明史

列傳第六十五 王翱 年富 王竑 李秉 姚夔 王復 林聰 葉盛

列傳第六十五 王翱 年富 王竑 李秉 姚夔 王復 林聰 葉盛

原文列傳第六十五 王翱 年富 王竑 李秉 姚夔 王復 林聰 葉盛

王翱、年富、王竑、李秉、姚夔、王復、林聰、葉盛

原文○王翺年富王竑李秉姚夔王復林聰葉盛

王翱、字あざなは九皐、塩山の人。永楽十三年、初めて行在で会試貢士を試みた。帝は当時北京に都を定めようとし、北方の士人を得て用いることを考えていた。翱は二度の試験で共に上第となり、帝は大いに喜び、特に召して食を賜った。庶吉士に改め、大理寺左寺正に授けられ、左遷されて行人となった。

原文王翺,字九臯,鹽山人。永樂十三年,初會試貢士於行在。帝時欲定都北京,思得北士用之。翺兩試皆上第,大喜,特召賜食。改庶吉士,授大理寺左寺正,左遷行人。

宣徳元年、楊士奇の推薦により、御史に抜擢された。当時官吏に罪があっても、軽重を問わず、煉瓦を運搬して職に復することを許していた。翱は、贓物を犯した官吏は贖罪を許すのみで、復官させず、貪婪を懲らしめるべきであると請うた。帝はこれに従った。五年、四川を巡按した。松潘の蛮が窃かに発し、都督陳懐が成都に駐屯していたが、距離は八百余里も離れており、制することができなかった。翱は便宜五事を上奏した。陳懐を松藩に移すことを請う。また松茂の軍糧を農閑期に斉力して運送し、官軍で護衛し、専ら百姓に負担させて掠奪に遭わせないこと。吏が由を与えず民を害する者は、自首して隠さぬよう命じること。州県の土司に遍く社学を設けること。会川の銀場で毎年米八千余石を軍に給するが、往復の労費がかかるので、罪ある者に粟を納めさせて自ら贖わせることを請うた。詔して所司に運糧の事を議詳させ、蠹吏を北京に遷すこととし、その余は悉く施行を許した。

原文宣德元年,以楊士奇薦,擢御史,時官吏有罪,不問重輕,許運磚還職。翺請犯贓吏但許贖罪,不得復官,以懲貪黷。帝從之。五年巡按四川。松潘蠻竊發,都督陳懷駐成都,相去八百餘里,不能制。翺上便宜五事:請移懷松藩;而松茂軍糧於農隙齊力起運,護以官軍,毋專累百姓,致被劫掠。吏不給由為民蠹,令自首毋隱;州縣土司遍設社學,會川銀場歲運米八千餘石給軍,往返勞費,請令有罪者納粟自贖。詔所司議詳運糧事,而遷蠹吏北京,余悉允行。

英宗が即位すると、朝廷で文武大臣を出して鎮守させることを議した。翱を右僉都御史に抜擢し、都督武興と共に江西を鎮め、貪婪を懲らし奸を抑えたので、吏民は畏れ愛した。正統二年、院に召還された。四年、処州の賊が流劫して広信に及び、翱を派遣して捕らえさせ、悉く俘虜にして還した。この年冬、松潘都指揮の趙諒が国師の商巴を誘い捕らえ、その財を掠め、同官の趙得と共に謀叛を誣でた。その弟の小商巴が怒り、衆を聚めて剽掠した。翱及び都督李安に命じて軍二万を率いて征伐させた。ところが巡按御史がその枉を白状し、詔して機を審らかにして進止を決めさせた。翱が到着すると、商巴を獄から出し、人を遣わしてその弟を招き、余党を撫定し、趙諒を劾して誅し、趙得を戍に処し、商巴を国師に復した。松潘は遂に平定された。六年、陳鎰に代わって陝西を鎮め、軍民で借糧を償うことのできない者を審査して免除した。

原文英宗即位,廷議遣文武大臣出鎮守。擢翺右僉都御史,偕都督武興鎮江西,懲貪抑奸,吏民畏愛。正統二年召還院。四年,處州賊流劫廣信,命翺往捕,盡俘以還。是年冬,松潘都指揮趙諒誘執國師商巴,掠其財,與同官趙得誣以叛。其弟小商巴怒,聚眾剽掠。命翺及都督李安軍二萬征之。而巡按御史白其枉,詔審機進止。翺至,出商巴於獄,遣人招其弟,撫定余黨,而劾誅諒,戍得,復商巴國師。松潘遂平。六年代陳鎰鎮陜西,軍民之借糧不能償者,核免之。

七年冬、遼東軍務を提督した。翱は軍令が久しく弛んでおり、寇が至っても将士が力戦しないため、諸将が庭謁した際に、軍律を失った罪を責め、左右に曳き出して斬らせようとした。皆恐れ慄いて叩頭し、死を効して贖いたいと願った。翱はそこで自ら辺境を行き、山海関から開原に至り、城垣を繕い、溝塹を浚った。五里ごとに堡を設け、十里ごとに屯を設け、烽燧を相接させた。将士を練り、鰥寡に家室を与えた。軍民は大いに喜んだ。また辺塞が孤遠で軍餉が乏しいため、俗に縁って法を立て、罪ある者に収贖を許させた。十余年の間に、穀物及び牛羊数十万を得て、辺境の用度は豊かになった。

原文七年冬,提督遼東軍務。翺以軍令久馳,寇至,將士不力戰,因諸將庭謁,責以失律罪,命左右曳出斬之。皆惶恐叩頭,願效死贖。翺乃躬行邊,起山海關抵開原,繕城垣,浚溝塹。五里為堡,十里為屯,使烽燧相接。練將士,室鰥寡。軍民大悅。又以邊塞孤遠,軍餉匱,緣俗立法,令有罪得收贖。十餘年間,得谷及牛羊數十萬,邊用以饒。

八年、九年の任期が満ちて、右副都御史に進んだ。指揮の孫璟が戍卒を鞭打ち殺し、その妻女も哭いて死んだ。他の卒が孫璟が一家三人を殺したと訴えた。翱は言った、「卒は法により死し、妻は夫により死し、女は父により死したのであって、殺したのではない。」孫璟に命じてその家の葬祭の費用を償わせた。孫璟は感激した。後に遼東に参将として、敵を三百里追撃し、李秉の下で名将として事績を挙げた。

原文八年以九載滿,進右副都御史。指揮孫璟鞭殺戍卒,其妻女哭之亦死。他卒訴璟殺一家三人。翺曰:「卒死法,妻死夫,女死父,非殺也。」命璟償其家葬{艹〓}費,璟感激。後參將遼東,追敵三百里,事李秉為名將。

十二年、総兵曹義らと共に塞を出て、兀良哈を撃ち、百余りを生け捕り斬り、畜産四千六百を獲、右都御史に進んだ。十四年、諸将が広平山で敵を破り、左都御史に進んだ。脱脱不花が大挙して広寧を犯した。翱が兵を閲していたところ、寇が突然至り、衆は潰走した。翱は城に入って自ら守った。或る者が城は守れないと言うと、翱は手に剣を取って言った、「敢えて城を棄てよと言う者は斬る。」寇が退くと、俸給半歳を停める処分を受けた。

原文十二年與總兵曹義等出塞,擊兀良哈,擒斬百餘人,獲畜產四千六百,進右都御史。十四年,諸將破敵廣平山,進左。脫脫不花大舉犯廣寧,翺方閱兵,寇猝至,眾潰。翺入城自保。或謂城不可守,翺手劍曰:「敢言棄城者斬。」寇退,坐停俸半載。

景泰三年、召還されて院事を掌った。皇太子の更易に際し、太子太保を加えられた。潯州・梧州の瑶が乱れ、総兵の董興・武毅が推委して任事せず、于謙が翁信・陳旺に代えるよう請うたが、特に一大臣を派遣して軍務を督させようとし、そこで翱に命じた。両広に総督が置かれたのは翱から始まる。翱が鎮に至ると、将吏は畏服し、誠を推して撫諭したので、瑶人は教化に帰し、部内に事無かった。翌年、召されて吏部尚書となった。初め、何文淵が王直と協力して銓衡を掌ったが、私が多いため、言官に攻められて去った。翱が代わると、一貫して成憲に従った。

原文景泰三年,召還掌院事。易儲,加太子太保。潯、梧瑤亂,總兵董興、武毅推委不任事,于謙請以翁信、陳旺易之,而特遣一大臣督軍務,乃以命翺。兩廣有總督自翺始。翺至鎮,將吏詟服,推誠撫諭,瑤人向化,部內無事。明年召入為吏部尚書。初,何文淵協王直掌銓,多私,為言官攻去。翺代,一循成憲。

天順に改元し、王直が致仕すると、翱は初めて吏部の事を専らにした。石亨が翱を去らせようとし、翱は休職を乞うた。既に許可を得たが、李賢が力爭して留まった。李賢が石亨に逐われた時も、翱の言葉で留まり、二人は相得て甚だ歓んだ。帝は人を用いる毎に必ず李賢に諮り、李賢は翱を推挙したので、これにより翱はその志を行うことができた。

原文天順改元,直致仕,翺始專部事。石亨欲去翺,翺乞休。已得請,李賢力爭乃留。及賢為亨所逐,亦以翺言留,兩人相得歡甚。帝每用人必咨賢,賢以推翺,以是翺得行其誌。

帝は翱を厚く眷顧し、時々便殿に召して対し、「先生」と呼んで名を呼ばなかった。しかし翱は年齢ほぼ八十で、忘れることが多く、嘗て郎の談倫に随従させて入らせた。帝がその故を問うと、翱は頓首して言った、「臣は老いまして、聖諭を承るも、恐らく遺誤がありますゆえ、この郎に代わって記させております。この者は誠実謹直で信頼できます。」帝は喜んだ。吏部主事の曹恂は既に江西参議に遷っていたが、病に遇って還った。翱がこれを上聞すると、主事として原籍に戻るよう命じられた。曹恂は怒り、翱が入朝するのを待ち、翱の胸を掴み、その面を打ち、大声で罵詈した。事が聞こえ、詔獄に下された。翱は曹恂が実際に病であることを具言し、斥けられて帰ることを得た。時にその度量を服した。

原文帝眷翺厚,時召對便殿,稱「先生」不名。而翺年幾八十,多忘,嘗令郎談倫隨入。帝問故,翺頓首曰:「臣老矣,所聆聖諭,恐遺誤,令此郎代識之,其人誠謹可信也。」帝喜,吏部主事曹恂已遷江西參議,遇疾還。翺以聞,命以主事回籍。恂怒,伺翺入朝,捽翺胸,摑其面,大聲詬詈。事聞,下詔獄。翺具言恂實病,得斥歸,時服其量。

五年、太子少保を加えられた。成化元年、太子太保に進み、雨雪のため朝参を免じられた。屡々上疏して帰ることを乞うたが、常に慰留され、数度医者を遣わして病を見させた。三年、病が甚だしくなり、ようやく致仕を許された。都を出ずして卒した。年八十四。太保を贈られ、諡は忠肅。

原文五年加太子少保。成化元年進太子太保,雨雪免朝參。屢疏乞歸,輒慰留,數遣醫視疾。三年,疾甚,乃許致仕。未出都卒,年八十有四。贈太保,謚忠肅。

翱が吏部に在った時、請謁を謝絶し、公務の余りは常に直廬に宿直し、歳時や朔望に先祠を謁する以外は、嘗て私第に帰らなかった。選任を引く毎に、或いは召対に当たると、侍郎が代わって選んだ。帰るのが夕暮れでも、必ず官署に至って選んだ者を閲し、不適当なことがないかと恐れた。論薦しても人に知らせず、言った、「吏部は恩怨を晴らす場所であろうか。」自らの生活は倹素であった。景帝はその貧しさを知り、塩山に邸宅を造らせた。孫が蔭で太学に入ったが、科挙に応じさせず、言った、「寒士の路を妨げてはならない。」婿の賈傑が近畿に官していたが、翱の夫人が屡々娘を迎えに来させた。賈傑は憤って言った、「そなたの父上は銓衡を掌り、私を京師に移すなど反手の如しだ。何故往来して煩わしさを厭わないのか!」夫人がこれを聞き、隙を見て翱に請うた。翱は怒り、机を押し、夫人を打って面を傷つけた。賈傑は結局転任できなかった。遼東から還朝した時、共事した宦官が翱を重んじ、明珠数顆を贈ったが、翱は固辞した。その者は言った、「これは先朝の賜り物です。公は贓物として私を退けるのですか。」已むを得ず、受け取って蔵した。宦官が死ぬと、その従子を召して返した。都御史であった時、夫人が妾を一人娶らせたが、半年余り経ってから翱に告げた。翱は怒って言った、「汝は何故我が家法を破るのか!」即日、金幣を整えて返した。妾は終に嫁がず、言った、「大臣の妾が他人に嫁ぐことがあろうか。」翱が卒すると、妾は喪に赴き、その子が終身養った。李賢は嘗て人に語って言った、「皐陶が言う九徳のうち、王公はその五つを持つ。乱れて敬あり、擾れて毅あり、簡にして廉あり、剛にして塞がり、強くして義あり。」しかし性格は頗る執拗であった。嘗て詔して賢良方正・経明行修及び山林の隠逸の士を挙げさせた。至った者は概ね吏部に下して試験させたが、翱は落第させ、百に一二も取らなかった。性格上、南方の士人を喜ばなかった。英宗が嘗て言った、「北人の文雅は南人に及ばないが、質直雄偉で、緩急の際には力を発揮するであろう。」翱はこれにより益々北人を多く引き立てた。晚年、宦官の郭聰の嘱託に従い、都御史の李秉に弾劾された。翱は自ら伏して認め、蓋し小さな損いは無きにしも非ずといったところである。子孫は世官として錦衣千戸となった。

