明史

列傳第六十二 史昭、巫凱、許貴、周賢、歐信、王璽、魯鑑、劉寧、彭清、姜漢、安國、杭雄

○史昭(劉昭、李達)巫凱(曹義、施聚)許貴(子寧)周賢(子玉)歐信、王璽、魯鑒(子麟、孫經)劉寧(周璽、莊鑒)彭清、姜漢(子奭、孫應熊)安國、杭雄

史昭は合肥の人である。永楽初年、功を積んで都指揮僉事に至った。八年、総兵官に充てられ、涼州を鎮守した。土軍の老的罕は先に千戸の虎保と乱を起こし、虎保は敗れたが、老的罕は帰順した。昭は上書してその必ず叛く様子を述べた。その上書が届く前に、老的罕は果たして叛いた。昭は都指揮の満都らとともにこれを撃ち平らげた。西寧に移鎮した。

仁宗が即位すると、都督ととく僉事に進んだ。上言して西寧の風俗は鄙陋で強悍であるから、内地のように学校を設置することを請うた。許可された。宣徳初年、昭は衛軍が守禦に従事し、屯種の暇がないこと、その家屬で力田を願う者が七百七十余人いることを以て、彼らをして耕作させ、その賦を収めて軍食を充足させることを請うた。従われた。五年、曲先衛の都指揮使散即思が西域使臣を邀撃して掠奪した。昭は参将趙安を率い、中官の王安・王瑾とともにこれを討った。長駆して曲先に至ると、散即思は風を望んで遁走し、その党の答答不花らを擒らえ、男女三百四十人、馬駝牛羊三十余万を獲て、威は塞外に震った。捷報が聞こえると、璽書を以て慰労し、賞賚は等を加えた。

七年春、征西将軍として寧夏を鎮守した。孛的達裏麻が辺境を侵犯したので、兵を遣わしてこれを撃った。闊臺察罕に至り、俘獲は甚だ多かった。都督同知に進んだ。

正統初年、昭は寧夏が河外に孤懸し、東は綏德に至る二千里、曠遠で守り難いことを以て、花馬池に哨馬営を築き、烽堠を増設して、直接哈剌兀速の境に及ぶことを請うた。辺備は大いに固まった。まもなく右都督に進んだ。時に阿臺・朵兒只伯がしばしば辺境を寇した。詔して昭と甘肅の守将蔣貴・趙安に進剿させた。ともに功がなく、詔により切責され、都督僉事に貶された。三年に右都督に復し、八年に老いを以て召還された。翌年に卒した。

昭は寧夏に居ること十二年、老成で持重、兵政は修め挙げられ、また敵勢の衰弱に会い、辺境は事なきを得た。兵部尚書王驥・寧夏参将王榮はかつてその過失を挙げた。朝議は、昭が辺境を守ること久しく、兵事に習熟しているとして、代え難いとした。そして昭と並び辺将として最も久しく、勛績が称えられるべき者は、都督同知劉昭が西寧を二十年鎮守し、都指揮李達が洮州を四十年に至るまで鎮守した。ともに蕃漢に畏服された。

劉昭は全椒の人である。永楽五年、都指揮同知として朵甘・烏思藏に使いし、驛站を建てた。還って霊藏に至ると、番賊が邀撃掠奪したので、昭はこれを破った。都指揮使に進み、河州を鎮守した。宣徳二年、陳懷に副って松潘の寇を討ち平らげた。累進して都督同知となり、西寧に移った。また河州を鎮守し、兼ねて西寧を轄した。罕東の酋長劄兒加が中官の西域への使者を邀撃して殺し、璽書と金幣を奪って去った。命じて昭を甘肅総兵官劉廣に副わせてこれを討たせた。劄兒加は掠奪した書幣を還し、馬を貢いで罪を贖うことを請うた。帝は窮寇は深く治めるに足らずとして、昭らに還ることを命じた。

李達は定遠の人である。累官して都督僉事となった。正統年間に致仕した。

巫凱は句容の人である。廬州衛百戸より功を積んで都指揮同知に至った。永楽六年、英国公張輔に従い交阯を平らげた功により、遼東都指揮使に遷った。十一年、召されて帥びる所部を以て北京に会した。翌年、沙漠征伐に従い、先に還ることを命じられた。凱は諸衛の兵は三分の二を以て守禦し、一分を以て屯糧に当て、開原の市馬は悉く本衛に給して乗操に供すべきであると述べた。従われた。

宣宗が即位すると、都督僉事として征虜前将軍の印を佩き、朱栄に代わって遼東を鎮守した。時に中国人で塞外より脱して帰る者は、悉く京師に送り、親屬の赴いて領するのを待たせた。凱は遠道往来は恐らく失所を致し、遠人の慕い帰る心を阻むと述べた。そこで改めて馬あり及び少壮なる者は京師に送り、その余は自便を得させることとした。敵が西山を掠奪したので、凱はこれを撃ち破り、掠奪されたものを悉く得て、勅を降して褒め励ました。

帝はかつて使者を遣わして松花江に舟を造り諸部を招いた。地遠く、軍民の転輸は大いに困しみ、逃亡する者多かった。ちょうど警報があったので、凱は力を尽くしてその役を罷めることを請うたが、逃軍で海西諸部に入った者は既に五百余人に及んだ。まもなく舟造りの役が復興し、中官の阮堯民・都指揮劉清らがこれを監督した。不法多く、激変を致した。凱は堯民らを弾劾し、吏に下した。

英宗が即位すると、都督同知に進み、辺情に関する八事を上言した。死事者の家を厚く恤うこと、官吏の折俸鈔を増すこと、歳ごとに軍士に冬衣の布棉を給すること、軍中の口糧芻粟を旧制の如くすること、かつ商を召して辺境を実らせることを請うた。ともに允諾されて行われた。まもなく、兵部尚書王驥に弾劾された。朝廷は凱の賢なるを知り、凱に自ら陳述させた。かつ廷臣に諭し、文武官に罪ありて実を得て始めて奏し、誣いる者は罪を赦さないとした。凱はこれによりその志を行うことを得た。正統三年十二月に疾あり、医を馳せて視させたが、至らぬうちに卒した。

