明史

列傳第七十三 李敏 賈俊 黃紱 張悅 佀鍾 曾鑑 梁璟 徐恪 李介 黃珂 王鴻儒 叢蘭 吳世忠

○李敏(附葉淇)賈俊(附劉璋)黃紱張悅(附張鎣)佀鍾曾鑑梁璟(附王詔)徐恪李介(附子昆)黃珂王鴻儒叢蘭吳世忠

李敏

李敏、字は公勉、襄城の人。景泰五年の進士。御史に任じられる。天順初め、勅を奉じて貴州の蛮を撫定す。還り、畿内を巡按す。薊州の餉道が海口を経由し、多く覆溺するを以て、別に三河を開き薊州に達し、以て其の険を避くべしと建議し、軍民之に利せり。

成化初め、薦に用いられ超遷して浙江按察使となる。再び湖広に任ず。歴て山西・四川の左・右布政使を経る。十三年、右副都御史に擢てられ、大同を巡撫す。敵騎塞下に出没し、守墩の軍を掩殺す。敏は壮士を伏せて突き之を擒う。垣塹を修治し、敵敢えて犯さず。十五年、召されて兵部右侍郎と為る。四年を踰え、病にて帰る。河南大饑し、救荒の数事を条上す。詔して左副都御史を以て保定諸府を巡撫せしむ。二十一年、漕運を督するに改め、尋いで召されて戸部尚書を拝す。

先ず是れ、敏が大同に在りし時、山東・河南より転餉至る者、道遠くして耗費すを見て、乃ち歳支を会計する外、悉く銀を輸せしむ。民軽賫して易く達し、而して将士其の贏を以て軍装を治むるを得、交えて之に便す。是に至り、並びに畿輔・山西・陜西の州県、歳に各辺に糧を輸する者を請う、糧一石毎に銀一両を征し、十九を以て辺に輸し、時値に依り軍餉に折し、余有れば則ち召糴して以て軍興に備う。帝之に従う。是より北方の二税皆銀に折し、敏に始まる。崇文門宣課司の税、多く勢要の侵漁する所と為る。敏、馬文升の言に因り御史主事を増設し監視せしむるを請う。御史陳瑤、敏を聚斂すと斥く。敏再疏して去らんことを求む。帝之を慰留す。貴戚隙地及び鷹房・牧馬場千頃を請う。敏執いて不可とし、事得て寢す。

憲宗の末に当たり、中官・佞幸多く庄田を賜わる。既に罪を得て、率ね辞して之を官に帰し、罪重き者は之を奪う。然れども以て民に賦せず。敏召佃を請い、畝に銀三分を科す。帝之に従う。然れども他の庄田は故の如し。京師大水有るに会し、敏乃ち其の害を極めて陳べ、言う、「今畿輔に皇庄五、地と為る者一万二千八百余頃。勛戚・中官の庄三百三十有二、地と為る者三万三千一百余頃。官校無頼を招きて庄頭と為し、畜産を豪奪し、人を戕殺し、婦女を汚す。民心痛傷す。災異の生ずる所是れに由る。皇庄は正統間に始まり、諸王未だ封ぜられず、相い閑地に庄を立つ。王の藩すに及び、地仍て官に帰す。其の後乃ち沿襲す。普天の下、王土に非ざるは莫し。何ぞ必ずしも皇庄を要せん。請うくは尽く庄戸を革し、民に賦して耕さしむ。畝概ね銀三分を征し、各宮の用度に充つ。皇庄の名無くして、而も用に足るの効有らん。権要の庄田に至りては、亦た佃戸を択びて之を領せしむるを請う。有司其の課を収め、諸家の領取するに聴かしむ。民心を悦ばしめ、和気を感ぜしむるは、此に切なるは無し」と。時に用いる能わず。

南京の御史と守備太監蔣琮と相い訐る。御史咸く逮謫せられ、而して琮は職に居ることを故の如し。敏再疏して力争うも、皆聴かず。弘治四年、疾を得て休を乞う。帝為に医を遣わし視療せしむ。已にして、復た力請す。乃ち葉淇を以て代え、詔して敏に伝に乗じて帰らしむ。未だ家に抵らずして卒す。太子少保を贈られ、謚して恭靖と曰う。

敏生平行誼に篤く、得る所の祿賜悉く以て昆弟・故人に分つ。裏居の時、室を紫雲山の麓に築き、書数千巻を聚め、学者と講習す。及び大同を巡撫し、疏して之を官に籍す。詔して名を紫雲書院と賜う。大同の孔廟に雅楽無し。敏の奏を以て制の如く頒給を得たりと云う。

葉淇

葉淇、字は本清、山陽の人。景泰五年の進士。御史に任じられる。天順初め、石亨之を譖して吏に下す。考訊するも験無く、出でて武陟知県と為る。成化中累官して大同巡撫となる。孝宗立ち、召されて戸部侍郎と為る。弘治四年、李敏に代わりて尚書と為り、尋いで太子少保を加う。哈密、土魯番の為に陥せらる。守臣其の遺民に廩食を給し、内に処せんことを請う。淇曰く、「是れ自ら禍を貽すなり」と。其の奏を寢す。奸民大名の地を献じて皇庄と為さんとす。淇議して之を有司に帰せしむ。内官龍綬銀礦を開かんことを請う。淇不可とす。帝之に従う。已にして、綬長蘆の塩二万引を請い、両淮に於て鬻ぎ以て織造の費に供せんとす。淇力争うも、竟に納れられず。

淇戸部に居ること六年、直亮にして執り有り、能く国家の為に財用を惜しむ。毎に廷議兵を用いんとすれば、輒ち不可を執る。惟だ開中の制を変じ、淮商に銀を以て粟に代わらしむるを令す。塩課驟かに百万に増至し、悉く之を運司に輸す。辺儲此に由りて蕭然たり。九年四月休を乞い、帰りて卒す。太子太保を贈らる。

