明史

列傳第八十二 喬宇 孫交 林俊 金獻民 秦金 趙璜 鄒文盛 梁材 劉麟 蔣瑤 王廷相

○喬宇孫交(子元)林俊(子達)(張黻)金獻民秦金(孫柱)趙璜鄒文盛梁材劉麟蔣瑤王廷相

喬宇

喬宇、字は希大、山西楽平の人。祖父の毅は工部左侍郎。父の鳳は職方郎中。皆清廉な節操で顕れた。宇は成化二十年に進士に登第し、礼部主事に授けられた。弘治初年、王恕が吏部尚書となると、彼を文選司に転じ、三度遷って郎中となった。門に私的な謁見はなかった。太常少卿に抜擢された。武宗が帝位を嗣ぐと、中鎮・西海に遣わして祭祀を行わせた。還朝して、道中で見聞した軍民の困苦六事を条上した。やがて光禄卿に遷り、戸部左・右侍郎を歴任した。劉瑾が敗れると、大臣の多くは党与として弾劾されたが、宇だけは何ら染まることがなかった。南京礼部尚書に拝された。乾清宮が災害に遭うと、同列を率いて、視朝が勤勉でないこと、経筵が久しく廃されていること、国本が未だ建てられていないこと、義子が猥多であること、番僧が禁寺に居ること、優伶が起居に侍すること、皇店を立てること、辺兵を留めて戦闘を習わせること、土木の工事が頻繁に興ること、織造が止まないこと、凡そ十事を言上した。帝は省みなかった。久しくして兵部尚書に改められ、機務に参賛した。帝が遠く塞上に遊幸し、監国する者がいないことを以て、早く儲貳を建てるよう請うた。帝が自ら寇を撃とうとすると、宇は再び同列を率いて諫めた。皆報いられなかった。

未幾、寧王宸濠が反し、旦夕に南京を陥すと揚言した。宇は厳重に警備したが、談笑自若であった。時に客を連れて城外で宴を催し、密かに地勢の険易を察し、戍守を置いた。綜理は周密で、内外は平穏であった。指揮の楊鋭は才略があり、安慶守備に署した。鎮守中官の劉郎は宸濠と通じ、あらかじめ死士を潜伏させていた。宇はその内情を探り得て、郎の用事者を詰問し、郎は恐れて敢えて動かなかった。宇は乃ち城中を大いに捜索し、潜伏していた壮士三百人を斬り、首を江上に懸けた。宸濠は内応を失い、且つ備え有ることを知って、東進を敢えなかった。安慶を攻めたが、楊鋭が堅く守って陥せなかった。未幾敗れた。

帝が南京に至り、百官に戎服で明年の正旦に朝賀するよう詔した。宇は不可として、諸臣を率いて朝服で賀した。江彬が城門の諸鑰を要求すると、都督ととく府が宇に問うた。宇は言う、「守備とは、非常を謹む所以である。禁門の鎖鑰を、誰が敢えて求め、また誰が敢えて与えようか。天子の詔といえども得られない」。都督府が宇の言葉を以て返答すると、やむを得ず止めた。江彬が矯旨して何かを求めることが、日に数十回に及び、宇は必ず朝廷でこれを白状し、彬も次第に止んだ。彬は宇を讒言して去らせようとした。守備太監の王偉は、初め帝の伴読を務め、帝に信頼され、常に中から調護したので、彬の謀は行われなかった。帝が南京に九月駐蹕し、宇は諸臣を倡して三度回鑾を請い、また自ら闕に伏して請うた。駕が還ると、扈従して揚州まで至った。明年、太子太保を加えられた。保障の功を論じ、さらに少保を加えられた。

世宗が即位すると、召されて吏部尚書となった。宇は選郎を務めて以来、人倫を鑑識する眼があり、この時銓政は一清した。帝は治を求めることが甚だ鋭かった。宇と林俊・彭沢・孫交は、皆海内の重望であり、帝も彼らを委任した。権幸によって罷黜された者は、皆起用されて庶位に列し、天下は治を望んで欣々とした。帝の性質は剛毅で、自らを用いることを好み、宇の執る所は次第に聴かれなくなった。興府の需次官六十三人が、遷叙を乞うた。宇は言う、この輩は虚しく名籍に隷属するだけで、現に供事する者とは異なると。罷免・処罰に差等をつけたので、皆宇を怨んだ。帝が駙馬都尉崔元を侯に封じ、外戚の蒋輪・邵喜を伯に封じようとすると、宇は不可とした。間もなく、詔して寿寧侯張鶴齢を公に進め、后の父陳万言を伯に封じ、万言の子紹祖に尚宝丞を授けようとした。宇は言う、「累朝の太后の戚属で生きて公に封ぜられた者はなく、張巒も歿後に贈られたのである。今どうして父の贈位を以て子の封爵としようか。万言が伯に封ぜられるのは張巒よりも更に急であり、その子に尚宝を授けるのは制度に非ず。願わくは陛下は典章を守り、以て万世に垂れ給え」。帝は併せて従わなかった。史道が楊廷和を訐ると、宇は道が私を挟んでいると言い、遂に詔獄に下した。曹嘉が史道を助けて宇を弾劾すると、宇は罷免を求め、帝は鴻臚寺に命じて出仕を促させた。

宇は事が不可なれば、力を争わざるはなく、而して「大礼」の争いは特に切実であった。帝が興献帝に皇号を加えようとすると、宇は言う、本生の親に皇を加えることは、則ち正統を干犯し、宗廟を重んじ名分を正す所以ではないと。礼官が献帝を本生考と称するよう請うと、帝は本生皇考と改称し、又詔して大内に献帝廟を建てようとした。宇らは再び連章して諫めた。特旨で席書を礼部尚書に用いようとすると、宇はまた九卿と共に言う、「陛下は汪俊を罷め、席書を用い、馬明衡・季本・陳逅を謫し、張璁・桂萼・霍韜を召し還された。挙措は乖違し、人心は駭愕する。一二人の邪説を以て、天下万世の公議を廃し、内には骨肉を離間し、外には君臣を間隙にし、名は忠を効うと為すも、実は聖徳を累わす。且つ席書は廷推によらず、特に出でて内降するは、これ祖宗以来未だ有らざる所なり。願わくは汪俊と席書を各々旧職に仍らしめ、明衡らを宥し、璁・萼の召還を止め給え」。間もなくまた璁・萼・席書の罷免を請い、而して「大礼」を争った呂柟・鄒守益を獄から出さんことを請うた。会に璁・萼が京師に至り、詔して皆学士に用いようとした。宇らはまた言う、「内降の恩沢は、先朝は率ね佞幸の小人に施した。士大夫が一旦その間に預かれば、即ち清議の歯する所とならぬ。況んや学士は最も清華の職にして、萼らをしてこれを居らしむれば、誰か復た肯て同列たらんや」。帝は怒り、厳しく責めた。宇は遂に休致を乞い、許された。駅伝を馳せて夫役と食糧を給し、猶例の如くであった。御史の許中・劉隅らが宇を留めるよう請うたが、帝は言う、「朕は宇を用いざるに非ず、宇自ら疾を以て去らんと求むるなり」。後に『明倫大典』が成ると、前の議を追論し、官を奪われた。楊一清が卒すると、宇は江を渡って弔った。南都の父老は皆出迎え、手を挙げて額に加え、「我を活かした者は公なり」と言った。

宇は幼くして父に従って京師に至り、楊一清に学んだ。進士に成った後、また李東陽に交遊した。詩文は雄渾で、篆籀にも通じた。性質山水を好み、嘗て太華の絶頂に登った。虎に遇い、僕夫は皆驚いて倒れたが、宇は端坐して動かず、虎は徐かに尾を垂れて去った。家居は淡泊で、服飾・車馬は寒士の如くであった。身歿すると、二妾の劉・許は皆従死した。穆宗が即位すると、官を復し、少傅を贈られ、諡して莊簡といった。

