○楊洪(子俊、從子能・信)石亨(從子彪、從孫後)郭登 朱謙(子永、孫暉等)孫鏜(趙勝)范廣
楊洪、字は宗道、六合の人である。祖父の政は、明初に功により漢中百戸となった。父の璟は、霊璧で戦死した。洪は職を嗣ぎ、開平に転任した。騎射に優れ、敵に遇えば常に身を先んじて陣を突いた。初め、成祖に従って北征し、斡難河に至り、人馬を獲て還った。帝は「将才なり」と言い、その名を覚えさせ、千戸に進めた。宣徳四年、精騎二百を率いて、専ら塞上を巡僥することを命じられた。続いて西猫児峪に城を築き、兵を留めてこれを守備することを命じられた。紅山において寇を破った。
英宗が即位すると、尚書王驥が辺軍の怯弱は訓練する者がいないためであると述べ、洪の才能を挙げた。詔して洪に遊撃将軍を加えた。洪の所部はわずか五百であったが、詔して開平・独石の騎兵を選んでこれを補わせ、さらに都指揮僉事に進めた。当時、先朝の宿将は既に尽きており、洪は後から起り、敢戦をもって著名となった。人となりは機変敏捷で、奇を出して虚を搗くことに長け、少しも挫けたことがなかった。偏校に過ぎなかったが、中朝の大臣は皆その才能を知り、これを毀る者があれば、曲げて庇護したので、洪はこれによってその才を伸ばすことができた。
尚書魏源が辺事を督めたとき、指揮杜衡・部卒李全が皆洪の罪を上奏して告発した。帝は源の言に従い、衡を広西に謫し、全を捕らえて洪に自ら処置させた。まもなく洪に都督僉事李謙の副として赤城・独石を守備することを命じた。謙は老いて怯懦であり、故意に洪と対立した。洪が軍を調発するたびに、謙はひそかにこれを阻んだ。洪がかつて将士を励まして敵を殺すように言うと、謙は笑って「敵は尽くすことができようか。ただ我が人を殺すのみである」と言った。御史張鵬が謙を弾劾して罷免させ、そこで洪に代わらせることを命じ、洪はますます自ら奮励した。朝廷もまた厚く遇し、捷を奏するごとに、功は微少でも必ず叙勲した。
洪は久しく宣府に居り、兵を禦するに厳粛で、士馬精強であり、一時の辺将の冠であった。しかし専ら殺戮を好まず、また頗る文学を好み、かつて宣府に学を建て、諸将の子弟を教えるよう請うた。
子の傑が嗣いだ。上言して「臣が家は一侯三都督、蒼頭で官を得た者が十六人おり、大いに報いるに足りずと懼れる。蒼頭の楊釗らの職を停めてほしい」と言った。詔はこれを許し、なお俸給を与えることを命じた。傑が卒すると、子がなく、庶兄の俊が嗣いだ。
俊は、初め舎人として従軍した。正統中に累官して署都指揮僉事となり、独石・永寧などの辺務を総督した。景帝が即位すると、給事中金達が独石に奉使し、俊の貪侈を弾劾したので、召還された。也先が京師を犯すと、俊はその別部を居庸で破り、都督僉事に進んだ。まもなく右参将に充てられ、朱謙を補佐して宣府を鎮守した。太監喜寧がたびたび敵を誘って入寇させたので、中朝はこれを患い、寧を擒斬する者に黄金千両・白金二万両を賞し、侯に封ずることを懸賞した。寧は都指揮江福に捕らえられたが、俊がその功を冒した。廷臣は詔の通りにするよう請うた。帝は俊を辺将として、職として当然なすべきことであるとして、允さなかった。右都督を加え、金幣を賜った。
俊は父の勢いを恃んで横暴に振る舞い、かつて私怨により都指揮陶忠を杖殺した。洪は懼れ、俊は軽躁で、辺事を誤る恐れがあると奏し、来京させて臣に随って操練させてほしいと請うた。許された。京に至ると、言官が相次いで弾劾し、獄に下して斬罪に論じられた。詔して洪に随って功を立てさせることを命じた。まもなく、喜寧を擒にした功を冒したことが発覚し、詔して冒して昇進した官軍の追奪を命じ、別に福らを賞し、俊の官を降格して、賊を剿って自ら効させることを命じた。やがて遊撃将軍に充てられ、真・保・涿・易などの城を巡僥し、還って三千営の訓練を督した。
