明史

列傳第七十 王恕 馬文升 劉大夏

王恕

王恕、字は宗貫、三原の人である。正統十三年の進士。庶吉士より大理左評事に任じられ、左寺副に進んだ。かつて刑罰が当を得ない六事を条陳し、皆議論されて施行された。揚州知府に遷り、粟を発して飢えを賑うのに報告を待たず、資政書院を作って士人を課試した。天順四年、治行最も優等として、超遷して江西右布政使となり、贛州の寇を平定した。憲宗が位を嗣ぐと、詔して大臣に天下の方面官を厳しく核せしめ、ここに河南左布政使侯臣ら十三人を罷免し、恕をもって臣に代えた。

成化元年、南陽・荊・襄の流民が嘯聚して乱を為すと、恕を右副都御史に擢げてこれを撫治せしめた。ちょうど母の憂いに遭うが、詔して喪に奔ること両月にして即ち起きて視事せしむ。恕は辞したが、許されなかった。尚書白圭と共に大盗劉通を平定し、またその党石龍を討ち破った。部下を厳しく束ねて濫殺せしめず、流民は復業した。河南に移って撫治した。功を論じ、左副都御史に進み、やがて南京刑部右侍郎に遷った。父の憂いに遭い、服除けの後、原官をもって河道を総督した。高郵・邵伯などの湖を浚い、雷公・上下句城・陳公の四塘水閘を修築した。災変に因り、災を消す策を講求するよう請うた。帝はこれに応じて山東の租を一年賜免し、畿輔も多く減免した。まもなく南京戸部左侍郎に改めた。

十二年、大学士商輅らは、雲南が万里の遠方に在り、西は諸夷を控え、南は交阯に接するが、鎮守中官の錢能が貪欲で恣に甚だしいことを以て、大臣で威望ある者を遣わして巡撫としこれを鎮圧することを議し、ここに恕を左副都御史に改めて行かせ、就いて右都御史に進めた。初め、能は指揮郭景を遣わして京師に事を奏せしめ、安南が盗を捕える兵が雲南境に闌入したと言ったので、帝は即ち景に命じて勅を齎しこれを戒め約束させた。旧制では、安南に使するには必ず広西を経由するが、景は直ちに雲南より往った。能は景に因って安南王黎灝に玉帯・宝絳・蟒衣・珍奇などの諸物を贈った。灝は将を遣わし兵を率いて景を送還し、遂に雲南道を通じようとした。景は後の禍を懼れ、先行して守関の者に告げると偽り、ここに脱して帰り、安南の寇が来たると揚言したので、関吏は戒厳した。黔国公沐琮は人を遣わしてその帥を諭し、始めて返った。しかし諸臣は能を畏れ、匿して奏さなかった。能はまた頻りに景及び指揮盧安・蘇本らを遣わして幹崖・孟密などの諸土官と交通し、その金宝を納めること算無しであった。恕は皆これを廉得した。騎を遣わして景を捕えさせると、景は懼れて自殺し、ここに能が外国と私通したことを劾し、罪は死に当たるとした。詔して刑部郎中潘蕃を遣わしてこれを按問させた。能はまたその間に、駅伝で黄鸚鵡を進めた。恕はこれを禁絶するよう請うとともに、能の貪暴の状をことごとく発し、「昔、交阯は鎮守の人を得ずして、一方を陷没に致した。今日の事は殆どこれに甚だしい。陛下は何ぞ一能を惜しみ、もって辺を安んじないのか」と言った。能は大いに懼れ、急ぎ貴近に属して恕を召還するよう請わせた。そしてこの時、商輅・項忠らの正人はちょうど汪直に忤って罷免されていたので、遂に恕を改めて南京都察院を掌らせ、守備機務に参贊させた。能の事は直ちに解け、潘蕃の勘上は事実を得たが、置いて問わなかった。

恕は雲南に居ること九月、威は僥外に行き渡り、黔国公以下皆息をひそめて令を奉じた。疏は凡そ二十上し、直声天下を動かした。当時、安南は江西の叛人王姓の者を謀主として納れ、密かに諜を臨安に遣わし入れ、また蒙自で銅を市い兵器を鋳造し、間を窺って雲南を襲おうとした。恕は副使二員を増設して、辺備を整えるよう請うと、謀は遂に沮まれた。

南京に還ること数ヶ月、兵部尚書に遷り、参贊は従前の如し。官属を考選するに、請托を厳しく拒んだので、同事者皆悦ばなかった。そして錢能が帰ると、しばしば恕を帝に讒した。帝もまた恕が数直言することを恨みに思っていたので、遂に右副都御史を兼ねて南畿を巡撫するよう命じた。旧制では、応天・鎮江・太平・寧国・広徳の官田は半租を徴し、民田は全免であった。その後、民田は率いて豪右に帰し、官田は貧民を累わした。恕はここに官田の耗を量り減じ、少し民田にこれを増した。常州には時に羨米があったので、六万石をもって夏税を補うよう奏し、また他の府の戸口塩鈔六百万貫を補い、公私に便であった。管下に水災あり、秋糧六十余万石の免除を奏した。周行して賑貸し、全活すること二百余万口。江南は歳に白糧を輸するが、民は多く破産に至り、光禄寺は一概にこれを庖人・賤工に給した。また中官は暴横で、四方が上供物を輸するに、監収者は率いて羨入を要求した。織造の繒采及び花卉禽鳥を采る者は、道路に絡繹した。恕は先後論列したが、皆納れられなかった。

中官王敬が妖人千戸王臣を挟み南行して薬物・珍玩を采り、至るところ騒然とし、長吏多く辱められた。蘇州に至り、諸生を召して妖書を写させると、諸生大いに嘩した。敬は諸生が命に抗うと奏した。恕は急ぎ疏を上して言う、「この凶歳に当たり、宜しく使を遣わして振済すべきに、顧みて乃ち横に玩好を索む。昔、唐太宗は梁州に名鷹を献ぜしめようと諷し、明皇は益州に半臂褙子を織らせ、琵琶桿撥・鏤牙合子などの諸物を進めさせたが、李大亮・蘇頲は詔を奉じなかった。臣は似無きも、この人を慕う」と。ここに敬らの罪状をことごとく列挙した。敬もまた恕を誣奏し、併せて常州知府孫仁に及び、仁は逮われた。仁は新淦の人、進士より知府に歴り、人となり方峻で、敬が至っても礼を為さず、これをもって忤われた。恕は抗章して救い、三たび疏を上して敬を劾した。ちょうど中官尚銘もまた敬の奸状を発したので、ここに敬らを獄に下し、その党十九人を戍とし、臣を市に棄て、首を南京に伝えた。仁もまた釈放されて帰り、後に官を積んで寧夏巡撫右副都御史に至った。

