明史

列傳第七十二 周洪謨 楊守陳 張元禎 傅瀚 張昇 吳寬 傅珪 劉春 吳儼 顧清 劉瑞

○周洪謨、楊守陳(弟守阯、子茂元・茂仁)、張元禎(陳音)、傅瀚、張昇、吳寬、傅珪、劉春、吳儼、顧清、劉瑞

周洪謨は、字を堯弼といい、長寧の人である。正統十年、進士に及第した。編修に任ぜられた。博聞強記で、文詞に優れ、国朝の典故に通じ、経世済民のことを論ずるのを好んだ。

景泰元年、上疏して帝に経筵に親しみ、政務を勤勉に聴くよう勧め、ついで時務十二事を陳べた。再び遷って侍読となった。天順二年、南院の事を掌った。憲宗が位を嗣ぐと、また時務を陳べ、人君の国を保つ道は三つあると言った。すなわち、聖学に力を入れること、内治を修めること、外侮を攘うことである。聖学に力を入れることの細目は一つ。すなわち心を正すことである。内治を修めることの細目は五つ。すなわち真の才を求め、不肖を去り、忠良を表彰し、冗職を罷め、漕運を恤することである。外侮を攘うことの細目は六つ。すなわち将帥を選び、士卒を練り、陣法を講じ、兵器を治め、饋餉を足し、辺陲を靖んずることである。帝はこれを嘉して採用した。

成化に改元すると、朝廷で四川の山都掌蛮を討つことを議し、洪謨は上方略六事を上った。詔して軍帥に付してこれを実行させた。学士に進んだ。まもなく南京祭酒となった。上言して、南監に紅板倉二十間があり、高皇后が監生の妻子を養うために粟を蓄えたものであるから、修復すべきであると言った。帝はこれを許して実行させた。母の喪に服し、喪が明けると、北監に改めた。十一年、士風が軽薄であると言い、洪武中の学規を復するよう請うた。帝は嘉して採用し、礼部に命じて榜示して諭させた。崇信伯費淮が監に入って礼を習うことになったが、久しく至らなかった。洪謨がこれを弾劾し、冠帯を奪い、儒巾で監に赴かせ、歳禄の半分を停めると、学政は厳粛となった。先聖の像は冕旒十二を用いているが、舞佾や豆籩の数が相応しくないので、洪謨は天子の制に備えるよう請うた。また言うには、「古には鳴球・琴瑟を堂上の楽とし、笙・鏞・敔を堂下の楽とし、干羽は両階で舞った。今は舞羽が上にあり、楽器が下にあるのは、古制ではなく、改めるべきである」と。尚書鄒幹が駁して止めたが、洪謨は再び上疏して争った。帝はついにその議を許した。

礼部右侍郎に遷った。久しくして、左に転じた。蔡沈の『伝』が解釈する璇璣玉衡を、後人がその制に従って用いているが、考証・検証すると多く合わないので、改めて制すべきであると言うと、帝はただちに洪謨に委ねた。洪謨は木に替えて作り、十日で完成した。十七年、尚書に進んだ。二十年、太子少保を加えられた。二十一年、星変があり、条奏したところ、帝は多く採用した。

弘治元年四月、天寿山で雷鳴・風・雹があり、楼殿の瓦獣が多く毀損した。洪謨はまた力を尽くして修省を勧め、帝は深くこれを採用した。洪謨は謹厳で人と合うことが少なく、万安とは同郷であり、安が政府に居た時はしばしば彼と親しくした。この時、言官が先後に論奏し、致仕して帰った。また三年して卒し、七十二歳であった。文安と諡された。

洪謨はかつて言った。「士人が出仕するのに、あるいは郷里を去ること数千里、すでに土俗に暗く、人情にも背く。近くで選任するに如かず。王府の官は終身遷ることがないのは、祖制に背き、少し変えるべきである。都掌蛮および白羅羅・羿子がたびたび叛くので、特に長官司を設け、その人を選んで任ずれば、おそらく後患はないであろう」と。将に没せんとする時も、なお中国を安んじ、四裔を定める十事を上った。このように建言を好んだのである。

楊守陳は、字を維新といい、鄞の人である。祖父の範は学行があり、かつて守陳に精思実践の学を教えた。景泰二年に進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修を授かった。成化初年、経筵講官を充たし、侍講に進んだ。『英宗実録』が完成すると、洗馬に遷った。まもなく侍講学士に進み、『宋元通鑑綱目』を同修した。母の憂いに服し、喪が明けると、元の官に起用された。孝宗が出閣すると、東宮講官となった。時に『文華大訓』を編纂していたが、宦官に関わる事柄はすべて記録しなかった。守陳はこれは正しくないと考え、その善悪得失を詳しく列挙した。書が完成すると、少詹事に進んだ。

孝宗が位を嗣ぐと、東宮の官僚はすべて官位を遷し、執政は守陳を南京吏部右侍郎に擬したが、帝は筆を挙げて「南京」の字を消した。左右が劉宣が今右侍郎であると言うと、帝は宣を左に改め、守陳をもってこれに代えた。『憲宗実録』を修し、副総裁を充たした。弘治に改元した正月、上疏して言った。

