明史

列傳第七十 王恕 馬文升 劉大夏

列傳第七十 王恕 馬文升 劉大夏

原文列傳第七十 王恕 馬文升 劉大夏

王恕

原文王恕

王恕、字あざなは宗貫、三原の人である。正統十三年の進士。庶吉士より大理左評事に任じられ、左寺副に進んだ。かつて刑罰が当を得ない六事を条陳し、皆議論されて施行された。揚州知府に遷り、粟を発して飢えを賑うのに報告を待たず、資政書院を作って士人を課試した。天順四年、治行最も優等として、超遷して江西右布政使となり、贛州の寇を平定した。憲宗が位を嗣ぐと、詔して大臣に天下の方面官を厳しく核せしめ、ここに河南左布政使侯臣ら十三人を罷免し、恕をもって臣に代えた。

原文王恕,字宗貫,三原人。正統十三年進士。由庶吉士授大理左評事,進左寺副。嘗條刑罰不中者六事,皆議行之。遷揚州知府,發粟振饑不待報,作資政書院以課士。天順四年以治行最,超遷江西右布政使,平贛州寇。憲宗嗣位,詔大臣嚴核天下方面官,乃黜河南左布政使侯臣等十三人,而以恕代臣。

成化元年、南陽・荊・襄の流民が嘯聚して乱を為すと、恕を右副都御史に擢げてこれを撫治せしめた。ちょうど母の憂いに遭うが、詔して喪に奔ること両月にして即ち起きて視事せしむ。恕は辞したが、許されなかった。尚書白圭と共に大盗劉通を平定し、またその党石龍を討ち破った。部下を厳しく束ねて濫殺せしめず、流民は復業した。河南に移って撫治した。功を論じ、左副都御史に進み、やがて南京刑部右侍郎に遷った。父の憂いに遭い、服除けの後、原官をもって河道を総督した。高郵・邵伯などの湖を浚い、雷公・上下句城・陳公の四塘水閘を修築した。災変に因り、災を消す策を講求するよう請うた。帝はこれに応じて山東の租を一年賜免し、畿輔も多く減免した。まもなく南京戸部左侍郎に改めた。

原文成化元年,南陽、荊、襄流民嘯聚為亂,擢恕右副都御史撫治之。會丁母憂,詔奔喪兩月即起視事。恕辭,不許。與尚書白圭共平大盜劉通,復討破其黨石龍。嚴束所部毋濫殺,流民復業。移撫河南。論功,進左副都御史,稍遷南京刑部右侍郎。父憂,服除,以原官總督河道。浚高郵、邵伯諸湖,修雷公、上下句城、陳公四塘水閘。因災變,請講求弭災策。帝為賜山東租一年,畿輔亦多減免。旋改南京戶部左侍郎。

十二年、大学士商輅らは、雲南が万里の遠方に在り、西は諸夷を控え、南は交阯に接するが、鎮守中官の錢能が貪欲で恣に甚だしいことを以て、大臣で威望ある者を遣わして巡撫としこれを鎮圧することを議し、ここに恕を左副都御史に改めて行かせ、就いて右都御史に進めた。初め、能は指揮郭景を遣わして京師に事を奏せしめ、安南が盗を捕える兵が雲南境に闌入したと言ったので、帝は即ち景に命じて勅を齎しこれを戒め約束させた。旧制では、安南に使するには必ず広西を経由するが、景は直ちに雲南より往った。能は景に因って安南王黎灝に玉帯・宝絳・蟒衣・珍奇などの諸物を贈った。灝は将を遣わし兵を率いて景を送還し、遂に雲南道を通じようとした。景は後の禍を懼れ、先行して守関の者に告げると偽り、ここに脱して帰り、安南の寇が来たると揚言したので、関吏は戒厳した。黔国公沐琮は人を遣わしてその帥を諭し、始めて返った。しかし諸臣は能を畏れ、匿して奏さなかった。能はまた頻りに景及び指揮盧安・蘇本らを遣わして幹崖・孟密などの諸土官と交通し、その金宝を納めること算無しであった。恕は皆これを廉得した。騎を遣わして景を捕えさせると、景は懼れて自殺し、ここに能が外国と私通したことを劾し、罪は死に当たるとした。詔して刑部郎中潘蕃を遣わしてこれを按問させた。能はまたその間に、駅伝で黄鸚鵡を進めた。恕はこれを禁絶するよう請うとともに、能の貪暴の状をことごとく発し、「昔、交阯は鎮守の人を得ずして、一方を陷没に致した。今日の事は殆どこれに甚だしい。陛下は何ぞ一能を惜しみ、もって辺を安んじないのか」と言った。能は大いに懼れ、急ぎ貴近に属して恕を召還するよう請わせた。そしてこの時、商輅・項忠らの正人はちょうど汪直に忤って罷免されていたので、遂に恕を改めて南京都察院を掌らせ、守備機務に参贊させた。能の事は直ちに解け、潘蕃の勘上は事実を得たが、置いて問わなかった。

原文十二年,大學士商輅等以雲南遠在萬里,西控諸夷,南接交阯,而鎮守中官錢能貪恣甚,議遣大臣有威望者為巡撫鎮壓之,乃改恕左副都御史以行,就進右都御史。初,能遣指揮郭景奏事京師,言安南捕盜兵闌入雲南境,帝即命景賫敕戒約之。舊制,使安南必由廣西,而景直自雲南往。能因景遺安南王黎灝玉帶、寶絳、蟒衣、珍奇諸物。灝遣將率兵送景還,欲遂通雲南道。景懼後禍,紿先行白守關者。因脫歸,揚言安南寇至,關吏戒嚴。黔國公沐琮遣人諭其帥,始返。而諸臣畏能,匿不奏。能又頻遣景及指揮盧安、蘇本等交通幹崖、孟密諸土官,納其金寶無算。恕皆廉得之。遣騎執景,景懼自殺,因劾能私通外國,罪當死。詔遣刑部郎中潘蕃往按之。能又以其間,驛進黃鸚鵡。恕請禁絕,且盡發能貪暴狀,言:「昔交阯以鎮守非人,致一方陷沒。今日之事殆又甚焉。陛下何惜一能,不以安邊僥。」能大懼,急屬貴近請召恕還。而是時商輅、項忠諸正人方以忤汪直罷,遂改恕掌南京都察院,參贊守備機務。能事立解,藩勘上得實,置不問。

恕は雲南に居ること九月、威は僥外に行き渡り、黔国公以下皆息をひそめて令を奉じた。疏は凡そ二十上し、直声天下を動かした。当時、安南は江西の叛人王姓の者を謀主として納れ、密かに諜を臨安に遣わし入れ、また蒙自で銅を市い兵器を鋳造し、間を窺って雲南を襲おうとした。恕は副使二員を増設して、辺備を整えるよう請うと、謀は遂に沮まれた。

原文恕居雲南九月,威行僥外,黔國以下鹹惕息奉令。疏凡二十上,直聲動天下。當是時,安南納江西叛人王姓者為謀主,潛遣諜入臨安,又於蒙自市銅鑄兵器,將伺間襲雲南。恕請增設副使二員,以飭邊備,謀遂沮。

南京に還ること数ヶ月、兵部尚書に遷り、参贊は従前の如し。官属を考選するに、請托を厳しく拒んだので、同事者皆悦ばなかった。そして錢能が帰ると、しばしば恕を帝に讒した。帝もまた恕が数直言することを恨みに思っていたので、遂に右副都御史を兼ねて南畿を巡撫するよう命じた。旧制では、応天・鎮江・太平・寧国・広徳の官田は半租を徴し、民田は全免であった。その後、民田は率いて豪右に帰し、官田は貧民を累わした。恕はここに官田の耗を量り減じ、少し民田にこれを増した。常州には時に羨米があったので、六万石をもって夏税を補うよう奏し、また他の府の戸口塩鈔六百万貫を補い、公私に便であった。管下に水災あり、秋糧六十余万石の免除を奏した。周行して賑貸し、全活すること二百余万口。江南は歳に白糧を輸するが、民は多く破産に至り、光禄寺は一概にこれを庖人・賤工に給した。また中官は暴横で、四方が上供物を輸するに、監収者は率いて羨入を要求した。織造の繒采及び花卉禽鳥を采る者は、道路に絡繹した。恕は先後論列したが、皆納れられなかった。

原文還南京數月,遷兵部尚書,參贊如故。考選官屬,嚴拒請托,同事者鹹不悅。而錢能歸,屢譖恕於帝。帝亦銜恕數直言,遂命兼右副都御史巡撫南畿。舊制,應天、鎮江、太平、寧國、廣德官田征半租,民田全免。其後,民田率歸豪右,而官田累貧民。恕乃量減官田耗,稍增之民田。常州時有羨米,乃奏以六萬石補夏稅,又補他府戶口鹽鈔六百萬貫,公私便焉。所部水災,奏免秋糧六十餘萬石。周行振貸,全活二百餘萬口。江南歲輸白糧,民多至破產,而光祿概以給庖人、賤工。又中官暴橫,四方輸上供物,監收者率要羨入。織造繒采及采花卉禽鳥者,絡繹道路。恕先後論列,皆不納。

中官王敬が妖人千戸王臣を挟み南行して薬物・珍玩を采り、至るところ騒然とし、長吏多く辱められた。蘇州に至り、諸生を召して妖書を写させると、諸生大いに嘩した。敬は諸生が命に抗うと奏した。恕は急ぎ疏を上して言う、「この凶歳に当たり、宜しく使を遣わして振済すべきに、顧みて乃ち横に玩好を索む。昔、唐太宗は梁州に名鷹を献ぜしめようと諷し、明皇は益州に半臂褙子を織らせ、琵琶桿撥・鏤牙合子などの諸物を進めさせたが、李大亮・蘇頲は詔を奉じなかった。臣は似無きも、この人を慕う」と。ここに敬らの罪状をことごとく列挙した。敬もまた恕を誣奏し、併せて常州知府孫仁に及び、仁は逮われた。仁は新淦の人、進士より知府に歴り、人となり方峻で、敬が至っても礼を為さず、これをもって忤われた。恕は抗章して救い、三たび疏を上して敬を劾した。ちょうど中官尚銘もまた敬の奸状を発したので、ここに敬らを獄に下し、その党十九人を戍とし、臣を市に棄て、首を南京に伝えた。仁もまた釈放されて帰り、後に官を積んで寧夏巡撫右副都御史に至った。

