明史

列傳第七十七 李文祥 孫磐 胡爟 羅僑 葉釗 戴冠 黃鞏 陸震 夏良勝 何遵

列傳第七十七 李文祥・孫磐・徐珪・胡爟・周時從・王雄・羅僑・葉釗・劉天麒・戴冠・黃鞏・陸震・夏良勝・萬潮等・何遵・劉校等

李文祥、字は天瑞、麻城の人。祖父の正芳は、山西布政使。父は、陝西參政。文祥は幼少より俊秀異なり。弱冠にして郷挙に挙げられ、成化の末に進士に登第す。萬安が国政を執るや、その才を重んじ、孫の弘璧が同榜であったので、家に款待すれども、文祥の意は満足せず。画鳩に題するに属し、言葉に諷刺を含み、安は深くこれを恨む。未幾、孝宗が位を嗣ぐや、即ち封事を上り、おおよそ曰く、

祖宗は内閣・六部を設け、万機を補佐し、庶務を処理せしむ。職は至って重し。頃者、在位の者多く匪人にて、権は内侍に移る。賞罰はその喜怒に任せ、禍福はその転移を聴く。言官を仇視し、公然と賄賂を行ふ。これに阿る者は交引して驟遷し、これに忤うる者は巧に讒して遠竄す。朝野寒心し、道路側目す。願わくは陛下、密かに渠魁を察し、明らかに国憲を彰し、謹厚なる者を選び供使令せしめよ。更に大臣を博選し、治理を諮諏し、推心して委任し、嫌疑を復たせざれば、然る後に体統正しくして近習肆ふことを得ざるなり。

祖宗の律を定むるや、軽重適宜なり。頃、法司は専ら己が私に徇い、国典を恤みず。豪強なる者は重きも必ず寬し、貧弱なる者は軽きも必ず罪す。奸宄に恵み及び、玩俗を養成す。兼ねて風尚奢麗、礼制蕩然たり。豪民は王者の居を僭し、富室は公侯の服を擬す。奇技淫巧、上下同流す。願わくは陛下、旧章を申明し、法曹をして律令に遵わしめ、臣庶をして各々等威を守らしめよ。然る後に礼法明らかにして人心玩ぶことを敢えざるなり。

然れども国に其人無くば、誰と共に理せん。致仕の尚書王恕・王竑は、孤忠自ら許し、齒力未だ衰えず。南京主事林俊・思南通判王純は、剛方躬を植え、才品兼ねて茂り。願わくは陛下、列を朝端に起し、その議論を資けよ。必ず裨益有り、明時を翊ぐべし。且つ賢才は得難し、古より然り。習俗人を移すは、豪傑も免れず。惟だこの臣庶、尽く庸愚ならず。能く自愧を知れば、即ち名流に属し、その危災を楽めば、乃ち猥品と為る。願わくは陛下、群倫を明察し、その上を罔き私を営み天に違ひ物を蠹する者を罷めよ。余は則ち自新を以て勉めしめよ。既に改過の路を開かば、必ず遷善の人多くせん。

臣、登極の詔書に見るに、風聞を以て事を言うを許さず。古の聖王は鼓を懸け木を設け、自ら誹謗を求む。言うこと縦えその情に非ずとも、聴く者も亦た戒めと為るに足る。何ぞ国に害あらん、遽かにこれを罪せんと欲するや。昔、李林甫これを持して唐を禍し、王安石これを持して宋を禍す。遠近驟聞し、驚駭せざる莫し。願わくは陛下、再び明詔を頒ち、直言を広く求めよ。庶幾くは奸謀に堕せず、聖徳を彰すに足らん。大率君子の言は決して小人の利に非ず。諮問倘ひ及びば、必ず中傷を肆にす。若し疑う所あらば、請う試みに対面せしめよ。

疏奏す。宦官及び執政の萬安・劉吉・尹直等皆これを悪み、数日下さず。忽ち詔して左順門に詣でしめ、疏内に「中興再造」の語有るを以て、旨を伝えて詰責す。文祥従容として辨析して出づ。謫せられて陝西咸寧丞を授く。南京主事夏崇文論じて救うも、納れられず。工部主事莆田の林沂復た文祥及び湯鼐を召し、崇文の言を納れ、且つ陳献章・謝鐸等を召さんことを請う。時に安は已に去り、吉・直帝の怒りを激し、厳旨を以て切責す。廷臣多く文祥を薦むるも、率ね吉・直の沮ぶる所と為る。

弘治二年、王恕の薦めにより召されて兵部主事と為る。監司以下饋贐するも皆納れず。官に到ること未だ一月を踰えず、復た吉人の事を以て獄に下り、貴州興隆衛經歷に貶せらる。都御史鄧廷瓚苗を征するに、兵事を以て諮り、大いにこれを奇とし、監司に薦めんと欲す。文祥曰く、「昔は言事を以て出で、今は軍功を以て進む、不可なり」と。固く辞すれども得ず、乃ち表を齎して都に入り、固く告帰を乞う。疏再び上るも、許さず。還りて商城を経るに、氷を渡りて陥り、死す。年僅か三十。

孫磐、遼陽の人。弘治九年進士。観政部に在る時、刑部典吏徐珪、満倉児の事を以て中官楊鵬を劾して罪を得たり。磐上疏して曰く、「近く諫官は言うことを以て諱み、而して寵倖を排し権奸に触るる者は乃ち胥吏に在り。臣窃にこれを羞ず。請う建言する者を四等に定めん。最上は患害を避けず、権貴を抗弾する者。其次は清を揚げ濁を激し、能く闕を補い遺を拾う者。又その次は、時政に建白し、軍国に裨益有る者。皆分別して擢叙すべし。而して文具を粉飾し、循黙して言わざる者は、則ち罷黜すべし。庶幾くは言官警めを知り、曠鳷に至らざらん」と。時に用いられず。

