陶成(子魯)陳敏丁瑄王得仁(子一夔)葉禎伍驥毛吉林錦郭緒姜昂(子龍)
陶成、字は孔思、郁林の人。永楽年間、郷挙に挙げられ、交阯鳳山典史に任じられた。尚書黄福はその賢を知り、諒江府教授を署理するよう命じ、交人は感化された。任期満了し、山東按察司検校に遷り、推薦により大理評事に抜擢された。
正統年間、劉中敷の推薦により、超擢して浙江僉事となった。成は智略があり、事に遇して敢えて任じた。倭が桃渚を犯すと、成は密かに釘板を海辺の砂中に布いた。倭が至り、舟を艤して躍り上がると、釘が足の甲を貫いた。倭はこれを畏れ、遠く去った。任期満了し、副使に進んだ。
魯、字は自強、蔭官で新会丞を授かった。当時、広西の瑤が高・廉・恵・肇諸府を流動劫掠し、城を破り吏を殺すこと虚月なく、香山・順徳の間には土寇が蜂起し、新会の無頼の徒が群聚してこれに応じた。魯は父老を召して語り、「賊は我が城を呑まんとする気であり、早く備えねば陥落せん、汝らは子弟を率いて捍禦できるか」と。皆「諾」と答えた。そこで堡寨を築き、甲兵を繕い、技勇を練り、孤城をもって賊の衝に捍いだ。郭を建て濠を掘り、外に鉄蒺藜と刺竹を布き、城守は大いに固まった。賊が来犯すれば、すなわち撃破した。天順七年、任期満了し、巡撫葉盛がその績を上奏し、そのまま知県に遷った。まもなく賊を破った功により、広州同知に進み、なお知県の事を管した。
魯は兵を治むること久しく、賊が両粤を剽掠するや、大なるものは会剿し、小なるものは専征し、向かうところ奏捷した。賊はこれを骨髄にまで憎み、その郁林の故居を劫い、誥命を焚き、先塋を発き、その族党を戕いた。魯は聞きて大いに慟哭した。詔して籍を広東に徙し、封誥を補給し、慰労を加え、益々志を奮い賊を討った。
二十年、荔浦の瑤を征した功により、俸を一級増した。また九載、考課最上となり、湖広按察使に進み、両広の兵を治めること従前の如し。郁林・陸川の賊黄公定・胡公明等が乱を為すと、参将欧磐と分かれて五路より進討し、大いにこれを破り、賊の巣窟一百三十を毀った。
弘治四年、総督秦紘に遣わされて徳慶の瑤を平げ、湖広右布政使に進んだ。魯は言う、身は両広に居ながら官は湖広を名とすることは、事体において便ならずと。そこで湖広左布政使兼広東按察副使と改め、嶺西道の事を領した。人はこれを「三広公」と称した。
十一年、総督鄧廷瓚がその子に官を授け、魯の募った健卒を統率させて征討に備えるよう請うた。そこでその子荊民に錦衣百戸を授けた。この年、魯は卒した。荊民が再び父の功を陳べ、遂に副千戸に進み、世襲とした。
魯は士を撫でることを善くし、智計多く、謀を定めて後戦った。公署の後に池を鑿ち、その中に亭を為し、橋を置かず。夜になれば部下を召して事を計る。板を渡して一人ずつ度り、語り終われば退かしめる。かくの如く凡そ数人にして、その長を択び参伍して用いる。故に常に勝算を得て機は泄れず。羽書が頻繁に至れば、戎装して宿戒し、声色を動かさず。賊に乗ずべきを審らかにすれば、潜師して城を出で、夜中に合囲し、暁にはすなわち凱歌を奏した。賊は偵察に長けたが、終に要領を得ることができなかった。歴官四十五年、終始兵事を離れず。大小数十戦、凡そ斬馘二万一千四百余、奪還され掠められた者及び撫安して復業せしむる者十三万七千余、両広の人はこれを長城の如く倚った。然れども魯は兵を将いるに専ら武を尚ばず、嘗て言う、「寇賊を治むるには、これを化するを先とし、已むを得ずして始めてこれを殺すのみ」と。毎に賊を平げれば、率いて県を置き学を建てて教化を興した。
