明史

列傳第八十一 費宏 翟鑾 李時 顧鼎臣 厳訥 李春芳 陳以勤 趙貞吉 高儀

○費宏(弟寀・從子懋中・子懋賢・世父瑄) 翟鑾 李時 顧鼎臣 厳訥(袁煒) 李春芳(孫思誠等) 陳以勤 趙貞吉(殷士儋) 高儀

費宏

費宏、字は子充、鉛山の人。冠にはじめて、成化二十三年の進士第一に挙げられ、修撰を授かる。弘治年中、左賛善に遷り、東宮に直講し、左諭徳に進む。武宗立つと、太常少卿に擢げられ、侍講読を兼ねる。『孝宗実録』の修撰に預かる。日講官を充つ。正徳二年、礼部右侍郎を拝し、尋いで左に転ず。五年、尚書に進む。帝は逸楽に耽り、早朝と日講と倶に廃す。宏は政を勤め、学を務め、諫を納るることを請う。聞くに報ゆ。魯府鄒平王の子、当潩は父の爵を襲ぐべきに当たるが、弟の当涼に奪われて数年を経たり。宏は当潩の奏弁に因り、法に拠りてこれを正す。当涼怒り、宏が賄を受けしと誣う。宏は動かず。明年冬十二月、宏に文淵閣大学士を兼ねて機務に参預せしむ。尋いで太子太保・武英殿大学士を加え、戸部尚書に進む。

幸臣の銭寧は陰に宸濠に党し、宏と交歓せんと欲し、彩幣及び他の珍玩を饋る。拒みてこれを却く。寧は慚じ且つ恚る。宸濠、護衛と屯田とを復せんと謀り、白金巨万を輦し、遍く朝貴に賂り、寧及び兵部尚書陸完これを主る。宏の従弟、編修の寀、その妻は濠の妻と兄弟なり、これを知りて以て宏に告ぐ。宏、朝に入る。完迎えて問うて曰く、「寧王、護衛を求む。復すべけんや」。宏曰く、「当日これを革せし者の故を知らず」。完曰く、「今、予えざるべからざるを恐る」。宏は峻しくこれを却く。中官の奏を持ちて閣に至るに及び、宏は極言して予うべからざるを言う。詔、ついにこれを予う。ここにおいて宸濠は寧と合し、宏を恚る。寧は数たび宏の事を偵るも得る所なし。御史余珊が嘗て寀を劾し、翰林に留まるべからずとせるを以て、即ちこれを宏の罪と指す。中旨、状を陳するを責む。宏は休を乞う。命じて寀と倶に致仕せしむ。寧は騎を遣わして宏の後を伺い、臨清に抵り、その舟を焚き、資装尽く毀つ。宏帰り、門をとざして客を謝す。宸濠復た通ぜんことを求む。宏は謝絶す。益々怒る。会うに宏の族人と邑の奸人李鎮等と訟うるに、宸濠陰に鎮に命じて宏を賊せしむ。鎮等遂に険に拠りて乱を作し、衆を率いて費氏を攻む。宏を索うも得ず、訟うる所の者を執りて支解し、宏の先人の冢を発し、その家を毀ち、遠近を劫掠し、衆三千人に至る。宏は馳せて使をして朝に訴えしむ。巡撫孫燧に下して状を按ぜしむ。始めて兵を遣わして剿滅す。宸濠敗る。言者は争いて宏を召すことを請う。世宗即位し、行人を遣わして即ち家に起し、少保を加え、輔政に入らしむ。

宏は持重にして大體を識り、国家の故事に明習す。楊廷和・蔣冕・毛紀と心を同じくして協賛し、数たび帝に武宗の弊政を革せんことを勧む。「大礼」の議、諸臣は力めて帝と争う。帝は堪え難し。宏は頗る帝の旨を揣み知り、ただ公疏に署名するのみ。嘗てことさらに諫めず。ここを以て帝の心、これを善しとす。廷和等の位を去るに及び、宏は首輔と為る。少師兼太子太師・吏部尚書・謹身殿大学士を加えられ、委任甚だ至れり。

戸部、正徳時の逋賦を督するを議す。宏は石缶・賈詠と偕に十年以後を断つことを請う。これに従う。帝、四方の災異を以て、群臣に修省を敕す。宏等因りて言う、「陛下、用度に節なく、工役休まず。畿内の土地半ば荘田と成り、内庫の収納は倍を逾えるを要求す。太倉に三年の積なくして冗食日増し、京営に十万の兵なくして工に赴く已まず。直臣、罪を得て未だゆるされず、言官、職を挙ぐる乃ち詰せらる。律の当に行うべき者は数たびを経て誅せず、罪にわきまうる無き者はにわかに旨を伝えて免る。和をかき乱し怨を召す、自ら一端に非ず」。帝は咎を引きて褒答す。然れども用うる能わず。大同の兵変、張璁これを討たんことを請う。宏曰く、「討ちて勝てば、玉石倶に焚く。勝たずんば、彼将に城を拠りて守らん。威重を損ずること多し。変を観てしずかにこれを図るに若かず」。事果たしてまもなく定まる。

宏は人となり和易にして、後進を推轂するを好む。その「大礼」に於いては強く諫むる能わず、また嘗て附離せず。而して是の時、席書・張璁・桂萼用いらる。書の弟、検討の春、故に他曹より改めて用いらる。『武宗実録』成るに及び、宏議して出でて僉事と為す。書ここより宏を憾む。璁・萼は郎署より翰林に入り、にわかに詹事に至る。挙朝その人を悪む。宏は毎に裁抑を示す。璁・萼も亦大いに怨む。帝嘗て平臺に禦し、特に御製七言一章を賜い、倡和詩集をあつむるを命じ、そのかんに署して曰く「内閣掌参機務輔導首臣」。その尊礼せらるるを見る、これ以前未だ有らざるなり。