孫交

孫交は、字を誌同といい、陸安の人である。成化十七年に進士となり、南京兵部主事に任じられ、尚書王恕に知られた。弘治初年、王恕が吏部に入ると、彼の推薦で稽勛員外郎に任じられ、文選郎中を歴任した。吏部に十四年在職し、善類を多く推挙した。太常少卿に遷り、四夷館を提督した。大同に警報があると、黄花鎮などの辺境を経略するよう命じられた。垣塹を増築し、樹芸を広め、敵騎の馳突を制した。永楽年間、毎年隆慶諸衛の軍を派遣して薪炭を採らせていたが、その後これを廃止し、毎年銀二万両を輸納させるようになり、軍は重く困窮した。孫交はこれを免除するよう上奏した。正徳初年、光禄卿に抜擢された。三年に戸部右侍郎に進み、倉場を提督し、吏部に改めた。尚書張彩は劉瑾に阿附し、孫交はたびたび諫めて切実に戒めた。張彩は怒り、彼を南京に転任させた。劉瑾が敗れると、召されて戸部尚書に任じられた。当時、流賊を征討し、調度が煩雑で急を要し、凶作が続き、正賦が不足していたが、孫交は適宜に計画を立てた。四方で飢饉が報告されると、租税を免除し、救済を派遣するよう請うたため、民衆は甚だしく疲弊することはなく、権勢を握る小人たちは皆これを不便とした。帝が太平倉を寵臣裴徳に賜ろうとし、雲南鎮守中官張倫が銀鉱の採掘を請い、南京織造中官呉経が費用の不足を奏上すると、孫交はいずれも強く諫争した。八年六月、中旨により礼部尚書傅珪とともに致仕した。言官の多くが留任を請うたが、回答はなかった。

世宗は潜邸にいた時から孫交の名を知っており、即位するとすぐに、召して元の官職に復帰させた。まず帝に毎日『祖訓』を読むよう請い、言動はすべてこれを準則とし、経筵の日講は寒暑を問わず怠らないよう求めた。帝はこれを褒めて受け入れた。ある者が顕陵を天寿山に遷すことを議論したが、孫交は言った。「山陵の事は重大である。太祖は仁祖を鐘山に遷そうとしたが、霊気が漏れることを慮ってやめたことが、『皇陵碑』に詳しく記されている。」事はそこで止んだ。武宗の奢侈放縦の後、庫蔵は空虚であった。孫交は冗食を削減し、経制を定め、積年の弊害を一掃した。しかし中官に関わる事柄では、帝もまた全てに従うことはできなかった。かつて廷臣を集めて内帑を発して軍糧や官俸に充てることを議し、すでに許可されたが、中官梁諫らによって阻まれた。孫交は言った。「宮中と政府が異同し、命令が出てまた覆るのは、新政のなすべきことではない。」聞き入れられなかった。倉場を監督する中官は、初めは数人であったが、正徳年間に五十五人に増えていた。孫交の上言により過半が罷免・撤去されたが、その後また次第に増加した。帝はすでに三十七人を罷免したが、孫交はこれを全て廃し、臨清・徐・淮などの諸倉にも一切派遣しないよう求めた。帝は今後これ以上増やさないようにと命じただけだった。珠池を守る中官については、詔で守土の事に関与してはならないとされたが、安川が縁故を頼って元の状態に戻そうとした。孫交が安川を弾劾すると、以前の詔の通りとするよう命じられた。正徳年間、上林苑の内臣は九十九人に達し、公私の土地を数え切れぬほど侵奪していた。帝が即位すると、十八人を留めるよう命じ、弘治年間のようになった。その後また伝奉により六十二人にまでなり、孫交は初めのように淘汰し、かつ侵奪した土地を全て返還するよう請うた。許されたと返答があった。また、御馬監の内臣は祖制の通りにすべきで、芻豆の監収を行わず、かつ戸部に馬数を通知させ、その侵耗を杜絶すべきと論じた。従わなかった。錦衣百戸張瑾が校尉こういを率いて通倉で俸給を支給する際、横暴に取り立てて狼藉を働いたので、主事羅洪載がこれを取り調べようとした。張瑾は杖罰を受けると偽って請い、羅洪載が禁衛官を勝手に笞打したと奏上した。帝は怒り、羅洪載を詔獄に捕らえて外任に左遷した。孫交は林俊・喬宇と相次いで救いを論じたが、受け入れられなかった。御馬監の閻洪が外の豹房の土地を請うたが、孫交は言った。「先帝は豹房のゆえに、禍を後世に限りなく残されました。閻洪らがこれを修復して遊猟の端を開こうとするのは、臣らが敢えて聞くところではありません。」詔により十頃の土地を豹房に与え、残りは百戸趙愷らに従前通り佃作させた。各宮の荘田の数を奉詔して上奏すると、旧籍と異なっていたので、帝はその理由を詰問した。孫交は言った。「旧籍は多くが奏請や投献によるもので、数が虚偽の報告が多いのです。新籍が少ないのは、命を受けて清く核実したため、田地の多くが免除・削除されたからです。」帝の気持ちは少し和らぎ、成化・弘治年間の籍を考証して報告するよう命じた。

孫交はすでに七十歳であり、連続して上章して罷免を請うた。帝はその都度慰留し、医者を遣わして診療させた。請いがますます強くなったので、ようやくこれを許した。手詔で太子太保を加え、駅馬を馳せて帰郷させた。子の編修孫元に侍行させ、役所に時折見舞わせ、食米と輿隸を給し、さらに道中費用を賜った。八十歳で卒し、諡は栄僖といった。

孫交の言論は恭順で、勢位をもって人に驕ることがなかった。清廉で慎み深く、恬淡で誠実であり、終始一貫していた。初め南京にいた時、同僚たちは事務が簡素で暇が多いため、互いに談笑し飲酒し囲碁を楽しんでいたが、孫交は黙って一室に居て、読書を怠らなかった。ある者がこれについて言うと、孫交は言った。「聖賢の言葉に対することは、賓客や妻妾に対することにまさるのではないか。」興献王は平素から孫交を愛し重んじ、かつて陽春台の東側の土地を割いてその邸宅を広げてやったことがあった。後の中官が孫尚書が土地を侵したと上言したが、世宗は言った。「これは先皇が賜ったものである。我がどうして奪えようか。」

孫元は進士となり、ついに四川副使に至った。謹厳で厚実、父の風があった。

林俊

林俊は、字を待用といい、莆田の人である。成化十四年に進士となり、刑部主事に任じられ、員外郎に進んだ。性質は剛直で、俗に従って浮沈しなかった。事柄が権貴に及ぶと、尚書林聰はいつも林俊にこれを処理させた。妖僧継曉を斬り、中貴梁芳を罪に処すよう上疏し、帝は大いに怒り、詔獄に下して拷問させた。後府経歴張黻が彼を救い、ともに獄に下された。太監懐恩が力強く救い、林俊は姚州判官に左遷され、張黻は師宗知州となった。当時、言路は久しく塞がれており、二人の直諫の名声は都下を震わせ、彼らのために「御史在刑曹、黄門出後府」と言われた。まもなく正月朔の星変により、帝は感覚して悟り、林俊の官を復し、南京に改めた。弘治元年、推薦により抜擢されて雲南副使となった。鶴慶の玄化寺に活仏がいると称し、毎年士女万人を集め、争って金でその顔を塗った。林俊はこれを焼くよう命じ、得た金はすべて民の負債を償わせた。また淫祠三百六十区を破壊し、その材をすべて撤去して学宮を修築した。幹崖の土舎刀怕愈が甥の宣撫官の地位を奪おうとし、その印を数年劫掠していた。林俊が檄を発して諭すと、遂に印を返した。按察使に進んだ。五年に湖広に転任した。雨雪の災異により上疏して時政の得失を陳べた。また、徳安・安陸に王府を建て、吉府を増築修復するのは、工役が甚だ繁雑で、財費が巨万に上り、民は命に堪えないと述べた。寧・襄・徳府の故事に従い、一切倹約し、琉璃や白石の彫欄を用いず、これを例として定めるよう請うた。従わなかった。九年に病気を理由に辞し、返答を待たずに直接帰郷した。

