明史

列傳第五十九 王驥 徐有貞 楊善 王越

列傳第五十九 王驥 徐有貞 楊善 王越

原文列傳第五十九 王驥 徐有貞 楊善 王越

○王驥(孫瑾)徐有貞 楊善(李實 趙榮 霍瑄 沈固)王越

原文○王驥(孫瑾)徐有貞楊善(李實趙榮霍瑄沈固)王越

王驥は、字あざなを尚德といい、束鹿の人である。身長が高く体格が立派で、騎射に巧み、剛毅にして胆力があり、軍略に通暁していた。永楽四年の進士に及第した。兵科給事中となり、山西に使いし、塩池の未納税二十万余を免除するよう上奏し、まもなく山西按察司副使に遷った。

原文王驥,字尚德,束鹿人。長身偉幹,便騎射,剛毅有膽,曉暢戎略。中永樂四年進士。為兵科給事中,使山西,奏免鹽池逋課二十餘萬,尋遷山西按察司副使。

洪熙元年に召されて順天府尹となった。宣徳初め、兵部右侍郎に抜擢され、顧佐に代わって都察院を署理した。しばらくして、兵部尚書を署理した。九年に正式に任命された。

原文洪熙元年入為順天府尹。宣德初,擢兵部右侍郎,代顧佐署都察院。久之,署兵部尚書。九年命為真。

正統元年、詔を奉じて辺境の事を議するが、五日を過ぎても上奏しなかった。帝は怒り、王驥と侍郎の鄺埜を捕らえて獄に下した。まもなく釈放された。阿臺・朵児只伯がたびたび甘州・涼州を寇し、辺将はしばしば敗北した。侍郎の柴車・徐晞、都御史の曹翼が相次いで辺境の事務を処理したが、制することができなかった。二年五月、王驥を派遣することとし、適宜の処置を許した。王驥は急行して軍中に至り、諸将を大いに集め、「かつて敵を魚児海子に追撃したとき、先に退いて軍を敗った者は誰か」と問うた。皆が「都指揮の安敬である」という。王驥はあらかじめ密旨を受けて安敬を誅することを承っており、すなわち安敬を縛って轅門で斬り、併せて勅を宣して都督の蔣貴を責めた。諸将はみな股が震えた。王驥はそこで将士を大いに閲兵し、兵を分けて地域を画し、各自に防禦させ、辺境は粛然とした。甘州・涼州で軍を閲し、三分の一を淘汰した。更番の法を定め、兵士は休息を得て、輸送もまた省かれた。

原文正統元年奉詔議邊事,越五日未奏。帝怒,執驥與侍郎鄺埜下之獄。尋得釋。阿臺、朵兒只伯數寇甘、涼,邊將屢失利。侍郎柴車、徐晞,都御史曹翼相繼經理邊務,未能制。二年五月命驥往,許便宜行事。驥疾驅至軍,大會諸將,問「往時追敵魚兒海子,先退敗軍者誰」。僉曰「都指揮安敬」。驥先承密旨戮敬,遂縛敬斬轅門,並宣敕責都督蔣貴。諸將皆股慄。驥乃大閱將士,分兵畫地,使各自防禦,邊境肅然。閱軍甘、涼,汰三之一。定更番法,兵得休息而轉輸亦省。

まもなく阿臺が再び寇してきた。帝は任礼を平羌将軍とし、蔣貴・趙安を副将とし、王驥に軍を督させた。三年春、諸将とともに塞外に出て、蔣貴を前鋒とし、自らは任礼とともに大軍を率いて後続し、蔣貴と約して「勝たなければ、相見えることはない」といった。蔣貴は石城で敵を撃ち、敵は兀魯乃に逃げた。蔣貴は軽騎二千五百人を率いて鎮夷から出て、間道を兼行し、三日夜で追いついた。左丞の脱羅を生け捕りにし、三百余を斬首し、金銀の印各一つを獲、駱駝・馬・兵甲は千を数えた。王驥と任礼は梧桐林から亦集乃に至り、枢密・同知・僉院十五人、万戸二人を生け捕りにした。その部落を降し、窮追して黒泉に至った。一方、趙安らは昌寧から出て、刁力溝に至り、右丞・達魯花赤三十人をも生け捕りにした。分道して挟撃し、転戦すること千余里、朵児只伯は遠く遁走した。功を論じ、蔣貴・任礼はともに伯に封ぜられ、王驥は大理卿を兼ね、二つの俸給を受けた。まもなく召還され、部の事務を処理した。

原文俄阿臺復入寇。帝以任禮為平羌將軍,蔣貴、趙安為副,驥督軍。三年春,偕諸將出塞,以貴為前鋒,而自與任禮帥大軍後繼,與貴約曰:「不捷,無相見也。」貴擊敵石城,敵走兀魯乃。貴帥輕騎二千五百人出鎮夷,間道兼行,三日夜及之。擒左丞脫羅,斬首三百餘,獲金銀印各一,駝馬兵甲千計。驥與禮自梧桐林至亦集乃,擒樞密、同知、僉院十五人,萬戶二人。降其部落,窮進至黑泉。而趙安等出昌寧,至刁力溝,亦擒右丞、達魯花赤三十人。分道夾擊,轉戰千餘里,朵兒只伯遠遁。論功,貴、禮皆封伯,而驥兼大理卿,支二俸。尋召還,理部事。

しばらくして、麓川の役が起こった。麓川宣慰使の思任発が叛き、しばしば王師を破った。黔国公の沐晟がこれを討ったが、利あらず、途中で卒した。沐昂が代わった。沐昂は攻取の策を条上し、兵十二万人を徴した。宦官の王振がちょうど権勢をふるっており、功名を好み、王驥に任せられるとして、大挙を考えた。王驥もまた自ら功を立てようとした。

原文久之,麓川之役起。麓川宣慰使思任發叛,數敗王師。黔國公沐晟討之,不利,道卒。以沐昂代。昂條上攻取策,征兵十二萬人。中官王振方用事,喜功名,以驥可屬,思大舉。驥亦欲自效。

六年正月、ついに蔣貴を平蛮将軍に拝し、李安・劉聚を副将とし、王驥が軍務を総督し、大いに東南諸道の兵十五万を発してこれを討った。刑部侍郎の何文淵・侍講の劉球が相次いで上疏して諫めたが、聞き入れられなかった。出発に際し、王驥・蔣貴に金兜鍪・細鎧・蟒繡の緋衣・朱弓矢を賜った。王驥は適宜の処置を行うことを得るよう請うた。駅伝を馳せて雲南に至り、諸将を部署し、参将の冉保を遣わして東路より孟定に向かわせ、大軍は中路より騰沖に至り、分道して挟撃した。この年十一月、蔣貴とともに二万人を率いて上江に向かい、その寨を囲んだが、五日たっても落とせなかった。ちょうど大風が起こり、火を放って柵を焼き、これを抜き、五万余級を斬首した。夾象石より進み、下江を渡り、高黎貢山の道を通った。閏月に騰沖に至り、長駆して杉木籠山に抵った。賊は高みに乗じて険を拠り、七つの塁を築いて互いに救った。王驥は参将の宮聚・副将の劉聚を遣わして左右の翼とし、嶺に沿って登らせ、自らは中軍を将いて奮撃し、賊は大いに潰れ、勝に乗じて馬鞍山に至った。

原文六年正月遂拜蔣貴平蠻將軍,李安、劉聚為副,而驥總督軍務,大發東南諸道兵十五萬討之。刑部侍郎何文淵、侍講劉球先後疏諫,不納。瀕行,賜驥、貴金兜鍪、細鎧、蟒繡緋衣、朱弓矢。驥請得以便宜從事。馳傳至雲南,部署諸將,遣參將冉保由東路趨孟定,大軍由中路至騰沖,分道夾擊。是年十一月,與貴以二萬人趨上江,圍其寨,五日不下。會大風,縱火焚柵,拔之,斬首五萬餘級。進自夾象石,渡下江,通高黎貢山道。閏月至騰沖,長驅抵杉木籠山。賊乘高據險,築七壘相救。驥遣參將宮聚、副將劉聚分左右翼緣嶺上,而自將中軍奮擊之,賊大潰,乘勝至馬鞍山。

一月余りして、賊の巣窟に抵った。山は険しく絶え、深い堀がこれをめぐらしていた。東南は江に面し、壁のように立ち上がって登れない。王驥は前軍を遣わして賊を偵察させ、その伏兵を破った。賊はさらに間道より馬鞍山に柵を立て、大軍の背後に出た。王驥は軍中に動くなと戒め、都指揮の方瑛に六千人をもって賊の寨を突かせ、数百を斬首し、さらにその象陣を誘い出して破った。ちょうど東路軍の冉保らはすでに木邦・車裏・大侯などの諸土軍と合流し、烏木弄・戛邦などの諸寨を破っていた。別将を遣わして西峨渡を守らせ、賊の逃散を防ぎ、期日を刻んで大軍と会合した。王驥はそこで諸将を督してその七門を環攻し、薪を積んで火を放った。風が大いに起こり、賊は焼死すること数知れず、江に溺れて死ぬ者数万人であった。思任発は二子を携えて孟養に逃げた。その虎符・金牌・宣慰司の印および掠めた騰沖諸衛所の印章三十余を獲た。その巣窟を犁き、兵を留めて守らせて還った。

原文逾月,抵賊巢。山陡絕,深塹環之。東南面江,壁立不可上。驥遣前軍覘賊,敗其伏兵。賊更自間道立柵馬鞍山,出大軍後。驥戒軍中無動,而令都指揮方瑛以六千人突賊寨,斬首數百,復誘敗其象陣。會東路軍冉保等已合木邦、車裏、大侯諸土軍,破烏木弄、戛邦諸寨。遣別將守西峨渡,防賊軼,刻期與大軍會。驥乃督諸將環攻其七門,積薪縱火。風大作,賊焚死無算,溺江死者數萬人。思任發攜二子走孟養。獲其虎符、金牌、宣慰司印及所掠騰沖諸衛所印章三十有奇。犁其巢穴,留兵守之而還。

翌年四月、偏師を遣わして維摩土司の韋郎羅を討った。郎羅は安南に逃げ、その妻子を俘虜にした。檄を安南に伝え、これを縛って献上させた。五月、軍は還った。帝は戸部侍郎の王質を遣わして羊酒を携え迎え労い、奉天門で宴を賜った。推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・上柱国・靖遠伯に封ぜられ、歳禄千二百石、世襲指揮同知を賜り、貂蟬冠玉帯を賜った。蔣貴は侯に進み、劉聚らは遷賞等差があった。従征した少卿の李蕡、郎中の侯琎・楊寧はみな侍郎に抜擢され、士卒への賜与は一等加えられ、府庫は尽きた。

原文明年四月遣偏師討維摩土司韋郎羅。郎羅走安南,俘其妻子。傳檄安南,縛之以獻。五月,師還。帝遣戶部侍郎王質賫羊酒迎勞,賜宴奉天門。封推誠宣力武臣、特進榮祿大夫、上柱國、靖遠伯,歲祿千二百石,世襲指揮同知,賜貂蟬冠玉帶。貴進侯,劉聚等遷賞有差。從征少卿李蕡,郎中侯琎、楊寧皆擢侍郎,士卒賜予加等。府庫為竭。

思任発が緬甸に逃げたとき、その子の思機発が再び余衆を率いて者藍に居り、入朝して罪を謝することを請うた。朝廷の議論はこれに乗じて撫でるべきとしたが、王振は認めなかった。この年八月、再び王驥に命じて雲南軍務を総督させ、参将の冉保・毛福寿を率いて赴かせた。未だ至らぬうちに、思機発は弟の招賽を遣わして入貢し、緬甸もまた思任発を獲たと奏し、麓川の地を要求した。朝廷はその貢を納れず、かつ王驥に勅して緬甸を図らせ、王驥はこれにより援軍を請うた。