孟子は言う、「我は堯舜の道にあらざれば敢えて王の前に陳べず」と。そもそも堯舜の道とは何の道か。『書経』に言う、「人心は惟れ危く、道心は惟れ微なり、惟れ精に惟れ一にして、允に厥の中を執れ」と。これは堯・舜が内に得るところ深く、治を出す根本となったものである。四嶽に諮り、四門を辟き、四目を明らかにし、四聡に達する。これは堯・舜が外に資るところ博く、治を致す大綱となったものである。臣はかつて宮僚を辱うし、伏して陛下が経書を朗読されるのを拝見したが、未だ嘗て睿問を勤めて聖賢の奥旨を究められることはなかった。儒臣が訓詁を少し陳べるだけで、未だ嘗て詳説を進めて帝王の要道を極めることはなかった。これは陛下が内に得るところ未だ深くないのである。今、視朝して接見されるのは、大臣の風采のみである。君子・小人の情状、小臣・遠臣の才行を、どうして識ることができようか。退朝して披閲されるのは、百官の章奏のみである。諸司の典則、群吏の情弊を、どうして見ることができようか。宮中で聴信されるのは、内臣の言語のみである。百官の正議、万姓の繁言を、どうして聞くことができようか。恐らくは陛下が外に資るところ未だ博くないのである。

願わくは祖宗の旧制に従い、大小の経筵を開き、日に再び朝に御すること。大経筵および早朝は、ただ旧儀の如くにする。もし小経筵ならば、必ず端方博雅の臣を選び、番を代えて進講させる。凡そ未だ明らかでないことがあれば、すみやかに清問を賜う。凡そ聖賢の経旨、帝王の大道、および人臣の賢否、政事の得失、民情の休戚は、必ずこれを明らかに講じて疑いがなく、はじめて篤実に行って弊がないようにすべきである。前朝の経籍、祖宗の典訓、百官の章奏は、皆文華殿の後に貯え、陛下が退朝して披覧される。日に内閣一人、講官二人を前殿の右廂に居らせ、疑わしきことがあればこれを詢ね、必ず明らかにしてからやめる。一日のうち、文華殿に居る時多く、乾清宮に処する時少なければ、欲寡なく心清く、政に臨んで惑わず、内に得るところ深くして治を出す根本が立つであろう。午朝には文華門に御し、大臣・台諫が番を代えて侍直する。事がすでに疏に具わっているものは掲帖を用い、略節を口奏し、陛下が詳しく問いて裁決される。外の文武官が来朝するには、地方の事を条列させ、口で大要を陳べさせ、諸司に付して評議させる。その陛辞して赴任する者には、その職任に随って戒諭する。大政があれば文華殿に御し、大臣をして各々その謀を尽くさせ、互いに推避させない。適当でなければ言官に駁正を許す。その他、疏を具えて進める者には、閣臣を召して面議し可否を決し、それから批答する。そして奏事・辞朝の諸臣には、必ず言葉と顔色を和らげ、詳しく詢ね広く訪ね、務めて下情を尽くさせ、賢才を常に目前に接し、視聴を左右に偏らせず、天下の耳目を合わせて以て聡明とすれば、外に資るところ博くして治を致す大綱が挙がるであろう。

もし経筵や常朝がただ故事を踏襲するのみで、あらゆる章奏をみな内臣に委ねて旨を調え批答させるならば、臣は積弊が未だ革まらず、後患がますます深まることを恐れる。しかも今、積弊は数え切れぬほどである。官には廉恥の風が乏しく、士には浮競の習いが多い。教化は衰え、刑禁は弛み緩む。俗は奢侈で財はますます乏しく、民は困窮し盗賊は日増しに多い。列衛の城池は修めず、諸郡の倉庫は蓄えが少ない。甲兵は朽ち鈍り、行伍は空虚である。将は驕り怠惰で兵を知らず、士は疲弱で戦に習熟しない。万一、警報があれば、どうしてこれを防ぐことができようか。これが臣が朝夕憂い考え、ついには寝食を忘れることもある所以である。

帝は深く嘉納した。後に果たして午朝を復し、大臣を召して政事を面議させたが、みな守陳の発言によるものであった。まもなく史事が繁雑なことを理由に、部務の解除を乞うた。章を三度上奏して、ようやく本官のまま詹事府を兼ね、専ら史館に従事した。二年に卒した。文懿と諡され、礼部尚書を贈られた。

弟に守阯がいる。子に茂元、茂仁がいる。守阯は字を維立という。成化初年、郷試で第一となり、国学に入った。祭酒の邢讓が獄に下されると、六館生を率いて闕に伏して冤罪を訴えた。十四年、進士及第し、編修に任じられた。任期が満ちたが、故事では留都に遷る者はなかった。たまたま従兄の守随が李孜省に追放され、守阯をも併せて追放しようとしたため、南京侍読に任じられた。