二十年、また恕を改めて南京兵部尚書とした。時に錢能もまた南京を守備し、人に語って曰く、「王公は天人なり、吾は敬って事うるのみ」と。恕は坦懐をもってこれに接し、能は終に斂み戢んだ。林俊が獄に下された時、恕は言う、「天地は一壇のみ、祖宗は一廟のみ、而して仏は千余寺に至る。一寺立てば、民居を移すこと且つ数百家、内帑を費やすこと且つ数十万、これは舛なり。俊の言は当たり、罪すべからず」と。帝は疏を得て快とせず。恕は侃侃として論列し少しも避けなかった。先後詔に応じて陳言すること二十一、建白すること三十九、皆力をもって権幸を阻んだ。天下は傾心してこれを慕い、朝事に不可あるに遇えば、必ず曰く、「王公は何ぞ言わざる」と。則ちまた曰く、「公の疏将に至らん」と、已にして、恕の疏果たして至った。時に謡して曰く、「両京十二部、独り一王恕有り」と。ここにおいて貴近皆側目し、帝もまた頗るこれを厭い苦しんだ。

二十二年、伝奉官を起用すると、恕は諫めて特に切であり、帝は愈々悦ばなかった。恕は先に太子少保を加えられていたが、ちょうど南京兵部侍郎馬顕が罷免を乞うと、忽ち批に附して恕の宮保を落とし致仕せしめ、朝野大いに駭いた。恕は数たび巡撫となり、侍郎より尚書に歴るまで、皆留都に在った。直言を好むをもって、終に朝に立つことを得なかった。既に帰ると、名益々高く、台省の推薦月に虚しきこと無し。工部主事仙居の王純が恕を汲黯に比したため、杖刑に至り、思南推官に謫された。

孝宗が即位すると、初めて廷臣の推薦を用い、召し入れて吏部尚書とし、まもなく太子太保を加えた。先に、朝廷内外で大学士劉吉を弾劾する者は必ず王恕を推薦したので、劉吉はこれを大いに恨んだ。凡そ王恕が推挙する者は、必ず陰に阻害した。弘治元年閏正月、言官が両広総督宋旻・漕運総督邱鼐ら三十七人を降格罷免すべきと弾劾したが、中には平素より時望ある者が多かった。劉吉はついに中旨を取ってこれを許可し、奏章を吏部に下さなかった。王恕はその職を得られず、上疏して去ることを請うたが、許されなかった。陝西に巡撫が欠員し、王恕は河南布政使蕭禎を推挙した。詔して別に推挙せよとすると、王恕は執奏して言うには、「陛下は臣を不肖とせず、臣を銓部に任じられた。もし推挙した者が効果がなければ、臣の罪である。今、陛下はどうして蕭禎が不才であると知って拒絶されるのか。これは必ず左右の近臣に意のある者がいるのである。臣は風指を承望して、禄位を固めることはできない。かつ陛下は既に蕭禎を不可用とされたならば、これは臣が不可用であることであり、願わくば骸骨を乞う」と。帝はついに蕭禎を用いた。

当時、言官は多く王恕が賢明でかつ老齢であることを称え、劇職に任ずべきでなく、内閣に置いて大政に参与させるべきだとし、最後に南京御史呉泰らがまたこれを言上した。帝は言うには、「朕は蹇義・王直の故事を用い、王恕を吏部に官し、謀議があれば未だ聴かないことはない。何ぞ必ずしも内閣である必要があろうか」と。王恕は嘗て経筵に侍し、帝が暑熱に困っておられるのを見て、故事に依り大寒暑には暫く停止し、なお講義を宮中に進めることを請うた。進士董傑・御史湯鼐・給事中韓重らは遂に相次いで上章して論駁し、王恕は待罪して解職を請うたが、優詔して許さなかった。王恕は上言して、「臣は国の厚恩を蒙り、日夜報いんと思っている。人は陛下が臣を過重に任用されるのを見て、遂に臣に望みを深くし、臣に朝政を尽く取り上げてこれを更張させようとし、宋の司馬光の故事のようである。臣の才が遠く光に及ばないことは無論、即ち今も豈に元祐の時であろうか。かつ六卿は職を分ち、各々司る所がある。臣は敢えて越えてこれを謀るであろうか。ただ董傑らの臣を責めるのはまことにその通りであり、臣は罪を逃れる所がない。ただ放還を乞うのみである」と。帝はまた優詔して勉めて留めた。王恕は感激して眷遇に遇い、ますます身を以て国事に任じた。ちょうど病気で告暇中に、帝が頗る宦官を擢用し、蟒衣を賜い庄田を与える者さえあると聞き、疏を具して切に諫めた。中官黄順が匠官潘俊を起復して供役させることを請うたが、王恕は小臣を以て重典を壊すべからずと言い、再び執奏して、ついに許すと報じられた。

劉吉は既に王恕を恨み、劉吉が陥れた寿州知州劉概及び言官周紘・張昺・湯鼐・姜綰らを、王恕はまた抗章して力強く救ったので、劉吉はこれによってますます恨み、乃ち私党の魏璋らと共にこれを排斥した。王恕が先後に推挙任用した羅明・熊懐・強珍・陳寿・邱鼐・白思明らについて、皆魏璋らに諷して糾弾させた。王恕は志が行えぬことを知り、連章して去ることを求めた。帝は慰留し、かつその老齢の故に特に午朝を免じ、大風雨雪に遇えば早朝も免じた。

