○衛青(子穎)董興 何洪(劉雄)劉玉 仇鉞 神英(子周)曹雄(子謙)馮禎 張俊(李鋐)楊銳(崔文)
衛青は、字を明德といい、松江華亭の人である。薊州の百戸として成祖に降り、功を積んで都指揮僉事に至り、中都留守司事を治め、山東備倭に改めた。
衛青は孝行があり、士卒をよく撫で、海上に十余年居たので、海浜の人は彼を思い、朝廷に請い、祠を立てて祀った。
子から孫の錞に伝わった。嘉靖の時、神機営を督し、屡々太保兼太子太師を加えられた。四代伝わって時泰に至った。崇禎の時、後府を掌った。京師が陥落すると、鉄券を懐き、一家十七人皆井戸に赴いて死んだ。
董興は、長垣の人である。初め燕山右衛指揮使となり、累進して署都指揮同知に至った。正統年間、新建伯の李玉らが董興を将才として推挙し、署都指揮使に進み、京営管操となった。また推薦により、署都督僉事に抜擢され、右参将を充て、寧陽侯陳懋に従って鄧茂七を討ち、建寧で余党を破り、都督同知に進んだ。
久しくして、召還され、京営を分督した。曹吉祥と姻戚を結び、「奪門」の功を冒し、海寧伯に封ぜられた。まもなく、総兵官を充て、遼東を鎮守し、世券を賜った。「奪門」者の爵を革する議論があり、董興は辺境を守ったことにより免れた。曹吉祥が誅されると、董興の爵を奪い、依然として右都督とし、広西に発して功を立てさせた。錦衣の李貴の推薦により、爵を回復し、宣府を総兵し、再び世券を賜った。憲宗が嗣位すると、罷免されて還った。後に、世襲を停止した。家に居ること十余年で卒した。
何洪は、全椒の人である。世職を嗣ぎ、成都前衛指揮使となった。正統年間、麓川征討に従軍した。景泰末、天柱・銅鼓征討に従軍した。いずれも功があった。累進して都指揮使となり、四川都司事を掌り、東苗平定に参与した。憲宗が即位すると、功を論じ、都督僉事に抜擢した。巡撫の汪浩が何洪を四川に留めるよう請い、許された。
德陽の人趙鐸が反乱し、自ら趙王と称し、漢州の諸賊は皆これに帰した。番衆と連合し、数度城を陥落させ、将吏を殺した。その党の何文讓及び僧の悟升を遣わして安嶽諸県を掠めさせた。何洪は悟升を斬り、文讓を生け捕りにした。趙鐸が成都に迫らんとした時、官軍は三路に分かれて討伐した。何洪は都指揮の寧用と共に彰明に向かい、賊は退いた。梓潼の朱家河まで追撃し、力戦して、賊は少し退いた。何洪は勝に乗じて敵陣に突入したが、後軍が続かず、賊に包囲され、左右に跳蕩し、賊を多く殺したが、力尽きて死んだ。
何洪は勇敢で、士卒をよく撫で、号令は厳しく、蜀の将で彼に及ぶ者はいなかった。死んだ後、官軍は気力を奪われた。一方、四川都指揮僉事の臨淮の劉雄もまた戦死した。劉雄は剛勁で、敵に遇えば常に前に進み、かつて漢州で賊を捕らえ、七十余人を生け捕りにした。趙鐸の乱の時、羅江の大水河まで追撃し、自ら数人を斬り、賊は連敗した。千戸の周鼎が傷つき、劉雄が前に進んでこれを救おうとし、直ちに賊陣に奔り込み、群がって刺されて死んだ。詔して何洪に都督同知を追贈し、祭葬を賜い、子の節に都指揮僉事を襲わせた。劉雄に都指揮同知を追贈し、祭を賜い、子に職を襲わせ、二官を超えて昇進させた。