従子贄、進士、歴官して刑部右侍郎に至り、清操を以て聞こゆ。

賈俊

賈俊、字は廷傑、束鹿の人。郷挙によって国子監に入る。天順年間、選ばれて御史に授けられる。順次浙江・山西・陝西・河南・南畿を巡察し、赴任する所々で名声があった。

成化十三年、山東副使から越階して右僉都御史に任命され、寧夏を巡撫する。在鎮七年、軍民は業を楽しみ、召されて工部右侍郎となる。二十一年、勅命を奉じて河南の飢饉を救済する。まもなく左侍郎に転じ、数ヶ月後に尚書に任命される。当時は専ら進士を重んじ、挙人で六卿に至る者はなかったが、俊のみが重望によってこれを得た。孝宗が践祚すると、尚書の王恕・李敏・周洪謨・余子俊・何喬新、都御史の馬文升はいずれも当代の民望ある者であり、俊がその間に加わり、また職務に相応しかった。

諸王府の邸宅・墳墓はすべて官が費用を支給するが、儀仗も時々修繕する。内官監は頻繁に大工事を起こそうとしたが、俊は言上して、王府には既に禄米・荘田があるから、半額を給付するよう請い、儀仗は甚だしく破損していない限り、役所を煩わせるべきでなく、公家が営むべきは倉庫・城池のみで、その他はすべて停止すべきであるとした。帝はこれを許可した。弘治四年、宦官が沙河橋の修復を奏請し、京軍二万五千及び長陵五衛の軍を動員して労役を助けるよう求めた。内府宝鈔司は工匠の増員を求めた。浙江及び蘇州・松江諸府は水害に遭ったばかりであるのに、織造の錦綺が数万匹に及んだ。俊はいずれも執奏して、すべて中止させた。

工部の政務は内府の監局と表裏をなし、内官監は特に工役を専管し、職務が特に関連する。俊はそれに屈せず、工役は大いに省かれた。太廟の後殿が完成すると、太子少保を加えられる。足の病により致仕する。詔して伝車に乗って帰ることを許し、人夫と食糧を規定通り給付した。一年余り後に卒す。

俊は廉潔で慎重であり、工部に八年在職し、その声望は朝廷と民間に信頼された。

後任の劉璋、字は廷信、延平の人。天順初年の進士。内外の官を歴任して名声があった。工部にあっても、しばしば争って執奏し、その名声は俊に次いだ。

黄紱

黄紱、字は用章、その先祖は封丘の人。曾祖父が平越に移り、そこで家を定めた。紱は正統十三年の進士に及第し、行人に任じられ、南京刑部郎中を歴任する。剛直で廉潔、人々は彼を「硬黄」と見なした。大悪党の譚千戸という者が民の蘆場を占拠し、敢えて問う者もなかったが、紱はこれを奪い返して民に還した。

成化九年、四川左参議に遷る。久しくして、左参政に進む。崇慶を巡察中、旋風が輿の前に起こり、進むことができなかった。紱は「これには必ず冤罪がある、私が理めなければならない」と言い、風はやがて散じた。州に至り、城隍神に祈ると、夢に州西の寺について語る者がいるようであった。寺は州から四十里離れ、山に倚って巣窟とし、後方は大きな塘に臨んでいた。僧は夜に人を殺して塘の底に沈め、その財産を分け、また窟の中に多くの婦女を隠し持っていた。紱は吏と兵を発してこれを包囲し、徹底的に詰問してその状況を得、僧を誅し寺を破壊した。倉吏が皇親に依って官糧を巨万乾没していたが、紱は法に照らして追及し、威令は管内に行き渡った。四川・湖広の左・右布政使を歴任する。建昌の銀鉱の閉鎖を奏上する。両京で工事が起こり、湖広は銀二万両を輸送すべきところ、慣例では民から徴収していたが、紱は庫の余剰をもってこれに充てた。荊王が先祖の墳墓の移転を奏請したが、紱は民の擾乱を恐れ、執って許可しなかった。

二十二年、右副都御史に抜擢され、延綏を巡撫する。参将の郭鏞、都指揮の鄭印・李鐸・王琮らを弾劾して罪に当たらせ、奸豪の張綱を計略で捕らえた。軍令を申し立て、墩堡を増設し、辺政は一新した。外出して士卒の妻が体を覆う衣もないのを見、嘆いて「健児の家がかくも貧しいとは、何の面目あってその上に臨めようか」と言い、急いで三月分の兵糧を前貸しし、自ら慰撫した。ちょうど詔によって庵寺を破壊することとなり、紱はこれに因んで諸尼をすべて淘汰し、妻のない壮士に給付した。紱が去る時、多くの者が子女を連れて道で拝礼して送った。

弘治三年、南京戸部尚書に任命される。言官は紱の昇進が甚だ急であるとして、頻りに上奏した。帝は聞き入れず、そのまま左都御史に改めた。紱は差歴簿を庭で焼いて「事は人を得ることを貴ぶのであって、資歴の長短がどうして官を立てる本意であろうか」と言った。紱は四十余年官を歴任し、性は短気で、人を受け容れることができなかった。しかし操行は潔白で、赴任する所々で業績を立てた。六年に休職を請い、まだ出発しないうちに卒した。

張悦

張悦、字は時敏、松江華亭の人。天順四年の進士に挙げられ、刑部主事に授けられ、員外郎に進む。

成化年間、外任して江西僉事となり、改めて浙江の学校を督学する。請託を力強く拒み、士人の試験採点に糊名を用いず、「私は己の信ずる所によって取るのみである」と言った。四川副使に遷り、按察使に進む。喪に遭い、服喪終了後に湖広に補される。王府の承奉である張通が放縦であったが、悦は法によってこれを糾した。入朝の際、宦官の尚銘が東廠を督いており、衆は競ってその門に趨ったが、悦のみは行かなかった。銘は甚だ恨みに思い、探らせたが何も得られなかった。銘が失脚すると、召されて左僉都御史に任命される。

