○羅亨信、侯琎、楊寧、王來、孫原貞(孫需、張憲)、朱鑒、楊信民、張驥(竺淵、耿定、王晟、鄧颙)、馬謹、程信、白圭(子鉞)、張瓚(謝士元)、孔鏞(李時敏)、鄧廷瓚、王軾、劉丙
父の喪で帰郷し葬る。朝廷に戻り、命を改めて宣府・大同を巡撫。参将の石亨が大同の民の三分の一を選んで兵士とすることを請うが、亨信は上奏してこれを止めさせる。十年、右副都御史に進み、巡撫はもと通り。時に官を遣わして二鎮の軍田を測量し、一兵士につき八十畝を除き、全て五升の税を徴収せんとする。亨信は言う、「文皇帝の時、辺境の軍は力を尽くして田を開墾し、税を徴収しないとの詔があり、陛下もまたこの命を重ねておられる。今どうして突然このような挙に出るのか。塞上の諸軍は、辺境を防衛して労苦し、他に生業なく、ただ農耕に従事するのみ。毎年冬から春にかけて、瓦剌の使臣を迎え送り、三月になってようやく田に出られ、七月にはまた草を刈り、八月以後は関塞を修築する。一年のうちに休む暇などない。況んや辺境の地は瘠せており、霜が早く収穫は少ない。もしさらに税を徴収すれば、民はもはや定住せず、必ず逃亡するだろう。財政担当の臣はただ穀物の蓄積に務めるが、人心が固まらなければ、たとえ穀物があっても誰と共に守るというのか」。帝はその言を容れて取りやめる。
初め、亨信は上奏して言ったことがある、「也先は専ら隙をうかがい、侵入を図っている。あらかじめ真北の要害に、城衛を増設して備えるべきである。そうしなければ、おそらく大患を残すだろう」。兵部が議し、取り上げられず。土木の変に至り、人々の心は動揺し恐れる。宣府城を放棄しようとする議論があり、官吏軍民が紛然として争って城外に出ようとする。亨信は剣を杖にして城門の下に座り、令して曰く、「城を出る者は斬る」。また諸将に朝廷のために死守することを誓わせ、人心ようやく定まる。也先が上皇を擁して城南に至り、門を開けよと命を伝える。亨信は城上に登って告げて曰く、「命を受けて城を守り、勝手に開けることはできない」。也先は躊躇して引き去る。赤城・雕鶚・懷来・永寧・保安の諸守将が城を棄てて逃げるが、皆その罪を問う。
この時、皇帝の車駕はすでに北にあり、敵騎は日に日に城下に迫り、関門の左右はみな戦場である。亨信は総兵の楊洪と共に孤城でその要衝に当たり、外には強寇を防ぎ、内には京師を守る。楊洪が入衛した後は、また朱謙と共に守り、労績甚だ著しい。兜鍪を着けたところの頭髪はすっかり禿げた。景帝が即位し、左副都御史に進む。翌年、齢七十四歳となり、致仕を請う。許される。帰郷して八年、家で卒す。
烏撒・烏蒙の土官が土地を争って仇殺し合う。詔により侯琎と同官の章聰を遣わして諭し和解させ、その境界を正して戻る。侍郎の章敞に副使として交阯に使いし、関門が低く、先導が屈んで入ろうとする。侯琎は叱って曰く、「これは狗竇(犬の穴)である。どうして天子の使節を辱しめようとするのか」。交阯人が関門を壊して、ようやく入る。帰る際、贈り物は一切受け取らず。兵部主事に遷る。
景泰初め、貴州の苗韋同烈が叛き、新添・平越・清平・興隆の諸衛を包囲。侯琎に命じて貴州軍務を総督させ討伐させる。時に副総兵の田禮がすでに新添・平越の包囲を解いており、侯琎は兵を遣わして都盧・水西の諸賊を攻め破り、貴州への道が初めて通じる。また雲南兵を調発し、烏撒より会師し、畢節の諸路を開き、普安の土兵に檄を飛ばして安南衛を救援させ、自らは軍を率いて紫塘・弥勒等十余りの寨を攻める。賊が再び平越を包囲したため、軍を返してこれを撃退。かくて七盤坡・羊腸河・楊老堡に哨所を分置し、清平の包囲を解き、東は重安江に至り、王驥の軍と合流。興隆から鎮遠に至る道が全て通じる。勝利の報が聞こえ、兵部尚書に進む。さらに賞改苗を攻め落とし、その首領の王阿同等三十四人を生け捕る。別賊の阿趙が偽って趙王を称し、衆を率いて清平を掠めるが、侯琎は再び討伐してこれを生け捕る。水西の苗阿忽等六族は皆自ら帰順を請う。詔により侯琎に適宜処置させる。
楊寧、字は彦謐、歙県の人。宣徳五年の進士。刑部主事を授かる。機警で才能多く、当時の名声を負う。
