明史

列傳第七十一 何喬新 彭韶 周經 耿裕 倪岳 閔珪 戴珊

列傳第七十一 何喬新 彭韶 周經 耿裕 倪岳 閔珪 戴珊

原文列傳第七十一 何喬新 彭韶 周經 耿裕 倪岳 閔珪 戴珊

何喬新

原文何喬新

何喬新、字あざなは廷秀、江西広昌の人である。

原文何喬新,字廷秀,江西廣昌人。

父の文淵は、永楽十六年の進士であった。御史に任じられ、山東・四川を歴任して巡察した。烏蒙の奸民什伽が知府祿昭の妻と私通し、誅罰を恐れて祿昭が謀反したと誣告した。詔が下って軍を派遣して討伐しようとした。文淵は檄を飛ばして派遣軍を止めさせ、その誣告を明らかにした。宣徳五年、顧佐の推薦により、勅を賜り温州府知府となった。六年間在任し、治績は最上とされ、俸給を増やされ璽書を賜った。胡瀅の推薦により、刑部右侍郎に抜擢され、両淮の塩課を監督した。正統三年、二つの獄事を議して不当であり、尚書魏源とともに獄に下されたが、ともに釈放された。朝議で麓川征討が決まり、文淵は上疏して諫めて言った、「麓川は辺境の弾丸の地であり、大兵を煩わすに足りません。もし雲南の守将を派遣して金歯に駐屯させ、三司の官に撫諭させれば、遠方の民は更生を得、朝廷は兵を調発し糧秣を輸送する労を免れ、策の善きものとなります」。帝はその議を下したが、廷臣の多くは用兵を主張した。そこで西南は騒動し、辛うじてこれを平定したが、失ったものは多かった。その冬、病気を理由に帰郷を請うた。景帝が即位すると、吏部左侍郎に起用され、まもなく尚書に進み、王直を補佐して部の事務を処理した。東宮が立てられると、太子太保を加えられた。災異が現れると、給事中林聰らが文淵が邪悪であると弾劾した。左庶子周旋が上疏してその冤罪を訴えると、林聰は周旋をも弾劾した。御史曹凱がさらに朝廷で争ったため、ついに周旋とともに獄に下された。林聰の上疏に「内臣に依頼した」との言葉があり、太監興安が主謀者の名を詰問するよう請うた。林聰は強く対抗できず、文淵を釈放して致仕を命じた。英宗が復位すると、その加官を削除した。しかし景泰年間の皇太子交代の詔書にある「父は天下を有して子に伝える」との言葉は文淵のものであり、朝命で逮捕されるとの噂が流れ、恐れて自縊した。

原文父文淵,永樂十六年進士。授御史,歷按山東、四川。烏蒙奸民什伽私其知府祿昭妻,懼誅,誣昭反。詔發軍討。文淵檄止所調軍,而白其誣。宣德五年用顧佐薦,賜敕知溫州府。居六年,治最,增俸賜璽書。以胡瀅薦,擢刑部右侍郎,督兩淮鹽課。正統三年,兩議獄不當,與尚書魏源下獄,皆得釋。朝議征麓川,文淵疏諫曰:「麓川僥外彈丸地,不足煩大兵。若遣雲南守將屯金齒,令三司官撫諭之,遠人獲更生,而朝廷免調兵轉餉,策之善者也。」帝下其議,廷臣多主用兵。於是西南騷動,僅乃克之,而失亡多。其冬,以疾乞歸。景帝即位,起吏部左侍郎,尋進尚書,佐王直理部事。東宮建,加太子太保。災異見,給事中林聰等劾文淵憸邪。左庶子周旋疏言其枉,聰並劾旋。御史曹凱復廷爭之,遂與旋俱下獄。聰疏有「囑內臣」語,太監興安請詰主名。聰不敢堅對,乃釋文淵命致仕。英宗復位,削其加官。而景泰中易儲詔書「父有天下傳之子」,語出文淵,或傳朝命逮捕,懼而自縊。

当時、喬新はすでに景泰五年の進士に登第し、南京礼部主事の官にあったが、喪に服して帰郷した。郷里の者で元侍郎の掲稽はかつて文淵に師事していたが、喬新兄弟とは不仲であり、文淵の死は実は諸子が自縊を迫ったものであり、また父の愛妾を嫁がせようと迫ったと上奏した。喬新もまた掲稽が巡撫であった時、かつて黄厷を推薦し、かつ皇太子交代の上疏を代筆したと告発した。ともに召喚されて対質させられた。父の妾が指を切り、諸子の冤罪を訴えたため、獄事はやや解けた。帝もまた事が赦免を経ているとして、釈放して問わなかった。その後、再び母の喪に服した。喪が明けると、刑部主事に改められ、広東司郎中を歴任した。錦衣衛の兵卒が法を犯すと、捕らえて処罰し少しも容赦しなかった。都指揮袁彬が依頼事をしたが、固執して従わなかった。袁彬は怒り、人を使って罪状を探らせたが何も得られなかった。これによって名声が大いに上がった。

原文時喬新已登景泰五年進士,官南京禮部主事,奔喪歸裏。裏人故侍郎揭稽嘗受業文淵,而與喬新兄弟不協,奏文淵死實諸子迫之自經,又逼嫁父所愛妾。喬新亦訐稽為巡撫時,嘗薦黃厷,且代草易儲疏。皆被征比對簿。父妾斷指,為諸郎訟冤,獄得少解。帝亦以事經赦,釋不問。已,復丁母憂。服除,改刑部主事,歷廣東司郎中。錦衣衛卒犯法,捕治不少貸。都指揮袁彬有所囑,執不從。彬怒,使人捃摭無所得。由是名大起。

成化四年、福建副使に転じた。管轄下の寿寧の銀鉱で、盗掘する者が千余人を集め、通過する地で掠奪し、兵を募ってその首魁を撃ち捕らえた。福寧の豪族尤氏が人を殺し、出入りに兵士を随え、二十年にわたって逮捕を拒んだ。福清の薛氏はしばしば諸蕃と交易に出て、事が発覚すると、謀反を企てた。ともに捕らえて殺した。福安・寧徳の銀鉱は久しく絶えていたが、役人が課税を求め、民は多く破産した。喬新がこれを言上し、三分の二を減免した。興化の民は洪武初年に官から牛を与えられ、この時になってもなお毎年その租を課されていたが、上奏して免除させた。清流の帰化里は沙県・将楽の間にあり、険阻を頼んで賦税を納めず、都御史に申し出て帰化県を設置し、その民は初めて規制に従った。河南按察使に転じた。年に大飢饉があり、故事では、救済貸付は秋までで止めていたが、喬新は言った、「秋で止めるのは、秋の収穫を当てにできるからであるが、今の秋はそれだけで済むだろうか」。救済を翌年の麦の熟する時まで続けた。都御史原傑が流民を招撫するために南陽に至り、喬新を引き立てて補佐させた。初め、項忠が流民を追い立てるのに過度であり、民は原傑が来たと聞いて、ますます山谷に逃げ込んだ。喬新は自ら赴いてこれを招き、戸籍に附した者は六万余戸であった。湖広右布政使に転じた。荊州の民は徭役ようえきに苦しんでいたが、丁口の貧富を検分し、九等に分けて、民はこれを便利とした。

原文成化四年遷福建副使。所屬壽寧銀礦,盜采者聚眾千餘人,所過剽掠,募兵擊擒其魁。福寧豪尤氏殺人,出入隨兵甲,拒捕者二十年。福清薛氏時出諸番互市,事覺,謀作亂。皆捕殺之。福安、寧德銀礦久絕,有司責課,民多破產。喬新以為言,減三之二。興化民自洪武初受牛於官,至是猶歲課其租,奏免之。清流歸化裏介沙縣、將樂間,恃險不供賦,白都御史置歸化縣,其民始奉要束。遷河南按察使。歲大饑,故事,振貸迄秋止,喬新曰:「止於秋,謂秋成可仰也,今秋可但已乎?」振至明年麥熟乃止。都御史原傑以招撫流民至南陽,引喬新自助。初,項忠驅流民過當,民聞傑至,益竄山谷。喬新躬往招之,附籍者六萬餘戶。遷湖廣右布政使。荊州民苦徭役,驗丁口貧富,列為九等,民便之。

十六年、右副都御史に抜擢され、山西を巡撫した。辺境の地の軍民がしばしば塞外に出て木材を伐採し獣を捕らえていたが、喬新は言った、「この連中はもし敵に遭遇すれば、必ず内情を漏らして生き延びようとし、皆賊の先導となります。勝手に外出することを許すべきではなく、違反した者は守将を罪すべきです」。詔で許可された。敵が塞を侵犯すると、参将支玉とともに灰溝営に伏兵し、多くを撃ち斬り、左副都御史に進んだ。年に飢饉があり、雑税及び戸口塩鈔の四分の一を免除するよう上奏した。僉事尚敬・劉源が獄事を滞らせたことを弾劾し、天下の断獄官に対し、半年以上滞った者はすべて罪を議するよう請うた。帝は善しとし、直ちに従った。召されて刑部右侍郎に任じられた。山西で大飢饉があり、人々は互いに食い合った。命を受けて救済に赴き、三十余万人を生き延びさせ、十四万戸の流民を帰還させた。朝廷に戻ると、ちょうど安寧宣撫使楊友が嫡弟の播州宣慰使楊愛の爵位を奪おうとし、楊愛に異謀があると誣告した。喬新が赴いて調査し、巡撫劉璋とともに楊愛の冤罪を明らかにした。楊友は官を奪われ他府に安置され、播州の人々はようやく安堵した。

原文十六年擢右副都御史,巡撫山西。邊地軍民每出塞伐木捕獸,喬新言:「此輩茍遇敵,必輸情求生,皆賊導也。宜毋聽闌出,犯者罪守將。」詔可。敵犯塞,偕參將支玉伏兵灰溝營,擊斬甚眾,進左副都御史。歲饑,奏免雜辦及戶口鹽鈔十之四。劾僉事尚敬、劉源稽獄,請敕天下斷獄官,淹半載以上者悉議罪。帝稱善,亟從之。召拜刑部右侍郎。山西大饑,人相食。命往振,活三十餘萬人,還流冗十四萬戶。還朝,會安寧宣撫使楊友欲奪嫡弟播州宣慰使愛爵,誣愛有異謀。喬新往勘,與巡撫劉璋共白愛誣。友奪官安置他府,播人遂安。