原文翺在銓部,謝絕請謁,公余恒宿直廬,非歲時朔望謁先祠,未嘗歸私第。每引選,或值召對,侍郎代選。歸雖暮,必至署閱所選,惟恐有不當也。論薦不使人知,曰:「吏部豈快恩怨地耶。」自奉儉素。景帝知其貧,為治第鹽山。孫以蔭入太學,不使應舉,曰:「勿妨寒士路。」婿賈傑官近畿,翺夫人數迎女,傑恚曰:「若翁典銓,移我官京師,反手爾。何往來不憚煩也!」夫人聞之,乘間請翺。翺怒,推案,擊夫人傷面。傑卒不得調。其自遼東還朝也,中官同事者重翺,贐明珠數顆,翺固辭。其人曰:「此先朝賜也,公得毋以贓卻我乎。」不得已,納而藏焉。中官死,召其從子還之。為都御史時,夫人為娶一妾,逾半歲語翺。翺怒曰:「汝何破我家法!」即日具金幣返之。妾終不嫁,曰:「豈有大臣妾嫁他人者?」翺卒,妾往奔喪,其子養之終身。李賢嘗語人曰:「臯陶言九德,王公有其五:亂而敬,擾而毅,簡而廉,剛而塞,強而義也。」然性頗執。嘗有詔舉賢良方正、經明行修及山林隱逸士。至者率下部試,翺黜落,百不取一二。性不喜南士。英宗嘗言:「北人文雅不及南人,顧質直雄偉,緩急當得力。」翺由是益多引北人。晚年徇中官郭聰囑,為都御史李秉所劾,翺自引伏,蓋不無小損雲。子孫世官錦衣千戶。

年富、字は大有、懐遠の人である。本姓は厳であったが、訛って年となった。会試の副榜により徳平の訓導に任ぜられた。年齢は二十歳を少し過ぎたばかりであったが、厳重にして老儒のようであった。宣徳三年に考課が最上となり、吏科給事中に抜擢された。違失を糾正し、大綱を存することを務めた。帝は六科の任が重いとして、各科に二人を選んでその事を掌らせるよう命じ、そこで富と賈銓とを並べて刑科を掌らせた。都御史顧佐らが十七人を死罪に誤って入れたので、富がこれを弾劾した。帝は佐らを詰責した。

原文年富,字大有,懷遠人。本姓嚴,訛為年。以會試副榜授德平訓導。年甫逾冠,嚴重如老儒。宣德三年課最,擢吏科給事中。糾正違失,務存大體。帝以六科任重,命科擇二人掌其事,乃以富與賈銓並掌刑科。都御史顧佐等失入死罪十七人,富劾之。帝詰責佐等。

英宗が位を嗣ぐと、上言した。「永楽年間、降人を招き納れ、官爵をもって繋ぎとめ、徒らに国帑を消耗し、乱を養い危を招いている。故郷に送還すべきである。府軍前衛の幼軍は、本来民間の子弟を選び、青宮(皇太子)に随侍させるものである。今、死亡や障害により、僉補(徴発補充)が民の擾乱となっている。二十五所の内、一所をもって補調し、さらに民を煩わせぬよう請う。軍民の家で、税役を免れようと図り、僧道に冒充する者が累万に及ぶ。未だ度牒を受けざる者は悉く帰業させるべきである。」議は多く施行された。

原文英宗嗣位,上言:「永樂中,招納降人,縻以官爵,坐耗國帑,養亂招危,宜遣還故土。府軍前衛幼軍,本選民間子弟,隨侍青宮。今死亡殘疾,僉補為擾。請於二十五所內,以一所補調,勿更累民。軍民之家,規免稅徭,冒僧道者累萬,宜悉遣未度者復業。」議多施行。

陝西左参政に遷り、まもなく糧儲を総理するよう命ぜられた。陝西は毎年綾絨毯九百余匹を織っていた。永楽年間、駝毯五十匹の増織が加えられていたが、富はこれを罷めるよう請うた。官吏・諸生・衛卒の禄廩は、概ね辺境の兵糧削減により減らされていたので、富は旧に復するよう請うた。諸辺の将校が肥沃な田を占拠・開墾し、三四十頃に至る者があるので、富は毎頃につき賦十二石を納めさせるよう奏上した。都督王禎は過重として上疏して争った。廷議で三分の二に減らし、遂に定額となった。また歳用を会計し、軍餉を籌策して言う。「臣の管轄する所は、歳収の二税百八十九万石、屯糧七十余万石である。その間、水害旱害や流亡があり、逋負(滞納)を免除すれば、大率三分の一を減ずる。しかるに歳用は百八十余万石に至り、入少なく出多い。今、鎮守の諸臣は国計を量らず、競って増兵を請う。兵糧は何によって給するのか。冗卒を減じ、駑馬を汰り、侵耗の弊を杜絶せんことを請う。」帝はその奏を許可した。三辺の士馬への供給は浩繁で、軍民は遠輸に疲弊し、豪猾がこれに乗じて奸利をなしていた。富は遠近を量り、徴科を定め、出入を慎んで鉤考し、宿弊は革まり、民困は大いに蘇った。富は事に遇うと、果敢にして為すところがあり、権勢も撓ますことはできず、その名声は関中に震動した。然るに、執法は厳し過ぎ、僥倖を求める者は多くこれを喜ばず、これによって屡々誣謗に遭った。陝西の文武将吏は富を失うことを恐れ、皆上章してその労を陳べたので、俸給停止のまま留任することとなった。

原文遷陜西左參政,尋命總理糧儲。陜西歲織綾絹𣯳毼九百餘匹。永樂中,加織駝毼五十匹,富請罷之。官吏諸生衛卒祿廩,率以邊餉減削,富請復其舊。諸邊將校占墾腴田有至三四十頃者,富奏每頃輸賦十二石。都督王禎以為過重,疏爭之。廷議減三之二,遂為定額。又會計歲用,以籌軍餉,言:「臣所部歲收二稅百八十九萬石,屯糧七十餘萬石。其間水旱流移,蠲逋負,大率三分減一,而歲用乃至百八十餘萬,入少出多。今鎮守諸臣不量國計,競請益兵,餉何由給?請減冗卒,汰駑馬,杜侵耗之弊。」帝可其奏。三邊士馬,供億浩繁,軍民疲遠輸,豪猾因緣為奸利。富量遠近,定征科,出入慎鉤考,宿弊以革,民困大蘇。富遇事,果敢有為,權勢莫能撓,聲震關中。然執法過嚴,僥幸者多不悅,以是屢遭誣謗。陜西文武將吏恐失富,鹹上章陳其勞,乃得停俸留任。

九年の任期が満ち、河南右布政使に遷った。また富が苛虐であると言う者があったので、帝は挙主を調査させ、罪に坐せんとした。既に富を挙げた者が少師楊溥であると知ると、その意は解けた。富が河南に至ると、凶年に当たり、流民二十余万が公然と掠奪を行った。巡撫于謙が富にこれを収拾することを委ねると、皆平定した。土木の敗後、辺境の道が阻まれ、兵部が富に糧秣輸送を命じたが、後期する者はなく、左布政使に進んだ。

原文九載滿,遷河南右布政使。復有言富苛虐者,帝命核舉主,將坐之。既知舉富者,少師楊溥也,意乃解。富至河南,歲饑,流民二十餘萬,公剽掠。巡撫于謙委富輯之,皆定。土木敗後,邊境道阻,部檄富轉饟,無後期者,進左。

景泰二年春、右副都御史として大同を巡撫し、軍務を提督した。当時は喪敗を経て、法は弛み、弊害は特に甚だしかった。富は一意に撫循し、秋賦の免除を奏し、諸州県の税課局を罷め、太原の民が大同へ糧秣を転送することを停止させた。武清侯石亨、武安侯鄭宏、武進伯朱瑛が、家人に官庫の銀帛を領させ、米を買い入れて辺境を充実させると称しながら、多くを着服していた。富が真っ先にこれを取り調べ治罪するよう請うた。詔して亨らを赦し、家人を罪に当てた。亨が派遣した卒が関所を越えて大同に至ったので、富はまた亨が専擅したと弾劾した。亨は罪を認めた。後に、襄垣王府の菜戸を削り、またその厨役で教授の事を代行する者を杖罰した。また分守の中官韋力転、参将石彪及び山西参政林厚の罪を弾劾した。この時、富の威名は天下に重んぜられ、諸豪家はますます側目し、互いに富の罪を拾い集めた。于謙がちょうど政事を担当し、力を尽くして富を保持した。帝もまた富を深く知っていたので、故にその志を行うことができた。林厚が力を尽くして富を誹謗したので、帝は言った。「厚は富を怨み、富を誣いるのだ。朕は今まさに富に辺境の事を任せようとしている。どうして軽々しく人の言を聴いて辱めを加えようか。」林厚の官を削った。

原文景泰二年春,以右副都御史巡撫大同,提督軍務。時經喪敗,法弛,弊尤甚。富一意拊循,奏免秋賦,罷諸州縣稅課局,停太原民轉餉大同。武清侯石亨、武安侯鄭宏、武進伯朱瑛,令家人領官庫銀帛,糴米實邊,多所乾沒。富首請按治。詔宥亨等,抵家人罪。亨所遣卒越關抵大同,富復劾亨專擅。亨輸罪。已,削襄垣王府菜戶,又杖其廚役之署教授事者。又劾分守中官韋力轉、參將石彪及山西參政林厚罪。是時,富威名重天下,而諸豪家愈側目,相與摭富罪。于謙方當事,力保持之。帝亦知富深,故得行其誌。林厚力詆富,帝曰:「厚怨富、誣富耳。朕方付富邊事。豈輕聽人言加辱耶。」削厚官。

六年、母の喪に服したが、起復した。七年、富は上言した。「諸辺の鎮守・監槍の内官は以前より増え、陽和・天城のように一城に二人おり、民を甚だしく擾乱している。減らし淘汰することを請う。」事は止められて行われなかった。また言う。「高皇帝の定めた制度では、軍官の私罪は贖罪で済ませるが、笞刑の場合のみである。杖刑になれば即ち降授し、徒刑・流刑は共に軍に充てる。律は甚だ明らかである。近頃、贓を犯す者は、軽い者は皆復職し、重い者もただ功を立てるのみである。刑は懲戒に足らず、さらに顧み憚ることがない。これは皆、法官の過ちである。」廷議に下すと、流刑・徒刑の者は従前通り贖罪を納めるが、ただ本衛で差操に服し、軍を率いることはできないとした。英国公張懋及び鄭宏が各々辺境に田荘を設け、毎年軍を役して耕作させていたので、富がこれを弾劾し、軍を隊伍に戻させた。

原文六年,母憂,起復。七年,富上言:「諸邊鎮守監槍內官增於前,如陽和、天城,一城二人,擾民殊甚,請減汰。」事格不行。又言:「高皇帝定制,軍官私罪收贖,惟笞則然。杖即降授,徒流俱充軍,律明甚。近犯贓者,輕皆復職,重惟立功。刑不足懲,更無顧憚。此皆法官過也。」下廷議,流徒輸贖如故,惟於本衛差操,不得領軍。英國公張懋及鄭宏各置田莊於邊境,歲役軍耕種,富劾之,還軍於伍。

天順元年に巡撫官が廃止されると、富もまた罷免されて帰郷した。間もなく、石彪が以前の恨みから富を弾劾し、詔獄に逮捕された。帝が李賢に問うと、賢は富が弊害を除去できると称えた。帝は言った。「これは必ずや彪が富に抑えられ、その私心を逞しくすることができなかったのだろう。」賢は言った。「誠に聖諭の通りです。早く冤罪を雪ぐべきです。」門達に命じて公に事を問わせた。果たして証拠がなく、そこで致仕を命じた。

原文天順元年革巡撫官,富亦罷歸。頃之,石彪以前憾劾富,逮下詔獄。帝問李賢,賢稱富能祛弊。帝曰:「此必彪為富抑,不得逞其私耳。」賢曰:「誠如聖諭,宜早雪之。」諭門達從公問事。果無驗,乃令致仕。

翌年、廷臣の推薦により、南京兵部右侍郎として起用されたが、未だ赴任せず、戸部に改められ、山東を巡撫した。道中、管轄する県に蝗害こうがいがあると聞き、急ぎ上疏して奏聞した。左副都御史に改められ、巡撫は従前の通りとした。官吏は富の威名に慣れ、彼を見ると畏服し、豪猾は跡を潜めた。

原文明年,以廷臣薦,起南京兵部右侍郎,未上,改戶部,巡撫山東。道聞屬邑蝗,馳疏以聞。改左副都御史,巡撫如故。官吏習富威名,望之詟服,豪猾屏跡。

四年春、戸部に尚書が欠けたので、李賢が富を推挙した。左右の者が巧みにこれを阻んだ。帝は賢に言った。「戸部は富でなければならない。人は多く富を喜ばない。これこそが富の賢たる所以である。」特に召してこれを任じた。富は盈縮を酌み、出納を謹み、躬自ら会計し、吏も欺くことができなかった。利害に関わる事柄では、僚属が敢えて責任を負わないことがあったが、富は言った。「ただ行え。吾がその責を当たる。諸君は署名しなくてよい。」これによって部の事は大いに治まった。父の喪に服したが、哀悼を奪われて(喪を解かれて)当初の通り(職務に復した)。

原文四年春,戶部缺尚書,李賢舉富。左右巧阻之。帝語賢曰:「戶部非富不可,人多不喜富,此富所以為賢也。」特召任之。富酌贏縮,謹出納,躬親會計,吏不能欺。事關利害者,僚屬或不敢任,富曰:「第行之,吾當其責,諸君毋署名可也。」由是部事大理。丁父憂,奪哀如初。