原文思任發之竄緬甸也,其子思機發復帥余眾居者藍,乞入朝謝罪。廷議因而撫之,王振不可。是年八月復命驥總督雲南軍務,帥參將冉保、毛福壽以往。未至而思機發遣弟招賽入貢,緬甸亦奏獲思任發,要麓川地。朝廷不納其貢,且敕驥圖緬甸,驥因請濟師。

八年五月、再び蔣貴を平蛮将軍に命じ、土兵五万を調発して往かせ、卒を発して糧秣を転送すること五十万人とした。王驥は初め緬甸に檄して思任発を送らせた。緬人は表向きは命を聴きながら、両端を持していた。この年冬、大軍が緬甸に迫ると、緬人は楼船に思任発を載せて官軍を偵察させ、ひそかに他の舟に載せて帰した。王驥は緬人が木邦の水利を頼みとして唇歯の関係にあること、かつ思機発が父を献じたことを理由に仇とすべきことを慮り、故に終に思任発を献じようとしないことを知った。王驥はそこで者藍に向かい、思機発の巣窟を破り、その妻子部落を得たが、思機発だけは独り脱して去った。

原文八年五月復命蔣貴為平蠻將軍,調土兵五萬往,發卒轉餉五十萬人。驥初檄緬甸送思任發。緬人陽聽命,持兩端。是年冬,大軍逼緬甸,緬人以樓船載思任發覘官軍,而潛以他舟載之歸。驥知緬人資木邦水利為唇齒,且慮思機發將以獻其父故仇之,故終不肯獻思任發。驥乃趨者藍,破思機發巢,得其妻子部落,而思機發獨脫去。

翌年召還され、禄三百石を加えられ、都御史の陳鎰とともに延綏・寧夏・甘粛などの諸辺境を巡視することを命ぜられた。初め、寧夏の辺境守備軍は、半年ごとに交替していた。後に辺境の事が急となり、三年でようやく交替するようになった。軍士は日久しく疲弊し、さらに軍余を選んで冬を防がせ、家に五六人も辺境にいる者があり、軍の用は重く困窮した。王驥は一年ごとの交替を請い、交替すべき者は十月に至り、交替する者は来年正月まで留めてから帰らせるようにすれば、辺備は充足し軍は疲労しないと述べた。帝はその議を善しとし、諸辺境でこれを行った。このとき、緬人はすでに思任発を献じてきたが、思機発はひそかに孟養の地に駐し、たびたび使いを遣わして入貢し罪を謝した。朝廷内外ともみな兵を罷めることを願った。王振の意は終に満足せず、思機発が自ら入朝して謝罪することを求めた。沐斌が師を率いて金沙江に至りこれを招いたが、来なかった。孟養に諭してこれを執って献上させようとしたが、また命を聴かなかった。ここにおいて王振は怒り、その種類を尽く滅ぼそうとした。

原文明年召還,加祿三百石,命與都御史陳鎰巡延綏、寧夏、甘肅諸邊。初,寧夏備邊軍,半歲一更。後邊事亟,三年乃更。軍士日久疲罷,又益選軍余防冬,家有五六人在邊者,軍用重困。驥請歲一更,當代者以十月至,而代者留至來年正月乃遣歸,邊備足而軍不勞。帝善其議,行之諸邊。當是時,緬人已以思任發來獻,而思機發竊駐孟養地,屢遣使入貢謝罪。中外咸願罷兵。振意終未慊,要思機發躬入朝謝。沐斌帥師至金沙江招之,不至。諭孟養執之以獻,亦不聽命。於是振怒,欲盡滅其種類。

十三年の春、再び王驥に命じて軍務を総督させ、宮聚を平蛮将軍とし、十五万の軍を率いて往かせた。翌年、舟を造り金沙江を浮かび渡ろうとすると、蛮人は西岸に柵を設けて防ぎ守った。官軍は舟を連ねて浮橋とし渡河し、その柵を抜き、進んで鬼哭山を破り、続いて十余りの寨を陥落させ、墜落溺死する者は数え切れなかった。しかし思機発はついに脱走し、捕らえることができなかった。この時、官軍は孟養を越えた。孟那海に至る。その地は金沙江の西にあり、麓川から千里離れており、古来より兵力の及ぶところではなく、諸蛮は大軍を見て皆震え恐れた。しかし大軍が遠く跋渉し、王驥は兵糧の継続を慮り、急ぎ引き返すことを謀った。時に思機発は逃げ隠れていたが、思任発の末子思陸がまた衆を擁して孟養を占拠していた。王驥は賊が結局滅ぼせないと見極め、思陸と約束し、石の表を立て、金沙江の上で誓って言った、「石が爛れ江が枯れなければ、お前は渡ることができない」。こうして軍を返した。

原文十三年春復命驥總督軍務,宮聚為平蠻將軍,帥師十五萬人往。明年造舟浮金沙江,蠻人柵西岸拒守。官軍聯舟為浮橋以濟,拔其柵,進破鬼哭山,連下十餘寨,墜溺死者無算。而思機發終脫去,不可得。是時,官軍逾孟養。至孟𨚗海。地在金沙江西,去麓川千里,自古兵力所不至,諸蠻見大軍皆震怖。而大軍遠涉,驥慮饋餉不繼,亟謀引還。時思機發雖遁匿,而思任發少子思陸復擁眾據孟養。驥度賊終不可滅,乃與思陸約,立石表,誓金沙江上,曰:「石爛江枯,爾乃得渡。」遂班師。

王驥は三度麓川を征討したが、ついに思機発を得られなかった。議論する者は王驥らが軍を老いさせ財を費やし、一隅をもって天下を騒動させたことを咎めた。そして会川衛の訓導詹英が抗疏してこれを弾劾し、大略において言うには、「王驥らは多く民夫を役し、彩繒を担がせ、諸土司に散らして厚利を邀えた。腐刑を擅用し、詭って進御と称し、実は私役に充てた。師の行進に規律なく、十五万人が一日に出発し、互いに踏み躙った。各軍は米六斗を背負い、山谷を跋渉し、自縊する者が多かった。金沙江に到着し、彷徨して渡ろうとせず、渡った後も攻撃せず、攻撃して都指揮の路宣、翟亨らを失った。賊が解散するのを待ち、多く漁民を捕らえて俘虜とした。地を木邦、緬甸に分け与え、敗北を覆い隠して功績とした。これは李宓の敗北と何ら異ならず、楊国忠が捷報を聞かせたようなものである」。奏上は法司に下された。王振がこれを庇い、問責されなかった。そして詹英を王驥の軍に従わせ自ら効力させよと命じた。詹英は行けば罪を得ると知り、匿って行かなかった。

原文驥凡三征麓川,卒不得思機發。議者咎驥等老師費財,以一隅騷動天下。而會川衛訓導詹英抗疏劾之,大略謂:「驥等多役民夫,舁彩繒,散諸土司以邀厚利。擅用腐刑,詭言進禦,實充私役。師行無紀,十五萬人一日起行,互相蹂踐。每軍負米六斗,跋陟山谷,自縊者多。抵金沙江,徬徨不敢渡;既渡不敢攻;攻而失都指揮路宣、翟亨等。俟賊解,多捕魚戶為俘。以地分木邦、緬甸,掩敗為功。此何異李宓之敗,而楊國忠以捷聞也。」奏下法司。王振左右之,得不問。而命英從驥軍自效。英知往且獲罪,匿不去。

この時、湖広、貴州の諸苗が、所在で蜂起ほうきし、平越及び諸城堡を包囲し、貴州の東路は閉ざされた。王驥が武昌に到着すると、詔して軍を返し苗を討たせた。ちょうど英宗が北狩(土木の変)し、群臣が王振を弾劾し王驥にも及んだ。王驥が軍中にあり、かつ苗平定を倚り頼んでいたため、問わずに置いた。平蛮将軍の印を佩びさせ、総兵官とし、侍郎の侯琎に軍務を総督させた。やがて苗はますます勢いを増し、衆は十余万に至った。平越は半年包囲され、巡按御史の黄鎬が死守し、糧食が尽きて草根を掘り食い、王驥は辰州、沅州に軍を頓させて進まなかった。景泰元年、黄鎬は疏を草し竹筒の中に置き、人を募って間道から出させ、朝廷に聞かせた。改めて保定伯の梁珤を平蛮将軍とし、兵二万を増やした。侯琎が雲南から督戦して前進し、激戦して大いに賊を破り、諸城の包囲を全て解いた。そして王驥もまた刬平王の虫富らを捕らえて献上した。

原文當是時,湖廣、貴州諸苗,所在蜂起,圍平越及諸城堡,貴州東路閉。驥至武昌,詔還軍討苗。會英宗北狩,群臣劾王振並及驥。以驥方在軍,且倚之平苗,置弗問。命佩平蠻將軍印,充總兵官,侍郎侯琎總督軍務。已而苗益熾,眾至十餘萬。平越被圍半歲,巡按御史黃鎬死守,糧盡掘草根食之,而驥頓軍辰、沅不進。景泰元年,鎬草疏置竹筒中,募人自間道出,聞於朝。更命保定伯梁缶為平蠻將軍,益兵二萬人。侯琎自雲南督之前,疾戰,大破賊,盡解諸城圍。而驥亦俘刬平王蟲富等以獻。

王驥が帰還すると、命じて南京の機務を総督させた。その冬、世券を乞い、これを与えた。南畿の軍は平素より怠惰であった。王驥が到着し、自らが用いる軍法でこれを教えた。于謙はこれを重んじず、朝廷はその旧臣として寵礼した。三年四月、勅を賜い解任し、朝請に奉じた。王驥は七十余歳で、馬を躍らせ肉を食い、声伎を盛んにすることを以前の如くであった。

原文驥還,命總督南京機務。其冬,乞世券,與之。南畿軍素偷惰。驥至,以所馭軍法教之。于謙弗重也,朝廷以其舊臣寵禮之。三年四月,賜敕解任,奉朝請。驥年七十餘,躍馬食肉,盛聲伎如故。

久しくして、石亨、徐有貞らが英宗を奉じて復辟させ、王驥もこれに参与した。賞はやや遅れ、上章して自ら訟え、言うには、「臣の子の王祥が南城に入り、諸将に押され、地に堕ちてほとんど死にました。今、功績を論じても及ばず、これを蔽う者がいるのではないかと疑います」。帝はそこで王祥を指揮僉事に任じた。そして王驥に兵部尚書のまま、部の事務を処理させ、奉天翊衛推誠宣力守正文臣、光禄大夫の号を加え、その他は以前の通りとした。数か月後に老齢を理由に退職を請い、さらに三年して卒去した。八十三歳。靖遠侯を贈られ、忠毅と諡された。子の王常及び孫の王添に伝わった。王添は嘉善長公主を娶った。

原文久之,石亨、徐有貞等奉英宗復辟,驥與謀。賞稍後,上章自訟,言:「臣子祥入南城,為諸將所擠,墮地幾死。今論功不及,疑有蔽之者。」帝乃官祥指揮僉事。而命驥仍兵部尚書,理部事,加號奉天翊衛推誠宣力守正文臣、光祿大夫,余如故。數月請老,又三年乃卒,年八十三。贈靖遠侯,謚忠毅。傳子常及孫添。添尚嘉善長公主。

