項忠
項忠、字は藎臣、嘉興の人。正統七年の進士。刑部主事に任じられ、員外郎に進む。英宗に従って瓦剌に陥り、馬の飼育を命じられたが、隙を見て二頭の馬を奪って南へ奔った。馬が疲れ果てたのでこれを棄て、裸足で七昼夜歩き、ようやく宣府に到達した。
景泰年間、郎中から広東副使に遷る。高州を巡察した際、間諜が賊が男女数百を連れて村落を掠奪していると報じた。項忠は「賊が家族を連れて行く道理はない。必ずや掠奪された良民であろう」と言い、諸将に妄りに殺すなと戒めた。後に捕虜を訊問すると、果たしてその通りで、皆これを釈放した。瀧水の瑤族征討に従軍して功績があり、俸給一階級を増された。
天順初年、陜西按察使を歴任。母の喪で帰郷したが、部民が朝廷に赴いて留任を乞うたため、詔により復職した。当時陜西は連年災害に見舞われており、項忠は倉を開いて救済し、かつ軽罪の者は米を納めさせることを請い、民はこれにより救われた。
七年、大理卿として召還されたが、民が前同様に留任を乞うたため、右副都御史に改められ、当地を巡撫した。洮州・岷州の羌が反乱すると、項忠は上疏して言うには「羌の志は劫掠にあり、皆殺しにすれば仁を損ない、急いで懐柔すれば威厳が立たない。臣に適宜の処置を許されたい」。許可された。そこで兵を発して険要の地を占拠し、進討の声勢を上げると、賊衆は皆降伏した。西安の水泉は塩分が強く飲用に適さなかったため、龍首渠と皂河を開削して水を城内に引き入れた。また鄭国渠・白渠の二渠を疏浚し、涇陽・三原・醴泉・高陵・臨潼の五県の田七万余頃を灌漑し、民は祠を建ててこれを祀った。
毛裏孩が延綏を寇掠したため、詔により項忠は彰武伯楊信とともにこれを防ぎ、功績がなかった。翌年、楊信は河套を大規模に掃討することを議し、項忠に軍務を提督するよう命じた。項忠が延綏に向かっていると、賊がまた開城を陥落させ、静寧・隆徳など六州県に深く侵入し、大いに掠奪して去った。兵部が項忠を弾劾したが、帝は特にこれを赦し、河套掃討の軍も出動しなかった。さらに翌年、召還されて都察院の事務を掌理した。
四年、満俊が反乱した。満俊はまたの名を満四という。その祖父巴丹は、明初に配下を率いて帰順し、代々千戸として畜牧を行い、雄長となった。旧来の習俗のまま、租税や徭役は課されなかった。その地は開城県の固原里にあり、辺境に接していた。満俊は粗暴で悍猛、平素から奸盗を匿い、辺境を出て掠奪していた。ちょうど満俊が関わる事件があり、役人が逃亡者の跡を追ってその家に至り、多くは要求を突きつけた。満俊は怒り、ついに衆を煽って乱を起こした。守臣は満俊の甥の指揮使璹を派遣して捕らえさせた。満俊はその従者を殺し、璹を脅迫して反乱に加え、石城を占拠した。石城は即ち唐の吐蕃の石堡である。城は険固を称え、数万の兵でなければ陥せない。山上に城寨があり、四面は切り立った崖で、中に五つの石井を穿って水を貯え、ただ一つの小道がよじ登れるだけである。満俊は自ら招賢王と称し、四千の衆を擁した。都指揮邢端らがこれを防いだが、敗北した。一月と経たぬうちに、衆は二万に達し、関中は震動した。そこで項忠に軍務を総督させ、監督軍務太監劉祥・総兵官都督劉玉とともに京営及び陜西四鎮の兵を率いて討伐させた。軍が未だ出発しないうちに、巡撫陳价らが先に兵三万で進討し、また大敗した。賊は官軍の武器・甲冑を奪い、勢いはいよいよ盛んになった。朝廷では増兵を議した。項忠は京軍が脆弱で頼りにならず、また大将を更迭すれば事権が乱れると考え、上言した。「臣らが調兵した三万三千余の兵で、賊を滅ぼすには十分である。今は秋も深く草も枯れている。もし他軍を更に調兵すれば、往復に時間を要し、賊は遠くに逃れる恐れがある。また辺境の兵は長く留め置くことはできない。増兵は得策ではない」。大学士彭時・商輅がその意見を支持し、京軍の派遣は取りやめとなった。
