明史

列傳第六十一 楊洪 石亨 郭登 朱謙 孫鏜 范廣

○楊洪(子俊、從子能・信)石亨(從子彪、從孫後)郭登 朱謙(子永、孫暉等)孫鏜(趙勝)范廣

楊洪、字は宗道、六合の人である。祖父の政は、明初に功により漢中百戸となった。父の璟は、霊璧で戦死した。洪は職を嗣ぎ、開平に転任した。騎射に優れ、敵に遇えば常に身を先んじて陣を突いた。初め、成祖に従って北征し、斡難河に至り、人馬を獲て還った。帝は「将才なり」と言い、その名を覚えさせ、千戸に進めた。宣徳四年、精騎二百を率いて、専ら塞上を巡僥することを命じられた。続いて西猫児峪に城を築き、兵を留めてこれを守備することを命じられた。紅山において寇を破った。

英宗が即位すると、尚書王驥が辺軍の怯弱は訓練する者がいないためであると述べ、洪の才能を挙げた。詔して洪に遊撃将軍を加えた。洪の所部はわずか五百であったが、詔して開平・独石の騎兵を選んでこれを補わせ、さらに都指揮僉事に進めた。当時、先朝の宿将は既に尽きており、洪は後から起り、敢戦をもって著名となった。人となりは機変敏捷で、奇を出して虚を搗くことに長け、少しも挫けたことがなかった。偏校に過ぎなかったが、中朝の大臣は皆その才能を知り、これを毀る者があれば、曲げて庇護したので、洪はこれによってその才を伸ばすことができた。

尚書魏源が辺事を督めたとき、指揮杜衡・部卒李全が皆洪の罪を上奏して告発した。帝は源の言に従い、衡を広西に謫し、全を捕らえて洪に自ら処置させた。まもなく洪に都督ととく僉事李謙の副として赤城・独石を守備することを命じた。謙は老いて怯懦であり、故意に洪と対立した。洪が軍を調発するたびに、謙はひそかにこれを阻んだ。洪がかつて将士を励まして敵を殺すように言うと、謙は笑って「敵は尽くすことができようか。ただ我が人を殺すのみである」と言った。御史張鵬が謙を弾劾して罷免させ、そこで洪に代わらせることを命じ、洪はますます自ら奮励した。朝廷もまた厚く遇し、捷を奏するごとに、功は微少でも必ず叙勲した。

洪は初め兀良哈の兵を破り、その部長朵欒帖木児を捕らえた。謙の任を代わった後、西涼亭でまたその兵を破った。帝は勅を賜って嘉奨した。また宣大総兵官譚広らに勅して「これは以前に延綏を寇し、指揮王禎に破られた者である。汝が軍に甚だ近いのに、顧みて撲滅できなかった。汝らは洪らを見て愧じないか」と言わせた。三年春、伯顔山で寇を撃った。洪の馬が躓いて足を傷つけたが、戦いをますます力め、その部長也陵台ら四人を擒にした。宝昌州まで追撃し、また阿台答剌花ら五人を擒にした。寇は大敗し、遁走した。璽書を賜って慰労し、医者を遣わして診させ、都指揮同知に進め、銀幣を賜った。まもなく譚広が老いたので、右参将としてこれを補佐することを命じた。洪は開平城を加築し、龍門所を拡張し、独石から潮河川に至るまで、堠台六十を増設することを建議した。まもなく都指揮使に進んだ。兀良哈の兵と三岔口で戦った。またかつて寇を追って亦把禿河に至った。再び都督同知に遷った。九年、兀良哈が延綏を寇すると、洪は内臣韓政らとともに大同から出撃し、黒山迤北に至り、邀撃して克列蘇でこれを破った。左都督に進み、軍士で賞を受けた者は九千九百余人に及んだ。洪はかつて旗牌の給与を請うたが、許されなかった。そこで自ら小羽箭・木牌を作って軍中に令した。有司がその専擅を論じたが、帝は問わなかった。

十二年、総兵官に充て、郭竑に代わって宣府を鎮守した。宣徳以来、迤北は大挙して入寇したことはなかった。ただ朵顔三衛の衆が間を乗じて辺境を擾乱し、多くても百騎、あるいは数十騎に過ぎなかった。他の将は概して臆病であったが、洪だけは敢戦をもって大将に至った。諸部もまたこれを憚り、「楊王」と称した。瓦剌の可汗脱脱不花・太師也先は皆かつて洪に書を送り、ともに馬を贈った。洪は朝廷に報告し、勅してこれを受け、礼をもって報いることを命じた。その後もたびたび贈り物があり、帝は洪を倚任していたので、責めなかった。帝が北狩(土木の変)の後、宣府を通ると、也先が帝の命を伝えて門を開くよう急がせた。城上の人は答えて「守るのは主上の城池である。天は既に暮れた。門は敢えて開けず。かつ洪は既に他へ行った」と言った。也先は帝を擁して去った。景帝が監国すると、前後の功を論じ、昌平伯に封じた。也先はまた帝に命じて洪に書を送らせたが、洪は封をしてこれを上奏した。当時景帝は既に即位しており、急使を馳せて洪に報せた。「上皇の書は偽りである。今後たとえ真の書であっても、受けるな」。そこで洪は一意に堅守した。也先が京師に迫ると、急詔して洪に兵二万を率いて入衛することを命じた。到着する頃には、寇は既に退いていた。勅して洪と孫鏜・范広らに余寇を追撃させた。覇州に至ってこれを破り、阿帰ら四十八人を獲、掠められた人畜数万を奪還した。関に及ぶと、寇が返り討ちし、官軍数百人を殺し、洪の子俊は危うく捕らえられるところであった。寇が去ると、功により侯に進め、所部を率いて京師に留まり、京営の訓練を督し、兼ねて左府の事を掌ることを命じられた。朝廷は洪を宿将として、その言うところ多くを採り入れた。かつて寇を防ぐ三策を陳べ、また三千諸営の将校を簡汰し、貧弱な者を以て伍に充てることを得ずと奏請し、皆従われた。

景泰元年、于謙が辺警が未だ止まないので、洪らに方略を条上させるべきであると言った。洪は四事を言上し、兵部に議して行わせることを命じられた。都督宮聚・王喜・張斌は先に罪に坐して獄に繋がれていたが、洪と石亨が三人は戦いに習熟していると推薦し、釈放して功を立てさせてほしいと請うた。詔は既に許したが、言官がその党邪で政を撓ると弾劾した。帝は国家多事であるので、人を得ることを務め、問わずに置いた。上皇が還ると、洪と石亨はともに奉天翊衛宣力武臣を授けられ、世券を賜った。翌年夏、鎮朔大将軍印を佩き、宣府に還鎮した。従子の能・信が左右参将に充てられ、その子俊は右都督となり、三千営を管掌した。洪は自ら一門父子が官位極品に至り、重兵を握っているので、盛満は居り難く、休致を乞い、俊を他の鎮に転任させるよう請うた。帝は許さなかった。八月、病により召還されて京に至り、一月余りして卒した。潁国公を贈られ、武襄と諡された。妾の葛氏は自経して殉じ、詔して淑人を贈られた。