璁・萼は宏の寵を害するをますますす。萼言う、「詩文は小技、聖心を労するに足らず。且つ宏をして寵霊にりて、朝士を凌圧せしむ」。帝は省みずに置く。萼遂に璁とともに宏を帝に毀り、宏が郎中陳九川の盗みし天方の貢玉を受け、尚書鄧璋の賕を受けて起用を謀り、並びにその郷に居る事に及ぶと言う。宏は上書して休を乞う。略して曰く、「萼・璁は私怨を挟みて臣をしばしばす。経筵講官を与えざれば則ち怨み、献皇帝実録の修撰を与えざれば則ち怨み、両京郷試の考官と為さざれば則ち怨み、教習と為さざれば則ち又怨む。萼・璁は内閣の事、臣に属して操縦すと疑う。そもそも知らんや、臣下は物望を采り、上は聖裁をうけたまわる。専擅すべからざるを。萼・璁は日々袂をまくうでおさえ、臣の位を覬覦す。臣安いずくんぞ能く小人と相齮龁きがつせん。骸骨を賜わるを祈る」。允さず。璁の兵部に居るに及び、宏は新寧伯譚綸を用いて奮武営を掌らしめんと欲す。璁遂に宏が府部を劫制すと劾す。間も無く、又宏の子懋良が罪に坐して吏に下るに因り、これを攻むること益々力め、復た前後の劾疏を録して上る。請うを得ず、則ち力を求めて罷めんとし、宏を詆ること尤も切にす。章数たび上る。宏も亦連疏して休を乞う。帝はすなわち優詔を下して慰留す。然れども終に璁・萼をめず。ここにおいて奸人王邦奇、璁・萼の指を承け、上書して故大学士廷和等を汚し、並びに宏を誣う。宏竟ついに致仕して去る。時は六年二月なり。十月、璁遂に尚書・大学士を以て内閣に入り直す。一歳をへだてて萼も亦入る。

十四年、萼は既に前に死し、璁も亦位を去る。帝始めて宏を追念す。四月、再び行人を遣わして即ち家に起し、官を故の如くす。七月、京師に至る。中使をして上尊と御饌を以て労し、面諭して曰く、「卿と別れて久し。卿康健にしてつつが無し。宜しく心を悉くして輔導し、朕が意にかなうべし」。宏頓首して謝す。ここより眷遇益々厚し。李時と偕に無逸殿に召し入れられ、殿廬を周覧し、従容として笑語し、時を移して始めて出づ。銀章を賜いて曰く「旧輔元臣」。数たび諮問有り。宏も亦誠をつくして隠すこと無し。璁・萼の操切の後に承け、寛和を以てう。朝士皆慕いこれを楽む。未だしばらくせずして卒す。年六十八。帝嗟悼し、賻恤を加等し、太保を贈り、文憲と謚す。

宏は三たび内閣に入り、両朝を佐くること殆ど十年。中、讒構に遭うも、ついに功名を以て終わる。その少保より入るや、弟寀は賛善、從子懋中は進士及第より編修、宏の長子懋賢はまさに庶吉士に改まる。父子兄弟並びに禁近に列す。寀の官は少保・礼部尚書に至り、文通と謚す。懋中は終に湖広提学副使。懋賢は兵部郎中を歴る。

宏の伯父の瑄は、成化十一年の進士である。弘治年間に兵部員外郎となった。貴州巡撫の謝昶と総兵官の吳経らが、爛土の苗が反乱を起こし、王を僭称したと上奏し、大軍を派遣して征討するよう求めた。兵部尚書の馬文升の請いにより、瑄は御史の鄧庠と共に調査に向かわせられた。(彼らは)苗に反乱の形跡はないと報告し、これを撫定した。謝昶・吳経および鎮守中官の張成の罪を弾劾した。後に貴州参議に昇進し、その任で終わった。

翟鑾

翟鑾は、字を仲鳴といい、その先祖は諸城の人である。曾祖父が錦衣衛の校尉こういとなり、京師に住まいを定めた。弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に改められた。正徳初年、編修に任じられた。劉瑾が翰林を他の部署に改めた際、鑾は刑部主事とされた。まもなく元の官に復し、侍読に進んだ。嘉靖年間、累進して礼部右侍郎となった。六年の春、廷臣が閣臣を推挙した。帝の意は張孚敬にあったが、推挙されなかった。再推挙を命じ、そこで鑾が推挙された。中貴人の多くが鑾を称賛したため、帝は順序を飛び越えて彼を用いた。楊一清は鑾の声望が軽いとして、吳一鵬・羅欽順を用いるよう請うたが、帝は許さず、鑾を吏部左侍郎兼学士として文淵閣に入直させることを命じた。まもなく銀章を賜り、「清謹学士」と刻された。

鑾が初めて内閣に入った時は、一清と謝遷が政務を補佐していたが、やがて孚敬と桂萼が入閣し、鑾は皆彼らを謹んで仕えた。孚敬と萼は皆、賜った銀章で密封して上奏したが、鑾だけは何も言わなかった。問いただすと、叩頭して謝して言うには、「陛下は明聖でいらっしゃいます。臣は順うのに暇がありません。どうして献替などできましょうか」と。帝は心の中で彼を愛した。一清・萼・孚敬が相次いで罷免され、鑾が独りで政務を執ること二か月に及んだ。その後、李時と方献夫が入閣し、その地位は皆鑾の上にあったが、鑾もまた不快に思うことはなかった。帝はしばしば李時と鑾を召し出して引見し、かつて問うた、「都察院が谷大用の資産を没収するよう擬しているが、妥当か」と。李時と鑾は共に北方の出身で、中貴人と気脈を通じていた。李時は言った、「擬したものは法律に合致しません」。鑾は言った、「律によれば、籍没は三つの条項、すなわち謀反・叛逆および奸党に限られます。三尺の法に合わなければ、どうして天下を信服させられましょう」。帝は言った、「大用は先朝で政を乱した、まさに奸党である」。鑾は言った、「陛下は即ち天です。春に生じ秋に殺す、何ができないことがありましょう」。帝はついに重い処分を擬するよう命じた。生母の喪に服して帰郷した。喪が明けたが、長く召されなかった。夏言と顧鼎臣が政府にいたが、鑾は彼らと謀って自分を召還させようとした。ちょうど帝が南巡しようとし、辺境に警報があることを憂慮し、重臣を派遣して巡視させることを議した折、夏言らはそこで鑾を推薦して行辺使を充てさせた。十八年二月、兵部尚書兼右都御史に改め、諸辺の文武の将吏は皆その節制を受けた。かつ国庫の金五十万両を携えて辺軍を犒労し、東西を往復すること三万余里に及んだ。翌年の春に京に入り、そこで原官のまま内閣に入ることを命じられた。大同では総督の毛伯温と議して五堡を築き、甘粛を過ぎる時は総督の劉天和と議して嘉峪関を拡張し、皆蔭叙を受けた。