弘治初年、召されて『憲宗実録』の修纂に当たり、経筵に直し、再遷して侍講学士となった。給事中龐泮らが知州劉遜を救うためにことごとく獄に下されると、吏部尚書屠滽は他の官を派遣してこれを代理させるよう奏上した。守阯は書を送り、屠滽の過失を極めて誹謗した。十年、京官の大計が行われた。守阯は当時院事を掌っており、言上した。「臣と掌詹事府学士の王鏊は、ともに部の考察を受けるべきである。しかし臣らはそれぞれ属員を有している。進んで吏部とともに所属を会考するならば堂上に座し、退いて考察を受けるならばまた階下で待たねばならない。我が朝は学士を優遇し、慶成の侍宴では班を四品の上とし、車駕が臨雍する時は彜倫堂内に座し、三品と同様に遇する。これは故事である。今、四品が考察に与らないならば、学士もまた与るべきではない。臣らの職は講読撰述であり、その称否は聖鑑にあり、考察を待たないものがある。」詔して可とした。学士が考察に与らないのは、守阯から始まった。『会典』を修し、副総裁を充てられた。まもなく南京吏部右侍郎に遷った。かつて兵部を署理し、時弊五事を陳述した。国子監の署理に改められた。考績で都に入ったが、『会典』はまだ完成しておらず、引き続き留まって総裁となった。事が竣ると、左侍郎に遷って任に還り、二階進んだ。武宗が即位すると、老齢を理由に休職を乞い、返答を待たずに帰った。詔して尚書を加えて致仕させた。劉瑾が政を乱すと、その加官を奪ったが、劉瑾が敗れると復し、久しくして卒した。

守阯は群書を博く極め、兄の守陳に師事し、学問と行いは互角であった。解元、学士、侍郎となったことは、いずれも兄と同じであった。また両京の翰林院を対掌し、人々は特にこれを艶称した。守陳が卒すると、守阯は位を設けて哭奠すること三年であった。

茂元は字を誌仁という。成化十一年の進士。刑部主事に任じられた。郎中を歴任し、出て湖広副使となり、山東に改められた。弘治七年、黄河が張秋で決壊し、詔して都御史劉大夏にこれを治めさせ、さらに中官李興、平江伯陳鋭を派遣して継いで赴かせた。李興は威虐で、按察使を縛り辱めた。茂元が司事を代理し、奏上して言った。「治河の役は、官が多くて責任が専一でない。有司の供億は、一日に百金を費やす。諸臣が初めて河を祭った時、天色は陰晦で、帛を燃やすことができなかった。焚いた残りが、あたかも人の顔のようで、耳目口鼻を備え、見る者は驚き怪しんだ。鬼神が怪異を示すのは、どうして偶然であろうか。乞う、李興、陳鋭らを召還し、専ら劉大夏に委ねれば、功は必ず成し遂げられよう。しかも水は陰の象である。今、后戚の家の威権が甚だ盛んで、仮の名姓を借りて貪暴をほしいままにする者は数え切れない。請う、禁防を加え、変異を消すべし。画工、芸士は、ことごとく放遣すべきである。山東にはすでに内臣が鎮守しているのに、さらに李全に臨清を鎮守させている。撤還すべきである。」上疏が入ると、山東の巡撫、按察使に下して調査させた。奏上して言うには、「焚帛の異変は確かにあったが、奏上した供億は多く実情を過ぎている。」そこで李興、陳鋭が連章して茂元の妄りを弾劾した。詔して錦衣百戸胡節を派遣してこれを逮捕させた。父老が道を遮って胡節に訴え、楊副使を還すよう乞うた。陛見に及んで、茂元は長跪して服従せず、帝は怒り、詔獄に置いた。胡節は中官に遍く叩頭し、父老が冤罪を訴えた様子を詳しく述べたので、中官の多くは感動した。たまたま言事者が交わって救いを論じ、部は杖刑を贖って職に還すよう擬したが、特に長沙同知に左遷された。病を理由に辞して帰った。久しくして起用され安慶知府となり、広西左参政に遷った。正徳四年、劉瑾が御史孫迪を派遣して銭穀を校勘させ、賄賂を要求したが与えなかった。劉瑾はまた茂元の従父である守随を憎んだため、遂に致仕を強制させた。劉瑾が誅されると、江西で起用され、まもなく雲南左布政使に遷った。右副都御史として貴州を巡撫し、南京都察院に改めて蒞任し、ついに刑部右侍郎で終わった。

茂仁は字を志道といい、成化末年の進士。刑部郎中を歴任した。遼東鎮守中官の梁玘が弾劾されると、給事中とともに往って按問し、その罪をことごとく発覚させた。ついに四川按察使で終わった。

張元禎は字を廷祥といい、南昌の人である。五歳で詩を作ることができ、寧靖王が召見し、元征と命名した。巡撫の韓雍はこれを器として「人瑞なり」と言い、そこで元禎と改めさせた。天順四年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修に任じられた。

憲宗が位を嗣ぐと、上疏して三年の喪を行うよう請うたが、聞き入れられなかった。その年五月、三事を陳述して上疏した。「一、講学を勤めること。寒暑を廃さず、講ずることは必ず修徳為治の実に切なるものとし、乱亡を忌み触れることを以って諱む必要はない。講が退いた後、さらに精神を凝らし静かに味わい、これを身心政化に験すべきである。講官は、大臣に公挙させて剛明正大の人とし、官職の大小に拘わらないこと。一、聴政を公にすること。日に文華殿に御し、午前に進講し、午後に聴政するよう請う。天下の章奏は、諸臣に命じて詳議し面陳して可否を述べさせ、陛下自ら臨んでその是非を決すべきである。暇な時は五品以下の官を召し、随意に時事の得失利病を問い、下情を以ってことごとく上達させること。一、賢才を用いることを広くすること。給事中、御史に命じて、それぞれ両京の堂上官の賢否を陳述させるよう請う。もし尽くさないところがあれば、在京の五品官にもこれを指陳することを許し、進退の参考とすべきである。また共に徳望ある者を推薦させ、去った者の位に代えさせれば、大臣はみな適任者を得るであろう。そこで命じてそれぞれその所属及び方面郡県の官の賢否を言わせ、内閣吏部に付して昇黜させるべきである。中外の群臣で、剛正敢言の者があれば、これを挙げて台諫とし、その言貌、官職、出身を論ずる必要はない。ただし堂上官にこれを委ねるのは宜しくない。その剛直を憚って、柔媚な者を推薦して数を充たすことを恐れる。挙げられた人はその推薦に感じて、敢えてその非を直斥することができない。これが古より大臣が台諫を挙げない所以である。」上疏が入ると、言うところ多くが窒礙で実行困難であるとして、これを寝かせた。『英宗実録』の修纂に預かったが、執政と議が合わず、疾を理由に引いて家に居り、性命の学を講求した。二十年を閲し、内外から交わって推薦されたが、いずれも赴かなかった。

