明史

列伝第六十九 徐溥 丘濬 劉健 謝遷 李東陽 王鏊 劉忠

列伝第六十九 徐溥 丘濬 劉健 謝遷 李東陽 王鏊 劉忠

原文列傳第六十九 徐溥 丘濬 劉健 謝遷 李東陽 王鏊 劉忠

徐溥・丘濬・劉健・謝遷・李東陽・王鏊・劉忠

原文○徐溥邱濬劉健謝遷李東陽王鏊劉忠

徐溥

原文徐溥

徐溥、字あざなは時用、宜興の人。祖父の鑒は瓊州知府となり、善政があった。溥は景泰五年に進士及第した。編修に任じられた。憲宗の初め、左庶子に抜擢され、さらに太常卿兼学士に転じた。成化十五年に礼部右侍郎を拝命し、まもなく左侍郎に転じ、長らくして吏部に改めた。孝宗が位を継ぐと、文淵閣大学士を兼ね、機務に参与した。ほどなく礼部尚書に進んだ。

原文徐溥,字時用,宜興人。祖鑒,瓊州知府,有惠政。溥,景泰五年進士及第。授編修。憲宗初,擢左庶子,再遷太常卿兼學士。成化十五年拜禮部右侍郎,尋轉左,久之改吏部。孝宗嗣位,兼文淵閣大學士,參預機務。旋進禮部尚書。

弘治五年、劉吉が罷免されると、溥が首輔となり、しばしば少傅・太子太傅を加えられた。溥は劉吉の放恣な後を受けて、静謐をもって鎮め、成法を守ることに務めた。同僚の劉健・李東陽・謝遷らと心を合わせて政治を補佐し、事がよろしからざるがあれば、ともに争った。欽天監の革職監正李華が昌国公張巒のために葬地を選んだが、中旨によって官職を回復した。溥らは言上した。「即位以来、内降は未だかつてなかった。幸いの門を一度開けば、末流はどこまで行くかわからない。臣らは詔を奉じることができません」。八年、太皇太后が崇王を召して朝見させようとしたが、溥らは尚書倪嶽とともに諫め、帝が(太皇太后に)請うてやめさせた。占城が安南の侵擾を奏上すると、帝は大臣を派遣して調停させようとした。溥らは言った。「外国が互いに侵せば、役所が檄文で諭せば足ります。使者を派遣する労はありません。万一命令に抗すれば、国体を損ない、罪を問い師を興せば、後患はますます大きくなります」。そこで派遣を取りやめた。

原文弘治五年,劉吉罷,溥為首輔,屢加少傅、太子太傅。溥承劉吉恣睢之後,鎮以安靜,務守成法。與同列劉健、李東陽、謝遷等協心輔治,事有不可,輒共爭之。欽天監革職監正李華為昌國公張巒擇葬地,中旨復官。溥等言:「即位以來,未嘗有內降。幸門一開,未流安底。臣等不敢奉詔。」八年,太皇太后召崇王來朝,溥等與尚書倪嶽諫,帝為請乃已。占城奏安南侵擾,帝欲遣大臣往解。溥等言:「外國相侵,有司檄諭之足矣,無勞遣使。萬一抗令,則虧損國體,問罪興師,後患滋大。」於是罷不遣。

この年十二月、詔して三清楽章を撰せしめた。溥らは言上した。「天は至尊にして対するものなし。漢が五帝を祀ったことを、儒者はなお非とした。まして三清は道家の妄説に過ぎません。一天の上に、どうして三大帝がありましょうか。また周の柱下史李耳をその一つに当て、人鬼を天神の列に並べるのは、偽り欺くこと甚だしい。郊祀の楽章は皆太祖が親しく制作されたもので、今、時俗の詞曲を作って神明を享けさせるのは、褻瀆ことさらに甚だしい。臣らは儒書を誦読し、邪説や俚曲は平素習わぬもので、非道をもって陛下に仕えることはできません。国家が文淵閣を設け、学士をそこに居らせたのは、誠に政事を謀り、経史を講論し、本原を培養し、闕失を匡弼せんがためであり、阿諛して旨に順い、ただ言うことに違わざらんがためではありません。今、経筵は早く休み、日講は久しく欠け、異端が隙に乗じて入り込んでいます。これらは皆、臣らが無状で、聖心を啓発し、初政を保つに足りないからです。憂い慚愧の至り、自ら容れるところなし。数月以来、中旨を奉じて処分し、当たらざるものは封を返し、執奏すること再び三たびに及びました。願わくは陛下、曲げて賜い従われ、臣らが駑鈍を尽くして、少しでも裨益するところあらしめ給え。楽章一事のみならずです」。奏上すると、帝はこれを嘉して受け入れた。

原文是年十二月,詔撰三清樂章。溥等言:「天至尊無對。漢祀五帝,儒者猶非之,況三清乃道家妄說耳。一天之上,安得有三大帝?且以周柱下史李耳當其一,以人鬼列天神,矯誣甚矣。郊祀樂章皆太祖所親制,今使制為時俗詞曲以享神明,褻瀆尤甚。臣等誦讀儒書,邪說俚曲素所不習,不敢以非道事陛下。國家設文淵閣,命學士居之,誠欲其謨謀政事,講論經史,培養本原,匡弼闕失,非欲其阿諛順旨,惟言莫違也。今經筵早休,日講久曠,異端乘間而入。此皆臣等無狀,不足以啟聖心,保初政。憂愧之至,無以自容。數月以來,奉中旨處分未當者封還,執奏至再至三。願陛下曲賜聽從,俾臣等竭駑鈍,少有裨益,非但樂章一事而已。」奏入,帝嘉納之。

帝は八年以後、朝見が次第に遅くなり、溥らはしばしばこれを言上した。宦官李広が焼煉・斎醮によって寵愛された。十年二月、溥らは上疏して極論した。「旧制では、内殿で日に再び奏進し、事重きものは時を待たず上聞に達し、また常に儒臣を面召して政事を諮問した。今は奏事が日に一度だけとなり、朝参の外、一度も天顔を拝することができない。章奏の批答は時を定めず断決せず、あるいは数か月滞留し、あるいはついに施行されない。事多く壅滞し、政体に妨げがある。経筵進講は毎年数日に過ぎず、正士は疏遠され、邪説が行われる。近ごろ、斎醮・修煉の説を進める者がいると聞く。宋の徽宗は道教を崇め、科儀・符籙が最も盛んだったが、ついに乗輿が播遷するに至った。金石の薬は、性質多く酷烈である。唐の憲宗は柳泌を信じて身を殞した。その禍は鑑とすべきである。今、龍虎山上清宮・神楽観・祖師殿及び内府の番経廠は皆焼き払われて余りなし。彼らに霊があれば、どうして自ら保たなかったのか。天がその穢れを厭うことも、また既に明らかである。陛下が儒臣に親近し、正道を明らかにし、仁政を行えば、福祥善慶は召されずして自ら至る。どうして妖妄の説を借りる必要があろうか。古来、奸人が君心を蠱惑する者は、必ず太平無事を言う。唐の臣李絳が言うように、『憂いは事に先んずれば、以て憂い無しとすべし。事至りて憂うは、事に益無し』。今、承平の日久しく、晏安に溺れている。目前に見るには、無事のようであるが、しかし工役は繁興し、科斂は百方に出で、士馬は疲弊し、閭閻は困窮し、愁嘆の声は和気を上幹し、熒惑の失度を致し、太陽は光無く、天鳴り地震し、草木は妖を興し、四方の奏報は虚月無きに近い。将来の患いは灼然として憂うべきである。陛下は九重に高居し、言官は皆罪を畏れて緘黙している。臣らがもしまた言わなければ、誰が陛下のために言おうとする者があろうか」。帝はその言に感じた。

原文帝自八年後,視朝漸晏,溥等屢以為言。中官李廣以燒煉齋醮寵。十年二月,溥等上疏極論曰:「舊制,內殿日再進奏,事重者不時上聞,又常面召儒臣,咨訪政事。今奏事日止一次,朝參之外,不得一望天顏。章奏批答不時斷決,或稽留數月,或竟不施行。事多壅滯,有妨政體。經筵進講,每歲不過數日,正士疏遠,邪說得行。近聞有以齋醮修煉之說進者。宋徽宗崇道教,科儀符箓最盛,卒至乘輿播遷。金石之藥,性多酷烈。唐憲宗信柳泌以殞身,其禍可鑒。今龍虎山上清宮、神樂觀、祖師殿及內府番經廠皆焚毀無余,彼如有靈,何不自保?天厭其穢,亦已明甚。陛下若親近儒臣,明正道,行仁政,福祥善慶,不召自至,何假妖妄之說哉!自古奸人蠱惑君心者,必以太平無事為言。唐臣李絳有云:『憂先於事,可以無憂。事至而憂,無益於事。』今承平日久,溺於晏安。目前視之,雖若無事,然工役繁興,科斂百出,士馬罷敝,閭閻困窮,愁嘆之聲上幹和氣,致熒惑失度,太陽無光,天鳴地震,草木興妖,四方奏報殆無虛月,將來之患灼然可憂。陛下高居九重,言官皆畏罪緘默。臣等若復不言,誰肯為陛下言者。」帝感其言。

三月甲子、文華殿に御し、溥及び劉健・李東陽・謝遷を召見し、諸司の題奏を授けて言った。「先生がたと議せよ」。溥らは旨を擬して上ると、帝は手に応じて改定した。事柄の多いものについては、健が外に出て詳しく閲覧することを請うた。帝は言った。「どうしてここで面議しないのか」。終わると、茶を賜って退出させた。成化年間、憲宗が彭時・商輅を召対して以来、これに至って初めて再び見られ、挙朝これを盛事と称えた。しかし溥の在位中、結局この一度の召見だけであった。

原文三月甲子,御文華殿,召見溥及劉健、李東陽、謝遷,授以諸司題奏曰:「與先生輩議。」溥等擬旨上,帝應手改定。事端多者,健請出外詳閱。帝曰:「盍就此面議。」既畢,賜茶而退。自成化間,憲宗召對彭時、商輅後,至此始再見,舉朝詡為盛事。然終溥在位,亦止此一召而已。

まもなく災異によって言を求め、廷臣の上った封事は、月を経ても報いられず、また言官が何鼎を論救して旨に忤い、待罪する者が久しかったが、溥らは皆これを言上した。そこで諸章を悉く下し、諸言官を罷めて問わなかった。溥は時に七十歳、年齢を理由に退くことを求めたが、許されなかった。詔して風雨寒暑には朝参を免じた。

原文尋以災異求言,廷臣所上封事,經月不報,而言官論救何鼎忤旨待罪者久,溥等皆以為言。於是悉下諸章,而罷諸言官弗問。溥時年七十,引年求退,不許。詔風雨寒暑免朝參。

十一年、皇太子が出閣すると、少師兼太子太師を加えられ、華蓋殿大学士に進んだ。目疾を理由に帰郷を乞うた。帝は眷留し、久しくしてようやく許し、恩賜は加わった。一年余りして卒去し、太師を追贈され、文靖と諡された。

原文十一年,皇太子出閤,加少師兼太子太師,進華蓋殿大學士。以目疾乞歸。帝眷留,久之乃許,恩賚有加。逾年卒,贈太師,謚文靖。

溥は性質重厚にして度量があり、内閣に十二年、従容として輔導した。人に過誤があれば、すぐにこれを掩い覆い、「天が才を生むのは甚だ難く、微瑕をもって棄てるに忍びない」と言った。しばしば大獄や言官の逮捕に遇い、委曲を尽くして調停した。孝宗は仁厚で、溥らの言うところを多く受け入れ、天下は陰にその福を受けた。溥は嘗て言った。「祖宗の法度が元元を恵む所以は備わっている。患いは守ることができないことにある」。ついに何も変更設置しなかった。性質至孝で、嘗て再び墓側に廬した。自らの生活は甚だ質素で、施し与えることを好んだ。義田八百畝を置いて宗族を贍い、官に籍記を請うて永久に垂れんとし、帝はその徭役ようえきを復免した。

原文溥性凝重有度,在內閣十二年,從容輔導。人有過誤,輒為掩覆,曰:「天生才甚難,不忍以微瑕棄也。」屢遇大獄及逮系言官,委曲調劑。孝宗仁厚,多納溥等所言,天下陰受其福。嘗曰:「祖宗法度所以惠元元者備矣,患不能守耳。」卒無所更置。性至孝,嘗再廬墓。自奉甚薄,好施予。置義田八百畝贍宗族,請籍記於官,以垂永久,帝為復其徭役。