二十一年、夏言が罷免され、鑾が首輔となった。この時すでに少保・武英殿大学士を加えられ、少傅・謹身殿に進んでいた。厳嵩が初めて入閣した時、鑾は資歴と地位において彼の上にあり、権力は嵩よりはるかに及ばなかったが、嵩は終始鑾を憎み、容れることができなかった。御史の趙大佑が鑾が同年の者に私的な便宜を図ったと弾劾し、吏部尚書の許贊もまた鑾が私書で請託したことを発覚させたが、帝はどちらも問わなかった。ちょうど鑾の子の汝儉・汝孝とその師の崔奇勛の親しい焦清が、二十三年の進士に同時に合格したので、嵩はそこで給事中の王交・王堯日に命じてその不正を弾劾させた。帝は怒り、吏部と都察院に下した。鑾は上疏して弁明し、西苑に入直したことを引き合いに出して自らを弁解した。帝はますます怒り、鑾父子・奇勛・清および分考官の編修彭鳳・歐陽奐を庶民に落とすよう命じ、主考の少詹事江汝璧および郷試主考の諭德秦鳴夏・賛善浦応麒を詔獄に下し、ともに六十回の杖刑に処し、その官を剥奪した。

鑾が初めて政務を補佐した時は、清廉潔白な名声があった。喪に服して家にいた時は、困窮して自ら生計を立てられないほどであった。行辺使として起用された時は、諸辺の文武の大官は皆、郊外に出迎えて贈り物をし、常に鑾の意に沿わないことを恐れ、莫大な賄賂を贈った。任務が完了し、帰りの荷物は千輛に及び、それらを用いて貴近の者に贈り、再び政権を握ることができたが、名声はたちまち衰えた。またその子に累を及ぼされ、ついに再び振るわなかった。三年余りを経て卒去した。七十歳であった。穆宗が即位すると、官位を回復し、文懿と諡された。

李時

李時は、字を宗易といい、任丘の人である。父の棨は進士で、萊州知府となった。李時は弘治十五年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修に任じられた。正徳年間、侍読・右諭徳を歴任した。世宗が即位すると、講官となり、まもなく侍読学士に昇進した。

嘉靖三年、礼部右侍郎に抜擢された。まもなく憂いに服して帰郷した。喪が明けると、戸部右侍郎となった。再び礼部に改められ、まもなく方献夫に代わって尚書となった。帝は尊親の礼を定めた後、慨然として前人を狭小に見る志を持ち、旧章を裁定して一朝の制度を作り上げようとした。張孚敬と夏言が権力を握り、皆変更を好んだ。制定された諸典礼は、皆他人が発端となり、李時がそれに付和雷同して完成させた。あるいは廷議が合わない時は、概ね両論を具申し、帝が自ら選択するのを待ち、終始公然と争うことはなかった。このため帝はその恭順さを愛した。四方から吉祥の兆しが上ると、すぐに上疏して祝賀を請うた。帝が謙譲すると、李時は必ず再び請うた。これによってますます李時を忠実とみなした。銀章を賜り、「忠敏安慎」と刻し、密封して上奏させた。長くしてそれを失い、罪を請うと、帝は再び賜った。十年七月、四郊の祭壇が完成し、太子太保を加えられた。雷が午門を震わせ、彗星が東井に現れると、李時は臣下に勅して反省修養させ、言官に利害と興革を指陳させるよう請うた。帝は建言は科道の専責であるとして、取り上げなかった。光祿寺の厨役王福と錦衣衛の千戸陳昇が、顕陵を天寿山に移すよう請うたが、李時らは強くその不可を述べた。巡検の徐震が安陸に京師を建てるよう上奏したが、李時らはその制度に合わないと駁し、そこで州を承天府に改めることを議した。

その秋、桂萼が卒去し、李時に文淵閣大学士を兼ねさせて機務に参与するよう命じた。この時張孚敬はすでに罷免されており、翟鑾が独りで宰相を務めていた。李時は後から入閣したが、宮保の官が尊いため、かえって鑾の上に立った。二人は共に謙遜で、齟齬はなかった。帝が無逸殿に臨み、李時を召し出して座らせ『無逸篇』を講じさせ、鑾に『豳風・七月』の詩を講じさせ、武定侯の郭勛および九卿翰林が皆侍した。講義が終わると、帝は退いて豳風亭に臨み宴を賜った。これより後、しばしば召し出され、政務について諮問された。

翌年の春、張孚敬が内閣に戻ると、政事は独裁を取るようになり、李時は敢えて評議することができなかった。間もなく、方獻夫が入閣し、李時とも相得た。彗星が再び現れ、帝は李時らを召見し、咎を引き修省する旨を諭し、穏やかに人材の乏しさについて語った。李時らは退出し、安静を務め人材を惜しみ刑獄を慎む三事を条上し、大礼の大獄で廃斥された諸臣にも言及した。帝は優詔で褒めて答えたが、結局用いることはなかった。給事中魏良弼・御史馮恩が先後に吏部尚書汪鋐を弾劾し、帝の怒りに触れたが、李時はいずれも論じて救った。十二年、張孚敬が再び入閣し、翟鑾は憂いで去り、方獻夫は致仕した。李時は張孚敬の後について、拱手して唯諾するのみであったので、張孚敬は安心していた。張孚敬が政を謝し、費宏が再び入閣したが、間もなく卒去し、李時は遂に独り宰相となった。李時は元来寛平であったが、この時益々安静を以て鎮めた。帝も常に便殿で召対し、膝を接して諮詢した。李時は大いに匡救することはなかったが、議論は常に忠厚を本とし、廷論は皆李時を賢と認めた。客星が天棓の傍らに現れ、帝は主とする事応を問うた。答えて曰く、「事応の説は漢の京房に始まり、必ずしも皆合致するとは限りません。ただ人君が徳を修めてこれを消すのみです」と。帝は善しと称した。帝の行幸に扈従して陵を謁し、沙河の道で、帝は住民の蕭索たるを見て、悲しげに曰く、「七陵がここにあるからには、守護を加えるべきである」と。李時は答えて曰く、「昔、邱濬が建議し、京師は四輔を設けるべきで、臨清を南とし、昌平を北とし、薊州・保定を東西とし、各々兵一二万を屯すべきだと申しました。今もし昌平に一総兵を増せば、南は京師を衛り、北は陵寢を護ることができます」と。帝は乃ち廷臣に勘議を下し、沙河に鞏華城を築き、戍を置いた。少傅・太子太師・吏部尚書・華蓋殿大学士を累加された。夏言が入輔すると、李時はこれと抗わず、毎事夏言に推譲し、夏言も安心していた。帝が李時を待遇するのは張孚敬・夏言に及ばなかったが、少しく責め辱しめることはなく、終始廃されることはなかった。張孚敬・夏言も及ぶべくもなかった。十七年十二月、官で卒去し、太傅を贈られ、文康と諡された。

