○鄒緝(鄭維桓・柯暹)弋謙(黃驥)黃澤(孔友諒)范濟・聊讓(郭佑・胡仲倫・華敏・賈斌)左鼎(練綱)曹凱(許仕達)劉煒(尚褫)単宇(姚顯・楊浩)張昭(賀煬)高瑤(虎臣)
鄒緝、字は仲熙、吉水の人である。洪武年間に明経に挙げられ、星子の教諭を授かった。建文の時に召されて国子助教となった。成祖が即位すると、翰林侍講に抜擢された。東宮が立てられると、左中允を兼ね、しばしば国子監事を代行した。永楽十九年、三殿が災害に遭い、直言を求める詔が下ると、緝は上疏して言った。
陛下が北京を創建され、聖慮を焦労させられて、ほぼ二十年になる。工事は大きく費用は繁く、調度は甚だ広く、冗官が蚕食し、国の蓄えを消耗する。工事の夫役は、動けば百万を以てし、一年中供役に服し、自ら田畑に親しみ力を尽くして耕作することを得ない。それにもかかわらず、なお求めるところに限りなく、桑や棗を伐って薪に供し、桑の皮を剥いで楮とするに至る。これに官吏の横征が加わり、日増しに甚だしくなる。例えば昨年、顔料を買い調達したが、本来その土地の産物ではなく、動けば千百を科する。民は相率いて鈔を集め、他の地で購う。大青一斤の価は一万六千貫に至る。そして進納するに及び、また多く留難され、往復展転して、常に二万貫の鈔を要し、一柱の用を供えるに足りない。その後、既に官を産地に派遣して採らせたが、買い調達はなお止まない。蓋し工匠多く派して利を牟り、民の艱苦を顧みず、ここに至るのである。
そもそも京師は天下の根本である。人民が安らかであれば京師は安らかであり、京師が安らかであれば国の根本は固くして天下は安らかである。営建以来、工匠の小人が威勢を仮託し、移徙を駆り迫り、号令が施されるや、廬舎は既に壊される。孤児寡婦が哭泣叫号し、倉皇として屋外に曝され、どこに行くべきか知らない。移徙がようやく定まると、また他に移るよう駆り立てられ、三四度移徙しても休息を得られない者がある。そして彼らが去った後、空いた土地は、月を経時を過ぎても、工事はなお及ばない。これは陛下の知られざるところであり、人民が疾み怨むところである。
貪官汚吏は内外に遍布し、剝削は骨髓に及ぶ。朝廷が一人を派遣するごとに、即ちその人の養活の計となる。虐取苛求は、初め限りがない。有司は承奉し、及ばないことを恐れるのみである。時に廉強自守して、幹媚に事えざる者があれば、輒ち讒毀をほしいままにし、動けば罪譴を得て、自ら明らかにする術がない。これによって使者の至るところ、有司は公然と貨賂を行い、下を剝ぎ上に媚び、交易と同じである。そもそも小民の蓄積は幾何であり、内外上下このように誅求するのか。
今、山東・河南・山西・陝西では水害と旱害が相次ぎ、民は樹皮を剥ぎ草根を掘って食するに至る。老幼は流移し、道路に顛踣し、妻子を売り買いして苟くも生き延びようとする。しかるに京師には僧道一万余人が聚集し、日に廩米百余石を消耗する。これは民の食を奪って無用の者を養うものである。
報效の軍士に至っては、朝廷は厚く糧賜を与える。そして就役させると、乃ち驕傲横恣に、閑遊往来する。これらは皆奸詭の者であり、原伍に還ることを懼れ、これを仮って規避するのであって、真に報效の心があるのではない。
朝廷は歳ごとに天下に錦を織らせ、銭を鋳させ、内官を遣わして外蕃で馬を買わせる。出すところ常に数千万で、取るところかつ一二に及ばない。馬は多く至るも、類みな駑下である。民に牧養を責め、騒擾は殊に甚だしい。そして死傷に及べば、輒ち賠補を命ずる。馬戸は貧困に陥り、さらに妻子を売る。これは特に害の大きいものである。