徽王朱見はいが帰徳州の田を乞うたが、既に旨を得ていた。王恕は言うには、王は国の懿親であるから、尺寸の地を争って小民を失業させるべきでないと。帝は婉曲な言葉でこれに報じた。盧溝橋が完成し、中官李興が文思院副使潘俊らの官を進めることを請うた。王恕は言うには、「営造は常職であり、どうして功を録することができようか。成化の末に初めてこの事があり、陛下の初政では幸いに既に革汰された。奈何ぞまた行うのか。かつ山陵の大工では升職を聞かず、例に援って奏乞すれば、将に何の言葉を以てこれを拒絶しようか」と。帝はその言を容れた。後に、京城の河橋を修築するに当たり、帝はまた李興の請いに従って四人に官を授け、五人に冠帯を許した。王恕は執奏して従わず、再び疏を上って争って言うには、「臣の職は銓選を掌り、義として尽く言うべきである。而るに再疏しても天聴を回らすことができず、業すでにこれを許したから易えられないとされる。夫れ事はその当を得んことを求める。設し当たらずんば、十たび易うとも何の害があろう。然らずんば、流弊は救うべからざる者がある」と。報じて聞かしめた。先後に災異によって七事を条陳し、星変によって二十事を陳じ、皆時弊に切った。寿寧伯張巒が勲号・誥券を請うた。王恕は言うには、「銭・王両太后は中宮に正位すること数十年、銭承宗・王源に至って初めて封爵を邀えた。今、皇后が立って甫三年、張巒は既に伯に封ぜられている。急にこの請いがあり、聖徳を累わす。許すべからず」と。通政司経歴高禄は張巒の妹婿であるが、超遷して本司参議となった。王恕は言うには、「天下の官は天下の士を待つものであり、貴戚に私して公議を妨ぐべからず」と。中旨によって次等の御医徐生を超補して院判としたが、王恕は上考の者を選ぶことを請うたが、容れられなかった。文華殿中書舎人杜昌らが縁故によって遷秩し、御医王玉が自ら進官を乞うたが、王恕は皆力爭してこれを止めさせた。

この時、劉吉は既に罷免されていたが、邱濬が内閣に入り、また王恕と相能わなかった。初め、邱濬は礼部尚書として詹事を掌り、王恕と共に太子太保であった。王恕は六卿の長として、位は邱濬の上にあった。邱濬が内閣に入ると、王恕は吏部として譲らなかったので、邱濬はこれによって悦ばなかった。王恕が天下の庶官を考察し、既に罷黜した者を邱濬が調旨して留めた者が九十余人いた。王恕は屡々争ったが得られず、因って力求めて罷免を請うたが、許されなかった。太医院判劉文泰という者は、かつて邱濬の家に往来して官に遷ることを救われたが、王恕に沮まれたので、王恕を甚だしく恨んだ。王恕が郷里に居た日、嘗て人に属して伝記を作らせ、板を鏤めて行わせた。邱濬はその直を売り君を謗るものと謂い、上聞すれば罪且つ小さからずと言った。劉文泰は心動き、乃ち自ら奏草を作り、除名された都御史呉禎に示して潤色させた。王恕が選法を変乱したことを訐り、かつ伝記中で自ら伊尹・周公に比し、奏疏で留中されたものについて一概に報ぜずと云い、以て先帝の諫を拒むことを彰わし、人臣の礼無きものとした。奇禍に中んと欲した。王恕は奏が邱濬の指図によるものとし、抗言して、「臣の伝記は成化二十年に作り、致仕は二十二年である。先帝に望みがあったのではない。かつ伝記中に載せる所は、皆先帝の諫を納れる美を昭わすに足るものであり、何の名を以て過ちを彰わそうか。劉文泰は無頼の小人であり、此れ必ず文学に老いて陰謀多き者がこれを主るのである」と。帝は劉文泰を錦衣獄に下し、鞫いて実を得たので、因って邱濬・王恕及び呉禎を逮えて対簿することを請うた。帝は心に王恕を悦ばず、乃ち劉文泰を御医に貶し、王恕を沽名を責め、鏤めた板を焚かせた。邱濬を問わずに置いた。王恕は再び疏を上って弁理を請うたが、従わず、遂に力求めて去り、駅伝に乗って帰ることを聴されたが、勅書を賜わず、月廩・歳隷も頗る減じられた。廷論はこれによって邱濬を直しとしなかった。邱濬が卒すると、劉文泰が弔問に行くと、邱濬の妻はこれを叱り出して言うには、「汝が故に、相公をして王公を齮齕せしめ、不義の名を負わしめた。何ぞ弔問することがあろうか」と。王恕は中外に歴任すること四十余年、剛正清厳で、終始一貫していた。引き薦げた耿裕・彭韶・何喬新・周経・李敏・張悦・倪嶽・劉大夏・戴珊・章懋らは、皆一時の名臣であった。他の賢才で久しく草沢に廃されていた者は、抜擢することを恐れ後れなかった。弘治の二十年間、衆正朝に盈ち、職業修理され、極盛と号せられたのは、王恕の力である。武宗が嗣位すると、行人を遣わして勅書を賫し存問し、羊酒を賜い、益々廩隷を加え、かつ讜論隠すこと無きを諭した。王恕は国家の大政数事を陳じ、帝は優詔してこれに報じた。正徳三年四月に卒し、年九十三。平居は食啖人に兼ねたが、卒する日に少し減じた。戸を閉じて独坐し、忽ち雷の如き声有り、白気瀰漫し、覗けば瞑していた。訃報を聞き、朝を輟し、特進左柱国太師を贈り、謚して端毅と曰う。五子・十三孫、多く賢明にして且つ顕れた。

末子の承裕は、字を天宇という。七歳にして詩を作ることができ、弱冠にして『太極動靜圖説』を著した。父の恕が吏部尚書であった時、毎日賓客に接するよう命じ、これによって天下の賢才を広く知り、選用して適切でないことはなかった。弘治六年の進士に挙げられた。恕が致仕すると、承裕はただちに帰郷を請い、養老に侍った。起用されて兵科給事中に任じられ、出向して山東・河南の屯田を管理した。登州・萊州の税糧額を減らし、三畝につき一斗を徴収し、青州・彰徳の軍田で先に王府に賜与されていた三百六十余頃を返還した。武宗が即位すると、累進して吏科都給事中となった。時事について上奏して劉瑾の意に逆らい、米を罰せられて辺境に輸送させられた。再び昇進して太僕寺卿となった。嘉靖六年、累官して南京戸部尚書に至った。滞納税糧百七十万石を整理し、余剰銀四万八千余両を蓄積した。帝は直筆で「清平正直」と書してこれを褒めた。部に在ること三年、致仕し、死去した。太子少保を追贈され、諡は康僖といった。