正統初め、尚書の魏源に従い宣府・大同を巡視。四年、都督の呉亮に従い麓川を征す。賊が軍門に来て降伏を約す。楊寧は曰く、「兵を加えずして先に降るのは、我々を誘おうとするのだ。厳兵して待つべきである」。聞き入れられず、楊寧に命じて金歯への輸送を監督させる。やがて賊が果たして大挙して至り、官兵は大敗。諸将は罪を得るが、楊寧は郎中に抜擢される。再び王驥に従い騰沖に至り賊を破る。楊寧は太僕少卿の李蕡と共に督戦し、ともに功あり。師が還ると、楊寧は越級して刑部右侍郎に任じられる。母の喪に遭うが、喪中に復職させられる。
閩・浙に盗賊起こり、寧を命じて江西を鎮守せしむ。賊至れば、即ち撃ちてこれを破る。暇あれば則ち民の疾苦を詢ね、境内服従す。
景泰初め、召されて礼部尚書に拝し、胡濙と共に部事を理む。迤北の可汗使いを遣わして入貢す。寧言う、「宜しく使いを数日留め、宴労賜予を、也先の使いより倍厚くすべし。彼の性多く猜疑、二人必ず内に構え、辺患緩むべし」と。帝は誠信を務め、許さず。その冬、足疾を以て南刑部に調ず。七年、御史荘升の弾劾を受け、遣わして核せしむも未だ報ぜず。寧は力めて言官を詆毀し、都察院再び寧が言路を脅制するを劾す。詔してその罪を免じ、状を録してこれを示す。英宗復辟し、致仕を命ず。逾年して卒す。
寧は才ありて善く権貴と交わる。嘗て前後の戦功を自ら叙し、世蔭を乞う。子堣方に一歳、遂に新安衛副千戸を得る。
六年、推薦により擢て御史と為り、出でて蘇・松・常・鎮の四府を按ず。命じて巡撫周忱と共に属吏を考察せしむ。勅に「上裁を請う」の語あり。来言う、「民を賊する吏は、これを去るに惟だ速からんことを恐る。必ず請いて後に行わば、民の困窮多し」と。帝の為に勅を改めてこれを賜う。中官陳武、太后の命を以て江南に使いし、横暴甚だし。来、数えてこれを抑う。武還り、帝に訴う。帝、都御史顧佐に問う、「巡按は誰ぞ」と。佐、来を以て対う。帝嘆息してその賢を称し、「これを識れ」と曰う。報命に及び、奨諭極めて甚だし。
英宗即位し、楊士奇の推薦により、山西左参政に擢でる。言う、「流民所在に家を成す。及び故土に招還するも、毎に産を失いて復た逃げ去る。随いて附籍するを便とすべく乞い請う」と。又言う、「郡県官農業を以て務とせず、民多く遊惰に致し、催征は即ち已命に致す。朝廷その失業を憫み、詔を下して蠲除す。而して田日々に荒閑し、租税出ずる無く、良民に累及す。宜しく守長の賢者を択び、農を課するを職とすべし。その荒田は、附近の家に通力合作せしめ、租を供するの外、その均分するを聴し、原主復業すれば則ちこれを還すべし。蚕桑本業に裨する可き者は、その規画するを聴す。仍って提学風憲官をしてこれを督めしめ、庶幾くは人本を務むるを知らん」と。これに従う。
賊平ぎ、班師す。詔して来・缶を留めて鎮撫せしむ。尋いで来を命じて兼ねて貴州を巡撫せしむ。奏して言う、「近く黔・楚の兵を用うるに因り、暫く鬻爵の例を行えり。今寇賊稍々寧らぎ、惟だ平越・都勻等の四衛は餉乏し。宜しく商を召して塩を中せしめ、納米の例を罷むべし」と。これに従う。
正統八年、大臣会薦し、浙江左布政使に遷る。久しくして、盗賊大いに閩・浙の間に起こり、赦して再び叛く。景帝即位し、兵を発してこれを討つ。原貞嘗て賊必ず叛くを策し、方略を上り、備えを為さんことを請う。ここに至りて即ち原貞を命じて軍事を参議せしめ、深く入りてその魁を擒う。而して温州の余賊未だ滅びず。都指揮李信を都督僉事と為し、軍を調えてこれを討たしむ。遂に原貞を拝して兵部左侍郎と為し、信の軍務を参じ、浙江を鎮守せしむ。母憂に丁し、当に去るべし。副都御史軒輗これを留むるを請う。報じて可とす。
五年冬、疏を上りて言う。
四方の屯田軍は、概ね営繕や転輸などの諸役に耕作を妨げられている。精鋭を選抜して実戦部隊とし、残りは悉く農に帰すべきである。もし屯田兵を一万人増やせば、即ち歳ごとに支給する倉糧十二万石を節約でき、かつ余糧六万石を蓄積でき、兵糧がどうして不足することがあろうか。
