明史

列傳第六十 羅亨信 侯璡 楊寧 王來 孫原貞 朱鑑 楊信民 張驥 馬謹 程信 白圭 張瓚 孔鏞 鄧廷瓚 王軾 劉丙

○羅亨信、侯琎、楊寧、王來、孫原貞(孫需、張憲)、朱鑒、楊信民、張驥(竺淵、耿定、王晟、鄧颙)、馬謹、程信、白圭(子鉞)、張瓚(謝士元)、孔鏞(李時敏)、鄧廷瓚、王軾、劉丙

羅亨信、字は用實、東莞の人。永楽二年の進士。庶吉士に改められ、工科給事中を授かる。出向して浙江の水害を視察し、三県の租税免除を上奏。吏科右給事中に進み、連座して交阯に左遷され吏となる。九年滞在し、仁宗が即位すると、初めて召されて御史となる。通州の倉庫を査察し、畿内を巡按し、山西で軍籍を整理し、いずれも名声あり。宣徳年間、方面の任に堪える者として推薦される。命により按察僉事の俸禄を受け、昇進を待つ。

英宗即位の三月、右僉都御史に抜擢され、平涼・西寧で練兵。正統二年、蔣貴が阿臺・朵兒只伯を討つに当たり、亨信はその軍務に参画。魚児海に至り、蔣貴らは糧秣が続かないとして、十日留まって引き返す。亨信はこれを責めて言う、「公らは国の厚恩を受けながら、敢えて敵に臨んで退縮するのか。法によって死ぬことと敵によって死ぬことと、どちらがよいか」。蔣貴は従わず。亨信は上疏して蔣貴の逗留の様子を言上。帝はその上疏を監督尚書の王驥らに見せる。翌年進軍し、大いにこれを破る。亨信は参賛の功により、官位一等を進む。

父の喪で帰郷し葬る。朝廷に戻り、命を改めて宣府・大同を巡撫。参将の石亨が大同の民の三分の一を選んで兵士とすることを請うが、亨信は上奏してこれを止めさせる。十年、右副都御史に進み、巡撫はもと通り。時に官を遣わして二鎮の軍田を測量し、一兵士につき八十畝を除き、全て五升の税を徴収せんとする。亨信は言う、「文皇帝の時、辺境の軍は力を尽くして田を開墾し、税を徴収しないとの詔があり、陛下もまたこの命を重ねておられる。今どうして突然このような挙に出るのか。塞上の諸軍は、辺境を防衛して労苦し、他に生業なく、ただ農耕に従事するのみ。毎年冬から春にかけて、瓦剌の使臣を迎え送り、三月になってようやく田に出られ、七月にはまた草を刈り、八月以後は関塞を修築する。一年のうちに休む暇などない。況んや辺境の地は瘠せており、霜が早く収穫は少ない。もしさらに税を徴収すれば、民はもはや定住せず、必ず逃亡するだろう。財政担当の臣はただ穀物の蓄積に務めるが、人心が固まらなければ、たとえ穀物があっても誰と共に守るというのか」。帝はその言を容れて取りやめる。

初め、亨信は上奏して言ったことがある、「也先は専ら隙をうかがい、侵入を図っている。あらかじめ真北の要害に、城衛を増設して備えるべきである。そうしなければ、おそらく大患を残すだろう」。兵部が議し、取り上げられず。土木の変に至り、人々の心は動揺し恐れる。宣府城を放棄しようとする議論があり、官吏軍民が紛然として争って城外に出ようとする。亨信は剣を杖にして城門の下に座り、令して曰く、「城を出る者は斬る」。また諸将に朝廷のために死守することを誓わせ、人心ようやく定まる。也先が上皇を擁して城南に至り、門を開けよと命を伝える。亨信は城上に登って告げて曰く、「命を受けて城を守り、勝手に開けることはできない」。也先は躊躇して引き去る。赤城・雕鶚・懷来・永寧・保安の諸守将が城を棄てて逃げるが、皆その罪を問う。

この時、皇帝の車駕はすでに北にあり、敵騎は日に日に城下に迫り、関門の左右はみな戦場である。亨信は総兵の楊洪と共に孤城でその要衝に当たり、外には強寇を防ぎ、内には京師を守る。楊洪が入衛した後は、また朱謙と共に守り、労績甚だ著しい。兜鍪を着けたところの頭髪はすっかり禿げた。景帝が即位し、左副都御史に進む。翌年、齢七十四歳となり、致仕を請う。許される。帰郷して八年、家で卒す。

侯琎。字は廷玉。澤州の人。若い頃から慷慨として志節あり。宣徳二年の進士に及第し、行人を授かる。

烏撒・烏蒙の土官が土地を争って仇殺し合う。詔により侯琎と同官の章聰を遣わして諭し和解させ、その境界を正して戻る。侍郎の章敞に副使として交阯に使いし、関門が低く、先導が屈んで入ろうとする。侯琎は叱って曰く、「これは狗竇(犬の穴)である。どうして天子の使節を辱しめようとするのか」。交阯人が関門を壊して、ようやく入る。帰る際、贈り物は一切受け取らず。兵部主事に遷る。

正統初め、尚書の柴車らに従い鉄門関に出て阿臺を防ぎ功あり、郎中に進む。王驥に従い麓川を征し、金歯に至る。王驥は自ら大軍を統率して思任発を撃ち、侯琎を遣わして大侯州を救援させる。賊衆三万が到るも、都指揮の馬譲・盧鉞を督してこれを撃退。かくて高黎貢山より昼夜兼行で急ぎ、大軍と合流し、その巣窟に迫る。麓川平定後、礼部右侍郎に任じられ、雲南軍務を参賛、詔により楊寧と二年ごとに交代。王驥が再び麓川を征する。侯琎は功により左侍郎に遷る。九年に交代して召還。母の喪に服すが、喪中に復職させられ、まもなく兵部に転じる。十一年、再び楊寧に代わって雲南を鎮守。思機発が孟養に逃げ込むと、王驥が再び南征。侯琎は都督ととくの張軏と兵を分けて進み金沙江に抵り、鬼哭山でこれを破る。璽書をもって褒賞を与えられる。

景泰初め、貴州の苗韋同烈が叛き、新添・平越・清平・興隆の諸衛を包囲。侯琎に命じて貴州軍務を総督させ討伐させる。時に副総兵の田禮がすでに新添・平越の包囲を解いており、侯琎は兵を遣わして都盧・水西の諸賊を攻め破り、貴州への道が初めて通じる。また雲南兵を調発し、烏撒より会師し、畢節の諸路を開き、普安の土兵に檄を飛ばして安南衛を救援させ、自らは軍を率いて紫塘・弥勒等十余りの寨を攻める。賊が再び平越を包囲したため、軍を返してこれを撃退。かくて七盤坡・羊腸河・楊老堡に哨所を分置し、清平の包囲を解き、東は重安江に至り、王驥の軍と合流。興隆から鎮遠に至る道が全て通じる。勝利の報が聞こえ、兵部尚書に進む。さらに賞改苗を攻め落とし、その首領の王阿同等三十四人を生け捕る。別賊の阿趙が偽って趙王を称し、衆を率いて清平を掠めるが、侯琎は再び討伐してこれを生け捕る。水西の苗阿忽等六族は皆自ら帰順を請う。詔により侯琎に適宜処置させる。

景泰元年八月、労瘁のため普定にて卒す。年五十三。祭葬を賜り、その子に錦衣衛世襲千戸の蔭官を授かる。

楊寧、字は彦謐、歙県の人。宣徳五年の進士。刑部主事を授かる。機警で才能多く、当時の名声を負う。

正統初め、尚書の魏源に従い宣府・大同を巡視。四年、都督の呉亮に従い麓川を征す。賊が軍門に来て降伏を約す。楊寧は曰く、「兵を加えずして先に降るのは、我々を誘おうとするのだ。厳兵して待つべきである」。聞き入れられず、楊寧に命じて金歯への輸送を監督させる。やがて賊が果たして大挙して至り、官兵は大敗。諸将は罪を得るが、楊寧は郎中に抜擢される。再び王驥に従い騰沖に至り賊を破る。楊寧は太僕少卿の李蕡と共に督戦し、ともに功あり。師が還ると、楊寧は越級して刑部右侍郎に任じられる。母の喪に遭うが、喪中に復職させられる。