翌年、再び遊撃将軍を充てられ、瓦剌の使者を送還した。永寧に至り、酒に酔って都指揮の姚貴を八十回杖打ち、かつ斬ろうとした。諸将が力を尽くして解き止めた。貴が朝廷に訴え、宣府参政の葉盛もまた俊の罪を論じた。俊がかつて独石で敗走したことを以て、敗軍の将として斥けられた。俊は上疏して自らを弁明し、賜わった勅書を封じて返還し、己の功績を明らかにした。言官がその跋扈を弾劾し、斬罪を論じ、獄に錮した。ちょうど傑が卒し、傑の母魏氏が俊を一時釈放して傑の葬事を営ませるよう請うた。そこで死罪を宥し、都督僉事に降格した。まもなく洪の職を襲った。家人が俊が軍需物資を盗んだと告発し、再び死罪を論じられたが、贖罪を納めて爵位を回復した。久しくして、また陰事を以て俊を告発した。死罪を免じて爵位を奪い、その子珍に襲封させた。
俊は初め永寧・懐来を守り、也先が上皇を奉じて還そうとしていると聞き、密かに将士に軽々しく受け入れるなと戒めた。既に還った後、またこれが禍の根源となると言った。上皇が復位すると、張軏は俊と不協和音であり、朝廷に言上したので、遂に召還して詔獄に下し、誅殺に処せられた。珍の爵位を奪い、広西に戍らせた。憲宗が即位すると、龍虎衛指揮使を授けた。
信は、字を文実という。幼少の頃より洪に従って興州で敵を撃った。賊将が方に躍馬して陣前に出た時、信は直ちに前に進んでこれを捕らえ、これによって名を知られた。功を重ねて指揮僉事に至った。正統末年に都指揮僉事に進み、柴溝堡を守った。也先が京師を犯した時、入衛し、都指揮同知に進んだ。
景泰に改元し、懐来を守ったが、敵が侵入しても防ぐことができなかった。永寧で糧餉を護送中、砲声を聞いて奔り還り、いずれも弾劾された。朝議は当時用兵中であるとして、問わなかった。累進して都督僉事となり、能に代わって左副総兵となり、宣府を協鎮した。上言して言うには、「鹿角の制は、臨陣では敵馬を防ぎ、営を結べば士卒を衛ることができる。各隊に十具を置くべきである。敵に遇えば団牌を前に拒ぎ、鹿角を後に列ね、神銃と弓矢を相継いで発すれば、守るに固からず、戦うに克たざるはない」と。これに従った。
洪父子兄弟は皆将印を佩び、一門に三侯伯を出した。当時名将と称せられる者は、楊氏を推した。昌平侯は既に廃され、能は流爵で世襲されなかった。しかし信のみその子瑾に伝え、弘治初年に将軍として宿衛を領した。三伝して曾孫の炳に至った。隆慶の時、南京を協守した。召されて京営戎政を掌り、屡々少師を加えられた。卒し、諡して恭襄といった。子から孫の崇猷に伝わった。李自成が京師を陥落させた時、殺害された。
石亨は渭南の人である。生まれつき異状があり、顔は四角く体躯は偉岸で、美髯は膝に及んだ。その従子の彪は魁梧でこれに似て、髭もまた腹を過ぎた。酒肆で飲んでいると、相見が言うには、「今は平民であるが、二人はどうして封侯の相があるのか」と。亨は世父の職を嗣ぎ、寛河衛指揮僉事となった。騎射に長じ、大刀を用いることができ、戦う毎に敵を摧破した。
十四年、都督僉事の馬麟とともに塞外を巡僥した。箭豁山に至り、兀良哈の衆を破り、都督同知に進んだ。この時、辺将で智勇の者は楊洪を推し、次いでは亨であった。亨は偏将ではあったが、朝廷は大帥のようにこれを頼りにしたので、亨もまた力を尽くした。その秋、也先が大挙して大同を寇し、亨及び西寧侯宋瑛・武進伯朱冕らが陽和口で戦った。瑛・冕は戦死し、亨は単騎で奔り還った。官を降格され、兵を募って自ら効力を尽くした。