憲宗が立つと、富は陝西で頻繁に兵を用いるのに、糧餉を治める者が適任でないとして、左布政使孫毓を罷免し、右布政使楊璿、参政婁良、西安知府余子俊を用いるよう請うた。吏部尚書王翺が富が官権を侵すと論じ、法司に下すよう請うた。富は力強く弁明して言った。「賢を薦めるのは国のためであり、私心があるわけではない。」そこで骸骨を乞うた。帝は慰留し、孫毓を罷免した。間もなく、癰の病で卒した。諡を恭定と賜った。

原文憲宗立,富以陜西頻用兵,而治餉者非人,請黜左布政孫毓,用右布政楊璿、參政婁良、西安知府余子俊。吏部尚書王翺論富侵官,請下於理。富力辯曰:「薦賢為國,非有所私也。」因乞骸骨。帝慰留之,為黜毓。頃之,病疽卒。賜謚恭定。

富は廉正で強直、終始変わることがなく、王翺と共に名臣と称された。初め、英宗がかつて李賢に諭して言った。「戸部は年富のようでは得難い。」賢は答えて言った。「もし他日に王翺の後を継いで吏部と為すならば、富でなければなりません。」然るに、性質は猜疑に陥りやすく、特に請託を憎んだ。配下の吏で狡猾な者は、故意にその意に反して試した。事を行いたければ、敢えて不可と言い、行いたくなければ、敢えて可と言う。富はしばしばその術中に陥った。

原文富廉正強直,始終不渝,與王翺同稱名臣。初,英宗嘗諭李賢曰:「戶部如年富不易得。」賢對曰:「若他日繼翺為吏部,非富不可。」然性好疑,尤惡幹請。屬吏黠者,故反其意嘗之。欲事行,故言不可,即不行,故言可。富輒為所賣。

王竑、字は公度、その先祖は江夏の人である。祖父の俊卿は事に坐して河州に戍り、そこで籍を定めた。竑は正統四年の進士に及第した。十一年に戸科給事中に任ぜられ、豪邁で気節を負い、正色敢言した。

原文王竑,字公度,其先江夏人。祖俊卿,坐事戍河州,遂著籍。竑登正統四年進士。十一年授戶科給事中,豪邁負氣節,正色敢言。

英宗が北狩(土木の変で捕虜)となると、郕王が午門で朝政を摂り、群臣が王振の誤国の罪を弾劾した。弾劾文を読み終えても起き上がらず、王は退出して待命するよう命じた。衆は皆地に伏して泣き、王振の族誅を請うた。錦衣指揮の馬順は、王振の党であったが、声を厲して言う者を叱り退かせた。竑は憤怒し、奮って臂を上げて立ち上がり、馬順の髪を掴んで呼ばわった。「お前ら奸党は、罪誅に当たる。今なお敢えてこのようであるか!」罵りながらその顔を噛み、衆が共にこれを撃ち、直ちに斃した。朝班は大いに乱れた。王は恐れ、急いで立ち上がって中に入ろうとしたが、竑は群臣を率いて王の後を追った。王は中官の金英に何を言いたいかと問わせると、言った。「内官の毛貴、王長随もまた王振の党です。法に置くことを請う。」王は二人を出すよう命じた。衆はまたこれを捶ち殺し、血が廷陛に染みた。この時、竑の名は天下に震動し、王もまたこれによって竑を深く重んじた。そして諸言官を召し、極めて丁寧に慰諭した。

原文英宗北狩,郕王攝朝午門,群臣劾王振誤國罪。讀彈文未起,王使出待命。眾皆伏地哭,請族振。錦衣指揮馬順者,振黨也,厲聲叱言者去。竑憤怒,奮臂起,捽順發呼曰:「若曹奸黨,罪當誅,今尚敢爾!」且罵且嚙其面,眾共擊之,立斃。朝班大亂。王恐,遽起入,竑率群臣隨王後。王使中官金英問所欲言,曰:「內官毛貴、王長隨亦振黨,請置諸法。」王命出二人。眾又捶殺之,血漬廷陛。當是時,竑名震天下,王亦以是深重竑。且召諸言官,慰諭甚至。

王(景泰帝)が帝位に即くと、也先が京師を侵犯したので、王竑に王通・楊善とともに京城を守備させ、右僉都御史に抜擢し、毛福壽・高禮の軍を督せしめた。寇が退くと、詔して都指揮夏忠らとともに居庸を鎮守させた。竑が到着すると、兵馬を選び、要害を修繕し、職務に適さない将帥を弾劾し、壁壘は一新した。

原文王即帝位,也先犯京師,命竑與王通、楊善守禦京城,擢右僉都御史,督毛福壽、高禮軍。寇退,詔偕都指揮夏忠等鎮守居庸。竑至,簡士馬,繕厄塞,劾將帥不職者,壁壘一新。

景泰元年四月、浙江鎮守中官李德が上言した。「馬順らは罪があり、誅殺を命じるよう請うべきであった。諸臣は敢えて擅に殺害した。内官の擁護がなければ危うかった。これらは皆、闕を犯した賊臣である。用いるべきではない。」上奏文が廷議に下された。于謙らが奏して言った。「上皇が蒙塵された禍は、賊振(王振)による。順らは実に振の腹心である。陛下が監国され、群臣が共に誅戮を請うたのに、順はなおも呵叱した。このため在廷の文武及び宿衛の軍士が忠憤に駆られ、顧みる暇もなく、三人を捶ち殺した。これはまさに『春秋』が乱賊を誅する大義である。もし車駕が播遷し、奸党がなお在ったならば、国の安危は未だ知れなかった。臣らは問うに足らぬと考える。」帝は言った。「乱臣を誅することは、衆の志を安んずる所以である。廷臣の忠義は、朕すでに知っている。卿らは徳の言を気に留めぬように。」八月、竑は病により朝廷に戻った。まもなく都督僉事徐恭とともに漕運を督し、通州から徐州までの運河を治めるよう命じられた。翌年、尚宝司が馬順の牙牌を検出できず、順の子が竑に責を求めるよう請うた。帝はこれを許した。諸諫官が言った。「順の党は奸罪が重く、廷臣が共に除いたのであり、牙牌を問う暇があろうか。しかも竑一人の事ではない。もし竑を責めれば、忠臣は恐れるであろう。」そこで前の旨は取りやめとなった。この年冬、耿九疇が召還され、竑に淮・揚・廬の三府と徐・和の二州を兼ねて巡撫するよう勅し、さらに両淮の塩課を兼ねて管理するよう命じた。

原文景泰元年四月,浙江鎮守中官李德上言:「馬順等有罪,當請命行誅。諸臣乃敢擅殺。非有內官擁護,危矣。是皆犯闕賊臣。不宜用。」章下廷議。于謙等奏曰:「上皇蒙塵,禍由賊振。順等實振腹心。陛下監國,群臣共請行戮,而順猶敢呵叱。是以在廷文武及宿衛軍士忠憤激發,不暇顧忌,捶死三人。此正《春秋》誅亂賊之大義也。向使乘輿播遷,奸黨猶在,國之安危殆未可知。臣等以為不足問。」帝曰:「誅亂臣,所以安眾誌。廷臣忠義,朕已知之,卿等勿以德言介意。」八月,竑以疾還朝。尋命同都督僉事徐恭督漕運,治通州至徐州運河。明年,尚寶司檢順牙牌不得,順子請責之竑,帝許焉。諸諫官言:「順黨奸罪重,廷臣共除之,遑問牙牌。且非竑一人事,若責之竑,忠臣懼矣。」乃寢前旨。是年冬,耿九疇召還,敕竑兼巡撫淮、揚、廬三府,徐、和二州,又命兼理兩淮鹽課。

四年正月、災害が相次いで現れ、春の盛りに厳寒であることを以て、上言した。「諸臣に勅して痛く自ら修省させ、刑を省き税を薄くし、益なき工事を罷め、功なき賞を厳しくし、財を散じて民心を収め、民を愛して邦本を植えるよう請う。陛下はさらに親しく儒臣に近づき、道を講じ徳を論じ、君子を進め小人を退け、以て天意を回らせられよ。」また罪を引き受け罷免を乞うた。帝はその言を容れ、遂に詔を下して修省し、直言を求めた。

原文四年正月,以災傷疊見,方春盛寒,上言:「請敕責諸臣痛自修省,省刑薄斂,罷無益之工,嚴無功之賞,散財以收民心,愛民以植邦本。陛下益近親儒臣,講道論德,進君子,退小人,以回天意。」且引罪乞罷。帝納其言,遂下詔修省,求直言。

先に、鳳陽・淮安・徐州で大水があり、路上に餓死者が相望んだ。竑は上疏して奏し、返答を待たずに倉を開いて救済した。この時、山東・河南の飢民が食を求めて集まり至り、倉庫では賄いきれなかった。ただ徐州の広運倉に余剰の蓄えがあった。竑はこれを全て放出しようとしたが、典守の中官が許さなかった。竑が行って告げて言った。「民は旦夕にして盗賊となろう。もし我に従わねば、もし変事があれば、まず汝を斬り、その後自ら死を請うであろう。」中官は竑の威名を憚り、已むなく従った。竑は自ら専擅の罪を劾し、ついで言った。「広運倉の儲えはわずか三か月分である。死罪以下の者に、被災地で粟を納入して自ら贖罪することを許すよう請う。」帝はさらに侍郎鄒幹に庫金を持たせて急行させ、便宜を聴かせた。竑は自ら巡行して救済米を配り、不足すれば、淮河沿いの上下の商船に、船の大小に応じて米を出させた。全く救われた者は百八十五万余人に及んだ。富民に勧めて米二十五万余石を出させ、飢民五十五万七千家に給した。牛と種を七万四千余り貸し与え、復業した者は五千五百家、他境から流移して安堵した者は一万六百余家であった。病者には薬を与え、死者には棺を備え、売られた子女は贖い戻し、帰る者には道中の費用を与えた。人々はその飢えを忘れ、賞賛の声が大いに起こった。初め、帝は淮・鳳の飢饉を聞き、甚だ憂えた。竑が広運倉を開き自らを劾した上疏を得ると、喜んで言った。「賢なるかな都御史!我が民を生かした。」尚書金濂・大学士陳循らは皆、竑の功を称えた。この年十月、そのまま左副都御史に進めた。時に済寧も飢饉となり、帝は尚書沈翼に庫金三万両を持たせて救済に向かわせた。翼が配給したのはわずか五千両で、残りは京庫に帰した。竑は翼が使命を果たさなかったことを弾劾し、なおも米に換えて救済に備えるよう請うた。帝はこれに従った。

原文先是,鳳陽、淮安、徐州大水,道堇相望。竑上疏奏,不待報,開倉振之。至是山東、河南饑民就食者坌至,廩不能給。惟徐州廣運倉有餘積,竑欲盡發之,典守中官不可。竑往告曰:「民旦夕且為盜。若不吾從,脫有變,當先斬若,然後自請死耳。」中官憚竑威名,不得已從之。竑乃自劾專擅罪,因言「廣運所儲僅支三月,請令死罪以下,得於被災所入粟自贖。」帝復命侍郎鄒幹賫帑金馳赴,聽便宜。竑乃躬自巡行散振,不足,則令沿淮上下商舟,量大小出米。全活百八十五萬餘人。勸富民出米二十五萬餘石,給饑民五十五萬七千家。賦牛種七萬四千餘,復業者五千五百家,他境流移安輯者萬六百餘家。病者給藥,死者具槥,所鬻子女贖還之,歸者予道里費。人忘其饑,頌聲大作。初,帝聞淮、鳳饑,憂甚。及得竑發廣運倉自劾疏,喜曰:「賢哉都御史!活我民矣。」尚書金濂、大學士陳循等皆稱竑功。是年十月,就進左副都御史。時濟寧亦饑,帝遣尚書沈翼賫帑金三萬兩往振。翼散給僅五千兩,余以歸京庫。竑劾翼奉使無狀,請仍易米備振,從之。

翌年二月、上言した。「近年飢饉が重なり至り、人民は困窮を重ねている。この冬春の交わり、雪は数尺深く、淮河から海に至るまで四十余里凍結し、人畜の凍死者は万余り、弱き者は妻子を売り、強き者は劫奪をほしいままにし、衣食の道絶え、流離の民が道に満ちている。陛下は九重の奥深くに端居され、大臣は廊廟に安処して、これを見る由もない。もしその状況を目撃されれば、これのために涙を流されぬ者はないであろう。陛下が嗣位されて以来、天を敬い民を愛さぬわけではないが、天変と民窮が特に甚だしいのは、臣は窃かに聖徳は修められても未だ至らず、大倫は正されても未だ篤くなく、賢才は用いられても未だその効を収めず、邪佞は退けられても未だその類を尽くさず、仁愛は施されても実恵は未だ溥くなく、財用は省かれても上供は未だ節せず、刑罰は寛大でも冤獄は未だ伸びず、工役は停められても匠力は未だ息まず、法制は頒布されても奉行に或いは更張があり、賦税は免じられても有司が或いはなお牽制するからではないか。この一つでもあれば、皆和を干し変を召すに足りる。伏して望むらくは、陛下にはその徳を修めてその治を新たにせられよ。天命を欽み、祖宗に法り、倫理を正し、恩義を篤くし、逸楽を戒め、異端を絶たれよ。これが徳を修めるに誠があるというものである。忠良を進め、邪佞を遠ざけ、賞罰を公にし、賦役を寛げ、財用を節し、聚斂を戒め、貢獻を退け、工役を罷められよ。これが治を図るに実があるというものである。このようにして災変が止まぬことは、未だこれあらざるなり。」帝はこれを褒めて受け入れ、内外の臣工に勅して共に修省を加えさせた。