原文中官王敬挾妖人千戶王臣南行采藥物、珍玩,所至騷然,長吏多被辱。至蘇州,召諸生寫妖書,諸生大嘩。敬奏諸生抗命。恕亟疏言:「當此兇歲,宜遣使振濟,顧乃橫索玩好。昔唐太宗諷梁州獻名鷹,明皇令益州織半臂褙子,進琵琶桿撥鏤牙合子諸物,李大亮、蘇颋不奉詔。臣雖無似,有慕斯人。」因盡列敬等罪狀。敬亦誣奏恕並及常州知府孫仁,仁被逮。仁,新淦人,由進士歷知府,為人方峻,敬至不為禮,以是見忤。恕抗章救,三疏劾敬。會中官尚銘亦發敬奸狀,乃下敬等獄,戍其黨十九人,而棄臣市,傳首南京。仁亦得釋歸,後積官至巡撫寧夏右副都御史。

二十年、また恕を改めて南京兵部尚書とした。時に錢能もまた南京を守備し、人に語って曰く、「王公は天人なり、吾は敬って事うるのみ」と。恕は坦懐をもってこれに接し、能は終に斂み戢んだ。林俊が獄に下された時、恕は言う、「天地は一壇のみ、祖宗は一廟のみ、而して仏は千余寺に至る。一寺立てば、民居を移すこと且つ数百家、内帑を費やすこと且つ数十万、これは舛なり。俊の言は当たり、罪すべからず」と。帝は疏を得て快とせず。恕は侃侃として論列し少しも避けなかった。先後詔に応じて陳言すること二十一、建白すること三十九、皆力をもって権幸を阻んだ。天下は傾心してこれを慕い、朝事に不可あるに遇えば、必ず曰く、「王公は何ぞ言わざる」と。則ちまた曰く、「公の疏将に至らん」と、已にして、恕の疏果たして至った。時に謡して曰く、「両京十二部、独り一王恕有り」と。ここにおいて貴近皆側目し、帝もまた頗るこれを厭い苦しんだ。

原文二十年復改恕南京兵部尚書。時錢能亦守備南京,語人曰:「王公,天人也,吾敬事而已。」恕坦懷待之,能卒斂戢。林俊之下獄也,恕言:「天地止一壇,祖宗止一廟,而佛至千餘寺。一寺立,而移民居且數百家,費內帑且數十萬,此舛也。俊言當,不宜罪。」帝得疏不懌。恕侃侃論列無少避。先後應詔陳言者二十一,建白者三十九,皆力阻權幸。天下傾心慕之,遇朝事有不可,必曰:「王公胡不言也?」則又曰:「公疏且至矣」,已,恕疏果至。時為謠曰:「兩京十二部,獨有一王恕。」於是貴近皆側目,帝亦頗厭苦之。

二十二年、伝奉官を起用すると、恕は諫めて特に切であり、帝は愈々悦ばなかった。恕は先に太子少保を加えられていたが、ちょうど南京兵部侍郎馬顕が罷免を乞うと、忽ち批に附して恕の宮保を落とし致仕せしめ、朝野大いに駭いた。恕は数たび巡撫となり、侍郎より尚書に歴るまで、皆留都に在った。直言を好むをもって、終に朝に立つことを得なかった。既に帰ると、名益々高く、台省の推薦月に虚しきこと無し。工部主事仙居の王純が恕を汲黯に比したため、杖刑に至り、思南推官に謫された。

原文二十二年起用傳奉官,恕諫尤切,帝愈不悅。恕先加太子少保,會南京兵部侍郎馬顯乞罷,忽附批落恕宮保致仕,朝野大駭。恕數為巡撫,歷侍郎至尚書,皆在留都。以好直言,終不得立朝。既歸,名益高,臺省推薦無虛月。工部主事仙居王純比恕汲黯,至予杖,謫思南推官。

孝宗が即位すると、初めて廷臣の推薦を用い、召し入れて吏部尚書とし、まもなく太子太保を加えた。先に、朝廷内外で大学士劉吉を弾劾する者は必ず王恕を推薦したので、劉吉はこれを大いに恨んだ。凡そ王恕が推挙する者は、必ず陰に阻害した。弘治元年閏正月、言官が両広総督宋旻・漕運総督邱鼐ら三十七人を降格罷免すべきと弾劾したが、中には平素より時望ある者が多かった。劉吉はついに中旨を取ってこれを許可し、奏章を吏部に下さなかった。王恕はその職を得られず、上疏して去ることを請うたが、許されなかった。陝西に巡撫が欠員し、王恕は河南布政使蕭禎を推挙した。詔して別に推挙せよとすると、王恕は執奏して言うには、「陛下は臣を不肖とせず、臣を銓部に任じられた。もし推挙した者が効果がなければ、臣の罪である。今、陛下はどうして蕭禎が不才であると知って拒絶されるのか。これは必ず左右の近臣に意のある者がいるのである。臣は風指を承望して、禄位を固めることはできない。かつ陛下は既に蕭禎を不可用とされたならば、これは臣が不可用であることであり、願わくば骸骨を乞う」と。帝はついに蕭禎を用いた。

原文孝宗即位,始用廷臣薦,召入為吏部尚書,尋加太子太保。先是,中外劾大學士劉吉者,必薦恕,吉以是大恚。凡恕所推舉,必陰撓之。弘治元年閏正月,言官劾兩廣總督宋旻、漕運總督邱鼐等三十七人宜降黜,中多素有時望者。吉竟取中旨允之,章不下吏部。恕以不得其職,拜疏乞去,不許。陜西缺巡撫,恕推河南布政使蕭禎。詔別推,恕執奏曰:「陛下不以臣不肖,任臣銓部。倘所舉不效,臣罪也。今陛下安知禎不才而拒之?是必左右近臣意有所屬。臣不能承望風指,以固祿位。且陛下既以禎為不可用,是臣不可用也,願乞骸骨。」帝乃卒用禎。

当時、言官は多く王恕が賢明でかつ老齢であることを称え、劇職に任ずべきでなく、内閣に置いて大政に参与させるべきだとし、最後に南京御史呉泰らがまたこれを言上した。帝は言うには、「朕は蹇義・王直の故事を用い、王恕を吏部に官し、謀議ぼうぎがあれば未だ聴かないことはない。何ぞ必ずしも内閣である必要があろうか」と。王恕は嘗て経筵に侍し、帝が暑熱に困っておられるのを見て、故事に依り大寒暑には暫く停止し、なお講義を宮中に進めることを請うた。進士董傑・御史湯鼐・給事中韓重らは遂に相次いで上章して論駁し、王恕は待罪して解職を請うたが、優詔して許さなかった。王恕は上言して、「臣は国の厚恩を蒙り、日夜報いんと思っている。人は陛下が臣を過重に任用されるのを見て、遂に臣に望みを深くし、臣に朝政を尽く取り上げてこれを更張させようとし、宋の司馬光の故事のようである。臣の才が遠く光に及ばないことは無論、即ち今も豈に元祐の時であろうか。かつ六卿は職を分ち、各々司る所がある。臣は敢えて越えてこれを謀るであろうか。ただ董傑らの臣を責めるのはまことにその通りであり、臣は罪を逃れる所がない。ただ放還を乞うのみである」と。帝はまた優詔して勉めて留めた。王恕は感激して眷遇に遇い、ますます身を以て国事に任じた。ちょうど病気で告暇中に、帝が頗る宦官を擢用し、蟒衣を賜い庄田を与える者さえあると聞き、疏を具して切に諫めた。中官黄順が匠官潘俊を起復して供役させることを請うたが、王恕は小臣を以て重典を壊すべからずと言い、再び執奏して、ついに許すと報じられた。

原文時言官多稱恕賢且老,不當任劇職,宜置內閣參大政。最後,南京御史吳泰等復言之。帝曰:「朕用蹇義、王直故事,官恕吏部,有謀議未嘗不聽,何必內閣也。」恕嘗侍經筵,見帝困熱暑,請依故事大寒暑暫停,仍進講義於宮中。進士董傑、御史湯鼐、給事中韓重等遂交章論駁,恕待罪請解職,優詔不許。恕上言:「臣蒙國厚恩,日夕思報。人見陛下任臣過重,遂望臣太深,欲臣盡取朝政更張之,如宋司馬光故事。無論臣才遠不及光,即今亦豈元祐時。且六卿分職,各有攸司,臣豈敢越而謀之。但傑等責臣良是,臣無所逃罪,惟乞放還。」。帝復優詔勉留之。恕感激眷遇,益以身任國事。方以疾在告,聞帝頗擢用宦官,至有賜蟒衣給莊田者,具疏切諫。中官黃順請起復匠官潘俊供役,恕言不可以小臣壞重典。再執奏,竟報許。

劉吉は既に王恕を恨み、劉吉が陥れた寿州知州劉概及び言官周紘・張昺・湯鼐・姜綰らを、王恕はまた抗章して力強く救ったので、劉吉はこれによってますます恨み、乃ち私党の魏璋らと共にこれを排斥した。王恕が先後に推挙任用した羅明・熊懐・強珍・陳寿・邱鼐・白思明らについて、皆魏璋らに諷して糾弾させた。王恕は志が行えぬことを知り、連章して去ることを求めた。帝は慰留し、かつその老齢の故に特に午朝を免じ、大風雨雪に遇えば早朝も免じた。

原文劉吉既憾恕,吉所陷壽州知州劉概及言官周纮、張昺、湯鼐、姜綰等,恕又抗章力救,吉以是益恨,乃合私人魏璋等共排之。恕先後推用羅明、熊懷、強珍、陳壽、邱鼐、白思明等,鹹諷璋等糾駁。恕知誌不得行,連章求去。帝輒慰留,且以其老特免午朝,遇大風雨雪,早朝亦免。