九年、侯琎に代わって雲南軍務を参賛す。時に麓川は平らぎたるばかり、寧は騰沖の地が要害なるを以て、都督沐昂と共に城を築き衛を置き、戍兵を設けて諸蛮を制す。辺境遂に定まる。二年居りて召還さる。

閩・浙に盗賊起こり、寧を命じて江西を鎮守せしむ。賊至れば、即ち撃ちてこれを破る。暇あれば則ち民の疾苦を詢ね、境内服従す。

景泰初め、召されて礼部尚書に拝し、胡濙と共に部事を理む。迤北の可汗使いを遣わして入貢す。寧言う、「宜しく使いを数日留め、宴労賜予を、也先の使いより倍厚くすべし。彼の性多く猜疑、二人必ず内に構え、辺患緩むべし」と。帝は誠信を務め、許さず。その冬、足疾を以て南刑部に調ず。七年、御史荘升の弾劾を受け、遣わして核せしむも未だ報ぜず。寧は力めて言官を詆毀し、都察院再び寧が言路を脅制するを劾す。詔してその罪を免じ、状を録してこれを示す。英宗復辟し、致仕を命ず。逾年して卒す。

寧は才ありて善く権貴と交わる。嘗て前後の戦功を自ら叙し、世蔭を乞う。子堣方に一歳、遂に新安衛副千戸を得る。

王来、字は原之、慈渓の人。宣徳二年、会試乙榜を以て新建教諭に授かる。寧王府、諸生を以て楽舞に充てんとす。来、道士に易うるを請う。諸王府の楽舞生を設くるはこれより始まる。

六年、推薦により擢て御史と為り、出でて蘇・松・常・鎮の四府を按ず。命じて巡撫周忱と共に属吏を考察せしむ。勅に「上裁を請う」の語あり。来言う、「民を賊する吏は、これを去るに惟だ速からんことを恐る。必ず請いて後に行わば、民の困窮多し」と。帝の為に勅を改めてこれを賜う。中官陳武、太后の命を以て江南に使いし、横暴甚だし。来、数えてこれを抑う。武還り、帝に訴う。帝、都御史顧佐に問う、「巡按は誰ぞ」と。佐、来を以て対う。帝嘆息してその賢を称し、「これを識れ」と曰う。報命に及び、奨諭極めて甚だし。

英宗即位し、楊士奇の推薦により、山西左参政に擢でる。言う、「流民所在に家を成す。及び故土に招還するも、毎に産を失いて復た逃げ去る。随いて附籍するを便とすべく乞い請う」と。又言う、「郡県官農業を以て務とせず、民多く遊惰に致し、催征は即ち已命に致す。朝廷その失業を憫み、詔を下して蠲除す。而して田日々に荒閑し、租税出ずる無く、良民に累及す。宜しく守長の賢者を択び、農を課するを職とすべし。その荒田は、附近の家に通力合作せしめ、租を供するの外、その均分するを聴し、原主復業すれば則ちこれを還すべし。蚕桑本業に裨する可き者は、その規画するを聴す。仍って提学風憲官をしてこれを督めしめ、庶幾くは人本を務むるを知らん」と。これに従う。

来は官に居りて廉潔、政事に練達す。侍郎于謙、山西を撫で、亟にその才を称し、近侍に置く可しとす。而して来は執法厳しく、悪を疾むこと尤も甚だしく、公事を以て職を尽さざる県令十人を杖死せしむ。逮われて獄に下り、徒に当たる。赦に遇い、原官を以て広東に調補せらる。来はここより始めて節を折りて和平と為り、而して政も亦た修挙す。正統十三年、河南左布政使に遷る。明年、左副都御史に改め、河南及び湖広襄陽諸府を巡撫す。也先京師に逼る。来は兵を督して王に勤む。河を渡り、寇退くを聞き、乃ち引き還る。

景泰元年、貴州苗叛く。湖広・貴州軍務を総督する侯琎軍中に卒す。来を進めて右都御史と為し、これに代わらしむ。保定伯梁缶、都督毛勝・方瑛と兵を会して進討す。靖州に至る。賊長沙・宝慶・武岡を掠む。来等分道して邀撃し、俘斬三千余人、賊遁げ去る。已にして、復た出でて掠む。官軍連戦皆捷す。賊魁韋同烈、興隆に拠り、平越・清平諸衛を劫す。来と方瑛これを撃破す。賊退きて香炉山を保つ。山は陡絶す。勝・瑛と都督陳友、三道より進み、来と缶は大軍を以てこれに継ぐ。先後三百余寨を破り、香炉山下に会師す。砲を発して崖石を轟かす。声地を動かす。賊懼れ、同烈並びに賊将五十八人を縛して降る。余は悉く解散す。遂に軍を清平に移し、且つ四川の兵に檄して共に都勻・草塘諸賊を剿せしむ。賊風望みて牛酒を具え迎えて降る。

賊平ぎ、班師す。詔して来・缶を留めて鎮撫せしむ。尋いで来を命じて兼ねて貴州を巡撫せしむ。奏して言う、「近く黔・楚の兵を用うるに因り、暫く鬻爵の例を行えり。今寇賊稍々寧らぎ、惟だ平越・都勻等の四衛は餉乏し。宜しく商を召して塩を中せしめ、納米の例を罷むべし」と。これに従う。

三年十月召還さる。兼ねて大理寺卿を加う。缶、来の功大なるを以て、加えて旌異を加うるを乞う。都給事中蘇霖これに駁し、乃ち止む。来還る途上に在りて、貴州苗の復た反するを以て、勅して師を回して進討せしむ。明年、事平ぐ。召されて南京工部尚書と為る。英宗復辟し、六尚書悉く罷む。来帰る。成化六年、家に卒す。

孫原貞、名は瑀、字を以て行わる。徳興の人。永楽十三年進士。礼部主事に授かり、郎中を歴任す。英宗初め、推薦により擢て河南右参政と為る。官に居りて清慎、吏才あり。

正統八年、大臣会薦し、浙江左布政使に遷る。久しくして、盗賊大いに閩・浙の間に起こり、赦して再び叛く。景帝即位し、兵を発してこれを討つ。原貞嘗て賊必ず叛くを策し、方略を上り、備えを為さんことを請う。ここに至りて即ち原貞を命じて軍事を参議せしめ、深く入りてその魁を擒う。而して温州の余賊未だ滅びず。都指揮李信を都督僉事と為し、軍を調えてこれを討たしむ。遂に原貞を拝して兵部左侍郎と為し、信の軍務を参じ、浙江を鎮守せしむ。母憂に丁し、当に去るべし。副都御史軒輗これを留むるを請う。報じて可とす。

景泰元年、原貞兵を進めて賊の巣を搗つ。賊首陶得二等を俘斬し、三千六百余人を招撫し、掠められたる男女を追還す。捷聞こゆ。璽書を以て奨励す。喪に奔ることを請う。一月逾ぎて、還りて鎮す。復た兵を分けて余寇を剿平す。瑞安の地を析きて泰順を増置し、麗水・青田二県の地を析きて雲和・宣平・景寧の四邑を置き、官を建て戍を置くことを奏す。盗患遂に息む。功を論じ、秩一等を進む。浙江の官田賦重し。右布政使楊瓚、民田の軽額なるに均うるを請う。詔して原貞これを督せしむ。田賦以て平らぐ。三年、賊に禦ぎて死事する武臣の褒贈を請う。指揮同知脱綱・王瑛、都指揮僉事沈轔・崔源、皆贈恤を得る。六月、兵部尚書に進み、鎮守は故の如し。未だ幾ばくもせず、福建の庶官を考察せしむを命じ、因りて留まって鎮す。福州・建寧の二府、旧に銀冶あり。寇乱に因りて罷む。朝議復た開かんとす。原貞執いて不可とし、乃ち寢す。