今年の漕運は数百万石に上り、道路の費用は計り知れない。例えば浙江の糧軍が兌運米を運ぶ場合、一石につき耗米七斗を加える。民が自ら米を運ぶ場合は、一石につき八斗を加える。その他は水程の遠近に応じて耗米を加算する。これは田が増えるわけでもないのに、賦斂が実に倍加しており、民が困窮しないようにするのは不可能である。況んや今、太倉には十数年分の蓄積もなく、もし水害や旱魃に遭えば、どうして救済できようか。量入為出を旨とし、冗食や浮費を淘汰すべきである。倉儲が豊かになってから、徐々に歳漕の数を減らせば、民の困窮は救われるであろう。
臣がかつて河南に官した時、逃散した民の籍を調べると凡そ二十余万戸に上り、悉く南陽・唐・鄧・襄・樊の間に転徙していた。群れをなして生計を謀っている以上、彼らが盗賊とならないとどうして保証できようか。今年の豊作に乗じて、近臣を派遣して巡行させ、有司に督せしめて編戸に籍立てさせ、田業を与え、農桑を課し、社学・郷約・義倉を立て、本務に励み生業に専念させるべきである。生計が定まってから、徐々に賦役を議すれば、おそらく将来の禍患はないであろう。当時はこれを悉く用いることができなかった。後に劉千斤の乱が起こり、果たして原貞の予想した通りとなった。
その後、再び浙江を鎮守した。英宗が復位すると、罷免されて帰郷した。成化十年に卒去、享年八十七。原貞の赴任した地にはいずれも労績があり、浙江においては特に著名であった。
張憲は、字を廷式といい、孫需と同郷で、同年の進士であり、互いに尚書を代わった。かつて浙江右布政使となり、後に工部右侍郎として易州山廠を督し、公の財には毫髪たりとも私していない。南京礼部尚書を歴任した。劉瑾に迫られて致仕した。劉瑾が誅殺されると、工部尚書に起用された。卒去。
朱鑒は、字を用明といい、晋江の人である。幼少時に股を切って父の病を治した。郷試に合格し、蒲圻教諭に任じられた。
正統五年に再び広東を巡按した。欽州に守備都指揮を設置することを上奏した。詔を奉じて囚人を審録し、多く冤罪を晴らし、逃亡・反逆した者を多く招撫した。還朝し、天下の按察司に僉事一人を増員し、屯田を専管させることを請い、遂に定制となった。
七年、推薦により山西左参政に抜擢された。平陽で辺境に供給する薪を採る夫役を減らすことを上奏した。景帝が国事を監理すると、布政使に進んだ。まもなく右副都御史に抜擢され、その地を巡撫した。上言して言う、「也先は奸詭百端で、殺掠やむことがない。さらに和親を仮託し、使者を遣わして覗わせている。上皇を送還することを名目に、関門を開いて迎え入れることを得ようと企んでいる。少しでも抵抗を示せば、彼らはすぐに口実を得るであろう。その謀り事は既に深く、我が方の考慮は遠大であるべきである。中貴による監軍の制度を暫く廃止し、総兵に生殺の権限を与え、その志が阻害されず、計略を施せるようにすべきである。散兵を整え、勇士を募り、賞格を重く掲げる。義勇の軍を鼓舞し、王事に勤める兵を徴発し、数道並行して進軍し、力を合わせて復讐すべきである。そうすればおそらく上皇は還御でき、敵兵は自ら退くであろう。かつて江南で賊が起こった時、皆、王振を誅することを名目とした。事柄が朝廷に帰すれば治まり、宦官に帰すれば乱れる。昔、高皇帝が群臣と議事する時は必ず左右を退け、事機が漏れることを恐れた。権幸の門を杜絶し、凡そ軍国の重事は大臣に委任すれば、必ずや成功するであろう。」景帝はこれを嘉納した。
初め、景帝が皇太子を交替させた時、朱鑒は大学士の陳循に書を送り、不可であると述べた。かつ言う、「陛下は上皇に対して、位を避けて大義を全うすべきである。」陳循は大いに驚いた。英宗が復位すると、朱鑒は宮門に赴いて表を奉じて賀した。帝は言った、「朱鑒は老病であるのに、どうして妄りに来たのか。速やかに還らせよ。」家に居ること二十余年で卒去した。
楊信民は、名を誠といい、字をもって行われた。浙江新昌の人である。郷挙で国学に入った。宣徳年間に工科給事中に任じられた。母の喪に服して帰郷した。葬儀の土石を必ず自ら数百歩も担ぎ、言う、「我が母を葬るのに専ら他人を使役するのは、我が心が安らかでない。」服喪が終わり、刑科給事中に改まった。