郕王が国事を監理すると、尚書于謙が彼を推薦した。召されて五軍大営を掌り、右都督に進んだ。間もなく、武清伯に封ぜられた。也先が京師に迫ると、都督陶瑾ら九将とともに命じられ、兵を分けて九門外に営を置いた。徳勝門は敵の衝要に当たるため、特に亨に命じた。于謙は尚書として軍を督した。敵が彰義門に迫ると、都督高礼らがこれを撃退した。転じて徳勝門外に至り、亨は謙の命令を用い、伏兵を置いて誘い撃ちし、死者は甚だ多かった。やがて孫鏜を西直門外に包囲したが、亨の救援により退却した。五日間相持し、敵は兵を収めて遁走した。功績を論じ、亨が最も多く、侯に進んだ。
八年、帝が郊祀を行わんとし、斎宮に宿泊したが、病が起こり礼を行えず、亨を召して代行させた。亨は病榻の前で命を受け、帝の病が甚だ重いのを見て、遂に張軏・曹吉祥らと謀り、上皇を迎え立てんとした。上皇が復辟すると、亨を首功とし、忠国公に爵を進めた。眷顧は特に異なり、言うこと従わざるはなかった。その弟・甥・家人で功を冒して錦衣衛に列せられた者は五十余人、部曲・親故で「奪門」の功績簿に名を潜り込ませて官を得た者は四千余人に及んだ。両京の大臣は、斥逐すること殆んど尽きた。私的な者から重賄を納め、太僕丞孫弘、郎中陳汝言・蕭璁・張用瀚・郝璜・龍文・朱銓、員外郎劉本道を侍郎に引用した。当時、「朱三千、龍八百」という言葉があった。勢焔は熏灼し、官途を嗜む者は競ってその門を走った。既に私怨をもって于謙・範広らを殺し、また給事中成章・御史甘沢ら九人が嘗てその過失を攻撃したことを以て、これを貶黜した。幾度も大獄を起こし、耿九疇・岳正を陥れ、楊瑄・張鵬を戍辺させ、周斌・盛顒らを謫した。また文臣が巡撫となることを憎み、武臣が恣に振る舞うことを抑えるとして、ことごとく撤還させた。ここにおいて大権は悉く亨に帰した。
亨は一日として進見せざる日なく、しばしば政事に預かった。請うところが従われないと、艴然として辞色に現れた。召されなくとも、必ず事を仮って入り、出ればその勢いを張り大いにし、権利を売買した。久しくして、帝は堪えられず、嘗て閣臣李賢に語った。賢は言った、「独断のみが可なり」。帝はこれを然りとした。ある日、賢に語って言った、「閣臣に事あれば、須らく燕見すべきである。彼は武臣、何故頻りに見るのか」。遂に左順門に勅し、宣召なくば総兵官を納れるべからずとさせた。亨はこれより燕見は稀となった。
亨は嘗て帝に白し、その祖墓に碑を立てさせた。工部は亨の意を迎え、有司に建立を勅し、翰林院に文を撰せしめるよう請うた。帝は永楽以来、功臣の祖宗に碑を立てた故事なしとして、部臣を責め、亨に自ら立てさせた。初め、帝は所司に命じて亨のために邸宅を営ませた。既に成り、壮麗は制を逾えた。帝が翔鳳楼に登ってこれを見、誰が住む所かと問うた。恭順侯呉瑾は誤って答えて言った、「これは必ず王府でしょう」。帝は言った、「そうではない」。瑾は言った、「王府でなければ、誰がかくも僭逾を敢えてするでしょう」。帝は頷いた。亨は既に権は人主に侔び、従子の彪もまた定遠侯に封ぜられ、驕横は亨の如かった。両家は材官・猛士を数万蓄え、中外の将帥の半ばはその門を出でた。都人は側目した。
明年正月、錦衣指揮逯杲が亨が怨望し、その従孫の後らと妖言を造り、無頼を蓄養し、専ら朝廷の動静を窺い、不軌の跡已に著しいと奏上した。廷臣は皆軽く宥すべからずと言った。ここにおいて亨を詔獄に下し、謀叛の律に坐して斬罪とし、その家財を没収した。一月余りして、亨は獄死し、彪・後はともに誅せられた。
彪は驍勇で敢戦し、斧を用いることを善くした。初めに舎人として軍に従った。正統末、功を積んで指揮同知に至った。也先が京師に迫り、既に退くと、余寇を追襲し、頗る斬獲があり、署都指揮僉事に進んだ。