丘濬

原文邱濬

丘濬、字は仲深、瓊山の人。幼くして孤となり、母の李氏が読書を教えると、過目成誦した。家貧しく書が無く、嘗て数百里を走って書を借り、必ず得てやんだ。郷試に第一で挙げられ、景泰五年に進士となった。庶吉士に改められ、編修に授けられた。濬は翰林に官してから、見聞ますます広く、特に国家の典故に詳しく、経世済民を以て自ら任じた。

原文邱濬,字仲深,瓊山人。幼孤,母李氏教之讀書,過目成誦。家貧無書,嘗走數百里借書,必得乃已。舉鄉試第一,景泰五年成進士。改庶吉士,授編修。濬既官翰林,見聞益廣,尤熟國家典故,以經濟自負。

成化元年、両広で用兵があり、濬は大学士李賢に奏記し、形勢を指陳して、纚纚数千言に及んだ。賢はその計策を善しとし、帝に聞かせ、総兵官趙輔・巡撫都御史韓雍に録して示すことを命じた。雍らが賊を破ったのは、その策を尽く用いたわけではないが、濬はこれによって公卿の間で名が重くなった。任期が満ちて、侍講に進んだ。『英宗実録』の編修に参与し、侍講学士に進んだ。『続通鑑綱目』が完成すると、学士に抜擢され、国子祭酒に遷った。当時、経生の文章は尚険怪であり、濬は南畿郷試を主考し、会試の分考官も務めて、ことごとく痛くこれを抑えた。この時、国学生に課するに特に諄切に告誡し、文体を正に返した。まもなく礼部右侍郎に進み、祭酒の事を掌った。

原文成化元年,兩廣用兵,濬奏記大學士李賢,指陳形勢,纚纚數千言。賢善其計,聞之帝,命錄示總兵官趙輔、巡撫都御史韓雍。雍等破賊,雖不盡用其策,而濬以此名重公卿間。秩滿,進侍講。與修《英宗實錄》,進侍講學士。《續通鑒綱目》成,擢學士,遷國子祭酒。時經生文尚險怪,濬主南畿鄉試,分考會試皆痛抑之。及是,課國學生尤諄切告誡,返文體於正。尋進禮部右侍郎,掌祭酒事。

邱濬は真徳秀の『大学衍義』が治国平天下の条目不備であるとして、広く群書を採り補った。孝宗が即位すると、その書を表上し、帝は善しとし、金幣を賜い、所司に刊行を命じた。特進して礼部尚書とし、詹事府事を掌った。『憲宗実録』を修し、副総裁を充てた。弘治四年、書成り、太子太保を加え、まもなく文淵閣大学士を兼ねて機務に参与することを命じられた。尚書が内閣に入るのは邱濬より始まり、時に年七十一であった。邱濬は『衍義補』に載せる所は皆実行可能なものとして、その要を摘出して奏聞し、内閣に下して議して行うよう請うた。帝は許可した。

原文濬以真德秀《大學衍義》於治國平天下條目未具,乃博采群書補之。孝宗嗣位,表上其書,帝稱善,賚金幣,命所司刊行。特進禮部尚書,掌詹事府事。修《憲宗實錄》,充副總裁。弘治四年,書成,加太子太保,尋命兼文淵閣大學士參預機務。尚書入內閣者自濬始,時年七十一矣。濬以《衍義補》所載皆可見之行事,請摘其要者奏聞,下內閣議行之。帝報可。

翌年、邱濬は上言した。「臣、成化の時に彗星すいせい三たび現れ、三垣を遍く掃き、地震五六百回ありしを見る。近ごろ彗星天津に現れ、地震天鳴きて日とせず、異鳥三たび禁中に鳴く。『春秋』二百四十年、彗孛を書くこと三、地震を書くこと五、飛禽を書くこと二。今や二十年の間に屡々見るは、甚だ畏るべし。願わくは陛下、上天の仁愛を体し、祖宗の艱難を念い、身を正し心を清くして本を立て務に応ぜられんことを。好尚を謹みて異端に惑わされず、財用を節して国を耗すに至らず、任用を公にして偏聴を失わず。私謁を禁じ、義理を明らかにし、儉徳を慎み、政務に勤められば、則ち風を承け寵を希い、左道乱政の徒自ら敢えてその奸を肆にせず、而して天災は止むべし。」ここに因って時弊二十二事を列挙した。帝はこれを容れた。六年、目疾のため朝参を免じた。

原文明年,濬上言:「{{blue|臣見成化時彗星三見,遍掃三垣,地五六百震。邇者彗星見天津,地震天鳴無虛日,異鳥三鳴於禁中。《春秋》二百四十年,書彗孛者三,地震者五,飛禽者二。今乃屢見於二十年之間,甚可畏也。願陛下體上天之仁愛,念祖宗之艱難,正身清心以立本而應務。謹好尚不惑於異端,節財用不至於耗國,公任使不失於偏聽。禁私謁,明義理,慎儉德,勤政務,則承風希寵、左道亂政之徒自不敢肆其奸,而天災弭矣。}}」因列時弊二十二事。帝納之。六年以目疾免朝參。

邱濬が在位した時、寛大をもって上心を啓発し、忠厚をもって士習を変えようとした。しかし性褊隘にして、嘗て劉健と議事合わず、冠を地に投げるに至った。言官の建白が意に当たらざれば、輒ち面折した。王恕と相得ず、一言も交わさざるに至った。六年、大いに群吏を計り、恕の奏罷する所二千人。邱濬は未だ三載に及ばざる者は復任せしめ、貪暴顕著なる者でなければ斥けずと請い、九十人を留めた。恕争うも得ず、去らんことを求めた。太医院判劉文泰は嘗て邱濬の家に往来し、失職を以て恕を訐う、恕は文泰が邱濬の指を受けたるを疑い、言者嘩然として、疏稿は邱濬の手に出づと言う。恕遂に坐して罷められ、人は以って大いに邱濬を直しとせず。給事中毛呈、御史宋惪、周津等交章して邱濬の相位に居るべからざるを劾す、帝問わず。一年を逾え、少保を加う。八年卒す、年七十六。太傅を贈り、文莊と諡す。

原文濬在位,嘗以寬大啟上心,忠厚變士習。顧性褊隘,嘗與劉健議事不合,至投冠於地。言官建白不當意,輒面折之。與王恕不相得,至不交一言。六年大計群吏,恕所奏罷二千人。濬請未及三載者復任,非貪暴有顯跡者勿斥,留九十人。恕爭之不得,求去。太醫院判劉文泰嘗往來濬家,以失職訐恕,恕疑文泰受濬指,而言者嘩然,言疏稿出濬手。恕竟坐罷,人以是大不直濬。給事中毛呈,御史宋惪、周津等交章劾濬不可居相位,帝不問。逾年,加少保。八年卒,年七十六。贈太傅,謚文莊。

邱濬は廉介にして、居る邸第極めて湫隘、四十年易えず。性学を嗜み、既に老い、右目失明すれども、猶披覧して輟まず。議論は矯激を好み、聞く者駭愕す。『英宗実録』を修するに至り、于謙の死を不軌と書くべしと言う者有り。邱濬曰く、「己巳の変、于公なくば社稷危うからん。事久しくして論定まる、誣は白からざるべからず。」その正を保つこと又此の如し。正徳中、巡按御史の言に以って郷に祠を賜う。曰く「景賢」。

原文濬廉介,所居邸第極湫隘,四十年不易。性嗜學,既老,右目失明,猶披覽不輟。議論好矯激,聞者駭愕。至修《英宗實錄》,有言於謙之死當以不軌書者。濬曰:「己巳之變,微於公社稷危矣。事久論定,誣不可不白。」其持正又如此。正德中,以巡按御史言賜祠於鄉。曰「景賢」。

劉健

原文劉健

劉健、字は希賢、洛陽の人。父亮、三原の教諭、学行有り。健少にして端重、同邑の閻禹錫・白良輔と遊び、河東薛瑄の伝を得る。天順四年の進士に挙げられ、庶吉士に改め、編修を授かる。交遊を謝し、戸を鍵して書を読み、人木強と目す。然れども典故に練習し、経済の志有り。

原文劉健,字希賢,洛陽人。父亮,三原教諭,有學行。健少端重,與同邑閻禹錫、白良輔遊,得河東薛瑄之傳。舉天順四年進士,改庶吉士,授編修。謝交遊,鍵戶讀書,人以木強目之。然練習典故,有經濟誌。

成化初め、『英宗実録』を修し、憂中より起す、固く辞す、許さず。書成り、修撰に進み、三遷して少詹事に至り、東宮講官を充て、孝宗に知を受く。即位するや、礼部右侍郎兼翰林学士に進み、内閣に入り機務に参与す。弘治四年尚書兼文淵閣大学士に進み、累ねて太子太保を加え、武英殿に改む。十一年春、少傅兼太子太傅に進み、徐溥に代わり首輔と為る。

原文成化初,修《英宗實錄》,起之憂中,固辭,不許。書成,進修撰,三遷至少詹事,充東宮講官,受知於孝宗。既即位,進禮部右侍郎兼翰林學士,入內閣參預機務。弘治四年進尚書兼文淵閣大學士,累加太子太保,改武英殿。十一年春,進少傅兼太子太傅,代徐溥為首輔。

健学問深粹、正色敢言、身を以て天下の重きを任ず。清寧宮災有り、太監李広罪有りて自殺す。健は同列の李東陽・謝遷と疏を上りて言う、「古の帝王、災に遇いて懼れざるは未だ有らざるなり。向來奸佞聖聴を熒惑し、賄賂公行し、賞罰当を失い、災異の積むは、正に此の由り。今幸いに元悪殄喪し、聖心開悟すれども、余慝未だ除かず、宿弊未だ革まず。伏して願わくは奮発励精し、賢を進め奸を黜き、賞罰を明示せられん。凡そ行うべき所は、断じて疑わず、更に因循して以て後悔を貽すこと毋かれ。」帝方に其の言を嘉納せんとし、而して広の党蔡昭等旋って旨を取って広に祭葬・祠額を予う。健等力諫し、僅かに祠額を寢す。南北の言官時政を指陳し、頻りに論劾する所有り、一切皆問わず。国子生江容、健・東陽が言路を杜抑すを劾す。帝健・東陽を慰留し、而して容を獄に下す、二人力救して釈るるを得たり。

原文健學問深粹,正色敢言,以身任天下之重。清寧宮災,太監李廣有罪自殺。健與同列李東陽、謝遷疏言:「古帝王未有不遇災而懼者。向來奸佞熒惑聖聽,賄賂公行,賞罰失當,災異之積,正此之由。今幸元惡殄喪,聖心開悟,而余慝未除,宿弊未革。伏願奮發勵精,進賢黜奸,明示賞罰。凡所當行,斷在不疑,毋更因循,以貽後悔。」帝方嘉納其言,而廣黨蔡昭等旋取旨予廣祭葬、祠額。健等力諫,僅寢祠額。南北言官指陳時政,頻有所論劾,一切皆不問。國子生江容劾健、東陽杜抑言路。帝慰留健、東陽,而下容於獄,二人力救得釋。

十三年四月、大同警を告げ、京師戒厳す。兵部京営諸将を甄別せんことを請う、帝健及び東陽・遷を召し平臺に至り面議して去留を決す。乃ち遂安伯陳韶等三人を去り、而して鎮遠侯顧溥を召して団営を督めしむ。時に帝朝を視ること頗る晏く、健等以って言す、頷くのみ。

原文十三年四月,大同告警,京師戒嚴。兵部請甄別京營諸將,帝召健及東陽、遷至平臺面議去留。乃去遂安伯陳韶等三人,而召鎮遠侯顧溥督團營。時帝視朝頗晏,健等以為言,頷之而已。

十四年秋、帝軍興に因り餉欠くを以て、屡々廷議を下す。健等言う、「天下の財、其の生くる有限なり。今光禄歳供数十倍を増し、諸方の織作務めて新巧を為し、斎醮日々に巨万を費やす。太倉の儲え戦士に餉うに足らず、而して内府取り入れること動もすれば四五十万。宗藩・貴戚の土田を求め塩利を奪う者も、亦数千万計り。土木日々に興り、科斉已まず。伝奉冗官の俸薪、内府工匠の餼廩、歳増月積、窮期有ること無し、財安くにか匱せざらん。今陜西・遼東辺患方に殷く、湖広・貴州軍旅継いで動く、何を以ってか之に応ずるを知らず。願わくは陛下、無益の費を絶ち、躬行節儉し、中外に倡え、而して群臣をして其の誠を畢く献ぜしめ、弊を革するの策を講求せしめられん、天下幸甚なり。」明年四月、災異を以って朝講に勤め、財用を節し、斎醮を罷め、賞罰を公にする数事を陳ぶ。冬に及び、南京・鳳陽大水、廷臣多く時務を上言す、久しく下さず。健等因って怠政の失を極陳し、聴断に勤めて以って紀綱を振うことを請う、帝皆嘉納す。『大明会典』成り、少師兼太子太師・吏部尚書・華蓋殿大学士を加う。東陽・遷と同しく蟒衣を賜う。閣臣蟒を賜わるは健等より始まる。

