○費宏(弟寀・從子懋中・子懋賢・世父瑄) 翟鑾 李時 顧鼎臣 厳訥(袁煒) 李春芳(孫思誠等) 陳以勤 趙貞吉(殷士儋) 高儀
費宏
幸臣の銭寧は陰に宸濠に党し、宏と交歓せんと欲し、彩幣及び他の珍玩を饋る。拒みてこれを却く。寧は慚じ且つ恚る。宸濠、護衛と屯田とを復せんと謀り、白金巨万を輦し、遍く朝貴に賂り、寧及び兵部尚書陸完これを主る。宏の従弟、編修の寀、その妻は濠の妻と兄弟なり、これを知りて以て宏に告ぐ。宏、朝に入る。完迎えて問うて曰く、「寧王、護衛を求む。復すべけんや」。宏曰く、「当日これを革せし者の故を知らず」。完曰く、「今、予えざるべからざるを恐る」。宏は峻しくこれを却く。中官の奏を持ちて閣に至るに及び、宏は極言して予うべからざるを言う。詔、卒にこれを予う。ここにおいて宸濠は寧と合し、宏を恚る。寧は数たび宏の事を偵るも得る所なし。御史余珊が嘗て寀を劾し、翰林に留まるべからずとせるを以て、即ちこれを宏の罪と指す。中旨、状を陳するを責む。宏は休を乞う。命じて寀と倶に致仕せしむ。寧は騎を遣わして宏の後を伺い、臨清に抵り、その舟を焚き、資装尽く毀つ。宏帰り、門を杜して客を謝す。宸濠復た通ぜんことを求む。宏は謝絶す。益々怒る。会うに宏の族人と邑の奸人李鎮等と訟うるに、宸濠陰に鎮に命じて宏を賊せしむ。鎮等遂に険に拠りて乱を作し、衆を率いて費氏を攻む。宏を索うも得ず、訟うる所の者を執りて支解し、宏の先人の冢を発し、その家を毀ち、遠近を劫掠し、衆三千人に至る。宏は馳せて使をして朝に訴えしむ。巡撫孫燧に下して状を按ぜしむ。始めて兵を遣わして剿滅す。宸濠敗る。言者は争いて宏を召すことを請う。世宗即位し、行人を遣わして即ち家に起し、少保を加え、輔政に入らしむ。
宏は持重にして大體を識り、国家の故事に明習す。楊廷和・蔣冕・毛紀と心を同じくして協賛し、数たび帝に武宗の弊政を革せんことを勧む。「大礼」の議、諸臣は力めて帝と争う。帝は堪え難し。宏は頗る帝の旨を揣み知り、第公疏に署名するのみ。嘗て特に諫めず。ここを以て帝の心、これを善しとす。廷和等の位を去るに及び、宏は首輔と為る。少師兼太子太師・吏部尚書・謹身殿大学士を加えられ、委任甚だ至れり。
宏は人となり和易にして、後進を推轂するを好む。その「大礼」に於いては強く諫むる能わず、また嘗て附離せず。而して是の時、席書・張璁・桂萼用いらる。書の弟、検討の春、故に他曹より改めて用いらる。『武宗実録』成るに及び、宏議して出でて僉事と為す。書ここより宏を憾む。璁・萼は郎署より翰林に入り、驟に詹事に至る。挙朝その人を悪む。宏は毎に裁抑を示す。璁・萼も亦大いに怨む。帝嘗て平臺に禦し、特に御製七言一章を賜い、倡和詩集を輯むるを命じ、その銜に署して曰く「内閣掌参機務輔導首臣」。その尊礼せらるるを見る、これ以前未だ有らざるなり。
璁・萼は宏の寵を害するを滋す。萼言う、「詩文は小技、聖心を労するに足らず。且つ宏をして寵霊に馮りて、朝士を凌圧せしむ」。帝は省みずに置く。萼遂に璁とともに宏を帝に毀り、宏が郎中陳九川の盗みし天方の貢玉を受け、尚書鄧璋の賕を受けて起用を謀り、並びにその郷に居る事に及ぶと言う。宏は上書して休を乞う。略して曰く、「萼・璁は私怨を挟みて臣を屢す。経筵講官を与えざれば則ち怨み、献皇帝実録の修撰を与えざれば則ち怨み、両京郷試の考官と為さざれば則ち怨み、教習と為さざれば則ち又怨む。萼・璁は内閣の事、臣に属して操縦すと疑う。抑も知らんや、臣下は物望を采り、上は聖裁を稟る。専擅すべからざるを。萼・璁は日々袂を攘り掔を搤え、臣の位を覬覦す。臣安んぞ能く小人と相齮龁せん。骸骨を賜わるを祈る」。