徽王朱見沛はいが帰徳州の田を乞うたが、既に旨を得ていた。王恕は言うには、王は国の懿親であるから、尺寸の地を争って小民を失業させるべきでないと。帝は婉曲な言葉でこれに報じた。盧溝橋が完成し、中官李興が文思院副使潘俊らの官を進めることを請うた。王恕は言うには、「営造は常職であり、どうして功を録することができようか。成化の末に初めてこの事があり、陛下の初政では幸いに既に革汰された。奈何ぞまた行うのか。かつ山陵の大工では升職を聞かず、例に援って奏乞すれば、将に何の言葉を以てこれを拒絶しようか」と。帝はその言を容れた。後に、京城の河橋を修築するに当たり、帝はまた李興の請いに従って四人に官を授け、五人に冠帯を許した。王恕は執奏して従わず、再び疏を上って争って言うには、「臣の職は銓選を掌り、義として尽く言うべきである。而るに再疏しても天聴を回らすことができず、業すでにこれを許したから易えられないとされる。夫れ事はその当を得んことを求める。設し当たらずんば、十たび易うとも何の害があろう。然らずんば、流弊は救うべからざる者がある」と。報じて聞かしめた。先後に災異によって七事を条陳し、星変によって二十事を陳じ、皆時弊に切った。寿寧伯張巒が勲号・誥券を請うた。王恕は言うには、「銭・王両太后は中宮に正位すること数十年、銭承宗・王源に至って初めて封爵を邀えた。今、皇后が立って甫三年、張巒は既に伯に封ぜられている。急にこの請いがあり、聖徳を累わす。許すべからず」と。通政司経歴高禄は張巒の妹婿であるが、超遷して本司参議となった。王恕は言うには、「天下の官は天下の士を待つものであり、貴戚に私して公議を妨ぐべからず」と。中旨によって次等の御医徐生を超補して院判としたが、王恕は上考の者を選ぶことを請うたが、容れられなかった。文華殿中書舎人杜昌らが縁故によって遷秩し、御医王玉が自ら進官を乞うたが、王恕は皆力爭してこれを止めさせた。

原文徽王見沛乞歸德州田,已得旨。恕言王國懿親,不當爭尺寸地,使小民失業,帝婉辭報焉。盧溝橋成,中官李興乞進文思院副使潘俊等官。恕言:「營造常職,安得錄功。成化季始有此事,陛下初政幸已革汰,奈何復行?且山陵大工未聞升職,援例奏乞,將何詞拒之?」帝納其言。已,修京城河橋,帝復從興請授四人官,許五人冠帶。恕執奏,不從,再疏爭曰:「臣職掌銓選,義當盡言,而再疏莫回天聽,以為業已許之不可易。夫事求其當,設未當,雖十易何害。不然,流弊有不可救者。」報聞。先後以災異條七事,以星變陳二十事,鹹切時弊。壽寧伯張巒請勛號、誥券。恕言:「錢、王兩太后正位中宮數十年,錢承宗、王源始邀封爵。今皇后立甫三年,巒已封伯。遽有此請,累聖德,不可許。」通政經歷高祿,巒妹婿也,超遷本司參議。恕言:「天下之官以待天下之士,勿私貴戚,妨公議。」中旨以次等禦醫徐生超補院判,恕請選上考者,不納。文華殿中書舍人杜昌等夤緣遷秩,禦醫王玉自陳乞進官,恕皆力爭寢之。

この時、劉吉は既に罷免されていたが、邱濬が内閣に入り、また王恕と相能わなかった。初め、邱濬は礼部尚書として詹事を掌り、王恕と共に太子太保であった。王恕は六卿の長として、位は邱濬の上にあった。邱濬が内閣に入ると、王恕は吏部として譲らなかったので、邱濬はこれによって悦ばなかった。王恕が天下の庶官を考察し、既に罷黜した者を邱濬が調旨して留めた者が九十余人いた。王恕は屡々争ったが得られず、因って力求めて罷免を請うたが、許されなかった。太医院判劉文泰という者は、かつて邱濬の家に往来して官に遷ることを救われたが、王恕に沮まれたので、王恕を甚だしく恨んだ。王恕が郷里に居た日、嘗て人に属して伝記を作らせ、板を鏤めて行わせた。邱濬はその直を売り君を謗るものと謂い、上聞すれば罪且つ小さからずと言った。劉文泰は心動き、乃ち自ら奏草を作り、除名された都御史呉禎に示して潤色させた。王恕が選法を変乱したことを訐り、かつ伝記中で自ら伊尹・周公に比し、奏疏で留中されたものについて一概に報ぜずと云い、以て先帝の諫を拒むことを彰わし、人臣の礼無きものとした。奇禍に中んと欲した。王恕は奏が邱濬の指図によるものとし、抗言して、「臣の伝記は成化二十年に作り、致仕は二十二年である。先帝に望みがあったのではない。かつ伝記中に載せる所は、皆先帝の諫を納れる美を昭わすに足るものであり、何の名を以て過ちを彰わそうか。劉文泰は無頼の小人であり、此れ必ず文学に老いて陰謀多き者がこれを主るのである」と。帝は劉文泰を錦衣獄に下し、鞫いて実を得たので、因って邱濬・王恕及び呉禎を逮えて対簿することを請うた。帝は心に王恕を悦ばず、乃ち劉文泰を御医に貶し、王恕を沽名を責め、鏤めた板を焚かせた。邱濬を問わずに置いた。王恕は再び疏を上って弁理を請うたが、従わず、遂に力求めて去り、駅伝に乗って帰ることを聴されたが、勅書を賜わず、月廩・歳隷も頗る減じられた。廷論はこれによって邱濬を直しとしなかった。邱濬が卒すると、劉文泰が弔問に行くと、邱濬の妻はこれを叱り出して言うには、「汝が故に、相公をして王公を齮齕せしめ、不義の名を負わしめた。何ぞ弔問することがあろうか」と。王恕は中外に歴任すること四十余年、剛正清厳で、終始一貫していた。引き薦げた耿裕・彭韶・何喬新・周経・李敏・張悦・倪嶽・劉大夏・戴珊・章懋らは、皆一時の名臣であった。他の賢才で久しく草沢に廃されていた者は、抜擢することを恐れ後れなかった。弘治の二十年間、衆正朝に盈ち、職業修理され、極盛と号せられたのは、王恕の力である。武宗が嗣位すると、行人を遣わして勅書を賫し存問し、羊酒を賜い、益々廩隷を加え、かつ讜論隠すこと無きを諭した。王恕は国家の大政数事を陳じ、帝は優詔してこれに報じた。正徳三年四月に卒し、年九十三。平居は食啖人に兼ねたが、卒する日に少し減じた。戸を閉じて独坐し、忽ち雷の如き声有り、白気瀰漫し、覗けば瞑していた。訃報を聞き、朝を輟し、特進左柱国太師を贈り、謚して端毅と曰う。五子・十三孫、多く賢明にして且つ顕れた。

原文是時劉吉已罷,而邱濬入閣,亦與恕不相能。初,濬以禮部尚書掌詹事,與恕同為太子太保。恕長六卿,位濬上。及濬入閣,恕以吏部弗讓也,濬由是不悅。恕考察天下庶官,已黜而濬調旨留之者九十餘人。恕屢爭不能得,因力求罷,不許。太醫院判劉文泰者,故往來濬家以救遷官,為恕所沮,銜恕甚。恕裏居日,嘗屬人作傳,鏤板以行。濬謂其沽直謗君,上聞罪且不小。文泰心動,乃自為奏草,示除名都御史吳禎潤色之。訐恕變亂選法。且傳中自比伊、周,於奏疏留中者,概雲不報。以彰先帝拒諫,無人臣禮。欲中以奇禍。恕以奏出濬指,抗言:「臣傳作於成化二十年,致仕在二十二年,非有望於先帝也。且傳中所載,皆足昭先帝納諫之美,何名彰過。文泰無賴小人,此必有老於文學多陰謀者主之。」帝下文泰錦衣獄,鞫之得實,因請逮濬、恕及禎對簿。帝心不悅恕,乃貶文泰禦醫。責恕沽名,焚所鏤版。置濬不問。恕再疏請辨理,不從,遂力求去。聽馳驛歸,不賜敕,月廩、歲隸亦頗減。廷論以是不直濬。及濬卒,文泰往吊,濬妻叱之出曰:「以若故,使相公齮王公,負不義名,何吊為!」恕揚歷中外四十餘年,剛正清嚴,始終一致。所引薦耿裕、彭韶、何喬新、周經、李敏、張悅、倪嶽、劉大夏、戴珊、章懋等,皆一時名臣。他賢才久廢草澤者,拔擢之恐後。弘治二十年間,眾正盈朝,職業修理,號為極盛者,恕力也。武宗嗣位,遣行人賫敕存問,賚羊酒,益廩隸,且諭以讜論無隱。恕陳國家大政數事,帝優詔報之。正德三年四月卒,年九十三。平居食啖兼人,卒之日小減。閉戶獨坐,忽有聲若雷,白氣瀰漫,瞰之瞑矣。訃聞,輟朝,贈特進左柱國太師,謚端毅。五子、十三孫,多賢且顯。

末子の承裕は、字を天宇という。七歳にして詩を作ることができ、弱冠にして『太極動靜圖説』を著した。父の恕が吏部尚書であった時、毎日賓客に接するよう命じ、これによって天下の賢才を広く知り、選用して適切でないことはなかった。弘治六年の進士に挙げられた。恕が致仕すると、承裕はただちに帰郷を請い、養老に侍った。起用されて兵科給事中に任じられ、出向して山東・河南の屯田を管理した。登州・萊州の税糧額を減らし、三畝につき一斗を徴収し、青州・彰徳の軍田で先に王府に賜与されていた三百六十余頃を返還した。武宗が即位すると、累進して吏科都給事中となった。時事について上奏して劉瑾の意に逆らい、米を罰せられて辺境に輸送させられた。再び昇進して太僕寺卿となった。嘉靖六年、累官して南京戸部尚書に至った。滞納税糧百七十万石を整理し、余剰銀四万八千余両を蓄積した。帝は直筆で「清平正直」と書してこれを褒めた。部に在ること三年、致仕し、死去した。太子少保を追贈され、諡は康僖といった。

原文少子承裕,字天宇。七歲能詩,弱冠著《太極動靜圖說》。恕官吏部,令日接賓客,以是周知天下賢才,選用無不當。舉弘治六年進士。恕致政,承裕即告歸侍養。起授兵科給事中,出理山東、河南屯田。減登、萊糧額,三畝征一斗,還青州、彰德軍田先賜王府者三百六十餘頃。武宗立,屢遷吏科都給事中。以言事忤劉瑾,罰米輸塞上。再遷太僕卿。嘉靖六年累官南京戶部尚書。清逋稅一百七十萬石,積羨銀四萬八千餘兩。帝手書「清平正直」褒之。在部三年,致仕,卒。贈太子少保,謚康僖。