五年冬、疏を上りて言う。

四方の屯田軍は、概ね営繕や転輸などの諸役に耕作を妨げられている。精鋭を選抜して実戦部隊とし、残りは悉く農に帰すべきである。もし屯田兵を一万人増やせば、即ち歳ごとに支給する倉糧十二万石を節約でき、かつ余糧六万石を蓄積でき、兵糧がどうして不足することがあろうか。

今年の漕運は数百万石に上り、道路の費用は計り知れない。例えば浙江の糧軍が兌運米を運ぶ場合、一石につき耗米七斗を加える。民が自ら米を運ぶ場合は、一石につき八斗を加える。その他は水程の遠近に応じて耗米を加算する。これは田が増えるわけでもないのに、賦斂が実に倍加しており、民が困窮しないようにするのは不可能である。況んや今、太倉には十数年分の蓄積もなく、もし水害や旱魃に遭えば、どうして救済できようか。量入為出を旨とし、冗食や浮費を淘汰すべきである。倉儲が豊かになってから、徐々に歳漕の数を減らせば、民の困窮は救われるであろう。

臣がかつて河南に官した時、逃散した民の籍を調べると凡そ二十余万戸に上り、悉く南陽・唐・鄧・襄・樊の間に転徙していた。群れをなして生計を謀っている以上、彼らが盗賊とならないとどうして保証できようか。今年の豊作に乗じて、近臣を派遣して巡行させ、有司に督せしめて編戸に籍立てさせ、田業を与え、農桑を課し、社学・郷約・義倉を立て、本務に励み生業に専念させるべきである。生計が定まってから、徐々に賦役を議すれば、おそらく将来の禍患はないであろう。当時はこれを悉く用いることができなかった。後に劉千斤の乱が起こり、果たして原貞の予想した通りとなった。

その後、再び浙江を鎮守した。英宗が復位すると、罷免されて帰郷した。成化十年に卒去、享年八十七。原貞の赴任した地にはいずれも労績があり、浙江においては特に著名であった。

孫需は、字を孚吉といい、成化八年の進士である。常州府推官となり、疑わしい獄事を即座に裁断し、南京御史に抜擢された。僧侶の継曉を弾劾して旨に逆らい、杖刑を受け、四川副使として出された。弘治年間に累進して右副都御史となり、河南を巡撫した。凶年に当たり、民を募って汴河の堤防を築かせ、堤防が完成すると飢えた者も救済された。鎮守中官の劉郎は貪欲で横暴であった。悪質な民が劉郎に訴え出たが、孫需は法に照らしてこれを論じ、辺境戍守に送った。劉郎が跪いて請うたが、孫需は固執して聞き入れず、劉郎は骨髄に恨みを刻んだ。大臣の子が郷里で横暴に振る舞ったので、孫需はこれを抑えた。劉郎が謀り、孫需を陝西巡撫に改任させた。まもなく鄖陽巡撫に改め、流民を安輯し、戸籍に登録させた者は九万余戸に上った。正徳元年に召されて南京兵部右侍郎となった。四年にそのまま礼部尚書に任じられた。二ヶ月も経たぬうちに、劉瑾がこれを憎み、河南巡撫時代の事を追及して、罰として米を辺境に輸送させた。廷推で孫需を刑部尚書に推挙したが、中旨により致仕を命じられた。劉瑾が誅殺されると、南京工部尚書に起用され、そのまま刑部尚書に改め、さらに吏部尚書に改まった。十三年に致仕を乞うて去った。嘉靖初年に卒去、諡は清簡。

張憲は、字を廷式といい、孫需と同郷で、同年の進士であり、互いに尚書を代わった。かつて浙江右布政使となり、後に工部右侍郎として易州山廠を督し、公の財には毫髪たりとも私していない。南京礼部尚書を歴任した。劉瑾に迫られて致仕した。劉瑾が誅殺されると、工部尚書に起用された。卒去。

朱鑒は、字を用明といい、晋江の人である。幼少時に股を切って父の病を治した。郷試に合格し、蒲圻教諭に任じられた。

宣徳二年、廬陵知県の孔文英ら四十三人と共に顧佐の推薦により召され、各道で政務を見学すること三月、遂に御史に抜擢された。湖広を巡按し、梅花峒の賊蕭啓寧らを説き降ろした。旧制を復活させ、副使・僉事と共に管轄区域を巡行し、民の疾苦を問うことを請うた。湖湘の風俗では、男女の婚嫁が多く三十歳を過ぎていた。朱鑒が礼制を申し明らかにすると、その風俗は改まった。三年で交代して帰朝した。

正統五年に再び広東を巡按した。欽州に守備都指揮を設置することを上奏した。詔を奉じて囚人を審録し、多く冤罪を晴らし、逃亡・反逆した者を多く招撫した。還朝し、天下の按察司に僉事一人を増員し、屯田を専管させることを請い、遂に定制となった。

七年、推薦により山西左参政に抜擢された。平陽で辺境に供給する薪を採る夫役を減らすことを上奏した。景帝が国事を監理すると、布政使に進んだ。まもなく右副都御史に抜擢され、その地を巡撫した。上言して言う、「也先は奸詭百端で、殺掠やむことがない。さらに和親を仮託し、使者を遣わして覗わせている。上皇を送還することを名目に、関門を開いて迎え入れることを得ようと企んでいる。少しでも抵抗を示せば、彼らはすぐに口実を得るであろう。その謀り事は既に深く、我が方の考慮は遠大であるべきである。中貴による監軍の制度を暫く廃止し、総兵に生殺の権限を与え、その志が阻害されず、計略を施せるようにすべきである。散兵を整え、勇士を募り、賞格を重く掲げる。義勇の軍を鼓舞し、王事に勤める兵を徴発し、数道並行して進軍し、力を合わせて復讐すべきである。そうすればおそらく上皇は還御でき、敵兵は自ら退くであろう。かつて江南で賊が起こった時、皆、王振を誅することを名目とした。事柄が朝廷に帰すれば治まり、宦官に帰すれば乱れる。昔、高皇帝が群臣と議事する時は必ず左右を退け、事機が漏れることを恐れた。権幸の門を杜絶し、凡そ軍国の重事は大臣に委任すれば、必ずや成功するであろう。」景帝はこれを嘉納した。

当時、瓦剌が塞下を窺っており、朱鑒は日夜守禦の計を練った。景泰元年、敵数万騎が雁門を攻撃したが、都指揮の李端が撃退した。まもなく河曲及び義井堡を侵犯し、指揮二人を殺害し、忻州・代州などの諸州を包囲し、石亨らは防禦できなかった。長駆して太原城北に到達し、山西は大いに震駭した。朱鑒を命じて雁門に移鎮させ、別に都督僉事の王良を派遣して太原を鎮守させた。援兵が次第に集結し、敵も飽きて、遂に引き揚げた。当時、山西は依然として兵乱と凶作に見舞われており、朱鑒は外には軍備を整え、内には災民を撫恤し、労苦憔悴の限りを尽くした。

二年十月、山西鎮守都御史の羅通が召還された。朱鑒に命じて兼ねてその職務を統轄させた。翌年、詔して大臣を天下に派遣し、有司を黜陟させた。礼部侍郎の鄒幹が山西に至り、多くを論劾した。朱鑒は鄒幹を召還することを請うたが、鄒幹はかえって朱鑒がかばい庇っていることを極論し、帝は鄒幹の言を是とした。その年の十月、朱鑒を召して都察院の職務を輔佐させた。京に至り、致仕して去った。