孝宗が位を継ぐと、万安・劉吉らは喬新の剛直を忌み、南京刑部尚書として出させた。長江沿いの芦洲はすべて宦官が占拠奪取していたが、進奉の費用に充てると称していた。喬新は上奏して民に返還させた。初め、喬新が出された時、宦官の懐恩は不満であった。ある日、事があって内閣に赴き言った、「新君が即位し、常に正人を用いるべきなのに、どうして何公を出したのか」。万安らは黙っていた。その後、刑部尚書杜銘が罷免され、衆望は喬新に属していたが、劉吉が万安に代わって首輔となり、終始これを忌み、長く補充しなかった。弘治に改元すると、王恕の推薦により、初めて喬新を召して杜銘の後任とした。上奏して言った、「旧制では官を派遣して事を調査し逮捕するには、必ず精微批文を携え、赴いた先の官司で検視してから行うものでした。近ごろはただ駕帖を用いて符節に合わず、旧制に復して、詐偽を防ぐべきです」。帝は直ちに許可した。当時、劉吉は正人を仇とし、頻繁に大獄を起こしたが、喬新は常に法に基づいてこれを正した。劉吉はますます恨みを抱き、しばしば他の事を摘んで俸給を奪った。二年の夏、京城に大水があり、喬新は被災者の家を救恤するよう請うた。また、刑獄が公平を失うことを慮り、律文で改めて議すべき数事を条上したが、劉吉はすべて阻んで実行させなかった。大理丞に欠員があり、御史鄒魯が昇進を狙っていたが、喬新は郎中魏紳を推薦した。ちょうど喬新の母方の親族が郷人と訴訟になり、鄒魯はすぐに喬新が賄賂を受け曲げてかばったと誣告した。劉吉が中旨を取ってその親族を詔獄に下し、喬新はついに上疏して帰郷を請うた。まもなく、徹底的に追及したが証拠がなく、鄒魯は停俸の処分を受け、喬新もまた致仕を許された。

原文孝宗嗣位,萬安、劉吉等忌喬新剛正,出為南京刑部尚書。沿江蘆洲率為中官占奪,托言備進奉費,喬新奏還之民。初,喬新之出,中官懷恩不平。一日以事詣閣言:「新君踐阼,常用正人,胡為出何公?」安等默然。既而刑部尚書杜銘罷,群望屬喬新,而吉代安為首輔,終忌之,久不補。弘治改元,用王恕薦,始召喬新代銘。奏言:「舊制遣官勘事及逮捕,必賫精微批文,赴所在官司驗視乃行。近止用駕帖不合符,宜復舊制,以防矯詐。」帝立報許。時吉仇正人,頻興大獄,喬新率據法直之。吉愈銜恨,數摭他事奪俸。二年夏,京城大水,喬新請恤被災者家,又慮刑獄失平,條上律文當更議者數事,吉悉格不行。大理丞闕,御史鄒魯覬遷,而喬新薦郎中魏紳。會喬新外家與鄉人訟,魯即誣喬新受賕曲庇。吉取中旨下其外家詔獄,喬新乃拜疏乞歸。頃之,窮治無驗,魯坐停俸,喬新亦許致仕。

喬新の性質は廉潔で耿介であり、工部で政務を見習っていた時、かつて淮西に派遣された。巢県令の閻徽は若い時に文淵に学び、金幣を贈った。喬新はこれを辞退すると、閻は言った、「師を長寿にするためです」。喬新は言った、「あなたが我が親を長寿にしようとするなら、他人を通じて贈るのはよいが、私を通じて贈るのはならぬ」。ついに受け取らなかった。福建の市舶を司る宦官が死に、鎮守者がその財産を分けて三司に贈ったが、喬新だけは固く辞退した。やむを得ず、それを官庫に納めた。すでに家に居ると、楊愛が使者を遣わして厚く贈り物を届け、かつ棺にできる良材を献上したが、喬新は堅く辞退した。

原文喬新性廉介,觀政工部時,嘗使淮西。巢令閻徽少學於文淵,以金幣饋。喬新卻之,閻曰:「以壽吾師耳。」喬新曰:「子欲壽吾親,因他人致之則可,因吾致之則不可。」卒不受。福建市舶中官死,鎮守者分其貲遺三司,喬新獨固辭。不得,輸之於庫。既家居,楊愛遣使厚致贈,且獻良材可為櫬者,喬新堅卻之。

喬新が十一歳の時、父に従って京師の邸宅にいた。修撰周旋が訪ねて来ると、喬新はちょうど『通鑒続編』を読んでいた。周旋が問うて言った、「その書法は『綱目』と比べてどうか」。答えて言った、「呂文煥が元に降ったのに叛と書かず、張世傑が海に溺れたのに死節と書かず、曹彬・包拯の死にその官を書かず、また羲・軒の紀には怪妄なことを多く採り、妥当ではないようです」。周旋は大いに驚き感心した。成長すると、群書を博く総合し、珍しい書物を聞けば借りて写し、三万余帙を蓄積し、すべて自ら校訂し、著述は非常に豊富であった。人と交わることは少なく、気節では彭韶を友とし、学問では邱濬を友としただけである。

原文喬新年十一時,侍父京邸。修撰周旋過之,喬新方讀《通鑒續編》。旋問曰:「書法何如《綱目》?」對曰:「呂文煥降元不書叛,張世傑溺海不書死節,曹彬、包拯之卒不書其官,而紀羲、軒多采怪妄,似未有當也。」旋大驚異。比長,博綜群籍,聞異書輒借鈔,積三萬餘帙,皆手較讎,著述甚富。與人寡合,氣節友彭韶,學問友邱濬而已。

罷免されて帰郷した後、江西巡按御史の陳詮が上奏した、「喬新は終始一貫して節操を全うし、ただ親戚故旧からの贈り物を受けた嫌疑のため、致仕を命じられたのみである。進退が不明瞭で、誠に惜しむべきことである。調査を乞い、本官に病気がなければ任用し、病気があれば慰労を加え、故旧の恩を存し、進退の節を全うさせてほしい。」許されなかった。その後、朝廷内外から多く推薦されたが、ついに再び起用されることはなかった。十五年、卒去、七十六歳。

原文罷歸後,巡按江西御史陳詮奏:「喬新始終全節,中間只以受親故饋遺之嫌,勒令致仕,進退黯昧,誠為可惜。乞行勘,本官如無疾則行取任用,有疾則加慰勞,以存故舊之恩,全進退之節。」不許。後中外多論薦,竟不復起。十五年卒,年七十六。

江西巡撫の林俊が彭韶と喬新のために諡号を請うた。吏部が覆奏してこれに従った。詔旨があり、喬新が致仕した理由を上奏するよう命じた。給事中の呉世忠が言う、「喬新の学問・行い・政事はいずれも優れ、忠勤で剛直、老いてますます篤実であった。御史の鄒魯が私怨を抱いて誣告し弾劾したが、一言も弁明せず、恬然として退き帰った。門を閉ざして書を著し、人との交わりは少なく、士大夫はその行いを高く評価しない者はいなかった。もし必ずや退身の理由を調べ、賢者を表彰する典を疑うならば、宋の蒋之奇がかつて欧陽修を誣告し上奏したことや、胡紘らがかつて朱熹を誣告し上奏したようなものであり、一人の私情をもって万世の公論を廃したとは聞かない。」事はついに沙汰止みとなった。正徳十一年、広昌知県の張傑が再びこのことを言上し、ついに太子太保を追贈し、蔭官を与えた。翌年、諡号文粛を賜った。

原文江西巡撫林俊為彭韶及喬新請謚,吏部覆從之。有旨令上喬新致仕之由,給事中吳世忠言:「喬新學行、政事莫不優,忠勤剛介,老而彌篤。御史鄒魯挾私誣劾,一辭不辨,恬然退歸。杜門著書,人事寡接,士大夫莫不高其行。若必考退身之由,疑旌賢之典,則如宋蔣之奇嘗誣奏歐陽修矣,胡纮輩嘗誣奏朱熹矣,未聞以一人私情廢萬世公論也。」事竟寢。正德十一年,廣昌知縣張傑復以為言,乃贈太子太保,予蔭。明年賜謚文肅。

喬新の五世孫の源は、万暦初年に刑部右侍郎となり、清廉な節操もあった。

原文喬新五世孫源,萬歷初,為刑部右侍郎,亦有清節。

彭韶

原文彭韶

彭韶、字は鳳儀、莆田の人。天順元年の進士。刑部主事に任じられ、員外郎に進んだ。成化二年、僉都御史の張岐が邪悪であると上疏して論じ、王竑・李秉・葉盛を召すべきとし、詔旨に逆らい、詔獄に下された。給事中の毛弘らが救ったが、聞き入れられず、ついに贖罪を納めた。まもなく郎中に遷った。

原文彭韶,字鳳儀,莆田人。天順元年進士。授刑部主事,進員外郎。成化二年疏論僉都御史張岐憸邪,宜召王竑、李秉、葉盛,忤旨,下詔獄。給事中毛弘等救之,不聽,卒輸贖。尋遷郎中。

錦衣指揮の周彧は太后の弟であり、武強・武邑の民田で賦額に達しないものを閑田として没収するよう奏請した。韶に御史の季琮とともに再調査するよう命じた。韶らは一巡りしてすぐに帰り、上疏して自らを弾劾した、「真定の田は、祖宗の時から民に開墾耕作を許し、恒産とし、租賦を免除して農耕を奨励してきた。功臣・外戚の家は国とともに栄えるべきであり、どうして民と寸尺の地を争うべきか。臣は誠に小民の衣食を奪い、貴戚に利益を加えることを忍びず、奉使としての不始末の罪に伏すことを請う。」疏が入ると、詔して田を民に帰し、韶らが名声を求めて命令に背いたと責め、再び詔獄に下した。言官が争って救い、釈放された。この時、韶は何喬新と同官であり、ともに重い名声があり、一時「何彭」と称された。

