明史

列傳第六十八 張寧・王徽・毛弘・丘弘・李森・魏元・強珍・王瑞・李俊・汪奎・湯鼐・姜綰・姜洪・曹璘・彭程・龐泮・呂獻・葉紳・胡獻・張弘至・屈伸・王獻臣

張寧

張寧、字は靖之、海塩の人。景泰五年の進士。礼科給事中に任じられる。七年の夏、帝が唐瑜らの上奏に従い、南京の大小諸臣を考核した。張寧は言う、「京師は特に根本の地、独り免れるべからず」。また言う、「京衛の帯俸武職は、一衛で二千余人に至り、通計三万員余り。歳に銀四十八万、米三十六万、並びに他の折俸物を要し、動もすれば百万を経る。国儲を耗損すること、此に甚しきは莫し。而して其の間には老弱で騎射に嫻ならざる者多し。若し簡択して可なる者を以て、天下の都司・衛所の欠官を補い、而して其の余を悉く汰除するに若かず」。議は格されて行われず。

帝が病を得、丁度星変に遇い、詔して明年の元会を罷め、百官の朝参を朔望の如くせしむ。張寧は言う、「四方より来覲するも、一たび天顔を睹ることを得ず、疑似の際には、必ず訛言を以て相驚くに至らん。願わくは旧典を勉めて循い、以て人心を慰めよ」。帝は病の為に従う能わず、而して「奪門」の変が起こる。

天順年中、曹吉祥・石亨が権柄を窃む。事が礼科に関わる者は、張寧は輒ち裁損し、英宗は此を以て張寧を知る。朝鮮が隣部の毛憐衛と仇殺し、詔して張寧に都指揮武忠と共に往きて和解せしむ。張寧の辞義は慷慨、而して武忠はぎょう健、両弓を張って之を折り、雁を射て一発で墜とす。朝鮮人は大いに驚き服し、両人は竟に其の仇を解いて還る。中官覃包が邀えて相見せんとす、往かず。尋いで都給事中に擢でられる。

憲宗が初めて経筵に御す、日に『大学衍義』を以て進講するを請う。是の年十月、皇太后の生辰、礼部尚書姚夔が仍って故事に倣い、斎を設け醮を建て、百官を会して壇に行香せしむ。張寧は益無く、徒らに大体を傷つけると言い、禁止を乞う。帝は嘉して之を納れる。未だ幾ばくもせず、給事中王徽が牛玉の事を以て大学士李賢を劾し、罪を得る。張寧は六科を率いて論救し、此より漸く内閣と忤る。会うに王竑らが張寧を挙げて僉都御史に堪え、清軍職貼黄すべしとし、岳正と並び挙ぐ。旨を得るに、挙げる多く私なり、皆外任を与う。張寧は出でて汀州知府となり、簡静を以て治め、期年にして善政具に挙がる。

張寧は才高く志節を負い、章奏を善くし、声稱甚だ盛ん。英宗嘗て重用せんと欲す、果たさず。久しく諫垣に居り、大臣に喜ばれず。既に出守して後、益々鬱々として志を得ず、病を以て免じ帰る。家に居ること三十年、言者は屡々薦むるも、終に復た召されず。

子無し。妾二人有り。張寧没し、発を剪り死を誓い、楼に居て下らざること四十年。詔して「双節」と旌す。

王徽

王徽、字は尚文、応天の人。天順四年の進士。南京刑科給事中に除される。憲宗即位の数ヶ月、同官の王淵・朱寛・李翔・李鈞と上疏して四事を陳ぶ。末に言う、「古より宦官は賢良なる者少なく、奸邪なる者多し。若し大権を授けて、令して敗壊に致し、然る後に刑を加うるは、是れ始めは愛して終わりに之を殺すなり、之を保全する所以に非ざるなり。願わくは高皇帝の旧制に法り、政に預かり兵を典るを令す毋く、産を置き業を立つるを許す毋からしめよ。家人・義子は、悉く原籍に編して民と為せ。官吏の之と交接するを厳禁せよ。惟だ其の賞賚を厚くし、豊足を得せしめ、復た他望無からしむ。此れ国家の福、亦た宦官の福なり」。

其の冬、帝が万妃の譖に入り、呉后を廃し、中官牛玉が擅に中宮を易えたるを罪し、之を南京に謫す。王徽は復た王淵らと之を劾して曰く、

陛下が中宮を冊立せらるるは、此れ何等の事ぞ、而るに賊臣牛玉乃ち大いに奸欺を肆うす!中宮既に退き、人情皆玉は必ず万死すべしと謂う。顧みるに僅かに陪京に斥くるのみ、猶お首領を全うす、則ち凡そ陛下の左右に侍る者は将に何をか忌憚せんや?内閣大臣は、身輔弼に居り、立後の大事を視て漠然として以て意に加うるに足らず。方に玉が欺肆するの初め、婚礼未だ成らず、礼官は権を畏れ、輒ち阿附を為す。及んで玉事発するの後、国法難く貸すべからず、刑官は旧を念い、竟に苟容に至る。而して李賢らは又成敗を坐視し、一言を出ださず。悪に党し君を欺く、此れに甚しきは莫し。請う併せて賢らを罪し、大臣不忠なる者の戒めと為さん。臣等が前疏に宦官を保全せんことを請うたるは、正に患を未萌に防がんと欲するなり。乃ち処置の道未だ聞かず、牛玉の禍果たして作る。然れども往きしは諫むべからず、来たる者は猶お追うべし。臣等は遠く引くを敢えず、請う近事を以て之を征せん。正統末、王振有り、詎んぞ意図せん復た曹吉祥有らんとは。天順初、吉祥有り、詎んぞ意図せん復た牛玉有らんとは。若し又予防を思わざれば、安んぞ後に牛玉に甚だしき者有らざるを知らんや?夫れ宦者は事無きの時は恭慎なるに似たり、一たび国政を聞けば、即ち奸欺を肆うす。将に某人を用いんとすれば、必ず先ず之を売りて以て己が功と為し;将に某事を行わんとすれば、必ず先ず之を泄らして以て己が勢を張る。迨うに趨附日増し、威権日盛んなるに及び、而して禍作る。此れ国政を預聞すべからざる所以なり。内官は帝の左右に在り、大臣は廉恥を識らず、多く之と交結す。珍奇を饋献し、伊優に取媚し、即ち以て賢と為し、朝夕之を誉む。方正にして阿らざる者有れば、即ち以て不肖と為し、朝夕之を讒謗し、日に浸潤を加うれば、免れずして疑いを致す。是れに由りて称誉する者は顕れを獲、讒謗する者は斥けらる。恩は内侍より出で、怨は朝廷に帰す。此れ其の交結を許すべからざる所以なり。内官の弟侄に職を授け事に任じしむれば、勢に倚りて非を為し、奸を聚め悪を養う。広く財利を営み、奸弊多端なり。身は内に居れども、心は実に外に在り。内外交通し、乱の起こる所なり。此れ其の子侄をして外に職に任じ家産を営立せしむべからざる所以なり。臣等は職言路に居り、苟容を為さず、死すと雖も悔い無し、惟だ陛下裁察あれ」。

詔して「妄言して誉を邀う」と謂い、罪を加えんとす。諸給事・御史が交章して論救す、乃ち併せて州判官に謫す。王徽は貴州普安を得、王淵は茂州、朱寛は潼川、李翔は寧州、李鈞は綏徳を得る。奏は蓋し李鈞の筆なり。侍郎葉盛・編修陳音相継いで留めんことを請う、納れられず。最後に御史楊瑯の言尤も切なり、幾くんか罪を得んとす。

王徽は普安に至り、学校を興し士を教え、始めて郷に挙げらるる者有り。土官隴暢及び白千戸の賄を却け、治め甚だ声有り。七年居り、官を棄てて帰る。言者は屡々薦むるも、終に宦官の之を悪むを以て復た録用せられず。王徽嘗て曰く、「今仕ふる者は剛方を以て刻と為し、怠緩を以て寛と為す。学ぶ者は持正を以て滞と為し、恬軟を以て通と為す。文を為すには典雅を以て膚浅と為し、怪異を以て古健と為す」。其の治を論ずるに、嘗て張宣公の語「事を弁ずるの人を求むる無く、当に事を暁するの人を求むべし」を誦し、時に皆其の切中するに服す。

弘治の初め、吏部尚書王恕が推薦して陝西左参議に起用された。一年余りして病を理由に辞職して帰郷し、死去した。八十三歳。子の韋は『文苑伝』に見える。

王淵は浙江山陰の人である。天順元年の進士となり、南京吏科給事中に任じられた。平素より剛直であり、順天府治中で終わった。

朱寛は莆田の人、李翔は大足の人で、ともに天順元年の進士である。李鈞は永新の人で、景泰二年の進士である。寛は南京礼科給事中、翔は兵科、鈞は工科であった。謫された後、寛は上表のために京に入る途中で死去した。翔と鈞はともに判官で終わった。

毛弘

毛弘は字を士広といい、鄞の人である。天順初めの進士に及第した。六年に刑科給事中に任じられた。成化三年の夏、六科の諸臣とともに上言した。「近頃塞上に事多く、まさに陛下が宵衣旰食すべき時である。ところが退朝の暇に、かなり逸遊にふけっていると聞く。砲声がしばしば外に聞こえるが、禁城にあるべきものではない。況や災変が頻発し、両畿は水害旱害、四川・広西は兵乱の余波で、公私ともに困窮している。遊戯宴飲の娯楽を省き、金豆・銀豆の賞賜を停められたい。日々経筵に臨み、正学を講求されれば、おおよそ上は天の怒りを解き、下は人心を慰めることができましょう。」御史の展毓らも同様に言上し、いずれも嘉納された。

帝は学士商輅の請いに従い、改元後に建言して罷官した者をすべて登用することとした。毛弘は践祚以後に限るよう求め、給事中王徽らを召還するよう請うたが、許されなかった。慈懿太后が崩御し、別に葬るよう詔があった。毛弘は魏元らとともに上疏して諫めたが、聞き入れられなかった。朝が罷けた後、毛弘は声をあげて言った。「これは大事である。我々は死を以て諫めるべきだ。大小の臣工を合わせて闕に伏して固く争おう。」衆は承諾した。退却する者がいたので、給事中張賓が呼んで言った。「君たちだけが国恩を受けていないのか。なぜ首鼠両端なのか。」そこで文華門に伏して泣き、ついに礼に従うことができた。