長い間を経て、推薦により起用されて広東右布政使となったが、就任しなかった。起用されて南京右僉都御史となり、操江を督した。十四年正月朔、陝西・山西で地震が起こり水が湧いた。上疏して古の宮闈・外戚・内侍・柄臣の禍を述べ、斎醮を罷め、織造を減らし、役占を清め、冗員を汰り、工作を止め、供応を省き、賞賜に応じ、逸欲を戒め、佞幸を遠ざけ、賢人を親しむよう請うた。また、皇儲を予め教育するよう請い、侍郎謝鐸、少卿儲瓘・楊廉、致仕副使曹時中、処士劉閔が輔導に堪えると推薦した。聞き届けられたと返答があった。その後、たびたび上疏して休職を請い、曹時中を自らの代わりに推薦した。許されなかった。江西新昌の民王武が盗賊となり、巡撫韓邦問が鎮静できなかったので、林俊に巡視を命じた。自ら王武の巣窟に入り、王武は自ら効力を請い、賊党をすべて捕らえた。詔によりただちに林俊を韓邦問の代わりとしたが、林俊は朱熹が唐仲友の代わりとなり、包拯が宋祁の代わりとなった故事を引き、強く辞退した。許されなかった。そこで要約を改めて定め、諸々の事務を一新した。王府が歳禄を徴収するのに、大抵民から倍取していたが、林俊の上言により大いに減省された。寧王宸濠は貪暴で、林俊はたびたびこれを制裁抑制した。寧王が琉璃瓦に替えるよう請うと、費用は二万であった。林俊は旧のままにすべきで、叔段の京鄙の求めや、呉王の几杖の賜り物のようなことに及ぶべきではないと述べた。寧王は怒り、その過失を伺ったが、得るところがなかった。ちょうど林俊が聖節に部を巡察したので、遂に彼を弾劾上奏し、俸給を三か月停止させた。まもなく母の喪により帰郷した。

武宗が即位すると、言官が相次いで推薦し、朝廷にいる江西出身の者たちが上疏を合わせて林俊の帰還を請うた。そこで右副都御史に進み、再び江西を巡撫することとなったが、父の喪に遭い実現しなかった。正徳四年に起用されて四川を巡撫した。眉州の劉烈が乱を起こし、敗れて逃げると、諸々の不逞の輩がその名を騙って略奪した。林俊は肖像を描かせて捕らえようとしたが、得られなかった。ちょうど保寧の賊藍廷瑞・鄢本恕・廖惠らが相次いで蜂起し、勢いがますます盛んになり、転じて巴州を寇掠した。華蓥で突然これに出会うと、単身で輿に乗ってその陣営に至り、利害を譬え諭したので、賊は羅列して拝礼し降伏を約束した。長雨で期日を失い、再び叛いて去り、通江を攻め落とした。林俊は龍灘河でこれを撃破し、知府張敏らを派遣して門鎮子で追撃して破り、ついに廖惠を生け捕りにした。一方、廷瑞は陝西の西郷に逃れ、漢中の三十六盤を越え、大巴山に至った。官軍が追いつき、再びこれを大破した。そこで軍を移して瀘州の賊曹甫を撃ち、かつ人を遣わして招諭した。曹甫は偽って命令に従うふりをし、弟の曹琯に従前のように掠奪させた。指揮の李蔭が曹琯の首を斬ると、賊は江津に移った。七つの営に分かれ、重慶を攻めようとした。林俊は酉陽・播州の土兵を出動させて李蔭を助け、元日にその四つの営を急襲して破った。賊は民家に逃げ込んだので、これを焼き尽くして全滅させた。勝ちに乗じて本営を攻撃したが、指揮の汪洋らが伏兵に遭って戦死した。李蔭が再び進軍し、賊から十五里のところに至った。曹甫が数十騎を率いて出撃し、李蔭の軍と遭遇して敗走した。官軍が勝ちに乗じて進撃して包囲し、捕虜と焼死した者は二千有余であった。やがて、本恕と廷瑞は永順の土舎彭世麟によって捕らえられた。林俊は功績により右都御史に進んだ。曹甫の与党の方四は思南に逃れ、再び南川・綦江を攻め、瀘州を窺った。林俊はさらに土兵を出動させ、副使の何珊・李鉞らに命じてこれを破り退去させた。勝利の報が聞こえると、璽書をもって褒賞激励された。林俊は軍中にあって、総督洪鐘と議論がしばしば合わなかった。宦官の子弟が従軍の功に便乗しようとしたのを、ただちに禁止した。御史の俞緇が賊を避けて逃げ、一方で僉事の呉景が戦死した。俞緇は恥じて、罪を林俊に負わせようとし、遂に林俊を弾劾して、しばしば戦功の首級を報告しながら賊がついに滅びないこと、さらに井戸を掘り寺を壊し、僧徒を追い立てて賊に走らせたことなどを挙げた。これにより林俊は前後して厳しい叱責を受けた。方四が敗れ、賊がほぼ全滅しようとした時、林俊は官位の加増と賞賜を辞退し、旧職のまま帰郷することを請うた。詔は官位の辞退を許さず、致仕することは認めた。言官が相次いで留任を請うたが、回答はなかった。林俊が帰る時、士民は号泣して追い送った。時は正徳六年十一月であった。

世宗が即位すると、工部尚書に起用され、刑部尚書に改められた。赴任途中でたびたび病気を理由に辞任を請うたが、許されなかった。そこで皇帝に儒臣を近づけ、その心を正して号令を出し、渾樸をもって天下の先駆けとすべきことを請うた。当初の詔で廃止されたことは、妥協して公議を廃することのないようにと。京師に着くと、暑さのため経筵の講義が中止されていた折、祖宗の勤学の故事を挙げて諫めた。林俊は当時すでに七十歳で、朝房に仮寓し、長く居座る意思がないことを示した。たびたび皇帝に、大臣を親しみ、聖学に勤め、異端を弁別し、財用を節約すべきことを言上した。朝廷に大事があると必ず侃々と論を述べ、朝廷内外はその風采を慕った。宦官の葛景らが不正利得を働いたことが発覚し、言官に糾弾され、詔によって司礼監に下って取り調べることとなった。林俊は言上した。「内臣が法を犯した場合、法司が取り調べることができないのは、宮中と官府が別個の体系であるからです。法司に下して公に取り調べさせ、公平明らかな治世を詔することを請います。」都督の劉暉が獄に下されると、林俊は交結朋党の律をもって断ずべきとし、許泰と同罪であるとして、斬罪に処して天下に謝すべきことを請うた。廖鵬・廖鎧・齊佐・王瓛が死刑と決せられたが、たびたび詔で刑の執行が猶予され、林俊は速やかに誅戮を行うことを請うた。また谷大用が民田一万余頃を占有したことを弾劾した。いずれも聞き入れられなかった。宦官崔文の家人李陽鳳が工匠の宋鈺に賄賂を要求して得られず、崔文をそそのかしてほとんど死ぬほど杖打たせ、刑部に下って処置が未決のうちに、中旨によって鎮撫司に移された。林俊は留めて送らず、力説したが受け入れられなかった。翌日また上奏すると、皇帝は怒って陳状を責めた。林俊は言上した。「祖宗は刑獄を法司に委ね、奸盗の逮捕を鎮撫に委ねました。取り調べが終わっても、なお必ず法司に付して罪を擬定させました。未決の囚人を奪い取って、かえって推問に付すことはありませんでした。崔文は先朝において奸を漏らし、その罪は誅戮に値しますが、今また内降に干渉します。臣は朝廷百五十年の紀綱が、この輩によって壊乱されるのを見るに忍びません。」皇帝はその言葉の率直さを憚り、ついに問わなかった。

林俊は老齢の徳望をもって田舎から起用され、公正を堅持して嫌疑を避けず、たびたび阻まれたため、遂に致仕を請うた。詔は太子太保を加え、駅伝を給し、隷属と禄米を定めに従って賜った。

林俊はたびたび「大礼」の議について争い、楊廷和と意見を同じくした。かつて上言して、生みの親を推尊することには已むを得ない情と、変えることのできない礼があるとし、堯・舜から宋の理宗に至るまでの事例十条を編集して上呈した。そして「大礼」の議が定まり、罪を得た者が杖死した。四年の秋、林俊は病中から上書して言った。「古来、鞭撲の刑は辱しめるだけで、その体膚を糜爛させて死に至らしめようとするものではなく、また士大夫に加えるべきものでもありません。成化の時、臣は廷杖を受けた二、三の臣を見ましたが、皆厚い綿の下着を着け、重ねた毛氈で包み、それでもなお昏睡し、久しくしてようやく全快しました。正徳朝、逆賊劉瑾が権力を窃むと、初めて衣服を脱がせることを命じ、その末年には多くが杖死しました。臣はまた成化・弘治の時を見ましたが、叛逆・妖言・劫盗だけが詔獄に下され、初めて打問を命じられました。他の犯人はただ送問と言うだけでした。今は一律に打問するのも、故事に非ずです。昨年以来、旧臣が斥逐されてほとんど尽き、朝廷の官署が空になりました。聖明の留意を請い、既に去った者は礼を尽くして招き、未だ去らない者は慰留されますよう。碩徳重望の羅欽順・王守仁・呂柟・魯鐸らの輩は、左右に列置すべきです。臣は衰病して死を待つばかりで、他に望むところはありませんが、敢えて古人の遺表の意に倣い、敬って犬馬の心を述べます。」皇帝はただ所管の役所に下しただけだった。また翌年、病状が重くなり、再び上書して学を勧め孝を尊び、賢を任用し諫言を受け入れ、身を保ち和を導くことを請うとともに、あらかじめ死後の恤典を辞し、遂に卒去した。七十六歳。