漠北の降人には、居室を賜い、供帳を盛んにし、その同類を招こうとする意図である。来る者は皆窺覘を懐き、真に遠く王化を慕い、郷土を去ることを甘んじるのではないことを知らない。来朝した後、本国に遣り帰すべきであり、必ずしも留めて後日子孫の患いとすべきではない。
宮観禱祠の事に至っては、国を持つ者が深く戒むべきところである。古人に言う、淫祀に福なし。況や益なき事を以て有益を害し、財を蠹し妄りに費やすことにおいてをや。凡そこの数事は、皆下は民心を失い、上は天意に違う。怨讟の興るは、実にこれによる。
そもそも奉天殿は、群臣を朝し、号令を発する所であり、古のいわゆる明堂である。しかるに災いがまずここに及んだのは、尋常ならざる変である。躬を省み己を責め、大いに恩沢を布き、政化を改革し、天下の窮困の人を疏滌しなければ、上天の譴怒を回らすことはできない。以前に監生・生員で、単丁を以て親に侍ることを告げ乞い、それによって罪を得て遣戍された者があった。これは実に治体を虧く。近ごろ大赦があったが、法司は常条に執滞し、赦すべき者を尚復拘系している。併せて重ねて湔洗を加え、租賦を蠲除し、一切徴収しないことを乞う。有司百官にはその廩祿を全うし、賢才を抜き簡び、薦挙を行うことを申し行い、官吏で貪贓して政を蠹する者は、その罪を核して罷黜する。そうすれば人心は歓悦し、和気は至ることができ、宗社を保安し、国家の千万年窮まりなき基と為すに、これより大なるはない。
かつ国家が恃んで久長たらしめるものは、天命と人心のみであり、天命は常に人心を視て去留とする。今、天意このようであるから、民を労すべからず。南京に還都し、陵廟に奉謁し、災変の故を告ぐべきである。聖躬を保養し、無為に休息せしめよ。小人の言を聴き、再び興作する所あって、後世に陛下を誤らせることなかれ。
書が奏上されたが、省みられなかった。
時に三殿が初めて完成し、帝はちょうど定都を天下に詔したところ、突然火災に遭い、大いに懼れ、直言を求める詔を下した。
言事者が多く時政を排斥すると、帝は快からず、大臣らもまた帝の意を迎えて言事者を誹謗した。
帝はここに怒りを発し、事を言う者は誹謗中傷すると言い、厳禁する詔を下し、犯す者は赦さないとした。
侍読李時勉・侍講羅汝敬はともに獄に下され、御史鄭維桓・何忠・羅通・徐容、給事中柯暹はともに左遷されて交阯に赴いた。
ただ周緝と主事高公望・庶吉士楊復だけは罪を得なかった。
この年の冬、周緝は右庶子兼侍講に進んだ。
翌年九月、官において卒した。
周緝は群書に博通し、官に居て勤勉慎重、清い操行は寒士のようであった。
子の周循は、宣徳年間に翰林待詔となり、父母の贈官を請うた。
帝は吏部に諭して言った、「かつて皇祖が沙漠を征した時、朕は北京を守り、周緝は左右に在って、陳説するは皆正道、良臣である。これを与えよ。」
孔友諒は長洲の人である。永楽十六年の進士。庶吉士に改められ、出て雙流県の知県となった。宣宗の初め、六事を上言した。
その二事は冗員を淘汰し、風憲を任用することについて言い、言う者は多くこれに及ぶので、具に載せない。
範済は元の進士である。洪武中、文学をもって挙げられて広信知府となり、累に坐して謫られて興州に戍せられた。宣宗が即位したとき、済は年八十余りであったが、闕に詣でて八事を言った。
奏上す。廷臣をして議せしむ。尚書呂震、文辞冗長にして、且つ事多く已に行わるるを以て、采るに足らずと為す。帝曰く、「言う所甚だ学識有り、多く朕が心に契う。当にその素履を察して以て聞かしむべし。」震乃ち言う、「済は故元の進士、嘗て郡を守り、事に坐して辺に戍る。」帝曰く、「惜しいかな斯の人。久しく行伍に淹るるを令す。今猶用いるに足る。」震曰く、「年老いり。」帝曰く、「国家人を用うるに、正に老成を須う。但だ繁劇を以て任すべからず。」乃ち済を以て儒学訓導と為す。