項忠はそこで巡撫都御史馬文升とともに軍を七道に分け、石城の下に進み、戦って多くを斬り捕らえた。伏羌伯毛忠は勝に乗じてその西北の山を奪い、ほとんど陥落させかけたが、突然流れ矢に当たって死んだ。劉玉も包囲された。諸軍が退却しようとしたので、項忠は一千戸を斬って示し、衆は力戦し、劉玉は脱出できた。そこで包囲陣を敷いて賊を困らせた。ちょうど星が台斗(北斗七星)に現れ、朝廷では多くが「占いは秦の分野にあり、軍は利あらず」と言った。項忠は「李晟が朱泚を討った時、熒惑が歳星を守ったが、何の害があろうか」と言った。日々に兵を城の近くに進め、飼料や草を焼き、水汲みの道を絶った。賊は窮して降伏を望み、項忠と馬文升に面会を求めた。項忠は劉玉とともに単騎でこれに赴き、馬文升も数十騎を従えて至り、満俊・璹を呼んで速やかに降伏するよう諭した。賊は遠くから望んで羅列して拝礼し、項忠はまっすぐ前に進んで璹を挟んで帰還した。満俊は気力を失い、躊躇して出てこなかった。項忠は命じて木を縛って橋とし、兵士に土嚢を背負わせて濠を埋めさせ、銅砲で撃ちかけると、死者はいよいよ多くなった。賊は愛将の楊虎貍を謀主として頼りにしていたが、夜に水を汲みに出て捕らえられた。項忠は彼を死罪にせず、賊を捕らえる賞格を諭し、金を見せ、さらに金の帯鉤を賜った。釈放して帰し、満俊を誘い出して戦わせ、伏兵でこれを生け捕りにさせた。急いで石城を攻め落とし、残りの賊をことごとく捕らえた。その城を破壊し、石に功績を刻んだ。固原西北の西安廃城に一衛を増設し、兵を留めて守らせて帰還した。
初め、石城が未だ陥ちない時、天候は非常に寒く、士卒はかなり疲弊していた。項忠は賊が突撃して凍った河を渡り、河套の賊と合流することを憂慮し、日夜攻撃の具を整えた。自ら矢石に当たり少しも避けず、大小三百余戦を戦った。彭時・商輅は項忠が賊を平定できると知り、中央から制約せず、ついに賊を殲滅させた。功績を論じ、右都御史に進み、林聰と協力して都察院の事務を掌った。
白圭が劉通を平定した後も、荊州・襄陽の間の流民は相変わらず屯結していた。劉通の党与の李胡子、名は原、偽って平王と称し、小王洪・王彪らとともに南漳・房県・内郷・渭南諸県を掠奪した。流民で賊に加わる者は百万に至った。六年冬、詔により項忠に軍務を総督させ、湖広総兵官李震とともにこれを討伐させた。項忠は永順・保靖の土兵を調達するよう奏上した。そして先に軍を分けて要害の地に配置し、多くに旗幟や鉦鼓を設け、人を山に入れて招諭させた。流民で帰順する者は四十余万、王彪もまた捕らえられた。当時白圭が兵部にあり、錦衣百戸の呉綬を派遣して参将王信の軍を補佐させた。呉綬は功績を奪おうとし、賊が瓦解するのを望まなかった。流言を広め、白圭はこれを信じ、土兵の調達を止めさせた。項忠は上疏して争い、かつ呉綬の罪を弾劾した。帝は呉綬を召還し、土兵の調達は従前通り認めた。合わせて二十五万の兵を、八道に分けて賊に迫ると、流民で帰順する者また数万。賊は山寨に潜伏し、隙をうかがって出て掠奪した。項忠は副使の余洵・都指揮の李振にこれを撃たせ、竹山で遭遇した。溪流の増水に乗じて半渡を遮り撃ち、李原・小王洪らを生け捕りにし、賊は多くが溺死した。項忠は軍を竹山に移し、残党を捕らえた。さらに流民五十万を招き、六百四十の首級を斬り、八百余りを捕虜とし、家族三万余人を捕らえた。戸ごとに壮丁一人を選び、湖広の辺境の衛所に守備させ、残りは帰郷させて戸籍を与え田地を支給した。善後策十事を上疏して陳述し、全て許可されて施行された。