原文錦衣指揮周彧,太后弟也,奏乞武強、武邑民田不及賦額者,籍為閑田。命韶偕御史季琮覆勘。韶等周視徑歸,上疏自劾曰:「真定田,自祖宗時許民墾種,即為恒產,除租賦以勸力農。功臣、戚裏家與國鹹休,豈當與民爭尺寸地。臣誠不忍奪小民衣食,附益貴戚,請伏奉使無狀罪。」疏入,詔以田歸民,而責韶等邀名方命,復下詔獄。言官爭論救,得釋。當是時,韶與何喬新同官,並有重名,一時稱「何彭」。

四川副使に遷った。安嶽の扈氏が劉某の家二十一人を焼き殺し、定遠の曹氏が兄の一家十二人を殺害した。担当官は疑獄として、長く決着しなかった。韶は一度訊問して事実を得、いずれも罪に服した。按察使に進み、境内の淫祠をことごとく撤去した。王府の祭葬は従来内官を派遣し、公私ともに煩雑な費用がかかったので、これを廃止するよう上奏した。雲南鎮守太監の銭能が金灯を献上し、道路を騒がせたので、韶がこれを弾劾したが、返答がなかった。

原文遷四川副使。安嶽扈氏焚滅劉某家二十一人,定遠曹氏殺其兄一家十二人,所司以為疑獄,久不決。韶一訊得實,鹹伏辜。進按察使,盡撤境內淫祠。王府祭葬舊遣內官,公私煩費,奏罷之。雲南鎮守太監錢能進金燈,擾道路,韶劾之,不報。

十四年春、広東左布政使に遷った。宦官が使者として奉じるのが頻繁で、鎮守の顧恒・市舶の韋眷・珠池の黄福はいずれも進奉を名目に、至るところで要求し、民は擾乱に耐えられなかった。韶は先後に論奏した。最後に、梁芳の弟で錦衣鎮撫の徳は広東が故郷であるため、帰って禽鳥花木を採り、害が特に酷かった。韶は抗疏して極論し、言葉は芳を侵した。芳は怒り、帝に讒言し、彼を貴州に転任させた。

原文十四年春,遷廣東左布政使。中官奉使紛遝,鎮守顧恒、市舶韋眷、珠池黃福,皆以進奉為名,所至需求,民不勝擾。韶先後論奏。最後,梁芳弟錦衣鎮撫德以廣東其故鄉,歸采禽鳥花木,害尤酷。韶抗疏極論,語侵芳。芳怒,構於帝,調之貴州。

二十年、右副都御史に抜擢され、応天を巡撫した。翌年正月、星変があり、上言した、「彗星すいせいが災いを示し、歳暮に見られ、ついに元旦に及んだ。歳暮は天道の終わりである。元旦は歳事の始まりである。これは天心の仁愛であり、陛下に善始善終を望まれるのである。陛下が位を嗣いだ初めは、家礼は正しく、微を防ぐことは周到で、倹約の徳は顕著で、人を用いることは慎重であった。ところが近年以来、貴妃を進奉し、嫡后よりも上に置き、その家を褒め寵愛し、ほとんど先帝の后の家と等しくしている。これは正家の道が終わっていないのである。監局の内臣は数万に上り、利源と兵権をすべて彼らに委ね、法を犯し奸を放縦しても、一切容赦している。これは微を防ぐ道が終わっていないのである。四方の鎮守中官は珍異を献上し争い、動輒勅旨と称し、小民を科役で擾乱している。これは倹約を保つ道が終わっていないのである。六卿に並べて師保を加え、監寺に崇階を兼領させ、致仕して帰るときには、俸禄や輿夫を濫りに庸鄙な者に加えている。爵賞が軽くなれば、誰が勧めを知るだろうか。これは人を用いる道が終わっていないのである。どうか陛下には終わりを始めのごとく慎重にされ、天下幸いである。」ちょうど大理卿に召されようとしていた時で、帝は疏を得て喜ばず、もとの官のまま順天・永平二府を巡撫するよう命じた。大興・宛平・昌平諸県の徭役を均等にし、鎮守中官の陶弘の罪を弾劾上奏した。

原文二十年擢右副都御史,巡撫應天。明年正月,星變,上言:「彗星示災,見於歲暮,遂及正旦。歲墓者,天道之終。正旦者,歲事之始。此天心仁愛,欲陛下善始善終也。陛下嗣位之初,家禮正,防微周,儉德昭,用人慎。乃邇年以來,進奉貴妃,加於嫡後,褒寵其家,幾與先帝後家埒,此正家之道未終也。監局內臣數以萬計,利源兵柄盡以付之,犯法縱奸,一切容貸,此防微之道未終也。四方鎮守中官,爭獻珍異,動稱敕旨,科擾小民,此持儉之道未終也。六卿並加師保,監寺兼領崇階,及予告而歸,廩食輿夫濫加庸鄙。爵賞一輕,人誰知勸,此用人之道未終也。惟陛下慎終如始,天下幸甚。」時方召為大理卿,帝得疏不悅,命仍故官巡撫順天、永平二府。均大興、宛平、昌平諸縣徭役,劾奏鎮守中官陶弘罪。

孝宗が即位すると、刑部右侍郎に召された。嘉興の百戸陳輔が盗賊の密売を縁として乱を起こし、府城を陥落させて大いに掠奪し、太湖に逃げ込んだ。韶を派遣して巡視させた。韶が到着した時、賊はすでに滅んでいたので、兼僉都御史を命じ、塩法を整理させた。まもなく左侍郎に進んだ。韶は商人が抑配に苦しむのを憂え、折価の額を定め、積年の負債を免除した。竈戸の煎辦・征賠・折閲の困窮を憐れみ、八図を描いて献上し、利害六事を条陳し、すべて実行を許された。弘治二年秋、朝廷に戻った。翌年、吏部に改めた。尚書の王恕とともに人材を選別し、功績の実態を審査し、官途は清らかになった。彗星が現れ、宦官が盛んすぎるので、急いで削減しなければならないと上言した。そこで午朝に大政を面議することを請い、ただ文書だけで済ませないよう求めた。その後、また濫りに官を授けることが多すぎると言い、幸門を厳しく杜絶し、痛くこれを厘正するよう乞うた。帝はその言葉を是としたが、ついに用いることはできなかった。

原文孝宗即位,召為刑部右侍郎。嘉興百戶陳輔緣盜販為亂,陷府城大掠,遁入太湖。遣韶巡視。韶至,賊已滅,乃命兼僉都御史,整理鹽法。尋進左侍郎。韶以商人苦抑配,為定折價額,蠲宿負。憫竈戶煎辦、征賠、折閱之困,繪八圖以獻,條利病六事,悉允行。弘治二年秋,還朝。明年,改吏部。與尚書王恕甄人才,核功實,仕路為清。彗星見,上言宦官太盛,不可不亟裁損。因請午朝面議大政,毋只具文。已,又言濫授官太多,乞嚴杜幸門,痛為厘正。帝是其言,然竟不能用。

四年秋、何喬新に代わって刑部尚書となった。故安遠侯の柳景が数千両に及ぶ贓物事件を起こし、徴収はわずか十分の一であった。その母の訴えで免じられた。韶が執奏して言った、「昔、唐の宣宗の母方の伯父鄭光の官租が納入されず、京兆尹の韋澳がその荘園の役人を拘束した。宣宗が寛大にしようとしたが、澳は詔に奉じなかった。景には母方の伯父のような親戚関係はなく、贓物は租税を負うこととは比較にならない。ただ赦免されるのは、臣らが法を守る点で澳に愧じるのである。」聞き入れられなかった。御史の彭程が皇壇の器物について論じて獄に下され、韶が疏を上して救い、光祿の冗食濫費の状況を極力陳述した。そこで歳辦の数を具申するよう命じた。荊王の見潚が罪を犯し、奏上したが、十日間も下されなかった。内官の王明・苗通・高永が人を殺し、死刑を減じて辺境に遣わされた。昌国公の張巒が墳墓を建てるのに制を超え、軍を役使すること数万に及んだ。畿内の民が陵廟戸や勇士旗校を冒充し、たちまち徭役を免れ、現戸が支えきれず、流亡が日増しに多くなった。韶はいずれも抗疏して極論したが、ただ所管官庁に下すだけであった。

原文四年秋,代何喬新為刑部尚書。故安遠侯柳景贓敗至數千兩,征僅十一。以其母訴免。韶執奏曰:「昔唐宣宗元舅鄭光官租不入,京兆尹韋澳械其莊吏。宣宗欲寬之,澳不奉詔。景無元舅之親,贓非負租之比,獨蒙宥除,是臣等守法愧於澳也。」不從。御史彭程以論皇壇器下獄,韶疏救,因極陳光祿冗食濫費狀,乃命具歲辦數以聞。荊王見潚有罪,奏上,淹旬不下。內官王明、苗通、高永殺人,減死遣戍。昌國公張巒建墳逾制,役軍至數萬。畿內民冒充陵廟戶及勇士旗校,輒免徭役,致見戶不支,流亡日眾。韶皆抗疏極論,但下所司而已。

韶が部に莅ること三年、直言正色、節操を秉って私なく、王恕および喬新とともに三大老と称され、貴戚・近習に憎まれた。大学士の劉吉も彼を良しとしなかった。韶の志は十分に行われず、連章して休職を乞うたので、駅伝で帰るよう命じた。月給・歳給は制度通りであった。翌年、南京で地震があり、御史の宗彜らが言うには、韶・喬新・強珍・謝鐸・陳献章・章懋・彭程はいずれも召し用いるべきであると。返答がなかった。また翌年、卒去、六十六歳。諡号は恵安、太子少保を追贈された。

原文韶蒞部三年,昌言正色,秉節無私,與王恕及喬新稱三大老,而為貴戚、近習所疾,大學士劉吉亦不之善。韶誌不能盡行,連章乞休,乃命乘傳歸。月廩、歲隸如制。明年,南京地震,御史宗彜等言韶、喬新、強珍、謝鐸、陳獻章、章懋、彭程俱宜召用,不報。又明年,卒,年六十六。謚惠安,贈太子少保。

韶は学問を好み、公務の暇にも手から書を離さなかった。正徳初年、林俊が韶の諡号が行いと合わないと言い、魏驥・呉訥・葉盛のように、文と改諡するよう乞うた。ついに行われなかった。

原文韶嗜學,公暇手不釋書。正德初,林俊言韶謚不副行,乞如魏驥、吳訥、葉盛,改謚文。竟不行。

周経

原文周經

周経、字は伯常、刑部尚書の瑄の子である。天順四年の進士。庶吉士に改め、検討に授けられた。成化年間、侍読・中允を歴任し、東宮で孝宗に侍った。『文華大訓』を講じた時、太子が起立したが、閣臣が労とし、座って聴講するよう請うことを議した。経と諸講官はいずれも不可とし、やめた。