正統年間、江西で軍籍の整理を行い、還朝して民の苦しみ五事を奏上し、多くが議決されて施行された。まもなく王直の推薦により、広東左参議に抜擢された。清廉な操守は俗を絶し、かつて田野を行き、利弊を訪れてこれを改置した。性剛直で気概に富み、按察使の郭智が不法であったので、信民はこれを弾劾して獄に下した。黄翰が郭智の後任となったが、信民は再びその奸悪を暴いた。その後、また僉事の韋広を弾劾したので、韋広はかえって信民を告発し、これにより黄翰と共に逮捕された。軍民は嘩然として、宮門に赴いて信民の留任を乞うた。詔して信民の官職を復し、一方で黄翰と韋広は審理の結果実罪が明らかとなり、除名された。
景帝が監国となると、于謙が彼を推薦し、白羊口の守備を命じた。ちょうど広東の賊黄蕭養が広州を急迫して包囲したため、嶺南の人々が信民を乞うたので、右僉都御史としてその地を巡撫することとなった。士民はこれを聞いて互いに慶賀して言うには、「楊公が来られた」と。当時広州は長く包囲され、将兵は戦えば必ず敗れ、民の出入りを禁じ、薪採りも絶えていた。そして賊を避けて来た郷民を拒んで受け入れず、多くは賊に害され、民はますます愁苦して賊に帰した。信民が到着すると、城門を開き、倉庫を開いて、木札を刻んで民に与え、出入りを許した。賊は木札を見て言うには、「これは楊公が与えられたものだ」と、敢えて傷つけなかった。賊を避ける者をことごとく収容保護したので、民はまるで更生したかのようであった。信民はますます甲兵を整え、多方面から招撫し、降る者は日に日に至った。そこで使者を持たせて檄文を賊の陣営に持ち込ませ、恩信をもって諭した。蕭養は言うには、「楊公の一言を得れば、死んでも恨みはない」と。期日を定めて面会を請うた。信民は単車でそこに赴き、堀を隔てて語った。賊の仲間が遠くに見て、歓声を上げて言うには、「果たして楊公だ!」と、争って羅列して拝し、涙を流す者もいた。賊は大きな魚を献上し、信民は疑わずに受け取った。
張驥は、字を仲德といい、安化の人である。永楽年間に郷挙に挙げられ、国学に入った。宣徳初年に御史を授かった。出て江西を按察し、福建で囚徒を審理し、仁廉の名声があった。
正統八年、吏部尚書王直らが詔に応じ、朝廷の臣で公廉で学行のある者を広く挙げたが、驥もその中にいた。大理右寺丞に遷り、山東を巡撫した。先に、済南に撫民官を設け、専ら流民を撫でていた。後に却って民の擾乱となり、驥は奏上してこれを廃止した。風俗で旱魃に遇うと、新しく葬った墓を伐り、その肢体を傷つけ、旱魃の原因であるとし、「旱骨樁を打つ」と称していたが、驥の言上により禁絶した。朝廷に還り、右少卿に進んだ。後に、済寧から淮・揚の飢民を巡視することを命じられた。驥は法を立てて蝗を捕らえ、不急の務めを停め、滞納を免除し倉庫を開き、民はこれによって救済された。
その秋、景帝が位を嗣ぐと、驥を召還し、道中で卒去した。驥の至るところ、ことごとく建樹があり、山東・両浙の民は久しく彼を思った。鑑胡は京に至り、帝は誅さずに赦した。さらに赦令に遇い、釈放されて留守衛の軍に充てられた。也先が侵入すると、鑑胡は隙に乗じて逃亡したが、捕らえられ、誅殺された。
竺淵は奉化の人。耿定は和州の人。王晟は鄆城の人。鄧顒は楽昌の人。いずれも進士である。鄧顒は兵が潰えて捕らえられ、屈せずに死んだ。詔して葬りを営ませた。竺淵らには官を贈り、一子を取り立てた。
正統年間、御史として浙江を按察した。当時、倭寇に備える海船を修造し、厳州・衢州の諸郡から材木を徴発していた。謹は軍士が勢いに藉りて肆意に伐採することを恐れ、禁制するよう請うたので、許可された。至るところ、貪婪狡猾な者は跡を潜めた。台州・処州・寧波・紹興の四府の飢饉を救済する上疏をした。吏部の験封郎中が長く欠員であったので、帝は推挙して選ぶよう命じた。ちょうど謹の九年の任期が満ち、尚書郭琎が謹の廉直を推薦したので、遂にこれを任用した。十年に推薦されて抜擢され、湖広右布政使となった。