凱は性質剛毅、智略に富み、衆を馭すること厳にして恩あり。遼東に三十余年、威恵並び行き、辺務は修め飭われた。前後東陲を守る者、曹義の外は皆及ぶ者なし。

曹義、字は敬方、儀真の人である。燕山左衛指揮僉事より功を重ねて都督僉事に至り、施凱の副将として遼東を守備した。凱が卒すると、代わって総兵官となった。凱は名将であり、義はその後を継いで、廉潔で節操を守り、遼東の民は安んじた。兀良哈が広寧前屯を侵犯したので、詔により厳しく責められ、王翺が軍務を整えるために派遣され、義を死罪に劾奏した。まもなく、義は辺境を侵犯した孛臺らを捕らえ、詔により市中で処刑した。これより後、義はたびたび兀良哈と戦った。正統九年、朱勇の軍と合流して挟撃し、多くを斬獲し、都督同知に進み、累進して左都督となった。義は辺境に二十年在り、顕著な戦功はなかったが、よく辺境を謹んで守った。その麾下の施聚・焦禮らはいずれも大将に至った。英宗が復位すると、特に義を豊潤伯に封じ、聚もまた懐柔伯に封じられた。四年後に義は卒し、侯を追贈され、諡は莊武といった。後妻の李氏が殉死したので、詔によりこれを表彰した。

施聚、その先祖は沙漠の人で、順天府通州に居住した。父の忠は金吾右衛指揮使となり、北征に従い、陣没したので、聚が職を嗣いだ。宣徳年間、遼東に備禦し、累進して都指揮同知に擢げられた。曹義の推薦により、都指揮使に進んだ。義が兀良哈と戦うとき、聚は常に従った。也先が京師に迫ると、景帝は詔を下し、聚と焦礼にともに入衛させた。聚は慟哭し、即日兵を率いて西進した。部下が牛酒を進めたが、聚はこれを払いのけて言った、「天子はどこにおられるのか。我々がどうしてこの酒食を楽しむことができようか」。到着したときには、敵寇はすでに退いており、そこで帰還した。聚は勇敢をもって称され、官は左都督に至った。英宗が恩を推し及ぼしたとき、伯に封ぜられることを得た。曹義の二年後に卒し、侯を追贈され、諡は威靖といった。曹義は三代を経て曹棟に至り、施聚は四代を経て施瑾に至ったが、吏部はいずれも襲封すべきでないと上言した。世宗が特にこれを許した。爵位は明の滅亡まで伝わった。

許貴、字は用和、江都の人、永新伯許成の子である。職を嗣いで羽林左衛指揮使となった。安郷伯張安が貴を将才として推挙し、騎射と策問を試みたところいずれも最上であったので、署都指揮同知に擢げられた。まもなく武進伯朱冕の推薦により山西行都司に擢げられ、大同の諸衛の兵馬の操練を監督した。

正統末年、大同西路を守備した。也先が侵入したとき、石亨に従って陽和後口で戦い、敗北したが、貴は力戦して帰還することができた。英宗が北狩(土木の変)されると、辺境の城はことごとく破壊され、大同は敵の衝に当たり、人心はとりわけ恐れおののいた。貴は忠義をもって戦士を激励した。敵が来ると、これを撃破した。都指揮使に進んだ。

景泰元年春、右参将を充任した。敵が威遠を寇したので、追撃して浦州営でこれを破り、掠奪された人畜を奪還した。敵の一万騎が城下に迫ったが、防いでこれを退けた。再び都督同知に遷った。大同は馬が不足していたので、民間に求めさせたところ、八百余匹を得た。所管の役所が代価を支給しないので、貴が請うたところ、ようやくこれを与えた。かつて死士を募って賊の砦に入り、百余頭の馬を奪い、すべて戦士に与えたので、兵士は皆喜んでこれを用いられた。分守中官の韋力転が淫虐であったが、衆は敢えて言う者なく、貴がこれを劾奏した。三年、病気で京に還った。英宗が復位すると、左府事を掌ることを命じられ、まもなく南京に転任した。

松潘の地は番・苗が雑居し、董卜韓胡に近接しており、旧来参将一人を設置していた。天順五年、守臣が警報を告げると、朝廷で議論して副総兵を設置し、貴を以て鎮守させた。鎮に着く前に山都掌蛮が叛き、詔により近道から先にこれを討伐させた。貴は両哨に分かれて直ちにその巣窟に迫り、連続して四十余の寨を破った。首級一千一百を斬り、八百余人を生け捕りにし、残賊は遠く遁走した。貴もまた嵐気(瘴気)に侵され、松潘に至らずして卒した。帝は一日朝を停め、賻贈と祭葬を定めに従って賜った。

子の許寧、字は誌道。正統末年、自ら舎人として従軍し功があり、錦衣千戸となった。貴が歿すると、指揮使を嗣いだ。推薦により署都指揮僉事に擢げられ、柴溝堡を守禦した。

成化初年、大同遊撃将軍を充任した。寇が侵入したとき、同官の秦傑らとともに小龍州澗でこれを防ぎ、その右丞把禿ら十一人を擒にした。宣府の操練を監督するよう改められ、延綏に移った。地は河套に近く、寇がたびたび入り孤山堡を掠奪した。寧は孤軍を率いて奮撃し、三戦して皆勝利し、寇は河を渡って逃走した。翌年、また三千騎で沙河墩に入り、総兵官房能とともにこれを防いだ。寇が退き、また康家岔を掠奪した。寧は塞外百五十里に出て、追撃して戦い、馬牛羊千余を獲て帰還した。

当時、房能が延綏を守っていたが、将略がなく、巡撫王鋭が援軍を請うた。詔により大同巡撫王越が衆を率いて赴き、越は寧を西路に出させた。敵を黎家澗で破り、都指揮同知に進んだ。また寧と都指揮陳輝を派遣して寇を追撃させ、馬騾六百を獲た。朝廷は阿羅出が再び河套に入り、頻繁に辺境を擾乱するので、王越と朱永に防がせ、寧の才能を以て都督僉事に擢げ、靖虜副将軍の印を佩かせ、房能に代わって総兵官を充任させた。寧は世胄より起り、十年と経たずして大将に至り、同列は推譲するに及ばず、父の友人も多く部下に隷属したが、これを急進とも思わなかった。一月余りして、寇が大挙侵入し、朱永は寧と遊撃孫鉞を派遣してこれを防がせた。波羅堡に至り、三日三夜相持したので、寇はようやく解いて去った。失亡は多かったが、寧は力戦して脱出し、ついに賞せられた。冬に至り、賊が安辺に入ると、寧は追撃して功があった。