さらに伝わって孫の王瑾に至る。嘉靖の初め、三千営を提督し、南京を協守し、戻って左府を掌った。久しくして、征蛮将軍の印を佩び、両広を鎮守した。広東の新寧、新興、思平の間には多くの高山と叢箐があり、亡命者はしばしば諸瑶の中に入り、吏は問うことができず、衆は一万余人に至り、高要、陽江諸県を流れ劫いた。官軍がこれを討つと、しばしば失利した。三十五年の春、王瑾は巡撫都御史の談愷とともに諸路の土兵に檄を飛ばし、その首魁陳以明を誅し、諸巣を悉く平定した。捷報が聞こえ、太子太保を加えられた。そして扶藜、葵梅の諸山峒の馮天恩ら、険阻に拠って寇と為す者も数十年に及んだ。王瑾はまた軍を督して分道進剿し、巣二百余を破り、また功績により一子を錦衣百戸に蔭した。言官がその暴横を弾劾し、召還された。爵位は明が滅びるまで伝わり、そこで絶えた。

原文再傳至孫瑾。嘉靖初,提督三千營,協守南京,還掌左府。久之,佩征蠻將軍印,鎮兩廣。廣東新寧、新興、思平間多高山叢箐,亡命者輒入諸瑤中,吏不得問,眾至萬餘人,流劫高要、陽江諸縣。官軍討之,輒失利。三十五年春,瑾與巡撫都御史談愷檄諸路土兵誅其魁陳以明,悉平諸巢。捷聞,加太子太保。而扶藜、葵梅諸山峒馮天恩等,據險為寇者亦數十年。瑾復督軍分道進剿,破巢二百餘,復以功蔭一子錦衣百戶。言官劾其暴橫,召還。爵傳至明亡乃絕。

徐有貞は、字を元玉といい、初めの名は呈、呉の人である。宣徳八年の進士。庶吉士に選ばれ、編修を授かった。人となりは短小精悍で、智数多く、功名を喜んだ。天官、地理、兵法、水利、陰陽方術の書、諳究しないものはなかった。

原文徐有貞,字元玉,初名呈,吳人。宣德八年進士。選庶吉士,授編修。為人短小精悍,多智數,喜功名。凡天官、地理、兵法、水利、陰陽方術之書,無不諳究。

時に承平が既に久しく、辺備はますます惰り、西南では用兵が止まず、徐呈はこれを憂えた。正統七年に兵政五事を上疏して陳べ、帝はこれを善しとしたが用いることができなかった。十二年、侍講に進んだ。十四年の秋、熒惑が南斗に入った。徐呈は友人劉溥に私語して言った、「禍は遠くない」。急いで妻子に南還を命じた。土木の難が起こると、郕王が廷臣を召して計を問うた。徐呈は大言して言った、「星象を験し、歴数を稽えれば、天命は既に去り、ただ南遷のみが難を紓くことができる」。太監の金英がこれを叱り、胡濙、陳循は皆固執して不可とした。兵部侍郎の于謙が言った、「南遷を言う者は、斬るべきである」。徐呈は大いに沮喪し、敢えて再び言わなかった。

原文時承平既久,邊備俞惰,而西南用兵不息,呈以為憂。正統七年疏陳兵政五事,帝善之而不能用。十二年進侍講。十四年秋,熒惑入南斗。呈私語友人劉溥曰「禍不遠矣」,亟命妻子南還。及土木難作,郕王召廷臣問計。呈大言曰:「驗之星象,稽之歷數,天命已去,惟南遷可以紓難。」太監金英叱之,胡濙、陳循咸執不可。兵部侍郎于謙曰:「言南遷者,可斬也。」呈大沮,不敢復言。

景帝が即位すると、科道官十五人を外に遣わして兵を募らせ、徐呈は監察御史の事を行い、彰徳へ往った。寇が退くと、召還され、元の官のままとした。徐呈は進取に急で、自ら南遷の議を創って内廷に嘲笑され、久しく昇進できなかった。そこで陳循に玉帯を贈り、かつ星術を用いて言った、「公の帯はまさに玉となるでしょう」。間もなく、陳循は果たして少保を加えられ、大いに喜び、それによってしばしば徐呈を推薦した。そしてこの時、用人は多く少保の于謙によって決せられた。徐呈は于謙の門下の士に属して遊説させ、国子祭酒を求めた。于謙が帝に言上すると、帝は言った、「これは南遷を議した徐呈か?人となりは傾危で、諸生の心術を壊すであろう」。徐呈は于謙が自分を推薦したことを知らず、自分を沮んだと思い、于謙を深く怨んだ。陳循が徐呈に改名を勧め、それによって名を有貞とした。

原文景帝即位,遣科道官十五人募兵於外,呈行監察御史事,往彰德。寇退,召還,仍故官。呈急於進取,自創南遷議為內廷訕笑,久不得遷。因遺陳循玉帶,且用星術,言「公帶將玉矣。」無何,循果加少保,大喜,因屢薦之。而是時用人多決於少保于謙。呈屬謙門下士遊說,求國子祭酒。謙為言於帝,帝曰:「此議南遷徐呈邪?為人傾危,將壞諸生心術。」呈不知謙之薦之也,以為沮己,深怨謙。循勸呈改名,因名有貞。

景泰三年、右諭徳に遷る。黄河が沙湾で決壊して七年、前後して治める者皆功無し。廷臣共に有貞を挙げ、乃ち左僉都御史に擢げ、之を治めしむ。張秋に至り、水勢を相度し、三策を条上す:一に水門を置き、一に支河を開き、一に運河を浚う。議既に定まり、漕を督する都御史王竑、漕渠の淤浅にして運艘を滞するを以て、急に決口を塞ぐを請う。帝、有貞に軏の議の如くせしむを敕す。有貞は便宜を守る。言うに、「臨清の河浅きは、旧よりなり、決口未だ塞がざるに因るに非ず。漕臣は但だ決口を塞ぐを急と知るのみ、秋冬に塞ぐと雖も、来春必ず復た決するを知らず、徒らに労して益無し。臣、近功を邀えんと敢えてせず」と。詔して其の言に従う。有貞は是に於いて大いに民夫を集め、躬親して督率し、渠を治め閘を建て、張秋より起こして河・沁に接す。河流の旁出して順ならざる者を、九堰を以て之を障る。更に大堰を築き、水門を以て楗とし、五百五十五日を閲て工成る。其の渠を名づけて「広済」と曰い、閘を「通源」と曰う。工の未だ成らざる方に、帝、転漕を急と為し、工部尚書江淵等、中書を遣わし文武大臣に偕わせ京軍五万人を督して往きて役を助け、三月を期して工を畢えんことを請う。有貞言う、「京軍一出すれば、日費貲ふに貲あらず、漲に遇えば則ち束手坐視し、力を施す所無し。今泄口已に合し、決堤已に堅し、但だ沿河の民夫を用うれば、自ら事を集むるに足る」と。議遂に寝す。事竣り、召し還され、院事を佐く。帝厚く之を労う。復た出でて漕河を巡視す。済寧以下の十三州県の河夫多く官馬及び他の雑辦を負う、所司之を趣るに亟なり、有貞之を免すを言う。七年秋、山東大水し、河堤多く壊る、惟だ有貞の築く所の如故なる有り。有貞乃ち旧堤の決口を修め、臨清より済寧に抵るまで、各減水閘を置き、水患悉く平る。朝に還り、帝召見し、奨労有加え、左副都御史に進む。

原文景泰三年遷右諭德。河決沙灣七載,前後治者皆無功。廷臣共舉有貞,乃擢左僉都御史,治之。至張秋,相度水勢,條上三策:一置水門,一開支河,一浚運河。議既定,督漕都御史王竑以漕渠淤淺滯運艘,請急塞決口。帝敕有貞如軏議。有貞守便宜。言:「臨清河淺,舊矣,非因決口未塞也。漕臣但知塞決口為急,不知秋冬雖塞,來春必復決,徒勞無益。臣不敢邀近功。」詔從其言。有貞於是大集民夫,躬親督率,治渠建閘,起張秋以接河、沁。河流之旁出不順者,為九堰障之。更築大堰,楗以水門,閱五百五十五日而工成。名其渠曰「廣濟」,閘曰「通源」。方工之未成也,帝以轉漕為急,工部尚書江淵等請遣中書偕文武大臣督京軍五萬人往助役,期三月畢工。有貞言:「京軍一出,日費不貲,遇漲則束手坐視,無所施力。今泄口已合,決堤已堅,但用沿河民夫,自足集事。」議遂寢。事竣,召還,佐院事。帝厚勞之。復出巡視漕河。濟守十三州縣河夫多負官馬及他雜辦,所司趣之亟,有貞為言免之。七年秋,山東大水,河堤多壞,惟有貞所築如故。有貞乃修舊堤決口,自臨清抵濟寧,各置減水閘,水患悉平。還朝,帝召見,獎勞有加,進左副都御史。

八年正月、景帝豫せず。石亨・張軏等、上皇を迎えんことを謀り、以て太常卿許彬に告ぐ。彬曰く、「此れ世に非ざる功なり。彬老いたり、能く為す無し。徐元玉奇策に善し、盍ぞ之と図らざる」と。亨即ち夜に有貞の家に至る。之を聞き、大いに喜び、曰く、「須らく南城に此の意を知らしむべし」と。軏曰く、「陰に之を通ずる矣」と。太監曹吉祥をして入り太后に白せしむ。辛巳の夜、諸人復た有貞の所に会す。有貞屋に升り乾象を覧み、亟に下りて曰く、「時至る矣、失う勿れ」と。時に方に辺警有り、有貞軏に詭りて非常を備えんことを言わしめ、兵を勒して大内に入る。亨門鑰を掌り、夜四鼓、長安門を開きて之を納る。既に入り、復た閉じて以て外兵を遏す。時に天色晦冥、亨・軏皆惶惑し、有貞に謂いて曰く、「事当に済むか否や」と。有貞大言して「必ず済む」とし、之を行かしむるを趣す。既に南城に薄し、門錮り、墻を毀ちて以て入る。上皇燈下独り出でて故を問う、有貞等俯伏して登位を請う、乃ち輿を進むるを呼ぶ。兵士惶懼して挙ぐる能わず、有貞諸人を率いて助け挽きて以て行く。星月忽ち開朗す、上皇各諸人の姓名を問う。東華門に至る、門者拒みて納れず、上皇曰く「朕太上皇帝なり」と、遂に反走す。乃ち奉天門に升り、有貞等常服にて謁賀し、「万歳」と呼ぶ。

原文八年正月,景帝不豫。石亨、張輒等謀迎上皇,以告太常卿許彬。彬曰:「此不世功也。彬老矣,無能為。徐元玉善奇策,盍與圖之。」亨即夜至有貞家。聞之,大喜,曰:「須令南城知此意。」軏曰:「陰達之矣。」令太監曹吉祥入白太后。辛巳夜,諸人復會有貞所。有貞升屋覽乾象,亟下曰:「時至矣,勿失。」時方有邊警,有貞令軏詭言備非常,勒兵入大內。亨掌門鑰,夜四鼓,開長安門納之。既入,復閉以遏外兵。時天色晦冥,亨、軏皆惶惑,謂有貞曰:「事當濟否?」有貞大言「必濟」,趣之行。既薄南城,門錮,毀墻以入。上皇燈下獨出問故,有貞等俯伏請登位,乃呼進輿。兵士惶懼不能舉,有貞率諸人助挽以行。星月忽開朗,上皇各問諸人姓名。至東華門,門者拒弗納,上皇曰「朕太上皇帝也」,遂反走。乃升奉天門,有貞等常服謁賀,呼「萬歲」。

景帝明らかに当に朝を視すべく、群臣咸に闕下に漏を待つ。忽ち殿中に呼噪の声を聞き、方に驚愕す。俄に諸門畢く啓き、有貞出でて衆に号して曰く、「太上皇帝復位す矣」と。趣いて入り賀わしむ。即日有貞に学士を兼ねしめ、内閣に入り、機務に参預せしむ。明日兵部尚書を加う。有貞亨に謂いて曰く、「願わくは冠側註を以て兄の後に従わんことを得ん」と。亨帝に為に言い、武功伯に封じ華蓋殿大学士を兼ね、文淵閣事を掌り、号を「奉天翊衛推誠宣力守正文臣」と賜い、禄千一百石、世錦衣指揮使、誥券を給う。有貞遂に少保于謙・大学士王文を誣い、之を殺す。内閣の諸臣斥遂略く盡くす。陳循素より有貞に徳有り、亦た救わず。事権盡く有貞に帰し、中外咸に側目す。而して有貞愈々発舒し、進見時に無く、帝亦た傾心委任す。