原文十四年秋,帝以軍興缺餉,屢下廷議。健等言:「天下之財,其生有限。今光祿歲供增數十倍,諸方織作務為新巧,齋醮日費鉅萬。太倉所儲不足餉戰士,而內府取入動四五十萬。宗藩、貴戚之求土田奪鹽利者,亦數千萬計。土木日興,科斂不已。傳奉冗官之俸薪,內府工匠之餼廩,歲增月積,無有窮期,財安得不匱?今陜西、遼東邊患方殷,湖廣、貴州軍旅繼動,不知何以應之。望陛下絕無益之費,躬行節儉,為中外倡,而令群臣得畢獻其誠,講求革弊之策,天下幸甚。」明年四月,以災異陳勤朝講、節財用、罷齋醮、公賞罰數事。及冬,南京、鳳陽大水,廷臣多上言時務,久之不下。健等因極陳怠政之失,請勤聽斷以振紀綱,帝皆嘉納。《大明會典》成,加少師兼太子太師、吏部尚書、華蓋殿大學士。與東陽、遷同賜蟒衣。閣臣賜蟒自健等始。

帝孝事両宮太后甚だ謹み、而して両宮皆仏・老を好む。先ず、清寧宮成り、灌頂国師に命じて壇を設け慶賛せしめ、又中官を遣わして真武の像を賫し、武当山に醮を建て、使いをして泰山に詣り神袍を進めしめ、或いは白昼灯を市上に散ず。帝重ねて太后の意に違うを憚り、曲く之に従う、而して健等諫すること甚だ力めり。十五年六月詔して『釈迦啞塔像賛』を擬せしめ、十七年二月詔して延寿塔を朝陽門外に建て、道士杜永祺等五人を真人と為すを除く、皆健等の力諫に以って寢すを得たり。

原文帝孝事兩宮太后甚謹,而兩宮皆好佛、老。先是,清寧宮成,命灌頂國師設壇慶贊,又遣中官賫真武像,建醮武當山,使使詣泰山進神袍,或白晝散燈市上。帝重違太后意,曲從之,而健等諫甚力。十五年六月詔擬《釋迦啞塔像贊》,十七年二月詔建延壽塔朝陽門外,除道士杜永祺等五人為真人,皆以健等力諫得寢。

是の年夏、小王子謀りて大同を犯さんとす、帝閣臣を召見す。健京営の大帥を簡ぶることを請い、因りて京軍怯にして戦に任ぜずと言い、請う自今より其の役作を罷めて以って鋭気を養わんことを。帝然りとす。退きて復た条上に防辺の事宜を上る、悉く報じて允す。未だ幾ばくもせず、辺警狎いて至る、帝中官苗逵の言に惑い、鋭く出師せんと欲す。健と東陽・遷委曲して之を阻む、帝の意猶未だ回らず。兵部尚書劉大夏も亦京軍動くべからずと言う、乃ち止む。

原文是年夏,小王子謀犯大同,帝召見閣臣。健請簡京營大帥,因言京軍怯不任戰,請自今罷其役作以養銳氣。帝然之。退復條上防邊事宜,悉報允。未幾,邊警狎至,帝惑中官苗逵言,銳欲出師。健與東陽、遷委曲阻之,帝意猶未回。兵部尚書劉大夏亦言京軍不可動,乃止。

帝は十三年に健らを召し出して対面して以来、閣臣はめったに進見することができなかった。この時には在位も久しく、ますます政事に明るく習熟し、たびたび大臣を召し出しては、次第に煩瑣苛酷な制度を改め、積年の弊害を除こうとした。かつて理財について論じた際、東陽は塩政の弊害が甚だしいことを極言し、それは陳乞する者が多く、それによって私販が数倍になるためであると述べた。健が進み出て言うには、「太祖の時代に茶法が始めて施行された時、駙馬の歐陽倫が私販の罪で死に処せられ、高皇后でさえ救うことができなかった。この倫のような事があれば、誰が陛下に言おうとするでしょうか」。帝は言った、「言えないのではなく、言おうとしないのだ」。そこで詔を下して戸部に利害を審査させ、詳細に議論して奏聞するよう命じた。

原文帝自十三年召對健等後,閣臣希得進見。及是在位久,益明習政事,數召見大臣,欲以次革煩苛,除宿弊。嘗論及理財,東陽極言鹽政弊壞,由陳乞者眾,因而私販數倍。健進曰:「太祖時茶法始行,駙馬歐陽倫以私販坐死,高皇后不能救。如倫事,孰敢為陛下言者?」帝曰:「非不敢言,不肯言耳。」遂詔戶部核利弊,具議以聞。

この時、健ら三人は心を合わせて政務を補佐し、誠意を尽くし思慮を巡らせ、知っていることは何でも言った。初めは採用されたりされなかったりしたが、次第にますます信頼されるようになり、奏請したことはすべて聞き入れられ、「先生」と呼び名で呼ばなかった。進見するたびに、帝は左右の者を退かせた。左右の者が時々屏風の間から盗み聞きすると、ただ帝がしきりに「善し」と称えるのが聞こえるだけであった。文武の大臣の進退や、屯田・塩・馬などの諸政務を整備するにあたり、健の補佐が多かった。

原文當是時,健等三人同心輔政,竭情盡慮,知無不言。初或有從有不從,既乃益見信,所奏請無不納,呼為「先生」而不名。每進見,帝輒屏左右。左右間從屏間竊聽,但聞帝數數稱善。諸進退文武大臣,厘飭屯田、鹽、馬諸政,健翊贊為多。

間もなく、帝の病状が非常に重くなり、健らを乾清宮に召し入れた。帝は病をおして起き上がり、即位以来の経緯を非常に詳しく自ら述べ、近侍に書き取らせた。すでに、健の手を取って言った、「先生方は補導に大変苦労された。東宮は聡明であるが、まだ年が幼く、安逸と享楽を好む。先生方は常に読書を勧め、賢い君主となるよう補佐せよ」。健らは涙を流し、頓首して命を受け退出した。翌日、帝は崩御した。

原文未幾,帝疾大漸,召健等入乾清宮。帝力疾起坐,自敘即位始末甚詳,令近侍書之。已,執健手曰:「先生輩輔導良苦。東宮聰明,但年尚幼,好逸樂。先生輩常勸之讀書,輔為賢主。」健等欷歔,頓首受命而出。翌日帝崩。

武宗が位を継ぐと、健らは諸々の弊政を整理し、孝宗が興そうとしたり廃止しようとしたりしたことはすべて、遺詔に基づいて実行した。劉瑾は、東宮に仕えていた旧来の宦官で、馬永成、谷大用、魏彬、張永、邱聚、高鳳、羅祥ら八人とともに権勢を振るい、当時「八党」と呼ばれた。彼らは日々帝を導いて遊戯にふけらせ、詔書の条項はほとんど阻まれて施行されなかった。京師では淫雨が六月から八月まで続いた。健らは上奏して言った、「陛下が即位の詔を出され、内外で歓呼し、太平を望みました。今や二か月が経ちましたが、冗員をどれだけ淘汰したか、冗費をどれだけ削減したか聞きません。詔書に記載されたことは、ただ空文に過ぎません。これが陰陽が調和を失い、雨や日照りが順調でない原因です。監局・倉庫・城門および四方の守備の内臣が数倍に増え、朝廷が軍匠を養う費用は巨万に上り、ただ彼らの役使に供するだけで足りるのです。どうして淘汰しないでいられましょうか。文武の臣で職務を怠り事を誤り、禄を空費している者は、どうして罷免しないでいられましょうか。画史・工匠で官職を濫授された者が数百人に上ります。どうして罷免しないでいられましょうか。内承運庫では累年の銀の支出が数百万に上り、当初から文簿がなく、司鑰庫には数百万の銭が貯蔵されていますが、有無さえ分かりません。どうして調査しないでいられましょうか。さらに、内苑の珍禽奇獣を放し、先朝の宮人を遣わすことなどは、すべて新政が先に行うべきことですが、陛下はすべて牽制されて行われず、どうして四海の望みを慰めることができましょうか」。帝は穏やかな詔で答えたが、左右の宦官は日々ほしいままになり、増員も日増しに多くなった。郊廟の祭祀に臨む時、帯刀し甲冑を着けて駕の後ろを護衛した。内府の諸監局の僉書は多いところで百数十人に上り、光祿寺の日々の供給は急に数倍に増えた。健らはその弊害を極力陳述し、政務に励み講学を行うよう請うたが、ただ「聞いた」と返答されるだけであった。

原文武宗嗣位,健等厘諸弊政,凡孝宗所欲興罷者,悉以遺詔行之。劉瑾者,東宮舊豎也,與馬永成、谷大用、魏彬、張永、邱聚、高鳳、羅祥等八人俱用事,時謂之「八黨」。日導帝遊戲,詔條率沮格不舉。京師淫雨自六月至八月。健等乃上言:「陛下登極詔出,中外歡呼,想望太平。今兩月矣,未聞汰冗員幾何,省冗費幾何。詔書所載,徒為空文。此陰陽所以失調,雨旸所以不若也。如監局、倉庫、城門及四方守備內臣增置數倍,朝廷養軍匠費鉅萬計,僅足供其役使,寧可不汰?文武臣曠職僨事、虛糜廩祿者,寧可不黜?畫史、工匠濫授官職者多至數百人,寧可不罷?內承運庫累歲支銀數百餘萬,初無文簿,司鑰庫貯錢數百萬,未知有無,寧可不勾校?至如縱內苑珍禽奇獸,放遣先朝宮人,皆新政所當先,而陛下悉牽制不行,何以尉四海之望?」帝雖溫詔答之,而左右宦豎日恣,增益且日眾。享祀郊廟,帶刀被甲擁駕後。內府諸監局僉書多者至百數十人,光祿日供驟益數倍。健等極陳其弊,請勤政、講學,報聞而已。

正德元年二月、帝は尚書韓文の言に従い、畿甸の皇莊は有司に徴税させ、しかし各莊には依然として宦官一人、校尉十人を留め置くことにした。健らは「皇莊はすでに両宮に進上するものであるから、当然すべて有司に委ねるべきであり、依然として私人を主管とするのは不当で、かえって朝廷の尊親の意を失う」と述べ、内臣が莊を管理して民を擾乱することを詳しく言上した。聞き入れられなかった。

原文正德元年二月,帝從尚書韓文言,畿甸皇莊令有司征課,而每莊仍留宦官一人、校尉十人。健等言「皇莊既以進奉兩宮,自宜悉委有司,不當仍主以私人,反失朝廷尊親之意」,因備言內臣管莊擾民。不省。

吏・戸・兵の三部および都察院がそれぞれ上疏し、職掌が近習によって阻害されていることを争った。健らが旨を起草すると、上は従わず、再起草を命じた。健らは力諫して言った、「奸商の譚景清が塩政を沮害したこと、北征の将士が功なくして官を授けられたこと、武臣の神英が罪を負いながら法を弄んだこと、御用監の書篆が濫りに考較を収めたこと、これらはすべて一二人の私恩によって、百年の定制を壊したものです。況んや今政令は維新しようとしているのに、地震や天鳴りがあり、白虹が日を貫き、恒星が昼に現れ、太陽に光がありません。内賊は縦横に跋扈し、外寇は猖獗を極めています。財は乏しく民は窮し、怨みと誹謗が交々起こっています。しかし内外の臣僕はまさに機に乗じて奸をなし、忠直を排斥すること仇讎の如く、奸回を保つこと骨肉の如くです。日を重ねるごとに、以前よりますます甚だしく、禍変の到来は恐らく遠くないでしょう。臣らは先帝に知遇を受け、腹心の任を辱うけました。近ごろは旨が中から下され、ほとんど知らされません。起草した議案も、結局改変されます。このような類いは、挙げ尽くすことができません。もしまた身家を顧み惜しんで、共に阿順するならば、上を欺き国を誤り、死んでも余罪があります。起草した四つの上疏は、敢えて変更せず、謹んで元の草案を封じて進呈します」。返答がなかった。