馬文升

原文马文升

馬文升は、字を負図といい、鈞州の人である。容貌は魁偉で力が強かった。景泰二年の進士に及第し、御史に任じられた。歴任して山西・湖広を巡察し、風紀を厳しく取り締まること甚だ著名であった。還朝して諸道の章奏を管轄した。母の喪が明けると、越階して福建按察使に昇進した。成化初年、召されて南京大理寺卿となったが、父の喪のために帰郷した。

原文馬文升,字負圖,鈞州人。貌瑰奇多力。登景泰二年進士,授御史。歷按山西、湖廣,風裁甚著。還領諸道章奏。母喪除,超遷福建按察使。成化初,召為南京大理卿,以父喪歸。

満四の乱が起こり、陝西巡撫陳价が官吏に降格されると、家にいた文升を右副都御史に起用して陈价の後任とした。馳せて軍中に至り、総督項忠とともに討伐して平定した。事績は項忠の伝に詳しい。功績により左副都御史に進み、巡撫はもとのままとした。文升はしばしば時宜に適った条陳を上奏し、将を選び兵を練ることにつとめ、安辺営から鉄鞭城までの烽火台を修築し、凶悪な賊を殲滅した。西固の番族で命令に従わない者はすべて討滅した。茶馬法を整備し、番馬八千余頭と交換して士卒に給した。鞏昌・臨洮の飢民を救済し、流民を撫恤安堵した。治績は甚だ顕著であった。この時、孛羅忽・満都魯・乚加思蘭が毎年辺境を侵犯した。文升は韋州に駐兵し、諸堡に伏兵を設けて待つことを請うた。かくて寇を黒水口で破り、その平章叠烈孫を生け捕りにし、また湯羊嶺で破り、二百の首級を斬った。その嶺を「得勝坡」と名付け、石碑を刻んで記念して還った。文升の軍功は甚だ盛んであったが、勝利の奏上は誇張せず、また朝廷にも取り立てる者もなかったため、恩賞は薄かった。九年の冬に至り、総制王越が大勝を奏上し、文升もまた子の琇を派遣して戦功を報告した。廷臣が調査して奏上が事実に合わないとし、俸給を三月停止する罪に処せられた。

原文滿四之亂,陜西巡撫陳價下吏,即家起文升右副都御史代價。馳至軍,與總督項忠討平之。事具忠傳。錄功進左副都御史,巡撫如故。文升數條奏便宜,務選將練兵,修安邊營至鐵鞭城烽堠,剪除劇賊。西固番族不即命者悉滅之。修茶政,易番馬八千有奇,以給士卒。振鞏昌、臨洮饑民,撫安流移。績甚著。是時,孛羅忽、滿都魯、乚加思蘭比歲犯邊。文升請駐兵韋州,而設伏諸堡待之。遂敗寇黑水口,擒其平章叠烈孫,又敗之湯羊嶺,斬首二百,名其嶺曰:「得勝坡」,勒石紀之而還。文升軍功甚盛,奏捷不為誇張,中亦無主之者,以是賞薄。至九年冬,總制王越以大捷奏,文升亦遣子琇報功。廷臣勘奏不實,坐停俸三月。

十一年春、王越に代わって三辺軍務を総制し、まもなく召還されて兵部右侍郎となった。翌年八月、遼東軍務を整頓した。巡撫陳鉞は貪欲で狡猾であり、将士の些細な過失をもってすぐに馬を罰没し、馬価が高騰した。文升は辺防策十五事を上奏し、これに因ってその禁止を請うたので、陳鉞はこれによって文升を恨んだ。文升は兵部に戻って左侍郎に転じた。十四年春、陳鉞が殺害を掩い功績を偽って激変を引き起こすと、宦官汪直は自ら出向いて平定しようとした。帝は司礼太監の懐恩ら七人に命じ、内閣に赴かせ兵部と会議させた。懐恩は大臣を派遣して鎮撫させ、汪直の出動を阻止しようとした。文升はすばやく応じて「善し」といった。懐恩が入内して奏上すると、帝はただちに文升を派遣することを命じた。汪直は快く思わず、その私的な部下の王英を同行させようとしたが、文升は断った。疾駆して鎮に至り、璽書を宣べて撫慰したので、従わない者はなかった。また先に也先の乱で官職任命の璽書を失った十余人について、官職を世襲することを請い、許された。事態が平定すると、汪直はその功績を奪おうとし、帝に請うて王英を伴い開原に馳せ至り、再び招撫を下令した。文升は功績を汪直に譲ったが、汪直は内心恥じた。文升はまた汪直と対等の礼をとり、その左右の者を奴隷のように扱ったので、汪直はますます快く思わなかった。一方、陳鉞はますます汪直に諂い事えて、その歓心を買った。日夜文升を讒言し、中傷しようとしたが、機会がなかった。文升が還朝すると、太牢と酒醴を賜った。翌年春、遼東でたびたび失態があったため、汪直を派遣して定西侯蒋琬・尚書林聡らとともに調査させた。ちょうど余子俊が陳鉞を弾劾したので、陳鉞は文升の意図によるものと疑い、ますます激しく文升を陥れようとした。汪直は文升の施策が道理に合わず、辺境の民に農具の売買を禁じて怨みと反乱を招いたと奏上した。そこで文升を詔獄に下し、重慶衛に流罪とした。汪直は文升を陥れた後、陳鉞とともに大いに兵を動かして戦功を煽り、陳鉞はこれによって急に尚書まで昇進した。

原文十一年春,代越總制三邊軍務,尋入為兵部右侍郎。明年八月,整飭遼東軍務。巡撫陳鉞貪而狡,將士小過輒罰馬,馬價騰踴。文升上邊計十五事,因請禁之,鉞由是嗛文升。文升還部轉左。十四年春,鉞以掩殺冒功激變,中官汪直欲自往定之。帝令司禮太監懷恩等七人詣內閣會兵部議。恩欲遣大臣往撫,以沮直行。文升疾應曰:「善。」恩入白,帝即命文升往。直不悅,欲令其私人王英與俱,文升謝絕之。疾馳至鎮,宣璽書撫慰,無不聽撫者。又請前以也先亂失授官璽書者十餘人,得襲官。事定,直欲攘其功,請於帝,挾王英馳至開原,再下令招撫。文升乃推功與直,然直內慚。文升又與直抗禮,奴視其左右,直益不喜。而陳鉞益諂事直,得直歡。日夜譖文升,思中之未有以發也。文升還,賜牢醴。明年春,以遼東屢失事,遣直偕定西侯蔣琬、尚書林聰等按之。會余子俊劾鉞,鉞疑出文升意,傾之益急。直因奏文升行事乖方,禁邊人市農器,致怨叛。乃下文升詔獄,謫戍重慶衛。直既傾文升,則與鉞大發兵激功,鉞以是驟遷至尚書。

十九年、汪直が失脚すると、文升は官職に復した。翌年、左副都御史として起用され、遼東を巡撫した。文升は合わせて三度遼東に至ったが、軍民はその来訪を聞いて皆鼓舞した。ますます宦官・総兵官を抑制して、彼らが削り取ることをできなくしたので、民衆はますます大いに喜んだ。

原文十九年,直敗,文升復官。明年起為左副都御史巡撫遼東。文升凡三至遼,軍民聞其來皆鼓舞。益禁抑中官、總兵,使不得朘削,眾益大喜。

二十一年に右都御史に進み、漕運を総督した。淮安・徐州・和州が飢饉となると、江南の糧十万石、塩価銀五万両を移して救済した。この年冬、召還されて兵部尚書となった。翌年、李孜省の讒言によって、南京に転出させられた。

原文二十一年進右都御史,總督漕運。淮、徐、和饑,移江南糧十萬石、鹽價銀五萬兩振之。是年冬,召為兵部尚書。明年,以李孜省譖,調南京。

孝宗が即位すると、召されて左都御史に任じられた。弘治元年に上言した。「憲宗朝において、嶽鎮海瀆の諸廟で、方士の言を用いて石函を置き、周囲に符篆を施し、金書の道経・金銀銭・宝石及び五穀を貯めて厭勝の具としたものは、破棄すべきである。」帝はこれに従った。また十五事を上言し、すべて審議されて施行された。帝が藉田の礼を行った時、教坊が雑戯を進上した。文升は厳しい顔色で言った。「新天子には農耕の艱難を知らせるべきである。これは何事か。」すぐに斥け去らせた。御史の徐瑁・賀霖が上意を受け止めそこなって獄に下された。文升は新政において言官を軽々しく罪にすべきでないと上言し、彼らは釈放された。まもなく十二団営を提督することを命じられた。

原文孝宗即位,召拜左都御史。弘治元年上言:「憲宗朝,嶽鎮海瀆諸廟,用方士言置石函,周以符篆,貯金書道經、金銀錢、寶石及五谷為厭勝具,宜毀。」從之。又上言十五事,悉議行。帝耕藉田,教坊以雜戲進。文升正色曰:「新天子當使知稼穡艱難,此何為者?」即斥去。御史徐瑁、賀霖失承旨下獄。文升言初政不宜輒罪言官,遂得釋。尋命提督十二團營。

翌年、余子俊に代わって兵部尚書となり、団営の督理はもとのままとした。太平の世が長く続き、軍政は廃れ弛んでおり、西北の部族がしばしば辺境を窺っていた。文升は諸将校を厳しく査察し、貪婪で懦弱な者三十余人を罷免した。奸人は大いに怨み、夜に弓矢を持ってその門を窺い、あるいは誹謗の文書を作って東長安門内に射込んだ。帝はこれを聞き、錦衣衛に逮捕を命じ、騎士十二人を与えて文升の出入りを護衛させた。文升は致仕を願い出たが、優詔をもって許さなかった。

原文明年,代余子俊為兵部尚書,督團營如故。承平既久,兵政廢弛,西北部落時伺塞下。文升嚴核諸將校,黜貪懦者三十餘人。奸人大怨,夜持弓矢伺其門,或作謗書射入東長安門內。帝聞,詔錦衣緝捕,給騎士十二,衛文升出入。文升乞休,優詔不許。