七年、また諸将孫鉞・祝雄らとともに寇を滉忽都河で破り、璽書をもって褒賞した。迤北の開元王把哈孛羅がたびたび降伏を望んだが、内には朝廷に罪せられることを恐れ、外には河羅出に仇とされることを畏れ、彷徨して決断できなかった。寧はこれを撫慰してその心を固めるよう請い、ついにこれを降伏させた。翌年、参将銭亮が師婆澗で敗北した。士卒の死者は十の三四に及び、寧と王越らはともに弾劾された。帝は罪に問わなかった。当時、満都魯らがたびたび延綏を侵犯し、寧は鎮兵を率いて力戦した。寇は志を得ず、そこで西路に出て、直ちに環慶・固原を侵犯した。寧は軽騎を率いて夜襲し鴨子湖に至り、馬畜を奪って帰還した。また翌年、寇が榆林澗に入ると、巡撫余子俊とともにこれを破った。満都魯らが大挙して西路に入り、その家族を紅塩池に留めた。王越は隙に乗じて寧と宣府の将周玉とともにその巣窟を襲撃して破った。署都督同知に進んだ。余子俊とともに辺墻を築き、営堡を増やし、寇の患いはやや衰えた。

十八年、寇が数道に分かれて侵入したので、寧はこれを辺墻に追い詰め、首級百二十を獲た。実授を与えられた。当時、王越がちょうど大同を鎮守しており、寧と交代で鎮守するよう命じられた。着任すると、鎮守太監汪直と協調しなかった。巡撫郭鏜がこれを上聞し、汪直を南京に転任させた。小王子が大挙侵入した。寧は敵の勢いが盛んなことを知り、慎重に隙を待とうとし、そこで兵を収めて守り、別に将の劉寧・董升を派遣して周璽と犄角の勢いをなさせた。寇は大いに掠奪し、代王の別堡を焼いた。王は出戦を促し、衆をして轅門で泣かせた。寧は憤り、郭鏜らと城外に営した。寇は十余りを誘いとし、太監蔡新が部騎を率いて馳せ撃った。寧の将士は争ってこれに赴き、伏兵に遇って大敗し、死者は千余人に及んだ。寧は夏米庄に奔り、郭鏜・蔡新は馳せて城に入った。ちょうど周璽らが来援したので、寇はようやく退いた。寧が帰還すると、陣亡した兵士の妻子が号呼して罵り、瓦礫を投げつけたので、寧は大いに意気消沈した。まもなく寇がまた侵入し、劉寧・宋澄・庄鑒らがこれを防いだ。十度戦い、わずかに利あり、寇は退いた。寧らはその敗北を隠し、改めて勝利として上奏した。巡按程春震がこれを発覚させ、郭鏜・蔡新とともに獄に下された。郭鏜は六官を降格され、蔡新は初任であったので三官を降格され、寧は指揮同知に降格され閑住させられた。

弘治年間、推薦により署都指揮使に用いられ、分かれて操練を統領した。十一年十二月卒した。都督僉事を追贈された。

寧は束髪して従軍し、大小百余の戦いに身を投じ、二十七の創傷を受けた。性格は沈毅で、官職を守るに廉潔であり、士を待つに恩があり、進取に汲々としなかった。劉寧・神英・李杲はいずれもその麾下より出た。子の許泰は、別に伝がある。

周賢は滁の人で、宣府前衛千戸を襲封した。景泰初年、功を重ねて都指揮僉事に至り、西猫児峪を守備し、副総兵孫安を助けて石八城を守った。まもなく右参将に充てられ、孫安に代わって鎮守した。兀良哈が侵入すると、総兵官過興は宣府副将楊信と周賢に合撃を命じた。周賢は楊信を待たず、直ちに撃ってこれを破った。楊信は弾劾されたが、都御史李秉は楊信が軍を緩めたと述べ、周賢も約を棄てたと言った。帝は両者をともに赦した。

天順初年、総兵官楊能が周賢を都督僉事に抜擢するよう上奏した。敵が塞下に駐屯すると、楊能は周賢に檄を飛ばして大軍と会するよう命じたが、期に遅れたため、召還されて獄に下された。元の官職で寧夏に赴き、定遠伯石彪に隷属した。敵二万騎が安辺営に入った。石彪は周賢らを率いてこれを撃ち、連戦連勝し、野馬澗・半坡墩まで追撃して敵を大破した。しかし周賢は追撃を止めず、流れ矢に当たって卒した。詔して都督同知を追贈した。周賢はかつて獄吏に下された時、再び用いられぬと思っていたが、釈放されると感激し、死を誓って報いようとし、ついにその志の通りになった。

子の周玉は字を廷璧といい、指揮使を嗣ぐべきであったが、父が国事に死したため、二階を超えて万全都司都指揮同知となり、屯田を督理した。都指揮使に進み、宣府遊撃将軍に充てられた。

成化九年、会昌侯孫継宗らが詔を奉じて将才を推挙したところ、周玉が筆頭となった。詔して率いる所部を率いて延綏を救援し、王越に従って紅塩池を襲撃した。都督僉事に署任され、宣府に戻って守備した。敵が馬営・赤城に入ると、これを撃破した。兵部は、宣府の諸大帥は功がなく、周玉の率いる三千の兵が敵を追って境外に逐ったと述べ、一階を加えてその労を報いるよう請い、そこで実授を与えた。まもなく宣府副総兵に充てられた。

十三年、征朔将軍印を佩び、宣府を鎮守した。敵を紅崖で破り、水磨湾まで追撃した。都督同知に署任された。十七年五月、敵が再び侵入し、参将呉儼・少監崖栄が塞外に追撃し、赤把都に至って遮られ、兵は三つに分かれ、皆包囲された。呉儼・崖栄は走って北山に拠り、苦境に陥った。守備張澄が兵を進めて力戦し、二つの包囲を解いた。北山の下に到着すると、呉儼・崖栄は既に夜遁していた。張澄はその衆を救い出して還ったが、死者は過半に及んだ。張澄の率いる七百人も多くが戦死した。詔して張澄の功を記録し、呉儼らの罪を治めた。周玉は以前、葛谷堡・赤城が頻繁に掠奪を受けたため、三度にわたり論罪され、この時また節制が厳しくないとして弾劾された。帝は皆これを問わなかった。

十九年、小王子が大同を侵犯した。総兵官許寧を破り、順聖川に入って大いに掠奪し、六千騎で宣府を寇した。周玉は二千人を率いて先行し、巡撫秦紘の兵が続いて進み、白腰山でこれを撃破した。指揮曹洪が邀撃して西陽河に至り、都指揮孫成も七馬房で敵を破った。当時敵は勝に乗じて気鋭であったが、ついに周玉らに挫かれ、一時その功を称えられた。まもなく敵が再び侵入すると、周玉は伏兵でこれを破った。朱永が大同に到着し、また周玉の軍と会して鵓鴿峪でこれを撃破した。右都督に署任された。