原文吏、戶、兵三部及都察院各有疏爭職掌為近習所撓。健等擬旨,上不從,令再擬。健等力諫,謂:「奸商譚景清之沮壞鹽政,北征將士之無功授官,武臣神英之負罪玩法,御用監書篆之濫收考較,皆以一二人私恩,壞百年定制。況今政令維新,而地震天鳴,白虹貫日,恒星晝見,太陽無光。內賊縱橫,外寇猖獗。財匱民窮,怨謗交作。而中外臣仆方且乘機作奸,排忠直猶仇讎,保奸回如骨肉。日復一日,愈甚於前,禍變之來恐當不遠。臣等受知先帝,叨任腹心。邇者旨從中下,略不與聞。有所擬議,竟從改易。似此之類,不可悉舉。若復顧惜身家,共為阿順,則罔上誤國,死有餘辜。所擬四疏,不敢更易,謹以原擬封進。」不報。

数日後、また言上した、「臣らは先帝に遇い、臨終の顧命を受け、倦倦として陛下を託され、痛心刻骨、死を誓って報いようとしました。即位の詔書は、天下が首を長くして待ち望みましたが、朝に令を出して夕に改め、終に寧日がありません。百官や諸府は、模倣して風となり、ただ廃格して施行しないだけでなく、かつまたほとんど変え尽くされています。建言する者は多言と見なされ、事を幹す者は生事と見なされ、累章を執り上奏するのは瀆擾と言われ、弊政を剔厘するのは紛更と言われます。民生や国計に関する憂いは、まるで聞き知らないかのようであり、近幸や貴戚に関わる事柄は、牢として破ることができません。臣らは心では不可と知りながら、義として言い尽くすべきです。先ごろ塩法や賞功などの諸事について、利害を極力陳述し、数日間拱手して待ちましたが、批答を蒙りませんでした。もし臣らの言が正しいならば、施行を賜うべきであり、言うことが誤りならば、即時に斥責すべきです。ところが留中して返答せず、無いかのように見なされます。政令が多門から出て、咎は臣らに帰せられます。宋の儒者朱子が言うには、『一日その位に立つならば、一日その官に業む。一日その官を得ざれば、敢えて一日その位に立たず』と。もし顧命の名を冒しながら輔導の実を尽くさなければ、先帝に負うとともに、また陛下に負い、天下後世は臣らをどう言うでしょうか。伏して聖明のご憐察を乞い、特に退休を賜わります」。帝は優れた詔で慰留したが、上疏は依然として下されなかった。

原文居數日,又言:「臣等遭逢先帝,臨終顧命,惓惓以陛下為托,痛心刻骨,誓以死報。即位詔書,天下延頸,而朝令夕改,迄無寧日。百官庶府,仿效成風,非惟廢格不行,抑且變易殆盡。建言者以為多言,幹事者以為生事,累章執奏謂之瀆擾,厘剔弊政謂之紛更。憂在於民生國計,則若罔聞知,事涉於近幸貴戚,則牢不可破。臣等心知不可,義當盡言。比為鹽法、賞功諸事,極陳利害,拱俟數日,未蒙批答。若以臣等言是,宜賜施行,所言如非,即當斥責。乃留中不報,視之若無。政出多門,咎歸臣等。宋儒朱子有言『一日立乎其位,則一日業乎其官;一日不得乎其官,則不敢一日立乎其位。』若冒顧命之名而不盡輔導之實,既負先帝,又負陛下,天下後世其謂臣何?伏乞聖明矜察,特賜退休。」帝優旨慰留之,疏仍不下。

五日後、健らはまた上疏し、政令の十の過失を列挙し、貴戚・近幸を指弾すること特に痛切であった。そこで前の請願を再度申し立てた。帝はやむなく、初めて前の上疏を下し、所司に詳細に議論させた。健は志が結局通らないと知り、まず上章して骸骨を乞い、李東陽、謝遷が続いた。帝はすべて許さなかった。やがて所司の議が上ると、すべて健らの指摘どおりであった。帝はやむなくこれに従い、これによって諸々の利益を失った者はみな歯ぎしりした。

原文越五日,健等復上疏,歷數政令十失,指斥貴戚、近幸尤切。因再申前請。帝不得已,始下前疏,命所司詳議。健知誌終不行,首上章乞骸骨,李東陽、謝遷繼之,帝皆不許。既而所司議上,一如健等指。帝勉從之,由是諸失利者咸切齒。

六月庚午、また上言した、「近ごろ以来、免朝が非常に多く、奏事は次第に遅くなり、遊戯は次第に広がり、経筵の日講はただ命じて停止されました。臣ら愚昧にして、陛下の宮中にまたこれより急ぐことが何があるのか知りません。濫賞や妄費は倹徳を崇める道ではなく、弾射や釣猟は仁心を養う道ではなく、鷹犬や狐兎は田野の物で朝廷で飼育すべきではなく、弓矢や甲冑は戦闘の象で宮禁で用いるべきではありません。今聖学は久しく廃れ、正人に親しまず、直言を聞かず、下情が通じません。しかるにこの数者が交々と前に現れます。臣は憂懼に堪えません」。帝は言った、「朕は帝王も過ちがないわけではないと聞く。貴ぶのは過ちを改めることだ。卿らの言うことは正しい。朕は行うべきである」。健らは廷臣が陳述した時政の切要なものを書き留め、座右に置いて朝夕省み覧になるよう請うた。曰く、単騎で馳駆し軽々しく宮禁を出ないこと。曰く、しばしば監局に幸し、海子に舟を浮かべないこと。曰く、鷹犬や弾射に事を構えないこと。曰く、内侍の進献する飲膳を受け入れないこと。上疏が入ると、「聞いた」と返答された。

原文六月庚午復上言:「近日以來,免朝大多,奏事漸晚,遊戲漸廣,經筵日講直命停止。臣等愚昧,不知陛下宮中復有何事急於此者。夫濫賞妄費非所以崇儉德,彈射釣獵非所以養仁心,鷹犬狐兔田野之物不可育於朝廷,弓矢甲胄戰鬥之象不可施於宮禁。今聖學久曠,正人不親,直言不聞,下情不達,而此數者雜交於前,臣不勝憂懼。」帝曰:「朕聞帝王不能無過,貴改過。卿等言是,朕當行之。」健等乃錄廷臣所陳時政切要者,請置坐隅朝夕省覽:曰無單騎馳驅,輕出宮禁;曰無頻幸監局,泛舟海子;曰無事鷹犬彈射;曰無納內侍進獻飲膳。疏入,報聞。

先に、孝宗の山陵が終わると、劉健らは早速経筵の開講を請うた。帝は初めは無理に応じたが、後にしばしば両宮への朝謁を理由に講義を停め、あるいは日を選んで乗馬すると言った。劉健らの諫言は甚だ切実であった。八月、帝が大婚を終えると、劉健らはまた講義の開講を請うた。九月を待てと命じたが、期日になるとまた午講を停めよと命じた。劉健らは先帝の故事として、一日に二度進講することを挙げ、力を尽くして争ったが、聞き入れられなかった。

原文先是,孝宗山陵畢,健等即請開經筵。常初勉應之,後數以朝謁兩宮停講,或云擇日乘馬。健等陳諫甚切至。八月,帝既大婚,健等又請開講。命俟九月,至期又命停午講。健等以先帝故事,日再進講,力爭不得。

当時、劉健らが懇切に上疏して諫めることは幾度もあったが、帝は群小に親しみ近づき、終いに改めることができなかった。やがて中官の崔杲らを派遣して織造を監督させ、塩一万二千引を賜るよう求めた。所管の役所が執奏し、給事中の陶諧・徐昂、御史の杜旻・邵清・楊儀らが先後して諫め、劉健らもまた不可であると言った。帝は劉健らを暖閣に召して面議し、かなり詰問したが、劉健らは皆正論をもって答えた。帝は難詰できず、最後に厳しい顔色で言った、「天下の事は皆内官が悪くしたのか。朝臣が事を悪くする者は十に六、七は常である。先生方も自ら知っているだろう。」そこで塩引は全て崔杲の請う通りにせよと命じた。劉健らが退出し、再び上章して不可であると言った。帝は自ら失言を恥じ、ついに劉健らの奏請を許可した。ここにおいて中外ともに喜び、帝が過ちを改めようとしていると思った。

原文當是時,健等懇切疏諫者屢矣,而帝以狎近群小,終不能改。既而遣中官崔杲等督織造,乞鹽萬二千引。所司執奏,給事中陶諧、徐昂,御史杜旻、邵清、楊儀等先後諫,健等亦言不可。帝召健等至暖閣面議,頗有所詰問,健等皆以正對。帝不能難,最後正色曰:「天下事豈皆內官所壞?朝臣壞事者十常六七,先生輩亦自知之。」因命鹽引悉如杲請。健等退,再上章言不可。帝自愧失言,乃俞健等所奏。於是中外咸悅,以帝庶幾改過。

劉健らはそこで「八党」を除こうと謀り、連章して彼らを誅するよう請うた。言官もまた群閹の罪状を交々論じ、劉健及び謝遷・李東陽はその上奏文を強く支持した。帝は司礼監を閣に遣わして言わせた、「朕は改めようとしている。朕のために彼らを曲げて赦してくれ。」劉健らは言った、「これらは皆祖宗に罪を得た者で、陛下が赦すべきものではありません。」また上言して言った、「人君が小人について、知らずに誤って用いるのは、天下はまだその知って去ることを望む。知っていて去らなければ、小人はますますほしいままになり、君子はますます危うくなり、乱亡に至らなければ止まない。かつ邪と正は並び立たず、今挙朝してこの数人を決して除こうとしているのに、陛下はまたその罪を知りながら故意に左右に留め置くのは、ただ朝臣が疑懼するだけでなく、この数人もまた自ら安んじられない。上下互いに猜疑し、中外協和せず、禍乱の兆しはここから始まるのである。」聞き入れられなかった。劉健らは去就をかけて争った。劉瑾ら八人は甚だ困窮し、向かい合って泣いた。そして尚書の韓文らの上疏がまた入ると、ここにおいて帝は司礼監の王嶽らを閣に遣わして議させ、一日に三度来て、劉瑾らを南京に安置しようとした。謝遷はついに誅しようとしたが、劉健は机を押して泣きながら言った、「先帝が臨終に、老臣の手を執り、大事を託された。今陵の土も未だ乾かぬうちに、あの連中をここまでに敗れさせてしまった。臣は死して何の面目あって先帝に会えようか。」声色ともに激しかった。王嶽は元来剛直で邪を憎み、慨然として言った、「閣議の通りである。」その同僚の範亨・徐智らもまた然りとした。この夜、八人はますます焦り、帝の前で輪になって泣いた。帝は怒り、直ちに王嶽らを捕らえて詔獄に下し、劉健らは知らず、ちょうど王嶽の内応を当てにしていた。翌日、韓文が九卿を率いて闕下に伏して固く争うと、劉健は逆に言った、「事は成ろうとしている。諸公はただ堅持せよ。」しばらくして、事態は大きく変わり、八人は皆赦されて問わず、劉瑾が司礼監を掌った。劉健・謝遷はついに致仕を乞い、勅を賜り駅伝を与えられて帰り、月廩・歳夫は故事の通りであった。

原文健等遂謀去「八黨」,連章請誅之。言官亦交論群閹罪狀,健及遷、東陽持其章甚力。帝遣司禮詣閣曰:「朕且改矣,其為朕曲赦若曹。」健等言:「此皆得罪祖宗,非陛下所得赦。」復上言曰:「人君之於小人,不知而誤用,天下尚望其知而去之。知而不去則小人愈肆。君子愈危,不至於亂亡不已。且邪正不並立,今舉朝欲決去此數人,陛下又知其罪而故留之左右,非特朝臣疑懼,此數人亦不自安。上下相猜,中外不協,禍亂之機始此矣。」不聽。健等以去就爭。瑾等八人窘甚,相對涕泣。而尚書韓文等疏復入,於是帝命司禮王嶽等詣閣議,一日三至,欲安置瑾等南京。遷欲遂誅之,健推案哭曰:「先帝臨崩,執老臣手,付以大事。今陵土未乾,使若輩敗壞至此,臣死何面目見先帝!」聲色俱厲。嶽素剛正疾邪,慨然曰:「閣議是。」其儕範亨、徐智等亦以為然。是夜,八人益急,環泣帝前。帝怒,立收嶽等下詔獄,而健等不知,方倚嶽內應。明日,韓文倡九卿伏闕固爭,健逆謂曰:「事且濟,公等第堅持。」頃之,事大變,八人皆宥不問,而瑾掌司禮。健、遷遂乞致仕,賜敕給驛歸,月廩、歲夫如故事。