顧鼎臣

顧鼎臣、字は九和、昆山の人。弘治十八年の進士第一。修撰を授かる。正徳初め、再遷して左諭徳となる。嘉靖初め、経筵に直る。範浚の『心箴』を進講し、敷陳して剴切であった。帝は悦び、自ら註釈を為し、顧鼎臣は特に眷を受けた。累官して詹事となる。給事中劉世揚・李仁が顧鼎臣を汚佞と弾劾した。帝は劉世揚らを獄に下したが、顧鼎臣の救いにより、薄譴を得た。礼部右侍郎を拝す。帝は長生術を好み、内殿に斎醮を設けた。顧鼎臣は『歩虚詞』七章を進め、且つ壇中で行うべき事を列上した。帝は優詔で褒めて答え、悉くこれに従った。詞臣が青詞で主君の知を得るのは、顧鼎臣に始まるのである。

吏部左侍郎に改め、詹事府を掌る。曾子の後裔に『五経』博士を授けるよう請い、三氏の子孫に比すことを許された。大同で軍変が起こり、張孚敬は用兵を主としたが、顧鼎臣は不可と上言し、帝は嘉納した。十三年孟冬、廟を享け、顧鼎臣と侍郎霍韜に命じて主を捧げさせた。二人には期功の服があり、辞すべきであった。乃ち上言して曰く、「古礼では、諸侯は期を絶つ。今の公卿は即ち古の諸侯ですから、避けずに済ませてください」と。礼部尚書夏言が極めてその非を詆したので、止んだ。間もなく礼部尚書に進み、仍く府事を掌る。京師に淫雨があり、四方に水災多く、顧鼎臣は饑饉を賑し盗賊を消すよう請い、報可された。

十七年八月、本官のまま文淵閣大学士を兼ねて機務に参与した。間もなく少保・太子太傅を加えられ、武英殿に進む。初め、李時が首輔、夏言がこれに次ぎ、顧鼎臣がまたこれに次いだ。李時が卒去し、夏言が国政を専らにすると、顧鼎臣は元来柔媚で、為すところなく、充位するのみであった。帝が南巡し、皇太子を立てようとし、夏言に命じて扈行させ、顧鼎臣に太子を輔けて監国させた。御史蕭祥曜が吏部侍郎張潮が顧鼎臣の嘱託を受けて、刑部主事陸昆を吏部に調任させたと弾劾した。張潮は言う、「兵部主事馬承学が顧鼎臣と縁故があることを恃み、必ずや銓曹を得ると自ら詭したので、臣は敢えて馬承学を抑えて陸昆を用いたのです」と。帝は馬承学を詔獄に下したが、顧鼎臣は問わなかった。十九年十月、官で卒去し、年六十八。太保を贈られ、文康と諡された。

顧鼎臣が侍従の官にあった時、東南の賦役が均しからぬことを憫み、屡々その弊を陳べ、帝は撫按に飭した。巡撫歐陽鐸がこれを厘定した。昆山には城がなく、当事者に言って城を築かせた。後、倭乱が起こり、昆山は全きを得たので、郷人は祠を立てて祀った。

厳訥

厳訥、字は敏卿、常熟の人。郷試に挙げられたが、主司の試録が禁忌に触れたため、一榜皆会試に及第できなかった。嘉靖二十年に進士となり、庶吉士に改め、編修を授かり、侍読に遷る。三呉は数度倭患に遭い、歳また大いに凶作となり、民は死に徙ること半ばに及び、有司の征斂は益々急であった。厳訥は民の困窮を疏陳し、蠲免と貸付を請うた。帝は疏を得て感動し、その請いの通りに報じた。間もなく李春芳と共に西苑に入直した。青詞を撰し、超授されて翰林学士となる。太常少卿を歴任し、礼部左・右侍郎、吏部に改め、皆学士を兼ね、仍く西苑に直る。撰する青詞は皆旨に称した。礼部尚書郭樸が吏部に遷ると、乃ち厳訥を以てこれに代えた。郭樸が父喪に遭い、再び代わって吏部尚書となった。厳嵩が国政を執ると、吏道は汚雑であった。厳嵩が敗れ、郭樸が銓衡を典しても未だ尽く変えることができなかった。厳訥は雅意自ら飭し、徐階も推心してこれを任じた。厳訥は乃ち朝士と約し、事があれば朝房で白状し、私邸に謁するなと。曹郎を慎択し、奔競を抑え、淹滞を振るうことに務めた。又、資格が余りに拘るため、人材を尽くせず、先朝の三途並用法に倣い、州県吏で政績異なる者は破格に超擢し、銓政は一新した。間もなく供奉の労を録し、太子太保を加えられた。

四十四年、袁煒が罷められ、武英殿大学士を兼ねて機務に参与するよう命じられた。代わる者郭樸が未だ至らぬため、仍く銓政を掌った。帝は西苑に斎居し、侍臣の直廬は皆苑中にあった。厳訥は朝に出て部事を理め、暮れに直廬に宿し、青詞を供奉し、小心謹畏して、病に至り久しく癒えなかった。その年の冬十一月、遂に帰ることを乞うた。翌年、世宗が崩じ、遂に再び出仕しなかった。

厳訥が既に郷里に帰ると、父母は皆健在であった。朝夕潔かな餐を孝養し、人は栄えと為した。厳訥は嘗て人に語って曰く、「銓臣と輔臣は必ず同心でなければ事が成ります。私が銓衡を掌ること二年、丁度華亭(徐階)が国政を執り、事に阻まること無く。且つ任じた選郎が賢で、挙げるに人を失うことがありませんでした」と。華亭とは徐階を謂い、選郎とは陸光祖である。家に居ること二十年で卒去し、年七十四。少保を贈られ、文靖と諡された。

附 袁煒

袁煒、字は懋中、慈渓の人。嘉靖十七年会試第一、殿試第三、編修を授かる。袁煒は性行不羈で、御史包孝に弾劾されたが、帝は宥って罪としなかった。侍読に進む。久しくして、簡抜されて西苑に直る。青詞を撰し、最も旨に称した。三十五年、閣臣が修撰全元立を推して南京翰林院を掌らせようとしたが、帝は特に袁煒を用いた。袁煒は疏を上って辞し、故官のまま供奉を願った。帝は大喜し、直ちに袁煒を侍講学士に擢げた。僅か二月で、手詔を以て礼部右侍郎を拝した。明年、太子賓客兼学士を加えられ、一品服を賜う。三十九年、再び供奉の恩で俸を二等加えられ、間もなく左侍郎に進む。明年二月、吏部に調じ、兼官供奉は元の如し。一月余りを経て礼部尚書に遷り、太子少保を加えられ、仍く入直を命じられた。袁煒は供奉以後、六年の間に宮保・尚書に進み、前代未聞であった。