余子俊が辺墻を築くにあたり、周玉は力を尽くさず、また秦紘と仲が良くなかった。余子俊はこれを憎み、寧夏の神英と鎮守地を交換するよう上奏した。久しくして、また甘肅に移鎮した。孝宗が位を嗣ぐと、右都督を実授された。

周玉が辺墻の工事を峻急に監督したため、部卒の張伏興らが瓦石を投げつけた。兵部は、悍卒の勢いを長じさせてはならないと述べ、ついに張伏興を誅し、その仲間を戍辺に処した。

土魯番が獅子を貢ぎ、哈密城と金印を献還し、留め置かれた使者を贖いたいと願った。周玉がこれを奏し、帝は巡撫王継とともに経画するよう命じた。果たして来帰したので、周玉らは皆賞賜を受けた。七年、病で帰り、まもなく卒した。武僖と諡された。

周玉は初め偏裨であったが、宣府を鎮守するに及んで甚だ有名であった。後に甘肅に臨むと、部下がたびたび事を失い、また屯田を侵した。死後事が発覚し、子が職を襲ぐにあたり、二等を降とされた。

欧信は、世職の金吾右衛指揮使を嗣いだ。景泰三年、広東で賊を破った功により、都指揮同知に抜擢された。まもなく白羊口を守備するよう命じられ、大寧都指揮使に遷った。

天順初年、都督僉事として参将に充てられ、広東雷州・廉州諸府を守備した。巡撫葉盛がその廉潔勇敢を推薦した。都督同知に進み、副総兵翁信に代わった。両広の瑶僮が開建を陥とし、官吏を殺害すると、帝は進兵を促した。欧信は賊を化州の馬裏村で破り、再び石城で破り、海南衛の反逆者邵瑄を撃斬した。

当時所在の盗賊が群起し、将吏はこれを平定できなかった。広西参将範信が潯州・梧州を守備し、瑶族は尽くその境内にいたが、密かに瑶族の賄賂を受け取り、越境して流動掠奪するのを放任し、自分を犯さぬよう約束した。そこで雷州・廉州・高州・肇慶は皆寇された。帝は広西総兵官陳涇と欧信に合剿を命じた。時に斬獲はあったが、賊の勢いは衰えず、朝廷はなお範信を頼りにした。ちょうど陳涇が罪により召還されると、範信を都督僉事に抜擢して副総兵に充て、広東を鎮守させ、欧信に征蛮将軍印を佩びさせ、陳涇に代わって広西を鎮守させた。

成化元年、賊が英徳諸県を掠奪すると、欧信は討伐して五百余人を斬り、奪われた人口を取り戻した。韓雍が師を督し、欧信らに五つの哨に分かれて大藤峡を攻破させた。まもなく残賊が再び潯州に入ると、欧信は弾劾されたが赦され、召還されて前府の事を理めた。

七年春、総兵官に充てられ、遼東を鎮守し、たびたび福余三衛を破った。言事者が欧信は既に老いたと述べ、召還を請うた。巡撫彭誼は「官軍の耆老五千余人が皆、欧信は忠謹で謀略と勇気があり、戦功を重ね、威は辺陲に鎮まると言っている。六十歳だが、騎射は壮士に勝り、召還すべきでない」と奏した。そこで従前通り留鎮させた。久しくして、陳鉞が彭誼に代わった。陳鉞は功を貪り、欧信はこれに逆らえず、十四年に巡按王崇之に弾劾された。その冬、ついに召還された。まもなく宦官汪直らを派遣して審理させたが、汪直は陳鉞を支持し、罪を欧信らに帰した。獄に下され、一官を削られて閑住し、恨みを飲んで卒した。

範信が既に広東に移された後、賊の勢いはますます盛んとなり、掠奪が止まなかったので、人に語って言うには、「今賊がなお広東を犯すのは、これも私が遣わしたのか」と。而してこの時都督の顔彪は征夷将軍の印を佩び、賊を討つこと久しく功がなく、良民を濫りに殺して捷を報じた。嶺南の人皆これを疾んだ。

王璽は、太原左衛の指揮同知である。成化初年、署都指揮僉事に抜擢され、黄河の七墅を守禦した。巡撫の李侃が朝廷に推薦した。阿魯出が延綏を寇し、命じて遊撃将軍を充てて赴援させ、孤山堡で戦い、これを敗った。寇が再び侵入し、漫天嶺・劉宗塢及び漫塔・水磨川で戦い、皆功があった。都指揮同知に進み、副総兵を充て、寧夏を鎮守した。九年、将才を以て周玉と共に推薦される。十二年、署都督僉事に擢て、総兵官を充て、甘粛を鎮守した。

黄河以西、荘浪から粛州南山に至るまで、その外は番人の阿吉等二十九族の居住する所である。洪武年間、石を立てて界を画し、樵牧して疆を越えざることを約し、歳久しく湮滅廃し、諸番は往往闌入し、而して中国の無頼人は又潜かに交通して辺患となす。璽は「復た疆域を画し、諸番を召集し、界石の廃せられたるを諭し、官軍の諸部を欺淩するを恐れ、今復たこれを立て、界外に駐牧するを聴き、互市すれば則ち関に入る。かくの如くすれば、番人は必ず命を聴き、潜かに他日の憂いを消すべし」と請う。帝は善しと称し、これに従う。

十七年、署都督同知に進む。時に璽は都督僉事を以て総兵官と為り、而して魯鑒は署都督同知を以て参将と為り、璽は節制に難しきを恐れ、兵柄を解くことを乞う。故にこの命有り。

初め、哈密は土魯番に擾乱され、その将の牙蘭をしてこれを守らしむ。都督の罕慎は苦峪口に寄居し、赤斤・罕東に近く、数相攻め、罕慎は勢い窮まりて援無し。朝議は璽をして苦峪に城を築き、別に哈密衛を立ててこれに居らしむることを敕す。璽は諜者を遣わして牙蘭を間す。牙蘭は聴かず、その羈掠する所の九十余人を得て帰り、虚実を悉く具す。十七年、赤斤・罕東の将士を召集し、牛酒を以て犒い、罕慎を助けしむ。罕慎は二衛の兵を合せ、夜に哈密及び剌木等八城を襲い、遂にその地を復し、仍た罕慎をしてこれに居らしむ。事聞こえ、労を獎し、金幣を賚う。已にして、罕東が入寇し、璽はこれを禦ぎて退け、師を興して討つことを請う。帝はその常に罕慎を助くるを念い、第に使を遣わして責め諭す。明年、北寇が哨卒を殺す。璽は参将の李俊及び赤斤の兵を率い、狼心山・黒河西においてこれを撃ち、多く斬獲す。