項忠が流民を追放する命令を下した時、役人は一律に追い立てた。進まなければ、即座に殺した。洪武年間から戸籍を有していた民も、追放の対象となった。守備に送られる者は船旅で多くが疫病で死んだ。給事中の梁璟が星変に因って直言を求め、項忠の妄殺を弾劾した。白圭もまた、流民で既に生業を成している者は、所在の地に戸籍を定めるべきだと述べ、さらに項忠が上奏した功績の順位が食い違っていると反駁した。帝はいずれも聞き入れなかった。項忠を左都御史に進めた。子の綬に錦衣千戸の蔭官を与え、諸将にはそれぞれ功績に応じて記録した。
韓忠が上疏して言うには、「臣が先後して流民を招撫して復業させた者は九十三万余人、賊党が深山に遁走した者をまた招諭して解散させ自ら帰順した者は五十万人である。俘獲した者は百人、皆首悪の者に過ぎない。今、皆良家の子であると言うならば、以前にしばしば奏上した猖獗で防ぎ難い者は、誰であったのか。賊党の罪は固より死に当たるが、正に濫りに誅殺するに忍びないからこそ、壮丁を謫発して辺境に遣わしたのである。その久しく附籍した者の中には、あるいは四十余里の山を占拠し、無頼の者千人を招き集め、争闘し劫略殺害する者がある。このような者は、久しく居留させてよいから遣わさないのか。臣が榜を掲げて賊に諭した、数千人を殺したというのは、虚勢を張って脅かしたのであり、実事ではない。かつて陳圭は固より自らその任に当たり、今日の事態はまた圭が遺したものである。以前、朝廷内外の議論する者は荊・襄の患が何日に寧かになると言ったか。今幸いに平靖したのに、流言が沸騰し、臣を口実としている。昔、馬援は薏苡で謗られ、鄧艾は檻車で征発された。功は録されず、身は更に保たれない。臣は幸いに聖明の世に遭い、骸骨を賜わり、臣をして馬・鄧の後を継がせないでいただきたい。」帝は温詔でこれに答えた。
汪直が西廠を開設し、恣横であったので、韓忠はしばしば侮辱を受け耐えられなかった。時に大学士商輅らが汪直を弾劾し、韓忠もまた九卿を率いてこれを弾劾した。奏上は留中され、西廠は遂に罷められたが、汪直は深く恨んだ。まもなく西廠が復設されると、汪直は呉綬を腹心とし、綬は以前の恨みを抱き、韓忠をいっそう厳しく伺った。韓忠は自ら安んぜず、帰郷して病気を治すことを乞うた。出発しないうちに、呉綬が偵事の者を唆して韓忠に罪を誣告させた。給事中郭鏜、御史馮貫らがまた相次いで上疏して韓忠を弾劾し、事はその子の韓経、太監黄賜、興寧伯李震、彰武伯楊信らに連座した。詔して法司に錦衣衛と会して廷鞫させたが、韓忠は抗弁して少しも屈しなかった。しかし衆人は汪直の意によることを知り、敢えて彼のために弁明する者なく、遂に民に斥けられ、黄賜と李震らもまた罪を得た。汪直が失脚すると、官に復し、致仕した。家に居ること二十六年、弘治十五年になって卒した。享年八十二。太子太保を贈られ、諡して襄毅といった。
韓忠は倜儻として大略多く、軍務に練達し、強直で阿わず、政事に敏であったので、所在において称された。
子の韓経、韓経の子の韓錫、韓錫の子の韓治元、皆進士に挙げられた。韓経は江西参政。韓錫は南京光禄寺卿。韓治元は員外郎。
韓雍