弘治初年、召されて『憲宗実録』の編修にあたり、左賛善に進んだ。上疏して言う、「人君が王道を行うことを心がけないのは、大いに為すべき主君ではない。陛下は青宮(皇太子の宮殿)で徳を養われ、すでに大いに為すべき期待を担われた。近ごろは異端を尊び、近習を寵愛し、この心を惑わし、財貨の利を殖やし、玩好に耽り、この心を荒らし、幸門を開き、言路を塞ぎ、この心を暗くしている。それでは大いに為すことができません。願わくば聖なる志を定め、聖なる学を一にし、聖なる智を広められんことを」。上疏は反復して累万言に及び、帝はこれをかなり受け入れた。『実録』が完成すると、南京侍講学士に転じ、母を養うため帰郷した。久しくして、召されて『会典』の副総裁となった。到着すると学士に進み、経筵日講官を充てられ、帝は大いに傾聴した。元禎は体が清く痩せ、背丈は中人を超えず、帝は特に低い机を設けてその講義を聴いた。数か月後、母の喪で去職した。喪が明けると、南京太常卿に転じた。後に『通鑑纂要』を編修するにあたり、再び召されて副総裁となった。もとの官のまま学士を兼ね、詹事府を管掌するよう改められた。帝は晩年に徳がますます進んだ。元禎はこれにより講筵で『太極図』『通書』『西銘』などの書を増講するよう請うた。帝は急いでこれを取り寄せて見て、喜んで言った、「天がこの人を生んだのは、朕を啓発するためである」。大いに用いようとしたが、間もなく崩御した。

武宗が即位すると、吏部左侍郎兼学士に抜擢されて東閣に入り、専ら誥勅を司った。元禎は平素より盛名があった。林下に隠居して久しく、晩年になってようやく再び出仕した。館閣の諸人は皆後輩で、元禎の言論や意態を見て、迂闊であると考え、多く嘲笑した。また名位が互いに軋轢し、ついに誹謗の議論が沸き起こり、言官が相次いで上疏して元禎を弾劾した。元禎は七度上疏して休職を乞うたが、劉健が力を尽くしてこれを保った。劉健が去ると、元禎もまた卒した。天啓初年、文裕と追謚された。

陳音は、字を師召といい、莆田の人である。天順末年に進士となった。庶吉士に改められ、編修を授かった。成化六年三月、災異を理由に時政を上疏し、言う、「講学は問いを好むことに先立つものはない。陛下は時折経筵に臨まれるが、しかし身分の差は厳しく絶たれ、上に疑いがあっても問うことはなく、下に意見があっても陳べることはできない。願わくば儒臣を引見して便殿に座を賜い、従容として諮問議論し、聖聴を啓発されんことを。異端は正道の反対であり、法王・仏子・真人などは、一切罷免追放すべきである」。上疏は礼部に下された。数日後、また上奏した、「国家は百年にわたり士を養い、その可用を求めたが、多くは得られない。致仕した尚書李秉、在籍の修撰羅倫・編修張元禎・新会の挙人陳献章らは皆、当代の人望であり、李秉らを召還し、陳献章を台諫に置くべきである。言官は多く沈黙している。願わくば判官王徽・評事章懋らを召還して、言路を開かれんことを」。旨に逆らい、厳しく責められた。

司礼太監黄賜の母が死ぬと、廷臣は皆弔問に行ったが、翰林は行かなかった。侍講徐瓊が皆に相談すると、陳音は大いに怒って言った、「天子の侍従の臣が、相率いて宦官の家に拝謁するとは、清議をどうするつもりか」。徐瓊は恥じて引き下がった。任期が満ちて、侍講に進んだ。汪直の党羽韋瑛が夜、邏卒を率いて兵部郎中楊士偉の家に入り、士偉を縛り、その妻子にまで拷問掠奪を加えた。陳音は隣家に住み、塀に乗って大声で呼んだ、「お前たちは朝臣を辱めることを擅に行い、国法を畏れないのか」。その者らは言った、「お前は何者だ、西廠を畏れないのか」。陳音は声を厲して言った、「我は翰林の陳音である」。久しくして、南京太常少卿に転じた。劉吉が父の喪中に起復しようとすると、陳音は書を送って固辞するよう勧めたが、劉吉は悦ばなかった。後に吏部が陳音を用いようとすると、劉吉はしばしば「腐儒だ」と言って阻んだため、十年間転任できなかった。かつて守備中官と事を争い、弾劾されたが、事はついに正された。弘治五年、劉吉が罷免されて初めて、本寺の卿に進んだ。二年後に卒した。