允さず。璁の兵部に居るに及び、宏は新寧伯譚綸を用いて奮武営を掌らしめんと欲す。璁遂に宏が府部を劫制すと劾す。間も無く、又宏の子懋良が罪に坐して吏に下るに因り、これを攻むること益々力め、復た前後の劾疏を録して上る。請うを得ず、則ち力を求めて罷めんとし、宏を詆ること尤も切にす。章数たび上る。宏も亦連疏して休を乞う。帝は輒ち優詔を下して慰留す。然れども終に璁・萼を譴めず。ここにおいて奸人王邦奇、璁・萼の指を承け、上書して故大学士廷和等を汚し、並びに宏を誣う。宏竟に致仕して去る。時は六年二月なり。十月、璁遂に尚書・大学士を以て内閣に入り直す。一歳を間てて萼も亦入る。
十四年、萼は既に前に死し、璁も亦位を去る。帝始めて宏を追念す。四月、再び行人を遣わして即ち家に起し、官を故の如くす。七月、京師に至る。中使をして上尊と御饌を以て労し、面諭して曰く、「卿と別れて久し。卿康健にして恙無し。宜しく心を悉くして輔導し、朕が意に称うべし」。宏頓首して謝す。ここより眷遇益々厚し。李時と偕に無逸殿に召し入れられ、殿廬を周覧し、従容として笑語し、時を移して始めて出づ。銀章を賜いて曰く「旧輔元臣」。数たび諮問有り。宏も亦誠を竭して隠すこと無し。璁・萼の操切の後に承け、寛和を以て易う。朝士皆慕いこれを楽む。未だ幾くせずして卒す。年六十八。帝嗟悼し、賻恤を加等し、太保を贈り、文憲と謚す。
宏は三たび内閣に入り、両朝を佐くること殆ど十年。中、讒構に遭うも、訖に功名を以て終わる。その少保より入るや、弟寀は賛善、從子懋中は進士及第より編修、宏の長子懋賢は方に庶吉士に改まる。父子兄弟並びに禁近に列す。寀の官は少保・礼部尚書に至り、文通と謚す。懋中は終に湖広提学副使。懋賢は兵部郎中を歴る。
宏の伯父の瑄は、成化十一年の進士である。弘治年間に兵部員外郎となった。貴州巡撫の謝昶と総兵官の吳経らが、爛土の苗が反乱を起こし、王を僭称したと上奏し、大軍を派遣して征討するよう求めた。兵部尚書の馬文升の請いにより、瑄は御史の鄧庠と共に調査に向かわせられた。(彼らは)苗に反乱の形跡はないと報告し、これを撫定した。謝昶・吳経および鎮守中官の張成の罪を弾劾した。後に貴州参議に昇進し、その任で終わった。
翟鑾
翟鑾は、字を仲鳴といい、その先祖は諸城の人である。曾祖父が錦衣衛の校尉となり、京師に住まいを定めた。弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に改められた。正徳初年、編修に任じられた。劉瑾が翰林を他の部署に改めた際、鑾は刑部主事とされた。まもなく元の官に復し、侍読に進んだ。嘉靖年間、累進して礼部右侍郎となった。六年の春、廷臣が閣臣を推挙した。帝の意は張孚敬にあったが、推挙されなかった。再推挙を命じ、そこで鑾が推挙された。中貴人の多くが鑾を称賛したため、帝は順序を飛び越えて彼を用いた。楊一清は鑾の声望が軽いとして、吳一鵬・羅欽順を用いるよう請うたが、帝は許さず、鑾を吏部左侍郎兼学士として文淵閣に入直させることを命じた。まもなく銀章を賜り、「清謹学士」と刻された。