洪は久しく宣府に居り、兵を禦するに厳粛で、士馬精強であり、一時の辺将の冠であった。しかし専ら殺戮を好まず、また頗る文学を好み、かつて宣府に学を建て、諸将の子弟を教えるよう請うた。

子の傑が嗣いだ。上言して「臣が家は一侯三都督、蒼頭で官を得た者が十六人おり、大いに報いるに足りずと懼れる。蒼頭の楊釗らの職を停めてほしい」と言った。詔はこれを許し、なお俸給を与えることを命じた。傑が卒すると、子がなく、庶兄の俊が嗣いだ。

俊は、初め舎人として従軍した。正統中に累官して署都指揮僉事となり、独石・永寧などの辺務を総督した。景帝が即位すると、給事中金達が独石に奉使し、俊の貪侈を弾劾したので、召還された。也先が京師を犯すと、俊はその別部を居庸で破り、都督僉事に進んだ。まもなく右参将に充てられ、朱謙を補佐して宣府を鎮守した。太監喜寧がたびたび敵を誘って入寇させたので、中朝はこれを患い、寧を擒斬する者に黄金千両・白金二万両を賞し、侯に封ずることを懸賞した。寧は都指揮江福に捕らえられたが、俊がその功を冒した。廷臣は詔の通りにするよう請うた。帝は俊を辺将として、職として当然なすべきことであるとして、允さなかった。右都督を加え、金幣を賜った。

俊は父の勢いを恃んで横暴に振る舞い、かつて私怨により都指揮陶忠を杖殺した。洪は懼れ、俊は軽躁で、辺事を誤る恐れがあると奏し、来京させて臣に随って操練させてほしいと請うた。許された。京に至ると、言官が相次いで弾劾し、獄に下して斬罪に論じられた。詔して洪に随って功を立てさせることを命じた。まもなく、喜寧を擒にした功を冒したことが発覚し、詔して冒して昇進した官軍の追奪を命じ、別に福らを賞し、俊の官を降格して、賊を剿って自ら効させることを命じた。やがて遊撃将軍に充てられ、真・保・涿・易などの城を巡僥し、還って三千営の訓練を督した。

景泰三年、俊が上疏して言うには、「也先は既にその主君をしいし、その衆を併せ、禍心を包蔵し、辺境を窺伺している。ただ時機の到来を待つのみである。聞くところによれば、その妻子と輜重は宣府からわずか数百里の距離にある。我が辺境に駐屯する兵は数十万を下らず、奇兵と正兵に分かれて待ち受け、敵を誘い寄せて攻撃させるべきである。正兵は大同・宣府に陣営を列ね、堅壁を守って変を観察し、奇兵を出して倍道でその巣窟を突く。彼らは必ず還って自らを救おうとするであろうから、我が軍は挟撃して目的を達することができる」と。上疏は廷議に下され、于謙らはこの計略が万全ではないとして、遂に取り上げなかった。団営が初めて設置された時、俊に命じて四営を分督させた。

翌年、再び遊撃将軍を充てられ、瓦剌の使者を送還した。永寧に至り、酒に酔って都指揮の姚貴を八十回杖打ち、かつ斬ろうとした。諸将が力を尽くして解き止めた。貴が朝廷に訴え、宣府参政の葉盛もまた俊の罪を論じた。俊がかつて独石で敗走したことを以て、敗軍の将として斥けられた。俊は上疏して自らを弁明し、賜わった勅書を封じて返還し、己の功績を明らかにした。言官がその跋扈を弾劾し、斬罪を論じ、獄に錮した。ちょうど傑が卒し、傑の母魏氏が俊を一時釈放して傑の葬事を営ませるよう請うた。そこで死罪を宥し、都督僉事に降格した。まもなく洪の職を襲った。家人が俊が軍需物資を盗んだと告発し、再び死罪を論じられたが、贖罪を納めて爵位を回復した。久しくして、また陰事を以て俊を告発した。死罪を免じて爵位を奪い、その子珍に襲封させた。

俊は初め永寧・懐来を守り、也先が上皇を奉じて還そうとしていると聞き、密かに将士に軽々しく受け入れるなと戒めた。既に還った後、またこれが禍の根源となると言った。上皇が復位すると、張軏は俊と不協和音であり、朝廷に言上したので、遂に召還して詔獄に下し、誅殺に処せられた。珍の爵位を奪い、広西に戍らせた。憲宗が即位すると、龍虎衛指揮使を授けた。

能は、字を文敬という。沈毅にして騎射に長じた。洪に従って屡々功を立て、開平衛指揮使となり、都指揮僉事に進んだ。景泰元年に同知に進み、遊撃将軍を充てられ、辺境に沿って巡僥した。敵が蔚州を犯した時、恐れて進まず、また紀広とともに野狐嶺で敵を防ぎ、右膝を負傷して敗れ、御史の張昊に弾劾された。これを宥した。まもなく石彪とともに各々精兵三千を統率し、訓練して調遣に備えるよう命じられた。さらに都督僉事を加え、累進して左副総兵となり、宣府を協守した。巡撫の李秉がその貪婪と怠惰を弾劾したが、問わなかった。五年に召還され、神機営を総管した。天順初年、左都督として宣府総兵官となり、石彪とともに磨児山で敵を破り、武強伯に封ぜられた。也先は既に死に、孛来が継いで興った。能は兀良哈と約して共にこれを襲撃し劫掠しようとし、信炮を与えようとした。兵部がその計略の非を弾劾した。帝は能の志が賊を滅ぼすにあるとして、罪に問わなかった。敵が宣府を犯し、能は敗北し、再び兵部に弾劾されたが、帝もまたこれを宥した。この年に卒した。子がなく、弟の倫が羽林指揮使を襲った。

信は、字を文実という。幼少の頃より洪に従って興州で敵を撃った。賊将が方に躍馬して陣前に出た時、信は直ちに前に進んでこれを捕らえ、これによって名を知られた。功を重ねて指揮僉事に至った。正統末年に都指揮僉事に進み、柴溝堡を守った。也先が京師を犯した時、入衛し、都指揮同知に進んだ。

景泰に改元し、懐来を守ったが、敵が侵入しても防ぐことができなかった。永寧で糧餉を護送中、砲声を聞いて奔り還り、いずれも弾劾された。朝議は当時用兵中であるとして、問わなかった。累進して都督僉事となり、能に代わって左副総兵となり、宣府を協鎮した。上言して言うには、「鹿角の制は、臨陣では敵馬を防ぎ、営を結べば士卒を衛ることができる。各隊に十具を置くべきである。敵に遇えば団牌を前に拒ぎ、鹿角を後に列ね、神銃と弓矢を相継いで発すれば、守るに固からず、戦うに克たざるはない」と。これに従った。