先に二月朔、日食微陰あり、煒は救護すべからずと言う。礼部尚書吳山従わず、譴責を得て去る。帝煒の言を聞きて善しとし、遂に山に代わる。七月朔に及び、また日食あり。歴官、食止一分五杪なりと言い、例にて救護を免ず。煒乃ち帝の意に阿りて上疏し言う、「陛下は父を以て天に事え、兄を以て日に事え、群陰退伏し、万象輝華す。是を以て太陽晶明、氛祲銷爍し、食止一分、食せざると同じ。臣等欣忭に勝えず」と。疏入り、帝益々喜ぶ。其の冬、遂に戸部尚書兼武英殿大学士を以て入閣し機務を典するを命ず。累ねて少傅兼太子太傅・建極殿大学士を加う。四十四年春、疾篤く、仮を請いて帰り、道に卒す。年五十八。少師を贈り、文榮と謚す。

煒は才思敏捷なり。帝中夜に片紙を出だし、青詞を撰せしむるを命ずれば、筆を挙げて立ち成る。中外献瑞に遇えば、輒ち極詞を以て頌美す。帝一猫を畜いて死す、儒臣に命じて詞を撰し以て醮せしむ。煒の詞に「獅を化して龍と作す」の語あり、帝大いに喜悦す。其の詭詞媚上、多く此の類し。以て故に帝急に枋用し、恩賜稠疊、他人敢えて望む莫し。

嘉靖中年より、帝専ら焚修を事とし、詞臣率ね青詞を供奉す。工なる者は立って超擢し、卒に至りて入閣す。時に李春芳・厳訥・郭樸及び煒を「青詞宰相」と謂う。而して煒は貴倨鮮淟、故に徐階の門を出づるも、直に気を以て之を凌ぐ。階と同《承天大志》を総裁し、諸学士稿を呈すれば、煒竄改殆んど尽くし、以て階に譲らず。諸学士平らからず、階第に曰く任すのみと。其の後煒死し、階も亦尽く之を竄改す。煒自ら能文を負い、他人の作するを見て、稍々意に当たらずとすれば、輒ち肆に詆誚す。館閣の士其の門を出づる者は、斥辱尤も堪えず、以て故に人皆畏れて之を悪む。

李春芳

李春芳、字は子実、揚州興化の人。嘉靖二十六年進士第一に挙げられ、修撰を除く。簡にて西苑に入り青詞を撰し、大いに帝の眷を受く。侍読厳訥と共に超擢して翰林学士となる。尋ち太常少卿に遷り、礼部右侍郎を拝し、倶に学士を兼ね、直西苑は故の如し。部事を佐理し、左侍郎に進み、吏部に転じ、訥に代わり礼部尚書となる。時に宗室蕃衍し、歳禄苦しく継がず。春芳故事を考へ、書を為して之を上る。諸吉凶大礼及び歳時の給賜、皆厳に之が制を為す。帝之を嘉し、《宗藩条例》と名を賜う。尋ち太子太保を加う。四十四年武英殿大学士を兼ねるを命じ、訥と並び機務に参ず。世宗直に侍する諸臣を眷すること厚く、凡そ遷除は皆特旨に出づ。春芳学士より柄政に至るまで、凡そ六遷し、嘗て一たびも廷推に由ること無し。

春芳は恭慎、勢を以て人を凌がず。政府に居りて論を平らかに持ち、操切を事とせず、時人李時に比す。其の才力は及ばざるも、而して廉潔は之に過ぐ。時に徐階首輔と為り、君を得ること甚だし。春芳毎事必ず階を推し、階も亦雅く之を重んず。隆慶元年春、詔有りて翔鳳楼を修す。春芳曰く、「上新に即位し、而して遽に土木を興す、可ならんや」と。事遂に止む。

斉康の徐階を劾するや、語春芳を侵す。春芳疏を上り弁じて去らんことを求め、帝之を慰留す。階に代わり首輔と為るに及び、益々安静を務め、帝の意に称す。時に同列する者陳以勤・張居正。以勤は端謹、而して居正は才を恃み物を凌ぎ、春芳を蔑如として視る。初め階人言に以て罷まる。春芳嘆きて曰く、「徐公尚お爾り、我安んぞ能く久しからん。容れずんば旦夕に身を乞わん」と。居正遽かに曰く、「此くの如くせば、庶幾く令名を保たん」と。春芳愕然とし、三たび疏を上りて休を乞うも、帝允さず。既にして趙貞吉入りて以勤に代わる。剛にして気を負う。高拱再び直に入るに及び、春芳を凌ぎて其の上に出づ。春芳争う能わず、謹みて自ら飭うのみ。俺答塞に款き封を求めしに、春芳拱・居正に偕にして即ち帝の前に之を決す。会に貞吉拱の為に逐われ、拱益々張り、階の故怨を修む。春芳嘗て従容として階の為に解く。拱益々悦ばず。時に春芳已に累ねて少師兼太子太師を加えられ、吏部尚書に進み、中極殿に改まる。拱輩終に己を容れざるを度り、両たび疏を上りて帰養を請うも、允さず。南京給事中王禎拱の意を希い、疏を上りて之を詆す。春芳去らんことを求むること益々力む。勅を賜い乗伝し、官を遣わし護行せしめ、有司夫廩を給すること故事の如し。一歳を閲り、拱復た居正の為に擠せられ、幾くにか免れず。而して春芳帰る。父母尚お恙無く、晨夕酒食を置きて楽しましむ。郷里之を艶む。父母歿すること数年にして乃ち卒す。年七十五。太師を贈り、文定と謚す。

附 孫思誠等

孫思誠、天啓六年礼部尚書に官し、尋ち罷む。崇禎初、頌榼に坐し閑住す。

思誠の孫清、字は映碧。崇禎四年進士。寧波推官より擢て刑科給事中と為る。熊文燦張献忠を撫す。清其の失策を論ず。久旱を以て刑を寛むるを請い、旨に忤い、浙江按察司照磨に貶せらる。未だ赴かず、憂いて帰る。起きて吏科給事中と為る。俄に淮府を封ずるに出で、国変に与せず。福王の時、開国の名臣及び武・熹両朝の忠諫諸臣を追謚するを請う。是に於て李善長等十四人・陸震等十四人・左光斗等九人並びに謚を得る。