六年、帝は谷登を甘粛副総兵に任じようとした。李賢が登は任に堪えず、劉玉は老成であると進言した。そこで再び都督僉事・右副総兵とし、涼州を鎮守させた。咎咂族が叛くと、兵を合わせてこれを平定し、都督同知に進んだ。
成化四年、満俊が固原で乱を起こすと、白圭が劉玉を総兵官に推挙し、左右参将夏正・劉清を統率してこれを討たせ、兵を七つに分けた。劉玉は総督項忠と共に石城に到着した時、賊はすでに数度敗北していた。ちょうど毛忠が戦死し、劉玉も包囲され、流れ矢に当たったが、力戦して脱出した。二ヶ月にわたり対峙し、大小百十回の戦闘の末、ついにこれを平定した。左都督に進み、右府事を掌った。以前の西堡での功績を訴え出たところ、俸禄を百石増やすことを命ぜられ、耀武営を掌った。六年に左副総兵に充てられ、朱永に従って延綏に出撃した。五月、河套部が侵入して来ると、劉玉は衆を率いてこれを防ぎ退けた。一年余りして卒去した。固原伯を追贈され、諡は毅敏。
劉玉は奴僕の身分から出立したが、勇決人に勝り、士卒をよく撫で、赴任した地で一度も敗北したことはなかった。満俊の叛乱では、石城の険を拠り、たびたび官軍を破ったが、劉玉の戦いが最も奮戦した。功績を論ずるに及んで、ただ官秩一級を賜るのみで、当時はその薄遇を惜しんだ。子の劉文は指揮使を世襲した。
仇鉞、字は廷威、鎮原の人である。初め雇われ兵卒として寧夏総兵府に給事し、大いに信頼寵愛された。ちょうど都指揮僉事仇理が卒去し、後嗣がなかったため、ついに仇鉞にその世職を継がせ、寧夏前衛指揮同知とした。仇理は江都の人であったので、故に仇鉞は自ら江都仇氏を称した。再び賊を破った功により、都指揮僉事に進んだ。
先に、朝廷では変事を聞き、神英を総兵官とし、仇鉞を副将に任じようと議した。まもなく仇鉞が賊に降ったと伝わり、詔書を追い返そうとした。大学士楊廷和が言うには、「仇鉞は必ずや賊に従わない。朝廷が抜擢任用することを知らせれば、志は一層堅固になるであろう。そうでなければ、良将を棄てて敵に与えることになる」と。そこで追い返さなかった。事態は果たして平定された。しかし劉瑾は陝西総兵官曹雄の功績を隠し、仇鉞の功績をすべて彼に帰したため、仇鉞は結局特別な抜擢を受けなかった。巡按御史閻睿がその功績を訴え出たところ、詔により三ヶ月の俸禄を奪われた。劉瑾が誅殺されて初めて、署都督僉事に進み、寧夏総兵官に充てられた。まもなく功績を論じ、咸寧伯に封ぜられ、歳禄千石、世券を与えられた。翌年の冬、召されて三千営を掌った。
七年二月、平賊将軍に任ぜられ、都御史彭澤と共に河南の盗賊劉惠・趙鐩を討ち、宦官陸訚がその軍を監軍した。到着する前に、参将馮禎が洛南で戦死し、賊の勢いはますます盛んになった。やがて官軍が来ると聞き、そこで汝州に奔った。また官軍が要害を扼していると聞き、宝豊に走り、さらに舞陽・遂平から転じて汝州東南を掠奪し、敗走して固始に至り、潁州に達し、朱臯鎮に屯した。永順宣慰彭明輔らがこれを撃つと、賊は慌てて河を渡り、溺死者二千人を出した。残衆は光山に走り、仇鉞が追いついた。諸将神周・姚信・時源・金輔に命じて左右から挟撃させると、賊は大敗し、千四百余級を斬首した。湖広軍もまたその別部隊賈勉児を羅田で破った。賊は沿道で潰散した。