景泰と改元し、詔して実授を与え、遊撃将軍に充て、威遠衛を守備させた。敵が土城を囲むと、彪は砲を用いて百余人を撃ち死なせ、遁走させた。塞上では日に用兵し、彪の勇は流輩に冠たり、戦う毎に必ず捷ち、この故に一年中に数度遷り、都督僉事に至った。
亨の勢いを恃み、多く家人をして民産を占めさせ、また流亡の民五十余戸を招き納れ、擅に関を越えて荘を置き田を墾き、給事中李侃・御史張奎に弾劾され、亨をも併せて罪せんことを請うた。景帝は皆宥して問わず、ただ民産を返還させ、流亡の戸をして復業せしめるのみであった。
郭登、字は元登、武定侯郭英の孫である。幼くして英敏であった。長ずるに及び、博聞強記、議論を善くし、兵を談ずるを好んだ。洪熙の時、勲衛を授けられた。
正統年間、王驥に従って麓川征討に功を立て、錦衣衛指揮僉事に抜擢された。また沐斌に従って騰沖を征し、署都指揮僉事に遷った。十四年、車駕が北征し、扈従して大同に至り、都督僉事を超拜され、参将を充て、総兵官広寧伯劉安を佐けて鎮守した。朱勇らの軍が覆滅し、倉卒に師を還すことを議した。登は学士曹鼐・張益に告げて「車駕は紫荊関に入るべきである」と言ったが、王振は従わず、遂に敗北に及んだ。この時、大同の軍士は多く戦死し、城門は昼も閉ざされ、人心は騒然としていた。登は慷慨奮励し、城堞を修め、兵械を繕い、士卒を撫循し、死者を弔い傷者を問い、自ら創傷を包み薬を塗った。曰く「我は誓ってこの城と存亡を共にし、諸君を独り死なせはしない」と。八月、也先が帝を擁して北去し、大同を経由し、袁彬をして城に入り金幣を求めさせた。登は城門を閉ざし、飛橋を用いて彬を引き入れた。登は安及び侍郎沈固・給事中孫祥・知府霍瑄らと出て謁し、地に伏して慟哭した。金二万余り及び宋瑛・朱冕・内臣郭敬の家資を進めて帝に献じ、以て也先らに賜わらしめた。この夜、敵は城西に営した。登は壮士を遣わして営を劫い駕を迎えんと謀ったが、果たせなかった。翌日、也先は帝を擁して去った。
景帝が国を監すると、都督同知に進み、副総兵を充てた。まもなく安に代わって総兵官と為すことを命じられた。十月、也先が京師を犯すと、登は将として率いる所部を率いて入援せんとし、先んじて蠟書を馳せて奏上した。奏が至った時、敵は既に退いていた。景帝は優詔を以て褒め答え、右都督に進めた。登は京兵が新たに集まったばかりで軽々しく用いるべからずと計り、上用兵方略十余事を上奏した。
四月、寇騎数千が奄然として至った。登は東門から出て戦い、偽って敗走し、これを誘って土城に入らせた。伏兵が起こり、敵は敗走した。登は敵が再び来ると推し量り、軍士に毒酒・羊豕・楮銭を持たせ、偽って塚を祭る者の如くし、寇を見れば即ち棄てて走らせた。寇が至り、争ってこれを飲食し、死者甚だ衆かった。六月、也先が再び二千騎を以て入寇し、登は再びこれを撃退した。数日を過ぎ、上皇を奉じて城外に至り、声言して駕を送り返すと言った。登は同守者と計略を設け、朝服を具えて月城内で駕を待ち、伏兵を城上に置き、上皇が入るを俟って、即ち月城の閘を下ろさんとした。也先は門に及びて覚り、遂に上皇を擁して去った。
時に鎮守中官陳公は登を忌んだ。会に公の奸贓を発する者があり、公は登がこれを使わしめたと疑い、遂に登と構怨した。帝は于謙に謂って「大同は我が藩籬なり。公と登がこの如くでは、何を以て守らんや」と言い、右監丞馬慶を遣わして公に代え還らせ、登は愈々感奮した。初め、也先は大同を取って巣穴とせんと欲し、故に数えて攻めて来た。及んで毎回至れば輒ち敗れ、一営数十人還らざる者あり。敵気は慴伏し、始めて上皇を還す意を有した。上皇が既に還ると、代王仕壥は登の功を頌え、勅を降して労を獎わんことを乞うた。兵部は登は既に伯に封ぜられたと言い、乃ち止めた。