春芳の曾孫信、広東平和知県。城破れ、二子泓遠・淑遠と同時に死す。

陳以勤

陳以勤、字は逸甫、南充の人。嘉靖二十年進士。庶吉士に選ばれ、検討を授かる。久しくして裕王の講官に充つ。修撰に遷り、洗馬に進む。時に東宮の位号未だ定まらず、群小多く釁を構う。世宗父子に於て素より薄く、王歳時に燕見を得ず。常祿の外、例に給賜有るも、王も亦敢えて請わず。三歳を積み、邸中甚だ窘し。王の左右千金を以て厳世蕃に賄う。世蕃喜び、以て戸部に属し、並びに三歳の資を得て給す。然れども世蕃常に自ら疑う。一日人を屏いて以勤及び高拱に語りて曰く、「殿下近く惑志有りと聞く、家大人を謂うや如何」と。拱故に謔語を為す。以勤正色して曰く、「国本黙定すること久し。生めて名を命ずるに、後に従い土に従う、首めて九域に出づ、此れ君の意なり。故事、諸王の講官は止だ検討を用う。今編修を兼ね用う、独り他邸に異なり、此れ相の意なり。殿下毎に首輔を社稷の臣と謂う、君安んぞ従りて此の言を受く」と。世蕃黙然として去る。裕邸乃ち安んず。

講官と為ること九年、羽翼の功有り。而して深く自ら晦匿す。王嘗て「忠貞」の二字を書して之を賜う。父喪除き、還りて侍読学士と為り、翰林院を掌る。太常卿に進み、国子監を領す。礼部右侍郎に擢で、尋ち左に転じ、吏部に改まり、詹事府を掌る。

穆宗が即位すると、陳以勤は潜邸の旧臣として自ら十箇条の謹始の事を上奏し、志を定め、位を保ち、天を畏れ、祖を法とし、民を愛し、儉を崇め、権を攬り、人を用い、下に接し、言を聴くことを述べた。その権を攬り言を聴くことについての言は特に切実であった。詔してその忠懇を嘉した。隆慶元年春、礼部尚書兼文淵閣大学士に抜擢され、機務に参与した。累進して少傅兼太子太傅に加えられ、武英殿に改めた。穆宗の朝講は稀で、政務に裁決なく、近幸の多くは内降を縁として厚恩を得た。以勤は励精して政を修めることを請うた。帝は心動き、挙措を行おうとしたが、ついに内侍に阻まれ、上疏もまた中に留められた。四年、時務の因循の弊を条上し、擢用を慎しみ、久任を酌み、贓吏を治め、用人を広め、民兵を練り、農穀を重んずることを請うた。帝はこれを嘉し、所司に下して議させた。高拱が吏部を掌ると、その言が己の職を侵すのを憎み、その奏を寝かせ、ただ都察院が贓吏一事を議して行うのみであった。

初め、以勤が内閣に入った時、徐階が首輔であり、高拱がまさに用いられようとし、朝士はそれぞれ付くところがあり、互いに攻撃した。以勤は中立で比する所なく、また私党もなく、ついに徐階と高拱が去っても、誹謗されることはなかった。高拱が再び入閣すると、趙貞吉と相軋み、張居正がまた中でこれを構えた。以勤は高拱の旧僚であり、貞吉はその同郷人であり、居正は挙げた士であるので、和解できないと度り、ついに諸人に容れられないことを恐れ、力疾を引いて罷免を求めた。そこで太子太師・吏部尚書を兼ね、勅を賜り駅伝で帰り、詔してその子の編修陳於陛に従行させた。後二年、高拱は逐われ、倉皇として国門を出て、嘆いて言った、「南充(陳以勤)は哲人である」。以勤は帰って十年、七十歳となった。再び上方の銀幣を頒ち、於陛に命じて馳せ帰ってこれを賜り、かつ有司に命じて存問させた。さらに六年して卒した。太保を贈られ、文端と諡された。於陛は別に伝がある。

趙貞吉

趙貞吉、字は孟靜、内江の人。六歳で日に書物一卷を誦した。成長すると、博洽をもって名を知られた。最も王守仁の学を善とした。嘉靖十四年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、編修を授かった。時に方士が初めて進用され、貞吉は真儒を求めて大業を賛えることを請うた。執政は喜ばず、よって急を請うて帰った。朝に還り中允に遷り、司業事を掌った。

俺答が都城に迫り、侮慢の書で貢を求めた。詔して百官に廷議させ、貞吉は袖を奮って大言した、「城下の盟は、『春秋』がこれを恥じる。すでに貢を許せば必ず城に入り、もし要索が已まなければ、どうするか」。徐階が言った、「君には必ず良策があるだろう」。貞吉は言った、「今の計としては、至尊に速やかに正殿に御し、詔を下して咎を引くことを請う。周尚文の功を録して辺帥を励まし、沈束を獄から出して言路を開き、損軍の令を軽くし、賞功の格を重くし、官を遣わして諸将に宣諭し、監督して力戦させれば、敵を退けるは容易である」。時に帝は中使を遣わして廷臣の間を探らせ、日中になっても一語も発する者なし。貞吉の言を聞き、心にこれを壮とし、厳嵩に諭して言った、「貞吉の言は是であるが、ただ周尚文・沈束の事に及ぶべきではない」。左順門に召し入れて、便宜を手疏することを命じた。直ちに左諭徳兼監察御史に抜擢し、勅を奉じて諸軍に宣諭させた。白金五万両を与え、随宜に労賞するに任せた。初め、貞吉は廷議を罷め、盛気で厳嵩に謁した。嵩は辞して会わず、貞吉は怒って門者を叱った。ちょうど趙文華が至り、貞吉はまたこれを叱った。嵩は大いに恨んだ。勅を撰するに及んで、督戦させず、その権を軽くし、かつ一卒も護行させなかった。時に敵騎が充満し、貞吉は馳せて諸将の営に入り、金を散じて士卒を犒い、徳意を宣諭し、明日すなわち復命した。帝は大怒し、貞吉は区画なく、徒らに尚文・束のために遊説すると言った。詔獄に下し、廷で杖ち、荔波典史に貶した。稍く遷って徽州通判となり、進んで南京吏部主事となった。

四十年、戸部右侍郎に遷った。廷議で大臣を薊州に遣わして餉を督し兵を練らせようとし、厳嵩は貞吉を用いようとし、召し飲んで意を示した。貞吉は言った、「督餉とは、京運を督するのか、民運を督するのか。もし二運にすでに職掌があれば、官を添えるは徒らに擾乱を増すのみ。況んや兵の練られざるは、その過ちは宜しくここに在るべからず、たとえ十人の戸部侍郎が出ても、何が兵を練るのに益せん」。嵩は怫然としてやめた。ちょうど嵩が告を請うたので、吏部は倉場侍郎林応亮を用いた。嵩が出ると、ますます怒った。都給事中張益に命じて応亮を弾劾させ、南京に調し、代わりに僉都御史霍冀を用いた。張益はまた言った、「督餉は戸部の専職である。今貞吉と左侍郎劉大賓は廷推に及ばず、これは職を尽くさぬことなり、罷めるべし」。ここにおいて二人とも官を奪われた。