小王子が数万騎を率いて大同の辺塞の下で放牧し、その勢いは洶洶としていた。文升は病気で休暇中であったが、帝は宦官に医者を伴わせて見舞わせ、ついでに計略を問うた。文升は「彼らは他部に敗れたばかりで、為すところはありません。密かに備えを固め、声勢をあげて威圧すれば、必ず立ち去るでしょう。」といった。果たしてその通りになった。継母の喪に遭うと、詔によって喪中起復を命じられたが、再び辞任を上疏したが、許されなかった。西北の別部である野乜克力の長、亦剌思王・満哥王・亦剌因王がそれぞれ使者を派遣して粛州の辺塞に来朝し、貢納と互市を請うた。巡撫の許進・総兵官の劉寧がこれを請うたが、文升は互市は許容できるが、入貢は許すべきでないと上言し、これを退けた。

原文小王子以數萬騎牧大同塞下,勢洶洶。文升以疾在告,帝使中官挾醫視,因就問計。文升謂「彼方敗於他部,無能為。請密為備,而揚聲逼之,必徙去。」已而果然。遭繼母憂,詔起復,再疏辭,不許。西北別部野乜克力,其長曰亦剌思王,曰滿哥王,曰亦剌因王,各遣使款肅州塞,乞貢且互市。巡撫許進、總兵官劉寧為請,文升言互市可許,入貢不可許,乃卻之。

土魯番はすでに陝巴を襲撃して捕らえ、牙蘭に命じて哈密を占拠させ、僭称せんしょうして可汗と称し、沙州を侵犯し、罕東諸部を脅迫して自己に従わせた。文升は評議して、この賊は凶暴で、大いに打撃を与えなければ終に畏怖を知らないであろう、漢の陳湯の故事を用いて襲撃して斬るべきである、といった。指揮の楊翥が番情に詳しいと察し、召し出して方略を問うた。楊翥は詳しく罕東から哈密に至る道路を述べ、罕東の兵三千を前鋒とし、漢兵三千をこれに続かせ、数日分の糧食を持ち、間道を昼夜兼行で進めば、目的を達し得ると請うた。文升は喜び、帝に請うて、勅を発して罕東・赤斤・哈密の兵を動員し、副総兵の彭清にこれを率いさせ、巡撫許進に隷属させて討伐に向かわせた。果たしてこれを攻克した。詳細は『許進伝』にある。

原文土魯番既襲執陜巴,而令牙蘭據守哈密,僭稱可汗,侵沙州,迫罕東諸部附己。文升議,此寇桀驁,不大創終不知畏,宜用漢陳湯故事襲斬之。察指揮楊翥熟番情,召詢以方略。翥備陳罕東至哈密道路,請調罕東兵三千為前鋒,漢兵三千繼之,持數日糧,間道兼程進,可得誌。文升喜,遂請於帝,敕發罕東、赤斤、哈密兵,令副總兵彭清將之,隸巡撫許進往討,果克之,語詳《進傳》。

団営の軍が不足しているので、錦衣衛及び騰驤四衛の中から選んで補充するよう請うた。既に許可を得たが、宦官の寧瑾がこれを阻んだ。文升と兵科の蔚春らは詔旨は信ずべきであると述べたが、聞き入れられなかった。陝西で大地震があった。文升は言った、「これは外寇が侵凌する兆しである。今、火篩が跳梁しているのに、海内は民困り財竭き、将は懦く兵は弱い。仁政を行って民を養い、武備を講じて国境を固めるべきである。財用を節し、斎醮を停め、伝奉による冗員を止め、閑地の奏乞を禁ずる。日に二朝を視て、諸政に勤しむべきである。また、陝西の織造内臣を撤還し、被災者の家を振恤すべきである。」帝はその言を容れ、内臣は直ちに召還された。

原文團營軍不足,請於錦衣及騰驤四衛中選補。已得請矣,中官寧瑾阻之。文升及兵科蔚春等言詔旨宜信,不納。陜西地大震。文升言:「此外寇侵淩之兆。今火篩方跳梁,而海內民困財竭,將懦兵弱。宜行仁政以養民,講武備以固圉。節財用,停齋醮,止傳奉冗員,禁奏乞閑地。日視二朝,以勤庶政。且撤還陜西織造內臣,振恤被災者家。」帝納其言,內臣立召還。

文升が兵部に在ること十三年、戎務に心を尽くし、屯田・馬政・辺備・守禦について、数度にわたり便宜を条上した。国家の事で言うべきことは、たとえ職守でなくとも、言い尽くさないことはなかった。嘗て太子が四歳に達したので、早く教えを諭すべきであるとし、醇謹で老成、書史を知る衛聖楊夫人のような者を選んで保抱扶持させ、言語動止の全てを正しく導くよう請うた。内庭の曲宴、鐘鼓司の承応、元宵の鰲山、端午の競渡などの諸戯は、皆見せないようにすべきである。仏・老の教えについては、特に屏絶し、心志を惑わすことを恐れるべきであるとした。山東は久しく旱魃が続き、浙江及び南畿は水害があったので、文升は所司に命じて振恤し、士卒を練って不虞に備えるよう請うた。帝は皆深くこれを容れた。民が賦役に困っているので、文升はその害を極めて陳べ、言った、「今、民田は十に四五を税し、辺塞に輸するものは糧一石に銀一両以上の費用がかかり、豊年でも糧八九石でようやく一両を易える。絲綿布帛を京師に輸するものは、交納の費用が輸するものを過ぎ、南方から通州へ転漕するものは三四石で一石を致すものさえある。中州では毎年五六万人を役して河を治め、山東・河南では決口を修塞する夫が二十万を下らず、蘇・松の治水もまた同様である。湖広では吉・興・岐・雍の四王府を建て、江西では益・寿の二府、山東では衡府を建て、通計すれば役夫は百万を下らない。諸王の之国に際しての役夫供応も四十万である。これに湖広の蛮征、山・陜の防辺を加え、饋餉を供して軍旅に給するものは、また幾ばくあるか知れない。賦重く役繁きは、この時より甚だしいものはない。内外の諸司を厳しく敕し、煩費を省き、力役を寛げ、擅りに科率することなく、王府の工事は速やかに竣えるべきである。困敝を少しでも蘇らせるように願う。更に正学を崇め、邪術を抑えて聖心を清くし、財用を節し、工作を省いて邦本を培うことを乞う。」詔して所司に下し詳議させた。その他の論奏も甚だ多かった。班列の中で最も耆碩であり、帝もまた推心してこれを任じた。太子太保から屡々加えて少保兼太子太傅に至り、歳時の賜賚は、諸大臣及びぶものはなかった。

原文文升為兵部十三年,盡心戎務,於屯田、馬政、邊備、守禦,數條上便宜。國家事當言者,即非職守,亦言無不盡。嘗以太子年及四齡,當早諭教。請擇醇謹老成知書史如衛聖楊夫人者,保抱扶持,凡言語動止悉導之以正。若內庭曲宴,鐘鼓司承應,元宵鰲山,端午競渡諸戲,皆勿令見。至於佛、老之教,尤宜屏絕,恐惑眩心誌。山東久旱,浙江及南畿水災,文升請命所司振恤,練士卒以備不虞。帝皆深納之。民困賦役,文升極陳其害,謂:「今民田十稅四五,其輸邊塞者糧一石費銀一兩以上,豐年用糧八九石方易一兩。若絲綿布帛之輸京師者,交納之費過於所輸,南方轉漕通州至有三四石致一石者。中州歲役五六萬人治河,山東、河南修塞決口夫不下二十萬,蘇、松治水亦如之。湖廣建吉、興、岐、雍四王府,江西益、壽二府,山東衡府,通計役夫不下百萬。諸王之國役夫供應亦四十萬。加以湖廣征蠻,山、陜防邊,供饋餉給軍旅者又不知凡幾。賦重役繁,未有甚於此時者也。宜嚴敕內外諸司,省煩費,寬力役,毋擅有科率,王府之工宜速竣。庶令困敝少蘇。更乞崇正學,抑邪術,以清聖心;節財用,省工作,以培邦本。」詔下所司詳議。他所論奏者甚眾。在班列中最為耆碩,帝亦推心任之。自太子太保屢加至少保兼太子太傅,歲時賜賚,諸大臣莫敢望也。

吏部尚書屠滽が罷免され、廷推で文升が推された。御史魏英らは兵部は文升でなければならないと言い、帝もまた然りとした。そこで倪嶽をして滽に代えさせ、文升には少傅を加えて慰めた。嶽が卒すると、文升を以て代えさせた。南京・鳳陽で大風雨があり屋を壊し木を抜いたので、文升は帝に減膳撤楽し、徳を修め愆を省き、経筵に御し、遊宴を絶ち、不急の務を停め、額外の織造を止め、饑民を振恤し、盗賊を捕えるよう請うた。已にして、また吏部職掌十事を上奏した。帝は悉く褒めて容れた。一品九載が満ちると、少師兼太子太師を加えられた。帝は将に考察せんとするに当たり、特に文升と都御史戴珊・史琳を暖閣に召し、秉公して黜陟するよう諭した。また文升が年高く重聴であるため、再び呼びかけて告げ、左右に命じて階を下らせた。初め文升が都御史の時、王恕が吏部に在り、両人共に正直を以て天下の事を任じた。疏が出ると、天下に伝誦された。恕が去ると、人望は皆文升に帰した。吏部となった時には、年既に八十であった。修髯長眉で、事に遇えば侃侃として少しも衰えなかった。

原文吏部尚書屠滽罷,廷推文升。御史魏英等言兵部非文升不可,帝亦以為然。乃命倪嶽代滽,而加文升少傅以慰之。嶽卒,以文升代。南京、鳳陽大風雨壞屋拔木,文升請帝減膳撤樂,修德省愆,禦經筵,絕遊宴;停不急務,止額外織造;振饑民,捕盜賊。已,又上吏部職掌十事。帝悉褒納。一品九載滿,加少師兼太子太師。帝以將考察,特召文升及都御史戴珊、史琳至暖閣,諭以秉公黜陟。又以文升年高重聽,再呼告之,命左右掖之下階。始文升為都御史,王恕在吏部,兩人皆以正直任天下事。疏出,天下傳誦。恕去,人望皆歸文升。迨為吏部,年已八十。修髯長眉,遇事侃侃不少衰。

孝宗が崩じると、文升は遺詔を承けて伝奉官七百六十三人の淘汰を請い、太僕卿李綸ら十七人を留めることを命じ、残りは全て淘汰した。正徳元年、御用監の中官王瑞がまた新たに淘汰された者七人を用いるよう請うたが、文升は詔に奉じなかった。給事中安奎が瑞の賄賂収受の状を刺得し、これを劾した。瑞は恚り、文升が旨に抗したと誣った。更に廷議に下すと、皆文升に是とし、帝は終に聞き入れなかった。文升は因って帰ることを乞うたが、許されなかった。