初め、英宗が大同を過ぎる時、人を遣わして登に謂って「朕は登と姻戚有り、何ぞ朕を拒ぐことかくの如きや」と言った。登は奏して「臣は命を奉じて城を守り、他の事は知りません」と言った。英宗はこれを恨んだ。及んで復辟すると、登は免れ難からんことを懼れ、先ず八事を陳べ、多く迎合した。尋いで南京中府事を掌ることを命じられた。明年召還された。言官が登が陳汝言と結んで召還を得たことを劾し、鞫して実を論じて斬に処せんとした。死を宥し、都督僉事に降し、甘肅で功を立てしめた。
憲宗が即位すると、詔して伯爵を復し、甘肅総兵官を充てた。辺軍が馬を償うこと甚だ艱難で、妻子を売るに至ると奏した。楚・慶・肅三王府の馬各千匹を借り、官がその価を酬うることを乞うた。従われた。朱永らの推薦を用い、召して中府事を掌らせ、神機営兵を総べしめた。成化四年に再び十二団営を設け、登に朱永と共に提督することを命じた。八年に卒した。侯を贈られ、諡して忠武と曰う。
登は儀観甚だ偉く、髯は腹を過ぎて垂れた。将として智勇を兼ね、紀律厳明、敵を料り勝を制すること、動いて機宜に合した。嘗て意を以て「攪地龍」「飛天網」を造った。深い塹を鑿ち、土木を以て覆い平地の如くす。敵が囲中に入れば、其の機を発し、自ら相撞撃し、頃刻にして皆陥没した。又古に倣い偏箱車・四輪車を製造し、中に火器を蔵し、上に旗幟を建て、鉤環連絡し、布列して陣を成し、戦守ともに用いることが出来た。其の軍は五人を以て伍と為し、神祠で盟わせて教え、一人功有れば五人同じく賞し、罰もまたこれの如くした。十伍を隊と為し、隊は六十斤の弓を挽く能き者を以て先鋒と為した。十隊を一都指揮に領せしめ、功は相撓がず、罪は専責有らしめ、一時に善しと称された。
登は母に事えて孝行で、喪に居て礼を秉った。詩を能くし、明世の武臣で及ぶ者無し。子無く、兄の子嵩を以て子と為した。登が甘肅に謫せられた時、家を京師に留め、嵩は其の衣食を窮迫させた。登の妾は縫紉して自給し、幾ばくか危殆に瀕したが、顧みなかった。登が還ると、之を黜せんと欲したが、其の婿が会昌侯に在り、侯が嘗て己を活かしたので、隠忍して発しなかった。及んで卒すると、嵩は遂に爵を襲った。後に登の嫡嗣に非ざるを以て、嵩一代に止めた。子の参は錦衣衛指揮使に降った。
正統六年、参将王真と巡哨して伯顔山に至り、寇に遇ってこれを撃走した。次いで閔安山に至り、兀良哈三百騎に遇い、又これを敗った。莽来泉まで追撃し、寇は山澗を越えて遁去したので、乃ち還った。時に謙は既に都指揮同知に遷っており、乃ち都指揮使と為した。
八年に右参将を充て、万全左衛を守備した。明年に楊洪と共に兀良哈兵を克列蘇で破り、都督僉事に進んだ。所部が其の不法事を発したが、帝は方に防秋するを以て、これを宥した。復た北征の功を以て、都督同知に進んだ。
帝が北狩すると、也先が擁して宣府城下に至り、門を開けよと令した。謙は参将紀広・都御史羅亨信と応ぜず、遂に去った。右都督に進んだ。楊洪と入衛し、会に寇は既に退き、近畿でこれを追襲した。戦いて利を得ず、洪はこれを劾した。兵部は併せて洪の不救を劾した。景帝は俱に問わなかった。洪が入って京営を総べると、廷議は洪の如き者を得てこれに代えんと欲し、鹹く謙を挙げた。乃ち左都督に進め、総兵官を充て、宣府を鎮守させた。
謙は辺境に久しく在り、戦を善くす。然れども勇にして謀寡く、故にその名は楊洪・石亨・郭登の著しきに及ばず。成化年中、武襄と諡す。
永は、字を景昌とす。軀貌偉大にして、顧盼に威あり。初めて宣府にて上皇を見るに、数たび目を属す。景泰年中、爵を嗣ぎ奉朝請す。英宗復辟し、永を見てこれを識りて曰く、「是れ朕に宣府に見えたる者か」と。永は頓首して謝し、即日に召して左右に侍らしめ、宣威営の禁軍を分領せしむ。天順四年、宣・大より警急を告ぐ。命じて京軍を帥いて辺境を巡らしむ。七年、三千営を統べ、尋いで神機営を兼ぬ。憲宗立ち、団営を督することを改め、三千営を領することも旧の如し。