韓雍、字は永熙、長洲の人。正統七年の進士。御史に授けられた。気概に富み果敢で、才略をもって称された。南畿で囚徒を録した。碭山の教諭某が膳夫を笞打ち、膳夫が逃げ隠れたので、父が教諭がその子を殺したと訴え、他の死体を取って支解し証拠とした。既に誣服したが、韓雍が跡を追ってこれを得、その冤罪を明らかにした。河道を巡視に出た。後に、江西を巡按し、貪墨の吏五十七人を罷免した。廬陵・太和で盗賊が起こり、捕らえて誅した。
天順初め、天下の巡撫官を罷め、山西副使に改めた。寧王が以前の恨みによりその肩輿に擅乗したことなどを弾劾し、獄に下され、官を奪われた。起用されて大理少卿となった。まもなくまた右僉都御史となり、寇深を補佐して院事を処理した。石亨が誅された後、錦衣指揮劉敬が石亨の直房で食事をした罪に坐し、朋党の律により死罪と論じられた。韓雍は言った、「律は朋党を重んじるのは、阿比して朝政を乱すことを謂うのである。一飯をもってこれに当てるのは、果たして律の意か。かつ石亨の盛んな時、大臣は朝夕その門に趨ったが、罪に問わず、独り劉敬を罪に問うのは何故か。」寇深は嘆服し、彼を釈放した。母の喪に服し、起復した。四年、宣府・大同を巡撫した。七年、議事のために入覲し、帝はその容貌の雄壮なるを見て、留めて兵部右侍郎とした。
韓雍らは遂に倍道して全州に趨った。陽峒の苗が興安を掠めたが、これを撃破した。桂林に至り、機を失した指揮李英ら四人を斬って衆に示した。地図を按じ諸将と議して言った、「賊は修仁・荔浦を羽翼としている。先ず二県を収めて賊の勢いを孤にすべきである。」そこで兵十六万人を督し、五道に分け、先ず修仁の賊を破り、力山まで窮追した。千二百余人を擒え、七千三百級を斬首した。荔浦もまた平定した。
十月に潯州に至り、父老を招いて問うと、皆言うには、「峡は天険で、攻めるべからず、計略をもって困窮させるべきである。」韓雍は言った、「峡は延広六百余里、どうして困窮させることができようか。兵が分かれば力は弱く、師が老いれば財は匱する。賊はいつ平定できようか。我が計は決した。」そこで長駆して峡口に至った。儒生・里老数十人が道左に伏し、願わくは嚮導とならんと言った。韓雍は見るや罵って言った、「賊が敢えて我を欺くか!」左右に叱して縛り斬らせようとした。左右は皆愕然としたが、縛ると袖の中から利刃が出た。推問すると、果たして賊であった。悉く支解し腸胃を刳き、林箐の中に分けて掛け、累累として相連なった。賊は大いに驚いて言った、「韓公は天神なり!」韓雍は総兵官欧信らに五哨とさせ、象州・武宣からその北を攻めさせた。自らは趙輔と督し都指揮白全らを八哨とし、桂平・平南からその南を攻めた。参将孫震らを二哨とし、水路から入らせた。そして別に兵を分けて諸隘口を守らせた。賊の首魁侯大狗らは大いに懼れ、先ずその累重を桂州横石塘に移し、南山に柵を立て、多く滾木・礧石・鏢槍・薬弩を置いて官軍を拒んだ。
十二月朔(一日)、韓雍らは諸軍を督いて水陸並行で進軍し、団牌を擁して登山し、決死の戦いを交えた。連続して石門・林峒・沙田・古営などの賊の巣窟を破り、その家屋や蓄積を焼き払うと、賊は皆奔り潰走した。木を伐り道を開き、直ちに横石塘及び九層楼などの山に到達した。賊は再び柵を数重に立て、高所に拠って抵抗した。官軍は賊を誘って矢石を発射させ、尽きかけたと見計らうと、韓雍自ら諸軍を督いて木を伝い藤を攀じ登った。別に壮士を間道から先に登らせ、山頂を占拠して砲を挙げさせた。賊は支えきれず、遂に大敗した。先後して賊の三百二十四寨を破り、大狗及びその徒党七百八十人を生け捕りにし、三千二百余りの首を斬り、墜落溺死した者は数え切れなかった。峡には大藤が虹の如く、両岸の間に横たわっていた。韓雍はこれを斧で断ち切り、名を断藤峡と改め、石に功績を刻んで還った。兵を分けて残党を撃ち、郁林・陽江・洛容・博白は次第に皆平定された。