原文明年二月上言:「比年饑饉薦臻,人民重困。頃冬春之交,雪深數尺,淮河抵海冰凍四十餘里,人畜僵死萬餘,弱者鬻妻子,強者肆劫奪,衣食路絕,流離載途。陛下端居九重,大臣安處廊廟,無由得見。使目擊其狀,未有不為之流涕者也。陛下嗣位以來,非不敬天愛民,而天變民窮特甚者,臣竊恐聖德雖修而未至,大倫雖正而未篤,賢才雖用而未收其效,邪佞雖屏而未盡其類,仁愛施而實惠未溥,財用省而上供未節,刑罰寬而冤獄未伸,工役停而匠力未息,法制頒而奉行或有更張,賦稅免而有司或仍牽制。有一於此,皆足以幹和召變。伏望陛下修厥德以新厥治。欽天命,法祖宗,正倫理,篤恩義,戒逸樂,絕異端,斯修德有其誠矣。進忠良,遠邪佞,公賞罰,寬賦役,節財用,戒聚斂,卻貢獻,罷工役,斯圖治有其實矣。如是而災變不息,未之有也。」帝褒納之,敕內外臣工同加修省。

六年、霍山の民趙玉山が自ら宋の裔と称し、妖術で衆を惑わし乱を為した。竑はこれを捕らえ獲た。先後に貪濁の吏を劾治し、民を食い物にする糧長を革め、民は大いに便利と称した。

原文六年,霍山民趙玉山自稱宋裔,以妖術惑眾為亂,竑捕獲之。先後劾治貪濁吏,革糧長之蠹民者,民大稱便。

英宗が復辟すると、巡撫官を廃し、竑を浙江参政に改めた。数日後、石亨・張軏が竑が馬順を撃った事を追及して論じ、除名し、江夏に編管した。半年経って、帝は宮中で竑の上疏を得て、「倫理を正し、恩義を篤くす」との語を見て、感ずるところ悟った。官を遣わして帰郷させ、有司に善く遇するよう勅した。

原文英宗復辟,革巡撫官,改竑浙江參政。數日,石亨、張軏追論竑擊馬順事,除名,編管江夏。居半歲,帝於宮中得竑疏,見「正倫理,篤恩義」語,感悟。命遣官送歸田裏,敕有司善視之。

天順五年、孛来が莊浪を寇し、都督馮宗らが出討した。李賢の推薦により、竑を元の官に起用し、兵部侍郎白圭とともに軍務を参贊させた。翌年正月、竑は宗とともに孛来を紅崖子川で撃退した。圭らは還ったが、竑はなお留まって鎮守した。冬に至って、ようやく召還された。翌年春、再び漕運を督し淮・揚を巡撫するよう命じた。淮の人は竑の再び至るを聞き、歓呼して迎え拝し、数百里に絶えなかった。

原文天順五年,孛來寇莊浪,都督馮宗等出討。用李賢薦,起竑故官,與兵部侍郎白圭參贊軍務。明年正月,竑與宗擊退孛來於紅崖子川。圭等還,竑仍留鎮。至冬,乃召還。明年春,復令督漕撫淮、揚。淮人聞竑再至,歡呼迎拜,數百里不絕。

憲宗が即位すると、給事中蕭斌・御史呂洪らが共に竑及び宣府巡撫李秉を大用に堪えると推薦した。廷議に下すと、尚書王翺・大学士李賢がその言に従うよう請うた。帝は言った。「古人の君は夢卜して賢を求めた。今ひとり輿論の与える所に従えぬことがあろうか。」即座に竑を兵部尚書に召し、秉を左都御史とした。命令が下ると、朝野ともに慶賀し合った。

原文憲宗即位,給事中蕭斌、御史呂洪等,共薦竑及宣府巡撫李秉堪大用。下廷議,尚書王翺、大學士李賢請從其言。帝曰:「古人君夢卜求賢,今獨不能從輿論所與乎?」即召竑為兵部尚書,秉為左都御史。命下,朝野相慶。

時に両広に用兵しようとしていた。竑は韓雍を総督に推挙した。雍は新たに罪を得たばかりで、衆はこれを難じた。竑は言った。「天子はまさに瑕を棄てて用いる。雍に罪があって用いるべからざるなら、竑は罪なくして廃された者ではないのか。」ついに雍を用いた。竑は進剿の事宜を条上し、かつ将帥が征討するに、私的に人を携えて奏し、妄りに首功を冒すことを得ざるよう言った。また京営の旧額を復し、勢家豪帥が禁軍を擅に役することを禁ずるよう請うた。ここにおいて竑に給事中・御史六人とともに十二営の軍士を簡閲させた。竑は兵を選ぶは将を選ぶに如かずとし、共に奏して営職八十余人を罷免し、慎んで材武を選んで補った。

原文時將用兵兩廣,竑舉韓雍為總督。雍新得罪,眾難之。竑曰:「天子方棄瑕錄用,雍有罪不當用,竑非罪廢者耶?」卒用雍。竑條上進剿事宜,且言將帥征討,毋得奏攜私人,妄冒首功。又請復京營舊額,禁勢家豪帥擅役禁軍。於是命竑同給事中、御史六人簡閱十二營軍士。竑以擇兵不若擇將,共奏罷營職八十餘人,而慎簡材武補之。

兵部で貼黄の欠員を補充する際、王竑は諸大臣と共に修撰の岳正・都給事中の張寧を推挙したが、李賢に阻まれ、結局二人は外任に出され、会挙の例も廃止された。竑は憤然として言った、「我はまだここに居られようか」と。即ち病を理由に引退を求めた。帝は竑を重用しようとしていたので、優詔で慰留し、日々医者を遣わして病状を見させた。竑の請いはますます切実であった。九月、致仕を命じて去らせた。竑が尚書であったのは一年、病を理由に休んだのは四ヶ月で、人々はその才能を十分に発揮させられなかったことを惜しんだ。去った後、朝廷内外から百十通もの推薦上奏があったが、全て取り上げられなかった。

原文兵部清理貼黃缺官,竑偕諸大臣舉修撰嶽正、都給事中張寧,為李賢所沮,竟出二人於外,並罷會舉例。竑憤然曰:「吾尚可居此耶?」即引疾求退。帝方向用竑,優詔慰留,日遣醫視疾。竑請益切。九月命致仕去。竑為尚書一年,謝病者四月,人以未竟其用為惜。既去,中外薦章百十上,並報寢。

初め、竑は自室を「戇庵」と号した。帰郷後、「休庵」と改めた。門を閉ざして客を謝絶し、郷里の人もめったに会えなかった。時に李秉も罷免されて帰郷し、毎日町内を出入りし、旧友と談笑し遊宴していた。竑はこれを聞いて言った、「大臣たる者、どうして重きを養い自愛せぬことがあろうか」と。秉はこれを聞き、笑って言った、「いわゆる大臣とは、郷里で異を立て、矯激を尊ぶことを以て賢とするものではあるまい」と。時に両者は共に称えられた。竑は家に居ること二十年、弘治元年十二月に卒去した。享年七十五。正徳年間、太子少保を追贈され、諡は荘毅。淮の人々は祠を立てて祀った。

原文初,竑號其室曰「戇庵。」既歸,改曰「休庵。」杜門謝客,鄉人希得見。時李秉亦罷歸,日出入裏闬,與故舊談笑遊燕。竑聞之曰:「大臣何可不養重自愛?」秉聞之,亦笑曰:「所謂大臣,豈以立異鄉曲、尚矯激為賢哉。」時兩稱之。竑居家二十年,弘治元年十二月卒,年七十五。正德間,贈太子少保,益莊毅。淮人立祠祀之。

李秉、字は執中、曹県の人。幼くして孤となり勉学に励み、正統元年の進士に挙げられ、延平推官に任じられた。沙県の豪族が良民を盗賊と誣らい、その家室を犯した。秉は豪族を捕らえて処罰した。豪族が秉を誣告したため、罪に落とされ獄に下された。副使の侯軏がこれを正し、豪族を法に照らして論じたため、これによって名を知られるようになった。都察院理刑に召し入れられ、御史に任じようとしたが、都御史の王文が本院の経歴に推薦し、まもなく戸部主事に改めた。宣府の屯田が豪族に占拠されていたので、秉が視察に行き、民に田地を返還し、かつ雑税の廃止を請うたので、辺境の民はこれを頼りとした。両淮の塩課の不正が発覚し、数百人が逮捕された。秉が審査に行き、偽印を捜索して得たので、逮捕された者は冤罪が晴れた。

原文李秉,字執中,曹縣人。少孤力學,舉正統元年進士,授延平推官。沙縣豪誣良民為盜而淫其室,秉捕治豪。豪誣秉,坐下獄。副使侯軏直之,論豪如法,由是知名。徵入都察院理刑,將授御史,都御史王文薦為本院經歷,尋改戶部主事。宣府屯田為豪占,秉往視,歸田於民,而請罷科索,邊人賴之。兩淮鹽課弊覺,逮數百人。秉往核,搜得偽印,逮者以白。

景帝が即位すると、郎中に進んだ。景泰二年、侍郎の劉璉を補佐して宣府で糧餉を監督するよう命じられ、劉璉の横領の実態を暴いた。即座に右僉都御史に抜擢され劉璉に代わり、参賛軍務を兼ねた。宣府の軍民はたびたび寇賊に遭い、牛や農具を悉く掠奪されていた。朝廷は官を遣わして牛一万五千頭を買い、屯田兵に給した。人々に代価を与え、穀種を買わせた。劉璉はこれを全て京から出守して来た軍兵に与え、屯田兵には一切与えず、さらにその月餉を停め、しかも屯糧の徴収を非常に急がせた。秉は劉璉の政をことごとく覆し、厚く彼らを慰撫した。軍卒は城守以外は、全て屯田に従事することができた。往来する使者や宦官の鎮守による供応や徴発は、全て上奏して廃止し、官銭で費用を支給した。まもなく辺備に関する六事を上奏し、言うには、「軍卒は妻を持つ者を有家とし、月餉一石、持たぬ者はその四割を減ずる。父母兄弟はいても妻のない者は、一概に無家と論じるのは道理に合わない。一様に増給すべきである」と。これに従った。当時、宣府の億万庫はかなり充実していたので、秉はさらに商人を招いて塩引による納糧をさせ、軍装を整え、耕牛を買って軍に給し、軍はますます感激喜んだ。

原文景帝立,進郎中。景泰二年命佐侍郎劉璉督餉宣府,發璉侵牟狀。即擢右僉都御史代璉,兼參贊軍務。宣府軍民數遭寇,牛具悉被掠。朝廷遣官市牛萬五千給屯卒。人予直,市谷種。璉盡以畀京軍之出守者,一不及屯卒,更停其月餉,而徵屯糧甚急。秉盡反璉政,厚恤之。軍卒自城守外,悉得屯作。凡使者往來及宦官鎮守供億科斂者,皆奏罷,以官錢給費。尋上邊備六事,言:「軍以有妻者為有家,月餉一石,無者減其四。即有父母兄弟而無妻,概以無家論,非義。當一體增給。」從之。時宣府億萬庫頗充裕,秉益召商中鹽納糧,料飭戎裝,市耕牛給軍,軍愈感悅。

三年の冬、巡撫事務の兼理を命じられた。間もなく、また軍務の提督を命じられた。秉は辺境の計略に心を尽くし、嫌疑や怨みを顧みなかった。都指揮の楊文・楊鑒、都督の江福の貪欲・放縦を弾劾し、罪に処した。独石を守る内官の弓勝が田猟で民を擾乱したことを論じ、召還を請うた。また総兵官の紀広らの罪を弾劾したので、紀広は秉を誣告して自己弁解した。帝は秉を召還しようとしたが、言官が相次いで請願したので、御史の練綱と給事中の厳誠を派遣して調査させ、結局秉を留任させた。当時、辺境の民は多く流亡していたので、秉は広く招来を行い、復業した者には月々の食糧を給するよう上奏した。土木・鷂児嶺の曝骸を埋葬し、諸塞に施行を乞うた。軍人の家族で寇賊に殺掠され無依となった者は、官が養贍し、あるいは資金を与えて帰郷させた。諸弊政を整理し、条奏した百十余件の多くが許可施行された。諜報が寇賊が辺境近くで放牧していると報じたので、廷議では楊俊を遣わして宣府兵と会し、出剿させようとした。秉は言った、「塞外はもと諸部族の牧地であり、辺境を侵犯したわけではない。掩撃して功を幸いとするのは、臣の敢て聞くところではない」と。そこで中止した。諸部族が掠奪した男女を人質として米と交換を求めた。朝議では成人には一石、幼児にはその半石を与えることとした。諸部族は一律に一石を乞うたので、鎮将は認めなかった。秉は言った、「これは人を軽んじ粟を重んずるものだ」と。その言う通りに与えた。自ら専擅の罪を請うたが、帝は大体をわきまえていると認めた。

原文三年冬命兼理巡撫事。頃之,又命提督軍務。秉盡心邊計,不恤嫌怨。劾都指揮楊文、楊鑒,都督江福貪縱,罪之。論守獨石內官弓勝田獵擾民,請徵還。又劾總兵官紀廣等罪,廣訐秉自解。帝召秉還,以言官交請,乃命御史練綱、給事中嚴誠往勘,卒留秉。時邊民多流移,秉廣行招徠,復業者奏給月廩。瘞土木、鷂兒嶺暴骸,乞推行諸塞。軍家為寇所殺掠無依者,官為養贍,或資遣還鄉。厘諸弊政,所條奏百十章,多允行。諜報寇牧近邊,廷議遣楊俊會宣府兵出剿。秉曰:「塞外原諸部牧地,非犯邊也。掩殺幸功,非臣所敢聞。」乃止。諸部質所掠男婦求易米,朝議成丁者予一石,幼者半之。諸部概乞一石,鎮將不可。秉曰:「是輕人重粟也。」如其言予之。自請專擅罪,帝以為識體。