孝宗が即位すると、工部右侍郎に遷り、吏部左侍郎に転ずる。王恕が尚書であった時、悦はこれを補佐し、二度選事を代行した。弘治六年夏、大旱魃があり、意見を求めた。悦は旧章を遵守し、小民を恤れみ、倹素を尊び、冗食を削減し、濫罰を禁ずる数事を陳べ、また修徳・図治の二つの上疏を奉った。いずれも嘉納された。まもなく南京右都御史に遷り、そのまま吏部尚書に改める。九年、再び兵部に改め、機務に参与し補佐した。年齢に至り、累次上疏して休職を請うた。詔して太子少保を加え、伝車に乗って帰郷することを許した。卒して太子太保を追贈され、諡は荘簡。

時に悦と同郷であり、先に南京兵部尚書となった者に張鎣がいる。字は廷器、正統十三年の進士である。景泰初め、御史に抜擢された。江西副使按察使、陝西左布政使を歴任した。成化三年、右副都御史として寧夏を巡撫した。寧夏の城は土を築いたものであったが、鎣は初めて磚で覆った。河川を引き、霊州の屯田七百余頃を灌漑した。父の喪のため去職した。喪が明けると、起用されて河間諸府を巡撫し、大同に改められ、刑部左・右侍郎を歴任した。十八年、本部尚書に抜擢された。翌年、太子少保を加えられた。また翌年、再び憂いに服して帰郷した。弘治元年、南京兵部尚書として起用され、官にて卒した。太子太保を追贈され、諡は莊懿である。

似鐘

似鐘、字は大器、鄆城の人である。成化二年の進士。御史に任じられ、両淮で塩務を巡察した。浙江を按察して還り、諸道の章奏を掌った。汪直が鐘に馬文升を弾劾するようほのめかしたが、鐘は承諾せず、讒言されて闕下で杖罰を受けた。都御史王越の推薦により、大理寺丞に抜擢され、再び右少卿に遷った。寇が大同に入ると、廷議で大臣を派遣して保定諸府を巡視させることとなり、そこで鐘に命じた。数ヶ月経たずして、右副都御史に抜擢されその地を巡撫した。河間の海に臨む民地が勢家に占拠されていたが、鐘はこれを奪い返した。召されて刑部右侍郎となった。母の喪に服し、運送船を借りて母の柩を南に運んだ。督漕総兵官王信がこれを奏上し、逮捕されて官吏に下された。時に当路が尹旻の党を追放しようとしており、鐘は旻と同郷であったため、二階級貶めて曲靖知府とし、徽州に改め、再び入朝して大理寺左少卿となった。

弘治三年、右副都御史として蘇州・松江諸府を巡撫し、凶作対策に尽力した。召されて戸部侍郎総督倉場となり、まもなく吏部に改められた。十一年、右都御史に遷った。二年在任し、戸部尚書に進んだ。

十五年、天下の会計の数値を上奏し、言うには、「常時の収入となる賦税は、蠲免によって次第に減じ、常時の支出となる費用は、請乞によって次第に増え、収入が支出に足りない。正統以前は軍国費が省かれ、小民は正賦を納めるのみであった。景泰より今日に至るまで、費用が日増しに広がり、定額外の徴発がある。河南・山東の辺境の兵糧、浙江・雲南・広東の雑弁は、いずれもかつてはなかったものである。民はすでに重く困窮しており、これ以上増やすことはできない。かつては四方が豊作で、辺境に調発がなく、州県に流亡者がいなかった。今、太倉に蓄えがなく、内府は窮乏し、しかも冗食冗費が以前より日増しに加わっている。願わくは陛下が戒めをもって憂いを省み、力を加えて節減なさることを。かつ廷臣に勅して、ともに用度を充足させる方策を求めさせられよ。」帝はそこで廷臣に議させた。議が上った十二事のうち、伝奉による冗官を罷め、内府の濫収した軍匠を淘汰し、騰驤四衛の勇士を整理し、寺観の斎醮を停止し、内侍・画工・番僧の供応を省き、王府及び織造の塩引濫乞を禁じ、有司に庄田租を徴収させることなどは、いずれも権幸にとって都合の悪いことであった。上疏は数ヶ月留め置かれて裁可されず、鐘はそこで再びこれを言上した。他の事は皆許可されたが、権幸に関わる事柄は結局阻まれて行われなかった。

奸商が外戚張鶴齢に取り入り、長蘆の旧塩引十七万について追徴塩課を免除し、毎引につき銀五分を納め、別に価を以て各塩場の余塩を同数分買い、販売を許すことを乞うた。帝はこれを許した。後に奸民が先例に倣って両淮の旧塩引百六十万を乞うたが、鐘らは強く反対したが、いずれも聞き入れられなかった。ここにおいて塩法は大いに乱れ、奸人が江湖に横行し、官司はどうすることもできなくなった。

東廠の偵察者が鐘の子の瑞が金を受け取った事を発覚させ、鐘はたびたび上疏して休職を乞うた。命により駅馬で帰郷した。正徳の時、劉瑾が鐘が部にいた時の事を摘発し、米を罰せられること三度に及んだ。また数年後に卒した。

曾鑒

曾鑒、字は克明、その先祖は桂陽の人であるが、戍籍によって京師に居住した。天順八年の進士。刑部主事に任じられた。通州の民十余人が盗賊の罪に坐せられ、獄はすでに決していたが、鑒はその誣告を弁明した。後に、果たして真の盗賊を捕らえた。成化末、右通政を歴任し、累進して工部左侍郎となった。弘治十三年、尚書に進んだ。