帝は大いに喜び、勅を賜って嘉労し、趙輔らを召還し、韓雍を左副都御史に遷し、両広軍務を提督させた。韓雍はそこで諸軍を散遣し、糧餉を省いた。しかし、残党の侯鄭昂らは虚に乗じて潯州及び洛容・北流の二県を陥落させた。韓雍は弾劾されて罪を引き受け、帝はこれを宥した。韓雍は益々兵を発して討伐した。当時、諸賊は所在で蜂起し、思恩・潯・賓・柳城は悉く侵掠された。流劫して広東に至り、欽・化の二州は皆時に応じて破られ殄滅された。
四年の春、韓雍は両広の地が広大で事が殷賑であることを以て、東西各々に巡撫を設置するよう請い、帝はこれを許可した。陳濂をして広東を巡撫させ、張鵬をして広西を巡撫させ、韓雍は専ら軍事を司ることとした。間もなく憂(父母の喪)により帰郷した。翌年、両広の盗賊が再び起こり、僉事陶魯が言うには、「両広の地勢は錯綜し合い、臂指の如く互いに使うべきで、離析すべきではありません。近頃賊が広西を犯した時、臣は広東の三司と議して兵を調えましたが、一月を経ても決せず、盗賊は畏れるところがありませんでした。どうか仍大臣を命じて総督させるのが便利です。」時に僉事林錦・巡按御史龔晟もまたこれを請うた。そこで両巡撫を罷め、韓雍を起復して右都御史とし、総督は従前の如くとした。さらに翌年の正月、韓雍は新命を辞する上疏をし、終制(喪に服し終えること)を乞うたが、許されなかった。韓雍は任に着くと、参将張寿・遊撃馮昇らを遣わして分道して賊を討たせ、忻州八寨の蛮及び諸山の瑶・僮で州県を掠めた者は、皆これを撃破した。蛮民は平素韓雍の威を畏れ、寇盗は次第に止んだ。
九年、柳・潯の諸蛮が再び叛き、参将楊広らは九百人を俘斬した。まさに更に進軍しようとした時、賊は懐集県を陥落させた。兵部は韓雍の奏報が事実でないと弾劾した。広西鎮守中官黄沁は平素より韓雍が己を抑えたことを恨み、因って韓雍を告発し、かつその貪欲で酒を縱にし、賞を濫りに費やすと述べた。帝は給事中張謙らを遣わして調査させた。一方、広西布政使何宜・副使張斅は韓雍が平素己を軽んじたことを恨み、共にその罪を醸成した。張謙が還って奏上したところ、事は虚実半ばし、結局致仕を命じて去らせた。
韓雍は物事に通達し闊達爽やかで、信義を重んじた。江西を巡撫した時、文天祥・謝枋得の追謚を請うた。詔して天祥に忠烈、枋得に文節を謚した。雄略有り、善く断じ、動けば事機に中る。臨戦に当たっては、常に自ら矢石に親しみ、目を瞬かせなかった。自らの行いは尊厳を保ち、三司は皆長跪して事を申告した。軍門には銅鼓数十を設け、儀礼は詳細で厳密であった。裨将以下は、規律に束縛され容赦がなかった。両地の鎮守宦官は平素驕恣であったが、また畏れて息をひそめ、敢えて放肆することはなかった。悪を疾むことは厳しく、心中は坦らかで崖岸を張らず、財帛を揮斥して少しも惜しまなかった。故に令行禁止であっても、民は安堵を得たが、誹謗議論もまた起こり易かった。中官に齮齕(妨害)され、公論は皆不平であった。両広の人々は韓雍の功を思い、特にその去るを惜しみ、祠を立てて祀った。家居すること五年で卒し、年五十七。正徳年間、襄毅と謚された。
初めに軍功により一子に錦衣百戸の官が与えられたが、韓雍はこれを弟の韓睦に授けた。この時、一子を国子生に録した。
余子俊