劉健が去ると、劉瑾の恨みは止まなかった。翌年三月辛未の詔で五十三人を奸党として列挙し、朝堂に掲示して、劉健を筆頭とした。さらに二年後、官籍を削られて民とされ、誥命を追奪された。劉瑾が誅されると、官に復し、致仕した。後に帝がしばしば巡遊するのを聞くたびに、嘆息して食を進まず、「われ先帝に負う」と言った。世宗が即位すると、行人に命じて勅を齎らせて慰問し、司馬光・文彦博に比し、賜賚を加えた。九十歳に達すると、詔で巡撫の臣に命じてその邸に赴かせて束帛・餼羊・上尊を贈り、その孫の成学を中書舎人に任じた。嘉靖五年に卒し、九十四歳であった。遺表数千言は、帝に身を正し学を勤め、賢に親しみ佞を遠ざけるよう勧めた。帝は震悼し、賜恤甚だ厚く、太師を贈り、文靖と諡した。

原文健去,瑾憾不已。明年三月辛未詔列五十三人為奸黨,榜示朝堂,以健為首。又二年削籍為民,追奪誥命。瑾誅,復官,致仕。後聞帝數巡遊,輒嘆息不食曰:「吾負先帝。」世宗立,命行人賫敕存問,以司馬光、文彥博為比,賜賚有加。及年躋九十,詔撫臣就第致束帛、餼羊、上尊,官其孫成學中書舍人。嘉靖五年卒,年九十四。遺表數千言,勸帝正身勤學,親賢遠佞。帝震悼,賜恤甚厚,贈太師,謚文靖。

劉健は器量が厳正で、自らを正し下を率いた。朝を退くと、僚友が私的に謁見しても一言も交わさなかった。許進ら七人が焦芳を吏部に推挙しようとした時、劉健は言った、「老夫は間もなく帰田する。この座はすぐに焦芳のものとなるだろうが、恐らく諸公は皆その害を受けることになろう。」後に七人は果たして焦芳に排斥された。

原文健器局嚴整,正己率下。朝退,僚寀私謁,不交一言。許進輩七人欲推焦芳入吏部,健曰:「老夫不久歸田,此座即焦有,恐諸公俱受其害耳。」後七人果為芳所擠。

李東陽は詩文で後進を引き立て、海内の士は皆手を打って文学を談じたが、劉健はまるで聞こえないかのようで、ただ人に経を治め理を窮めることを教えた。その事業は光明で俊偉であり、明代の輔臣で比肩する者は稀であった。孫の望之は進士である。

原文東陽以詩文引後進,海內士皆抵掌談文學,健若不聞,獨教人治經窮理。其事業光明俊偉,明世輔臣鮮有比者。孫望之,進士。

謝遷、謝迪

原文謝遷、謝迪

謝遷、字は於喬、餘姚の人。成化十年、郷試で第一。翌年進士に挙げられ、また第一。修撰に授けられ、累進して左庶子となった。

原文謝遷,字於喬,餘姚人。成化十年鄉試第一。明年舉進士,復第一。授修撰,累遷左庶子。

弘治元年春、中官の郭鏞が予め妃嬪を選んで六宮に備えるよう請うた。謝遷は上言した、「山陵未だ畢わらず、礼は待つべきである。祥禫の期も、歳も遠くない。陛下は春秋に富んでおられる。諒陰が終わるのを待って、徐々に議するのは未だ遅くない。」尚書の周洪謨らが謝遷の議の通りとし、従った。帝が東宮におられた時、謝遷はすでに講官であり、この時、日講に参与し、誠を積んで帝の心を開くことに務めた。前夜には必ず衣冠を正して習誦し、進講に及ぶと、言葉を詳しく切実に述べ、帝はしばしば善しと称した。少詹事兼侍講学士に進んだ。

原文弘治元年春,中官郭鏞請豫選妃嬪備六宮。遷上言:「山陵未畢,禮當有待。祥禫之期,歲亦不遠。陛下富於春秋,請俟諒陰既終,徐議未晚。」尚書周洪謨等如遷議,從之。帝居東宮時,遷已為講官,及是,與日講,務積誠開帝意。前夕必正衣冠習誦,及進講,敷詞詳切,帝數稱善。進少詹事兼侍講學士。

八年、詔で李東陽とともに内閣に入り機務に参与する。謝遷は当時喪に服しており、力辞し、喪が明けて初めて命を受けた。詹事に進み、兼官は元の通り、皇太子が出閣すると、太子少保・兵部尚書兼東閣大学士を加えられた。上疏して太子に賢に親しみ佞を遠ざけ、学問に勤め、安逸を戒めるよう勧め、帝はこれを嘉した。尚書の馬文升が大同の辺警により、糧餉が不足するので、南方の両税の折銀を加えるよう請うた。謝遷は言った、「先朝は南方の賦が重いので、折銀してこれを緩和した。もしまた加えることを議すれば、民は命に堪えられない恐れがある。かつ国を富ますのは節用にあり、用度に節制がなければ、賦を加えても何の益があろうか。」尚書の倪嶽もまた争ったので、議は遂に止んだ。

原文八年詔同李東陽入內閣參預機務。遷時居憂,力辭,服除始拜命。進詹事兼官如故,皇太子出閣,加太子少保、兵部尚書兼東閣大學士。上疏勸太子親賢遠佞,勤學問,戒逸豫,帝嘉之。尚書馬文升以大同邊警,餉饋不足,請加南方兩稅折銀。遷曰:「先朝以南方賦重,故折銀以寬之。若復議加,恐民不堪命。且足國在節用,用度無節,雖加賦奚益。」尚書倪嶽亦爭之,議遂寢。

孝宗は晩年に慨然として弊政を正そうとした。しかし内府の諸庫及び倉場・馬坊の中官が奸を行い法を曲げ、詰めようがなかった。御馬監・騰驤四衛の勇士は自ら禁軍として兵部に属さないとし、空名で糧餉を支給するのが常で、その弊害は特に甚だしかった。謝遷は機会を捉えてこれを言上し、帝は旨を擬して禁約するよう命じた。謝遷は言った、「虚言で禁を設けても益がない。曹司に命じて弊端を探り出させ、明白に奏聞させるべきである。それから厳しく条約を立て、犯す者は必ず誅し、積もった蠹害を除くことができよう。」帝はこれを許可した。

原文孝宗晚年慨然欲厘弊政。而內府諸庫及倉場、馬坊中官作奸骫法,不可究詰。御馬監、騰驤四衛勇士自以禁軍不隸兵部,率空名支餉,其弊尤甚。遷乘間言之,帝令擬旨禁約。遷曰:「虛言設禁無益,宜令曹司搜剔弊端,明白奏聞。然後嚴立條約,有犯必誅,庶積蠹可去。」帝俞允之。

謝遷は風采が優れて立派で、節操を守り直亮であった。劉健・李東陽とともに政を輔けたが、謝遷は事を見るのに明敏で、議論をよく持した。当時の人はこれについて語って言った、「李公は謀、劉公は断、謝公は特に侃侃たり。」天下は賢相と称した。

原文遷儀觀俊偉,秉節直亮。與劉健、李東陽同輔政,而遷見事明敏,善持論。時人為之語曰:「李公謀,劉公斷,謝公尤侃侃。」天下稱賢相。

武宗が嗣位すると、しばしば少傅兼太子太傅を加えられた。幾度も諫めたが、帝は聞き入れなかった。天変に因んで去ることを甚だ力強く求めると、帝はいつも慰留した。劉瑾を誅するよう請うて果たせず、遂に劉健とともに致仕して帰り、礼数は全て劉健と同じであった。しかし劉瑾の謝遷への怨みは止まなかった。焦芳が劉瑾に附いて内閣に入ると、謝遷がかつて王鏊・吳寬を挙げて自らの代わりとし、自分を及ばなかったことを恨み、中旨を取ってその弟の兵部主事の謝迪を罷めるよう勅し、その子の編修の謝丕を民に斥けた。

原文武宗嗣位,屢加少傅兼太子太傅。數諫,帝弗聽。因天變求去甚力,帝輒慰留。及請誅劉瑾不克,遂與健同致仕歸,禮數俱如健。而瑾怨遷未已。焦芳既附瑾入內閣,亦憾遷嘗舉王鏊、吳寬自代,不及己,乃取中旨勒罷其弟兵部主事迪,斥其子編修丕為民。

四年(1509年)二月、浙江が詔に応じて推挙した懐才抱徳の士、余姚の周礼・徐子元・許龍、上虞の徐文彪は、いずれも謝遷の同郷であり、かつ詔書の草稿は劉健によるものであったため、劉瑾はこれをもって二人の罪としようとした。詔旨を偽って「余姚の隠士は何故に多いのか、これは必ずや私情に循って引き立てたものである」とし、周礼らを詔獄に下し、その供述が劉健・謝遷に連座した。劉瑾は劉健・謝遷を逮捕し、その家を没収しようとしたが、李東陽が力を尽くして取りなした。焦芳が傍らで声を厲らして言うには、「たとえ軽く許すとしても、なお除名すべきである」。詔旨が下り、焦芳の言う通りとなり、周礼らは皆辺境に戍らされた。尚書劉宇はさらに両司以上の官が訪れて推挙した事実に誤りがあったと弾劾し、罰米の罪に坐らせ、官籍を削られる者もあった。かつ詔して、今後余姚の人は京官に選ばれぬようにし、これを令として定めた。その年の十二月、言官が劉瑾の意を迎え、劉健・謝遷および尚書馬文升・劉大夏・韓文・許進らの誥命を奪うよう請うた。詔して併せて賜った玉帯・服飾などを追還させた。同時に誥命を奪われた者は六百七十五人であった。この時、人々は皆謝遷の危険を心配したが、謝遷は客と囲碁を打ち、詩を賦して平然としていた。劉瑾が誅せられると、職に復し、致仕した。

原文四年二月,以浙江應詔所舉懷才抱德士餘姚周禮、徐子元、許龍,上虞徐文彪,皆遷同鄉,而草詔由健,欲因此為二人罪。矯旨謂「餘姚隱士何多,此必徇私援引」,下禮等詔獄,詞連健、遷。瑾欲逮健、遷,籍其家,東陽力解。芳從旁厲聲曰:「縱輕貸,亦當除名!」旨下,如芳言,禮等咸戍邊。尚書劉宇復劾兩司以上訪舉失實,坐罰米,有削籍者。且詔自今餘姚人毋選京官,著為令。其年十二月,言官希瑾指,請奪健、遷及尚書馬文升、劉大夏、韓文、許進等誥命,詔並追還所賜玉帶服物。同時奪誥命者六百七十五人。當是時,人皆為遷危,而遷與客圍棋、賦詩自若。瑾誅,復職,致仕。

世宗が即位すると、使者を遣わして慰問し、謝迪を参議に起用し、謝丕を翰林に復官させた。謝遷は子の謝正を遣わして謝意を表した。帝に学問に勤しみ、祖法に倣い、諫言を容れるよう勧め、帝は優れた詔旨で答えた。嘉靖二年(1523年)、再び有司に命じて慰問させた。六年、大学士費宏が謝遷を自らの後任として推挙し、楊一清も張璁を阻もうとして、力を込めて謝遷を推挙した。帝は行人に手敕を持たせてその家に赴かせて起用し、巡撫・按察官に命じて上道を促させた。謝遷は七十九歳であったが、已むなく命を受け、京に至った時には、既に張璁が内閣に入っており、楊一清は官位が謝遷より尊いため、彼に譲る意思がなかった。謝遷は数ヶ月職に留まった後、強く去ることを求めた。帝は謝遷をますます厚く遇し、寒さを理由に朝参を免じ、除夕には御製の詩を賜った。また病気を告げると、医者を遣わして薬を賜り、光禄寺から酒食を届けさせ、使者が道に相望んだ。謝遷は結局翌年三月に辞して帰郷した。十年に家で卒し、八十三歳であった。太傅を追贈され、文正と諡された。

原文世宗即位,遣使存問,起迪參議,丕復官翰林。遷乃遣子正入謝。勸帝勤學、法祖、納諫,優旨答之。嘉靖二年復詔有司存問。六年,大學士費宏舉遷自代,楊一清欲阻張璁,亦力舉遷。帝乃遣行人賫手敕即家起之,命撫、按官敦促上道。遷年七十九矣,不得已拜命,比至,而璁已入閣,一清以官尊於遷無相下意。遷居位數月,力求去。帝待遷愈厚,以天寒免朝參,除夕賜御製詩。及以病告,則遣醫賜藥餌,光祿致酒餼,使者相望於道。遷竟以次年三月辭歸。十年卒於家,年八十有三。贈太傅,謚文正。