馬文升

馬文升は、字を負図といい、鈞州の人である。容貌は魁偉で力が強かった。景泰二年の進士に及第し、御史に任じられた。歴任して山西・湖広を巡察し、風紀を厳しく取り締まること甚だ著名であった。還朝して諸道の章奏を管轄した。母の喪が明けると、越階して福建按察使に昇進した。成化初年、召されて南京大理寺卿となったが、父の喪のために帰郷した。

満四の乱が起こり、陝西巡撫陳价が官吏に降格されると、家にいた文升を右副都御史に起用して陈价の後任とした。馳せて軍中に至り、総督項忠とともに討伐して平定した。事績は項忠の伝に詳しい。功績により左副都御史に進み、巡撫はもとのままとした。文升はしばしば時宜に適った条陳を上奏し、将を選び兵を練ることにつとめ、安辺営から鉄鞭城までの烽火台を修築し、凶悪な賊を殲滅した。西固の番族で命令に従わない者はすべて討滅した。茶馬法を整備し、番馬八千余頭と交換して士卒に給した。鞏昌・臨洮の飢民を救済し、流民を撫恤安堵した。治績は甚だ顕著であった。この時、孛羅忽・満都魯・乚加思蘭が毎年辺境を侵犯した。文升は韋州に駐兵し、諸堡に伏兵を設けて待つことを請うた。かくて寇を黒水口で破り、その平章叠烈孫を生け捕りにし、また湯羊嶺で破り、二百の首級を斬った。その嶺を「得勝坡」と名付け、石碑を刻んで記念して還った。文升の軍功は甚だ盛んであったが、勝利の奏上は誇張せず、また朝廷にも取り立てる者もなかったため、恩賞は薄かった。九年の冬に至り、総制王越が大勝を奏上し、文升もまた子の琇を派遣して戦功を報告した。廷臣が調査して奏上が事実に合わないとし、俸給を三月停止する罪に処せられた。

十一年春、王越に代わって三辺軍務を総制し、まもなく召還されて兵部右侍郎となった。翌年八月、遼東軍務を整頓した。巡撫陳鉞は貪欲で狡猾であり、将士の些細な過失をもってすぐに馬を罰没し、馬価が高騰した。文升は辺防策十五事を上奏し、これに因ってその禁止を請うたので、陳鉞はこれによって文升を恨んだ。文升は兵部に戻って左侍郎に転じた。十四年春、陳鉞が殺害を掩い功績を偽って激変を引き起こすと、宦官汪直は自ら出向いて平定しようとした。帝は司礼太監の懐恩ら七人に命じ、内閣に赴かせ兵部と会議させた。懐恩は大臣を派遣して鎮撫させ、汪直の出動を阻止しようとした。文升はすばやく応じて「善し」といった。懐恩が入内して奏上すると、帝はただちに文升を派遣することを命じた。汪直は快く思わず、その私的な部下の王英を同行させようとしたが、文升は断った。疾駆して鎮に至り、璽書を宣べて撫慰したので、従わない者はなかった。また先に也先の乱で官職任命の璽書を失った十余人について、官職を世襲することを請い、許された。事態が平定すると、汪直はその功績を奪おうとし、帝に請うて王英を伴い開原に馳せ至り、再び招撫を下令した。文升は功績を汪直に譲ったが、汪直は内心恥じた。文升はまた汪直と対等の礼をとり、その左右の者を奴隷のように扱ったので、汪直はますます快く思わなかった。一方、陳鉞はますます汪直に諂い事えて、その歓心を買った。日夜文升を讒言し、中傷しようとしたが、機会がなかった。文升が還朝すると、太牢と酒醴を賜った。翌年春、遼東でたびたび失態があったため、汪直を派遣して定西侯蒋琬・尚書林聡らとともに調査させた。ちょうど余子俊が陳鉞を弾劾したので、陳鉞は文升の意図によるものと疑い、ますます激しく文升を陥れようとした。汪直は文升の施策が道理に合わず、辺境の民に農具の売買を禁じて怨みと反乱を招いたと奏上した。そこで文升を詔獄に下し、重慶衛に流罪とした。汪直は文升を陥れた後、陳鉞とともに大いに兵を動かして戦功を煽り、陳鉞はこれによって急に尚書まで昇進した。

十九年、汪直が失脚すると、文升は官職に復した。翌年、左副都御史として起用され、遼東を巡撫した。文升は合わせて三度遼東に至ったが、軍民はその来訪を聞いて皆鼓舞した。ますます宦官・総兵官を抑制して、彼らが削り取ることをできなくしたので、民衆はますます大いに喜んだ。

二十一年に右都御史に進み、漕運を総督した。淮安・徐州・和州が飢饉となると、江南の糧十万石、塩価銀五万両を移して救済した。この年冬、召還されて兵部尚書となった。翌年、李孜省の讒言によって、南京に転出させられた。

孝宗が即位すると、召されて左都御史に任じられた。弘治元年に上言した。「憲宗朝において、嶽鎮海瀆の諸廟で、方士の言を用いて石函を置き、周囲に符篆を施し、金書の道経・金銀銭・宝石及び五穀を貯めて厭勝の具としたものは、破棄すべきである。」帝はこれに従った。また十五事を上言し、すべて審議されて施行された。帝が藉田の礼を行った時、教坊が雑戯を進上した。文升は厳しい顔色で言った。「新天子には農耕の艱難を知らせるべきである。これは何事か。」すぐに斥け去らせた。御史の徐瑁・賀霖が上意を受け止めそこなって獄に下された。文升は新政において言官を軽々しく罪にすべきでないと上言し、彼らは釈放された。まもなく十二団営を提督することを命じられた。

翌年、余子俊に代わって兵部尚書となり、団営の督理はもとのままとした。太平の世が長く続き、軍政は廃れ弛んでおり、西北の部族がしばしば辺境を窺っていた。文升は諸将校を厳しく査察し、貪婪で懦弱な者三十余人を罷免した。奸人は大いに怨み、夜に弓矢を持ってその門を窺い、あるいは誹謗の文書を作って東長安ちょうあん門内に射込んだ。帝はこれを聞き、錦衣衛に逮捕を命じ、騎士十二人を与えて文升の出入りを護衛させた。文升は致仕を願い出たが、優詔をもって許さなかった。