初め、景帝が皇太子を交替させた時、朱鑒は大学士の陳循に書を送り、不可であると述べた。かつ言う、「陛下は上皇に対して、位を避けて大義を全うすべきである。」陳循は大いに驚いた。英宗が復位すると、朱鑒は宮門に赴いて表を奉じて賀した。帝は言った、「朱鑒は老病であるのに、どうして妄りに来たのか。速やかに還らせよ。」家に居ること二十余年で卒去した。

楊信民は、名を誠といい、字をもって行われた。浙江新昌の人である。郷挙で国学に入った。宣徳年間に工科給事中に任じられた。母の喪に服して帰郷した。葬儀の土石を必ず自ら数百歩も担ぎ、言う、「我が母を葬るのに専ら他人を使役するのは、我が心が安らかでない。」服喪が終わり、刑科給事中に改まった。

正統年間、江西で軍籍の整理を行い、還朝して民の苦しみ五事を奏上し、多くが議決されて施行された。まもなく王直の推薦により、広東左参議に抜擢された。清廉な操守は俗を絶し、かつて田野を行き、利弊を訪れてこれを改置した。性剛直で気概に富み、按察使の郭智が不法であったので、信民はこれを弾劾して獄に下した。黄翰が郭智の後任となったが、信民は再びその奸悪を暴いた。その後、また僉事の韋広を弾劾したので、韋広はかえって信民を告発し、これにより黄翰と共に逮捕された。軍民は嘩然として、宮門に赴いて信民の留任を乞うた。詔して信民の官職を復し、一方で黄翰と韋広は審理の結果実罪が明らかとなり、除名された。

景帝が監国となると、于謙が彼を推薦し、白羊口の守備を命じた。ちょうど広東の賊黄蕭養が広州を急迫して包囲したため、嶺南の人々が信民を乞うたので、右僉都御史としてその地を巡撫することとなった。士民はこれを聞いて互いに慶賀して言うには、「楊公が来られた」と。当時広州は長く包囲され、将兵は戦えば必ず敗れ、民の出入りを禁じ、薪採りも絶えていた。そして賊を避けて来た郷民を拒んで受け入れず、多くは賊に害され、民はますます愁苦して賊に帰した。信民が到着すると、城門を開き、倉庫を開いて、木札を刻んで民に与え、出入りを許した。賊は木札を見て言うには、「これは楊公が与えられたものだ」と、敢えて傷つけなかった。賊を避ける者をことごとく収容保護したので、民はまるで更生したかのようであった。信民はますます甲兵を整え、多方面から招撫し、降る者は日に日に至った。そこで使者を持たせて檄文を賊の陣営に持ち込ませ、恩信をもって諭した。蕭養は言うには、「楊公の一言を得れば、死んでも恨みはない」と。期日を定めて面会を請うた。信民は単車でそこに赴き、堀を隔てて語った。賊の仲間が遠くに見て、歓声を上げて言うには、「果たして楊公だ!」と、争って羅列して拝し、涙を流す者もいた。賊は大きな魚を献上し、信民は疑わずに受け取った。

蕭養がまさに降ろうとしたところに、都督の董興が大軍を率いて到着した。賊は突然に態度を変えた。夜に大きな星が城外に墜ち、七日目に信民は急病で卒去した。時は景泰元年三月乙卯のことであった。軍民は集まって泣き、城中はみな喪服を着た。賊はこれを聞いても泣いて言うには、「楊公が死なれた、我々は帰る道がなくなった」と。間もなく、董興が賊を平定したが、通過する村々で多くを殺掠した。民は天を仰いで叫んで言うには、「楊公がおられれば、どうして我々をここまでさせようか」と。訃報が伝わると、葬祭を賜り、その子の玖を国子生に取り立てた。広東の民は京に赴いて祠堂建立を請い、許された。成化年間に、諡を恭恵と賜った。久しくして、選人盧従願の請いに従い、役人に命じて毎年その命日に祭らせた。

張驥は、字を仲德といい、安化の人である。永楽年間に郷挙に挙げられ、国学に入った。宣徳初年に御史を授かった。出て江西を按察し、福建で囚徒を審理し、仁廉の名声があった。

正統八年、吏部尚書王直らが詔に応じ、朝廷の臣で公廉で学行のある者を広く挙げたが、驥もその中にいた。大理右寺丞に遷り、山東を巡撫した。先に、済南に撫民官を設け、専ら流民を撫でていた。後に却って民の擾乱となり、驥は奏上してこれを廃止した。風俗で旱魃に遇うと、新しく葬った墓を伐り、その肢体を傷つけ、旱魃の原因であるとし、「旱骨樁を打つ」と称していたが、驥の言上により禁絶した。朝廷に還り、右少卿に進んだ。後に、済寧から淮・揚の飢民を巡視することを命じられた。驥は法を立てて蝗を捕らえ、不急の務めを停め、滞納を免除し倉庫を開き、民はこれによって救済された。

十三年の冬、浙江を巡撫した。初め、慶元の葉宗留と麗水の陳鑑胡が衆を集めて福建の宝豊などの銀鉱を盗み、やがて群盗は互いに殺し合い、遂に乱を起こした。九年七月、福建参議竺淵が捕らえに行き、捕らえられて死んだ。宗留は王を僭称した。当時福建の鄧茂七もまた衆を集めて反逆し、勢いは甚だ盛んであった。宗留・鑑胡はこれに附き、浙江・江西・福建の境を流れ掠めた。参議耿定、僉事王晟及び都督僉事陳栄、指揮劉真、都指揮呉剛・龔礼、永豊知県鄧顒が前後に敗れて死んだ。遂昌の賊蘇牙・俞伯通が蘭溪を掠め、またこれと相応じ、遠近は震動した。驥が到着すると、金華知府石瑁を遣わして蘇牙らを撃ち斬らせ、その余党を撫で定めた。一方で鑑胡はまさに争いの憤りから宗留を殺し、その衆を専有し、自ら大王と称し、国号を太平とし、元号を泰定と建てた。偽って将帥を任命し、処州を包囲し、武義・松陽・龍泉・永康・義烏・東陽・浦江の諸県を分かって掠めた。間もなく、茂七が死に、鑑胡の勢力は孤立した。驥は麗水丞丁寧に老人王世昌らを率いさせて榜文を賊の巣窟に持たせて招くと、鑑胡は遂にその党とともに出て降った。ただ陶得二だけは撫でに応ぜず、使者を殺し、山中に入って以前のように乱を起こした。時は十四年四月であった。驥は鑑胡を招降した後、別の賊蘇記養らが金華を掠めたが、これも官軍に捕らえられ、賊の勢力はますます衰えた。

その秋、景帝が位を嗣ぐと、驥を召還し、道中で卒去した。驥の至るところ、ことごとく建樹があり、山東・両浙の民は久しく彼を思った。鑑胡は京に至り、帝は誅さずに赦した。さらに赦令に遇い、釈放されて留守衛の軍に充てられた。也先が侵入すると、鑑胡は隙に乗じて逃亡したが、捕らえられ、誅殺された。

竺淵は奉化の人。耿定は和州の人。王晟は鄆城の人。鄧顒は楽昌の人。いずれも進士である。鄧顒は兵が潰えて捕らえられ、屈せずに死んだ。詔して葬りを営ませた。竺淵らには官を贈り、一子を取り立てた。

馬謹は、字を守礼といい、新楽の人である。宣徳二年の進士。父母に孝行し、喪に遭うと、自ら土を背負って葬った。

正統年間、御史として浙江を按察した。当時、倭寇に備える海船を修造し、厳州・衢州の諸郡から材木を徴発していた。謹は軍士が勢いに藉りて肆意に伐採することを恐れ、禁制するよう請うたので、許可された。至るところ、貪婪狡猾な者は跡を潜めた。台州・処州・寧波・紹興の四府の飢饉を救済する上疏をした。吏部の験封郎中が長く欠員であったので、帝は推挙して選ぶよう命じた。ちょうど謹の九年の任期が満ち、尚書郭琎が謹の廉直を推薦したので、遂にこれを任用した。十年に推薦されて抜擢され、湖広右布政使となった。