孝宗の在位は長く、海内は楽業にあり、内府の供奉は次第に広がり、司設監が龍毯・素毯百余りを改造することを請うた。鑒らは言うには、「毯は一つの物ではあるが、しかし山・陝より毛毳を徴発し、河南より綿紗諸料を採り、蘇州・松江より工匠を召し、数年を経て、労費は百様である。停止を賜わるよう乞う。」聞き入れられなかった。内府針工局が幼匠千人を収容することを乞うた。鑒らは言うには、「往年、尚衣監が工匠千人を収容し、兵仗局がこれに倣って二千人まで収容した。軍器局・司設監がまたこれに倣い、各々千人を収容した。弊害の源がひとたび開かれると、その流れは止まることがない。」そこで命じてその半減を減らさせた。太監李興が元夕の煙火を調達することを請うたが、詔により削減が命じられ、鑒の上奏によりことごとく罷めさせた。十六年、帝は諸大臣の言を容れて織造の中官を召還したが、中官鄧容が請うたため、帝はまたこれを許した。鑒らが極言したので、そこで三分の一を減ずるよう命じた。その冬、諸省が用兵中であり、かつ水害旱害が多く盗賊がいると言上し、諸営繕及び来年の煙火・龍虎山上清宮の工事を罷めるよう乞うた。帝は皆これに従うと答えた。

正徳元年、雷が南京報恩寺の塔を震わせた。守備中官傅容がこれを修復することを請うた。鑒は天心が戒めを示したのであり、重ねて土木を興して民力を労すべきではないと言い、そこで止めさせた。御馬監太監陳貴が馬房の移転を奏上し、欽天監官倪謙が再調査してこれに従うよう請うた。給事中陶諧らが貴が公に仮って私を営み、かつ謙が阿附したことを弾劾したが、聞き入れられなかった。鑒が執奏し、馬房はすべて欽天監が相視して営造したものであり、その後任意に増設したものは、取り壊し改正させ、自らの資金で修繕させるべきであり、そうすれば牧養に妨げなくして民も労しないであろうと言った。許可された。内織染局が蘇州・杭州諸府の織造を開き、上供の錦綺二万四千余りを織ることを請うた。鑒は力を尽くして停止を請い、三分の半を減ずることができた。太監許鏞らが各々勅を携えて浙江諸処で木植を抽運しようとしたことも、鑒の言により中止させることができた。

孝宗の末年、閣部の大臣は皆一時の選りすぐりであり、鑒もまた公正を保持した。韓文らとともに宦官誅殺を請うて勝たず、諸大臣で留まった者は概ね従順に禍を避けたが、鑒ひとり従来の節操を守った。詔して皇親夏儒に邸宅を賜うたが、帝はその狭さを嫌い、拡張しようとした。鑒は力爭したが、従わなかった。翌年春、中官黄準が鳳陽を守備し、その請いに従い、旗牌を賜うた。鑒らは大将が出征する時及び諸辺の守将のみが旗牌を持つものであり、内地の守備には先例がないと言い、そこで中止させた。その年の閏正月に致仕した。まもなく卒した。太子太保を追贈された。

梁璟

梁璟、字は廷美、崞県の人である。天順八年の進士。兵科給事中に任じられた。

成化の時、たびたび遷って都給事中となった。項忠が荊州・襄陽を征し、流民を駆り立てて旧業に復させた。璟はその兵を縦して逼迫させたことを弾劾し、賊よりもさらに悲惨であるとし、その言葉は『忠伝』に詳しい。延綏で用兵があり、山西に芻粟を前もって徴収させたため、民は相次いで逃亡した。璟がその困窮を疏陳したので、寛減を得た。畿輔八府は以前は巡撫一人を設けるのみで、薊州に駐在して辺境を防衛していたが、兼ねて顧みることができなかった。璟は順天・永平二府に分けて一巡撫を設け、薊州の辺務をこれに属させ、巡撫陳濂に保定六府を専ら巡撫させて紫荊諸関を督させるよう請うた。朝議はこれに従い、遂に定制となった。後に、同官の韓文・王詔らとともに致仕した尚書王竑・李秉を起用し、都御史王越を斥け、宮闈の隠れた事柄にも及ぶことを奏請し、文華殿で打たれた。武靖伯趙輔が西征して敢えて戦わず、病と称して還還を求め、また営府の事を掌ろうと謀った。璟らがその罪を極論したので、そこで養疾して帰郷させた。

九年の任期が満ち、陝西左参政に抜擢され、洮州・岷州の分守を担当した。西番が侵入した際には、兵を督してその首魁を斬った。母の喪に服し、喪が明けると元の任に戻り、左・右布政使を歴任した。先後合わせて陝西に十五年滞在し、多くの政績を挙げた。

孝宗が帝位を継ぐと、右副都御史に転じ、湖広を巡撫した。弘治二年、民衆が飢饉に陥ったため、両京の漕糧八十九万余石の徴収免除を請願し、聞き入れられた。皇帝の即位詔書ですでに四方の額外の貢献は廃止されていたが、武当山を提督する宦官が再び黄精・梅筍・茶芽などの物品を貢いでいた。武当の道士はもと四百人に過ぎなかったが、この時には倍増し、度牒を受けた道童はさらに倍になり、皆が官から衣食を給されていた。月ごとに油蠟・香楮を支給し、掃除の夫役は千単位でいた。宦官の陳喜はまた道士三十余人を引き連れ、それぞれが護持の勅書を賜り、行く先々で威圧と暴虐を振るった。梁璟はこれら全ての停止・免除を奏上して請願し、多くが採用された。父の喪に服し、喪が明けて再び四川を巡撫した。七年に召されて南京吏部右侍郎に任じられ、しばらくしてそのまま戸部尚書に進んだ。致仕して帰郷し、死去した。