陳音は経術に優れ、多くの士がその門に遊学した。しかし性来健忘で、世間の瑣末な事柄は皆理解できなかった。世間では多くの人が不慧な事柄を彼に付会して笑いものにしたが、すべて事実とは限らなかった。

傅瀚は、字を曰川といい、新喻の人である。天順八年に進士となった。庶吉士に選ばれ、検討に任じられた。学問を好み記憶力が強く、詩文に優れた。再び転じて左諭徳となり、東宮で講義を担当した。孝宗が帝位を継ぐと、太常少卿兼侍読に抜擢され、礼部左・右侍郎を歴任した。まもなく学士を兼ねて東閣に入ることを命じられ、専ら誥勅を司り、兼ねて詹事府事を管掌した。

弘治十三年、徐瓊に代わって礼部尚書となった。保定が白鵲を献上すると、上疏してこれを退けた。陝西巡撫熊翀が鄠県の民が得た玉璽を献上してきたが、秦の璽が再び出現したと考えた。傅瀚は同僚を率いて言上した、「秦の璽の完璧か毀損かは、簡冊に詳しく記載されている。今献上された璽は、形色・篆紐ともに似ておらず、後世の人が模造したものであろう。かつ帝王が天命を受けるのは徳にあって璽にはなく、太祖が六璽を制定され、歴代の聖君が相承されて百三十余年にわたり、天の恵みはますます至っている。天命の符瑞が秦の璽にないことは明らかである。願わくば暫く内府に蔵するにとどめられんことを」。帝はその言を是とし、璽を得た者に薄く賞を与えた。

京師で星変・地震・雨雹があり、四方で多く異変が起こった。傅瀚は軍民の不便を条上し、躬行節倹をもって天下に率先するよう請うた。光禄寺が行戸に滞納している物価が四万余両に及んだ。傅瀚は供億の濫りによるものと述べ、倹素を敦めて冗費を生じさせないよう願った。条奏したことは、概ね正論を述べた。十五年、卒した。太子太保を追贈され、文穆と謚された。

張昇は、字を啓昭といい、南城の人である。成化五年、進士の第一となった。修撰を授かり、諭徳を歴任した。弘治に改元すると、庶子に転じた。

大学士劉吉が国政を執っていた。張昇は天変に因み、上疏して言った、「陛下が即位されると、言う者は概ね万安・劉吉・尹直を言上した。万安と尹直は排斥されたが、劉吉だけが残った。劉吉は身を傾けて阿諛追従し、言官の歓心を買い、夜分に門を叩いて糾弾を免れるよう祈り、超遷を約束した。これにより諫官は口を閉ざし、奸計がようやく遂げられた。貴戚の万喜は宮壺に依憑して凶焰を熾んに張り、劉吉は彼と姻戚を結んだ。万喜が獄に下されても、なお救済を図った。父が存命中は別居して別々に炊事し、父が亡くなると喪中にもかかわらず起用された。談笑して客に対し、再び悲しみの表情を見せなかった。艶姫を盛んに納れ、恣に淫黷をなした」。かつ十の罪状として、賄賂収受・子息の放縦などを列挙した。劉吉は甚だ憤り、科道官に風を吹かせて張昇が誣告誹謗したと弾劾させ、南京工部員外郎に左遷した。劉吉が罷免されると、もとの官に復し、礼部左・右侍郎を歴任した。十五年、傅瀚に代わって尚書となった。

孝宗が崩御すると、真人陳応衤盾・西番灌頂大国師那卜堅参らが祓除のため、その徒を率いて乾清宮に入った。張昇は法に置くよう請うた。詔により真人・国師・高士など三十余人の名号を剥奪し、追放した。張昇は部に在ること五年、災異に遇うごとに直言を進めた。またしばしば言う者に攻撃されたが、自らは謹厳に守った。

武宗が遊戯にふけり政事を怠ると、給事中胡煜・楊一渶・張襘が皆これを言上し、上疏は礼部に下された。張昇はこれにより上疏し、賢を親しみ佞を遠ざけ、天戒を謹んで守るよう請うた。帝はこれを是としたが用いることができず、張昇はついに連続して上疏して休職を乞うたが、許されなかった。正徳二年、秦府鎮国将軍誠漖が保安王の襲封を請うたが、張昇は不可として執り行わなかった。劉瑾に逆らい、病を理由に辞任した。詔により太子太保を加えられ、駅伝で帰郷し、月米・歳夫は定めに従った。家で卒した。

呉寛は、字を原博といい、長洲の人である。文行をもって諸生の間に名声があった。成化八年、会試・廷試ともに第一となり、修撰を授かった。孝宗に東宮で侍し、任期が満ちて右諭徳に進んだ。孝宗が即位すると、旧学として左庶子に転じ、『憲宗実録』の編修に預かり、少詹事兼侍読学士に進んだ。