隆慶初め、礼部左侍郎として起用され、詹事府を掌った。穆宗が太学に幸すると、祭酒胡傑がちょうど論罷されていたので、貞吉に摂事させた。『大禹謨』を講じて旨に称し、日講官を充てることを命じられた。貞吉は年六十を超えていたが、議論は侃侃として直く、進退に儀があり、帝は深く注意を注がれた。まもなく南京礼部尚書に遷った。既に行くと、帝はこれを思い、なお直講に留めた。三年秋、文淵閣大学士を兼ねて機務に参与することを命じられた。貞吉は入って謝し、奏上した、「朝綱辺務一切廃弛し、臣は躯を捐げて事に任せんと欲す、惟だ陛下これを主たれ」。帝はますます喜んだ。ちょうど寇が大同に入り、総兵官趙岢が事を失い、総督陳其学は反って捷を以て聞こえ、御史燕如宦に発覚された。貞吉は重罰に置こうとしたが、兵部尚書霍冀は僅かに秩を貶すことを議した。貞吉は同官と争って得ず、よって上言した、「辺帥が律を失えば、祖宗の法具在す。今当事者が法を屈して人に徇えば、公論を如何にせん。臣老いたり、忠を効する術なく、罷むることを賜わらんことを乞う」。許さなかった。まもなく太子太保を加えられた。貞吉は先朝の禁軍が三大営を列ね、各営に帥があったが、今一人が三営を総べるは、権重く制し難しと考えた。よってその弊を極言し、五営に分け、各大将に統させ、稍く祖宗の旧に復することを請うた。帝はこれを善とし、兵部に命じて廷臣と議させた。尚書霍冀は前に貞吉と議が合わず、その言を頗る然としなかった。廷臣もまた多く強兵は将を択ぶに在り、法を変えるに在らずと言った。霍冀らは乃ち三大営は宜しく故の如くすべしと上議した。ただ一人を総督とするは権太重く、宜しく三営各一大将を設け、総督を罷め、文臣を総理とすべし。報じて可とした。

初め、給事中楊镕が霍冀の貪庸を弾劾した。帝はすでに霍冀を留めたが、霍冀は楊镕が貞吉の郷人であるので、貞吉の意より出たと疑い、疏を辨じて罷むることを乞い、かつ貞吉を誹謗した。貞吉もまた疏を辨じて去ることを求めた。詔して貞吉を留め、霍冀の官を褫った。その後、営制は屡々改まり、年を逾えずして即ちその旧に復し、貞吉もまた争うことができなかった。俺答が塞に款して封を求めるに、貞吉は力を込めてその議を賛成した。

先に、高拱が再び内閣に入ると即座に吏部を掌った。趙貞吉は李春芳に言上し、都察院を掌ることも得た。高拱は私怨により科道官の考察を行おうとした。貞吉は同僚と共に上疏して言う、「近ごろ御史葉夢熊が事を言上して旨に逆らい、陛下は言官を考核するよう厳命され、昇任した者や在籍の者にも及ぼされた。考察すべき者は近く二百人に及ぶが、その中に忠を懐き主に報い、諤諤として敢言する士がいないはずがあろうか。今一様に放肆奸邪の罪を科せば、司る者が奉行過当に陥り、忠と邪を分かたず、言路を塞ぎ士気を沮喪させ、国家の福とならぬと恐れます」。帝は従わなかった。高拱は貞吉が内情を得たと思い、恨みを深くした。考察に及んで、高拱は貞吉が厚遇する者を除こうとし、貞吉もまた高拱が厚遇する者を引き合いに出して弁じた。ここにて斥退された者は二十七人で、高拱が憎む者は皆これに加えられた。高拱はなお憾みとし、門下の給事中韓楫を唆して貞吉を庸横と弾劾させ、考察時に私心ありとさせた。貞吉は疏を上って弁明し休職を乞い、かつ言う、「臣が院務を掌って以来、ただ考察一事において高拱と相違したのみである。その他の選法を壊乱し、縦肆に奸をなすこと、耳目に昭然たるものについて、臣は口を噤んで一言もできず、任使に背き、臣は真に庸臣である。高拱のような者こそ、まさに横と言うべきである。臣が放帰された後、幸いにも高拱を内閣に還らせ、久しく大権を専らにさせず、広く衆党を樹てさせぬよう」。疏が入ると、ついに貞吉の去職を許し、高拱は吏部の権を握ることを従前の如くとした。

貞吉は学識博く才高かった。しかし剛直を好み気性を振るい、動くごとに物事と齟齬した。九列の大臣に対しても、あるいは名を呼び捨てにし、人もまたこれを以て多く怨んだ。高拱、張居正は名声・輩行ともに貞吉より後でありながら、進用は先んじた。皆才を負って勝ちを好み互いに譲らず、ついに齟齬して去った。万暦十年に卒し、少保を贈られ、文粛と諡された。

附 殷士儋

殷士儋、字は正甫、歴城の人。嘉靖二十六年の進士。庶吉士に選ばれ、検討を授かる。久しくして、裕王の講官を充たす。凡そ君徳治道に関することは、常に危言激論し、王は色を動かした。右賛善に遷り、洗馬に進み、論議は従前の如く直諫した。隆慶元年に侍読学士に抜擢され、翰林院を掌り、礼部右侍郎に進み、間もなく吏部に改める。翌年春、礼部尚書に拝され、詹事府事を掌る。その冬、部事の処理に戻る。四年正月の朔望、日月ともに食した。士儋は疏を上って布徳、緩刑、納諫、節用を請い、内外の臣工に民瘼を講求せしめるよう命じた。聞き届けられた。旧恩により、太子太保に進む。当時寒暑には皆講義を罷めていたが、士儋は故事の如く、四季を通じて絶やさず、併せて『祖訓』及び『大学衍義』、『貞観政要』を進講するよう請うた。帝は嘉納した。