徐珪は、応城の人である。先に、千戸の呉能が娘の満倉児を媒人に託して楽婦の張に売り渡し、「周皇親の家である」と偽らせた。後に転売されて楽工の袁璘のところに行った。能が死ぬと、妻の聶が訪ねて娘を見つけた。娘は母が自分を売ったことを怨み、自分は母ではないと偽って言った。聶は息子と共に娘を奪い返した。璘が刑部に訴えると、郎中の丁哲、員外郎の王爵が取り調べて実情を得た。璘の言葉が不遜であったので、哲は璘を笞打ち、数日後に死んだ。御史の陳玉、主事の孔琦が璘の死体を検分し、埋葬した。東廠の中官楊鵬の従子がかつて娘と淫らな関係にあり、璘の妻に冤罪を訴えさせて鵬に教え、また張に娘を妹だと指摘させ、さらに賈校尉こういに命じて娘に属するよう張と同じことを言わせた。媒人は遂に聶の娘は以前に周皇親に売られたと言った。奏上は鎮撫司に下り、哲、爵らに罪を科した。再び法司、錦衣衛に下って審議させ、娘を皇親周彧の家に求めさせたが、いなかった。再び府部大臣及び給事、御史に命じて朝廷で審問させると、張と娘は初めて実情を吐露した。都察院が奏上したところ、哲は公務で人を杖打ち死なせたので、罪は徒刑に当たる。爵、玉、琦及び聶の母女は杖刑に当たる。獄が上奏されると、珪は憤慨し、抗疏して言った。「聶女の獄は、哲が審理して明らかにした。鵬は聶を拷問して誣服させ、鎮撫司は共に欺瞞を隠蔽した。陛下が法司、錦衣に会審させたが、東廠を恐れて誰も明らかにせず、朝廷で審問して初めて隠せなくなった。娘が母を誣告したのに僅かに杖刑を擬し、哲らは無罪なのに反って徒刑を加える。軽重がこのように倒錯しているのは、全て東廠の威圧によるものである。臣が刑部にいた三年間、盗賊の審問を見たが、多くは東廠鎮撫司が捕獲したもので、校尉が誣陷したと言うもの、校尉が人のために仇を討ったと言うもの、校尉が首悪の贓物を受け取って従犯とし、傍人に罪を負わせたと言うものがあった。刑官はその実情を見抜いていたが、一字も勝手に変えることができなかった。上は天和を犯し、災異が相次いで現れた。臣は願わくば陛下が東廠を廃止し、鵬の叔侄及び賈校尉とこの女を市で処刑し、鎮撫司の官を極辺に謫戍させ、哲、爵、琦、玉を各々一階進めてその冤罪を洗い流せば、天意は回り、太平がもたらされるであろう。もし東廠を廃止しないならば、謹厳な中官の陳寬、韋泰のような者を選んでこれに任じ、なお一大臣を選んで共に治めさせるべきである。鎮撫司の理刑も専ら錦衣官を用いるべきではない。在京の各衛から一二人及び刑部主事一人を推選して共にその事に当たらせよ。あるいは三年、六年ごとに交代させれば、巡捕官校が奸悪を働き勝手に刑罰を行い、無辜を誣告することはあるまい。臣は一介の微躯、左右前後は皆東廠鎮撫司の人であり、禍いは必ず免れない。この輩に死ぬよりは、朝廷に死ぬ方がましである。願わくば臣の頭を斬って臣の言葉を行わせ、臣の妻子に骸骨を送って帰らせよ。臣は死んでも恨みはない。」帝は怒り、都察院に下して考訊させた。都御史の閔珪らは奏事不実に当たるとし、徒刑を贖って役に戻した。帝は詳細な状況を報告するよう責め、皆上疏して罪を認め、俸給を差等に奪われた。珪は徒刑を贖い終え、民に落とされた。その後、給事中の龐泮らが言った。「哲らの獄詞の覆奏は既に三月を過ぎ、獄に繋がれている者は凡そ三十八人、早く省みて釈放することを乞う。」そこで満倉児を杖打ち、浣衣局に送った。哲は璘の埋葬費用を支給し、民に落とされた。爵及び琦、玉は皆杖刑を贖って職に戻った。これは弘治九年十二月のことであった。

磐は間もなく吏部主事に抜擢された。正徳元年、宦官が次第に権力を握ると、磐は再び上疏して言った。「今日の弊政は、内臣が民政を司ることに勝るものはない。臣は内廷を称し、外事は皆関与すべきでない。ましてや兵権を握らせることができようか。前代の盛時には、未だ嘗てこのようなことはなかった。唐、宋の末世に初めて監軍を置き、その国は遂に永続しなかった。今、九辺の鎮守、監槍の諸内臣は、勢いに恃んで専横に振る舞い、侵奪や搾取を百方に行う。警報があれば精鋭の兵卒を擁して自衛し、敵を撃破すれば部下を放って功績を奪わせる。武官はこれに頼って縁故を求め、憲司は敢えて糾弾しようとしない。連れてくる家人の頭目は、概ね悪少年や無頼の徒である。貪り食い奪い合い、勢いは狼虎の如く、三軍の士気を喪失させ、百官の心を灰にしている。全て撤収して京に還し、専ら辺務を将帥に責めさせることを乞う。これは今日の防衛の要務である。」聞き入れられなかった。劉瑾が権力を握ると、磐を奸党として排斥し、帰郷を強制した。瑾が誅殺された後、河南僉事に起用されたが、連座して罷免された。

珪は刑部主事の陳鳳梧の推薦により、桐郷丞に任じられた。正徳年間、贛州通判を歴任した。盗賊の首領の何積玉を降伏させた。後に再び反乱を起こし、珪は獄に下されたが、間もなく釈放された。後に盗賊平定の功績により知州に抜擢された。

胡爟は、字を仲光といい、蕪湖の人である。弘治六年の進士。庶起士に改められ、戸部主事に任じられた。十年三月、災異が起こり意見を求めた。爟は詔に応じ、上疏して言った。「中官の李広、楊鵬が左道の劉良輔らを引き入れて聖聡を惑わし乱し、濫りに斎醮を設けて国庫を消耗させている。不肖の士大夫はまさに暗闇の中でその門に憐れみを乞い、交際して請託している。陰が盛んで陽が衰えているので、災いはどうして消えようか。」そこで戚畹、方士、伝奉冗員の害を極力陳述した。上疏は中留めされた。間もなく広が死んだので、爟は罪を免れた。

成化の時、宦官が権力を握っていた。孝宗が帝位を継ぐと、時折罷免されることもあったが、勢力は積み重なって急には戻らなかった。これに逆らう者は必ず党派を結んで排斥し、勝つまで止まなかった。前後して庶僚で璫に逆らって陥れられた者は、例えば弘治元年に戸部員外郎の周時従が上疏して先朝の遺奸である汪直、錢能、蔡用らを重刑に処し、両京及び四方の鎮守中官を査核するよう請うた。諸宦官はその上奏中の「宗社」の字が格を越えていないと指摘し、法司に命じて逮捕処罰させた。後に釈放された。