弘治八年、吏部右侍郎に抜擢された。継母の喪に服し、吏部に欠員が生じたが、命じてその地位を空けて待たせた。喪が明けて復帰し、左侍郎に転じ、詹事府を管掌するよう改められ、東閣に入り、専ら誥勅を司り、引き続き武宗の東宮に侍った。宦官たちは多く太子が儒臣に近づくことを望まず、しばしば用事を移して講読の間を妨げた。呉寛は同僚を率いて上疏して言った、「東宮の講学は、寒暑風雨であれば止め、朔望や節句であれば止め、一年に数か月を過ぎず、一月に数日を過ぎず、一日に数刻を過ぎない。これでは進講する時は少なく、講読を止める日が多いのである。どうしてさらに他の事をもって誦読を妨げることを許せようか。古人は八歳で師に就き、すぐに外に宿泊し、近習を離れ、正人に親しませようとしたのである。庶民でさえそうである。まして太子は天下の根本ではないか」。帝はこれを嘉納した。

十六年、礼部尚書に進み、その他の職は元の通りであった。先に、孝荘錢太后が崩御し、廷議では孝粛周太后が万歳の後、ともに裕陵に葬り、睿廟に合祀することとし、礼はすべて嫡妻の通りとすることとした。この時、孝粛が崩御し、廟に合祀しようとしたが、帝は終に並祀を疑い、礼官に下して集議させた。呉寛は『魯頌・閟宮』や『春秋』の考仲子の宮はいずれも別廟であり、漢・唐もまたそうであると言った。ちょうど大臣も多く別廟を主張したので、帝はこれに従った。当時、詞臣で声望の重い者は、呉寛が最も高く、謝遷がそれに次いだ。謝遷が既に内閣に入ると、かつて劉健に言って、呉寛を引き入れて共に政務を執らせたいと願ったが、劉健は固く従わなかった。ある日また言った、「呉公は科第・年齢・声望ともに私より先んじている。私は実に自ら愧じている。どうして呉公に私心があろうか」。謝遷が引退する時、呉寛を挙げて自らの後任としたが、結局用いられなかった。朝廷内外ともそのことを惜しんだが、呉寛は甚だ安んじて、「私の当初の望みはここまで及ばなかった」と言った。七十歳で、たびたび病気を理由に辞任を願い出たが、その都度慰留され、ついに官のまま卒した。太子太保を追贈され、文定と諡された。長子の呉奭に中書舎人を授け、次子の呉奐を国子生に補したのは、異例のことであった。

呉寛は行いが高潔で、過激で矯飾することはなく、自ら正を守った。書物で読まないものはなく、詩文には典則があり、書法にも優れていた。田数頃を持ち、かつて親族故人の中で貧しい者を救済した。友人賀恩が病気になると、その邸に移り住み、朝夕看病した。賀恩が死ぬと、一か月間喪服を着た。

傅珪、字は邦瑞、清苑の人。成化二十三年の進士。庶吉士に改められた。弘治年間、編修に任じられ、まもなく司経局校書を兼ねた。『大明会典』の編纂に参与して完成し、左中允に昇進した。武宗が即位すると、東宮時代の恩典により、左諭徳に進み、講官を充てられ、『孝宗実録』の纂修に当たった。当時、詞臣は劉瑾に附かず、劉瑾はこれを憎んだ。『会典』が劉健らによって完成され、多くの浪費があったと言い、編纂に関わった者の官位を削り、傅珪を修撰に降格させた。まもなく『実録』が完成したため、左中允に進み、さらに翰林学士に昇進し、吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。

正徳六年、費宏に代わって礼部尚書となった。礼部の事務は他の部に比べて簡素であったが、傅珪がたびたび主張して争ったため、上奏文は遂に多くなった。帝は仏教を好み、自ら「大慶法王」と称した。西蔵僧が田百頃を請い、法王の下院としようとした。中旨が部に下され、大慶法王と聖旨が並記されていた。傅珪は知らないふりをして、上奏して執り行った、「誰が大慶法王か。敢えて至尊と並べて記すとは、大不敬である」。詔して問わないこととし、田地も結局止められた。

傅珪は平素は無口な者のようであった。大事に当たると、毅然として主張し、人もその意見を変えさせることができず、ついにこれによって権勢ある者たちの意に逆らい去ることとなった。教坊司の臧賢が牙牌を改易し、朝士と同じ形制にするよう請い、さらに方印を改鋳するよう請うた。傅珪はこれを阻止して実行させなかった。臧賢は日夜、諸宦官の間で誹謗を飛ばし、傅珪を去らせようとした。流賊が河南を乱し、太監陸訚が督師を謀り、廷議に下されたが、誰も先に発言しようとしなかった。傅珪は声を厲して言った、「軍は疲弊し民は疲れ、賊は日々勢いを増している。功を偽る者が多く、事を敗った者が罰を免れているため、将士の心を失っている。先に派遣した者ですでに功績が無いのに、再び派遣できようか。今、賊は京畿の肘腋の間を横行し、民は騒然として乱を思い、禍いは旦夕に宗廟社稷に及ぼうとしている。我々は死んでも責任を償えず、諸公はどうして首鼠両端の態度を取り得ようか」。これによって派遣は取り止めとなった。上疏が上ると、結局陸訚が派遣されたが、宦官たちは皆傅珪を恨んだ。御史張羽が雲南の災害を奏上した。傅珪はこれに乗じて四方の災変の恐るべきことを極言した。八年五月、再び四月の災害を奏上し、それに乗じて言った、「春秋二百四十二年の間に、災変は六十九事あった。今、去秋以来、地震・天鳴・雹降・星殞・龍虎出現・地裂山崩、合わせて四十二事あり、水害旱害はこれに含まれない。災害がこれほど甚だしいことはかつてない」。時弊十事を極力陳述し、言葉多く権勢ある者たちを斥けたため、彼らはますます深く嫉んだ。ちょうど戸部尚書孫交もまた正を守って意に逆らったため、遂に偽りの旨を下して二人を致仕させた。両京の言官が相次いで上章して留任を請うたが、聞き入れられなかった。