天順初年、鎮守を延綏に移し、都督同知に進んだ。翌年、青陽溝で敵を破り、大いに捕獲した。彰武伯に封ぜられ、副将軍の印を佩び、総兵官を充てられ、従前通り鎮守した。延綏に総兵官が印を佩びるのは、信に始まるのである。間もなく、高家堡で敵を破った。三年に石彪とともに野馬澗で大いに敵を破った。翌年、敵の騎兵二万が榆林に入ったが、信はこれを撃退した。追撃して金鶏峪に至り、平章の阿孫帖木児を斬り、掠奪された人畜数万を奪還した。その冬、李文に代わって大同を鎮守した。

憲宗が即位すると、信は自ら前後の戦功を陳述し、世券を与えられた。成化元年冬、延綏で敵を防いだが功がなく、召還されて三千営を督した。毛裏孩が河套を占拠したので、将軍印を佩び、諸鎮の兵を総率して防禦に向かうよう命じられた。敵は既に黄河を渡って北去したが、後に再び河套を占拠し、分かれて水泉営及び朔州を掠奪した。信らは屡々これを退けた。敵は遂に東に入って大同に入った。そこで詔して信を還らせて大同を鎮守させた。六年、信は副将の徐恕・参将の張瑛と分道して塞外に出、胡柴溝で敵を破り、馬五百余匹を獲た。璽書を以て奨励した。

信は辺境に三十年在り、静謐を以て鎮め、人々は喜んで用いられた。しかし性は営利を好んだ。代王が嘗てその違法事を奏上し、詔して一年の俸禄を停めた。十三年冬、鎮守の地で卒した。侯を贈られ、諡して武毅といった。

洪父子兄弟は皆将印を佩び、一門に三侯伯を出した。当時名将と称せられる者は、楊氏を推した。昌平侯は既に廃され、能は流爵で世襲されなかった。しかし信のみその子瑾に伝え、弘治初年に将軍として宿衛を領した。三伝して曾孫の炳に至った。隆慶の時、南京を協守した。召されて京営戎政を掌り、屡々少師を加えられた。卒し、諡して恭襄といった。子から孫の崇猷に伝わった。李自成が京師を陥落させた時、殺害された。

石亨は渭南の人である。生まれつき異状があり、顔は四角く体躯は偉岸で、美髯は膝に及んだ。その従子の彪は魁梧でこれに似て、髭もまた腹を過ぎた。酒肆で飲んでいると、相見が言うには、「今は平民であるが、二人はどうして封侯の相があるのか」と。亨は世父の職を嗣ぎ、寛河衛指揮僉事となった。騎射に長じ、大刀を用いることができ、戦う毎に敵を摧破した。

正統初年、首級を獲る功により、累遷して都指揮僉事となった。黄牛坡で敵を破り、多くの馬を獲た。三年正月、敵の騎兵三百余が黄河で馬に水を飲ませているのを、亨は追撃して官山の下に至り、多くを斬獲した。都指揮同知に進んだ。まもなく左参将を充てられ、武進伯朱冕を補佐して大同を守った。六年に上言して言うには、「辺境の糧餉は継続が困難である。大同左右・玉林・雲川の四衛の軍を分かち、浄水坪より西の曠土を開墾させ、官が牛と種子を与えれば、歳に一万八千石の糧を増やすことができる」と。翌年また言うには、「大同西路の屯堡は皆極辺に臨んでいる。玉林故城は右衛から五十里離れ、東勝単于城と接し、水草が便利である。軍を分かちて堡塁を築き、屯種を防護させてほしい」と。詔して皆これを実行を許した。まもなく紅城で敵を破った功により、都指揮使に進んだ。敵が延安を犯した時、金山まで追撃してこれを破り、再遷して都督僉事となった。亨は国の制度では将才を広く求めていないとして、漢・唐の制度に倣い、軍謀宏遠・智識絶倫などの科を設け、人に自ら陳述させ、試験して抜擢任用し、保挙に専らせぬよう請うた。許可された。

十四年、都督僉事の馬麟とともに塞外を巡僥した。箭豁山に至り、兀良哈の衆を破り、都督同知に進んだ。この時、辺将で智勇の者は楊洪を推し、次いでは亨であった。亨は偏将ではあったが、朝廷は大帥のようにこれを頼りにしたので、亨もまた力を尽くした。その秋、也先が大挙して大同を寇し、亨及び西寧侯宋瑛・武進伯朱冕らが陽和口で戦った。瑛・冕は戦死し、亨は単騎で奔り還った。官を降格され、兵を募って自ら効力を尽くした。

郕王が国事を監理すると、尚書于謙が彼を推薦した。召されて五軍大営を掌り、右都督に進んだ。間もなく、武清伯に封ぜられた。也先が京師に迫ると、都督陶瑾ら九将とともに命じられ、兵を分けて九門外に営を置いた。徳勝門は敵の衝要に当たるため、特に亨に命じた。于謙は尚書として軍を督した。敵が彰義門に迫ると、都督高礼らがこれを撃退した。転じて徳勝門外に至り、亨は謙の命令を用い、伏兵を置いて誘い撃ちし、死者は甚だ多かった。やがて孫鏜を西直門外に包囲したが、亨の救援により退却した。五日間相持し、敵は兵を収めて遁走した。功績を論じ、亨が最も多く、侯に進んだ。

景泰元年二月、鎮朔大将軍の印を佩びさせられ、京軍三万人を率いて大同を巡哨せしめられた。敵に遭遇し、これを破った。その秋、世襲の誥券を与えられた。皇太子の更易に際し、亨に太子太師を加えた。于謙が団営を立てると、亨に提督を命じ、総兵官としての職務は従前の如く充てさせた。

八年、帝が郊祀を行わんとし、斎宮に宿泊したが、病が起こり礼を行えず、亨を召して代行させた。亨は病榻の前で命を受け、帝の病が甚だ重いのを見て、遂に張軏・曹吉祥らと謀り、上皇を迎え立てんとした。上皇が復辟すると、亨を首功とし、忠国公に爵を進めた。眷顧は特に異なり、言うこと従わざるはなかった。その弟・甥・家人で功を冒して錦衣衛に列せられた者は五十余人、部曲・親故で「奪門」の功績簿に名を潜り込ませて官を得た者は四千余人に及んだ。両京の大臣は、斥逐すること殆んど尽きた。私的な者から重賄を納め、太僕丞孫弘、郎中陳汝言・蕭璁・張用瀚・郝璜・龍文・朱銓、員外郎劉本道を侍郎に引用した。当時、「朱三千、龍八百」という言葉があった。勢焔は熏灼し、官途を嗜む者は競ってその門を走った。既に私怨をもって于謙・範広らを殺し、また給事中成章・御史甘沢ら九人が嘗てその過失を攻撃したことを以て、これを貶黜した。幾度も大獄を起こし、耿九疇・岳正を陥れ、楊瑄・張鵬を戍辺させ、周斌・盛顒らを謫した。また文臣が巡撫となることを憎み、武臣が恣に振る舞うことを抑えるとして、ことごとく撤還させた。ここにおいて大権は悉く亨に帰した。