小王子が数万騎を率いて大同の辺塞の下で放牧し、その勢いは洶洶としていた。文升は病気で休暇中であったが、帝は宦官に医者を伴わせて見舞わせ、ついでに計略を問うた。文升は「彼らは他部に敗れたばかりで、為すところはありません。密かに備えを固め、声勢をあげて威圧すれば、必ず立ち去るでしょう。」といった。果たしてその通りになった。継母の喪に遭うと、詔によって喪中起復を命じられたが、再び辞任を上疏したが、許されなかった。西北の別部である野乜克力の長、亦剌思王・満哥王・亦剌因王がそれぞれ使者を派遣して粛州の辺塞に来朝し、貢納と互市を請うた。巡撫の許進・総兵官の劉寧がこれを請うたが、文升は互市は許容できるが、入貢は許すべきでないと上言し、これを退けた。

土魯番はすでに陝巴を襲撃して捕らえ、牙蘭に命じて哈密を占拠させ、僭称して可汗と称し、沙州を侵犯し、罕東諸部を脅迫して自己に従わせた。文升は評議して、この賊は凶暴で、大いに打撃を与えなければ終に畏怖を知らないであろう、漢の陳湯の故事を用いて襲撃して斬るべきである、といった。指揮の楊翥が番情に詳しいと察し、召し出して方略を問うた。楊翥は詳しく罕東から哈密に至る道路を述べ、罕東の兵三千を前鋒とし、漢兵三千をこれに続かせ、数日分の糧食を持ち、間道を昼夜兼行で進めば、目的を達し得ると請うた。文升は喜び、帝に請うて、勅を発して罕東・赤斤・哈密の兵を動員し、副総兵の彭清にこれを率いさせ、巡撫許進に隷属させて討伐に向かわせた。果たしてこれを攻克した。詳細は『許進伝』にある。

団営の軍が不足しているので、錦衣衛及び騰驤四衛の中から選んで補充するよう請うた。既に許可を得たが、宦官の寧瑾がこれを阻んだ。文升と兵科の蔚春らは詔旨は信ずべきであると述べたが、聞き入れられなかった。陝西で大地震があった。文升は言った、「これは外寇が侵凌する兆しである。今、火篩が跳梁しているのに、海内は民困り財竭き、将は懦く兵は弱い。仁政を行って民を養い、武備を講じて国境を固めるべきである。財用を節し、斎醮を停め、伝奉による冗員を止め、閑地の奏乞を禁ずる。日に二朝を視て、諸政に勤しむべきである。また、陝西の織造内臣を撤還し、被災者の家を振恤すべきである。」帝はその言を容れ、内臣は直ちに召還された。

文升が兵部に在ること十三年、戎務に心を尽くし、屯田・馬政・辺備・守禦について、数度にわたり便宜を条上した。国家の事で言うべきことは、たとえ職守でなくとも、言い尽くさないことはなかった。嘗て太子が四歳に達したので、早く教えを諭すべきであるとし、醇謹で老成、書史を知る衛聖楊夫人のような者を選んで保抱扶持させ、言語動止の全てを正しく導くよう請うた。内庭の曲宴、鐘鼓司の承応、元宵の鰲山、端午の競渡などの諸戯は、皆見せないようにすべきである。仏・老の教えについては、特に屏絶し、心志を惑わすことを恐れるべきであるとした。山東は久しく旱魃が続き、浙江及び南畿は水害があったので、文升は所司に命じて振恤し、士卒を練って不虞に備えるよう請うた。帝は皆深くこれを容れた。民が賦役に困っているので、文升はその害を極めて陳べ、言った、「今、民田は十に四五を税し、辺塞に輸するものは糧一石に銀一両以上の費用がかかり、豊年でも糧八九石でようやく一両を易える。絲綿布帛を京師に輸するものは、交納の費用が輸するものを過ぎ、南方から通州へ転漕するものは三四石で一石を致すものさえある。中州では毎年五六万人を役して河を治め、山東・河南では決口を修塞する夫が二十万を下らず、蘇・松の治水もまた同様である。湖広では吉・興・岐・雍の四王府を建て、江西では益・寿の二府、山東では衡府を建て、通計すれば役夫は百万を下らない。諸王の之国に際しての役夫供応も四十万である。これに湖広の蛮征、山・陜の防辺を加え、饋餉を供して軍旅に給するものは、また幾ばくあるか知れない。賦重く役繁きは、この時より甚だしいものはない。内外の諸司を厳しく敕し、煩費を省き、力役を寛げ、擅りに科率することなく、王府の工事は速やかに竣えるべきである。困敝を少しでも蘇らせるように願う。更に正学を崇め、邪術を抑えて聖心を清くし、財用を節し、工作を省いて邦本を培うことを乞う。」詔して所司に下し詳議させた。その他の論奏も甚だ多かった。班列の中で最も耆碩であり、帝もまた推心してこれを任じた。太子太保から屡々加えて少保兼太子太傅に至り、歳時の賜賚は、諸大臣及びぶものはなかった。

吏部尚書屠滽が罷免され、廷推で文升が推された。御史魏英らは兵部は文升でなければならないと言い、帝もまた然りとした。そこで倪嶽をして滽に代えさせ、文升には少傅を加えて慰めた。嶽が卒すると、文升を以て代えさせた。南京・鳳陽で大風雨があり屋を壊し木を抜いたので、文升は帝に減膳撤楽し、徳を修め愆を省き、経筵に御し、遊宴を絶ち、不急の務を停め、額外の織造を止め、饑民を振恤し、盗賊を捕えるよう請うた。已にして、また吏部職掌十事を上奏した。帝は悉く褒めて容れた。一品九載が満ちると、少師兼太子太師を加えられた。帝は将に考察せんとするに当たり、特に文升と都御史戴珊・史琳を暖閣に召し、秉公して黜陟するよう諭した。また文升が年高く重聴であるため、再び呼びかけて告げ、左右に命じて階を下らせた。初め文升が都御史の時、王恕が吏部に在り、両人共に正直を以て天下の事を任じた。疏が出ると、天下に伝誦された。恕が去ると、人望は皆文升に帰した。吏部となった時には、年既に八十であった。修髯長眉で、事に遇えば侃侃として少しも衰えなかった。

孝宗が崩じると、文升は遺詔を承けて伝奉官七百六十三人の淘汰を請い、太僕卿李綸ら十七人を留めることを命じ、残りは全て淘汰した。正徳元年、御用監の中官王瑞がまた新たに淘汰された者七人を用いるよう請うたが、文升は詔に奉じなかった。給事中安奎が瑞の賄賂収受の状を刺得し、これを劾した。瑞は恚り、文升が旨に抗したと誣った。更に廷議に下すと、皆文升に是とし、帝は終に聞き入れなかった。文升は因って帰ることを乞うたが、許されなかった。