傅珪が帰郷して三年後、御史盧雍が傅珪は在職中に古の大臣の風があり、家に蓄えが無く、日々の生計に苦しんでいることを称え、月給と歳禄を給付し、優礼を示すよう請うた。また傅珪は剛直忠讜であるから、起用すべきであると言った。吏部が盧雍の言う通りにするよう請うたが、返答が無かった。そして傅珪はちょうど卒し、五十七歳であった。遺言で恤典を請うなと命じた。巡撫・巡按が上言したため、詔してその子に中書舎人の官蔭を与えた。嘉靖元年、先朝の正を守った大臣を記録し、太子少保を追贈し、文毅と諡した。

劉春、字は仁仲、巴の人。成化二十三年に進士及第した。編修に任じられ、たびたび昇進して翰林学士となった。正徳六年、吏部右侍郎に抜擢され、左侍郎に進んだ。八年、傅珪に代わって礼部尚書となった。淮王祐棨と鄭王祐檡はいずれも傍系から襲封されたが、祐棨はその実父を考と称し、祐檡はさらに追封して廟に入れようとした。交城王秉杋は鎮国将軍から爵を嗣いだが、その妹を県主に進めようとした。劉春はいずれも礼に基づいてこれを駁し、遂に例として定着させた。

帝は西蔵僧を崇信し、常にその衣服を着て、内廠で法を演じた。綽吉我些児という者がおり、豹房に出入りし、大徳法王に封ぜられた。その徒二人を烏思蔵に還し、大乗法王の例のように国師の誥命を与え、毎年入貢させ、かつ茶を持ち帰ることを許すよう請うた。劉春は認められないと主張した。帝は再議を命じたが、劉春は上奏して執り行い、「烏思蔵は遠く西方にあり、性質は極めて頑冥で獰猛である。四王を設けて撫育教化しているが、その来貢には必ず節制があり、辺境の患いとならないようにしている。もし彼らに茶を持ち帰ることを許し、誥勅を与えれば、万一、上旨を偽って羌人を誘い、妄りに請乞し、従わなければ異俗の心を失い、従えば害を滋すことになる」と言った。上奏が上ると、茶を持ち帰ることは取り止めとなったが、結局誥命は与えられた。劉春はさらに上奏した、「西番の俗は仏教を信じるため、祖宗は前代の旧制を承け、烏思蔵諸司および陝西の洮・岷、四川の松潘諸寺を設立し、番人を化導させ、朝貢を許した。貢期・人数にはいずれも定めがある。近ごろ諸番が僻遠であるため、真偽を弁別できない。中国の逃亡罪人がその言語を習い、身を内に潜め、また多く寺を創建して寺額を請うている。番人の貢物は日増しに増え、宴礼賞与の費用が煩雑である。厳格に期限を定め、人数を酌定し、各寺に勘合十道を与え、辺境の兵備に勘合の底簿を保存させ、照合して同じであって初めて送り出すことを許すよう乞う。併せて今後はみだりに寺宇を営むことを禁ずる」。許可された。広東布政使羅栄らが入朝し、それぞれ鎮守宦官の入貢の害を言上した。劉春は累朝の貢献停止・廃革の詔旨を列挙して上奏し、かつ四方の水害旱害・盗賊、軍民の困苦の状況を述べ、諸鎮守臣の廃止を請うた。採用されなかった。

劉春が礼部を管掌して三年、彝典を慎んで守った。宗藩の封爵・婚姻の請願および文武大臣の祭葬・贈諡について、多く裁定修正した。憂いに遭い、喪が明けて南京吏部尚書に起用された。まもなく礼部尚書として専ら誥勅を司り、詹事府の事務を管掌した。十六年に卒した。太子太保を追贈され、文簡と諡された。

劉氏は代々科挙に及第して顕赫であった。春の父規は御史であった。弟の臺は雲南参政となった。子の彭年は貴州巡撫右副都御史となった。彭年の子起宗は遼東苑馬寺卿となった。起宗の子世賞は広東左布政使となった。臺の子鶴年は雲南布政使となり、清廉な名声で知られた。鶴年の孫世曾は雲南巡撫右副都御史となり、緬甸征討の功績があった。皆進士より出た。

吳儼は字を克溫といい、宜興の人である。成化二十三年に進士となった。庶吉士に改められ、編修を授かり、侍講学士を歴任し、南京翰林院を掌った。正徳初年、召されて『孝宗実録』を修し、講筵に直った。劉瑾が権柄を窃むや、儼の家に資産が多いと聞き、人を遣わして美官をもって誘った。儼は峻しくこれを拒絶したので、瑾は怒った。時に大計(官吏考査)が行われ、中旨をもって儼の官を罷免した。瑾が誅せられると、復職して礼部左・右侍郎を歴任し、南京礼部尚書に拝された。