六安から舒城を陥とし、再び光山に戻り、商城に至った。官軍の追撃が急であったため、賊は再び南進して六安を攻めた。陥落させようとした時、時源らが河を渡って進撃し、七里岡でこれを破った。賊は廬州に向かい、定遠の西でまた敗れた。六安に戻り、その衆を二つに分けた。劉惠は趙鐩の二人の弟趙鐇・趙鎬と共に一万余人を率い、北へ商城に走った。一方、趙鐩は道中でその徒党の張通及び楊虎の残党数千人に出会い、勢いを再び振るい、鳳陽を掠奪し、泗・宿・睢寧・定遠を陥とした。ここにおいて彭澤と仇鉞は計略を立て、神周に趙鐩を追わせ、時源・金輔に劉惠を追わせ、姚信に賈勉児を追わせた。賈勉児と趙鐩は再び合流したが、神周と姚信は宿州で連破し、応山まで追撃してその衆をほぼ全滅させた。趙鐩は懐中の度牒を発し、潜かに江夏に至った。村の店で食事をしている時、軍士の趙成が捕らえて京師に送り、誅殺された。時源・金輔は劉惠を追撃し、連戦連勝した。劉惠は窮して南召に逃げたが、指揮王謹が土地嶺で追いつき、その左目を射て、自縊死させた。賈勉児はたびたび都指揮朱忠・夏広に敗れ、項城の丁村で捕らえられた。残党の邢本道・劉資及び楊寡婦らは先後して皆擒えられた。出師すること凡そ四ヶ月で、河南の賊は悉く平定された。
趙鐩、一名を風子、文安の諸生である。劉七らの乱が起こると、趙鐩は家族を連れて洲の中に隠れたが、賊が彼らを陸に上がらせ、その妻女を汚そうとした。趙鐩は元来驍健で膂力があり、手ずから二賊を撃ち殺した。賊が集まって彼を捕らえ、ついにその党に入り首魁となった。賊は専ら淫掠に事としていたが、趙鐩は少し智計があり、部隊を定め、その党に妄りに殺さぬよう勧めた。府県に檄を移し、官吏や師儒は逃げ避けず、迎える者は安堵すべきことを約した。これによって中原に横行し、その勢いは劉六らを上回った。かつて鈞州を五日間攻めたが、馬文升がちょうど家に居たため、これを捨てて去った。役人が人を遣わして招撫の榜を持って来ると、趙鐩は上疏を具して付奏し言うには、「今、群奸が朝廷にあり、神器を舞弄し、海内を濁乱し、諫臣を誅戮し、元老を屏棄している。挙動この如きは、国を亡ぼさざるはない。乞う、陛下は睿謀を以て独断し、群奸の首を梟して天下に謝し、即ち臣の首を梟して群奸に謝せられんことを」と。その桀黠さはこのようなものであった。
仇鉞は河南の賊を平定した後、軍を移して陸完と合流し、共に江北で劉七らを滅ぼした。功績を論じ、世襲侯爵に進み、禄を百石増やされ、引き続き三千営を督した。
八年、大同に警報があり、総兵官に充てられ、京軍を統率して防がせた。仇鉞は五事を上奏し、その中で京操に赴いている辺軍を帰還させ、京軍の出征を停止し、公私の煩擾を省くことを請うたが、特に時弊に切実であった。当時は採用されなかった。仇鉞が到着した後、ちょうど寇が万全の沙河を侵犯した。これを撃ち、三級を斬首したが、軍士の戦死者は二十余人に上り、寇もまた引き去った。勝利を奏上して恩賞を受けたが、朝論はこれを恥じた。
帝は諸辺の将を詔して豹房に入侍せしめた。鉞は一度入ったが、後に力辞した。十年の冬、病と称して営務を解いた。詔して軍三十人を与えてその家に役せしめた。世宗が立つと、再び起用されて三千営を督し、前府の事を掌った。未だ上らずして卒す。年五十七。諡して武襄という。