亨は一日として進見せざる日なく、しばしば政事に預かった。請うところが従われないと、艴然として辞色に現れた。召されなくとも、必ず事を仮って入り、出ればその勢いを張り大いにし、権利を売買した。久しくして、帝は堪えられず、嘗て閣臣李賢に語った。賢は言った、「独断のみが可なり」。帝はこれを然りとした。ある日、賢に語って言った、「閣臣に事あれば、須らく燕見すべきである。彼は武臣、何故頻りに見るのか」。遂に左順門に勅し、宣召なくば総兵官を納れるべからずとさせた。亨はこれより燕見は稀となった。

亨は嘗て帝に白し、その祖墓に碑を立てさせた。工部は亨の意を迎え、有司に建立を勅し、翰林院に文を撰せしめるよう請うた。帝は永楽以来、功臣の祖宗に碑を立てた故事なしとして、部臣を責め、亨に自ら立てさせた。初め、帝は所司に命じて亨のために邸宅を営ませた。既に成り、壮麗は制を逾えた。帝が翔鳳楼に登ってこれを見、誰が住む所かと問うた。恭順侯呉瑾は誤って答えて言った、「これは必ず王府でしょう」。帝は言った、「そうではない」。瑾は言った、「王府でなければ、誰がかくも僭逾を敢えてするでしょう」。帝は頷いた。亨は既に権は人主に侔び、従子の彪もまた定遠侯に封ぜられ、驕横は亨の如かった。両家は材官・猛士を数万蓄え、中外の将帥の半ばはその門を出でた。都人は側目した。

三年秋、彪が大同に鎮せんと謀り、千戸楊斌らに奏上させ保薦させた。帝はその詐りを覚り、楊斌らを収め拷問して実情を得、震怒し、彪を詔獄に下した。亨は懼れ、罪を請うた。帝は慰諭した。亨は弟・甥の官を尽く削り、田里に帰らせるよう請うた。帝もまた許さなかった。彪を鞫問するに及び、繍蟒龍の衣及び違式の寝床などの諸々の不法の事を得、罪は死に当たった。遂に彪の家を没収し、亨に病を養わせた。亨は嘗て京衛指揮裴瑄を遣わし関を出て木材を買わせ、大同指揮盧昭を遣わし逃亡者を追捕させた。この時に至り事が覚り、法司は亨を罪せんことを請うたが、帝は猶お置いて問わなかった。法司は再び彪を鞫問し、彪が初め大同遊撃として、代王の禄を増やすことを己の功とし、王は跪いて謝するに至ったと言った。ここよりしばしば彪をもてなし、歌妓を出して酒を行った。彪は親王を凌侮し、罪もまた死に当たると言った。ここにおいて亨を弾劾し、権を招き賄を納れ、肆に行い忌憚なく、術士鄒叔彜らと私に天文を講じ、妄りに休咎を談じ、重き典刑に置くべしとした。帝は命じて彪を獄に錮し、亨は閑住させ、朝参を罷めさせた。時に方に「奪門」の功績を革さんと議し、亨の党を窮めて治め、亨によって官を得た者は悉く罷免し、朝署は一清した。

明年正月、錦衣指揮逯杲が亨が怨望し、その従孫の後らと妖言を造り、無頼を蓄養し、専ら朝廷の動静を窺い、不軌の跡已に著しいと奏上した。廷臣は皆軽く宥すべからずと言った。ここにおいて亨を詔獄に下し、謀叛の律に坐して斬罪とし、その家財を没収した。一月余りして、亨は獄死し、彪・後はともに誅せられた。

彪はぎょう勇で敢戦し、斧を用いることを善くした。初めに舎人として軍に従った。正統末、功を積んで指揮同知に至った。也先が京師に迫り、既に退くと、余寇を追襲し、頗る斬獲があり、署都指揮僉事に進んだ。

景泰と改元し、詔して実授を与え、遊撃将軍に充て、威遠衛を守備させた。敵が土城を囲むと、彪は砲を用いて百余人を撃ち死なせ、遁走させた。塞上では日に用兵し、彪の勇は流輩に冠たり、戦う毎に必ず捷ち、この故に一年中に数度遷り、都督僉事に至った。

亨の勢いを恃み、多く家人をして民産を占めさせ、また流亡の民五十余戸を招き納れ、擅に関を越えて荘を置き田を墾き、給事中李侃・御史張奎に弾劾され、亨をも併せて罪せんことを請うた。景帝は皆宥して問わず、ただ民産を返還させ、流亡の戸をして復業せしめるのみであった。

三年冬、右参将に充て、大同を協守した。嘗て巡撫年富が己を抑えて逞しうせしめざるを憾んだ。英宗が復辟すると、彪を召し還した。亨が方に志を得ると、彪は遂に富の罪を誣奏し、これを獄に致した。間もなく、都督同知に進み、再び遊撃将軍として大同に赴き敵に備えた。参将張鵬らと磨児山を哨いた。敵千余騎が来襲すると、彪は壮士を率いて沖撃し、把禿王を斬り、その旗を搴ぎ、百二十人を俘斬した。三山墩に追い至り、また七十二人を斬った。これにより定遠伯に封ぜられ、遊撃は従前の如くであった。

天順二年、高陽伯李文とともに延綏に赴き敵を防ぐことを命じられたが、病により召し還され、間もなく総兵官に充てられた。明年、敵二万騎が入り掠めて安辺営に至った。彪は彰武伯楊信らとこれを防ぎ、連戦して皆捷った。鬼力赤を斬り、塞外に追い出して転戦すること六十余里、四十余人を生擒し、五百余級を斬首し、馬・駱駝・牛・羊二万を獲り、西北の戦功第一となった。捷報が聞こえ、侯に進んだ。彪は本来戦功をもって起家し、父兄の蔭を藉りず、然るに一門に二公侯、勢い盛んで驕り、多く不義を行った。大同に鎮せんと謀り、亨と表裏して兵権を握り、帝に疑われた。遂に禍に及んだ。

後は、天順元年の進士で、亨の籌畫を助けた。都督杜清は亨の門下を出で、後が妖言を造り、「土木が兵権を掌る」という語あり、蓋し杜を言うのである。事が覚り、後は誅せられ、清もまた金歯に流された。

