陽巡撫林富を自らの代わりに推挙し、命を待たずに帰った。南安に至って卒去した。享年五十七。喪が江西を通るとき、軍民で縞素を着て哭送しない者はなかった。

原文守仁已病甚,疏乞骸骨,舉鄖陽巡撫林富自代,不俟命竟歸。行至南安卒,年五十七。喪過江西,軍民無不縞素哭送者。

守仁は天性、異様に聡明であった。十七歳で上饒の婁諒に謁し、朱子の格物の大旨について論じた。家に帰り、日々端坐し、五経を講読し、軽々しく言笑しなかった。九華山に遊び帰り、陽明洞中に室を築いた。仏・道二氏の学に広く渉猟したが、数年たっても得るところがなかった。龍場に謫せられ、辺鄙で書もなく、日々旧聞を推究した。突然、格物致知は自ら心に求めべきで、事物に求めるべきではないと悟り、慨然として言うには、「道はここにある」と。そこで篤信して疑わなかった。その教えは、専ら良知を致すことを主とした。宋の周・程の二子の後は、ただ象山の陸氏が簡易直捷で、孟子の伝統を受け継ぐものがあると言った。そして朱子の『集註』『或問』の類は、中年の未定の説であるとした。学者はこぞってこれに従い、世に「陽明学」と呼ばれるようになった。

原文守仁天姿異敏。年十七謁上饒婁諒,與論朱子格物大指。還家,日端坐,講讀五經,不苟言笑。游九華歸,築室陽明洞中。泛濫二氏學,數年無所得。謫龍場,窮荒無書,日繹舊聞。忽悟格物致知,當自求諸心,不當求諸事物,喟然曰:「道在是矣。」遂篤信不疑。其為教,專以致良知為主。謂宋周、程二子後,惟象山陸氏簡易直捷,有以接孟氏之傳。而朱子集註、或問之類,乃中年未定之說。學者翕然從之,世遂有「陽明學」云。

守仁が既に卒すると、桂萼が彼が職守を擅かに離れたと奏上した。帝は大いに怒り、廷臣に議させた。萼らは言う、「守仁の事は古に師せず、言は師に称せず。異を立てて以て高しと為さんと欲し、則ち朱熹の格物致知の論に非ず。衆論の予せざるを知り、則ち朱熹の晚年定論の書を為す。門徒を号召し、互いに倡和す。才美なる者は其の任意を楽しみ、庸鄙なる者は其の虚声を借る。伝習転訛し、背謬ますます甚だし。但だ軬賊を討捕し、叛藩を擒獲する功は録すべき有り、宜しく伯爵を追奪するを免じて以て大信を章し、邪説を禁じて以て人心を正すべし」。帝は乃ち詔を下して世襲を停め、卹典俱に行われず。隆慶初め、廷臣多く其の功を頌す。詔して新建侯を贈り、文成と諡す。二年、世襲伯爵を予う。既にして又た守仁を薛瑄・陳献章と同く文廟に従祀するを請う者有り。帝独り礼臣の議を允し、瑄を以て配す。万暦十二年に及び、御史詹事講前の請を申す。大学士申時行等言う、「守仁の言う致知は大学に出で、良知は孟子に出づ。陳献章は主静を主とし、宋儒周敦頤・程顥に沿う。且つ孝友出処は献章の如く、気節文章功業は守仁の如し、禅と謂うべからず、誠に宜しく崇祀すべし」。且つ胡居仁は純心篤行、衆論の帰する所、亦た宜しく並び祀すべしと言う。帝皆之に従う。明の世終わるまで、従祀する者は守仁等四人に止まる。

原文守仁既卒,桂萼奏其擅離職守。帝大怒,下廷臣議。萼等言:「守仁事不師古,言不稱師。欲立異以為高,則非朱熹格物致知之論;知眾論之不予,則為朱熹晚年定論之書。號召門徒,互相倡和。才美者樂其任意,庸鄙者借其虛聲。傳習轉訛,背謬彌甚。但討捕軬賊,擒獲叛藩,功有足錄,宜免追奪伯爵以章大信,禁邪說以正人心。」帝乃下詔停世襲,卹典俱不行。隆慶初,廷臣多頌其功。詔贈新建侯,諡文成。二年予世襲伯爵。既又有請以守仁與薛瑄、陳獻章同從祀文廟者。帝獨允禮臣議,以瑄配。及萬曆十二年,御史詹事講申前請。大學士申時行等言:「守仁言致知出大學,良知出孟子。陳獻章主靜,沿宋儒周敦頤、程顥。且孝友出處如獻章,氣節文章功業如守仁,不可謂禪,誠宜崇祀。」且言胡居仁純心篤行,眾論所歸,亦宜並祀。帝皆從之。終明之世,從祀者止守仁等四人。

初め守仁に子無く、弟子正憲を育てて後と為す。晚年、子正億を生む、二歳にして孤となる。既に長ず、錦衣副千戸を襲う。隆慶初め、新建伯を襲う。万暦五年卒す。子承勛嗣ぎ、漕運を督むること二十年。子先進、子無く、将に弟先達の子業弘を以て継がんとす。先達の妻曰く、「伯に子無くば、爵自ら吾が夫に伝わる。父より子に及び、爵何くにか往かん」。先進怒り、因て族子業洵を育てて後と為す。承勛の卒するに及び、先進未だ襲わずして死す。業洵自ら嫡嗣に非ずと以て、終に当に爵を先達に帰すべく、且つ其の争うを虞い、乃ち先達を謗りて乞養と為し、而して別に承勛の弟子先通を推して当に嗣ぐべしとし、屡々朝に争い、数十年決せず。崇禎の時、先達の子業弘復た先通と疏を以て弁す。而して業洵の兄業浩時に総督たり、司る所懼れて業浩に忤わんとし、竟に先通を以て嗣がしむ。業弘憤り、疏を持ちて禁門に入り訴う。自ら刎ねて死なず、執われて獄に下り、尋いで釈さる。先通伯を襲うこと四年、流賊京師を陥とし、殺さる。