子の昌は病により廃され、孫の鸞が侯を嗣いだ。世宗の時、寵を恃み辺境と通じ、磔死し、爵は除かれた。
神英、字は景賢、寿州の人。天順初め、父の職を襲い、延安衛指揮使となり、寧塞営を守備し、屡々騎兵を将いて、都督張欽らに従い征討して功があった。
子の周は、粟を輸じて指揮僉事となった。累官して都指揮使に至り、延綏右参将を充てた。正徳六年、命じて部兵を以て河南の流賊を討たしめ、数たび功有り、再び都督同知に進んだ。賊が平らぐと、遂に副総兵として山西を鎮した。九年秋、寇が大いに寧武関に入り、忻・定襄・寧化を躪いた。周は兵を擁して戦わず、軍民の死者数千。詔して巡撫官に執えて京師に帰らしめた。周は密かに貴近と結び、易州に行き至り、偽って病と称し、自ら戦功を陳べた。帝は乃ち周の罪を宥し、その秩を尽く削り、総旗とし、而して粟を輸じた指揮は旧に如くとした。已にして、江彬に縁って豹房に入り、驟に都督に復し、国姓を賜り、禁中で兵を典した。遂に彬と相倚って声勢と為り、賄賂を納めて貲すべからず。彬が敗れると、周も亦下獄し、誅に伏した。
曹雄、西安左衛の人。弘治末、歴官して都指揮僉事となり、延綏副総兵と為った。武宗即位し、総督楊一清の薦めを用い、署都督僉事に擢げられ、総兵官を充て、固原を鎮守した。瑾と同郷なるを以て、自ら瑾に附した。瑾は党を広く樹てんと欲し、日々親重した。
正徳四年、雄上言す、「故事に、布・按二司及び兵備道臣の文移が総兵官に達するは、率ね都司を由って転達す。今辺務急なり、征調時にあらず、都司は会城に遠く、往復千里、軍機を誤らんことを恐る。巡撫大同の例の如く、径に総兵官に呈するを便とせんことを乞う」と。兵部尚書曹元は瑾の意を希い、覆して其の言の如くす。既にして復た瑾の属を受け、雄の鎮守して未だ印を佩ばざるを奏し、各辺の例の如く、特に印を賜いて其の権を重くすべきとす。乃ち雄を署都督同知に進め、延綏総兵官呉江の佩する征西将軍の印を以てこれを佩せしめ、而して別に靖虜将軍の印を鋳て江に与う。及び総督才寛が寇を沙窩で防ぎて殺されると、雄は兵を擁して救わず。佯って罪を引き、兵柄を解かんことを乞い、子の謐に奏を賫して京師に詣らしめた。瑾は謐の貌を異とし、従女を妻とし、而して優詔して雄を褒め、職に居るを旧に如くせしめ、糾す者は反って責められた。
寘鐇が寧夏に反すと、雄は変を聞き、即ち兵を統べて境上に圧した。都指揮黄正に命じて兵三千を以て霊州に入り、士卒の心を固め、隣境と期を刻して討たしめた。密かに大・小二壩の積草を焚き、守備史鏞らと河西の船を奪い、尽く東岸に泊めた。賊党の何錦懼れ、急ぎ兵を帥いて出で大壩を守り、以て河の決するを防がんとす。雄は乃ち鏞に命じて密かに仇鉞に書を通じ、俾ちに中より事を挙げしめ、賊は遂に擒えられた。この役は、功は鉞に成るも、而して外に居りて布置し、賊をして内顧せしめざるは、雄に労有り。捷が聞こえると、瑾は平賊の功をこれに帰し、左都督に進めた。謐も亦千戸に官す。雄は安からず、咎を引いて自ら劾し、功を諸将に推し、降旨して慰労した。未だ幾ばくもせず、瑾が敗れると、言官交々劾す。指揮僉事に降し、尋いで征して下獄し、党逆を以て死を論じ、其の家を籍した。詔してこれを宥し、家属とともに永く海南に戍し、赦に遇うも原さず。