郭登、字は元登、武定侯郭英の孫である。幼くして英敏であった。長ずるに及び、博聞強記、議論を善くし、兵を談ずるを好んだ。洪熙の時、勲衛を授けられた。

正統年間、王驥に従って麓川征討に功を立て、錦衣衛指揮僉事に抜擢された。また沐斌に従って騰沖を征し、署都指揮僉事に遷った。十四年、車駕が北征し、扈従して大同に至り、都督僉事を超拜され、参将を充て、総兵官広寧伯劉安を佐けて鎮守した。朱勇らの軍が覆滅し、倉卒に師を還すことを議した。登は学士曹鼐・張益に告げて「車駕は紫荊関に入るべきである」と言ったが、王振は従わず、遂に敗北に及んだ。この時、大同の軍士は多く戦死し、城門は昼も閉ざされ、人心は騒然としていた。登は慷慨奮励し、城堞を修め、兵械を繕い、士卒を撫循し、死者を弔い傷者を問い、自ら創傷を包み薬を塗った。曰く「我は誓ってこの城と存亡を共にし、諸君を独り死なせはしない」と。八月、也先が帝を擁して北去し、大同を経由し、袁彬をして城に入り金幣を求めさせた。登は城門を閉ざし、飛橋を用いて彬を引き入れた。登は安及び侍郎沈固・給事中孫祥・知府霍瑄らと出て謁し、地に伏して慟哭した。金二万余り及び宋瑛・朱冕・内臣郭敬の家資を進めて帝に献じ、以て也先らに賜わらしめた。この夜、敵は城西に営した。登は壮士を遣わして営を劫い駕を迎えんと謀ったが、果たせなかった。翌日、也先は帝を擁して去った。

景帝が国を監すると、都督同知に進み、副総兵を充てた。まもなく安に代わって総兵官と為すことを命じられた。十月、也先が京師を犯すと、登は将として率いる所部を率いて入援せんとし、先んじて蠟書を馳せて奏上した。奏が至った時、敵は既に退いていた。景帝は優詔を以て褒め答え、右都督に進めた。登は京兵が新たに集まったばかりで軽々しく用いるべからずと計り、上用兵方略十余事を上奏した。

景泰元年春、寇騎数千が順聖川から入り沙窩に営することを偵知した。登は兵を率いてこれを追跡し、その衆を大破し、栲栳山まで追撃し、二百余級を斬り、掠められた人畜八百有余を得た。辺将は土木の敗後以来、畏縮して敢えて寇と戦う者なく、登が八百人を以て敵騎数千を破ったので、軍気はこれを以て一振した。捷報が聞こえると、定襄伯に封じられ、世券を賜った。

四月、寇騎数千が奄然として至った。登は東門から出て戦い、偽って敗走し、これを誘って土城に入らせた。伏兵が起こり、敵は敗走した。登は敵が再び来ると推し量り、軍士に毒酒・羊豕・楮銭を持たせ、偽って塚を祭る者の如くし、寇を見れば即ち棄てて走らせた。寇が至り、争ってこれを飲食し、死者甚だ衆かった。六月、也先が再び二千騎を以て入寇し、登は再びこれを撃退した。数日を過ぎ、上皇を奉じて城外に至り、声言して駕を送り返すと言った。登は同守者と計略を設け、朝服を具えて月城内で駕を待ち、伏兵を城上に置き、上皇が入るを俟って、即ち月城の閘を下ろさんとした。也先は門に及びて覚り、遂に上皇を擁して去った。

時に鎮守中官陳公は登を忌んだ。会に公の奸贓を発する者があり、公は登がこれを使わしめたと疑い、遂に登と構怨した。帝は于謙に謂って「大同は我が藩籬なり。公と登がこの如くでは、何を以て守らんや」と言い、右監丞馬慶を遣わして公に代え還らせ、登は愈々感奮した。初め、也先は大同を取って巣穴とせんと欲し、故に数えて攻めて来た。及んで毎回至れば輒ち敗れ、一営数十人還らざる者あり。敵気は慴伏し、始めて上皇を還す意を有した。上皇が既に還ると、代王仕壥は登の功を頌え、勅を降して労を獎わんことを乞うた。兵部は登は既に伯に封ぜられたと言い、乃ち止めた。

二年、登は老病を以て休みを乞い、石彪を挙げて自ら代わらせ、且つ其の子嵩に宿衛せしむることを請うた。帝は嵩を散騎舎人と為し、登の辞を聴かなかった。この時辺患は甫めて息み、登は悉心して措置し、公廉にして為す有る者を得て俱にせんと思い、遂に沈固が事を廃するを劾奏し、而して尚書楊寧・布政使年富を薦めた。又言うに大同には既に御史があり、又巡按御史があり、僉都御史任寧は宜しく宣府を巡撫するに止むべしと。帝は悉くこれに従い、年富を以て固に代え、而して固及び寧を征還した。その秋、疾を以て召還された。登が初めて大同に至った時、士卒で戦える者は僅か数百、馬百余匹であった。及んでこの時に至っては馬は一万五千に至り、精卒数万、屹然として巨鎮を成した。登が去ると、大同人はこれを思った。

初め、英宗が大同を過ぎる時、人を遣わして登に謂って「朕は登と姻戚有り、何ぞ朕を拒ぐことかくの如きや」と言った。登は奏して「臣は命を奉じて城を守り、他の事は知りません」と言った。英宗はこれを恨んだ。及んで復辟すると、登は免れ難からんことを懼れ、先ず八事を陳べ、多く迎合した。尋いで南京中府事を掌ることを命じられた。明年召還された。言官が登が陳汝言と結んで召還を得たことを劾し、鞫して実を論じて斬に処せんとした。死を宥し、都督僉事に降し、甘肅で功を立てしめた。

憲宗が即位すると、詔して伯爵を復し、甘肅総兵官を充てた。辺軍が馬を償うこと甚だ艱難で、妻子を売るに至ると奏した。楚・慶・肅三王府の馬各千匹を借り、官がその価を酬うることを乞うた。従われた。朱永らの推薦を用い、召して中府事を掌らせ、神機営兵を総べしめた。成化四年に再び十二団営を設け、登に朱永と共に提督することを命じた。八年に卒した。侯を贈られ、諡して忠武と曰う。

登は儀観甚だ偉く、髯は腹を過ぎて垂れた。将として智勇を兼ね、紀律厳明、敵を料り勝を制すること、動いて機宜に合した。嘗て意を以て「攪地龍」「飛天網」を造った。深い塹を鑿ち、土木を以て覆い平地の如くす。敵が囲中に入れば、其の機を発し、自ら相撞撃し、頃刻にして皆陥没した。又古に倣い偏箱車・四輪車を製造し、中に火器を蔵し、上に旗幟を建て、鉤環連絡し、布列して陣を成し、戦守ともに用いることが出来た。其の軍は五人を以て伍と為し、神祠で盟わせて教え、一人功有れば五人同じく賞し、罰もまたこれの如くした。十伍を隊と為し、隊は六十斤の弓を挽く能き者を以て先鋒と為した。十隊を一都指揮に領せしめ、功は相撓がず、罪は専責有らしめ、一時に善しと称された。

登は母に事えて孝行で、喪に居て礼を秉った。詩を能くし、明世の武臣で及ぶ者無し。子無く、兄の子嵩を以て子と為した。登が甘肅に謫せられた時、家を京師に留め、嵩は其の衣食を窮迫させた。登の妾は縫紉して自給し、幾ばくか危殆に瀕したが、顧みなかった。登が還ると、之を黜せんと欲したが、其の婿が会昌侯に在り、侯が嘗て己を活かしたので、隠忍して発しなかった。及んで卒すると、嵩は遂に爵を襲った。後に登の嫡嗣に非ざるを以て、嵩一代に止めた。子の参は錦衣衛指揮使に降った。