原文景帝明當視朝,群臣咸待漏闕下。忽聞殿中呼噪聲,方驚愕。俄諸門畢啟,有貞出號於眾曰:「太上皇帝復位矣!」趣入賀。即日命有貞兼學士,入內閣,參預機務。明日加兵部尚書。有貞謂亨曰:「願得冠側註從兄後。」亨為言於帝,封武功伯兼華蓋殿大學士,掌文淵閣事,賜號「奉天翊衛推誠宣力守正文臣」,祿千一百石,世錦衣指揮使,給誥券。有貞遂誣少保于謙、大學士王文,殺之。內閣諸臣斥遂略盡。陳循素有德於有貞,亦弗救也。事權盡歸有貞,中外咸側目。而有貞愈益發舒,進見無時,帝亦傾心委任。

有貞志を得たる後、則ち自ら曹・石と異ならんことを思う。帝の二人に於いて厭色無きに非ざるを窺い、乃ち稍稍之を裁ち、且つ微かに其の貪横の状を言う、帝亦た之の為に動く。御史楊瑄奏して亨・吉祥の民田を侵占するを劾す。帝有貞及び李賢に問う、皆対えて瑄の奏の如し。詔有りて瑄を奨す。亨・吉祥大いに怨恨し、日夜有貞を構えんことを謀る。帝方に有貞を眷し、時に人を屏て密語す。吉祥小豎をして窃に之を聴き得しめ、故に之を帝に泄らす。帝驚き問いて曰く、「安にか此の語を受く」と。対えて曰く、「之を有貞に受く、某日某事を語る、外間に聞かざる無し」と。帝是より有貞を疏む。会に御史張鵬等亨の他の罪を糾さんと欲す、未だ上せず、而して給事中王鉉之を亨・吉祥に泄らす。二人乃ち泣きて帝に訴え、内閣実に之を主とすと謂う。遂に諸御史を獄に下し、並びに有貞及び李賢を逮系す。忽ち雷雹交作し、大風木を折る。帝憾み悟り、重ねて亨の意に違うを憚り、乃ち有貞を釈して出で広東参政と為す。

原文有貞既得誌,則思自異於曹、石。窺帝於二人不能無厭色,乃稍稍裁之,且微言其貪橫狀,帝亦為之動。御史楊瑄奏劾亨、吉祥侵占民田。帝問有貞及李賢,皆對如瑄奏。有詔獎瑄。亨、吉祥大怨恨,日夜謀構有貞。帝方眷有貞,時屏人密語。吉祥令小豎竊聽得之,故泄之帝。帝驚問曰:「安所受此語?」對曰:「受之有貞,某日語某事,外間無弗聞。」帝自是疏有貞。會御史張鵬等欲糾亨他罪,未上,而給事中王鉉泄之亨、吉祥。二人乃泣訴於帝,謂內閣實主之。遂下諸御史獄,並逮系有貞及李賢。忽雷雹交作,大風折木。帝憾悟,重違亨意,乃釋有貞出為廣東參政。

亨等憾み未だ已まず、必ず之を殺さんと欲す。人をして匿名の書を投げしめ、乗輿を指斥し、雲う有貞怨望す、其の客馬士権なる者をして之を為さしむと。遂に有貞を德州に追執し、並びに士権を詔獄に下し、榜治するも験無し。会に承天門災有り、肆赦す。亨・吉祥有貞の釈を見んことを慮り、帝に言いて曰く、「有貞自ら武功伯の券辞を撰みて雲う『禹の功を纘ぐ』と、又自ら封邑武功を択ぶ。禹は禅を受けて帝と為り、武功は曹操の始めて封ぜらるる所なり。有貞望みに非ざるを図る」と。帝出だして以て法司に示す、刑部侍郎劉広衡等奏して当に棄市すべしとす。詔して金齒に徙して民と為す。

原文亨等憾未已,必欲殺之。令人投匿名書,指斥乘輿,雲有貞怨望,使其客馬士權者為之。遂追執有貞於德州,並士權下詔獄,榜治無驗。會承天門災,肆赦。亨、吉祥慮有貞見釋,言於帝曰:「有貞自撰武功伯券辭雲『纘禹成功』,又自擇封邑武功。禹受禪為帝,武功者曹操始封也。有貞誌圖非望。」帝出以示法司,刑部侍郎劉廣衡等奏當棄市。詔徙金齒為民。

亨敗るるや、帝従容として李賢・王翺に謂いて曰く、「徐有貞何の大罪か有らん、石亨輩に陷しめらるる耳。其れ釈して田裏に帰せしめよ」と。成化初め、復た冠帯して閑住す。有貞既に釈して帰る、猶お帝の復た召すを冀い、時時天象を仰観し、将星吳に在りと謂い、益々自ら負う。常に鉄鞭を自ら随え、数え起舞う。及び韓雍の両広を征して功有るを聞くや、乃ち鞭を擲ちて太息して曰く、「孺子も亦た天象に応ずるか」と。遂に山水の間に放浪し、十余年にして乃ち卒す。

原文亨敗,帝從容謂李賢、王翺曰:「徐有貞何大罪?為石亨輩所陷耳。其釋歸田裏。」成化初,復冠帶閑住。有貞既釋歸,猶冀帝復召,時時仰觀天象,謂將星在吳,益自負。常以鐵鞭自隨,數起舞。及聞韓雍征兩廣有功,乃擲鞭太息曰:「孺子亦應天象邪?」遂放浪山水間,十餘年乃卒。

有貞初めて獄を出づる時、士権の背を拊して曰く、「子は義士なり、他日一女を相托せん」と。金齒より帰り、士権時に往きて之を候う、絶えて婚事に及ばず。士権辞して去り、終身其の事を言わず、人此を以て有貞を薄くし而して士権を重んず。

原文有貞初出獄時,拊士權背曰:「子,義士也,他日一女相托。」金齒歸,士權時往候之,絕不及婚事。士權辭去,終身不言其事,人以是薄有貞而重士權。

楊善、字は思敬、大興の人。年十七にして諸生と為る。成祖兵を起こし、城守に預かり労有り、典儀所引礼舎人を授かる。

原文楊善,字思敬,大興人。年十七為諸生。成祖起兵,預城守有勞,授典儀所引禮舍人。

永楽元年、鴻臚寺序班に改む。善は風儀偉く、音吐洪亮にして、進止に工なり。毎に朝謁引進奏する時、上目之に属す。累進して右寺丞と為る。仁宗即位し、本寺卿に擢ぐ。宣徳六年、劾せられて獄に下り、冠帯を褫ぎ、一月を逾ゆ。

原文永樂元年,改鴻臚寺序班。善偉風儀,音吐洪亮,工進止。每朝謁引進奏時,上目屬之。累進右寺丞。仁宗即位,擢本寺卿。宣德六年被劾下獄,褫冠帶,逾月。

正統六年、子容中官の書を詐り作り、尚書呉中に金を仮る。事覚り、謫せられて威遠衛に戍し、善を置いて問わず。久しくして、礼部左侍郎に擢げ、仍鴻臚の事を視る。

原文正統六年,子容詐作中官書,假金於尚書吳中。事覺,謫戍威遠衛,置善不問。久之,擢禮部左侍郎,仍視鴻臚事。

十四年八月、扈駕して北征に従う。土木に至り、師潰え、善は間行して脱するを得たり。也先将に寇を入れんとし、左副都御史に改め、都督王通とともに京城守備を提督す。寇退き、右都御史に進み、鴻臚の事を視ること旧の如し。景泰元年、廷臣朝正畢り、故事に循い、相賀す朝房に於いて。善独り流涕して曰く、「上皇何れの所に在りや、而して我曹自ら相賀する乎」と。衆愧じ、之を為に止む。是年夏、李実・羅綺瓦剌に使いし、兵を罷むるを議す、未だ還らず、而して也先の使至り、言う朝廷使いを遣わし阿剌知院に報ずるも、大臣を遣わして可汗及び太師に報ぜずんば、事必ず済まずと。尚書王直等其の言を奏す、廷議四人を簡びて正副使と為し、之と偕に行かしむ、帝命じて李実の還りて議するを俟たしむ。已にして実将に至らんとす、乃ち善及び侍郎趙栄を使いと為し、金銀書幣を賫して往かしむ。

原文十四年八月扈駕北征。及土木,師潰,善間行得脫。也先將入寇,改左副都御史,與都督王通提督京城守備。寇退,進右都御史,視鴻臚如故。景泰元年,廷臣朝正畢,循故事,相賀於朝房。善獨流涕曰:「上皇在何所,而我曹自相賀乎!」眾愧,為之止。是年夏,李實、羅綺使瓦剌,議罷兵,未還,而也先使至,言朝廷遣使報阿剌知院,而不遣大臣報可汗及太師,事必不濟。尚書王直等奏其言,廷議簡四人為正副使,與偕行,帝命俟李實還議之。已而實將至,乃命善及侍郎趙榮為使,賫金銀書幣往。

先ず是れ袁敏なる者、服御物を賫して上皇の安否を問わんことを請う、納れられず。是に及び、尚書胡濙等言う、上皇塵に蒙る久しく、禦用の服食宜しく善等に付し随行すべしと、亦報ぜず。時に也先上皇を還さんと欲す、而して敕書に奉迎の語無く、自ら賫して也先に賜う外、善等に他賜無し。善乃ち家財を出だし、悉く彼中の需る所の者を市い、携えて以て往く。

原文先是袁敏者,請賫服御物問上皇安,不納。及是,尚書胡濙等言,上皇蒙塵久,禦用服食宜付善等隨行,亦不報。時也先欲還上皇,而敕書無奉迎語,自賫賜也先外,善等無他賜。善乃出家財,悉市彼中所需者,攜以往。

既に至る、其の館伴と帳中に飲み、善に詫えて曰く、「土木の役、六師何ぞ怯なるや」と。善曰く、「彼の時官軍の壮なる者は悉く南征し、王司礼大駕を邀いて其の裏に幸せしめ、戦備を為さず、故に汝をして志を得しむる耳。今南征の将士帰り、二十万とす可し。又中外の材官技撃を募り、三十万とす可し。悉く以て神槍火器薬弩を教え、百歩外人馬の腹を洞して立ちどころに死す。又策士の言を用い、辺縁の要害に縁り、鉄椎三尺を隠し、馬蹄践みて輒ち穿つ。又刺客林立し、夜営幕を度ること猿猱の若し」と。伴色動く。善曰く、「惜しい哉、今皆無用に置く」と。問う「何の故ぞ」と。曰く、「和議成り、歓好且つ兄弟の若くんば、安んぞ此を用いん」と。因りて以て所賫の物を之に遺す。其の人喜び、悉く以て語る也先に。

原文既至,其館伴與飲帳中,詫善曰:「土木之役,六師何怯也?」善曰:「彼時官軍壯者悉南征,王司禮邀大駕幸其裏,不為戰備,故令汝得誌耳。今南征將士歸,可二十萬。又募中外材官技擊,可三十萬。悉教以神槍火器藥弩,百步外洞人馬腹立死。又用策士言,緣邊要害,隱鐵椎三尺,馬蹄踐輒穿。又刺客林立,夜度營幕若猿猱。」伴色動。善曰:「惜哉,今皆置無用矣。」問:「何故?」曰:「和議成,歡好且若兄弟,安用此?」因以所賫遺之。其人喜,悉以語也先。