毛弘は諫垣にあって論列することが最も多く、その声は朝廷に震動した。帝は甚だこれを厭い苦しみ、かつて言った。「昨日は毛弘、今日も毛弘。」前後して上陳したことが聞き入れられないこともあったが、毛弘は慷慨として議論し屈することがなかった。欽天監正の谷濱が賄賂を受け取って除名に当たるが、贖罪を納めて降等させるよう命じられた。正一真人の張元吉が罪を犯して死刑と論ぜられたが、詔して獄に繋ぐこととなった。毛弘らはいずれも固く争ったが、ついに聞き入れられなかった。三度遷って都給事中となった。病を得て、急死した。

邱弘

邱弘は字を寛叔といい、上杭の人である。天順末の進士。戸科給事中に任じられた。しばしば時政を陳述した。成化四年の春、同官とともに上言した。「洪武・永楽の間、畿輔・山東は土地が広く人口が少ないため、詔して民に開墾を許し、永久に税を課さなかった。近ごろ権豪が勢いに恃み、おしなべて閑田と指し、朦朧として奏請する。嘉善長公主が文安諸県の地を求め、西天仏子の劄実巴が静海県の地を求めるなど、数十百頃に及ぶ。地が百頃を超えれば、古来は百家の産である。どうして一人の私情に従って百家の恒産を奪うことができようか。」帝はその言を容れ、詔して今後は請乞をすべて許さず、令として定めた。劄実巴が乞うた地は、ついに民に還された。邱弘は再び遷り、都給事中に至った。

六年の夏、山東・河南が大旱となり、邱弘は救済を請うた。ついで言った。「四方より災害を告げるが、部臣は旧例に拘り、必ず実情を覆査してから租税を免じる。上は租税を免じても、下には実恵が少ない。今後災害に遇った時は、巡撫・巡按官が実情を調査し、即時に免除するよう請う。」従われた。

万貴妃が寵愛され、宦官の梁芳・陳喜が淫巧を争って進めた。奸人屠宗順らは日々奇異な宝石を献上し、その都度厚く報酬され、国庫を費やすこと百万を数えた。これによって官を得る者もいた。都の人はこれを真似、競って奢侈を尚び、僭越な模倣に限度がなかった。邱弘は同官とともに宗順らの罪を論じ、国庫の金を追還し、奢侈の風俗を厳禁するよう請うた。事は刑部に下り、尚書の陸瑜は宗順らを法に置き、その財産を没収して飢民を救済するよう請うた。帝は許さず、ただ僭侈な者を罪して赦さないよう命じたが、ついに禁じることはできなかった。

京師は凶作で米価が高騰し、四方からの遊僧が万数に及んだ。邱弘はこれを追放し、冗食を省くよう請うた。また太倉の米を発し、価格を下げて売り、最も貧しい民に与えるよう請うた。帝はすべて従った。さらに言った。「在京の百獣房及び清河寺などの諸所で飼育されている珍禽野獣は、日々魚肉米菽を飼料としている。これらを併せて放ち、冗費を省くよう乞う。」聞き届けられた。翌年、琉球に使いし、途中で死去した。

邱弘と毛弘はともに言路にあり、いずれも敢言で、人は「二弘」と称した。

李森

李森は字を時茂といい、歴城の人である。天順元年の進士。戸科給事中に任じられた。気概に富み敢言であった。

憲宗が即位すると、上疏して朝覲官が民衆を害する科斂征求を禁ずるよう請うた。吏部尚書王翺がその言に従うよう請うと、帝は詔を下して禁止した。まもなく、言うには、「近ごろ功なくして侯・伯・都督ととくに進む者あり、才徳なくして九列の位に就く者あり、絵画・囲碁・琴・医・卜筮の技能によって官職を得る者あり。名爵は日ごとに軽んぜられ、廩祿は日ごとに費やされる。これは天下の公器を弄び、国家の大柄を棄てるものである。今後は人を選んで授け、非才の者が競って進むことを許すな」と。また軍官の黜陟を厳しくし、逃兵や虚糧を査核するよう請うた。いずれも聞き入れられた。御史謝文祥が姚夔を弾劾して獄に下されると、森は同官とともにこれを救ったが、容れられなかった。

翌年の夏、日食があり、瓊山県で地震が起こると、森は十事を疏陳した。まもなく、貴幸が民産を侵奪することについて、諸給事を率いて言うには、「かつて先帝の勅を奉じ、皇親が軍民の田を強占する者は罪を赦さず、投献した者は辺境に戍らせるとした。一時は貴戚も敢えて犯す者はなかった。近ごろ給事中丘弘が権貴の請乞を絶つよう奏上すると、陛下もまた従われた。ところが外戚の錦衣指揮周彧が武強・武邑の田六百余頃を求め、翊聖夫人劉氏が通州・武清の地三百余頃を求めたのに、詔はことごとくこれを許された。なんと前の勅と悖ることであろうか。彼らの欲望は谷や淵のように満たし難く、畿内の膏腴の地は限られている。小民の衣食は皆ここから出ている。一旦これを奪われて、どうして生きていけようか。しかも本朝百年、戸口は日ごとに増え、どうしてなお閑田があって耕さず作らないことがあろうか。名は奏求と称しても、実は豪奪に過ぎない」と。帝はその言を良しとしたが、すでに賜ったものはなお問わなかった。山西に災害があり、山東および杭州・紹興・嘉興・湖州に大水が出ると、森らは蠲免と救済を請い、帝はともに従った。

当時、帝にはまだ儲嗣がなく、万貴妃が寵を専らにし、後宮は進むことができなかった。言う者はしばしば上に恩沢を普くするよう勧めたが、まだ敢えて妃の嫉妬を顕わに言う者はなかった。ただ森のみが抗章してこれを言い、帝は心に慍った。森はすでに再び左給事中に遷っていたが、ちょうど戸科都給事中に欠員が生じ、吏部が森の名を挙げて上奏すると、詔して外任を与えた。部は興化知府に擬したが、允されず、ついに懐慶通判として出された。まもなく、投劾して帰り、再び出仕しなかった。

魏元

魏元、字は景善、朝城の人。天順元年の進士。礼科給事中に授けられた。成化初め、万貴妃の兄弟が驕横であったので、元は疏を上ってこれを弾劾した。四年、慈懿太后が崩御し、別葬しようとした。元は同官三十九人とともに抗章して極諫し、御史康永韶もまた同官四十一人とともに争い、文華門に伏して哭した。ついに礼の通りに行われることとなった。

その年の九月、彗星が現れた。元は諸給事を率いて上言した。

春に入って以来、災異が重なって起こり、近ごろまた彗星が東方に現れ、その光が台垣を払った。これらは皆、陰盛陽微の証である。臣は聞く、君と后とは、天と地のようであり、参差たり得ないと。伝聞するところでは、宮中には盛寵があり、中宮と匹敵しているという。尚書姚夔らがかつてこれを言ったが、陛下は「内事は朕自ら裁置する」と言われた。息を潜めて傾聴すること半載に及んだが、昭徳宮の進膳は少しも減じたと聞かず、中宮は少しも増えたと聞かない。宮闈は遠いとはいえ、視聴は咫尺のようであり、衽席の微細なことが、天象に謫見する。懼れざるを得ない。かつ陛下は春秋に富んでおられるのに、震位(太子の位)はなお空しい。どうして宗社の大計を、愛に専ら情を注ぐ一人に一任し、国本を固め民心を安んずる道を求めないのか。願わくは伉儷の義を明らかにし、嫡妾の防ぎを厳しくされたい。尊卑を明らかにし、各々その分に安んぜしめられたい。本支百世の基は、まさにここにある。四方では旱魃と洪水が相次ぎ、民の困窮は日ごとに切迫し、荊・襄の流民が変を告げている。陛下は民の父母として、初めから警戒もなく、ただ故事に従って部に付して施行するのみである。ところが戸部尚書馬昂は、凡そ奏報があると、上意が喜べば「所司に移して処置せよ」と言い、上意が怒れば「事が塞がって行い難い」と言い、少しでも利害があれば即ち聖裁を乞う。首鼠両端で依違し、民はさらに何を望めようか。ただ急ぎ征稅を罷め、内帑を発し、官を遣わして振贖すれば、ようやく人心を少し慰め得よう。陛下は異教を崇信し、毎度生湣の辰(仏の誕生日など)には、しばしば資財を重ねて費やし、広く斎醮を建立される。そして西僧の劄実巴らに至っては、法王などの号を加え、賜与は多く並び、出るには棕輿に乗り、導きに金吾の仗を用い、縉紳は道を避け、奉養は親王を過ぎる。理に悖り紀を乱すこと、これより甚だしいものがあろうか。名号を革奪し、その国に還し、横賜を追録して、飢えた民を救済するのに用いられたい。また寺観に勅して、永く再び斎醮を講ずることを許さず、国用を節約されたい。天下の財は、官にあらざれば民にある。今、公私ともに困窮するのは、玩好が多く、賞賚に節度がないからである。あるいは塔寺を営み、あるいは珍奇を購い求める。一物の微細なものでも、価は巨万に累なり、国帑がどうして不足しないことがあろうか。願わくは淫巧を屏絶し、宴遊を停罷し、諸銀場および不急の務をことごとく禁止されたい。両京の文武大臣に至っては、奸貪の者が少なくなく、争って蒙蔽している。陛下はその位が高いからといって忍んで急に去らせず、旧臣であるからといって姑息に寛容してはならない。宜しく各自に陳免せしめ、大體を全うすべきである。貪位して去らぬ者は、言官に糾劾させられたい。そして臣らが言路に濫り居りながら、時に補うところなく、また罷帰を望み、不職の戒めとされたい。

帝は優詔を下してこれを褒め答えたが、ついに用いることはなかった。

元はしばしば遷って都給事中となり、出て福建右参政となった。海道を巡視し、越海して私販することを厳禁した。巨商が重宝を贈って賄ろうとしたが、元は怒って叱りつけて追い出した。母の憂いに遭って帰り、墓側に廬して三年、喪が明けると、起用されて江西参政となり、卒した。

康永韶、字は用和、祁門の人。郷挙されて国学に入り、選ばれて御史に授けられた。成化初め、畿輔を巡按し、尚書馬昂が市民の地を抑えたことを弾劾した。四年、同官の胡深・鄭己らとともに慈懿太后の山陵の事を争った。彗星が現れると、また同官とともに八事を上言した。大旨は元の前の疏と類似していた。両京大臣が庶僚を考察したが、去留は多く当をえなかった。永韶らはまた大臣が私を行っていることを弾劾し、かつ刑部主事余誌ら十二人の罪を摘発したが、誌に訴えられ、ともに詔獄に下された。永韶は順昌知県に謫され、さらに福清・恵安に転じた。久しくして、天文を知る者として推薦する者があり、中旨によって召還され、欽天監正に授けられ、太常少卿に進み、監事を掌った。永韶は御史として直声があったが、この時にはかえって迎合して寵を取るようになり、占候は多く隠諱し、甚だしい場合は災いを祥瑞とした。陝西で大饑饉があった時、永韶は言った。「今春の星変は大いなる咎めがあるはずであったが、秦の民が飢え死にしたことで、十分にこれを当てることができた。誠に国家の無疆の福である」と。帝は甚だ悦び、中旨をもって礼部右侍郎に擢げ、なお監事を掌らせた。暦に誤字が多いことで坐し、職を落として帰った。