天順初年、巡撫官が廃止されると、江南糧儲の督理に改められた。初め、江南の蘇州・松江の賦額は均しくなかった。陳泰が巡撫の時、民田で五升のものは倍徴し、官田で重いものは増耗を加えず、賦は均等になり額も欠けなかった。秉が着任すると、一貫してその法を守った。まもなく、知府を推挙したことが定例に違反したとして連座で逮捕されたが、帝は秉の過ちは微細であるとして赦した。復任すると、滸墅関の関税を全て米で徴収し備荒に充てるよう請うた。また内官の金保が淮安倉で徴発した罪を摘発した。

原文天順初,罷巡撫官,改督江南糧儲。初,江南蘇、松賦額不均。陳泰為巡撫,令民田五升者倍征,官田重者無增耗,賦均而額不虧。秉至,一守其法。尋坐舉知府違例被逮,帝以秉過微,宥之。復任,請滸墅關稅悉征米備荒。又發內官金保監淮安倉科索罪。

御史の李周らが左遷された時、秉が上疏して救った。帝は怒り、罪に処そうとした。ちょうど廷議で巡撫の復設が議論され、大臣が秉の才能を推薦したので、遂に大同巡撫に任命された。都指揮の孫英は先に罪で職を貶され衛に還っていたが、総兵の李文が妄りに詔書を引用し、復職させようとした。秉が着任すると、即座にこれを斥けた。裨将ひしょうの徐旺が騎卒を率いて操練していたが、秉は旺が任に堪えないとして、その官を解いた。間もなく、天城の守備中官の陳例が久しく病んでいたので、秉は羅付と交替させるよう請うた。帝は秉の専擅を責め、詔獄に下した。指揮の門達は、以前の知府推挙・御史救済および孫英排斥などを秉の罪とした。法司は上意を迎え、民に斥けた。三年間在野にあった後、閣臣の推薦により、元の官に起用され、南京都察院に赴任した。憲宗が即位すると、右副都御史に進み、再び宣府を巡撫した。数ヶ月後、召されて左都御史に任じられた。

原文御史李周等左遷,秉疏救。帝怒,將罪之。會廷議復設巡撫,大臣薦秉才,遂命巡撫大同。都指揮孫英先以罪貶職還衛,總兵李文妄引詔書,令復職。秉至,即斥之。裨將徐旺領騎卒操練,秉以旺不勝任,解其官。未幾,天城守備中官陳例久病,秉請易以羅付。帝責秉專擅,徵下詔獄。指揮門達並以前舉知府、救御史及斥孫英等為秉罪。法司希旨,斥為民。居三年,用閣臣薦,起故官,蒞南京都察院。憲宗立,進右副都御史,復撫宣府。數月,召拜左都御史。

成化に改元すると、大計を掌り、貪残な者を罷免すること、以前の倍に及んだ。翌年の秋、遼東から大同に至る辺備の整飭を命じられた。着任すると即座に、鎮守中官の李良・総兵武安侯の鄭宏の軍律違反の罪を弾劾し、都指揮の裴顯を獄から出し、指揮の崔勝・傅海らを推挙して、敵を鳳皇山で撃った。捷報が聞こえると、璽書を賜り労を嘉された。秉はそこで宣府・大同を巡視し、将帥を更迭し、軍令を申し立てて帰還した。間もなく、総督に任命され、武清伯の趙輔と五道に分かれて塞外に出撃し、大勝した。帝は羊酒を賜って労い、麒麟服を賜り、太子少保を加えられた。

原文成化改元,掌大計,黜罷貪殘,倍於其舊。明年秋,命整飭遼東抵大同邊備。至即劾鎮守中官李良、總兵武安侯鄭宏失律罪,出都指揮裴顯於獄,舉指揮崔勝、傅海等,擊敵鳳皇山。捷聞,璽書嘉勞。秉乃往巡視宣府、大同,更將帥,申軍令而還。未幾,命為總督,與武清伯趙輔分五道出塞,大捷。帝勞以羊酒,賜麒麟服,加太子少保。

三年の冬、吏部尚書王翺が致仕し、廷推で代わりの者を推挙したが、帝は特に李秉を抜擢してこれを任じた。李秉は鋭意をもって官吏の登用の道を清めようとした。監生で任用を待つ者が八千余人いたので、それぞれを考核するよう請うた。凡庸で劣る者数百人を罷免したため、怨みと誹謗が沸き起こった。左侍郎の崔恭は長く在任していたので尚書となるべきであったが、李秉が得たため、甚だ不平であった。右侍郎の尹旻はかつて李秉に学んだことがあり、李秉は初めはその言を用いたが、後に疎遠にした。侍読の彭華は中貴に取り入り、しばしば私事で李秉に干渉したが、李秉は聞き入れなかった。皆、李秉を怨んだ。御史の戴用が、両京の堂上官および方面の正官・佐官について、正統年間の例のように、廷臣を会して保挙すべきこと、また吏部の司属は各部と均しく昇進・転任させ、長く要地を独占させず、かつ急激な昇進をさせてはならないと請うた。その言葉は吏部を侵害し、吏部はこれに反対した。帝は両京の官で四品以上の者について、吏部が欠員を具申し、上裁を仰ぐよう命じた。しかし御史の劉璧・呉遠・馮徽が争ってこれを吏部に帰すよう請うた。帝は怒り、上奏者を詰問責めた。ちょうど朝覲考察があり、李秉が斥退した者が多く、また多くは大臣の郷里の旧知であったため、衆人の怨みが交錯した。大理卿の王概もまた李秉を去らせてその地位を代わろうとし、彭華と謀り、同郷の給事中蕭彦莊を唆して李秉の十二の罪を弾劾させ、かつ彼が年功を積んだ御史を陰に結びつけて己に附け、権力を攬んでいる、と述べた。帝は怒り、廷議に下した。崔恭・尹旻はすぐに「我々二人が諫めたが聞き入れられなかった」と言い、刑部尚書陸瑜らは二人の意に附会して上奏した。帝は李秉が私情に従って法を変え、任使に背いたとして、李秉の太子少保を落とし致仕させた。連座した鮑克寛・李沖は外任に転じ、丘陵・張穆・陳民弼・孫遇・李齢・柳春は皆罷免された。彦莊に命じて李秉が結びつけた御史を指摘させたが、答えられなかった。しばらくして、劉璧ら三人の名を上奏したため、遂に皆詔獄に下し、外任に出した。丘陵らは実に良吏で名声があり、讒言によって罷免されたため、衆議は平らかでなかった。丘陵は特に服せず、連章して彦莊を弾劾した。廷訊において、丘陵の言葉は正しかった。帝は彦莊の誣罔を憎んだ。大寧の駅丞に左遷した。

原文三年冬,吏部尚書王翺致仕,廷推代者,帝特擢秉任之。秉銳意澄仕路。監生需次八千餘人,請分別考核。黜庸劣者數百人,於是怨謗紛起。左侍郎崔恭以久次當得尚書,而秉得之,頗不平。右侍郎尹旻嘗學於秉,秉初用其言,既而疏之。侍讀彭華附中貴,數以私幹秉,秉不聽。胥怨秉。御史戴用請兩京堂上官及方面正佐,如正統間例,會廷臣保舉;又吏部司屬與各部均升調,不得久擅要地,且驟遷。語侵吏部,吏部持之。帝令兩京官四品以上,吏部具缺,取上裁。而御史劉璧、吳遠、馮徽爭請仍歸吏部。帝怒,詰責言者。會朝覲考察,秉斥退者眾,又多大臣鄉故,眾怨交集。而大理卿王概亦欲去秉代其位,乃與華謀,嗾同鄉給事中蕭彥莊劾秉十二罪,且言其陰結年深御史附己以攬權。帝怒,下廷議。恭、旻輒言「吾兩人諫之不聽」,刑部尚書陸瑜等附會二人意為奏。帝以秉徇私變法,負任使,落秉太子少保致仕。所連鮑克寬、李沖調外任;丘陵、張穆、陳民弼、孫遇、李齡、柳春皆罷。命彥莊指秉所結御史,不能對。久之,以璧等三人名上,遂俱下詔獄,出之外。陵等實良吏,有名,以讒黜,眾議不平。陵尤不服,連章訐彥莊。廷訊,陵詞直。帝惡彥莊誣罔。謫大寧驛丞。

李秉が弾劾された時、勢いは洶洶としており、李秉を逮捕しようとした。李秉は人に言った、「私のために彭先生に謝意を伝えてくれ、李秉の罪はただ上命によるのみだ。ただ獄に入れさせないでほしい、入れば李秉は必ず出られず、国体を傷つける恐れがある。」そこで疏を具して咎を引き受け、少しも自ら弁明しなかった。当時、天下の挙子がちょうど会試のために都下に集まっており、奮って罵って言った、「李公は天下の正人であり、奸邪に誣告された。もし李公を罪するならば、我々の試験を罷めて贖罪としたい。」帝が李秉を軽く責めた時、ようやく収まった。李秉が去る時、官属が餞別を送り、皆嘆息し、涙を流す者もいた。李秉は慷慨として諸人に揖し、車に登って去った。李秉が去ると、崔恭が遂に尚書となった。

原文方秉之被劾也,勢洶洶,且逮秉。秉謂人曰:「為我謝彭先生,秉罪惟上所命。第毋令入獄,入則秉必不出,恐傷國體。」因具疏引咎,略不自辨。時天下舉子方會試集都下,奮罵曰:「李公天下正人,為奸邪所誣。若罪李公,願罷我輩試以贖。」及帝薄責秉,乃已。秉行,官屬餞送,皆欷歔,有泣下者。秉慷慨揖諸人,登車而去。秉去,恭遂為尚書。

李秉は誠心と直道を貫いた。平穏と危険において一節を変えず、王竑と並んで重望を負った。家居二十年、朝廷内外からの推薦の疏が十数回上ったが、ついに起用されなかった。弘治二年に卒去した。太子太保を追贈された。後に襄敏と諡された。

原文秉誠心直道。夷險一節,與王竑並負重望。家居二十年,中外薦疏十餘上,竟不起。弘治二年卒。贈太子太保。後謚襄敏。

子の李聡・李明・李智、孫の李邦直は、皆郷試に合格した。李聡は南宮知県となり、蕭彦莊の弾劾により罷免されて帰郷した。李明は建寧府同知となった。李智は南陽府知府となった。李邦直は寧波府同知となり、彦莊が左遷された後、大寧県を署理し、賦課徴収のために盗賊に殺された。

原文子聰、明、智,孫邦直,皆舉鄉試。聰,南宮知縣,以彥莊劾罷歸。明,建寧府同知。智,南陽府知府。邦直,寧波府同知,彥莊謫後,署大寧縣,以科斂為盜所殺。

姚夔は、字を大章といい、桐廬の人である。孝子姚伯華の孫である。正統七年に進士となり、郷試・会試ともに第一であった。翌年、吏科給事中に任じられ、時政八事を上陳した。また言った、「預備倉は本来貧民を救済するものである。しかし里甲は貧者が返済できないことを慮り、しばしば隠して報告しない。そのため富室から借金し、倍にして返すことになる。収穫が終わると、すぐに窮乏する。これは貧民が凶年に飢えるだけでなく、豊年にも飢えるということだ。天下の役所に命じ、年に二度倉を開き、必ず自ら巡察し、まず最も貧しい者に給付するよう乞う。」帝は直ちにこれを行わせた。

原文姚夔,字大章,桐廬人。孝子伯華孫也。正統七年進士,鄉、會試皆第一。明年授吏科給事中,陳時政八事。又言:「預備倉本振貧民。而裏甲慮貧者不能償,輒隱不報。致稱貸富室,倍稱還之。收獲甫畢,遽至乏絕。是貧民遇兇年饑,豐年亦饑也。乞敕天下有司。歲再發廩,必躬勘察,先給其最貧者。」帝立命行之。

景帝が監国した時、諸大臣が即位を勧めることを議したが、決まらなかった。諸言官に問うたところ、姚夔は言った、「朝廷が大臣を任用するのは、まさに社稷のためである。どうして紛々としているのか。」議は遂に定まった。也先が京城に迫った時、急ぎ宣府・遼東の兵を徴発して入衛させるよう請うた。景泰元年、超擢されて南京刑部右侍郎となった。四年に礼部に改任し、勅命を受けて雲南の官吏を考察した。還朝し、礼部に留任した。

原文景帝監國,諸大臣議勸即位,未決。以問諸言官,夔曰:「朝廷任大臣,正為社稷計,何紛紛為?」議遂定。也先薄京城,請急征宣府、遼東兵入衛。景泰元年,超擢南京刑部右侍郎。四年就改禮部,奉敕考察雲南官吏。還朝,留任禮部。

景帝が病に伏した時、尚書胡濙が休暇中であったが、姚夔が強いて起きさせ、群臣とともに上疏して太子の復位を請うた。許されなかった。翌日、姚夔が百官を率いて宮門に伏して請願しようとしたが、石亨らが既に上皇を奉じて復位させ、姚夔を南京礼部に出した。英宗は元より姚夔を知っており、復儲の議を聞くと、駅伝で召し還し、左侍郎に進めた。天順二年に吏部に改めた。ある知府が貪汚で失脚し、石亨に賄賂を贈って復職を求めたが、姚夔が執って許さず、遂に止んだ。七年、石瑁に代わって礼部尚書となった。