魯が初めて丞となった時、年わずか弱冠、知県王重が学を勧めた。重は故より老儒であり、魯は遂に弟子の礼を執ることを請うた。毎朝、経史を授け講解して後、事を視た。後に重が官で卒すると、魯は喪を父の礼の如く執り、且つその二子を資した。また名儒陳献章を敬って事え、献章もまたこれを重んじた。宋の陸秀夫・張世傑が崖山に節を尽くしたが、廟祀が未だなく、特為に祠を建て、祠額を請うと、大忠と賜名された。嘉靖初年、魯が歿して三十年、新会人はその徳を思い、朝に頌して、祠を賜り祀った。
陳敏、陝西華亭の人。宣徳時、四川茂州知州となった。喪に遭い官を去ると、管下の諸長官司及び番民百八十人が闕に詣でて奏言した、「州は辺僥の万山中に僻処し、松藩・疊溪諸番と隣り、歳々その患いを受く。敏が州に蒞りてより、撫馭に方あり、民は安業を得たり。今、憂いにより職を去らんとす、軍民は依る所を失わん。乞う、遠方を矜み念い、この良牧を還したまえ」と。帝は直ちに報可した。
正統年間、九年の任期が満ちると、軍民が再び留任を請うた。成都府同知に進み、茂州の事務を管轄した。都司の徐甫が言上するには、敏と指揮の孫敬は職務に公明勤勉で、諸番族が信服していると。上奏文が都御史の王翺らに下り実情を審査させると、敏を右参議に進め、引き続き州の事務を管轄させた。監司の官位をもって州を治めることは、これまでになかったことである。
黒虎寨の番族が近隣を掠奪し、官軍に捕らえられた。敏はその習俗に従い、誓いを立てて彼らを帰した。その後再び掠奪に出たため、巡按御史の陳員韜に弾劾された。詔勅はこれを赦免した。提督都御史の寇深はその才能を重んじ、敏が往来して番人を撫恤し、軍政を補佐していると述べ、別に知州を任命し、敏に軍務を専任させるよう請うた。吏部は、敏が茂州を治めて久しく、別に任命すると番情に通じず、急には馴服させられないだろうから、同知一人を増設して補佐させるのがよいと答えた。許可された。敏は参議として州を治めるようになり、その待遇は監司に匹敵した。そこで按察使の陳泰が理由なく番人を杖殺したことを弾劾した。泰もまた敏を告発したが、帝は問わなかった。そして泰は獄に下され罪に問われた。
景泰に改元し、参議の任期が九年満ちると、右参政に進み、以前と同様に州の事務を管轄した。州を治めること二十余年、威信は大いに行き渡り、番民は皆喜んだ。官位が次第に高くなると、諸監司や郡守はかえってその下位に位置し、同僚の多くがこれを妬んだ。按察使の張淑に弾劾され、罷免されて去った。
丁瑄は、どこの人かわからない。正統年間に御史となった。初め、福建には鉱山の盗賊が多く、御史の柳華にこれを捕らえるよう命じた。華は村落に皆望楼を設けさせ、住民を甲に編成し、その豪傑を長に選び、自ら兵器を備えさせ、住民を督いて巡回警戒させた。沙県の小作人鄧茂七はもとより無頼の徒であったが、甲長となると、ますます気勢を強めて郷民を従属させた。その地の習俗では、小作人は地代を納めるほか、慣例として田主に贈り物をしていた。茂七は仲間に呼びかけ、贈り物をやめさせ、田主が自ら粟を受け取りに来るようにさせた。田主が県に訴えると、県は茂七を召喚したが、応じなかった。巡検に下って追捕させると、茂七は弓兵数人を殺した。上官がこれを聞き、三百の兵を派遣して捕らえようとした。兵は殺傷されほぼ全滅し、巡検及び知県もともに殺害された。茂七はそこで大いに掠奪し、偽って「鏟平王」を称し、官属を設け、仲間は数万人に及び、二十余県を陥落させた。都指揮の範真、指揮の彭璽らが相次いで殺された。時に福建参政の交阯人宋新は、王振に賄賂して左布政使に昇進し、侵奪貪欲で悪辣であり、民は耐えられず、ますます相次いで乱に従った。東南は騒然となった。