朱謙は夏邑の人である。永楽初年、父の職を襲い、中都留守左衛指揮僉事と為った。洪熙の時、陽武侯薛祿に隷し、北征に功を立て、指揮使に進んだ。宣徳元年に万全都指揮僉事に進んだ。

正統六年、参将王真と巡哨して伯顔山に至り、寇に遇ってこれを撃走した。次いで閔安山に至り、兀良哈三百騎に遇い、又これを敗った。莽来泉まで追撃し、寇は山澗を越えて遁去したので、乃ち還った。時に謙は既に都指揮同知に遷っており、乃ち都指揮使と為した。

八年に右参将を充て、万全左衛を守備した。明年に楊洪と共に兀良哈兵を克列蘇で破り、都督僉事に進んだ。所部が其の不法事を発したが、帝は方に防秋するを以て、これを宥した。復た北征の功を以て、都督同知に進んだ。

帝が北狩すると、也先が擁して宣府城下に至り、門を開けよと令した。謙は参将紀広・都御史羅亨信と応ぜず、遂に去った。右都督に進んだ。楊洪と入衛し、会に寇は既に退き、近畿でこれを追襲した。戦いて利を得ず、洪はこれを劾した。兵部は併せて洪の不救を劾した。景帝は俱に問わなかった。洪が入って京営を総べると、廷議は洪の如き者を得てこれに代えんと欲し、鹹く謙を挙げた。乃ち左都督に進め、総兵官を充て、宣府を鎮守させた。

景泰元年四月、寇三百騎が石烽口に侵入し、また旧道より去り、勅を降して厳しく責めた。一月余りして、また侵入し犯す。謙は兵を率いてこれを防ぎ、関子口に駐屯す。寇数千騎が突如として至り、謙は鹿角をもって拒み、火器を発してこれを撃つ。寇は少し退き、このように数度繰り返す。謙の軍は退かんとし、寇はまた来て追う。都督江福がこれを援け、またも利あらず。謙はついに力戦し、寇は入るを得ず。六月、また二千騎が南侵す。謙は都指揮牛璽らを遣わして防がしめ、南坡に戦う。謙は塵の上がるを見て、参将紀広らを率いて馳せて援く。巳の刻より午の刻に至り、寇は敗れて遁ぐ。功を論じ、撫寧伯に封ず。この時、寇の気勢は甚だ驕り、しばしば宣府・大同を擾し、二城は旦夕に陥ちんと意す。しかるに謙は宣府を守り、郭登は大同を守り、数度その衆を挫く。也先は二人が犯し難きを知り、始めて一意に上皇を帰すことを図る。八月、上皇還る。道すがら宣府にて、謙は子の永を率いて出でて見え、その使者を厚く犒う。既にして謙は誤って寇五千騎が墻を毀ちて入ると報ず。これを察するに、則ち也先の貢使なり。詔して厳しくこれを責め、謙は惶恐して謝す。明年二月、鎮にて卒す。侯を贈る。子の永が襲封す。

謙は辺境に久しく在り、戦を善くす。然れども勇にして謀寡く、故にその名は楊洪・石亨・郭登の著しきに及ばず。成化年中、武襄と諡す。

永は、字を景昌とす。軀貌偉大にして、顧盼に威あり。初めて宣府にて上皇を見るに、数たび目を属す。景泰年中、爵を嗣ぎ奉朝請す。英宗復辟し、永を見てこれを識りて曰く、「是れ朕に宣府に見えたる者か」と。永は頓首して謝し、即日に召して左右に侍らしめ、宣威営の禁軍を分領せしむ。天順四年、宣・大より警急を告ぐ。命じて京軍を帥いて辺境を巡らしむ。七年、三千営を統べ、尋いで神機営を兼ぬ。憲宗立ち、団営を督することを改め、三千営を領することも旧の如し。

成化元年、荊・襄の盗賊劉通乱を作す。命じて永と尚書白圭をして往きて討たしむ。師を進めて南漳に至り、撃ち斬ること九百余り。会して疾あり南漳に留まり、而して圭は大軍を率いて賊を破る。永は往きて会わんとし、道すがら余賊に遇い、俘斬すること数百人。その秋、また進みて石龍・馮喜を討ち、皆捷す。功を論じ、侯に進む。

毛裏孩辺境を犯す。命じて将軍印を佩かしめ、彰武伯楊信と会してこれを防がしむ。会して使を遣わして朝貢す。乃ち師を班す。六年、阿羅出が延綏を寇す。また将軍に拝し、都御史王越、都督劉玉・劉聚とともに往きて討ち、蘇家寨にてこれを撃敗す。寇一万騎が双山堡より分かれて五道より至り、開荒川にて戦う。寇は少し退き、勢いに乗じてこれを馳せ撃つ。皆、輜重を棄てて走る。牛家寨に至り、都指揮呉瓚の兵少なるに遇い、寇これを囲む。指揮李鎬・滕忠至り、また力戦す。聚及び都指揮範瑾・神英は分かれて南山を拠り挟み撃ち、寇は乃ち大敗す。首級一百六を斬り、馬牛数千を獲、阿羅出は流れ矢に中りて遁ぐ。時に斬獲多くは無かりしも、然れども諸将皆力戦して敵を追い、辺境の人、数十年所未だ有らざる所と以為す。功を論じ、世襲の侯を賜う。

阿羅出は少し挫かるも、なお河套に拠る。明年正月、寇しばしば入り、永の所部はしばしば斬獲あり。三月、また一万余騎を以て分かれて懐遠諸堡を掠む。永と越らは兵を分かちて五と為し、伏兵を設けてこれを敗り、山口及び滉忽都河に追い至り、寇は敗走す。而して遊撃孫鉞・蔡瑄は別に他部を鹿窖山にて破る。捷報聞こえ、璽書を以て労を獎す。永ら再び班師を請うも、皆許さず。寇また二万余騎を以て入り掠め、これを撃退す。歳将に尽きんとして、乃ち永を召し還し、越を留めて三辺を総制せしむ。

十四年、永に太子太保を加う。明年冬、靖虜将軍に拝し、東伐し、中官汪直を以て軍務を監督せしむ。還り、爵を進めて保国公と為す。又明年正月、延綏より警急を告ぐ。命じて永を将軍と為し、越に軍務を提督せしめ、直はなお監督し、分道して塞を出づ。越と直は軽騎を選びて孤店関より出で、威寧海子にて寇を俘う。而して永は大軍を率いて南路より榆林より出づるも、寇を見ず、道回遠にして、兵食巨万を費やし、馬死すること五千余匹。ここにおいて越は伯に封ぜられ、直は蔭錫等を踰え、而して永は功無く、賞行わず。久しくして、太子太傅に進む。十七年二月、また直・越とともに師を出して大同に至り、亦思馬を防ぎ、首功一百二十を獲、遂に世襲の公を賜う。