正統末、湖南の叛いた苗が靖州を掠めた。謹に御史侯爵とともに撫諭を命じ、参将張善が兵を率いて続いた。謹らが到着すると、数千人を招いて復業させ、掠めに出た者は撃破した。まもなく張善とともに淇溪の諸寨を破った。景泰初め、再び張善とともに臘婆の諸洞を大破した。後に、参将李震とともに青龍渡・馬楊山の諸賊を撃破し、追撃して鶏心嶺に至り、前後して千四百余りの首級を斬った。軍が還ると、靖州の賊が再び出て掠めたので、その巣窟を衝き、以前のように斬獲した。武岡・城溪の諸賊が広西の蛮と結び、青肺山に拠ったので、再び李震とともにこれを攻め破った。賊の楊光拳ら五百六十人を捕らえ、斬首はその倍であった。扶城の諸寨は、風聞して帰順した。
謹の性質は廉潔で節操があり、楊士奇はかつて「氷霜鉄石」と称した。
程信は、字を彦実といい、その先祖は休寧の人である。洪武年間に河間に戍り、そこで家を定めた。信は正統七年の進士に挙げられ、吏科給事中を授かった。
景帝が即位すると、薛瑄ら三人を推薦して起用した。也先が京師を犯すと、信は軍を督して西城を守り、五事を上言した。都督孫鏜が也先を撃って失利し、城に入ろうとしたが、信は受け入れず、軍を督して城上から箭炮を発してこれを助けた。孫鏜はますます力戦し、也先は遂に退いた。
翌年二月、山東右参政として出向し、遼東の兵糧を監督した。巡撫の寇深が一石以上の兵糧を盗んだ者は死罪とすべきと上奏し、また新たな枡を旧枡より大きくして設置し、程信に検査を命じた。程信は直ちにそれを打ち砕き、「どうして人を死地に陥れようとするのか」と言った。寇深はこれにより程信を快く思わなくなった。まもなく憂慮により去職し、喪が明けると、四川参政に起用された。松潘の兵糧を管理し、侍郎の羅綺とともに黒虎などの寨を破った。
翌年、左僉都御史に改められ、遼東を巡撫した。都指揮の夏霖が勝手に法を犯し、僉事の胡鼎がその四十の罪状を摘発した。程信はこれを上聞し、夏霖を錦衣衛の獄に下した。門達が程信が代わって上奏すべきでないと上言すると、帝は陳状を命じて責めた。当時、寇深がちょうど都察院を掌っており、以前のわだかまりを晴らそうと、程信を弾劾した。詔獄に召し出されて降格され、南京太僕少卿となった。五年に召されて刑部右侍郎となった。母の喪により帰郷した。
六年春に旱魃があり、詔に応じて兵事について改めるべき四事、兵弊について申し立てて処理すべき五事を上言した。大略は言う。延綏、両広は毎年劫掠に遭うので、大臣を選んで総制すべきである。四方の流民が多く荊、襄に集まっているので、早く区画すべきである。京軍の操練に法がなく、功績による昇進と賞賜が適当でない。言葉の多くは白圭を侵害していた。白圭が上奏してこれを止めさせた。南京兵部に改められ、機務に参賛した。翌年致仕し、一年余り後に卒去した。太子少保を追贈され、襄毅と諡された。
程信は才力があり、大義をわきまえていた。南蛮征討の時、便宜を以て事を行うことを許されていた。帰還するまで、一度も勝手に賞を与えたり、人を殺戮したりしなかった。言うには、「刑罰と賞賜は、君主の大権である。やむを得ず人に仮託する。幸いに事が成就したからといって、すぐに専断するのは、人臣のなすべきことではない」。南京において、守備の臣が銭穀や訴訟の事に関与しようとしたが、程信は言った。「守備の重臣は、非常事態に備えるためのものである。このようなことは、役所の職務である」。論者はこれを是とした。子の敏政は『文苑伝』に見える。
白圭は、字を宗玉といい、南宮の人である。正統七年の進士。御史に任じられ、朱勇の軍を監察し、兀良哈を討伐して功績があった。山西を巡按し、疑わしい獄訟百余件を弁明した。車駕に従って北征し、土木に陥った。脱出して帰還すると、景帝は澤州に赴き兵を募るよう命じた。まもなく陝西按察副使に遷り、浙江右布政使に抜擢された。福建の賊鄭懐冒が流賊となって処州を掠奪したので、諸将と協力してこれを平定した。
四年に召されて兵部右侍郎となった。翌年、孛来が莊浪を寇した。白圭は都御史の王竑とともに都督馮宗の軍務に参じ、分兵して辺境を巡視した。白圭は固原州でこれを破った。七年に工部尚書に進んだ。
