○羅倫(塗棐)章懋(從子拯)黃仲昭莊〓鄒智舒芬(崔桐馬汝驥)
羅倫、字は彜正、吉安府永豊県の人。五歳の時、母に従って園に入り、果実が落ちると、皆が競って取ったが、倫は一人で拾ってから受け取った。家は貧しく樵牧をしたが、書を挟んで誦読を絶やさなかった。諸生となってからは、聖賢の学を志し、嘗て言うには、「科挙の学業は人を駄目にするものではなく、人が自らを駄目にするのである」と。知府の張瑄はその貧しさを哀れみ、粟を施そうとしたが、謝絶して受け取らなかった。父母の喪に服し、大祥(二周忌)を過ぎてから、初めて塩や乳製品を口にした。
人君たるものは、先王の礼を挙げてその臣を教えるべきであり、人臣たるものは、先王の礼を守ってその君に仕えるべきである。昔、宋の仁宗は嘗て富弼を起復させようとしたが、弼は辞して言うには、「故事に遵って前代の非を遂げることは敢えてせず、ただ『礼経』に拠って今日の是を行いたい」と。仁宗はついにその請いに従った。孝宗は嘗て劉珙を起復させようとしたが、珙は辞して言うには、「身は草土(喪中)の中にあり、国には門庭に迫る寇もないのに、金革の名を冒し、私的に利禄の実を窃むことは難しい」と。孝宗はその心情を抑えなかった。この二君は、未だ嘗て故事をもってその臣を強いたことはない。二臣は、未だ嘗て故事をもってその君に従ったことはない。故に史冊はこれを盛事として記し、士大夫はこれを美談として伝える。他に理由はない。君が臣に孝を教えることができ、臣に君に移すべき孝があったからである。これ以降、礼義は復た行われなくなった。王黼、史嵩之、陳宜中、賈似道の徒は、皆故事を援用して起復した。しかし天下は壊乱し、社稷は傾危し、禍は当時に流れ、譏りは後代に遺された。他に理由はない。君が臣に孝を教えず、臣に君に移すべき孝がなかったからである。陛下が必ずや賢に天下の事を任せようとするならば、賢の身は留めることはできず、口実は言うことができる。宜しく温詔を降し、劉珙の如くに言事を許すべきである。賢をして天下の事について知れば必ず言わせ、言えば必ず尽くさせよ。陛下は賢の言を聞けば必ず行い、行えば必ず力を尽くせ。賢は起復しなくとも、起復したも同然である。もし知りながら言い尽くせず、言いながら力行できないならば、賢が起復しても益はない。
且つ陛下、廟堂に賢臣なく、庶官に賢士なしと謂うことなかれ。君は盂なり、臣は水なり。水の方円は、盂が実にこれを主る。臣の直佞は、君が実にこれを召すのである。陛下が誠に退朝の暇に、直諒博洽の臣に親しみ、聖学君徳の要を講じ、政事の得失を詢ね、民生の利病を察し、人才の賢否を訪れ、古今の盛衰を考うるならば、独信の偏見を捨て、逆耳の苦言を納れるであろう。そうすれば衆賢群策は畢く朝に萃まり、何ぞ先王の『礼経』に違い、大臣の名節を損じて、然る後に天下を治めんとするを待たんや。
今、大臣が起復すれば、群臣は非とせず、且つ従ってこれを賛する。群臣が起復すれば、大臣は非とせず、且つ従ってこれを成す。上下俗を成し、混然として同流し、天下の人を率いて無父の帰趨と為す。臣は聖明の朝が綱常の壊れ、風俗の弊、ここに極まるに至ることを忍びない。願わくは陛下、聖衷より断じ、賢に帰家して喪服を保持することを許されたし。他の既に起復した者は、仍って奔喪を命じ、未だ起復していない者は、悉く終制を許されたし。仮に金革の変があれば、亦墨衰の権に従い、外に軍事を任せ、内に心喪を尽くさせよ。将に朝廷端なれば則ち天下一となり、大臣法なれば則ち群臣効い、人倫はここより明らかとなり、風俗はここより厚からん。