翌年二月、瑄は賊を誘って再び延平を攻撃させ、諸軍を督いて分道して衝撃させた。賊は大敗し、逃げ去った。指揮の劉福がこれを追撃し、ついに茂七を斬り、脅従した者を招いて生業に戻らせた。間もなく、またその仲間の林子得らを捕らえた。尤渓の賊首鄭永祖が四千人を率いて延平を攻撃した。瑄は埜らと共に迎撃し、これを捕らえ、五百余級を斬首し、残党は潰散した。
楷が大軍を監督して賊を討伐したが、建寧に至って進軍を止め、毎日酒を置き詩を賦して楽しんでいた。瑄が賊を破ったと聞くと、延平に馳せ至りその功績を奪った。瑄は脅迫されて曖昧に上奏した。福は納得できず、これを訴えた。詔勅は瑄に事情を詳しく報告するよう責めた。楷らは皆罪を得た。瑄は功績があっても問われず、功績も結局記録されなかった。茂七は死んだが、その甥の伯孫らが再び勢いを盛んにした。朝廷はさらに陳懋らを派遣して大軍で討伐させ、瑄はようやく朝廷に戻った。景泰初年、広東副使として出向し、死去した。
この時、浙江、福建の盗賊は各地で掠奪し、民の患いとなっていた。将帥は概ね賊を侮り、文官が民兵を励まして賊に抵抗し、しばしば多く斬獲した。福建では張瑛、王得仁の類がおり、浙江では金華知府の石瑁が蘭渓で遂昌の賊蘇才を捕らえ、処州知府の張佑が賊衆を撃破し、千余人を捕斬した。そこで帝は勅を下し、しばしば諸将帥を詰問責めた。都指揮の鄧安らはこれにより前御史の柳華に責任を帰した。時に王振はちょうど朝士を殺して衆に威を示そうとし、華を逮捕するよう命じた。華はすでに山東副使として出ていたが、命令を聞くと、仰薬して死んだ。詔勅はその家を没収し、男子は辺境に戍らせ、婦女は浣衣局に没入した。そして御史の汪澄、柴文顕もこれにより罪を得た。
初め、澄は福建を巡察し、茂七の乱により、浙江、江西に檄を飛ばして共同討伐させた。まもなく賊が降伏を協議しているとして、兵を止めて進軍させなかった。賊に降伏の意思がないと知ると、再び進軍を促したが、賊はすでに制御できなくなっていた。浙江巡按御史の黄英は罪を得ることを恐れ、澄が兵を止めた状況を詳しく報告した。兵部はこれにより澄が機会を失ったと弾劾した。福建の三司もまた、賊が初めに起こった時、按臣の柴文顕が隠して上奏せず、今日の禍患を醸成したと述べた。そこでともに獄吏に下された。獄が決すると、詔勅は文顕を磔刑に処し、その家を没収した。澄は棄市に処した。そして宋新及び按察使の方冊ら十人は皆斬刑に処せられた。赦令に遇い、駅丞に左遷された。天順初年、官職を回復した。
論ずる者は、華の建てた制度は過ちではなかったが、澄、文顕の罪は死に至るほどではなかったと言う。武将は賊を滅ぼせず、かえって文官を罪に問うた。華、文顕はついに叛逆と同罪に処せられ、刑罰を誤ったのは実に王振によるものだと言う。華は呉県の人である。文顕は浙江建徳の人である。澄は仁和の人である。
沙県の賊陳政景は、もと鄧茂七の仲間であった。清流の賊藍得隆らを糾合して城を攻撃した。得仁は守将及び知府の劉能と共にこれを撃破し、政景ら八十四人を捕らえ、残賊は驚いて潰走した。諸将は徹底的に捜索することを議したが、得仁は百姓にまで及ぶことを恐れ、招撫を命じ、難民三百人を弁別して釈放した。都指揮の馬雄が賊と通じた者の姓名を得て、名簿に従って殺戮しようとしたが、得仁は強く請いその名簿を焼かせた。賊が再び寧化を寇すると、兵を率いて救援に向かい、多くの首級を斬った。民は多く自ら抜け出て帰順し、賊の勢力はますます衰えた。
賊は将楽に退いて駐屯した。得仁は追撃して滅ぼそうとしたが、まもなく病に罹った。衆は輿に乗せて帰り医者にかけようとしたが、得仁は許さず、「私が一度動けば、賊は必ず長駆して来るだろう」と言った。そこで起き上がって帳中に坐り、将吏に賊を平定するよう力を尽くすよう諭し、ついに死去した。時は正統十四年の夏であった。軍民は哀慟した。喪が帰る時、哭いて弔う者が道に連なり、多くはその像を描いて祀った。天順末、吏民が祠堂建立を請願した。有司がこれを請うと、詔勅は広東の楊信民の故事に倣い、春秋に祭祀を行うことを許した。