千斤は、名を通といい、河南西華の人である。県門の石狻猊は千斤の重さがあり、劉通は片手でこれを挙げたため、これをもって号とした。正統年間、流民が荊、襄の間に集まり、劉通はそこに逃げ込んで妖言を流し、ひそかに乱を起こそうと謀った。石龍という者は、石和尚と号し、徒党を集めて掠奪していた。劉通は彼とともに兵を起こし、偽って漢王を称し、元号を徳勝と建て、流民で従う者は四万人に及んだ。白圭らが南漳に至ると、賊は迎え撃ったが敗れ、勝ちに乗じてその本拠地に迫った。劉通は寿陽に奔り、陝西に逃げようと謀った。白圭は兵を遣わしてその道を扼させたので、劉通は退いて大市を守り、苗龍と合流した。官軍はまた雁坪でこれを破り、劉通の子の聡およびその徒党の苗虎らを斬った。賊は後巖山に退いて守り、険阻な地に拠り木石を雨のように落とした。諸軍は四面から攻め、白圭は往来して督戦し、兵士は皆蟻のように付き従って登った。賊は大敗した。劉通およびその配下三千五百余人を捕らえ、賊の子女一万一千余りを獲得し、その家屋を焼き、険阻な地を平らにして帰還した。石龍とその徒党の劉長子らは逃げ去り、転じて四川を掠奪し、続いて巫山、大昌を陥落させた。白圭らは分兵してこれを追い詰め、劉長子が石龍を縛って降伏し、残りの賊寇はすべて平定された。功績を記録し、白圭に太子少保を加え、俸給を一級増やした。父の喪に遭い、葬儀を終えると、職務に就いた。
白圭は性質が簡素で重厚であり、公務を終えるとすぐに閣を閉じて臥し、面会請願はすべて通じなかった。貴州にいた時、宦官の虐待に憤慨してこれを刺そうとした者が誤って白圭の部屋に入った。白圭は衾を抱えてこれを問うと、その者は驚いて言った。「我が公であったのか」。即座に自刎したが、死に至らず、地に倒れた。白圭は燭を呼んで起きて見、良薬を塗ってやり、帰らせた。人はその度量に敬服した。
次子の鉞は、字を秉徳という。進士に及第し、編修に任じられた。累官して太子少保、礼部尚書となった。典故に通じ、詞翰をもって称された。卒去し、太子太保を追贈され、文裕と諡された。
成化の初め、市舶中官の福住が貪欲で恣意に振る舞ったので、瓚はその部下を禁制した。住は朝廷に瓚を誣告し、瓚はすなわち住の罪状を列挙した。住は責められ、その徒党の多くは法に処せられた。大臣が会して推薦し、広東参政に転じ、浙江左布政使となった。
十年の冬、右副都御史として四川巡撫に任ぜられた。播州の致仕宣慰楊輝が言うには、所属の夭壩幹・湾溪などの諸寨および重安長官司が生苗に窃かに占拠されているので、王師の進討を請うた。詔して瓚に侵地を返還させるよう諭させ、服従しなければ征伐せよと命じた。瓚は兵を率いて討伐平定し、安寧宣撫司を設置するよう請い、すなわち輝の子の友を宣撫に任じて鎮守させた。詔してこれを認め、勅を賜って労をねぎらった。母が老齢のため帰郷を乞うたが、母はすでに死去していた。
十五年、左副都御史に起用され、漕運総督を務め、江北諸府の巡撫を兼ねた。十八年、大凶作となり、上疏して救済を請うた。銀五万両を発し、さらに勅して瓚に淮安倉の糧食を移して分配救済させたが、瓚はすでに死去していた。
瓚の功績名声は西蜀に著しかった。その後四川を巡撫した者、謝士元のごときは、名声はあっても瓚には及ばなかった。ただ夭壩幹の役については、あるいは楊輝が庶長子の友を溺愛し、官職を与えようとして、生苗が乱を起こしたと詐称し、瓚が信じて軍を起こしたのであり、その功績には偽り飾りがないとは言えないという。
謝士元、字は仲仁、長楽の人。景泰五年の進士。戸部主事に任ぜられた。通州倉を督し、四つの弊害を陳述し、しばしば監倉宦官と対立した。天順七年、建昌知府に抜擢された。当地には盗賊が多く、軍将に庇護されていた。士元は別の事柄で軍将を抑え、悪事が発覚するやただちに捕らえた。民が証文を持って田宅の訴訟を起こすと、士元は叱って言った、「偽りである。証文は今の様式なのに、訴えているのは二十年前の事である。」民は驚いて服し、訴訟は衰え止んだ。考課が満了し、従三品の俸禄を進められ、知府の職務を以前の通り務めたが、喪に服して去った。