正統末、湖南の叛いた苗が靖州を掠めた。謹に御史侯爵とともに撫諭を命じ、参将張善が兵を率いて続いた。謹らが到着すると、数千人を招いて復業させ、掠めに出た者は撃破した。まもなく張善とともに淇溪の諸寨を破った。景泰初め、再び張善とともに臘婆の諸洞を大破した。後に、参将李震とともに青龍渡・馬楊山の諸賊を撃破し、追撃して鶏心嶺に至り、前後して千四百余りの首級を斬った。軍が還ると、靖州の賊が再び出て掠めたので、その巣窟を衝き、以前のように斬獲した。武岡・城溪の諸賊が広西の蛮と結び、青肺山に拠ったので、再び李震とともにこれを攻め破った。賊の楊光拳ら五百六十人を捕らえ、斬首はその倍であった。扶城の諸寨は、風聞して帰順した。

謹は軍中に出入りすること三年、鋒鏑を衝き冒すること諸将と同様であったが、計略を巡らし糧秣を転送する功は特に多かった。左布政使に転じた。功績を記録し、官位一等を進めた。六年五月、右副都御史に遷り、なお二品の俸給を支給された。河南を巡撫し、流民三万一千余戸を撫でた。天順初め、巡撫官が廃止されると、謹もまた罷免されて帰郷し、久しくして卒去した。

謹の性質は廉潔で節操があり、楊士奇はかつて「氷霜鉄石」と称した。

程信は、字を彦実といい、その先祖は休寧の人である。洪武年間に河間に戍り、そこで家を定めた。信は正統七年の進士に挙げられ、吏科給事中を授かった。

景帝が即位すると、薛瑄ら三人を推薦して起用した。也先が京師を犯すと、信は軍を督して西城を守り、五事を上言した。都督孫鏜が也先を撃って失利し、城に入ろうとしたが、信は受け入れず、軍を督して城上から箭炮を発してこれを助けた。孫鏜はますます力戦し、也先は遂に退いた。

景泰元年、畿輔の飢民を救済するよう請い、また河間の学官・生徒で用兵のために罷免派遣された者を復帰させるよう請うたが、いずれも許可された。左給事中に進んだ。天変に因み、中興固本の十事を上奏した。その敬天について言えば、帝に孝友の実を敦めて天心に答えるよう請うた。帝はこれを嘉納した。

翌年二月、山東右参政として出向し、遼東の兵糧を監督した。巡撫の寇深が一石以上の兵糧を盗んだ者は死罪とすべきと上奏し、また新たな枡を旧枡より大きくして設置し、程信に検査を命じた。程信は直ちにそれを打ち砕き、「どうして人を死地に陥れようとするのか」と言った。寇深はこれにより程信を快く思わなくなった。まもなく憂慮により去職し、喪が明けると、四川参政に起用された。松潘の兵糧を管理し、侍郎の羅綺とともに黒虎などの寨を破った。

天順元年、程信が入朝して祝賀した。当時は景泰年間に進言した者を登用していたところであり、特に程信を抜擢して太僕卿とした。京衛の馬は従来多くが消耗していたが、程信は定期徴収を定めた。三営の大将である石亨、孫鏜、曹欽はいずれも「奪門」の功績により寵愛を受け、諸武臣を庇護し、太僕寺の厳しさと苛酷さを訴えて、兵部に改めて隷属させるよう請願した。程信は言った。「高皇帝(太祖)は太僕寺の馬数を人に知らせぬよう命じられた。もし兵部に隷属させれば、馬の増減を太僕寺は知ることができない。万一警報があって馬が供給されなければ、誰がその責を負うのか」。帝はこれを是とし、従前の通り太僕寺に隷属させた。

翌年、左僉都御史に改められ、遼東を巡撫した。都指揮の夏霖が勝手に法を犯し、僉事の胡鼎がその四十の罪状を摘発した。程信はこれを上聞し、夏霖を錦衣衛の獄に下した。門達が程信が代わって上奏すべきでないと上言すると、帝は陳状を命じて責めた。当時、寇深がちょうど都察院を掌っており、以前のわだかまりを晴らそうと、程信を弾劾した。詔獄に召し出されて降格され、南京太僕少卿となった。五年に召されて刑部右侍郎となった。母の喪により帰郷した。

成化元年に兵部に起用され、まもなく左侍郎に転じた。四川の戎県の山都掌蛮がたびたび反乱し、合江など九県を陥落させた。朝廷で議論し、大軍を派遣して討伐することとした。襄城伯の李瑾を総兵官に充て、太監の劉恒を監督とし、程信を尚書に進めて軍務を提督させた。永寧に至り、分道して進軍した。都督の芮成は戎県から、貴州巡撫都御史の陳宜と参将の呉経は芒部から、都指揮の崔旻は普市冰脳から、南寧伯の毛栄は李子関から、四川巡撫都御史の汪浩と参将の宰用は渡船鋪から、左右遊撃将軍の羅秉忠と穆義は金鵝池から進み、程信と李瑾は中央で指揮統制した。六日間転戦し、龍背、豹尾などの寨七百五十余りを破った。翌年大壩に至り、寨千四百五十を焼いた。前後して四千五百余りの首級を斬り、捕虜は数えきれなかった。九姓のうち教化に従わない者を瀘州衛に移し、渡船鋪に関堡を増設した。大壩を太平川長官司に改め、山都掌の地を分割し、官を設けて治めこれを統制した。帝は璽書を下して賞賛し労った。功績を記録し、大理寺卿を兼ねて進め、白圭とともに兵部を治めた。言官が程信の上奏した首級の功績が事実に合わないと弾劾した。程信は四度上疏して休職を乞うたが、許されなかった。程信は何か為そうとしたが、白圭に阻まれ、思い通りにならず、たびたび病気を称した。

六年春に旱魃があり、詔に応じて兵事について改めるべき四事、兵弊について申し立てて処理すべき五事を上言した。大略は言う。延綏、両広は毎年劫掠に遭うので、大臣を選んで総制すべきである。四方の流民が多く荊、襄に集まっているので、早く区画すべきである。京軍の操練に法がなく、功績による昇進と賞賜が適当でない。言葉の多くは白圭を侵害していた。白圭が上奏してこれを止めさせた。南京兵部に改められ、機務に参賛した。翌年致仕し、一年余り後に卒去した。太子少保を追贈され、襄毅と諡された。

程信は才力があり、大義をわきまえていた。南蛮征討の時、便宜を以て事を行うことを許されていた。帰還するまで、一度も勝手に賞を与えたり、人を殺戮したりしなかった。言うには、「刑罰と賞賜は、君主の大権である。やむを得ず人に仮託する。幸いに事が成就したからといって、すぐに専断するのは、人臣のなすべきことではない」。南京において、守備の臣が銭穀や訴訟の事に関与しようとしたが、程信は言った。「守備の重臣は、非常事態に備えるためのものである。このようなことは、役所の職務である」。論者はこれを是とした。子の敏政は『文苑伝』に見える。

白圭は、字を宗玉といい、南宮の人である。正統七年の進士。御史に任じられ、朱勇の軍を監察し、兀良哈を討伐して功績があった。山西を巡按し、疑わしい獄訟百余件を弁明した。車駕に従って北征し、土木に陥った。脱出して帰還すると、景帝は澤州に赴き兵を募るよう命じた。まもなく陝西按察副使に遷り、浙江右布政使に抜擢された。福建の賊鄭懐冒が流賊となって処州を掠奪したので、諸将と協力してこれを平定した。