胡深は定遠衛の人である。天順末年(の科挙)に進士となった。既に慈懿太后の山陵(陵墓)の件で争った後、また同官の陳宏・鄭己・何純・方昇・張進祿と共に上疏して奸邪を斥けることを請い、学士の商輅・尚書の程信・姚夔・馬昂を痛烈に誹謗した。帝は受け入れなかった。翌日、給事中の董旻・陳鶴・胡智もまた輅らを弾劾し、上疏を御前に呈した。故事(先例)によれば、諫官の弾劾の上奏文は大廷(朝廷)で宣読しないならば封をして進呈するもので、読まずに面と向かって呈するものはなかった。帝は快く思わず、「大臣の進退には礼法がある。旻らが旧章に従わず朝儀を乱すことを敢えてするのか」と言った。輅らは休職を乞うたが、帝はただ馬昂が去ることを許しただけだった。姚夔は非常に憤慨し、連続して上疏して去ることを求めた。胡深・董旻らはまた共同で言葉を合わせて攻撃し、姚夔を非常に激しく誹謗した。帝は怒り、胡深ら九人を獄に下した。これに先立ち、御史の林誠もかつて商輅を弾劾したが受け入れられず、病を理由に去っており、帝は林誠をも官吏に付属させた。毛弘らは皆論じて救い、商輅もまた彼らを寛大に扱うよう請うたので、それぞれ杖二十の刑に処し、元の官職に復帰させた。間もなく、胡深は陝西を巡按した時に訴冤者を杖殺した罪に坐し、黔陽県丞に左遷され、やがて郁林知州に昇進し、そこで死去した。

鄭己は山海衛の人である。成化二年(1466年)に進士となった。陝西を巡按し、辺境の地の未納租税の免除、辺境の兵士の分別(選別)を請い、壮健な者を戦闘・守備に、老弱者を耕作・牧畜に当たらせるよう命じ、上奏文は所管の部署に下された。定西侯の蔣琬が甘粛を鎮守していた時、鄭己はその罪を糾明しようとしたが、言葉が漏れ、蔣琬に弾劾され、宣府に戍辺(流罪)された。鄭己の性格は傲慢で、当時の論評ではあまり惜しまれなかった。

董旻は楽平の人である。成化二年(1466年)に進士となった。吏科都給事中を歴任した。官吏に告発され、詔獄に下され、石臼知県に左遷された。孝宗の時、四川参議の官に在職中に死去した。

強珍

強珍は字を廷貴といい、滄州の人である。成化二年(1466年)に進士となった。涇県知県に任じられた。定額の賦税の減免を請い、民はその徳を慕った。御史に抜擢された。

初め、遼東巡撫の陳鉞が事を起こして敵を招き寄せ、敵が来ると、ひたすら事実を隠蔽・欺瞞した。巡按御史の王崇之が陳鉞を弾劾すると、陳鉞は大いに恐れた。汪直と謀り、王崇之を誣告して逮捕し詔獄に下し、贖罪金を納めさせ、延安推官に転任させた。汪直・陳鉞が用兵した時、ちょうど功績を論じている最中に敵が大挙して侵入し、宦官の韋朗・総兵官の緱謙らはこれを隠して上聞に達しなかった。強珍が巡按として赴き、陳鉞の罪を正すよう請うた。兵部尚書の余子俊らは上奏し、陳鉞は累犯の重罪であり、赦すべきではないと述べた。帝は従わなかった。間もなく、指揮の王全らが朵顔衛の人を誘い出して殺害し、強珍がその状況を発覚させると、王全らは皆罪を得た。汪直はちょうど自ら大功を誇っていたところ、強珍の上疏を聞いて怒った。ちょうど辺境巡視から帰還した時、陳鉞が郊外五十里まで出迎え、強珍が自分を誣告したと訴えたので、汪直はますます怒り、強珍の弾劾したことは全て虚妄であると上奏した。詔により錦衣衛千戸の蕭聚を派遣して調査させ、強珍をかせにつけて京師に送らせた。京師に到着すると、汪直が先に拷打し、その後で上奏して報告した。上奏の事実が不実である罪に坐し、贖罪金を納めることとされた。詔により特に遼東への戍辺(流罪)に左遷し、兵部及び以前に陳鉞を弾劾した言官を責めた。三年居住した後、汪直が失脚し、強珍の官職を回復し、致仕(退官)させた。

弘治初年(1488年)、山東副使として起用され、大理少卿に抜擢された。翌年、右僉都御史として宣府を巡撫した。当時、緱謙は既に罷免されていたが、強珍は上奏して緱謙の才力は用いることができると留任を請うた。給事中が、緱謙はたびたび戦機を失ったと述べ、強珍が奏上して保薦すべきではないと言ったので、遂に南京右通政に改任された。まもなく母が老齢であることを理由に休職を乞い、長い後、死去した。

王瑞

王瑞は字を良璧といい、望江の人である。成化五年(1469年)に進士となった。吏科給事中に任じられた。かつて文華殿で内寵(宮中の寵愛)が甚だしくなっていると直言し、言葉と気概は剛直であった。帝は激怒し、同僚たちは震え上がったが、王瑞には恐れる色がなかった。十五年(1479年)、天下の進表官(上京して報告する地方官)がそれぞれ地方の利害を陳述するよう上疏して請うたが、帝はその煩わしさを嫌い、杖刑に処した。

湖広・江西の巡撫・巡按官が管轄区域に災害・損傷・盗賊の発生があるとして、地方官の朝覲(参勤)免除を請うた。王瑞らは言った。「凶作で民が困窮するのは、地方官が職務を果たさないからであり、まさに罪を加えるべきところであるのに、却って留任を請うている。正官(長官)が既に留まるならば、人材の進退をどうやって審査・弁別できようか。これは朝覲・考察の二つの大典が、ここから廃れ損なわれることになる」。帝はその言葉をよしとし、すぐに吏部に禁止させた。都給事中に進み、「三年ごとの罷免・昇進は朝廷の大典である。今、布政使司・按察使司の二司の賢否は、巡撫・巡按の牒報(報告書)による。その他の者は布政使司・按察使司が評定・覆審する。感情任せに毀誉し、多くは真実を失うに至る。推薦・弾劾を誤った者は、連座させるよう請う」。十九年(1483年)冬、王瑞は伝奉(皇帝の直接任命)による冗員が官吏任用の道を混乱させているとして、同官を率いて上奏して言った。「祖宗が官を設けたには定員があり、初めから幸運による登用の道はなかった。近年になって初めて納粟(穀物納入による官位授与)して冠帯(官服)を与える制度ができたが、それはただその身に栄誉を与えるだけで、職務には就かせない。今、幸運の門が大きく開かれ、売買が市場のようである。恩典が内降(宮中からの直接命令)で、胥吏にまで遍く及んでいる。武官の階位の蔭襲(世襲)は、白丁(無官の者)にまで下っている。ある者は選任期が未だ到来していないのに、官資を超越する。ある者は地方の雑流(雑職)の任にありながら、急に京職に昇進する。ひいては下僕の賤しい者や、市井の子供までもが、縁故を頼ることができる。妄りに名器(官位)を窃み、このように過度に濫用されているので、識者は寒心している。伏して英廟(英宗)の復辟(重祚)を拝見するに、景泰年間に幸運で任用された者は結局皆罷免・排斥された。陛下が御位に臨まれて以来、天順年間に功績を詐称した者は一切革除された。宸衷(陛下の御心)から断じられ、悉く斥退・淘汰され、国体を保たれるよう乞う」。御史の宝応出身の張稷らもまた言った。「近来、末流の賤しい技芸の者が妄りに公卿の列に加わり、屠狗(犬屠り)・販繒(絹売り)の者が濫りに清要の職に居る。文官には一字も識らない者があり、武官にも一本の矢も射たことのない者がある。素人が急に貴くなり、一年の間に頻繁に昇進し、あるいは父子が一堂に並んで座り、あるいは兄弟が各官署に分かれて居座る。甚だしきは、軍匠が逃亡・潜伏し、姓を変えて進身したり、官吏が贓罪を犯し、罪を隠して寵愛を希う。一日に数十人が官を得、一つの官署に数百人が俸給だけを受ける。古来より、このような政令があっただろうか」。帝は上疏を得て、考えをかなり動かされた。三日後、李孜省・淩中ら四人の官位を降格し、黄謙・錢通ら九人の官職を剥奪した。人心はこれを快とした。

翌年(成化二十年、1484年)正月、太監の尚銘が罷免・排斥されたが、その一派の李栄・蕭敬らはまだ権勢を振るっていた。王瑞らはまた上奏して彼らを弾劾したが、聞き入れられなかった。王瑞は諫官の地位に十余年居り、湖広右参議に転じ、病を理由に辞して帰郷し、死去した。

李俊

李俊は字を子英といい、岐山の人である。成化五年(1469年)に進士となった。吏科給事中に任じられ、累進して都給事中となった。十五年(1479年)、帝が李孜省を太常寺丞とした時、李俊は同官と共に言った。「李孜省は本来贓吏であり、清班(清要な官班)を汚すべきではなく、郊廟の百神の祭祀を奉ずるにふさわしくない」。ちょうど御史もまた上言したので、上林苑監副に改任させた。

当時、汪直が権柄を窃み、馬文升・牟俸を陥れて戍辺(流罪)に遣わした。帝は言官が糾弾しないことを責め、李俊及び同官二十七人、御史の王濬ら二十九人を杖刑に処した。この時、帝は宴楽に耽り、群小が政を乱し、たびたび災異の譴責を招いた。二十一年(1485年)正月朔日(元日)の申刻(午後3-5時)に至り、星が西に流れ、白気に化け、雷のような音がした。帝はかなり恐れ、直言を求める詔を下した。李俊は六科の諸臣を率いて上疏して言った。