近年土木繁興し、異端盛んに起り、番僧絡驛し、汚吏縦横し、相臣その非を正さず、御史その罪を劾せず、上下蒙蔽し、民生凋瘵す。狡寇辺を犯し、上皇播越す。陛下枕戈嘗胆の秋、賢を抜き能を挙げ、政治を一新せざるべけんや。昔宗・嶽将と為り、敵国名を呼ぶことを敢えず。韓・範辺に鎮まり、西賊これを聞きて胆を破る。司馬光相位に居り、強隣辺を犯すこと戒む。今文武大臣に威名徳望有る者、宜しく枢要を典とし、且つ智術才能の士を延訪し、朝廷に満ち布らしむべし。則ち也先必ず畏服し、而上皇指日に還るべし。
大臣は陽なり。宦寺は陰なり。君子は陽なり。小人は陰なり。近日食地震、陰盛陽微、天地に謫見す。陛下の乾綱を総攬し、宦寺を抑えて政に預からしめず、小人を遏えて位に居らしめざらんことを望む。則ち陰陽順にして天変弭らん。天下の治乱は、君心の邪正に在り。田獵は是れ娯、宮室は是れ侈、宦寺は是れ狎、三者一つ有れば、足ら以て君心を蠱す。願わくは陛下涵養克治し、多く賢士大夫に接し、少く宦官宮妾に親しみ、自ら奢靡を革め、遊佚を戒め、而して心正からざること無からしめんことを。
堯謗木を立て、人の言わざるを恐る。所以に聖なり。秦謚法を除き、人の己を議するを恐る。所以に亡ぶ。陛下諫に従うの量を広め、直言の臣を旌せば、則ち国家の利弊、閭閻の休戚、臣下顧忌する所無く、而して言尽くさざること無からん。蘇子曰く、「平居に犯顔敢諫の臣無ければ、則ち臨難必ず仗節死義の士無し。」願わくは陛下恒に是の言を念じて審察せられんことを。
逆寇順を犯し、上皇塵を蒙る。これは千古非常の変、百世必ず報ゆべき仇なり。今使臣の来る、動もすれば数千を以てし、務めて驕蹇して我に責望す。而我は乃ち隠忍姑息し、賊勢日に張り、我気日に索ゆるを致す。和を求めれば和を与え、戦を求めれば戦を与う。是れ和戦の権、我に在らずして賊に在り。願わくは陛下人心を結び、賢良を親しみ、以て国本を固め、儲蓄を広め、将士を練り、以て国気を壮にせられんことを。分を正し名を定め、義を以てこれを裁せん。桀驁侵軼せば、則ち兵を提げて罪を問うべし。大漠の南、匹馬闌入することを敢えざらしめて、乃ち百年虞無きを保つべし。然らずんば西北力罷れ、東南財竭き、一日も枕を安くすること能わざらん。昨国用耗乏を以て、国を謀る大臣一時の急を紡がんと欲し、民に粟を納むる者をして冠帯を賜わしむ。今軍旅稍寧かなるも、行うこと故の如し。農工商販の徒、賢愚を較べず、惟だ財を是として授く。親戚に驕り、郷里に誇り、非分の邪心を長ず。贓汚吏罷退して民と為り、閭党の恥を掩わんと欲し、粟を納み草を納み、冠帯して帰る。前に冒貨を以て職を去り、今に輸貨を以て官を得る。何を以て貪残を禁じ、名爵を重んぜんや。況んや天下統一し、富を蔵するは民に在り。未だ大いに已むを得ざるに至らずして、挙措此の如し。是れ空乏を以て寇心を啓くなり。章下りて廷議に付す。格して行わず。
また胡仲倫という者がいた。雲南塩課提挙司の吏目である。事により都に入り、ちょうど上皇が北狩され、也先が妹を娶らせようとしたので、上皇は広寧伯劉安を遣わして帝に言わせた。仲倫は上疏して争い、言うには、「今日の事、屈すべからざるもの七つあり。万乗の尊を降ろし、婚姻を諧えんとすること、これ一なり。敵は和議を仮り、我をして備え無からしめんとすること、これ二なり。必ず姻戚たらんと欲し、尊を驕り自ら大なること、これ三なり。金帛を索め、我をして坐して困らしめんとすること、これ四なり。駕を送るを名とし、機に乗じて侵犯せんとすること、これ五なり。上皇の手詔を逼り、辺城を誘い取らんとすること、これ六なり。