倫は人となり剛正で、己を律すること厳しかった。義の所在は、毅然として必ず行い、富貴名利には淡泊であった。郷里に住んで郷約を提唱し行い、互いに率いて敢えて犯す者はいなかった。衣食は粗悪であった。或る人が衣を贈ると、道端の餓死者を見て、解いてこれを覆った。朝、客を留めて飲もうとし、妻子が隣家から粟を借り、午になってようやく炊事をしたが、意に介さなかった。金牛山は人跡が至らないので、そこに室を築き著書し、四方から従学する者が甚だ多かった。十四年に卒し、年四十八。嘉靖初年、御史唐龍の請いに従い、左春坊諭德を追贈され、諡は文毅。学者は一峰先生と称した。
かつて倫が提挙であった時、御史豊城の塗棐が福建を巡按した。司礼監の中官黄賜は延平の人で、面会を請うたが、棐は許さなかった。泉州知府李宗学は賄賂を受け取ったことで棐に糾弾され、棐を誣告して自らを弁解し、賜がその上奏を内から取り計らった。棐と宗学は共に召喚され、言葉が倫に連座し、併せて逮捕されるはずであった。鎮撫司の某が言うには、「羅先生をここに至らしめることができようか」と。即日に審問を終えて上奏した。倫は免れ、棐もまた官に復した。
塗棐は天順四年の進士。成化年間に嘗て言うには、「祖宗の朝は、政事は必ず大臣と面議した。先帝が幼沖で裁決できなかったため、国柄を執る者がその遺漏を慮り、簡易の辞を仮り、宣布に便ならしめた。凡そ視朝して奏事する時、諭旨は輒ち曰く『所司これを知れ』と。これは一時の権宜であり、循って定制とすべきではない。況んや批答は多く中官を参じ、内閣は或いは関与せず、特に祖制に乖いている。願わくは面議を復し、蔽塞の弊を杜がん」と。憲宗は用いなかった。終に広東副使となった。
憲宗が元宵節に燈籠を飾ろうとし、詞臣に詩詞を撰んで進上するよう命じた。章懋は同官の黄仲昭・検討の荘昶とともに上疏して諫めて言うには、「先頃臣らに鰲山の煙火の詩詞を撰せよと諭された。臣らはひそかに議論するに、これは必ずや陛下の本意ではなく、あるいは両宮の聖母が上にいらっしゃるので、孝養を極めてその歓心を奉じようとされたのであろう。しかし大孝は志を養うにあり、ただ耳目の玩びを陳べて以て養いとすべきではない。今、川東は未だ平定せず、遼左には憂い多く、江西・湖広は赤地数千里、万姓は嗷嗷として口を開き食を待つ。これはまさに陛下が宵旰焦労し、両宮の母后が天下を同じく憂えられる日である。翰林官は論思を職分とし、鄙俚の言をどうして君上に進めるべきであろうか。伏して宣宗皇帝の御製『翰林箴』を読むに、『啓沃の言は、唯だ義と仁とす。堯舜の道は、鄒魯以て陳ぶ』とある。燈籠を飾ることは堯舜の道であろうか、詩詞は仁義の言であろうか。もし煙火は細事で聖徳を損なうに足りぬと言うならば、舜は何ぞ必ずしも漆器を作らず、禹は何ぞ必ずしも旨酒を嗜まず、漢の文帝は何ぞ必ずしも露台を作らなかったのか。古の帝王が小を慎み微を謹み、必ず細行を矜るのは、まさに欲は縦すべからず、漸は長ずべからざるが故である。伏して煙火を停止し、この視聴を移して以て明に目達に聡くし、この資財を省いて以て饑を振い困を恤い、災祲を消し太平を致すことを乞う」と。帝は元宵節に燈籠を飾るのは祖宗の故事であるとして、章懋らの妄言を憎み、ともに闕下で杖罰に処し、その官を左遷した。修撰の羅倫は先に言事して罷免されており、時に「翰林四諫」と称された。
帰郷して後は、跡を屏して城府に入らず、親に奉ずる暇に、専ら読書講学を事とし、弟子が経を執る者は日に日に進んだ。貧しくて供具がなく、ただ脱粟と菜羹のみであった。四方の学士大夫はその風を高くし、「楓山先生」と称した。家に居ること二十余年、内外から交々推薦され、部の檄が屡々起用したが、親が老いていることを理由に堅く赴かなかった。
章懋が学問を行うに当たり、先儒の訓を恪守した。ある者が文章を勧めると、「小技に過ぎぬ、我に暇なし」と言った。著述を勧める者があれば、「先儒の言は至れり尽くせり、その繁を芟ぐべし」と言った。官籍に通じて五十余年、歴俸は僅かに三考を満たすのみであった。進み難く退き易く、世は皆これを高くした。