十三年秋、大同に警報があり、保国公の硃暉を派遣して防がせた。行人の永清の王雄は極力暉が任に堪えないと述べ、また中官の監督を罷めて将帥の権限を重んじるよう請うた。苗逵がちょうど暉の軍を監督しており、雄が軍を阻害したと言い、詔獄に下し、雲南浪穹丞に左遷した。

羅僑は、字を維升といい、吉水の人である。性格は純粋で静か、嗜欲は少なかった。張元禎に師事し、郷里で学問を講じた。弘治十二年の進士に挙げられ、新会知県に任じられ、恵みと慈愛があった。

正徳初年、羅僑は入朝して大理右評事となった。五年四月、京師は旱魃と黄塵に見舞われ、上疏して言うには、「臣は聞く、人事が理に適えば陰陽は和し、政事が失われれば災害が起こると。近ごろ京師が久しく旱魃に苦しんだため、陛下は特に恩詔を下し、逃亡兵士の囚人を釈放し、連座の禁令を緩められた。しかし斎戒祈祷を十日も続けても、雨の恵みはまだ滞っている。臣はひそかに考えますに、天の心の仁愛はまだ尽きてはいないのでしょう。陛下が朝政を見られるのは、あるいは日が傾くまでであり、小人たちと戯れ侮り、夜明けまで騒ぎ立てておられる。どうして天の心を承け、大業の基を築けましょうか。法網は日々密になり、徴収は峻急である。盗賊は白昼人を殺し、百姓は道に溢れて流亡し、国家の元気はすっかり失せている。科道官は知っていても敢えて言わず、内閣は言っても敢えて尽くさない。これこそ閉塞の大患である。古より大臣を進退させるには、必ず礼儀作法があり、げい刑や劓刑の罪は大夫には及ばなかった。近ごろ公卿が去るにも礼を以てせず、先朝の忠臣劉大夏のような者は、辺境の僻地に流罪となり、すでに三年に及んでいる。陛下はこれを放置して問わず、耆旧を待遇し大臣を敬う道ではない。本朝の律例は古今を参酌し、奸を懲らし罪を裁くに足りる。近ごろ法司は上意を窺い、巧みに善人を陥れる。伝に曰く、『賞が過てば淫人に及び、刑が濫れば善人に及ぶ。不幸にして過つならば、寧ろ賞が過ぎるも刑を濫るなかれ』と。今の刑罰は、濫れることこれより甚だしいものがあろうか。願わくは陛下には安逸な遊びを慎み、珍玩を退け、小人を放棄し、旧徳を召し還し、朝廷の臣僚と共に、夜遅くまで政事に励み、併せて法司に命じて成律を慎んで守らせ、たとえ律は軽く情状が重い場合でも、必ず奏請して裁決を仰ぎ、軽重を擅にせぬようにせられよ。そうすれば天変を止め、人心を収め得ましょう」と。当時、朝臣は久しく言論を忌避していた。羅僑が上疏した後、自ら必ず死ぬと覚悟し、棺を車に載せて待機した。劉瑾は大いに怒り、偽りの詔勅で数百言にわたり詰問譴責し、廷臣に罪を議させた。大学士李東陽が力強く救い、原籍の教職に改めることを得た。その秋、劉瑾が敗れると、羅僑はまもなく召し出されて官に復し、病を理由に辞任した。宸濠が反乱を起こすと、王守仁が吉安で兵を挙げ、羅僑は真っ先に義に赴いた。

世宗が即位すると、すぐに自宅に赴任を命じて台州知府に任じた。忠節祠を建てて方孝孺を祀った。布衣の張尺を招き、民間の疾苦を尋ねた。歳時には田畑を巡行し、農桑を督励し、冠婚喪祭の礼を講明し、管内は大いに治まった。嘉靖二年に卓異として推挙された。都御史姚鏌が上書して羅僑を弁護して言うには、「人臣が主君の顔色を犯して諫めることは、古来難しいことである。かつて『八党』が権力を弄び、逆賊劉瑾が政事を乱した時、廷臣は口を閉ざし、全躯を保つのみであった。しかし給事中劉掞と評事羅僑は国に殉じ身を忘れ、時弊を摘発し、辛うじて生き延びた。聖朝に遇い、顕著に褒賞抜擢し、諸臣を励ますべきであるというのに、羅僑は台州を知り、劉掞は長沙を知るのみで、忠を懐き節を尽くす士を常調に埋もれさせている。臣はひそかに朝廷のため惜しむ」と。帝はその言を容れ、羅僑を広東左参政に抜擢したが、羅僑は辞退した。部からの公文で再三催促され、やむを得ず任地に赴いた。一年余りで、病と称して帰郷した。

羅僑は行誼を重んじ、行動は古人のようであった。羅洪先が喪に服している間も講学を止めなかったが、羅僑は礼に適わないとして、手紙を送って責めた。その剛直さはこのようなものであった。

葉釗は字を時勉といい、豊城の人である。弘治十五年進士。南京刑部主事に任じられた。獄囚が長く滞留していたのを、全て法に照らして釈放した。守備中官が芦洲を侵していたのを、判決して民に返した。応天諸府が災害に見舞われた時、荒政に関する四事を上奏した。まもなく員外郎に進んだ。

武宗が即位すると、詔に応じて八事を陳べ、その中で言うには、「宣府・大同が寇に襲われ、兵卒が千人近く殺された。監督中官の苗逵が虚偽の報告で先鋒の功を称えている。召還して審問を待つべきである。宦官が兵権を握ることは、古に見ない。唐で初めて用いられ、宗廟社稷は廃墟と化した。我が朝の正統年間に用いられ、天子の車駕は北方に連行された。今後は軍務に監督を派遣せず、鎮守の者もまた撤還すべきである。かつ国初には宦官は全て礼部に属し、官位は四品を超えず、職務は掃除に過ぎなかった。今、再び部に属させ、司礼監を改めて雑役に就かせることを請う。東廠を廃止し、他の官署に移す。そうすれば左右の者が擅に権力を握れず、天下は安泰となろう」と。また劉大夏を召還し、諫官の戴銑らを赦すことを乞うた。劉瑾は怒り、判決の誤りに坐らせ、詔獄に捕らえ、官籍を削って帰郷させた。西江で講学した。劉瑾が誅殺されると、礼部員外郎に起用されたが、任命の知らせを聞かぬうちに死去した。学者たちが石鼓書院で彼を祀った。