天順二年、貴州の東苗の幹把猪らが僭号を称し、都勻などの諸処を攻撃劫掠した。詔により右副都御史に進められ、南和侯方瑛の軍に参じて討伐に向かった。白圭は谷種などの諸夷が東苗の羽翼であるとして、先に百四十七寨を討ち破った。そこで青崖で兵を合わせ、さらに四百七十余寨を破り、勝ちに乗じて六美山を攻撃した。幹把猪が捕らえられ、諸苗は震え恐れた。湖広に災害があり、白圭を巡撫に任命した。

四年に召されて兵部右侍郎となった。翌年、孛来が莊浪を寇した。白圭は都御史の王竑とともに都督馮宗の軍務に参じ、分兵して辺境を巡視した。白圭は固原州でこれを破った。七年に工部尚書に進んだ。

成化元年、荊、襄の賊劉千斤らが乱を起こした。撫寧伯朱永を総兵官とし、都督の喜信、鮑政を左右参将とし、宦官の唐慎、林貴を監軍として派遣し、白圭に軍務を提督させ、京軍および諸道の兵を発して合流討伐させた。

千斤は、名を通といい、河南西華の人である。県門の石狻猊は千斤の重さがあり、劉通は片手でこれを挙げたため、これをもって号とした。正統年間、流民が荊、襄の間に集まり、劉通はそこに逃げ込んで妖言を流し、ひそかに乱を起こそうと謀った。石龍という者は、石和尚と号し、徒党を集めて掠奪していた。劉通は彼とともに兵を起こし、偽って漢王を称し、元号を徳勝と建て、流民で従う者は四万人に及んだ。白圭らが南漳に至ると、賊は迎え撃ったが敗れ、勝ちに乗じてその本拠地に迫った。劉通は寿陽に奔り、陝西に逃げようと謀った。白圭は兵を遣わしてその道を扼させたので、劉通は退いて大市を守り、苗龍と合流した。官軍はまた雁坪でこれを破り、劉通の子の聡およびその徒党の苗虎らを斬った。賊は後巖山に退いて守り、険阻な地に拠り木石を雨のように落とした。諸軍は四面から攻め、白圭は往来して督戦し、兵士は皆蟻のように付き従って登った。賊は大敗した。劉通およびその配下三千五百余人を捕らえ、賊の子女一万一千余りを獲得し、その家屋を焼き、険阻な地を平らにして帰還した。石龍とその徒党の劉長子らは逃げ去り、転じて四川を掠奪し、続いて巫山、大昌を陥落させた。白圭らは分兵してこれを追い詰め、劉長子が石龍を縛って降伏し、残りの賊寇はすべて平定された。功績を記録し、白圭に太子少保を加え、俸給を一級増やした。父の喪に遭い、葬儀を終えると、職務に就いた。

三年に兵部尚書に改め、十二団営を兼ねて督した。六年、阿羅出らが河套に駐留して放牧し、陝西はたびたび寇掠を受けた。白圭は鎮巡官が怠慢でほしいままであるとして処罰すべきと上言した。延綏巡撫の王鋭、鎮守太監の秦剛、総兵官の房能はいずれも罪を得て去った。白圭はそこで大規模に河套を掃討することを議し、京兵および他の鎮の兵十万を発して延綏に駐屯させた。そして兵糧輸送の責を河南、山西、陝西の民に負わせ、足りなければ翌年の租税を前納させた。これにより内地は騒然となった。しかし前後に派遣された三大将の朱永、趙輔、劉聚は、いずれも戦いを恐れて任務に堪えず、ついに功績なく終わった。十年に在官のまま卒去した。五十六歳。少傅を追贈され、恭敏と諡された。

白圭は性質が簡素で重厚であり、公務を終えるとすぐに閣を閉じて臥し、面会請願はすべて通じなかった。貴州にいた時、宦官の虐待に憤慨してこれを刺そうとした者が誤って白圭の部屋に入った。白圭は衾を抱えてこれを問うと、その者は驚いて言った。「我が公であったのか」。即座に自刎したが、死に至らず、地に倒れた。白圭は燭を呼んで起きて見、良薬を塗ってやり、帰らせた。人はその度量に敬服した。

次子の鉞は、字を秉徳という。進士に及第し、編修に任じられた。累官して太子少保、礼部尚書となった。典故に通じ、詞翰をもって称された。卒去し、太子太保を追贈され、文裕と諡された。

張瓚は、字を宗器といい、孝感の人である。正統十三年の進士。工部主事に任じられ、郎中に遷り、太原、寧波二府の知府を歴任し、善政があった。

成化の初め、市舶中官の福住が貪欲で恣意に振る舞ったので、瓚はその部下を禁制した。住は朝廷に瓚を誣告し、瓚はすなわち住の罪状を列挙した。住は責められ、その徒党の多くは法に処せられた。大臣が会して推薦し、広東参政に転じ、浙江左布政使となった。

十年の冬、右副都御史として四川巡撫に任ぜられた。播州の致仕宣慰楊輝が言うには、所属の夭壩幹・湾溪などの諸寨および重安長官司が生苗に窃かに占拠されているので、王師の進討を請うた。詔して瓚に侵地を返還させるよう諭させ、服従しなければ征伐せよと命じた。瓚は兵を率いて討伐平定し、安寧宣撫司を設置するよう請い、すなわち輝の子の友を宣撫に任じて鎮守させた。詔してこれを認め、勅を賜って労をねぎらった。母が老齢のため帰郷を乞うたが、母はすでに死去していた。

ちょうど松州・茂州の番が辺境を寇したので、詔して復職して視事するよう命じた。先に、僉事の林璧が言うには、「松茂はかつて大鎮であった。都御史の寇深・侍郎の羅綺は便宜を許され、その地を専制したので、功績があった。今はただ両参将を設け、副使が中央で調度するのみである。事権が軽く、敵に臨んで制府に命令を請い、千里を隔てて戦いを請うては、謀が漏れ機会が遅れ、利益を得られる者はない。別に重臣を置いて弾圧すべきであり、あるいはすなわち瓚に兼領させ、その責務を専一にさせるべきである。」十二年七月、瓚に松茂・安綿・建昌の軍務を兼ねて督させることを命じた。瓚が軍に至り、形勢を審らかに測り、大壩に旧設の副使を安綿に改め、副総兵の堯彧に松潘に軍を置かせ、参将の孫暠に威州・疊州に軍を置かせ、挟み撃ちの計略とした。隙をみて河西の旧道を修復し、浮橋を作り、月城を築いた。偏橋の桟道を避け、軍は安全に行軍し、糧秣の輸送に支障がなかった。十四年六月、白草壩・西坡・禅定の数大寨を攻め、斬獲は数えきれなかった。茂州・疊溪を巡行し、通過した地は降伏帰附した。曲山三寨に至り、これを攻め破り、再び白草壩の残賊を討伐平定した。先後に五十二寨を破滅し、賊の首魁の撒哈らは皆殲滅された。他の一百寨は悉く馬を献じて帰順し、諸番はことごとく平定された。要害に兵を留めて守らせ、墩堡を増設し、ようやく凱旋した。帝はその功績を嘉し、戸部左侍郎に召し出したが、辞して帰郷し喪に服した。

十五年、左副都御史に起用され、漕運総督を務め、江北諸府の巡撫を兼ねた。十八年、大凶作となり、上疏して救済を請うた。銀五万両を発し、さらに勅して瓚に淮安倉の糧食を移して分配救済させたが、瓚はすでに死去していた。

瓚の功績名声は西しょくに著しかった。その後四川を巡撫した者、謝士元のごときは、名声はあっても瓚には及ばなかった。ただ夭壩幹の役については、あるいは楊輝が庶長子の友を溺愛し、官職を与えようとして、生苗が乱を起こしたと詐称し、瓚が信じて軍を起こしたのであり、その功績には偽り飾りがないとは言えないという。