二十年、大同に移鎮す。璽は哈密を復する功有り、官進まず、朝廷に陳す。乃ち実に都督同知を授く。

璽は韜略に習熟し、文事に諳んじ、勇にして謀有り。廷臣多くこれを称す。辺に在ること二十余年、番人の憚る所と為る。弘治元年卒す。祭葬を賜い、贈恤を加う。

魯鑒、その先は西大通の人。祖の阿失都鞏卜失加、明初に部落を率いて帰附し、太祖は百夫長に授け、その部を統べしめて荘浪に居らしむ。子の失加に伝え、累官して荘浪衛指揮同知と為る。正統末、鑒は父の職を嗣ぐ。久しくして、署都指揮僉事に擢つ。

成化四年、固原の満四反す。鑒は土兵千人を以て従征す。諸軍石城を囲み、日に挑戦す。鑒は出づれば則ち先駆け、入れば則ち殿して、最も賊の憚る所と為る。賊平ぎ、署都督同知に進む。尋いで左参将を充て、荘浪を分守す。その子の麟を百戸と為し、土軍を統治せしむ。十七年、寇の境内に入るに坐し、罪を戴きて功を立てしむ。尋いで左副総兵を充て、甘粛を協守す。寇、永昌を犯す。劾せらる。鑒は疏を上りて弁じ、第にその俸を停むること両月。俄かに命じて総兵官を充て、延綏を鎮守せしむ。往時の功を自ら陳し、実授を予う。

孝宗立ち、疾を得、致仕す。弘治初年、命じて麟に指揮使を襲わしめ、都指揮僉事を加う。已にして、同知に進め、甘粛遊撃将軍を充てしむ。

魯氏は世に西陲を守り、捍禦の功有り。鑒に至りて官益々顕れ、その世業益々大いに、而して所部の土軍の生歯又日に盛ん。麟既に甘粛に移る。帝は土軍は鑒でなければ治められずとし、特起してこれを治めしめ、且つ命じて有司に坊を建ててその世績を旌さしむ。鑒は乃ち辺務四事を条上し、多く議行さる。鑒は材勇有り、敵に遇えば輒ち矢石を冒し、数たび傷つけられても沮まず、故に能く功を積んで大将に至る。十五年、旧創の疾発し、卒す。右都督を贈り、恤を賜うこと制の如し。

時に麟は既に甘粛参将より左副総兵に擢てり、豪健その父の如く、而して恭順は及ばず。先に遊撃たりし時、寇永昌に入り、律を失い、罪を副将の陶禎に委ぬ。御史に下して按ぜしむ。辺に戍すに当たるも、但だ一秩を貶し、遊撃は元の如し。副将と為りてより、韋州に調せられて寇を禦ぐ。寇大いに入りて撃つ能わず、都指揮の楊琳を遣わして孔壩溝にこれを邀う。琳大敗し、救わず、連ねて劾せらる。麟自ら訴え、止だ俸を停むること二月。時に既に麟の子の経に官を授け、土軍を約束せしむ。而して麟は経幼きを奏し、土人要束を受けず、帰りてこれを治むることを乞う。報を俟たず、径ちに帰る。帝は劉大夏の言を用い、その請いに従う。武宗立ち、甘粛巡撫の畢亨、経及び麟の謀勇を薦め、その所部を率いて戦守を協せしむ。正徳二年、経既に指揮使を襲い、自ら陳して嘗て父に随い功有りとす。乃ち以て都指揮僉事と為す。未だ幾ばず、麟卒す。都督僉事を贈り、祭葬を賜う。故事に、都指揮に恤典無し。経の乞うに以て、例を破りてこれを予う。

経は戦功を積み、再遷して都指揮使となり左参将を充て、荘浪を分守す。復た自ら功閥を陳す。兵部執りて不可とす。帝は特命して署都督僉事と為す。世宗立ち、休を乞う。巡撫の許鳳翔、経は力戦して創を受け、疾行いて愈え、且つ世将として敢戦し、名を異域に知られ、今辺患棘し、その去るを聴くべからずと言う。帝は乃ち諭して留め、且つ銀幣を以て労う。尋いで副総兵を充て分守すること元の如し。嘉靖六年冬、都督同知を以て総兵官を充て、延綏を鎮守す。大学士の楊一清言う、「経は荘浪を守ること二十余載、屡々戦功を立て、その部下の土軍は他人の及ぶ所に非ず。その子の瞻既に指揮僉事と為り、命を受けて統轄すと雖も、然れども年尚ほ少なし。今陜西総兵官の張鳳は延綏の世将なり。若し鳳を延綏に調し、而して経を陜西に改めば、自ら荘浪を弾圧し、西顧の患い無かるべし」と。帝は立ってこれに従う。居ること二年、竟に疾を以て致仕す。

久しくして、命じて瞻に本官を以て山丹を守備せしむ。経奏して言う、「臣が高祖こうそより後、世にこの土を守る。今臣家居し、瞻又他鎮に移る。土軍皇皇として別に附せんと欲せず。若し此に因りて他の患いを生ぜば、これ先業を隳し世恩に負くことなり。故業を守らしむることを乞う」と。可とす。

二十二年、宣府・大同に警有り、詔して経に壮士五千を簡びて赴援せしむ。至りて辺患已に息み、乃ち遣り返す。経が疾を力めて召に趨いたるを以て、厚くこれを賚う。明年、瞻卒す。経は次子及び孫皆幼きを以て、自ら土軍を轄することを得んことを請う。詔してこれを許す。

経はぎょう勇にして、職を奉じて過ち少なく、祖父・父の後を継いで大帥となり、功名を保ち、良将と称された。三十五年に卒す。制に従って恤典を賜う。

劉寧は、字を世安といい、その先祖は山陽の人である。世職を襲い、永寧衛指揮使となる。勇敢にして戦を善くする。自ら冗散にして見るべきところなしとし、延綏で用兵あるに会い、上疏して死を効んことを請う。尚書白圭これを許す。功により累進して都指揮使に至り、宣府遊撃将軍を充任す。