当時また工部主事の劉天麒という者がいた。臨桂の人で、葉釗と同年の進士である。呂梁で分司を務めた。宦官の通行者が礼をしなかったので、劉瑾に訴えられ、詔獄に捕らえられ、貴州安莊駅の駅丞に左遷され、その地で死去した。嘉靖初年、官位を回復し、祭礼が賜られた。

戴冠は信陽の人である。正徳三年進士。戸部主事となった。寵愛を受ける者が日増しに多く、禄糧が多く消耗されるのを見て、上疏して極諫し、おおよそ次のように述べた。「古人は財理に務め、冗食を去った。近ごろ京師の権勢ある家の子弟や僮僕が爵賞を苟且に窃み、錦衣衛の官属は数万を超え、次は勇士の籍に連なり、監局の匠役に投充する者は数え切れず、皆国家の蠹である。歳漕四百万石は、従来余剰があった。近ごろ水害旱魃で収入は以前に及ばず、歳支は反ってそれを超え、この輩のために三分の一を消耗していると計算される。陛下はどうして赤子の膏血を以て、無用の蠹を養うことを忍びられようか。兵は精鋭を貴び、多勢を貴ばぬ。辺軍は辺境の地に生まれ育ち、戦陣に習熟し、守備に足りる。今、警報があるごとに京軍を発し、宣府から京操のために調入された軍は、累次臣下の論議があるにもかかわらず、頑として返還しない。陛下はどうして辺軍を喜び、関塞のことを慮われないのか。天子の富は天下に蔵され、ひたすら集めて国庫に貯めるのは、匹夫や商賈の計略である。逆賊劉瑾が敗れた後、没収した財産は有司に帰さず、豹房に貯蔵し、遂に新たな倉庫を創設した。供御の物は、内には監局があり、外には部司がある。この倉庫は何に用いるのか」と。上疏が入ると、帝は大いに怒り、広東烏石駅の駅丞に貶した。

嘉靖初年、起用され、山東提学副使を歴任し、清廉剛直で知られた。

黄鞏は字を仲固といい、莆田の人である。弘治十八年進士。正徳年間、徳安推官から入朝して刑部主事となり、諸司の奏牘を掌った。職方武選郎中を歴任した。十四年三月、南巡の詔があり、黄鞏は上疏して言うには、

陛下が御位について以来、祖宗の綱紀法度は一度は逆賊劉瑾によって壊され、二度は佞幸によって壊され、またさらに辺帥によって壊され、ほとんど蕩然として余すところがない。天下は権臣の存在を知り、天子の存在を知らず、乱の根源はすでに成り、禍変が起こらんとしている。試みに当今最も急務なものを挙げて陳べる。

第一は正学を尊ぶことである。臣は聞く、聖人は静を主とし、君子は動を慎むと。陛下は遊楽に度を過ぎ、流連して帰ることを忘れ、動きもまた過ぎている。臣は願わくは陛下が九重の奥に高く座し、精神を凝らし思慮を定め、紛華を屏け、異端を斥け、佞人を遠ざけ、故老を招き、忠良を訪ねられよ。これによって気質を涵養し、徳性を薫陶し、聖学は新たになり、聖政は自ずから挙がるであろう。

第二は言路を通ずることである。言路は国家の命脈である。古の明王は人を導いて言わせ、その言を用いてその身を顕した。今はそうではない。臣僚が時政について言うと、左右の者が隠して聞かせない。あるいは事が権臣に関わると、宮中に留めて出さず、他の事で中傷する。その者が言によって罪を得ず、他の事によって罪を得るようにする。これによって、たとえ安民の良策、謀国の至計があっても、自ら上達する由がない。必ず乱をなす事、軌を逸した臣があっても、陛下はどうして知り得ようか。臣は願わくは言路を広く開き、その出位を罪せず、その沽名を責めず、忠言が日々進み、聡明が日々広がり、乱臣賊子もまた畏れて敢えてほしいままにせぬようにせられよ。

第三に、名号を正すこと。陛下は故なくして大將軍・太師・鎮國公と降称され、遠近に伝聞され、驚嘆しない者はない。このようでは、誰が天子たるのか。天下は陛下を天子として奉ぜず、將軍として奉じ、天下は皆將軍の臣となってしまう。今、諸名号を削去せず、上下の分を明らかにしなければ、体統正しからず、朝廷尊ばれない。古の天子にも「独夫」と号され、匹夫たらんことを求めて得られなかった者がある。ひそかに陛下のため懼れる。

第四に、遊幸を戒めること。陛下は初め遊戯されても大庭を出ず、馳逐は南内に止まり、論者なお不可と謂う。やがて宣府に幸し、大同に幸し、太原・榆林に幸された。至る所で財を費やし衆を動かし、郡縣騷然とし、民間の夫婦互いに保たれぬに至らしめた。陛下は民の父母として、どうしてかくまで極まるに忍びるか。近ごろまた南巡の命がある。南方の民は争って妻子を携え避け去り、流離奔踣し、怨讟頻りに起こる。今、江・淮は大饑饉にあり、父子兄弟互いに食らう。天時人事かくの如く、陛下また重ねてこれを蹙めば、幾ばくかならずして盗賊と化せざらんや。奸雄は窺伺し、時を待って発す。変が内に生ずれば、帰るに路なく、変が外に生ずれば、救いを望むに及ばず。陛下この時、悔ゆとも遅し。あの居位の大臣、用事の中官、親昵の群小、どうして毫髪の陛下を愛する心があろうか。皆陛下の遠出を欲し、後に権を擅にし恣にし、機に乗じて利を為さんとするのである。そうでなければ、また袖手傍観し、秦・越人のごとく休戚を同じくせぬのである。陛下は翻然悔悟し、哀痛罪己の詔を下すべし。南巡を罷め、宣府の離宮を撤し、再び出でざるを示せ。内帑を発して江・淮を振恤し、辺軍を散じて卒伍に帰せしめよ。已往の謬挙を雪ぎ、既失の人心を収めよ。かくの如くすれば、なお為すべし。