この時、朝政は既に中官に移っており、文升は老いて、日々去る志を懐いていた。会に両広の総督が欠員となり、文升は兵部侍郎熊繡を推挙した。繡は怏怏として出たがらず、その郷人の御史何天衢が遂に文升が私に徇って欺罔したと劾した。文升は連疏して去ることを求め、許された。璽書・乗伝を賜い、月廩歳隸を加増された。家居して、事無きには嘗て州城に入らなかった。時事に及ぶと語れば、輒ち顰蹙して答えなかった。三年居るうち、劉瑾が政を乱し、文升が以前雍泰を用いたことを朋党の罪に坐し、その名を除いた。五年六月に卒し、八十五歳であった。瑾が誅せられると、官を復し、特進光禄大夫・太傅を贈られ、謚して端肅といった。

文升は文武の才があり、応変に長け、朝端の大議は往々にしてその決を待った。功は辺鎮に在り、外国も皆その名を聞いた。特に気節を重んじ、廉隅を厲め、直道を行った。讒詬に遭い、屡々起き屡々仆れども、終に少しも貶められなかった。子の璁は、郷貢士として吏部に待選していたが、文升は外任を請うさせて言った、「必ず大臣の子で京秩に就くならば、誰が外任に当たるというのか。」卒して一年余り後、大盗の趙鐩らが河南を剽掠し、鈞州に至り、文升の家が在るので、これを捨てて去った。泌陽を攻め、焦芳の家を毀ち、草を束ねて芳の像の如くしてこれを裂いた。嘉靖初年、文升に左柱国・太師を加贈した。

劉大夏

劉大夏、字は時雍、華容の人。父の仁宅は、郷挙によって瑞昌県知県となった。流民千余家が山中に匿っていたが、邏者が賂を求め得ず、民が反したと誣った。衆議は兵を加えようとした。仁宅は単騎でこれを招くと、民は争って出て訴えたので、遂に兵を罷め、広西副使に擢げられた。

大夏は二十歳で郷試第一に挙げられた。天順八年の進士に登第し、庶吉士に改められた。成化初年、館試で留まるべきであったが、自ら吏を試すことを請うた。そこで職方主事に除され、再び郎中に遷った。兵事に明習し、曹中の宿弊を尽く革めた。奏覆すること多く上意に当たり、尚書は左右の手の如くこれを倚った。汪直は辺功を好み、安南の黎灝が老撾に敗れたのを以て、隙に乗じてこれを取らんとした。帝に言い、永楽年間の安南討伐の故牘を求めた。大夏は匿して与えず、密かに尚書余子俊に告げて言った、「兵釁一たび開かば、西南は直ちに糜爛します。」子俊は悟り、事は止むことができた。朝鮮の貢道は元来鴉鶻関からであったが、この時に至り鴨緑江から改めるよう請うた。尚書は将にこれを許そうとしたが、大夏は言った、「鴨緑の道が径直であることは、祖宗朝に豈に知らなかったことがあろうか、顧みて数大鎮を紆回しているのは、これには微意があるのです。許すべからず。」そこで止んだ。中官の阿九という者があり、その兄が京衛の経歴に任じていたが、罪があって大夏に笞たれた。憲宗はその譖言を入れ、詔獄に捕え繫ぎ、東廠に偵させたが何も得られなかった。会に懐恩が力救したので、杖二十で釈放された。十九年、福建右参政に遷り、政績を以て聞こえた。父の訃報を聞くと、一宿して即ち行った。

弘治二年に服闋し、広東右布政使に遷った。田州・泗城が靖まらなかったが、大夏が往って諭すと、遂に命に順った。後、山賊が起こると、檄を承けてこれを討った。賊を獲れば必ず生け捕りにし、実を験して乃ち坐するよう命じたので、生を得る者が過半に及んだ。左に改め、浙江に移った。

六年の春、黄河が張秋で決壊し、詔を下して広く才臣を選び派遣して治めさせた。吏部尚書王恕らが大夏を推薦し、右副都御史に抜擢して赴かせた。そこで黄陵岡から賈魯河を浚渫し、さらに孫家渡・四府営の上流を浚って水勢を分かち、長堤を築き、胙城から起こし東明・長垣を経て徐州に至る、三百六十里に亘った。水害は大いに治まり、張秋鎮を改めて「安平鎮」と称した。孝宗はこれを嘉し、璽書を賜って褒め称え、その言葉は『河渠志』に詳しい。召されて左副都御史となり、戸部左侍郎を歴任した。

十年、左僉都御史を兼ねることを命じられ、宣府の兵糧を管理するため赴いた。尚書周経が言うには、「塞上の勢家の子弟が穀物買い付けを私利としている。公は剛直さゆえに禍を買うことなきよう」。大夏は言った、「天下の事を処するには、勢いによらず道理による。到着してから図ろう」。初め、塞上での買い入れは必ず粟千石・芻万束あってこそ告納できたため、中官・武臣の家が利権を握っていた。大夏は芻粟を持つ者、百束・十石以上からすべて許すように命じ、勢家は利を貪ろうとしても得るものなし。二月と経たぬうちに儲蓄は豊かになり、辺境の民はその利益を被った。翌年秋、三度上疏して病を理由に帰り、東山の下に草堂を築き、その中で読書した。二年を経て、廷臣が相次いで推薦し、右都御史として起用され、両広の軍務を総制した。勅使が門に及ぶと、二僮を連れて行った。広人はもとより大夏を慕っており、鼓舞して慶賀した。大夏は吏治を粛清し、供応費用を削減し、内外の鎮守官が私的に軍士を役使することを禁じ、盗賊はこれにより衰え止んだ。