当今の弊政で最大かつ急務なるものは、近幸の紀綱を犯すこと、大臣が職務を果たさぬこと、爵賞が甚だしく濫発されること、工役が過度に煩わしいこと、進献が飽くことを知らぬこと、流亡者が未だ回復せぬことである。天変の到来は、概ねこれに由る。内侍の設置は、国初には皆定められた制度があった。今は或いは一監に一二十人を集め、或いは一事に五六七輩を参画させ、或いは藩郡に分布して王者の奉を享け、或いは辺疆を総領して大将の権を専らにし、或いは左右に依憑して憸邪を援引し、或いは中外に交通して奇巧を投献する。司銭穀の任にあれば法外に財を取り、方物を貢げば多端に賂を責め、兵民は坐して困窮し、官吏は殃いを蒙る。人を殺す者は赦され、事を敗る者は罪を逃れる。梁芳、韋興、陳喜の輩の如きは、枚挙に遑がない。惟陛下には大いに剛断を施し、紀綱を犯すことを許さず、外に奉使する者は悉く召還し、内に用事する者は厳しく省汰せられよ。然らば近幸は収まり天意は回るべし。今の大臣は、未だ進まざる時は、内臣に夤縁せねば進むを得ず、既に進みて後は、内臣に依憑せねば安んずるを得ない。こちらは財で官を買い、あちらは官で財を売る。四方を漁猟し、権貴に転輸するのも怪しむに足らぬ。尚書殷謙、張鵬、李本、侍郎艾福、杜銘、劉俊の如きは、皆既に老いて且つ懦弱である。尚書張鎣、張瑄、侍郎尹直、大理卿田景旸の如きは、皆清議に適わぬ。惟陛下には大いに黜罰を加え、姑息を為さず、然らば大臣は戒めを知り天意は回るべし。爵は有徳を待つにあり、賞は有功を待つにあり。今は或いは故なくして一の庸流に爵を授け、或いは功なくして一の貴幸を賞す。雨雪を祈る者は美官を得、金宝を進むる者は厚利を射る。方士は煉服の書を献じ、伶人は曼延の戯を奏す。掾史胥徒さえも官禄を叨り、俳優僧道もまた班資を玷す。一年に伝奉官は或いは千人に至り、数年で数千人に及ぶ。数千人の禄は、歳に数十万を以て計る。これ皆国の命脈、民の脂膏にして、以て賢士を養い、以て飢民を活かすべきもの、誠に惜しむべし。方士道流の左通政李孜省、太常少卿鄧常恩の輩は、特に誕妄にして、これ天変を招く最も甚だしき者なり。伝奉の官を尽く罷め、朝列を汚玷せしめざるを乞う。然らば爵賞は濫れず天意は回るべし。今、都城の仏刹は寧工に至らず、京営の軍士は復た力を遺さず。国師継曉が術を仮りて私を済し、糜耗ことの外甚だしく、中外切歯する。願わくは陛下、内には資財を惜しみ、外には人力を惜しみ、不急の役は暫く停罷を賜わりたまえ。然らば工役は煩わしくなく天意は回るべし。近来、利を規るの徒は、概ね進奉を仮りて国財を耗す。或いは一方の書を録し、或いは一の玩器を市し、或いは一の画図を購し、或いは一の簪珥を製す。費やすところ多くなく、利は十倍を得る。願わくは陛下、此の弊を洞燭し、府庫の財を留めて軍国の備えとせられよ。然らば進献は止み天意は回るべし。陜西、河南、山西は赤地千里、屍骸は枕籍し、流亡日増し、萑苻の慮りあるべし。願わくは天心の仁愛を体し、生民の困窮を憫み、貴幸の塩課を追録し、暫く寺を造る資財を仮り、飢民に移して振恤し、苟くも存活せしめられよ。然らば流亡は回復し天意は回るべし。天下を譬えば人の身の如し。人主は元首、大臣は股肱、諫官は耳目、京師は腹心、藩郡は躯幹なり。大臣が職を果たさねば股肱は痿痹し、諫官が緘黙すれば耳目は塗塞し、京師が職を果たさねば腹心は病を受け、藩郡に災荒あれば躯幹は削弱す。元首豈に宴然として安んずるを得んや。伏して望む、陛下には言を聴きて必ず行い、天に事えて実を以てせられんことを。群小を疏斥し、賢臣に親近せられ、治道の得失を諮り、前代の興亡を究め、聖賢の経を以て方書に代え、文学の臣を以て方士に代えられよ。然らば必ず正誼ありて聖学を広うするに足り、讜論ありて天変を究うるに足らん。而して手足は便利に、耳目は聡明に、腹心は安泰に、躯幹は強健に、元首はここに於いて大いに明らかならん。

帝は優詔を以てこれに答え、孜省を上林丞に降し、常恩を本寺丞とし、継曉は国師を革めて民とし、巡按御史にその誥敕を追わせるよう命じた。制が下り、挙朝大いに悦んだ。五月、俊は出て湖広布政司参議となる。弘治年間、屡官して山西参政に至り、卒す。

汪奎

汪奎、字は文燦、婺源の人。成化二年の進士。秀水知県となり、御史に擢げられる。二十一年、星変あり、同官と共に疏を上し十事を陳べ、言う。

建言して貶謫された諸臣は、国に効忠した者ゆえ、その職を復すべきである。妖僧継曉は中官梁芳と結び、内蔵を耗竭させた。芳の罪を治め、継曉を都市に斬ることを乞う。伝奉官顧賢らは皆中官恒の従子にして錦衣を冒し、李孜省は小吏にして通政を授けられた。皆斥けて以て仕路を清むべし。尚書殷謙、李本、侍郎杜銘、尹直は、皆平素より清誉に乏しく、尚書張鵬、張鎣、張瑄、侍郎杜謙、艾福、馬顯、劉俊、大理卿宋欽、巡撫都御史魯能、馬馴は、皆老懦にして無能、侍郎談倫は奔競にして無恥、巡撫趙文博は粗鄙にして妄為、大理卿田景旸は素行謹まざる者なり。致仕せしむべし。鎮守・守備の内官は天順年間に比べ数倍を逾え、威福を作し、有司を凌虐す。浙江の張慶、四川の蔡用は四品以下の官を逮治し、特に国体を傷つく。悉く撤還すべし。内外の坐営・監槍の内官は増置過多で、皆軍士を私役し、月銭を辦納せしめ、多きは二三百人に至る。武将もまた健丁を私役し、行伍には老弱のみ存す。勛戚・内官は塩利を奏乞し、満載して南行し、至る所で欽賜の黄旗を張り、商旅は行かず、辺儲は虧損す。並びに厳禁すべし。陜西、山西、河南は頻年水旱に遭い、死徙大半、山・陜の民は僅かに存するのみ。被災郡県を核し、概ね蠲除すべし。給事張善吉は先に罪に坐し謫官、考績して京に至り、昏夜憐れみを乞い、この職を授かるを得、大いに清班を玷す。罷斥すべし。山・陜・河・洛の飢民多く鄖・襄に流れ、骨肉相啖むに至る。大いに帑庾を発して振済し、他の変を消弭すべし。」当是の時、帝は災変を以て言を求め、奎の疏が入るも、帝の忌に触れたれども、未だ譴を加えず。間もなく、御史に失儀あり、奎は面を当てて糾すべきところ、退朝して乃ち奏す。帝はその怠緩を以て、廷に於いて杖つ。数ヶ月居りて、復た出でて夔州通判となり、雲陽の劇賊を討平す。

孝宗立つ、量移して叙州同知となる。推薦により、擢げられて成都知府となる。歳饑え多く盗賊あり、振救多く復業す。三遷して広西左布政使となる。弘治十四年、右副都御史として貴州を巡撫す。未だ歳を浹へず、普安の賊婦米魯乱を作し、劾せられて致仕す。正徳六年卒す。

従子舜民、字は従仁。成化十四年の進士。行人に授かり、御史に擢げられ、出でて甘肅を按ず。中官将帥の失事を劾し、辺計を陳べ、章数十上す。先に、奎が闕下に杖たれし時、舜民これを扶掖す。帝聞きて怒る。ここに至り、奏獄の情詞当たらずとし、蒙化衛經歷に貶す。

弘治初年、東莞知県に転じたが、赴任せず、江西僉事に抜擢された。訴訟の審理に長け、流れるように分析した。その清軍法は、後世の人々がこれを遵守した。雲南屯田副使に改めた。勢家に奪われた田地を整理して官に帰した。麓川の残党思祿が金沙江を渡り孟密を占拠したが、檄を受けてこれを撫定した。母の喪で帰郷した。喪が明けると、丁度淮・揚で大飢饉があり、元の官職で救済を命ぜられた。便宜を以て穀物を発給し、不急の事業を停止するよう上奏し、飢民百二十万人を救い、流民で復業した者は八千余戸に及んだ。福建按察使に進んだ。福清県の倉庫を盗んだ事件があり、ある者がその怨家を誣告し、既に判決が下っていた。舜民は真の盗賊を探り出し、三十人を死罪から免れさせ、誣告者を罪に処した。旱魃があり、祈禱も応じなかった。自ら福州の監獄に臨み、冤罪で拘束された軽罪者を釈放し、管下の役所に皆監獄を清めるよう命じると、大雨が降った。河南左・右布政使を歴任した。正徳二年、右副都御史として鄖陽を巡撫した。僅か一月で、天下の巡撫官が廃止され、南京都察院に転じたが、赴任途中で死去した。

奎は簡素で静かな性格で、取るに足らぬものは取らず、篤実と称された。一方、舜民は学問を好み行いを磨き、高潔に風節を保ち、特に当時の声望を負っていた。

星変に際して意見を求めた時、九卿は各々数事を条奏したが、概ね避けるところがあり、甚だ激切なものは無かった。ただ奎と李俊らの言が最も率直であった。武選員外郎崔升・彭綱、主事蘇章、戸部主事周軫、刑部主事李旦も皆意見を述べた。升と章は宦官と妖僧の罪を言い、速やかに誅殺・流罪にするよう請い、尚書王恕は今の伊尹・傅説であるから、南京に置くべきではないと言った。綱は李孜省・継曉を糾弾し、天下に謝罪するため誅殺するよう請うた。軫も梁芳・李孜省の誅殺を請い、併せて内侍を淘汰し、方術の書を廃止するよう言った。旦は十事を陳べ、且つ言うには、「神仙・仏老・外戚・女謁、声色貨利、奇技淫巧は、皆陛下が平素惑溺されているものであり、左右の近習が互いに誘っている」と。言は甚だ切直であった。帝は修省中であったため、皆罪に問わなかった。後に、吏がかつて外蕃に賜った旧勅書を盗み売った事件で、綱と章を吏に下し、遠方に貶した。そして密かに吏部尚書尹旻に命じて旦らを出させ、且つ六十人の姓名を屏風に書き、奏上して昇進させる時には遠く悪地に貶すようにした。旦は給事中盧瑀・秦昇・童と同日に皆貶謫された。部臣は遠く貶される者が多いのを見て、昇進すべき者があれば敢えて遅らせた。升と軫はこうして免れることができた。