周璽は、字を廷玉といい、遷安の人である。職を嗣ぎ開平衛指揮使となる。気を負い兵書を習い、騎射に長ず。征北の功により、署都指揮僉事に抜擢され右参将を充任し、陽和を分守し、部兵三千を率いて訓練し調遣を待つことを勅される。成化十六年、王越に従い威寧海子を征し、累進して都指揮使となる。

時に辺寇は歳を虚しくすることなし。十八年、分道して入掠し、璽は遊撃董昇と黒石崖で戦い、寧は塔児山で戦い、いずれも功あり。璽は署都督僉事に進み、大同副総兵に遷る。寧は都督僉事に進み、左参将に改められ、陽和を分守す。

十九年秋、亦思馬因大いに侵入す。大同総兵官許寧は分遣して璽に懐仁を守らせ、寧と董昇は西山に営し、自ら中軍を将いて夏米荘でこれを撃つが、敗績す。寧・昇は数重に囲まれ、陥落寸前となる。急ぎ巨砲を発してこれを撃ち、敵多く死し、囲み解く。璽は中軍の失利を聞き、急ぎ兵を還して援ぐ。夜、敵に遇い、乗勝して前進し、鋭気甚だし。璽は将士を励まして曰く「今日は進むありて退くことなし」と。大呼して陣を陷し、敵少しく退く。久しくして短兵相接す。臂に流矢中り、鏃を抜き戦い益々急なり。子の鵬及び麾下の壮士とともに数十人を撃殺す。時に寧の兵至り、中軍の潰卒もまた稍々集まり、敵乃ち退く。許寧等もまた還る。間もなく復た入掠す。寧は兵三千を将い、聚落駅西でこれに遇い、連戦してこれを破る。復た白登・柳林でこれを破り、また追って小鵓鴿谷でこれを破る。而して大同西路参将莊鑒もまたその帰路を邀え、牛心山で戦い、敵遂に遁走す。時に諸将多く失利し、許寧以下罪を得るも、璽は功により実授を与えられ、寧は超遷して都督同知となり、莊鑒は所部に失亡なきにより、銀幣を賜う。

鑒は、遼東の人である。天順中、定遼右衛指揮使を襲ぐ。驍猛にして胆決あり。賊に遇えば輒ち奮い、数たび功あり、累官して都督僉事に至り、左府を掌る。弘治十一年、鎮朔将軍印を佩び、宣府を鎮守す。才をもって大同総兵官張俊と鎮を易う。兵部侍郎熊繡その経画の功を奏し、都督同知に進む。

璽は尋いで右副総兵として代州を分守し、兼ねて偏頭諸関を督し、而して寧を左副総兵に改め、大同を協守せしむ。二人並びに功を北辺に著し、名将と称される。璽は偏頭が太原より遠きを以て、分守を鎮守に改むることを請い、また鎮守は節制を聴くべからざるを以て、総兵の銜に易うることを乞う。憲宗皆な曲げてこれに従う。弘治初め、移鎮して陝西に至り、扶風諸県の附籍回回を討平す。三年、征西将軍印を佩び、寧夏を鎮守す。甫く一歳にして卒す。将に死せんとして、諸子を召して曰く「吾れ印を佩き閫を分つ、分已に足る。独り未だ大いに敵を破らざるを憾みて地に入らん」と。「賊を殺せ」と連呼して瞑す。子の鵬、累官して錦衣衛指揮僉事となる。

璽の歿する後三年にして、寧は平羌将軍印を佩び、甘粛を鎮守す。その冬、寇涼州を犯し、寧はこれと抹山墩で戦い、五十余を擒斬し、相持して暮に至り、輜重を収めて南行す。寇復た来襲し、その長一人を擒う。明日、参将顔玉来援し、副将陶禎の兵もまた至り、寇乃ち遁走す。その稚弱を俘え、馬駱牛羊二千を獲、右都督に進む。明年、巡撫許進とともに土魯番をハミで襲破し、左都督に進み、俸を百石増し、疾を以て京に還る。十三年、大同警報あり、寧を副総兵と命じ、平江伯陳鋭に従いこれを防がしむ。鋭は将略なく、寧と協せず、戦うことを止めしむ。寇遂に志を得て去り、坐して半俸を停め閑住す。尋いで参将として朱暉の軍務を賛画すれども、また功無し。寧自らハミの功を陳べ、伯の封を乞う。詔して全俸を還す。

寧は胆智あり、大同副将たりし時、入貢する者数万人、異志を懐く。寧は二十騎を率いて直ちにその営に抵る。衆駭愕す。部長ありて馬を勒ち弓を引きて出づ。寧前に進み下馬し、諸部長と坐し、策を挙げて指画し、天子の威徳を宣ぶ。一人言葉遜らず、寧その面を摑ち、臂を奮って起つ。その長これを叱して退かしむ。寧復た坐して語り、酒を呼び歓飲す。皆感悟し、卒に約の如し。嘗て古の番上法に倣い、五十八人を以て一隊とし、隊伍重ねて陣と為し、五色の幟を建つ。又各五つの巨幟を中軍に建つ。中幟起これば、五陣各その色を視てこれに応じ、循環して端無し。毎戦これを用いて勝を取る。晩年再び大同に赴くも、既に老病にして、帥また怯懦なれば、故に成功無し。然れども孝宗朝の良将は寧を称す。十七年卒す。広昌伯を贈られる。

彭清は、字を源潔といい、楡林の人である。初め綏徳衛指揮使を襲ぎ、功により都指揮僉事に抜擢さる。弘治初め、右参将を充任し、粛州を分守す。寇侵入し犯すや、兵を率いてこれを躡い、馬駱器仗及び掠められた人畜を獲て還る。尋いで巡撫王継とともにハミを恢復し功あり。

清は偏校の位にありながらも、謀を好み勇略あり、名は中朝に聞こえ、特に尚書馬文升に器重さる。嘗て疾を引きて休みを乞うも、文升力を朝廷に言い、慰留す。八年、甘粛に警あり、文升の推薦により、左副総兵に抜擢され、仍って甘粛を守る。未だ幾ばくもせず、巡撫許進は清を涼州に移すことを乞う。而して是の時ハミは復た土魯番に占拠され、文升は密かに恢復を図り、清に倚って成功せんとし、「粛州は多故にして、清の名は西域に著る。易うべからず」と言い、乃ち寝す。