その一年後、『明倫大典』が完成し、林俊が楊廷和に附和したことを追及して論じ、その官を削り、その子の林達が士礼をもって葬った。

林俊は四朝に仕え、直言して敢えて諫め、礼に従って進退し、終始一節を貫いた。隆慶初年、官職を回復し、少保を追贈され、貞粛と諡された。林達は正徳九年の進士。官は南京吏部郎中に至った。篆籀に優れ、古文ができた。

張黻は吉水の人。成化八年の進士。涪州・宿州の知州を歴任し、孤高で権貴を避けなかった。弘治年間、林俊が顕著に抜擢されたが、張黻は老いて用いられなかった。王恕がそのために請うて、特別に誥命を与えた。

金献民

金献民は、字を舜挙といい、綿州の人。成化二十年の進士。行人に任じられた。弘治初年、選抜されて御史に授かり、雲南・順天を巡按し、ともに風裁を顕著にした。天津副使として出向し、湖広按察使を歴任した。正徳初年、劉瑾が政を乱し、金献民が天津の土地を査定して実情に合わなかったことを追及して連座させ、巡撫柳応辰らとともに詔獄に械繫され、民に斥けられた。まもなく、また湖広の事で連座し、再び獄に下され、贖罪の米を納めて帰郷した。一年余り後、また瀏陽の民劉道隆の獄の審議が実情に合わなかったとして、米を罰して塞下に輸送させられた。劉瑾が誅殺されると、貴州按察使に起用された。僉都御史に抜擢され、延綏を巡撫し、南京刑部尚書を歴任した。

世宗が即位すると、召されて左都御史となった。李鳳陽は刑部に下され、程貴は都察院に下されたが、いずれも詔獄に改められようとしたので、献民は強く争った。やがて、刑部尚書に転じた。奸党の王欽・王銓は死刑を免ずべきではないと執奏したが、いずれも聞き入れられなかった。まもなく彭沢に代わって兵部尚書となった。五星が営室に集まるという天象があり、その占いは兵事を主るものであった。献民はこれにより、天下の鎮巡官に戦守の備えをあらかじめさせるよう勅命を下すことを請うとともに、賢者を用い諫言を容れ、土木の工事をやめ、玩好の品を遠ざけることを請うた。帝はかなり採用した。献民の性質は剛直で、自らの主張を堅持し、帝が従わない場合でも、ついに迎合することはなかった。帝が即位した当初、先朝の伝奉官をすべて罷免した。その後、太監の邱福・潘傑らが死ぬと、詔によりその弟や甥を錦衣衛の官とした。また司礼太監の張欽が死ぬと、その家人の李賢に蔭官を継がせ、李賢が死ぬとさらにその子の李儒を官にしようとした。献民は前後して執奏したが、帝はいずれも従わなかった。土魯番の速檀(スルタン)満速児が粛州を寇したので、献民に右都御史を兼ねさせて陝西四鎮の軍務を総制させた。蘭州に到着するころには、巡撫の陳九疇がすでに敵を破っており、献民は再び捷報を奏聞した。京に還ると、依然として部の事務を掌った。功を論じられ、錦衣衛の世襲百戸の蔭官を受けた。

錦衣衛百戸の俞賢は、宦官の泰の養子であり、中旨によって管事となったが、諫官がこれを争った。献民は言う、「祖宗には旧制があり、孝廟には禁例があり、陛下が登極されたときには明詔がありました。賢には公家への功労がなく、また泰の子孫でもなく、みだりに賤しい養子の身分で名器を窃り、典章を乱すことは、許されざる最大のことです。諫官の言を容れるべきです」と。聞き入れられなかった。錦衣衛副千戸の李全・王邦奇らは、濫りに名を冒したとして淘汰されたが、このときに至って訴え弁明してやまず、部に下して再議させた。献民は言う、「全らは戦陣に足を踏み入れずにいて首功を論じ、公家に隷属せずにいて高位に躍り出ました。陛下が登極され、淘汰された者は三百余人に及び、人心は快としました。万一幸運の端が再び開かれるならば、前の詔はすべて虚文となり、将来の奏請煩擾は、どこに極まりがありましょうか」と。帝はついに李全らに試百戸を授けた。献民はさらに奏上して言う、「令は行われるのみで、反故にされてはなりません。今、小人の奏弁によって、一朝にして九十余人が復官すれば、左右の私情に従い、祖宗の法を壊すことになり、ひそかに陛下のため惜しみます。明旨は縁故によって管事することを許さないのに、奔走競争はすでに風となっています。先例に比べて陳情乞請することを許さないのに、奏請煩擾はすでに踵を接して至っています。誰が禍の階梯を生んだのでしょう、今に至って害となっています。どうか依然として全らを斥け、人言を止め、天変を消し去られることを望みます」と。言官の任洛らもまたこのことを論じたが、聞き入れられなかった。

おりしも寧夏総兵官の種勛が京師で賄賂を行い、偵察者がその帳簿を押収したところ、献民の名がそこにあった。給事中の蔡経・御史の高世魁らが相次いで上章してこれを弾劾したので、献民は病を理由に帰郷した。二年間在郷した後、王邦奇が前尚書の彭沢を告発し、その言葉が献民に連座し、捕らえられて刑部の獄に下された。法司は、献民が奉命して征討を専任しながら、その地に至らず、功を掠めて妄りに報告したと弾劾した。大臣の体を失い、職を奪って閑住とし、その世襲の蔭官を削るべきであるとした。詔はこれを許可した。

初め、「大礼」の議が起こると、献民はたびたび廷臣とともに上疏して争った。左順門で哭諫したときも、また徐文華とともにこれを主導した。帝はこれによって快く思わず、ついに罪を得た。隆慶初年、制に従って贈官と恤典が行われた。

秦金

秦金、字は国声、無錫の人。弘治六年の進士。戸部主事に任じられ、郎中を歴任した。正徳初年、河南提学副使に遷り、右参政に改めた。開封を守り、趙鐩を陳橋で破った。山東左・右布政使を歴任した。賊寇の蹂躙の後を引き継ぎ、巡撫の趙璜とともに慰撫に努め、瘡痍がようやく立ち直り始めた。九年、右副都御史に抜擢され、湖広を巡撫した。諸王府が占拠していた山場や湖蕩は、ことごとく奏上して官に還した。降伏した盗賊の賀璋・羅大洪が再び叛いたので、討伐して平定した。郴州桂陽の瑶人である龔福全が王を称したので、金は前後して八十余りの寨を破り、二千級を斬首し、福全とその徒党の劉福興らを生け捕りにした。功績を記録され、俸給を一級増やされ、錦衣衛の世襲百戸の蔭官を受けたが、力辞して許しを得た。召されて戸部右侍郎となった。

世宗が即位すると、吏部に改めた。言官が金には人倫を鑑識する目がないと論じたので、再び戸部に改められ、左侍郎に転じ、部の事務を代行した。外戚の邵喜が荘田を乞うたので、金は祖制を述べて、これを按問処罰するよう請うた。帝は邵喜を赦し、都察院に制の通り禁ずるよう命じた。中旨によって各宮に依然として皇荘を置き、官校を派遣して分督させた。金は言う、「西漢の盛時に苑囿を貧民に賦与したのに、今どうして民を剥いで上を益そうとするのですか。正徳年間に額外に侵占したものをことごとく調査してその主に帰し、管荘の人をことごとく撤去することを乞います」と。帝は善しとし、すぐにその議に従った。