三人の子を生み、兼ねて農を業とさせた。県令が訪れると、諸子は耒を捨て跪いて迎え、人はその貴公子たるを知らなかった。子が南監で章懋を省みるに、徒歩で往き、道中で巡検に笞打たれた。知って謝罪を請うと、章懋は慰めて遣わした。晚年、三子一孫ことごとく死に、八十二歳で少子の章接を生み、後に蔭で国子生となった。
甥の章拯、字は以道。幼くして章懋に学び、弘治十五年進士に登り、刑部主事となった。正徳初め、劉瑾に逆らい、詔獄に下され、梧州府通判に貶せられた。劉瑾が誅せられると、南京兵部郎中に擢げられた。嘉靖年間、累官して工部尚書となった。桂萼が海運を復活させようとし、公卿を集めて得失を議した。章拯は言うには、「海運には故事はあるが、風濤は河の百倍である。かつ天津の海口は多く淤塞し、古より海を浚うことを聞かず」と。議は遂に止んだ。南北郊の議が起こると、章拯は不可と述べ、帝の意を失った。まもなく郊壇の祭器が供給不足の罪に坐し、落職して帰郷した。久しくして復官し、致仕して卒した。
黄仲昭、名は潜、字をもって行い、莆田の人。祖父の黄寿生は翰林検討で、学行があった。父の黄嘉は束鹿知県で、善政をもって聞こえた。
弘治に改元すると、御史姜洪が疏を上って推薦し、吏部尚書王恕が有司に敦促させた。到着すると、王恕は大門外で迎え、揖譲して堂に昇り、相向かって再拝し、世は両人を高くした。江西提学僉事に除され、士に正学を以て教えた。久しくして再び疏を上って休職を乞い、日々著述を事とした。学者は「未軒先生」と称した。卒年七十四。
黄仲昭の兄の黄深は御史であった。黄深の子の黄乾亨は行人であった。満剌加に使いし、海で没した。黄乾亨の子の黄如金は広西提学副使、黄希雍は蘇州同知となった。黄仲昭の孫の黄懋は南京戸部侍郎となった。
時に帝ますます政に倦み、而して万安・劉吉・尹直政府に居る。智これを憤る。道三原に出で、致仕の尚書王恕を謁し、慨然として曰く、「天下を治むるは、君子を進め小人を退くるに在り。方今小人位に在り、毒痡四海に及び、而るに公顧みて田裏に屏棄せらる。智が此行は科名の為に非ず、天子に上書し、賢奸を別白し、斯民を塗炭より拯わんと欲するのみ」と。恕その言を奇とし、笑って答へず。明年、進士に登り、庶吉士に改む。遂に上疏して曰く。
陛下、輔臣に於いて、事に遇えば必ず諮り、殊恩異数必ず及ぶ、亦た任せたる雲えり。然れども或は一人を進退し、一事を処分するに、往往中旨を降し、一二の小人をして陰にその柄を執らしむ、是れ既にこれを任して而又これを疑うなり。陛下豈に誠を推して物を待たんと欲せざらんや。その進身の初めより、多く私門より出で、先ず以て陛下の厭薄を致す有り。及び事を議するに与りて、又唯諾として謹み、伈伈伣伣として、敢へざるが若く、反って一二の俗吏に如かずして事を任するに足る。此れ陛下の疑う所為なり、臣窃に過ちと為す。昔、宋の仁宗、夏竦の詐を懐くを知れば則ちこれを黜し、呂夷簡の過ちを改むる能くするを知れば則ちこれを容れ、杜衍・韓琦・范仲淹・富弼の任す可きを知れば則ち次を不にしてこれを擢げたり。故に能く北は契丹を拒ぎ、西は元昊を臣とす。一任し一疑うを以て天下の事を成すべしと聞かず。願わくは陛下、孰れが竦たるか、孰れが夷簡たるかを察し、而してこれを黜しこれを容れ、孰れが衍・琦・仲淹・弼たるかを擢げ、日に治道を講論せしめ、小人をして其の間に参ずるを得ざらしめよ、則ち天工亮かなり。