文升は既に楊翥の策を得、鋭くハミを搗ち牙蘭を襲わんと欲し、乃ち罕東・赤斤及びハミの兵を発し、清をしてこれを統べしめ前鋒と為し、許進に従い潜かに往かしむ。行くこと半月、その城下に抵り、これを攻め克つ。牙蘭は已に先だちて遁れ、乃ちハミの遺種を撫安し、全師して還る。この役、文升は方略を授け、間道より往かんと擬すれども、進は仍って故道により、牙蘭遂に逸去し、斬獲僅少なり。然れども番人は素より中国を軽んじ、その地を渉ること能わずと謂えり。是に至りて始めて畏るるを知る。清の功最も多し。稍々都指揮使に遷る。

十年、総兵官劉寧罷まる。清を都督僉事に抜擢してこれに代わる。その冬、土魯番はハミ忠順王陝巴を帰し、且つ貢を通ずることを乞う。西域復た定まる。屡々疾を辞し、兵柄を解くことを請うも、允さず。十五年卒す。

清は士を禦うに恩あり、久しく西陲を鎮め、威名甚だ著しく、番夷これを憚る。性廉潔にして、鎮中に母及び妻妹四喪に遭い、貧しくして帰葬すること能わず。卒するの日、将士及び庶民の婦豎までも皆涙を流す。遺命してその子に賻贈を受くることを得ざらしむ。故にその喪もまた帰ること能わず。帝これを聞き、撫臣に命じて帑銭を発し、資を送って帰裏せしめ、制に従って祭葬を賜う。

姜漢は、榆林衛の人である。弘治年間(1488-1505)に世職を嗣ぎ、本衛の指揮使となった。御史の胡希顔がその材勇を推薦し、都指揮僉事に進み、延綏遊撃将軍を充任した。十八年春、寇が寧夏の興武営を侵犯した。漢は配下を率いて馳せ援け、中沙墩で遭遇し、これを撃破した。勅書を賜り、労をねぎらわれた。武宗が位を嗣ぐと、寇が大挙して宣府・大同を侵犯した。漢は副総兵の曹雄・参将の王戟と分道して援け、功績があった。まもなく雄に代わって副総兵となり、延綏を協守した。正徳三年(1508)、涼州を守備に移った。翌年の冬、署都督僉事に抜擢され、総兵官を充任し、寧夏を鎮守した。

漢は軍を厳格に統率し、将兵の心を得た。わずか数か月で、安化王の寘鐇が謀反を企て、酒宴を設けて漢及び巡撫の安惟学らを招いた。酒宴半ばにして、その党の何錦らが徒党を率いて入り、その座において漢を捕らえた。漢は奮い起き、怒って罵り屈せず、ついに殺害された。子の奭は逃れて難を免れた。賊が平定された後、朝廷に訴えた。詔により祭葬を賜った。役人が祠を建て、春秋にこれを祭った。嘉靖年間(1522-1566)、さらに巡撫の張珩の請いに従い、額「憫忠」を賜った。

奭は職を嗣ぐべきところであったが、帝は漢が国事に殉じたことを考慮し、特に一官を進め、都指揮僉事とした。十一年(1516)、回賊の魏景陽が乱を起こし、華陰などの諸県が悉く被害を受けた。巡撫の蕭翀が奭に檄を飛ばして討伐させ、景陽を捕らえた。署都指揮同知に進み、右参将を充任して粛州を守った。嘉靖二年(1523)、右副総兵に抜擢され、涼州を分守し、署都督僉事に進み、総兵官を充任して甘粛を鎮守した。

回賊が甘州を侵犯した。奭は張欽堡でこれと戦い、敗走させた。まもなく、西海の賊八千騎が涼州を侵犯した。奭は遊撃の周倫らを率いて苦水墩で襲撃し、大いにこれを破り、百余人を斬首し、その長を殲滅し、掠奪された人口千二百、畜産二千を奪還した。都指揮の張錦もまた戦死した。功績を記録し、署都督同知に進んだ。吉囊の別部が荘浪を侵犯した。奭は分水嶺でこれと遭遇し、再び勝利した。ついに平嶺に至った。敵騎が大挙して集結した。奭は伏兵を置いてこれを誘い、さらにその長一人を斬り、首級七十を挙げ、実授を賜った。十六年春、寇が大挙して甘州に侵入し、防禦できず、二階級降格して罪を戴いた。まもなく永昌での敵撃破の功により、再び署都督僉事に復した。その冬、前の罪に坐して罷免された。久しくして、推薦により副総兵に抜擢され、大同を協守したが、総督の翁萬達に弾劾されて罷免され、死去した。

子の応熊は、指揮使を嗣ぎ、宣府西路参将に抜擢された。二十七年春、俺答が大同を侵犯した。総兵官の周尚文が曹家荘で戦い、応熊は萬達に従って懐来より鬨の声を上げ塵を揚げて西進した。寇は衆寡を測りかね、ついに遁走した。累進して都督僉事となり、総兵官を充任し、寧夏を鎮守した。三十二年、套寇数万騎が賀蘭山に屯し、精騎を派遣して紅井を掠奪した。応熊は将兵に固守して敵を引きつけるよう戒め、ひそかに軍を率いて敵の本営を攻撃し、百四十級を斬首し、都督同知に進んだ。二年後、套寇数万が氷を踏んで西に渡り、寧夏の山後より直ちに荘浪・涼州に到達した。応熊らが掩撃し、百余級の首功を挙げ、右都督に進んだ。御史の崔揀がその寇を放任したことを弾劾し、職を剥奪して逮捕尋問し、事官に充て、塞上に赴いて功を立てさせた。四十年秋、寇六万余騎が居庸の岔道口を侵犯した。応熊は南溝で包囲され、五箇所に槍傷を受け落馬した。参将の胡鎮が数人を殺してこれを奪い返した。その冬、再び右都督となり、総兵官を充任し、大同を鎮守した。塞外の人口を招来した功により、俸給一級を増加された。

四十二年、寇が大挙して畿輔を侵犯した。詔により応熊らに入援させた。諸鎮の兵がことごとく集結したが、敵の勢いの盛んなのを見て、敢えて撃とうとしなかった。給事中の李瑜はついに応熊及び宣大総督の江東・保定総兵官の祝福が胡鎮の包囲を坐視し、一兵も出さなかったことを弾劾した。帝は怒り、勅書を下して厳しく責めた。ちょうど寇が遁走しようとした時、応熊は密雲でこれを防ぎ、かなりの斬獲があった。寇が退くと、帝は江東に諸将の功績を順位づけさせ、応熊を首位とし、詔してその祖父の職級を二級増進させた。まもなく、防秋の労を記録し、左都督に進んだ。総督の趙炳然がその寇を放任して互市を行い、朔州を残害したことを弾劾し、辺境に戍る罪に坐した。穆宗が即位すると、赦されて還った。