喪が明け、広信知府に起用された。永豊に銀鉱があり、処州の民が盗掘し、数千人が集まった。将士はその勇猛で広範なのを恐れ、討伐しようとしなかった。士元は兵を率いて急行し、賊は士元を遮って刺し、左腿を傷つけた。傷を包んで力戦し、その首魁を捕らえ、鉱穴を塞いで帰還した。入朝して拝謁し、永平知府に改められたが、喪に遭い赴任しなかった。
孔鏞、字は韶文、長洲の人。景泰五年の進士。都昌県知事となり、戸を九等に分けて賦役を定め、水辺に倉庫を設けて収納に便とし、民は大いに頼りとした。弟の銘が寧府の郡主を娶ったため、連山知県に改められた。瑤・僮が隣境に出没し、県民は悉く逃散した。鏞が招撫に出向くと、民は驚いて逃げた。鏞は民家で炊飯し、代金を置いて去った。民は次第に鏞に親しみを知り、相率いて帰還した。鏞は慰労し救済し、旧業に復させ、戦いと守備を教えた。道路は次第に開通し、県の治めは遂に回復した。都御史の葉盛が広西を征伐する際、鏞を従軍させた。諸将が妄りに殺害しようとする者があれば、鏞は常に力強く争い、全うして生かした者は甚だ多かった。
当時、境内に屯する賊は凡そ十余部あり、その首魁の馮曉は化州に屯し、鄧公長は茅峒に屯し、たびたび招撫に応じなかった。鏞はある日、単騎で二人を従え、ただちに茅峒に到った。峒は城から十里ほどで、道中で賊の徒党に会い、帰って告げさせて言った、「我は新太守である。」公長は突然新太守が来たと聞き、急いでその徒党に甲冑を着させて迎えさせた。鏞が平易で護衛も従えていないのを見て、気勢は大いに挫けた。鏞はゆるやかに下馬し、庭中に入って座ると、公長はその徒党を率いて甲冑を脱ぎ並んで拝礼した。鏞は諭して言った、「汝らはもと良民であり、飢え凍えるに迫られただけである。前任の太守は汝らを兵で討とうとしたが、我は今命を受けて汝らの父母となった。汝らは我が子である。我を信じるなら、我を送り返せ、汝らに粟帛を与えよう。信じないなら、我を殺せ、すぐに大軍が来て、種を残すことはないだろう。」公長は躊躇したが、その徒党は皆感奮して涙を流した。鏞は言った、「空腹である、食事をさせよ。」公長は跪いて酒食を進めた。食事を終えると、言った、「日も暮れようとしている、宿泊しよう。」夜には衣を解いて熟睡した。賊は互いに見合わせ驚嘆して服した。二晩宿泊して帰った。道傍に裸で樹上に懸けられている者が累累としているのを見て、尋ねると、皆諸生であったので、ことごとく解放するよう命じた。公長は数十騎を遣わし護衛して帰らせた。城中の人が見て、皆大いに驚き、知府が捕らえられ、降伏を欺くために来たのだと言い、悉く城壁に登った。鏞は騎兵を城外に止め、ただ疲れた兵卒と共に入城し、穀物と布帛を取らせ、載せて帰らせた。公長はますます感激し、遂にその巣窟を焼き、徒党数千人を率いて来降した。
公長が降伏した後、諸賊は次々に帰順したが、ただ馮曉だけが険阻を恃んで服従しなかった。鏞は壮士二百人を選び、夜に乗じて化州に到った。曉は慌てふためいて逃げ隠れし、その妻子を捕らえて帰還し、手厚く撫恤したので、曉も五百人を率いて降伏した。その後、僉事の陶魯と共に賊の廖婆保を破った。他の賊が先後に来寇したが、多くは敗れて去った。境内は大いに平定された。上官が相次いで推薦し、按察副使に抜擢され、高州・雷州二府を分巡した。さらに手ごわい賊の染定・侯大六・鄧辛酉らを招撫し、田産を与え、内陸に分けて居住させて官とし、他の盗賊に備えさせた。広西の賊が信宜・岑溪を犯すと、皆これを撃破した。治績が聞こえ、誥命を賜って特に表彰された。喪に遭い、喪が明けると、広西に改められた。瑤・僮は鏞が来ると聞き、悉く遠く逃げた。
十四年、兵部がその功績を上奏し、銀幣を賜り、まもなく按察使に進んだ。荔浦の賊が来寇すると、総督の朱英が兵を鏞に委ね、これを撃ち平定し、二品の俸禄を賜るよう進めた。
已にして、左布政使に遷る。やがて右副都御史として貴州を巡撫す。清平部の苗阿溪は、桀驁にして智謀多し。その養子阿頼は特に力強く、諸部中に横行し、守臣は皆阿溪の賄賂を受け、驕って制し難し。鏞が行部して清平に至り、阿溪が昵近くする者二人を得て問う。遂に計略をもって阿溪を擒え、磔にし、併せて雞背苗を討平す。郡の蛮は震慴す。