嘉靖二年、南京礼部尚書に抜擢され、諸臣を率いて上疏して言った、「陛下が統を継がれて以来、徳を明らかにし違を塞ぎ、精神を励まして治を図り、動きに過ちの挙がなく、天の和を召すべきであるのに、災いの兆しが頻繁に告げられるのは、なぜでしょうか。『詩経』に『初め有らざるは莫し、終わりを克くすは鮮なし』とあります。陛下が登極されたときの一詔は、あらゆる制度が正しく、天下は目を拭って至治を望みました。近ごろは多く詔に違背し、百官は遵うところなく、万民は仰ぐところを失い、これは詔令が初めのようでないからです。即位の初めには、凡庸で邪な者を追放し、老臣を用いました。近ごろは内閣が旨を擬してもすぐに内廷で改められ、上疏して請うても、ただ温かい言葉で答えるのみで、これは賢者を任用することが初めのようでないからです。即位の初めには、言を聞くこと流るるが如く、朝に請えば夕に報いました。近ごろは事が外戚や宦官寺人に関わると、たとえ九卿が執奏し、科道官が相次いで上章しても、みな『すでに旨有り』と言います。これは聴き容れることが初めのようでないからです。即位の初めには、先朝の伝升・乞升などの官をすべて改革しました。近ごろは恩沢が過度に濫り、封爵や任命が頻繁です。これは名器を慎むことが初めのようでないからです。即位の初めには、奸党の巨悪はすべて三法司に付しました。近ごろはしばしば鎮撫司に下します。これは国法を謹むことが初めのようでないからです。即位の初めには、まず戸部に命じて馬房の糧秣を半減させ、かつ科道官に馬数を詳細に査核させました。ところが太監の閻洪らの言葉によって、前の詔をやめてしまいました。これは民の苦しみを恤むことが初めのようでないからです。即位の初めには、法王・仏子・国師・禅師を追放斥退しました。近ごろは禁地に斎醮を設けます。これは正道を崇めることが初めのようでないからです。即位の初めには、精神は明らかで充実していました。近ごろは聖躬が快くなく、天顔が回復していません。これは精神を愛惜することが初めのようでないからです。そもそも初政が清明であったのは、政が公朝から出て、左右の者が干与しなかったからです。今、政が混濁しているのは、政が左右にあり、外廷が知らないからです。政は一日も朝廷に在ってはならず、権は一日も左右に移ってはなりません。政が朝廷にあるというのは、必ずしもすべて独りで運営するというのではありません。股肱に託すべき者がおり、耳目に寄せるべき者がいれば、主威は九鼎よりも重く、国勢は泰山よりも安泰です。古来帝王が天下を制御するのは、この術によるのみです。そうでなければ、宮中と府中の勢いが隔たり、信任に偏りが生じ、婦人や寺人の情に親しんで、聴受に蔽いが生じます。総攬と名づけながら、太阿の剣の柄は実は下に移ってしまうのです」と。上章は礼部に下され、尚書の汪俊は力を尽くして帝に採用を勧めたが、報せを聞くのみであった。

まもなくそのまま兵部尚書に改められた。孫交が去ると、召されて戸部尚書となった。帝が興献帝を皇考としようとしたので、金は廷臣とともに闕に伏して争い、また何孟春らとともに張璁の建議の非を条陳した。聖母の冊を上るとき、金と趙璜らはまた参列せず、帝はたびたび詰責した。

金は人となり楽易であった。官に在るときは、一貫して廉正を以て自らを保った。戸部にあっては、特に孜々として国事に尽くした。永福長公主が宝坻・武清の地を請うたが、金の上言により大いに減じられた。撫寧・山海の荘地は魏国公徐達に賜わったもので、達が卒すると依然として官に帰したが、定国公光祚がこれを請うたとき、金は執って許さなかった。給事中黄重・御史張珩らが先を争って諫め、金らもまた上言したので、ようやく詔を報じて許された。内府諸監局の軍匠は数千人に及び、中官梁諫が下部して金玉珠石を採るよう請うたが、金は皆これを執奏した。聞き入れられなかった。奸人逯俊らが両淮の塩引三十万を請うたとき、帝はこれを許した。金は力を争って不可とし、次第に帝の意に背いた。

六年春、考察により自ら陳じて致仕し、駅伝を馳せて夫と食糧を給すること制の如くであった。帰ること五年、推薦する者が絶えず、乃ち南京戸部に起用され、利民六事を疏陳した。尋いで召されて工部尚書となり、太子少保を加えられた。帝が張孚敬・李時と諸大臣を評し、金を賢とし、頗るその老いを嫌った。数ヶ月居て、太子太保を加えられ、南京兵部に改めた。歳を逾えて致仕して帰った。二十三年に卒し、年七十八。少保を贈られ、諡して端敏といった。

孫の柱は、諸生より中書舎人を授かった。大学士高拱が罪を得て、倉皇として京師を去るとき、門生は皆避匿したが、柱のみは独り百里の外まで追送した。呉中行が張居正の奪情を疏論して、杖せられ詔獄に下されたとき、柱は医を挟んで湯薬を視、遂に居正に忤い、魯府審理に遷された。尋いで考察を仮りてこれを罷めた。

趙璜

趙璜は、字を廷実といい、安福の人である。少時に父に従って官に赴き、江中に墜ちて死ななかった。稍々長じて、道上を行くとき、遺金を得て、悉くその主に還した。弘治三年の進士に登り、工部主事を授かった。兵部に改め、員外郎を歴任した。出て済南知府となった。狡猾な吏が文を舞わし、積年の蠹となっていた。璜は願う民を選んで律令を教え、通習する者二十余人を得て、吏を逐ってこれに代えた。漢庶人の牧場は久しく官に籍され、民を募って佃作させていた。徳王府がこれを奏乞したが、璜は勘して民に還した。七年を閲て、政績大いに著しかった。正徳初め、順天府丞に擢げられたが、未だ上らず、劉瑾が璜を憎み、巡撫朱欽の事に坐し、詔獄に逮われ、名を除かれた。瑾が誅せられると、復職した。右僉都御史に遷り、宣府を巡撫した。尋いで山東に調ぜられた。河灘の地数百里、流民に賦して墾らせてその租を除いた。番僧が征して斎糧に充てるよう請うたが、帝はこれを許し、璜が力を争って免れることができた。曲阜が賊に破られ、闕里の林廟が曠野にあるので、璜は県を移して闕里に就くよう請い、従われた。工部右侍郎に擢げられ、河道を総理した。辺警により畿輔の戎備を理めるよう改められた。事定まり、順天諸府の饑を振恤するよう命ぜられ、還って部事を佐けた。

世宗が即位すると、左侍郎に進み、部事を掌った。宦官の賜葬費及び御用監の料価を裁し、内府酒醋面局の歳征する鉄磚価銀歳巨万を革した。嘉靖元年に尚書に進んだ。劉瑾が玄明宮を創し、財数十万を糜したが、瑾が死ぬと、奸人が献じて皇荘とした。帝が即位し、斥けて民に与えたが、既にして中旨して旧に仍るよう令した。璜は言う、詔下ること数ヶ月にして忽ち更えるは、天下に不信を示すと。帝は即ち報じて許した。時に方に仁寿・清寧宮を修し、費用が続かなかった。璜は因って石景山諸房舍と並びに斥売して用に資するよう請い、民を累さずに済むとし、帝はこれを可とした。給事中徐景嵩らは、詔書は民に還すことを許し、官自ら売るべからずと言い、璜を劾した。璜は疏を上って弁じ、併せて景嵩の他の事を発した。御史張鵬翰は璜が言官を摭うは、大臣の誼なしと言った。帝は鵬翰が党して景嵩を庇うを責め、竟に斥けた。その同官陳江もまた璜を劾して責められ、去らんことを求めた。給事中章僑は璜が一挙にして両諫官を逐うは、甚だ国体を損なうと言った。尚書彭澤が復た奏して僑の非とし、僑が再び弁じたが、帝は両方を解した。詔して后父陳万言の第を営し、工値六十万と估したが、璜はこれを持した。万言が帝に訴え、郎中・員外の二人を詔獄に下した。璜は言う、「二臣は関与せず、臣を罪せられんことを乞う」と。帝は聞き入れなかった。その後論救する者が踵を接して至り、万言自ら安からず、再び貸すよう請うた。二人は釈放され、工価もまた大いに減じられた。