鑾が初めて内閣に入った時は、一清と謝遷が政務を補佐していたが、やがて孚敬と桂萼が入閣し、鑾は皆彼らを謹んで仕えた。孚敬と萼は皆、賜った銀章で密封して上奏したが、鑾だけは何も言わなかった。問いただすと、叩頭して謝して言うには、「陛下は明聖でいらっしゃいます。臣は順うのに暇がありません。どうして献替などできましょうか」と。帝は心の中で彼を愛した。一清・萼・孚敬が相次いで罷免され、鑾が独りで政務を執ること二か月に及んだ。その後、李時と方献夫が入閣し、その地位は皆鑾の上にあったが、鑾もまた不快に思うことはなかった。帝はしばしば李時と鑾を召し出して引見し、かつて問うた、「都察院が谷大用の資産を没収するよう擬しているが、妥当か」と。李時と鑾は共に北方の出身で、中貴人と気脈を通じていた。李時は言った、「擬したものは法律に合致しません」。鑾は言った、「律によれば、籍没は三つの条項、すなわち謀反・叛逆および奸党に限られます。三尺の法に合わなければ、どうして天下を信服させられましょう」。帝は言った、「大用は先朝で政を乱した、まさに奸党である」。鑾は言った、「陛下は即ち天です。春に生じ秋に殺す、何ができないことがありましょう」。帝はついに重い処分を擬するよう命じた。生母の喪に服して帰郷した。喪が明けたが、長く召されなかった。夏言と顧鼎臣が政府にいたが、鑾は彼らと謀って自分を召還させようとした。ちょうど帝が南巡しようとし、辺境に警報があることを憂慮し、重臣を派遣して巡視させることを議した折、夏言らはそこで鑾を推薦して行辺使を充てさせた。十八年二月、兵部尚書兼右都御史に改め、諸辺の文武の将吏は皆その節制を受けた。かつ国庫の金五十万両を携えて辺軍を犒労し、東西を往復すること三万余里に及んだ。翌年の春に京に入り、そこで原官のまま内閣に入ることを命じられた。大同では総督の毛伯温と議して五堡を築き、甘粛を過ぎる時は総督の劉天和と議して嘉峪関を拡張し、皆蔭叙を受けた。
李時
李時は、字を宗易といい、任丘の人である。父の棨は進士で、萊州知府となった。李時は弘治十五年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修に任じられた。正徳年間、侍読・右諭徳を歴任した。世宗が即位すると、講官となり、まもなく侍読学士に昇進した。
その秋、桂萼が卒去し、李時に文淵閣大学士を兼ねさせて機務に参与するよう命じた。この時張孚敬はすでに罷免されており、翟鑾が独りで宰相を務めていた。李時は後から入閣したが、宮保の官が尊いため、かえって鑾の上に立った。二人は共に謙遜で、齟齬はなかった。帝が無逸殿に臨み、李時を召し出して座らせ『無逸篇』を講じさせ、鑾に『豳風・七月』の詩を講じさせ、武定侯の郭勛および九卿翰林が皆侍した。講義が終わると、帝は退いて豳風亭に臨み宴を賜った。これより後、しばしば召し出され、政務について諮問された。
顧鼎臣
十七年八月、本官のまま文淵閣大学士を兼ねて機務に参与した。間もなく少保・太子太傅を加えられ、武英殿に進む。初め、李時が首輔、夏言がこれに次ぎ、顧鼎臣がまたこれに次いだ。李時が卒去し、夏言が国政を専らにすると、顧鼎臣は元来柔媚で、為すところなく、充位するのみであった。帝が南巡し、皇太子を立てようとし、夏言に命じて扈行させ、顧鼎臣に太子を輔けて監国させた。御史蕭祥曜が吏部侍郎張潮が顧鼎臣の嘱託を受けて、刑部主事陸昆を吏部に調任させたと弾劾した。張潮は言う、「兵部主事馬承学が顧鼎臣と縁故があることを恃み、必ずや銓曹を得ると自ら詭したので、臣は敢えて馬承学を抑えて陸昆を用いたのです」と。帝は馬承学を詔獄に下したが、顧鼎臣は問わなかった。十九年十月、官で卒去し、年六十八。太保を贈られ、文康と諡された。
顧鼎臣が侍従の官にあった時、東南の賦役が均しからぬことを憫み、屡々その弊を陳べ、帝は撫按に飭した。巡撫歐陽鐸がこれを厘定した。昆山には城がなく、当事者に言って城を築かせた。後、倭乱が起こり、昆山は全きを得たので、郷人は祠を立てて祀った。
厳訥