十九年秋、小王子辺境に入り、宣・大より急を告ぐ。越と直は既に罪を得、永を鎮朔大将軍と為し、中官蔡新その軍を監し、諸将周玉・李玙らを督してこれを撃敗す。還り、なお団営を督す。或る者匿名の書を投じて永の不軌を図ると言う。永は兵柄を解くことを乞うも、許さず。その冬、手勅を以て太傅・太子太師を加う。弘治四年、太廟の監修成り、太師に進む。

永は軍を治むること厳肅にして、至る所多く功を奏す。前後八たび将軍印を佩き、内に十二団営を総べ兼ねて都督府を掌り、列侯の勲名これと比ぶるもの無し。九年卒す。宣平王を追封し、武毅と諡し、子の暉が嗣ぐ。給事中王廷、永の功は公に当たらずと言う。朝議して止むこと一世を襲封するを予え、後は皆侯とす。詔して可とす。

暉は、字を東陽とす。身長く美髯にして、人その威重父に類すと称す。又た屡々父に従い塞下に至り、行陣を歴り、時に才あると以為す。弘治五年、勲衛を授く。年垂く五十にして、始めて爵を嗣ぎ、神機営を分典す。十三年、京営の大帥を更置し、命じて暉に三千営を督せしめ兼ねて右府の事を領せしむ。

火篩が大同に入る。平江伯陳鋭ら防ぐ能わず。命じて暉に大将軍印を佩かしめてこれに代わらしむ。比して至るに、寇は既に退き、乃ち還る。明年春、火篩小王子と連なり、大いに延綏・寧夏に入る。右都御史史琳、師の済うことを請う。また命じて暉に大将軍印を佩かしめ、都督李俊・李澄・楊玉・馬儀・劉寧の五将を統べて往かしめ、而して中官苗逵を以てその軍を監せしむ。寧夏に至るに、寇は既に飽くまで掠めて去り、乃ち琳・逵とともに五路の師を率いて河套にその巣を搗く。寇は既に帳を徙し、僅かに首級三を斬り、馬駝牛羊一千五百を獲て以て帰る。未だ幾ばくもせず、寇は固原に入り、転じて平涼・慶陽を掠め、関中大いに震う。両鎮の将は城に嬰って敢えて戦わず、而して暉らは畏怯して急ぎ赴かず。比して至るに、首級十二人を斬り、掠められたる生口四千を還し、遂に捷を以て聞こゆ。

この役は、大帥は制勝の才無く、師の行くこと紆回にして紀律無く、辺民の死者野に遍し。諸郡は転輸して軍に餉するに困し、費え八十余万。他の征発これに称し、先後僅かに首功十五級を獲るのみ。廷臣連章して三人の罪を劾すも、帝は問わず。已にして上、巣を搗く有功の将士一万余人を録せんとす。尚書馬文升・大学士劉健これを持す。帝は先に逵らの言に入り、竟に二百十人を録し、職一級を署し、余は皆賞賜を受く。及び班師するに、帝は猶中官を遣わして羊酒を齎し迎えて労す。言官極めて暉の罪を論ずるも、終いに聴かず、暉を以て団営を総督せしめ、三千営右府を領すること旧の如し。

武宗即位す。寇大いに宣府に入る。また命じて暉に逵・琳とともに師を帥いて往かしむ。寇は転じて大同を掠め、参将陳雄、撃ち斬ること八十余級、掠められたる人口二千七百余りを還す。暉ら捷を奏し、有功の将士二万余人を列ねる。兵部侍郎閻仲宇・大理丞鄧璋、往きて勘すも、報ずる所多く実ならず。終いに逵の故を以て、衆は皆賜与を受く。劉瑾事を用うるに及び、暉ら更に奏して功を録するの太だ薄きを言い、成化年間の白狐荘の例に依らんことを請う。兵部力爭すも、納れず、竟に暉の言に従い、擢げらるる者一千五百六十三人を得、暉に太保を加う。正徳六年卒す。

子の麒は侯を襲封し、嘗て総兵官を充任し、両広を鎮守した。姚鏌と共に田州を平定し、岑猛を誅殺し、太子太保を加えられた。嘉靖初年、召還された。久しくして、南京を守備し、卒した。子の嶽が嗣ぎ、亦た南京を守備した。隆慶年中に卒した。四伝して孫の国弼に至る。天啓年中、楊漣が魏忠賢を弾劾すると、国弼も速やかに処分を賜わることを乞うた。忠賢は怒り、その歳禄を停めた。崇禎の時、京営を総督した。温体仁が国政を握ると、国弼は抗疏してこれを弾劾した。詔してその門客及び疏を繕う者を捕えて獄に下し、禄を停めること初めの如くせしめた。南京に至るに及んで、保国公に進んだ。乃ち馬士英・阮大鋮と相結び、以て明の滅亡に至った。

孫鏜、字は振遠、東勝州の人。済陽衛指揮同知を襲職した。朱勇の推薦により、署指揮使に進んだ。正統末、指揮僉事に抜擢され、左参将を充任し、総兵官徐恭に従い葉宗留を討った。賊を金華に破り、復た之を烏龍嶺に破った。

英宗が北狩されると、景帝は鏜を召還し、都督僉事に超擢し、三千営を管掌させた。也先が入寇せんとすると、右都督に進め、総兵官を充任し、京軍一万を統率して之を紫荊関に防禦させた。出発せんとするに、寇既に入り、遂に都城の外に営した。寇が徳勝門に迫るも、于謙等に撃退され、転じて西直門に至った。鏜は之と大戦し、其の前鋒数人を斬った。寇稍々北に退き、鏜は之を追撃した。寇は兵を増して鏜を包囲した。鏜は力戦して解けず。高礼・毛福寿が来援し、礼は流矢に中った。石亨の兵が至るに会い、寇乃ち退いた。詔して鏜に楊洪を副えて之を追撃せしめ、涿州深溝に戦い、頗る斬獲有り。師還り、仍た営務を管掌した。

景泰初年、楊洪が鏜を弾劾して獄に下した。石亨が鏜の赦免を請い、江淵も亦た城下の役に於いて、惟だ鏜の戦い最も力有りと言上した。乃ち之を釈放した。

三年冬、副総兵を充任し、郭登に協力して大同を鎮守した。登の節制厳しく、鏜は思い通りにならず、軍を分かたんと欲し、且つ子の百戸宏に登を侮辱させた。帝は宏を械し、竟に鏜の故を以て之を赦した。召還され、三千営を管掌すること旧に如し。英宗が復辟し、「奪門」の功を以て懐寧伯に封じ、尋ねて世券を賜うた。