三年、顕陵司香内官が陵制が狭小であると言い、改営して天寿山諸陵に視るよう請うた。璜は陵制は山水と相称し、一概に同うし難いと言い、帝はその言を納れた。已にして、帝は顕陵を遷そうとしたが、璜は不可として、乃ち止んだ。詔して玉徳殿、景福・安喜二宮を建てようとしたが、璜は仁寿宮の成るを俟ち、徐にその事を議すよう請い、帝は許さなかった。頃くして、災異を以て前の請いを申したので、帝は始めて従い、併せて仁寿の役を罷めた。江西で真人府を建て、陝西で織造を督するに、皆中使を遣わそうとしたが、璜は皆疏を上って争った。世廟を営建するに、中官の派する物料を、戸部は多く裁省した。帝が璜に問うと、璜は曩に乾清・坤寧両宮を造りしときの積み余した資、移用に足ると言い、帝は遂に報じて可とした。

璜が尚書となって六年、帝の初政に値し、鋭意厘剔しようとし、中官も敢えて撓がず、故にその職を挙げることができた。後に論執止まず、諸権幸に嫉まれる者多く、帝の意もまた次第に疏んじた。璜は素より秦金と斉名した。考察により自ら陳し、金とともに致仕した。廷臣が留まるよう乞うたが、許されず、駅伝を馳せて夫と食糧を給すること故事の如くであった。

璜は幹局有り、智慮多かった。事が棼錯するとき、他人は相顧みて愕眙するに、璜は立ちどころに弁じた。去った後、人争ってこれを推薦した。十一年に召して故官に復したが、未だ上らずして卒した。太子太保を贈られ、諡して荘靖といった。

鄒文盛

鄒文盛は、字を時鳴といい、公安の人である。弘治六年の進士。吏科給事中に除された。遼東巡撫韓重が鎮守中官廖玘を劾したとき、文盛は郎中楊茂仁とともにその罪を勘実し、長陵司香に謫した。朶顔三衛が屡々辺を擾したので、文盛は還って制馭六策を奏した。尚書劉大夏は深くこれを善とし、辺吏に下した。尋いで出て両広の糧儲を核した。思恩土官岑濬が田州の岑猛と兵を構えたとき、文盛は言う、「田州は広西の藩蔽、李蛮は田州の幹城、参政武清は濬より重賂を受け、計を以て蛮を殺し禍乱を醸成した。制敕房供事参議岑業は、濬の懿親にして、中に於いて弥縫し、我が機事を漏らした。請う、先ず二人を誅し、而る後に討を行わん」と。業には内援有り、帝は聞き入れなかった。清は尋いで考察により罷められた。

正徳初年、戸科都給事中を歴任し、出て保定知府となり、累進して福建左布政使に至る。十一年、右副都御史として貴州を巡撫す。清平の苗人阿旁・阿階・阿革が王を称し、巡撫曹祥が永順・保靖の土兵を調発してこれを討つも、まもなく弾劾されて罷免される。阿旁らは香爐山に拠り、興隆・偏橋・平越・新添・龍裏の諸衛は皆その害を受く。文盛到着し、四川・湖広の兵に檄を飛ばし協同剿討を命じ、貴州兵をもって炮木寨を攻め、阿革を擒える。川・湖の兵到着し、山下に至る。山は壁立し、ただ五つの小径あるのみ、賊は皆柵を樹てる。仰ぎ攻むるも克たず、ここに戦楼を造り崖と斉しくし、夜雨に乗じて崖に附き登り、柵を抜き廬舎を焚く。賊は後山に奔り、絶頂を占拠す。官軍は隙に乗じ梯や藤木を以て登り、ここに阿旁を擒え、残賊ことごとく平定す。師を移し龍頭・都黎・都蘭・都蓬・密西・大支・馬羅の諸寨の黒苗を討ち平げ、先後斬首降伏数知れず。功を録し、俸一等を増し、子に錦衣世百戸を蔭す。力を尽くして辞し免ず。芒部の陳聡ら乱を為し、これを討ち破る。四川の土舎重安の馮綸は凱裏の楊弘と怨み有り。弘卒すや、綸は諸苗を糾い相仇殺し、貴州境に侵軼す。文盛は参議蔡潮を播州に遣わし、宣慰楊斌を督してこれを撫定せしむ。安寧宣撫司の復設を請い、弘の子をして襲わしめ、潮の功を録す。尚書王瓊は専擅を以て潮の罪と為し、叙せず。まもなく、改めて南京都察院に蒞む。

世宗即位し、召されて戸部左・右侍郎と為り、遷って南京右都御史、就いて改めて戸部尚書と為る。嘉靖六年、戸部尚書秦金罷免され、文盛を召してこれに代わらしむ。まず塩政・銭法十一事を疏す。文盛は人となり廉謹にして、踆踆として能なきが如し。孫交・秦金・趙璜と皆長者と称せらる。歳余りして、年齢に至り、再び疏して帰るを乞う。卒して太子少保を贈られ、謚して莊簡と曰う。

梁材

梁材、字は大用、南京金吾右衛の人。弘治十二年進士。徳清知県に授けられ、勤敏にして異政有り。正徳初年、刑部主事に遷り、御史に改む。出でて嘉興知府となり、杭州に調ぜらる。田租の例参差せるを、材は軽重を斟酌し、画一の法を立てる。浙江右参政に遷り、按察使に進む。鎮守中官畢真は宸濠と通じ、将に城を挙げてこれに応ぜんとす。材は巡按張縉と共に真を劫持し、その兵衛を奪う。まもなく憂いにより去る。嘉靖初年、起用補されて雲南に至る。土官相仇殺すること累年、材はその酋長を召して曰く、「汝が罪は死に当たる。今汝を赦し、牛羊を以て贖わしむ」と。御史その軽きを訝るも、材曰く、「かくの如くして足れり、急なれば変生ず」と。諸酋は衷甲して変を待つも、他事なきを聞きて止む。貴州・広東左・右布政使を歴任す。吏民課を輸するに、自ら権衡を操るを令し、吏の預かるを得ざらしむ。時に天下の布政使廉名最も著しき者二人、材と姚鏌なり。六年、右副都御史を拝し、江西を巡撫す。甫に両月、召されて刑部左侍郎と為る。

まもなく戸部に改め、ここに鄒文盛に代わり尚書と為る。外僚より六卿に登ること、二歳に満たず。自ら恩を受くる深きを以て、益々職を尽くす。上言して曰く、「臣が考うるに去年の所入はただ百三十万両に止まり、而して所出は二百四十万に至る。加うるに催征は前ならず、辺費は節無く、凶荒また多く奏免す、国計いずくにかこれを弁ぜん。詳しく弊端を求めれば、一に宗藩、二に武職、三に冗食、四に冗費、五に逋負なり。廷臣を集めて計画し条請せしむるを乞う」と。ここにおいて宗藩・武職各々三事を議上し、その他は皆厳しく節す。帝悉く報可す。ただ武職閑住の者半俸停止を議するも、帝納れず。経費大いに省き、国用もまた充つ。中官麦福は牧馬草場租を尽く徴するを請うも、材は不可とす。侍郎王軏は勲戚の荘田を清査し、等級を量り限りを為すべしと言う。材奏して、「成周の班祿には土田有り、祿は田より出ず、常祿の外また土田有るに非ず。今勲戚の祿は既に分を逾え、而して陳乞は動もすれば千万、請うこれに禁を申すべし。特賜の外、量りに三の一を存し、以て祀事に供すべし」と。帝は命じて並びに已に賜わりし者を清査せしめ、額外侵拠は悉く民に還し、勢豪の家は乃ち敢えて妄りに請乞せず。畿輔の屯田は、御史これを督理す、正統年間に僉事に易え、権軽く、屯政日弛む。材は請う仍く御史を用いるべしと。御史郭弘化は天下の土田は国初に比し半減すと言い、宜しく通行して清丈すべしと。材は紛擾を恐れ、ただ所司に勅して清厘せしめ、籍難稽の者に始めて履畝して丈すべしと請う。帝悉くこれを可す。母喪により去る。服除け、故官に起つ。大同巡撫樊継祖は軍餉の増益を請う。材言う、「大同の歳餉は七十七万有奇、例外解発また累万、昔に較べて已に数倍なり。日増月益し、太倉の銀は一鎮に供するに足らず、九辺を論ずるに及ばず」と。継祖数回請うも得ず、事例を開くを議し、戸・兵二部に下してこれを行わしむ。時に両宮・七陵を修建し、京軍七万を役し、郭勛は月糧冬衣の給与を請う。材は故事に非ずと言い、請うるが如くせば、当に歳に銀四十五万を費やすべく、且つ冬衣は例として内庫に取る、部の事に非ずと。勛怒り、材が公を誤るを劾す。帝は材を詰責し、竟に勛の奏の如くす。勛また三事を建言す。請う開礦して工を助け、余塩を尽く辺に輸し、漕卒に貨物を携帯するを得しむべしと。材議し、尽く行わず、勛益々怒る。