厳訥、字は敏卿、常熟の人。郷試に挙げられたが、主司の試録が禁忌に触れたため、一榜皆会試に及第できなかった。嘉靖二十年に進士となり、庶吉士に改め、編修を授かり、侍読に遷る。三呉は数度倭患に遭い、歳また大いに凶作となり、民は死に徙ること半ばに及び、有司の征斂は益々急であった。厳訥は民の困窮を疏陳し、蠲免と貸付を請うた。帝は疏を得て感動し、その請いの通りに報じた。間もなく李春芳と共に西苑に入直した。青詞を撰し、超授されて翰林学士となる。太常少卿を歴任し、礼部左・右侍郎、吏部に改め、皆学士を兼ね、仍く西苑に直る。撰する青詞は皆旨に称した。礼部尚書郭樸が吏部に遷ると、乃ち厳訥を以てこれに代えた。郭樸が父喪に遭い、再び代わって吏部尚書となった。厳嵩が国政を執ると、吏道は汚雑であった。厳嵩が敗れ、郭樸が銓衡を典しても未だ尽く変えることができなかった。厳訥は雅意自ら飭し、徐階も推心してこれを任じた。厳訥は乃ち朝士と約し、事があれば朝房で白状し、私邸に謁するなと。曹郎を慎択し、奔競を抑え、淹滞を振るうことに務めた。又、資格が余りに拘るため、人材を尽くせず、先朝の三途並用法に倣い、州県吏で政績異なる者は破格に超擢し、銓政は一新した。間もなく供奉の労を録し、太子太保を加えられた。
四十四年、袁煒が罷められ、武英殿大学士を兼ねて機務に参与するよう命じられた。代わる者郭樸が未だ至らぬため、仍く銓政を掌った。帝は西苑に斎居し、侍臣の直廬は皆苑中にあった。厳訥は朝に出て部事を理め、暮れに直廬に宿し、青詞を供奉し、小心謹畏して、病に至り久しく癒えなかった。その年の冬十一月、遂に帰ることを乞うた。翌年、世宗が崩じ、遂に再び出仕しなかった。
附 袁煒
先に二月朔、日食微陰あり、煒は救護すべからずと言う。礼部尚書吳山従わず、譴責を得て去る。帝煒の言を聞きて善しとし、遂に山に代わる。七月朔に及び、また日食あり。歴官、食止一分五杪なりと言い、例にて救護を免ず。煒乃ち帝の意に阿りて上疏し言う、「陛下は父を以て天に事え、兄を以て日に事え、群陰退伏し、万象輝華す。是を以て太陽晶明、氛祲銷爍し、食止一分、食せざると同じ。臣等欣忭に勝えず」と。疏入り、帝益々喜ぶ。其の冬、遂に戸部尚書兼武英殿大学士を以て入閣し機務を典するを命ず。累ねて少傅兼太子太傅・建極殿大学士を加う。四十四年春、疾篤く、仮を請いて帰り、道に卒す。年五十八。少師を贈り、文榮と謚す。
煒は才思敏捷なり。帝中夜に片紙を出だし、青詞を撰せしむるを命ずれば、筆を挙げて立ち成る。中外献瑞に遇えば、輒ち極詞を以て頌美す。帝一猫を畜いて死す、儒臣に命じて詞を撰し以て醮せしむ。煒の詞に「獅を化して龍と作す」の語あり、帝大いに喜悦す。其の詭詞媚上、多く此の類し。以て故に帝急に枋用し、恩賜稠疊、他人敢えて望む莫し。
嘉靖中年より、帝専ら焚修を事とし、詞臣率ね青詞を供奉す。工なる者は立って超擢し、卒に至りて入閣す。時に李春芳・厳訥・郭樸及び煒を「青詞宰相」と謂う。而して煒は貴倨鮮淟、故に徐階の門を出づるも、直に気を以て之を凌ぐ。階と同《承天大志》を総裁し、諸学士稿を呈すれば、煒竄改殆んど尽くし、以て階に譲らず。諸学士平らからず、階第に曰く任すのみと。其の後煒死し、階も亦尽く之を竄改す。煒自ら能文を負い、他人の作するを見て、稍々意に当たらずとすれば、輒ち肆に詆誚す。館閣の士其の門を出づる者は、斥辱尤も堪えず、以て故に人皆畏れて之を悪む。
李春芳