明日也先に謁す、亦大いに遺す所有り、也先亦喜ぶ。善因りて之を詰めて曰く、「太上皇帝の朝、太師貢使を遣わす必ず三千人、歳必ず再び賚い、金幣途に載す、乃ち盟を背きて攻め見るは何ぞや」と。也先曰く、「奈何ぞ我が馬価を削り、予うる帛多く剪裂し、前後人をして往かしむる多く帰らず、又歳賜を減ずるや」と。善曰く、「削るに非ざるなり、太師の馬歳に増し、価継ぎ難くして拒むに忍びず、故に微かに之を損ず。太師自ら度れ、価前に比して孰れか多きや。帛剪裂する者は、通事之を為す、事露れ、誅せらる。即ち太師の貢馬に劣弱有り、貂或いは敝るるも、亦豈に太師の意ならんや。且つ使者多くは三四千人に至り、盗を為す或いは他の法を犯す有り、帰りて罪を得んことを恐る、故に自ら亡ぶ耳、留めて若し何を為さん。貢使宴賜を受け、上名或いは其の人数を浮かす、朝廷実を核して之を与う。減ずる所は乃ち虚数、其の人ある者は、固より減ぜず」と。也先屡しく善と称す。善復た曰く、「太師再び我を攻め、屠戮数十万、太師の部曲ぶきょく死傷亦少なからず。上天は生を好み、太師は殺を好む、故に数に雷警有り。今上皇を還し、和好旧の如く、中国の金幣日より至り、両国倶に楽しむ、亦美ならずや」と。也先曰く、「敕書何を以てか奉迎の語無きや」と。善曰く、「此れ太師の令名を成さんと欲し、使いて自ら之を為さしむ。若し之を敕書に載せば、是れ太師朝命に迫るるに在り、太師の誠心に非ざるなり」と。也先大いに喜び、問う「上皇帰り将に復た天子と為るを得んや」と。善曰く、「天位已に定まり、再び移し難し」と。也先曰く、「堯・舜は如何」と。善曰く、「堯舜を譲る、今兄弟を譲る、正に相同じきなり」と。其の平章昂克善に問う「何を以てか重宝を以て来り購わざるや」と。善曰く、「若し貨を賫して来らば、人太師の利を図ると謂わん。今爾らず、乃ち太師の仁義を見、好男子と為り、史策に垂れ、万世を頌揚す」と。也先笑いて善と称す。知院伯毅帖木耳也先に勧めて使臣を留め、而して使いを遣わし上皇の復位を要せしむ。也先失信を懼れ、不可とし、竟に善に許して上皇を奉じて還らしむ。

原文明日謁也先,亦大有所遺,也先亦喜。善因詰之曰:「太上皇帝朝,太師遣貢使必三千人,歲必再賚,金幣載途,乃背盟見攻何也?」也先曰:「奈何削我馬價,予帛多剪裂,前後使人往多不歸,又減歲賜?」善曰:「非削也,太師馬歲增,價難繼而不忍拒,故微損之。太師自度,價比前孰多也?帛剪裂者,通事為之,事露,誅矣。即太師貢馬有劣弱,貂或敝,亦豈太師意耶?且使者多至三四千人,有為盜或犯他法,歸恐得罪,故自亡耳,留若奚為?貢使受宴賜,上名或浮其人數,朝廷核實而予之。所減乃虛數,有其人者,固不減也。」也先屢稱善。善復曰:「太師再攻我,屠戮數十萬,太師部曲死傷亦不少矣。上天好生,太師好殺,故數有雷警。今還上皇,和好如故,中國金幣日至,兩國俱樂,不亦美乎?」也先曰:「敕書何以無奉迎語?」善曰:「此欲成太師令名,使自為之。若載之敕書,是太師迫於朝命,非太師誠心也。」也先大喜,問:「上皇歸將復得為天子乎?」善曰:「天位已定,難再移。」也先曰:「堯、舜如何?」善曰:「堯讓舜,今兄讓弟,正相同也。」其平章昂克問善:「何不以重寶來購?」善曰:「若賫貨來,人謂太師圖利。今不爾,乃見太師仁義,為好男子,垂史策,頌揚萬世。」也先笑稱善。知院伯毅帖木耳勸也先留使臣,而遣使要上皇復位。也先懼失信,不可,竟許善奉上皇還。

時に挙朝競いて善の功を奇とす、而して景帝初めに遣わしし旨に非ずと以て、其の賞を薄くす。左都御史に遷り、仍り鴻臚の事を蒞む。二年、廷臣正旦を朝し畢り、賀を修むる朝房に於いて。善又た曰く、「上皇賀を受けず、我曹何ぞ相賀するや」と。三年正月太子太保を加う。六年衰老を以て致仕を乞う、優詔して許さず。

原文時舉朝競奇善功,而景帝以非初遣旨,薄其賞。遷左都御史,仍蒞鴻臚事。二年,廷臣朝正旦畢,修賀朝房。善又曰:「上皇不受賀,我曹何相賀也?」三年正月加太子太保。六年以衰老乞致仕,優詔不許。

善状貌魁梧、応対捷給なり。然れども学術無く、滑稽、客に対し鮮しきに庄語す。京師に家し、第を治む郭外に。園に善果多く、歳時公卿戚里中貴に饋り、其の歓心を得ざる無し。王振事を用うるに、善媚びて之に事う。是に至りて又石亨・曹吉祥と結ぶ。天順元年正月、亨・吉祥上皇を奉じて復辟す。善謀に預かるを以て、奉天翊衛推誠宣力武臣・特進光禄大夫・柱国・興済伯に封ぜられ、歳禄千二百石、世券を賜い、左軍都督府事を掌る。尚書胡濙善の迎駕の功を頌し、礼部尚書を兼ぬるを命ぜられ、尋いで守正文臣に改む。善瓦剌に使いし、子四人を携えて行く、是に至りて並びに官を得。又従子・養子の為に恩を乞い、官を得る者復た十数人。気勢烜赫、権を招き賄を納る。亨輩嫉みて之を間い、是を以て漸く疏外さる。二年五月卒す。興済侯を贈られ、謚して忠敏と曰う。

原文善狀貌魁梧,應對捷給。然無學術,滑稽,對客鮮莊語。家京師,治第郭外。園多善果,歲時饋公卿戚里中貴,無不得其歡心。王振用事,善媚事之。至是又與石亨、曹吉祥結。天順元年正月,亨、吉祥奉上皇復辟。善以預謀,封奉天翊衛推誠宣力武臣、特進光祿大夫、柱國、興濟伯,歲祿千二百石,賜世券,掌左軍都督府事。尚書胡濙頌善迎駕功,命兼禮部尚書,尋改守正文臣。善使瓦剌,攜子四人行,至是並得官。又為從子、養子乞恩,得官者復十數人。氣勢烜赫,招權納賄。亨輩嫉而間之,以是漸疏外。二年五月卒。贈興濟侯,謚忠敏。

善才弁を負い、巧みに以て功名を取り、而して憸忮にして士論に棄てらる。其れ序班と為る、事に坐して庶吉士章樸と同しく獄に繋がれ、久しきの後、相狎ぶ。時に方に方孝孺の党を窮治す、樸言う家に孝孺の集有り、未だ毀たずと。善従り借り観し、密かに之を奏す。樸是を以て誅死し、而して善官に復するを得。于謙・王文の戮せらるる、陳循の竄せらるる、善亦力有り。子宗爵を襲ぐ、後「奪門」の功を革め、金吾指揮使に降す。孫増公主を尚う。

原文善負才辨,以巧取功名,而憸忮為士論所棄。其為序班,坐事與庶吉士章樸同繋獄,久之,相狎。時方窮治方孝孺黨,樸言家有孝孺集,未及毀。善從借觀,密奏之。樸以是誅死,而善得復官。于謙、王文之戮,陳循之竄,善亦有力焉。子宗襲爵,後革「奪門」功,降金吾指揮使。孫增尚公主。

李実、字は孟誠、合州の人。正統七年進士。人と為り恣肆にして拘檢無く、口辨有り。景泰初め、礼科給事中と為る。也先完者脱歓をして和を議せしむ、実行かんことを請う。礼部右侍郎に擢て以て往かしめ、少卿羅綺を副と為す。至れば則ち上皇を見、頗る也先の要領を得、還りて言う也先和を請う他意無しと。楊善の往くに及び、上皇果して還る。是年十月右都御史に進み、湖広を巡撫す。五年召し還され、院事を掌る。初め、実使いして上皇に謁し、京に還り咎を引きて自ら責めんことを請う、上皇の意を失う。後に郷に居り暴横を以て、民と為して斥けらる。

原文李實,字孟誠,合州人。正統七年進士。為人恣肆無拘檢,有口辨。景泰初,為禮科給事中。也先令完者脫歡議和,實請行。擢禮部右侍郎以往,少卿羅綺為副。至則見上皇,頗得也先要領,還言也先請和無他意。及楊善往,上皇果還。是年十月進右都御史,巡撫湖廣。五年召還,掌院事。初,實使謁上皇,請還京引咎自責,失上皇意。後以居鄉暴橫,斥為民。

趙栄、字は孟仁、其の先西域の人。元の時中国に入り、閩県に家す。舅薩琦、翰林に官し、従いて都に入り、能書を以て中書舎人を授かる。

原文趙榮,字孟仁,其先西域人。元時入中國,家閩縣。舅薩琦,官翰林,從入都,以能書授中書舍人。

正統十四年十月、也先が上皇を擁して大同に至ると、知府霍瑄が謁見し、慟哭して帰った。也先はついに京師を犯し、上皇を奉じて土城に登り、大臣を出迎えさせようと求めた。王栄は慨然として行くことを請うた。大学士高谷はその背を叩いて言った、「君は忠義の人である」と。自ら佩いていた犀帯を解いて贈り、直ちに大理右少卿に抜擢し、鴻臚卿を充てた。右通政王復とともに出城して朝見し、羊や酒などの品々を進めた。也先は大臣ではないとして、彼らを帰らせ、代わりに于謙、石亨、王直、胡濙の出頭を求めた。景帝は遣わさなかった。王栄を太常少卿に改め、引き続き内閣で供事させた。景泰元年七月、工部右侍郎に抜擢し、楊善らとともに赴いた。勅書には奉迎の文言がなく、楊善は口弁に優れ、王栄がこれを補佐し、ついに上皇を帰還させた。左侍郎に進んだ。

原文正統十四年十月,也先擁上皇至大同,知府霍瑄謁見,慟哭而返。也先遂犯京師,奉上皇登土城,邀大臣出迓。榮慨然請行。大學士高谷拊其背曰:「子,忠義人也。」解所佩犀帶贈之,即擢大理右少卿,充鴻臚卿。偕右通政王復出城朝見,進羊酒諸物。也先以非大臣,遣之還,而邀于謙、石亨、王直、胡濙出。景帝不遣。改榮太常少卿,仍供事內閣。景泰元年七月擢工部右侍郎,偕楊善等往。敕書無奉迎語,善口辯,榮左右之,竟奉上皇歸。進左侍郎。

行人王晏が沁河を開削して漕運を通すことを請うと、再び廷議に下され、不便であるとの意見が出たため、王栄を派遣して実地調査させた。帰還後、王栄もまた不便であると述べた。まもなく勅命を受け、山東、河南の三司とともに河道を相度した。人々は王栄が科挙の出身でないことを理由に軽んじた。王栄は怒り、多くを鞭打って辱め、また自ら衣をまくって水深を探った。三司はそれぞれ上章して、王栄が単騎で馳せ回り軍民を驚かせ、県官を杖で傷つけ、倉米を売って多くを値取ったと述べた。巡撫、按察使の薛希璉、張琛もまたこれを上聞した。上章は治河僉都御史徐有貞に下され、審査上奏された。法司は言うに、王栄は大礼を失ったとはいえ、終には国事に急であったのであり、米売りは従者のしたことである。諸臣が大臣を侮り、勅旨に抗したのは、逮捕処罰すべきであり、薛希璉、張琛もまた罪に問うべきであると。帝は按察使に命じて諸臣から供述書を取らせ、これを宥した。