天順初年、甘肅より警報有り、詔して鏜を総兵官に充て、京軍を帥いて往討せしむ。将に陛辞せんとし、病みて朝房に宿す。夜二鼓、太監曹吉祥・昭武伯曹欽が反した。其の部下の都指揮馬亮が恭順侯呉瑾に変を告げ、瑾は趨って鏜に語る。鏜は奏を草し、東長安ちょうあん門を叩き、門の隙より内廷に投入し、始めて兵を集めて吉祥を縛り、皇城諸門を守らしむるを得た。鏜は太平侯張瑾の家に走り、兵を邀えて賊を撃たんとすれども、瑾は敢えて出でず。鏜は倉卒に復た宣武街に走り、急ぎ二子の輔・軏を遣わして征西将士を呼び、之を紿いて曰く「刑部の囚人獄を反し、獲る者に重賞有り」と。衆稍々集まり二千人に至り、始めて其の故を語る。時既に黎明、遂に欽を撃つ。欽は方に東長安門を攻むるも、入るを得ず、転じて東安門を攻む。鏜の兵追い及び、賊稍々散ず。軏は欽を斬りて膊に中つ、軏も亦た殺された。欽は事成らざるを知り、竄けて其の家に帰るも、猶お衆を督して鏜に拒ぎ力戦し、晡に至って始めて定まる。功を論じて第一とし、爵を進めて世侯とし、仍た三千営を管掌す。軏に百戸を贈り、世襲せしむ。

鏜は粗猛にして善戦すれども、然し数度法を犯す。初め太監金英に賄賂し、都督に遷るを得た。事覚え、斬罪に論ぜられるも、景帝特に之を宥す。天順末、将士の賄賂を受けたるを以て、屡々弾劾される。自ら安からず、退くを求む。詔して営務及び府軍前衛の事を解かしむれども、猶お左府を掌る。

憲宗即位し、中官牛玉罪を得る。鏜は玉と婚姻したるに坐し、禄を停めて閑住す。尋ねて情を陳べ、半禄を賜う。已にして、復た自ら功状を陳べ、禄を給ふること旧に如し。成化七年卒す。淶国公を贈り、謚して武敏と曰う。

子の輔、嗣ぐことを請う。吏部言う、「奪門」の功は、例として世伝すべからずと。帝は鏜が反者を捕えしを以て、之に与う。子に伝え孫の応爵に至る。正徳年中、団営を総督す。四伝して曾孫の世忠に至る。万暦年中、湖広を鎮守し、漕運を総督すること凡そ二十年。又三伝して孫の維藩に至る。流賊京師を陥す、殺される。

鏜の「奪門」の功を冒して伯爵に封ぜられたるに当たり、都督董興及び曹義・施聚・趙勝等皆この時に乗じて冒封し、世券を賜う。興・義・聚は自ら伝有り。

趙勝、字は克功、遷安の人。職を襲い永平衛指揮使となる。正統末、寇を西直門に防禦し、都指揮僉事に進む。天順初年、孫鏜等と「奪門」の功に預かり、都督僉事に超遷す。又鏜と共に反者曹欽を撃ち、同知に進む。孛来甘肅を犯す、勝は李杲と左右参将を充任し、白圭に従い西征して固原に至り、寇を撃ち、之を退ける。憲宗立ち、鼓勇営を管掌し訓練す。成化改元、山西より警報有り、将軍に拝す。雁門に次すれども、寇既に退き、乃ち還る。明年、復た延綏に出でて寇を防禦す。方に款を納れんとするに会い、遂に師を旋す。尋ねて耀武営を管掌す。四年、総兵官を充任し、遼東を鎮守す。七年、召されて五軍営を管掌し、已にして、三千営に改む。乚加思蘭宣府を犯す、詔して勝を将軍とし、京兵万人を統率して之を防禦せしむ、亦た寇遁ぐるを以て召還さる。久しくして、左都督に進み、太子太保を加えらる。十九年、昌寧伯に封ぜらる。

勝は初め李杲と並びて名有り。後屡々大師を督すれども、敵を見ず、功無く、夤縁して封を得、名大いに損ず。後に太保を加えられ、万貴妃の塋を営み、崖石の間に墮ちて死す。侯を贈り、謚して壮敏と曰う。弘治初年、孫の鑒、爵を襲うことを乞う。吏部言う、勝に功無く、世に伝うるに当たらずと。乃ち錦衣衛指揮使を授く。

範広、遼東の人。正統年中、世職を嗣ぎ、寧元衛指揮僉事となり、指揮使に進む。十四年、功を積みて遼東都指揮僉事に遷る。

広は騎射に精しく、驍勇絶倫なり。英宗北狩せられ、廷議将材を挙ぐるに、尚書于謙広を推薦す。都督僉事に擢で、左副総兵を充任し、石亨の副となる。也先京師を犯す、広は馬を躍らせて陣に陷り、部下之に従い、勇気百倍す。寇退き、又之を追って紫荊関に敗る。功を録し、実授を命ず。俄かに都督同知に進み、出でて懐来を守る。尋ねて召還さる。

景泰元年二月、亨辺境を巡視に出づ。時に都督衛穎大営を統べ、広に協理せしむ。三月、寇宣府を犯す。勅して兵部に諸営将と会して将材を遴選せしむるに、僉しく広を挙ぐ。総兵官を充任し、都御史羅通と共に兵を督して巡哨せしめ、居庸関外に駐屯す。数月にして京に還り、石亨に副して団営軍馬を提督す。

亨の行い不法にして、その部曲多く貪り放恣なり、廣しばしば以て言ふ。亨之を銜み、譖ひて廣を罷め、毅勇一營を領するのみとす。廣又都督張軏と相能はず。英宗復辟に及び、亨・軏「奪門」の功を恃み、廣が于謙に黨附し、外藩を立てんと謀るを誣ひ、遂に獄に下して死を論ず。子升廣西に戍し、其の家を籍し、以て妻孥第宅を降丁に賜ふ。明年春、軏早朝より還り、途中にて拱揖の状を為す。左右怪みて之を問へば、曰く「範廣過ぐるなり」と。遂に疾を得て睡る能はず、痛楚月餘にして死す。成化初、廷臣廣の冤を訟ぐ。命じて子升乃ち世職を襲はしむ。

廣性剛果なり。毎に陣に臨み、身士卒に先んじ、未だ嘗て敗衄せず。一時諸將盡く其の下に出づ、最も于謙に信任せられ、以て故に儕輩に忌まる。

贊に曰く、楊洪・石亨の輩、時に遭ひて事多く、爪牙の力を奮ひ、侯封世券、一門を照耀す、庸を酬ふる亦過厚なり。洪は盛滿懼る可きを知り、而して亨は邪狠粗傲、寵を怙りて驕り、其の赤族する宜なるかな。朱謙の勇略郭登に及ばず、登は乃ち後無く、而して謙の子永、爵を進めて上公と為り、子孫世に侯して絶ゆること無し。孫鏜・範廣善く戰略相等しく、而して廣は冤を以て死す。遇ふ所幸有り不幸有り、相去ること豈に遠からざらんや。