臣又聞く、天下の事は惟だ輔臣議するを得、惟だ諫官言うを得と。諫官は卑しと雖も、輔臣と等し。乃ち今の諫官は軀體の魁梧を以て美と為し、応対の捷給を以て賢と為し、簿書刑獄を以て職業と為す。天変を畏れず、人窮を恤れず。或は忠義を以てこれを激すれば、則ち曰く、「吾言わざるに非ざるなり、言出ずれば則ち禍随う、其れ誰か吾を聴かん」と。嗚呼、既に言を尽くし職に效う能わず、而して復た過ちを引いて上に帰す。人心有る者固よりかくの如くならんや。臣願わくは浮冗を罷黜し、広く風節の臣を求めよ。仗下に糾弾せしめ、閣に入りて参議せしめよ。或は対を請わしめ、或は輪対せしめ、或は時に非ざるを召して対せしめ、霽色を以てこれに接し、温言を以てこれを導き、誠を畢くし蘊を尽くすを得しめよ、則ち天聴開かるべし。
臣又聞く、汲黯朝に在りて、淮南謀を寝む、君子の人国に益有ること大なり。陛下の聰明を以て、寧ろ君子の任す可きを知りて故に屈抑するならんや。乃ち小人巧みに讒間して以て中傷するのみ。今、碩徳王恕の如き、忠鯁強珍の如き、亮直剛方格懋・林俊・張吉の如きは、皆一時の人望、貶錮すべからず、上天の才を生ずる意に負う。陛下誠に此数人を召し、要近の地に置き、各その平生を尽くさしめよ、則ち天心協わん。
臣又聞く、高皇帝閽寺を制し、惟だ掃除を給するのみ、政に及ぼさず。近くは旧章日々に壊れ、邪径日々に開け、人主の大権尽くその手より出づ。内は之を倚りて相と為し、外は之を倚りて将と為し、藩方は之を倚りて鎮撫と為し、伶人賤工は之を倚りて奇技淫巧を作し、法王仏子は之を倚りて恣に宮禁に出入す、此れ豈に高皇帝の許す所ならんや。願わくは陛下、宰相を以て股肱と為し、諫官を以て耳目と為し、正人君子を以て腹心と為し、深く思い極めて慮り、宗社長久の計を定めよ、則ち大綱正し。
然れどもその本は則ち陛下の理を明かにする如何に在るのみ。窃かに聞く、侍臣進講に反復論辨の功無く、陛下聴講も亦た従容沃心の益無し。此くの如くにして理を明かにして事に応ぜんと欲するは、臣信ぜず。願わくは陛下、義理の窮め難きを念い、日月の易く邁るを惜しみ、之を経史に考へ、之を身心に験し、終歳間無からしめよ、則ち聖学明らかにして万事畢に治まり、豈に四事の挙措其の当を得るのみならんや。
疏入るも、報いず。
智既に慷慨として奇を負い、其の時御史湯鼐・中書舎人吉人・進士李文祥も亦た並びに意気を負う。智皆之と善し。因りて相与に公卿を品核し、人物を裁量す。未幾、孝宗位を嗣ぎ、弊政多く更むる所あり。智喜び、以て其の志且つ行わる可きと為し、乃ち復た星変に因りて上書して曰く。
伏して明詔を読みて云う「天下の利弊興革すべき所、所在の官員人等条具して以て聞かしむ」と。此れ殆ど陛下、前日の登極詔書が奸臣に誤らるるを知り、言官に風聞挟私を以て事を言うを禁じ、物論囂然たるを故に、復た此の条を下して自ら解するのみ。夫れ「朕躬に過有り、朝政に闕有り」と曰わずして、「利弊興革すべし」と曰い、「諸人の直言隠す無きを許す」と曰わずして、「官員人等条具して以て聞かしむ」と曰う。陛下の言を求むる所以、已に広からず。今、天下の利を興し、天下の弊を革さんと欲すれば、当に利弊の本原を求めて且つこれを興し且つ革すべく、毛挙細故を以て利弊是れに在りと為すべからず。
本原何れにか在る。閣臣是れなり。少師安は祿を持ち寵に怙り、少保吉は下に附き上を罔し、太子少保直は詐を挟み奸を懐く、世の小人なり。陛下之を留むれば、則ち君徳必ず就かず、朝政必ず修まらず、此れ弊の革むべき所なり。致仕の尚書王恕は忠亮にして大事を任す可く、尚書王竑は剛毅にして大奸を寝む可く、都御史彭韶は方正にして大疑を決す可し、世の君子なり。陛下之を用うれば、則ち君徳開明し、朝政清肅す、此れ利の興すべき所なり。