原文孝宗崩,文升承遺詔請汰傳奉官七百六十三人,命留太僕卿李綸等十七人,余盡汰之。正德元年,禦用監中官王瑞復請用新汰者七人,文升不奉詔。給事中安奎刺得瑞納賄狀,劾之。瑞恚,誣文升抗旨,更下廷議,皆是文升,帝終不聽。文升因乞歸,不許。

この時、朝政は既に中官に移っており、文升は老いて、日々去る志を懐いていた。会に両広の総督が欠員となり、文升は兵部侍郎熊繡を推挙した。繡は怏怏として出たがらず、その郷人の御史何天衢が遂に文升が私に徇って欺罔したと劾した。文升は連疏して去ることを求め、許された。璽書・乗伝を賜い、月廩歳隸を加増された。家居して、事無きには嘗て州城に入らなかった。時事に及ぶと語れば、輒ち顰蹙して答えなかった。三年居るうち、劉瑾が政を乱し、文升が以前雍泰を用いたことを朋党の罪に坐し、その名を除いた。五年六月に卒し、八十五歳であった。瑾が誅せられると、官を復し、特進光禄大夫・太傅を贈られ、謚して端肅といった。

原文是時,朝政已移於中官,文升老,日懷去誌。會兩廣缺總督,文升推兵部侍郎熊繡。繡怏怏不欲出,其鄉人御史何天衢遂劾文升徇私欺罔。文升連疏求去,許之。賜璽書、乘傳,月廩歲隸有加。家居,非事未嘗入州城。語及時事,輒顰蹙不答。居三年,劉瑾亂政,坐文升前用雍泰為朋黨,除其名。五年六月卒,年八十五。瑾誅,復官,贈特進光祿大夫、太傅,謚端肅。

文升は文武の才があり、応変に長け、朝端の大議は往々にしてその決を待った。功は辺鎮に在り、外国も皆その名を聞いた。特に気節を重んじ、廉隅を厲め、直道を行った。讒詬に遭い、屡々起き屡々仆れども、終に少しも貶められなかった。子の璁は、郷貢士として吏部に待選していたが、文升は外任を請うさせて言った、「必ず大臣の子で京秩に就くならば、誰が外任に当たるというのか。」卒して一年余り後、大盗の趙鐩らが河南を剽掠し、鈞州に至り、文升の家が在るので、これを捨てて去った。泌陽を攻め、焦芳の家を毀ち、草を束ねて芳の像の如くしてこれを裂いた。嘉靖初年、文升に左柱国・太師を加贈した。

原文文升有文武才,長於應變,朝端大議往往待之決。功在邊鎮,外國皆聞其名。尤重氣節,厲廉隅,直道而行。雖遭讒詬,屢起屢仆,迄不少貶。子璁,以鄉貢士待選吏部,文升使請外,曰:「必大臣子而京秩,誰當外者?」卒後逾年,大盜趙鐩等剽河南,至鈞州,以文升家在,舍之去。攻泌陽,毀焦芳家,束草若芳像裂之。嘉靖初,加贈文升左柱國、太師。

劉大夏

原文刘大夏

劉大夏、字は時雍、華容の人。父の仁宅は、郷挙によって瑞昌県知県となった。流民千余家が山中に匿っていたが、邏者が賂を求め得ず、民が反したと誣った。衆議は兵を加えようとした。仁宅は単騎でこれを招くと、民は争って出て訴えたので、遂に兵を罷め、広西副使に擢げられた。

原文劉大夏,字時雍,華容人。父仁宅,由鄉舉知瑞昌縣。流民千餘家匿山中,邏者索賂不得,誣民反。眾議加兵。仁宅單騎招之,民爭出訴,遂罷兵,擢廣西副使。

大夏は二十歳で郷試第一に挙げられた。天順八年の進士に登第し、庶吉士に改められた。成化初年、館試で留まるべきであったが、自ら吏を試すことを請うた。そこで職方主事に除され、再び郎中に遷った。兵事に明習し、曹中の宿弊を尽く革めた。奏覆すること多く上意に当たり、尚書は左右の手の如くこれを倚った。汪直は辺功を好み、安南の黎灝が老撾に敗れたのを以て、隙に乗じてこれを取らんとした。帝に言い、永楽年間の安南討伐の故牘を求めた。大夏は匿して与えず、密かに尚書余子俊に告げて言った、「兵釁一たび開かば、西南は直ちに糜爛します。」子俊は悟り、事は止むことができた。朝鮮の貢道は元来鴉鶻関からであったが、この時に至り鴨緑江から改めるよう請うた。尚書は将にこれを許そうとしたが、大夏は言った、「鴨緑の道が径直であることは、祖宗朝に豈に知らなかったことがあろうか、顧みて数大鎮を紆回しているのは、これには微意があるのです。許すべからず。」そこで止んだ。中官の阿九という者があり、その兄が京衛の経歴に任じていたが、罪があって大夏に笞たれた。憲宗はその譖言を入れ、詔獄に捕え繫ぎ、東廠に偵させたが何も得られなかった。会に懐恩が力救したので、杖二十で釈放された。十九年、福建右参政に遷り、政績を以て聞こえた。父の訃報を聞くと、一宿して即ち行った。

原文大夏年二十舉鄉試第一。登天順八年進士,改庶吉士。成化初,館試當留,自請試吏。乃除職方主事,再遷郎中。明習兵事,曹中宿弊盡革。所奏覆多當上意,尚書倚之若左右手。汪直好邊功,以安南黎灝敗於老撾,欲乘間取之。言於帝,索永樂間討安南故牘。大夏匿弗予,密告尚書余子俊曰:「兵釁一開,西南立糜爛矣。」子俊悟,事得寢。朝鮮貢道故由鴉鶻關,至是請改由鴨綠江。尚書將許之,大夏曰:「鴨綠道徑,祖宗朝豈不知,顧紆回數大鎮,此殆有微意。不可許。」乃止。中官阿九者,其兄任京衛經歷,以罪為大夏所笞。憲宗入其譖,捕系詔獄,令東廠偵之無所得。會懷恩力救,乃杖二十而釋之。十九年,遷福建右參政,以政績聞。聞父訃,一宿即行。

弘治二年に服闋し、広東右布政使に遷った。田州・泗城が靖まらなかったが、大夏が往って諭すと、遂に命に順った。後、山賊が起こると、檄を承けてこれを討った。賊を獲れば必ず生け捕りにし、実を験して乃ち坐するよう命じたので、生を得る者が過半に及んだ。左に改め、浙江に移った。

原文弘治二年服闋,遷廣東右布政使。田州、泗城不靖,大夏往諭,遂順命。後山賊起,承檄討之。令獲賊必生致,驗實乃坐,得生者過半。改左,移浙江。

六年の春、黄河が張秋で決壊し、詔を下して広く才臣を選び派遣して治めさせた。吏部尚書王恕らが大夏を推薦し、右副都御史に抜擢して赴かせた。そこで黄陵岡から賈魯河を浚渫し、さらに孫家渡・四府営の上流を浚って水勢を分かち、長堤を築き、胙城から起こし東明・長垣を経て徐州に至る、三百六十里に亘った。水害は大いに治まり、張秋鎮を改めて「安平鎮」と称した。孝宗はこれを嘉し、璽書を賜って褒め称え、その言葉は『河渠志』に詳しい。召されて左副都御史となり、戸部左侍郎を歴任した。

原文六年春,河決張秋,詔博選才臣往治。吏部尚書王恕等以大夏薦,擢右副都御史以行。乃自黃陵岡浚賈魯河,復浚孫家渡、四府營上流,以分水勢。而築長堤,起胙城歷東明、長垣抵徐州,亙三百六十里。水大治,更名張秋鎮曰「安平鎮」。孝宗嘉之,賜璽書褒美,語詳《河渠志》。召為左副都御史,歷戶部左侍郎。

十年、左僉都御史を兼ねることを命じられ、宣府の兵糧を管理するため赴いた。尚書周経が言うには、「塞上の勢家の子弟が穀物買い付けを私利としている。公は剛直さゆえに禍を買うことなきよう」。大夏は言った、「天下の事を処するには、勢いによらず道理による。到着してから図ろう」。初め、塞上での買い入れは必ず粟千石・芻万束あってこそ告納できたため、中官・武臣の家が利権を握っていた。大夏は芻粟を持つ者、百束・十石以上からすべて許すように命じ、勢家は利を貪ろうとしても得るものなし。二月と経たぬうちに儲蓄は豊かになり、辺境の民はその利益を被った。翌年秋、三度上疏して病を理由に帰り、東山の下に草堂を築き、その中で読書した。二年を経て、廷臣が相次いで推薦し、右都御史として起用され、両広の軍務を総制した。勅使が門に及ぶと、二僮を連れて行った。広人はもとより大夏を慕っており、鼓舞して慶賀した。大夏は吏治を粛清し、供応費用を削減し、内外の鎮守官が私的に軍士を役使することを禁じ、盗賊はこれにより衰え止んだ。

原文十年命兼左僉都御史,往理宣府兵餉。尚書周經謂曰:「塞上勢家子以市糴為私利,公毋以剛賈禍。」大夏曰:「處天下事,以理不以勢,俟至彼圖之。」初,塞上糴買必粟千石、芻萬束乃得告納,以故,中官、武臣家得操利權。大夏令有芻粟者,自百束十石以上皆許,勢家欲牟利無所得。不兩月儲積棄羨,邊人蒙其利。明年秋,三疏移疾歸,築草堂東山下,讀書其中。越二年,廷臣交薦,起右都御史,總制兩廣軍務。敕使及門,攜二僮行。廣人故思大夏,鼓舞稱慶。大夏為清吏治,捐供億,禁內外鎮守官私役軍士,盜賊為之衰止。