第五に、小人を去ること。古より小人が用事にして国亡び身喪わざるはない。今の小人、威権を簸弄し富貴に貪溺する者は、実に徒多くいる。首めて辺事を開き、兵を以て戯れとし、陛下をして天下の力を労し四海の財を竭きしめ、百姓の心を傷つけしめたるは、則ち江彬の為すところである。彬は行伍の庸流、兇狠傲誕にして人臣の礼なし。臣はただその誅すべき罪あるを見るのみで、賞すべき功あるを聞かず。今、国姓を賜い、伯爵に封じ、心腹に托し、京営の重寄を付す。これに外に兵柄を持たせ、内に逆謀を蓄えさせ、騎虎の勢いを成さしむるは、これ必ず乱の道である。天下は切歯怒罵し、皆彬の肉を食らわんと欲す。陛下またどうして一彬を惜しみ、以て天下に謝さざるか。

第六に、儲貳を建つること。陛下の春秋漸く高く、前星未だ耀かず、祖宗社稷の托け搖搖として寄る所なし。方や遠く観遊に事え、屡び不測を犯し、義子を収養して左右に満たす。独り親賢をめ建てて大業を承けしむる能わず、臣は陛下殆ど倒置すと為す。伏して望む、上は宗廟に告げ、太后に命を請い、旁ら大臣に諏り、宗室の親賢なる者一人を選び宮中に養い、以て四海の望みを繋げん。他日皇子を誕生すれば、なお出籓せしめ、実に宗社無疆の福なり。

員外郎陸震は疏を草して諫めんとし、鞏の疏を見て称歎し、因って己が稿を毀ち、鞏と連署して進む。帝は怒り甚だしく、二人を詔獄に下し、また午門に跪かしむ。衆は天子出でんとすと謂う。鞏曰く「天子出でば、吾まさに裾を牽いて之に死せん」と。五日跪き、期満ち、なお獄に繋がる。二十余日を過ぎ、廷杖五十、民に斥かれる。彬は人をして沿途に鞏を刺さしむ。治洪の主事知りてこれを匿い、間行して脱するを得たり。

既に帰り、潜心著述す。或いは米尽き、日中未だ爨かずとも、晏如たり。嘗て歎じて曰く「人生公卿富貴に至るも、然れども三四十年に過ぎず。ただ身を立て道を行い、千載朽ちず。世人顧みて往々これをもって彼に易うるは、何ぞや」と。

世宗立ち、召されて南京大理丞と為る。疏を上して古を稽え正学を立て、天を敬い民を勤め、堯・舜に則り、君子を保全し、小人を弁別すべしと請う。明年入賀し、京師に卒す。行人張岳その直節を訟え、大理少卿を贈られ、祭葬を賜う。天啓初、忠裕と追諡す。

陸震、字は汝亭、蘭溪の人。同県の章懋に受業し、学行を以て知名なり。正徳三年進士。泰和知県に除く。時に劉瑾政を擅にす。逋塩課を以て県民に償わしむる者数百人に連なり、震力んで上官に白し、免るるを得たり。鎮守中官は歳ごとに貢絺を征す。その額を減ずる。学舎を増築して諸生を居らしめ、淫祠を毀ちて忠節を祀る。浮糧民を累わす。賦籍を稽え、詭寄隠匿する者一万五千石を得て以てこれを補う。倉を県の左に建て、穀を儲えて振恤を待つ。親しく郷落を行き、農桑を勧課す。保伍法を立て、民をして盗に備えしむ。城を甓とし七里、外に土城十里を以てこれを周らす。時に狼兵を発して賊を討ち、至る所民を擾わす。震総督に言い、檥舟を聴かず、官糧糗を具え、次を以て継ぎ食わしめよと令す。兵行き肅然たり。永豊・新淦の賊を督捕し、功を以て賞を受く。撫按交わって薦し、征せられて兵部主事と為る。泰和の人その生祠を建つ。

部に在りて、諸司の章奏を主り、中人に忤い、改めて紫荊諸関を巡す。また都御史彭澤・副使胡世寧の無罪を論じ、尚書王瓊・陸完に忤う。

孝貞皇后崩じ、武宗宣府より至る。既に発喪すること数日、また北に出でんと欲す。震抗疏して曰く「日に、昊天弔わず、威を降して大戚あり。車駕狩に在り、群情惶惶たり。陛下単騎雪を沖して還宮し、百官有司感愴せざる莫し。陛下前は蔽われ今は明らかなりと以為う。乃ち梓宮殯に在りて、遽かに遊巡を擬す。臣知る、陛下の心必ず蹙然として安からざる者有らんと。且つ陛下即位すること十有二年なり。十は幹の終わり、十有二は支の終わり。気運周会するに当たり、正に徳を修め新たにすべき時、顧みて乃ち宣府を営みて以て居と為し、騎射を縦にして以て楽と為す。これ臣の深く懼れるところなり。古人君の車馬遊畋の好みは、或いはこれ有りと雖も、外を以て主と為し、家を以て客と為し、天下の大器・賞罰の大柄を挈ちて人に付し、漠然として意念に関せざるは、これ古今に絶無する者なり。伏して望む、喪制を終うるを勉め、盤遊を深く戒めよ」と。報いず。

武選員外郎に進む。已にして、黄鞏とともに南巡を諫め、遂に詔獄に下る。獄中にて鞏と『易』の九卦を講じ、憂患の道を明らかにす。同じく繋がる者は率いて後事を処分す。震独り一言無し。既に杖せられ、創甚だしく、諸子に書を作り、「吾死すと雖も、汝等まさに忠孝を勉むべし。吾が筆乱るれども、神乱れず」と。遂に卒す。世宗立ち、太常少卿を贈る。祭を予う。

震らの獄に繋がるるや、江彬必ず之を死に致さんと欲し、その飲食を絶つ。震の季子体仁、年十五、服を変えて他の囚の親属と為り、職めて橐饘を納る。後に詔有りて一子を録して官とす。諸兄体仁を譲り、漳州通判と為り、政声有り。孫可教、進士より由りて南京礼部侍郎を歴任す。