斉康の徐階を劾するや、語春芳を侵す。春芳疏を上り弁じて去らんことを求め、帝之を慰留す。階に代わり首輔と為るに及び、益々安静を務め、帝の意に称す。時に同列する者陳以勤・張居正。以勤は端謹、而して居正は才を恃み物を凌ぎ、春芳を蔑如として視る。初め階人言に以て罷まる。春芳嘆きて曰く、「徐公尚お爾り、我安んぞ能く久しからん。容れずんば旦夕に身を乞わん」と。居正遽かに曰く、「此くの如くせば、庶幾く令名を保たん」と。春芳愕然とし、三たび疏を上りて休を乞うも、帝允さず。既にして趙貞吉入りて以勤に代わる。剛にして気を負う。高拱再び直に入るに及び、春芳を凌ぎて其の上に出づ。春芳争う能わず、謹みて自ら飭うのみ。俺答塞に款き封を求めしに、春芳拱・居正に偕にして即ち帝の前に之を決す。会に貞吉拱の為に逐われ、拱益々張り、階の故怨を修む。春芳嘗て従容として階の為に解く。拱益々悦ばず。時に春芳已に累ねて少師兼太子太師を加えられ、吏部尚書に進み、中極殿に改まる。拱輩終に己を容れざるを度り、両たび疏を上りて帰養を請うも、允さず。南京給事中王禎拱の意を希い、疏を上りて之を詆す。春芳去らんことを求むること益々力む。勅を賜い乗伝し、官を遣わし護行せしめ、有司夫廩を給すること故事の如し。一歳を閲り、拱復た居正の為に擠せられ、幾くにか免れず。而して春芳帰る。父母尚お恙無く、晨夕酒食を置きて楽しましむ。郷里之を艶む。父母歿すること数年にして乃ち卒す。年七十五。太師を贈り、文定と謚す。
附 孫思誠等
孫思誠、天啓六年礼部尚書に官し、尋ち罷む。崇禎初、頌榼に坐し閑住す。
思誠の孫清、字は映碧。崇禎四年進士。寧波推官より擢て刑科給事中と為る。熊文燦張献忠を撫す。清其の失策を論ず。久旱を以て刑を寛むるを請い、旨に忤い、浙江按察司照磨に貶せらる。未だ赴かず、憂いて帰る。起きて吏科給事中と為る。俄に淮府を封ずるに出で、国変に与せず。福王の時、開国の名臣及び武・熹両朝の忠諫諸臣を追謚するを請う。是に於て李善長等十四人・陸震等十四人・左光斗等九人並びに謚を得る。
春芳の曾孫信、広東平和知県。城破れ、二子泓遠・淑遠と同時に死す。
陳以勤
陳以勤、字は逸甫、南充の人。嘉靖二十年進士。庶吉士に選ばれ、検討を授かる。久しくして裕王の講官に充つ。修撰に遷り、洗馬に進む。時に東宮の位号未だ定まらず、群小多く釁を構う。世宗父子に於て素より薄く、王歳時に燕見を得ず。常祿の外、例に給賜有るも、王も亦敢えて請わず。三歳を積み、邸中甚だ窘し。王の左右千金を以て厳世蕃に賄う。世蕃喜び、以て戸部に属し、並びに三歳の資を得て給す。然れども世蕃常に自ら疑う。一日人を屏いて以勤及び高拱に語りて曰く、「殿下近く惑志有りと聞く、家大人を謂うや如何」と。拱故に謔語を為す。以勤正色して曰く、「国本黙定すること久し。生めて名を命ずるに、後に従い土に従う、首めて九域に出づ、此れ君の意なり。故事、諸王の講官は止だ検討を用う。今編修を兼ね用う、独り他邸に異なり、此れ相の意なり。殿下毎に首輔を社稷の臣と謂う、君安んぞ従りて此の言を受く」と。世蕃黙然として去る。裕邸乃ち安んず。
講官と為ること九年、羽翼の功有り。而して深く自ら晦匿す。王嘗て「忠貞」の二字を書して之を賜う。父喪除き、還りて侍読学士と為り、翰林院を掌る。太常卿に進み、国子監を領す。礼部右侍郎に擢で、尋ち左に転じ、吏部に改まり、詹事府を掌る。
趙貞吉
趙貞吉、字は孟靜、内江の人。六歳で日に書物一卷を誦した。成長すると、博洽をもって名を知られた。最も王守仁の学を善とした。嘉靖十四年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、編修を授かった。時に方士が初めて進用され、貞吉は真儒を求めて大業を賛えることを請うた。執政は喜ばず、よって急を請うて帰った。朝に還り中允に遷り、司業事を掌った。