しかし君子が進用されず、小人が退けられないのは、おおむね宦官の権力が重いことによる。漢の元帝はかつて蕭望之・周堪を任用したが、ついに弘恭・石顯に制せられた。宋の孝宗はかつて劉俊卿・劉珙を任用したが、ついに陳源・甘昇に間せられた。李林甫・牛仙客は高力士と相附和し、唐の政は綱紀を失った。賈似道・丁大全は董宋臣と相表裏し、宋室は振るわなかった。君子と小人の進退の機は、未だ嘗てこの輩の盛衰に関わらなかったことはない。願わくは陛下は既往を鑑み、将来を慎み、天綱を攬り、英断を張らんことを。凡そ宦官を待つ所以のものは、一に高皇帝を法とすれば、君子は進められ、小人は退けられ、天下の治は一より出づるであろう。陛下の聰明は世に冠たるもの、刑余の臣を委信すべからざるを知らぬはずはない。しかるに誤用を免れぬのは、おそらく正心の学が未だ講ぜられぬためであろう。心が天理より発すれば、耳目は聰明となり、言動は節に中り、何ぞ宦官の惑わすことができよう。人欲より発すれば、一身に主なく、万事は綱を失い、隙に乗じ、蒙蔽が施される。たとえ神武の資あろうとも、日に改まり月に化して次第にその初めを失うであろう。君子を進め小人を退け、天下の利を興し、天下の弊を革さんと欲するも、どうして得られようか。
帝は上疏を得て、これを肯んじた。間もなく、万安・尹直は相次いで罷免・排斥された。しかし劉吉の任寄は以前のままで、智を恨み骨髄に徹した。
湯鼐は常朝で侍班すべき時、鄒智はこれに告げて言った、「祖宗の盛時には、御史が侍班し、政務の得失を面陳し、直ちに進止を取ることができた。その後はただ退いて疏を具するのみとなり、これが君臣の情意の隔たる所以である。君は幸い維新の日に値する、何ぞ先朝の故事に倣ってこれを行わぬのか」。また、王恕が召しに応じて京に至ると、智は往って謁して言った、「後世の人臣は時に天子に謁見することを得ず、故事多くは苟且である。願わくは公は暫く官を受けず、先ず朝見を請い、時政の善からざるものを歴陳し、力を尽くして除革を請い、その後で命を拝し、おそらくは事が成るであろう。もし先に官を受ければ、再び天子に謁見する日はないであろう」。湯鼐と王恕もまたその言を用いることができなかった。
ちょうど劉概の獄が起こり、劉吉はその党の魏璋に智の名を入れさせ、ついに詔獄に下した。智は身に三木を親しみ、僅かに喘息を属するのみであったが、慷慨として対簿して言った、「智は経筵が寒暑を以て講を輟め、午朝が細事を以て責を塞ぐのを見、紀綱は廃弛し、風俗は浮薄で、生民は憔悴し、辺備は空虚なのを、ひそかに憂いとした。湯鼐らと往来して論議したことは確かにあるが、他のことは知らない」。讞者は劉吉の意を承け、ついに広東石城所吏目に謫し、事は『湯鼐伝』に具わる。
智は広東に至り、総督秦紘が檄を以て召して書を修めさせたので、会城に居した。陳献章が新会で道を講ずると聞き、往って業を受けた。ここより学は益々精粋となった。弘治四年十月、疾を得て急に卒した。年二十六。同年生の呉廷挙が順徳知県となり、殮してその喪を帰した。天啓初年、忠介を追謚された。
孝貞の山陵が終わり、神主を迎えて廟に祔するに、長安門より入った。芬はまた言った、「孝貞皇后は茂陵に作配し、未だ失徳を聞かず。祖宗の制は、既に葬って神主を迎えるには、必ず正門より入る。先日孝貞の神主は、顧みて陛下の駕に従い旁門より入った。他日史臣が『六月己丑、車駕山陵より至り、孝貞純皇后の神主を迎えて長安門に入る』と書けば、孝貞に正終を得ざるの嫌疑を生じさせ、何を以って天下後世に解せんとするのか。先日祔廟の夕べ、疾風迅雷甚雨あり、思うに聖祖列宗及び孝貞皇后の霊が、陛下に儆告したのであろう。陛下は直ちに中外に明詔し、以って過ちを改むるを示すべきである」。答がなかった。ここに乞うて帰養せんとしたが、許されなかった。
また翌年三月、帝は南巡を議した。時に寧王宸濠は久しく異謀を蓄え、近幸と相結び、人情は惶懼した。言官が闕に伏して諫め、旨に忤って責譲を受けた。芬はこれを憂い、吏部員外郎夏良勝・礼部主事万潮・庶吉士汪応軫とともに諸曹に要して連章して諫に入らせ、衆は諾した。芬はここに編修崔桐、庶吉士江暉・王廷陳・馬汝驥・曹嘉及び応軫とともに上疏して言った、