山後の地を求めんと欲すること、これ七なり。少しも其の一に従わば、大事去らん。曩に上皇在位の時、王振が権を専らにす。忠諫する者は死し、鯁直なる者は戍せられ、君子は斥けられ、小人は驟遷す。章奏多くは中旨に決し、黒白混淆し、邪正倒置す。閩・浙の寇方に殷なり、瓦剌の釁大いに作る。陛下は賢を親しみ奸を遠ざけ、賞を信じ罰を必ずし、上情を通じ、下志を達すべし。売国の奸隙に投ずる所無く、倉卒の変機を発する由無からしめば、朝廷ここより尊く、天下ここより安んぜん。」帝は嘉してこれを納れた。
近年以来、内官袁琦・唐受・喜寧・王振が権を専らにし政を害し、国事を傾危に致す。陛下に微を防ぎ漸を杜ぎ、権綱を総攬し、子孫万世の法と為さんことを望む。然らざれば恐らくは禍蕭墻に稔り、曹節・侯覧の害、今日に復た見えん。臣賤陋と雖も、痛哭流涕に勝えず。謹んで軍を虐げ民を害する十事を以て、陛下の為に痛切にこれを言う。内官の家、金銀珠玉を積み、室を累ね籯を兼ねるは、何よりして至るか。内に府蔵を盗まずんば、則ち外に民膏を朘むなり。害一なり。勢を怙み寵を矜り、公侯の邸舎を占め、工役を興作し、軍民を労擾す。害二なり。家人外親、皆市井無籍の子にして、縦横豪悍、任意に奸を作し、粟を納めて官を補い、貴賤淆雑す。害三なり。仏寺を建造し、費を耗して貲せず、一己の私を営み、万家の産を破る。害四なり。広く田荘を置き、賦税に入らず、戸を郡県に寄せ、征徭を受けず、阡陌連亙して民に立錐無し。害五なり。家人中塩し、引数を虚占し、転じて人に售り、倍支巨万し、国家の法を壊し、商利を豪奪す。害六なり。塌房を奏求し、商旅を邀接し、勢に倚りて賒買し、強を恃んで償わず、行賈坐敝し、敢えて誰何する者無し。害七なり。軍匠を売放し、名づけて伴当と為し、月銭を俾め辦せしめ、内府監局の営作人を乏しくし、工役煩重にして、力を併せても足らず。害八なり。家人物料を貿置し、所司畏懼し、一を以て十に科し、官を虧け民を損ず。害九なり。監作の至る所、法に非ざる酷刑、軍匠塗炭、怨酷に勝えず。害十なり。章は礼部に下り、寝して行わず。
また賈斌という者がいた。商河の人、山西都司の令史である。亦た宦官の害を疏言し、漢の桓帝・唐の文宗・宋の徽欽を戒めと為す。且つ輯む所の『忠義集』四巻を献じ、史伝の記す所の直諫尽忠守節の士を采り、而して宦官の寵を恃み政を蠹く、鑑戒と為すべき者を附す。工を命じて刊布せんことを乞う。礼部は其の言当たりと為し、鑑納に垂れ、必ずしも刊行せざるを乞う。帝は聞くに報ゆ。
左鼎、字は周器、永新の人。正統七年の進士。明年、都御史王文、御史多きに闕くを以て、吏部と会して進士に選補せんことを請う。帝これに従う。尚書王直、鼎及び白圭等十余人を考し、刑名に曉諳するを以て、皆御史を授く。而して鼎は南京を得る。尋いで北に改め、山西を巡按す。
時に英宗北狩し、兵荒洊臻す。太原諸府の税糧を蠲め、大同の転餉夫を停め、以て其の困を蘇えんことを請う。也先和を請うも、抗言して不可とす。尋いで山東・河南の饑を以て、鼎を遣わして巡視せしむ。民これに頼りて安んず。律に、官吏故に平人を勘して死に致せば罪に抵る。時に給事中於泰の言を以て、悉く寬貰を得たり。鼎言す、「小民無知、情に貸すは可なり。官吏深文巧詆、故殺と何ぞ異ならん。法は天下の公、意を為して軽重すべからず。」ここより律の如く論ず。
景泰四年、疏して言う、