謝士元、字は仲仁、長楽の人。景泰五年の進士。戸部主事に任ぜられた。通州倉を督し、四つの弊害を陳述し、しばしば監倉宦官と対立した。天順七年、建昌知府に抜擢された。当地には盗賊が多く、軍将に庇護されていた。士元は別の事柄で軍将を抑え、悪事が発覚するやただちに捕らえた。民が証文を持って田宅の訴訟を起こすと、士元は叱って言った、「偽りである。証文は今の様式なのに、訴えているのは二十年前の事である。」民は驚いて服し、訴訟は衰え止んだ。考課が満了し、従三品の俸禄を進められ、知府の職務を以前の通り務めたが、喪に服して去った。

喪が明け、広信知府に起用された。永豊に銀鉱があり、処州の民が盗掘し、数千人が集まった。将士はその勇猛で広範なのを恐れ、討伐しようとしなかった。士元は兵を率いて急行し、賊は士元を遮って刺し、左腿を傷つけた。傷を包んで力戦し、その首魁を捕らえ、鉱穴を塞いで帰還した。入朝して拝謁し、永平知府に改められたが、喪に遭い赴任しなかった。

喪が明け、四川右参政に抜擢され、右布政使に進んだ。弘治元年、そのまま右副都御史に抜擢され、当地を巡撫した。土番の大小姓なる者が、乱を煽動しようとしたので、士元は辺境巡行を口実に、馳せてその地に至った。賊は恐れ、道の左に並んで拝礼し、士元はゆるやかに慰めて帰した。大凶作となり、流民が食を求めて集まった。士元は救済恤民の方策に優れ、全うして生かした者は数万に及んだ。翌年、事に坐して獄に下された。事が明らかになると、致仕した。

孔鏞、字は韶文、長洲の人。景泰五年の進士。都昌県知事となり、戸を九等に分けて賦役を定め、水辺に倉庫を設けて収納に便とし、民は大いに頼りとした。弟の銘が寧府の郡主を娶ったため、連山知県に改められた。瑤・僮が隣境に出没し、県民は悉く逃散した。鏞が招撫に出向くと、民は驚いて逃げた。鏞は民家で炊飯し、代金を置いて去った。民は次第に鏞に親しみを知り、相率いて帰還した。鏞は慰労し救済し、旧業に復させ、戦いと守備を教えた。道路は次第に開通し、県の治めは遂に回復した。都御史の葉盛が広西を征伐する際、鏞を従軍させた。諸将が妄りに殺害しようとする者があれば、鏞は常に力強く争い、全うして生かした者は甚だ多かった。

成化元年、葉盛らの推薦により、高州試知府に抜擢された。前任の知府劉海は瑤の警報により、城門を閉じて自らを護った。郷民で瑤を避けて来た者は常に入城を許さず、帰還して瑤に殺害される者があった。また民が密かに賊に与していると疑い、しばしばこれを殺戮した。賊はこれによって衆怒を煽り、内応を得て、城は遂に陥落した。鏞が到着すると、門を開いて来る者を受け入れ、流亡の民は日に日に帰還した。城が収容しきれないので、別に城の東北に城を築いて居住させた。城郭付近には多くの暴かれた骸骨があり、民は疫病で死に、さらに義塚を作って埋葬した。

当時、境内に屯する賊は凡そ十余部あり、その首魁の馮曉は化州に屯し、鄧公長は茅峒に屯し、たびたび招撫に応じなかった。鏞はある日、単騎で二人を従え、ただちに茅峒に到った。峒は城から十里ほどで、道中で賊の徒党に会い、帰って告げさせて言った、「我は新太守である。」公長は突然新太守が来たと聞き、急いでその徒党に甲冑を着させて迎えさせた。鏞が平易で護衛も従えていないのを見て、気勢は大いに挫けた。鏞はゆるやかに下馬し、庭中に入って座ると、公長はその徒党を率いて甲冑を脱ぎ並んで拝礼した。鏞は諭して言った、「汝らはもと良民であり、飢え凍えるに迫られただけである。前任の太守は汝らを兵で討とうとしたが、我は今命を受けて汝らの父母となった。汝らは我が子である。我を信じるなら、我を送り返せ、汝らに粟帛を与えよう。信じないなら、我を殺せ、すぐに大軍が来て、種を残すことはないだろう。」公長は躊躇したが、その徒党は皆感奮して涙を流した。鏞は言った、「空腹である、食事をさせよ。」公長は跪いて酒食を進めた。食事を終えると、言った、「日も暮れようとしている、宿泊しよう。」夜には衣を解いて熟睡した。賊は互いに見合わせ驚嘆して服した。二晩宿泊して帰った。道傍に裸で樹上に懸けられている者が累累としているのを見て、尋ねると、皆諸生であったので、ことごとく解放するよう命じた。公長は数十騎を遣わし護衛して帰らせた。城中の人が見て、皆大いに驚き、知府が捕らえられ、降伏を欺くために来たのだと言い、悉く城壁に登った。鏞は騎兵を城外に止め、ただ疲れた兵卒と共に入城し、穀物と布帛を取らせ、載せて帰らせた。公長はますます感激し、遂にその巣窟を焼き、徒党数千人を率いて来降した。

公長が降伏した後、諸賊は次々に帰順したが、ただ馮曉だけが険阻を恃んで服従しなかった。鏞は壮士二百人を選び、夜に乗じて化州に到った。曉は慌てふためいて逃げ隠れし、その妻子を捕らえて帰還し、手厚く撫恤したので、曉も五百人を率いて降伏した。その後、僉事の陶魯と共に賊の廖婆保を破った。他の賊が先後に来寇したが、多くは敗れて去った。境内は大いに平定された。上官が相次いで推薦し、按察副使に抜擢され、高州・雷州二府を分巡した。さらに手ごわい賊の染定・侯大六・鄧辛酉らを招撫し、田産を与え、内陸に分けて居住させて官とし、他の盗賊に備えさせた。広西の賊が信宜・岑溪を犯すと、皆これを撃破した。治績が聞こえ、誥命を賜って特に表彰された。喪に遭い、喪が明けると、広西に改められた。瑤・僮は鏞が来ると聞き、悉く遠く逃げた。

十四年、兵部がその功績を上奏し、銀幣を賜り、まもなく按察使に進んだ。荔浦の賊が来寇すると、総督の朱英が兵を鏞に委ね、これを撃ち平定し、二品の俸禄を賜るよう進めた。

已にして、左布政使に遷る。やがて右副都御史として貴州を巡撫す。清平部の苗阿溪は、桀驁にして智謀多し。その養子阿頼は特に力強く、諸部中に横行し、守臣は皆阿溪の賄賂を受け、驕って制し難し。鏞が行部して清平に至り、阿溪が昵近くする者二人を得て問う。遂に計略をもって阿溪を擒え、磔にし、併せて雞背苗を討平す。郡の蛮は震慴す。

鏞は居官廉潔なり。歴仕三十余年、皆辺陲に在り、瘴気に触れて疾を成す。骸骨を乞うも、許されず。弘治二年、召されて工部右侍郎と為り、道中に卒す。年六十三。

平楽の李時敏は、信宜知県と為る。嘗て鏞と共に瑤乱を平らげ、功有り、化州知州に遷る。粤人は孔鏞と李時敏を並び称す。

鄧廷瓚、字は宗器、巴陵の人。景泰五年の進士。淳安県知事と為り、恵政有り。母憂に遭い、服除け、太僕寺丞に遷る。貴州に新たに程番府を設く。地は万山中に在り、蛮僚雑居す。吏部はその人を得難く、特に廷瓚を擢て知府と為す。至れば則ち悉心に規画し、城郭・衢巷・学校・壇廟・廨舎を、次第に興建す。榜を掲げて諸僚に諭し、約束を受けしむ。政平らかに令和す。巡撫陳儼その治行を上奏す。帝は久任を命ず。九載秩満し、始めて山東左参政に遷り、尋いで右布政使に進む。