原文行人王晏請開沁河通漕運,再下廷議,言不便,遣榮往勘。還,亦言不便。尋奉敕會山東、河南三司相度河道。眾以榮不由科目,慢之。榮怒,多所撻辱,又自攝衣探水深淺。三司各上章言榮單馬馳走,驚駭軍民,杖傷縣官,鬻廩米多取其直。撫、按薛希璉、張琛亦以聞。章下治河僉都御史徐有貞核奏。法司言,榮雖失大體,終為急於國事,鬻米從人所為。諸臣侮大臣,抗敕旨,宜逮治,希璉、琛亦宜罪。帝令按臣責取諸臣供狀,宥之。

天順元年、尚書に進んだ。曹欽が反乱を起こすと、王栄は市中で馬を駆って大声で叫んだ、「曹賊が叛逆を起こした、壮士は我とともに罪を討とう」と。果たして来る者があり、直ちに率いて向かった。賊が平定されると、英宗は李賢に語り、王栄の忠義を嘆じて、兼ねて大理寺卿とし、その俸給を支給させた。七年、病により罷免された。成化十一年に卒去した。礼制に従って恤典を賜った。

原文天順元年進尚書。曹欽反,榮策馬大呼於市曰:「曹賊作逆,壯士同我討罪。」果有至者,即率之往。賊平,英宗與李賢言,嘆榮忠,命兼大理寺卿,食其俸。七年以疾罷。成化十一年卒。賜恤如制。

霍瑄、字は廷璧、鳳翔の人。郷挙により国子監に入り、大同通判を授かった。正統十二年、武進伯朱冕の推薦により、そのまま知府に抜擢された。也先が英宗を擁して城下に至ると、霍瑄は理餉侍郎沈固らと出て謁見し、馬に叩頭して号泣した。賊兵は刃を露わにして叱責したが、動じなかった。上皇は城内の金帛を徴発するよう命じ、霍瑄は有り金すべてを献上したので、上皇は賞賛嘆息した。敵寇はしばしば大同、渾源に出没し、軍民の樵採を狙っては、すぐさま駆り立て掠奪した。あるいは幸いに脱して帰っても、多くは手足を傷つけられていた。残された民は相次いで城に入ったが、住む所がなく、また食糧も乏しかった。霍瑄はこれらすべてを上奏した。老弱は一時的な移住を認め、穀物を発して救済し、城守に留まった壮丁は賦役を免除した。任期が満ちて昇任すべきところ、鎮守・巡撫の諸臣が留任を請うた。詔により山西右参政を加えられ、引き続き府の事務を治めた。

原文霍瑄,字廷璧,鳳翔人。由鄉舉入國學,授大同通判。正統十二年,以武進伯朱冕薦,就擢知府。也先擁英宗至城下,瑄與理餉侍郎沈固等出謁,叩馬號泣。眾露刃叱之,不為動。上皇命括城內金帛,瑄悉所有獻之,上皇嘉嘆。寇數出沒大同、渾源,伺軍民樵采,輒驅掠。或幸脫歸,率殘傷肢體。遺民相率入城,無所棲,又乏食。瑄俱為奏之。老弱聽暫徙,發粟振,而所留城守丁壯除賦役。秩滿當遷,鎮巡諸臣乞留。詔加山西右參政,仍治府事。

英宗が復位すると、霍瑄を召し出して工部右侍郎とし、一方で沈固もまた石亨の推薦により、起用されて戸部尚書となった。まもなく巡撫が霍瑄の治績を上奏すると、誥命を賜って表彰した。初め、霍瑄が大同にいた時、巡撫年富が逮捕されると、霍瑄はその家族に旅費を送って帰郷させたが、これが鎮守太監韋力轉に憎まれ、十数回鞭打たれた。この時、霍瑄はこれを上聞し、さらに韋力轉が宴会のたびに妓楽を用い、王者のように服飾乗り物が僭越で奢侈であり、部民の娘を強引に妾に取ったと述べた。韋力轉もまた霍瑄の違法行為を告発した。帝は双方を釈放した。その年、左侍郎に転じ、二品の服を賜った。成化初年、たびたび言官に弾劾された。致仕を命じられた。京師で卒去した。

原文英宗復位,征拜瑄工部右侍郎,而固亦以石亨薦,起為戶部尚書。既而巡撫上瑄治行,賜誥旌異。初,瑄在大同,巡撫年富被逮,瑄資其家還裏,為鎮守太監韋力轉所惡,撻之十餘。至是瑄以聞,且言力轉每宴輒用妓樂,服御僭侈如王者,強取部民女為妾。力轉亦訐瑄違法事。帝兩釋焉。其年轉左,賜二品服。成化初,屢為言官所劾。命致仕。卒於京師。

霍瑄は初め郡を治めて名声があったが、晩節は慎みがなかった。ただ艱難危険の時に天子に知られたことにより、長く顕位に列したのである。

原文瑄初治郡有聲,晚節不檢。特以艱危時見知天子,遂久列顯位。

沈固、丹陽の人。永楽年間、郷挙から出発し、官を積んで尚書に至った。石亨が失脚すると、致仕を請いて去った。

原文沈固,丹陽人。永樂中,起家鄉舉,積官至尚書。石亨敗,乞休去。

王越、字は世昌、濬の人。背が高く、力強く弓射に優れた。書史に通じ、大略があった。景泰二年の進士に及第した。廷試の日、旋風が起こり、その答案用紙を吹き飛ばしたので、改めて用紙を与えられ、ようやく試験を終えた。御史を授かり、陝西を巡察した。父の訃報を聞くと、後任を待たずにすぐに帰郷し、都御史に弾劾された。帝は特にこれを許した。天順初年、起用されて諸道の章奏を掌り、超擢されて山東按察使となった。七年、大同巡撫都御史韓雍が召還されると、帝はその後任を難しく思い、嘆息して言った、「韓雍のような者を得て任せたいものだ」と。李賢が王越を推薦し、召見された。王越は立派な服に短い袖という姿で、進退が軽快であった。帝は喜び、右副都御史に抜擢して赴任させた。到着したばかりで、母の喪に遭ったが、喪中を奪情して職務に当たらせた。王越はそこで兵器甲冑を整え、兵卒を選び、堡寨を修築し、課税を減らして商売を勧め、長久の計を図った。

原文王越,字世昌,濬人。長身,多力善射。涉書史,有大略。登景泰二年進士。廷試日,旋風起,揚其卷去,更給卷,乃畢事。授御史,出按陜西。聞父訃,不俟代輒歸,為都御史所劾。帝特原之。天順初,起掌諸道章奏,超拜山東按察使。七年,大同巡撫都御史韓雍召還,帝難其代,喟然曰:「安得如雍者而任之。」李賢薦越,召見。越偉服短袂,進止便利。帝喜,擢右副都御史以行。甫至,遭母憂,奪情視事。越乃繕器甲,簡卒伍,修堡寨,減課勸商,為經久計。

成化三年、撫寧侯朱永が毛裏孩を征討するに当たり、王越をして軍務を賛理させた。その秋、兼ねて宣府を巡撫した。

原文成化三年,撫寧侯朱永征毛裏孩,以越贊理軍務。其秋,兼巡撫宣府。

五年の冬、敵寇が河套に入ると、延綏巡撫王鋭が援軍を請うた。詔して王越に師を率いて赴かせた。河套とは、周の朔方、秦の河南の地であり、土壌は肥沃で、水草が豊かである。東は山西偏頭関に距たり、西は寧夏に距たり、およそ二千里。三方は河に阻まれ、北は榆林の背を扼する。唐の三受降城は河の外にあり、もとは内陸の地であった。明の初期、河を防衛線として守り、延綏もまた事がなかった。天順年間以来、毛裏孩ら三部が初めて侵入して寇となったが、時々出没するだけで、長く駐留することはなかった。この時になって初めてその中に屯牧し、たびたび辺境の患いとなった。王越が榆林に至ると、遊撃将軍許寧を西路の龍州、鎮靖諸堡に出させ、範瑾を東路の神木、鎮羌諸堡に出させ、自らは中官秦剛とともに榆林城を巡視して声援とした。許寧は黎家澗で戦い、範瑾は崖窯川で戦い、いずれも勝利した。右参将神英もまた鎮羌で敵を破り、敵寇はようやく退いた。

原文五年冬,寇入河套,延綏巡撫王銳請濟師,詔越帥師赴之。河套者,周朔方、秦河南地,土沃,豐水草。東距山西偏頭關,西距寧夏,可二千里。三面阻河,北拊榆林之背。唐三受降城在河外,故內地。明初,阻河為守,延綏亦無事。自天順間,毛裏孩等三部始入為寇,然時出沒,不敢久駐。至是始屯牧其中,屢為邊患。越至榆林,遣遊擊將軍許寧出西路龍州、鎮靖諸堡,範瑾出東路神木、鎮羌諸堡,而自與中官秦剛按榆林城為聲援。寧戰黎家澗,瑾戰崖窯川,皆捷;右參將神英又破敵於鎮羌,寇乃退。

翌年正月、勝利を報告し、王越は軍を引いて帰還した。偏頭関に着くと、延綏から警報が来た。兵部は王越が勝手に帰還したことを弾劾した。詔は罪に問わず、王越に延綏の近地に駐屯して援護するよう命じた。敵寇一万余騎が五路から侵入して掠奪し、王越は許寧らに撃退させた。右副都御史に進んだ。この年三月、朝廷は阿羅出らが辺境を擾乱して止まないため、撫寧侯朱永を将軍に任じ、王越とともにこれを図らせた。開荒川で敵を破り、諸将は敗走する敵を牛家寨まで追撃し、阿羅出は流れ矢に当たって逃走した。功績により、右都御史に進んだ。

原文明年正月以捷聞,越引還。抵偏頭關,延綏告警。兵部劾越擅還。詔弗罪,而令越屯延綏近地為援。寇萬餘騎五路入掠,越令寧等擊退之。進右副都御史。是年三月,朝廷以阿羅出等擾邊不止,拜撫寧侯朱永為將軍,與越共圖之。破敵開荒川,諸將追奔至牛家寨,阿羅出中流矢走。論功,進右都御史。

さらに翌年、王越は西方征討を理由に、大同巡撫を辞任した。詔はこれを聞き入れ、総督軍務を加え、専ら西方の事を処理させた。しかしこの時、敵寇は数万おり、官軍で戦える者は僅か一万人で、さらに分散して防衛していたため、勢いが敵わなかった。朱永、王越はそこで戦いと守りの二策を条上した。尚書白圭もまたこれを難しく思い、諸将に守備を命じるよう請うた。その年、敵寇は再び連続して懐遠諸堡に入り、朱永、王越はこれを防ぎ退けた。白圭は再び大規模な河套掃討を請うた。

原文又明年,越以方西征,辭大同巡撫。詔聽之,加總督軍務,專辦西事。然是時寇數萬,而官軍堪戰者僅萬人,又分散防守,勢不敵。永、越乃條上戰、守二策。尚書白圭亦難之,請敕諸將守。其年,寇復連入懷遠諸堡,永、越禦卻之。圭復請大舉搜套。