子の顕祚が職を襲い、累官して署都督僉事・総兵官となり、山西・宣府を歴鎮した。子の弼もまた都督僉事に至り、援遼総兵官となった。姜氏は大将となり、辺功を顕著にし、凡そ五世に及んだ。

安国は、字を良臣といい、綏徳衛の人である。初め諸生となり、『春秋』・子書・史書に通じ、郷里で名を知られた。後に世職を襲い、指揮僉事となった。正徳三年(1508)、武会挙に及第し第一となり、署指揮使に進み、陝西三辺に赴いて功を立てた。劉瑾が賄賂を要求したが、国と同挙の六十人はいずれも資産がなく、瑾は彼らを行伍に編入し、警報があれば出動を聴き、勝手に帰ることを禁じた。六十人は皆ひどく困窮し、戍卒と同様となり、生活に困った。しかし辺境の臣は瑾を恐れ、ついに彼らを収容し救済する者はなかった。寘鐇が反乱を起こし、大赦を行ったため、ようやく放還された。通政の叢蘭が任用を請うたが、瑾は怒り、給事中の張瓚らに諷して諸人を皆庸才であると弾劾させ、その加官を悉く停止させた。瑾が誅殺された後、ようやく元の官職で寧夏西路を分守した。まもなく署都指揮僉事に進み、右参将を充任し、右副総兵に抜擢され、大同を協守し、延綏に転じた。

十一年冬、寇二万騎が偏頭関などの諸所に分かれて掠奪した。国は遊撃の杭雄とともに馳せて岢嵐州でこれを破り、八十余級を斬首し、千余匹の馬を鹵獲した。寇はついに遁走した。初め、寇が大挙して白羊口に侵入した時、帝は宦官の張忠・都督の劉暉・侍郎の丁鳳に京軍を統率させて討伐させたが、到着した時には、既に飽掠して去った後であった。忠・暉は無功を恥じ、紀功御史の劉澄甫が国らの功績を奪って彼らに帰し、大々的に昇進と賞賜を行い、忠らは皆俸禄を増やされ、世蔭を賜った。尚書の王瓊もまた少保を加えられ、子に錦衣衛の官職を世襲させた。国は当時署都督僉事として寧夏総兵官であったが、僅かに実授されただけで、心中穏やかでなく、自ら列挙することはできなかったが、ついに上疏して力辞し、重傷を負った部卒の叙録を乞うた。瓊が再度国の功績を叙するよう請うたため、ようやく都督同知に進んだ。

この当時、佞幸が朝廷を専断し、債帥の風潮が大いに盛んであったが、ただ国のみが材武によって大将に至った。端正で謹厳、軍務に練達し、赴任する所で職務を尽くそうとし、将材を推挙する者は必ず彼を挙げた。在鎮四年で卒去した。特旨により武敏と諡された。

杭雄は、字を世威といい、代々綏徳衛の総旗であった。雄は蔭官を承け、しばしば先鋒となり、首功を積み重ね、六度の昇進で指揮使に至った。

正徳七年(1512)、署都指揮僉事に進み、四川で賊を剿討し、まもなく西寧守備となった。尚書の楊一清の推薦により、延綏遊撃将軍に抜擢された。都御史の彭澤に従って哈密を経略し、副将の安国とともに岢嵐で敵を破り、都督僉事に進んだ。参将に改められ、都督同知に抜擢され、辺兵を統率して西内で操練した。武宗が宣府・大同に行幸した時、雄は扈従し、そのまま大同総兵官に任じられた。

嘉靖初年、伝奉官を淘汰したが、雄は降格されるべきところであったが、ちょうど辺境を守備していたため、署都督僉事を命じられ、従来通り鎮守した。小王子の万余騎が沙河堡に侵入した。雄は戦ってこれを退けた。まもなく、再び大挙して侵入したが、防禦できず、罷免を求めたが許されなかった。延綏に移り、後軍都督府僉書に召還された。

三年の秋、土魯番が甘肅を侵す。詔して尚書金獻民に師を視させ、雄に平虜大將軍の印を佩かせ、總兵官を充て、陜西・延綏・寧夏・甘肅の四鎮の軍務を提督せしむ。列侯の出征は、始めて大將軍の印を佩くも、都督を授かる者はなし。ここに至りて特に雄を以て命ず。甫く至るや、寇は既に破れて走り、而して雄も亦た錦衣千戸を蔭すを得たり。既に師を班し、復た出でて寧夏を鎮す。吉囊大いに入寇す。總督王憲、檄を飛ばして雄等にこれを破らしめ、都督同知に進む。寇八千騎、氷に乗じて寧夏を犯す。雄及び副總兵趙鎮これを禦ぐ。前鋒、伏中に陥り、雄等皆敗る。總督王瓊これを劾し、官を奪い閑住せしむ。明年卒す。

雄は敢戦なり。嘗て数騎を以て辺を行くに、敵麕至す。乃ち下馬して鞍を積みて壘と為し、跪いてこれを射つ。敵退き、衣を解けば、腋に凝血す。乃ち飛矢に中れるを知る。武宗、大同に在り、雄の氈帷の甚だ敝れるを見て曰く、「老杭窮すること乃ち爾るか」と。寇至るや、帝将に親しく撃たんとす。雄、馬に叩いて諫めて曰く、「主人犬を畜うも、盗に吠えしめざれば、何をか犬を用いん。願わくば臣等の効力を聴かん」と。帝笑いて止む。少くして延綏巡撫の行臺に役す。既に貴ぶや、台に至りて事を議する毎に、敢えて正席に坐せず、曰く、「これ当年の役する所なり」と。正德・嘉靖の間、西北の名将、馬永の下に雄を称すと云う。

賛に曰く、時平らかなれば則ち将略見る由なし。或いは符を綰いて出鎮し、疆を守り侮を禦ぎ、労效を著わし、功名を以て終わるは、亦た尚ぶに足らん。許貴・周賢・魯鑒・姜漢は家世将を為し、勛閥相承く。而して賢と漢は事に死すること尤も烈し。彭清・杭雄の清節、斯れ又た其の最も優れる者か。