雄の長子謙は、書を読み文を能くし、機略有り、施与を好んだ。故参政李侖・主事孔琦の家甚だ貧しきに、雄は其の妻子を周恤せんことを請い、以て廉吏を勧めしむ、謙の意なり。御史高胤先は逮えられ、行貲無し。謙は装を治め、並びに其の家を恤う。楊一清に業を受け、一清将に起用せられんとするを聞き、書を貽してこれを止めて曰く、「近日関中の人材、連茹として起るは、実に山川の不幸なり。独り三五輩を留めて後日の地とせざるや」と。時に陜人は率ね瑾に附して進む、故に謙かく云う。雄が下獄すると、謙も亦系せられ、怨家のために箠死せしめられた。
馮禎、綏徳衛の人。卒伍より起家し、累功して本衛指揮僉事と為る。弘治末、擢げられて署都指揮僉事となり、偏頭関を守備した。尋いで参将を充て、寧夏西路を分守し、勇敢を以て聞こえた。寘鐇が反すと、馳せて奏して変を告ぐ。事平らぎ、署都指揮同知に進む。已にして、擢げられて副総兵となり、延綏を協守した。
正徳六年七月、盗中原に起こる。詔して部兵千五百人を以て入討せしむ。阜城に至り、賊に遇う。禎は軍中に命じて首級を顧みず、虜獲を貪るなからしめ、遂に大いに賊を敗る。北に逐うこと数十里、俘斬八百六十余。進みて曹州の囲みを解き、其の魁朱諒を執う。功を録し、都督僉事に進む。
明年の春、劉惠・趙鐩が河南に乱し、連ねて鹿邑・上蔡・西平・遂平・舞陽・葉を陥し、縦掠して南頓・新蔡・商水・襄城に及び、復た還り、西平に駐す。禎は副総兵時源、参将神周・金輔とともにこれを撃ち破る。賊は城に奔り入る。官軍は其の門を塞ぐ。夜に乗じて焚き死すること千余人、斬首これに称し、余賊は潰れて西す。巡撫鄧璋らは汝寧において崇王に朝し、宴飲連日。賊は散亡を招き、勢復た振い、鄢陵・滎陽・汜水・鞏を陥す。河南府を三日囲み、諸軍始めて集まる。賊は洛南に屯し、官軍の饑疲を覘い、迎え戦う。右哨の金輔は洛を渡るを敢えず、禎及び源・周方に陣し、而して後哨参将姚信の部する京軍先ず馳せ、利を得ず、遽かに遁る。陣乱れ、賊これに乗ず。禎は馬を下りて殊死に闘い、援絶えて死す。洛南伯を贈り、祭葬を賜い、其の子大金に都督僉事を授く。後、賊平らぎ、功を論じ、復た一子を蔭して世百戸とす。明年のこの日、禎の死する所に風霾大いに作し、又明年も亦た之の如し。伊王奏して聞こえしめ、敕して有司に祠を建てしめ、歳に死日を以て祭を致さしむ。尋いで給事中李鐸の言を用い、歳に米二石、帛二疋を与え、其の家を贍う。
武宗が即位した初め、寇は喪に乗じて大挙侵入し、連営二十余里に及んだ。俊は諸将李稽・白玉・張雄・王鎮・穆栄に各々三千人を率いさせ、要害を分かち扼させた。やがて、寇は新開口から垣を破って侵入し、稽は急ぎ前進して迎え撃った。玉・雄・鎮・栄は各々配下を率いて虞台嶺で防いだ。俊は急ぎ三千人を率いて赴援し、途中で足を傷め、兵を都指揮曹泰に委ねた。泰は鹿角山に至り、包囲された。俊は病を押して、さらに兵五千人を調達し、三日分の糧食を持たせ、馳せて泰の包囲を解き、また鎮を救い出した。また兵を分けて稽・玉を救い、稽・玉もまた包囲を破って出た。ただ雄と栄のみが山澗に阻まれ、援軍が絶えて死んだ。諸軍はすでに大いに疲弊し、兵を収めて還った。寇はこれを追い、行きながら戦い、辛うじて万全右衛城に入るを得たのみで、士馬の死亡は数え切れなかった。俊及び中官劉清・巡撫李進は皆召還された。御史郭東山が言うには、俊は病を抱えて馳援し、勧懲は偏って廃すべきではないと、乃ち罪を贖うことを許された。