十五年、兵部尚書に任ぜられ、幾度か辞退してようやく命を受けた。召見されると、帝は言った、「朕はしばしば卿を用いたが、しばしば病を理由にするのはなぜか」。大夏は頓首して言った、「臣は老いて病んでおります。ひそかに天下の民は窮し財は尽きているのを見ます。もし不測の事があれば、責めは兵部にあります。自ら力量足らざるを量り、故に辞退したのです」。帝は黙然とした。南京・鳳陽で大風が木を抜き、河南・湖広で大水があり、京師は長雨と曇天に苦しんだ。大夏は、祖宗の旧制にないことで軍民を害する事柄はすべて条上して改革するよう請うた。十七年二月にもまたこれを言上した。帝は、興革すべき事柄について所管の役所が実情を具えて奏上するよう命じた。そこで廷臣と会して十六事を条上したが、いずれも権勢を握る者に不都合なことで、彼らは力を合わせて阻止した。帝は決断できず、再議に下した。大夏らは言った、「事柄が外廷に属するものは、すべてご允諾を蒙りました。少しでも権貴に触れると、また審査させられます。臣らは至って愚かで、どうすべきか分かりません」。しばらくして、ようやく旨を得た、「伝奉官は名簿を疏にして請うこと。幼匠・厨役の月米は三斗を減ずること。増設の中官は、司礼監が審査して奏上すること。四衛の勇士は、禦馬監が数を具えて奏上すること。その他はすべて議の通りとせよ」。織造・斎醮はすべて停止され、光禄寺の無駄な費用は巨万を省き、勇士の虚偽の弊害も大いに減った。制が下ると、朝廷中が歓悦した。先に、外戚・近幸が多く恩沢を求めたが、帝はその政事への害を深く知り、奮然としてこれを正そうとした。時に災異が多いのを機に、また群臣に宣諭し、各自が缺失を陳べるよう命じた。大夏はそこでさらに数事を上奏した。

原文十五年拜兵部尚書,屢辭乃拜命。既召見,帝曰:「朕數用卿,數引疾何也?」大夏頓首言:「臣老且病,竊見天下民窮財盡,脫有不虞,責在兵部,自度力不辦,故辭耳。」帝默然。南京、鳳陽大風拔木,河南、湖廣大水,京師苦雨沈陰。大夏請凡事非祖宗舊而害軍民者,悉條上厘革。十七年二月又言之。帝命事當興革者,所司具實以聞,乃會廷臣條上十六事,皆權幸所不便者,相與力尼之。帝不能決,下再議。大夏等言:「事屬外廷,悉蒙允行。稍涉權貴,復令察核。臣等至愚,莫知所以。」久之,乃得旨:「傳奉官疏名以請;幼匠、廚役減月米三斗;增設中官,司禮監核奏;四衛勇士,禦馬監具數以聞。余悉如議。」織造、齋醮皆停罷,光祿省浮費巨萬計,而勇士虛冒之弊亦大減。制下,舉朝歡悅。先是,外戚、近幸多幹恩澤,帝深知其害政,奮然欲振之。因時多災異,復宣諭群臣,令各陳缺失。大夏乃復上數事。

その年六月、再び兵政の十害を陳べ、かつ帰郷を乞うた。帝は許さず、革すべき弊害をさらに詳しく具えて奏上するよう命じた。そこで大夏は、南北の軍が漕運や番上で苦しむこと、および辺軍の困窮疲弊、辺将の侵奪克扣の状況を極言した。帝は便殿で大夏を召見し、問うて言った、「卿は先に天下の民窮財尽と言った。祖宗以来、徴斂には常法があった。どうして今日このようになったのか」。答えて言った、「まさに常法通りでないからです。例えば広西では毎年鐸木を徴し、広東では香薬を徴しますが、費用はすでに万を単位とします。他のことは推して知るべしです」。また軍について問うと、答えて言った、「窮乏は民と同じです」。帝は言った、「駐在時には月糧があり、出動時には行糧がある。なぜ窮するのか」。答えて言った、「その将帥が半分以上を侵奪克扣します。どうして窮しないことがありましょう」。帝は太息して言った、「朕は臨禦すること久しいが、天下の軍民が困窮していることを知らなかった。どうして人主たることができようか」。そこで詔を下して厳禁した。この時、帝は太平に意を鋭くしており、劉健が首輔となり、馬文升が師臣として六卿を率い、一時正人が列位に充ちていた。帝は大夏が方正厳格で、かつ事に練達しているのを察知し、特に親信した。しばしば召見して事を決し、大夏もまた事に随って忠を納めた。

原文其年六月再陳兵政十害,且乞歸。帝不許,令弊端宜革者更祥具以聞。於是,大夏舉南北軍轉漕番上之苦,及邊軍困敝、邊將侵克之狀極言之。帝乃召見大夏於便殿,問曰:「卿前言天下民窮財盡。祖宗以來征斂有常,何今日至此?」對曰:「正謂不盡有常耳。如廣西歲取鐸木,廣東取香藥,費固以萬計,他可知矣。」又問軍,對曰:「窮與民等。」帝曰:「居有月糧,出有行糧,何故窮?」對曰:「其帥侵克過半,安得不窮。」帝太息曰:「朕臨禦久,乃不知天下軍民困,何以為人主!」遂下詔嚴禁。當是時,帝方銳意太平,而劉健為首輔,馬文升以師臣長六卿,一時正人充布列位。帝察知大夏方嚴,且練事,尤親信。數召見決事,大夏亦隨事納忠。

大同に小さな警報があり、帝は中官苗逵の言葉を用いて、出師しようとした。内閣の劉健らが強く諫めたが、帝はなお疑い、大夏を召して問うて言った、「卿は広にいた時、苗逵の延綏での敵陣急襲の功績を知っているか」。答えて言った、「臣は聞きましたが、捕らえた婦女子は十数人に過ぎません。朝廷の威徳に頼り、全軍をもって帰還しました。そうでなければ、どうなったか分かりません」。帝はしばらく黙然とし、問うて言った、「太宗は頻繁に塞外に出た。今なぜできないのか」。答えて言った、「陛下の神武は固より太宗に後れませんが、将領と兵馬ははるかに及びません。かつ淇国公が少し節制に違っただけで、数十万の衆を沙漠に委ねました。どうして軽々しく言えましょう。今の上策を推すに、守ることのみです」。都御史戴珊もまた傍らから決断を支持した。帝は急に言った、「卿らがなければ、朕はほとんど誤るところだった」。これにより、出師はついに実現しなかった。

原文大同小警,帝用中官苗逵言,將出師。內閣劉健等力諫,帝猶疑之,召問大夏曰:「卿在廣,知苗逵延綏搗巢功乎?」對曰:「臣聞之,所俘婦稚十數耳。賴朝廷威德,全師以歸。不然,未可知也。」帝默然良久,問曰:「太宗頻出塞,今何不可?」對曰:「陛下神武固不後太宗,而將領士馬遠不逮。且淇國公小違節制,舉數十萬眾委沙漠,奈何易言之。度今上策惟守耳。」都御史戴珊亦從旁贊決,帝遽曰:「微卿曹,朕幾誤。」由是,師不果出。

荘浪の土帥魯麟が甘粛副将となり、大将を求めて得られず、その部衆の強さを恃みに、まっすぐに荘浪に帰った。廷臣は変事が生じることを恐れ、大将の印を授けようとし、また京に召還して閑地に処そうとした。大夏はその祖先の忠順を褒賞し、麟に閑居することを許すよう請うた。麟はもとより貪虐で衆心を失っており、兵権はすでに去って何もできず、ついに怏怏として病死した。

原文莊浪土帥魯麟為甘肅副將,求大將不得,恃其部眾強,徑歸莊浪。廷臣懼生變,欲授以大帥印,又欲召還京,處之散地。大夏請獎其先世忠順,而聽麟就閑。麟素貪虐失眾心,兵柄已去無能為,竟怏怏病死。

帝は近地に兵を駐屯させて左右の輔えとしようとした。大夏は言った、「保定に都司を設けて五衛を統べたのは、祖宗の御意もまたこのようなものであったでしょう。操軍一万人を帰還させて西衛とし、京東の兵を密雲・薊州に納めて東衛とするよう請います」。帝は許可した。京営を監督する中官は兵を失ったことを恨み、匿名の文書を宮門に貼った。帝は大夏に示して言った、「宮門はどうして外人が至れようか。必ずやこの輩が兵を失うのを不利とするのだ」。これにより、間隙をつくことができなくなった。

原文帝欲宿兵近地為左右輔。大夏言:「保定設都司統五衛,祖宗意當亦如此。請遣還操軍萬人為西衛,納京東兵密雲、薊州為東衛。」帝報可。中官監京營者恚失兵,揭飛語宮門。帝以示大夏曰:「宮門豈外人能至?必此曹不利失兵耳。」由是,間不得行。

帝はかつて大夏に諭して言った、「事に臨むといつも卿を召そうと思い、越職を慮って止める。後に実行すべきこと、廃すべきことがあれば、掲帖を具えて進上せよ」。大夏は頓首して言った、「事の可否は、外では府部に委ね、内では閣臣に諮問すればよいのです。掲帖は弊害を生み、後世の法とすべきではありません」。帝は善しとした。またかつて問うた、「天下はいつ太平になるのか」。答えて言った、「治を求めるにもあまり急ぎすぎてはなりません。ただ人を用い政を行うに、すべて大臣と面議し、適当と認めてから実行すれば、時が経てば天下は自ずから治まります」。かつて隙を見て四方の鎮守中官の害を言上した。帝が状況を問うと、答えて言った、「臣が両広で見たところ、諸文武の大吏の供応費用は一鎮守に敵いません。その煩費たるや推して知るべしです」。帝は言った、「そうだ。祖宗以来これを設けて久しい。どうして急に革せられようか。ただ今後は必ず鄧原・麦秀のように廉潔な者でなければ用いず、そうでなければやめるだけだ」。大夏は頓首して善しと称えた。大夏は召されるたびに、御榻の前に跪いた。帝が左右を顧みると、近侍はすぐに引き下がった。かつて対する時間が長く、疲れて起き上がれず、司礼太監李栄を呼んで支えさせて出た。ある日の早朝、大夏は固より班にいたが、帝がたまたま見えず、翌日諭して言った、「卿は昨日朝参を欠いたのか。恐らく御史が糾弾するだろうと思い、ついに卿を召さなかった」。これほどまでに眷顧を受けた。特に玉帯・麒麟服を賜い、下賜する金幣・上尊は、年中絶えることがなかった。