王詔

王詔、字は文振、趙の人である。生まれつき異様な風貌を持ち、学士の曹鼐が彼を奇異とし、娘を娶らせた。天順末年、進士に及第し、工科給事中に任じられた。睿皇后が崩御した時、秋の太廟祭祀に当たっており、当時の議論では卑しい者(皇后)のために尊い者(皇帝・祖先)の祭祀を廃すべきではないとされていた。王詔は『礼』に喪中には祭祀を行わないとあり、やむを得ないならば日を改めて喪服を脱ぐのを待つべきだと述べた。議論は採用されなかったが、識者はこれを正しいとした。牧馬草場を調査し、会昌侯孫継宗・撫寧侯朱永の侵占の罪を弾劾した。当時、地方長官に欠員があり、京卿三品官に保挙させた。王詔は奔走競争の風潮を助長する恐れがあると述べたが、聞き入れられなかった。累進して都給事中となった。八年七月、隆善寺修復の工事が完了した勅命により、工匠三十人に尚宝少卿の官が授けられ、任道遜らは碑文を書いたことで皆位階を進められた。王詔は上疏して強く諫めたが、省みられなかった。その後、梁璟らと共に宮中の事柄に言及して論じたところ、皇帝は大いに怒り、文華殿に召し出して面と向かって詰問した。王詔は天を仰いで叫んで言った、「臣らの言うことは適切ではなかったかもしれませんが、この小さな犬馬の誠意は、国のためと知っているだけです」。そこで杖罰に処した後に釈放した。外任として湖広右参政に出た。原傑が荊州・襄陽を経略した際、王詔が補佐して功績が多かった。父の喪で職を去った。喪が明けて再任し、右布政使に昇進した。

弘治元年、貴州左布政使に転じた。その冬、右副都御史として雲南を巡撫した。土官は相続争いを好み、担当役人が賄賂を受け取るため、是非曲直が混乱し、辺境の患いを生じていた。王詔は賄賂を受け取らず、全て法によって裁断し、さらに不便な弊政を除去した。諸夷は帰順し、辺境は寧静になった。旧官で帰郷できない者がおり、妻子は多く奴隷として売られていた。王詔は資金を出して送り届けさせ、帰郷できた者は非常に多かった。洪武年間、尚書の呉雲が王禕の後を継いで殉死したが、後に王禕には忠文と諡され、毎年祭祀されたが、呉雲は及ばなかった。王詔がこれを請願したため、呉雲に忠節と諡し、王禕と共に祭祀した。四年に召されて南京兵部右侍郎に任じられたが、着任せずに死去した。

徐恪

徐恪、字は公粛、常熟の人である。成化二年に進士となり、工科給事中に任じられた。宦官が抽分廠の管理に出ようとしたため、徐恪らが上疏して争った。宦官は怒り、直ちに徐恪らを派遣し、その罪を探ろうとしたが、何も得られなかったのでやめた。外任として湖広左参議に出て、河南右参政に転じた。陝西が飢饉の時、数万石の穀物を輸送することになっていた。徐恪は道が遠いことを理由に代金納入を請願し、上下ともに便利だと称賛した。

弘治初年、左・右布政使を歴任した。徽王府の承奉司が制度に違反して吏を設置したため、徐恪はこれを廃止した。王が徐恪の侵侮を上奏したので、皇帝は書を賜って王を戒めた。黄河が流路を変えて開封に迫り、藩府と三司を許州に移す議論があったが、徐恪は不便であると述べ、取りやめになった。四年に右副都御史に任じられ、その地を巡撫した。上奏して言った、「秦の項梁こうりょう・唐の龐勛・元の方谷珍らは往々にして東南から起こりました。今、東南の民力はすでに尽きており、水害・旱害が重なり、去る冬には彗星が天津を掃き、まさに呉・越の地を直撃しました。どうか織造の宦官を召還し、撫按の諸臣に勅して心を込めて慰撫させることで、異変を鎮められますよう」。皇帝は従わなかった。先例では、王府に大きな喪があると、宦官を派遣して弔問させ、その通過地で民を煩わせた。成化末年になって、初めて王府の承奉を派遣することになった。皇帝が即位すると、また元に戻した。徐恪は先帝の制度のようにすることを請願し、併せて冗官の淘汰・賦税の整理・科擾の禁止・贖罪の規定制定・抽分の廃止など数事を条陳し、多くが議論されて実行された。戸部が滞納の督促を急いだため、徐恪は災害の異変を理由にその事を緩めるよう請願した。御史の李興が鄖陽に別に三司を設置し、南陽・荊州・襄陽・漢中・保寧・夔州をこれに隷属させるよう請願した。徐恪は五つの不可能な理由を陳べ、取りやめになった。

徐恪は元来剛直で正しかった。赴任先では、豪族を抑制し、奸弊を除去した。巡撫となってからは、管轄下に王府が多いため、法の執行が特に厳格で、宗室の人々は多く不満であった。平楽王と義寧王の二王は遂に徐恪が禄米を減らし、校尉こういを改めたなどの事を告発した。調査しても証拠はなく、徐恪が王府に入る際に誤って端礼門を通ったことを罪に問い、二王の憤りを和らげようとした。皇帝は徐恪に他の意図がないことを知っていたが、二王が幼いため、勅を下して厳しく責め、湖広巡撫の韓文と徐恪を交代させた。官吏と民衆は市を閉めて、数千里にわたって泣いて見送り、絶えることがなかった。配下の官吏が余剰の金を餞別として贈ったが、手を振って去らせた。着任すると、丁度岐王が封国へ赴く時で、宦官が塩を積んだ数百艘の船を引き連れ、民に強制的に売りつけようとしたが、徐恪がこれを阻止して実行させなかった。その仲間が密かに皇帝に讒言した。一年経つと、中旨により南京工部右侍郎に改任された。徐恪は上疏して言った、「大臣の任用は、廷推によって出すべきであり、伝奉によって得た例は聞いたことがありません。臣は生涯、他の途によって進むことを敢えてせず、罷免を賜りたい」。皇帝は慰留し、ようやく任命を受けた。権勢のある家が工匠を濫りに要求したが、全て捕らえて与えなかった。十一年に考績で都に入り、病気にかかり、致仕して、死去した。