成化初年、所司が治行を表彰すべき者を上奏したところ、知府十人で、子俊が首位であった。林聰の推薦により、陝西右参政となり、一年余りで右布政使に擢られた。六年に左に転じ、浙江に調任された。僅か半年で、右副都御史に拝され、延綏を巡撫した。
先に、巡撫王鋭が辺境に沿って墻を築き堡を建て、久遠の計とすべきことを請うたが、工事は未だ興らずして罷められた。子俊は上疏して言うには、「三辺の中で延慶のみが地が平らで、馳突に利有り。寇は屡々入犯し、辺人を獲て導きとし、径に河套に入り屯牧する。これより寇は顧みて内に居り、我は反って外に屯する。急ぎ辺境に沿って墻を築き堡を置くべきである。況んや今旧界石の在る所は、多く高山陡崖である。山形に依り、地勢に随い、或いは削り、或いは築き、或いは塹を穿ち、綿々と引き連ねて相接し、以て辺墻と成すは、計りごとにして便利である。」尚書白圭は陝民が今困窮していることを以て、役を緩めるよう奏上した。既にして寇が孤山堡に入り、再び榆林を犯すと、子俊は先後に朱永・許寧と共にこれを撃破した。
この時、寇は河套を占拠し、歳々大軍を発して征討したが、遂に功が無かった。八年の秋、子俊は再び言うには、「今、河套征討の士馬が延綏に屯する者は八万で、芻茭(馬の飼料)は内地を煩わせる。もし今冬に寇が北去しなければ、また来年の軍資を備えねばならない。暫く今年の数で約すと、米豆は銀九十四万を要し、草は六十万を要する。人毎に米豆六斗・草四束を運べば、四百七万人を用い、行資は約八百二十五万を費やす。公私の煩擾ここに至る、どうして計りごとを変えざるを得ようか。臣が前に墻を築き堡を建てることを請うた時、詔して事が寧んじたならば施行せよとされた。どうか来年の春夏、寇馬が疲弊した時に、陝西の運糧民五万を役し、食を与えて工事を興し、期を両月として事を畢えさせてください。」白圭はなお前議を堅持してこれを阻んだ。帝は子俊の言を是とし、速やかに挙行するよう命じた。
子俊は先に軍功により左副都御史に進んだ。翌年、また紅塩池で賊の巣窟を搗く功により、右都御史に進んだ。寇は巣窟を搗かれた故に遠くに移り、再び河套に住むことを敢えなかった。内地の患いは少し止み、子俊は一意に工事を興すことができた。東は清水営より起こり、西は花馬池に至る、延袤千七百七十里にわたり、崖を鑿ち墻を築き、その下に塹を掘り、連なり比して絶えなかった。毎に二三里毎に敵台崖寨を置いて巡警に備えた。また崖寨の空いている所に短墻を築き、横一斜二箕の如き形状とし、以て敵を瞭望し射撃を避けた。凡そ城堡十一、辺墩十五、小墩七十八、崖寨八百十九を築き、軍四万人を役し、三月を経ずして完成した。墻内の地は悉く分屯して開墾し、歳に糧六万石余りを得た。十年閏六月、子俊は詳細にその事を上奏し、因って母の老齢を以て帰郷を乞うたが、慰留して許さなかった。
初めに、延綏鎮は綏德州を治所とし、所属する米脂・呉堡の諸県は皆その外にあった。
賊寇は軽騎で侵入して掠奪し、鎮兵が気づいて追撃しても、常に追いつかず、しばしば利益を得て去った。
子俊が鎮を楡林に移してからは、衛所を増やし兵を補い、城を拡張して戍兵を置き、攻守の器具を完備させたため、遂に重鎮となり、賊寇の掠奪は次第に稀になり、軍民は安心して耕作・牧畜ができるようになった。
子俊が西安知府であった時、住民が水泉の塩辛く苦いのを患っていたため、渠を開鑿して城西の潏河の水を引き入れて灌漑し、民はその利益を得た。
長い間水が溢れて排水路がなかった。
この時になって、城の西北に渠を開いて水を排水し、漢代の旧城を経て渭水に至らせた。
公私ともに益々便利となり、「余公渠」と号した。