原文周經,字伯常,刑部尚書瑄子也。天順四年進士。改庶吉士,授檢討。成化中,歷侍讀、中允,侍孝宗於東宮。講《文華大訓》,太子起立,閣臣以為勞,議請坐聽。經與諸講官皆不可,乃已。

孝宗が即位すると、太常少卿兼侍読に進んだ。弘治二年、礼部右侍郎に抜擢された。宦官が黄村の尼寺を修復し、孝穆太后を奉祀することを請うた。土魯番が獅子を貢献したが、甘肅を経由せず、満剌加を仮道して海路で広東に至った。経は寺を破壊し、貢物を退けて通交しないことを提唱した。吏部に転じ、左侍郎に進んだ。通政経歴の沈祿は、皇后の姑の婿である。尚書の王恕が休暇中、宦官が旨を伝えて祿を本司の参議に抜擢した。経は面して旨を受けず、また御札もないので、詔を奉じられないと言い、さらに恕とともに上疏して争った。事は止められなかったが、朝議はこれを是とした。霊寿の奸民が宦官の李広に地を献じたが、戸部はこれを認めなかった。経は九卿に疏を上奏して争うことを提唱し、ついに献地した者を罪に処した。かつて上言した。「外戚の家は功なくして昇進を求め、労なくして賞を乞い、さらに斎醮や遊宴に、濫費して規律がなく、庫蔵を空しくしている。大いに節制すべきである。近例では、予備倉の積粟が多いと、守令に誥勅を賜り、順序を越えて官を進めるため、下を剥いで進取を図ることになる。洪武年間の例のように、すべて官帑を出して平糴し、民財を奪わず、考績を積粟のみを能としないようにすべきである。清軍の弊については、洪熙以前は旗校にあり、宣徳以後は裏胥にある。旗校に弊がある場合は版籍がなお存するが、裏胥の場合は版籍までも淆乱する。故冊を考査して奸弊を洗い流すべきである。災害に遭った民は、省みて恤れむべきである。惜薪司の薪炭は数年分を支給しており、災荒の郡県では、すべて停止免除すべきである。四方の顔料雑辦も同様である。これが民を救う急務である。」帝は多くこれを採用した。

原文孝宗立,進太常少卿兼侍讀。弘治二年擢禮部右侍郎。中官請修黃村尼寺,奉祀孝穆太后。土魯番貢獅子不由甘肅,假道滿剌加,浮海至廣東。經倡議毀其寺,卻貢不與通。改吏部,進左侍郎。通政經歷沈祿者,皇后姑婿也。尚書王恕在告,中官傳旨擢祿本司參議。經言非面承旨,又無禦劄,不敢奉詔,復與恕疏爭之。事雖不能止,朝論韙焉。靈壽奸民獻地於中官李廣,戶部持不得。經倡九卿疏爭,卒罪獻地者。嘗上言:「外戚家無功求遷,無勞乞賞,兼齋醮遊宴,濫費無紀,致帑藏殫虛,宜大為撙節。近例,預備倉積粟多者,守令賜誥敕,不次遷官,遂致剝下幹進。請如洪武間例,悉出官帑平糴,毋奪民財,考績毋專以積粟為能。至清軍之弊,洪熙以前在旗校,宣德以後在裏胥。弊在旗校者,版籍猶存,若裏胥則並版籍而淆亂之,宜考故冊洗奸弊。災傷民,乞省恤。惜薪司薪炭約支數年,災荒郡縣,宜盡與停免。四方顏料雜辦亦然。此救民急務也。」帝多采納之。

八年、文武大臣が災異を以て時政を陳べ、経が奏草を具えたが、戯楽を斥ける一事は、言葉が特に切直であった。帝は密かに宦官に草奏した者を探らせた。尚書の耿裕は言った。「疏の筆頭は吏部であり、裕が実に草を具えた。」経は言った。「疏草は経の手から出た。罪があれば、経を罪とせよ。」世は両者を賢とした。

原文八年,文武大臣以災異陳時政,經為具奏草,而斥戲樂一事,語尤切直。帝密令中官廉草奏者,尚書耿裕曰:「疏首吏部,裕實具草。」經曰:「疏草出經手,即有罪,罪經。」世兩賢之。

翌年、葉淇に代わって戸部尚書となった。当時、孝宗は寛仁であったが、戸部は特に奸蠹が集まる所で、勢いに乗じて私を行なう者は数えきれなかった。少しでも意に沿わないと、讒毀がそれに続いた。経はすべて祖宗の成憲に照らし、顧みる所がなかった。逋負を寛め、徴収を緩め、冗濫を裁節した。四方が災害を告げると、必ず覆奏して蠲除した。毎度、官を委して税課を監させ、収入が多い者は下考とし、苛切の風はこれで少し衰えた。

原文明年,代葉淇為戶部尚書。時孝宗寬仁,而戶部尤奸蠹所萃,挾勢行私者不可勝紀。少不如意,讒毀隨之。經悉按祖宗成憲,無所顧。寬逋緩征,裁節冗濫。四方告災,必覆奏蠲除。每委官監稅課,入多者與下考,苛切之風為之少衰。

奉御の趙瑄が雄県の地を献じて東宮の荘園とした。経らは瑄が制に違反したと弾劾し、詔獄に下した。しかし帝はまた鎮撫司の言に従い、官を遣わして実状を調査させた。経らはまた争って言った。「太祖、太宗の定制では、閑田は民に開墾を任せている。奸人の言によってこれを官に籍没するならば、土田の予奪はすべて奸人の口から出ることになり、小民は生きる術がなくなる。」やがて調査者と巡撫の高銓が、閑田はわずか七十頃で、すべて民田と錯綜していると言った。そこで経の言に従って民に賦し、瑄を罪に処した。宦官の何鼎が外戚の張鶴齢を弾劾して獄に下されると、経は疏を上してこれを救い、旨に逆らって切責された。雍王の祐枟が衡州税課司と衡陽県の河泊所を乞うたが、経は許すべからずと言った。帝はこれを容れ、今後四方の税課は王府が請うてはならないと命じた。織造を担当する宦官が、両浙の塩課二万引を増給するよう請うた。経らは言った。「塩策は辺境を助けるもので、濫給すべきではない。かつ祖宗の朝では、織染諸局の供禦には定数があった。もし取用が増えたと言うなら、江南・両浙ではすでに例外として増造している。もし工匠が不足していると言うなら、公家に仰食する者は千人を下らず、何をしているというのか。これによって供用は必ずしも欠けていないことが分かり、ただ陛下を導いて労民傷財の事を行わせるだけである。」帝は従わなかった。経は毎年の恒例となることを恐れ、再び疏を上してその後の断絶を請うた。そこで歳に五千引を与えることを命じた。

原文奉禦趙瑄獻雄縣地為東宮莊。經等劾瑄違制,下詔獄。而帝復從鎮撫司言遣官勘實。經等復爭之曰:「太祖、太宗定制,閑田任民開墾。若因奸人言而籍之官,是土田予奪,盡出奸人口,小民無以為生矣。」既而勘者及巡撫高銓言閑田止七十頃,悉與民田錯。於是從經言仍賦之民,治瑄罪。中官何鼎劾外戚張鶴齡下獄,經疏救之,忤旨切責。雍王祐枟乞衡州稅課司及衡陽縣河泊所,經言不可許。帝納之,命自今四方稅課,王府不得請。中官織造者,請增給兩浙鹽課二萬引,經等言:「鹽筴佐邊,不宜濫給。且祖宗朝織染諸局供禦有常數,若曰取用有加,則江南、兩浙已例外增造,若曰工匠不足,則仰食公家不下千餘人,所為何事。是知供用未必缺,而徒導陛下以勞民傷財之事也。」帝不從。經恐歲以為常,再疏請斷其後,乃命歲予五千引。

先に、倉場監督の内官は成化末年の例に依って裁減されていた。十一年の秋、帝はまた少監の莫英ら三人を増用した。経は上疏して力説して争ったが、帝はすでに派遣したので聴かなかった。内霊台が錦衣衛の余丁百人を供して洒掃させようと請うたが、経らは諫めて、納れられなかった。経は言った。「祖宗が内台を設けたのは、その地が極めて密であるからだ。今一旦百人を増やせば、必ず漏泄妄言する者が現れるだろう。」帝は悟り、直ちにこれを止めた。

原文先是,倉場監督內官依成化末年例裁減。十一年秋,帝復增用少監莫英等三人。經上疏力爭,帝以已遣不聽。內靈臺請錦衣余丁百人供灑掃,經等諫,不納。經曰:「祖宗設內臺,其地至密。今一旦增百人,將必有漏泄妄言者。」帝悟,立已之。

崇王の見澤が河南の退灘地二十余里を乞うたが、経は与えるべきでないと言った。興王の祐杬が前後して赤馬などの河泊所と近湖の地千三百余頃を乞うたが、経は三度疏を上して争い、ついに許されなかった。帝は粛寧などの県の地四百余頃を寿寧侯の張鶴齢に賜ったが、その家人が民地を三倍に侵し、さらに民を殴打して死に至らしめたため、巡撫の高銓に下って調査報告させた。銓は耕せるものはほとんどなく、民に賦するよう請うたが、許されなかった。当時、王府・勲戚の荘田は例として一畝につき銀三分を徴収していたが、鶴齢だけが奏上して二分を加徴し、かつ砂鹹地にも一律に加えるよう求めた。経は抗章して執奏し、侍郎の許進を太監の朱秀とともに派遣して再審査させた。経は言った。「地はすでに再調査した。今また使を遣わすのは、徒らに煩擾を滋すだけである。昔、太祖は劉基の故に青田の賦を減じ、米五合を徴収し、基の郷里の子孫に代々基を称えさせようとした。今、興済は篤く皇后を生んだ。正に民を恤れみ賦を減じて、代々徳を戴かせるべきである。どうしてかえって小民に怨みを抱かせて止まないようにするのか。」まもなく、進らが戻って言うには、この地は憲廟の皇親である柏権と民の恒産であり、奪うべからずと。帝はついに鶴齢に与え、その請い通りに加税し、権に価値を償わせ、民の租額を除いた。経らはまた諫めて言った。「東宮・親王の荘田の徴税には自ら例がある。鶴齢だけが特に優遇されるべきではない。権は先帝の妃の家であり、これも戚畹である。名は価値を償うといいながら、実はこれを奪うのである。天下は陛下がただ椒房の親を厚くし、先朝の外戚を顧みないと言うだろう。」帝は終に納れなかった。