俺答が都城に迫り、侮慢の書で貢を求めた。詔して百官に廷議させ、貞吉は袖を奮って大言した、「城下の盟は、『春秋』がこれを恥じる。すでに貢を許せば必ず城に入り、もし要索が已まなければ、どうするか」。徐階が言った、「君には必ず良策があるだろう」。貞吉は言った、「今の計としては、至尊に速やかに正殿に御し、詔を下して咎を引くことを請う。周尚文の功を録して辺帥を励まし、沈束を獄から出して言路を開き、損軍の令を軽くし、賞功の格を重くし、官を遣わして諸将に宣諭し、監督して力戦させれば、敵を退けるは容易である」。時に帝は中使を遣わして廷臣の間を探らせ、日中になっても一語も発する者なし。貞吉の言を聞き、心にこれを壮とし、厳嵩に諭して言った、「貞吉の言は是であるが、ただ周尚文・沈束の事に及ぶべきではない」。左順門に召し入れて、便宜を手疏することを命じた。直ちに左諭徳兼監察御史に抜擢し、勅を奉じて諸軍に宣諭させた。白金五万両を与え、随宜に労賞するに任せた。初め、貞吉は廷議を罷め、盛気で厳嵩に謁した。嵩は辞して会わず、貞吉は怒って門者を叱った。ちょうど趙文華が至り、貞吉はまたこれを叱った。嵩は大いに恨んだ。勅を撰するに及んで、督戦させず、その権を軽くし、かつ一卒も護行させなかった。時に敵騎が充満し、貞吉は馳せて諸将の営に入り、金を散じて士卒を犒い、徳意を宣諭し、明日すなわち復命した。帝は大怒し、貞吉は区画なく、徒らに尚文・束のために遊説すると言った。詔獄に下し、廷で杖ち、荔波典史に貶した。稍く遷って徽州通判となり、進んで南京吏部主事となった。
四十年、戸部右侍郎に遷った。廷議で大臣を薊州に遣わして餉を督し兵を練らせようとし、厳嵩は貞吉を用いようとし、召し飲んで意を示した。貞吉は言った、「督餉とは、京運を督するのか、民運を督するのか。もし二運にすでに職掌があれば、官を添えるは徒らに擾乱を増すのみ。況んや兵の練られざるは、その過ちは宜しくここに在るべからず、たとえ十人の戸部侍郎が出ても、何が兵を練るのに益せん」。嵩は怫然としてやめた。ちょうど嵩が告を請うたので、吏部は倉場侍郎林応亮を用いた。嵩が出ると、ますます怒った。都給事中張益に命じて応亮を弾劾させ、南京に調し、代わりに僉都御史霍冀を用いた。張益はまた言った、「督餉は戸部の専職である。今貞吉と左侍郎劉大賓は廷推に及ばず、これは職を尽くさぬことなり、罷めるべし」。ここにおいて二人とも官を奪われた。
初め、給事中楊镕が霍冀の貪庸を弾劾した。帝はすでに霍冀を留めたが、霍冀は楊镕が貞吉の郷人であるので、貞吉の意より出たと疑い、疏を辨じて罷むることを乞い、かつ貞吉を誹謗した。貞吉もまた疏を辨じて去ることを求めた。詔して貞吉を留め、霍冀の官を褫った。その後、営制は屡々改まり、年を逾えずして即ちその旧に復し、貞吉もまた争うことができなかった。俺答が塞に款して封を求めるに、貞吉は力を込めてその議を賛成した。
先に、高拱が再び内閣に入ると即座に吏部を掌った。趙貞吉は李春芳に言上し、都察院を掌ることも得た。高拱は私怨により科道官の考察を行おうとした。貞吉は同僚と共に上疏して言う、「近ごろ御史葉夢熊が事を言上して旨に逆らい、陛下は言官を考核するよう厳命され、昇任した者や在籍の者にも及ぼされた。考察すべき者は近く二百人に及ぶが、その中に忠を懐き主に報い、諤諤として敢言する士がいないはずがあろうか。今一様に放肆奸邪の罪を科せば、司る者が奉行過当に陥り、忠と邪を分かたず、言路を塞ぎ士気を沮喪させ、国家の福とならぬと恐れます」。帝は従わなかった。高拱は貞吉が内情を得たと思い、恨みを深くした。考察に及んで、高拱は貞吉が厚遇する者を除こうとし、貞吉もまた高拱が厚遇する者を引き合いに出して弁じた。