李介

李介、字は守貞、高密の人である。成化五年に進士となり、庶吉士に選ばれ、御史に改め、両浙の塩務を巡察し、戻って河南道の事務を掌った。四方に災害による損害があったため、時政について数事を陳べ、皇帝は多く採用した。李介は敢言で、事がよろしくないと遇うと、すぐに同僚を率いて論奏した。皇帝の意に逆らい、二度庭で鞭打たれた。九年の任期が満ち、大理丞に抜擢され、少卿に進んだ。

弘治に改元すると、右僉都御史に転じ、宣府を巡撫した。まもなく召されて都察院の事務を補佐した。兵部左・右侍郎を歴任した。十年夏、北方の敵が大同を犯そうと謀ったため、李介を左僉都御史を兼ねさせ、軍糧を監督しに行かせ、さらにその経略を担当させた。到着した時には、敵はすでに退却しており、そこで大いに軍備を整えた。官田の牛具銭を調査・査定して軍に返還し、その資金で軍が滞納していた馬の代価を償い、辺境の人は感激した。先後して便宜二十事を条陳した。死去し、尚書を追贈された。

子の李昆、字は承裕。弘治初年に進士となり、礼部主事を歴任した。宦官の何鼎が建言して投獄されると、台諫が救おうとしたが、皆責められた。李昆がまた論じて救ったが、聞き入れられなかった。父の喪で帰郷し、喪が明けて兵部主事に改めて起用された。皇帝が城外に延寿塔を建てようとした時、李昆がまた上疏して諫めた。正徳初年、小人どもが権力を握った。邪悪で曲がった者を退け、忠直な者を進め、宦官や外戚の請託を杜絶し、内外の奢侈な費用を節約するよう請願したが、全て返答がなかった。員外郎に進み、尚書の劉宇に逆らい、解州知州に左遷された。累進して陝西左布政使となった。十年に右副都御史として甘粛を巡撫した。総督の彭沢と共に哈密を経略したが、兵部尚書の王瓊が彭沢の処置が適切でないと弾劾し、言葉が李昆に及び、獄吏に下された。法司は李昆が強敵を阻止する謀略を設け、功績は覆い隠せないと述べた。王瓊は従わず、浙江副使に貶謫した。世宗が即位すると、王瓊は罪を得た。官に復し、順天を巡撫した。まもなく召されて兵部右侍郎となり、嘉靖初年に左侍郎に改めた。大同の軍が乱を起こし、巡撫の張文錦を殺害した。李昆は命を受けて鎮撫に向かい、詔命を承って特別に赦免し、戻って張文錦を収容して弔うよう請願した。皇帝はちょうど彼が変乱を激化させたことを憎んでおり、従わなかった。病気にかかり帰郷し、しばらくして死去した。

黄珂

黄珂は字を鳴玉といい、遂寧の人である。成化二十年の進士となり、龍陽知県に任ぜられた。治績が聞こえ、御史に抜擢され、貴州を巡察した。金達長官の何輪が謀反を企てたので、計略を以てこれを捕らえ、流官を設置した。賊の女首領米魯が乱を起こすと、巡撫の錢鉞・総兵官の焦俊らを弾劾し、皆罪を得させた。畿輔を巡察し、山西按察使を歴任した。

正徳四年、右僉都御史に抜擢され、延綏を巡撫した。安化王の寘鐇が反乱を起こし、四方に檄文を伝え、劉瑾を討つことを名目とした。他の鎮は瑾を恐れて、敢えて上聞しなかった。珂はその檄文を封じて上奏し、併せて便宜八事を陳述し、急ぎ副総兵の侯勛・参将の時源に命じて分兵して河東を扼させたので、賊は遂に出ることを敢えなかった。亦不剌が辺境を寇すと、珂は総兵官の馬昂と共に軍を督して戦い、これを木瓜山で破った。六年に再び辺境を寇すと、珂は副総兵の王勛ら七将に檄を飛ばして要害を分かち据えさせ挟撃し、再びこれを破った。たびたび璽書と銀幣を賜った。

この年の秋、召されて戸部右侍郎となり、倉場を総督した。河南で戦争が起こると、出向して軍餉を管理した。主客兵十余万が、敵を追撃し転戦し、移動と停止は常ならずであった。珂は状況に応じて輸送し、軍事行動に不足はなく、功績を記録されて俸給一級を増された。刑部に転じ、左侍郎に進み、やがて兵部を輔佐するようになった。寧王の宸濠が護衛の復活を謀ると、珂は独自に強く反対した。九年に南京右都御史に抜擢され、まもなく工部尚書に任ぜられた。年齢により致仕を願い帰郷し、卒した。太子少保を追贈され、諡は簡肅といった。

王鴻儒

王鴻儒は字を懋学といい、南陽の人である。若い頃から書に巧みで、家が貧しく府の書佐となった。知府の段堅がその書を愛し、官署に留め、自ら教えた。学校に入れて諸生とし、郷試で第一となった。成化末年に進士に及第し、南京戸部主事に任ぜられた。累進して郎中となり、山西僉事に抜擢され、副使に進み、いずれも学政を監督した。九年間在任し、士風は大いに盛んとなった。孝宗はかつて劉大夏に言った、「藩臬の中に王鴻儒のような者がいるが、他日大用できるであろう」。正徳に改元すると、病を理由に辞職して帰郷した。劉瑾が政権を専断し、名流を召し集めた。四年の夏、国子祭酒として起用されたが、父の喪で去った。再び南京戸部侍郎として起用され、吏部右侍郎を歴任し、まもなく左侍郎に転じた。十四年に南京戸部尚書に昇進した。任に就いたばかりで、宸濠が反乱を起こし、軍餉の監督を命ぜられたが、背中に癰ができ、遂に卒した。諡は文莊といった。