また涇陽で山を穿ち水を引き、千余頃の田を灌漑した。
南山の道を通し、漢中に直通させて、旅人の便を図った。
学校・官衙で崩壊したものは全て新たにした。
岷州・河州・洮州の三衛で南方に戍守する者一万有余の役務を免除するよう上奏した。
南北の更戍者六千有余を交代させて配置し、本土に就かせて戍守させた。
岷州の栗林羌が寇掠したため、子俊は密かに軍を進めて伏兵を設け、これを撃退した。
鎮守中官と督撫・総兵官の席次は、中官が中央に、総督が総兵官の左に座った。時に総兵官陳政は伯爵の故をもって朱英を抑えて右に座らせようとしたが、朱英は肯ぜず、裁定を乞うて上奏した。命じて朱英の総督を解き、只巡撫とし、陳政の下に置いた。尚書余子俊は言う、朱英の招徠の功多く、秩を増して褒賞すべきなのに、却ってその事権を削るのは、諸蛮を鎮めること無からんと。乃ち朱英を右都御史に擢げ仍総督とし、位次は元の如くとした。
田州の酋長黄明はその知府岑溥の祖母を烝し、溥を殺さんとした。溥は思恩に出走し、黄明は因って肆に屠戮した。朱英は進んで討たんとし、溥の族人で恩城知州の岑欽に檄を飛ばし、黄明を殺して恥を雪がしめた。岑欽は遂に黄明並びにその族属を誅し、首を軍門に伝えた。
朱英は淳厚であったが、然し法を執るに仮借無かった。市舶中官韋眷と忤り、韋眷は朱英が権を専らにし賊を玩んでいるとして奏文を捏造した。潯州知府史芳は事有って責められ、亦た朱英の奸貪欺罔を告発した。按ずるに皆証拠無く、乃ち史芳の官を二階級削り、韋眷には協和して共に事に当たるよう諭した。
十六年、交阯が老撾を攻め、議者はその内寇を恐れ、詔して朱英に処置の宜しきを問うた。朱英は対えて言う、「彼は甌脱を争うに過ぎず、諭せば自ずから悔い懼れるであろう」。帝はその言に従い、果たして上表して謝した。潯・梧・高・廉に賊が起こり、陳政等と分道してこれを撃った。再戦し、俘斬甚だ衆かった。十九年、桂林平楽の蛮が城を攻め将を殺すと、朱英・陳政は復た兵を十二道に分けてこれを撃破した。
明年、都察院事を掌るに入り、尋いで太子少保を加えられた。又明年正月、星変有り、八事を疏陳した:辺将の節旦の献馬を禁ずることを請う;鎮守中官・武将が私に庄田を立て、官地を侵奪することを得ざらしむ;焼丹符咒の左道の人は重典に置くべし;四方の分守監槍内官は貢品を進めしめず;倉場・馬房・上林苑の増設内侍を罷撤す;建言して罪を得た諸臣を召還す;内府の白糧収納の積弊を清む;奸民の庄田を投献する及び貴戚のこれを受ける者の罪を治む。権幸は皆便しとせず、執政も多くこれを執り行わなかった。朱英は内閣に造り力爭したが、竟に尽く従うことはできなかった。時に流民が京師に集まる者多く、朱英は人に月三斗の米を与え、幼者はその半とすべしと請い、許された。その年秋に卒した。太子太保を贈られた。
朱英が総督を承くるは韓雍・呉琛の後であった。韓雍は大功有りと雖も、恢廓自ら奉じ、贈遺過侈で、有司は供億に困り、公私耗竭した。而して呉琛は務めて謹廉であった。朱英に至り益々清節を保持し、僅かに一蒼頭を携えて官に赴いた。先後屡々璽書・金幣を賜わったが、朱英は璽書を蔵し、金幣を庫に貯えた。その威望は韓雍に及ばないが、恵沢はこれを過ぎた。甘肅で軍儲三十万両を積み、広で四十余万を積んだが、皆これを聞かせなかった。或る人問うと、答えて曰く、「これは辺臣の常分、何を言う足らん」。人はその大體を知るを服した。正徳中、追謚して恭簡とした。
子の守孚は進士、刑部郎中。
秦紘