葉禎は、字を夢吉といい、高要の人である。郷挙に挙げられ、潯州府同知に任じられた。鳳翔に補され、慶遠に転任した。
両広の瑶賊が蜂起し、諸郡ことごとく被害を受け、将吏は概して臆して傍観した。林禎は賊とともに生きることを誓わず、健児を募り日々訓練した。峒酋の韋父強はしばしば官軍を破ったが、禎はこれを生け捕りにした。その徒党は憤り、全軍で城を攻めた。旗山の守将は兵を擁して救わず。禎は健児を率いて出戦し、賊は退いた。やがて禎を追跡し、戦いは互角であったが、禎の子公栄は戦死した。
伍驥は字を徳良といい、安福の人である。景泰五年の進士。御史に任じられた。荘重で笑いを好まず、義を見て敢えて為した。
天順七年、福建を巡按した。先に、上杭で賊が起こり、都指揮僉事の丁泉(汶上の人)は防衛に長けていた。賊はたびたび城を攻めたが、すべて撃退された。やがて賊は勢いを増した。驥はこれを聞き、ただちに汀州に馳せ入り、援兵を四方から集めた。驥は単騎で賊の陣営に赴いた。賊は御史が突然来るとは思わず、皆鎧を着け刀を抜いた。驥は悠然と馬を立て、禍福を説いた。賊はその至誠を見て感じ入り涙を流し、帰順した者は千七百余戸に及んだ。牛と種を与え、もとの生業に戻らせた。
ただ賊首の李宗政だけは頑強に服従せず、そこで泉とともに深く入ってこれを破った。泉は力戦し、賊のために害された。驥は死者を弔い傷ついた者を労り、忠義をもって激励し、再び賊と戦った。連続して十八の寨を破り、八百余人を捕斬し、四方の境域はすべて平定された。しかし驥は瘴癘に冒されて病となり、軍を返す途中上杭で卒した。軍民は父母を失うように哀しみ、朝夕弔問する者が数千人、争って財を出し祠を立てた。成化年間に知県蕭宏の請願により、詔して泉とともに祀らせ、祠に「褒忠」の名を賜った。
毛吉は字を宗吉といい、余姚の人である。景泰五年の進士。刑部広東司主事に任じられた。司は錦衣衛を管轄した。衛の兵卒は百官の陰事を窺い、一片の紙で奏上するだけで罪を得、公卿大夫は皆おののいた。公然と請託を行い、官司を侮り、たとえ罪で刑部に下された者でも、敢えて鞭打つ者はなかった。吉だけは法を執って屈せず、犯す者は必ず重く懲らしめた。その長官の門達は寵を恃んで暴虐をふるい、百官は道で出会えば皆馬を避けたが、吉だけは鞭を挙げ拱手して通り過ぎたので、達は大いに怒った。吉が病気で朝参を欠いた時、錦衣衛の獄に下された。達は大いに喜び、健卒を選び、大きな棒で打たせた。肉は崩れて骨が見えたが、死ななかった。
天順五年に広東僉事に抜擢され、恵州・潮州の二府を分巡した。豪族を厳しく抑え、民は大いに喜んだ。任期が満ちて交代すべき時、民は相率いて留任を嘆願した。
程郷の賊の楊輝は、もとの大賊羅劉寧の徒党である。既に帰順したが再び叛き、その徒党の曾玉・謝瑩とともに宝龍・石坑などの洞に分かれて拠り、江西安遠を陥落させ、福建・広東の間を掠めた。やがて程郷を攻めようとした。吉はその未到のうちに、壮士を募り官軍と合わせて七百人を得た。賊の巣窟に到着した。まず石坑を破り、曾玉を斬った。次いで謝瑩を撃ち、これを斬った。さらに楊輝を生け捕りにした。諸洞はすべて破られ、捕斬は合わせて千四百人に及んだ。勝利が聞こえ、憲宗は吉を副使に進め、璽書を下して賞労した。高州・雷州・廉州の三府を巡るよう移された。当時、民は賊に蹂躙され、数百里に人煙なく、諸将は皆城を閉じて自守し、あるいは賊の来襲を告げても、かえって鞭打たれた。賊の中から逃げ帰った者がいれば、すぐに賊と通じたと誣し、撲殺した。吉は憤りに耐えず、賊を平らげることを己が任務とした。雷州を巡察した。海康知県の王騏(雲南太和の人)は、日々義をもってその民を激励し、賊が来れば奮撃した。吉はその勇節を賞賛し、激励した。ちょうど賊が村落を掠めたとの報があり、吉と騏はそれぞれ配下を率いてこれを撃破した。騏を推薦し、雷州通判に昇進させた。任命が聞こえる前に、戦死した。同知を追贈し、その子を国子生として蔭した。