鴻儒は学問に務め、理を窮めて実用に致すことを旨とし、世に推重された。吏部左侍郎として、清正に自らを律し、門に私的な請謁はなかった。弟の鴻漸も郷試で第一となり、進士として累進して山東右布政使となり、廉潔で静粛であると称された。

叢蘭

叢蘭は字を廷秀といい、文登の人である。弘治三年の進士となり、戸科給事中となった。宦官の梁芳・陳喜・汪直・韋興は、先に罪により排斥されていたが、再び縁故を頼って京師に戻っていた。蘭は清寧宮の火災に因み、六事を疏陳し、芳らの罪を極論したので、諸人は遂に廃された。まもなく言上した、「吏部は詔書に遵い、建言のため過誤を犯した諸臣の抜擢任用を請うているが、明旨が全て従わないのは、信を示すことにならない。失儀して糾弾された者は、詔獄に送るのを免ずるよう請う。畿内の徴役は繁重で、富民が免れることを図り、他の戸が代わっているので、是正すべきである」。上奏文は所管の役所に下された。兵科右給事中に進んだ。都督ととく僉事の吳安は伝奉により官を得ていたので、蘭はこれを罷免するよう請うた。時に団営軍八千人を撥いて九門の城濠を修築するよう命じたが、蘭は言った、「臣が先頃営軍を簡閲した際、詔は専ら訓練に事とし、再び差撥しないことを許された。命が下って未だ幾ばくもないのに、直ちにまたこれを役するのは、前の詔をどうするのか」。遂に派遣を中止させた。通政参議に遷った。小王子が大同を侵犯すると、紫荊・倒馬などの関塞で敵騎が通じ得る隧道百十箇所を経略するよう命ぜられた。

正徳三年に左通政に進んだ。翌年の冬、出向して延綏の屯田を管理した。安化王の寘鐇が反乱を起こすと、蘭は十事を奏陳し、その中で言った、「文武官で罰米を科せられた者は、財産を売っても償えない。朝臣が流刑に処せられる場合、刑官が妄りに新例を引き、罪を鍛錬して獄とし、その家財を没収する。校尉が辺塞に遍く行き、勢威が燃え盛り、人は自ら保つことができない」。劉瑾はこれを大いに憎み、詔旨を偽って厳しく責めた。給事中の張瓚・御史の汪賜らは遂に意を迎えて蘭を弾劾した。瑾は辺境の事態を憂慮していたので、問わずに置いた。数ヶ月後、瑾が誅殺されると、通政使に進んだ。まもなく戸部右侍郎に抜擢され、三辺の軍餉を督理した。

六年、陝西巡撫都御史の藍章が四月に賊の乱のため漢中に移駐した。時に河套に警報があったので、乃ち蘭に固原・靖虜などの軍務を兼管するよう命じた。蘭は上言した、「陝西から起運する糧草は、たびたび大戸に侵奪されているので、官を委ねて押送させるよう請う。毎鎮ごとに内帑銀数万を発し、予め糧草を買い入れるよう請う。御史の張彧が清出した田畝については、弘治十八年以前の科則のように子粒を免除するよう請う。霊州の塩課については、例に照らして開中し、商人を召して糧を買い入れさせるよう請う。軍士への折色銀は、主管者が多く克減するので、近隣の有司を選んで委ね散給するよう乞う」。従われた。

この年の冬、南畿及び河南が凶作となり、蘭に命じて往きて救済させた。赴任しないうちに河北の賊が宿遷から黄河を渡り、鳳陽に迫らんとした。乃ち蘭に本官のまま廬州・鳳陽・滁州・和州を巡視させ、兼ねて救済を管理させた。河南の白蓮賊の趙景隆が自ら宋王と称し、帰徳を掠奪したので、蘭は指揮の石堅・知州の張思斉らを遣わしてこれを撃ち斬らせた。九月、賊は平定された。功績を論じて金幣を賜り、俸給一級を増され、召還されて部の事務を管理した。部に侍郎の欠員がなかったので、乃ち添註を命じた。翌年、大同に警報があり、居庸・龍泉などの関を巡視するよう命ぜられた。まもなく宣府・大同の軍餉の監督を兼ね、右都御史に進み、宣府・大同・山東の軍務を総制した。内陸地に皆堡塁を築かせ、敵が来れば塞下のように収容防衛させた。敵の五万騎が万全右衛から蔚州に向かい大いに掠奪し、また三万騎が平虜南城に入ったため、失態により半年分の俸給を停められた。

十年の夏、漕運の監督に改められ、まもなく江北の巡撫を兼ねた。宦官の劉允が仏を迎えるため烏思蔵に行く途中、蘭の管轄地を通り、謁見を求めたが、辞して会わなかった。允は舟五百余艘・役夫一万余人を要求したので、蘭は馳せて上疏し、その害を極力陳述した。返答はなかった。四年間在任し、事があって兵部尚書の王瓊に逆らい、漕務を解かれ、専ら巡撫を任ぜられた。寧王の宸濠が反乱を起こすと、蘭は瓜州に鎮を移した。十五年、南京工部尚書に遷った。

世宗が即位すると、御史の陳克宅が蘭が江彬に附いたと弾劾した。帝は蘭が平素清謹であるとして、釈して問わなかった。蘭は遂に致仕を乞い去った。卒し、太子少保を追贈された。