翌年、侍郎葉盛を軍中に派遣して協議させた。この時、朱永はすでに召還されており、王越は士卒の衣装がすっかり破れ、馬の死没が半数を超えたことを理由に、しばらく兵を休めたいと請い、葉盛とともに帰還した。しかし廷議では、河套を滅ぼさなければ、三辺は終に安寧の年がない。先に徴発した諸軍はすでに八万を超え、将軍の権限が統一されず、ついに成功しなかった。専任の大将を派遣して調度すべきであるとした。そこで武靖侯趙輔を平虜将軍に任じ、陝西、寧夏、延綏三鎮の兵はすべてその指揮を受けるよう勅し、王越が総督軍務とした。到着する頃には、敵寇はすでに環慶、固原に深く侵入して掠奪をほしいままにしており、軍はついに功績を挙げられなかった。

原文明年遣侍郎葉盛至軍議。時永已召還,越以士卒衣裝盡壞,馬死過半,請且休兵,與盛偕還。而廷議以套不滅,三邊終無寧歲;先所調諸軍已逾八萬,將權不一,迄無成功。宜專遣大將調度。乃拜武靖侯趙輔為平虜將軍,敕陜西、寧夏、延綏三鎮兵皆受節制,越總督軍務。比至,寇方深入環慶、固原飽掠,軍竟無功。

王越と王輔は、満都魯・孛羅忽・乚加思蘭がちょうど強盛で、その勢いは破ることができず、そこで上奏して言うには、「河套を徹底的に掃討しようとすれば、精兵十五万を動員しなければなりません。今、兵糧の輸送は煩わしく労多く、公私ともに困窮し尽きており、重ねて賦役を課せば、内乱の憂いがあります。しばらく退守に努め、兵馬を解散させ、精鋭を適宜残して、鄜州・延州に食糧を求め、辺境沿いの軍民はすべて内陸に移住させるべきです。敵寇が出没する場所には、多く烽火台を設置し、塹壕を掘り城壁を築いて、守りを固めます」と。奏上すると、朝廷の議論は決まらなかった。王越らはまた上奏して、「敵寇は我が軍が大集結したのを知り、陣営を黄河近くに移し、ひそかに北岸への渡河を謀っており、おそらく戦わずして自ら屈服するでしょう。しかし、山西・陝西は凶作で旱魃が続き、秣や食糧の供給が不足し、辺境の地は早くから寒く、凍え飢える者が続出しています。時勢を考えれば、攻め取るのは実際に困難であり、守備の策に従うことを請い、臣らも一時的に朝廷に戻ります」と。そこで、部(兵部)や科(兵科)の諸臣が王越と王輔を欺瞞であると弾劾した。ちょうど王輔が病気になったので、召還され、寧晋伯の劉聚が代わった。

原文越、輔以滿都魯、孛羅忽、乚加思蘭方強盛,勢未可破,乃奏言:「欲窮搜河套,非調精兵十五萬不可。今饋餉煩勞,公私困竭,重加科斂,內釁可虞。宜姑事退守,散遣士馬,量留精銳,就糧鄜、延,沿邊軍民悉令內徙。其寇所出沒之所,多置烽燧,鑿塹築墻,以為保障。」奏上,廷議不決。越等又奏:「寇知我軍大集,移營近河,潛謀北渡,殆不戰自屈。但山、陜荒旱,芻糧缺供,邊地早寒,凍餒相繼。以時度之,攻取實難,請從防守之策,臣等亦暫還朝。」於是部科諸臣劾越、輔欺謾。會輔有疾,召還,以寧晉伯劉聚代。

翌年、王越と劉聚は敵寇を温天嶺で破り、王越は左都御史に進んだ。この時、大将を三度派遣したが、いずれも王越が軍務を総督した。敵寇はしばしば侵入し、小規模な攻撃を加えるとすぐに去り、軍が解散するとまたやって来て、おおよそ一年に数回侵入した。将兵はますます敵寇を侮るようになり、敵寇の勢いはかえって盛んになった。その年の九月、満都魯および孛羅忽・乚加思蘭は妻子や老弱者を紅塩池に残し、大挙して深く侵入し、秦州・安定などの州県にまで到達した。王越は、敵寇が全力を西に注ぎ、東側に備えがないと判断し、そこで延綏総兵官の許寧・遊撃将軍の周玉を率い、それぞれ五千騎を左右の哨兵とし、榆林を出て、紅児山を越え、白塩灘を渡り、二昼夜で八百里を行軍した。目的地に近づくと、暴風が起こり、砂塵が目を覆った。一人の老兵が進み出て言うには、「天が我々を助けておられます。行軍中に風が吹けば、敵に気づかれません。帰還する時、帰途の敵寇に遭遇しても、我々は風下に位置します。風に乗ってこれを撃てば、勝たないことはありません」。王越は急いで下馬して礼をし、彼を千戸に抜擢した。兵一千を十の伏兵に分け、自らは許寧・周玉を率いて両翼を張り、敵の陣営に迫り、これを大破した。三百五十を生け捕り斬首し、駱駝・馬・武器・器具を数え切れないほど鹵獲し、その住居や天幕を焼いて帰還した。満都魯らが掠奪を満足して帰って来た時には、妻子や家畜・財産はすでに跡形もなく、顔を見合わせて声をあげて泣いた。これ以後、遠く北方に移り住み、再び河套に居住することを敢えてせず、西方の辺境は数年、重荷から解放された。初め、文臣で軍を監督する者は、おおむね大軍の後方に従い、号令を出し賞罰を行うだけであった。王越は初めて多くの敏捷な兵士を選んで腹心の将とし、自ら敵寇と戦った。また、間諜を使って敵の輜重しちょう隊を偵察させ、途中で襲撃させたり、その少数の騎兵を切り取ったりしたので、これによってしばしば功績を挙げた。

原文明年,越與聚敗寇溫天嶺,進左都御史。是時三遣大將,皆以越總督軍務。寇每入,小擊輒去,軍罷即復來,率一歲數入。將士益玩寇,而寇勢轉熾。其年九月,滿都魯及孛羅忽、乚加思蘭留妻子老弱於紅鹽池,大舉深入,直抵秦州、安定諸州縣。越策寇盡銳西,不備東偏,乃率延綏總兵官許寧、遊擊將軍周玉各將五千騎為左右哨,出榆林,逾紅兒山,涉白鹽灘,兩晝夜行八百里。將至,暴風起,塵翳目。一老卒前曰:「天贊我也。去而風,使敵不覺。還軍,遇歸寇,處下風。乘風擊之,蔑不勝矣。」越遽下馬拜之,擢為千戶。分兵千為十覆,而身率寧、玉張兩翼,薄其營,大破之。擒斬三百五十,獲駝馬器械無算,焚其廬帳而還。及滿都魯等飽掠歸,則妻子畜產已蕩盡,相顧痛哭。自是遠徙北去,不敢復居河套,西陲息肩者數年。初,文臣視師者,率從大軍後,出號令行賞罰而已。越始多選跳蕩士為腹心將,親與寇搏。又以間覘敵累重邀劫之,或剪其零騎,用是數有功。

成化十年春、朝廷の議論で固原に総制府を設置することとし、定西侯の蔣琬を総兵官に推挙し、王越が軍務を提督して、延綏・寧夏・甘肅の三辺を統制することとした。総兵・巡撫以下は、すべてその指揮に従う。詔勅で蔣琬を罷免し、すぐに王越をその任に当たらせ、三辺に総制が設置されたのはこれが始まりである。功績を論じ、太子少保を加え、俸給を一級増やした。紀功郎中の張謹・兵科給事中の郭鏜らが劉聚らの濫殺や功績の詐称を論じ、併せて王越の虚偽の上奏を弾劾した。王越はちょうど自ら功績が大きく賞が薄いと感じ、そこで不満を抱き、病気と称して朝廷に戻った。

原文十年春,廷議設總制府於固原,舉定西侯蔣琬為總兵官,越提督軍務,控制延綏、寧夏、甘肅三邊。總兵、巡撫而下,並聽節制。詔罷琬,即以越任之,三邊設總制自此始。論功,加太子少保,增俸一級。紀功郎中張謹、兵科給事中郭鏜等論劉聚等濫殺冒功,並劾越妄奏。越方自以功大賞薄,遂怏怏,稱疾還朝。

翌年、左都御史の李賓とともに都察院の事務を掌り、兼ねて十二団営を督した。王越は平素から才能を自負し、細かい礼節を修めず、朝廷の議論から疎まれた。この時になって初めて名声や行いを気にせず、小人どもと結託した。奸人の韋英という者は、官奴として延綏征伐に従軍し、功績を詐称して百戸を得た。汪直が西廠を掌り権勢を振るうと、韋英はその手先となり、王越は韋英を通じて汪直と結びついた。内閣が西廠の廃止を論じると、王越は朝廷で大学士の劉吉・劉珝に出会い、公然と彼らに言った、「汪直の行うこともまた非常に公正です。例えば黄賜が権力を専断し賄賂を受け取ったのは、汪直でなければ除けませんでした。商輅・万安が政務に長く関わり、是非を論ずるにも多く忌憚がありました。お二人が内閣に入って幾日も経たないのに、どうしてまたこのようなことをなさるのですか」。劉珝が言うには、「我々が言うのは、身のための謀りごとではありません。仮に汪直の行うことがすべて公正であるなら、朝廷が公卿大夫を置くのは何のためでしょうか」。王越は返答できなかった。

原文明年與左都御史李賓同掌院事,兼督十二團營。越素以才自喜,不修小節,為朝議所齮。至是乃破名檢,與群小關通。奸人韋英者,以官奴從征延綏,冒功得百戶。汪直掌西廠用事,英為爪牙,趙因英自結於直。內閣論罷西廠,越遇大學士劉吉、劉珝於朝,顯謂之曰:「汪直行事亦甚公。如黃賜專權納賂,非直不能去。商、萬在事久,是非多有所忌憚。二公入閣幾日,何亦為此?」珝曰:「吾輩所言,非為身謀。使值行事皆公,朝廷置公卿大夫何為?」越不能對。

兵部尚書の項忠が罷免されると、王越が昇任すべきところであったが、朝廷の命令は陝西巡撫の余子俊に与えた。王越はますます不平を抱き、団営の事務の解除を請うたが、優れた詔勅で許されなかった。そこで自ら敵の本拠地を襲撃した功績を述べ、故尚書の白圭に抑えられ、従軍した将兵の多くがまだ記録されていないとし、自分に加えられた官位を移して彼らに報いることを請うた。余子俊もまた王越の賞が功績に報いていないと上言し、そこで兵部尚書に進め、依然として都察院の事務を掌らせた。まもなく太子太保を加えられた。

原文兵部尚書項忠罷,越當遷,而朝命予陜西巡撫余子俊。越彌不平,請解營務,優詔不許。因自陳搗巢功,為故尚書白圭所抑,從征將士多未錄,乞移所加官酬之。子俊亦言越賞不酬功,乃進兵部尚書,仍掌院事。尋加太子太保。