毛裏孩辺境を犯す。命じて将軍印を佩かしめ、彰武伯楊信と会してこれを防がしむ。会して使を遣わして朝貢す。乃ち師を班す。六年、阿羅出が延綏を寇す。また将軍に拝し、都御史王越、都督劉玉・劉聚とともに往きて討ち、蘇家寨にてこれを撃敗す。寇一万騎が双山堡より分かれて五道より至り、開荒川にて戦う。寇は少し退き、勢いに乗じてこれを馳せ撃つ。皆、輜重を棄てて走る。牛家寨に至り、都指揮呉瓚の兵少なるに遇い、寇これを囲む。指揮李鎬・滕忠至り、また力戦す。聚及び都指揮範瑾・神英は分かれて南山を拠り挟み撃ち、寇は乃ち大敗す。首級一百六を斬り、馬牛数千を獲、阿羅出は流れ矢に中りて遁ぐ。時に斬獲多くは無かりしも、然れども諸将皆力戦して敵を追い、辺境の人、数十年所未だ有らざる所と以為す。功を論じ、世襲の侯を賜う。
阿羅出は少し挫かるも、なお河套に拠る。明年正月、寇しばしば入り、永の所部はしばしば斬獲あり。三月、また一万余騎を以て分かれて懐遠諸堡を掠む。永と越らは兵を分かちて五と為し、伏兵を設けてこれを敗り、山口及び滉忽都河に追い至り、寇は敗走す。而して遊撃孫鉞・蔡瑄は別に他部を鹿窖山にて破る。捷報聞こえ、璽書を以て労を獎す。永ら再び班師を請うも、皆許さず。寇また二万余騎を以て入り掠め、これを撃退す。歳将に尽きんとして、乃ち永を召し還し、越を留めて三辺を総制せしむ。
十四年、永に太子太保を加う。明年冬、靖虜将軍に拝し、東伐し、中官汪直を以て軍務を監督せしむ。還り、爵を進めて保国公と為す。又明年正月、延綏より警急を告ぐ。命じて永を将軍と為し、越に軍務を提督せしめ、直はなお監督し、分道して塞を出づ。越と直は軽騎を選びて孤店関より出で、威寧海子にて寇を俘う。而して永は大軍を率いて南路より榆林より出づるも、寇を見ず、道回遠にして、兵食巨万を費やし、馬死すること五千余匹。ここにおいて越は伯に封ぜられ、直は蔭錫等を踰え、而して永は功無く、賞行わず。久しくして、太子太傅に進む。十七年二月、また直・越とともに師を出して大同に至り、亦思馬を防ぎ、首功一百二十を獲、遂に世襲の公を賜う。
十九年秋、小王子辺境に入り、宣・大より急を告ぐ。越と直は既に罪を得、永を鎮朔大将軍と為し、中官蔡新その軍を監し、諸将周玉・李玙らを督してこれを撃敗す。還り、なお団営を督す。或る者匿名の書を投じて永の不軌を図ると言う。永は兵柄を解くことを乞うも、許さず。その冬、手勅を以て太傅・太子太師を加う。弘治四年、太廟の監修成り、太師に進む。
永は軍を治むること厳肅にして、至る所多く功を奏す。前後八たび将軍印を佩き、内に十二団営を総べ兼ねて都督府を掌り、列侯の勲名これと比ぶるもの無し。九年卒す。宣平王を追封し、武毅と諡し、子の暉が嗣ぐ。給事中王廷、永の功は公に当たらずと言う。朝議して止むこと一世を襲封するを予え、後は皆侯とす。詔して可とす。
火篩が大同に入る。平江伯陳鋭ら防ぐ能わず。命じて暉に大将軍印を佩かしめてこれに代わらしむ。比して至るに、寇は既に退き、乃ち還る。明年春、火篩小王子と連なり、大いに延綏・寧夏に入る。右都御史史琳、師の済うことを請う。また命じて暉に大将軍印を佩かしめ、都督李俊・李澄・楊玉・馬儀・劉寧の五将を統べて往かしめ、而して中官苗逵を以てその軍を監せしむ。寧夏に至るに、寇は既に飽くまで掠めて去り、乃ち琳・逵とともに五路の師を率いて河套にその巣を搗く。寇は既に帳を徙し、僅かに首級三を斬り、馬駝牛羊一千五百を獲て以て帰る。未だ幾ばくもせず、寇は固原に入り、転じて平涼・慶陽を掠め、関中大いに震う。両鎮の将は城に嬰って敢えて戦わず、而して暉らは畏怯して急ぎ赴かず。比して至るに、首級十二人を斬り、掠められたる生口四千を還し、遂に捷を以て聞こゆ。