原文崇王見澤乞河南退灘地二十餘里,經言不宜予。興王祐杬前後乞赤馬諸河泊所及近湖地千三百餘頃,經三疏爭之,竟不許。帝以肅寧諸縣地四百餘頃賜壽寧侯張鶴齡,其家人因侵民地三倍,且毆民至死,下巡撫高銓勘報。銓言可耕者無幾,請仍賦民,不許。時王府、勛戚莊田例畝征銀三分,獨鶴齡奏加征二分,且概加之沙堿地。經抗章執奏,命侍郎許進偕太監朱秀覆核。經言:「地已再勘,今復遣使,徒滋煩擾。昔太祖以劉基故減青田賦,征米五合,欲使基鄉里子孫世世頌基。今興濟篤生皇后,正宜恤民減賦,俾世世戴德,何乃使小民銜怨無已也。」頃之,進等還言此地乃憲廟皇親柏權及民恒產,不可奪。帝竟予鶴齡,如其請加稅,而命償權直,除民租額。經等復諫曰:「東宮、親王莊田征稅自有例,鶴齡不宜獨優。權先帝妃家,亦戚畹也,名雖償直,實乃奪之。天下將謂陛下惟厚椒房親,不念先朝外戚。」帝終不納。

大同が戦馬を欠き、馬文升が太倉の銀を用いて買い入れようと請うた。経は言った。「糧と馬はそれぞれ司存がある。祖訓では六部は互いに圧することなく、兵部が戸部の権を侵すのは祖訓に非ず。」帝はこれに代えて太僕の銀を撥給した。給事中の魯昂が税役の金銭をすべて徴収して太倉に輸送するよう請うた。経は言った。「織造・賞賚・斎醮・土木の費を節制せず、天下の財を徴収しようとするのは、誤りである。」内官が旨を伝えて太倉の銀三万両を灯の費用として求めると、これを与えなかった。

原文大同缺戰馬,馬文升請太倉銀以市。經言:「糧馬各有司存。祖訓六部毋相壓,兵部侵戶部權,非祖訓。」帝為改撥太僕銀給之。給事中魯昂請盡括稅役金錢輸太倉,經曰:「不節織造、賞賚、齋醮、土木之費,而欲括天下財,是舛也。」內官傳旨索太倉銀三萬兩為燈費,持不與。

経は剛介方正で、強諫を好み、たとえ重く旨に逆らっても顧みなかった。宦官・貴戚は皆これを畏れて憎んだ。太監の李広が死に、帝は朝臣が贈り物を記した簿籍を得て、大いに怒った。科道が諸臣が李広と交際した状況を弾劾し、経に及ぶ者もあった。経は上疏して言った。「先日、科道が廷臣が李広に奔走競ったことを弾劾し、臣の名を闌入した。恩を蒙って問われなかったが、実に傷を抱き痛みを忍び、自ら明らかにする術がない。人が李広に奔走競うのは、その左右に進言して、寵眷を図るためである。陛下は試みに考えられよ、広が在世中、臣に言及したことがあったか。かつ交結饋遺の簿籍が具在する。乞う、かつて臣の姓名があったかどうか検せられよ。さらに厳しく広の家人を鞫問せられよ。臣に寸金・尺帛でもあれば、即ち臣の交結の罪を治め、市曹で斬首し、奔走競って恥知らずの戒めとせられよ。もし関わりがなければ、また臣のために洗雪せられ、ようやく四体を伸ばして、聖明に事え終えることができる。もし汚れを抱き垢を忍ばせれば、即ち死して溝壑に埋められても、目はなお瞑れない。」帝は慰めて答えた。十三年、星変があり、自ら陳べて休職を乞うた。許しを報じ、勅を賜って駅馬を馳せ、太子太保を加え、侶鐘を代わりとした。廷臣は争って上章して留めようとし、中外で論薦する者は八十余疏に至ったが、すべて報じられずに寝た。

原文經剛介方正,好強諫,雖重忤旨不恤。宦官、貴戚皆憚而疾之。太監李廣死,帝得朝臣與饋遺簿籍,大怒。科道因劾諸臣交通狀,有及經者。經上疏曰:「昨科道劾廷臣奔競李廣,闌入臣名。雖蒙恩不問,實含傷忍痛,無以自明。夫人奔競李廣,冀其進言左右,圖寵眷耳。陛下試思廣在時,曾言及臣否。且交結饋遺簿籍具在,乞檢曾否有臣姓名。更嚴鞫廣家人,臣但有寸金、尺帛,即治臣交結之罪,斬首市曹,以為奔競無恥之戒。若無幹涉,亦乞為臣洗雪,庶得展布四體,終事聖明。若令含汙忍垢,即死填溝壑,目且不瞑。」帝慰答之。十三年,星變,自陳乞休。報許,賜敕馳驛,加太子太保,以侶鐘代。廷臣爭上章留之,中外論薦者至八十餘疏,鹹報寢。

武宗が即位すると、言官が再び推薦し、召されて南京戸部尚書となったが、継母の喪に遭い未赴任。正徳三年、喪明け。経の婿の兵部尚書曹元は劉瑾と親しく、経は老いても尚用いるべきと進言し、そこで召されて礼部尚書となった。固辞したが許されず、強いて召しに応じた。職務に就いて数ヶ月で病を理由に辞去。五年三月に卒去、七十一歳。太保を追贈され、文端と諡された。

原文武宗即位,言官復薦,召為南京戶部尚書,遭繼母憂未任。正德三年,服闋。經婿兵部尚書曹元方善劉瑾,言經雖老尚可用,乃召為禮部尚書。固辭不許,強赴召。受事數月即謝病去。五年三月卒,年七十一。贈太保,謚文端。

子の曾は進士。浙江右参政。

原文子曾,進士。浙江右參政。

耿裕

原文耿裕

耿裕、字は好問、刑部尚書九疇の子である。景泰五年の進士。庶吉士に改められ、戸科給事中に授けられ、工科に改まる。天順初め、九疇が右都御史となったため、裕は検討に改められた。九疇が石亨を弾劾した罪で貶謫されると、裕も泗州判官に左遷された。父の喪が終わり、定州に補された。

原文耿裕,字好問,刑部尚書九疇子也。景泰五年進士。改庶吉士,授戶科給事中,改工科。天順初,以九疇為右都御史,改裕檢討。九疇坐劾石亨貶,裕亦謫泗州判官。終父喪,補定州。

成化初め、召されて検討に復し、国子司業・祭酒を歴任。侯伯の幼い者は皆監中で学業に励んだが、裕は古の諸侯・貴戚の言行で模範とすべきものを採って書にし授けた。帝は聞いて善しと称した。吏部左右侍郎を歴任。尚書尹旻の連座で、俸給停止を二度受けた。後に、旻に代わって尚書となった。大学士万安は裕と不協で、李孜省は同郷の李裕をひいきし、彼に代わらせようと謀り、共に謀って中傷した。事に坐して、侍郎黎淳を南京に転じ、裕の俸給を奪った。言官が再び交えて弾劾したが、宥された。裕が入朝して謝罪したが、退出後、帝は怒って言った、「朕は再び裕の罪を寛大にした。再び謝すべきである。今一度謝しただけで、俸給を奪われたため、心中不満なのか」。孜省らはこれによって彼を陥れ、遂に南京礼部に転じ、李裕が代わった。一年余り後、孝宗が嗣位すると、南京兵部参賛機務に転じた。

原文成化初,召復檢討,歷國子司業、祭酒。侯伯年幼者皆肄業監中,裕采古諸侯、貴戚言行可法者為書授之,帝聞而稱善。歷吏部左右侍郎。坐尚書尹旻累,停俸者再。已,代旻為尚書。大學士萬安與裕不協,而李孜省私其同鄉李裕,欲使代裕,相與謀中之。坐以事,調侍郎黎淳南京,而奪裕俸。言官復交劾,宥之。裕入謝,既出,帝怒曰:「吾再寬裕罪,當再謝。今一謝,以奪俸故,意鞅鞅耶?」孜省等因而傾之,遂調南京禮部,而以李裕代。逾年,孝宗嗣位,轉南京兵部參贊機務。

弘治に改元すると、召されて礼部尚書に拝された。当時公私ともに奢侈が甚だしく、費用は日増しに広がった。裕は事に随って救い正し、災異に因んで時事を条奏し、言官の理を申し立て、先後甚だ多く陳言し、大要は節倹に帰した。給事中鄭宗仁が光禄寺の供応を節減する上疏をし、裕らはその奏を採用するよう請うた。光禄寺を巡視した御史田大淵が、供給費用不足のため行戸を苦しめているとし、太倉の銀を借りて償うよう請うた。裕らは、侵奪盗取の弊があると疑い、関係部署に禁防を命じるよう請うた。帝は皆従った。南京守備の中官が奉先殿の日々の供え物を増やすよう請うたが、裕らは認めなかった。帝は践祚したばかりで、番僧を斥けて本土に還し、乳奴班丹ら十五人のみ留めた。その後多くが京師に潜み匿れ、互いに招き引き、斎醮が再び盛んになった。言官がこれを言上すると、裕らは力強く駆逐を請うた。帝は百八十二人を留め、残りは悉く追い返した。礼部の官舎が火災に遭い、裕と侍郎倪嶽・周経らは罪を請い、弾劾されて獄に下された。後に釈放され、俸給を停められた。

原文弘治改元,召拜禮部尚書。時公私侈靡,耗費日廣。裕隨事救正,因災異條上時事及申理言官,先後陳言甚眾,大要歸於節儉。給事中鄭宗仁疏節光祿供應,裕等請納其奏。巡視光祿御史田{大淵}以供費不足累行戶,請借太倉銀償之。裕等言,疑有侵盜弊,請敕所司禁防,帝皆從之。南京守備中官請增奉先殿日供品物,裕等不可。帝方踐阼,斥番僧還本土,止留乳奴班丹等十五人。其後多潛匿京師,轉相招引,齋醮復興。言官以為言,裕等因力請驅斥。帝乃留百八十二人,余悉逐之。禮部公廨火,裕及侍郎倪嶽、周經等請罪,被劾下獄。已,釋之,停其俸。