原文始守仁無子,育弟子正憲為後。晚年,生子正億,二歲而孤。既長,襲錦衣副千戶。隆慶初,襲新建伯。萬曆五年卒。子承勛嗣,督漕運二十年。子先進,無子,將以弟先達子業弘繼。先達妻曰:「伯無子,爵自傳吾夫。由父及子,爵安往?」先進怒,因育族子業洵為後。及承勛卒,先進未襲死。業洵自以非嫡嗣,終當歸爵先達,且虞其爭,乃謗先達為乞養,而別推承勛弟子先通當嗣,屢爭於朝,數十年不決。崇禎時,先達子業弘復與先通疏辨。而業洵兄業浩時為總督,所司懼忤業浩,竟以先通嗣。業弘憤,持疏入禁門訴。自刎不殊,執下獄,尋釋。先通襲伯四年,流賊陷京師,被殺。

守仁の弟子天下に盈つ、其の伝有る者は復た載せず。惟だ冀元亨嘗て守仁と共に患難を嘗む。

原文守仁弟子盈天下,其有傳者不復載。惟冀元亨嘗與守仁共患難。

冀元亨、字は惟乾、武陵の人。篤く守仁の学を信ず。正徳十一年の郷試に挙る。贛に於いて守仁に従い、守仁子を教うるを属す。宸濠不軌を懐き、而して外は名高きを務め、書を貽して守仁に学を問う、守仁元亨をして往かしむ。宸濠語を以て之を挑む、佯りて解せず、独り之と学を論じ、宸濠目して癡と為す。他日に西銘を講じ、君臣の義を反覆して甚だ悉し。宸濠亦た服し、厚く贈りて之を遣わす、元亨其の贈りを官に反す。已にして、宸濠敗る、張忠・許泰守仁の之と通ずるを誣う。宸濠を詰む、言う有りと無し。忠等詰みて已まず、曰く、「独り嘗て冀元亨を遣わして学を論ぜしむ」。忠等大いに喜び、元亨を搒ち、炮烙を加うるも、終に承わず、械して京師の詔獄に繫ぐ。

原文冀元亨,字惟乾,武陵人。篤信守仁學。舉正德十一年鄉試。從守仁於贛,守仁屬以教子。宸濠懷不軌,而外務名高,貽書守仁問學,守仁使元亨往。宸濠語挑之,佯不喻,獨與之論學,宸濠目為癡。他日講西銘,反覆君臣義甚悉。宸濠亦服,厚贈遣之,元亨反其贈於官。已,宸濠敗,張忠、許泰誣守仁與通。詰宸濠,言無有。忠等詰不已,曰:「獨嘗遣冀元亨論學。」忠等大喜,搒元亨,加以炮烙,終不承,械繫京師詔獄。

世宗位を嗣ぐ、言者交わって其の冤を白す、獄を出でて五日にして卒す。元亨獄に在り、諸の囚を兄弟の如く善く待遇し、囚皆感泣す。其の逮えらるるや、司る所其の妻李を繫ぐ、李怖色無く、曰く、「吾が夫は師を尊び善を楽しむ、豈に他慮あらんや」。獄中にて二女と麻枲を治めて輟まず。事将に白からんとす、守る者之を出さんと欲す。曰く、「吾が夫を見ず、出でて何くにか往かん」。按察諸僚の婦其の賢を聞き、之を召す、辞して赴かず。已にして見に就く、則ち囚服を以て見え、手麻枲を釈かず。其の夫の学を問う、曰く、「吾が夫の学は、閨門袵席の間に出でず」。聞く者悚然たり。

原文世宗嗣位,言者交白其冤,出獄五日卒。元亨在獄,善待諸囚若兄弟,囚皆感泣。其被逮也,所司繫其妻李,李無怖色,曰:「吾夫尊師樂善,豈他慮哉。」獄中與二女治麻枲不輟。事且白,守者欲出之。曰:「未見吾夫,出安往?」按察諸僚婦聞其賢,召之,辭不赴。已就見,則囚服見,手不釋麻枲。問其夫學,曰:「吾夫之學,不出閨門袵席間。」聞者悚然。

賛に曰く、王守仁始め直節を以て著わる。疆事に任ずるに比し、弱卒を提げ、諸の書生に従いて積年の逋寇を掃い、孽藩を平定す。明の世終わるまで、文臣兵を用いて勝を制する者、守仁の如き有る未だし。危疑の際に当たりて、神明愈々定まり、智慮遺る無し、天資の高きに由るとは雖も、其れ亦た中に得る所有るか。其の創獲を矜り、儒先に異を標し、卒に学者の譏りと為る。守仁嘗て胡世寧の学を講ずる少きを謂う、世寧曰く、「某は公の学を講ずること多きを恨む耳」。桂萼の議は媢忌の私より出づると雖も、抑も流弊実に然り、固より功多きを以て諱いみなむべからず。

原文贊曰:王守仁始以直節著。比任疆事,提弱卒,從諸書生掃積年逋寇,平定孽藩。終明之世,文臣用兵制勝,未有如守仁者也。當危疑之際,神明愈定,智慮無遺,雖由天資高,其亦有得於中者歟。矜其創獲,標異儒先,卒為學者譏。守仁嘗謂胡世寧少講學,世寧曰:「某恨公多講學耳。」桂萼之議雖出於媢忌之私,抑流弊實然,固不能以功多為諱矣。