崔升は字を廷進といい、元は楽安の人である。父が彰徳庫大使であったため、そこに住んだ。成化五年の進士。工部主事から兵部に改めた。次第に延安知府、四川参政に昇った。官職に廉潔で、普段は布袍を着て、家童が馬糞を拾って炊事に用いた。家に三十年居り、八十八歳で死去した。子の銑は別に伝がある。

彭綱は清江の人である。蘇章・周軫・秦昇・童と共に成化十一年の進士。永寧知州に貶され、汝州に改めた。渠を開鑿して数千畝の田を灌漑した。再び雲南提学副使に昇った。

蘇章は余幹の人である。姚安通判に貶され、再び延平知府に昇った。政績があった。浙江参政で終わった。周軫は莆田の人で、副使瑛の甥である。後に郎中に進み、山東運使で終わった。

李旦は字を啓東といい、献県の人である。成化十七年の進士。鎮遠通判に貶され、間もなく死去した。

盧瑀は鄞県の人である。成化五年の進士。刑科給事中となり、淮・揚の未納租税十余万を免除するよう上疏し、西北での戦馬強制買い付けの積弊を清めた。かつて帝の怒りに触れ、杖刑に処された。工科都給事中に昇り、昇・童と共に星変に因んで意見を陳べ、譴責を受けた。瑀は長沙通判に貶され、広平知府で終わった。

秦昇は南昌の人で、広安州同知に貶された。童は蘭溪の人で、興国州同知に貶され、袁州知府で終わった。

この時、崔升は王恕を召還するよう請うて旨に逆らい、工部主事王純もまた王恕の罷免を諫めて杖刑に処され貶官された。純は仙居の人である。成化十七年の進士。思南推官に貶された。弘治年間、累進して湖広提学僉事となった。

湯鼐

湯鼐は字を用之といい、寿州の人である。成化十一年の進士。行人に授けられ、御史に抜擢された。

孝宗が帝位を継ぐと、真っ先に大学士万安が上を欺き国を誤ったことを弾劾した。翌日、左順門に宣された。宦官が林立し、跪くよう命じた。鼐は言った、「鼐に跪けと命じるのは、聖旨か、それとも太監の意向か」と。答えて「旨がある」と言ったので、鼐はようやく跪いた。旨が宣されると、上疏は既に留中されたと言う。鼐は大声で言った、「臣が言うのは国家の大事である。どうして留中されるのか」と。やがて安は罷免され、鼐もまた畿輔で印馬の任に出て、馳せ上疏して言った、「陛下は朝見の余りに、便殿に臨み、劉健・謝遷・程敏政・吳寬のような端方で謹厚な侍臣を選び、日々講学論道して、治世の根本とすべきである。内閣の尹直、尚書李裕、都御史劉敷、侍郎黄景のような奸邪無恥の徒は、或いは宦官に取り入って進用され、或いは佞幸に依附して私を行っている。早く駆逐しなければ、必ず聖明の累いとなろう。司礼中官李栄・蕭敬は以前言官に弾劾されて罷免されたが、間もなく縁故で再び入った。そこで言官の過失を拾い上げ、殆ど全て貶謫し、士気を委靡させた。速やかに典刑を正し、姑息にしてはならない。諸々の伝奉で官を得た者は、悉く瘴癘の地に配流し、天下に戒めを示すべきである。且つ致仕した尚書王恕・王竑、都御史彭韶、僉事章懋らを召し還し、建言で罪を得た諸臣を戻して、風節を励ますべきである」と。上奏は聞き届けられた。

弘治元年正月、鼐はまた礼部尚書周洪謨、侍郎倪嶽・張悅、南京兵部尚書馬文升を弾劾し、併せて言った、「少傅劉吉は、万安・尹直と奸貪同じである。安・直は罷免されたのに、吉だけは官を進め、恥じるところがない。大いに黜陟を明らかにし、勧懲を示すべきである」と。また李栄・蕭敬を弾劾し、貶降された進士李文祥を台諫に推薦した。尚書王恕が酷暑のため経筵の停止を請うたが、鼐は極力不可であると主張し、言葉は恕を冒した。

当時、帝は諸政を一新し、言路は大いに開かれた。新進の者は競い、功名を以て自らを現さんとした。上奏文が錯綜し、激しい攻撃で傷つくことが多く、鼐の意気は特に鋭かった。その抨撃は、時に海内の人望をも含み、故に大臣は多くこれを畏れ、吉は特に耐えられなかった。人をやって御史魏璋に言わせた、「君が鼐を除くことができれば、僉院事に任じよう」と。璋は喜び、日夜鼐の短所を窺った。間もなく、吉人の獄が起こった。

吉人は長安ちょうあんの人である。成化末年に進士となり、中書舎人となった。四川に飢饉が起こると、帝は郎中江漢を派遣して救済させた。吉人は江漢が任に堪えないと上言し、四名の使者を分遣して救済すべきであり、また才能ある御史を選んで巡按とし、荒政に補益すべきであるとした。そこで給事中宋琮・陳矞・韓鼎、御史曹璘、郎中王沂・洪鐘、員外郎東思誠、評事王寅、理刑知県韓福および寿州知州劉概を使えると推薦し、巡按は李鼐が任に足るとした。

刑部尚書何喬新・侍郎彭韶らがこれを支持し、外の議論もまた沸騰して不平であった。そこで劉概を妖言律に坐して斬刑とし、李鼐は賄賂を受け取ったとして粛州に流刑、吉人は欺瞞の罪で官籍削除、鄒智・李文祥・董傑はいずれも官を貶された。吏部尚書王恕が上奏して言うには、「律は妖言を重んずるが、それは符讖の類を作ることを指すのである。劉概の書中の言葉は虚妄ではあるが、もともと李鼐が利害を避けずに事を言うのを推奨したものである。今これを妖言とすれば、もし亡秦の讖を作るような者があった場合、さらに何をもって罪とするのか」と。帝は上疏を得て心動き、暫く獄に繋ぐよう命じた。やがて熱審となり、何喬新らが言うには、「劉概は本来妖言律に当たらない。また劉概は五歳で孤となり兄弟がなく、母の孫氏は三十年節を守り、かつて表彰されたが、老病で貧しい。劉概が死ねば母も必ず全うしない。聖恩の憐憫を乞う」と。そこで劉概の死罪を減じて海州に流刑とした。

劉概は済寧の人である。成化二十年に進士となり、寿州知州に任じられた。境内の淫祠をほとんどことごとく破壊し、三年で教化が大いに行われた。弘治初年に上言して言うには、「刑賞と予奪は人主の大権であるが、後世には女子・小人・強臣・外戚によってさんさんだつされることがある。これは彼らが心険しく術巧みで、人主が少しでも親信すると、たちまち計略に陥るからである。愛する者には君の喜びに乗じて遊言を以てこれを揚げ、悪む者には君の怒りに乗じて微言を以てこれを中て、賢人君子をついに曖昧の罪で去らせる。卿相に欠員があれば、引き延ばして餌で誘い、交通と請託に応じる柔軟で制しやすい人物を得てから、ようやく推薦任用する。剛正で阿らない者は、ことごとく罪を捏造して放棄し、その気勢が衰え考えが変わり、大いに異同を立てないようになってから、ようやく再び登用する。巧みな計略が行われれば、刑賞と予奪は名目上は人主が独りで掌握していても、実際にはすべて彼らの操弄から出る。党が立ち勢力が成ると、また一朝に敗露することを恐れ、さらに極力諫諍の士を排斥する。その君を上に孤立させ、耳に聞くことなく目に見ることなくして、私利を図り、その身と国がともに敗れるに至るまで止まない。ゆえに刑賞と予奪は、必ず大臣の奏請と台諫の集議を経てから行うべきである。もしも矯誣があれば、徹底的に糾明して軽く赦さず、そうすれば讒佞は間に入れず、権力は下に移らない」と。考課で都に赴き、そこで禍に遭い、ついに流刑地で没した。

李鼐は流刑となった後、援ける者もなく、久しくしてようやく釈放されて帰った。

董傑は涇県の人である。成化末年に進士となった。李鼐が暑月の講義停止を論じたとき、董傑はちょうど謁選中であり、また抗疏して争ったため、これによって知名となった。沔陽知州に任じられてわずか数か月で詔獄に捕らえられ、四川行都司知事に貶され、累遷して河南左布政使となった。任地では職務を尽くし、民に懐かれた。正徳六年、江西で賊が起こり、巡撫王哲が兵敗して召還されると、董傑を右副都御史に抜擢して代わらせた。間もなく没した。

陳璋は吉人の腹心となった後、果たして大理寺丞に抜擢された。事に坐して獄に下され、九江同知に左遷され、鬱々として死んだ。

姜綰

姜綰は字を玉卿といい、弋陽の人である。成化十四年に進士となり、景陵知県から抜擢されて南京御史となった。弘治初年、治道十事を上陳した。また午朝では大政を論じ、細事を漫然と陳述すべきでないと述べ、いずれも聞き届けられた。

二年二月、南京守備中官蒋琮が芦場の件で姜綰に覆按を下されると、蒋琮は姜綰に依頼して自己に有利になるよう求めた。姜綰は上疏して言うには、「蒋琮は守備の重臣として小民と利を争い、公事を仮りて私情に適う。掲帖を用いて詔旨に抗し、陰に中ると揚言し、必ず従うよう脅す。その他、成法を変乱する罪は十ある。内官が言官の職権を侵すこと、これが罪の一。大臣を妬み害し、都御史秦紘を妄りに論ずること、これが罪の二。河閘官が迎候を失ったことに怒り、罷免しようと奏すること、これが罪の三。民の詞訟を通政司を経由せずに受けること、これが罪の四。腹心を分遣して国課を侵漁すること、これが罪の五。按季で班匠の工銀を収めること、これが罪の六。罷閑都事を擅かに収用すること、これが罪の七。官僚が意に逆らうと、たちまち中傷をほしいままにすること、これが罪の八。主事周琦の罪を妄りに奏し、朝廷を欺罔すること、これが罪の九。罷斥された内臣を保挙し、天子の威柄を窃むこと、これが罪の十」と。事は南京三法司に下された。その後、さらに特に官を派遣して覆治させて奏上させた。

先に、御史余濬が中官陳祖生が制に違反して後湖の田を開墾し、湖がこれによって淤塞したと弾劾した。奏上は南京主事盧錦に下され、勘報させた。盧錦はもともと陳祖生と不和であった。また給事中方向はかつて同官繆樗らを率いて陳祖生および文武大臣の不職を弾劾し、また孝陵の柏が雷震されたことを因んで大学士劉吉ら十一人を弾劾し、陳祖生をとりわけ激しく誹謗した。陳祖生は方向を骨髄にまで恨んだ。当時方向は後湖の黄冊を監査しており、陳祖生は方向と盧錦が実際に湖田を侵していると告発した。詔が法司に下され、勘案させた。勘案が上る前に、蒋琮が姜綰に弾劾された。そこで蒋琮・陳祖生および劉吉が合謀して盧錦を官籍削除とし、方向を貶官とし、さらに姜綰および同官の孫紘・劉遜・金章・紀傑・曹玉・譚粛・徐礼・余濬、給事中繆樗を捕らえて京に送り審問させ、いずれも州判官に貶した。