原文景帝不豫,尚書胡濙在告,夔強起之,偕群臣疏請復太子。不允。明日,夔欲率百官伏闕請,而石亨輩已奉上皇復位,出夔南京禮部。英宗雅知夔,及聞復儲議,驛召還,進左侍郎。天順二年改吏部。知府某以貪敗,賄石亨求復,夔執不可,遂止。七年代石瑁為禮部尚書。

成化二年、帝は尚書李賓の言に従い、南畿及び浙江・江西・福建の諸生に、米を納めて飢饉を救済すれば国子監に入れるように命じた。姚夔が上奏してこれを廃止させた。四年、災異が屡々現れたため、上疏して「六宮に均しく愛を施し、継嗣を広めよ。西山に新しく建てた塔院を罷め、阿叱哩の徒を斥けて遠ざけよ。経筵を視ることを勧め、庶政を裁決せよ。君子に親しみ、小人を遠ざけ、用度を節し、名器を愛せよ。服食言動は、悉く祖宗の成憲に遵い、天意を回らせよ。」と請うた。かつ「今日は成化初年の政を守るだけで十分である。」と言った。帝は優れた詔旨でこれに答えた。その他の請うた十事は、皆直ちに許可された。

原文成化二年,帝從尚書李賓言,令南畿及浙江、江西、福建諸生,納米濟荒得入監。夔奏罷之。四年以災異屢見,疏請「均愛六宮,以廣繼嗣。乞罷西山新建塔院,斥遠阿叱哩之徒。勸視經筵,裁決庶政。親君子,遠小人,節用度,愛名器。服食言動,悉遵祖宗成憲,以回天意。」且言「今日能守成化初政足矣。」帝優旨答之。他所請十事,皆立報可。

慈懿太后が崩御した時、中旨で別葬を議じたが、閣臣が反対し、廷議に下した。姚夔は言った、「太后は先帝に配して二十余年、合葬して升祔する典禮が定まっている。一たび不慎があれば、先帝の心に背き、母后の徳を損なう。他日に礼に基づいて改議する者が現れた時、陛下の孝徳はどうなるのか。」疏を三度上し、また群臣を率いて文華門に伏して泣いて諫めた。帝は周太后に固く請い、遂に礼に従うことができた。後に孝宗が姚夔及び彭時の上疏を見て、劉健に言った、「先朝の大臣は忠厚をもって国に尽くしたのだな。」彗星すいせいが現れ、言官が連続して姚夔を弾劾したため、姚夔は去職を求めたが、許されなかった。帝は番僧を信じ、法王・仏子に封じる者があり、服用が度を越えて僭擬した。奸人がこれを慕い、競ってその徒となった。姚夔が力諫したため、勢いはやや減じた。

原文慈懿太后崩,中旨議別葬,閣臣持不可,下廷議。夔言:「太后配先帝二十餘年,合葬升祔,典禮具在。一有不慎,違先帝心,損母後之德。他日有據禮議改者,如陛下孝德何?」疏三上,又率群臣伏文華門哭諫。帝為固請周太后,竟得如禮。後孝宗見夔及彭時疏,謂劉健曰:「先朝大臣忠厚為國乃如此!」彗星見,言官連劾夔,夔求去,不允。帝信番僧,有封法王、佛子者,服用僭擬無度。奸人慕之,競為其徒。夔力諫,勢稍減。

五年、崔恭に代わって吏部尚書となった。雨雪が時を失したため、時弊二十事を陳述した。七年、太子少保を加えられた。彗星が現れ、再び群臣とともに二十八事を陳述し、大要は請託を絶ち、采辦を禁じ、軍匠を恤れ、力役を減らし、流民を撫で、冗費を節することを急務とした。帝は多くを採り入れた。翌年九月、南畿・浙江が大水に見舞われた。姚夔は廷臣に命じて共に安民と患害を消す方策を求めさせた。災異がある度に、帝に振恤を請い、憂いの色を顔に表した。翌年に卒去し、少保を追贈され、文敏と諡された。

原文五年代崔恭為吏部尚書。雨雪失時,陳時弊二十事。七年加太子少保。彗星見,復偕群臣陳二十八事,大要以絕求請,禁采辦,恤軍匠,減力役,撫流民,節冗費為急。帝多采納。明年九月,南畿、浙江大水。夔請命廷臣共求安民弭患之術。每遇災異,輒請帝振恤,憂形於色。明年卒,贈少保,謚文敏。

姚夔の才器は宏遠で、表裏が洞達していた。朝議で未定のことがあれば、姚夔の一言で直ちに決した。吏部にあっては、人材に留意し、親故を避けなかった。初め、王翺が吏部にいた時、専ら南人を抑え、北人はこれを喜んだ。姚夔に至っては、頗る南人を重んじ、論薦した者は概ね職に称することができた。

原文夔才器宏遠,表裏洞達。朝議未定者,夔一言立決。其在吏部,留意人才,不避親故。初,王翺為吏部,專抑南人,北人喜之。至夔,頗右南人,論薦率能稱職。

子の姚璧は、進士より歴任して兵部郎中となった。項忠が汪直を弾劾した時、姚璧はその謀に参与した。汪直が項忠を陥れ、姚璧も連座して獄に下され、広西思明同知に左遷され、病を理由に辞任して帰郷した。

原文子璧,由進士歷官兵部郎中。項忠劾汪直,璧預其謀。直構忠,連璧下獄,謫廣西思明同知,謝病歸。

姚夔の従弟の姚龍は、姚夔と同年に進士に合格し、刑部主事に任じられ、累進して福建左布政使となった。右布政使の劉譲は同年であったが仲が良くなかった。劉譲は粗暴であり、姚龍もまた清操に乏しかった。成化初年に入覲し、王翺が両名とも罷免した。

原文夔從弟龍,與夔同舉進士,除刑部主事,累官福建左布政使。右布政使劉讓同年不相能。讓粗暴,龍亦乏清操。成化初入覲,王翺兩罷之。

王復は、字を初陽といい、固安の人である。正統七年に進士となった。刑科給事中に任じられた。声容は宏偉で、上奏に長じた。通政参議に抜擢された。

原文王復,字初陽,固安人。正統七年進士。授刑科給事中。聲容宏偉,善敷奏。擢通政參議。

也先が京師を侵犯し、大臣を出迎えて上皇を迎えるよう要求した。人々は行くのを恐れ、また彼に赴くよう請うた。そこで右通政に転じ、礼部侍郎を仮に任じられ、中書舎人趙栄とともに赴いた。敵は刃を露わにして挟み撃ちにしたが、王復らは恐れなかった。帰還後も通政事に留まり、さらに通政使に昇進した。天順年間、兵部左右侍郎を歴任した。

原文也先犯京師,邀大臣出迎上皇。眾憚行,復請往。乃遷右通政,假禮部侍郎,與中書舍人趙榮偕。敵露刃夾之,復等不為懾。還仍蒞通政事,再遷通政使。天順中,歷兵部左右侍郎。

成化元年、延綏総兵官房能が河套部衆を追撃したと上奏し、勅旨により賞与と労いがあった。王復は七百里を急行して戦うのは適切でなく、また僥倖によって事を起こすことを恐れ、戒め諭すよう勅命を請うた。帝はこれを是とした。尚書に進んだ。錦衣千戸陳玨は、もと画工であった。その死後、甥の陳錫が百戸の襲封を請うた。王復は言う、「襲封は先帝の命ではあるが、軍功によるものではない。許すべきではない。」と。そこで止めさせた。

原文成化元年,延綏總兵官房能奏追襲河套部眾,有旨獎勞。復以七百里趨戰非宜,且恐以僥幸啟釁,請敕戒諭,帝是之。進尚書。錦衣千戶陳玨者,本畫工。及卒,從子錫請襲百戶。復言:「襲雖先帝命,然非軍功,宜勿許。」遂止。

毛裏孩が辺境を侵したため、王復を派遣して陝西の辺備を視察させた。延綏から甘粛に至るまで地形を観察し、上奏して言う、「延綏は東は黄河岸から始まり、西は定辺営に至り、寧夏の花馬池に接し、曲がりくねって二千余里に及ぶ。険阻な要害はすべて内側にあり、境外には障壁がなく、ただ墩堡に頼って守っている。軍はかえって内側に居り、民は外側に居る。敵が一度侵入すれば、官軍が動く前に、民は掠奪され尽くしてしまう。また西南は慶陽に至るまで五百余里離れており、烽火が連絡しない。敵が来ても、民はまだ知らない。その北側の墩堠は、概して広漠として遠く、辺境防衛の長策ではない。府谷、響水などの十九の堡を、辺境近くの要地に移すことを請う。そして安辺営から慶陽に、定辺営から環州に、二十里ごとに墩台を一つ築く。合わせて三十四となる。地形に従って溝と塀を築けば、おそらく音響が聞こえ合い、守りやすくなるであろう。」と。寧夏の経略については、言う、「中路の霊州以南には、もと亭燧がなかった。東西二路は、営堡が遠く隔たり、連絡が取れず、敵がしばしば深く侵入する原因となっている。延綏のように墩台を設置することを請う。合わせて五十八の台となる。」と。

原文毛裏孩擾邊,命復出視陜西邊備。自延綏抵甘肅,相度形勢,上言:「延綏東起黃河岸,西至定邊營,接寧夏花馬池,索紆二千餘里。險隘俱在內地,而境外乃無屏障,止憑墩堡以守。軍反居內,民顧居外。敵一入境,官軍未行,民遭掠已盡矣。又西南抵慶陽,相去五百餘里,烽火不接。寇至,民猶不知。其迤北墩堠,率皆曠遠,非禦邊長策。請移府谷、響水等十九堡,置近邊要地。而自安邊營接慶陽,自定邊營接環州,每二十里築墩臺一,計凡三十有四。隨形勢為溝墻,庶息響相聞,易於守禦。」其經略寧夏,則言:「中路靈州以南,本無亭燧。東西二路,營堡遼絕,聲聞不屬,致敵每深入。亦請建置墩臺如延綏,計為臺五十有八。」

甘粛の経略については、言う、「永昌、西寧、鎮番、庄浪にはいずれも守るべき険阻がある。ただ涼州だけは四方が平坦で広く、敵が最も侵入しやすい。また水草が便利なため、敵はしばしば一年中滞留する。遠くから援軍を調達すれば、兵は疲れ鋭気は挫かれ、急場をどうして救えようか。甘州五衛の内から、それぞれ一千戸所を分け、涼州中衛を設置し、印信を与えることを請う。その五所の軍兵は、五衛内の余丁から選んで補う。耕しながら練兵すれば、これで戦守の資が得られ、軍威はおのずから振るうであろう。」また言う、「洪武年間に東勝衛を建て、その西路は寧夏に直通し、みな烽堠を列ねた。永楽初年以降、北寇が遠く逃げたため、軍を延綏に移し、黄河を放棄して守らなかった。もし兵が強く糧が足りるなら、やはり祖制に準じて黄河を占拠して守るのが万全の策である。今、河套が未だ平定されていないのに、どうして急に回復できようか。しかし時勢に応じて損益すべきである。延綏の将校は他の鎮に比べて少なく、調遣に不足がある。参将二人を増設し、九千の軍を統率させ、要地に駐屯させて互いに援護し合うようにすることを請う。これは今日の急務である。」と。上奏すると、いずれも従われた。

原文其經略甘肅,則言:「永昌、西寧、鎮番、莊浪俱有險可守。惟涼州四際平曠,敵最易入。又水草便利,輒經年宿留。遠調援軍,兵疲銳挫,急何能濟。請於甘州五衛內,各分一千戶所,置涼州中衛,給之印信。其五所軍伍,則於五衛內余丁選補。且耕且練,斯戰守有資,兵威自振。」又言:「洪武間建東勝衛,其西路直達寧夏,皆列烽堠。自永樂初,北寇遠遁,因移軍延綏,棄河不守。誠使兵強糧足,仍準祖制,據守黃河,萬全計也。今河套未靖,豈能遽復?然亦宜因時損益。延綏將校視他鎮為少,調遣不足,請增置參將二人,統軍九千,使駐要地,互相援接,實今日急務。」奏上,皆從之。

王復は辺境での建置は、多く機宜に適っていた。朝廷に戻ると、言官が兵を治めるのは王復の長所ではないと言った。特に白圭を代わりに任命し、王復を工部に改めた。法度を謹んで守り、名声は兵部の時を上回った。当時、宦官が皇城西北の回廊を修繕するよう請うたが、王復はその工事を遅らせるよう議した。給事中高斐も災害が頻発しているので、万人を動員して無益な工事をすべきでないと言った。帝はいずれも許さなかった。騰驤四衛軍を統率する宦官が、綿入れの上衣や靴、ズボンの支給を請うた。王復は許さず、言う、「朝廷がこれを作ったのは、本来出征する兵士に与え、期日までに出発の準備をさせ、縫製の労を取らせないためである。京軍には毎年冬衣の布と綿を与える。これは定められた法である。どうしてこれを変えようか。」と。大応法王札実巴が死んだとき、宦官が寺を造り塔を建てるよう請うた。王復は言う、「大慈法王はただ塔を建てただけで、寺を造ったことはない。今この制度を作るべきではない。」と。そこでただ塔を建てることを命じたが、それでも四千人の軍を動員して労役に供したという。十四年、太子少保を加えられた。

原文復在邊建置,多合機宜。及還朝,言者謂治兵非復所長。特命白圭代之,改復工部。謹守法度,聲名逾兵部。時中官請修皇城西北回廊,復議緩其役。給事中高斐亦言災沴頻仍,不宜役萬人作無益。帝皆不許。中官領騰驤四衛軍者,請給胖襖鞋褲。復執不可,曰:「朝廷制此,本給征行之士,使得刻日戒途,無勞縫紉。京軍則歲給冬衣布棉,此成憲也,奈何渝之?」大應法王劄實巴死,中官請造寺建塔。復言:「大慈法王但建塔,未嘗造寺。今不宜創此制。」乃止命建塔,猶發軍四千人供役雲,十四年加太子少保。