平楽の李時敏は、信宜知県と為る。嘗て鏞と共に瑤乱を平らげ、功有り、化州知州に遷る。粤人は孔鏞と李時敏を並び称す。
鄧廷瓚、字は宗器、巴陵の人。景泰五年の進士。淳安県知事と為り、恵政有り。母憂に遭い、服除け、太僕寺丞に遷る。貴州に新たに程番府を設く。地は万山中に在り、蛮僚雑居す。吏部はその人を得難く、特に廷瓚を擢て知府と為す。至れば則ち悉心に規画し、城郭・衢巷・学校・壇廟・廨舎を、次第に興建す。榜を掲げて諸僚に諭し、約束を受けしむ。政平らかに令和す。巡撫陳儼その治行を上奏す。帝は久任を命ず。九載秩満し、始めて山東左参政に遷り、尋いで右布政使に進む。
廷瓚は雅量有り、人を疑わず、時に多くその長者を称す。至る所の施設は、動いて機宜に中る。その貴州に在りて苗を平らげたる功は特に偉大なりと云う。
王軾、字は用敬、公安の人。天順八年の進士。大理右評事を授かり、右寺正に遷る。四川に囚を録し、百余り人を平反し、四川副使に擢でらる。凶歳に、官銀十万両を請うて糴費と為す。嘉定同知盛崇仁の贓罪を按ずるを以て、訐られて吏に下る。事白み、職に還り、陜西に改む。
軾至り、便宜を以て広西・湖広・雲南・四川の官軍・土兵八万人を調え、貴州兵と合し、八道に分かれて進み、致仕都督王通に一軍を将わしむ。十五年正月、参将趙晟六墜寨を破る。賊遁走し、盤江を過ぐ。都指揮張泰等江を渡り追撃し、指揮劉懷等遂に進み安南衛の囲みを解く。而して曹愷・王通及び都指揮李政も亦各賊寨を破る。賊還りて平夷衛及び大河・扼勒諸堡を攻め、都御史陳金雲南兵を以てこれを禦ぐ。賊遁れて馬尾籠寨に帰る。官軍聚り攻むること益々急なり。土官鳳英等米魯を格殺し、余党遂に平らぐ。用兵凡そ五月、賊寨千余を破り、斬首四千八百余、俘獲一千二百。捷報聞こえ、帝大いに喜び、嘉労す。召し還して京に至らしめ、賜賚加わり、功を録し、太子少保を加う。已にして、南京兵部に改め、機務に参賛す。連ねて致仕を乞うも、允されず。武宗立ち、疾に遇い復た請う。詔して太子太保を加え、勅を賜い伝車に乗じて帰らしむ。卒す。太保を贈られ、諡して襄簡と曰う。
劉丙、字は文煥、南雄知府劉実の孫なり。成化末、進士に登る。庶吉士に選ばれ、御史に改め、雲南を巡按す。雲南諸司の吏は、旧く給由を得ず、父満ちて子代わる。丙は例の如く考査して官に就かしむることを請う。流戍の僉発は、必ず兵部を経るも、多く淹延して死に至る。丙はこれを撫・按に属することを請う。土官に後嗣無き者は、その弟・姪を録用し、妻妾に冠服を冒さしめざることを請う。俱に例と為す。後に両淮塩課を督め、中官が引二万を請うて織造費と為さんとす。部議これを許すも、丙執りて不可とし、四分之三に減ずるを得たり。歴て福建・四川副使と為り、俱に学校を督め、三遷して四川左布政使と為る。
正徳六年、右副都御史として湖広を巡撫す。所部の鎮溪千戸所・筸子坪長官司は、貴州銅仁、四川酉陽・梅桐諸土司と犬牙相錯す。弘治中、錯溪の苗龍麻陽と銅仁の苗龍童保、衆を聚めて攻剽し、土官李樁等実にこれを縱す。而して筸子の百夫長龍真これと通謀す。後遂に四出して劫掠し、遠近騒然たり。先後の守臣これを制すること能わず。丙将にこれを討たんとす。賊は連山の深箐に入り、拒守の計を為す。丙師を率いてその数寨を破る。賊走りて天生崖及び六龍山に拠る。貴州巡撫沈林の兵継いで至り、連ねて攻めこれを破る。前後童保等二百人を擒え、斬首八百九十余級。都指揮潘勛又鎮・筸諸寨を破り、麻陽等百六十人を擒え、斬首級前の如し。余賊遠く遁る。璽書を以て獎励す。
賛に曰く、英宗・景帝の間、瓦剌は西陲を逼り、辺境は甚だ急迫せり。而して黄蕭養・葉宗留の徒は嶺南・浙江・福建の境上を劫掠す。その後、荊州・襄陽の流民は嘯聚し、則ち劉通・石龍を以てその魁と為す。他の若し都勻・松潘・茂州・貴州・湖広の諸苗・瑤の叛く者数起す。羅亨信・侯琎諸人は、封圻を保固し、虓を誅し乱を禁じ、討すれば則ち功有り、撫すれば則ち信著しく、封疆に力を宣べ、厥の任に忝なき者なり。孔鏞は知府を以て叛瑤を服せしむ、その才力は人に過ぐる者有り。韓愈が柳中丞の行事は機宜に適い、風采は畏愛す可きと言う。是に如かざれば、悪くんぞ能く有為を以てせんや。