「古の帝王が巡狩する所以は、律度を協わせ、量衡を同じくし、遺老を訪れ、疾苦を問い、幽明を黜陟し、在位を式序するためであり、これによって諸侯は畏れ、百姓は安んずるのである。もし陛下の出でるは、ただ秦の始皇・漢の武帝のごとく、侈心を以って楽しむのみで、巡狩の礼を行い得るものではない。博浪・柏谷の禍もまた鑑とすべきである。近ごろ西北を再巡し、六師は摂せず、四民は病を告ぐ。哀痛の声は、上蒼昊に徹す。四方に伝播し、人心は震動す。故に一たび南巡の詔書を聞けば、皆鳥驚き獣散す。しかるに有司は方に迎奉を名として、征発は厳急で、江・淮の間は蕭然として煩費す。万一不逞の徒が、勢いに乗じて乱を倡えれば、禍は細ならざるであろう。かつ陛下は鎮国公を以って自ら命じ、もし親王の国境に至れば、あるいは勛臣の礼を以って陛下を待たんとし、将に北向してこれに朝せんとするか、あるいは南面してその朝を受けんとするか。仮令名に循って実を責め、悖謬の端を深く求めれば、左右の寵幸は死する所なきであろう。なお事として痛哭に堪え、言うに忍びざるものがある。宗藩は劉濞の釁を蓄え、大臣は馮道の心を懐く。禄位を故物とし、朝署を市廛とし、陛下を弈棋とし、革除年間を故事とする。ただ左右の寵幸は知術短浅で、この言を以って陛下に告げる能わざるのみ。もし陛下がこの言を聞き得れば、たとえ禁門の外といえども、また警蹕して出で、尚お敢えて軽騎慢遊せんとするであろうか」。
疏が入ると、陸完が迎えて言った、「上は諫める者あるを聞けば輒ち恚り、自ら引決せんと欲す。諸君は暫く止めよ、君上に過ちを帰して、直名を沽うなかれ」。芬らは応えずに出た。しばらくして、良勝・潮が芬を過ぎ、腕を扼んで陸完を恨んだ。芬はここに博士陳九川を邀え至らせ、酒を酌んで言った、「匹夫も志を奪うべからず、君輩は遂に已めんとするか」。明日、ここに諸曹とともに連疏して入った。帝は大いに怒り、闕下に五日跪かせ、期満してまた三十を杖つことを命じた。芬の創は甚だしく、幾ばくか斃れんとし、翰林院中に舁がれた。掌院者は罪を得るを懼れ、標して出でよと命じたが、芬は言った、「吾はここに官す、即ちここに死すのみ」。ついに福建市舶副提挙に謫し、創を裹いて道に就いた。
芬は豊かな風采は玉の如く立ち、気概を負って峻厳で、端座して一日中倦怠の容色なく、夜になると過ちを数えて自ら責めた。絶学を倡明することを己の任とした。その学問は諸経を貫通し、天文・律暦に通じ、特に『周礼』に精通した。かつて言うには、「『周礼』を『儀礼』・『礼記』と比べるのは、蜀を呉・魏と比べるようなものである。賈氏が『儀礼』を本とし、『周礼』を末とするのは妄りである。朱子が是正を加えなかったのは、なぜか。」病が重くなり、その子が遺言を請うたが、ただ『周礼』を表章しえなかったことを遺憾とするのみであった。学者は「梓溪先生」と称した。万暦年間に、追贈して文節と諡した。これより先、修撰の羅倫が諫めて福建提挙に左遷され、六十年余りを経て芬がその後を継いだ。倫と同郷で同官であり、左遷された地と官職も同じであったので、福建の士大夫はついに芬を祀って倫に配したという。
応軫らはそれぞれ伝がある。
賛して言う。詞臣は文学侍従を職とし、言責があるわけではない。名義に激発され、侃侃として廷諍し、罪に触れて左遷されても悔いない。これ皎然たる志節の士ではなかろうか。奪情の典は李賢に始まるのではないが、羅倫の上疏が天下に伝誦されて以来、朝臣は起復を故事とすることを敢えてせず、倫理に補うところ、浅く少ないであろうか。章懋らは宣宗の箴を引き、国家が官を設ける意を明らかにし、君の過ちを顕わすことをしなかった。鄒智は賢と奸を指摘して列挙し、末節を矯正した。舒芬は危言を切実にし、爰盎が轡を取る風があった。況んや清修峻節、行いに瑕なき諸子は、まことに文士の浮誇の習いを矯正するに足るものである。