謝迪は広東布政使に至った。謝丕は郷試で第一となり、弘治末年に進士及第した。官吏部左侍郎を歴任し、礼部尚書を追贈された。

原文迪仕至廣東布政使。丕鄉試第一,弘治末進士及第。歷官吏部左侍郎,贈禮部尚書。

李東陽

原文李東陽

李東陽、字は賓之、茶陵の人であるが、戍籍により京師に居住した。四歳で径尺の書を能くし、景帝が召して試みると、大いに喜び、膝の上に抱き置き、果物と鈔を賜った。後に二度召されて『尚書』の大義を講じ、帝意に適い、京学に入ることを命じられた。天順八年(1464年)、十八歳で進士に及第し、庶吉士に選ばれ、編修を授かった。累進して侍講学士に至り、東宮講官を充たした。

原文李東陽,字賓之,茶陵人,以戍籍居京師。四歲能作徑尺書,景帝召試之,甚喜,抱置膝上,賜果鈔。後兩召講《尚書》大義,稱旨,命入京學。天順八年,年十八,成進士,選庶吉士,授編修。累遷侍講學士,充東宮講官。

弘治四年(1491年)、『憲宗実録』が完成し、左庶子兼侍講学士から太常少卿に進み、兼官は元の通りであった。五年、旱魃の災害があり、言上を求めた。李東陽は『孟子』七篇の大義を条摘し、時政の得失を附して、数千言に累ねて上奏した。帝は善しとした。閣臣徐溥らは詔敕が繁雑であることを理由に、先朝の王直の故事のように、官を設けて専ら管轄させるよう請うた。そこで李東陽を礼部右侍郎兼侍読学士に抜擢し、内閣に入れて誥敕を専管させた。八年、本官のまま文淵閣に直して機務に参与し、謝遷と同日に登用された。久しくして、太子少保・礼部尚書兼文淵閣大学士に進んだ。

原文弘治四年,《憲宗實錄》成,由左庶子兼侍講學士,進太常少卿,兼官如故。五年,旱災求言。東陽條摘《孟子》七篇大義,附以時政得失,累數千言,上之。帝稱善。閣臣徐溥等以詔敕繁,請如先朝王直故事,設官專領。乃擢東陽禮部右侍郎兼侍讀學士,入內閣專典誥敕。八年以本官直文淵閣參預機務,與謝遷同日登用。久之,進太子少保、禮部尚書兼文淵閣大學士。

十七年、闕里廟の再建が完成し、命を受けて祭祀に赴いた。

原文十七年,重建闕里廟成,奉命往祭。還,上疏言:

帰還後、上疏して言うには、臣が使命を奉じて急ぎ行く途中、ちょうど激しい旱魃に遇った。天津一帯では、夏麦は既に枯れ、秋の禾は未だ種を下さず、舟を引く者には完衣がなく、鋤を担ぐ者には菜色がある。盗賊が縦横し、青州が特に甚だしい。南方から来る人の話では、江南・浙東では流亡の民が道に満ち、戸口は消耗し、軍伍は空虚で、倉庫には十日分の蓄えもなく、官には数年にわたる俸給が欠けているという。東南は財賦の出所であるが、一年の飢饉で既にこの有様である。北方は貧弱で、元来蓄積がなく、今秋また凶作となれば、どうして耐えられようか。事変の発生は、恐らく測りがたい。臣がもしその地を通過しなかったならば、たとえ長く官曹に処し、日々章疏を処理していても、なおその詳細を得られなかったであろう。ましてや陛下が九重の上に高く居られますれば尚更である。

原文臣奉使遄行,適遇亢旱。天津一路,夏麥已枯,秋禾未種,挽舟者無完衣,荷鋤者有菜色。盜賊縱橫,青州尤甚。南來人言:江南、浙東流亡載道,戶口消耗,軍伍空虛,庫無旬日之儲,官缺累歲之俸。東南,財賦所出,一歲之饑已至於此;北地{此口}窳,素無積聚,今秋再歉,何以堪之。事變之生,恐不可測。臣自非經過其地,則雖久處官曹,日理章疏,猶不得其詳,況陛下高居九重之上耶?

臣が道中で尋ね聞くところ、皆、冗食の者が余りに多く、国用に経緯がなく、差役が頻繁で、科派が重畳していると言う。京城では土木の工事が盛んに興り、供役する軍士は財力ともに尽き果て、班操に遇う毎に、寧ろ死を選んで赴かない。勢家の巨族は田畑が郡県を連ねるほどであるが、なお請乞を止めない。親王が藩国に就く際の供応は二三十万に至る。遊手の徒は皇親の僕従と名を託し、毎に関津や都会で大いに市肆を張り、商税を網羅する。国家は北に都を建て、東南に仰給しているのに、商賈が驚き散ることは、決して些細な事ではない。さらに織造の内官がいて、群小を縱して掊撃させ、閘河の官吏は皆奔走驚駭し、鬻販する窮民は所在騒然としている。これまた臣が目撃したところである。

原文臣訪之道路,皆言冗食太眾,國用無經。差役頻煩,科派重疊。京城土木繁興,供役軍士財力交殫,每遇班操,寧死不赴。勢家巨族,田連郡縣,猶請乞不已。親王之藩,供億至二三十萬。遊手之徒,托名皇親仆從,每於關津都會大張市肆,網羅商稅。國家建都於北,仰給東南,商賈驚散,大非細故。更有織造內官,縱群小掊擊,閘河官吏莫不奔駭,鬻販窮民所在騷然,此又臣所目擊者。

そもそも閭閻の実情は、郡県が知り得ず、郡県の実情は、廟堂が知り得ず、廟堂の実情は、九重もまた知り得ない。容隠に始まり、蒙蔽に成る。容隠の端緒は甚だ小さいが、蒙蔽の禍いは甚だ深い。臣が山東に在った時、伏して聞くには、陛下が災異が屡々現れるのを以て、群臣に尽く言わせて隠さしめないと敕されたという。しかし詔旨は頻りに降り、章疏は悉く陳べられるが、事が内廷や貴戚に関わるものは、動もすれば掣肘され、数年を経ても、皆見送り中止となる。誠に恐れるのは、今日言うところが、また虚文に帰することである。どうか以前からの内外の条奏を取り上げ、詳しく采択を加え、必ず実行することを断じてください。

原文夫閭閻之情,郡縣不得而知也;郡縣之情,廟堂不得而知也;廟堂之情,九重亦不得而知也;始於容隱,成於蒙蔽。容隱之端甚小,蒙蔽之禍甚深。臣在山東,伏聞陛下以災異屢見,敕群臣盡言無諱。然詔旨頻降,章疏畢陳,而事關內廷、貴戚者,動為掣肘,累歲經時,俱見遏罷。誠恐今日所言,又為虛文。乞取從前內外條奏,詳加采擇,斷在必行。

帝は賞賛嘆息し、悉く所司に付した。

原文帝嘉嘆,悉付所司。

この時、帝は屡々閣臣を召して政事を面議した。李東陽は首輔劉健らと心を尽くして献納し、時政の欠失があれば必ず言い尽くして極諫した。李東陽は古文に巧みで、閣中の疏の草稿は多く彼に属した。疏が出ると、天下に伝誦された。翌年、劉健・謝遷とともに顧命を受けた。

原文是時,帝數召閣臣面議政事。東陽與首輔劉健等竭心獻納,時政闕失必盡言極諫。東陽工古文,閣中疏草多屬之。疏出,天下傳誦。明年,與劉健、謝遷同受顧命。

武宗が立つと、屡々加えて少傅兼太子太傅とした。劉瑾が司礼監に入ると、李東陽は劉健・謝遷と即日に辞職を請うた。中旨によって劉健・謝遷は去らされたが、李東陽だけは留まった。これを恥じ、再び上疏して懇請したが、許されなかった。初め、劉健・謝遷は劉瑾を誅すべきだと主張し、言葉が甚だ激しかったが、李東陽だけは少し緩やかであったため、独り留まったのである。劉健・謝遷が行く際、李東陽は餞別をして涙を流した。劉健は厳しい顔色で言った。「何故に泣くのか。もし当日力爭していたならば、我々とともに去っていたであろうに」。李東陽は黙然とした。

原文武宗立,屢加少傅兼太子太傅。劉瑾入司禮,東陽與健、遷即日辭位。中旨去健、遷,而東陽獨留。恥之,再疏懇請,不許。初,健、遷持議欲誅瑾,詞甚厲,惟東陽少緩,故獨留。健、遷瀕行,東陽祖餞泣下。健正色曰:「何泣為?使當日力爭,與我輩同去矣。」東陽默然。

劉瑾が志を得てからは、縉紳を挫き抑えることに務めた。焦芳が内閣に入ってその暴虐を助け、老臣や忠直の士は放逐され尽くした。李東陽は鬱々として志を得ず、また委蛇して禍を避けた。しかし焦芳は彼の地位が己の上にあることを嫉み、日夜劉瑾に讒言した。先に、李東陽は命を受けて『通鑑纂要』を編纂した。完成すると、劉瑾は人に命じて筆画の小さな欠点を摘まさせ、謄録官数名の名を除き、これによって李東陽をも巻き込もうとした。李東陽は大いに窮し、焦芳と張彩に取りなすよう頼み、やっと事なきを得た。

原文瑾既得志,務摧抑縉紳。而焦芳入閣助之虐,老臣、忠直士放逐殆盡。東陽悒悒不得誌,亦委蛇避禍。而焦芳嫉其位己上,日夕構之瑾。先是,東陽奉命編《通鑒纂要》。既成,瑾令人摘筆畫小疵,除謄錄官數人名,欲因以及東陽。東陽大窘,屬芳與張彩為解,乃已。

劉瑾の凶暴は日増しに甚だしく、あらゆるものを誹謗侮辱したが、李東陽に対してはなお表面上礼敬した。凡そ劉瑾が行った乱政について、李東陽はその間を繕い、多く補救した。尚宝卿崔璿・副使姚祥・郎中張瑋は制に違って肩輿に乗り、従者が妄りに駅馬を要求した罪で、給事中安奎・御史張彧は辺餉を査核して劉瑾の意に逆らった罪で、皆重い枷を付けられて死に瀕した。李東陽が力を尽くして救い、崔璿らは戍に貶謫され、安奎・張彧は釈放されて民とされた。

原文瑾兇暴日甚,無所不訕侮,於東陽猶陽禮敬。凡瑾所為亂政,東陽彌縫其間,亦多所補救。尚寶卿崔璿、副使姚祥、郎中張瑋以違制乘肩輿,從者妄索驛馬,給事中安奎、御史張彧以核邊餉失瑾意,皆荷重校幾死。東陽力救,璿等謫戍,奎、彧釋為民。

三年(正德三年)六月壬辰、朝を退けた後、匿名の書が御道に投げられ、劉瑾の罪状を数え上げた。詔して百官をして悉く奉天門外に跪かしむ。しばらくして、庶僚三百余人を捕らえて詔獄に下す。翌日、李東陽らが力を尽くして救い、劉瑾もまた同類の仕業と知るところとなり、衆人は赦免を得る。数日後、東陽は寛恤の数事を上疏し、章は所司に下る。やがて戸部が覆奏し、糧草の欠損は専ら司る所あり、巡撫官は大綱を総領す、軽減に従うべしと。劉瑾は大いに怒り、矯旨して数百言を詰責し、内外驚嘆す。劉瑾は盗賊の日々に増長するを患い、その家属並びに隣里及びこれを匿う者を戍辺せんとす。或る者が自ら陳じて盗賊七十人を捕らえしと、所司は新例に従って処せんとす。東陽言う、かくの如くせば則ち百年の案も皆追論すべしと、乃ち免ず。劉健・謝遷・劉大夏・楊一清及び平江伯陳熊ら危禍を得んとし、皆東陽に頼りて解く。その潜かに移りて奪い、善類を保全し、天下陰にその庇いを受く。而して気節の士多くこれを非とす。侍郎羅玘上書してその早く退くを勧め、門生籍を削らんことを請うに至る。東陽書を得て、俯首して長嘆するのみ。