姜綰は桂陽州判官に貶され、量移して寧国同知となり、慶遠知府に遷った。劇賊の韋七旋・韋万妙を斬った。その党が数万の賊を糾合して城を攻めると、姜綰は堅守し、民兵に檄を飛ばして挟撃し、撃破して敗走させた。東蘭などの州の蛮族はことごとく侵奪した土地を返還した。総督劉大夏はその才能を奇とし、右江兵備副使に推薦した。思恩知府岑濬が田州知府岑猛を追放すると、姜綰は総督潘蕃に献策した。潘蕃は都指揮金堂と諸路の兵を合わせて大いに賊を破るよう命じ、思恩は平定された。姜綰は二府の形勢を条陳し、流官を設置して中原の制度に準ずるよう請い、廷議はこれに従った。姜綰は病を理由に引退して帰った。まもなく河南按察使に起用され、間もなくまた病で帰り、家で没した。

余濬は慈渓の人である。成化十七年に進士となった。孝宗の初年、納粟入監の令を永く廃除するよう上疏して請うた。また浙江鎮守中官張慶・広東鎮守中官韋眷を弾劾し、あわせて王恕が内閣に堪え、馬文升・彭韶・張悦・阮勤・黄孔昭が吏部に堪えると推薦した。後湖の勘案は、余濬がこれを発端とした。平度州判官に貶され、知府で終わった。

方向は字を与義といい、桐城の人である。成化十七年に進士となった。雲南多羅駅丞に貶され、累官して瓊州知府となった。入覲のとき、従者が私的に一つの珠を買い、方向はこれを取り上げて海に投げ捨てた。

繆樗は、字を全之といい、溧陽の人である。成化十一年の進士。孝宗の初め、時政八事を上奏した。これにより大学士尹直らを弾劾し、当時「敢言」と称された。終わりは営州判官であった。

孫纮は、字を文冕といい、鄞の人である。成化十四年の進士。膠州判官に左遷され、広徳知州に昇進し、任地で死去した。纮は若くして貧しく、書を傭い肉を買って母を養った。官籍に通じてからは、生涯肉を食わなかった。

劉遜は、安福の人である。成化十四年の進士。澧州判官に左遷され、武岡知州に昇進した。岷王が臣下を律さないので、遜はこれを抑制し、さらにその歳禄を減らそうとした。王は怒り、朝廷に奏上し、詔獄に下され、四川行都司断事に貶され、湖広副使を歴任した。劉瑾が賄賂を要求しても得られず、軍備蓄積不足の罪で逮捕されたが、後に釈放された。再び裁判遅延の罪で、罰米百石を科された。先に、栄王が辰州・常徳の田二千頃、山場八百里、民家・店舗千余間を賜るよう請うたが、遜と巡撫韓重は与えないよう主張した。この時、劉瑾はすべてこれを与えた。部議は遜を瓊州副使に補うとしたが、劉瑾は強いて致仕させた。劉瑾が誅殺されると、官に起用され、福建按察使を歴任した。

金章らには他に顕著な事績は見られない。

姜洪

姜洪は、字を希範といい、広徳の人である。成化十四年の進士。盧氏知県に任じられた。単騎で農桑を勧めた。民の姜仲礼が父の死罪に代わろうと願い出たので、洪は上奏してこれを赦免させた。御史に召し出された。

孝宗が即位すると、時政八事を上奏した。太監蕭敬、内閣の万安・劉吉、学士尹直、侍郎の黄景・劉宣、都御史劉敷、尚書の李裕・李敏・杜銘、大理丞宋経らを次々と弾劾し、一方で致仕した尚書の王恕・王竑・李秉、去任した侍郎謝鐸、編修張元禎、検討陳献章、僉事章懋、評事黄仲昭、御史の強珍・徐鏞・於大節、給事中の王徽・蕭顕・賀欽、員外郎林俊、主事王純、および現任の尚書余子俊・馬文升、巡撫彭韶、侍郎張悦、詹事楊守陳らを推薦した。また、指揮使許寧、内官の懐恩はともに同輩の中から抜擢され、任使に足ると述べた。その他の上奏内容は多く近幸の者を斥けるもので、上疏の文辞はほぼ一万言に及んだ。帝はこれを嘉納した。斥けられた者たちは恨みを抱いてやまなかった。

弘治元年、湖広巡按に出向し、督漕都御史秦紘と文書のやり取りで争い、弾劾された。担当官庁は洪に罪がないと申し立てた。劉吉が洪を陥れようとし、再び礼部に会議させたため、夏県知県に貶された。御史欧陽旦が洪や暢亨らを召還するよう請うたが、聞き入れられなかった。桂林知府に転じた。瑶・僮が古田を侵擾したので、出兵を請うて平定し、雲南参政に抜擢された。土官の陶洪が八百媳婦と結んで乱を企てたので、洪は機に乗じてこれを討滅した。山東左参政を歴任した。正徳二年、山西布政使に昇進した。劉瑾が賀印銭を要求したが、応じなかった。四年二月、中旨により致仕を命じられた。劉瑾が誅殺されると、山東左布政使として起用された。七年、右副都御史として山西巡撫に就任したが、一年満たずに死去した。

洪は廉直な性格で、死後、葬儀を挙げることができなかった。天啓初年、追謚して荘介とした。

欧陽旦は、安福の人である。成化十七年の進士。休寧知県から御史に抜擢された。かつて劉吉を追放し、皇荘を廃止するよう請うたことがある。湖広僉事、浙江副使を歴任し、終わりは南京右副都御史であった。

暢亨は、字を文通といい、河津の人である。成化十四年の進士。長垣知県から御史に抜擢され、浙江巡按を務めた。凶年に際し、上供の綾紗などの物品を廃止するよう上奏した。弘治元年二月、景寧県の屏風山に異獣万余りが現れ、羊ほどの大きさで白色で、尾を銜えて空中を浮かび去った。亨は温州・処州の銀課を廃止し、鎮守中官の張慶を法に処するよう請うた。上奏文は担当官庁に下され、銀課は減額され、張慶は陳状を提出するよう責められた。張慶は亨が官吏考査を不公平に行ったと逆に訴え、亨の俸給を三か月停止させた。亨はさらに僉事の鄒滂を弾劾し、鄒滂もまた亨を訴えた。張慶らがこれを陥れ、亨を逮捕し、涇陽知県に左遷した。給事中龐泮が上疏して争ったが、聞き入れられなかった。

曹璘

曹璘は、字を廷暉といい、襄陽の人である。成化十四年の進士。行人に任じられた。しばらくして、御史に選抜された。

孝宗が帝位を継ぐと、上疏して言った。「先帝の棺が発引する際、陛下は喪服を着て杖履し、大明門外まで見送り、拝礼して泣き別れ、宮中で三年の喪に服されるべきです。貴妃万氏には罪がありますので、先帝に告げ、その謚を削り、別の所に改葬すべきです。」帝はその奏を採用したが、貴妃の件については言うなと戒めた。まもなく、王恕ら諸大臣を登用し、先朝において時事を論じた于大節ら諸臣の官職を復し、宮中の怨女を放出し、京営監督及び四方鎮守の太監を廃止撤去するよう請うた。また言った。「梁芳は指揮使袁輅に地を献上させ寺を建立し、広平侯の爵位を世襲させようと請うています。数畝の地で侯爵を得るならば、勲臣たちは誰が離反しないでしょうか。速やかにこれを廃止すべきです。」上疏が奏上されると、帝はかなり採用した。

弘治元年七月、上言した。「近ごろ星が隕ち地震があり、金木二星が昼間に現れ、禁門が雷撃され、皇陵に雹が降り、南京の内園で火災があり、狂夫が宮門で叫び、景寧に白気が飛騰しました。しかし陛下は災いを招いた原因を深く探求せず、災いを消し止める実を尽くされません。経筵は開かれていますが、形骸化しています。始めたかと思うとすぐに休み、暫く行うと急に中止する、いわゆる『一日これを暴き、十日これを寒からしむ』状態です。日々講殿に臨み儒臣と議論し、大学士劉吉らを罷免斥退して、天変を消し去られるよう願います。臣は昨冬、陛下に墨衰で政務を見られるよう請いましたが、今は節句ごとに次第に黄袞を着用され、従官も朱緋を着ています。三年の間、喪服の日はどれほどあるでしょうか。浅い服のみを着用されるべきです。また陛下が諒闇中であるのに、少監郭鏞が妃嬪を選ぶよう請うています。拒絶して受け入れなかったとはいえ、郭鏞はなお任用されています。どうして臣民の疑いを解けましょうか。祖宗は自宮の禁令を厳しくしていますが、今、この輩が競って進出しています。罪に問うべきです。朝廷が特に書堂を設け、翰林官に内使を教習させているのは、本来高皇帝の制度ではありません。詞臣の多くは縁故を頼って進出し、内官もまた儒術を借りて奸を飾っています。速やかにこれを廃止すべきです。諸辺境に警報があるたびに、京軍を北征させていますが、この輩は驕惰が久しく、用に足りません。今後は派遣せず、出師の費用をもって辺軍を賞すべきです。」帝は上疏を得て、喜ばず、詔を下して譴責した。

既にして、出でて広東を按察し、新会にて陳献章を訪い、その言論に感服し、遂に病を引いて帰る。山中に居て書を読み、三十年城市に入らず。

彭程

彭程、字は万里、鄱陽の人。成化末の進士。弘治初め、御史に授かり、京城を巡視す。降人雑居し畿甸に多く盗を為し、事発すれば則ち戚裏・奄豎に投じて窟穴と為す。程は毎に先機を以てこれを制し、発有れば輒ち得たり。両浙の塩を巡り、代わり還り、光禄を巡視す。