呉世忠

呉世忠は字を懋貞といい、金渓の人である。弘治三年の進士となり、兵科給事中に任ぜられた。両畿及び山東・河南・浙江の民が飢饉に陥り、詔を下して救恤したが、所管の役所は調査報告を待っていた。世忠はその弊害を極言し、併せて水利を興し常平倉を復する二事を条上し、多く施行された。已にして、建文朝に殉難した諸臣を恤み、爵位と諡を賜い、廟食を崇め、且つその子孫を録用し、その族属を復するよう請い、忠義を勧めた。上奏文は礼官に下されたが、取り上げられなかった。尚書の王恕が誹謗されて辞職を求めたので、上疏してこれを留めるよう請うた。寿寧侯の張鶴齢が河間の賜地の調査を求め、その母の金夫人がまた止むことなく求めた。帝は使者を遣わすよう命じたが、世忠は言った、「侯家は肺腑に仰ぎ托しているのに、どうして小民と寸尺を争うべきか。部に命じて調査させても終わらず、内臣が継ぎ、内臣が終わらず、大臣がまた継ぐ。民を剥ぎ怨みを集めるのは、国家の福ではなく、また外戚の福でもない」。聞き入れられなかった。

大同総兵官の神英、副総兵の趙昶らは、馬市の際に家人に命じて禁制の彩繒で馬を交換させ、番人はこれに乗じて無断で侵入し鉄器を密かに交易した。塞外に出た後、さらにひそかに兵を動かして蔚州を掠奪し、馬営を陥落させ、転じて中東二路を略奪した。神英らは兵を擁しながら救援せず、巡撫の劉瓛、鎮守中官の孫振もまた実情を上聞しなかった。十一年、事が発覚し、世忠が調査に赴いた。上疏して大同の辺備が廃れて弛緩し、士卒が困苦している状況を詳しく陳述した。そこで神英・劉瓛らが利に貪り敵を恐れ、法度を蕩然と無くしていることを極言した。神英は免職となり、劉瓛・孫振は召還され、趙昶および遊撃の劉淮、参将の李嶼らはともに逮捕尋問された。やがて劉瓛は大理少卿に改任され、趙昶は大理丞の呉一貫が覆審した結果、わずかに降級処分となった。世忠は再び劉瓛の罪を極論し、かつ呉一貫を誹謗したが、帝はいずれも問わなかった。闕里の文廟が火災に遭い、八事を上陳したが、すべて採用されることはなかった。

賊が延綏・大同を侵犯した際、世忠は言上した。「国初には七十二衛を設置し、軍士は百万を下らなかった。近ごろ軍政は日々弛緩し、精兵は一二万人も得られない。これが兵の憂うべき点である。太倉の蓄えは、本来軍備に充てるものである。近ごろ支出費用が日々広がり、流用が日々多い。もし十万の軍を興すならば、犒賞の賜物を調達する所がない。これが食糧の憂うべき点である。正統己巳の変の時にはなお石亨・楊洪がおり、近ごろ用いた李杲・阮興・趙昶・劉淮の類は、先後して皆敗れた。今また王璽・馬昇が事を失したと報告されている。これが将帥の憂うべき点である。国家に多事がある時は、大臣がこれを鎮めるものである。近ごろ忠正な者は多く斥けられ、貪婪で凡庸な者が生き残っている。匡済の才に乏しく、また去就の節も暗い者が、どうして強敵を脅し国勢を壮んにすることができようか。これが人を任用することの憂うべき点である。政務に多くの誤りと背反があり、民は日々怨嗟している。京軍は力役に疲弊し、京民は徴税に苦しみ、畿甸の民は特に恩恵を切望している。かくして民をその生を楽しませないことここに至り、臨難に際して誰とともに死守しようか。これが民心の憂うべき点である。天変がたびたび徴し、火災が頻発している。雲南では地震が万余りの家を押し潰し、大同では馬の災害で二千匹が倒れた。これが天意の憂うべき点である。願わくは好悪に順って人心を収め、思慮を粛正して天意を回らせ、文武の重臣を派遣して宣府・大同を経略させ、辺防を整えさせたい。諸臣の中で不肖の者を策免し、平素から才望のある者、如何喬新・劉大夏・倪嶽・戴珊・張敷華・林俊らを起用して国事を任せよ。そうすれば賊は風を望んで遠く逃れ、辺境は憂い無からしめよう。」帝はその言が誹毀が多いとして、厳しく責めた。まもなく大同に台堡を増設し、閑田を軍に与えて耕墾させ、その税を徴収しないよう請願した。江西で歳に飢饉があり盗賊が起こったので、巡撫を簡選し、貪婪残酷な有司を罷免するよう請願した。また京師の外城を築くよう請願した。所管の役所は多くその建議に従った。再び吏科左給事中に転じ、湖広参議に抜擢されたが、事に坐して山東僉事に降格された。

正徳四年閏九月、光禄少卿に召されたが、まもなく尚宝司卿に改任された。その年の冬、通政の叢蘭らとともに辺境の屯田を出張処理し、世忠は薊州に赴いた。翌年、上奏して言った。「土地を占拠して耕作し盗み売ることは、積弊が久しい。もし一一究問すれば、人情が不安になる恐れがある。どうか酌量して処分されたい。」これに従った。劉瑾が失脚すると、言官が彼がかつて屯田の清査を請願し、劉瑾を助けて虐げに加担したと弾劾した。世忠はもとより方正で剛直であったため、朝議は彼を寛大に扱い、罪を免れた。再び大理少卿に転じた。八年、右僉都御史に抜擢され延綏を巡撫した。賊が河套におり、これを追撃して失敗したため、病を理由に引退した。

【賛】

賛に曰く、明は英宗以後、幸運の門が日々開かれた。伝奉や請乞により、官は冗員となり役は煩雑になり、費用は奢侈浪費され、盛極まって衰えの兆しが生じ、国計はこれにより窮乏した。李敏ら諸人は、こせこせと国ために財を惜しみ、近習の幸臣に抵抗して、民の負担を緩和しようと求めた。しかし涓滴の助けは、漏れる酒器を補うには足りなかった。国家が太平で殷富な世にある時、奢侈の心は萌しやすい。近習の者がこれに乗じ、浪費は日々広がる。《易経》に曰く「制度をもって節とし、財を傷けず、民を害さず」、また曰く「節せざれば、すなわちなげく」と。これこそ恭倹な君主が凛々と心がける所以である。