この役は、大帥は制勝の才無く、師の行くこと紆回にして紀律無く、辺民の死者野に遍し。諸郡は転輸して軍に餉するに困し、費え八十余万。他の征発これに称し、先後僅かに首功十五級を獲るのみ。廷臣連章して三人の罪を劾すも、帝は問わず。已にして上、巣を搗く有功の将士一万余人を録せんとす。尚書馬文升・大学士劉健これを持す。帝は先に逵らの言に入り、竟に二百十人を録し、職一級を署し、余は皆賞賜を受く。及び班師するに、帝は猶中官を遣わして羊酒を齎し迎えて労す。言官極めて暉の罪を論ずるも、終いに聴かず、暉を以て団営を総督せしめ、三千営右府を領すること旧の如し。
武宗即位す。寇大いに宣府に入る。また命じて暉に逵・琳とともに師を帥いて往かしむ。寇は転じて大同を掠め、参将陳雄、撃ち斬ること八十余級、掠められたる人口二千七百余りを還す。暉ら捷を奏し、有功の将士二万余人を列ねる。兵部侍郎閻仲宇・大理丞鄧璋、往きて勘すも、報ずる所多く実ならず。終いに逵の故を以て、衆は皆賜与を受く。劉瑾事を用うるに及び、暉ら更に奏して功を録するの太だ薄きを言い、成化年間の白狐荘の例に依らんことを請う。兵部力爭すも、納れず、竟に暉の言に従い、擢げらるる者一千五百六十三人を得、暉に太保を加う。正徳六年卒す。
子の麒は侯を襲封し、嘗て総兵官を充任し、両広を鎮守した。姚鏌と共に田州を平定し、岑猛を誅殺し、太子太保を加えられた。嘉靖初年、召還された。久しくして、南京を守備し、卒した。子の嶽が嗣ぎ、亦た南京を守備した。隆慶年中に卒した。四伝して孫の国弼に至る。天啓年中、楊漣が魏忠賢を弾劾すると、国弼も速やかに処分を賜わることを乞うた。忠賢は怒り、その歳禄を停めた。崇禎の時、京営を総督した。温体仁が国政を握ると、国弼は抗疏してこれを弾劾した。詔してその門客及び疏を繕う者を捕えて獄に下し、禄を停めること初めの如くせしめた。南京に至るに及んで、保国公に進んだ。乃ち馬士英・阮大鋮と相結び、以て明の滅亡に至った。
孫鏜、字は振遠、東勝州の人。済陽衛指揮同知を襲職した。朱勇の推薦により、署指揮使に進んだ。正統末、指揮僉事に抜擢され、左参将を充任し、総兵官徐恭に従い葉宗留を討った。賊を金華に破り、復た之を烏龍嶺に破った。
英宗が北狩されると、景帝は鏜を召還し、都督僉事に超擢し、三千営を管掌させた。也先が入寇せんとすると、右都督に進め、総兵官を充任し、京軍一万を統率して之を紫荊関に防禦させた。出発せんとするに、寇既に入り、遂に都城の外に営した。寇が徳勝門に迫るも、于謙等に撃退され、転じて西直門に至った。鏜は之と大戦し、其の前鋒数人を斬った。寇稍々北に退き、鏜は之を追撃した。寇は兵を増して鏜を包囲した。鏜は力戦して解けず。高礼・毛福寿が来援し、礼は流矢に中った。石亨の兵が至るに会い、寇乃ち退いた。詔して鏜に楊洪を副えて之を追撃せしめ、涿州深溝に戦い、頗る斬獲有り。師還り、仍た営務を管掌した。
景泰初年、楊洪が鏜を弾劾して獄に下した。石亨が鏜の赦免を請い、江淵も亦た城下の役に於いて、惟だ鏜の戦い最も力有りと言上した。乃ち之を釈放した。
鏜は粗猛にして善戦すれども、然し数度法を犯す。初め太監金英に賄賂し、都督に遷るを得た。事覚え、斬罪に論ぜられるも、景帝特に之を宥す。天順末、将士の賄賂を受けたるを以て、屡々弾劾される。自ら安からず、退くを求む。詔して営務及び府軍前衛の事を解かしむれども、猶お左府を掌る。