原文帝嘗諭大夏曰:「臨事輒思召卿,慮越職而止。後有當行罷者,具揭帖以進。」大夏頓首曰:「事之可否,外付府部,內咨閣臣可矣。揭帖滋弊,不可為後世法。」帝稱善。又嘗問:「天下何時太平?」對曰:「求治亦難太急。但用人行政悉與大臣面議,當而後行,久之天下自治。」嘗乘間言四方鎮守中官之害。帝問狀,對曰:「臣在兩廣見諸文武大吏供億不能敵一鎮守,其煩費可知。」帝曰:「然祖宗來設此久,安能遽革?第自今必廉如鄧原、麥秀者而後用,不然則已之。」大夏頓首稱善。大夏每被召,跪禦榻前。帝左右顧,近侍輒引避。嘗對久,憊不能興,呼司禮太監李榮掖之出。一日早朝,大夏固在班,帝偶未見,明日諭曰:「卿昨失朝耶?恐御史糾,不果召卿。」其受眷深如此。特賜玉帶、麒麟服,所賚金幣、上尊,歲時不絕。

間もなく孝宗が崩御し、武宗が位を嗣ぐと、詔を奉じて四方の鎮守中官で定員外の者を撤去するよう請うた。帝は均州の齊元のみを撤去した。大夏は更に撤去すべき者二十四人を議して上奏し、また皇城・京城の守視中官を減らすよう奏したが、いずれも聞き入れられなかった。ほどなく、伝奉の武臣で淘汰すべき者六百八十三人を列挙して上奏すると、許可された。大漢将軍の薛福敬ら四十八人もまた官を奪うべきであったが、福敬らは故意に侍衛に入らずして帝の怒りを煽った。帝は急いで彼らを復職させ、兵部に事情説明を求めて罪を加えようとした。中官の寧瑾が頓首して言うには、「これは先帝の遺命であり、陛下はこれを即位の詔書に掲げられました。罪とすべきではありません」。帝の怒りはようやく解けた。中官の韋興は、成化の末年に罪を得て長く廃されていたが、この時に縁故を頼って均州を守った。言官が相次いで諫め、大夏らも再三争ったが、聞き入れられなかった。正徳元年春、また言うには、「鎮守中官のうち、江西の董讓・薊州の劉瑯・陜西の劉雲・山東の朱雲は特に貪婪残酷です。どうか取り調べ処罰を願います」。帝は快く思わなかった。大夏は自ら言が用いられないと知り、たびたび上章して骸骨を乞うた。その年の五月、詔して太子太保を加え、勅を賜って駅馬で帰郷させ、定めに従って俸米と従者を給した。給事中の王翊・張襘が留任を請うたが、吏部もまた王翊・張襘の言の通りにするよう請うたが、返答はなかった。

原文未幾,孝宗崩,武宗嗣位,承詔請撤四方鎮守中官非額設者。帝止撤均州齊元。大夏復議上應撤者二十四人,又奏減皇城、京城守視中官,皆不納。頃之,列上傳奉武臣當汰者六百八十三人,報可。大漢將軍薛福敬等四十八人亦當奪官,福敬等故不入侍以激帝怒。帝遽命復之,而責兵部對狀,欲加罪。中官寧瑾頓首曰:「此先帝遺命,陛下列之登極詔書,不宜罪。」帝意乃解。中官韋興者,成化末得罪久廢,至是夤緣守均州。言官交諫,大夏等再三爭,皆不聽。正德元年春,又言:「鎮守中官,如江西董讓、薊州劉瑯、陜西劉雲、山東朱雲貪殘尤甚,乞按治。」帝不悅。大夏自知言不見用,數上章乞骸骨。其年五月,詔加太子太保,賜敕馳驛歸,給廩隸如制。給事中王翊、張襘請留之,吏部亦請如翊、襘言,不報。

大夏は忠誠篤実で、孝宗の知遇を得て、身を忘れて国に殉じ、権勢を誇る幸臣を多く抑圧した。かつて勇士の厳格な査定を請うたことがあり、劉瑾に憎まれた。劉宇もまた大夏を恨み、焦芳とともに劉瑾に讒言して言うには、「大夏の家を没収すれば、辺境の費用十二に相当します」。三年九月、田州の岑猛の事件を口実に、詔獄に捕らえ拘禁した。劉瑾は激変を煽った罪で死刑に処そうとしたが、都御史の屠滽が同意しなかった。劉瑾は罵って言うには、「死ななくとも、辺境への流罪は免れまい」。李東陽が穏やかに取りなし、また劉瑾が大夏の家が実際に貧しいことを探り知ると、ようやく極辺への戍守を科した。当初は広西と擬したが、焦芳が言うには、「これは彼を帰郷させるようなものだ」。そこで肅州に改めた。大夏はすでに七十三歳、布衣で徒歩して大明門の下を過ぎ、叩頭して去った。見る者は嘆息して涙を流し、父老は籠を携えて食物を送り、行く先々で市が閉まり、香を焚いて劉尚書の生還を祈った。戍地に到着すると、諸司は劉瑾を恐れて贈り物や見舞いを絶ち、儒学生徒が順番に食事を供した。団操に遇うと、いつも戈を担いで隊列に就いた。担当官が固辞すると、大夏は言うには、「軍人たるもの、本来役務に服すべきである」。携えた者はただ一人の僕のみであった。ある人がなぜ子孫を連れないのかと問うと、言うには、「私が官にあった時、子孫のために恩沢を乞うたことはない。今老いて罪を得て、どうして彼らを同じく戍地で死なせようか」。大夏が戍地に遣られた後も、劉瑾はなお他の事を摘まんでは米を罰して塞上に輸送させることを二度行った。

原文大夏忠誠懇篤,遇知孝宗,忘身徇國,於權幸多所裁抑。嘗請嚴核勇士,為劉瑾所惡。劉宇亦憾大夏,遂與焦芳譖於瑾曰:「籍大夏家,可當邊費十二。」三年九月,假田州岑猛事,逮系詔獄。瑾欲坐以激變律死,都御史屠滽持不可,瑾謾罵曰:「即不死,可無戍耶?」李東陽為婉解,且瑾诇大夏家實貧,乃坐戍極邊。初擬廣西,芳曰:「是送若歸也」,遂改肅州。大夏年已七十三,布衣徒步過大明門下,叩首而去。觀者嘆息泣下,父老攜筐送食,所至為罷市、焚香祝劉尚書生還。比至戍所,諸司憚瑾,絕饋問,儒學生徒傳食之。遇團操,輒荷戈就伍。所司固辭,大夏曰:「軍,固當役也。」所攜止一仆。或問何不挈子姓,曰:「吾宦時,不為子孫乞恩澤。今垂老得罪,忍令同死戍所耶?」大夏既遣戍,瑾猶摭他事罰米輸塞上者再。

五年夏、赦されて帰郷した。劉瑾が誅殺されると、官に復し、致仕した。清軍御史の王相が俸米と従者の復旧と、その子孫の登用を請うたが、権力を握る中官は終にこれを快く思わず、許さなかった。大夏は帰郷し、子孫に力を田畑に注ぎ生計を図るよう教えた。少し余裕ができると、旧知や宗族に分け与えた。あらかじめ自ら墓誌を書き、言うには、「人に飾り立てさせて、地下で恥じ入らせてはならない」。十一年五月卒去、八十一歳。太保を追贈され、諡は忠宣。

原文五年夏,赦歸。瑾誅,復官,致仕。清軍御史王相請復廩隸,錄其子孫。中官用事者終嗛之,不許。大夏歸,教子孫力田謀食。稍贏,散之故舊宗族。預自為壙誌,曰:「無使人飾美,俾懷愧地下也。」十一年五月卒,年八十一。贈太保,謚忠宣。

大夏はかつて言った。「官にある者はまず己を正すことを第一とすべし。利を戒めるのみならず、名からも遠ざかるべきである」。また言った。「人の一生は棺を蓋いて論定まる。一日死なざれば、即ち一日憂いと責務は終わらない」。彼が逮捕された時、ちょうど菜園を鋤いていて、部屋に入って数百の銭を持ち、小さな驢馬に跨って道に就いた。赦されて帰郷した時、門下生で巡撫となっている者が、わざわざ百里を枉げて彼を訪ねた。道中で犁を引く者に会い、どれが尚書の家かと尋ねると、堂に導き入れたが、それが大夏その人であった。朝鮮の使者が鴻臚寺の館で大夏の同郷の張生に会い、起居を尋ねて言うには、「わが国では劉東山の名を聞いて久しい」。安南の使者が入貢して言うには、「劉尚書が辺境に戍っていると聞くが、今は無事か」。外国においてこのように重んじられたのである。

原文大夏嘗言:「居官以正己為先。不獨當戒利,亦當遠名。」又言:「人生蓋棺論定,一日未死,即一日憂責未已。」其被逮也,方鋤菜園中,入室攜數百錢,跨小驢就道。赦歸,有門下生為巡撫者,枉百里謁之。道遇扶犁者,問孰為尚書家,引之登堂,即大夏也。朝鮮使者在鴻臚寺館遇大夏邑子張生,因問起居曰:「吾國聞劉東山名久矣。」安南使者入貢曰:「聞劉尚書戍邊,今安否?」其為外國所重如此。

賛

原文贊

賛して言う。王恕は風節を磨き、馬文升は政体に練達し、劉大夏は誠実に自らを律し、皆治国の遠大な謀略を備え、君主を補佐する正しい志を蔵していた。諸々の政務に心を砕き、たびたび直言を進め、その心の持ち様と己の行いを跡づければ、磊落として光明正く、剛直で鯁亮、古の大臣の気概があった。累朝に仕え、長寿を享け、朝野の期待を集め、遠方にも名が重かった。『詩経』は老成を称え、『書経』は黄髮を称えるが、三臣はこれに近い。王恕は遠名を戒めることを理解せず、伝記を作らせたことで疎まれた。しかし馬文升と劉大夏は孝宗の朝に知遇を得、明君と良臣が相契り、君臣が一心であった。宦官が権力を握るに至り、老臣が排斥されるや、その進退の際に係るものは、まさに重大ではなかったか。

原文贊曰:王恕砥礪風節,馬文升練達政體,劉大夏篤棐自將,皆具經國之遠猷,蘊畜君之正誌。綢繆庶務,數進讜言,跡其居心行己,磊落光明,剛方鯁亮,有古大臣節概。歷事累朝,享有眉壽,朝野屬望,名重遠方。《詩》頌老成,《書》稱黃髮,三臣者近之矣。恕昧遠名之戒,以作傳見疏。而文升,大夏被遇孝宗之朝,明良相契,荃宰一心。迨至宦豎乘權,耆舊擯斥,進退之際所系詎不重哉!