瓦剌変作し、将士用無きは、軍政立たざるに由る。必ず前弊を痛懲すべしと謂う。乃ち今また五年なり。貂蟬盈座、悉く公侯に属し、鞍馬途を塞ぎ、莫非将帥なり。民財歳に耗し、国帑日に虚し。天下の大を以て、土地兵甲の衆を以て、曾て威武を振揚すること能わず、則ち軍政未だ立たざるなり。昔太祖律令を定め、太宗に至り、暫く有罪者の贖うを許すは、蓋し権宜なり。乃ち法吏拘牽し、沿って成例と為し、官吏枉法の財を受くるも、悉く減贖を得たり。骫骳此の如く、復た何をか顧憚せん。国初官を建つるに常あり、近く始めて事に因り増設す。主事毎司二人、今十人に増ずる者有り。御史六十人、今は則ち百余りなり。甚だしきは一部に両尚書有り、侍郎も亦た常額を倍し、都御史数十を以て計う。これ京官の冗なり。外は則ち撫民・管屯官を増設す。河南の参議の如き、二を益して四と為し、僉事三を益して七と為す。これ外官の冗なり。天下布・按二司各十余り、乃ち歳に御史を遣わして巡視し、復た大臣を遣わして巡撫鎮守す。夫れ今の巡撫鎮守は、即ち曩の方面御史なり。方面御史と為れば、則ち衆人の長を合して足らず、巡撫鎮守と為れば、則ち一人の智を任じて余り有り。是の理有らんや。御史の遷転太だ驟きに至りては、当に六年を率とすべし。其の政事を通達せしめ、然る後に以て人を治むべし。巡按の系る所尤も重し、初任の員をして漫然と嘗試せしむる毋れ。其の余百執事、皆当に慎択して久任すべし。帝頗る嘉納す。
未だ幾ばくもせず、復た言う、国家数十年を承平し、公私の積未だ充たず。一たび軍興に遇えば、抑配横征し、官を鬻ぎ爵を市い、率ね衰世の苟且の政を行い、これ邦計を司る者の過ちなり。臣請う、末技を痛抑し、遊惰を厳禁し、異端を斥して南畝に帰らしめ、冗員を裁して虚糜を省き、屯田を開きて辺を実にし、士伍を料して餉を紓う。寺観の営造、仏に供え僧に飯す、及び不急の工、無益の費、悉く停罷を行い、専ら農を務め粟を重んずるを本と為し、躬行節儉を以て之に先んじ、然る後に民を阜くし国を裕かにすべし。倘し忍びて加えて務めず、掊克聚斂の臣を任じて朝三暮四の術を行わしめ、民力已に尽きて征発已む無く、民財已に竭きて賦斃日に増さば、苟くも目前の急を紓うし、意外の虞を恤みざれば、臣窃に懼る。章は戸部に下る。尚書金濂職を解かんことを請う。帝許さず。鼎の言も亦た尽く行われず。
一月を逾え、災異を以て、同官と偕に救弊恤民の七事を陳ず。末に言う、「大臣奸回に乏しからず、宜しく其の尤を黜罷し、以て政本を清むべし。」帝其の言を善しとし、詔を下して甄別す。而して大臣は辞職し並びに慰留す。給事中林聰、明らかに鼎等に諭し指実して劾奏せんことを請う。鼎・聰等乃ち共に吏部尚書何文淵・刑部尚書俞士悅・工部侍郎張敏・通政使李錫の職に任ぜざる状を論ず。錫罷められ、文淵致仕す。
左鼎は官に在って清廉勤勉で、卓抜した声望があった。御史練綱は敢言をもって名を知られ、左鼎は特に章奏を善くした。京師の言葉に曰く、「左鼎の手、練綱の口」と。公卿以下皆これを憚った。
左鼎は出でて広東右参政となった。時に英宗が復位し、郭登の言により、召されて左僉都御史となった。一年余りして卒した。
練綱、字は従道、長洲の人。祖父則成は洪武の時の御史。練綱は郷試に挙げられ、国子監に入った。都察院に歴事した。郕王が国を監するに当たり、中興八策を上った。也先が入寇せんとするに及び、また言う、「和議は成し難く、南遷は従うべからず。この議を持つ者は、直ちに誅すべし。安危の倚る所は、ただ于謙・石亨が中軍を主とし、大臣を分遣して九門を守らせ、忠孝著聞の親王を選び、守臣とともに王事に勤しむべし。檄を陝西守将に発し、番兵を調べて入衛せしむべし」と。帝は悉くこれに従った。
練綱は才弁あり、功名を急いだ。都御史陳鎰・尚書俞士悦は皆練綱の同郷で、練綱が数度政事を陳べて声望あるを思い、かつその口を畏れて、遂にこれを推薦し、御史に授けた。