五年、上疏して言う、「臣適に光禄の皇壇の器を造るを見る。皇壇とは、先帝が斎を修め法を行いし所なり。陛下即位し、此の類廃斥尽くす、何ぞ復た皇壇有りて煩わしく器を置かん。光禄の金銭は、悉く民の膏血なり。用いて其の当を得れば、猶お民を病むを恐る、況んや無用の地に投ずるをや。頃に李孜省・継曉の輩邪説を倡え、而して先帝篤くこれを信じしは、意遠く福寿を希うに在り。今二人已に重辟に伏す、則ち禍患の来るや、二人尚お自ら免るる能わず、豈に他人を福寿せしめんや。倘し陛下果に此の挙有らば、宜しくこれを将に萌さんとするに遏すべし。如し無くんば、請う所司の逢迎の罪を治めんことを。」帝初め皇壇造器の命無く、特光禄姑く備えを為す。帝程の奏を得て大怒し、以て先帝の過ちを暴揚すと為し、立って錦衣獄に下す。給事中叢蘭も亦た光禄を巡視し、継いで上疏してこれを論ず。帝蘭を宥し、光禄卿胡恭等の俸を奪い、程を刑部に付して罪を定めしむ。尚書彭韶等は贖杖して職に還るを擬す。帝これを死に置かんと欲し、命じてこれを繫ぐ。韶等復た疏を上して救い、程の子尚三たび章を上して父に代わりて死なんことを乞う、終に聴かず。

是の時、陝西を巡按する御史嵩県の李興も亦た酷刑に坐して獄に繫がる。朝審に及び、興及び程の罪状を上す。詔して興を斬り、程及び家属を隆慶に戍らしむ。文武大臣英国公張懋等合疏して言う、「興の斃かす所多くは罪犯、宜しく死を以て当うべからず。程は諫を用いて職と為し、此れに坐して辺に戍らしめば、則ち奸を作し法を枉ぐる者を何を以てか之を処せん。」尚書王恕又た特疏を上して救う。乃ち興の死を減じ、之を杖つこと百、妻子と偕に賓州に戍らしめ、程は竟に減ずる所無し。程の母李氏年老いて他子無く、闕を叩きて留まり侍養せんことを乞う。南京給事中毛呈等も亦た奏して曰く、「昔劉禹錫王叔文に附きて遠方に竄すに当たり、裴度其の母老ゆるを以て請い、連州に改むるを得たり。陛下の聖徳、唐の中主に比すべからず、而して程の罪も亦た禹錫に異なり。少しく矜憐を祈り、其の母子を全うせん。」許さず。子尚父の戍所に随い、遂に広西の郷試に挙がる。明年、帝程の母老ゆるを念い、還すを放つ。其の後、劉瑾政を乱し、程の塩を巡りし時稍々額課を虧くを追論し、其の家に償わしむるを勒す。程死すること久しく、止めて一孫女を遣わす。産を罄くして足らず、則ち並びに女を鬻ぎ、行道皆な之が為に流涕す。

龐泮

龐泮、字は元化、天臺の人。成化二十年の進士。工科給事中に授かる。弘治中、中旨にて善く銅鼓を撃つ者を取る、泮疏を上して諫む。屡遷して刑科都給事中と為る。副使楊茂元逮われ、泮同列を率いてこれを救い、茂元薄譴を得たり。

九年四月、帝岷王の武岡知州劉遜を劾するを以て、命じてこれを逮う。泮同官呂献等を率いて言う、「錦衣天子の視軍、不軌及び妖言の重情に非ざれば軽く遣わすべからず。遜の坐する所微にして、而して王の奏左証百人を牽き、勢い尽く逮うるに難し。宜しく撫・按官に勅し体勘せしむべし。」疏入り、旨に忤い、泮等四十二人及び御史劉紳等二十人を詔獄に下す。六科署空しく、吏部尚書屠滽中書に令して部院の封事を代わり収むるを請う。御史張淳使いを奉じて還り、独り与からざるを恥じ、抗疏してこれを論ず。考功郎中儲雚も亦た諫め、滽等復た九卿を率いてこれを救う。帝乃ち泮等を釈し、皆な俸を停むること三月。

中官何鼎直言を以て獄に下り、楊鵬・戴禮夤縁して司礼監に入る。泮等言う、「鼎狂直容るべし。鵬等先朝に罪を得、機密に参ぜしむ、害小ならず。」会す、御史黄山・張泰等も亦た以て言と為す。帝怒り、詰す外廷何ぞ由って内廷の事を知るや、状に対せしむるを令し、泮等の俸を停むること半歳。威寧伯王越起用を謀り、中官蔣琮・李広罪有り、外戚周彧・張鶴齢家奴を縦して人を殺す、泮皆な極論し、直声甚だ著し。

十一年、福建右参政に擢てらる。中官宋儒黄幹の宅を奪いて僧庵と為す、泮これを改めて書院とし以て幹を祀る。河南右布政使に遷る。中旨洛陽らくようの牡丹を取る、疏を上してこれを罷むるを請う。転じて広西左布政使と為り、致仕す。

呂献、浙江新昌の人。成化二十年の進士。刑科給事中に授かる。事に坐し、闕廷に杖たる。弘治時、詔して駙馬を選ぶ。李広富人の金を受け、陰に地と為す、献の発する所と為り、直声有り。正徳中、終に南京兵部右侍郎。

葉紳

葉紳、字は廷縉、呉江の人。成化末の進士。戸科給事中を除き、吏科に改め、礼科左給事中を歴任す。

弘治十年、太子年七歳、猶お未だ出閤せず、紳講官を択び教諭せんことを請う。尋ねて修省を以て、八事を陳ず。中官李広を斥け、又た尚書徐瓊・童軒・侯瓚、侍郎鄭紀・王宗彜、巡撫都御史劉瓛・張誥・張岫等二十人を劾し、賜いて罷斥せんことを乞う。而して末に「大奸を去る」と言えば、則ち専ら李広の八大罪を劾す、「陛下に焼煉を以て誑かし、而して経ざるの薬を進む、罪一。太子の為に寄壇を立て、而して暖疏の説を興す、罪二。皇親を撥置し、恩寵を希求す、罪三。玉泉を盗み引き、私第を経繞す、罪四。首めて幸門を開き、大肆に奸貪す、罪五。太常崔誌端・真人王応裿の輩広を称して教主真人と為す、広即ち代わりて善官を求め、玉帯を賜わんことを乞う、罪六。果戸を仮り名と為し、畿民の土地を侵奪し、幾くんか激変に至らんとす、罪七。四方輸納上供するも、威を取り勢い逼り、民をして破産せしむ、罪八。内にては皇親駙馬之を事うること父の如く、外にては総兵鎮守之を称して公と為す。陛下奈何ぞ此の大奸を肘腋に養い、而して駆斥を思わざるや!」御史張縉等も亦た以て言と為す。帝曰く、「姑くこれを置け。」数ヶ月を逾え、広竟に罪を得て冘を飲みて死す。

紳又た大臣の恩蔭葬祭の濫を極めて陳ず。所司に下して議せしめ、頗る減損有り。尚宝少卿に擢てられ、卒す。

胡献

胡献、字は時臣、揚州興化の人。弘治九年の進士。庶吉士に改められ、御史を授かる。一ヶ月余りで、早くも時政の数事を極論し、言うには、「屠滽が吏部尚書となり、王越・李蕙が都御史となったのは、皆中官李広に通じて得たものである。李広が奸を売ることができるのは、陛下が政を議するに大臣を任用せず、李広の輩を任用されるからである。祖宗の時は、常に内閣を御して章奏を商決し、経筵の日講には悉く時政の得失を陳べ、また時に儒臣を接見された。願わくは陛下、旧制を追復されたし。京倉・通倉の二倉の総督・監督の内臣は、米一万石を収めるごとに白金十両を強要する。歳運四百万石で計算すれば、一人四千両となる。また各々斗級二三百人を占めて、月銭を納めさせている。倉儲を監督するのは、もとより戸部の職掌であり、中官を用いる必要があろうか。願わくは罷遣を賜わらん。京操の軍士は数千里より至るのに、総兵・坐営等の官が各々分属させて月銭の辦納をさせている。厳しく革めてその困窮を蘇らせられたい。陛下は災に遇って修省され、去春には言を求めたが、諫官及び郎中王雲鳳・主事胡爟は皆論奏したのに、留中して報いず、雲鳳はやがて罪を得た。このようでは、修省しないのと何が異なろうか。願わくは聖心より断じ、凡そ利弊で興革すべきものは、即時に施行されたし。東廠の校尉こういは、本来奸を緝めるためであるが、近頃はただ内戚・中官の憤りを泄らし怨みを報いるためだけに用いられている。例えば御史武衢が寿寧侯張鶴齢及び太監楊鵬に忤い、主事毛広が太監韋泰に忤ったが、皆校尉に発覚させられ、細事を推求して罪名を誣いられた。挙朝その冤を知りながら、敢えて言う者がない。臣もまた今日これを言えば、他日に必ず陥れられることを知っているが、臣は懼れない。」疏が入ると、鶴齢と泰は各々疏を上って弁明した。時に給事中胡易が監庫の中官賀彬の貪黷八罪を弾劾し、彬もまた易を訐った。帝は遂に献と易を詔獄に下し、献を藍山丞に貶謫した。久しくして、易を釈放した。献は未だ官に赴かず、宜陽知県に遷った。馬文升が数度朝廷に推薦し、南都察院の経歴に遷った。武宗即位の時、広西提学僉事に抜擢され、福建提学副使に遷ったが、未だ任に就かずして卒した。

武衢は沂水の人、成化二十年の進士、御史として雲南通海の主簿に貶謫され、終に汾州知州となった。毛広は平湖の人。成化二十年の進士。その事跡は考うるに由なし。胡易は寧都の人。弘治三年の進士。吏科給事中となった。華昶が程敏政を弾劾した時、法司の白昂・閔珪が旧章に拠り六科に共に鞫問させた。東廠が易らは皆昶の同僚であるから訊問に参与すべからずと弾劾した。詔を得て詔獄に下された。昂と珪は罪を請い、皆停俸された。昶の獄が決した時、易らは猶も繋がれていたが、大臣が言上したので、始めて復職を命じられた。

弘治の時、言官で内臣に忤って罪を得た者には、また任儀・車梁がいた。

任儀は閬中の人。成化二十三年の進士、御史となった。弘治三年秋、詔して大興隆寺に斎を修めさせた。理刑知県の王嶽が騎馬で通りかかると、中使が嶽を捽び辱めて、寺前に跪かせた。儀は不平に思い、中使の罪を弾劾した。姓名を誤ったため、儀もまた吏に下された。出て中部知県となり、終に山西参政となった。

車梁は山西永寧の人。弘治三年の進士、御史となった。十五年、時政を条列し、中に東廠・錦衣衛が獲た盗賊は、先ず厳刑を加えて案を成し、それから法司に送るので、法司は敢えて平反しないと述べた。請うに今より径ちに法司に送り、先ず刑訊せざらんことを。章が下されたが、報いられなかった。東廠を主る者が、梁の従父の郎中車霆が先に罪有って東廠に発覚させられたので、私を挟んで妄言すると言上した。遂に梁を詔獄に下した。給事中・御史が交章して救いを論じ、乃ち釈放を得て、終に漢陽知府となった。