十五年、兵部尚書に任ぜられ、幾度か辞退してようやく命を受けた。召見されると、帝は言った、「朕はしばしば卿を用いたが、しばしば病を理由にするのはなぜか」。大夏は頓首して言った、「臣は老いて病んでおります。ひそかに天下の民は窮し財は尽きているのを見ます。もし不測の事があれば、責めは兵部にあります。自ら力量足らざるを量り、故に辞退したのです」。帝は黙然とした。南京・鳳陽で大風が木を抜き、河南・湖広で大水があり、京師は長雨と曇天に苦しんだ。大夏は、祖宗の旧制にないことで軍民を害する事柄はすべて条上して改革するよう請うた。十七年二月にもまたこれを言上した。帝は、興革すべき事柄について所管の役所が実情を具えて奏上するよう命じた。そこで廷臣と会して十六事を条上したが、いずれも権勢を握る者に不都合なことで、彼らは力を合わせて阻止した。帝は決断できず、再議に下した。大夏らは言った、「事柄が外廷に属するものは、すべてご允諾を蒙りました。少しでも権貴に触れると、また審査させられます。臣らは至って愚かで、どうすべきか分かりません」。しばらくして、ようやく旨を得た、「伝奉官は名簿を疏にして請うこと。幼匠・厨役の月米は三斗を減ずること。増設の中官は、司礼監が審査して奏上すること。四衛の勇士は、禦馬監が数を具えて奏上すること。その他はすべて議の通りとせよ」。織造・斎醮はすべて停止され、光禄寺の無駄な費用は巨万を省き、勇士の虚偽の弊害も大いに減った。制が下ると、朝廷中が歓悦した。先に、外戚・近幸が多く恩沢を求めたが、帝はその政事への害を深く知り、奮然としてこれを正そうとした。時に災異が多いのを機に、また群臣に宣諭し、各自が缺失を陳べるよう命じた。大夏はそこでさらに数事を上奏した。

その年六月、再び兵政の十害を陳べ、かつ帰郷を乞うた。帝は許さず、革すべき弊害をさらに詳しく具えて奏上するよう命じた。そこで大夏は、南北の軍が漕運や番上で苦しむこと、および辺軍の困窮疲弊、辺将の侵奪克扣の状況を極言した。帝は便殿で大夏を召見し、問うて言った、「卿は先に天下の民窮財尽と言った。祖宗以来、徴斂には常法があった。どうして今日このようになったのか」。答えて言った、「まさに常法通りでないからです。例えば広西では毎年鐸木を徴し、広東では香薬を徴しますが、費用はすでに万を単位とします。他のことは推して知るべしです」。また軍について問うと、答えて言った、「窮乏は民と同じです」。帝は言った、「駐在時には月糧があり、出動時には行糧がある。なぜ窮するのか」。答えて言った、「その将帥が半分以上を侵奪克扣します。どうして窮しないことがありましょう」。帝は太息して言った、「朕は臨禦すること久しいが、天下の軍民が困窮していることを知らなかった。どうして人主たることができようか」。そこで詔を下して厳禁した。この時、帝は太平に意を鋭くしており、劉健が首輔となり、馬文升が師臣として六卿を率い、一時正人が列位に充ちていた。帝は大夏が方正厳格で、かつ事に練達しているのを察知し、特に親信した。しばしば召見して事を決し、大夏もまた事に随って忠を納めた。

大同に小さな警報があり、帝は中官苗逵の言葉を用いて、出師しようとした。内閣の劉健らが強く諫めたが、帝はなお疑い、大夏を召して問うて言った、「卿は広にいた時、苗逵の延綏での敵陣急襲の功績を知っているか」。答えて言った、「臣は聞きましたが、捕らえた婦女子は十数人に過ぎません。朝廷の威徳に頼り、全軍をもって帰還しました。そうでなければ、どうなったか分かりません」。帝はしばらく黙然とし、問うて言った、「太宗は頻繁に塞外に出た。今なぜできないのか」。答えて言った、「陛下の神武は固より太宗に後れませんが、将領と兵馬ははるかに及びません。かつ淇国公が少し節制に違っただけで、数十万の衆を沙漠に委ねました。どうして軽々しく言えましょう。今の上策を推すに、守ることのみです」。都御史戴珊もまた傍らから決断を支持した。帝は急に言った、「卿らがなければ、朕はほとんど誤るところだった」。これにより、出師はついに実現しなかった。

荘浪の土帥魯麟が甘粛副将となり、大将を求めて得られず、その部衆の強さを恃みに、まっすぐに荘浪に帰った。廷臣は変事が生じることを恐れ、大将の印を授けようとし、また京に召還して閑地に処そうとした。大夏はその祖先の忠順を褒賞し、麟に閑居することを許すよう請うた。麟はもとより貪虐で衆心を失っており、兵権はすでに去って何もできず、ついに怏怏として病死した。

帝は近地に兵を駐屯させて左右の輔えとしようとした。大夏は言った、「保定に都司を設けて五衛を統べたのは、祖宗の御意もまたこのようなものであったでしょう。操軍一万人を帰還させて西衛とし、京東の兵を密雲・薊州に納めて東衛とするよう請います」。帝は許可した。京営を監督する中官は兵を失ったことを恨み、匿名の文書を宮門に貼った。帝は大夏に示して言った、「宮門はどうして外人が至れようか。必ずやこの輩が兵を失うのを不利とするのだ」。これにより、間隙をつくことができなくなった。

帝はかつて大夏に諭して言った、「事に臨むといつも卿を召そうと思い、越職を慮って止める。後に実行すべきこと、廃すべきことがあれば、掲帖を具えて進上せよ」。大夏は頓首して言った、「事の可否は、外では府部に委ね、内では閣臣に諮問すればよいのです。掲帖は弊害を生み、後世の法とすべきではありません」。帝は善しとした。またかつて問うた、「天下はいつ太平になるのか」。答えて言った、「治を求めるにもあまり急ぎすぎてはなりません。ただ人を用い政を行うに、すべて大臣と面議し、適当と認めてから実行すれば、時が経てば天下は自ずから治まります」。かつて隙を見て四方の鎮守中官の害を言上した。帝が状況を問うと、答えて言った、「臣が両広で見たところ、諸文武の大吏の供応費用は一鎮守に敵いません。その煩費たるや推して知るべしです」。帝は言った、「そうだ。祖宗以来これを設けて久しい。どうして急に革せられようか。ただ今後は必ず鄧原・麦秀のように廉潔な者でなければ用いず、そうでなければやめるだけだ」。大夏は頓首して善しと称えた。大夏は召されるたびに、御榻の前に跪いた。帝が左右を顧みると、近侍はすぐに引き下がった。かつて対する時間が長く、疲れて起き上がれず、司礼太監李栄を呼んで支えさせて出た。ある日の早朝、大夏は固より班にいたが、帝がたまたま見えず、翌日諭して言った、「卿は昨日朝参を欠いたのか。恐らく御史が糾弾するだろうと思い、ついに卿を召さなかった」。これほどまでに眷顧を受けた。特に玉帯・麒麟服を賜い、下賜する金幣・上尊は、年中絶えることがなかった。