初め、京師戒厳の時、四方の民壮を募り分営訓練したが、年久しくして多く逃亡し、あるいは操練に赴く期に如かず、廷議してこれを尺籍に編せんとした。練綱ら言う、「召募の初め、忠義を以て激し、事定まれば罷遣すと許した。今展転輪操して、既に望みを孤にす。況んやその逃亡は、実に寒餒に迫られたるなり。豈に急に軍籍に著すべけんや。辺方多故にして、もし更に召募せば、誰か復た応ぜん」と。詔して即時に前令を除く。
五年、福建を巡按し、按察使楊玨と互いに訐り、共に吏に下された。楊玨を黄州知府に謫し、練綱を邠州判官に謫した。久しくして卒した。
曹凱、字は宗元、益都の人。正統十年の進士。刑科給事中に授けられた。磊落として壮節多し。
英宗の北征に際し、諫めて甚だ力め、かつ曰く、「今日の勢いは、澶淵と大いに異なる。彼(宋)は文武忠勇、士馬勁悍なり。今は中貴が権を窃み、人心玩愒す。この輩はただ陛下を孤注とするのみならず、即ち懐帝・湣帝・徽宗・欽宗も何の暇か恤わん」と。帝は従わず、乗輿果たして陥つ。曹凱は竟日痛哭し、声禁庭に徹し、王竑とともに馬順を撃ちて死に至らしめた。
景泰中、左に遷る。給事中林聰が何文淵・周旋を劾す。詔してこれを宥す。曹凱は殿上に上り力諍し、二人遂に吏に下る。時に豆を輸納すれば官を得ることを令す。曹凱争って曰く、「近例、豆四千石以上を輸すれば指揮を授く。彼らは禄を受くること十余年、費は既に償われたり。乃ちこれを世襲せしむるは、是れ生民の膏血を以て無功の子孫を養い、而して彼らは息を取って長く窮まり無きなり。功ある者は必ず相謂いて曰わん、『吾は躯を捐てて此れを得、彼は豆を輸して亦た此れを得。是れ朝廷我が躯命を荏菽に等しうするなり』と。誰か解体せざらんや。乞う、今よりただ帯俸を令し、任事伝襲せしめず、文職は則ち原籍帯俸に止むべし」と。帝然りと為し、命じて已に授けたる者は故の如くし、未だ授からざる者は悉く曹凱の議の如くせしむ。
福建巡按許仕達が侍郎薛希璉と相訐る。命じて曹凱往きて勘す。推薦により、浙江右参政に擢げらる。時に諸衛の武職が軍を役して月銭を弁納する者、四千五百余人に至る。曹凱の言により禁止す。鎮守都督李信が擅に民を募りて軍と為し、餉万余石を糜す。曹凱これを劾奏す。李信は宥されしも、李信を助けて軍を募りし者は皆罪を得たり。浙江に数年、声望甚だ著し。
初め、曹凱が給事たりし時、常に武清侯石亨を劾せり。石亨志を得て、前の憾みを修め、曹凱を衛経歴に謫し、卒す。
劉煒、字は有融、慈渓の人。正統四年の進士。南京刑科給事中に授けらる。副都御史周銓が私憾を以て御史を撻つ。諸御史範霖・楊永と尚褫ら十人共に周銓を劾す。劉煒は同官盧祥らとともにまたこれを劾す。周銓詔獄に下り、また範霖・楊永及び劉煒・盧祥らを訐る。王振は素より言官を悪み、尽く逮えて詔獄に下す。範霖・楊永は絞に坐し、後に死を減ぜらる。他の御史は或いは戍し或いは謫せらる。劉煒・盧祥は事白くして留任し、而して周銓は既に先に瘐死す。劉煒累進して都給事中となる。
景泰四年、戸部は辺儲足らざるを以て、奏して罷退の官で贓罪ならざる者に、米二十石を輸納せしめ、これに誥敕を与えんとす。劉煒ら言う、「考退の官は、多くは罷軟酷虐・酒色に荒溺し・廉恥立たざる者あり。ただ贓罪のみに非ず。これに誥敕を賜う、何を以て辞と為さん。若し但だその納米を褒むるのみならば、則ち朝廷の誥敕はただ米二十石に直するのみ。何を以て天下後世に示さん。これは尚書金濂が大體を識らずして、此の謬挙有るなり」と。帝直ちにこれを已む。山東歳歉。戸部は尚書沈翼がその地の民瘼に習えるを以て、請うて往きて振恤せしめんとす。及び往くも、初め方略無し。劉煒因って沈翼を劾し、且つ言う、「その地には既に尚書薛希璉・少卿張固が鎮撫し、また侍郎鄒幹・都御史王竑が振済す。而して復た沈翼を以てこれを益すは、所謂『十羊九牧』なり。乞う、沈翼を南京戸部に還し、而して専ら薛希璉らに命ずべし」と。これに従う。平江侯陳豫が臨清を鎮す。事多く制に違う。劉煒これを劾す。陳豫責譲を受く。