張弘至

張弘至、字は時行、華亭の人、南安知府張弼の子である。弘治九年の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、兵科給事中を授かった。

十二年冬、初政が漸く克終えられぬ八事を陳べた。「初めは伝奉官を殆んど淘汰したが、近頃匠官の張広寧らは一伝で百二十余人に及び、少卿李綸・指揮張玘らは再伝で百八十余人に及んでいる。初政に異なること一。初めは継暁を追戮し、番僧・仏子を逐ったが、近頃は斎醮が止まない。初政に異なること二。初めは万安・李裕の輩を去り、朝に弾劾されれば夕に斥けたが、近頃は数十疏弾劾されても、尚書徐瓊の如き者は猶も位に居る。初政に異なること三。初めの聖諭には大政は大臣を召して面議するとあったが、近頃は上下隔絶している。初政に異なること四。初めは増設の内官を撤したが、近頃は已に還した者がまた去り、已に革めた者がまた増えている。初政に異なること五。初めは詔旨を慎重にし、左右敢えて妄りに干す者なく、近頃は陳情して恩を乞えば率ね俞允される。初政に異なること六。初めは兵部に旧章を申させ、妄りに武職の昇を乞う者あれば奏治させたが、近頃は昇を乞うても違拒されない。初政に異なること七。初めは光禄の供億を節したが、近頃は冗食日増し、太倉の銀を移して市廛の物を賒買している。初政に異なること八。」帝は所司に下した。

辺将の王杲・馬昇・秦恭・陳瑛が軍機を失って死罪と論ぜられ、久しく繋がれていた。弘至は速やかに典刑を正すことを請うた。親王の藩に之く者、宿泊する所の舎は率ね宮殿を営み、従官の幕次も皆絨毯・錦帛で飾ったが、弘至の言により多く減省された。孝宗の末年、廷臣の請いに従い、官を遣わして騰驤四衛の虚冒の弊を核させようとしたが、太監寧瑾の言により中止した。弘至が抗章して争い、時に兵部もまた言上したので、乃ち遂にこれを核した。

武宗即位の時、戸科右給事中として安南に奉使した。還って都給事中に遷り、母の憂いにより帰り卒した。

屈伸

屈伸、字は引之、任丘の人。成化末の進士。庶吉士に選ばれ、礼科給事中を授かった。

弘治九年、詔して僧を度すと、礼部は争ったが得られなかった。伸は三つの不可を極陳したが、納れられなかった。京師の民が寇が辺に近しと訛言すると、兵部が榜示して諭すことを請うた。伸は言う、「もし榜示すれば、人心は愈々驚く。昔、漢の建始年中、都人の大水至るとの訛言に、吏民を城に上らせて避けさせようと議した。王商は従わず、間もなく果たして定まった。今これに倣うべきである。」事は遂に止んだ。寇が大同を犯すと、遊撃の王杲が敗績の状を匿った。伸は同官を率いてこれを発覚させ、併せて総兵官王璽らの罪を弾劾した。

数度遷って兵科都給事中となった。泰寧衛の部長が遼陽を大掠した時、部議して守臣に書を遺わし、朝廷は寛大にして已往を究めず、もし掠めた所を還せば、則ち重賞を与えると称させようとした。伸らは言う、「我においては怯弱の形を示し、彼においては創艾の意がなく、王者の威攘の道に非ず。前日は辺を犯しても罪とせず、今日は俘虜を帰しても却って功とする。盗を為すの利を誨い、無頼の心を啓き、また王者の懐柔の道に非ず。」帝は悟り、書は遂に遣わされなかった。

既に、鎮守中官孫振・総兵官蔣驥・巡撫陳瑤の事を誤らせた罪を弾劾したが、帝は問わなかった。広寧で再び失策があり、陳瑤らは勝利と奏上した。伸及び御史耿明らが相次いで上疏してその欺瞞を弾劾し、遂にこれを取り調べ処罰した。

太監苗逵・成国公朱暉らが敵の本拠を襲って三つの首級を獲たが、敵が大挙して固原に侵入した時は救援せず、後に十二の首級を斬獲した。先後して勝利と奏上した。伸らはこれを数度弾劾した。帰還の際、また極力論じて言うには、「朱暉らは西征して功績なく、帰還命令が下ったばかりで、将士は既に都門に入ったが、いかなる詔書を奉じたのか知らない。しかもこの一戦役で京師の国庫及び辺境の備蓄を合わせて百六十万余両を費やし、その上奏した首功は僅か三級である。これは五十万金で無名の首一つを買うようなものであり、上申した有功将士は一万人余に及ぶ。仮に火篩のような賊の首魁一人を討ち取るか、或いは千百の首級を斬ったならば、天下の財を尽くしても費用を供給しきれず、功績を報告する者は幾万万と知れないであろう。朱暉・苗逵及び都御史史琳・監軍御史王用は皆重い刑罰に処すべきである。」帝は聞き入れなかった。

雲南には鎮守中官がいたが、また監丞孫敘を派遣して金騰を鎮守させようとした。伸らは極力不可と主張した。錦衣指揮孫鑾は罪に坐して閑住となったが、中旨によって復職し、南鎮撫司を掌らせた。伸らは力爭し、遂に俸給のみ支給するよう命じた。中旨で指揮胡震に天津を分守させようとしたが、伸は力爭したが聞き入れられなかった。鎮守河南中官劉郎が皂隸を乞うと、帝は五十人を与えようとした。故事では尚書でも僅か十二人である。伸らは力爭し、詔で二十人に減らすこととした。以後中官は皆先例に依拠して陳情乞請し、祖宗の制度は遂に破られた。

伸は諫垣に在ること久しく、議論を侃侃として曲げず、昇進せずして卒した。

王献臣

王献臣、字は敬止、その先祖は呉の人、錦衣衛に籍を隷す。弘治六年に進士に挙げられる。行人に授けられ、御史に抜擢される。大同辺境を巡察し、諸将姚信・陳広の閉営して敵を避けた罪及び馬昇・王杲・秦恭の軍を喪った罪を速やかに正すこと、大同・延綏の旱害による未納租税を全て免除して軍民を寛大に扱うことを請うた。帝は多くこれに従った。かつて部卒に導従させて山に遊んだことがあり、東廠の緝事者に発覚され、併せてその軍政官を擅に委任したことを言上された。詔獄に徴されて下され、罪は贖銅に当たる。特命で杖三十、上杭丞に左遷される。

十七年、また張天祥の事で逮捕される。天祥は、遼東都指揮僉事斌の孫である。斌は罪で廃され、天祥は粟を納めて祖父の官を得た。泰寧衛の部族十余騎が海西の貢使を射傷し、天祥は毛喇関から出撃して他の衛の三十八人を掩撃して帰り、これを貢使を射た者と指した。巡撫張鼐らが勝利を奏上し、献臣はこれを疑った。文書を移して反駁調査しようとした時、斌の妻の弟指揮張茂及びその子欽が天祥と不和であり、前屯衛の文書を偽造して献臣に呈し、劫営の事を詳しく述べた。献臣は直ちにこれを奏聞した。返答がないうちに、献臣は徴召される。帝は大理丞呉一貫・錦衣指揮楊玉に命じて新たな按臣余濂と会しこれを調査させ、全て実情を得た。斌らは皆死罪と論じられ、天祥は獄中で死んだ。

天祥の叔父洪が屡々冤罪を訴え、帝は密かに東廠に命じてその事を調査させ、還奏して調査したことは全て誣告であると報告した。帝はこれを信じ、前の判決を全て覆そうとし、内閣劉健らを召し、東廠の掲帖を示し、一貫らを全て逮捕して宮門前で会審するよう命じた。健らは東廠の掲帖は外で行うべきでないと言う。退いた後、また爭った。帝は再び召見し、健らを責めた。健は対えて言う、「獄は法司が審議し、皆公卿士大夫であり、その言葉は信ずるに足ります。」帝曰く、「法司が断獄を誤れば、身すら保たれず、その言葉が信ずるに足るか。」謝遷曰く、「事は衆に従うべきであり、一二人の言葉を、どうして信じられようか。」健らはまた衆証は遠方にあり、悉く逮捕すべきでないと言う。帝曰く、「これは大獄であり、千人を逮捕しても何を憚ろうか。もし功罪が明らかでなければ、辺臣の誰が肯って力を尽くそうか。」健らは再三再四爭執し、帝の声色が厳しいのを見て、終に深く東廠の非を言うことを敢えてしなかった。一貫らが到着すると、帝は自ら午門に臨んでこれを審問し、一貫を死罪に当てようとした。閔珪・載珊が力救し、嵩明州同知に左遷され、献臣は広東驛丞、濂は雲南布政司照磨に左遷され、茂父子は死罪と論じられ、斌は免罪、洪は逆に功績を論ぜられる。武宗が即位し、献臣は永嘉知県に遷る。

呉一貫、字は道夫、海陽の人。成化十七年の進士。上高知県から抜擢されて御史となる。弘治年間、浙江・福建・南畿を歴任して巡察し、強幹をもって知られた。大理右寺丞に抜擢される。畿輔・河南が飢饉となり、粟二十万石を発して救済することを請い、また別に二万石を請い京邑及び昌平の民に給する。左遷された後、正徳初年、江西副使に遷る。華林の賊を討伐して功績があり、按察使に進む。行軍中奉新に至り卒す。士民は忠節祠を立てて祀る。

余濂、字は宗周、都昌の人。弘治六年の進士。武宗の時、終に雲南副使となる。

孝宗は励精して治め、大臣を委任し、中官の勢力は稍々衰えた。しかし張天祥及び満倉児の事は皆東廠から発し、廷議はなおそのために阻まれたという。満倉児の事は、『孫磐伝』に詳しい。

賛して言う、御史は朝廷の耳目であり、給事中は章奏を掌り、朝廷の間で是非を爭うことができ、皆「言路」と称される。天順以後その職に居る者は、風裁を振るい沈黙を恥じた。天子・大臣・左右の近習に至るまで指弾し極言しない者はなかった。南北より交わって上疏し、連名列署した。或いは譴責左遷されると、大臣が抗疏して論救し、美談とされた。顧みるにその時は門戸未だ開かず、名節を自ら励まし、未だ政府に意旨を承けて権勢ある宦官のために搏ぜいに効する、末世の行いの如き者はなかった。故にその言には当たるものと当たらざるものとがあったが、その心は公であった。上は国を愛し、次は名を愛した。しかし国事を論じて名を愛するに至れば、則ちその名の取るべきもののみを求め、事の得失は顧みず、匡弼の道において或いはその善からざる所があろうか。