間もなく孝宗が崩御し、武宗が位を嗣ぐと、詔を奉じて四方の鎮守中官で定員外の者を撤去するよう請うた。帝は均州の齊元のみを撤去した。大夏は更に撤去すべき者二十四人を議して上奏し、また皇城・京城の守視中官を減らすよう奏したが、いずれも聞き入れられなかった。ほどなく、伝奉の武臣で淘汰すべき者六百八十三人を列挙して上奏すると、許可された。大漢将軍の薛福敬ら四十八人もまた官を奪うべきであったが、福敬らは故意に侍衛に入らずして帝の怒りを煽った。帝は急いで彼らを復職させ、兵部に事情説明を求めて罪を加えようとした。中官の寧瑾が頓首して言うには、「これは先帝の遺命であり、陛下はこれを即位の詔書に掲げられました。罪とすべきではありません」。帝の怒りはようやく解けた。中官の韋興は、成化の末年に罪を得て長く廃されていたが、この時に縁故を頼って均州を守った。言官が相次いで諫め、大夏らも再三争ったが、聞き入れられなかった。正徳元年春、また言うには、「鎮守中官のうち、江西の董讓・薊州の劉瑯・陜西の劉雲・山東の朱雲は特に貪婪残酷です。どうか取り調べ処罰を願います」。帝は快く思わなかった。大夏は自ら言が用いられないと知り、たびたび上章して骸骨を乞うた。その年の五月、詔して太子太保を加え、勅を賜って駅馬で帰郷させ、定めに従って俸米と従者を給した。給事中の王翊・張襘が留任を請うたが、吏部もまた王翊・張襘の言の通りにするよう請うたが、返答はなかった。

大夏は忠誠篤実で、孝宗の知遇を得て、身を忘れて国に殉じ、権勢を誇る幸臣を多く抑圧した。かつて勇士の厳格な査定を請うたことがあり、劉瑾に憎まれた。劉宇もまた大夏を恨み、焦芳とともに劉瑾に讒言して言うには、「大夏の家を没収すれば、辺境の費用十二に相当します」。三年九月、田州の岑猛の事件を口実に、詔獄に捕らえ拘禁した。劉瑾は激変を煽った罪で死刑に処そうとしたが、都御史の屠滽が同意しなかった。劉瑾は罵って言うには、「死ななくとも、辺境への流罪は免れまい」。李東陽が穏やかに取りなし、また劉瑾が大夏の家が実際に貧しいことを探り知ると、ようやく極辺への戍守を科した。当初は広西と擬したが、焦芳が言うには、「これは彼を帰郷させるようなものだ」。そこで肅州に改めた。大夏はすでに七十三歳、布衣で徒歩して大明門の下を過ぎ、叩頭して去った。見る者は嘆息して涙を流し、父老は籠を携えて食物を送り、行く先々で市が閉まり、香を焚いて劉尚書の生還を祈った。戍地に到着すると、諸司は劉瑾を恐れて贈り物や見舞いを絶ち、儒学生徒が順番に食事を供した。団操に遇うと、いつも戈を担いで隊列に就いた。担当官が固辞すると、大夏は言うには、「軍人たるもの、本来役務に服すべきである」。携えた者はただ一人の僕のみであった。ある人がなぜ子孫を連れないのかと問うと、言うには、「私が官にあった時、子孫のために恩沢を乞うたことはない。今老いて罪を得て、どうして彼らを同じく戍地で死なせようか」。大夏が戍地に遣られた後も、劉瑾はなお他の事を摘まんでは米を罰して塞上に輸送させることを二度行った。

五年夏、赦されて帰郷した。劉瑾が誅殺されると、官に復し、致仕した。清軍御史の王相が俸米と従者の復旧と、その子孫の登用を請うたが、権力を握る中官は終にこれを快く思わず、許さなかった。大夏は帰郷し、子孫に力を田畑に注ぎ生計を図るよう教えた。少し余裕ができると、旧知や宗族に分け与えた。あらかじめ自ら墓誌を書き、言うには、「人に飾り立てさせて、地下で恥じ入らせてはならない」。十一年五月卒去、八十一歳。太保を追贈され、諡は忠宣。

大夏はかつて言った。「官にある者はまず己を正すことを第一とすべし。利を戒めるのみならず、名からも遠ざかるべきである」。また言った。「人の一生は棺を蓋いて論定まる。一日死なざれば、即ち一日憂いと責務は終わらない」。彼が逮捕された時、ちょうど菜園を鋤いていて、部屋に入って数百の銭を持ち、小さな驢馬に跨って道に就いた。赦されて帰郷した時、門下生で巡撫となっている者が、わざわざ百里を枉げて彼を訪ねた。道中で犁を引く者に会い、どれが尚書の家かと尋ねると、堂に導き入れたが、それが大夏その人であった。朝鮮の使者が鴻臚寺の館で大夏の同郷の張生に会い、起居を尋ねて言うには、「わが国では劉東山の名を聞いて久しい」。安南の使者が入貢して言うには、「劉尚書が辺境に戍っていると聞くが、今は無事か」。外国においてこのように重んじられたのである。

賛して言う。王恕は風節を磨き、馬文升は政体に練達し、劉大夏は誠実に自らを律し、皆治国の遠大な謀略を備え、君主を補佐する正しい志を蔵していた。諸々の政務に心を砕き、たびたび直言を進め、その心の持ち様と己の行いを跡づければ、磊落として光明正く、剛直で鯁亮、古の大臣の気概があった。累朝に仕え、長寿を享け、朝野の期待を集め、遠方にも名が重かった。『詩経』は老成を称え、『書経』は黄髮を称えるが、三臣はこれに近い。王恕は遠名を戒めることを理解せず、伝記を作らせたことで疎まれた。しかし馬文升と劉大夏は孝宗の朝に知遇を得、明君と良臣が相契り、君臣が一心であった。宦官が権力を握るに至り、老臣が排斥されるや、その進退の際に係るものは、まさに重大ではなかったか。