翌年、都督の黄竑は皇太子更迭の議により帝の寵愛を得て、霸州・武清県の土地を求める上奏をした。煒らは抗議の上奏をして言った。「黄竑はもと蛮族の首長であり、急に重任を蒙った。寵を恃んで妄りに干渉し、六七十里の土地を乞うているが、果たして全て無主の地であろうか。その罪を正すよう請う。」帝は黄竑を許し、戸部主事の黄岡・謝昶を派遣して調査させた。戻って奏上すると、果たして民の所有地であった。戸部は再び黄竑の罪を問うよう請うたが、帝は結局許した。謝昶は官が貴州巡撫に至り、清廉で慎み深いと称された。
王煒は天順初めに雲南参政として出向し、広東に改められ、恵州・潮州の二府を分守した。潮州に大賊がおり、招いても従わなかったので、兵を集めて進軍討伐し、その首魁を誅した。南韶に赴任を改められた。ちょうど大軍が両広を征討する際に、労瘁のため在官中に死去した。
尚褫は、字を景福といい、羅山の人である。正統四年の進士。行人に任じられた。上書して大臣を囚禁しないよう請うた。南御史に抜擢された。周銓を弾劾したことで獄に下され、他の御史たちとともに駅丞に左遷され、雲南の虚仁駅を得た。景泰五年の冬、災異に因んで上書して数事を陳べ、その中で言った。「忠直の士は、死を冒して意見を陳べる。執政者は条例で阻み、軽ければ取り上げず、重ければ中傷する。これは言路が開かれているようで、まだ開かれていないのである。仏教が盛んに行われ、聾俗を誘惑扇動しているのは、礼を掌る者が王振の勢力を恐れ、僧の度牒を多く出したことによる。宜しく全てを帰農させるべきである。」上書は礼部に下されたが、尚書の胡濙は自分を諷刺したのを憎み、全てを阻んで実行させなかった。量移されて豊城知県となり、県の豪族に誣告されて獄に繋がれたが、まもなく釈放された。
成化初め、大臣たちが会薦し、湖広僉事に抜擢された。初めに詔があり、荊・襄の流民は所在の地に附籍することを許されていた。都御史の項忠は再び帰郷させ、急ぎを督めたため、多くが途中で死んだ。尚褫はこれを哀れみ、巡撫の呉琛に牒を陳べて進退を請うた。呉琛が項忠に報告すると、項忠は怒って尚褫を弾劾した。朝廷ではその意が民を憐れむことにあると知り、結局流民に附籍を許し、望まなければ帰郷させる旨の命令を発した。尚褫は僉事を十年務め、所管の役所がその治行を上奏し、誥命を賜って表彰された。致仕して死去した。
単宇は、字を時泰といい、臨川の人である。正統四年の進士。嵊県知県に任じられた。吏を厳しく統御した。吏が単宇を誣告しようとしたので、単宇はこれを上聞した。吏の上奏を併せて上奏しなかった罪で、逮捕されて獄に下された。事が明らかになり、諸暨に転任した。
喪に遭い服喪が終わり、京師で選任を待っていた。ちょうど英宗が北狩(土木の変)された時、単宇は宦官が監軍となり、諸将が進退を専断できず、軍を喪ったことに憤った。上疏して全て罷免し、将帥の権限を重んじるよう請うた。景帝は採用しなかった。
一方、咸陽の姚顕は郷挙で国学に入り、また上言した。「かつて大興隆寺を修治し、壮麗を極め、また僧の楊某を上師として奉じ、儀従は王者に等しかった。膏粱を食し、組繍を被り、万乗を弟子のように蔑ろにした。今、上皇は賊庭に留められている。前赴して瓦剌に行き、也先を化諭するよう命じるべきである。誠に車駕を奉じて南還させることができれば、護国の力を見るであろう。そうでなければ、仏が信じるに足りないことは明らかである。」景泰の時、廷臣で仏事を諫める者は甚だ多かったが、帝はついに従わなかった。そして宦官の興安が最も権勢を振るい、王振よりも甚だしく仏を佞った。帝に大隆福寺を建立するよう請い、その厳壮は興隆寺と並んだ。四年三月、寺が完成し、帝は期日を定めて臨幸しようとした。河東塩運判官の済寧の楊浩が切諫したので、やめた。