憲宗即位し、中官牛玉罪を得る。鏜は玉と婚姻したるに坐し、禄を停めて閑住す。尋ねて情を陳べ、半禄を賜う。已にして、復た自ら功状を陳べ、禄を給ふること旧に如し。成化七年卒す。淶国公を贈り、謚して武敏と曰う。
子の輔、嗣ぐことを請う。吏部言う、「奪門」の功は、例として世伝すべからずと。帝は鏜が反者を捕えしを以て、之に与う。子に伝え孫の応爵に至る。正徳年中、団営を総督す。四伝して曾孫の世忠に至る。万暦年中、湖広を鎮守し、漕運を総督すること凡そ二十年。又三伝して孫の維藩に至る。流賊京師を陥す、殺される。
鏜の「奪門」の功を冒して伯爵に封ぜられたるに当たり、都督董興及び曹義・施聚・趙勝等皆この時に乗じて冒封し、世券を賜う。興・義・聚は自ら伝有り。
趙勝、字は克功、遷安の人。職を襲い永平衛指揮使となる。正統末、寇を西直門に防禦し、都指揮僉事に進む。天順初年、孫鏜等と「奪門」の功に預かり、都督僉事に超遷す。又鏜と共に反者曹欽を撃ち、同知に進む。孛来甘肅を犯す、勝は李杲と左右参将を充任し、白圭に従い西征して固原に至り、寇を撃ち、之を退ける。憲宗立ち、鼓勇営を管掌し訓練す。成化改元、山西より警報有り、将軍に拝す。雁門に次すれども、寇既に退き、乃ち還る。明年、復た延綏に出でて寇を防禦す。方に款を納れんとするに会い、遂に師を旋す。尋ねて耀武営を管掌す。四年、総兵官を充任し、遼東を鎮守す。七年、召されて五軍営を管掌し、已にして、三千営に改む。乚加思蘭宣府を犯す、詔して勝を将軍とし、京兵万人を統率して之を防禦せしむ、亦た寇遁ぐるを以て召還さる。久しくして、左都督に進み、太子太保を加えらる。十九年、昌寧伯に封ぜらる。
勝は初め李杲と並びて名有り。後屡々大師を督すれども、敵を見ず、功無く、夤縁して封を得、名大いに損ず。後に太保を加えられ、万貴妃の塋を営み、崖石の間に墮ちて死す。侯を贈り、謚して壮敏と曰う。弘治初年、孫の鑒、爵を襲うことを乞う。吏部言う、勝に功無く、世に伝うるに当たらずと。乃ち錦衣衛指揮使を授く。
範広、遼東の人。正統年中、世職を嗣ぎ、寧元衛指揮僉事となり、指揮使に進む。十四年、功を積みて遼東都指揮僉事に遷る。
広は騎射に精しく、驍勇絶倫なり。英宗北狩せられ、廷議将材を挙ぐるに、尚書于謙広を推薦す。都督僉事に擢で、左副総兵を充任し、石亨の副となる。也先京師を犯す、広は馬を躍らせて陣に陷り、部下之に従い、勇気百倍す。寇退き、又之を追って紫荊関に敗る。功を録し、実授を命ず。俄かに都督同知に進み、出でて懐来を守る。尋ねて召還さる。
亨の行い不法にして、その部曲多く貪り放恣なり、廣しばしば以て言ふ。亨之を銜み、譖ひて廣を罷め、毅勇一營を領するのみとす。廣又都督張軏と相能はず。英宗復辟に及び、亨・軏「奪門」の功を恃み、廣が于謙に黨附し、外藩を立てんと謀るを誣ひ、遂に獄に下して死を論ず。子升廣西に戍し、其の家を籍し、以て妻孥第宅を降丁に賜ふ。明年春、軏早朝より還り、途中にて拱揖の状を為す。左右怪みて之を問へば、曰く「範廣過ぐるなり」と。遂に疾を得て睡る能はず、痛楚月餘にして死す。成化初、廷臣廣の冤を訟ぐ。命じて子升乃ち世職を襲はしむ。
廣性剛果なり。毎に陣に臨み、身士卒に先んじ、未だ嘗て敗衄せず。一時諸將盡く其の下に出づ、最も于謙に信任せられ、以て故に儕輩に忌まる。
贊に曰く、楊洪・石亨の輩、時に遭ひて事多く、爪牙の力を奮ひ、侯封世券、一門を照耀す、庸を酬ふる亦過厚なり。洪は盛滿懼る可きを知り、而して亨は邪狠粗傲、寵を怙りて驕り、其の赤族する宜なるかな。朱謙の勇略郭登に及ばず、登は乃ち後無く、而して謙の子永、爵を進めて上公と為り、子孫世に侯して絶ゆること無し。孫鏜・範廣善く戰略相等しく、而して廣は冤を以て死す。遇ふ所幸有り不幸有り、相去ること豈に遠からざらんや。