夏良勝、字は於中、南城の人。少くして督学副使蔡清に知られ、「子は異日必ず良臣と為り、まさに子に勝る者無からん」と曰われ、遂に良勝と名づく。正徳二年郷試第一を挙ぐ。明年、進士に成り、刑部主事を授かり、吏部に調じ、考功員外郎に進む。

南巡の詔が下ると、良勝は上疏を整え、礼部主事の万潮・太常博士の陳九川と連署して進言した。「方今、東南の禍は江・淮のみにあらず、西北の憂いは近く輦轂にあり。廟祀の鬯位は久しく虚しくすべからず、聖母の孝養は恒に曠らかにすべからず。宮壺の孕祥は尚お早く図るべく、機務の繁重は尽く委すべからず。『鎮国』の号は海内に伝聞し、覬覦の階を生ずるを恐れ、辺将の属を禁近に納るるは、肘腋の患を忘れんや。巡遊已まずば、臣等は死する所を知らざらん」と。時に舒芬・黄鞏・陸震の上疏は既に先に入っていた。吏部郎中張衍瑞ら十四人、刑部郎中陸俸ら五十三人がこれに続き、礼部郎中姜龍ら十六人、兵部郎中孫鳳ら十六人がまた続いた。而して医士徐鏊もまたその術を以て諫め、略言して「養身の道は、燭を置くが如し、室これを閉ざせば堅く、風これを暴せば涙す。陛下は万乗を軽んじ、嬉娛に習い、馬を躍らせ弓を操り、魚を捕え獣を玩ぶ。近く復た遠遊を憚らず、寒暑を冒し、関河に渉り、饍飲調わず、肴蔌択ぶこと無し。誠に養生の道に非ず。況んや南方は卑湿にして、尤も病を致し易し。乞う、宗廟社稷の重きを念い、鞍馬に事せず、過ぎて醉飽せず、喜は心を傷つけず、怒は肝を傷つけず、欲は腎を傷つけず、労は脾を傷つけず、密室の安きに就き、暴風の禍を違う。臣は至願に勝えず」と。諸疏既に入るや、帝と諸幸臣皆大いに怒り、遂に良勝・潮・九川・鞏・震・鏊を詔獄に下し、芬及び衍瑞ら百七人を午門外に五日間跪かせた。而して大理寺正周敘ら十人、行人司副余廷瓚ら二十人、工部主事林大輅・何遵・蔣山卿の連名上疏が相継いで上った。帝は益々怒り、並びに詔獄に下した。俄かに敘・廷瓚・大輅らに、良勝ら六人と共に闕下に五日間跪かせ、枷と手枷を加えた。夜になると、仍お獄に繫がれた。諸臣は朝に入り暮に出で、累累として重囚の如く、道途の観る者は泣下せざる者無し。而して廷臣は大学士楊廷和・戸部尚書石玠が疏を上て救う外、言う者有らず。士民皆憤り、争って瓦礫を擲ちて詬詈した。諸大臣皆恐れ、朝に入るに辨色を待たず、詔を下して事を言う者を禁ずるを請うた。通政司は遂に格して疏を受けず。

是の時、天連日曇りて晝晦しく、禁苑の南海子に水湧きて四尺餘り、橋下の七つの鉄柱皆斬られたるが如く折れた。金吾衛都指揮僉事張英曰く、「此れ変徴なり、駕出ずれば必ず利あらず」と。乃ち肉袒し胸に戟刃を置き、土数升を囊にし、諫疏を持ちて蹕道に当たり跪きて哭き、即ち自ら其の胸を刺し、血流れて地に満つ。衛士其の刃を奪い、縛して詔獄に送る。問うて囊土何を為すかと。曰く、「帝廷を汚すを恐れ、土を灑ぎて血を掩わんとす」と。詔して之を杖つこと八十、遂に死す。

芬ら百七人は、跪き終わり、各々三十を杖たれた。芬・衍瑞・俸・龍・鳳を首唱者として、外に謫された。余は俸を半年奪われた。良勝ら六人及び敘・廷瓚・大輅は各々五十を杖たれ、余の三十人は四十を杖たれた。鞏・震・良勝・潮・九川は除名された。他の貶黜有差。鏊は辺に戍せられた。而して車駕も亦復た出でず。

良勝既に帰り、生徒に講授す。世宗立ち、召して故官に復す。尚書喬宇之を賢とし、奏して文選郎中と為し、公廉にして振抜すること多し。「大礼」の議起こり、数たび僚長と偕に力争す。及び席書・張璁・桂萼・方献夫が中旨を用いて超擢せられ、又執って不可とす。是れを以て議礼者に切歯せらる。久次を以て南京太常少卿に遷るも、未だ赴かず、外転す。給事中陳洸上書し、張璁等の議に傅会し、良勝と尚書宇等が群を結び朋党し、情に任せて擠排すと斥く。遂に良勝を茶陵知州に謫す。及び『明倫大典』成り、詔して前郎中良勝が庶官を脅持し、禍を釀すこと特深しと責め、民に黜す。初め、良勝其の部中の章奏を輯め、名づけて『銓司存稿』と曰い、凡そ議礼の諸疏具在す。仇家に発せられ、再び獄に下る。杖つことを論じて当に贖うべしとすれども、特旨を以て遼東三萬衛に謫戍す。五年を踰え、戍所に卒す。穆宗立ち、太常卿を贈る。舒芬等は自ら傳有り。

万潮、字は汝信、進賢の人。正徳六年の進士。甯国推官より入りて儀制主事と為り、芬・良勝・九川と「江西四諫」と称せらる。世宗立ち、故官を起し、歴て浙江提学副使。久しくして参政に遷り、権貴に忤いて広西に調ぜらる。屡遷して陝西左布政使・右副都御史延綏を巡撫す。至る所に声著し。

陳九川、字は惟濬、臨川の人。正徳九年の進士。王守仁に従い遊ぶ。尋いで太常博士を授かる。既に籍を削がれ、復た守仁に従い卒業す。世宗嗣位し、召して故官に復し、再遷して主客郎中。貢献の名物を正し、貢使の犒賞費数万を節す。会す天方国玉を貢ぐに、九川其の堪えざる者を簡び去る。求むる所の蟒衣、奏覆せず、復た通事胡士紳等を怒駡す。士紳恚み、番人の詞を仮りて九川及び会同館主事陳邦偁を訐る。帝怒り、二人を詔獄に下す。而して是の時張璁・桂萼費宏を傾けて其の位を奪わんと欲し、乃ち士紳に属して再び九川が貢玉を盗み宏に饋して帯を制すと訐り、詞兵部郎中張・錦衣指揮張潮等に連る。帝益々怒り、並びに等を詔獄に下す。指揮駱安請うて士紳を摂り質訊せんとし、給事中解一貫等も亦以て言うも、帝許さず。獄成り、九川鎮海衛に戍せられ、邦偁等は削籍有差。久しくして赦に遇い放還せられ、卒す。