単宇は好学で文名があり、三たび県令を務め、いずれも慈恵で知られた。侯官に居ること久しく、死去した。
姚顕は後に斉東知県となり、武城に移り、公廉剛正であった。巡撫の翁世資の推薦により、太僕丞に抜擢された。楊浩は初め郷挙で国学に入り、官に任じられたが赴任せず、抗疏し、名声が大いに高かった。累官して右副都御史に至り、延綏を巡撫した。
張昭は、どこの人か知られていない。天順初め、忠義前衛の吏であった。英宗が復辟して数か月後、都指揮の馬雲らを西洋に派遣しようとしたが、廷臣は敢えて諫める者はいなかった。張昭はこれを聞き、上疏して言った。「内を安んじ民を救うことは国家の急務であり、外を慕い遠方を勤めることは朝廷の末策である。漢の光武が関を閉じて西域を謝絶し、唐の太宗が康国の内附を受けなかったのは、皆、本計を深く知っていたからである。今、畿輔・山東は連年災害凶作で、小民は食糧が尽きて逃散し、妻子は衣も体を覆えず、薦や筵に包まれ、子女を売っても買い手がない。家屋も完全でなく、溝壑に転死し、埋め葬る間もなく、すでに市場の切り身となっている。これは痛哭すべきことである。陛下には和番の費用を用い、府庫の財を加えて、急ぎ使者を派遣して救恤され、飢えた民を救われるよう望む。」奏は公卿に下されて広く議論され、馬雲らはすでに派遣を取りやめたと言われた。宜しく買い付けた物品を記録して待命すべきである。帝は暫くやめるよう命じた。
瑤後番禺県を知り、異政多し。中官韋眷の通番事を発し、その資巨万を官に没す。眷甚だ憾み、誣って朝廷に奏す。瑤及び布政使陳選俱に逮われ、士民泣いて送る者道を塞ぐ。瑤竟に謫せられ永州に戍す。釈還り、卒す。
又虎臣有り、麟遊の人。成化中に貢されて太学に入る。天下の士大夫先聖廟を過ぐるに、宜しく輿馬を下すべしと上言す。従う。省親して帰るに、会に陝西大饑し、巡撫鄭時将に振を請わんとす。臣奏を賫して行き、饑歉の状を陳べ、詞激切にして、大いに振貸を獲る。已にして上言す、「臣郷比歳災傷し、人相食むは、長吏貪残に由り、賦役均しからざるに由る。請うらくは有司を勅して民戸を審にし、三等に編して科徭を定めしめん」と。従う。孝宗践阼し、将に棕棚を万歳山に建て、登眺に備えんとす。臣疏を抗して切に諫む。祭酒費訚禍の及ぶを懼れ、鋃鐺して臣を堂の樹下に縶す。俄に官校臣を宣して左順門に至らしめ、旨を伝えて慰諭して曰く、「若の言是なり、棕棚已に毀ちたり」と。訚大いに慚じ、臣の名遂に都下に聞ゆ。頃くのち、命して七品官を授けんとし、乃ち以て雲南嘉知県と為し、官に卒す。
賛に曰く、明は太祖基を開き、言路を広く辟く。中外の臣寮、建言其の職に拘わらず。草野微賤、奏章咸く上聞を得。宣・英に沿い及び、流風未だ替わらず。昇平日久しく、堂陛深厳なれども、逢掖布衣、刀筆掾史、抱関の冗吏、荷戈の戍卒、朝に封事を陳べ、夕に帝閽に達す。采納する者は其の身を栄顕し、報罷する者も亦之を罪せず。仁宗の弋謙の朝参を復し、咎を引いて自ら責むるが如きは、即ち鞀を懸け鐸を設くるも、復た何を以てか加えん。此を以て招と為す、宜しく慷慨発憤の徒腕を扼して世務を談ずるなり。英・景の際、《実録》の載する所、勝て書すべからず。今其の著者を掇って篇に列す。憲宗季年に迨び、閹尹朝を擅にし、事勢屡変し、別に自ら巻を為し、以て考うるを得ん。