ここにて斥退された者は二十七人で、高拱が憎む者は皆これに加えられた。高拱はなお憾みとし、門下の給事中韓楫を唆して貞吉を庸横と弾劾させ、考察時に私心ありとさせた。貞吉は疏を上って弁明し休職を乞い、かつ言う、「臣が院務を掌って以来、ただ考察一事において高拱と相違したのみである。その他の選法を壊乱し、縦肆に奸をなすこと、耳目に昭然たるものについて、臣は口を噤んで一言もできず、任使に背き、臣は真に庸臣である。高拱のような者こそ、まさに横と言うべきである。臣が放帰された後、幸いにも高拱を内閣に還らせ、久しく大権を専らにさせず、広く衆党を樹てさせぬよう」。疏が入ると、ついに貞吉の去職を許し、高拱は吏部の権を握ることを従前の如くとした。
貞吉は学識博く才高かった。しかし剛直を好み気性を振るい、動くごとに物事と齟齬した。九列の大臣に対しても、あるいは名を呼び捨てにし、人もまたこれを以て多く怨んだ。高拱、張居正は名声・輩行ともに貞吉より後でありながら、進用は先んじた。皆才を負って勝ちを好み互いに譲らず、ついに齟齬して去った。万暦十年に卒し、少保を贈られ、文粛と諡された。
附 殷士儋
初め士儋は陳以勤、高拱、張居正と共に裕邸の僚属となり、三人は皆権柄を用いたが、士儋は尚書のままであり、望みなきにしも非ずであった。高拱は平素張四維と親しく、共に政事に引き入れようとしたが、士儋が己に親しまぬことを憎み、援けとしなかった。士儋は遂に太監陳洪の力を藉り、中旨を取って内閣に入り、故に高拱及び四維を怨んだ。四維の父が塩利を擅にし、御史郜永春に弾劾された。事は既に解けたが、他の御史がまたこれに及んだ。高拱、四維は士儋の指嗾によるものと疑い、ますます互いに構えた。御史趙応龍は遂に士儋を弾劾し、進用は陳洪によるもので、大政に参与すべからずとした。士儋は再び弁明して去職を求め、許されなかった。高拱の門下の都給事中韓楫がまた揚言して脅すと、士儋もまた高拱の指嗾によるものと疑った。故事により、給事中は朔望に内閣に入り会揖すべきであった。士儋は面と向かって韓楫を詰問し、「君が我に憾みあると聞く、憾みは自ら然るべし、他人の使嗾となるなかれ」と言った。高拱が「体をなさぬ」と言うと、士儋は勃然として起ち、高拱を罵って言う、「汝は陳公を逐い、趙公を逐い、また李公を逐い、今また四維のために我を逐おうとする、汝は常にこの座を保ち得るのか」。奮臂して殴ろうとした。居正が傍らから和解し、また罵り返した。御史侯居良がまた士儋を弾劾し、始めの進用が正しからず、退くを求めて勇ましからぬとした。士儋は再び疏を上って請うこと益々力め、乃ち道里費を賜い、駅伝に乗じて帰り、官司は故事の如く稟隸を給した。家居すること十一年で卒した。当時居正は垂没し、四維が政を執り、士儋を怨んだ。太保を贈られ、文通と諡された。久しくして、文庄と改諡された。
高儀
高儀は性質簡静で、嗜欲寡く、室に妾媵無し。旧廬は火災で焼け、終身人の館を仮りた。没するに及んで、殆ど殮うるもの無かりき。
賛
賛に曰く、費宏らは皆文学より起家し、宰相の位に至る。宏は錢寧を退け、宸濠を拒み、張・桂に忤い、再び躓き再び起き、終に清誉を損なうこと無し。李時・翟鑾は皆才望を負うも、鑾は晚節振るわず。貞吉は気を負いて自ら高しとすれども、傾軋の勢いに処して、即ち委蛇せば、庸くんぞ免れんや。顧鼎臣らは廟堂に雍容たり、遭逢の盛を極むるというべし。而して陳以勤は誠心を以て輔導し、献納多く良し。後賢美を済し、相次いで相位に登る。明の世を終わるまで、韋・平と称せられるは、以勤父子を数う。天の之に報いること、何ぞ其れ厚きや。