初め世宗が宗藩条例を定め、親王に後嗣なくば、兄弟及び兄弟の子を以て嗣がせ、傍系を以て継がせぬとした。嘉靖末、粛懐王が薨じ、子がなかった。その大母定王妃が輔国将軍縉〓貴を以て嗣がせるよう請うたが、礼部は縉〓貴は実は懐王の従叔であり、承祧できぬと議した。詔して将軍に府事を摂行させることを許した。帝が即位すると、王妃が再び請願し、前尚書高儀は執って不可とした。縉〓貴は中官に重賄し、宗人に属して奏上させ、必ず得んことを祈った。士儋は強くこれを堅持した。帝は粛藩が遠塞に在り、王とせねば鎮撫できぬとして、遂に縉〓貴の継承を許した。士儋は争って言う、「粛府は甘州から蘭州に移り、実は内地である。かつ別に郡王の賢者を選んで府事を治めさせ、私請に従って条例を壊すことなきよう」。しかし帝の意志は堅く奪い難かった。士儋は乃ち郡王に封ずるよう請うたが、諸宗は率いてこの令に従って事を行い、帝は終に許さなかった。故事により、郊祀の後、慶成宴を挙行する。世宗が倦勤して以来、典礼は久しく廃されていた。帝が即位して三年、未だ挙行せず、士儋が初めて旧儀を考定してこれを行った。十一月、本官のまま文淵閣大学士を兼ねて内閣に入り事を辦するよう命ぜられる。間もなく俺答の封事が成り、少保に進み、武英殿に改める。

初め士儋は陳以勤、高拱、張居正と共に裕邸の僚属となり、三人は皆権柄を用いたが、士儋は尚書のままであり、望みなきにしも非ずであった。高拱は平素張四維と親しく、共に政事に引き入れようとしたが、士儋が己に親しまぬことを憎み、援けとしなかった。士儋は遂に太監陳洪の力を藉り、中旨を取って内閣に入り、故に高拱及び四維を怨んだ。四維の父が塩利を擅にし、御史郜永春に弾劾された。事は既に解けたが、他の御史がまたこれに及んだ。高拱、四維は士儋の指嗾によるものと疑い、ますます互いに構えた。御史趙応龍は遂に士儋を弾劾し、進用は陳洪によるもので、大政に参与すべからずとした。士儋は再び弁明して去職を求め、許されなかった。高拱の門下の都給事中韓楫がまた揚言して脅すと、士儋もまた高拱の指嗾によるものと疑った。故事により、給事中は朔望に内閣に入り会揖すべきであった。士儋は面と向かって韓楫を詰問し、「君が我に憾みあると聞く、憾みは自ら然るべし、他人の使嗾となるなかれ」と言った。高拱が「体をなさぬ」と言うと、士儋は勃然として起ち、高拱を罵って言う、「汝は陳公を逐い、趙公を逐い、また李公を逐い、今また四維のために我を逐おうとする、汝は常にこの座を保ち得るのか」。奮臂して殴ろうとした。居正が傍らから和解し、また罵り返した。御史侯居良がまた士儋を弾劾し、始めの進用が正しからず、退くを求めて勇ましからぬとした。士儋は再び疏を上って請うこと益々力め、乃ち道里費を賜い、駅伝に乗じて帰り、官司は故事の如く稟隸を給した。家居すること十一年で卒した。当時居正は垂没し、四維が政を執り、士儋を怨んだ。太保を贈られ、文通と諡された。久しくして、文庄と改諡された。

高儀

高儀、字は子象、銭塘の人。嘉靖二十年の進士。庶吉士に選ばれ、編修を授かる。侍講学士を歴任し、南京翰林院を掌る。召されて太常卿となり、国子監事を掌る。礼部右侍郎に抜擢され、吏部に改め、庶吉士を教習する。四十五年に高拱に代わって礼部尚書となる。穆宗が即位し、諸大典礼は皆高儀の酌定するところとなった。世宗の遺命により、郊社及び祔享祔葬の諸礼は、悉く祖制を稽えて更定することとなった。高儀は乃ち廷臣を会して議し、天地分祀は改めず、先農を祭った以上は再び西苑で祈穀すべからず、帝社・帝稷・睿宗の明堂配天と玉芝宮の専祀は廃すべく、孝潔皇后は廟に祔し、孝烈は別に他所で祀るべしとした。帝は皆報可した。既にして中官李芳がまた洪武の制の如く天地合祀を請い、御史張槚が皇極諸殿の名を改め、尽く旧に復するよう請うたが、高儀は皆堅持して不可とした。帝が践祚して四月、未だ大臣を召対せず、高儀は屡々請うた。隆慶二年正月太廟を饗するに当たり、帝は代行を遣わそうとしたが、高儀は僚属と共に諫め、閣臣もまた言上し、乃ち礼の如く親祀した。慶府輔国将軍縉〓貴が王爵を襲ぐるを請うたが、高儀は執って従わなかった。太子が七歳になると、高儀は疏を上って出閣を請い、帝は十歳を待ってこれを行うよう命じた。詔して光禄の銀二十万両を取ろうとしたが、高儀は力爭した。初め、世宗が道教を崇め、太常に濫員が多かったが、高儀は四十八人を汰するよう奏上した。寺卿陳慶が供事に欠乏ありと奏したが、高儀は堅持して不可とした。礼部を掌ること四年、毎年暮れに四方の災異を類奏し、事に遇えば礼に秉し法に循い、職に居ること甚だ称された。病を引く章を六度上り、終に見留められた。御史傅寵が先帝の時に文を撰して壇を叩いた事を以て高儀を弾劾すると、高儀は四度疏を上って去りを求め、乃ち太子少保を加えられ駅伝に乗じて帰った。

帰ること二年、高拱の推薦により、故官のまま東宮の講読に侍し、詹事府を掌るよう命ぜられる。六年四月、詔して文淵閣大学士を兼ねて内閣に入り事を辦する。一月余りして、帝が崩じ、顧命に預かる。高拱が張居正に逐われると、高儀は既に病んでおり、太息するのみであった。間もなく卒す。太子太保を贈られ、文端と諡された。

高儀は性質簡静で、嗜欲寡く、室に妾媵無し。旧廬は火災で焼け、終身人の館を仮りた。没するに及んで、殆ど殮うるもの無かりき。

賛に曰く、費宏らは皆文学より起家し、宰相の位に至る。宏は錢寧を退け、宸濠を拒み、張・桂に忤い、再び躓き再び起き、終に清誉を損なうこと無し。李時・翟鑾は皆才望を負うも、鑾は晚節振るわず。貞吉は気を負いて自ら高しとすれども、傾軋の勢いに処して、即ち委蛇せば、庸くんぞ免れんや。顧鼎臣らは廟堂に雍容たり、遭逢の盛を極むるというべし。而して陳以勤は誠心を以て輔導し、献納多く良し。後賢美を済し、相次いで相位に登る。明の世を終わるまで、韋・平と称せられるは、以勤父子を数う。天の之に報いること、何ぞ其れ厚きや。