吉が出軍した時、千金を携えて犒賞に充て、駅丞の余文に出納を管理させ、既にその十分の三を使っていた。吉が死んだ後、文はその家が貧しいのを哀れみ、残った金を吉の僕に渡し、持ち帰って葬儀を行わせた。その夜、僕の妻が突然中堂に坐り、吉の言葉で左右を見て言った、「夏憲長をお招きせよ」。一家は大いに驚き、走って按察使の夏塤に告げた。塤が到着すると、起き上がって揖して言った、「吉は国恩を受け、不幸にも賊のために死んだ。今、余文が残った官銀を吉の家に渡したが、文簿はなく検証できない。吉は地下で汚名を負うことになる。急いで官に返し、我を汚すな」。言い終わると、地に倒れ、しばらくしてようやく正気に戻った。そこで金を官に返した。吉が死んだ時は四十歳、後に忠襄の諡を賜った。
林錦は字を彦章といい、連江の人である。景泰初年、郷貢により合浦訓導に任じられた。瑶寇が充満し、内外に備えがなかった。錦は方策を条陳し、すべて機宜に適っていた。巡撫の葉盛はこれを異とし、檄を下して霊山県の事務を代理させた。城は賊によって破壊されていたので、錦は地形の利に因み、柵を設けて守り、広く戦具を備えたので、賊は敢えて迫らなかった。任期が満ちて去官しようとすると、民は言った、「公が去れば、賊がまた来るが、誰が防ぐのか」。皆山に逃げ込んだ。盛は状況を上奏し、詔して直ちに錦を知県とした。駅馬を馳せて任地に赴くと、民はまた帰ってきた。
ちょうど凶年にあたり、諸瑶はますます掠奪して一日も空くことがなかった。錦は単騎で陣営に赴き、禍福を説いた。瑶は感じ入り、県に帰属する二十五部はことごとく命令を聴いた。服従しない者はこれを討った。天順六年に賊を羅禾水で破り、再び黄姜嶺で破り、また新荘で大破した。先後して千余級を斬獲し、掠められた人口を返還し、賊はすべて平定された。そこで柵を取り去り、土城を築いた。
盛および監司はたびたびその才能を推薦した。成化に改元すると、ちょうど廉州が賊に陥落されたので、錦を試用の知府とした。また大飢饉があり、賊は四方に出て掠奪した。錦は千余人を説得して解散させ、教化に抵抗する者を誅し、流亡者を安撫して定住させた。境内はすべて平定された。
四年、上官が相次いで推薦し、憲職に改めて授け、欽州・廉州の群盗に専ら備えさせるよう請願した。そこで按察使僉事とし、ますます政務に勤勉であった。十年、勅書を下して表彰した。長くして、副使に進んだ。錦は管轄区域でたびたび盗賊の警報があるのを思い、長久の計を考え、西に団河営を設け、南に新寮営を設け、さらに別に洪崖営を設けて諸寇の出没路を遮断した。霊山の土城を改め、さらに高い城壁を築き、五百丈に及び、ついに要害の地とした。十四年、兵部がその撫輯の功績を上奏し、賞賜を受けた。
林錦は軍中にあって、教化を務めとした。霊山は鬼神を尊ぶので、淫祠を禁じ、学校を修め、農桑を勧めた。廉州・欽州を治めるに当たっては、いずれも学宮を整え、文教を振興した。人となり誠実にして、肺腑を洞見され、瑤蛮はことごとく愛信した。その行軍は、士卒と苦楽を共にし、功あればすなわちこれを人に推し与えた。ゆえに士卒多く死を効し、所在に祠祀された。
郭緒は、字を継業といい、太康の人である。成化十七年に進士となり、楚府に使いし、その饋贈を退けた。戸部主事に授けられ、陝西において軍に給する二十万の兵糧を督した。主事者が余剰を告げると、ことごとくこれを返還した。歴任して雲南参議に遷った。