原文三年六月壬辰,朝退,有遺匿名書於御道數瑾罪者,詔百官悉跪奉天門外。頃之,執庶僚三百餘人下詔獄。次日,東陽等力救,會瑾亦廉知其同類所為,眾獲宥。後數日,東陽疏言寬恤數事,章下所司。既而戶部覆奏,言糧草虧折,自有專司,巡撫官總領大綱,宜從輕減。瑾大怒,矯旨詰責數百言,中外駭嘆。瑾患盜賊日滋,欲戍其家屬並鄰里及為之囊橐者。或自陳獲盜七十人,所司欲以新例從事。東陽言,如是則百年之案皆可追論也,乃免。劉健、謝遷、劉大夏、楊一清及平江伯陳熊輩幾得危禍,皆賴東陽而解。其潛移默奪,保全善類,天下陰受其庇。而氣節之士多非之。侍郎羅玘上書勸其早退,至請削門生籍。東陽得書,俯首長嘆而已。

焦芳既に中人と一つとなり、王鏊は正を保つも、劉瑾と抗し能わず、東陽は乃ち楊廷和を援けて共に事とし、ややこれに倚りて自ら強からしむ。已にして鏊位を辞し、代わる者劉宇・曹元皆劉瑾の党、東陽の勢い益々孤なり。東陽は前に既に少師兼太子太師を加えられ、後劉瑾は芳の官を加えんとし、詔して東陽に正一品の禄を食ます。四年五月、『孝宗実録』成る、編纂の諸臣序遷すべし、所司『会典』の故事を援く。詔して劉健ら前『会典』を纂修し多く糜費すとし、皆升職を奪い、東陽もまた坐して俸を降す。数日を居て、乃ち『実録』の功を以てこれを復す。

原文焦芳既與中人為一,王鏊雖持正,不能與瑾抗,東陽乃援楊廷和共事,差倚以自強。已而鏊辭位,代者劉宇、曹元皆瑾黨,東陽勢益孤。東陽前已加少師兼太子太師,後瑾欲加芳官,詔東陽食正一品祿。四年五月,《孝宗實錄》成,編纂諸臣當序遷,所司援《會典》故事。詔以劉健等前纂修《會典》多糜費,皆奪升職,東陽亦坐降俸。居數日,乃以《實錄》功復之。

五年春、久しく旱し、詔して刑を恤む。東陽ら因りて詔書の未だ及ばざる数条を上す、帝悉くこれに従う。而して法司は劉瑾を畏れ、死を減ずる者二人に止まる。その秋、劉瑾誅せられ、東陽は乃ち上疏して自ら列ねて曰く、「臣禁近に備員し、劉瑾と職掌相関す。凡そ旨を調え勅を撰するに、或いは駁され再三、或いは径に自ら改竄し、或いは持ち回りて私室にし、他人の手を仮り、或いは遞出して謄黄し、逼りて落橐せしむ、真偽混淆し、別白するに従う無し。臣と雖も委曲匡持し、少しく済わんことを期すれども、因循隠忍し、損なう所も多し。理宜しく罷黜すべし」と。帝これを慰留す。

原文五年春,久旱,下詔恤刑。東陽等因上詔書所未及者數條,帝悉從之。而法司畏瑾,減死者止二人。其秋,瑾誅,東陽乃上疏自列曰:「臣備員禁近,與瑾職掌相關。凡調旨撰敕,或被駁再三,或徑自改竄,或持回私室,假手他人,或遞出謄黃,逼令落橐,真假混淆,無從別白。臣雖委曲匡持,期於少濟,而因循隱忍,所損亦多。理宜黜罷。」帝慰留之。

寘鐇平らぎ、特進左柱国を加え、一子を尚宝司丞に蔭し、御史張芹の劾するところとなる。帝怒り、張芹の俸を奪う。東陽もまた休みを乞い蔭を辞す、許さず。時に焦芳・曹元は已に罷まり、而して劉忠・梁儲入り、政事一新す。然れども張永・魏彬・馬永成・谷大用ら猶用事し、帝嬉遊すること故の如し。皇子未だ生ぜず、多く宿を外に居す。又豹房の役を大いに興さんと議し、寺観を禁中に建つ。東陽らこれを憂え、前後上章して切に諫む、報いず。七年、東陽ら京師及び山西・陝西・雲南・福建相継いで地震するを以て、而して帝講筵挙げず、視朝久しく曠け、宗社の祭享親しまず、禁門の出入度無く、谷大用仍て西廠を開く、屡上疏して極めて諫む、帝も亦終に聴かず。

原文寘鐇平,加特進左柱國,蔭一子尚寶司丞,為御史張芹所劾。帝怒,奪芹俸。東陽亦乞休辭蔭,不許。時焦芳、曹元已罷,而劉忠、梁儲入,政事一新。然張永、魏彬、馬永成、谷大用等猶用事,帝嬉遊如故。皇子未生,多居宿於外。又議大興豹房之役,建寺觀禁中。東陽等憂之,前後上章切諫,不報。七年,東陽等以京師及山西、陜西、雲南、福建相繼地震,而帝講筵不舉,視朝久曠,宗社祭享不親,禁門出入無度,谷大用仍開西廠,屢上疏極諫,帝亦終不聽。

九載秩満し、兼ねて大学士の俸を支う。河南の賊平らぎ、子を世錦衣千戸に蔭す。再び疏を上して力を辞し、六品文官に改めて蔭す。その冬、帝宣府の軍三千を調えて入衛せしめ、而以て京軍を更番して辺に戍らせんとす。東陽ら力を以て不可と持ち、大臣・台諫皆以て言とす。中官旁午として草勅を索め、帝乾清宮門に坐してこれを趣す、東陽ら終に詔を奉ぜず。明日竟に内降を出してこれを行い、江彬ら遂に辺兵を以て豹房に入る。東陽は老疾を以て休みを乞い、前後章数上す、ここに至りて始めて許す。勅を賜い、廩隸を給すること故事の如し。又四年にして卒す、年七十。太師を贈り、文正と謚す。

原文九載秩滿,兼支大學士俸。河南賊平,蔭子世錦衣千戶。再疏力辭,改蔭六品文官。其冬,帝欲調宣府軍三千入衛,而以京軍更番戍邊。東陽等力持不可,大臣、臺諫皆以為言。中官旁午索草敕,帝坐乾清宮門趣之,東陽等終不奉詔。明日竟出內降行之,江彬等遂以邊兵入豹房矣。東陽以老疾乞休,前後章數上,至是始許。賜敕、給廩隸如故事。又四年卒,年七十。贈太師,謚文正。

東陽は父淳に事えて孝行あり。初め翰林に官す時、常に酒を飲みて夜深くに至り、父就寝せず、寒さを忍びてその帰りを待つ、ここより終身夜に外に飲まず。文を為すに典雅流麗、朝廷の大著作多くその手に出づ。篆隸の書に工み、碑版篇翰四裔に流播す。後進を奨成し、才彦を推挽し、学士大夫その門に出づる者、悉く粲然として成就する所有り。明興以来、宰臣文章を以て縉紳を領袖するもの、楊士奇の後、東陽のみ。朝に立ちて五十年、清節渝らず。既に政を罷めて家に居り、詩文書篆を請う者戸限に填塞し、頗るこれを資りて朝夕を給す。一日、夫人方に紙墨を進む、東陽倦色有り。夫人笑いて曰く、「今日客を設く、案に魚菜無からしむべけんや」と。乃ち欣然として筆を命じ、時を移して罷む、その風操かくの如し。

原文東陽事父淳有孝行。初官翰林時,常飲酒至夜深,父不就寢,忍寒待其歸,自此終身不夜飲於外。為文典雅流麗,朝廷大著作多出其手。工篆隸書,碑版篇翰流播四裔。獎成後進,推挽才彥,學士大夫出其門者,悉粲然有所成就。自明興以來,宰臣以文章領袖縉紳者,楊士奇後,東陽而已。立朝五十年,清節不渝。既罷政居家,請詩文書篆者填塞戶限,頗資以給朝夕。一日,夫人方進紙墨,東陽有倦色。夫人笑曰:「今日設客,可使案無魚菜耶?」乃欣然命筆,移時而罷,其風操如此。

王鏊

原文王鏊

王鏊、字は済之、呉の人。父琬、光化知県。鏊年十六、父に随い読書し、国子監の諸生争いてその文を伝誦す。侍郎葉盛・提学御史陳選これを奇とし、天下の士と称す。成化十年郷試、明年会試、倶に第一。廷試第三、編修を授かる。門を杜みて読書し、権勢を避遠す。

原文王鏊,字濟之,吳人。父琬,光化知縣。鏊年十六,隨父讀書,國子監諸生爭傳誦其文。侍郎葉盛、提學御史陳選奇之,稱為天下士。成化十年鄉試,明年會試,俱第一。廷試第三,授編修。杜門讀書,避遠權勢。

弘治初、侍講学士に遷り、講官を充つ。中貴李広帝を導きて西苑に遊ばしむ、鏊文王遊田に盤せざるを敢えずと講じ、反復規切す、帝為に動容す。講罷りて、広に謂いて曰く、「講官若曹を指す耳」と。寿寧侯張巒故に鏊と連有り、巒貴するに及び、鏊絶えて通ぜず。東宮出閣す、大臣正人を選びて宮僚とせんことを請う、鏊は本官を以て兼ねて諭德とす。尋いで少詹事に転じ、吏部右侍郎に擢る。

原文弘治初,遷侍講學士,充講官。中貴李廣導帝遊西苑,鏊講文王不敢盤於遊田,反復規切,帝為動容。講罷,謂廣曰:「講官指若曹耳。」壽寧侯張巒故與鏊有連,及巒貴,鏊絕不與通。東宮出閣,大臣請選正人為宮僚,鏊以本官兼諭德。尋轉少詹事,擢吏部右侍郎。

嘗て辺計を奏陳し、略言す、「昨火篩大同に入寇し、陛下宵旰して寧からず、而して縁辺の諸将皆城を嬰して守り、一人も敢えてその鋒に当たる者無し、これ臣の解せざる所なり。臣窃に謂う、今日火篩・小王子畏るるに足らず、而して嬖幸政を乱し、功罪明らかならず、委任専らならず、法令行わず、辺圉空虚、深く畏るべしなり。比年辺将律を失い、往往に罪を戴きて賊を殺すことを令す。副総兵姚信兵を擁して進まず、亦た罪を逃るるを得たり。これ人心の日に懈く所以、士気の振わざる所以なり。望むらくは陛下大いに乾剛を奮い起こし、時に大臣を召し、辺将の勇怯を諮詢せよ。罪有れば必ず罰し、功有れば必ず賞し、主将の権を専らにせよ。致仕尚書秦紘を起して総制と為し、諸辺を節制せしめ、提督右都御史史琳をして京営に坐鎮せしめ、遥かに声援と為さしめよ。沿辺死事の家を厚く恤い、辺方驍ぎょう勇の士を召募し、間を用いてその部曲ぶきょくを携わしめよ。兵を分けて掩撃し、奇を出して勝を制せば、寇必ず長駆深入を敢えざるべし」と。これに従う。又言す、「宜しく前代の制科に倣い、博学宏詞の類の如く、以て異材を収むべし。六年に一挙し、尤も異なる者に清要の職を授け、官有る者には秩を加えよ。数年之後、士類濯磨し、必ず経を通じ古を学ぶを以て高しと為し、謏聞の陋を脱去せん」と。時に用いる能わず。尋いで父憂にて帰る。

原文嘗奏陳邊計,略言:「昨火篩入寇大同,陛下宵旰不寧,而緣邊諸將皆嬰城守,無一人敢當其鋒者,此臣所不解也。臣竊謂今日火篩、小王子不足畏,而嬖幸亂政,功罪不明,委任不專,法令不行,邊圉空虛,深可畏也。比年邊將失律,往往令戴罪殺賊。副總兵姚信擁兵不進,亦得逃罪。此人心所以日懈,士氣所以不振也。望陛下大奮乾剛,時召大臣,咨詢邊將勇怯。有罪必罰,有功必賞,專主將之權。起致仕尚書秦纮為總制,節制諸邊,提督右都御史史琳坐鎮京營,遙為聲援。厚恤沿邊死事之家,召募邊方驍勇之士,用間以攜其部曲。分兵掩擊,出奇制勝,寇必不敢長驅深入。」從之。又言:「宜仿前代制科,如博學宏詞之類,以收異材。六年一舉,尤異者授以清要之職,有官者加秩。數年之後,士類濯磨,必以通經學古為高,脫去謏聞之陋。」時不能用。尋以父憂歸。