張衍瑞、字は元承、汲の人。弘治十八年の進士。清豐知県と為る。法を執りて劉瑾に忤い、逮えられ詔獄に下り、幾くばか死せんとす。瑾誅せられ、釈せられ、吏部文選郎中に至る。既に杖たれ、平陽同知に謫せらる。嘉靖初、召還され、擢て太常少卿と為る。尋いで卒す。太僕卿を贈る。

姜龍、太倉の人、父『昂傳』に見ゆ。孫鳳、洛陽らくようの人。陸俸、呉県の人。周敘、九溪衛の人。林大輅、莆田の人。蔣山卿、儀真の人。皆進士より出づ。山卿顧璘の門に遊び、詩を以て時に名有り。既に杖たれ、鳳・俸並びに府同知に謫せられ、敘は県丞、大輅は州判官、山卿は前府都事。世宗立ち、悉く召して故官に復す。鳳終に副使、俸は知府、敘は工部尚書、大輅は右副都御史湖広を巡撫し、山卿は広西参政。

徐鏊、嘉定の人、本は高氏の子。少くして孤となり、舅に依り京師にあり、徐姓を冒し、其の業に従い医と為り、内殿に供事す。既に杖たれ、烏撒に謫戍せらる。世宗即位し、召還され、尋いで御医に擢てらる。鏊性耿介、時に朝士多新貴にして鏊を知らず、鏊も亦前事を言わず。一官垂三十年調ぜず。年七十、致仕を求む。値うるに同県の徐学謨礼部郎中と為り、尚書呉山に引見す。山牘を閲し、南巡を諫むる事有り、瞿然として曰く、「此れ武廟の時の徐先生か。何ぞ淹なるや」と。両侍郎其の老いを嫌うも、学謨声を抗して曰く、「鏊は老いと雖も、然れども少くして舒狀元と同患難し、敬す可きのみ」と。又久しくして、始めて院判に遷る。自ら引退して帰り、卒す年八十三。

時に同じく杖罰を受けた者は、吏部では姚継岩、行人では陶滋・巴思明・李錫・顧可久・鄧顯麒・熊榮・楊秦・王懋・黃國用・李儼・潘銳・劉黻・張嶽、大理寺では寺正の金罍、寺副の孟庭柯・張士鎬・郝鳳升・傅尚文・郭五常、評事の姚如皋・蔡時であり、皆貶官された。世宗が即位すると召還された。張英もまた官を追贈され祭礼が行われ、弟の張雄に都指揮僉事の官が授けられた。

姚継岩は南通州の人で、張衍瑞と同年の生まれである。文選郎中に昇任すべきところを、張衍瑞に譲った。嘉靖初年、太常少卿を歴任し、宮門に伏して「大礼」を争った。貧しさに甘んじて質素に過ごし、権勢から遠ざかった。死んだ時には、葬儀を整えることができなかった。

何遵は字を孟循といい、江寧の人である。家は貧しく、父は彼に商売をさせようとしたが、彼は望まず、学問の道に進んだ。正徳九年の進士に挙げられた。吏部尚書陸完はその名を聞き、子弟を従学させた。台諫官に選ばれる時、何遵は病気を理由に辞退して言った。「人に頼って進むことはできない。」工部主事に任じられ、荊州で木材の専売を管轄した。税額が百金以下の者は三分の一を減免し、風波で財貨を損じた者は算入しない、と命じた。算入する者は自ら数量を記録し、郡の金庫に保管し、数日ごとに収入を集計した。任を去る時まで、一銭も私しなかった。

帝が南巡しようとし、東嶽に参詣することを口実とした。何遵は直言した。「淫祠には福はない。万一、宗室や藩王の中に、奉迎を口実にし、ひそかに不軌を企む者がいれば、福は降らずに禍が既に付き従うことになろう。」これは宸濠を指していた。権勢を握る者たちは上疏を見て、取り次がないように妨げた。時に黄鞏らが既に罪を得ていたが、何遵はまた同官の林大輅・蔣山卿と共に上疏して南巡の中止を請い、江彬が権力を恃んで乱を唱えることを極言した。黄鞏らは無罪であるから、特に寛大に赦し、後世に諫臣を殺した名を残さないように願う、と述べた。帝は怒り、詔獄に下し、廷杖四十を加えた。傷は甚だしく、肢体ことごとく裂け、二日を経て遂に卒した。年三十四。家は貧しく、同僚や友人が助けて殯した。

何遵が上疏の草稿を書いている時、家僕が前に進み出て、抱きついて泣きながら言った。「主君はご自身のことをお考えにならないとしても、年老いた親御様や幼いお子様のことをお考えにならないのですか。」何遵は筆を執り、落ち着いて言った。「私に代わって父上に謝れ。息子には学問を廃させぬようにしてくれればそれでよい。」死んだその日、彼の父はちょうど家人と墓参りから帰ったところで、鳥が悲しげに鳴くのを聞き、心に怪しんだ。工部に言上して罪を得た者がいると伝え聞き、父は声を長く上げて泣いて言った。「何遵が死んだのだ!」やがてその通りであった。

時に何遵より先に杖罰を受けて死んだ者は、刑部主事の郾城の人劉校、照磨の汲県の人劉玨である。何遵と共に杖下に死んだ者は、陸震のほか、大理評事の長楽の人林公黼、行人司副の鄱陽の人余廷瓚、行人の盱眙の人李紹賢・澤州の人孟陽・玉山の人詹軾・安陸の人劉概・祥符の人李惠である。