材初めて戸部に為る時、帝の政に勤むるに値い、力をもって宿弊を祛き、多く従われるを見る。ここに至りて屡々権幸に忤い、志を得ず、乃ち乞うて南京に改まる。給事中周充に劾せられ、吏部に下り、尚書許贊らその留まるを請う。帝悦ばず、材と俱に対状せしむ。材は罪を引きて宥さるるを得、而して贊らは坐して俸を奪わる。材ここより帝の意を失う。尚書として六年満ちて考査し、遂に致仕を命ず。初め、徽王の守莊者と佃人と訟う。材は守莊者を革め、有司をして王に租を納めしむるを請い、報可す。王は不便を奏す、帝またこれに従う。材已に去り、侍郎唐冑ら初詔を執る。帝大いに怒り、並びに材を責む。右侍郎として閑住せしめ、而して冑の俸を奪い、郎官を詔獄に下す。

明年、戸部尚書李廷相罷免さる。帝は材の廉勤を思い、大臣もまた多く薦むる者あり、乃ち召して故官に復し、太子少保を加う。三たび国計を掌り、節を砥ぎ公を守ること一日の如く、帝の眷もまた甚だ厚し。その秋、京官を考察し、特命してこれを監せしむ。大獄決すること能わざる有り、また命じて兼ねて刑部事を掌らしむ。帝嘆じて曰く、「尚書材の如き者十二人を得ば、吾天下を憂うること無からん」と。大工頻りに興り、外衛班軍四万六千人を役す。郭勛はその至らざる者を籍し、銀を輸して雇役せしめ、廩食は班軍に視よと責む。廷相は嘗て量りにこれを給すも、材は堅持して与えず。勛は材を劾す、帝は命じて補給せしむ。勛また軍足らざるを以て、逃亡軍の布棉折餉銀を籍して工を募る。材言う、「今京班軍四万余、已に用いるに足る、口実を借りて国儲を耗すべからず」と。帝その奏に従う。勛益々怒り、材が旧章を変乱すと劾す。この時、醮壇に龍涎香を須うも、材は時に進めず、帝これを銜む。遂に材が名を沽い事を誤ると責め、職を落として閑住せしむ。帰り、まもなく卒す、年七十一。隆慶初年、太子太保を贈られ、謚して端肅と曰う。

嘉靖中歳に当たり、大臣或いは上に阿り寵を取るも、材は独り撓まず、以てここに終に容れられず。材の去りしより、辺儲・国用大いに窘む。世宗乃ち嘆じて曰く、「材在らば、当にここに至らざらん」と。

劉麟

劉麟は、字を元瑞といい、もと安仁の人である。代々南京広洋衛の副千戸を務め、その地に家を構えた。学問を積み文章をよくし、顧璘・徐禎卿とともに「江東の三才子」と称された。弘治九年に進士に及第した。言官の龐泮らが獄に下されたとき、劉麟は同年の陸昆とともに抗疏して救った。刑部主事に任じられ、員外郎に進んだ。畿内で囚徒を録囚し、三百九十余人を平反した。正徳初年、郎中に進み、出て紹興府知府となった。劉瑾は劉麟が謁謝しなかったことを恨み、わずか五か月で、以前の録囚の些細なことをかこつけて、民に罷免した。士民は金を醵出して餞別しようとしたが受けず、小劉祠を建てて漢の劉寵に配し、これにより湖州に寓居した。呉琬・施侃・孫一元・龍霓とともに「湖南五隠」となった。劉瑾が誅されると、起用されて西安に補された。父の喪に遭い、呉興の山水を愛し、父の柩を奉じてそこに葬り、ついに湖州に居住した。陝西左参政に起用され、糧儲を督めた。都御史の鄧璋が師を督するにあたり、賦を加えて餉を充てることを議したが、劉麟は強く争った。ちょうど陝西の民が闕に訴え出たため、取りやめとなった。まもなく雲南按察使に遷り、病を理由に辞して帰った。

嘉靖初年、召されて太僕卿に拝された。右副都御史に進み、保定六府を巡撫した。中官の耿忠が紫荊を守備して放縦が多かったので、劉麟はこれを弾劾上奏した。天津三衛の屯田課を免除すること、および庫儲を出して河間三衛の軍の月餉を与え、逋課を徴収して償うことを請うたが、いずれも許可された。帝はこれにより戸部に諭し、中外の未給の軍餉をすべて補給させた。再び病を理由に辞して帰った。大理卿に起用され、工部尚書に拝された。侍衛軍に衣履が給されていないとき、錦衣帥の駱安が紅盔軍の例を援用して請うたが、劉麟は執って許さなかった。詔して銀を量って給し自ら製させ、以後五年ごとに給するのを常例とした。四司の財物はすべて後堂の大庫に貯蔵されていたが、司官が出納する際に侵漁することが多かったので、劉麟は特に一郎官を除してこれを主管させることを請うた。帝は善しとし、これにより「節慎庫」と名づけた。まもなく、節財十四事を上奏し、内府諸監局の冒破銭を淘汰したので、中貴は大いに恨んだ。顕陵の工事が竣功すると、執役者はみな官を望んだ。劉麟はただ賞賜を擬するにとどめたので、群小はますます怨んだ。ちょうど帝が諫官の言を容れ、中外の雑派工役を停めたとき、劉麟は浙江・蘇・松の織造を停める牒を出し、上供の袍服がその停止の中に含まれていた。中官の呉勛がこれについて言上したため、ついに劉麟を致仕させた。久しくして、顕陵の殿閣が雨漏りしたので、劉麟を追論し、職を落とした。

劉麟は清修直節で、官に当たって屈しなかった。工部に在ったとき、朝廷のために財を惜しみ費を謹み、わずか一年余りで罷免された。郊外の南坦に居住し、詩を賦して自ら楽しんだ。太守が一台を築き、堂を構えさせたので、はじめて休息遊覧の場所を得た。家に居ること三十余年、廷臣が頻りに論薦した。晚年は楼居を好んだが、力が及ばず構えることができず、籃輿を梁に懸け、曲がってその中に臥し、神楼と名づけた。文徴明が図を描いて贈った。八十七歳で卒した。太子少保を贈られ、清恵と諡された。

蔣瑤

蔣瑤は、字を粹卿といい、帰安の人である。弘治十二年進士。行人に授けられた。正徳年間、両京の御史を歴任した。時弊七事を陳べ、その中で言うには、「内府軍器局の軍匠は六千、中官の監督者は二人であるが、今は六十余人に増え、一人が軍匠三十を占めている。他の局もこれに同じで、行伍が消耗しないはずがない」と。また、「伝奉官および濫収の校尉勇士はともに厘革すべきである。劉瑾は誅されたが、権はなお宦豎にある」と言った。旨があって詰問され、かつ「今後蔣瑤の議のごとき者は、再び奏するな」と言われた。まもなく出て荊州知府となった。黄潭堤を築いた。

揚州に転じた。武宗が南巡して揚州に至ったとき、蔣瑤は御用のものを供給しただけで、贈り物は何もなかった。諸嬖幸はみな怒った。江彬が富民の居宅を奪って威武副将軍府としようとしたが、蔣瑤は執って許さなかった。江彬は蔣瑤を空き家に閉じ込めて挫辱し、帝の賜った銅瓜で脅したが、蔣瑤は恐れなかった。ちょうど帝が漁で大きな魚を獲り、戯れに五百金の値があると言うと、江彬はすぐに蔣瑤にその代金を責め立てた。蔣瑤は妻の簪珥・袿服を懐に入れて進め、「庫に銭はなく、臣の所有するものはこれだけです」と言った。帝は笑ってこれを返した。府にはもと瓊花観があり、詔して瓊花を取るよう命じた。蔣瑤は、宋の徽宗・欽宗が北狩して以来、この花はすでに絶え、今は献上するものがないと言った。また旨を伝えて異物を徴したが、蔣瑤はことごとく揚州の産でないと答えた。帝は「苧白布も揚州の産ではないのか」と言った。蔣瑤はやむを得ず、五百疋を献上した。このとき、権幸は揚州が繁華であるとして、要求することが至らざるところがなかった。蔣瑤がいなければ、民はさらに重い困苦を負ったであろう。車駕が還るとき、蔣瑤は宝応まで扈従した。中官の邱得が鉄縆で蔣瑤を縛り、数日後にようやく釈放し、ついに臨清まで扈従して返った。揚州の人々が蔣瑤を見るに、感泣しない者はなかった。陝西参政に遷るとき、争って資を出して祠を建てて祀り、名はこれより大いに震った。