正徳五年、署都督同知として起用され、神威営の操練を掌った。翌年六月、賊の楊虎らが山西の十八盤から還り、武安を破り、威・曲周・武城・清河・故城・景州を掠め、転じて文安に入り、劉六らと合流した。都指揮桑玉は屡々敗れ、僉事許承芳が援軍を請うた。乃ち俊を副総兵に充て、参将王琮と共に京軍千人を統率して討伐させた。近畿を往来すること数ヶ月、賊に打撃を与えられなかった。既にして、朝議で辺軍を調発して協守させると、賊は遂に連敗した。翌年三月、劉六・劉七・斉彦名・龐文宣らが敗走して登州・萊州の海套に奔った。陸完は俊に萊州に軍を進めるよう檄を飛ばし、諸将李鋐らと共にこれを遮らせた。賊は遂に北へ走り、転じて宝坻・香河・玉田を掠め、俊は急ぎ許泰・郤永と共にこれを阻止した。帝は喜び、白金を以て労った。賊は武清より西へ去った。間もなく、病を得て召還された。後に賊が平定され、実授で都督同知となった。久しくして卒した。
俊は辺将として、廉潔を保ち、謀略と勇気があった。その没する時、家に余財は無かった。
李鋐は大同右衛の人である。世襲で指揮同知となり、累功して都指揮僉事に進み、参将に充てられ、大同を協守した。山東で盗賊が起こると、詔により遊撃将軍に改め、まもなく副総兵に充てられ、俊らと共に賊を遮り、また劉暉の部将傅鎧・張椿らと数々の功を立てた。賊が平定されると、都指揮同知に進み、総兵官に充てられ、鳳陽諸府を鎮守した。まもなく江西で盗賊が猖獗したため、署都督僉事に擢げられ、都御史俞諫と共に軍務を提督した。賊の王浩八が裴源山に拠り、高所から矢石を発し、官軍はほとんど支えられなかった。鋐は馬から下りて刀を執り、将士を督して死闘し、賊は遂に逃走した。数十里を追撃し、これを擒らえた。また順次に劉昌三・胡浩三らを討平した。余幹に移駐し、未だ降伏せざる残賊を撃たんとしたが、背中に癰が発し、軍中で卒した。詔により右都督を追贈され、子に都指揮僉事の蔭官が与えられた。
楊鋭は字を進之といい、蕭県の人である。世職を嗣ぎ、南京羽林前衛指揮使となった。正徳初年、才能により擢られて龍江右衛の事を掌り、淮安で漕舟の督造に当たった。
寧王宸濠に異謀があった。王瓊は安慶が要害の地にあり、戍兵を置くべきと考え、乃ち鋭を署都指揮僉事に進めてその地を守備させた。鋭は知府張文錦と共に戦艦を整え、日々士卒を督して水戦を練習させた。十四年六月丙子、宸濠が反逆した。東下し、彭沢・湖口・望江を焼いた。己丑、たちまち安慶城下に至り、舟五十余艘であった。鋭・文錦は指揮崔文・同知林有祿・通判何景昜・懐寧知県王誥らと共に江辺でこれを防いだ。やがて兵を収めて城内に入り、包囲された。鋭と崔文は城西に、文錦と有祿は城北に、景昜と誥は東南に布陣した。城西は特に要衝で、鋭は昼夜を分かたず防戦し、賊二百余を殺傷し、その間諜を斬ったので、賊はやや退いた。