初め、撒馬児罕及び土魯番が共に獅子を貢いだ。甘粛鎮守太監傅徳が先に図形を進上し、巡按御史陳瑤がこれを退けるよう請うた。裕らは瑤の請いに従い、かつ徳の詔違反の罪を治めるよう乞うたが、帝は従わなかった。後に番使が再び来朝し、京師に留まり、頻繁に宣召された。裕らは言う、「番人は道理に外れ、朝貢を許して自新させたのに、彼らは再び密かに可汗を称し、兵を興して逆らった。陛下がその使者を優遇するのは、丁度彼らが強情な時であり、天朝が彼らを恐れていると思わせ、ますます桀驁を助長するでしょう。かつ獅子は野獣に過ぎず、珍重するに足りない」。帝は直ちにその使者を還した。

原文初,撒馬兒罕及土魯番皆貢獅子,甘肅鎮守太監傅德先圖形以進,巡按御史陳瑤請卻之。裕等乞從瑤請,而治德違詔罪,帝不從。後番使再至,留京師,頻有宣召。裕等言:「番人不道,因朝貢許其自新。彼復潛稱可汗,興兵犯順。陛下優假其使,適遇倔強之時,彼將謂天朝畏之,益長桀驁。且獅子野獸,無足珍異。」帝即遣其使還。

まもなく王恕に代わって吏部尚書となり、太子太保を加えられた。御用監の匠人李綸らが内降によって官を得た。裕は言う、「先に詔があり、文官で臣の部の推挙によらず伝え乞うて除授された者は、法司に参送して按治するとあった。今綸らを用いるのは、前詔を信じず、不可である」。給事中呂献らが皆論奏し、裕も再上疏して争ったが、終に聞き入れられなかった。

原文尋代王恕為吏部尚書,加太子太保。禦用監匠人李綸等以內降得官,裕言:「先有詔,文官不由臣部推舉傳乞除授者,參送法司按治。今除用綸等,不信前詔,不可。」給事中呂獻等皆論奏,裕亦再疏爭,終不聽。

裕は人となり坦夷で諒直、朝章に諳熟していた。銓衡を執ること数年、愛憎無く、また毀誉にも従わず、銓政は公平と称された。自らの生活は淡泊であった。両世にわたり貴盛であったが、家業は蕭然として、父子共に名徳をもって称された。九年正月に卒去、六十七歳。太保を追贈され、文恪と諡された。

原文裕為人坦夷諒直,諳習朝章。秉銓數年,無愛憎,亦不徇毀譽,銓政稱平。自奉淡泊。兩世貴盛,而家業蕭然,父子並以名德稱。九年正月卒,年六十七。贈太保,謚文恪。

倪嶽

原文倪嶽

倪嶽、字は舜咨、上元の人。父の謙は命を受けて北嶽を祀り、母は緋衣の神が室に入る夢を見て、嶽を生んだので、名とした。謙は終に南京礼部尚書となり、文僖と諡された。

原文倪嶽,字舜咨,上元人。父謙,奉命祀北嶽,母夢緋衣神入室,生嶽,遂以為名。謙終南京禮部尚書,謚文僖。

嶽は天順八年の進士。庶吉士に改められ、編修に授けられた。成化年間、侍読学士を歴任し、東宮で直講した。二十二年に礼部右侍郎に抜擢され、引き続き経筵に侍した。弘治初め、左侍郎に改まる。嶽は好学で、文章は敏捷、経世の務めを博く綜べた。尚書耿裕は方正で大體を保ち、礼文制度については率ね嶽を待って決した。六年、裕が吏部に転じ、嶽は代わって尚書となった。詔して四川から国師領占竹を召そうとしたが、嶽は力諫し、帝は従わなかった。給事中夏昂・御史張禎らが相次いで争い、事は遂に止んだ。当時諸王府を営造し、規制は宏麗で、永楽・宣徳の旧制を超えていた。嶽は成式を頒布するよう請うた。また四方から報告される災異について、礼部が歳末に類奏していたが、率ね具文に過ぎないため、その月日を詳しく順に記し、博く経史の徴応を引いて、帝に講学を勤め、言路を開き、賦役を寛め、刑罰を慎み、奸貪を黜き、忠直を進め、冗員を汰り、斎醮を停め、営造を省き、濫賞を止めるよう勧めた。帝はかなり採用した。

原文嶽,天順八年進士。改庶吉士,授編修。成化中,歷侍讀學士,直講東宮。二十二年擢禮部右侍郎,仍直經筵。弘治初,改左侍郎。嶽好學,文章敏捷,博綜經世之務。尚書耿裕方正持大體,至禮文制度率待嶽而決。六年,裕改吏部,嶽遂代為尚書。詔召國師領占竹於四川,嶽力諫,帝不從。給事中夏昂、御史張禎等相繼爭之,事竟寢。時營造諸王府,規制宏麗,逾永樂、宣德之舊。嶽請頒成式。又以四方所報災異,禮部於歲終類奏,率為具文,乃詳次其月日,博引經史征應。勸帝勤講學,開言路,寬賦役,慎刑罰,黜奸貪,進忠直,汰冗員,停齋醮,省營造,止濫賞。帝頗采納焉。

左侍郎徐瓊は后家と縁故があり、嶽に代わろうと謀った。九年、南京吏部に尚書が欠け、廷推で瓊が推された。詔して嶽に太子太保を加え、赴任させ、瓊が果たして嶽に代わった。まもなく嶽を南京兵部参賛機務に改めた。還朝後、屠滽に代わって吏部尚書となり、請托を厳しく絶ち、名誉に従わず、銓政は公平と称された。

原文左侍郎徐瓊與後家有連,謀代嶽。九年,南京吏部缺尚書,廷推瓊。詔加嶽太子太保,往任之,而瓊果代嶽。尋改嶽南京兵部參贊機務。還,代屠滽為吏部尚書,嚴絕請托,不徇名譽,銓政稱平。

嶽は状貌魁岸、風采厳峻、大事を断ずるに善かった。毎度満廷が聚議する時、片言で決し、聞く者は悦服した。同列の中では、最も馬文升を推譲したが、論事については嘗て苟も同ぜず。前後百余事を陳請し、軍国の弊政を剔抉して遺すところ無かった。上疏が出ると、人多く伝え書き写した。西北の用兵の害について論じたことは特に切実で、その概略は以下の通り。

原文嶽狀貌魁岸,風采嚴峻,善斷大事。每盈廷聚議,決以片言,聞者悅服。同列中,最推遜馬文升,然論事未嘗茍同。前後陳請百餘事,軍國弊政剔抉無遺。疏出,人多傳錄之。論西北用兵害尤切,其略云:

近年、毛裏孩・阿羅忽・孛羅出・乚加思蘭が大いに辺患となった。河套の中は、水草甘肥で屯牧し易く、故に賊は頻りにその地を占拠し、衆を擁して侵入掠奪した。諸将は怯懦で、率ね城に拠って自守した。もし敵に遇えば、直ちに挫衄した。既にその前鋒を折ることを敢えず、またその帰路を邀えることもできない。敵は進んで重利を得、退いて後憂無く、兵鋒を靖めず、辺患は寧まらない。将を命じて征伐させたが、四年の間に三度挙兵して、寸功も無い。或いは高臥して帰り、或いは安行して返る。圭を析き爵を擔い、朝行に優遊し、帛を輦し金を輿して、私室に充刃する。且つ軍旅が一度動けば、輒ち捷音を報じ、賜与は濫施され、官秩は軽く授けられる。甚だしきは妄りに平民を殺し、謬って首級と称する。敵は未だ敗北せず、輒ち奔遁を以て言い訳とする。功賞の加わる者は、私的な子弟でなければ、権門の廝養である。而して什伍の卒、転餉の民は、骨を荒城に委ね、膏血を野草に染める。天怒人怨、禍い日に深く、細故ではない。

原文近歲毛裏孩、阿羅忽、孛羅出、乚加思蘭大為邊患。蓋緣河套之中,水草甘肥,易於屯牧,故賊頻據彼地,擁眾入掠。諸將怯懦,率嬰城自守。茍或遇敵,輒至挫衄。既莫敢折其前鋒,又不能邀其歸路。敵進獲重利,退無後憂,致兵鋒不靖,邊患靡寧。命將徂征,四年三舉,絕無寸功。或高臥而歸,或安行以返。析圭擔爵,優遊朝行,輦帛輿金,充刃私室。且軍旅一動,輒報捷音,賜予濫施,官秩輕授。甚至妄殺平民,謬稱首級。敵未敗北,輒以奔遁為辭。功賞所加,非私家子弟,即權門廝養。而什伍之卒,轉餉之民,則委骨荒城,膏血野草。天怒人怨,禍幾日深,非細故也。

京営は平素より冗員で怯懦と評されておる。京師に留まって鎮守すれば、なお根本を強固にせんとするも恐るるに足らず、顧みて軽々しく出撃し、天威を汚すこととなる。臨戦に及んで即ち奔逃し、却って辺軍の功績を損ない、敵に侮られることとなる。且つ延綏は辺境にして、京師より遠く、宣府・大同もまた辺境にして、京師に近し。彼には門庭の譬えあり、此には陛楯の厳しき無し、これでよろしいか。近ごろ兵部が建議するには、宣府に五千の兵を出させ、大同に一万の兵を出させ、力を併せて延綏を救援せよというが、その相去ること既に遠く、往復間に合わず、人心は転移に苦しみ、馬力は奔軛に疲れることを慮らざるなり。夫れ声東撃西は、賊寇の奸態なり。虚を搗き亢を批つは、兵家の長策なり。精鋭既に西に尽き、老弱乃ち北に留まる。万一北に或いは警有り、而して西は離るべからず、首尾衡決し、遠近坐困す、これ計を得たりと為すべけんや。延綏に至っては、士馬屯集し、糧糗貯え難く、乃ち山西・河南の民に飛芻転粟の役を任せしむ。徒歩千里、夫は運びて妻は供し、父は挽きて子は荷い、道路愁怨し、井落空虚なり。幸いにして至るを得れば、束芻百銭、斗粟倍直、不幸にして賊に遇えば、身且に斃る、他に尚何をか云わん。輸将足らざれば則ち軽賫有り、軽賫足らざれば又た預征有り。水旱は未だ先知すべからず、豊歉未だ逆卜すべからず、征を如何にして其れ預けん。又た民に芻粟を輸して官を補わしむるを令す。而して権貴に媚び親故に私する者は、或いは空牒を出して授け、倉庾に升合の入り無し。至りて粟を輸して塩を給するに至っては、則ち豪右請托し、率ね虚名を占めてこれを鬻ぎ、而して商賈の費且つ倍蓰す。官爵日軽く、塩法日沮み、而して辺儲の充たざること故の如し。