王越は功名を急いだ。汪直が初めて東方征伐に出た時、王越は督師を望んだが、陳鉞に阻まれた。陳鉞が急に寵愛を受けると、王越の心はますますそれを羨んだ。成化十六年春、延綏の守臣が敵寇がひそかに黄河を渡り靖虜に侵入したと奏上すると、王越はそこで汪直を説いて出兵させた。詔勅で保国公の朱永を平虜将軍に任じ、汪直を監軍とし、王越が軍務を提督した。王越は汪直を説き、朱永に大軍を率いて南路から進ませ、自分は汪直と軽騎を率いて塞の城壁に沿って西進し、ともに榆林で合流するようにさせた。王越が大同に到着すると、敵の本営が威寧海子にあると聞き、そこで宣府・大同両鎮の兵二万を選りすぐり、孤店を出て、ひそかに猫児荘まで行き、数手に分かれた。ちょうど大風雨雪で暗くなり、威寧に進むと、敵寇はまだ気づかず、不意打ちをかけてこれを大破した。四百三十余級を斬首し、馬・駱駝・牛・羊六千を鹵獲し、軍は榆林に至らずに帰還した。朱永の進んだ道は遠回りで、敵に遭遇せず、功績がなかった。これによって王越を威寧伯に封じ、世襲とし、歳禄千二百石を与えた。王越が封爵を受けると、もはや都察院を領すべきではなかったが、王越は武官の列に就きたくなかった。御史の許進らがその功績を称え、王驥・楊善の先例を引き、依然として都察院の事務を領し、団営を提督することを請うた。従われた。翌年、また汪直・朱永とともに軍を率いて大同から出撃した。ちょうど敵寇が侵入して掠奪したので、これを追撃して黒石崖に至り、百二十余人を生け捕り斬首し、馬七百匹を鹵獲した。太子太傅に進み、歳禄を四百石増やした。明朝の制度では、文臣は公侯に封じられない。王越は勲臣の例に従い、前軍都督府を掌るように改め、五軍営の兵を総べ、団営を督するのは以前の通りとした。これ以後、真に武人となり、かつ侯爵を望んだ。その年五月、宣府から危急の報せがあり、平胡将軍の印を佩びさせ、総兵官を充てた。また汪直をして軍務を監督させ、京軍一万人を率いて赴かせた。到着した時には、敵寇はすでに去っており、そこでその地に駐屯した。冬になると、汪直は同輩の中傷にあい、寵愛が衰えた。王越らは再び帰還を請うたが、許されなかった。陳鉞が兵部にいて、また汪直に代わって帰還を請うた。皇帝は彼らを厳しく責め、二人は初めて恐れた。まもなく、大同総兵官の孫鉞が死去したので、すぐに王越をその代わりに命じ、汪直をして大同・宣府を総鎮させ、京営の将兵をすべて召還した。

原文越急功名。汪直初東征,越望督師,為陳鉞所沮。鉞驟寵,心益艷之。十六年春,延綏守臣奏寇潛渡河入靖虜,越乃說直出師。詔拜保國公朱永為平虜將軍,直監軍,而越提督軍務。越說直令永率大軍由南路,己與直將輕騎循塞垣而西,俱會榆林。越至大同,聞敵帳在威寧海子,則盡選宣、大兩鎮兵二萬,出孤店,潛行至貓兒莊,分數道。值大風雨雪晦冥,進至威寧,寇猶不覺,掩擊大破之。斬首四百三十餘級,獲馬駝牛羊六千,師不至榆林而還。永所出道迂,不見敵,無功。由是封越威寧伯,世襲,歲祿千二百石。越受封,不當復領都察院,而越不欲就西班。御史許進等頌其功,引王驥、楊善例,請仍領院事,提督團營。從之。明年復與直、永帥師出大同。適寇入掠,追擊至黑石崖,擒斬百二十餘人,獲馬七百匹。進太子太傅,增歲祿四百石。明制,文臣不得封公侯。越從勛臣例,改掌前軍都督府,總五軍營兵,督團營如故。自是真為武人,且望侯矣。其年五月,宣府告警,命佩平胡將軍印,充總兵官。復以直監督軍務,率京軍萬人赴之。比至,寇已去,因留屯其地。至冬,而直為其儕所間,寵衰。越等再請班師,不許。陳鉞居兵部,亦代直請。帝切責之,兩人始懼。已,大同總兵官孫鉞卒,即命越代之,而以直總鎮大同、宣府,悉召京營將士還。

翌年、敵寇が延綏を侵犯した。王越らは兵を動員してこれを救援し、かなりの斬獲があり、さらに禄五十石を加えられた。皇帝はこの時、ますます王越と汪直が結託している状況を知った。大学士の万安らは王越に知略があると考え、汪直を誘って再び進出することを恐れ、そこで王越を延綏に転任させて二人を離すことを請うた。二人の勢いはますます衰えた。翌年、汪直が罪を得ると、言官が併せて王越を弾劾した。詔勅で爵位を剥奪し除名し、安陸に流罪とし、三人の子で功績により蔭官を得ていた者は、すべて官籍を削除し、かつ使者に勅書を持たせてこれを諭させた。王越は使者が到着したと聞き、自害しようとしたが、勅書に軽く処する旨の言葉があるのを見て、やや安心した。王越は礼法を重んじる士人から憎まれるようになり、自ら豪傑と負い、傲然と自らのままに振る舞った。飲食や供応は王者に擬し、狩猟や音楽を思いのままにし、流罪になっても少しも衰えなかった。故にその罪を得た時、当時の議論はかなり行き過ぎであると言い、しかし結局彼を弁護する者はいなかった。孝宗が即位すると、赦免されて帰還した。

原文明年,寇犯延綏。越等調兵援之,頗有斬獲,益祿五十石。帝是時益知越、直交結狀。大學士萬安等以越有智計,恐誘直復進,乃請調越延綏以離之。兩人勢益衰。明年,直得罪,言官並劾越。詔奪爵除名,謫居安陸,三子以功蔭得官者,皆削籍,且使使賫敕諭之。越聞使至,欲自裁,見敕有從輕語,乃稍自安。越既為禮法士所疾,自負豪傑,驁然自如。飲食供奉擬王者,射獵聲樂自恣,雖謫徙不少衰。故其得罪,時議頗謂太過,而竟無白之者。孝宗立,赦還。

弘治七年、王越はたびたび上疏して冤罪を訴えた。詔勅で左都御史に復帰させ、致仕とした。王越は年七十、老齢であり、また宦官の李広と結び、中旨によって召されて都察院の事務を掌らせた。給事中の季源・御史の王一言らが相次いで上章して論じ、そこで取りやめになった。

原文弘治七年,越屢疏訟冤。詔復左都御史,致仕。越年七十,耄矣,復結中官李廣,以中旨召掌都察院事。給事中季源、御史王一言等交章論,乃寢。

十年の冬、寇が甘粛を犯す。廷議して総制官を復設し、先後七人を会挙するも、旨に称せず。吏部尚書屠滽が越の名を以て上す。乃ち詔して原官を起し、太子太保を加え、甘・涼の辺務を総制し、兼ねて巡撫す。越、甘鎮の兵弱きを言い、延・寧両鎮の兵を籍さずんば敵を克つこと難しとし、兼ねて両鎮を制し、巡撫の事を解くを請う。之に従う。明年、越、寇が賀蘭山後に巣くい、数たび辺を擾わすを以て、乃ち兵を分かち三路より進剿す。四十三級を斬り、馬駝百余を獲る。少保を加え、兼ねて太子太傅とす。遂に制置哈密の事宜を条上す。会に李広罪を得て死し、言官連章して広の党を劾し、皆越に及ぶ。越聞きて憂恨し、其の冬甘州に卒す。太傅を贈り、謚して襄敏と曰う。

原文十年冬寇犯甘肅。廷議復設總制官,先後會舉七人,不稱旨。吏部尚書屠滽以越名上,乃詔起原官,加太子太保,總制甘、涼邊務兼巡撫。越言甘鎮兵弱,非籍延、寧兩鎮兵難以克敵,請兼制兩鎮,解巡撫事。從之。明年,越以寇巢賀蘭山後,數擾邊,乃分兵三路進剿。斬四十三級,獲馬駝百餘。加少保,兼太子太傅。遂條上制置哈密事宜。會李廣得罪死,言官連章劾廣黨,皆及越。越聞憂恨,其冬卒於甘州。贈太傅,謚襄敏。

越、姿表奇偉にして、議論飆挙す。久しく辺陲を歴し、身十余戦を経て、敵情の偽り及び将士の勇怯を知り、奇を出して勝を制し、動くに成算有り。士類を奨抜し、豪俊を籠罩し、財を用いること流水の若く、以て故に人用いらるるを楽しむ。又嘗て楊守随、鐘、屠滽の輩を薦め、皆世に名有り。族を睦まじくし旧を敦くし、窮を振い貧を恤み、及ばざるを恐るるが如し。其の胆智人に過絶す。嘗て朱永と千人を帥いて辺を巡る。寇猝然として至る。永走らんと欲す。越之を止め、陣を列ねて自ら固くす。寇疑いて敢えて前らず。薄暮に、騎をして皆下馬せしめ、枚を銜み魚貫して行かしめ、自ら驍ぎょう勇を率いて殿たり。山後より行くこと五十里、城に抵る。永に謂いて曰く、「我一たび動かば、寇追撃し、噍類無からん。暇を示して以て之を惑わすなり。下馬して行くは、軍声無くして、寇をして覚えざらしむるなり」と。性故に豪縱なり。嘗て西行して秦王に謁す。王筵を開き妓を奏す。越王に語りて曰く、「下官王の為に吠犬久し。寧くんぞ以て相酬ゆる者無からんや」と。因りて其の妓女を尽く乞いて以て帰る。一夕大雪、方に炉を囲みて飲む。諸妓琵琶を擁して侍す。一小校敵を詗いて還り、敵情を陳ず。未だ竟わざるに、越大いに喜び、金卮を酌みて之を飲ませ、琵琶を弾じて酒を侑えしめ、即ち金卮を以て之に賜う。語畢りて益々喜び、妓の絶麗なる者を指して之に目して曰く、「若し此を得ば何如」と。校惶恐して謝す。越大笑し、立ちどころに之を与う。校の至る所、尽く死力を為す。

原文越姿表奇偉,議論飆舉。久歷邊陲,身經十餘戰,知敵情偽及將士勇怯,出奇制勝,動有成算。獎拔士類,籠罩豪俊,用財若流水,以故人樂為用。又嘗薦楊守隨、鐘、屠滽輩,皆有名於世。睦族敦舊,振窮恤貧,如恐不及。其膽智過絕於人。嘗與朱永帥千人巡邊,寇猝至,永欲走,越止之,列陣自固,寇疑未敢前。薄暮,令騎皆下馬,銜枚魚貫行,自率驍勇為殿,從山後行五十里抵城,謂永曰:「我一動,寇追擊,無噍類矣,示暇以惑之也。下馬行,無軍聲,令寇不覺耳。」性故豪縱。嘗西行謁秦王,王開筵奏妓。越語王:「下官為王吠犬久矣,寧無以相酬者?」因盡乞其妓女以歸。一夕大雪,方圍爐飲,諸妓擁琵琶侍。一小校诇敵還,陳敵情。未竟,越大喜,酌金卮飲之,命彈琵琶侑酒,即以金卮賜之。語畢益喜,指妓絕麗者目之曰:「若得此何如?」校惶恐謝。越大笑,立予之。校所至為盡死力。

越在る時、人多く其の功を貪るを咎む。及び死して、将餒え卒惰り、功を冒し餉を糜ること滋く甚だしく、辺臣竟に越の如き者有らず。

原文越在時,人多咎其貪功。及死,而將餒卒惰,冒功糜餉滋甚,邊臣竟未有如越者。

賛に曰く、人の才あるは難しとせず、而して其の才を用いるを善くするは難し。王驥・王越の兵を将いる、楊善の使を奉ずる、徐有貞の河を治むる、其の才皆人に過ぐる者有り。仮りに流れに随いて平進し、幹略を以て自ら奮い起こさば、名卿大夫を失わざるなり。而るに顧みて進取に躁き、依附攀援す。符を剖き封を受くるも、文臣に在りては希世の遇たりと雖も、而して誉望之に因りて隳損し、甚だしきは亦削奪を免れず。名節の係る所、重んぜざるべけんや。

原文贊曰:人非有才之難,而善用其才之難。王驥、王越之將兵,楊善之奉使,徐有貞之治河,其才皆有過人者。假使隨流平進,以幹略自奮,不失為名卿大夫。而顧以躁於進取,依附攀援,雖剖符受封,在文臣為希世之遇,而譽望因之隳損,甚亦不免削奪。名節所系,可不重哉!