天順初め、御史練綱の推薦により、雄県知県に遷った。奉御杜堅が天鵝を捕えるに暴横で、秦紘はその従者を杖ち、坐して詔獄に下された。民五千が闕に詣でて訟うたので、乃ち府谷知県に調された。憲宗即位し、葭州知州に遷り、秦州に調された。母喪で官を去ると、州人は秦紘を借りたいと乞い、服闋して故任に還った。尋いで鞏昌知府に擢げられ、西安に改め、陝西右参政に遷った。岷州の番が乱れ、兵三千を提げてこれを破り、俸一級を進めた。
小王子の数万騎が大同を寇し、長駆して順聖川に入り、宣府の境を掠めた。秦紘は総兵官周玉等と邀撃し、遁走させた。尋いで興寧口に侵入し掠め、連戦してこれを退け、掠めた所を追還し、璽書を以て労った。左僉都御史に進み、巡撫は元の如し。未だ幾ばくもなく、召還されて院事を理め、戸部右侍郎に遷った。万安が尹旻を逐い、秦紘を尹旻の党と誣告し、広西右参政に降格した。福建左布政使に進んだ。
秦紘の初めて鎮に蒞るや、総兵官安遠侯柳景の貪暴を劾し、逮えて獄に下した。柳景も亦た秦紘を告発したが、勘するに左証無く、法司は柳景を死に当てた。柳景は周太后の家と姻戚で、奥援有り、秦紘を告発して已まなかった。詔して並びに秦紘を逮え、廷鞫して卒に罪無し。詔して柳景の死を宥し、爵を奪って閑住とし、而して秦紘も亦た罷めて帰された。大臣王恕等は秦紘を留めることを請うたが、納れられなかった。廷臣復た連章して秦紘を大用すべしと言う。数ヶ月居て、南京戸部尚書として起用された。十一年、疾を引いて去った。
十四年(成化十四年)の秋、寇が大挙して花馬池に侵入し、官軍を孔壩溝で破り、平涼にまで直抵した。言論者は秦紘に威名あり、老いても用いるべきであると謂う。詔して戸部尚書兼右副都御史を起用し、三辺の軍務を総制せしむ。秦紘は馳せて固原に至り、敗戦の地を巡行す。躬ら陣歿の将士を祭り、その骸骨を掩埋す。死事の指揮朱鼎ら五人を録して奏し、戦歿した軍士の家族を恤う。敗将楊琳ら四人の罪を劾治し、守将を更易す。壮士を練り、屯田を興し、号令を申明して、軍声大いに振るう。
十七年、太子少保を加えられ、召還されて部事を視る。年老いたるを以て連章して力辞し、致仕を乞う。詔して敕を賜い、伝に乗じて帰らしめ、月廩歳隷は制の如し。明年九月卒す、年八十。少保を贈られ、謚して襄毅と曰う。
秦紘は廉介にして俗を絶ち、妻子菜羹麦飯常に飽かず。性剛果にして、害を除くに勇み、自ら顧慮せず、士大夫識ると識らざるとを問わず偉人と称す。両広に在りて逮えられし時、方に後山の賊を討せんと議す。軍事を治め畢りて、従容として道に就き、儀衛騶従貶損せず。既に嶺を逾えて、始めて囚服を着して系せらる。官校に謂いて曰く、「両広は蛮夷雑処す、総制の体尊し、遽かに拘執に就けば国威を損ず。今既に嶺を逾え、真の囚なり」と。その厳重にして得体なること此の如し。正徳五年、劉瑾政を乱す。秦紘の家奴、秦紘の婦弟楊瑾を憾み、秦紘の遺せる火炮を以て緝事校尉に投じ、楊瑾が禁制の軍器を畜うと誣う。劉瑾怒り、罪を秦紘に帰す。その家を籍もるも、得る所無し。言官張九叙・塗敬等、復た劉瑾の意を希って秦紘を劾す、士類之を嗤う。
賛に曰く、項忠・韓雍は皆文学を以て通籍し、而して親しく桴鼓を提げ、勲を戎馬の場に樹つ。その機に応じて勝を決し、画を成し謀を遠くするは、宿将と雖も殆ど以て過ぐる無からん、豈に壮ならずや!賞は労に酬いず、謡諑継いで起り、文法吏従ってその後に縄す、功名の士の為に発憤して太息する所なり。余子俊は辺計に尽心し、数世之に頼る。朱英は廉威を以て名を粤嶠に著わし、秦紘は経略を以て西陲に著わる、文武兼資、偉なるかな一代の能臣なり!