嘉靖初年、湖広・江西の左・右布政使を歴任し、右副都御史として河南を巡撫した。帝が桂萼らに巡撫官の去留を審査させ、蔣瑤に帰って候調させた。まもなく、累遷して工部尚書となった。四郊の工事が竣功し、太子少保を加えられた。西苑の宮殿が完成し、帝が宴を設けた。蔣瑤と王時中の席が外にあるのを見て、殿内に移すよう命じ、皇親を殿右に移して蔣瑤に譲らせ、「親を親しむは賢を尊ぶに如かず」と言った。蔣瑤を重んじることこのようであった。当時、土木の工事が頻繁に起こり、歳費は数百万にのぼった。蔣瑤の規画はすべて帝の意にかなったので、しばしば賞賜があった。憂いにより去った。久しくして、南京工部尚書から召されて北部に改めた。帝が承天に行幸したとき、蔣瑤は扈従した。京師の営建は、京軍を役使するのが常であったが、多くは豪家が占匿していた。このとき大工が頻繁に続き、毎年民を募って役に充て、費は二百余万にのぼった。蔣瑤がこれについて言上し、不急のものを停めることを請うた。豪家が匿っていた軍士はすべて出て、募役の費用は大いに減った。老齢により致仕して去った。

蔣瑤は端亮清介であった。帰った後は、僻地の陋巷に住んだ。尚書の劉麟・顧応祥らと文酒の社を結び、峴山の間を徜徉した。八十九歳で卒した。太子太保を贈られ、恭靖と諡された。

王廷相

王廷相は、字を子衡といい、儀封の人である。幼少より文名があった。弘治十五年進士に及第し、庶吉士に選ばれ、兵科給事中に授けられた。憂いにより去った。正徳初年、喪が明けて京に至った。劉瑾に罪を中ぜられて亳州判官に謫され、量移されて高淳知県となった。召されて御史となり、疏を上して言うには、「大盗が四方に起こり、将帥が平定できないのは、将権が軽くて敵を防ぐことができず、兵機が疎かで険を扼することができないからである。盗賊の至るところ、郷民は牛酒を奉じ、甚だしい者は力を尽くす。盗賊には生殺の権があり、将帥にはかえってそれがないので、兵は命を用いない。便宜を許すべきで、退却する者は必ず斬るべきである。河南の地は平曠で、賊は奔りやすく、山西の地は険阻であるのに、深く入り込ませるのも将帥の罪である。もし黄河の渡しに兵を陳べて西に行かせず、井陘・天井を分かって扼して東に行かせず、主将が大軍でこれを迫れば、賊は進退ともに窮し、戦わずして擒えることができるであろう」と。帝は総督諸臣を厳しく責め、その議にすべて従った。まもなく、出て陝西を按察し、鎮守中官の廖堂を裁抑したが、誣告された。当時すでに京畿学校を督するよう改められていたが、詔獄に逮系され、贛榆丞に謫された。累遷して四川僉事、山東副使となり、いずれも学校を提督した。嘉靖二年、治行卓異に挙げられ、再び山東右布政使に遷った。右副都御史として四川を巡撫し、芒部の賊沙保を討って平定した。

まもなく召されて都察院の事務を掌る。兵部左侍郎・右侍郎を歴任し、南京兵部尚書に転じ、機務に参賛す。初め詔ありて、進貢用の快船を省く。守備太監頼義また増加を求めしが、廷相は物の軽重を斟酌して船数を定め、宣徳以後に伝旨して祖制に非ざるものを大いに減ずることを請う。龍江・大勝・新江・浦子・江淮の五関の守臣は稽察を借りて税利を収め、安慶・九江は春秋の閲視を借りて賄賂を求めしを、廷相は皆これを革することを請う。草場・蘆課の銀は率ね中官楊奇・卜春及び魏国公徐鵬挙に侵蝕せらる。廷相の請いに以て、奇・春を逮問し、鵬挙の俸禄を奪う。三月に入りて左都御史となり、疏を上して言う、南京守備の権は甚だ重く、魏国に世官とすべきに非ずと。給事中曾忭もまたこれを言う。ここにて鵬挙の兵権を解く。

二年を居て、兵部尚書を加え前官を兼ね、団営を提督し、なお院事を掌る。両考満ちて、太子少保を加う。畿内の民天寿山陵の樹木を盗みしに、巡按楊紹芳は大祀の神禦物を盗む律を引き、斬刑に処せんとす。廷相言う、「大祀の神禦物とは、神禦の内に在る祭器帷帳の物を指して言う。律文に、陵木を盗む者は、ただ杖一百、徒三年とす。今本律を捨てんは、刑の平たるに非ず」と。旨に忤い、俸禄一月を罰す。帝承天に幸せんとす。廷相諸大臣と諫むも、納れられず。扈従して還り、九年満ちて、太子太保を加う。雷奉先殿を震す。廷相言う、「人事修まって後に天道順い、大臣法にして後に小臣廉なり。今廉隅立たず、賄賂盛行す。先朝は猶ほ暮夜の私なりしが、今は則ち白日の攫なり。大臣汚れば小臣悉くこれに倣い、京官貪れば外臣畏るるなし。臣職は憲紀を掌るも、その弊を絶つ能わず。先ず罷斥を乞う」と。用いて尚書厳嵩・張瓚らを刺す。帝ただ留むるを諭すのみ。

初め、廷相は六条を以て差還の御史を考察することを請う。帝その未だ尽さざる所を疏して、憲綱に編ぜしめんと命ず。ここにて張孚敬・汪鋐の奏列したる所を取り、及び新たに定めたる凡そ十五事を進め、悉く行うを許さる。九廟の災に及び、詔を下して修省せしむ。ここにて廷相に勅して曰く、「御史巡方の職は甚だ重し。卿総憲すること年有り、六条を定めて後より、一人も考黜せず。今宜しく痛く修省すべし」と。廷相惶恐して謝す。

廷相内台を掌ること最も久しく、威重有り。団営を督め、郭勛と共に事を為し、その間に逡巡して、振飭する所ある能わず。給事中李鳳来ら権貴の民利を奪うを論ず。章下る都察院に、廷相五城の御史に檄して核実せしむ。四十余日遅滞す。給事中章允賢ここにて廷相の私に徇り上を慢にするを劾す。帝方に詰責せんとししに、廷相御史の核したる所を聞かしむ。ただ郭勛の侵すこと最も多し。帝勛に自ら奏せしむ。ここにて勛を劾する者群起す。勛また勅を領するに稽留して帝の怒りに触れ、獄に下る。廷相を朋比阿党を責め、民に斥く。三年を越えて卒す。廷相博学にして議論を好み、経術を以て称さる。星暦・輿図・楽律・河図・洛書及び周・邵・程・張の書に至るまで、皆論駁する所有り。然れどもその説頗る乖僻なり。隆慶初め、官を復し、少保を贈られ、謚して粛敏と曰う。

【賛】

賛に曰く、喬宇南京を守り、従容鎮静、内に警備を厳にし、以て大事に当たる能き者と謂うべし。宇と孫交らが節を砥ぎ公に奉じ、懇々廷諍するを観るに、意は幸門を杜塞し、国是に裨益せんとす。君を得て政を行い、蹇・夏に媲美するに未だ能わざるも、要するにその清厳にして苟もせず、行いに瑕尤無きは、前人に於いても亦多く譲らざるなり。蔣瑤尚書と為り、功名郡を治むるに損じ、王廷相内台を掌り、風力未だ著わさず。是れ殆んどその時之れを為すか。