原文京營素號冗怯。留鎮京師,猶恐未壯根本,顧乃輕於出禦,用褻天威。臨陣輒奔,反墮邊軍之功,為敵人所侮。且延綏邊也,去京師遠;宣府、大同亦邊也,去京師近。彼有門庭之喻,此無陛楯之嚴,可乎?頃兵部建議:令宣府出兵五千,大同出兵一萬,並力以援延綏,而不慮其相去既遠,往返不逮,人心苦於轉移,馬力疲於奔軼。夫聲東擊西者,賊寇之奸態也。搗虛批亢者,兵家之長策也。精銳既盡乎西,老弱乃留於北。萬一北或有警,而西未可離,首尾衡決,遠近坐困,其可為得計哉?至於延綏士馬屯集,糧糗不貲,乃以山西、河南之民任飛芻轉粟之役。徒步千里,夫運而妻供,父挽而子荷,道路愁怨,井落空虛。幸而得至,束芻百錢,鬥粟倍直;不幸遇賊,身且斃矣,他尚何雲。輸將不足則有輕賫,輕賫不足又有預征。水旱不可先知,豐歉未能逆卜,征如何其可預也。又令民輸芻粟補官,而媚權貴私親故者,或出空牒以授,倉庾無升合之入。至若輸粟給鹽,則豪右請托,率占虛名鬻之,而商賈費且倍蓰。官爵日輕,鹽法日沮,而邊儲之不充如故也。

又た朝廷は帑蔵を出して辺に給し、歳に銀数十万と為す。山西・河南、軽賫を辺に輸するもの、歳に数十万に下らざるなり。銀日積みて多ければ則ち銀益賤く、粟日散じて少なければ則ち粟益貴し。而して知らざる者は、遂に養兵の中に、狙を養うの術を寓す。或いは茶塩を以てし、或いは銀布を以てし、名は糧価を準折すると為すも、実は則ち軍需を侵克す。故に朝廷には糜廩の虞有り、軍士には果腹の楽無し。兵馬の経る所に至っては、例として応付を須う。平居には、人日に米一斗、馬日に芻一束。追逐すれば、一日の間に或いは一二堡、或いは三四城、豈に俱に給せんや。而して典守の者は巧みに竊攘の謀を為し、凡そ経歴する所悉く開支有り、上を罔きて私を行い、此れより甚しきは莫し。

原文又朝廷出帑藏給邊,歲為銀數十萬。山西、河南輸輕賫於邊者,歲不下數十萬。銀日積而多則銀益賤,粟日散而少則粟益貴。而不知者,遂於養兵之中,寓養狙之術。或以茶鹽,或以銀布,名為準折糧價,實則侵克軍需。故朝廷有糜廩之虞,軍士無果腹之樂。至兵馬所經,例須應付。居平,人日米一斗,馬日芻一束。追逐,一日之間或一二堡,或三四城,豈能俱給哉?而典守者巧為竊攘之謀,凡所經歷悉有開支,罔上行私,莫此為甚。

及んで禦敵の策を訪うれば、則ち又た論議紛紜たり。復た受降の故険をし、東勝の旧城を守り、声援交接せしめ、犄角制し易からしむべしと謂う者有り。城を河北に復せんと欲すれば、即ち須らく塞外に兵を屯せん。孤遠の軍を出だし、荒漠の地に渉り、輜重しちょう累と為り、饋餉惟だ艱し。彼或いは前に於いて抄掠し、後に於いて躡襲す。曠日持久し、軍食乏絶す。進んで城を得ず、退いて帰るを得ず、一敗して声威大いに損ず。又た十万の衆を統べ、半月の糧を裹み、武威を奮揚し、窟穴を掃蕩し、河套を一空せしむべしと謂う者有り。事善からざるに非ず。然れども帝王の兵は、全を以て勝を取る。孫・呉の法は、逸を以て労を待つ。今勇を鼓して前行し、窮め搜り遠く撃ち、危に乗り険を履み、万一の幸を覬う。糧を贏して遠く随えば則ち重くして事に及ばず、兵を提いて深く入れば則ち孤にして援けられず。且つ其の間地方千里、城郭の居無く、委積の守無し。彼或いは往来遷徙し、我が馳駆を罷めしむ。我は則ち情見勢屈し、敵に困ぜらる。既に坐勝の機を失い、必ず覆没の轍を蹈む。其の最も策無き者は、又た延綏を棄てて守らざるべしと欲し、兵民に肩を息わしむ。一民尺土も皆祖宗より受くる所、忽にすべからざるを知らざるなり。向に東勝を失い、故に今日の害延綏に萃まり、関陜震動す。今延綏を棄てば、則ち他日の害関陜に鐘し、京師震動す。賊愈近くして禍愈大なり。

原文及訪禦敵之策,則又論議紛紜。有謂復受降之故險,守東勝之舊城,使聲援交接,犄角易制。夫欲復城河北,即須塞外屯兵。出孤遠之軍,涉荒漠之地,輜重為累,饋餉惟艱。彼或抄掠於前,躡襲於後。曠日持久,軍食乏絕。進不得城,退不得歸,一敗而聲威大損矣。又有謂統十萬之眾,裹半月之糧,奮揚武威,掃蕩窟穴,使河套一空。事非不善也。然帝王之兵,以全取勝;孫、吳之法,以逸待勞。今欲鼓勇前行,窮搜遠擊,乘危履險,覬萬一之幸。贏糧遠隨則重不及事,提兵深入則孤不可援。且其間地方千里,無城郭之居,委積之守。彼或往來遷徙,罷我馳驅。我則情見勢屈,為敵所困。既失坐勝之機,必蹈覆沒之轍。其最無策者,又欲棄延綏勿守,使兵民息肩,不知一民尺土皆受之祖宗,不可忽也。向失東勝,故今日之害萃於延綏,而關陜震動。今棄延綏,則他日之害鐘於關陜,而京師震動。賊愈近而禍愈大矣。

因って重将権、増城堡、広斥堠、募民壮、去客兵、明賞罰、厳間諜、実屯田、復辺漕の数事を陳ず。時に兵部方に用兵を主とし、尽く用いる能わざりき。

原文因陳重將權、增城堡、廣斥堠、募民壯、去客兵、明賞罰、嚴間諜、實屯田、復邊漕數事。時兵部方主用兵,不能盡用也。

十四年十月卒す。年五十八。少保を贈られ、文毅と諡す。明世父子翰林に官し、俱に文と諡せらるるは、嶽より始まる。

原文十四年十月卒,年五十八。贈少保,謚文毅。明世父子官翰林,俱謚文,自嶽始。

閔珪

原文閔珪

閔珪、字は朝瑛、烏程の人。天順八年進士。御史に授かる。出でて河南を按じ、風力を以て聞こゆ。成化六年江西副使に擢てられ、進んで広東按察使と為る。久しくして、右僉都御史を以て江西を巡撫す。南・贛諸府多く盗有り、率ね強宗の家仆なり。珪は盗を獲て其の主を連坐せしむるを請う。法司議してこれに従う。尹直の輩李孜省に謀り、中旨を取って珪を責め盗を弭ぐ能わずとし、左遷して広西按察使と為す。

原文閔珪,字朝瑛,烏程人。天順八年進士。授御史。出按河南,以風力聞。成化六年擢江西副使,進廣東按察使。久之,以右僉都御史巡撫江西。南、贛諸府多盜,率強宗家仆。珪請獲盜連坐其主,法司議從之。尹直輩謀之李孜省,取中旨責珪不能弭盜,左遷廣西按察使。

孝宗位を嗣ぎ、右副都御史に擢てられ、順天を巡撫す。入りて刑部右侍郎と為り、進んで右都御史、両広軍務を総督し、総兵官毛鋭と古田の僮を討つ。副総兵馬俊・参議馬鉉自ら臨桂より深入し、敗死し、軍遂に退く。詔して俸を停めて賊を討たしむ。珪復た進兵し、連ねて七寨を破り、他の賊悉く就撫す。

原文孝宗嗣位,擢右副都御史,巡撫順天。入為刑部右侍郎,進右都御史,總督兩廣軍務,與總兵官毛銳討古田僮。副總兵馬俊、參議馬鉉自臨桂深入,敗死,軍遂退。詔停俸討賊。珪復進兵,連破七寨,他賊悉就撫。

弘治七年南京刑部尚書に遷り、尋ねて召されて左都御史と為る。十一年、東宮出閣し、太子少保を加う。十三年白昂に代わりて刑部尚書と為り、再び太子太保を加う。災異を以て都御史戴珊と共に時政八事を陳じ、又た刑獄四事を陳ず。多く報可せらる。

原文弘治七年遷南京刑部尚書,尋召為左都御史。十一年,東宮出閣,加太子少保。十三年代白昂為刑部尚書,再加太子太保。以災異與都御史戴珊共陳時政八事,又陳刑獄四事,多報可。

珪久しく法官と為り、獄を議する皆情に会し律に比し、仁恕に帰す。宣府の妖人李道明衆を聚めて香を焼く。巡撫劉聰千戸黄珍の言を信じ、数十家を株連し、道明将に北寇を引きて宣府を攻めんとすと謂う。及び逮訊して験無く、珪乃ち止めて道明一人を坐し、余は悉く釈放を得しめ、而して珍の罪に抵い、聰も亦た獄に下り官を貶せらる。帝の親しく呉一貫を鞫するに、将に大辟に置かんとす。珪進みて曰く、「一貫は案を推して実せず、罪徒に当たる」と。帝允さず、珪初めの如く執す。帝怒り、戴珊旁らよりこれを解く。帝乃ち威を霽らし、更に擬せしむ。珪終に原擬を以て上す。帝悦ばず、劉大夏を召して語る。対えて曰く、「刑官の法を執るは乃ち其の職、未だ深く罪すべからず」と。帝默然として久しくして曰く、「朕も亦た珪の老成得難きを知る。但だ此事太だ執するのみ」と。卒に珪の議の如し。