王復は古を好み学問を嗜み、廉潔で倹約を守り、人に対して腹を探らず、官に当たっては大体をわきまえた。工部に十二年居たが、災異が起こり、言官がその衰老を言い、休職を乞うた。許されなかった。二月後、汪直が言官にそそのかして王復と鄒幹、薛遠をさらに弾劾させた。そこで勅旨が伝えられ、ともに致仕して帰るよう命じられた。久しくして、卒去した。太子太保を追贈され、諡は荘簡。

原文復好古嗜學,守廉約,與人無城府,當官識大體。居工部十二年,會災異,言官言其衰老,乞休。不許。居二月,汪直諷言官更劾復及鄒幹、薛遠。乃傳旨,並令致仕歸。久之,卒。贈太子太保,謚莊簡。

林聡、字は季聡、寧徳の人。正統四年の進士。吏科給事中に任じられた。景泰元年、都給事中に進んだ。当時は多事多難であり、林聡は慷慨として事を論じ、憚るところがなかった。宦官金英の家人が法を犯し、都御史陳鎰と王文がこれを処罰したが、金英を罪に問わなかった。林聡は同僚を率いて陳鎰と王文が勢力を恐れて奸に従ったことを弾劾し、御史の宋瑢、謝琚にも及んだ。みな獄に下された。後に復職した。林聡はまた宋瑢と謝琚は風紀を担当させるに堪えないと言い、二人は結局地方に転出した。宦官単増が京営を監督して寵愛を受け、朝士で少しでも逆らう者は辱めを受けた。家奴が白昼に人を殺し、民の財産を奪い、商税を侵した。林聡はその奸を暴き、詔獄に下された。赦免を得た。単増はこれ以降放肆に振る舞わなくなった。

原文林聰,字季聰,寧德人。正統四年進士。授吏科給事中。景泰元年進都給事中。時方多故,聰慷慨論事,無所諱。中官金英家人犯法,都御史陳鎰、王文治之,不罪英。聰率同列劾鎰、文畏勢從奸,並及御史宋栗,謝琚,皆下獄。已而復職。聰又言栗、琚不任風紀,二人竟調外。中官單增督京營有寵,朝士稍忤者輒遭辱;家奴白晝殺人,奪民產,侵商稅。聰發其奸,下詔獄。獲宥。增自是不敢肆。

三年春、上疏して言う、「臣の職務は刑獄を糾察することにある。妖僧趙才興の遠縁の一族百人は、法律で連座すべきでないのに、捕らえられて京に連行された。謀叛人王英の兄は事情を知らず、家族は法律で逮捕すべきでないのに、ともに流刑地に配された。結局は赦されたが、その初めに受けた害は耐えがたいものであった。湖広巡撫蔡錫は副使邢端を弾劾したため、逆に訴えられ、獄に繋がれて一年を経たが、邢端は以前と変わらず職に居る。侍郎劉璉が兵糧を監督して隠匿したのは、罪がないわけではない。沈固や周忱が千万を着服したのと比べて、どちらが軽重か。劉璉は獄に下されて追徴されたが、沈固や周忱は問われない。犯人徐南とその子で中書舎人の徐頤は、ともに王振の党として斬刑に当たるが、徐南には死刑を論じ、徐頤はただ除名しただけである。これらはみな刑罰が公平を失っているものである。」と。帝はこれを是とした。邢端は獄に下され、劉璉は釈放され、徐南も死刑を減じられ除名された。

原文三年春,疏言:「臣職在糾察刑獄。妖僧趙才興之疏族百口,律不當坐,而抄提至京。叛人王英,兄不知情,家口律不當逮,而俱配流所。雖終見原,然其始受害已不堪矣。湖廣巡撫蔡錫以劾副使邢端,為所訐,繫獄經年,而端居職如故。侍郎劉璉督餉侵隱,不為無罪。較沈固、周忱乾沒萬計,孰為輕重?璉下獄追征,而固、忱不問。犯人徐南與子中書舍人頤,俱坐王振黨當斬,乃論南大辟,頤止除名。皆刑罰之失平者。」帝是之。端下獄,璉得釋,南亦減死,除名。

東宮が改めて建てられた時、林聡は異論があり、春坊司直郎に転じた。四年春、学士商輅が林聡は敢言であるから、閑職に置くべきでないと言い、そこでまた吏科都給事中に復した。上疏して、喪中に官に留まるのは良き制度でないので、永くその令を除くよう請うた。帝はこれを採用した。初め、正統年間、福建の銀場の課税額が重く、民は耐えられなかった。林聡は変乱が起こるのを恐れ、軽減を請うた。当時は用いられなかったが、後に果たして大乱が起こった。この時になって再びその害を極言し、ついに減免を得た。

原文東宮改建,聰有異論,遷春坊司直郎。四年春,學士商輅言聰敢言,不宜置之散地,乃復為吏科都給事中。上言奪情非令典,請永除其令。帝納之。初,正統中,福建銀場額重,民不堪。聰恐生變,請輕之。時弗能用,已果大亂。及是復極言其害,竟得減免。

五年三月、災異に因んで同官とともに八事を条上した。五行諸書を広く引き、数千言に及んだ。大略、玩好を絶ち、嗜欲を慎むことが徳を崇める根本であるとした。そして人事を修めるには、賢を進め奸を退けることにある。武清侯石亨、指揮鄭倫は身に厚禄を享けながら、多く田地を求めて上奏した。百戸唐興に至っては一千二百余頃にも及んだ。制限すべきである。その他、斎醮を廃し、僧道を淘汰し、刑獄を慎み、軍士を私的に使役することを禁じ、輪班工匠を減らすことなど、いずれも時弊を深く突いていた。帝は多くを採り入れた。

原文五年三月,以災異偕同官條上八事,雜引五行諸書,累數千言。大略以絕玩好,謹嗜欲,為崇德之本。而修人事,在進賢退奸。武清侯石亨、指揮鄭倫身享厚祿,而多奏求田地;百戶唐興多至一千二百餘頃,宜為限制。余如罷齋醮、汰僧道,慎刑獄,禁私役軍士,省輪班工匠,皆深中時弊。帝多采納。

先に、吏部尚書何文淵が林聡の言によって獄に下され、致仕して去った。この時、吏部が副使羅篪を按察使に、参政李輅と僉事陳永を布政使に任命した。林聡は上疏してこれを争い、併せて山西布政使王瑛は老齢なので罷免すべきと言った。羅篪らはそこで元の官に戻り、王瑛は致仕した。御史白仲賢は長く在任したため、広東按察使に抜擢された。林聡は白仲賢が奔走して地位を求めたので、超擢すべきでないと言い、そこで鎮江知府に転じた。兵部主事呉誠が縁故によって吏部を得た。林聡がこれを弾劾し、そこで工部に改めた。諸司は林聡の風裁を恐れ、林聡の言うことは敢えて従わないものはなく、吏部は特にそうであった。内閣および諸御史もまた林聡が好んで議論し建議するのを良しとしなかった。

原文先是,吏部尚書何文淵以聰言下獄,致仕去。及是,吏部除副使羅篪為按察使,參政李輅、僉事陳永為布政使。聰疏爭之,並言山西布政使王瑛老,宜罷。篪等遂還故官,瑛致仕。御史白仲賢以久次,擢廣東按察使。聰言仲賢奔競,不當超擢,乃遷鎮江知府。兵部主事吳誠夤緣得吏部,聰劾之,遂改工部。諸司憚聰風裁,聰所言,無敢不奉行者,吏部尤甚。內閣及諸御史亦並以聰好論建,弗善也。

その年の冬、陳聡の甥の陳和が教官となり、近地を望んで養いやすくしたいと願った。陳聡は吏部にそのことを言った。御史の黄溥らはそこで陳聡が吏部を挟制したと弾劾した。また、以前に仲賢を弾劾したのは、同郷の参政方員に私情を働かせ、仲賢の官職を奪って彼に与えようとしたためであり、呉誠と怨恨があり、すぐに呉誠を弾劾したこと、福建参政の許仕達が陳聡に進用を依頼し、陳聡が仕達を巡撫に適任と推挙したこと、を併せて弾劾した。また、尚書の王直が陳聡に迎合したことも弾劾した。上奏文が下されて廷議で審問され、専断で選法を乱した罪により、斬刑が論じられた。高谷と胡濙が力を尽くして救った。帝もまた陳聡のことを知っていたので、国子学正に貶すにとどめた。

原文其年冬,聰甥陳和為教官,欲得近地便養。聰為言於吏部。御史黃溥等遂劾聰挾制吏部;並前劾仲賢為私其鄉人參政方員,欲奪仲賢官予之;與吳誠有怨,輒劾誠;福建參政許仕達囑聰求進,聰舉仕達堪巡撫。並劾尚書王直阿聰。章下廷訊,坐專擅選法,論斬。高谷、胡濙力救。帝亦自知聰,止貶國子學正。

英宗が復位すると、左僉都御史に超拜され、出向して山東の飢饉を救済し、飢民百四十五万人を生かした。還朝して右副都御史に進み、江・淮の塩賊を捕らえた。便宜を以て、首魁数人を捕らえて誅戮し、残りは全て解散させ、賊から賄賂を受けた指揮を名簿に記して上奏した。母の喪に服して起復を命じられ、再び辞退したが、許されなかった。

原文英宗復辟,超拜左僉都御史,出振山東饑,活饑民百四十五萬。還進右副都御史,捕江、淮鹽盜。以便宜,擒戮渠魁數人,余悉解散,而奏籍指揮之受盜賂者。母憂起復,再辭。不許。

天順四年、曹欽が反乱を起こした。将士が妄りに殺害し、乞食の首を斬って功績として報告するに至り、市井の人は戸を出ることができなかった。陳聡が都察院の事務を代行し、急ぎ賊を捕らえた者は必ず生け捕りにするよう命じ、濫殺を止めさせた。錦衣官校は曹欽が指揮の逯杲を殺したことを憎み、曹欽の姻戚や知人を悉く捕らえた。千戸の龔遂榮とその外舅の賀三もまた捕縛された。人々はその冤罪を知っていたが、敢えて正そうとする者はなく、陳聡が弁明して釈放させた。その他に冤罪を雪いだ者は非常に多かった。七年の冬、刑部の囚人が自縊した事件で、諸給事中が綱紀が廃れて弛んでいることを弾劾し、都御史の李賓と共に獄に下された。まもなく釈放された。

原文天順四年,曹欽反。將士妄殺,至割乞兒首報功,市人不敢出戶。聰署院事,急令獲賊者必生致,濫殺為止。錦衣官校惡欽殺指揮逯杲,悉捕欽姻識。千戶龔遂榮及外舅賀三亦在系中。人知其冤,莫敢直,聰辨出之。其他湔雪者甚眾。七年冬,以刑部囚自縊,諸給事中劾紀綱廢弛,與都御史李賓俱下獄。尋釋。

成化二年、淮南・淮北が飢饉となり、陳聡が出向して巡視した。漕糧と江南の余剰穀物を貸し出して救済するよう上奏し、民は山東の時のようにその恩徳を慕った。翌年、戸部尚書の馬昂と共に京軍を整理し、右都御史に進んだ。七年、王越に代わって大同を巡撫した。一年余りして、病に遭い致仕した。さらに一年後、元の官職で起用され、南京都察院を掌った。以前の掌院は多く御史が事を言うのを喜ばなかったが、陳聡は独りそれを奨励した。ある者が陳聡を咎めると、陳聡は言った、「自分が既に言わないのに、また他人が言うのを禁じるのは、よろしいか」。

原文成化二年,淮南、北饑,聰出巡視。奏貸漕糧及江南余糧以振,民德之如山東。明年偕戶部尚書馬昂清理京軍,進右都御史。七年代王越巡撫大同。歲餘,遇疾致仕。再歲,以故官起掌南院。前掌院多不樂御史言事,聰獨獎勵之。或咎聰,聰曰:「己既不言,又禁他人言,可乎?」

十三年の秋、召されて刑部尚書に拝され、まもなく太子少保を加えられた。陳聡は旧徳を以て召し用いられ、大綱を守り、公論を秉り、厳しくしなくても威厳があり、時の声望はますます高かった。十五年、宦官の汪直、定西侯の蔣琬と共に遼東の失態の状況を査問した。汪直が巡撫の陳鉞を庇ったが、陳聡は争うことができず、論者はこれを惜しんだ。十八年、帰郷を乞うたが許されず、任上で卒した。六十八歳であった。少保を追贈され、諡は莊敏。

原文十三年秋,召拜刑部尚書,尋加太子少保。聰以舊德召用,持大體,秉公論,不嚴而肅,時望益峻。十五年,偕中官汪直、定西侯蔣琬按遼東失事狀。直庇巡撫陳鉞,聰不能爭,論者惜焉。十八年乞歸不得,卒於位,年六十八。贈少保,謚莊敏。

陳聡は諫官として、厳重で犯しがたいものであった。実は恭順で温和であり、峻絶した行いをしなかった。この故に不肖の者は彼を畏れ、賢者は多く彼に親しむことを喜んだ。景泰の時、士大夫が激昂して事を論じ、朝廷に直臣が多かったのは、概ね陳聡と葉盛がその先導をなしたのである。