初め、孟密宣撫司の設置は、実は木邦宣慰司の地を割いたものであった。既にして孟密の思揲がまた界外において木邦の地二十七所を侵した。郭緒はこれを諭して返還させようとしたが、従わなかった。そこで孟養宣撫の思祿の兵を調発して脅かした。思揲は初めて侵した地を返還したが、多く孟養の兵を殺した。思祿はこれを仇とし、兵を発して金沙江を越え、木邦がかつて孟密に割いた地十三所を奪った。両酋は怨みを構えてやまなかった。
巡撫陳金が詔を承け、郭緒と副使曹玉を遣わしてこれを諭させた。十余日で金歯に到着した。参将盧和は先に軍を統率して占拠地より二行程のところに駐屯し、官を馳駅させて往き諭させたが、皆留め置かれて返報がなかった。盧和は恐れ、軍を返して幹崖に至り郭緒に遇い、事情を語り、進むなと戒めた。郭緒は承知しなかった。曹玉は病を理由に辞した。郭緒はついに単騎で数人を従えて行き、十日で南甸に至った。険峻で騎行できず、棘を斬り払い徒歩で縄を引きながら登った。また十日で一大沢に至った。土官が象輿をもって来たので、郭緒はこれに乗って往った。毒霧の中を行き、泥沙に足を取られた。また十日で孟頼に至り、金沙江からわずか二宿の距離であった。自ら檄文を作り、これを持たせて江を渡らせ、朝廷の招来の意を諭した。蛮人は互いに顧みて驚き、「中国の使節がついにここまで来たのか」と言った。兵を発し、象馬数万を率いて夜に江を渡り、長槊と勁弩を持ち、数重に取り囲んだ。従行者は恐れ、進むなと請うた。郭緒は刀を抜き叱って言った、「明日必ず江を渡る。敢えて阻む者は斬る」。思祿は檄文を得て、禍福を譬え諭すことが甚だ詳備なのを見、また来た者がわずか数人と聞き、ついに酋長を遣わして命令を聴かせ、かつ饋贈を致した。郭緒はこれを退け、勅諭を出して宣示した。思祿もまた続いて到着した。郭緒はまずその労を叙し、次いでその冤状を明らかにし、然る後にその叛を責めた。諸酋はこれを聞き、ことごとく俯伏して万歳を呼び、侵した地を帰還することを請うた。郭緒が前に留め置いた使人を詰問すると、ことごとく出してこれを帰した。盧和と曹玉は報せを聞き馳せ至ったが、すでに地を帰し款を納めていた。時に弘治十四年五月のことである。
姜昂は、字を恒頫といい、太倉の人である。成化八年に進士となり、棗強知県に除された。御史に授けられ、同官とともに方士李孜省を弾劾し、午門外で杖罰を受けた。母老を理由に南京への転任を乞い、まもなく出て河南知府となった。吏が事を白し終わると、退いて門を閉ざし書を読み、鞭笞は懸けて用いなかった。藩府の人に犯す者あれば、ただちに決してこれを遣わした。寧波知府に改め、福建参政に擢げられた。終養を請うて帰り、服闋して卒した。
姜昂は官にあって、日々少量の肉を買い母に供し、自らは菜茹を食した。子弟が書を学ぶに、官の紙筆を用いることを聴かず、家に居て室は風雨を蔽わなかった。
賛して言う。陶成・陳敏らは、監司・守令として征剿の功を著わし、陶成および毛吉・葉禎は王事に身を死なせ、労烈顕著である。またこれをもって、畏懦して戚蹜する戎帥を愧じさせるに足りよう。林錦は威よく臨制し、材は綏懷に足り、辺疆みなこの人を得れば、何ぞ治まらざるを憂えん。郭緒は単騎で険に入り、両酋を諭して服させた。洪熙・永楽の間にあっても、何ぞなお常調に淹留するに至らんや。平世に国を秉る者は、多く辺功を抑え、事を生ずるを恐れるという。しかし大帥は内援に倚り、禄を叙するも多く等を逾える。まさに武夫の寇を玩ずる心を長じ、労臣の死を致す節を奨励するなしに足る。国家は賞罰をもって世を馭す。何ぞ公ならざらんや。