十二年、武宗が北巡すると、儼は抗疏して切諫した。翌年、また諸大臣とともに上疏して言う、「臣等は初めに駕が昌平に幸することを聞き、かつ疏を具して極論したが、採納されなかった。既に出て居庸を過ぎ、宣府・大同に幸したと聞く。宰輔は及んで知らず、群臣は及んで従わず、三軍の士は及んで衛せず、京師内外の人心は動揺している。徐・淮以南は、荒饉千里、去冬は雨雪災害があり、民に衣食なく、どうしてその盗賊とならざるを保たん。防ぐべき寇はなお陰山に遠く隔たっているが、慮らざる禍はあるいは肘腋に猝然として起こるであろう。臣の大いに懼れるところである。」返答がなかった。

十四年、官において卒した。太子少保を贈られ、文肅と諡された。

顧清は字を士廉といい、松江華亭の人である。弘治五年に郷試第一を挙げた。翌年、進士となり、庶吉士に改められ、編修を授かった。同年の毛澄・羅欽順・汪俊とともに名節を砥ぎあった。侍読に進んだ。

正徳初年、劉瑾が権柄を窃むと、清の同郷の子張文冕が謀主となり、これに附く者はたちまち尊顕となった。清は全くこれと通ぜず、瑾はこれを恨んだ。四年、『会典』の小誤を摘発し、諸翰林を挫き、清は編修に降格した。また諸翰林が政事に通じていないとして、外任及び両京の部属に調し、清は南京兵部員外郎を得た。時に父の憂いに遭い、赴任しなかった。瑾が誅せられると、侍読に還り、侍読学士に擢て院事を掌った。まもなく少詹事に遷り、経筵日講官を充て、礼部右侍郎に進んだ。時に澄はすでに尚書となっており、清は協恭して職を守り、前後して儲宮の建立、巡幸の停止を請うた。疏は凡そ十数回上った。世宗が嗣位すると、御史李献に弾劾され、罷免されて帰郷した。

清は学問が端正で行いが謹直、進取に恬淡であった。家居するも、推薦する者が相継いだが、皆取り上げられなかった。嘉靖六年、老成で内閣に堪えうる者を挙げよとの詔があり、廷推で清に及んだので、南京礼部右侍郎とした。上言して、「錦衣は侍衛を職とし、祖宗の朝には機密でなければ遣わさなかった。正徳年間、営差が四出し、海内騒然たるは、陛下の親しく見られるところである。近ごろ千戸を遣わして揚州の高瀹の私財争いの事を勘案させ、その女婦を囚え、憯毒を備え加えた。請う、今より悉く所司に付し、旗校を停めて遣わさぬこと。」これに従った。

たびたび疏を上して病を理由に退き、詔して尚書に進めて致仕させた。時にちょうど進表のため都に入り、途中で卒した。文僖と諡された。

劉瑞は字を德符といい、内江の人である。父の時斅は山東僉事に官し、廉恵をもって称された。瑞は弘治九年に進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、検討を授かった。好学潔修で、事に遇うごとに論建があった。清寧宮の災害の際、醮壇の廃止を請うた。時に内閣講官を召して治道を延訪したが、また言う、「故閹李広の門下の内臣は、宜しく悉く治罪すべし。前太監汪直は先帝の罪人、今来たりて用いられんと覬みるは、当に斥遠すべし。副使楊茂元・郎中王雲鳳は直言をもって罪を得たが、宜しく召してその官に復すべし。京師の万春宮、興済真武廟、寿寧侯第、在外の興・岐・衡・雍・汝・涇諸府は、土木が繁興しているが、宜しく不急のものを悉く罷むべし。都勻の捷は、鄧廷瓚がその功を冒した。賀蘭の征は、王越がその釁を啓いた。欺罔の罪を追正することを請う。」聞き入れられた。闕里の廟が成ると、大学士李東陽を遣わして祭告させた。瑞は先師の封諡を更定することを請うたが、果たされなかった。

武宗が即位すると、治本を端にする九事を疏陳した。祭酒章懋、侍郎王鏊、都御史林俊・雍泰を召すことを請うた。また参政王綸、副使王雲鳳、僉事胡献、知府楊茂元、照靡余濂を超擢することを請うた。これにより、諸臣多く進用された。

劉瑾が権を握ると、瑞はただちに病を理由に退いた。貧しくして郷に還れず、従母の子李充嗣を澧州に依った。瑾は瑞を奸党として掲示し、また以前に雍泰を推薦したことを理由にその名を除き、米を罰して塞上に輸送させた。これによりますます困窮し、弟子を授けて自給した。

瑾が誅せられると、副使として浙江の学校を督し、召されて南京太僕少卿となった。嘉靖二年、南太常卿より就いて礼部右侍郎に遷った。災変により同官とともに六事を条上し、また斎醮は無益で政を妨げ、織造は費多くして民を病むと述べた。帝は多くこれを採用した。大礼の議が起こると、瑞は九卿とともに合疏した。大宗・小宗の義を極言し、凡そ数千言に及んだ。四年、官において卒した。尚書を贈られた。隆慶初年、文肅と諡された。

賛して言う、周洪謨らは詞臣より卿貳を歴任した。あるいは職事に拳拳とし、あるいは侃侃として建白し、進講は啓沃を心とし、守官は献替をもって自ら効した。文学侍従の選に、均しく諸に愧じるところなし。