原文聰為諫官,嚴重不可犯。實恂恂和易,不為嶄絕之行。以故不肖者畏之,而賢者多樂就焉。景泰時,士大夫激昂論事,朝多直臣,率聰與葉盛為之倡。

葉盛、字は與中、昆山の人。正統十年の進士、兵科給事中に授けられた。土木で軍が覆り、諸将の多くは遁走して帰還した。葉盛は同僚を率いて、まず扈従して軍律を失った者の罪を正すことを請い、また将を選び兵を練って、復讐の計略を立てるよう求めた。郕王が即位すると、例として賞賜があったが、葉盛は君父が塵埃を蒙っていることを理由に辞退した。許されなかった。

原文葉盛,字與中,昆山人。正統十年進士,授兵科給事中。師覆土木,諸將多遁還,盛率同列請先正扈從失律者罪,且選將練兵,為復仇計。郕王即位,例有賞賚,盛以君父蒙塵辭。不許。

也先が都城に迫ると、内府の軍匠を罷めて出征や操練に備えるよう請うた。また、役所に糧食を蓄え戦士に支給させ、散卒を天津に派遣して軍器を取らせ、外援を張るよう請うた。三日の間に、上奏文を七八度上程し、多くは機宜に適っていた。寇が退くと、都給事中に進んだ。言うには、「勧懲の道は、賞罰を明らかにすることにある。孫鏜のように敢然と戦い、謝澤や韓青のように事に死した者は、賞すべきである。その他、守禦が厳しくなかった者、難に赴くのに力を尽くさなかった者は、皆罰すべきである」。大臣の陳循らは、居庸を鎮守する都御史の羅通を召還し、また宣府都督の楊洪を留めて京営を掌らせることを議した。葉盛は言った、「今日の事は、辺関が急務である。往時、独石や馬営を棄てなかったならば、乗輿はどうして土木に陥ったであろうか。紫荊や白羊が破られなかったならば、寇はどうして都城に迫ったであろうか。今、紫荊・倒馬の諸関は、寇が退いてほぼ一月になるが、まだ守禦を設けていない。宣府は大同の応援であり、居庸は京師に近接しているので、守る者は特に人非人であってはならない。楊洪らが既に留まるならば、必ず楊洪のような者を求めて代えさせ、その後でこそ重い任に副い大功を集めることができる」。帝はこれを是とした。まもなく命を受けて陳州の流民を安集に出向した。

原文也先迫都城,請罷內府軍匠備征操。又請令有司儲糧科給戰士,遣散卒取軍器於天津,以張外援。三日間,章七八上,多中機宜。寇退,進都給事中。言:「勸懲之道,在明賞罰。敢戰如孫鏜,死事如謝澤、韓青,當賞。其他守禦不嚴,赴難不力者,皆當罰。」大臣陳循等議召還鎮守居庸都御史羅通,並留宣府都督楊洪掌京營。盛言:「今日之事,邊關為急。往者獨石、馬營不棄,駕何以陷土木?紫荊、白羊不破,寇何以薄都城?今紫荊、倒馬諸關,寇退幾及一月,尚未設守禦。宣府為大同應援,居庸切近京師,守之尤不可非人。洪等既留,必求如洪者代之,然後可以副重寄而集大功。」帝是之。尋命出安集陳州流民。

景泰元年に還朝し、言った、「流民は五方の者が雑居し、その情は一様ではない。幸いに編戸になっても、闘争や仇殺が時々あるので、専任の官を置いて綏撫すべきである」。また言った、「畿輔は旱魃と蝗害が相次いでいるので、寛大な救恤を加えるよう請う」。帝は多くを採り入れた。京衛の武臣とその子弟は多く驕慢で怠惰で兵事に習熟していなかった。葉盛は精壮な者を選抜し、操練に備えて京城を守らせるよう請うた。勲戚が設置した店舗には、月ごとに税を徴収していた。葉盛は国用が不足していることを理由に、その税を籍没して軍餉の補助とするよう請うた。いずれも従われた。翌年、災害を消し患いを防ぐ八事を上奏した。帝は兵革がやや治まったので、宴楽や遊興をかなり行っていたが、葉盛は午朝の故事を復活させるよう請い、すぐに許可された。この時、帝は虚心に諫言を受け入れ、六科が連署して建議するものは、多く葉盛と林聰が首班であった。廷臣が事を議する時、葉盛は毎回先に発言し、往復して論難した。議事に与る大臣の中には不愉快に思う者がおり、「彼は少保なのか?」と言い、それゆえに「葉少保」と呼んだ。しかし世論は皆葉盛の才能を推した。

原文景泰元年還朝,言:「流民雜五方,其情不一。雖幸成編戶,而鬥爭仇殺時時有之,宜專官綏撫。」又言:「畿輔旱蝗相仍,請加寬恤。」帝多采納。京衛武臣及其子弟多驕惰不習兵。盛請簡拔精壯,備操守京城。勛戚所置市廛,月征稅。盛以國用不足,請籍其稅佐軍餉。皆從之。明年,上弭災防患八事。帝以兵革稍息,頗事宴遊,盛請復午朝故事,立報可。當是時,帝虛懷納諫,凡六科聯署建請,多盛與林聰為首。廷臣議事,盛每先發言,往復論難。與議大臣或不悅曰:「彼豈少保耶?」因呼為「葉少保」。然物論皆推盛才。

右参政に抜擢され、宣府で糧餉を督した。まもなく李秉の推薦により、都督僉事の孫安の軍務を協賛した。初め、孫安はかつて独石・馬営・龍門衛・所の四城の備禦を領していたが、英宗が北狩すると、孫安は四城が塞外に遠く、勢いが孤立しているとして、放棄して内陸に移すよう上奏した。この時、廷議は孫安に修復を命じた。葉盛は共に草を開き、廬舎を修繕し、戦具を整え、流民を招き、旅人のために暖かい宿舎を設け、官金を請うて牛千頭を買い屯卒に貸与し、社学を立て、義冢を置き、疾病を治療し傷を扶けた。二年の間に、四城及び赤城・雕鶚の諸堡が次第に全て完成し、孫安はこれにより副総兵に進んだ。ところが守備宦官の弓勝が孫安を害し、孫安は病気なので代えるべきだと上奏した。帝が葉盛に問うと、葉盛は言った、「孫安は弓勝に抑えられているので、病気なのです。今、諸将で孫安に及ぶ者はいません」。そこで孫安を留め、かつ医者を遣わして病気を見させた。後にまた弓勝を弾劾し、ついに彼を他の鎮に転任させた。

原文擢右參政,督餉宣府。尋以李秉薦,協贊都督僉事孫安軍務。初,安嘗領獨石、馬營、龍門衛、所四城備禦,英宗即北狩,安以四城遠在塞外,勢孤,奏棄之內徙。至是廷議命安修復。盛與辟草萊,葺廬舍,庀戰具,招流移,為行旅置煖鋪,請帑金買牛千頭以賦屯卒,立社學,置義冢,療疾扶傷。兩歲間,四城及赤城、雕鶚諸堡次第皆完,安由是進副總兵。而守備中官弓勝害安,奏安疾宜代。帝以問盛,言:「安為勝所持,故病。今諸將無逾安者。」乃留安,且遣醫視疾。已又劾勝,卒調之他鎮。

英宗が復位すると、葉盛は父の喪に遭い、奔喪した。天順二年に召されて右僉都御史となり、両広を巡撫した。喪に服し終えることを乞うたが、許されなかった。瀧水の瑤族の鳳弟吉が掠奪をほしいままにしたので、諸将を督して生け捕りにした。当時、両広の賊が蜂起ほうきし、至る所で城を破り将を殺した。諸将は怯えて敢えて戦わず、平民を殺して功績に充てたので、民は相率いて賊に従った。葉盛は蛮族の出没が常でないことを理由に、今後は城池を攻撃掠奪した者についてのみ上奏し、その他は類別して奏上するにとどめるよう請うた。上疏が兵部に至ると、駁されて行われなかった。葉盛は総兵官の顔彪と共に賊の砦七百余りを破った。顔彪はかなり濫殺したので、誹謗する者は遂に葉盛を咎めた。六年、呉禎を広西巡撫に命じ、葉盛は専ら広東を巡撫した。

原文英宗復位,盛遭父憂,奔喪。天順二年召為右僉都御史,巡撫兩廣。乞終制,不許。瀧水瑤鳳弟吉肆掠,督諸將生擒之。時兩廣盜蜂起,所至破城殺將。諸將怯不敢戰,殺平民冒功,民相率從賊。盛以蠻出沒不常,請自今攻劫城池者始以聞,余止類奏。疏至兵部,駁不行。盛與總兵官顏彪破賊寨七百餘所。彪頗濫殺,謗者遂以咎盛。六年命吳禎撫廣西,而盛專撫廣東。

憲宗が即位し、議事のため入都すると、給事中の張寧らは彼を内閣に推薦しようとした。御史の呂洪の言上により止められ、代わりに韓雍が広東巡撫に任じられた。初め、編修の邱濬は葉盛と仲が良くなかった。大学士の李賢が邱濬の言葉を聞き入れ、この時に至って韓雍への任命書を起草し、「葉盛のように降伏者を殺すことなかれ」と書いた。葉盛は弁明しなかった。少しして左僉都御史に遷り、李秉に代わって宣府を巡撫した。中塩の米価を酌量して減らし、商人を勧めて辺境を豊かにするよう請うた。また官牛・官田の法を挙行し、田四千余頃を開墾した。その余剰の蓄えで戦馬千八百匹を買い、堡塁七百余りを修築し、辺塞はますます寧かになった。

原文憲宗立,議事入都,給事中張寧等欲薦之入閣。以御史呂洪言遂止,而以韓雍代撫廣東。初,編修邱濬與盛不相能。大學士李賢入濬言,及是草雍敕曰:「無若葉盛之殺降也。」盛不置辨。稍遷左僉都御史,代李秉巡撫宣府。請量減中鹽米價,以勸商裕邊。復舉官牛官田之法,墾田四千餘頃。以其餘積市戰馬千八百匹,修堡七百餘所,邊塞益寧。

成化三年の秋、入朝して礼部右侍郎となり、給事中の毛弘と共に南京で事を査問した。還朝して吏部に改めた。出向して真定・保定の飢饉を救済し、荘田を整理すること、民間で種馬を分養すること、涿州と天津に倉を置き粟を蓄えて凶年に備えることを議し、いずれも時勢に切実な計画であった。

原文成化三年秋,入為禮部右侍郎,偕給事毛弘按事南京。還改吏部。出振真定、保定饑,議清莊田,分養民間種馬,置倉涿州、天津,積粟備荒,皆切時計。

満都魯(モンドリュウ)の諸部は久しく河套に駐留し、兵部尚書白圭は十万の兵を以て大挙してこれを駆逐し、河に沿って城を築き東勝に至り、民を移して耕守させんと議す。帝はその議を壮とす。八年春、盛をして総督王越、巡撫馬文升・余子俊・徐廷璋と会して詳議せしむ。初め、盛は諫官たりしとき、兵を言うを喜び、論建すること多し。既に三辺を往来し、時に良将なく、辺備久しく虚しく、転運は労費し、河套を捜し東勝を復するは軽々に議すべからざるを知る。乃ち諸臣と会して上疏し、「守を以て長策と為す。必ず決戦せんとすれば、亦た堅壁清野し、その惰帰を伺いてこれを撃ち、一大創を与え、庶幾くは再び来るを遏し得べし。又は彼の掠め入るに乗じ、精卒を遣わして進みてその巣を搗き、彼をして反顧せしめ、内外夾撃すれば、以て功をなすに足る。然れども必ず守固くして、而る後に戦を議すべし」と。帝はその言を善しとすれども、圭は套を復するを主とす。師出でて、竟に功無し。人は以て盛の先見に服す。

原文滿都魯諸部久駐河套,兵部尚書白圭議以十萬眾大舉逐之,沿河築城抵東勝,徙民耕守。帝壯其議。八年春,敕盛往會總督王越,巡撫馬文升、余子俊、徐廷璋詳議。初,盛為諫官,喜言兵,多所論建。既往來三邊,知時無良將,邊備久虛,轉運勞費,搜河套復東勝未可輕議。乃會諸臣上疏,言「守為長策。如必決戰,亦宜堅壁清野,伺其惰歸擊之,令一大創,庶可遏再來。又或乘彼入掠,遣精卒進搗其巢,令彼反顧,內外夾擊,足以有功。然必守固,而後戰可議也。」帝善其言,而圭主復套。師出,竟無功。人以是服盛之先見。

八年、左侍郎に転ず。十年、卒す。年五十五。諡して文莊と曰う。

原文八年轉左侍郎。十年卒,年五十五。謚文莊。

盛は清修積学、名檢を尚び、嗜好を薄くし、家居出入常に徒步す。生平范仲淹を慕い、堂寢皆その像を設く。志は君民に在りて、身の計を為さず、古大臣の風有り。

原文盛清修積學,尚名檢,薄嗜好,家居出入常徒步。生平慕范仲淹,堂寢皆設其像。誌在君民,不為身計,有古大臣風。

賛に曰く、天順・成化の間、六部最も人を得たりと称せらる。王翺らは正直剛方、皆いわゆる名徳老成人なり。翺と李秉・年富の封疆を任じ、王竑の奸党を撃ち饑民を活かし、王復の辺備を籌い、姚夔の秩宗を典とし、林聰・葉盛の言路に居るを観るに、表見する所、皆自ら卓卓たり。その声実茂著にして、朝野の重望を係う、以て有る哉。

原文贊曰:天順、成化間,六部最稱得人。王翺等正直剛方,皆所謂名德老成人也。觀翺與李秉、年富之任封疆,王竑之擊奸黨、活饑民,王復之籌邊備,姚夔之典秩宗,林聰、葉盛之居言路,所表見,皆自卓卓。其聲實茂著,系朝野重望,有以哉。