原文珪久為法官,議獄皆會情比律,歸於仁恕。宣府妖人李道明聚眾燒香,巡撫劉聰信千戶黃珍言,株連數十家,謂道明將引北寇攻宣府。及逮訊無驗,珪乃止坐道明一人,余悉得釋,而抵珍罪,聰亦下獄貶官。帝之親鞫吳一貫也,將置大辟,珪進曰:「一貫推案不實,罪當徒。」帝不允,珪執如初。帝怒,戴珊從旁解之。帝乃霽威,令更擬。珪終以原擬上,帝不悅,召語劉大夏。對曰:「刑官執法乃其職,未可深罪。」帝默然久之,曰:「朕亦知珪老成不易得,但此事太執耳。」卒如珪議。

正徳元年六月、年七十を逾えて再び疏を上して退くを求め、允さず。及び劉瑾事を用うるに及び、九卿闕に伏して固く諫め、韓文斥せらる。珪復た章を連ねて乞休す。明年二月詔して少保を加え、敕を賜い伝を馳せて帰らしむ。六年十月卒す。年八十二。太保を贈られ、莊懿と諡す。

原文正德元年六月,以年逾七十再疏求退,不允。及劉瑾用事,九卿伏闕固諫,韓文被斥,珪復連章乞休。明年二月詔加少保,賜敕馳傳歸。六年十月卒,年八十二。贈太保,謚莊懿。

從孫如霖、南京禮部尚書。如霖の曾孫洪学、吏部尚書。洪学の從弟夢得、兵部戎政尚書。他の庶僚と為る者復た数人。

原文從孫如霖,南京禮部尚書。如霖曾孫洪學,吏部尚書。洪學從弟夢得,兵部戎政尚書。他為庶僚者復數人。

戴珊

原文戴珊

戴珊、字は廷珍、浮梁の人。父哻、郷挙より官し嘉興教授と為り、学行有り。富人数輩其の奴子を遣わして入学せしむ。哻不可とす。上官に賄して強ゆ。執すること愈堅く、忤わるを見、他事に坐して去る。

原文戴珊,字廷珍,浮梁人。父哻,由鄉舉官嘉興教授,有學行。富人數輩遣其奴子入學,哻不可。賄上官強之,執愈堅,見忤,坐他事去。

珊幼より学を嗜む。天順末、劉大夏と同く進士に挙げらる。久しくして、御史に擢てられ、南畿の学政を督す。成化十四年陜西副使に遷り、仍って学政を督す。身を正して教えに率い、士皆愛慕す。歴て浙江按察使、福建左・右布政使、終任に一の土物も携えず。

原文珊幼嗜學,天順末,與劉大夏同舉進士。久之,擢御史,督南畿學政。成化十四年遷陜西副使,仍督學政。正身率教,士皆愛慕之。歷浙江按察使,福建左、右布政使,終任不攜一土物。

弘治二年(1489年)、王恕の推薦により右副都御史に抜擢され、鄖陽を撫治した。蜀の盗賊野王剛が竹山・平利を流れ劫掠した。戴珊は川・陜の兵を合わせ、副使朱漢らに檄を飛ばして討伐させ、その首魁を捕らえ、残りは皆脅されて従った者として論じ、多くを全活させた。入朝して刑部左侍郎・右侍郎を歴任し、尚書何喬新・彭韶と共事した。晋府の寧化王朱鐘鈵が淫虐で不孝であったが、調査しても実情を得られず、再び戴珊らを派遣してこれを調査させ、遂に爵位を奪い禁錮に処した。南京刑部尚書に進んだ。久しくして、召されて左都御史となった。十七年(1504年)、京官を考察するに当たり、戴珊は廉潔で節操を曲げず、苟も迎合しなかった。給事中呉・王蓋は自ら罷免されることを疑い、連続して上疏して吏部尚書馬文升を誹謗し、併せて戴珊が妻子に賄賂を納めさせたと述べた。戴珊らは罷免を乞うたが、帝は慰留した。御史馮允中らが言うには、「文升・珊は累朝に仕え、清徳が素より著しい。浮説によって計典を廃してはならない」と。そこで呉・王蓋を詔獄に下し、文升・珊に即座に考察の事を挙行するよう命じた。戴珊らは言うには、「両人は逆に自分たちが罷免されるだろうと計算し、故に先んじて臣らを弾劾したのである。今これを罷免すれば、彼らは必ず私怨によるものだと言うであろう。もし罷免を避ければ、委任に背き、詐偽を行う者を志を得させることになる」と。帝は両人の事跡を上奏するよう命じ、皆罷免した。後に、劉健らが召対に因り、王蓋の罪は軽く、宜しく任用すべきと力説した。帝は文升・珊を用いる方向にあり、遂に受け入れなかった。

原文弘治二年,以王恕薦擢右副都御史,撫治鄖陽。蜀盜野王剛流劫竹山、平利。珊合川、陜兵,檄副使朱漢等討擒其魁,餘皆以脅從論,全活甚眾。入歷刑部左、右侍郎,與尚書何喬新、彭韶共事。晉府寧化王鐘鈵淫虐不孝,勘不得實,再遣珊等勘之,遂奪爵禁錮。進南京刑部尚書。久之,召為左都御史。十七年,考察京官,珊廉介不茍合。給事中吳、王蓋自疑見黜,連疏詆吏部尚書馬文升,並言珊縱妻子納賄。珊等乞罷,帝慰留之。御史馮允中等言:「文升、珊歷事累朝,清德素著,不可因浮詞廢計典。」乃下、蓋詔獄,命文升、珊即舉察事。珊等言:「兩人逆計當黜,故先劾臣等。今黜之,彼必曰是挾私也。茍避不黜,則負委任,而使詐諼者得誌。」帝命上兩人事跡,皆黜之。已,劉健等因召對,力言蓋罪輕,宜調用。帝方向用文升、珊,卒不納。

帝は晚年、大臣を召し対面させ、戴珊と劉大夏は膝を交えて宴見することが特に多かった。ある日、劉大夏と共に侍坐した。帝は言った、「時は述職の折、諸大臣は皆門を閉ざしている。卿ら二人のような者は、たとえ毎日客に会っても何の害があろうか」と。袖から白金を取り出して賜り、「少しばかり卿らの廉潔を助けよ」と言い、かつ廷謝しないよう命じ、「他人の嫉みを恐れるから」と言った。戴珊は老病を理由にたびたび退任を求めたが、常に優詔で慰留し、医者を遣わし食を賜り、慰諭すること大いに加わった。戴珊は感激して涙を流し、ひそかに劉大夏に言った、「珊は老病で子は幼い。一旦先に朝露の如く消え去ることを恐れる。貴公は同年の好友である。どうして一言を惜しまれようか」と。劉大夏は「承知した」と言った。後に劉大夏が燕対を終え、帝が戴珊の病状を尋ねたので、劉大夏は戴珊が実際に病であると述べ、憐れみを乞いその帰郷を聴許されるよう願った。帝は言った、「彼が卿に言わせたのか?主人が客を留めるのに堅く、客は強いて留まるものだ。戴珊は独り朕のために留まることができないのか?かつ朕は天下の事を卿らに託している。家人父子の如きものだ。今太平の兆し未だ現れず、どうして帰るなどと忍び言えようか!」と。劉大夏が出て戴珊に告げると、戴珊は泣いて言った、「臣はこの官で死ぬことと致します」と。帝が崩御すると、戴珊は新君が嗣位したばかりで去ることを言い出し難く、病を押して職務を執った。病が発作し、遂に卒した。太子太保を贈られ、恭簡と諡された。

原文帝晚年召對大臣,珊與大夏造膝宴見尤數。一日,與大夏侍坐。帝曰:「時當述職,諸大臣皆杜門。如二卿者,雖日見客何害。」袖出白金賚之,曰:「少佐而廉。」且屬勿廷謝,曰:「恐為他人忌也。」珊以老疾數求退,輒優詔勉留,遣醫賜食,慰諭有加。珊感激泣下,私語大夏曰:「珊老病子幼,恐一旦先朝露,公同年好友,何惜一言乎?」大夏曰:「唯唯。」後大夏燕對畢,帝問珊病狀,言珊實病,乞憫憐聽其歸。帝曰:「彼屬卿言耶?主人留客堅,客則強留。珊獨不能為朕留耶?且朕以天下事付卿輩,猶家人父子。今太平未兆,何忍言歸!」大夏出以告珊,珊泣曰:「臣死是官矣。」帝既崩,珊以新君嗣位不忍言去,力疾視事。疾作,遂卒。贈太子太保,謚恭簡。

贊

原文贊

贊して言う。孝宗が明の賢君であったことには、理由があるのだ。恭儉自ら慎み、人を用いることに明るかった。劉健・謝遷ら諸賢が政府に居り、王恕・何喬新・彭韶らが七卿の長となり、互いに維持し匡弼した。朝廷に君子多く、開元・慶暦の盛時に比隆するほどであった。喬新・韶はその用を究めなかったが、声望は朝野に著しかった。史は宋の仁宗の時を称えて、国に寵幸がなかったわけではないが、治世の体を累わすには足らず、朝廷に小人がなかったわけではないが、善類の気勢に勝つには足らなかったという。孝宗の初政も、ややこれに似ている。そうでなければ、憲宗の末世を承けて、政が傍らに撓らず、財に濫費なく、元気を滋培し、中外安寧ならしめようとしたことは、容易に言えることではなかったであろう。

原文贊曰:孝宗之為明賢君,有以哉。恭儉自飭,而明於任人。劉、謝諸賢居政府,而王恕、何喬新、彭韶等為七卿長,相與維持而匡弼之。朝多君子,殆比隆開元、慶歷盛時矣。喬新、韶雖未究其用,而望著朝野。史稱宋仁宗時,國未嘗無嬖幸,而不足以累治世之體;朝未嘗無小人,而不足以勝善類之氣。孝宗初政,亦略似之。不然,承憲宗之季,而欲使政不旁撓,財無濫費,滋培元氣,中外乂安,豈易言哉。