七月丁酉、賊は全軍が到着し、十万と号し、舳艫六十余里に相連なった。宸濠は黄艦に乗り、黄石磯に泊まり、自ら督戦した。江西僉事潘鵬が賊軍中にいたが、安慶の人である。宸濠は降伏を諭すよう命じた。鋭及び文錦に呼びかけて語らせると、衆心はやや動揺した。吏の黄洲なる者が大義を以てこれを責めると、鵬は慚じて退いた。既にしてまた偽檄を持って来た時、その家僮が見て、遠くから呼びかけたので、鋭は腰斬して示衆した。鵬を射ようとしたが、鵬は逃げ去り、衆心は乃ち定まった。賊は怒り、城を数重に包囲し、攻撃は益々急であった。鋭らは死力を尽くして戦った。賊は雲楼数十を造って城中を瞰り、城中もまた飛楼を造って賊を射、夜には人を縋り下ろして賊楼を焼いた。賊は天梯を設置し、広さ二丈、城より高く、板で蔽い、前後に門があり、その中に伏兵を潜ませ、輪転させて城に迫った。城上では葦を束ね膏を注ぎ、その端を燃やし、梯がやや近づくと即ちこれを投げつけ、須臾のうちに悉く焼き尽くし、賊は多く死んだ。当時、軍衛の卒は百に満たず、城に登る者は皆民兵であった。老弱婦女が糧食を運び、人々が石を一二個運び、数日で山のように積もった。賊が城を攻めると、城上では或いは石を投げ、或いは沸騰した湯を注ぎ、賊は直ちに傷ついた。鋭らは賊営に矢文を射て、解散を諭すと、逃げ去る者もあった。乃ち死士を募って夜に賊営を襲撃すると、賊は大いに驚き騒ぎ、夜明け頃にやや鎮まった。宸濠は慚愧と憤りを覚え、配下に言った、「安慶さえも克服できぬのに、どうして南都を望めようか」。折しも伍文定らが南昌を破ったと聞き、遂に包囲を解いて去った。崔文が城を出て襲撃し、またこれを破り、十八日で包囲は解けた。
事が聞こえると、武宗は大いに喜び、鋭を参将に擢げ、安徽の池州・太平・寧国及び九江・饒州・黄州を分守させた。鋭は鄭嶽・胡世寧を推薦し、帝は即座に召し用いた。世宗が即位すると、功を論じ、都督僉事に擢げられ、子に世襲の千戸の蔭官が与えられた。再び遷って僉書左府となり、改めて南京右府となった。総兵官に充てられ、遼東を鎮守した。漕運を督するよう改められ、淮安を鎮守した。嘉靖十年、巡按御史李循義に弾劾され罷免され、一年余りして卒した。
崔文は代々安慶衛指揮使を務め、城守の労は鋭に次いだ。世宗はその功を記録し、三階を超えて都指揮使とし、子に世襲の百戸の蔭官が与えられた。江・淮に盗賊が多発し、廷議で総兵官を設置し、上下の江防を督させることとなり、文を都督僉事に擢げてこれを担当させた。改めて南京前府に莅り、専ら操江を督した。久しくして卒した。
賛して言う。衛青らは承平の時に当たり、不逞の輩が窃発し、諸城が擾乱したが、その戡定に頼った。敵うところ堅からざるも、然れども勇敢に力戦し、功多く記すべきものがある。或いは遂に身を原野に膏し、何洪・劉雄・馮禎の輩の如きは、壮節に足りて惜しむべき者である。鉞は心計を以て乱を定め、鋭は城守を以て逆を摧き、幹城の寄せ、克く廟謨に称う。神英・曹雄もまた労績があったが、宦官に附いて名を損ない、且つ罪を得た。将たる者は跅弛を戒めとすべきである。