弘治二年、右副都御史として貴州を巡撫す。廷瓚は令より守に至るまで、常調に淹留すること三十年を逾ゆ。ここに至り知府を去ること僅か三歳にして、遂に開府を得たり。生母の憂に遭い帰る。服闋し、原任に還る。都勻の苗乜富架・長脚等乱を為す。勅して廷瓚に軍務を提督せしめ、湖広総兵官顧溥・貴州総兵官王通等と共にこれを討たしむ。副使吳倬、熟苗を遣わして富架に詐降し、入寇を誘いて、伏兵してその父子を擒う。官軍勝に乗じて連ねて百余寨を破り、長脚を生け捕りにして帰る。群蛮震慴す。廷瓚言う、「都勻・清平は旧く二衛・九長官司を設く。その人皆世祿にして、自らその法を用い、恣に虐げ、苗民を激変せしめ、乱ること四十余年。今元兇既に除かる。大いに更張せざるべからず。請う、府県に改め、流官と土官を設けて兼治せしめ、久安の庶幾からん」。因りて善後十一事を上す。帝悉くこれに従う。遂に府一を設く、都勻と曰い、州二を設く、独山・麻哈と曰い、県一を設く、清平と曰う。苗患ここより漸く戢ぐ。功を論じ、右都御史に進む。

八年、召されて南京都察院事を掌らしむ。僅か数月にして、命じて両広軍務を提督し巡撫を兼ねしむ。二年を過ぎ、左都御史に進む。廷瓚の治めは簡易を尚び、吏事に於いては但だ大綱を総べ、群蛮には恩信を以て結び、軽々しく兵を用いず、而して兵を出すには必ず成功す。郁林・雲壚・大桂の諸蛮及び四会の飢民乱を為すを、次第に討平し、両広遂に事無し。十三年、復た召されて南院を掌らしむ。未だ行かずして卒す。太子少保を贈られ、諡して襄敏と曰う。

廷瓚は雅量有り、人を疑わず、時に多くその長者を称す。至る所の施設は、動いて機宜に中る。その貴州に在りて苗を平らげたる功は特に偉大なりと云う。

王軾、字は用敬、公安の人。天順八年の進士。大理右評事を授かり、右寺正に遷る。四川に囚を録し、百余り人を平反し、四川副使に擢でらる。凶歳に、官銀十万両を請うて糴費と為す。嘉定同知盛崇仁の贓罪を按ずるを以て、訐られて吏に下る。事白み、職に還り、陜西に改む。

弘治初め、四川按察使に擢でらる。三年、南京右僉都御史に遷り、操江を提督す。八年、右副都御史に進み、南京糧儲を総理し、旋いて命じて貴州を巡撫す。明年、入りて大理卿と為り、詔して刑部と共に条例を裁定し天下に頒つ。

十三年、南京戸部尚書を拝す。尋いで命じて左副都御史を兼ね、貴州軍務を督し、普安の賊婦米魯を討たしむ。時に鎮守中官楊友・総兵官曹愷・巡撫錢鉞共に兵を発して魯を討つも、阿馬坡に於いて大敗す。都指揮吳遠捕らわれ、普安幾くんか陷らんとす。友等師の増援を請う。乃ち命を以て軾に委ぬ。軾未だ至らざるに、友等は人を遣わして賊を招く。賊は降らんと欲すと揚言し、益々衆を擁して普安・安南衛城を攻囲し、盤江道を断ち、勢い愈々熾なり。又間を乗じて楊友を劫略し執う。右布政使閭鉦、按察使劉福、都指揮李宗武・郭仁・史韜・李雄・吳達等死す。

軾至り、便宜を以て広西・湖広・雲南・四川の官軍・土兵八万人を調え、貴州兵と合し、八道に分かれて進み、致仕都督王通に一軍を将わしむ。十五年正月、参将趙晟六墜寨を破る。賊遁走し、盤江を過ぐ。都指揮張泰等江を渡り追撃し、指揮劉懷等遂に進み安南衛の囲みを解く。而して曹愷・王通及び都指揮李政も亦各賊寨を破る。賊還りて平夷衛及び大河・扼勒諸堡を攻め、都御史陳金雲南兵を以てこれを禦ぐ。賊遁れて馬尾籠寨に帰る。官軍聚り攻むること益々急なり。土官鳳英等米魯を格殺し、余党遂に平らぐ。用兵凡そ五月、賊寨千余を破り、斬首四千八百余、俘獲一千二百。捷報聞こえ、帝大いに喜び、嘉労す。召し還して京に至らしめ、賜賚加わり、功を録し、太子少保を加う。已にして、南京兵部に改め、機務に参賛す。連ねて致仕を乞うも、允されず。武宗立ち、疾に遇い復た請う。詔して太子太保を加え、勅を賜い伝車に乗じて帰らしむ。卒す。太保を贈られ、諡して襄簡と曰う。

劉丙、字は文煥、南雄知府劉実の孫なり。成化末、進士に登る。庶吉士に選ばれ、御史に改め、雲南を巡按す。雲南諸司の吏は、旧く給由を得ず、父満ちて子代わる。丙は例の如く考査して官に就かしむることを請う。流戍の僉発は、必ず兵部を経るも、多く淹延して死に至る。丙はこれを撫・按に属することを請う。土官に後嗣無き者は、その弟・姪を録用し、妻妾に冠服を冒さしめざることを請う。俱に例と為す。後に両淮塩課を督め、中官が引二万を請うて織造費と為さんとす。部議これを許すも、丙執りて不可とし、四分之三に減ずるを得たり。歴て福建・四川副使と為り、俱に学校を督め、三遷して四川左布政使と為る。

正徳六年、右副都御史として湖広を巡撫す。所部の鎮溪千戸所・筸子坪長官司は、貴州銅仁、四川酉陽・梅桐諸土司と犬牙相錯す。弘治中、錯溪の苗龍麻陽と銅仁の苗龍童保、衆を聚めて攻剽し、土官李樁等実にこれを縱す。而して筸子の百夫長龍真これと通謀す。後遂に四出して劫掠し、遠近騒然たり。先後の守臣これを制すること能わず。丙将にこれを討たんとす。賊は連山の深箐に入り、拒守の計を為す。丙師を率いてその数寨を破る。賊走りて天生崖及び六龍山に拠る。貴州巡撫沈林の兵継いで至り、連ねて攻めこれを破る。前後童保等二百人を擒え、斬首八百九十余級。都指揮潘勛又鎮・筸諸寨を破り、麻陽等百六十人を擒え、斬首級前の如し。余賊遠く遁る。璽書を以て獎励す。

丙は操履清介にして、敢えて事を任ず。至る所厳明にして、法令修挙す。工部右侍郎に遷り、木を采りて山に入る。二年を過ぎ、風痹を犯して疾を得、卒す。詔して尚書を贈り、諡して恭襄と曰う。

賛に曰く、英宗・景帝の間、瓦剌は西陲を逼り、辺境は甚だ急迫せり。而して黄蕭養・葉宗留の徒は嶺南・浙江・福建の境上を劫掠す。その後、荊州・襄陽の流民は嘯聚し、則ち劉通・石龍を以てその魁と為す。他の若し都勻・松潘・茂州・貴州・湖広の諸苗・瑤の叛く者数起す。羅亨信・侯琎諸人は、封圻を保固し、虓を誅し乱を禁じ、討すれば則ち功有り、撫すれば則ち信著しく、封疆に力を宣べ、厥の任に忝なき者なり。孔鏞は知府を以て叛瑤を服せしむ、その才力は人に過ぐる者有り。韓愈が柳中丞の行事は機宜に適い、風采は畏愛す可きと言う。是に如かざれば、悪くんぞ能く有為を以てせんや。