正徳元年四月左侍郎に起き、韓文諸大臣と共に劉瑾ら「八党」を誅せんことを請う。俄に劉瑾司礼に入り、大学士劉健・謝遷相継いで去り、内閣李東陽一人止む。劉瑾焦芳を引かんと欲し、廷議独り鏊を推す。劉瑾公論に迫られ、本官を以て学士を兼ねて芳と同く内閣に入るを命ず。一月を逾え、戸部尚書文淵閣大学士に進む。明年少傅兼太子太傅を加う。

原文正德元年四月起左侍郎,與韓文諸大臣請誅劉瑾等「八黨」。俄瑾入司禮,大學士劉健、謝遷相繼去,內閣止李東陽一人。瑾欲引焦芳,廷議獨推鏊。瑾迫公論,命以本官兼學士與芳同入內閣。逾月,進戶部尚書文淵閣大學士。明年加少傅兼太子太傅。

景帝の汪后が薨去し、その礼について疑義が生じた。王鏊は言った、「妃は罪によって廃されたのではないから、故の号を復し、妃として葬り、后として祭るべきである」と。そこで朝を輟ち、制に従って祭らせることを命じた。憲宗の廃后呉氏の喪に際し、劉瑾は跡を消すためにこれを焼くことを議し、「喪服を着せることはできない」と言った。王鏊は言った、「喪服は着せなくともよいが、葬りを薄くしてはならない」と。これに従った。尚宝卿の崔璿ら三人が枷をかけられてほとんど死にかけた。王鏊は劉瑾に言った、「士は殺すことはできても、辱めることはできない。今辱めかつ殺そうとするなら、我はまだ何の顔あってここに居られようか」と。李東陽もまた力強く救い、崔璿らは戍に遣られることで済んだ。劉瑾は尚書韓文を恨み、必ずや殺そうとし、また他の事で劉健・謝遷を陥れようとしたが、王鏊は前後して力強く救って免れさせた。ある者が楊一清を劉瑾に悪く言い、辺境の城壁を築くのに浪費したと讒言した。王鏊は争って言った、「一清は国のために辺境を修めたのであり、どうして功を罪とすることができようか」と。劉瑾は劉大夏を怒り、京に逮縛し、民衆を煽動して変乱を起こさせた罪を着せて死罪にしようとした。王鏊は争って言った、「岑猛はただ遷延して行かなかっただけで、未だ叛いていないのに、何を以て激変と名づけようか」と。当時、朝廷内外の大権は悉く劉瑾に帰し、王鏊は初め誠意を開いて彼と話し、時には聞き入れられた。しかし焦芳は専らへつらい諂い、劉瑾の横暴はますます甚だしく、禍は縉紳にまで流れた。王鏊は救うことができず、力を尽くして去らんことを求めた。正徳四年、上疏を三度上り、許された。璽書を賜い、駅伝車を与え、役人が食糧と従者を給すること、全て故事の通りであった。家に居ること十四年、廷臣が交わって推薦したが起きなかった。

原文景帝汪后薨,疑其禮。鏊曰:「妃廢不以罪,宜復故號,葬以妃,祭以後。」乃命輟朝,致祭如制。憲宗廢后吳氏之喪,瑾議欲焚之以滅跡,曰「不可以成服」。鏊曰:「服可以不成,葬不可薄也。」從之。尚寶卿崔璿等三人荷校幾死。鏊謂瑾曰:「士可殺,不可辱。今辱且殺之,吾尚何顏居此。」李東陽亦力救,璿等得遣戍。瑾銜尚書韓文,必欲殺之,又欲以他事中健、遷,鏊前後力救得免。或惡楊一清於瑾,謂築邊墻糜費。鏊爭曰:「一清為國修邊,安得以功為罪。」瑾怒劉大夏,逮至京,欲坐以激變罪死。鏊爭曰:「岑猛但遷延不行耳,未叛何名激變?」時中外大權悉歸瑾,鏊初開誠與言,間聽納。而芳專弇阿,瑾橫彌甚,禍流縉神。鏊不能救,力求去。四年,疏三上,許之。賜璽書、乘傳、有司給廩隸,咸如故事。家居十四年,廷臣交薦不起。

世宗が即位すると、行人を遣わして慰問した。王鏊は上疏して謝し、併せて講学・親政の二篇を上奏した。帝は優詔を以て聞いたことを報じ、一子を中書舎人に任じた。嘉靖三年、再び役人に命じて慰問させた。間もなく卒去、七十五歳。太傅を追贈され、文恪と諡された。

原文世宗即位,遣行人存問。鏊疏謝,因上講學、親政二篇。帝優詔報聞,官一子中書舍人。嘉靖三年復詔有司存問。未幾卒,年七十五。贈太傅,謚文恪。

王鏊は博学で識見と鑑識眼があり、文章は雅正で、議論は明快流暢であった。晚年に『性善論』一篇を著すと、王守仁はこれを見て言った、「王公の造詣は深く、世間はまだ十分に理解していない」と。若い時は科挙の答案作りに長け、後に数度郷試を主管し、その模範答案は一代の魁であった。士を取るに経術を尊び、険怪なものは一切退けた。弘治・正徳の間、文体は一変した。

原文鏊博學有識鑒,文章爾雅,議論明暢。晚著《性善論》一篇,王守仁見之曰:「王公深造,世未能盡也。」少善制舉義,後數典鄉試,程文魁一代。取士尚經術,險詭者一切屏去。弘、正間,文體為一變。

劉忠

原文劉忠

劉忠、字は司直、陳留の人。成化十四年の進士。庶吉士に改められ、編修に授けられた。弘治四年、『憲宗実録』が完成し、侍講に遷り、経筵に直し、間もなく東宮の講読を兼ねた。また九年を経て侍読学士に進んだ。

原文劉忠,字司直,陳留人。成化十四年進士。改庶吉士,授編修。弘治四年,《憲宗實錄》成,遷侍講,直經筵,尋兼侍東宮講讀。又九年進侍讀學士。

武宗が即位すると、東宮官のゆえに学士に抜擢され、翰林院を掌り、依然として経筵に直した。正徳二年、劉瑾が権力を握り、日々帝を導いて遊戯にふけり、祖宗の旧章を乱した。劉忠は逸遊を戒め、正学を崇める数事を上言した。その後、進講の際に楊廷和と経義を講じ、帝の欠失を諫め、近幸の者を指弾すること特に切直であった。帝は劉瑾に言った、「経筵は書を講ずるだけで、余計な言葉は何のためか」と。劉瑾は元より二人を憎んでおり、そこで吏部尚書許進に勧めて彼らを南京に出させた。南京の諸部には右侍郎が一人しかおらず、許進は特に請うて劉忠を礼部左侍郎に任用した。命令が下ると、外の議論が騒然となり、許進はこれを憂い、わずか二ヶ月で、即ち劉忠を本部尚書に抜擢した。その冬、就いて吏部に改めた。当時、留都の一御史は、元より驕慢横暴であり、一郎中は張彩が親昵していた者で、任期が満ちたが、皆下考に署した。吏胥が偽名で寄籍するのを憎み、諸曹を督して千人を核査淘汰した。京官の大計を行い、罷免した者は以前より多かった。また上疏して随時糾弾することを請い、勧懲を示し、六年ごとの考査罷免を待つべきでないとした。詔してこれを可とした。劉忠は南京において正直で風采があった。しかしこの時、劉瑾は厳苛を以て士大夫を折辱している最中であり、劉忠は規矩を守って下に対し、糾弾が過度に峻烈であった。当時の論議は遂に劉忠が劉瑾の意に附会していると言い、かなり怨みを帰するようになった。

原文武宗即位,以宮寮擢學士,掌翰林院,仍直經筵。正德二年,劉瑾用事,日導帝遊戲,亂祖宗舊章。忠上言戒逸遊、崇正學數事。已,因進講與楊廷和傅經義,規帝闕失,而指斥近幸尤切。帝謂瑾曰:「經筵,講書耳,浮詞何為?」瑾素惡兩人,因諷吏部尚書許進出之南京。南京諸部惟右侍郎一人,進特請用為禮部左侍郎。命下,外議籍籍,進患之,甫兩月,即擢忠本部尚書。其冬,就改吏部。時留都一御史,素驕橫;一郎中,張彩所昵也,秩滿,皆署下考。疾吏胥詭名寄籍,督諸曹核汰千人。大計京官,所黜多於前。又疏請不時糾劾,以示勸懲,無待六年考黜。詔可之。忠在南京正直有風采。然是時,瑾方以嚴苛折辱士大夫,而忠操繩墨待下,糾劾過峻。時論遂謂忠附會瑾意,頗歸怨焉。

五年二月、吏部尚書兼翰林学士に改められ、専ら制詔を典した。二度上疏して休暇を乞うたが、返答がなかった。劉瑾が誅せられると、本官のまま文淵閣大学士を兼ね、内閣に入り機務に預かった。わずか数日で、寧夏平定の功により、少傅兼太子太傅を加えられた。故事では、閣臣が官を加えられるのに急に三孤に至ることはない。劉忠は功なくして突然得たため、自ら安んぜず、連続して上疏して固く辞したが、許されなかった。劉瑾は誅せられたが、張永・魏彬らが政を擅にし、大臣はまた争って彼らと交歓したが、劉忠のみは何ら顧みることがなかった。張永がかつて廖鵬を遣わして劉忠に謁見させたが、劉忠の僕隷が彼を遇し、またその贈り物を退けた。これによって張永らと対立した。前後して休暇を乞う上疏を七八度上ったが、皆慰留された。翌年、会試を主管することを命じられた。終わって間もなく、帝は試録の文義に誤りが多いとして、李東陽を召してこれを見せた。劉忠は宦官によって引きずり下ろされたことを知り、墓参りを乞うた。詔して駅伝車で帰らせた。家に着くと、再び上章して致仕を乞い、許すとの報せがあった。月々の食糧と毎年の従者を終身給されることとなった。

原文五年二月改吏部尚書兼翰林學士,專典制詔。兩疏乞休,不報。瑾誅,以本官兼文淵閣大學士,入閣預機務。甫數日,以平寧夏功,加少傅兼太子太傅。故事,閣臣加官無遽至三孤者。忠無功驟得,不自安,連疏固辭,不許。瑾雖誅,張永、魏彬輩擅政,大臣復爭與交歡,忠獨無所顧。永嘗遣廖鵬謁忠,忠仆隸遇之,又卻其饋,由是與永輩左。前後乞休疏七八上,皆慰留。明年命典會試。甫畢,帝以試錄文義多舛,召李東陽示之。忠知為中官所掎,乞省墓。詔乘傳還。抵家,再上章乞致仕,報許。給月廩、歲隸終其身。

世宗が即位すると、度々推薦されたが起きなかった。行人を遣わして慰問し、劉忠は奏上して謝し、併せて献策があり、帝はその忠愛を褒めた。嘉靖二年に卒去、七十二歳。太保を追贈され、文粛と諡された。

原文世宗即位,屢薦不起。遣行人存問,忠奏謝,因有所獻納,帝褒其忠愛。嘉靖二年卒,年七十二。贈太保,謚文肅。

賛して言う。徐溥は寛厚をもって著しく、邱濬は博綜をもって聞こえた。その事を指し言を陳べるのを見れば、懇々として盛んなるを憂え明らかなるを危ぶむの計たり、勤めたりと言うべし。劉健・謝遷は正色直道、蹇蹇として躬を匪とす。閹豎政を乱すも、義を秉り固く諍う。志は就かざりしも、剛厳の節は終始渝らず。明の賢き宰輔、三楊の外、前に彭時・商輅あり、後には劉健・謝遷を称え、まさに道を以て君に事うる者と言うべきか。李東陽は依違をもって謗りを受けたるも、然るに善類はこれに頼りて扶持せられ、全うすること少なからず。大臣は国と休戚を同じくす、決然として去るをもって高しと為し、遠く蹈むをもって潔しと為すべからず、その志いかんを顧みるのみ。王鏊・劉忠は正を保持して阿わず、身を奉じて早く退く。これ誠に去就の節明らかなり、いずくんぞ委蛇俯仰して以て容悦を為さんや。

原文贊曰:徐溥以寬厚著,邱濬以博綜聞。觀其指事陳言,懇懇焉為憂盛危明之計,可謂勤矣。劉健、謝遷正色直道,蹇蹇匪躬。閹豎亂政,秉義固諍。誌雖不就,而剛嚴之節始終不渝。有明賢宰輔,自三楊外,前有彭、商,後稱劉、謝,庶乎以道事君者歟。李東陽以依違蒙詬,然善類賴以扶持,所全不少。大臣同國休戚,非可以決去為高,遠蹈為潔,顧其誌何如耳。王鏊、劉忠持正不阿,奉身早退。此誠明去就之節,烏能委蛇俯仰以為容悅哉。