劉校は字を宗道という。性、至孝であった。母の胡氏は子の教育に厳しく、たまたま不機嫌になると、劉校は長跪して罪を請い、母が喜ぶと初めて起き上がった。正徳六年に詹軾・劉概と同榜の進士となり、刑部主事に任じられた。父を迎えて養おうとしたが、途中で卒した。劉校は駆けつけ、屍を抱いて慟哭し、ほとんど気絶した。顔に塵がついていたので、舌で舐めて拭った。元の官に復帰した後、帝が南巡しようとした時、刑部の諫疏は劉校が起草したものである。杖罰を受けて死に臨み、大声で叫んだ。「劉校に恨みはない。老母に会えなかったことを恨むのみだ!」子の元婁は十一歳で、傍らで泣いていた。劉校は言った。「お前は書を読むことも多くはないが、ただ君に事えて身を致す義を知らないのか?祖母と母によく仕え、お前の父に恥じぬようにせよ。」遂に絶命した。劉玨は貢士から出た。

林公黼は字を質夫という。父母の喪に際し、三年間、粗食粥のみで、内室に入らなかった。正徳十二年に李紹賢・李惠と同榜の進士となった。諸官庁で南巡を諫めた者は皆、宮門前で罰跪させられ、奸臣らはまた日々に危険な言葉で脅かしたので、聞く者はおののいた。このため、戸部は上疏を出そうとせず、工部の諫めた者は三人だけであった。ただ大理寺だけが全署を挙げて諫めたので、帝の怒りは一層甚だしくなった。林公黼は夜に上疏を起草し、暗闇の中で泣き嘆く声が聞こえたが、顧みなかった。獄に入ると、黄鞏が語りかけて嘆いて言った。「私は天下に友を取ったが、近くに質夫を見逃していた。古人が『険に入って驚かず』と言ったが、この人のことか。」林公黼は体が弱く、遂に杖罰に耐えられずに卒した。

余廷瓚は字を伯獻という。孟陽と共に正徳九年の進士であった。礼部と兵部の二官庁が進諫した時、余廷瓚もまたその同僚を率いて巡遊の十の不可を陳べ、通政司だけがこれを留め置いた。数日経ち、諸官庁が既に罰跪させられた後、上疏が初めて上った。帝はますます怒り、拷問による取り調べを特に厳しくした。

李紹賢は字を崇德という。かつて詔書を頒布するため徐州に至った時、監倉の中使が上座に座っていたが、李紹賢は直ちにその席を撤去するよう命じ、中使は驚いて去った。捕らえられて獄につながれた時、宦官を見ても奴隷のように見下した。

孟陽は字を子乾という。吏部侍郎孟春の子である。行人となり、長く昇進しなかったが、ある者が権力者に会うようほのめかしても、孟陽は承知しなかった。この時、諸同僚に語って言った。「この行動は社稷の安危にかかわる。一命の士も皆これに憂いを共にするべきであり、必ずしも言官だけが死を尽くすべきなのか。」父の孟春は以前、宣府巡撫として軍功があり、宦官張永に逆らって罷免され帰郷していた。子が諫めて死んだと聞き、詩をもって哭し、言葉は甚だ悲壮で、人々は争って伝えた。

詹軾は字を敬之という。人となりは開け爽やかで磊落、談論を善くした。従父の詹瀚は字を汝約といい、林公黼と同榜の進士であった。当時ちょうど刑部主事であり、また諫めて杖罰を受けた。詹軾が死ぬと、その喪をとりまとめて帰郷させた。嘉靖年間、詹瀚は「大礼」を争い、再び杖罰を受けた。陰雨の度に傷が痛むと、言った。「私は敬之に地下で恥じるところがない。それで足りる。」累進して刑部侍郎に至った。

劉概は字を平甫という。李惠は字を德卿といい、尚書李鉞の子である。世宗が即位すると、何遵・劉校に尚宝卿を、劉玨に刑部主事を、林公黼・余廷瓚に太常丞を追贈し、李紹賢に御史を追贈した。それぞれ祭礼を賜り、子一人を国子監に入学させた。

その傷がもとでやや後に死んだ者は、礼部員外郎の慈渓の人馮涇、驗封郎中の呉江の人王鑾、行人の昌黎の人王瀚である。

馮涇は字を伯清といい、王瀚と共に正徳九年の進士であった。馮涇は孝友をもって称された。死んだ後、家が貧しく遺骸を帰郷させることができなかった。世宗が即位すると、吏部がその状況を上聞し、米二十斛を賜り、役所に命じてその家を手厚く恤した。

王鑾、字は汝和。正徳六年の進士。吏部で試政し、尚書楊一清に知られ、文選主事に抜擢される。朝夕戸を閉ざし、人と会うことは稀であった。再び遷って驗封郎中となる。傷を負い、一年余りして卒す。王瀚もまた以前に卒す。世宗即位の後、御史を追贈され、祭を賜う。

諸曹が相次いで上奏して諫めた時、江彬は甚だ怒った。密かに詔獄を司る者に命じて杖を重くさせたので、諸臣多く死す。哭声は禁掖に徹し、帝もまた感動し、ついに南巡を罷めたのは、諸臣の力である。

嘉靖初年、主事仵瑜が上疏して言う、「正徳年間、給事中・御史は勢いに乗じて人を凌ぎ、権に趨き便を択び、朝廷の大なる欠失、群臣の大なる奸悪に、口を閉ざして言わず。一時、顔を犯して敢えて諍い、死を視ること帰するが如く、或いは闕廷で拷死し、或いは辺塞に流竄された者は、皆郎中・員外郎・主事・評事・行人・照磨・庶起士であり、言責を有する者ではない。張英はもと一武夫、直言して死に就き、行路の人も悲しんだ。今幸いに聖皇が極に御し、忠良を褒恤される。諸給事中・御史は更に何の面目あって清明の朝に再び立つことができようか。請う、黜罰を加え、以て創懲を示さんことを」。章は吏部に下る。瑜は後に「大礼」を争って杖死し、自ら伝がある。

賛に曰く、李文祥・孫磐は甫めて褐を脱ぎ政を観、未だ庶位に列せず。胡爟以下は率ね諸曹尚書郎、或いは冗散卑末なり。風憲を司らず、言路に当たらず、諫諍を以て職を尽くすに非ざるなり。抗言極論し、竄謫踵を接し、而して来る者愈多し。死相枕籍し、而して赴蹈後るるを恐る。其の権幸に抵触し、乗輿を指斥するは、皆安危の至計に切なるものなり。若し張英の胸を陷れて以て主を悟らしめ、徐鏊の術を托して以て諷諭するは、誠心忠愛より出で、抑も尤も人の能くし難き者なり。